み言葉のパンで生きる365日
2021年8月
【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(日)
主日礼拝説教
藤森誠 伝道師
●2(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。 (箴3・11)
諭しはいいけれど、懲らしめはちょっと厳しいなぁと思った。でも、きっと諭されても、指導されても、言うことを聞かないボクがいるんだ。そういうボクの首根っこを捕まえて「こっちの道を歩くんだ。迷い道に入り込むんじゃない」と力いっぱい引き戻して下さることが、懲らしめということなんだ。そうだったら、どっちも主の愛の御業。その御業の中に生きていることこそが、幸いなんだ。
でも、ぜひ、ソフトな懲らしめでお願いしますね、主よ。
●3(火)
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 (イザ44・22)
この「あなた」とは、一個人のことではない。背きの民イスラエル全体に向けた「あなた」なのだ。そこで「赦し」の言葉を告げておられるのだ。喜びの知らせが、民全体を覆う!
主は私一人だけでなく、私の家族にも目を留めていて下さる。いや、相模原の地の一人ひとり、いや日本の全ての人、いや世界中の人々も。全ての人に「わたしに立ち帰れ」と呼んでおられる。然り、全ての人が主の宝だからだ。
●4(水)
大いなる救いに至らせるためです。 (創45・7)
「これってどんな場面?」と思って聖書を開いた。ヨセフが、兄たちに殺されかけた後、神の計画によってエジプトの宰相にまで上りつめる。そこで、飢饉によってエジプトに逃れて来た兄たちと再会。彼らが自分たちの行いを悔いている時、ヨセフが言った言葉だ。「神があなたたちより先に、私をエジプトに遣わされたんだ。あなたたちを救うために」と。
こんな凄い信仰は、どこから来るんだろう。兄たちへの不満もない。「人」を見ないで「神のみ」を見ているからかな。そうやって生きている。ボクもなれるかなぁ、そんな信仰者に。
●5(木)
主を畏れることは知恵の初め。 (箴1・7)
箴言は「知恵の書」と言われるけど、何のための「知恵」かを、ちゃんとわきまえねば。それは、神に従う者として立ち続けるための知恵だ。処世術でも、成功の秘訣でもない。
この御言葉を、日ごとに口にしよう。その生活の中で、「主を畏敬する者」という在り方が、私の身にも沁み着くから。それが、私の真の幸いとなるのだから。あれ? 御利益みたい。然り、『ハイデルベルク信仰問答』は正に、神を心から敬うと、そこに利益が生じるのだと、平気で言っている。神の恵みは具体的なんだと。神畏敬は、窮屈ではなく、豊かなんだ。
●6(金)
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。 (創22・11)
天の使いがアブラハムの名を大声で呼ばれる。一体何があったのか? アブラハムが手に刃を持ち、今や愛息子イサクを屠ろうとした瞬間だった。「アブラハム」と、声で彼の手を止めた。「もうよい、あなたが神の言葉を第一にする者だと分かったから」と。
何よりも大事なはずの息子を捧げようとするまで従えるなんて・・・。迷いは無かったのか。いや、迷いつつ、悩みつつ、それでも最後は従う方へと一歩進んだのかも。綺麗な信仰じゃない。呻きながらの一歩が、信仰なんだ。
●7(土)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。 (詩20・8)
これを現代語に言い換えてみたら・・・
「私には、常識があると誇る者もあり、知恵や経験を誇る者もあり、培った人脈を誇る者もあり、権威権力を誇る者もある。身につけた理性的判断を誇る者もあるが、私たちは我らの神にのみ頼る。主の言葉を旗頭にして、この世の生活を賛美しつつ進む。人から愚か者に見られようとも、信仰の教友から『現実的でない』と批判されようとも、主の御言葉だけを握って生きる」、かな。リアルだな。
●8(日)
主日礼拝説教
辻川篤 牧師
●9(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。 (エゼ34・15)
バビロン捕囚となった民、さらに各地に離散した民に向かって、主なる神が約束された。「あなたを探し出して世話をするから。あなた方は私の群れだから」と。亡国の民の回復が、今朝の御言葉だ。
ふと「主は羊飼い」と歌う詩編二三編が聞こえて来るように思えた。信仰の民の歌は、主の約束の言葉と呼応しているのかも。今朝私にも「あなたを養い、憩わせる」と呼び掛けられてくる。だからボクも歌おう「主こそわが羊飼い」と。だってボクも信仰の民の一員だから。
●10(火)
自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。 (箴13・3)
「いたずらに唇を開いてしまった」と後悔したことが何度あることか。その者は「滅びる」と言われている通り、そこでは辛いことが起こってしまった。もっと早く、この御言葉を知っていれば良かったのに・・・
と思いつつ、「分かっていても、また唇は軽々しく開くんだろうな」とも思った。唇を開かせるのが私の自己中心に染まった心そのものだから。単に「慎重にね」という程度の話しじゃない。罪の問題なんだ。救いの問題なんだ。「主よ、我を憐れみ給え」と祈る問題なんだ。
●11(水)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を」 (創1・11)
神が天地を創造される。そのとき大地を覆う草も果樹も創造された。神が愛する一つひとつのものとして。一本の草さえ、一つの果実さえが神の宝なのだ。神はこれを見て「良し(very good !)」と喜ばれたのだ。この地上の世界は、その神の誇らしい御心に、満ちているんだ。
だからこそ、と改めて思った「自然を壊してはならないのだ。それは単なる環境問題じゃない。神の御心に背いているのだから」と。
●12(木)
主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。 (ルツ2・12a)
異国の地で、夫と息子たちと死別したナオミ。悲しみの中で古里ベツレヘムに帰って来た。そのナオミにただ一人付き添ったのが、嫁のルツだった。彼女に、ナオミの親戚のボアズが声をかけて来た。その中の言葉がコレだ。
「行い」に報いるのは、人からの賞賛じゃない。だけどボクは、人からどう思われているかとか、褒められたいとか、そんなことばかり気にしてしまう。そういう思いに、主の報いこそが豊かだと示すのだ。だって神の報いは、必ず出来事化するから。それを期待して待て、と。
●13(金)
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。 (詩7・2)
詩人は強大な敵を前にして「わたしを助け、救ってください」と叫ぶ。その叫びは、その通りだなと思いながら、改めて考えてしまった。それは「主を避けどころとします」と誓うように言っている点だ。もしかしたらボクは、「助けて」とだけ言って、この誓いを本気で考えていなかったかも。口だけで言って、現実は自分の手腕とか解決方法の傘の下にもぐろうとして来た。本気で「主を避けどころ」とするというのは、信仰の決断がいるんだと気付いた。
●14(土)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。 (出15・13)
イスラエルの民は、エジプトから脱出できた直後、葦の海に逃げ道をふさがれる。その時も主は、海を割って人々を逃げ切らせてくださったのだ。今朝の御言葉はその時、モーセらが、主を賛美して歌った賛歌の中の一節だ。
「あなたが、アレもコレもしてくださった」と、ちゃんと恵みを数えている。具体的に数えている。それをしないで、何となくの賛美じゃない。ボクも恵みの数え上手になりたいな。そこに、活き活きした賛美が溢れ出すのだから。
●15(日)
主日礼拝説教
藤森誠 伝道師
●16(月)
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。 (創19・26)
退廃の町ソドムとゴモラが、主の怒りによって滅びる。その直前、アブラハムの執り成しでロトの家族は町の外まで逃げ出したのに・・・。妻だけ、神様から「後ろを振り返るな」と言われていた約束を破って塩の柱になった・・・。 なぜ振り返ってしまったのだろうか、と思う。「なぜ?」の理由は書いていない。
でも主は、ボクに向かっても「なぜ、み言葉を守れないの?」と、問うておられる気がした。そして「ボクにはまだ立ち帰る猶予がある」と気付いた。それが悔い改めなんだとも。
●17(火)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。 (イザ35・3)
背信の民に、神の審きが降る。その計画がまさに現実となろうとする時、人々は慌てふためいて、心は散り散りになった。しかし主はそういう人々に、審きの知らせと共に、栄光の回復も告げておられたのだ。
神の告げる未来は、確かに来る未来。先のことなのに確かだ、と言い切れるのは、主ご自身が実行されることだから。だから言える、「未来に立ち上がる力はどこから来るの? それは神の計画を信じることから」と。未来を歩む力の秘訣は、信仰なんだ。信仰ってスゴイ。
●18(水)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。 (エレ3・14)
神に背き続け、信じることを捨てて歩んだ人々に、バビロン捕囚が与えられた。しかしその人々に、エレミヤを通して「帰還の日が来るから」との約束が伝えられたのだ。
「背信の子らよ」との呼び掛けに、ドキッとした。神の目は、神に従う良い信仰者たちに向いているんじゃない。義しい者に心を寄せられるんじゃない。神が呼び掛けたいのは、ご自分に背いた者、ご自分を捨てた者たち。どこまでも罪人の側に心を寄せて下さるのだ。そして、その温かい視線の中に、ボクが居る。
●19(木)
人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
(箴20・24)
知恵の書である『箴言』の一言は、心に迫って、「本当にそうだなぁ」と思わされる。
でもきっと「当たってるなぁ」と思うだけで止めちゃいけないんだ。ここから自分の今日の生き方を、実際的に修正しないといけないから。「主よ、今日どのように生きればいいですか。あなたにお委ねしますから、導きだと気付いた今こそ、従う私にならせてください」と意を決するべきなんだ。知恵の書の言葉が生きたものとなるのは、その時のみだから。
●20(金)
御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。(エズ9・15)
ペルシアのキュロス王によって捕囚から解放された民が、神殿再建のとりかかり、遂に完成した。続々とエルサレムに帰って来る人々。そのとき祭司エズラが祈った言葉がこれだ。有頂天にならず、「罪のゆえに裁きを受けた我々なのに、生き残りとしてここにいます。ご覧ください、悔いてぬかずく我らを」と。
ああ、主が喜ばれる人がここにいる、と思った。主の前に悔いてぬかずく人、心打ち砕かれた人だ。ボクもこうあらねば、この姿に。
●21(土)
主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。 (王上8・56)
この言葉は、だれが、どんな時に言ったの? と思って、聖書を開いて、胸が熱くなった。ソロモン王がエルサレム神殿を建て終えた時、全会衆を祝福して大声で語った言葉だった。彼は、主を賛美している。その感謝と喜びを会衆と共有しようとしている。その時に語るべき言葉が、これだったんだ。「主が語られた約束の言葉は、全てが実現した」と。
私もみ言葉を聞く時に、この言葉を共有したい「御言葉は空しくならなかった」と。その為にも御言葉を生きん! 胸が熱くなった。
●22(日)
主日礼拝説教
辻川篤 牧師
●23(月)
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。 (箴16・9)
自分が計画する道でも、落とし穴があったり、危険があったりするから、その道は最善でないということもあるのだろうなぁ。
だから計画をする時、一番良いことは、良きアドバイザーが傍にいてくれること。それも私の計画したいことを、誰よりもくみ取ってくれるアドバイザーだ。さらに私よりも最善の方法を知っているアドバイザーだ。
主が備えて下さる。それも遠くの目標を示すのじゃなく、一歩先、また一歩先を示して下さる。相談相手は決まった。さあ祈ろう。
●24(火)
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。 (詩24・1)
あっ、これは礼拝を始める時の御言葉「招詞」で、よく読まれる箇所だ。
これを聞くだけで、いつも心を高く主なる神へと上げることが出来ていた。主の支配の壮大さへと、目が開かれて行く思いがしていた。
それを、今日を始めるという朝に聞けたことは(または、一日を終えた夜、その日を振り返って聞けたことは)、なんてラッキーなんだと改めて思った。だってこの一日も「主のもの」と確信できて歩み出せるから。安心して歩み続けることが出来るから。正に恵みだ!
●25(水)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。 (ルツ2・12b)
夫と死別して、姑に尽くそうと故郷を離れ、見知らぬ姑の国に来た嫁のルツ。その姿を見た親族のボアズが、彼女に掛けた慰めの言葉だ。そして、祝福の言葉だ。
自分がやりたい方法を優先にせず、他者のために生きたルツ。そこがきっと、主の御翼のもとそのものなんだ。親鳥の翼の下に逃れて来ていることになるんだ。そうだ、隣人を愛することは、自分を愛することに優先すること。そういう人を、神様は報いて下さるのだ。主の祝福は、身近な隣人の傍に在り。
●26(木)
あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。 (申9・4)
出エジプトの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る前。モーセが「あなた方が正しいから恵みを得たのではない」と釘を差したのだ。
すぐに考えてしまうのは「正しい人には、神から恵み。罪咎を抱える人には、神の恵みは遠い」ということ。
でも、すぐに考えるべきことは、「こんな私なのに、それでも神は恵みをもって答えて下さる」ということ。人間の常識をひっくり返した場所に、神の恵みは注がれるのだ。
●27(金)
(主は言われる)「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。」 (サム下7・15)
「彼」とは誰か。それは、ダビデの子ソロモンのこと。ダビデが神殿建築を決意した時、主なる神が「いや、あなたの子が建てる。それも私は、あなたの子をも祝福し続けるから」と約束なさった言葉なのだ。
それを聞いて、きっとダビデは安心しただろう。自分自身への主の慈しみも嬉しいけれど、それが子供につながってゆくことは、もっと嬉しいことだから。そこに安寧もあり、平安もあるのだから。「安心して御国に上れる」と思えるのは、この安心を手にした時なんだろうな。
●28(土)
善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。 (アモ5・14)
南北王国に滅亡の日がヒタヒタと近づいて来る。主なる神がとうとう、背信の民に審判を下されるのだ。それを前にして、人々の牧者として呼び掛けたアモス。それは、端的な言葉であった「善を求めよ、悪を求めるな」と。
人々は、何が善で、何が悪なのか、神様に知らされていた民なのに。神の言葉として「律法」を賜っていた民なのに。それなのに、知っていて背き続けたのだ。ボクも神の思いを知っていて背いている。そこから離れて、御言葉にしがみついて生きる人にこそなりたい!
●29(日)
主日礼拝説教
藤森誠 伝道師
●30(月)
わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。 (出3・20)
神がモーセに、エジプトから民を救い出すことを命じた時、十の災いを予告された。
私も幼い頃代、モーセが起こす奇跡に手に汗握った。でも今日改めて、ここで何が起こっていたのかを悟った気がした。それは「わたしは自ら手を下し」の一言によって、神が関われたことが大事だと思ったから。神が、人々の苦しみに介入されたのだ。その業が、目の前で繰り広げられる出来事となったのだ。人の嘆きに、神がご自分の手で触れられる。そんな出来事が、私の現実にも起こっているのですね。
●31(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。 (王上8・60)
ソロモンがエルサレム神殿建築を完了させた。そこで祈りと願いを主にささげた後、大声で全会衆を祝福したのだ。その祝福の締め括りの言葉がこれだった。
祝福を頂くということは、ただ一つのことを求めることと同じなんだ。それは「人が神を知る」ということ。ふと思い出した「主を畏れることは知恵の初め」という御言葉。また「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」という御言葉。全ては、この一点で繋がっているのかも。