第1章 神との出会い


Abraham Bloemaert 『Christ and the Samaritan Woman』(1626年)。

人生をつくる出会い
 私たちの人生には、さまざまな人々との出会いがあります。人間として生きていて、誰とも出会わずに生きるということはありません。私たちがこの世界に生命をあたえられたとき、父母をはじめとする家族との出会いがありました。さらに、これまで自分が生かされてきた背景には、多くの人々との出会いがあったはずです。出会いは人生をつくり、人生を豊かにします。出会いによって、ひとの人生は大きく変わります。出会いによる喜びもあれば、出会いによる悲しみもあるでしょう。“あなたと出会えたから今のわたしがある”。もし、そのように自分が心から感謝できる出会い、あるいは、そのように他者から感謝される出会いがあたえられているならば、何と素晴らしいことでしょうか。

人間−人格を持つもの−
 出会いは継続した人間関係を生み出します。それは私たちの日々の生活になくてはならないものです。ところが、そのような人間関係で苦しみを覚える経験を誰もが持っています。すべての人間関係が自分や他者を健やかに生かすものになっているとは言えないのです。
 ユダヤ人の哲学者であるマルティン・ブーバーが、人間を二つの関係に生きるものであると捉えたことは、あまりにも有名です。ひとつは「われとそれ」の関係、もうひとつは「われとなんじ」の関係です。そして、人間にとって決定的な意味を持つのは、後者の「われとなんじ」の関係です。そこには、呼べば応えるという生き生きとした関係があります。それは人格と人格の関係なのです。
 人格には他の何ものにも奪われてはならない自由があります。ですから、人格は物のように管理されたり、利用されたりしてはならないものです。一方、人格を持つ人間には弱さがあります。他者を受け入れる愛を喪失し、自己本位に生きてしまう傾向性を誰もがもっています。そのような身勝手な生き方が支配するところには、人間関係も喜びに満ち溢れた「われとなんじ」の関係とはなりません。それどころか、人間にストレスや苦しみをもたらすだけのものになってしまうのです。私たちの人生における出会いと人間関係には、いつでもそのような問題がつきまとうのです。


Kulmbach, Hans Suss von 『The calling of St Peter』(1516年)。

聖書の語る決定的な出会い 
 聖書は深い愛と尽きない関心をもって、私たち一人ひとりに向かって出てきて下さるお方を証ししています。主イエス・キリストというお方です。私たちにとって決定的な出会いとなるのは、主イエス・キリストとの出会いです。そして、そのことを通して、私たちは神ご自身と出会うのです。聖書の証しする神は、世界の創造者であり、生ける人格をもつお方です。神は被造物である私たちに人間に語りかけられ、出会われ、交わられる愛に満ちたお方です。私たち人間は、神と呼べば応える「われとなんじ」の生き生きとした関係に生きるためにつくられたものなのです。
 古代キリスト教最大の神学者といわれるアウグスティヌスは、「あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになりました。ですから、わが魂はあなたのうちに憩うまでは安きを得ません」と神に語りかけています。このような神に出会うことによって、私たちは人生を根底から支える平安に満たされ、喜びや希望をあたえられます。神との出会いこそ、私たち自身を健やかにつくり、あらゆる人間関係を回復させ、人生を豊かにするものなのです。


Hunt William Holman 『The Light of the World』(1853年)。

主イエスは待っておられる
 神との出会いがおこるとはどういうことでしょうか。神に背を向け離れている私たちが神と出会うためには、神ご自身が私たちのもとに出て来て、私たちに向かって声をかけて下さらなければなりませんでした。救い主であるイエス・キリストのご生涯は、そのことを実現するものでした。聖書を読むとき、主イエスとの決定的な出会いをあたえられた人々の物語を数多く知ることができます。そして、それは、聖書を読む私たちの物語になっていくのです。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)
 主イエスは教会での共なる食卓に招くために、私たちの心の戸をノックしておられ、私たちの名を呼んでおられます。あなたの名も呼ばれています。あなたも、主イエスの呼びかけに応えて、神ご自身に出会い、豊かな交わりに生きる者となって頂きたいと願います。

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(編集) 伝道研究委員会
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
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第2章 罪とは何か


Francisco de Goya『The Shootings of May Third 1808』(1814年)。

罪と業と汚れ
 完全無欠な人間はいません。どこかしら必ず欠点があります。それが高じて大きな事件を起こしたり、又激しい自己嫌悪におちいったりします。特に人と人、国と国との争いごとには人間の深い「罪」を感じずにはおれません。仏教では業という教えがあります。これは宿命論を含んでいて、キリスト教の「原罪」に少し似ていますが、座禅や念仏その他信心の行為によってそれを脱却する可能性があるものです。「悟り」とはその脱却した状態のことを言います。しかしキリスト教で言う罪は世の終わりまで人から無くなることはありません。
 ところで神道宗教では人間の中に罪とか業というものを認めません。人間世界の中に悪といわれる現象が起こるのは、禍津日の神の仕業であり、人間にとっては本来あってはならない汚れが身にまとわり着いたようなものです。ですから大事なことはそれを払って取り除いたり、水や塩でお清めをしたりすることなのです。
 しかしキリスト教が教える罪は人間存在の中核にあるもので、決して取り除くことも出来ませんし、悟って脱却することも出来ないものです。人間=罪人という構造は、人間の側からはどうしても越えることの出来ない実態なのです。


Rembrandt Harmenszoon van Rijn 『Adam and Eve』(1638年)。

罪の前提とその本質
 では人の罪はどこから生じたのでしょうか。それはまず人間が<神によって造られた存在>であるという前提に基づいています。神は私たちを「御自分にかたどって」(創世記1章27節)造られました。また神は「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)のです。こうして人は神に対して<創造者 ― 被造物>という関係と共に誕生したのです。この教えは、神と共に、神に従って生きる時に人であり得るということを示しています。
 ところが神が最初の人間アダムに「善悪の知識の木」からは取って食べてはならないと命じられたのに対して、アダムとイヴは蛇にそそのかされてそれを取って食べてしまいました。この行為は、神の命令に対して自分たちが自立的存在であることを示そうとしたこと、又取って食べたのが「善悪の知識の木」の実ということから、神の判断とは関わりなく自分たちの判断、決断能力を持とうとしたことを意味しています。
 ここに罪の本質がよくあらわれています。罪とは、自分たちの生と死を神と関わりないものと見なし自分たちの意思と力だけで決めていくということ、そしてまた神の意思よりも自分たちの判断を優先していくということなのです。通常罪の行いとされている殺害や盗み、嘘、暴行などはその結果あらわれたしるしであって、罪の本質はまさしく自分を神とする<自己中心>なのです。そしてこの<自己中心>はすべての人にある、この罪から誰一人逃れられないと聖書は語るのです。


Tiziano Vecellio『Cain and Abel』(157?年)。カインとアベルー最初の兄弟殺し

罪のあらわれ
 こうして罪の本質を深く内に持った人間は以下のようなしるしを身に帯びることになります。まず「神から身を隠す」(創世記3章8節)ようになります。出来るだけ神から離れて生きようと致します。次に自分が犯した事を他人のせいにして責任転嫁を致します。アダムは「女が木から取って与えたので食べました」と言い、イヴは「蛇がだましたので食べてしまいました」と言い逃れを致します。この結果、人に出産と労働の苦しみ、そして死がもたらされたと聖書は告げます(創世記3章16〜19節)。
 新約聖書にはユダヤ人・ファリサイ派の人たちの罪が指摘されています。主イエスのたとえ話です。ファリサイ人は普段の自分の信仰生活を誇る祈りを捧げます。「わたしは週に二度断食し、金収入の十分の一を捧げています」。ところが徴税人の方は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけしか祈れなかった。キリストは、徴税人の心砕かれた祈りが神に聞かれてファリサイ人の祈りはしりぞけられたと語ります。ファリサイ人の中にある「傲慢」、この罪を鋭く指摘されたのです。
 神から離れ、自分中心に生き、己れを誇る、ここに私たちすべての者の罪があるのです。このように人の罪は<自己中心>が核となっています。それで、どうしても自分からは克服することができず、ただイエス・キリストによる以外に救いはあり得ないのです。

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第3章 赦し


Reni Guido 『Christ Crowned with Thorns』(1623年)。

赦すことができない
 私たちは、自分に対して行われた他者の悪や罪を赦すことはできません。たとえささいなものであっても、赦すことはできないのです。夫婦であっても、親子であっても、友人同士であっても互いに赦しあうことができずにいます。憎しみと怒りにとらわれてしまう。その結果が悲惨なことになることが分かっていても、どうしようもなく赦せないのです。

愚かな家来
 マタイによる福音書18章21節〜35節に、イエス・キリストが語られた譬え話があります。あるところに、主人に5千億円ほどの負債を抱えている家来がいました。主人はその家来を憐れに思って、負債を帳消しにしてやりました。しかしその家来は、自分の負債を赦されたにもかかわらず、自分の仲間に貸していたわずかなお金を厳しく取り立て、牢屋に入れてしまいました。それを知った主人は、怒って、家来の負債を赦すのをやめ、全ての負債を返しつくすまで赦しませんでした。
 この譬え話の中で、家来はなぜ自分がとてつもなく大きな負債を赦されたのに、仲間の小さな負債を赦すことができなかったのでしょうか。それは、自分が十分に赦されている存在なのだということを、真面目に受け取らなかったからです。彼は主人の赦しの大きさを、全然受け取っていないのです。
 私たちが赦し合うことのできない大きな理由が、ここにあるのではないでしょうか。私たちも自分自身が赦されていることを知らなければ、赦すことはできないのです。


米英戦争で首都ワシントンの焼き討ち(Burning Washington in 1814)。

神様への負債
私たちが他者を赦すためには、まず自分が赦されていることを受け取らなければなりません。では、私たちは誰に赦されているのでしょうか。神様に赦されているのです。私たちは、神様に対して一切負債などないと思うかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。私たちの世界は、神様によって創造され、神様の御手によって保持されています。私たちは、神様の御手の働きがなければ、一秒すら生きていけないのです。そうであるのに、私たち人間は、神様などいなくても自分たちはやっていけると思い、神様などいらないと心の中でつぶやいています。また、神様は正しいことが行われることを望んでいるのに、私たちはそれに背いて、自分たちに都合の良いことばかりをしています。神様に対して、私たちの負債はたいへん大きなものなのです。
それでは、神様は、私たちのこの負債を取り立てられたのでしょうか。神様への背きの数々、無礼や非礼の数々、神様を悲しませた数々のことを、全て私たちに償わせようとさせられたでしょうか。もし、そうであるとするならば、私たちはどれだけの苦しみを受けても足りません。私たちの全てが奪われ滅ぼしつくされても、私たちの負っている負債、つまり神様への罪を償うことはできないのです。


George Cruikshank『キリスト者は十字架のところで重荷を降ろす』(天路歴程の挿絵から)

イエス・キリストによって赦される
 神様はこの負債を、私たちに償わせることはなさいませんでした。そうではなく神様が、私たちの大きな負債を償うために、私たちの身代わりを用意されたのです。それが神様の御子イエス・キリストです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネの手紙一 2章2節)とイエス・キリストについて書かれています。いけにえとは、身代わりになってくれる存在のことです。イエス・キリストは私たちの身代わりとして十字架の上で死んで下さいました。このイエス・キリストの十字架を、神様は私たちの全ての負債、罪の償いと認めて下さり、私たちを赦して下さいました。イエス・キリストの十字架によって、神様に対して負っている全ての負債、罪の対価を取り立てられることはなくなりました。私たちが、全てを奪われてまで償いをする必要はなくなったのです。

赦されている私たち
 私たちはイエス・キリストによって、神様から赦されているのです。どうしても赦せない時、憎しみや怒りにとらわれる時、自分に与えられている大きな赦しに目を向けるのです。与えられている大きな赦しに目を向けながら、隣人を「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書18章22節)と、イエス・キリストは私たちに言われるのです。

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第4章 救い


フレデリック・ジェイムズ・シールズ『Good Shepherd』

神様の羊
 聖書には詩編23編という詩があります。そこにはこう書かれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせて下さる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」この詩には、救いが書かれています。その救いとは、神様が羊飼いとしていて下さるということです。またこの私が、神様の羊となるということです。神様は、羊が迷うなら導き、「死の陰の谷」と言われるような苦難や危険の中を通る時にも、共にいて下さり、守り、力づけて下さるのです。天地を創造された全知全能の神様が、私の羊飼いとなって下さって、私の身も心も、髪の毛一本までも責任をもって養い、大事に愛して下さる。私たちの生涯の中で、いついかなる時も共にいて下さる。たとえ私たちが死んでも、それで終わりではありません。死んだ後も、神様が一緒にいて下さって、御手の中で私たちを養って下さるからです。神様が共におられる限り、私たちは滅びることはないのです。


Millet, Jean Francis『Shepherdess with her Flock』(1864年)。

離れて行った羊と捜し求めて下さる羊飼い
 けれども、私たちは、神様の群れから離れた羊です。神様を自分の羊飼いと認めず、自分勝手に気ままに生きたいと離れて行った羊です。自分で何でもできるんだと離れて行った羊です。神様から離れて行った結果、誰にも守られない存在となりました。危険や苦難の中を通らなければならなくても、誰にも助けてもらえない、孤独と不安に怯える存在となりました。ささいなことで滅んでしまう存在となりました。
 それでは、神様は、こんなわがままで自分勝手な私たちなど知らないと、お見捨てになったでしょうか。いいえ、神様は、私たちを捜し求めて、ご自分の群れに連れ戻そうとされるのです。「まことに主なる神はこう言われる。見よ。わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探し出すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場から救い出す。」(エゼキエル書34章11〜12節)。これが神様の言葉です。また、次のようにも書かれています。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(マタイによる福音書18章12節)。これが神様のお姿です。神様は小さな一匹の羊でしかない私たちを、その小ささと愚かさゆえに見捨てることなく、なおも愛され、捜し求められるのです。


Rembrandt Harmenszoon van Rijin『The return of the prodigal son』(1662年)。

イエス・キリストによって神様の群れへ
 神様は、私たちを捜してご自分のところへ連れ戻されるために、イエス・キリストとなって、この世界に来て下さいました。イエス・キリストは「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章11節)と言っておられます。一人一人を捜し求めるために、天から来て下さった良い羊飼いです。その良い羊飼いであることをあらわすために、私たちのために十字架で死んで下さり、三日目に復活して下さいました。私たちを神様の群れに戻すために、死の苦しみまで担って下さったのです。私たちは、その良い羊飼いであるイエス・キリストによって、神様の群れへと連れ戻してもらうのです。イエス・キリストは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネによる福音書14章1節)と言われ、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言っておられます。イエス・キリストを私の救い主と信じ、その言葉に聞き従うなら、私たちは神様の群れの中へ、神様がどこまでも共にいて下さる救いの中へ、連れ戻していただけるのです。

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第5章 愛とは何か


Pierre-Auguste Renoir『Dance at Bougival』(1883年)。

身近な「愛」、
 でも遠い「愛」

 私たちは大抵、「愛とは何か」を分かっているつもりで生活しています。それは、誰でも人を好きになったことがあるからです。また、一人の人に夢中になった経験さえあるからです。だから誰でも、愛とは何かを分かっているつもりでいるのだと思います。でも、私たちは別の経験もしています。それは、あると思っていた愛が霧のように消えて、元々無かったようにさえなってしまうことです。また、自分の愛が相手に通じなかったり、自分が大事にされなかったりすると、愛は憎しみに変わります。嫉妬に変わることだってあるでしょう。愛と思っていたものが、簡単に違うものに変わってしまうことさえある。そんな時、私たちは改めて、真の愛とは何だろうと思わざるを得ないのだと思うのです。
 日本人が「愛」という言葉を、今使っているような幅広い意味で使い出したのは、キリスト教とともに西欧文化が入ってきた最近のことです。それまでは日本で「愛」というと、「愛欲」の意味でしかなかったそうです。だから最初、聖書にあった「愛」という言葉を翻訳しようとする時、当時のキリシタンは、とても苦心したそうです。「愛」と訳すと、それまでの日本人の感覚から、利己的な愛欲と誤解されたのですから。その誤解を避けるために、これを「お大切」と訳したと言われます。それほどに、日本人にとって「愛」という言葉は、本来なじみの薄い言葉であったと言えるのかもしれません。

真の愛をどこで知るのか
 聖書にあった「愛」という文字は、原語では「アガペー」という文字でした。当時これ以外にも「愛」を表す文字は、「エロース」や「フィリア」がありました。後者の二つは人間的な感情に基づくものであり、性的感情から、高次元の国家愛や友人への親愛などがこれにあたるでしょう。でもさらに豊かな愛を表そうとして、聖書を書き留めた人々は、アガペーという文字を使ったのです。これは、当時あまり使われていない、まだ概念の定まっていない文字でした。それを、ただ与えるのみの愛、犠牲的愛、人間の観念ではとうてい到達できない神の愛を表そうとして用いたのです。神様だけが示すことの出来た愛、それがアガペーであり、真の愛であるのです。
 人間は、愛に渇く経験をするたびに、真の愛を知りたいと思います。私たちは、その愛をどこかで知ることができるのでしょうか。聖書は、主イエスを見るなら、真の愛が分かると言います。主イエスこそが、神の愛をそのままに生きた神の御子であられたからです。
 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
(ヨハネの手紙一4章9節)
 聖書において、また礼拝において主イエスを見るなら、主はたとえ相手に愛せないことを見つけてもなお愛して下さった方であることを知るでしょう。主は、自分の思いを相手にぶつけることなく、何の見返りも求められませんでした。赦せないと思う罪人まで、赦されました。それが、主イエスの愛のお姿でした。そしてとうとう全ての罪人を愛するため、十字架に掛かって、ご自分の全てを与え尽くして死なれたのです。主イエスを見るなら、愛することと赦すことは一つです。ここに、深い愛を知るのです。

真の愛に生きるため
 さて「愛」の観念が分かって、そこで終わりにするなら、何にもなりません。ダイヤも原石のままで終わってしまいます。「真の愛」を知るなら、そこから「真の愛に生きる」ことを始めようではありませんか。それは難しいことではありません。ここで私たちがどれだけ愛されているかを知ったのですから、その愛に応答して生きれば良いのです。またそのように生きることが、神様の最も願っておられることなのですから。
 「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書22章39節)
 この生活の中に、私も他者もやわらぎ、幸いとなる関係が生まれるのです。

(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
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