2021年08月31日

『日々の聖句』2021年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年8月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●2(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。   (箴3・11)

 諭しはいいけれど、懲らしめはちょっと厳しいなぁと思った。でも、きっと諭されても、指導されても、言うことを聞かないボクがいるんだ。そういうボクの首根っこを捕まえて「こっちの道を歩くんだ。迷い道に入り込むんじゃない」と力いっぱい引き戻して下さることが、懲らしめということなんだ。そうだったら、どっちも主の愛の御業。その御業の中に生きていることこそが、幸いなんだ。
 でも、ぜひ、ソフトな懲らしめでお願いしますね、主よ。


●3(火)
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。   (イザ44・22)   

 この「あなた」とは、一個人のことではない。背きの民イスラエル全体に向けた「あなた」なのだ。そこで「赦し」の言葉を告げておられるのだ。喜びの知らせが、民全体を覆う!
 主は私一人だけでなく、私の家族にも目を留めていて下さる。いや、相模原の地の一人ひとり、いや日本の全ての人、いや世界中の人々も。全ての人に「わたしに立ち帰れ」と呼んでおられる。然り、全ての人が主の宝だからだ。


●4(水)
大いなる救いに至らせるためです。         (創45・7)

 「これってどんな場面?」と思って聖書を開いた。ヨセフが、兄たちに殺されかけた後、神の計画によってエジプトの宰相にまで上りつめる。そこで、飢饉によってエジプトに逃れて来た兄たちと再会。彼らが自分たちの行いを悔いている時、ヨセフが言った言葉だ。「神があなたたちより先に、私をエジプトに遣わされたんだ。あなたたちを救うために」と。
 こんな凄い信仰は、どこから来るんだろう。兄たちへの不満もない。「人」を見ないで「神のみ」を見ているからかな。そうやって生きている。ボクもなれるかなぁ、そんな信仰者に。


●5(木)
主を畏れることは知恵の初め。   (箴1・7)

 箴言は「知恵の書」と言われるけど、何のための「知恵」かを、ちゃんとわきまえねば。それは、神に従う者として立ち続けるための知恵だ。処世術でも、成功の秘訣でもない。
 この御言葉を、日ごとに口にしよう。その生活の中で、「主を畏敬する者」という在り方が、私の身にも沁み着くから。それが、私の真の幸いとなるのだから。あれ? 御利益みたい。然り、『ハイデルベルク信仰問答』は正に、神を心から敬うと、そこに利益が生じるのだと、平気で言っている。神の恵みは具体的なんだと。神畏敬は、窮屈ではなく、豊かなんだ。


●6(金)
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。     (創22・11)

 天の使いがアブラハムの名を大声で呼ばれる。一体何があったのか?  アブラハムが手に刃を持ち、今や愛息子イサクを屠ろうとした瞬間だった。「アブラハム」と、声で彼の手を止めた。「もうよい、あなたが神の言葉を第一にする者だと分かったから」と。
 何よりも大事なはずの息子を捧げようとするまで従えるなんて・・・。迷いは無かったのか。いや、迷いつつ、悩みつつ、それでも最後は従う方へと一歩進んだのかも。綺麗な信仰じゃない。呻きながらの一歩が、信仰なんだ。


●7(土)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。  (詩20・8)

 これを現代語に言い換えてみたら・・・
「私には、常識があると誇る者もあり、知恵や経験を誇る者もあり、培った人脈を誇る者もあり、権威権力を誇る者もある。身につけた理性的判断を誇る者もあるが、私たちは我らの神にのみ頼る。主の言葉を旗頭にして、この世の生活を賛美しつつ進む。人から愚か者に見られようとも、信仰の教友から『現実的でない』と批判されようとも、主の御言葉だけを握って生きる」、かな。リアルだな。


●8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤 牧師




●9(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。     (エゼ34・15)

 バビロン捕囚となった民、さらに各地に離散した民に向かって、主なる神が約束された。「あなたを探し出して世話をするから。あなた方は私の群れだから」と。亡国の民の回復が、今朝の御言葉だ。
 ふと「主は羊飼い」と歌う詩編二三編が聞こえて来るように思えた。信仰の民の歌は、主の約束の言葉と呼応しているのかも。今朝私にも「あなたを養い、憩わせる」と呼び掛けられてくる。だからボクも歌おう「主こそわが羊飼い」と。だってボクも信仰の民の一員だから。


●10(火)
自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。      (箴13・3)

 「いたずらに唇を開いてしまった」と後悔したことが何度あることか。その者は「滅びる」と言われている通り、そこでは辛いことが起こってしまった。もっと早く、この御言葉を知っていれば良かったのに・・・
 と思いつつ、「分かっていても、また唇は軽々しく開くんだろうな」とも思った。唇を開かせるのが私の自己中心に染まった心そのものだから。単に「慎重にね」という程度の話しじゃない。罪の問題なんだ。救いの問題なんだ。「主よ、我を憐れみ給え」と祈る問題なんだ。


●11(水)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を」       (創1・11)

 神が天地を創造される。そのとき大地を覆う草も果樹も創造された。神が愛する一つひとつのものとして。一本の草さえ、一つの果実さえが神の宝なのだ。神はこれを見て「良し(very good !)」と喜ばれたのだ。この地上の世界は、その神の誇らしい御心に、満ちているんだ。
 だからこそ、と改めて思った「自然を壊してはならないのだ。それは単なる環境問題じゃない。神の御心に背いているのだから」と。


●12(木)
主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。   (ルツ2・12a)

 異国の地で、夫と息子たちと死別したナオミ。悲しみの中で古里ベツレヘムに帰って来た。そのナオミにただ一人付き添ったのが、嫁のルツだった。彼女に、ナオミの親戚のボアズが声をかけて来た。その中の言葉がコレだ。
 「行い」に報いるのは、人からの賞賛じゃない。だけどボクは、人からどう思われているかとか、褒められたいとか、そんなことばかり気にしてしまう。そういう思いに、主の報いこそが豊かだと示すのだ。だって神の報いは、必ず出来事化するから。それを期待して待て、と。


●13(金)
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。    (詩7・2) 

 詩人は強大な敵を前にして「わたしを助け、救ってください」と叫ぶ。その叫びは、その通りだなと思いながら、改めて考えてしまった。それは「主を避けどころとします」と誓うように言っている点だ。もしかしたらボクは、「助けて」とだけ言って、この誓いを本気で考えていなかったかも。口だけで言って、現実は自分の手腕とか解決方法の傘の下にもぐろうとして来た。本気で「主を避けどころ」とするというのは、信仰の決断がいるんだと気付いた。


●14(土)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。   (出15・13)

 イスラエルの民は、エジプトから脱出できた直後、葦の海に逃げ道をふさがれる。その時も主は、海を割って人々を逃げ切らせてくださったのだ。今朝の御言葉はその時、モーセらが、主を賛美して歌った賛歌の中の一節だ。
 「あなたが、アレもコレもしてくださった」と、ちゃんと恵みを数えている。具体的に数えている。それをしないで、何となくの賛美じゃない。ボクも恵みの数え上手になりたいな。そこに、活き活きした賛美が溢れ出すのだから。


●15(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●16(月)
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。   (創19・26)

 退廃の町ソドムとゴモラが、主の怒りによって滅びる。その直前、アブラハムの執り成しでロトの家族は町の外まで逃げ出したのに・・・。妻だけ、神様から「後ろを振り返るな」と言われていた約束を破って塩の柱になった・・・。 なぜ振り返ってしまったのだろうか、と思う。「なぜ?」の理由は書いていない。
でも主は、ボクに向かっても「なぜ、み言葉を守れないの?」と、問うておられる気がした。そして「ボクにはまだ立ち帰る猶予がある」と気付いた。それが悔い改めなんだとも。


●17(火)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。   (イザ35・3)

 背信の民に、神の審きが降る。その計画がまさに現実となろうとする時、人々は慌てふためいて、心は散り散りになった。しかし主はそういう人々に、審きの知らせと共に、栄光の回復も告げておられたのだ。
 神の告げる未来は、確かに来る未来。先のことなのに確かだ、と言い切れるのは、主ご自身が実行されることだから。だから言える、「未来に立ち上がる力はどこから来るの? それは神の計画を信じることから」と。未来を歩む力の秘訣は、信仰なんだ。信仰ってスゴイ。


●18(水)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。   (エレ3・14)

 神に背き続け、信じることを捨てて歩んだ人々に、バビロン捕囚が与えられた。しかしその人々に、エレミヤを通して「帰還の日が来るから」との約束が伝えられたのだ。
 「背信の子らよ」との呼び掛けに、ドキッとした。神の目は、神に従う良い信仰者たちに向いているんじゃない。義しい者に心を寄せられるんじゃない。神が呼び掛けたいのは、ご自分に背いた者、ご自分を捨てた者たち。どこまでも罪人の側に心を寄せて下さるのだ。そして、その温かい視線の中に、ボクが居る。


●19(木)
人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
(箴20・24)

 知恵の書である『箴言』の一言は、心に迫って、「本当にそうだなぁ」と思わされる。
 でもきっと「当たってるなぁ」と思うだけで止めちゃいけないんだ。ここから自分の今日の生き方を、実際的に修正しないといけないから。「主よ、今日どのように生きればいいですか。あなたにお委ねしますから、導きだと気付いた今こそ、従う私にならせてください」と意を決するべきなんだ。知恵の書の言葉が生きたものとなるのは、その時のみだから。


●20(金)
御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。(エズ9・15)

 ペルシアのキュロス王によって捕囚から解放された民が、神殿再建のとりかかり、遂に完成した。続々とエルサレムに帰って来る人々。そのとき祭司エズラが祈った言葉がこれだ。有頂天にならず、「罪のゆえに裁きを受けた我々なのに、生き残りとしてここにいます。ご覧ください、悔いてぬかずく我らを」と。
 ああ、主が喜ばれる人がここにいる、と思った。主の前に悔いてぬかずく人、心打ち砕かれた人だ。ボクもこうあらねば、この姿に。


●21(土)
主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。   (王上8・56)

 この言葉は、だれが、どんな時に言ったの? と思って、聖書を開いて、胸が熱くなった。ソロモン王がエルサレム神殿を建て終えた時、全会衆を祝福して大声で語った言葉だった。彼は、主を賛美している。その感謝と喜びを会衆と共有しようとしている。その時に語るべき言葉が、これだったんだ。「主が語られた約束の言葉は、全てが実現した」と。
 私もみ言葉を聞く時に、この言葉を共有したい「御言葉は空しくならなかった」と。その為にも御言葉を生きん! 胸が熱くなった。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤 牧師




●23(月)
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。       (箴16・9)

 自分が計画する道でも、落とし穴があったり、危険があったりするから、その道は最善でないということもあるのだろうなぁ。
 だから計画をする時、一番良いことは、良きアドバイザーが傍にいてくれること。それも私の計画したいことを、誰よりもくみ取ってくれるアドバイザーだ。さらに私よりも最善の方法を知っているアドバイザーだ。
 主が備えて下さる。それも遠くの目標を示すのじゃなく、一歩先、また一歩先を示して下さる。相談相手は決まった。さあ祈ろう。


●24(火)
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。   (詩24・1)

 あっ、これは礼拝を始める時の御言葉「招詞」で、よく読まれる箇所だ。
 これを聞くだけで、いつも心を高く主なる神へと上げることが出来ていた。主の支配の壮大さへと、目が開かれて行く思いがしていた。
それを、今日を始めるという朝に聞けたことは(または、一日を終えた夜、その日を振り返って聞けたことは)、なんてラッキーなんだと改めて思った。だってこの一日も「主のもの」と確信できて歩み出せるから。安心して歩み続けることが出来るから。正に恵みだ!


●25(水)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。    (ルツ2・12b)

 夫と死別して、姑に尽くそうと故郷を離れ、見知らぬ姑の国に来た嫁のルツ。その姿を見た親族のボアズが、彼女に掛けた慰めの言葉だ。そして、祝福の言葉だ。
 自分がやりたい方法を優先にせず、他者のために生きたルツ。そこがきっと、主の御翼のもとそのものなんだ。親鳥の翼の下に逃れて来ていることになるんだ。そうだ、隣人を愛することは、自分を愛することに優先すること。そういう人を、神様は報いて下さるのだ。主の祝福は、身近な隣人の傍に在り。


●26(木)
あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。      (申9・4)

 出エジプトの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る前。モーセが「あなた方が正しいから恵みを得たのではない」と釘を差したのだ。
 すぐに考えてしまうのは「正しい人には、神から恵み。罪咎を抱える人には、神の恵みは遠い」ということ。
でも、すぐに考えるべきことは、「こんな私なのに、それでも神は恵みをもって答えて下さる」ということ。人間の常識をひっくり返した場所に、神の恵みは注がれるのだ。


●27(金)
(主は言われる)「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。」   (サム下7・15) 

 「彼」とは誰か。それは、ダビデの子ソロモンのこと。ダビデが神殿建築を決意した時、主なる神が「いや、あなたの子が建てる。それも私は、あなたの子をも祝福し続けるから」と約束なさった言葉なのだ。
 それを聞いて、きっとダビデは安心しただろう。自分自身への主の慈しみも嬉しいけれど、それが子供につながってゆくことは、もっと嬉しいことだから。そこに安寧もあり、平安もあるのだから。「安心して御国に上れる」と思えるのは、この安心を手にした時なんだろうな。


●28(土)
善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。      (アモ5・14)

 南北王国に滅亡の日がヒタヒタと近づいて来る。主なる神がとうとう、背信の民に審判を下されるのだ。それを前にして、人々の牧者として呼び掛けたアモス。それは、端的な言葉であった「善を求めよ、悪を求めるな」と。
 人々は、何が善で、何が悪なのか、神様に知らされていた民なのに。神の言葉として「律法」を賜っていた民なのに。それなのに、知っていて背き続けたのだ。ボクも神の思いを知っていて背いている。そこから離れて、御言葉にしがみついて生きる人にこそなりたい!


●29(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●30(月)
わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。 (出3・20)

 神がモーセに、エジプトから民を救い出すことを命じた時、十の災いを予告された。
 私も幼い頃代、モーセが起こす奇跡に手に汗握った。でも今日改めて、ここで何が起こっていたのかを悟った気がした。それは「わたしは自ら手を下し」の一言によって、神が関われたことが大事だと思ったから。神が、人々の苦しみに介入されたのだ。その業が、目の前で繰り広げられる出来事となったのだ。人の嘆きに、神がご自分の手で触れられる。そんな出来事が、私の現実にも起こっているのですね。


●31(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。   (王上8・60)

 ソロモンがエルサレム神殿建築を完了させた。そこで祈りと願いを主にささげた後、大声で全会衆を祝福したのだ。その祝福の締め括りの言葉がこれだった。
 祝福を頂くということは、ただ一つのことを求めることと同じなんだ。それは「人が神を知る」ということ。ふと思い出した「主を畏れることは知恵の初め」という御言葉。また「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」という御言葉。全ては、この一点で繋がっているのかも。


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2021年07月31日

『日々の聖句』2021年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年7月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。   (出3・9)

 壮年男子だけで六十万人の民が、エジプトから大脱出した。その大きな出来事が起こった発端が、今朝の一点だった。それは、主が人々の叫びを聞かれたということだ。
 私の声も、主に届いたら必ず救いの出来事が起こされる。聞いた叫びを、そのまま聞き流すことなど出来ないお方だから。それがボクの神様。ボクを守る方。ならば試練にも耐えられる。だって、耐えられなくなったら叫べばいいから、その最終手段を持っているから。


●2(金)
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。   (レビ19・2)

 主なる神がモーセに、イスラエルの民への命令を託す。それは、人々を幸いへと続く道に招き入れるもの。その一つが、この御言葉だ。
 一瞬たじろいだ。だって創造主が聖い方であるのと同じように、ボクも聖い者となるようにということだから。「神の聖さと同じになるなんて無理」と思ったから。でもふと「あなたも天のお父さんの子供だから、きっとなれるよ」と御声が聞こえたようで、何だか心が温かくなった。「そうなりたい」との思いと一緒に。


●3(土)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。    (詩41・4)
   
 詩人は、弱い者に思いやりのある人の幸いを歌う。それは、自分が何かしてあげるということよりも前に、その人を主なる神に委ねる祈りとなった。
 ふと思った「祈りもしないで手だけ先に出したから、失敗してきたのかも」と。本当に助けることができるのは、主のみ。主が助けて下さることを求めることが抜けたら、手助けも余計なおせっかいになるのかも。「主のみ」、単純なこの一事が、ボクはいつも抜けるんだよな。


●4(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師




●5(月)
母の教えをおろそかにするな。   (箴1・8) 

 これは「父の諭しに従え」という御言葉とセットで命じられている。そしてすぐに思った「これって、日本でもよく聞く教えだよね」と。さらに、「もう知っているよ、分かった、分かった」と思って、アレッと思った。
 「分かった」で、話を終えちゃいけないんだと気付いたから。実際に行え、と命じられているんだと気付いたから。そして、これって人にとって一番やりにくいことだから、改めて言われなければならなかったことなんだと気付いたから。神様の命令と知っていて、行わないのは大罪だ! 一瞬、ヒヤッとした。


●6(火)
まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。   (イザ30・9)

 「彼ら」とは誰か! 「主の教えを聞かない」のだから、信仰の民とは別の誰かだろうかと思って聖書を開いたら、イスラエルの民だった。その人々が「預言者イザヤの言うことなんか聞かないで、大国エジプトの傘下に入ろう。それが賢い戦略だから」と言っていたのだ。
自分の常識に頼る。そこに神への反逆が潜んでいたのだ。それは私にもある罪への入り口。「主よ、今日をどう生きて、どう歩めばいいですか」と唱えるように祈る者でありたい。


●7(水)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。   (ヨシュ1・9)

 奴隷とされていた国・エジプトから、イスラエルの民を率いて脱出したモーセの後継者として、ヨシュアが立てられた。そのとき主が、彼を立てる保証とされたことが「共にいるから」ということだった。
 「神様が共にいてくださって、支え守ってくださるということ。それさえあればボクも前進できる」と思った。でもその後すぐ「あ、待って。でも大変な役目は、できたら申しつけないで欲しいな。だって今でいっぱい、いっぱいですから」って思った。ちょっと情けないかもね。


●8(木)
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。     (申八・二)

 出エジプトのあと、荒野を四十年間さまよったイスラエルの民。その人々が今や、主にいただく土地に入ろうとする時、モーセが告げた言葉がコレだ。それは、人々が生きるための全てを、主こそが備えてくださった日々を思い出せということ。「出来事を思い出せ」、それがモーセの遺言としての命令だった。
 神がしてくださった御業を想起することは大事なんだ。信仰は、御業の想起と一対。信仰は、抽象的な精神世界の事じゃないから。ボクの人生の中での御業の想起を、大事にしたい。


●9(金)
「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」        (出3・7)

 主なる神が世紀の大脱出を計画された。主が、その出来事を起こされた出発点を辿ったら、今日の一言だった。民の嘆きの声を聞かれたということ、その一点だった。
 私の嘆きも、主が聞かれたら、そこにもう救いの計画が始まっているのかも。主の御心は、そこで動き始めるから。それが愛するということの心の動き方だから。ボクもその御心の中に捕らえられていると思ったら、何だかそれだけで、もうホッしてるボクがいる。


●10(土)
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。    (創12・3)

 全人類が、一人の人によって神様の祝福の中に入る・・・そんなすごい人って誰なのかなと思って聖書を見たら、信仰の父祖アブラハムだった。 彼は、大役を任せられたんだ。嬉しくて光栄な役だけど、重責の役でもあるなぁ、とも思う。
そして、ふと思った。「家族の人はすべて、あなたによって祝福に入る、重責だよ」とも言われているんだろうな、と。家庭でこそ、祈りつつ過ごす者でいなくっちゃ。「偽善者、口ばっかりね」と言われないように祈らなきゃ。


●11(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●12(月)
それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。   (士2・18)

 「それは」とは、人々を導くための指導者=士師を、神様が立てて下さったということ。それによって民は、主に従う道を歩めたんだ。
 あ、これって出エジプトの出来事が起こった出発点と同じだ(9日の御言葉)と思った。主が私たちの呻きを聞かれたなら、それは救いの出来事になるんだということ。然り、神は動かれる。すぐに腰を上げられる。私の呻きを緊急事態だとして受け取って下さるから。その主に、今日も見守られているんだ。安堵。


●13(火)
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。    (詩18・29)

 この詩編は、ダビデがサウル王の手から救い出されたことを、主に感謝した歌として読むように勧められている。理不尽に命を狙う敵がいる。その闇の日々に、主が光となっておいで下さる。そして、闇は光に勝てないんだ。
 私たちにも、苦しい日々がある。理不尽だと嘆きたい日々がある。でも、そこに主が共にいて下さることを忘れまい。この詩人の歌を、自分自身の歌とするために。またそこで、落ち着いて闇の中に立てるためにも。


●14(水)
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。 (イザ60・19)

 バビロン捕囚からの解放の希望が、預言者イザヤによって告げられた。それは、昼に太陽が照らす光に、主ご自身がなられ、夜に月が照らしてくれる光に、神ご自身がなってくださるということ。もはや苦難の雲が出ようと、試練の嵐になろうと、かげることなき永遠の光に照らされるんだ。失望の暗闇が退けられるから、という知らせだった。
 ボクを照らす光も、主の光なんだ。闇は光に勝てない。そんな一日を、今日歩むんだ。安心して踏み出そう。主の光の下で。


●15(木)
あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ、わたしが命じることをすべて。 (エレ1・17)

 エレミヤが、神の言葉を預かって語り伝える「預言者」になるべく召し出された。その時に、主が彼に第一になすべきことを命じられたのだ。それは、語り伝える伝令者となること。それも、一言も減らさずに、であった。
 人に語る時に、都合の良いことだけ、受け入れられることだけを語りたくなる。きっと、人の目、人の評判を、気にしているからかも。
 でも、それはしてはならないんだ。神の言葉をそのまま伝えることは、神の命令なのだから。そこにこそ、神の御業が起こるのだから。


●16(金)
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。   (創2・20)

 天地創造の時のこと。まだアダムが独りだった時、神様は彼を助ける者を造ろうと、あらゆる生き物を創造された。でも、どの生き物もダメで・・・、最後にエバを造られたとき、アダムは大いに喜んだのだ。人を助けるのは、人なんだ。人しかいないんだなぁ。
 それなのにボクは、傷つける存在となっていないだろうか。ああ、主なる神の最初の御心に立ち帰りたい。そういう存在に立ち帰りたい。


●17(土)
ベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。   (ミカ5・1)

 神が、救い主を立てる計画を啓示された。それは、立派で力がある者が選ばれるということではなかった。最も小さい者なのだ。その人こそ、神様の御業を担う者とされるんだ。
旧約全体で、主に選ばれる僕は、いつもそうだった。何故だろう。もしも理由があるとしたら、その者の業ではなく、神の業だと分かるため。末席に座る人こそが、名指しされる。神様がじっと見ているのは、その人なんだ。


●18(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師




●19(月)
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。    (申9・7)

 恵によって与えられた出エジプトの後、荒野を四十年さまよった民。いよいよヨルダン川を渡って「約束の地」に入ろうとする直前、モーセが人々に語った言葉だ。それは、神に対して頑なな者で、そのゆえに神を怒らせ続けた者たちであったことを思い出させる言葉だった。
 人々は、自分たちの愚かさをわきまえさせられる。それは、「こんな者にもかかわらず、主はなお恵みを下さる」と本気で分かるため。
 「主に背き続けてきた」、この御言葉はボクにも必要だ。恵みの破格さを知るために。


●20(火)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。   (箴10・19)

 知恵の王・ソロモンの格言集として読むようにと勧められている「箴言」。今日もその一つだ。口から罪が出て来る。口を閉じれば、避けられるんだ。それは分かっている。きっと人は皆、口に出した後で「あんなこと言わなきゃ良かった」と落ち込むことを経験済みなのに、どうしていつも失敗するんだろう。
 その時いつも「私は正しい」という思いが暴れている。それが口から溢れ出る。罪は心で生まれている。そこを悔いねば。それも分かってるんだけど、やっぱりボクの口は開いちゃう。


●21(水)
(主は言われる)わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。   (イザ43・1〜2)

 「まっすぐに御言葉を聴こう。私に語りかけられる神の言葉として受け取ろう」・・・素直にそう直感させられる御言葉が、今朝与えられた。主が私と共に居ると約束しておられる。
今日を踏み出す勇気って、自分の中から絞り出さなくても良いんだ。だって、神様から与えて頂けるものなんだから。でも・・・困難は「大河」じゃなくて「小川」のほうが良いなぁ。


●22(木)
だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら・・・  (王上8・38)

 ソロモン王が、主に向かって願う。その言葉は、「我らの祈りを聞いて応えて下さい」という祈りとなった。そしてその祈り手についてのことが、今日の御言葉なのだ。「だれでも、心に痛みを覚えて祈る人」と。
 「これって、ボクのことだ」と直感した。そして「これは、あの人のこと。だってふさぎ込んでいたから、泣いていたから」と思った。さらに「ああ主は、すべての祈りを聞き届けて下さるのだ。そして応えていただける」と思えたら、もうそれだけで、私も慰められ始めていた。


●23(金)
「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」   (エレ31・10)

 バビロン捕囚の苦難と、帰還の希望を伝えた預言者エレミヤ。イスラエルの民自身の背信によって、異国の地に捕囚となっていく人々。でもその人々を見捨てず、忘れない方がいる。それが、主なる神だと伝えるのだ。
 それも、自分の命よりも羊を大事にする羊飼いのように、人々を守って下さると言うのだ。親の心子知らずのような民なのに守って下さる。主の熱い愛が、エレミヤを通して伝えられる。旧約の中に、ふと福音の香りがした。


●24(土)
(主の言葉がエリアに臨んだ)「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」   (王上17・4)

 数年間の干ばつが来る前に、主が預言者エリヤに言われた言葉がコレだ。カラスが朝夕にパンと肉とを運んで来て養ってくれる、と。
エーっ、烏が養うなんてことに任せ切って大丈夫なの? と思う。でも次の瞬間、「主の言葉が臨んだ・・・ここが大事なんだ」と気付いた。だって、人間の常識に立つより、神の約束こそ、はるかに確かだから。たとえ自分では非常識に思える「烏の給仕」でもだ。故に、御言葉を必死に聞くことこそ、生き残る王道だ。


●25(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●26(月)
あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。  (出16・28)

 出エジプトの後、荒野で飢えた人々が、主からマナを与えられた。毎日荒れ野でマナを拾い集め、六日目には二日分を与えられた。七日目は安息日として何もしないで良いように、神様が配慮して下さったのだ。それなのに人々は、七日目もマナをあさる。どこまでも自分勝手な人々。その不信仰を、主が、「いつまでそんなことを・・・」と嘆かれたのだ。
 主の言葉を信じ切れない事と、自分勝手さは、別物ではない。コインの表裏のように重なっている。主を嘆かせるコインとして。


●27(火)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。   (詩2・1) 

 「騒ぎ立ち・・・むなしく声をあげる」ということに重ねるようにして、次の節で「主に逆らう」と記されていた。自分の思い通りにすることが、神の御手から逃れようとすることなのだ。神様の言葉を捨てて、自分中心にしたいんだと生きることは、騒々しいだけで、さらに空しいことでしかないということなんだ。
 本当の自由、真に活き活きと生きられるのは、主を慕って従うという場所のみ。それなのに、とんでもない勘違いをしている時があるのかも。そこでなんだか疲弊しているのかも。


●28(水)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 あっ・・・、今朝、この御言葉がストレートに心に沁みて来た。
 日本中、世界中がコロナ禍の中にあって、今、目の前にある苦しみを抱えつつ喘いでいるような日々だから。そこにダイレクトに御言葉が届いて来る。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と告げられる主の言葉が、光が差し込むように届いて来る。
 そう感じたら、心がフッと緩められたように思えた。試練と苦難に縛られる縄目が、緩んだ気がしたから。


●29(木)
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。   (イザ45・23)

 ついにバビロン捕囚が終わろうとしている。それは、ペルシャのキュロス王によって新バビロン帝国が倒されるからだ。それは、偶然の歴史の展開などではなくて、神の約束の言葉の成就として起こるのだ。
 「必ず実現する言葉」がある。それも、「決して取り消されない言葉」だ。それが「神の言葉」だ。ならば、私には、御言葉を聴き分ける耳があればいい。信仰の耳があればいい。そこに、ボクの将来があるのだから。


●30(金)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。   (詩18・31)

 苦難の日、試練の日に「助けてー」と逃げ込める場所があるんだ。一生懸命やって来たのに全然うまくいかなくて、かえって辛いことになって、もう動けないという時、倒れ込んでも良い場所がある。それが主の御もとなんだ。
 それは一体、具体的にはどこなんだろう。それはきっと、個別の「密室の祈り」の場所。または「主日の礼拝」の時と場所だ。もうボクの周りには、たくさんあったんだと気付いた。そして、その場所が「在る」と知るだけで、ホッとして、今日を進めると思った。


●31(土)
わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。      (エゼ36・26)

 主に対して頑なで、背きを重ね、その裁きのゆえに新バビロン帝国に捕囚とされた人々。しかしその民に、主はなお心を向けられる。
 そしてまるで名医のように、「石の心(頑なで背きの心)」を切り取る大手術をして下さるというのだ。そこに、主の御言葉を受け取る柔らかな心、「肉の心」を移植して下さるために。そこが、新しい霊の宿る場所となる。
心の移植なんて、誰が出来るだろう。しかし決して失敗しない名医がおられる。私は信じてお任せすればいい。心をさらけ出せばいい。「主よ、私を、お取り扱いください」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 08:57| 『日々の聖句』

2021年06月30日

『日々の聖句』2021年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年6月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。   (ミカ7・19)

 人々の神への背きは極限に達し、神の怒りを背負った。しかしその人々に、主は新しい約束を語られる。それが、今日の御言葉だ。
 赦すということは、神ご自身が耐えられるということなんだ。人間の罪咎なのに、それをご自分で処分されるということ。そして、それをもう思い出さないように海の底に沈めてしまうこと。赦しは、神が苦しむことなんだ。そしてそれが愛だったんだ。ボクも、赦された罪人。それは愛されているということなんだ。


●2(水)
主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命である。   (申30・20)

 モーセが、主がご自分の民に結ばせた契約を、再び語り直した。「もしかしたら、これが全契約の中心かも」と思った。この一点に、生活を整えればいいんだ。この一点で良いのに、でも人間は聞き分けがないんだよなぁ・・・。
でも他人ごとじゃない! 私こそ、この一つのことが出来なくて、神関係にも、隣人関係でも迷子になって来たのだから。でも帰る道は分かっている、そうさ、知っているんだ。そう思えた時、もう御声を聞き始めているのかも。


●3(木)
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。   (ゼカ9・9)

 捕囚の民に開放の時を伝えるゼカリヤ。でもこの御言葉は、代々の教会で棕櫚の主日(受難週に入る日曜日)に、イエス様がエルサレム入城をされる場面を語る時に取り上げられて来た箇所だ。人々がイエス様を、歓声を上げて「王が来られる」と出迎えるのだ。
然り! 捕囚の民に告げられた神の救いの計画、解放の計画は、御子イエス様によって実現する。神の言葉は、真実な約束だから。私も御言葉を聞いたなら、そこですでに未来が見えるということ。それを信じるんだ!


●4(金)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」    (ヨナ4・11)

 背きの都ニネベに、ヨナが主の言葉を伝える「あと四十日で都は滅びる」と。でも、神は裁きを思いとどまられたのだ。大いに不満のヨナ。その彼に主が語られたのがこの御言葉だ。
 ヨナは知らなかった、神様は罪人をさえ愛されるということを。私も、この神の愛の中に入れられている。ボクも罪人だから。


●5(土)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てる。   (イザ59・1〜2)

 預言者イザヤが、背きの民に伝える。神様の助けの手が短いから、あなた方に救いが届かないんじゃない。神の耳が遠いから、あなたがたの願い求めが聞いてもらえないんじゃない。あなた自身の罪が、神とお前とのパイプを詰まらせているからだ、と。
 ドキッとした。私も「神様はなぜボクを助けて下さらないのか」と、不平を平気で祈っていたから。「罪を赦して」とまず祈るべきなのに。


●6(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。   (箴3・5〜6)

 「あ、そうだったのか!」と気付いた。今までは単に「神様に頼ればいい」と学んで、でも結局頼らないで来た。その元凶が分かったから。それは、神様にも頼るけど、自分にも頼っていたから。今日の御言葉は、そこを鋭く指摘して来る、「自分の分別には頼らず」と。
 一心に御言葉を聞いて、それに賭ける。自己中心の元凶である「自分の分別」を捨て、御言葉を薄めず削らず、そのままを生きよう。神信頼は、人生を御言葉に賭けることなり。


●8(火)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。       (ハバ2・3)

 都エルサレムの陥落を目前にする時代。神殿で仕えていた預言者ハバククに主が対話される。嘆くハバククに、義しい裁きと、救いの希望が告げられているのだ。
 「遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」、ああ、この御言葉が二千七百年もの時を超えて、そのまま私の心に届く。私の現実の中に届いて来る。そしてこの御言葉が、私の心にも小さな光を灯してくれた。主よ、今朝いただいた御言葉を握って、あなたの計画を待ちます。


●9(水)
わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。   (エズ8・22)

 捕囚からエルサレムに帰還した民に、主の律法を諭したのが祭司エズラだ。これはそのエズラの言葉。一読して、エッと思った。敵襲から身を守る術を、放棄しているから・・・!?
 続くカ所を読んで、なるほどと納得した。「神を尋ね求める者には、恵みの御手がある」とあったから。でも、実際にこれを求める者はいない。私たちの現実の戦いは、兵を整えないといけないと思うから。その常識を手放すまでは、神様からの恵みは遠いのかも。


●10(木)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。    (ゼカ8・17)

 都エルサレムに帰還した民が、喜びつつ神殿再建にとりかかる。その人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えたのだ。それは、バビロン捕囚となった先祖の轍を踏まないための道標だった。
 神様の導きとは、とても具体的なんだ。生活の中にある事柄なんだ。それは、一切の咎と過ちは生活の中に起こるから。それも私の中に芽生えるから。その悪の芽を、神は「憎む」と言われるのだ。


●11(金)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」   (ヨナ4・4)

 主の赦しが悪の都ニネベに注がれた。それを知った預言者ヨナが、「私は、主の裁きを伝えたのに、これでは面目が立たない」と怒った。その彼に主が言われたのが、この言葉だ。「罪人を赦したのが、お前には不服なのか」と。
 「二言などない神なのに、罪人への義しい決定を覆されるなんて、おかしい。ヨナが怒るのも無理はない」と考えていて、ハッとした。「ニネベの人々よりも、私こそ罪人だ」と気付いたから。裁きを翻した主の恵みは、罪人にだけ分かる恵み。その恵みに、私も生きている。


●12(土)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。   (箴1・23)

 今朝の御言葉の直前にガツンと、「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着を持つのか」と叱られている。
でも、叱って終わるんじゃない。「立ち帰れ」と言う。聖書って、最初から最後までこのトーンで貫かれているかも。そう気付いたら嬉しくなった。愚かで浅はかなことをしない者はいない、それは私自身だって分かっている。でも神様はそんな私が、ご自分に立ち帰ることをこそ喜んで下さるのだから。天の真の父として。


●13(日)


主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●14(月)
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と言った。     (創11・4)

 人々は、バベルの塔を作り始める。その目的は「天まで届いて、有名になりたい」ということ。でも「天まで届く」と言うのは、神の座に自分が届きたいということ。有名になるというのは、支配者になりたいということ。結局どちらも、自分が神になるという野望なんだ。
 ふと「テッペン取ってやる」という巷の言葉が重なっているように思えて、恐くなった。その言葉を、賞賛する世が、見当違いのことを望んでいるように見えたから。バベルの塔と同じ崩壊の道を、進んでいるように思えたから。


●15(火)
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教えなさい。    (申6・6〜7)

 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛せよ」との主の言葉を、心に留めよと言われている。しかもそれだけではない。この命令は、それを子供たちに教えよということだ。
 信じる生活というのは、自分の個人的なことだと考えがち。家族は別で良いって思いがどこかにある。よくて「家族伝道しなきゃ」ぐらい。でも神の思いは「自分の信仰」と、「家族に伝えること」は同じ重さなんだ。子供に教えることは必須なんだ。子供も神の宝だから。


●16(水)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。   (イザ6・5)

 主なる神からイザヤに、召命の声が掛けられた。その瞬間、彼はひれ伏したのだ。神の前に立つ自分は、罪人でしかないことに気付いていたから。その時に言った言葉が、これだ。
「でも、どうして?」と思う。なぜ「汚れた唇」と言ったのだろう。「汚れた心」でもなく「汚れた者」でもない。
 もしかしたら、罪は口から形となって出るものだからかも。口が、罪が溢れ出る扉だからかも。そのことって、僕にはすごくよく分かる。私も「汚れた唇の者」だと知っているから。


●17(木)
お前(ダビデ)はわたし(サウル)より正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。   (サム上24・18)

 ダビデを妬んで、命さえ狙ったサウル王。でもダビデは、逆襲するチャンスがあったのに、一切、手を出さなかった。それを後に知ったサウルが言った言葉が、コレだ。
 「正しくない」というのは、悪意を持つこと。「正しい」というのは、赦すこと、善意をもって接すること。それをサウルは、人生の最終章で悟ったのだ。ボクは、今、御言葉を聞いて悟りたい。悟って、そのように生きてゆきたい。


●18(金)
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。   (レビ19・16)

 主がモーセに、「聖なる民となるように」と律法を与える。その中の一つがこれだ。人と人との間におけるあらゆることが、ここに取り上げられていく。
 「中傷と偽証」が隣人との間を裂くと、忠告されている。ふと思った、「人と人との間に壁を作ったり、不和を生み出したりする物は、口から出て来るのか」と。かけがえのない友人に対してさえ、この過ちを犯してしまう。御言葉に従えないくらいなら、むしろ貝になりたい。この思いを、忘れないで今日を過ごそう。


●19(土)

主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。    (イザ66・2)

 神様に顧みていただけるのは「御言葉を守る人」とか「主に従う人」とか「善意の行いをする人」とかじゃないんだ。主ご自身は、そんなこと一言も言っておられない。
 むしろ「ああ私は、御心の通りに歩めない」と悲しむ人。「私はあの人を傷つけ、この人のつまずきとなった」と苦しむ人。「御言葉こそ真実。私の罪に、迫って来る」とおののき、ひれ伏す者。ふと思った、「神様に顔を上げられない時、慈愛の眼差しは注がれているのかも」と。


●20(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●21(月)
あなたの道、あなたの仕業が、これらのことをもたらす。   (エレ4・18)

「エ、なんだか怖い感じ・・・」と思って聖書を開いたら、やっぱり、自分の犯した悪によって、報いとして受ける災いのことだった。
 でも、先を読んで気付いた。神は怒って、裁判官のように冷たく言い放っているんじゃない。主は、嘆き悲しんでおられる。私の犯した仕業、道を外れて歩んだ日々について、お心が張り裂けそうになっておられるのは神ご自身なんだ。「ああなぜ、ダメだと言った道を行き、罪を犯したのか」と。深いため息とともに。
悲しませて、主よ、本当に御免なさい。


●22(火)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。   (ヨナ1・14)

ヨナが言った言葉だと思ったら、違った! 
神の派遣命令から背走したヨナを乗せた船が、嵐に遭う。ヨナが「私のせいで嵐に遭っている。私を海に放り込め」と告白する。躊躇する乗組員。一人の命を海に放り込むのだから。でも、万策尽きた後に、最後に決断したのだ。その時の彼らの言葉が、今朝の御言葉だった。
 異邦人が、主なる神に委ねた。それも熟達した信仰者のように。クリスチャンだけが神を知り、信じている人だと思っていたけど、見当違いで、不遜だったかも。傲慢だったかも。


●23(水)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。    (サム上2・3)

 これは、ハンナが、念願の息子(サムエル)が与えられ、喜びに溢れて神賛美する歌の一節だ。喜びの絶頂にある歌だ。それなのに何故だろう、手放しに喜ぶどころか、むしろ自分への戒めの言葉のように聞こえる。
 もしかしたら・・・人は喜びの絶頂で驕り高ぶる罪の穴に落ちると知っているからかも。だから気を引き締めて、なお主を仰いで自分を律しているんだ。信仰の母ハンナなんだ。戒めの言葉は、他人にではなくて、自分に向ける時に、最大の力を発揮するのですね。


●24(木)
主の山に、備えあり   (創22・14)

 アブラハムの息子・イサク奉献の場面だ。アブラハムは、神様から一人息子を焼き尽くす捧げ物にするように言われた時、どんな気持ちだったんだろう。やっと与えられた愛息子なのに、「主よ何故ですか」と悶々としたんじゃないんだろうか。それでも、その解決のない心を抱えて、主の言葉に従った彼。小刀をイサクに振り上げた瞬間、主が用意した捧げ物の雄羊を見つけたのだ。その場面の御言葉だ。
 結果を知っているから、安心して読める。でも渦中にいたら、ボクはどう生きるんだろう。悶々としつつ、一歩を踏み出せるんだろうか。


●25(金)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。   (コヘ3・20)

 地上の限られた命を生きるものとしての人間の虚しさを、突き詰めて示される。それは、塵から成って、塵に返る存在だということだ。
 でもコヘレトの言葉は、そこで止まらない。全体を通して告げられていることは、「今という時を喜んで生きよ」ということ。地位や財産や名誉などはかなく消えるのだから、今日の一日を、喜んで食べて飲めと言うのだ。
 今朝、主が「今日を喜んで過ごしたらいいよ」言って下さると受け取ったら、清々しい朝になった。他のものへの執着が消えたから。


●26(土)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。  (エゼ34・16)

 バビロン捕囚の人々の中で、預言者エゼキエルが主の言葉を伝えた。それは神様からの救出宣言。それも、ご自分が捜し出して、見つけ出して、抱きかかえて家に帰るという宣言。
 この神様の姿は、イエス様のあの言葉・・・「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ一〇章)と重なると感じた。羊飼いでいて下さる父なる神の姿は、イエス様に実現したのだ。そう思えたら、旧約の神の言葉は、実現する約束だと思えた。旧・新約どちらも読むことが大事なんだよね。


●27(日)

主日礼拝説教

         成智圭神学生
(東京神学大学学部4年)



●28(月)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。   (ゼカ2・17)

 バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが、主からの希望の言葉を告げた。それは、あなた方のために「主が立ち上がられる」という約束だ。それはつまり主である神が、座るべき天の玉座を、降りられるということ。それも私どもの傍に来て下さるために、ということ。一方的で、破格の恵みだ。それを、神に背いた民が聞いたのだ。神の救いの恵みは、本当は畏れ多くて、申し訳ないほどのこと。あ、私もその恵みを受けていた。あの受洗の日に。


●29(火)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。     (ホセ6・3)

 北イスラエル滅亡の少し前、主の言葉を語り続けたホセア。「今朝の言葉は、信頼に満ちた信仰告白だなぁ」と思っていたら、全然違った。なぜなら、本来ホセア書は、主を捨てる民の背きの姿が縷々記されている書だから。
 聖書を開いて、すぐに分かった。今朝の言葉は、人の口先だけにある言葉だったから。上辺だけで礼拝する人々の言葉だったから。
 ギクッとした。同時に「形だけの礼拝でなく、心から主を愛する者でいたい」と強く思った。


●30(水)
わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。   (哀3・40)

 背信のイスラエルの民の中にあって、詩人が歌う。「主よ、あなたに逆らって来たのは、私たち自身です」と。しかしその自分の姿を見詰めることが出来て、また受け止めることが出来たからこそ、立ち戻って行く道が分かるのだ。それは、主の元に帰るということ。その道は、一八〇度向きを変えるUターンなんだ。
 ああ、それが「悔い改める」ということ。神の御許へのUターンなんだ。それも安心して辿って良い道。それは、主ご自身が喜ばれるUターンなんだから、そこに聖霊の助けもあるよ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:09| 『日々の聖句』

2021年05月31日

『日々の聖句』2021年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年5月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。   (エレ24・7)

 バビロン捕囚の最中。ユダの人々のことを主なる神が心に留めて下さり、預言者エレミヤに伝えた言葉がこれだ。人々が立ち帰るための「心」も彼らに与えるから、と。そして彼らを都エルサレムに連れて帰るのだよ、と。
 背きの民なのに、その人々を諦めないのは神ご自身。神様は、罪人を忍耐されるんだ。諦めきれず、なお救いの御手を伸ばされるんだ。
 もしかしたら、自分に罪人だと烙印を押して罪人に留まってしまうのは私自身かも。主の救いのご熱心にこそ、いざ!飛び込め。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月・憲法記念日)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。      (代上29・14)

 ダビデ王がエルサレム神殿建築のために、全会衆に寄進を求め、多くの寄贈品が集められた。それを目の前にして、彼は主に祈ったのだ「私はいただきものを、あなたに差し出すにすぎません」と。
 ここに献げ物をする際の心がある。「私の物を神様に差し上げる」ということじゃない。「神様からの預かりものをお返しする」のだ。神の物を神に、と喜んで明け渡す。そんな心の表れにしたいな、ボクの献金も!


●4(火・みどりの日)
人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。   (イザ2・22)

 バビロン捕囚が迫って来る時、主が預言者イザヤに見せた幻が記される。
 右往左往して、それでも主に立ち帰るよりも隣国と同盟を結んで、人間の力で切り抜けようとする人々。亡国のピンチなのに、それでも主の言葉に頼らず自分で計画を思い計る。
「今日の御言葉を、ちゃんと聞けばいいのに!これは、あの人に聞かせたい御言葉だな」と思って、我に返った。これはボクに向けて語られている主の言葉だと、気付いたから。


●5(水・こどもの日)
わが神、主よ・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。   (王上3・7)

 ソロモンが、主によって王に立てられる。その彼に、主なる神が枕元に立って「何事でも願うがよい」と語りかけた。それに応えたソロモンの言葉だ。それは、「王として下さって感謝です」というのじゃない。また単なる謙遜の言葉でもない。彼は自分を知っているのだ。それは、主の前に立つ者だけが分かること。
 ボクも十字架の前に立つ時に、本当の姿を知る。「私は取るに足りない者。それどころか罪人だ」と。さらに「それでも愛された」とも。


●6(木)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。   (サム上2・7)

 長い間、子どもが生まれずに悲しみの中にあったハンナが、主によって男の子を与えられた。その名はサムエル。その子を主に委ねるために神殿に上り礼拝する中で祈った言葉だ。貧しく過ごした日々を知っているハンナ。しかし満たされた日々も与えられた母ハンナ。全てを主の御手の中に置いて見たら、そこにこの「ハンナの賛歌」が生まれたんだ。
 委ね切る信仰というのは、そこに賛美が生まれるんだ。「委ねてます」と言いながら、しんどそうな顔をしてるのは、何かが違うのかも。


●7(金)
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。      (イザ43・19)

 主は人々に、「捕囚後」に目を向けさせる。そこに起ころうとしている恵みの御業へと心を向けさせる。それは、人間が考えることを超えて、新しいこと。それも、苦難のただ中で「もう芽生えている」と告げられているのだ。
 神の計画が、私にも常にある。それは、私の願うことをも超えた、新しいこと。そして、それはもう始まっているんだ。ああ、今日はなんて良い日なんだろう。その一歩としての一日を歩いていると知ったのだから。


●8(土)
主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた。      (申9・24)

 モーセが頑なな民に向かって嘆きの言葉を吐く。モーセ不在の時に、彼らが小牛の鋳造を作って拝んでいたからだ。彼の嘆きの原因はたった一つ、「神に背を向け続けた」ということなんだ。思い起こしても今回だけじゃない。主の助けでエジプトから逃げ出せた直後から、ずっとだった。
 モーセの嘆きは、主ご自身の嘆き。「お前はどうして私に背き続けるのか。お前を愛して守るのは、この私なのに」と。それは切なく泣かれる神の御声に聞こえた。


●9(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●10(月)
わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。  (エレ32・40)

 バビロン捕囚後の幻を、主がエレミヤを通して約束される。それは、都エルサレムへの帰還。そしてそこで一番大事な賜物について告げられたのだ。それが今日の一言、「あなた方の心を守って、神に従い、神から離れないようにしてあげるから」ということだった。
 それにしても「あなたの心を私から離れないようにするから」って、なんて熱いラブコールなんだろう。その吐息さえ聞こえて来そうだ。そうだ! 神は、生きた愛の言葉を語られる方。そんな方を、悲しませてなるまいゾ。


●11(火)
エジプト人は言った。「・・・主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」  (出14・25)

 エジプト軍が、逃げるイスラエルの民を葦の海の前で追い詰めた。しかし神が海を分けて、乾いた地の上を民に渡らせる。それを追いかけたエジプト人が、主によってかき乱されたのだ。それに直面したエジプト人が、神など知らなかった民なのに、「主が戦っておられる」と震えながら告白したのだ。
 「神などいない」という人々が、神を知る瞬間がある。それは、私が主に支えられて生きるのを見る時。そうか、伝道は、私の生き様にかかっているんだ。大伝道集会じゃないんだ。


●12(水)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。    (箴2・6)

 知識を取捨選択して用いるための「知恵」は、神様からいただくもの。だから、頭を低くして「主よ、御心でしたら与えて下さい」と受け取らなきゃ。
 また、あらゆるこの世の「知識」を得るのも、主なる神から。それも口伝えに与えて下さるというのだ。その方法は、真似をするということかも。主がまず御言葉を通して「人はこう生きるべし」と言われる。するとそのままそっくりに「人はこう生きるべし」とね。何だか師匠と弟子の関係みたい。然り、愛弟子なり。


●13(木)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみなさい。   (ヨシュ1・8)

 モーセの後継者として、主がヨシュアを立てられる。その召命の時、主が彼に語られた言葉がこれだ。神と人との間の大切な約束である「律法」に生きるようにとのこと。幸せへの羅針盤は、そこに記された言葉の一つひとつだからだ。その導かれる先には、神の祝福が待っているんだ。
 その律法は、ボクにとっての羅針盤でもあるよね。だからボクも御言葉を口ずさもう。一歩ずつの歩みを、そこに立たせるためにも。その行き着く先は、主の祝福なんだもん。


●14(金)
富を築く力をあなたに与えられたのは主である。(申8・18)

 モーセが民に、「エジプトの国から救い出されたのも、食べて満足できるようにしてもらえたのも、立派な家を得たのも、全て神のお陰だ」、と告げる。続けて、神様が先に約束を果たされたのだから、今度はあなたがたが、その神に従うという約束を守る番だよ、とも。
 命も衣食住も、まるごと神様のお世話の中で生きていいんだ。でも、ちゃんとお世話して下さる方が誰であるか、知っていることが大事。それなのに民は、主から離れるんだ。どうしようもなく恩知らずだなと思って、ハッとした。自分自身のことだと気付いたから。


●15(土)
わたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。 (出9・27)

 「私が間違っていて、神が正しい」と言えたこの人は、信仰の民じゃなかった。彼は異邦人で、加えて「自分こそが神だ、他に神はいない」と言っていたエジプト王・ファラオだったのだ。
 だからこそ驚いてしまった。一番、主なる神を信じることから遠いと思っていた人からこの言葉が出たからだ。たとえ一時的であったとしても、それはスゴイことだと思った。そして、それは私の友人にも起こって欲しいこととも思った。だってこの一言から、神との関りが、神様から始められているのだから。


●16(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●17(月)
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。    (王上17・16)

 預言者エリヤが、主の言われた通りに、干ばつの日にやもめの家に入って食事を乞うた。家に残った一握りの小麦粉で、パンを求めたのだ。その小麦を使えば、壺の中は空っぽになるのに、やもめはエリヤの求めに従う。それはエリヤが、「主なる神が粉は尽きない」と約束されたと伝えた言葉を信じたからだ。
「信じる」って「言葉に命を委ねて従う」ことなんだ。主の言葉は事実となるーそこに生きる軸を置くこと。心持ちの話じゃないんだ。


●18(火)
助産婦たちは神を畏れていた   (出1・21)

 エジプト王のファラオが、「イスラエル人の生まれた男子は、皆殺しにするように」との命令を出した。逆らうことは、死を意味する。しかし神の民であった助産婦は、「私が神だ」というファラオに言葉よりも、主に従った。その理由が、「神を畏れていた」からだ。
 ボクにとっても主を畏れ敬うことは、この世の権威に倣わず、主の言葉に倣って生きること。でも、この世的な慣習や、世間の目を神としていないだろうか。何を畏れるべきか、もう一度自分に問わねば。それも、あらゆる生活の場面で。世間の常識を神とするな!


●19(水)
苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。   (詩4・2)

 ダビデの詩編として聞くように勧められている。それは、彼が抱えた苦難を想うことが出来るから。愛息子による謀反で命を狙われた苦難だ。その時でもダビデは軍隊を整えたのでもなく、対抗策を考えたのでもない。何よりも主にすがったのだ。面前の苦難においてさえ、主が最善をなさると信じて生きたから。
 私は苦難を前に、すぐに武器を用意しようとする。言葉の槍、論破の知識を準備する。それって情けない信仰だ。苦難の日に、自分の信仰が丸裸にされるような気がした。


●20(木)
「律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」 (申32・46-〜47)

 これはモーセの最後の勧告。つまり遺言。迫力をもって伝えたのは、やっぱり「律法の言葉(神様との約束の言葉)を、しっかり聞いて、そこに生きよ」ということ。「それだけ守ったら必ず幸せに過ごせるから」ということ。これまでも口を酸っぱくして言って来たことだ。
 私もしっかり聞こう。モーセの枕辺に正座するようにして、この大切な遺言を。私も、命を支える御言葉に生きる者となるために。


●21(金)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。   (箴1・15)

 「彼ら」って誰のことかな? 聖書を開いてみた時、ドキッとした。厳しい言葉で「ならず者が誘惑する」と記されていたから。その誘惑も具体的に「一緒に来い・・・我々と運命を共にせよ」と記されていたから。身近に「彼ら」は居るんだと気付かされたから。
 つまり「彼らの道」とは、生活の中で当たり前のように思って来た人間的慣習ことであり、そこに神様がいない場所。そんな場所に、片足さえ突っ込むなと言われているんだ。巻き込まれて、命に関わる大怪我をするから。


●22(土)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。   (創28・16)

 兄を騙して長子の権を手に入れたヤコブ。そのゆえに兄の怒りを知り、命を狙われていると思って逃げ出したヤコブ。逃亡中に、荒野で仮寝する彼の傍に、主が立たれた。その眠りから覚めたヤコブが言った言葉がこれだ。
 「この場所に」という一言が、「自分身勝手な罪で窮地に陥ったヤコブなのに、その傍にも主が立って下さる。この窮地の場所が、同時に主がいて下さる場所なんだ」と思えたら、そこで慰められた。自分のせいで窮地を何度も経験するボクだから。


●23(日・聖霊降臨祭 ペンテコステ)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。   (エゼ33・11)

 捕囚の人々の中にいた預言者エゼキエル。彼が、神の言葉を受け取って人々に伝えた。それも神に背いた人々に伝えた。悪人と烙印を押された人々に、だ。
 それは神様の「お前が生きることを喜ぶよ。立ち帰っておくれ、私の所へ」と告げる悲痛な親の声のように聞こえる。まるでボクへの声に聞こえる。それは同時に「愛してる」って叫ぶ御声にも聞こえた。


●25(火)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。        (創17・17)

 アブラハムは主から「あなたの子孫は星の数ほどになる」と約束をいただいた。でもその日から二十五年が経ち百歳となっていた。その彼に「約束は本物だからね」という神に、心の中で笑ったのだ。「そんなの無理さ」と。
 彼は、神の約束と人間の常識とを天秤にかけた。そして被造物でしかない人間なのに、自分の常識の方を選んだ。これと同じことを私もしている。主よ、ただ「然り、御心のままに」といつも言える信仰を与えて下さい。


●26水)
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。         (詩27・4)

 「ああ、この詩人のように私も願って過ごしたい。この願いを第一の願いとして生きていたい」・・・そう素直に思えた。
 こういう心で過ごしたら、一日中、心を高く上げていられるだろうから。一日中、目を天の父へと向けていられるから。日がな一日、御心をたずねていられるだろうから。そんな一日は、きっと満たされているだろう、主の平安と、そして祝福に! そう素直に思えた。


●27(木)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20) 

 南ユダが敵の襲撃に遭った。恐れる人々。その時ヨシャファト王は、主に求めることを決意したのだ。その彼に主の言葉が臨んだ。
 主なる神に寄り頼むならば、「生かされる」と記されている。受け身で「生かされる」ということは彼は何もしないのかな?と思って聖書を開いたら、「主が戦う」と記されていた。
 私が今日生かされているというのも、主が戦っていて下さるからかな? きっとそうだ!滅びと死とに戦っていて下さる。今日守られていて、だから今日生かされているんだ。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。   (出16・8)

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で「食べ物が無い」と不平を言う。そこで主が、朝ごとに天からパン(マナ)を降らせ、夕ごとにうずらの肉を与えて下さった。その恵みの出来事が起こった原因が、何ということか、主に向かって述べた「不平」だったなんて。
 神様は、人間の不平に罰することで応えられなかった。なお恵みを与え続けられる。こんな不合理なことあるだろうか。そうだ、不合理をさえ飲み込まれる主。大きな愛なんだ。


●29(土)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。   (出13・3)
 
 奴隷の国、エジプトから人々は脱出できた。主の恵みの計画によってだ。神様は「その出来事を記念しなさい」と命じられる。繰り返してその恵みを思い出すために「思い起こす日を設けよ」ということなんだ。
「恵みを感謝」と思った瞬間、すぐ忘れてしまう弱いボク。恵みは、記憶し続けることと直結しているんだ。そうか!生を受けた恵みを記念する「誕生会」も大切な事だったんだな。


●30(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●31(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。     (ルツ1・9)

 ナオミは夫に先立たれ、息子たちとも死別。嫁たち二人が残ったけれど、一緒に居るより実家に帰そうと決意した。独りぼっちになるけれど、それが嫁たちにとっての最善だと決めたのだ。そして今日の一言を、別れの言葉に添えて伝えた。
 たった一つ残された命綱とも言えるような家族を手放すなんて。天涯孤独になるのに・・・。人は、ここまで人に対して優しくなれるのか。やもめのナオミが、「あなたのため」と決意したことに、優しさが具現化したのだ。
こんな人に、ボクもなりたい。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 07:35| 『日々の聖句』

2021年04月30日

『日々の聖句』2021年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年4月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。    (イザ四9・5)

 主の御用のため、困難な使命を受けた預言者イザヤ。人々からの賞賛もなく、理解さえされない働きに就いたのだ。しかしイザヤは知っていた。働きに報いるのは人間ではないことを。報いてくださるのは主だ、と。それゆえに彼は、今朝の言葉を堂々と告白したのだ「主の御目にわたしは重んじられている」と。さらに大声で言ったのだ、「わたしの神こそ、わたしの力」と。
 ボクも、主だけを見よう。そこからこそ安心して御用に就ける力も溢れて来るのだから。


●2(金)
わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。   (エレ32・39)

 この「わたしは」というのは、主なる神のこと。だから、神様ご自身が人々の心の中に、主を慕い、主の道に従う心も与えてくださるということだ。迷い道に入り込みやすい羊だから、自分のしたいことだけ勝手にする頑固な羊だから。私たちの心を柔らかにして、道を与え、心も整えてくださるというのだ。
 ああボクの神様って、なんて至れり尽くせりなんだろう。ボクは相当に幸せ者だなぁ。


●3(土)
主は地の面の全ての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。   (申14・2)

 モーセは民に「自分で自分を傷つけたりしないで」と告げる。その理由が、今朝の御言葉なのだ。つまり「神様が、誰よりもあなたのことを大切なんだと選んでくださったのだから」と。また「それほどに神様の特別な宝の一人ひとりなのだから」ということなのだ。
 私を「宝物だよ」と言ってくださるお方がおられる。私の主なる神だ。どうしてそのお方を悲しませられようか。絶対に嘆かせたくはない、絶対に失望させたくない。こんなにボクを大切にしてくださるのは、他にいないから。


●4(日・復活祭 イースター)

イースター礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
「わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」      (エレ7・23)

 神殿の前に立つエレミヤが、主の言葉を民に伝える。それは、幸いを得るために唯一の条件。たった一つの約束事。「主の道に歩むということ」、これだけで良かったのに・・・。
しかし、この呼びかけの直後に、聖書には「しかし彼らは聞き従わなかった」と記されていた。そこには「たった一つの条件だったのに、どうして」という神様の悲痛な叫びが伝わってくる。そして、私はこの「たった一つ」をどう聞くのか。改めて身を引き締めるべきだと思った。幸いから漏れ落ちないためにも。


●6(火)
彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。       (民11・17)

 モーセと共に荒野を行くイスラエルの民が、不平不満を彼一人の肩に集中させた。その重荷に「わたし一人では重すぎます」と主に訴えた時、主なる神は彼を支える七十人を立ててくださったのだ。そこにに、モーセと共に共同体を背負う同労者集団が生まれた。
 教会も同じような気がする。奉仕は一人でしちゃいけない。不満を共に負う者こそ、主に立てられた人。だからどんな奉仕も、その兄姉を祈り求めることから始めなきゃ。


●7(水)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。   (詩55・23)

ダビデの詩とされている。それも、自分の命を狙う敵に追い詰められているときに歌った詩なのだ。死が目の前に迫って来ていて、しかもその敵は以前親しく交わりを持っていた友なのだ。
身体も心も追い詰められる苦しみがある。その重荷を抱えたダビデは、その重荷を降ろすところを知るのだ。それは、主なる神の御手の中。ただ主お一人が、真の支え手なのだから。この一点で、彼は危機のただ中を進む。勝利はまだ見えなくても、前に進めるんだ。


●8(木)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。       (創39・23)

 兄たちの謀略によって、エジプトに奴隷として連れて来られたヨセフ。ファラオの宮廷侍従長の家で働くことになるが、そこでも主人の妻に言い寄られ、拒絶した途端に監獄行きに。どんどん事態は悪化するように見える。しかし不思議に、どの時も切り抜けるのだ。それを端的に告げたのが、今日の御言葉だ。
 ヨセフにはこれ以上の苦労はない人生に思えるけれど、見えない御手に支えられている。何だかそれを思ったら、「私もかな?」と思えてホッとした。見えない御手があるんだ、と。


●9(金)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。    (ゼカ1・16)

 時は、バビロン捕囚からエルサレム帰還へ移ろうとしている。そのとき主なる神が、そこでも先頭に立つと宣言してくださったのだ。一緒に帰還への道をたどってくださる。再建の歩みも御手を添えてくださるのだ。
 希望を与えるのは、主なる神。さらにその希望を実現してくださるのも主。至れり尽くせりで添い歩きしてくださる神様なんだ。
 あっ、生きる術を見つけたり! それは、このお方から離れない事。それは間違いない。


●10(土)
主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。   (士4・14)

 女預言者デボラが、イスラエルを導く士師となっていた時代のこと。九百両の戦車を率いた軍勢を目の前にして、司令官バラクに告げた言葉がこれだ。
 改めて、「勇気って、どこから出るのか」と思う。それは、勝算があるか否かかじゃない。自分の能力によるのでもない。ただ一つのことから来る。それは、主が先立ってくださっているかどうかだ。ならば勇気は祈りから来る。「私は進んで良いですか? そこへとあなたが導いておられるのですか」と問う祈りから来る。


●11(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●12(月)
あなたたちの神、主はこの土地をあなたたちに与えて、それを得させてくださった。   (申3・18)

 ついにイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って進撃しようとする直前のこと。まだ戦いが始まってもいない時に、主なる神が「勝利宣言」を、モーセを通して与えられたのだ。
 「主は、それを得させてくださった」と、未来に起こることが、まるで既に起こったことのように告げられている。それが、神がなさる約束というものなのだ。主の言葉は、必ずこの地で実現するから。ならば、御言葉に一切躊躇せず従おう。その先に、御言葉の実現を戴けるのだから。そこへと、まっしぐらだ!


●13(火)
わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。   (マラ3・20)

 「終末の日」を「審きの日」として、預言者マラキが語る。高慢な者や悪を行う者が、燃え尽くされる日となる、と。なんだか「終末」って怖いかも。でも同時に彼は告げるのだ。主なる神を畏れ敬う人には、明るい太陽が昇る日となると。親鳥の翼の下に雛が包まれるように、主に従ったゆえの傷はそこで癒されるよ、と。
アッと気付いた。「終末の日」は、「救いの日」なんだと。今日の歩みを、お前はこっち側に進む人になれと、招かれているんだ。


●14(水)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。    (ヨブ30・20)

 試練の中にあり、友人たちからも批判されるばかりのヨブが、主に向かって嘆きの声をあげた。その嘆きの中心は、自分がどんなに辛い目に遭っているかということじゃなかった。嘆きは、「神の沈黙」にあったのだ。
 どんなに苦しい日でも、天の真の父が、ちゃんと自分の苦しみを知っていてくださるって分かっていたら、耐えられもするよね。でも、ボクは知っている、この「神の沈黙」の辛さを。


●15(木)
あなたが呼べば主は答え、あなたが呼べば「わたしはここにいる」と言われる。  (イザ58・9)

 主なる神が、「ご自分に従う者の姿」を告げられた。「ああ、なんて嬉しい御言葉だろう」と思う。昨日は「神の沈黙」の厳しさを思わされたばかりだから、余計に嬉しい。
 でも「ちょっと待てよ」と思った。私はちゃんと神様を呼んでいるだろうか、と。自分一人でジタバタしているだけかも。更に悪いことに、何かあっても主を呼ばず、自分の経験に頼り、もっと悪いことに他の力を頼ろうとする。神様が最後になっている。改めて自分に言い聞かせねば「今朝の御言葉を生きよ」と。


●16(金)
あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。   (サム下7・29)

 ダビデ王が、主の前に出て祈った祈りの締めくくりの言葉だ。祝福と長寿を願いつつ、その賜り手にちゃんと顔を向けている。さらに願いのゴリ押しもしない。それは、主の計画が最善だと、委ね切れているから。
 ダビデは、主が「祝福あれ」と言われれば、祝福が生まれると信じている。なんという信仰だろう。まるで天地創造の時「光あれ」と言われて光があったことを、そのまま自分のこととして受け止めている。なんという信仰だろう。


●17(土)
長い年月、あなたは忍耐し    (ネヘ9・30)

 時は、捕囚から帰還後。ペルシャの国で仕えていたネヘミヤが、エルサレムから来た同胞が都の悲惨を嘆くのを聞いて、祈った言葉だ。この「あなたは忍耐し」とは、その人々のことだと思っていたら違っていた。聖書を開いたら、忍耐したのは神様だと知って、ビックリした。
 主の霊を送り続けたのに、耳を貸さなかった人々。しかし報いを負わせずに、なお忍耐されたのだ。それが、主の憐れみと恵みだったと記されていたのを知って、二度驚いた。憐れみと恵みって、主の忍耐のことなんだと分かったから。私の罪も、主は耐え続けていてくださる。


●18(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●19(月)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。   (詩3・4)

 息子アブサロムの反逆で、命まで狙われたダビデ王。周りからも「ダビデに神の助けなどあるものか」と嘲られる。しかし目の前にある絶体絶命を前にして、その只中で彼は、今朝の言葉を告げたのだ、主に向かって!
 心を高く上げたダビデ。万策尽きたと見えても、一策在り。それは、主を頼ること、神を信頼すること。いやそれこそが人間の万策に優るのだ。私もこの御言葉をなぞって祈ろう。そうやって今日の一日を始めよう。


●20(火)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。       (民27・17)

 老齢となったモーセが、後継者を主に願う。それは人々を愛する故。加えて、その人々がどんなに自分本位で生きてしまうかを知っている故。さらに、主なる神が相応しい人を選んでくださるのだと信じ切っている故。さらに、主に選ばれた人も、良き主の僕となることを確信していたからなのだ。
 「隣人を愛する」って、私とあなたの繋がりで考えることじゃないのかも。私と神とあなたという三角形の関係で考えることなんだ。いつも神様抜きにするから、失敗してたのかもね。


●21(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。     (箴3・29)

 ソロモン王のもとに集まった知恵の言葉集である『箴言』。ドキッとするものが多いけれど、今朝の言葉はとびっきりドキッとさせられた。御言葉が私の内心を突いていたから。
 友人に対してなのに、不信が起こり、不満がたまって、悪意が動き出す。悪意は、さらなる悪意を育てて、大きく膨らんでいく。しかし友は、そんな私に対しても、全く今まで通りに安心して傍に居てくれるのだ。その友への悪意って、裏切りそのものだと気付いた。悔い改めるべきは、我にこそ在る。


●22(木)
神に従う人の道を主は知っていてくださる。    (詩1・6)

 「いかに幸いなことか」と始まる詩編第一編。これは一五〇編ある詩の最初の歌だ。そこに、「神に従う人」と、「神に逆らう人」のことが歌われるのだ。もちろんこの詩人は、従うことへと強烈に招く。そこに幸があるからだ。もしかしたら、詩編全体で言いたいことの要約が、ここにあるのかも。
 きっとそうさ! 主に従う人の道をこそ、神様は見守って、支えてくださる。そのことを真っすぐに伝えているんだ。その道の上に、幸いが無いはずがあろうか。ボクもその道を行かん! 寄り道もせず、迷子にもなるまい。


●23(金)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。        (コヘ3・1)

 コヘレトの言葉(口語訳では伝道の書)の中で、一番よく知られた御言葉の箇所かも知れない。三章から「何事にも時があり」と始まって、生も死も、喜びも悲しみも「定められた時がある」と告げるのだ。それも、それを定められるのは神だと悟らせようとする。つまり、御手に委ねて思い煩うなということだ。
 ふと、今年の主題聖句を思い出した「主において常に喜びなさい」だ。そこに通じているなと思った。心穏やかに委ねられたら、思い煩いも緩められ、奥の深い喜びに生きられる、と。


●24(土)
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。   (箴30・8)

 昨日に続いて、今日も旧約聖書にある知恵の書の中の一つ、「箴言」からの御言葉だ。
 ふと「分相応」という言葉が浮かんだ。でも聖書も、そんなことを言うのだろうか・・・。聖書なのに、この世の格言と同じなのだろうか。
 あっ! 違うぞ。全然違う。私に定められた「分」は、人が定めるのではなくて、神様なのだから。「私の持ち分は、お金や養いのことさえも、神に委ねます」と言っている信仰の言葉なのだ。そこに立てたら、安心があるんだ。


●25(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●26(月)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。      (創19・29)

 ソドムとゴモラの町に悪が満ち、神が裁きを決められる。でも、アブラハムが執り成すのだ。それによって、その街に住んでいた甥のロトは、救出されることになる。
ロトの救出は、彼自身の祈りの熱心さや、信仰によるものじゃなかった。アブラハムの執り成しによったのだ。「執り成しの祈りは、なんて大きいのか。神の決断さえも揺り動かすのだから」と思った。祈りを聞いてくださる神様の御心は、深く広い。だから私も懸命に執り成そう。そうしたい人が、いっぱいいるから。


●27(火)
彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」   (代下20・21) 

 主と共に歩んだ南ユダのヨシャファト王。主が命じた戦いに出るとき、彼がしたことは、武具を整えるより、まず主をたたえる者を選び、軍隊の先頭に立たせて御名を賛美させたことだ。「主が行けと命じた時は、既に勝利は約束されたり」と知っていたから。ゆえに人間がすべき残されたことは、賛美のみだ、と。
 私も主の命令を聞くことに敏感でいたい。然り、御言葉こそ命令。それも、従う先には勝利アリ! 顔を上げ、主をたたえて従おう。


●28(水)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。    (創15・6)

 アブラハムは、神様から行く先も知らない場所へと旅立つように促される。それは恵みの計画だからという約束を「信じた」からだ。神は、その「信じた」ことを指して、「お前は義しい人だ」と認めてくださったのだ。
 あっ、義しい人になるのは、一生懸命に聖書の言葉通りの行いをすることじゃなかった。神様の言われることをそのまま信じることだ。ただその一つなんだ。今までちょっと勘違いの信仰生活をして来たかも。やっぱり行いも大事だと、何となく思っていたかもね。


●29(木・昭和の日)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」   (創18・32)

 あれ、数日前もソドムとゴモラの箇所だったような・・・。確かアブラハムが、悪が満ちるこの町を神様が滅ぼすと裁かれたとき、執り成したのだよね。「正しい人が十人いたら滅ぼさないで」と。それに応えられたのが、今朝の主の言葉だ。相手の幸のための執り成しは、神の決定さえも覆るほどに大きいんだな。
 あ、もしお互いの幸を執り成す祈りをする家族だったら、その祈りは聞かれ、家全体が幸福に満ちるんじゃない? すごいことに気付いちゃったかも。神様、それで良いのですよね。


●30(金)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 捕囚の人々の中から、主が預言者エゼキエルを選び立てられた。そして伝えたことが、これなのだ。人々が主に従う者となるように、頑なな心を捨てさせて、柔らかい心を持たせるよ、と告げられたのだ。
 今まで、主に従う従順な心は、自分で培うものだと思っていた。それが信仰者だと。でもちょっと違ってた。柔らかな心も、神様からの戴きもの。主は心さえも備えてくださるから、それを渇望して、ただ戴く人が信仰者なんだ。ああ、すべてが一方的な恵みなんだな。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:06| 『日々の聖句』

2021年03月31日

『日々の聖句』2021年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年3月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
(ソロモンは主に答えた)「善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(王上3・9)

 主なる神から賜物を戴ける。なんでも良いから一つ叶えようと言われた時に、ソロモン王は今朝の一言を願ったのだ。
 何でも叶うのに、今朝のこの一言を選んだソロモン。「ボクなら何を願うだろう」と思い巡らして、幼い日なら「大金持ちになりたい」と思うかな? 老いた日には「特にもう何も要らない」と思うかな? そんなこと考えていて、アッと思った。どちらも、信仰生活を脱線してるのかも。やっぱり、ソロモンはすごいな。


●2(火)
わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。  (エレ31・13)

 神への背きのゆえに起こったバビロン捕囚。しかし悔い改めの後に、神様が計画してくださっていることを、預言者エレミヤが伝えた。それは、散らされた民の帰還だ。悲しみの日々から、喜びの日々への帰還だ!
 ふと思った「苦しみの日々は、喜びの日々へとつながってゆくんだ。苦しみのまま終わらないんだ。それが主の御心、そして計画なのかも」と。そうであるならば、今日を耐えて進んでみよう。ここも神の計画の中と信じて。


●3(水)
心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。     (申4・29)

 偶像礼拝に対する禁止命令の文脈に、この御言葉はある。「一心に求めたら、必ず出会えるから。だから自分で作った偶像へ迷いだす必要はないんだよ」と告げられているのだ。
 なんだか「私の方こそ、あなたと出会いたいと熱望している神なんだからね」という神様からのラブコールのようにも聞こえてくる。ちょっと嬉しい。いや、それが天地創造の神からのラブコールなら、畏れ多くも有難い。そのお心に応えて歩かねば。それは、心を尽くして主を呼び求める祈りから始まる気がした。


●4(木)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」     (サム上3・10)

 少年サムエルが、夜中に主から呼びかけられた。そのとき起き上がって神に応答した最初の一言がこれなのだ。
 私たちも祈り始めたとき、神様と差し向かいになる。その時に先ずすべきことは、サムエルのこの応答なのかもしれない。それなのにボクは、どうしてもお願い事を早口にまくしたてそうになる。でもそれを横に置いて、言うべき言葉はココにある。「しもべは聞いています。主よ、どうぞあなたからお話しください」と。その時、そこに御心が伝えられるのだから。


●5(金)
目があっても、見えず、耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ敬いもせず、わたしの前におののきもしないのかと主は言われる。  (エレ5・21〜22)

 預言者エレミヤが、背きの民・ユダ王国の人々に向かって主の言葉を伝えた。
 ふと思った「私も聖書を通して御言葉を見ている。神の言葉として聞いてはいる。でも、周りの人から見られたら、まるで見もせず、聞きもしない人の姿として生きているのかも」と。エレミヤの言葉は、ボクへと向かっている。これは、ボクへの神様の嘆き悲しみだと思ったら、胸が苦しくなってきた。申し訳なさに・・・


●6(土)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。   (ゼカ2・15)

 捕囚の民に喜びの知らせが届く。それは、単なる捕囚からの解放ではなくて、神が再びあなたの只中に一緒に住まわれる、という知らせ。いやそれだけに留まらず、全ての隣人も神のもとに集う日が来る、という希望だった。
 いつも自分のことだけ考える私。救いのことだって・・・。でも神様は、全ての人の救いを見ておられる。ボクの隣人全ても、神の大切な一人一人だから。ああ、その神様の喜びを、私の喜びにして生きていたいな。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。   (出25・8)

 荒野を四十年も彷徨うことになった民。その人々に神様が、一緒に居たいと願って下さって、幕屋建設(礼拝のための聖なるテント)を、細かく教えて下さった。そのただ一つの御心は「彼らの中に住みたい」ということだった。
 神の御心は、天地創造の時から一事だったのだと、改めて思う。それは「あなたと居たい」ということ。さらにそれがインマヌエル(神は我々と共におられる)の主の降誕となったんだ。あれ、今、凄いことに気付いたのかもね。


●9(火)
なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。   (ヨブ24・1)

 神から「彼ほど無垢で正しい人はいない」とまで言われたヨブが、激しい試練の中で叫びを上げる。友人からも「自業自得じゃないのか」と責められ、悲しみを神に向けて叫ぶ「どうして神様をこんなに愛している私なのに、私は神様から愛されていない者のようだ」と。
 彼の一番の嘆きは、隣人の無理解じゃなかった。やっぱり神様との関係。そこに覆いが掛かっているように思われた時、いたたまれなくて叫んだのだ、「辛い」と。この一途さが、無垢で正しいということなのかも。


●10(水)
我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。   (出16・7)

 人々の心の中には不平の塊がある。それが、エジプト脱出後、彼らが自分中心の欲望から上げる言葉となった、「あれが無い、これも欲しい」と。彼らには、神への感謝がない。あんなに辛かった奴隷生活からの解放だったのに、もう神の救いの業を忘れて、「食い物をくれ」と叫ぶのだ。
 あれっ、これってボクの姿かも。今日も朝から「あれが無い、これも欲しい」って言っているから。「アレもコレも整えられました。感謝です」って祈ってから今日を始めなきゃね。


●11(木)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。    (イザ55・7)

 神は「わたしに聞き従えば、豊かさを楽しめる。わたしのもとに来るがよい、聞き従って魂に命を得るんだ」と、くるおしいほどに人々を求めて下さる。それも、背きの民に向かってだ。「背いて離れたけど、戻って来たら良いから、それだけで良いんだから」と。
 愛されることと、赦されることは、同じ地平にある。ただ神お一人、それを担って下さるんだ。その呼び掛けの中に、私も立っている。


●12(金)
さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。      (創8・16)

 大洪水の後、やっと水が引いた。その時に主がノアに言われた促しだ。それは「皆一緒に、大地を踏んで進め」という招きだった。
 全ての人と一緒に出発することが大事だと主は言われる。無垢で正しいノアだけじゃない。失敗もし、仲違いもあるし、すれ違いだってある欠けばかりの人間同士だけど、それでも一緒に歩むようにと言われている。気の合う人同士だけじゃないんだ。そして、それが新しい世界への出発だからと促されている。神様の願う世界を、垣間見た気がした。


●13(土)
神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。  (エズ8・21)
   
 ペルシャ王の布告によって、バビロン捕囚から都エルサレムに帰還する民。そのとき祭司エズラが祈ったのだ。それは、民の一人ひとりのために、そしてさらに持ち物のためにだった。
 エッ!「持ち物のために」祈ったの? と思った。全てのことのために祈るって、そこまですることなんだと驚いた。でも、そこまで神に委ねたら、すべてのことに満ち足れる平安がいただけるのだ。ああ、ボクの祈りも今日から変えよう、その平安が欲しいから。


●14(日)


主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。        (箴17・27)

 知恵の王ソロモンの箴言と言われ、親しまれて読まれて来た。ここには古今東西の知恵の言葉が詰まっている。その中でも繰り返し言われるのが「口を制すべし」だ。
 確かに、人との間に裂け目を作るのは、口から出た言葉だ。それは「私は口が悪い性質だから、大目に見て」なんて言っていられない。人を傷つけて平気で良いはずはないから。知恵においても、わきまえの無い人だと言われている。でも箴言にあるというのは、古今東西こんな人が多いんだろうな。あ、ボクのことか。


●16(火)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。    (ヨナ2・8)

 自分勝手をし通して窮地に陥ったヨナ。嵐の海に放り出され、大魚に飲まれて腹の中。三日三晩の後に、とうとう祈り出したのだ。そして、自分の愚かさの故の窮地だったのに、そんな者の祈りでさえ、神には届くのだ。
だから、もしかしたら人間の最も大きな罪は、祈らないことかも。だって、自己中心の罪にまみれた者の祈りさえ、神様は待っていて下さるのだから。その御心をさえ無視してしまうことが、祈らないことなのだから。


●17(水)
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。   (箴19・21)

 人間の想い計らいは挫折を含み、多くが思い煩いにもつながる。でも時を得て実現してゆくのは神のご計画なんだ。そうであるなら、私のすべき計画はこれで良い「主のご計画を悟る人になれるように。そしてそのご計画の成就に向けて、歩める人となるように」と。
 然り、私の人生の計画は、信仰から信仰に至り、ついには御国に入ること。その一本道を行こう。そこには平安があり、思い煩いはないから。それ、いいじゃない。


●18(木)
信じなければ、あなたがたは確かにされない。   (イザ7・9)

 ユダ王国に、隣国アラムとエフライムが同盟して攻めて来るとの知らせが届いた時、王も民もうろたえた。そのとき預言者イザヤが「落ち着いて、静かにしていなさい」と告げたのだ。それでも忠告を聞こうとしない王と民。目の前のことで、信じるより恐れることが上回ったからだ。そして告げられたのが今日の御言葉だ。
 信じるか、信じないか・・・それは、生きるか、滅びるかの分岐点なんだ。信じることは精神論どころの話じゃない。現実に直結している重大事なのだ。


●19(金)
わたしはお前の罪を取り去った。晴着を着せてもらいなさい。   (ゼカ3・4)

 ペルシャによるバビロン捕囚解放で、人々は都エルサレムへの帰還の希望を聞くのだ。そこで改めて預言者ゼカリヤを通して知ることは、「自分の罪のために報いを受けた。でも赦された。そこに回復が起こった」と。
 なんだか神様の声が優しく届くようだ「ゴメンねって言うあなたよ、もう良いよ。悔い改めたならもう良いから。同じ罪を犯さないでね。さあ、晴れ着に着替えて、ご飯をぎょうさん食べて、歩き出せ」とね。品行方正の義人よりも、悔いた罪人に、もっと優しい御父なんだ。


●20(土・春分の日)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)

 神に逆らう者たちの手によって、この詩人は苦しめられている。その手に陥り、倒れて、うずくまっている。でも詩人はその時、敵対して争うのじゃない。反論をまくしたてるのでもない。武器を取るのでもない。辛さを訴えたのは、神になのだ。それが義しい人の在り方。それが、主に寄りすがる信仰者の姿なのだ。
 真の正義は「自分の手にある」とせず、「すべて主の御手にある」と生きる。訴えは敵にではなく、主へと向ける。そこにこそ、恵みの御業も起こるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。      (民14・41)

 モーセに率いられて荒野を渡った民が、いよいよ約束の地を目の前にした。その時人々は、主に聞こうとせずに、自分で自分の能力を計って進撃の計画を立てた。その人々に、モーセが嘆きつつ忠言したのが、今朝の言葉だ。「立ち止まれ、まず主に聞くべきではないのか。従うべきではないのか」と。その声さえ無視した人々は、進撃先で全滅するのだ。
 「愚かさ」とは、「自力本願」かも。「賢明さ」とは、「主の言葉本願」。「御言葉本願」で進もう。そこに主の恵みの実りが、一杯あるから。


●23(火)
「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼の声に聞き従ってしまいました。」     (サム上15・24)

 イスラエル最初の王のサウルが、アマレク人との戦いに勝利した。しかしそこで彼は戦利品に心が揺れ、自分の思いで進み、主の思いに立つことをしなかった。それを主の僕サムエルにいさめられ、気付いて言った言葉がこれだ。
 「成功したな」と思った時に、落とし穴が開く。自分で成し遂げたと思うから。そこには神への感謝がなくなってしまうから。そこで人は罪を犯すんだ。あぶない、くわばら。


●24(水)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は、天を仰ぎ、大地を見渡して、心を震わせている。そこに主の御業を見つめることが出来ているからだ。それも、美しい御業をして見つめられるから。驚くべき力ある御業として見つめているから。
 ボクも、心震わせたい。大地を見て、大空を見て、野に咲く花を見て、飛び交う鳥を見て、だ。そこに神の慈しみを見詰めたいから。
あっ、一番大事なものを忘れていた、それは周りの自然にも増して、隣人を見てだ。この最後の一つが一番大事なんだ。だけどこの一つが、一番難しいのかも知れない。


●25(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」   (出14・16)

 エジプトから脱出するイスラエルの民が、その行く手を紅海に阻まれる。後ろには屈強なエジプト軍が追撃して来た。絶体絶命の時、モーセは民に「恐れることはない。主があなたたちのために戦われる」と告げたのだ。そしてそのモーセに主が命じられたのが、今日の御言葉だった。紅海が二つに割れて、人々は地面を歩いて渡れたのだ。
 人知を超えた救出の御業。私のゆく手を塞ぐ困難にも、主が戦って下さるのだ。だからボクは信じて御業を待つべし。静かに祈るべし。


●26(金)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)

 バビロン捕囚の後の「新たなエルサレム」は「主の都」となるのだと預言するゼカリヤ。その喜びの知らせの中心が、主ご自身が人々のただ中に臨在され、生活の中に住んでくださるということだった。
 私には、それが出来事となった日のことを知っている。それって、2000年前のクリスマスの日にイエス様が来られたことだよね。それも真の神が、真の人となって降誕されたことですよね。イエス様を見たら、御父が「あなたのただ中に住まう」と言われた御心が分かる。


●27(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」  (ヨシュ5・15)

 モーセの後継者として、神から選ばれたヨシュア。彼がエリコの町へ出陣する直前、主の軍勢の将軍と出会った。すぐに主の使いであると悟ったヨシュア。ひれ伏す彼に、主の使いが言った言葉がこれだ。彼がいた場所は、人間にとっては日常の中の何でもない場所だっただろう。でもそこで御業が起こったなら、それはもう「聖なる所」であるのだ。
 ボクの日常も、そこで神が御業をなさるということにおいて「聖なる所」なんだ。それを信じた瞬間、周りの景色が輝き出す気がした。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。    (詩84・11)

 詩人は全幅の信頼を、主なる神に置いている。それを言葉にし、また歌にしている。神殿に集う一時が、何にも勝る恵みだと歌っているのだ。
 それにしても、なんて美しい言葉だろう。なんて平安に満たされる言葉だろう。この「あなたの庭」というのは、ボクにとっては礼拝堂のことだ。そこに座って礼拝する時は、恵みを頂けるだけのスウィートな時間なんだ。その一日があれば、満たされて一週間の旅路へと出て行ける。さあ次の日曜日まで駆け抜けるぞ!


●30(火)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 主の言葉に従うバラム。その旅先で、剣を手にした主の使いに出会った。しかしバラムには御使いの姿が見えない。もしそのまま進めば命を落としていただろう。そのとき主がバラムの目を開かれ、御使いの姿を見せたのだ。
 不思議な出来事だなぁ、と思う。でもずっと彼の心には、自分の計画ではなく、主の意のままにという思いがあることが分かる。それさえあれば良いのかも。それが分かれば、良いのかも。それにしても不思議な出来事だなぁ。


●31(水)
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」    (創15・5)

 アブラハムは主から「子々孫々栄える」と祝福の約束をもらって旅立った。それなのに肝心の子供が、いつまで経っても生まれない。もはや祝福はないだろうと思う時、主の言葉が再び臨んだ。それが今日の言葉だ。人間の心は弱いから、周りの状況を見て、常識を見て、自分を見て、揺れに揺れる。「もう無理だろう」と諦める。しかし主の約束は堅いのだ。
だから私のすべき第一の事は、主の言葉を聞くことなのだ。その言葉こそ必ず成るから。

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