2011年05月31日

第6章 聖書の読み方


「わかってはいるけれど……」
 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙二3章16節)。
 クリスチャンであれば誰しも、聖書を毎日読むことの大切さは、よく分かっているでしょう。しかし、多くの方が聖書を読むことを習慣とすることができずにいます。その理由はいろいろあるでしょうが、大雑把に言うと、読んでもよく分からない、つまらない、退屈である、と感じて投げ出してしまうことが多いようです。そこで、ここでは、聖書を読むのが楽しくなる「コツ」について、少しお話してみたいと思います。


聖書を読むために必要なもの
@まとまった少しの時間
 ある統計によると、平均的なクリスチャンが聖書を読む時間は就寝前の3分だそうです。しかし3分では少な過ぎるでしょう。一日のうちどこかで15分程度、他のいろいろなことに邪魔されることなく聖書に集中できる時間を毎日作ってください。
Aノート
 その日に読んだ聖書の箇所から示されたことや、考えさせられたことなどを書きとめてください。後で読み返した時、霊的成長の貴重な記録となるでしょう。


Gogh, Vincent van 『Still Life with Open Bible』(1885年)。

一日にどのくらい読めばいいか
 聖書は、旧約が929章、新約が260章、合計1189章あります。ですから、一日一章ずつ読むと約三年で聖書全巻を通読、一日三章ずつ読むと約一年で通読することができますが、あまり難しく考えずに、無理のないペースで読むのがいいでしょう。

聖書を読む具体的なステップ
@祈る
 聖書の著者は神様ご自身です。ですから、何はさておき神様に「私に聖霊をお遣わしください。そして、今から読む聖書の箇所の意味を私に示してください」と祈ってから読み始めることが絶対に必要です。
A何が語られているのか? 
 聖書は、何千年も前に書かれたものですので、現代の私たちには理解しにくい箇葉もあります。そこで、書かれていることの意味を、時代や文化の背景を踏まえつつ正しく理解することが必要です。しかし、私たちはさらにそれを越えて、その聖書の箇所に書かれている、普遍的な、すべての時代の人に対して語られている永遠のメッセージは何であるかを読み取らねばなりません。その聖書の箇所で、何が語られていますか?
 • 告白せねばならない罪? 
 • 信頼するべき約束や真理? 
 • 従うべき命令? 
 • 見習うべき実例? 
 • 避けるべき誤り? 
 • 神を賛美するべき事柄?
 • 人生の真理?
 • 試練の克服?
Albrecht Durer『Praying Hands』(1508年)。

Bいまのきもち
 最後に、そうして示された事柄を念頭に置きつつ、「この聖書箇所は、今の自分に対して何を語っているだろうか」と問うてみてください。最初は、聖書の言葉と今の自分とを結びつけるのはなかなか難しいかもしれません。しかし、慣れてくると、聖書を読む時間が「今日はどういうことが示されるだろうか」とワクワクしながら待つ、楽しい時間になることでしょう。


Gerard Dou 『Old Woman Reading a Bible』(1630年)。

持っていると役立つ本
@引照つき聖書 
 関連する聖書箇所を参照することは、「聖書をして聖書自身を語らしめる」ために大いに役立ちます。
Aスタディ・バイブル
 最近、新共同訳版のものが出版され、今後種類も増えていくことでしょう。
B違う種類の聖書翻訳
 新共同訳、新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブルなど、自分の教会で使っている以外の聖書を読み比べてみると、いろいろな発見があるでしょう。
 他にも、コンコルダンス、聖書略解、聖書ハンドブック、様々な注解書など、必要に応じて、また財布と相談しながら揃えていくとよいでしょう。
 最後に、聖書を毎日読むことの励ましになるイエス様の言葉を一つ紹介しましょう。「私の言葉にとどまるならば……あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章31-32節)。

(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
(編集) 伝道研究委員会
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
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第7章 賛美


歌と人生
 歌の好きな人は多いと思います。カラオケは依然として高い人気を誇っています。歌は幼稚園・保育園から教えられますし、歌を教えない学校はありません。
 歌の種類もとても多く、子守唄・童謡から唱歌、クラシック、ジャズ、ポップス、ハワイアン、歌謡曲から浪曲、民謡その他無数にあります。世界中の民族に必ず民族特有の歌があります。
 さらに組織・団体・共同体にも歌は必須のアイテムです。国歌をはじめとして校歌、社歌、応援歌など、その群れに属する人々にとってはなくてならないものです。
 歌は人間とその共同体にとってなくてはならないものです。どういう歌を歌うかによってその人の人生が決まると言っていいほどです。
 宗教もまたそれぞれの歌を持っています。歌こそはその宗教の本質を表現したものです。聖書にも数え切れない程多くの歌が記載されています。その中には嘆きの歌や悲しみ、怒りの歌などもありますが、そのほとんどは神を賛美した歌です。
 神を賛美する、これこそは罪ゆるされた者の生き方です。旧約聖書の詩篇108篇1〜4節に「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。」(口語訳)とありますように、救われた人生とは「神を賛美することに心が定まった人」のあり方を言います。言い換えるとついに「賛美をささげる神と出会った人」、それが信仰者なのです。

神をたたえて琴を弾くダビデ王。
Bray, Jan de『David Playing the Harp』(1670)

信仰と賛美
 新約聖書を見ますと、エフェソの信徒への手紙1章12節「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」、14節「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖(あがな)われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」とありますように、私たちがキリストによって選ばれ、罪ゆるされたのは「神をほめたたえるため」であるのです。神とキリストを賛美するために私たちはキリスト者とされるのです。
 使徒パウロは自分の人生についてこのように言っています。フィリピの信徒への手紙1章20節「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」。まさしく自分の人生は「キリストがあがめられるため」だとの信念があらわされています。しかも自分の人生を見て他の人がキリストを賛美するようになることを祈り願っていく人生、それこそ伝道ということだと身をもって教えています。


マルティン・ルター自筆のコラール

教会と賛美
 教会もその最初から賛美とともにありました。中世になると近代音楽の基礎となるグレゴリオ聖歌がつくられました。宗教改革者の時代には、ルターが母国語で新しい讃美歌をつくり、カルヴァンは詩編歌を重んじました。その後、優れた讃美歌作者が次々と現れて多くの良い讃美歌がつくられます。18世紀メソジスト運動の担い手のひとりチャールズ・ウェスレーも多くの讃美歌を残しています。そして、アメリカの黒人霊歌や現代のゴスペルにいたるまで多様な讃美歌が生まれ、歌われてきました。日本の教会も優れた讃美歌を生み出しています。

讃美歌の歌い方
 さて讃美歌の歌い方ですが、まず意識したいのはなるべく下の方(讃美歌集)を見ないことです。神さまを賛美して歌うのですから、下を向いて歌ったのでは「賛美」の雰囲気が出てきません。次は出来るだけ口(唇)を大きく開いて歌いたいと思います。何を歌っているのかわからないのでは賛美とならないからです。音程やリズムをあまりひどくはずしてしまうとまわりに迷惑をかけてしまいますが、しかしこれも必要以上に気にかけない方が良いと思います。神さまは上手な歌を望んでいるのではなく、真実な心(・)の(・)こ(・)も(・)っ(・)た(・)賛美を望んでおられるのです。
 また私たちは「共に」賛美するという意識を常に持っていたいと思います。それは「体は一つ、霊は一つ」「主は一つ、信仰は一つ」(エフェソの信徒への手紙4章4〜5節)といわれる「一つの恵み」にあずかるためです。歌が上手な人もそうでない人も心を合わせて「一つなる主をあがめる」気持ちで賛美したいと思います。

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第8章 かけがえのない命



このいのちは誰のもの?
 いのちの価値を、他人が勝手に判断したらどうなるでしょうか。「この人のいのちは大事、でもあの人のいのちは捨ててもいい」という判断を、他人がした歴史がありました。
 ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーは、ユダヤ人大虐殺の数年前に「強制的安楽死作戦」を実行していました。それは病人、障がい者、老人などの殺害計画です。生きる権利は、能力のある者だけに認められ、それに見合わない人は「抜け殻」とされ、ガス室でいのちを奪われたのです。日本でも昨今、邪魔だからと言って、親が子供を虐待する事件が絶えません。自分の子供を物(it)扱いにして、いのちを傷つけるのです。私たちも「役に立つかどうか」で、いのちの価値を決めようとする現実があるのではないでしょうか。

アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウの引込線に到着したユダヤ人たち(1944年)。

 いのちは一体誰のものなのでしょうか。ある人は、自分の初めての子供が生まれた時、すぐには抱っこできなかったそうです。触ると壊れてしまいそうに思えたからです。でもそっと抱えた時、腕に伝わる温かさにいのちの計りがたい尊さを直感したことを、今でも覚えているそうです。いのちは、どのいのちも計りがたく尊いのです。その価値を、人が低めてはならないのです。

このいのちは私のもの?
 「私のいのちは他人のものではない」ということは重要です。それでは「私のいのちは私のもの」ということで良いのでしょうか。「私のペン」「私の本」と同じように、「私のいのち」と言えるかという問いです。例えば、ペンであるなら、私の所有物として私が捨てることも自分で決められます。同じように、私のいのちも私のものだからということで、自分で捨てることを自由に決めてよいでしょうか。
 実は、いのちは私のもののようであって、私のものではないのです。ややこしい言い方をしてしまいましたが、いのちは、神様の意志によって私へと差し出されたものです。言ってみれば、私のいのちは神様からお預かりしているものという言い方が正確であると思います。預かりものですから、お返しする日まで(召される日まで)大切にしなければならないのです。
 ですから、他人に向かって「私のいのちの価の高さ」を主張すると共に、自分自身に向かっても「私のいのちは高価だ」と言い聞かせなければなりません。神様は、聖書を通して私たちに「わたしの目にあなたは価高く、貴い。」(イザヤ書43章4節)と語りかけて下さいます。神様の保証付きの貴さなのです。


Michelangelo buonarroti 『Creation of Eve(イヴの創造)』 (1510年)

いのちの尊厳の根拠
 聖書には、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)とあります。また、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった。」(創世記2章7節)とも記されています。私たちは、神様が大切に造って下さったものだと言われており、また重ねて、肉体だけが神との関わりが深いのではなく、命の息(霊)をも吹き入れて下さったと告げられています。身体も魂も、神様の祝福に満ちている。ここに、いのちの真実が言い当てられていると思われてなりません。いのちの尊厳の根拠は、私の外から、造り主から来るのです。だからもう私たちは、自分のいのちの大切さの根拠を探すために、自分で自分の中を探す必要はないのです。主日ごとに礼拝において、造り主を見上げれば良いのです。

かけがえのない命
 私たちは、どんなに人と能力が違っても、たとえ何もできなくても、神様の目から見たら一人一人が「かけがえのない命」なのです。だから人と比べて、劣等感や優越感に苦しむ必要はありません。またそのような輝くいのちは、地上の生活が終わると消えてしまうものではありません。死んだら無になるのではないのです。神様が約束して下さる永遠の命が、なお続くからです。私たちは、そのようないのちを喜びつつ生きていこうではありませんか。

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第9章 家庭と家族


Zurbaran, Francisco de『The Holy Family』(1659年)。

個人と家庭
 現代はいびつな個人主義の時代です。文字通り自己中心、わがままなだけの個人主義が横行しています。弱い者、老人、幼ない者たちが傷つけられ、痛められ、果てには生命まで奪われたりしています。
 本来の個人主義はそうではなく、それぞれが他に頼ることなく、またおもねることなく自分の力と意志で自分の人生を切り開いていく、また他の人々を助けるために喜んで自分の力を捧げて用いる、それが個が確立した本来の人間の生き方です。こういう本来の個人主義・個の確立は最終的には神との出会いや向かい合いによってなされるものですが、その前に愛に満ちた良き家庭によってもその基礎が育まれます。愛に満ちた家庭に生まれ、育った幼な子は、その人生の初めから存在をまるごと肯定され受容される経験をしているのです。親や兄弟から愛に包まれて受容され、肯定される、その経験がなくて個の確立はなし得ません。良き家庭が必要な第一の理由はここにあります。

結婚と家庭
 家庭は、一組の愛し合う男女の結婚によって成立いたします。キリスト教信仰ではこの男女の結びつきに神の導きと御計画があるとされます。結婚は<家庭を形成するため>という信仰がその根底にあります。それは必ずしも子どもの誕生を前提としていません。それよりは夫と妻となった二人の結びつきが<神の愛を証しするため>というのが第一の目的です。創世記2章18節に「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」とあり、コヘレトの言葉4章9節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。」とある通りです。結婚する二人は、お互いが愛し合うことによって神の愛とキリストの福音を証しするよう促されています。使徒言行録2章46〜47節「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあるように、二人の家庭が主の愛に満たされることによってまわりの人々が救われていく、そこに結婚の意義があります。

家族と家庭
 家族と家庭は本来同じ意味を持った言葉です。しかし若干違ったニュアンスがあるのは、家族は血縁関係を有している人々の集合体というイメージがあるのに対して、家庭の方は血縁性が少し薄れて一つの家に住まう人々の共同体というイメージが強いようです。それで家庭形成という言い方はあっても家族形成とはあまり言わず、逆に家族構成とは言いますが家庭構成とはいいません。
 今日本に必要なのは「家庭形成」という考え方です。日本には「血は水より濃い」ということばがありますが、現実には決してそうではなく血のつながった家族同士で無惨な殺害や悲惨な虐待が頻発しています。家族崩壊が日本中に蔓延しています。一体家族とは何なのかが深刻に問われています。先に述べましたように、家庭は神の前での夫婦二人の愛の誓いによって成立いたします。日本では真の意味でのキリスト教的結婚式は少ないかもしれません。神前、仏前、無宗教式等々いろんな形での結婚式があります。しかしどのような形であれ、血縁ではなく、<愛と誓約によって成り立つ家庭>を私たちは真剣に考えたいと思います。


主日(聖日)の朝、車から降りて教会堂へ向かうクリスチャンファミリー。

教会と家庭
 以上のような考え方は、家庭は教会から生まれ、また教会を目ざすということでもあります。聖書では教会を「神の家族」と表現しています。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」(エフェソの信徒への手紙2章19〜20節)家庭形成と教会形成はその本質において一つのことなのです。
 世界中の人々が神の愛とキリストへの信仰によって神の家族とされていく、それを目ざす私たちの家庭形成でありたいと思います。家庭は愛の学校であり、小さな神の国なのです。

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第10章 召命と仕事


Jean Francisque Millet 『The Angelus』(1859年)。

仕事を選ぶポイント
 労働や仕事は、まず生きていくための生活費を得るための営みであると考えられます。ですから仕事を選ぶときにはまず給料の高いものを優先するというのは自然な事です。
 ただ難しいのは、給料が高いのに越したことはないのですが必ずしもそれが自分に合った仕事であるとは限らないことです。聖書に「人はパンだけで生きるものではない。」(マタイ福音書4章4節)とありますように、人にはどうも給料だけで仕事を考えるとは限らず、本当に自分のやりたい事、自分に合った仕事でないと幸福感・充実感が得られないのも事実なのです。給料と自己実現の兼ね合いが仕事を考える際の一つのポイントであるかもしれません。

Millet 『鍬を持つ男』(1850年)。


労働神事説
 わが国では昔から「労働神事説」というものがありました。それは「労働」を神事、すなわち宗教行事としてとらえるという考え方です。その典型が農業です。稲作は神が我々に与えた特別の生命の営みであって、農作業はすべて神に仕える営みとしてとらえます。それゆえ田植えの時(春)、又収穫の時(秋)は必ず神を祭る儀式を行います。新甞祭などもその一つです。
 農業だけでなく、漁業はもちろん、工芸職でも、近代工場でもよくその仕事場に神棚を置き、まず神を礼拝してから仕事を始めたものです。商業でもそうです。多くのお店で神棚を祭っています。もちろんこの場合でも多くの収穫・利益を挙げる(高い給料)事と深い関わりを持っていますが、最近の風潮とは違ってただ儲ければよいと言うのではなく、真面目に骨身を惜しまずこつこつと働くこと、決して不正をしないこと、など高い倫理性を伴ったのです。この点はもっと積極的にとらえたいと思います。
 ただ労働神事説の問題点は、ユダヤ・キリスト教で言う「安息日(聖なる休暇)」の意義をよくとらえられないことです。休むことは悪(怠惰)ととらえる傾向が強すぎ、その影響から過労死、ニート、不登校問題などが起きていると考えざるを得ません。

召命と仕事
 ユダヤ・キリスト教では「労働神事説」をとりません。それどころか創世記3章17節〜19節を見ると労働は神の罰であるとされています。また十戒の「安息日」規定を見ても、神の民として大切な事は労働よりも神を礼拝することであることは明らかです。
 聖書には仕事について直接ふれている箇所はありませんがヒントになるいくつかの箇所がありますのでそれらを参考にしながら仕事の意味を考えていきたいと思います。
 まず仕事をするかしないかまたどういう仕事をするかどうかは、キリスト教にとって第一義的なことではないということです。ローマの信徒への手紙第14章7〜8節に「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」とあり、「キリストの恵みを証しするため」ということが仕事をする意味なのです。クリスチャンにとって主イエスの恵みを証しするような仕事、又働きぶりを示すことが大事です。コロサイの信徒への手紙3章22〜23節に「どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」とあるとおりです。

Millet 『糸を紡ぐ女』(1855年)。

 ですから仕事はそれぞれに神さまから与えられた召命感に基づくべきものです。それは給料のためだけではなく、又自己実現のためだけでもなく、神さまの栄光を証しするためになしていくのです。この仕事が本当に神さまの栄光を証しするものかどうかということと、この仕事でどのように働いたら神さまの栄光を証しすることになるかをいつも考えます。つまりすべてが信仰の証しなのです。ローマの信徒への手紙14章23節に「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(口語訳:すべて信仰によらないことは、罪である)。」とあるように、日々の仕事と信仰の確信とは密接な関係があります。この点だけをとらえればやはり「労働神事説」に近くなります。
 以上のことを踏まえた上で次の御言葉を「働く指針」としたいと思います。
「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」 
(テサロニケの信徒への手紙一 4章11〜12節)

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第11章 苦しみと試練


Rubens, Pieter Pauwel 『Daniel in the Lion’s Den』(1615年)。謀略にかかり獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル

苦しみの中で
 神谷美恵子さんの著作に『生きがいについて』という書物があります。第5章「生きがいをうばい去るもの」の中では、“生存の根底にあるもの”“運命というもの”“難病にかかること”“愛する者に死なれること”“人生への夢がこわれること”“罪と直面すること”“死と直面すること”といった内容をあげておられます。ひとはそれぞれの人生の中で、行く手を立ちふさぐ壁につきあたり、さまざまな苦しみを経験します。生涯を通して背負わなければならい苦しみもあることでしょう。出口のないトンネルや底なし沼に思える時もあります。人間はそのような苦しみの中で、自分は何のために生きているのだろうか、と問い始めます。苦しみの意味を問うことは、人生の意味を問うことに深くつながっているのです。
 この世界には人々の苦しみにあえぐ叫びに満ちています。聖書はそのような人間の悲痛な叫びを無視していません。むしろ、深く受けとめる書物です。
 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩編22編2節)
 私たちは、このような嘆きの御言葉に自分自身の唇を合わせて、神に向けて叫ぶことができることを知ります。そのことによって、私たちはすでに真実なる慰めと希望の道を歩き始めています。

苦しみの意味
 私たちは人生の苦しみを通して、さまざまな意味を見出すことができます。忍耐力、謙遜、共感する魂を備えられ、自分を支えてくれる家族や友の存在を改めて知る・・・・。しかし、私たちが苦しみを通してあたえられる最大のことは、神との出会いをあたえられることです。
 星野富弘さんをご存知の方は多いと思います。彼は体育の先生でしたが、器械体操のクラブの指導で踏み切り板でのジャンプのし方を実演していた時、宙返りに失敗して頭から落ち、首の骨を折って首から下は全く動かなくなったのです。しかしそれから訓練によって口で筆をくわえ、絵や詩を書くようになりました。星野富弘さんは旧約聖書の詩編119編70〜71節(新改訳)に聞きつつ歌います。
 「わたしは あなたのみおしえを 喜んでいます。
苦しみに会ったことは わたしにとって しあわせでした。」
 驚くべき詩です。首から下は動かなくなったという苦しみに意味を見出し、そこに喜びさえ見出しているのです。聖書の信仰は、ひとに苦しみの意味を教え、積極的な人生へと導くのです。
 このようにして、苦しみの中でこそ多くの人々が信仰に導かれるのは、聖書の指し示す神の慰めと希望は何ものにも揺るがないものであるからです。ですから、「生きがいをうばい去るもの」に直面しても、私たちは絶望する必要はないのです。
 キリスト教はご利益宗教ではありません。洗礼を受ければ、苦しみがなくなるというわけでもありません。信仰生活の中にも苦しみの問題があります。神を信じる者がどうして不当な苦しみにあわなければならないのか、と問わざるを得ない現実があります。しかし、私たちは苦しみの中でこそ、救い主イエス・キリストが十字架の苦しみの意味がわかるようにもなります。先ほどの詩編22編2節は、主イエスが十字架で叫ばれた御言葉でもあります。私たちのすべてがキリストの苦しみに担われていることを知るならば、そこに神の愛を深く悟らされ、神との出会いは深められてゆくことになるのです。

神からの試練として
 使徒パウロが語った言葉があります。
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10章13節)
 これも慰めに満ちた御言葉です。神はひとの耐える力をご存知であられるというのです。しかし、試練の中で備えられる「逃れる道」とは何でしょうか。それは神を真実な方として信じ続ける道のことです。
 すなわちどんな試練にも人間が歩んでいけるために主によって備えられている道なのです。“試練”という漢字は、かつては“試錬”と書きました。錬金術で用いられる漢字です。純金は高温で激しく焼かれることによって、不純物が取り除かれ、残されるものです。同じように、私たちは神からの試練を通して、人間としてなくてはならないことが何であるかを示されるのです。それは神が真実な方であることを信じる道です。誰もが人生の苦しみを神からの試練と受けとめて生きる信仰に招かれています。

(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
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