<主日礼拝順序>


前    奏
招    詞 神の言葉に招かれて、わたしたちは礼拝へと招き入れられます。
讃  美  歌 
ざんげの勧め 牧師のざんげの勧めの言葉に合わせて、わたしたちも自らの罪と
       過ちに思いを向けます。
ざんげの祈り 礼拝者が一同、成文のざんげの祈りを祈ります。全てを知ってお
       られる父なる神の前で自らの罪を悔い改め、キリストによる赦し
       を求めます。
「ざんげの祈り」
あわれみ深い父なる神、
わたしたちは、あなたのみ言葉を全き心をもって信ぜず、あなたの戒めを守らなかったのみでなく、み心に背いて罪と過ちとを重ねてきたことをざんげいたします。しかしそれらのすべてを心から悔いて、あなたの恵みをひたすら求めたてまつります。どうか今わたしたちをあわれみ、み子イエス・キリストのあがないのゆえに、わたしたちの罪と過ちとをすべておゆるしください。そしてわたしたちが深く悔い改め、あなたのいのちに満たされるよう、ゆたかな恵みをお与えください。
救い主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン

ゆるしの言葉 罪の赦しの宣言を受けて、わたしたちは神の恵みと平和を仰ぎ見
       ます。
聖 書 朗 読 この日のために与えられえた聖書の箇所が朗読されます。心を静
       めて、神の言葉に耳と心を集中させます。
信 仰 告 白 代々のキリスト者が告白して来た「信仰告白」の言葉に合わせ
       て、わたしたちも自分の口で信仰を告白します。各月の第1主日と
       大祝祭日(クリスマス、イースター、ペンテコステ)には
       「日本基督教団信仰告白」を、またその他の主日には
       「使徒信条」を用います。
「日本基督教団信仰告白」
 我らは信じかつ告白す。
 旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の依るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。
 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ。
 教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたもふを待ち望む。
 我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン
「使徒信条」
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン

交  読  文 
讃    詠 父・子・み霊なる神をほめたたえます。
牧 会 祈 祷 牧師が一同の祈りを代表して祈りをささげます。
主 の 祈 り 「主の祈り」は、主イエスがご自分の祈りへと、わたしたちを招
       き入れてくださる祈りです。主イエスが「こう祈りなさい」と
       与えてくださった「主の祈り」を祈る時、わたしたちも父なる
       神へと正しく心を向けられます。
「主の祈り」
天にまします我らの父よ、
願はくは み名を崇めさせたまへ。
み国を来たらせたまへ。
みこころの天になる如く 地にもなさせたまへ。
我らの日用の糧を 今日も与へたまへ。
我らに罪を犯す者を 我れが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまへ。
我らを試みにあはせず、悪より救ひ出したまへ。
国と力と栄とは 限りなく汝のものなればなり。
アーメン

讃  美  歌 
説    教
祈    祷
讃  美  歌
献    金
報    告 一週間の報告や、またこれからの予告があります。全てのことを
       神の御手の中に置くために、様々な報告が礼拝の中で行われます。
頌    栄
祝    祷
後    奏
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<主日礼拝の内容について>

讃美歌とは
 教会の中にある「音楽」は、礼拝に集まる者の心を「神礼拝」することへと向かわせる助けをします。ですから、わたしたちは讃美歌の曲を通して礼拝することを喜ぶのです。
 しかし、讃美歌は耳の楽しみではなく、その歌詞を抜きにしてはあり得ないものです。歌詞は、神と共に歩みキリストを告白して生きた信仰者たちの言葉です。ですから、讃美歌を斉唱することは、その言葉をわたし自身の信仰の言葉として、思いを重ねながら告白するということです。讃美歌は、そのようにして礼拝者の心を何よりも神へと向かわせるのです。
 そこに、礼拝に集う者たちが、一つの心となって曲に導かれながら、神を賛美する姿があります。この地上の賛美の声は、既に信仰の生涯を走り終えた聖徒らの天上の賛美に、呼応するように響くのです。
 最後に「アーメン」と唱和します。「アーメン」とは、「本当にその通りです」という意味の言葉です。

ざんげの祈りとは
 キリスト者の生活は、神の前でのわたしたちの悔い改めと、それに対する神からの赦しの宣言という相互の息づかいの中にあります。それゆえ、悔い改めは神礼拝の中のとても重要な部分なのです。これが「ざんげの祈り」です。
 「ざんげの祈り」は、わたしたちの教会では礼拝の初めのほうにあります。それでこの祈りは、礼拝をしようとする者が、まず罪を悔い改めて神に近づく「近づきの祈り」とも言えるのです。またこれは、祈る者一人ひとりが、キリストの罪の赦しを願って進み出る祈りでもあります。わたしたちは共に、主イエス・キリストによる赦しを願い、恵みを求めるのです。そのあと、これに応答するように罪の赦しの言葉が宣言されます。

聖書朗読とは
 聖書の言葉は、神からの語りかけである「神の言葉」そのものです。そしてわたしたちの礼拝は、何よりもまず、神の側からの人間への語りかけによって、起こされるものなのです。教会の礼拝は、この「神の言葉」をこそ第一のものといたします。
 ですから、聖書朗読は単なる書物の読み聞かせではありません。朗読者を通して語られた言葉において、神はわたしたちに到来され、わたしたちと出会われるのです。生きておられる神の言葉が、わたしたちに与えられる時です。心を静めて、み言葉に集中しましょう。

信仰告白とは
 聖霊の導きによって、人の心に信仰告白が起こります。
 ここで告白する「信仰告白」は、聖書全体が証言する啓示の核心を明らかにしてくれるものです。ですからわたしたちは、自分の唇で「信仰告白」を読むことを通して、わたしたちの信仰とは何なのかを公にするのです。
 初代教会の迫害の時代、この信仰の核心を告白することは、命がけのことでした。そういう「使徒信条」が、連綿と今日まで告白され続けてきたのです。それは時間を超え、また場所を超えた、世界中の「キリスト教会の信仰」そのものです。その大いなる告白の言葉に、わたしたち一同も、自分の信仰の告白の言葉として声を重ねるのです。

交読文とは
 キリスト教会は、その始まりの時から、会衆が一つとなって神を賛美するために「詩編」を歌いました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23編1節)と歌った時、会衆は羊のために命を捨てられたお方を思い起こしました。詩編22編では、救い主の受難を、詩編24編では昇天と栄光について心に刻んだのです。
 教会は2000年にわたって、この恵みの形式を引き継いで来ました。そして、その歴史の中で「詩編」以外にもいくつかの聖書個所が加えられ、それは「交読文」となったのです。
 わたしたちは現在この言葉を歌うことはしませんが、その内容は「賛美」です。ですから、礼拝において、神に向けられて晴れやかに感謝しつつ、声を合わせて唱和するのです。

牧会祈祷
 牧師が、全会衆を代表して祈りをささげます。
 もともと公同の礼拝で祈るのは、わたしたち自身です。ですから「牧会祈祷」とは、牧師の祈りをただ受動的に聞くというだけのものではありません。わたしたちは、ここで祈られる祈祷に導かれながら、主体的にこの「公の祈り」に添うのです。最後に一同が「アーメン」と力強く応答することによって、祈りは教会の祈りとなります。

説教とは
 説教は、聖書に基づいて語られます。そこで、わたしたちに向けて「良き知らせ(福音)」が宣言されます。それは、神がこのわたしを愛し、わたしのために独り子を与えて下さったという宣言なのです。
 説教において、この「良き知らせ(福音)」が自分へと告げられたと受け取る出来事が起こります。これは、聖霊の働きによってのみ起こされる、神のみ業です。説教を語るのは牧師ですが、聖霊が働いて、その言葉が神ご自身のあなたへの語りとなって、聴き手の心に留まるのです。 このみ言葉を聴くところに、信仰が生まれるのですから、説教は信仰者の生活の中心でもあるのです。

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<教会暦と典礼色>

・教会暦 教会には、独自の暦があります。教会暦と呼ばれるもので、毎年循環する自然暦の中に、神の歴史の出来事を配置したものです。教会暦を覚えつつ日を過ごすなら、聖書に記された出来事を1年がかりでたどり直すことになるのです。その教会暦の1年の始まりは、待降節・アドベント(クリスマスの4週間前)です。教会の三大祝祭日は、降誕祭(クリスマス・12月25日)、イースター(復活祭・春分の日の後の満月の次の主日)、聖霊降臨祭(ペンテコステ・イースターの後50日目)です。

・典礼色 教会暦の各期節には、それぞれが色であらわされます。それらの時の意味を象徴するために、これらの色が用いられてきました。聖壇の説教台の垂布(パラメント)の色が、それぞれの期節で変わります。代表的な期節と色は次の通りです。

待降節(アドベント)     「紫」待望、尊厳、悔い改め 
降誕祭(クリスマス)〜降誕節 「白」栄光、勝利、祝福、純潔
公現節            「緑」いのち、成長、平和
受難節(レント)       「紫」
聖金曜日           「黒」闇、死、悲しみ
復活祭(イースター)〜復活節 「白」
聖霊降臨祭(ペンテコステ)  「赤」炎、殉教、教会
三位一体祭          「白」
三位一体節          「緑」
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