2021年05月31日

『日々の聖句』2021年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年5月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。   (エレ24・7)

 バビロン捕囚の最中。ユダの人々のことを主なる神が心に留めて下さり、預言者エレミヤに伝えた言葉がこれだ。人々が立ち帰るための「心」も彼らに与えるから、と。そして彼らを都エルサレムに連れて帰るのだよ、と。
 背きの民なのに、その人々を諦めないのは神ご自身。神様は、罪人を忍耐されるんだ。諦めきれず、なお救いの御手を伸ばされるんだ。
 もしかしたら、自分に罪人だと烙印を押して罪人に留まってしまうのは私自身かも。主の救いのご熱心にこそ、いざ!飛び込め。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月・憲法記念日)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。      (代上29・14)

 ダビデ王がエルサレム神殿建築のために、全会衆に寄進を求め、多くの寄贈品が集められた。それを目の前にして、彼は主に祈ったのだ「私はいただきものを、あなたに差し出すにすぎません」と。
 ここに献げ物をする際の心がある。「私の物を神様に差し上げる」ということじゃない。「神様からの預かりものをお返しする」のだ。神の物を神に、と喜んで明け渡す。そんな心の表れにしたいな、ボクの献金も!


●4(火・みどりの日)
人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。   (イザ2・22)

 バビロン捕囚が迫って来る時、主が預言者イザヤに見せた幻が記される。
 右往左往して、それでも主に立ち帰るよりも隣国と同盟を結んで、人間の力で切り抜けようとする人々。亡国のピンチなのに、それでも主の言葉に頼らず自分で計画を思い計る。
「今日の御言葉を、ちゃんと聞けばいいのに!これは、あの人に聞かせたい御言葉だな」と思って、我に返った。これはボクに向けて語られている主の言葉だと、気付いたから。


●5(水・こどもの日)
わが神、主よ・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。   (王上3・7)

 ソロモンが、主によって王に立てられる。その彼に、主なる神が枕元に立って「何事でも願うがよい」と語りかけた。それに応えたソロモンの言葉だ。それは、「王として下さって感謝です」というのじゃない。また単なる謙遜の言葉でもない。彼は自分を知っているのだ。それは、主の前に立つ者だけが分かること。
 ボクも十字架の前に立つ時に、本当の姿を知る。「私は取るに足りない者。それどころか罪人だ」と。さらに「それでも愛された」とも。


●6(木)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。   (サム上2・7)

 長い間、子どもが生まれずに悲しみの中にあったハンナが、主によって男の子を与えられた。その名はサムエル。その子を主に委ねるために神殿に上り礼拝する中で祈った言葉だ。貧しく過ごした日々を知っているハンナ。しかし満たされた日々も与えられた母ハンナ。全てを主の御手の中に置いて見たら、そこにこの「ハンナの賛歌」が生まれたんだ。
 委ね切る信仰というのは、そこに賛美が生まれるんだ。「委ねてます」と言いながら、しんどそうな顔をしてるのは、何かが違うのかも。


●7(金)
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。      (イザ43・19)

 主は人々に、「捕囚後」に目を向けさせる。そこに起ころうとしている恵みの御業へと心を向けさせる。それは、人間が考えることを超えて、新しいこと。それも、苦難のただ中で「もう芽生えている」と告げられているのだ。
 神の計画が、私にも常にある。それは、私の願うことをも超えた、新しいこと。そして、それはもう始まっているんだ。ああ、今日はなんて良い日なんだろう。その一歩としての一日を歩いていると知ったのだから。


●8(土)
主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた。      (申9・24)

 モーセが頑なな民に向かって嘆きの言葉を吐く。モーセ不在の時に、彼らが小牛の鋳造を作って拝んでいたからだ。彼の嘆きの原因はたった一つ、「神に背を向け続けた」ということなんだ。思い起こしても今回だけじゃない。主の助けでエジプトから逃げ出せた直後から、ずっとだった。
 モーセの嘆きは、主ご自身の嘆き。「お前はどうして私に背き続けるのか。お前を愛して守るのは、この私なのに」と。それは切なく泣かれる神の御声に聞こえた。


●9(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●10(月)
わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。  (エレ32・40)

 バビロン捕囚後の幻を、主がエレミヤを通して約束される。それは、都エルサレムへの帰還。そしてそこで一番大事な賜物について告げられたのだ。それが今日の一言、「あなた方の心を守って、神に従い、神から離れないようにしてあげるから」ということだった。
 それにしても「あなたの心を私から離れないようにするから」って、なんて熱いラブコールなんだろう。その吐息さえ聞こえて来そうだ。そうだ! 神は、生きた愛の言葉を語られる方。そんな方を、悲しませてなるまいゾ。


●11(火)
エジプト人は言った。「・・・主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」  (出14・25)

 エジプト軍が、逃げるイスラエルの民を葦の海の前で追い詰めた。しかし神が海を分けて、乾いた地の上を民に渡らせる。それを追いかけたエジプト人が、主によってかき乱されたのだ。それに直面したエジプト人が、神など知らなかった民なのに、「主が戦っておられる」と震えながら告白したのだ。
 「神などいない」という人々が、神を知る瞬間がある。それは、私が主に支えられて生きるのを見る時。そうか、伝道は、私の生き様にかかっているんだ。大伝道集会じゃないんだ。


●12(水)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。    (箴2・6)

 知識を取捨選択して用いるための「知恵」は、神様からいただくもの。だから、頭を低くして「主よ、御心でしたら与えて下さい」と受け取らなきゃ。
 また、あらゆるこの世の「知識」を得るのも、主なる神から。それも口伝えに与えて下さるというのだ。その方法は、真似をするということかも。主がまず御言葉を通して「人はこう生きるべし」と言われる。するとそのままそっくりに「人はこう生きるべし」とね。何だか師匠と弟子の関係みたい。然り、愛弟子なり。


●13(木)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみなさい。   (ヨシュ1・8)

 モーセの後継者として、主がヨシュアを立てられる。その召命の時、主が彼に語られた言葉がこれだ。神と人との間の大切な約束である「律法」に生きるようにとのこと。幸せへの羅針盤は、そこに記された言葉の一つひとつだからだ。その導かれる先には、神の祝福が待っているんだ。
 その律法は、ボクにとっての羅針盤でもあるよね。だからボクも御言葉を口ずさもう。一歩ずつの歩みを、そこに立たせるためにも。その行き着く先は、主の祝福なんだもん。


●14(金)
富を築く力をあなたに与えられたのは主である。(申8・18)

 モーセが民に、「エジプトの国から救い出されたのも、食べて満足できるようにしてもらえたのも、立派な家を得たのも、全て神のお陰だ」、と告げる。続けて、神様が先に約束を果たされたのだから、今度はあなたがたが、その神に従うという約束を守る番だよ、とも。
 命も衣食住も、まるごと神様のお世話の中で生きていいんだ。でも、ちゃんとお世話して下さる方が誰であるか、知っていることが大事。それなのに民は、主から離れるんだ。どうしようもなく恩知らずだなと思って、ハッとした。自分自身のことだと気付いたから。


●15(土)
わたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。 (出9・27)

 「私が間違っていて、神が正しい」と言えたこの人は、信仰の民じゃなかった。彼は異邦人で、加えて「自分こそが神だ、他に神はいない」と言っていたエジプト王・ファラオだったのだ。
 だからこそ驚いてしまった。一番、主なる神を信じることから遠いと思っていた人からこの言葉が出たからだ。たとえ一時的であったとしても、それはスゴイことだと思った。そして、それは私の友人にも起こって欲しいこととも思った。だってこの一言から、神との関りが、神様から始められているのだから。


●16(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●17(月)
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。    (王上17・16)

 預言者エリヤが、主の言われた通りに、干ばつの日にやもめの家に入って食事を乞うた。家に残った一握りの小麦粉で、パンを求めたのだ。その小麦を使えば、壺の中は空っぽになるのに、やもめはエリヤの求めに従う。それはエリヤが、「主なる神が粉は尽きない」と約束されたと伝えた言葉を信じたからだ。
「信じる」って「言葉に命を委ねて従う」ことなんだ。主の言葉は事実となるーそこに生きる軸を置くこと。心持ちの話じゃないんだ。


●18(火)
助産婦たちは神を畏れていた   (出1・21)

 エジプト王のファラオが、「イスラエル人の生まれた男子は、皆殺しにするように」との命令を出した。逆らうことは、死を意味する。しかし神の民であった助産婦は、「私が神だ」というファラオに言葉よりも、主に従った。その理由が、「神を畏れていた」からだ。
 ボクにとっても主を畏れ敬うことは、この世の権威に倣わず、主の言葉に倣って生きること。でも、この世的な慣習や、世間の目を神としていないだろうか。何を畏れるべきか、もう一度自分に問わねば。それも、あらゆる生活の場面で。世間の常識を神とするな!


●19(水)
苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。   (詩4・2)

 ダビデの詩編として聞くように勧められている。それは、彼が抱えた苦難を想うことが出来るから。愛息子による謀反で命を狙われた苦難だ。その時でもダビデは軍隊を整えたのでもなく、対抗策を考えたのでもない。何よりも主にすがったのだ。面前の苦難においてさえ、主が最善をなさると信じて生きたから。
 私は苦難を前に、すぐに武器を用意しようとする。言葉の槍、論破の知識を準備する。それって情けない信仰だ。苦難の日に、自分の信仰が丸裸にされるような気がした。


●20(木)
「律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」 (申32・46-〜47)

 これはモーセの最後の勧告。つまり遺言。迫力をもって伝えたのは、やっぱり「律法の言葉(神様との約束の言葉)を、しっかり聞いて、そこに生きよ」ということ。「それだけ守ったら必ず幸せに過ごせるから」ということ。これまでも口を酸っぱくして言って来たことだ。
 私もしっかり聞こう。モーセの枕辺に正座するようにして、この大切な遺言を。私も、命を支える御言葉に生きる者となるために。


●21(金)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。   (箴1・15)

 「彼ら」って誰のことかな? 聖書を開いてみた時、ドキッとした。厳しい言葉で「ならず者が誘惑する」と記されていたから。その誘惑も具体的に「一緒に来い・・・我々と運命を共にせよ」と記されていたから。身近に「彼ら」は居るんだと気付かされたから。
 つまり「彼らの道」とは、生活の中で当たり前のように思って来た人間的慣習ことであり、そこに神様がいない場所。そんな場所に、片足さえ突っ込むなと言われているんだ。巻き込まれて、命に関わる大怪我をするから。


●22(土)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。   (創28・16)

 兄を騙して長子の権を手に入れたヤコブ。そのゆえに兄の怒りを知り、命を狙われていると思って逃げ出したヤコブ。逃亡中に、荒野で仮寝する彼の傍に、主が立たれた。その眠りから覚めたヤコブが言った言葉がこれだ。
 「この場所に」という一言が、「自分身勝手な罪で窮地に陥ったヤコブなのに、その傍にも主が立って下さる。この窮地の場所が、同時に主がいて下さる場所なんだ」と思えたら、そこで慰められた。自分のせいで窮地を何度も経験するボクだから。


●23(日・聖霊降臨祭 ペンテコステ)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。   (エゼ33・11)

 捕囚の人々の中にいた預言者エゼキエル。彼が、神の言葉を受け取って人々に伝えた。それも神に背いた人々に伝えた。悪人と烙印を押された人々に、だ。
 それは神様の「お前が生きることを喜ぶよ。立ち帰っておくれ、私の所へ」と告げる悲痛な親の声のように聞こえる。まるでボクへの声に聞こえる。それは同時に「愛してる」って叫ぶ御声にも聞こえた。


●25(火)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。        (創17・17)

 アブラハムは主から「あなたの子孫は星の数ほどになる」と約束をいただいた。でもその日から二十五年が経ち百歳となっていた。その彼に「約束は本物だからね」という神に、心の中で笑ったのだ。「そんなの無理さ」と。
 彼は、神の約束と人間の常識とを天秤にかけた。そして被造物でしかない人間なのに、自分の常識の方を選んだ。これと同じことを私もしている。主よ、ただ「然り、御心のままに」といつも言える信仰を与えて下さい。


●26水)
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。         (詩27・4)

 「ああ、この詩人のように私も願って過ごしたい。この願いを第一の願いとして生きていたい」・・・そう素直に思えた。
 こういう心で過ごしたら、一日中、心を高く上げていられるだろうから。一日中、目を天の父へと向けていられるから。日がな一日、御心をたずねていられるだろうから。そんな一日は、きっと満たされているだろう、主の平安と、そして祝福に! そう素直に思えた。


●27(木)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20) 

 南ユダが敵の襲撃に遭った。恐れる人々。その時ヨシャファト王は、主に求めることを決意したのだ。その彼に主の言葉が臨んだ。
 主なる神に寄り頼むならば、「生かされる」と記されている。受け身で「生かされる」ということは彼は何もしないのかな?と思って聖書を開いたら、「主が戦う」と記されていた。
 私が今日生かされているというのも、主が戦っていて下さるからかな? きっとそうだ!滅びと死とに戦っていて下さる。今日守られていて、だから今日生かされているんだ。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。   (出16・8)

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で「食べ物が無い」と不平を言う。そこで主が、朝ごとに天からパン(マナ)を降らせ、夕ごとにうずらの肉を与えて下さった。その恵みの出来事が起こった原因が、何ということか、主に向かって述べた「不平」だったなんて。
 神様は、人間の不平に罰することで応えられなかった。なお恵みを与え続けられる。こんな不合理なことあるだろうか。そうだ、不合理をさえ飲み込まれる主。大きな愛なんだ。


●29(土)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。   (出13・3)
 
 奴隷の国、エジプトから人々は脱出できた。主の恵みの計画によってだ。神様は「その出来事を記念しなさい」と命じられる。繰り返してその恵みを思い出すために「思い起こす日を設けよ」ということなんだ。
「恵みを感謝」と思った瞬間、すぐ忘れてしまう弱いボク。恵みは、記憶し続けることと直結しているんだ。そうか!生を受けた恵みを記念する「誕生会」も大切な事だったんだな。


●30(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●31(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。     (ルツ1・9)

 ナオミは夫に先立たれ、息子たちとも死別。嫁たち二人が残ったけれど、一緒に居るより実家に帰そうと決意した。独りぼっちになるけれど、それが嫁たちにとっての最善だと決めたのだ。そして今日の一言を、別れの言葉に添えて伝えた。
 たった一つ残された命綱とも言えるような家族を手放すなんて。天涯孤独になるのに・・・。人は、ここまで人に対して優しくなれるのか。やもめのナオミが、「あなたのため」と決意したことに、優しさが具現化したのだ。
こんな人に、ボクもなりたい。


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2021年04月30日

『日々の聖句』2021年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年4月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。    (イザ四9・5)

 主の御用のため、困難な使命を受けた預言者イザヤ。人々からの賞賛もなく、理解さえされない働きに就いたのだ。しかしイザヤは知っていた。働きに報いるのは人間ではないことを。報いてくださるのは主だ、と。それゆえに彼は、今朝の言葉を堂々と告白したのだ「主の御目にわたしは重んじられている」と。さらに大声で言ったのだ、「わたしの神こそ、わたしの力」と。
 ボクも、主だけを見よう。そこからこそ安心して御用に就ける力も溢れて来るのだから。


●2(金)
わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。   (エレ32・39)

 この「わたしは」というのは、主なる神のこと。だから、神様ご自身が人々の心の中に、主を慕い、主の道に従う心も与えてくださるということだ。迷い道に入り込みやすい羊だから、自分のしたいことだけ勝手にする頑固な羊だから。私たちの心を柔らかにして、道を与え、心も整えてくださるというのだ。
 ああボクの神様って、なんて至れり尽くせりなんだろう。ボクは相当に幸せ者だなぁ。


●3(土)
主は地の面の全ての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。   (申14・2)

 モーセは民に「自分で自分を傷つけたりしないで」と告げる。その理由が、今朝の御言葉なのだ。つまり「神様が、誰よりもあなたのことを大切なんだと選んでくださったのだから」と。また「それほどに神様の特別な宝の一人ひとりなのだから」ということなのだ。
 私を「宝物だよ」と言ってくださるお方がおられる。私の主なる神だ。どうしてそのお方を悲しませられようか。絶対に嘆かせたくはない、絶対に失望させたくない。こんなにボクを大切にしてくださるのは、他にいないから。


●4(日・復活祭 イースター)

イースター礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
「わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」      (エレ7・23)

 神殿の前に立つエレミヤが、主の言葉を民に伝える。それは、幸いを得るために唯一の条件。たった一つの約束事。「主の道に歩むということ」、これだけで良かったのに・・・。
しかし、この呼びかけの直後に、聖書には「しかし彼らは聞き従わなかった」と記されていた。そこには「たった一つの条件だったのに、どうして」という神様の悲痛な叫びが伝わってくる。そして、私はこの「たった一つ」をどう聞くのか。改めて身を引き締めるべきだと思った。幸いから漏れ落ちないためにも。


●6(火)
彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。       (民11・17)

 モーセと共に荒野を行くイスラエルの民が、不平不満を彼一人の肩に集中させた。その重荷に「わたし一人では重すぎます」と主に訴えた時、主なる神は彼を支える七十人を立ててくださったのだ。そこにに、モーセと共に共同体を背負う同労者集団が生まれた。
 教会も同じような気がする。奉仕は一人でしちゃいけない。不満を共に負う者こそ、主に立てられた人。だからどんな奉仕も、その兄姉を祈り求めることから始めなきゃ。


●7(水)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。   (詩55・23)

ダビデの詩とされている。それも、自分の命を狙う敵に追い詰められているときに歌った詩なのだ。死が目の前に迫って来ていて、しかもその敵は以前親しく交わりを持っていた友なのだ。
身体も心も追い詰められる苦しみがある。その重荷を抱えたダビデは、その重荷を降ろすところを知るのだ。それは、主なる神の御手の中。ただ主お一人が、真の支え手なのだから。この一点で、彼は危機のただ中を進む。勝利はまだ見えなくても、前に進めるんだ。


●8(木)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。       (創39・23)

 兄たちの謀略によって、エジプトに奴隷として連れて来られたヨセフ。ファラオの宮廷侍従長の家で働くことになるが、そこでも主人の妻に言い寄られ、拒絶した途端に監獄行きに。どんどん事態は悪化するように見える。しかし不思議に、どの時も切り抜けるのだ。それを端的に告げたのが、今日の御言葉だ。
 ヨセフにはこれ以上の苦労はない人生に思えるけれど、見えない御手に支えられている。何だかそれを思ったら、「私もかな?」と思えてホッとした。見えない御手があるんだ、と。


●9(金)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。    (ゼカ1・16)

 時は、バビロン捕囚からエルサレム帰還へ移ろうとしている。そのとき主なる神が、そこでも先頭に立つと宣言してくださったのだ。一緒に帰還への道をたどってくださる。再建の歩みも御手を添えてくださるのだ。
 希望を与えるのは、主なる神。さらにその希望を実現してくださるのも主。至れり尽くせりで添い歩きしてくださる神様なんだ。
 あっ、生きる術を見つけたり! それは、このお方から離れない事。それは間違いない。


●10(土)
主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。   (士4・14)

 女預言者デボラが、イスラエルを導く士師となっていた時代のこと。九百両の戦車を率いた軍勢を目の前にして、司令官バラクに告げた言葉がこれだ。
 改めて、「勇気って、どこから出るのか」と思う。それは、勝算があるか否かかじゃない。自分の能力によるのでもない。ただ一つのことから来る。それは、主が先立ってくださっているかどうかだ。ならば勇気は祈りから来る。「私は進んで良いですか? そこへとあなたが導いておられるのですか」と問う祈りから来る。


●11(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●12(月)
あなたたちの神、主はこの土地をあなたたちに与えて、それを得させてくださった。   (申3・18)

 ついにイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って進撃しようとする直前のこと。まだ戦いが始まってもいない時に、主なる神が「勝利宣言」を、モーセを通して与えられたのだ。
 「主は、それを得させてくださった」と、未来に起こることが、まるで既に起こったことのように告げられている。それが、神がなさる約束というものなのだ。主の言葉は、必ずこの地で実現するから。ならば、御言葉に一切躊躇せず従おう。その先に、御言葉の実現を戴けるのだから。そこへと、まっしぐらだ!


●13(火)
わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。   (マラ3・20)

 「終末の日」を「審きの日」として、預言者マラキが語る。高慢な者や悪を行う者が、燃え尽くされる日となる、と。なんだか「終末」って怖いかも。でも同時に彼は告げるのだ。主なる神を畏れ敬う人には、明るい太陽が昇る日となると。親鳥の翼の下に雛が包まれるように、主に従ったゆえの傷はそこで癒されるよ、と。
アッと気付いた。「終末の日」は、「救いの日」なんだと。今日の歩みを、お前はこっち側に進む人になれと、招かれているんだ。


●14(水)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。    (ヨブ30・20)

 試練の中にあり、友人たちからも批判されるばかりのヨブが、主に向かって嘆きの声をあげた。その嘆きの中心は、自分がどんなに辛い目に遭っているかということじゃなかった。嘆きは、「神の沈黙」にあったのだ。
 どんなに苦しい日でも、天の真の父が、ちゃんと自分の苦しみを知っていてくださるって分かっていたら、耐えられもするよね。でも、ボクは知っている、この「神の沈黙」の辛さを。


●15(木)
あなたが呼べば主は答え、あなたが呼べば「わたしはここにいる」と言われる。  (イザ58・9)

 主なる神が、「ご自分に従う者の姿」を告げられた。「ああ、なんて嬉しい御言葉だろう」と思う。昨日は「神の沈黙」の厳しさを思わされたばかりだから、余計に嬉しい。
 でも「ちょっと待てよ」と思った。私はちゃんと神様を呼んでいるだろうか、と。自分一人でジタバタしているだけかも。更に悪いことに、何かあっても主を呼ばず、自分の経験に頼り、もっと悪いことに他の力を頼ろうとする。神様が最後になっている。改めて自分に言い聞かせねば「今朝の御言葉を生きよ」と。


●16(金)
あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。   (サム下7・29)

 ダビデ王が、主の前に出て祈った祈りの締めくくりの言葉だ。祝福と長寿を願いつつ、その賜り手にちゃんと顔を向けている。さらに願いのゴリ押しもしない。それは、主の計画が最善だと、委ね切れているから。
 ダビデは、主が「祝福あれ」と言われれば、祝福が生まれると信じている。なんという信仰だろう。まるで天地創造の時「光あれ」と言われて光があったことを、そのまま自分のこととして受け止めている。なんという信仰だろう。


●17(土)
長い年月、あなたは忍耐し    (ネヘ9・30)

 時は、捕囚から帰還後。ペルシャの国で仕えていたネヘミヤが、エルサレムから来た同胞が都の悲惨を嘆くのを聞いて、祈った言葉だ。この「あなたは忍耐し」とは、その人々のことだと思っていたら違っていた。聖書を開いたら、忍耐したのは神様だと知って、ビックリした。
 主の霊を送り続けたのに、耳を貸さなかった人々。しかし報いを負わせずに、なお忍耐されたのだ。それが、主の憐れみと恵みだったと記されていたのを知って、二度驚いた。憐れみと恵みって、主の忍耐のことなんだと分かったから。私の罪も、主は耐え続けていてくださる。


●18(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●19(月)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。   (詩3・4)

 息子アブサロムの反逆で、命まで狙われたダビデ王。周りからも「ダビデに神の助けなどあるものか」と嘲られる。しかし目の前にある絶体絶命を前にして、その只中で彼は、今朝の言葉を告げたのだ、主に向かって!
 心を高く上げたダビデ。万策尽きたと見えても、一策在り。それは、主を頼ること、神を信頼すること。いやそれこそが人間の万策に優るのだ。私もこの御言葉をなぞって祈ろう。そうやって今日の一日を始めよう。


●20(火)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。       (民27・17)

 老齢となったモーセが、後継者を主に願う。それは人々を愛する故。加えて、その人々がどんなに自分本位で生きてしまうかを知っている故。さらに、主なる神が相応しい人を選んでくださるのだと信じ切っている故。さらに、主に選ばれた人も、良き主の僕となることを確信していたからなのだ。
 「隣人を愛する」って、私とあなたの繋がりで考えることじゃないのかも。私と神とあなたという三角形の関係で考えることなんだ。いつも神様抜きにするから、失敗してたのかもね。


●21(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。     (箴3・29)

 ソロモン王のもとに集まった知恵の言葉集である『箴言』。ドキッとするものが多いけれど、今朝の言葉はとびっきりドキッとさせられた。御言葉が私の内心を突いていたから。
 友人に対してなのに、不信が起こり、不満がたまって、悪意が動き出す。悪意は、さらなる悪意を育てて、大きく膨らんでいく。しかし友は、そんな私に対しても、全く今まで通りに安心して傍に居てくれるのだ。その友への悪意って、裏切りそのものだと気付いた。悔い改めるべきは、我にこそ在る。


●22(木)
神に従う人の道を主は知っていてくださる。    (詩1・6)

 「いかに幸いなことか」と始まる詩編第一編。これは一五〇編ある詩の最初の歌だ。そこに、「神に従う人」と、「神に逆らう人」のことが歌われるのだ。もちろんこの詩人は、従うことへと強烈に招く。そこに幸があるからだ。もしかしたら、詩編全体で言いたいことの要約が、ここにあるのかも。
 きっとそうさ! 主に従う人の道をこそ、神様は見守って、支えてくださる。そのことを真っすぐに伝えているんだ。その道の上に、幸いが無いはずがあろうか。ボクもその道を行かん! 寄り道もせず、迷子にもなるまい。


●23(金)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。        (コヘ3・1)

 コヘレトの言葉(口語訳では伝道の書)の中で、一番よく知られた御言葉の箇所かも知れない。三章から「何事にも時があり」と始まって、生も死も、喜びも悲しみも「定められた時がある」と告げるのだ。それも、それを定められるのは神だと悟らせようとする。つまり、御手に委ねて思い煩うなということだ。
 ふと、今年の主題聖句を思い出した「主において常に喜びなさい」だ。そこに通じているなと思った。心穏やかに委ねられたら、思い煩いも緩められ、奥の深い喜びに生きられる、と。


●24(土)
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。   (箴30・8)

 昨日に続いて、今日も旧約聖書にある知恵の書の中の一つ、「箴言」からの御言葉だ。
 ふと「分相応」という言葉が浮かんだ。でも聖書も、そんなことを言うのだろうか・・・。聖書なのに、この世の格言と同じなのだろうか。
 あっ! 違うぞ。全然違う。私に定められた「分」は、人が定めるのではなくて、神様なのだから。「私の持ち分は、お金や養いのことさえも、神に委ねます」と言っている信仰の言葉なのだ。そこに立てたら、安心があるんだ。


●25(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●26(月)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。      (創19・29)

 ソドムとゴモラの町に悪が満ち、神が裁きを決められる。でも、アブラハムが執り成すのだ。それによって、その街に住んでいた甥のロトは、救出されることになる。
ロトの救出は、彼自身の祈りの熱心さや、信仰によるものじゃなかった。アブラハムの執り成しによったのだ。「執り成しの祈りは、なんて大きいのか。神の決断さえも揺り動かすのだから」と思った。祈りを聞いてくださる神様の御心は、深く広い。だから私も懸命に執り成そう。そうしたい人が、いっぱいいるから。


●27(火)
彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」   (代下20・21) 

 主と共に歩んだ南ユダのヨシャファト王。主が命じた戦いに出るとき、彼がしたことは、武具を整えるより、まず主をたたえる者を選び、軍隊の先頭に立たせて御名を賛美させたことだ。「主が行けと命じた時は、既に勝利は約束されたり」と知っていたから。ゆえに人間がすべき残されたことは、賛美のみだ、と。
 私も主の命令を聞くことに敏感でいたい。然り、御言葉こそ命令。それも、従う先には勝利アリ! 顔を上げ、主をたたえて従おう。


●28(水)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。    (創15・6)

 アブラハムは、神様から行く先も知らない場所へと旅立つように促される。それは恵みの計画だからという約束を「信じた」からだ。神は、その「信じた」ことを指して、「お前は義しい人だ」と認めてくださったのだ。
 あっ、義しい人になるのは、一生懸命に聖書の言葉通りの行いをすることじゃなかった。神様の言われることをそのまま信じることだ。ただその一つなんだ。今までちょっと勘違いの信仰生活をして来たかも。やっぱり行いも大事だと、何となく思っていたかもね。


●29(木・昭和の日)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」   (創18・32)

 あれ、数日前もソドムとゴモラの箇所だったような・・・。確かアブラハムが、悪が満ちるこの町を神様が滅ぼすと裁かれたとき、執り成したのだよね。「正しい人が十人いたら滅ぼさないで」と。それに応えられたのが、今朝の主の言葉だ。相手の幸のための執り成しは、神の決定さえも覆るほどに大きいんだな。
 あ、もしお互いの幸を執り成す祈りをする家族だったら、その祈りは聞かれ、家全体が幸福に満ちるんじゃない? すごいことに気付いちゃったかも。神様、それで良いのですよね。


●30(金)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 捕囚の人々の中から、主が預言者エゼキエルを選び立てられた。そして伝えたことが、これなのだ。人々が主に従う者となるように、頑なな心を捨てさせて、柔らかい心を持たせるよ、と告げられたのだ。
 今まで、主に従う従順な心は、自分で培うものだと思っていた。それが信仰者だと。でもちょっと違ってた。柔らかな心も、神様からの戴きもの。主は心さえも備えてくださるから、それを渇望して、ただ戴く人が信仰者なんだ。ああ、すべてが一方的な恵みなんだな。


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2021年03月31日

『日々の聖句』2021年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年3月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
(ソロモンは主に答えた)「善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(王上3・9)

 主なる神から賜物を戴ける。なんでも良いから一つ叶えようと言われた時に、ソロモン王は今朝の一言を願ったのだ。
 何でも叶うのに、今朝のこの一言を選んだソロモン。「ボクなら何を願うだろう」と思い巡らして、幼い日なら「大金持ちになりたい」と思うかな? 老いた日には「特にもう何も要らない」と思うかな? そんなこと考えていて、アッと思った。どちらも、信仰生活を脱線してるのかも。やっぱり、ソロモンはすごいな。


●2(火)
わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。  (エレ31・13)

 神への背きのゆえに起こったバビロン捕囚。しかし悔い改めの後に、神様が計画してくださっていることを、預言者エレミヤが伝えた。それは、散らされた民の帰還だ。悲しみの日々から、喜びの日々への帰還だ!
 ふと思った「苦しみの日々は、喜びの日々へとつながってゆくんだ。苦しみのまま終わらないんだ。それが主の御心、そして計画なのかも」と。そうであるならば、今日を耐えて進んでみよう。ここも神の計画の中と信じて。


●3(水)
心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。     (申4・29)

 偶像礼拝に対する禁止命令の文脈に、この御言葉はある。「一心に求めたら、必ず出会えるから。だから自分で作った偶像へ迷いだす必要はないんだよ」と告げられているのだ。
 なんだか「私の方こそ、あなたと出会いたいと熱望している神なんだからね」という神様からのラブコールのようにも聞こえてくる。ちょっと嬉しい。いや、それが天地創造の神からのラブコールなら、畏れ多くも有難い。そのお心に応えて歩かねば。それは、心を尽くして主を呼び求める祈りから始まる気がした。


●4(木)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」     (サム上3・10)

 少年サムエルが、夜中に主から呼びかけられた。そのとき起き上がって神に応答した最初の一言がこれなのだ。
 私たちも祈り始めたとき、神様と差し向かいになる。その時に先ずすべきことは、サムエルのこの応答なのかもしれない。それなのにボクは、どうしてもお願い事を早口にまくしたてそうになる。でもそれを横に置いて、言うべき言葉はココにある。「しもべは聞いています。主よ、どうぞあなたからお話しください」と。その時、そこに御心が伝えられるのだから。


●5(金)
目があっても、見えず、耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ敬いもせず、わたしの前におののきもしないのかと主は言われる。  (エレ5・21〜22)

 預言者エレミヤが、背きの民・ユダ王国の人々に向かって主の言葉を伝えた。
 ふと思った「私も聖書を通して御言葉を見ている。神の言葉として聞いてはいる。でも、周りの人から見られたら、まるで見もせず、聞きもしない人の姿として生きているのかも」と。エレミヤの言葉は、ボクへと向かっている。これは、ボクへの神様の嘆き悲しみだと思ったら、胸が苦しくなってきた。申し訳なさに・・・


●6(土)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。   (ゼカ2・15)

 捕囚の民に喜びの知らせが届く。それは、単なる捕囚からの解放ではなくて、神が再びあなたの只中に一緒に住まわれる、という知らせ。いやそれだけに留まらず、全ての隣人も神のもとに集う日が来る、という希望だった。
 いつも自分のことだけ考える私。救いのことだって・・・。でも神様は、全ての人の救いを見ておられる。ボクの隣人全ても、神の大切な一人一人だから。ああ、その神様の喜びを、私の喜びにして生きていたいな。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。   (出25・8)

 荒野を四十年も彷徨うことになった民。その人々に神様が、一緒に居たいと願って下さって、幕屋建設(礼拝のための聖なるテント)を、細かく教えて下さった。そのただ一つの御心は「彼らの中に住みたい」ということだった。
 神の御心は、天地創造の時から一事だったのだと、改めて思う。それは「あなたと居たい」ということ。さらにそれがインマヌエル(神は我々と共におられる)の主の降誕となったんだ。あれ、今、凄いことに気付いたのかもね。


●9(火)
なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。   (ヨブ24・1)

 神から「彼ほど無垢で正しい人はいない」とまで言われたヨブが、激しい試練の中で叫びを上げる。友人からも「自業自得じゃないのか」と責められ、悲しみを神に向けて叫ぶ「どうして神様をこんなに愛している私なのに、私は神様から愛されていない者のようだ」と。
 彼の一番の嘆きは、隣人の無理解じゃなかった。やっぱり神様との関係。そこに覆いが掛かっているように思われた時、いたたまれなくて叫んだのだ、「辛い」と。この一途さが、無垢で正しいということなのかも。


●10(水)
我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。   (出16・7)

 人々の心の中には不平の塊がある。それが、エジプト脱出後、彼らが自分中心の欲望から上げる言葉となった、「あれが無い、これも欲しい」と。彼らには、神への感謝がない。あんなに辛かった奴隷生活からの解放だったのに、もう神の救いの業を忘れて、「食い物をくれ」と叫ぶのだ。
 あれっ、これってボクの姿かも。今日も朝から「あれが無い、これも欲しい」って言っているから。「アレもコレも整えられました。感謝です」って祈ってから今日を始めなきゃね。


●11(木)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。    (イザ55・7)

 神は「わたしに聞き従えば、豊かさを楽しめる。わたしのもとに来るがよい、聞き従って魂に命を得るんだ」と、くるおしいほどに人々を求めて下さる。それも、背きの民に向かってだ。「背いて離れたけど、戻って来たら良いから、それだけで良いんだから」と。
 愛されることと、赦されることは、同じ地平にある。ただ神お一人、それを担って下さるんだ。その呼び掛けの中に、私も立っている。


●12(金)
さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。      (創8・16)

 大洪水の後、やっと水が引いた。その時に主がノアに言われた促しだ。それは「皆一緒に、大地を踏んで進め」という招きだった。
 全ての人と一緒に出発することが大事だと主は言われる。無垢で正しいノアだけじゃない。失敗もし、仲違いもあるし、すれ違いだってある欠けばかりの人間同士だけど、それでも一緒に歩むようにと言われている。気の合う人同士だけじゃないんだ。そして、それが新しい世界への出発だからと促されている。神様の願う世界を、垣間見た気がした。


●13(土)
神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。  (エズ8・21)
   
 ペルシャ王の布告によって、バビロン捕囚から都エルサレムに帰還する民。そのとき祭司エズラが祈ったのだ。それは、民の一人ひとりのために、そしてさらに持ち物のためにだった。
 エッ!「持ち物のために」祈ったの? と思った。全てのことのために祈るって、そこまですることなんだと驚いた。でも、そこまで神に委ねたら、すべてのことに満ち足れる平安がいただけるのだ。ああ、ボクの祈りも今日から変えよう、その平安が欲しいから。


●14(日)


主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。        (箴17・27)

 知恵の王ソロモンの箴言と言われ、親しまれて読まれて来た。ここには古今東西の知恵の言葉が詰まっている。その中でも繰り返し言われるのが「口を制すべし」だ。
 確かに、人との間に裂け目を作るのは、口から出た言葉だ。それは「私は口が悪い性質だから、大目に見て」なんて言っていられない。人を傷つけて平気で良いはずはないから。知恵においても、わきまえの無い人だと言われている。でも箴言にあるというのは、古今東西こんな人が多いんだろうな。あ、ボクのことか。


●16(火)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。    (ヨナ2・8)

 自分勝手をし通して窮地に陥ったヨナ。嵐の海に放り出され、大魚に飲まれて腹の中。三日三晩の後に、とうとう祈り出したのだ。そして、自分の愚かさの故の窮地だったのに、そんな者の祈りでさえ、神には届くのだ。
だから、もしかしたら人間の最も大きな罪は、祈らないことかも。だって、自己中心の罪にまみれた者の祈りさえ、神様は待っていて下さるのだから。その御心をさえ無視してしまうことが、祈らないことなのだから。


●17(水)
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。   (箴19・21)

 人間の想い計らいは挫折を含み、多くが思い煩いにもつながる。でも時を得て実現してゆくのは神のご計画なんだ。そうであるなら、私のすべき計画はこれで良い「主のご計画を悟る人になれるように。そしてそのご計画の成就に向けて、歩める人となるように」と。
 然り、私の人生の計画は、信仰から信仰に至り、ついには御国に入ること。その一本道を行こう。そこには平安があり、思い煩いはないから。それ、いいじゃない。


●18(木)
信じなければ、あなたがたは確かにされない。   (イザ7・9)

 ユダ王国に、隣国アラムとエフライムが同盟して攻めて来るとの知らせが届いた時、王も民もうろたえた。そのとき預言者イザヤが「落ち着いて、静かにしていなさい」と告げたのだ。それでも忠告を聞こうとしない王と民。目の前のことで、信じるより恐れることが上回ったからだ。そして告げられたのが今日の御言葉だ。
 信じるか、信じないか・・・それは、生きるか、滅びるかの分岐点なんだ。信じることは精神論どころの話じゃない。現実に直結している重大事なのだ。


●19(金)
わたしはお前の罪を取り去った。晴着を着せてもらいなさい。   (ゼカ3・4)

 ペルシャによるバビロン捕囚解放で、人々は都エルサレムへの帰還の希望を聞くのだ。そこで改めて預言者ゼカリヤを通して知ることは、「自分の罪のために報いを受けた。でも赦された。そこに回復が起こった」と。
 なんだか神様の声が優しく届くようだ「ゴメンねって言うあなたよ、もう良いよ。悔い改めたならもう良いから。同じ罪を犯さないでね。さあ、晴れ着に着替えて、ご飯をぎょうさん食べて、歩き出せ」とね。品行方正の義人よりも、悔いた罪人に、もっと優しい御父なんだ。


●20(土・春分の日)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)

 神に逆らう者たちの手によって、この詩人は苦しめられている。その手に陥り、倒れて、うずくまっている。でも詩人はその時、敵対して争うのじゃない。反論をまくしたてるのでもない。武器を取るのでもない。辛さを訴えたのは、神になのだ。それが義しい人の在り方。それが、主に寄りすがる信仰者の姿なのだ。
 真の正義は「自分の手にある」とせず、「すべて主の御手にある」と生きる。訴えは敵にではなく、主へと向ける。そこにこそ、恵みの御業も起こるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。      (民14・41)

 モーセに率いられて荒野を渡った民が、いよいよ約束の地を目の前にした。その時人々は、主に聞こうとせずに、自分で自分の能力を計って進撃の計画を立てた。その人々に、モーセが嘆きつつ忠言したのが、今朝の言葉だ。「立ち止まれ、まず主に聞くべきではないのか。従うべきではないのか」と。その声さえ無視した人々は、進撃先で全滅するのだ。
 「愚かさ」とは、「自力本願」かも。「賢明さ」とは、「主の言葉本願」。「御言葉本願」で進もう。そこに主の恵みの実りが、一杯あるから。


●23(火)
「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼の声に聞き従ってしまいました。」     (サム上15・24)

 イスラエル最初の王のサウルが、アマレク人との戦いに勝利した。しかしそこで彼は戦利品に心が揺れ、自分の思いで進み、主の思いに立つことをしなかった。それを主の僕サムエルにいさめられ、気付いて言った言葉がこれだ。
 「成功したな」と思った時に、落とし穴が開く。自分で成し遂げたと思うから。そこには神への感謝がなくなってしまうから。そこで人は罪を犯すんだ。あぶない、くわばら。


●24(水)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は、天を仰ぎ、大地を見渡して、心を震わせている。そこに主の御業を見つめることが出来ているからだ。それも、美しい御業をして見つめられるから。驚くべき力ある御業として見つめているから。
 ボクも、心震わせたい。大地を見て、大空を見て、野に咲く花を見て、飛び交う鳥を見て、だ。そこに神の慈しみを見詰めたいから。
あっ、一番大事なものを忘れていた、それは周りの自然にも増して、隣人を見てだ。この最後の一つが一番大事なんだ。だけどこの一つが、一番難しいのかも知れない。


●25(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」   (出14・16)

 エジプトから脱出するイスラエルの民が、その行く手を紅海に阻まれる。後ろには屈強なエジプト軍が追撃して来た。絶体絶命の時、モーセは民に「恐れることはない。主があなたたちのために戦われる」と告げたのだ。そしてそのモーセに主が命じられたのが、今日の御言葉だった。紅海が二つに割れて、人々は地面を歩いて渡れたのだ。
 人知を超えた救出の御業。私のゆく手を塞ぐ困難にも、主が戦って下さるのだ。だからボクは信じて御業を待つべし。静かに祈るべし。


●26(金)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)

 バビロン捕囚の後の「新たなエルサレム」は「主の都」となるのだと預言するゼカリヤ。その喜びの知らせの中心が、主ご自身が人々のただ中に臨在され、生活の中に住んでくださるということだった。
 私には、それが出来事となった日のことを知っている。それって、2000年前のクリスマスの日にイエス様が来られたことだよね。それも真の神が、真の人となって降誕されたことですよね。イエス様を見たら、御父が「あなたのただ中に住まう」と言われた御心が分かる。


●27(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」  (ヨシュ5・15)

 モーセの後継者として、神から選ばれたヨシュア。彼がエリコの町へ出陣する直前、主の軍勢の将軍と出会った。すぐに主の使いであると悟ったヨシュア。ひれ伏す彼に、主の使いが言った言葉がこれだ。彼がいた場所は、人間にとっては日常の中の何でもない場所だっただろう。でもそこで御業が起こったなら、それはもう「聖なる所」であるのだ。
 ボクの日常も、そこで神が御業をなさるということにおいて「聖なる所」なんだ。それを信じた瞬間、周りの景色が輝き出す気がした。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。    (詩84・11)

 詩人は全幅の信頼を、主なる神に置いている。それを言葉にし、また歌にしている。神殿に集う一時が、何にも勝る恵みだと歌っているのだ。
 それにしても、なんて美しい言葉だろう。なんて平安に満たされる言葉だろう。この「あなたの庭」というのは、ボクにとっては礼拝堂のことだ。そこに座って礼拝する時は、恵みを頂けるだけのスウィートな時間なんだ。その一日があれば、満たされて一週間の旅路へと出て行ける。さあ次の日曜日まで駆け抜けるぞ!


●30(火)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 主の言葉に従うバラム。その旅先で、剣を手にした主の使いに出会った。しかしバラムには御使いの姿が見えない。もしそのまま進めば命を落としていただろう。そのとき主がバラムの目を開かれ、御使いの姿を見せたのだ。
 不思議な出来事だなぁ、と思う。でもずっと彼の心には、自分の計画ではなく、主の意のままにという思いがあることが分かる。それさえあれば良いのかも。それが分かれば、良いのかも。それにしても不思議な出来事だなぁ。


●31(水)
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」    (創15・5)

 アブラハムは主から「子々孫々栄える」と祝福の約束をもらって旅立った。それなのに肝心の子供が、いつまで経っても生まれない。もはや祝福はないだろうと思う時、主の言葉が再び臨んだ。それが今日の言葉だ。人間の心は弱いから、周りの状況を見て、常識を見て、自分を見て、揺れに揺れる。「もう無理だろう」と諦める。しかし主の約束は堅いのだ。
だから私のすべき第一の事は、主の言葉を聞くことなのだ。その言葉こそ必ず成るから。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』

2021年02月28日

『日々の聖句』2021年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年2月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が、わたしの味方をしてくれましょう。   (ヨブ17・3)

 全てを失って、自分も重い皮膚病で身もだえるヨブに、友人たちが議論を仕掛ける。それは「ヨブの自業自得だ」と責め立てる言葉。そのとき主を仰いで言った言葉がこれだ。
彼の味方は地上にいない。そう思える日に、一人だけおられることに目を向けることが「信仰」かも。その一人を知ることが「恵み」なのかも。そこで神の救いに出合えるのだから。
それにしても、ボクならきっと「もうちょっと早い目に助けて欲しいな」って思うけどな。


●2(火)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。 (エレ29・13、14)

 この御言葉は、主が「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている・・・それは平和の計画・・・将来と希望を与えるもの」と言われた直後にある。さらに、「わたしを呼び、祈り求めるなら聞く」と言われている言葉と一緒にある。
 主よ、あなたこそが私を呼び求めていて下さる。「お前に出会いたい、顔を向けておくれ」と言われる。私はなんて幸せ者! 神様に特別に愛されているんだって、感じられたから。


●3(水)
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」     (創3・12)

 アダムが、神が禁止した園の実を食べた。それを神様から指摘されたとき、彼は真っ先に言い訳をしたのだ。それも、まるで神様が悪いかのように言ったのだ。
 罪は、隣人を切り捨て、神に背を向けさせる。その先は、苦しみの奈落の底なのに。
 どうして、「主よ、ごめんなさい」と真っ先に言えなかったのだろう・・・。いや、そんな風に他人事として見てはいられない。ボクも、その一言を忘れる一人だから。罪人だから。


●4(木)
(主よ)あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。   (イザ25・1)

 預言者イザヤは、民を虐げる新バビロン帝国が陥落することを告げる。しかもまだ陥落前に、その日を主によって知らされ、信じて、主を賛美している言葉がこれだ。今は苦難のど真ん中に立っているのに、だ。
 新約のヘブル書の御言葉が、ふと浮かんだ「信仰とは・・・見えない事実を確認することです」と。信仰の目は、今既にここにあるようにして、神の御業を見られるんだ。たとえ試練のただ中でも、そこに平安があるのですね。


●5(金)
主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない。敵に打ち破られてはならない。        (民14・42)

 独断で敵に闘いを挑もうとする人々。しかしモーセは「主の命令は、行くなと言っている。その御心に背くな。自分勝手に進もうとするな。御心でない所は、主が共に居られない場所だから。そこでは敗走が待っているだけだから」と告げたのだ。
 人間って、どうして「行くな」と言われているのに進み、「行け」と言われているのにたじろぐのだろう。それも特に神の言葉に逆らってしまう・・・。旧約聖書には正に、私の姿がある。


●6(土)
わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。   (詩121・2)

 この詩人は山々を見上げて「わたしの助けはどこから来るのか」と不安げにつぶやく。しかしその直後なのだ。この言葉を、まるで確信に満ちて告げたのだ。それは「必ず来る」という確信と「天地創造の神の御手による助けが」という信頼に満ちている。
 彼の目は、自分の不安を見ることから、主を見上げることへと転回させられたんだ。既にそこに、主の働きが届いている。その恵みの中で顔を上げられたのだから。そこに、祈りのようなこの詩が始まっていくんだなぁ。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。  (王上11・9、10)

 ソロモン王は、主だけを礼拝していたはずなのに、どうして背信したのか。この箇所の直前に、七百人の王妃と三百人の側室が持ち込んだ「他の神々」も礼拝し出したとあった。正にそこだ。主を拝んでいるけど、コッチの神も拝む。そんな二股信仰こそ、神への背きなのだ。
 主日には主を拝むけど、平日は自分流の遣り方を奉っている。そんなボクの姿が重なって見える気がした。他の神々は、ボクの生活にもソロリと入り込んで来る。くわばら!


●9(火)
災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが、わたしによるのではない。   (イザ30・1)

 私も、何かにつけて計画を立てて歩み出す。計画無しに進むことこそ、無謀なことで、失敗が待っていると思うからだ。でも今朝、主はたった一つの注意を促される。それは「あなたの計画は、主である私の御心を問うた後に立てたのか?」と。
 祈ってから、始めなきゃ。計画を立てた後から「この計画をお守りください」って祈っていては、本末転倒なんだ。あれ、ボクはいつもそうやってしまっていたかも。軌道修正しなきゃ。


●10(水)
わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか   (ヨシュ5・14)

 イスラエルの民を率いて進むヨシュア。その彼の行く手に、主の使いが現れた。それを悟ったヨシュアは、すぐに地にひれ伏して、拝して、言った言葉がこれだ。
 私は、「ボクは主のしもべ、いつでもお従いします」と言っておきながら、私の方が神様に「アレをしてください、コレも叶えてくれ」と言いつけている。ヒヤリとした。完全に立場が逆だと気付いたから。そして思った「主よ、私にお言いつけくださいと、ボクも言える信仰者になりたい」と。それが私の立ち位置だから。


●11(木・祝日)
わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。   (申30・11)

 神様がイスラエルの民に、幸いに生きるための秘訣を語り聞かせる。その語りは、戒めという文字となった御言葉なのだ。それも、実行するのに難し過ぎることが語られているのじゃない。私たちの歩幅に合わせて、「あなたを守る神のことを思って生きるんだよ。隣人と仲良く生きるんだよ」ということだから。
いつもボクの傍にいようとして下さるのは神様の方なんだ。愛する子に寄り添われる天の父なんだ。反抗期は、もう卒業しなきゃ。


●12(金)
わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。    (レビ23・10)

「土地に入って穀物を収穫したならば」と、サラリと当然収穫を得るように言われている。私たちも一生懸命に働いたら収益は当然ついて来るものだと思っている。でもそれは勘違い。だって、収穫そのものは、本来神様からの贈り物なのだから。それを忘れてしまう。すべてが戴き物だってことを。
だから私にとって「当然」と言えることは、「収穫の贈り物を感謝する」ということ。それが、初穂を献げる事、つまり献金なのですね。


●13(土)
そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。    (代下20・17)

 ユダ王国は、いつも隣国から戦いを挑まれて、人々は悩みの中にあった。その時ヨシャファト王は、神殿で主の言葉に耳を傾け続けたのだ。その彼に臨んだ言葉がコレだ。それは「行け、戦え、勝利を与えるから」ということを遥かに越えた言葉だった。神様ご自身が、人間のために代わって戦うと言うのだから。
 これが、どこまでも我が子(人々)を愛する天の真の父の言葉なんだ。そしてその大きな御腕の中に、今日ボクも包まれている。

●14(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。    (出15・24)

 人々は、葦の海の奇跡によってエジプト軍から命からがら逃れられた。その恵みを味わったのに、たった三日進んだだけで不平を言ったのだ。「感謝!」と言った舌の根の乾かぬ内に、心の底にあったものが飛び出したから。それは、思い通りでないと我慢できなくなる不満、自己中心、神を神とも思わぬ心・・・。
 「感謝」って何なのだろうと思う。単に「有難いと言うこと」だけなのか。いや、「心を神様に据える人に変われる好機」かも。それなのにその幸いを捨てるのは、自分なのかも。


●16(火)
助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。   (詩22・6)

 この詩人は苦難の中で悶えている。そこで主に祈っても、聞いてくださらないようにしか思えなくて・・・。しかしそこで突然のように言ったのだ、それが今朝の御言葉だった。
 私も詩人のように振り返ろう。そして人生のあらゆるところで神様が支えていて下さったことを思い起そう。たとえ苦難のただ中では分からなくても、御手は確かに私の下を支えていて下さったことを。それを思い起こせたら、一歩進めるから。この詩人のように。


●17(水)
私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。   (創13・8)

 アブラハムが移った土地でトラブルが起こった。そこは、甥のロト一族と一緒に羊と牛を飼うには狭すぎたからだ。その時、立場上上位のアブラハムの方が身を引いたのだ。ここは相手に身を引かせるのが常識だと思うのに。でも彼はそうやって、争いを避けたのだ。
 私なら自分の正当性を主張したくて、身を引いたりしたくなくて、そこで争ってしまうのに。争った後で、いつも後悔するのに。その苦い水を飲まないですむ方法は一つ。アブラハムの生き方なんだ。彼って、やっぱりスゴイな。


●18(木)
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」   (創32・27)

 ヤコブに神の使いが現れ、格闘が始まった。それが夜明けまで続いた時、その人は「去らせてくれ」と言うのに、必死に食らいついて離れないヤコブ。相手が神の使いと分かっていたのだろうか・・・そこで彼が言った言葉がこれだ。
 なぜヤコブはしがみ付いて離れなかったのかな? 今朝の一言で分かるかも。それは単に負けん気が強かったからじゃなく、祝福されたかったから。ボクは祝福を賜ることを、抽象的にしか考えていないかも。ボクの信仰で足りないのは、祝福への執着だ。この必死さだ。


●19(金)
命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。  (創45・5)

 ヤコブの十二人の子供の中で、兄たちに妬まれたヨセフ。殺されかけたけどエジプトに奴隷となって引かれて行く。そこでファラオに次ぐ地位となったのだ。飢饉に瀕した兄たちと再会したヨセフが、恨み言も一切無く言った言葉がこれだ。
 ボクならきっと理不尽な兄達を責めただろう。でも彼は、全てのことを神の御心の内だったと告げたのだ。それは彼が神と共に生きたから。危機の時もただ神を頼った人の「染みついた信仰」なんだ。


●20(土)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え上がる炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。    (ダニ 3・17)

 バビロン捕囚となった人々の内、ダニエルら三人が王に仕えさせられる。でも側近の妬みによって策略にかかり、燃え盛る炉の中に放り込まれる刑を受けたのだ。投げ込まれる直前に彼らは、「神は必ず救う」と言った。
 私の大好きな箇所。痛快な出来事が書かれているから。でも、信仰の書なんだから、「私はどう生きているのか」を映す鏡として読まなきゃ。“炉”はボクの目の前にもあるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
わたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。   (士6・10)

 主の民が略奪されて苦しみに喘いだ。そこに預言者が遣わされて、「わたし(神)は告げておいた。だが」と告げたのだ。何を聞き従わなかったのかなと聖書を見たら、「アモリ人の神を畏れ敬うな」ということだった。
 アッと思った。神様を拝んでいないのではない。彼らは、「あれもこれも」と拝んだのだ。それが神の厭うことだったのに。主以外を拝む誘惑は、日本に住む私の身近にもある。いや自分の経験を神として最優先にしているボクの姿がある。元凶は我が内に潜んでいるのだ。


●23(火・祝日)
主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。    (申2・7)

 モーセが荒野の四十年の旅路を振り返りつつ、大事なことを思い出すのだ。それは「主が共に居て下さった」ことと「そのゆえに不足することは一つもなかった」ということだ。水も食もない荒野で、民は満たされていたのだ。
 私の人生の中でも「ああ、荒野を行く日々のようだ」と思える時があって、きっとまたこれからも「私の荒野」はあるだろう。でもそこで私も思い起そう「ここも主が共におられる場所だ」と。そうしたら、ホッとできて、一歩を踏み出せるから。主と共に歩む一歩を。


●24(水)
わたしには重すぎます。   (民11・14)

 荒野を旅する民が、四六時中モーセに激しい不満を言い続ける。「エジプトにいた時は、アレもコレも食べられたのに。お前が我々を連れ出したのは、荒野で死なせるためか」と。酷過ぎる不平を聞き続けた彼が、ついに「この民を負うのは重すぎます」と言ったのだ。
 御心に従って歩いたら、そこには自分にとってバラ色の人生が拓かれるというのじゃない。そこに約束されているのは、神の計画が成就するということ。そしてその成就こそ、最善の結果なんだ。「でも、弱音って出るんだよな」って思う。それでも、御旨は進むんだけど。


●25(木)
災いの日に、あなたこそわが避け所です。 (エレ17・17)

 エレミヤは、迫害する者がやってくる日のことを予感している。神様からの「あなたたちの罪のゆえに国は亡びる」との言葉を告げる故、反感を一身に買うからだ。彼は、その暗雲をもう見ている。でもそこで、悩み恐れを覚えても、そこに捕らわれてしまわない。それは、主なる神から目を離さないから。それが「あなたこそわが避け所」という信頼となったんだ。
 暗雲は、誰にでも来る。でもそこにだけ目を向けるな! 私たちを捉えているのは、主の守りの御手であることをこそ見つめていよう。安寧がそこにあるから。


●26(金)
恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。   (創21・17)

 アブラハムと女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれた。疎ましく思った妻サラが、親子を追い出す。荒野で途方に暮れたハガルに、主の使いが言葉をかけたのが、この御言葉だ。
 アブラハム→イサクとつながっていく神の計画の系図の外にあるイシュマエル。でもその人にも心を留められた神様。それは、アブラハムに関わる人だったからかも。だったら、もしかしたらキリスト者に関わる人の全てに、神の憐れみが届くのかも。あ、ボクは送り込まれているってことかも。友人に神の恵みが届くため。


●27(土)
お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。  (イザ1・19)

 南ユダ王国に、神の言葉が臨んだ。悪い行いを取り除いて神に従うなら恵みがある、でも頑なに背くなら滅びがある、と。
 二つの道の岐路で、神様は人間に選択権をゆだねてくださるんだ。人間は、神様のロボットのように操縦されるんじゃない。むしろ自分の意志によって行く道を選び取れるんだ。
「ああ、だからこそ祈らなきゃいけない」と思った。「主よ、私を導いてください。私の悪い心が、誤った選択を選ばないように」と。祈ることが、自分を救うのですね。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:30| 『日々の聖句』

2021年01月31日

『日々の聖句』2021年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年1月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)2021年元日

元旦礼拝説教

        辻川篤牧師




●2(土)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。   (エレ26・2)

 新しい一年が始まった。今年は旧約聖書の御言葉を通して一日一日を整えられ、導かれたいと願っている。その冒頭の日に、神がエレミヤに「私の言葉をひと言も減らさず民に伝えよ」と語った言葉が届いた。
人に受け取ってもらいやすいように、自分で薄めちゃいけないんだ。厳しい神の言葉でも、そのまま伝えたら、その人が立ち帰るかもしれないから。人間の業ではなく、神の業が起こるから。神様からの赦しと、祝福が届けられるから。今年も神の言葉は出来事を起こす!


●3(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。   (民14・43)

 奴隷の地エジプトから脱出できたのに、その喜びが冷えないうちに、泣き言と文句ばかりの人々。どこまで行っても、神との関係は実らず、自分中心の注文だけ。そしてモーセにも背を向けて勝手な行動をしようとした。その行動に、今朝の言葉が告げられたのだ。
 自分への恵みとか奇跡だけを要求する人間の姿。そこでは、神との関係が置いてきぼりになってしまう。つまりその場に、神が居られない。人間の側が、その状況を作り出す。ああ、その道には入り込みたくない。


●5(火)
主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。   (申8・7)

 荒野の四十年の苦しみを経た民に、主がモーセを通して伝えたのがこの言葉だ。試練の日々を通らせたのは、良い土地に導き入れるためだったのだよ、と。それは、そこで満ち足りた時に「この幸いに導かれたのは、苦難の日々を含めて、全て主のお陰だった」と心から感謝するためだったのだよ、と。
 私の試練も御手の内にある。それを知ることは、後に恵みの日が来た時、「全て神様のお陰」と、心から喜べるため。憶えよ我が心よ「主に導かれて私はいる。どんな時も」と。


●6(水)公現日
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。   (創15・13)

 アブラム(後にアブラハム)を深い眠りに落とした神は、彼から何代もあとに起こる出エジプトの出来事を予告された。それは彼が生きている間にさえ起こらない遠い遠い未来にある苦難と、祝福の約束だ。
 神様の計画って、どこまでも先を見据えておられる。「未来も主の手の中」と思ったら、今日を委ねる勇気が満ち溢れて来た。


●7(木)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。     (箴3・12)

 「懲らしめ」と聞いて、「なんだか嫌だなぁ」と思ったけど、よく読んだら「かわいい息子」って言ってくれている。「目の中に入れても痛くない息子よ」と呼んでもらえている。その父が、懲らしめの向こうにある「恵み」を、見ておられないはずがない。
 父なる神は、自分勝手ばかりするボクなのに「かわいい息子、愛する子よ」と言って、その向こうの「恵み」に連れて行ってくれようとしてくださるんだ。「懲らしめ」という道を一緒に辿ってくださりながら、ね。


●8(金)
一体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか、しかも、神でないものと。   (エレ2・11)

 「何のこと?」と思って聖書を開いたら、主がエレミヤに「エルサレムに行って人々に語れ」と預かった言葉だった。それは二重の罪の宣告で、「お前たちは真の神である私を捨てた罪がある。同時に神でないものを拝んだ罪がある」と。神様が、「何故そんなことをするのか」と激しくいら立っておられる。
 私も神様に背を向けて自己中心でいる時、二重に神様を嘆かせているんだ。一つではない。私のせいで、神様が泣いておられる・・・。


●9(土)
まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザ30・18)

 バビロンの脅威に怯える民に、イザヤが「主に信頼することに力がある」と訴えかける。「そうすれば救いの恵みがあるから。それを与えようとして、主ご自身が待っておられるのだから」と。その文脈の中に、この御言葉もあった。
 真に、主を待ち望む人に恵みが届く。でも、その「静かに待ち望むこと」こそが、本当は難しいのかもと思う。彼らもボクも、自分を頼ってしまうから。でも今日、ジッと恵みを思おう。いやそれを与えて下さるお方を見詰めて過ごしたい。今日だけでも、今日こそは。


●10(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●11(月・成人の日)
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣と全ての家畜を御心に留めた。   (創8・1)

 大地を覆う洪水の中、狭い箱舟に全ての生き物が乗っていた。舟の外には死があった。しかし、大きな生き物も小さな物も、神様が心に掛けて下さっていたから平和を留めていたのだ。全てが神の創られた命だったから。
私たちも、神に創られた生命。本来神の御心の中に留まれるはずなのに・・・。その外に迷い出したら、死の世界なのに・・・。迷い出して、舟の外に落ちるのは私の背きのゆえ。今日、神様の舟の中に留まろう。全ての生き物と、全ての隣人との間に、平和があるその場所に。


●12(火)
わたしの王、わたしの神よ。助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。    (詩5・3)

 叫びたい現実を抱えている詩人。辛い事があるのだろう。その胸の内を全部さらけ出して、主なる神にぶつけているんだ。それが、祈りとなったのだ。
 胸の内を聞いてくれる方を得ている詩人。その一人を得たら、人は決して孤独にならない。どんなに苦難の中にあっても、八方塞にならないから。ボクも「あなたに向かって祈ります」と言える「あなた」を見詰めよう。「あなたに」と言えたら、もうそこでホッとできるから。


●13(水)
神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。   (ヨブ17・9)

 義しい人が試練を受けて財産も健康も失った。そんなヨブを友人たちが「自業自得だ」と責め立てる。それに対してヨブが、なお神に目を上げて「どうかあなたが私の味方になって下さい」と祈りつつ、まるで自分を鼓舞させるように今朝の言葉を告げたのだ。「神に従う我として、聴従の道を守れ。勇気を持て」と。
 試練は、主への信頼を弱らせる。それでもなお拠り所は、主の御傍なんだ。弱っていても良い、次を踏み出す勇気も神様から賜わろう。それこそが必要な一事なのだから。


●14(木)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。     (申13・1)

 神様からいただいた掟を、モーセが人々に再び告げ直す。それは、道を外れてしまう事への警告でもあった。「神が命じる言葉に一字一句加えず、一字一句減らすべからず」、と。
 私も御言葉に対して、そんな風に道を外れる時がある「この御言葉は無理だから従えなくて良いよね」と減らし「あの人が謝ったら赦そう」と条件を加える。今朝の警告は、図星の指摘。それに気付けたから、王道に戻れる「あなたの御言葉を、そのままに生きたい」と。


●15(金)
大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。    (エレ4・27)

 民の背きのゆえに国が滅びへと向かうことを、エレミヤが預言する。当然の報いを得るのだと告げられたのだ。
 でもよく読むと、預言の言葉のトーンが、裁きにあるんじゃないようで・・・。神様が告げたいのは「わたしは滅ぼし尽くしはしない。あなたを生かしたいから。悔い改めた時には立ち上がるんだよ」と言っておられるんだ。厳しくて義なる天の父であられるけれど、「あなたを愛しているから」っておっしゃっておられる気がした。怒られているのに、心は和んだ。


●16(土)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。   (エレ2・19)

 イスラエルの民の背信によって亡国に至る預言が、エレミヤによって告げられた。
 旧約聖書は、人々がどんなに神様に愛されたのか、それにもかかわらず人は何度神を畏れず、主を捨てて来たのかが赤裸々に語られる。読むたびに、そこに自分の姿が重なってドキッとする。だからそこに起こる神の嘆きも、背信の子に涙する親の言葉のように赤裸々に聞こえる。私に生々しく、愛されているってことが激しく突き刺さる。


●17(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)




●18(月)
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。   (エゼ18・23)


 一読して、エッと不満に思った。悪人に裁きと罰が下されるのが旧約の律法のはず。神様だけが、隠れた悪人の業をも見逃さないで裁いて下さるお方のはず。この方によってだけ、この世の正義は貫かれるはずなのに。
 でも、アレッと思った。この「悪人」のところにボクの「篤」って名前を入れてみたら、たちまちニュアンスが変わって聞こえて来たから。何だか申し訳なくて、有難く聞こえて来たから。ボクってゲンキンな迷子の一匹の羊だった。


●19(火)
あなたも心して、ほめたたえよ。   (ヨブ36・24)

 神をほめたたえるのに、どうして「心して」と言うのだろう・・・。聖書を開いて、改めて考えさせられた。これはヨブに対して友人が言った言葉だったからだ。財産と家族をすべて失い、自分も腫れ物だらけの瀕死の体で苦しんでいるのに、友人は「お前の信仰の不十分さのゆえの苦しみだ」と責めているのだ。
 一見、正論。でも、人の傷口に塩を塗る言葉でしかない。このとき本当はヨブに、何と言ってあげれば良かったのだろうか。考えさせられてしまう。私なら、何と言ってあげられただろう。身近にある問いのように思えた。


●20(水)
呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。   (ヨブ13・22)

 昨日に続けてヨブ記!
 昨日も読んだような理不尽な友人の責めに、今度はヨブが答える。それも、その思いは神へと向けた訴えとなったんだ。責める相手への言葉ではなく、神に祈りの顔を向けたんだ。
その姿は義しい歩み方。でもその言葉に、傲慢な思いも潜む。「神の目にも、私に罪はない」と思う傲慢が。「何の落ち度もないことを私は証明できます」と言いたい傲慢が。その時、義人ヨブでも己の姿を見失うのかも。


●21(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。      (エレ9・23)

 「むしろ」と言われているのは、「知恵、力、富を持つ人が、それらを誇ることよりも」、ということ。でもなぜ「主を知ることの方が良いのかな」と思って、続けて聖書を見たら「主は慈しみと正義と恵みの業を行うことを喜ぶ方だから」と分かった。
「それりゃ、ボクの貧弱な知恵や力を誇るより、そっちの方が良いよ」とうそぶきつつ、ウっと思った。分かっているつもりなのに、実際は自分を誇りたい自分がいるって気付いているから。なんだか信仰二面相の自分が・・・。


●22(金)
神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と。   (詩14・1)

 「なんだ、当たり前のこと言っているよ」と思って、聖書の続きを読んだら、神などないと言う人々が忌むべき行いをして、善行もしないことを嘆く言葉があった。
 私も自分勝手な生活をしている時、「神様が今、傍におられる」ということを忘れている。だから御心から外れてしまうんだ。ふと「神を知らぬ」というのは、「神との交わりを失っている」ということだと想い出した。旧約には私の姿がそのままある。「主よ、今という刹那も一緒に居たい」と、瞬間ごとを歩みたい。


●23(土)
主よ、もう十分です。私の命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。   (王上19・4)

 預言者エリヤが、王女イゼベルに命を狙われる。それは王女のお気に入りのバアルの神官を打ち負かしたから。神に聴従して、かえって窮地に立ったエリヤ。だから「もう無理、もうイヤだ」とふてくされている。
神様に従うなら、バラ色人生が戴けるというのじゃない。でもそこにあるのは、神が計画される破格の出来事だ。従う人生というのは、その結果まで従い抜くという事。預言者ってキビシー、いやキリスト者も同じかもね。


●24(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
(創12・8)

 アブラム(後のアブラハム)は、神様からの召命を受けて、行く先も分からず主の言葉に従って旅立った。その不安な旅の途中に、主が彼を励ますようにして現れてくださる。その時、彼も即座に礼拝の場所を整えたのだ。
 私の人生も、不安な旅路であろうと、そこに主が共におられる。その場で私のすべきことは、まず主を拝むこと、礼拝第一なんだよね。

●26(火)
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。   (サム上2・2)

 不妊の女ハンナが恵みを得て、サムエルが生まれた。そのとき彼女が、主を賛美して祈ったのがこれだ。のちにマリアの賛歌に並んで、信仰者に慕われる賛歌となった。
 その喜びは、単に願いが叶えられたということじゃない。ご利益を得たゆえじゃない。貧しいものを富ませ、弱い者を塵の中から立ち上がらせて下さる神だから。その「主」と「私」との関係が実感できた喜びなんだ。守って下さる確かな一人を、実感できた喜びなんだ。


●27(水)
わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。  (エレ15・21)

 主の言葉に従って歩もうとする時、この世でぶつかり苦労する。エレミヤもそうだった。神様の言葉を預かって語っても、かえって人々から反感を買うことになる。その時、神に従う者を救い出し、守る方がおられる。それは、御言葉の語り手ご自身の神様なんだ。
そしてそこにこそ、神の御心が成ってゆく。ただじっと待っていたら、御心が成るというわけじゃない。御言葉を聞いたら、前を導く主を信じて進め。同時に、背後に守り手の主が居られると信じて進め。恐れるな、私!


●28(木)
神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。       (コヘ3・11)

 この直前に神は、「永遠を思う心を人に与えられた」と告げられている。今朝は、それでも人間の思う永遠より、はるか前から神は御業をなさり、はるか向こうまで御業を成し続けて下さるのだと語られているんだ。
 ああ、人間の成すこと思うことって、どこまでも有限なんだなぁ。でも、それでもいいとボクは思う。だって、どこまで行ってもボクは神様の御手の中に入っているってことだから。
 今日の一日も心配ない。そうさ、心配いらないんだ、神様が見極めていて下さるから。


●29(金)
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。     (サム上2・1)

 願っても祈り続けても、子供が与えられなかったハンナ。ついにサムエルが与えられた時、主に向かって賛美し始めた。その冒頭の言葉がこれだ。はじけるような喜びがここにある。
でもハンナは、単に「嬉しい、万歳」と言っているんじゃなさそうだ。その「喜びの源泉」を見つけたことが嬉しいと歌っているのかも知れない。その源泉は「主にあって」ということ。
喜ばしいことは、主からの贈り物。このお方から離れないでいよう。その泉から恵みは溢れ出すんだから。見失うまいぞ!


●30(土)
ロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。」    (創19・17)

 悪に染まった町ソドム。そこから逃れさせようと、主の使いがロトの一家を導き出す。でもなぜなのかためらうロト。住み慣れた場所だから? 一家での移動は大変だから? しかしそこに留まれば、町もろとも滅びしかない。その真剣さを知るのは、むしろ主ご自身。だからせき立てて言われたのだ「命がけで逃れよ、さあ早く」と。
 ボクにも、主は声を掛けられる「あなたの悪を離れよ、命がけで逃れよ」と。神様、ハラハラさせて御免なさい。あなたの促しに従います。


●31(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:39| 『日々の聖句』

2020年12月31日

『日々の聖句』2020年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年12月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。    (マコ3・9)

 湖畔におられたイエス様の所に、人々が怒涛のように押し寄せて来た。病の人や苦しみの人が奇跡を求めて、イエス様に触れようと押しかけて来たからだ。
 それを御覧になったイエス様は、自分勝手を叱るのでもなく呆れるのでもなく、一歩だけ退かれる。全員に癒しが届く、ご自分が押しつぶされない距離をとられたのだ。どこまでも「あなたのために私はいるよ」と歩まれた主。その御足の跡をボクも歩んでいたい。


●2(水)
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。 (使11・21)

 ステファノの殉教事件で迫害の嵐が起こり、キリスト者たちは散り散りに。アンティオキアまで逃げた人々が、困難にもかかわらず福音を告げ知らせたのだ。主がその人々を助けて、大きな群れが生まれてゆくことになる。
 主が助けられたのは、単に弱り切った人というのじゃない。「しかし、にもかかわらず」と十字架の福音を証しした人たちを、だ。
私は今まで勘違いして来たのかも。弱いから助けがあるのじゃい。弱くても信仰に生きる人に、だ。主こそ誇りと生きる者に、だ。


●3(木)
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。         (ヤコ3・10)

 十二節分もかけて徹底的に、「舌は死を持つ毒に満ちている」と語られる。その中の一節だ。執拗に告げられるのは、口から出る言葉で、人はどうしても失敗をしてしまうから。そしてその結果は、激しい悪を生むからだ。
 口から出るものは、心から生まれる。言葉に、心の奥が透けて見えているということなんだ。ドキッとした、「私は口が悪いんです」って暢気に言ってはいられない。酷い悪を作り出す人間だと、見られているのだから。


●4(金)
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。    (ヨハ21・12)

 単なる朝食場面かなと思ったが、ヨハネ福音書の最終章であることに気付いて、ハッとした。ご復活の場面だと思ったからだ。
 甦らされたイエス様は、これまでと同じように朝食を一緒にされる。集まって、分け合って、日毎の糧を口にされる。それは、日常の中に復活の喜びが介入して来ると肌身で分かるため。「今ここにも福音が満ちている」と分かるため。ありがたい。私の今朝の食卓も、復活のイエス様が一緒だったんだ。明日は「おはようございます」と、挨拶の祈りをしようかな。


●5(土)
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。    (1ペト2・12)

 「キリスト者って、どんな人だろう? 愛の人なのか? 偽善者なのか? この世の人と変わらないのか?・・・」と、人々は私を見ているのだ。
 私を通して、福音が届けられる。緊張して生きねば。正に祈りつつしか過ごせない。信仰者の生活は、ピリッとしているべきなんだ。


●6(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●7(月)
それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。   (マタ16・15) 

 主は全土を巡られたけれど、ご自分への信仰を見つけられなかった。弟子たちに「人々は私を何と言ってるのか」と問われる。「預言者の一人だと言ってます」と答える弟子たち。そこで再び問い直された言葉がこれだ「人々のことはもう良い。それでは、あなたはどうなのか。私への信仰はあるのか」と。
 「私の主よ、私の神よ、あなたは救い主です」と答えたい。四六時中そう告白し続けて過ごしたい。覚めている時も眠っている時さえ。その信仰を私にも与え給え。


●8(火)
あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。(使5・4)

 「え、神を欺いたのだなんて、恐い。どういうこと?」と聖書を開いたら、アナニアとサフィラ夫妻が、献金を真心から献げるのではなく、偽りがあったからだ。それをペトロが、「サタンに心奪われた」と告げたのだ。
 奉仕も、献げることも、礼拝することさえも真実の心からしないならばサタンの支配下なのだ。献金の額で人の目が気になる、奉仕の業で人の評判が気になる、そこには神への欺きが潜んでいる。
 これは、最もボクの近くにある心。「恐いことを思っているのだ」と気付くことが大事だ。


●9(水)
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。 (マコ2・22)

 救い主を信じる信仰は、この世の生き方をする生活の中には入れられないんだ。信仰も、生活も、どちらも破れてひどいことになるから、とイエス様が言われた。
 日常生活は今のまま変えず、信仰生活もしようと思っていたら双倒れになる。この世を捨てなきゃ。だから古来から隠遁者生活をする修道会も生まれて来たのかも。でも修道院に入らないボクは、どう生きれば良いの? もしかしたら「これが普通だ、常識だ」と言いそうになる時に、「ちょっと待て、イエス様ならどうされた?」とリセットして生きることかも。


●10(木)
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。  (1ヨハ4・20)

 「偽り者です」とは、誰に向かって偽りを言っているのかと考えて、すぐに分かった。瞬間、ヒヤッとした。それは、神に対して偽っているからだ。当然その人を見ているのは神なのだ。
 神が「お前は私を愛しているのか」と御覧になる時、私の告白を聞かれるというよりも、ハッキリと私の本音が現れる場を知っておられる。それは、隣人との生活の現場だ。神を愛するように、実際に隣人を愛さなければ。確かこれって、あの「黄金律」だったよね。やっぱり二つは、一つなんだな。


●11(金)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。    (マコ14・6)

 最後の晩餐の時、一人の女が高価な香油の瓶を割ってイエス様に注ぎ切ってしまった。その女に対して、人々が「もっと律法に適った方法があるのに、貧しい人に施すという方法が」と呟いた時、主が言われた言葉がこれだ。
 教会の奉仕も、社会奉仕も、「これが通例として良いやり方だ」という思いが、「ただ主の喜びのために」という心を覆ってしまう時がある。改めて一心不乱に「主の喜ばれることは何?」ということに、心を据え直そう。教会でも、さらに社会奉仕に関わる時でさえも。


●12(土)
信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。      (ガラ3・7)

 律法に従って善行を積み重ねた人が救われると考えていた人々に、パウロは「行いじゃないよ」と告げた。イエス様が救って下さると信じる者が、恵みによって救われるのだ、と。
 人は、努力して修行して悟りに至る道が王道だと考えやすい。だから神に喜ばれるのも、品行方正で善行を積み重ねることが大事だと。でも、違うんだ。「自分が望むことが何もできない、イエス様に救っていただくしかない」と信じる者が、神に喜ばれる人なんだ。まるで乳を求める赤ちゃんのように、なんだ。


●13(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師
   



●14(月)
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。         (ヨハ1・29)

 洗礼者ヨハネが、イエス様を見つけて叫んだのが、今朝の言葉だ。イエス様が「誰であるのか」が、この一言で全て告げられている。世界中の人々の罪を取り除くことが出来る救い主であられる方、神であられる方、それなのにご自分が贖いの供え物として屠られる小羊となられる方だ、と。
 それがお前に関わるお方なんだというようにして、「見よ」と告げられていたのだ。
 あ、「世の」というところを「篤の」と入れ替えたら、ドキッとした。2000年前の言葉が、ボクの心に飛び込んで、刺さったから。


●15(火)
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。    (コロ2・3)

 哲学による知恵を得るのが正しく生きるために最重要なことだと、議論の花を咲かせていた人々。しかし最も大事な真理は、キリストが死なれて三日目に甦らされたことだと御言葉は告げる。そこに、人間には捉えようもない神の愛の真理が、顕になってるのだからと。
 本当に大切なものは、人間が考え出したり、生み出せるものじゃないのですね。それは、上から来る。それを受け取る方法は、一つだけ。信じるという方法。それって大人より幼な子が得意なこと。幼な子のようになりたいな。


●16(水)
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。     (ヨハ3・5)

 善行を積んで律法に添って生きていた優等生ニコデモ。でも、天国に入るためには何か足りないように気付いていて、イエス様の所にコッソリ訪ねた。そこで聞いた言葉がこれだ。「信じて洗礼を受けること、それのみが天国への門なんだよ」と。
 天国には、努力したら入れるというんじゃない。招かれて恵みとして入るんだ。つまり神からのプレゼント。ああ、全ての人にこの洗礼という贈り物を受け取って欲しい。一緒に天国に行きたいから。それが牧師人生唯一の願い。


●17(木)
裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。       (ヤコ5・9)

 幼い頃、「最後の審判の日が来る。そのとき裁きもあるぞ」と聞いて来て、ちょっと恐かった。でも、「裁きを受けないようにするためには」って、御言葉は教えてくれる。「あの頃これも一緒に、ちゃんと教えて欲しかったな」と不満に思って、アッと小さく声が出た。今、不平を言ってしまってる、と気付いたから。
 「不平を言わぬこと」って難しい。でも今朝、「逃げちゃダメ、そこから逃げちゃダメ」って御言葉が叫んでいるように聞こえた。


●18(金)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。    (エフェ6・16)

 悪に対抗して立たてと告げられる中で、神の武具が与えられると言われる。その武具の一つが「信仰」。これは防御のための盾。イエス様だけを見詰めて、信じて歩む。それが悪の誘いを打ち払うことになるのだ、と。
 誘惑を打ち払うのは、自分に強い意志が無ければと思ってた。でも、私の意志なんて弱いとも分かっていた。だから、だ。親にすがる子供のように歩めばいい。すがりつく手を離さなきゃいいんだ。その手が「信仰」なのだから。


●19(土)
御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。    (エフェ1・17〜18)

 神様を初めて知った日も、より深く知ってゆくことも、「自分の努力」じゃないんだ。知恵と天からの知らせを聞ける霊を送って下さるという、「天の父の贈り物」によってなのだ。
 じゃあボクは、それを受け取るために心を広く開けて「主よ、父よ」と呼べばいい。何だか最近、幼な子になる勧めばかり思い巡らせているなぁ。もしかしたら御父との関係の赤ちゃん返りって、ふふっ、かなり良い事なのかもね。


●20(日)

クリスマス礼拝説教

         辻川篤牧師



●21(月)
本当に、この人は神の子だった。      (マコ15・39)

 クリスマス礼拝を過ごした次の朝に聞いた御言葉として、心に染み込んで来た。これは、十字架で死なれるイエス様を見た百人隊長が告白した言葉だけれど、この言葉にこそ、降誕の目的が秘められていたのだと、今朝改めて思ったから。
天から降られた理由は、十字架の死に向かうこと。人間の誕生は喜びだけなのに、イエス様の降誕は、深い悲しみを背負っておられたんだ。今朝ボクも思う「あなたこそ本当に神の子」と。深い感謝と、もったいなさと、慕わしさと、喜びとが、混ざり合って心に拡がった。


●22(火)
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。     (ヨハ14・6)

 「父のもとに行く」というのは端的に「天の国に行く」ということだ。
父なる神を知るだけなら、色々な本を読んで学ぶこともできるだろう。でもそれは、ショーケースに入っている食品サンプルを見ているだけのこと。本当に天国で御父に会えるためには、イエス様を信じることのみなんだ。学ぶことと、信じることは異次元のこと。そしてその実りも、文字通り天と地の違いなんだ。「主よ、ただ信じます」と生きていたい。


●23(水)
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」    (ヤコ4・6)

 神様の恵みは、是非いただきたい。神様の敵になるなんて、滅相もないこと。そう願う私はどうすべきなのか! 私にはもう既に分かっていたのかも知れない。今朝の御言葉を見て、そう思った。
 高慢になるな、ということ。謙遜になれということ。でもきっと、その真逆を生きている。その結果が、神様との関係にまで深く影響するって分かっているのに。
 今日、生き方を修正しよう。すぐに改めねば! 主よ、ボクを謙遜な者に変えて下さい。


●24(木・クリスマス イブ)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。    (コロ3・12)

 今日はクリスマス・イブの日だから、特にこの御言葉はジ〜ンと心に沁みて来る気がする。「あなたも神に選ばれ、愛されているよ」と聞こえて来るから。「ほら、イエス様があなたの所にお生まれになったのを見詰めたら、それが確かだと分かるだろ」と。
 だから愛された者として、ボクも憐れみと慈愛をもって生きよう。イエス様のように謙遜に、柔和に歩んでゆきたい。素直にそう思う。


●25(金・降誕日)
(イエス)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  (マコ2・17)
 
 この御言葉の通りに、御子イエス様が天から降って来て、この私が生きる地上に来られ、私の生活の中で語りかけて下さるのだ。罪人のあなたを招くために、降誕したのだよ、と。
 それは、救いが必要だから。病人が医者を命綱として必要とするように、救い主がいて下さらないと永遠の死を死んでしまうからですね。往診のために傍に来た医者のように降誕された主を、今日一日思いつつ過ごしたい。


●26(土)
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。    (1コリ10・32)

 一瞬、目を疑った。「人に惑わされるな」と言われているのじゃなくて、「私自身が人を惑わす原因となるな」と言われていたから。聖書を開いたら、自分の信仰理解を他者に上から押し付けることへの警告だった。そういうふうに生きるのではなく、他者の信仰生活の利益となるように語り、振舞わなくちゃ。
 自分が育った教派的な違いで、他の信仰者を色眼鏡で見ちゃいけない。互いの違いを「信仰の豊かさ」と受け取って、喜び合って生きるべき。主は一人、信仰は一つなのだから。


●27(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●28(月)
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。    (1ペト4・1)

 イエス様は、この世で受難を受けられてからご復活をなさった。そこを通らずして勝利もなかった。そのイエス様の御足の跡を行く私なのだから、私も闘いを通らずして進めない。それは、かつてこの世で自分の欲に従って歩いていた生き方を捨てる闘いだ。
 主の御言葉を握れ。それが私の武装だから。それも、主日礼拝で受け取った御言葉を、一週間握り通せば良いのかも。まだ今日は月曜なんだから、忘れているようではイカンよね。


●29(火)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。      (ヘブ11・17)

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と十一章一節に始まる段落で、数々の信仰の先達たちの実際の歩みが告げられてゆく。「確かに彼らは、そのように歩んだ信仰の父祖たちだった」と。そして「確かにその歩みの中で、神の計画の内にあった恵みも受け取っていったよ」と。
 私の一歩も、そのようでありたい。たとえ今は神の御計画が見えなくても、御言葉を信じて一歩を踏み出したい! そここそが、見えない未来につながっている道だから。


●30(水)
使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び     (使5・41)

 「エエっ! 辱めを受けることを喜ぶの?」と驚いてこの箇所を開いたら、イエス様の福音を語ったことによって迫害を受け、鞭打たれたことだった。「なんだ、信仰を告白した故の迫害を、キリスト者として喜んだんだ」と辱めの意味を知って、ホッとして、ギクッとした。「ボクは現実生活で、恐れず伝道できているか」と自問したら、たじろぐ自分がいたから。
 彼らと私は何が違うのだろう、何が足りないんだろ。もしかしたら信仰と、信仰のようなものとの違いかも。命懸けじゃないのかも。


●31(木)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)

 二〇二〇年が今日で閉じられる。今年はコロナ禍の中で、色々なことを自粛させられて「待つ」ことの多い日々だった。それもいつ終わるか分からない故に、余計に辛かった。
 聖書も「待て」という。でもそれはハッキリしたゴールがある。それも希望に満ちたゴールだ。イエス様が再臨されて、涙がことごとく拭われる日なんだから。「信じて待つ」というのは、この世の「待たされる」というのとは全然違って、希望があるね。
 さあ、新しく「信じる一年」が始まるよ。


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