2021年01月31日

『日々の聖句』2021年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年1月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)2021年元日

元旦礼拝説教

        辻川篤牧師




●2(土)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。   (エレ26・2)

 新しい一年が始まった。今年は旧約聖書の御言葉を通して一日一日を整えられ、導かれたいと願っている。その冒頭の日に、神がエレミヤに「私の言葉をひと言も減らさず民に伝えよ」と語った言葉が届いた。
人に受け取ってもらいやすいように、自分で薄めちゃいけないんだ。厳しい神の言葉でも、そのまま伝えたら、その人が立ち帰るかもしれないから。人間の業ではなく、神の業が起こるから。神様からの赦しと、祝福が届けられるから。今年も神の言葉は出来事を起こす!


●3(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。   (民14・43)

 奴隷の地エジプトから脱出できたのに、その喜びが冷えないうちに、泣き言と文句ばかりの人々。どこまで行っても、神との関係は実らず、自分中心の注文だけ。そしてモーセにも背を向けて勝手な行動をしようとした。その行動に、今朝の言葉が告げられたのだ。
 自分への恵みとか奇跡だけを要求する人間の姿。そこでは、神との関係が置いてきぼりになってしまう。つまりその場に、神が居られない。人間の側が、その状況を作り出す。ああ、その道には入り込みたくない。


●5(火)
主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。   (申8・7)

 荒野の四十年の苦しみを経た民に、主がモーセを通して伝えたのがこの言葉だ。試練の日々を通らせたのは、良い土地に導き入れるためだったのだよ、と。それは、そこで満ち足りた時に「この幸いに導かれたのは、苦難の日々を含めて、全て主のお陰だった」と心から感謝するためだったのだよ、と。
 私の試練も御手の内にある。それを知ることは、後に恵みの日が来た時、「全て神様のお陰」と、心から喜べるため。憶えよ我が心よ「主に導かれて私はいる。どんな時も」と。


●6(水)公現日
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。   (創15・13)

 アブラム(後にアブラハム)を深い眠りに落とした神は、彼から何代もあとに起こる出エジプトの出来事を予告された。それは彼が生きている間にさえ起こらない遠い遠い未来にある苦難と、祝福の約束だ。
 神様の計画って、どこまでも先を見据えておられる。「未来も主の手の中」と思ったら、今日を委ねる勇気が満ち溢れて来た。


●7(木)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。     (箴3・12)

 「懲らしめ」と聞いて、「なんだか嫌だなぁ」と思ったけど、よく読んだら「かわいい息子」って言ってくれている。「目の中に入れても痛くない息子よ」と呼んでもらえている。その父が、懲らしめの向こうにある「恵み」を、見ておられないはずがない。
 父なる神は、自分勝手ばかりするボクなのに「かわいい息子、愛する子よ」と言って、その向こうの「恵み」に連れて行ってくれようとしてくださるんだ。「懲らしめ」という道を一緒に辿ってくださりながら、ね。


●8(金)
一体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか、しかも、神でないものと。   (エレ2・11)

 「何のこと?」と思って聖書を開いたら、主がエレミヤに「エルサレムに行って人々に語れ」と預かった言葉だった。それは二重の罪の宣告で、「お前たちは真の神である私を捨てた罪がある。同時に神でないものを拝んだ罪がある」と。神様が、「何故そんなことをするのか」と激しくいら立っておられる。
 私も神様に背を向けて自己中心でいる時、二重に神様を嘆かせているんだ。一つではない。私のせいで、神様が泣いておられる・・・。


●9(土)
まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザ30・18)

 バビロンの脅威に怯える民に、イザヤが「主に信頼することに力がある」と訴えかける。「そうすれば救いの恵みがあるから。それを与えようとして、主ご自身が待っておられるのだから」と。その文脈の中に、この御言葉もあった。
 真に、主を待ち望む人に恵みが届く。でも、その「静かに待ち望むこと」こそが、本当は難しいのかもと思う。彼らもボクも、自分を頼ってしまうから。でも今日、ジッと恵みを思おう。いやそれを与えて下さるお方を見詰めて過ごしたい。今日だけでも、今日こそは。


●10(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●11(月・成人の日)
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣と全ての家畜を御心に留めた。   (創8・1)

 大地を覆う洪水の中、狭い箱舟に全ての生き物が乗っていた。舟の外には死があった。しかし、大きな生き物も小さな物も、神様が心に掛けて下さっていたから平和を留めていたのだ。全てが神の創られた命だったから。
私たちも、神に創られた生命。本来神の御心の中に留まれるはずなのに・・・。その外に迷い出したら、死の世界なのに・・・。迷い出して、舟の外に落ちるのは私の背きのゆえ。今日、神様の舟の中に留まろう。全ての生き物と、全ての隣人との間に、平和があるその場所に。


●12(火)
わたしの王、わたしの神よ。助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。    (詩5・3)

 叫びたい現実を抱えている詩人。辛い事があるのだろう。その胸の内を全部さらけ出して、主なる神にぶつけているんだ。それが、祈りとなったのだ。
 胸の内を聞いてくれる方を得ている詩人。その一人を得たら、人は決して孤独にならない。どんなに苦難の中にあっても、八方塞にならないから。ボクも「あなたに向かって祈ります」と言える「あなた」を見詰めよう。「あなたに」と言えたら、もうそこでホッとできるから。


●13(水)
神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。   (ヨブ17・9)

 義しい人が試練を受けて財産も健康も失った。そんなヨブを友人たちが「自業自得だ」と責め立てる。それに対してヨブが、なお神に目を上げて「どうかあなたが私の味方になって下さい」と祈りつつ、まるで自分を鼓舞させるように今朝の言葉を告げたのだ。「神に従う我として、聴従の道を守れ。勇気を持て」と。
 試練は、主への信頼を弱らせる。それでもなお拠り所は、主の御傍なんだ。弱っていても良い、次を踏み出す勇気も神様から賜わろう。それこそが必要な一事なのだから。


●14(木)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。     (申13・1)

 神様からいただいた掟を、モーセが人々に再び告げ直す。それは、道を外れてしまう事への警告でもあった。「神が命じる言葉に一字一句加えず、一字一句減らすべからず」、と。
 私も御言葉に対して、そんな風に道を外れる時がある「この御言葉は無理だから従えなくて良いよね」と減らし「あの人が謝ったら赦そう」と条件を加える。今朝の警告は、図星の指摘。それに気付けたから、王道に戻れる「あなたの御言葉を、そのままに生きたい」と。


●15(金)
大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。    (エレ4・27)

 民の背きのゆえに国が滅びへと向かうことを、エレミヤが預言する。当然の報いを得るのだと告げられたのだ。
 でもよく読むと、預言の言葉のトーンが、裁きにあるんじゃないようで・・・。神様が告げたいのは「わたしは滅ぼし尽くしはしない。あなたを生かしたいから。悔い改めた時には立ち上がるんだよ」と言っておられるんだ。厳しくて義なる天の父であられるけれど、「あなたを愛しているから」っておっしゃっておられる気がした。怒られているのに、心は和んだ。


●16(土)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。   (エレ2・19)

 イスラエルの民の背信によって亡国に至る預言が、エレミヤによって告げられた。
 旧約聖書は、人々がどんなに神様に愛されたのか、それにもかかわらず人は何度神を畏れず、主を捨てて来たのかが赤裸々に語られる。読むたびに、そこに自分の姿が重なってドキッとする。だからそこに起こる神の嘆きも、背信の子に涙する親の言葉のように赤裸々に聞こえる。私に生々しく、愛されているってことが激しく突き刺さる。


●17(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)




●18(月)
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。   (エゼ18・23)


 一読して、エッと不満に思った。悪人に裁きと罰が下されるのが旧約の律法のはず。神様だけが、隠れた悪人の業をも見逃さないで裁いて下さるお方のはず。この方によってだけ、この世の正義は貫かれるはずなのに。
 でも、アレッと思った。この「悪人」のところにボクの「篤」って名前を入れてみたら、たちまちニュアンスが変わって聞こえて来たから。何だか申し訳なくて、有難く聞こえて来たから。ボクってゲンキンな迷子の一匹の羊だった。


●19(火)
あなたも心して、ほめたたえよ。   (ヨブ36・24)

 神をほめたたえるのに、どうして「心して」と言うのだろう・・・。聖書を開いて、改めて考えさせられた。これはヨブに対して友人が言った言葉だったからだ。財産と家族をすべて失い、自分も腫れ物だらけの瀕死の体で苦しんでいるのに、友人は「お前の信仰の不十分さのゆえの苦しみだ」と責めているのだ。
 一見、正論。でも、人の傷口に塩を塗る言葉でしかない。このとき本当はヨブに、何と言ってあげれば良かったのだろうか。考えさせられてしまう。私なら、何と言ってあげられただろう。身近にある問いのように思えた。


●20(水)
呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。   (ヨブ13・22)

 昨日に続けてヨブ記!
 昨日も読んだような理不尽な友人の責めに、今度はヨブが答える。それも、その思いは神へと向けた訴えとなったんだ。責める相手への言葉ではなく、神に祈りの顔を向けたんだ。
その姿は義しい歩み方。でもその言葉に、傲慢な思いも潜む。「神の目にも、私に罪はない」と思う傲慢が。「何の落ち度もないことを私は証明できます」と言いたい傲慢が。その時、義人ヨブでも己の姿を見失うのかも。


●21(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。      (エレ9・23)

 「むしろ」と言われているのは、「知恵、力、富を持つ人が、それらを誇ることよりも」、ということ。でもなぜ「主を知ることの方が良いのかな」と思って、続けて聖書を見たら「主は慈しみと正義と恵みの業を行うことを喜ぶ方だから」と分かった。
「それりゃ、ボクの貧弱な知恵や力を誇るより、そっちの方が良いよ」とうそぶきつつ、ウっと思った。分かっているつもりなのに、実際は自分を誇りたい自分がいるって気付いているから。なんだか信仰二面相の自分が・・・。


●22(金)
神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と。   (詩14・1)

 「なんだ、当たり前のこと言っているよ」と思って、聖書の続きを読んだら、神などないと言う人々が忌むべき行いをして、善行もしないことを嘆く言葉があった。
 私も自分勝手な生活をしている時、「神様が今、傍におられる」ということを忘れている。だから御心から外れてしまうんだ。ふと「神を知らぬ」というのは、「神との交わりを失っている」ということだと想い出した。旧約には私の姿がそのままある。「主よ、今という刹那も一緒に居たい」と、瞬間ごとを歩みたい。


●23(土)
主よ、もう十分です。私の命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。   (王上19・4)

 預言者エリヤが、王女イゼベルに命を狙われる。それは王女のお気に入りのバアルの神官を打ち負かしたから。神に聴従して、かえって窮地に立ったエリヤ。だから「もう無理、もうイヤだ」とふてくされている。
神様に従うなら、バラ色人生が戴けるというのじゃない。でもそこにあるのは、神が計画される破格の出来事だ。従う人生というのは、その結果まで従い抜くという事。預言者ってキビシー、いやキリスト者も同じかもね。


●24(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
(創12・8)

 アブラム(後のアブラハム)は、神様からの召命を受けて、行く先も分からず主の言葉に従って旅立った。その不安な旅の途中に、主が彼を励ますようにして現れてくださる。その時、彼も即座に礼拝の場所を整えたのだ。
 私の人生も、不安な旅路であろうと、そこに主が共におられる。その場で私のすべきことは、まず主を拝むこと、礼拝第一なんだよね。

●26(火)
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。   (サム上2・2)

 不妊の女ハンナが恵みを得て、サムエルが生まれた。そのとき彼女が、主を賛美して祈ったのがこれだ。のちにマリアの賛歌に並んで、信仰者に慕われる賛歌となった。
 その喜びは、単に願いが叶えられたということじゃない。ご利益を得たゆえじゃない。貧しいものを富ませ、弱い者を塵の中から立ち上がらせて下さる神だから。その「主」と「私」との関係が実感できた喜びなんだ。守って下さる確かな一人を、実感できた喜びなんだ。


●27(水)
わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。  (エレ15・21)

 主の言葉に従って歩もうとする時、この世でぶつかり苦労する。エレミヤもそうだった。神様の言葉を預かって語っても、かえって人々から反感を買うことになる。その時、神に従う者を救い出し、守る方がおられる。それは、御言葉の語り手ご自身の神様なんだ。
そしてそこにこそ、神の御心が成ってゆく。ただじっと待っていたら、御心が成るというわけじゃない。御言葉を聞いたら、前を導く主を信じて進め。同時に、背後に守り手の主が居られると信じて進め。恐れるな、私!


●28(木)
神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。       (コヘ3・11)

 この直前に神は、「永遠を思う心を人に与えられた」と告げられている。今朝は、それでも人間の思う永遠より、はるか前から神は御業をなさり、はるか向こうまで御業を成し続けて下さるのだと語られているんだ。
 ああ、人間の成すこと思うことって、どこまでも有限なんだなぁ。でも、それでもいいとボクは思う。だって、どこまで行ってもボクは神様の御手の中に入っているってことだから。
 今日の一日も心配ない。そうさ、心配いらないんだ、神様が見極めていて下さるから。


●29(金)
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。     (サム上2・1)

 願っても祈り続けても、子供が与えられなかったハンナ。ついにサムエルが与えられた時、主に向かって賛美し始めた。その冒頭の言葉がこれだ。はじけるような喜びがここにある。
でもハンナは、単に「嬉しい、万歳」と言っているんじゃなさそうだ。その「喜びの源泉」を見つけたことが嬉しいと歌っているのかも知れない。その源泉は「主にあって」ということ。
喜ばしいことは、主からの贈り物。このお方から離れないでいよう。その泉から恵みは溢れ出すんだから。見失うまいぞ!


●30(土)
ロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。」    (創19・17)

 悪に染まった町ソドム。そこから逃れさせようと、主の使いがロトの一家を導き出す。でもなぜなのかためらうロト。住み慣れた場所だから? 一家での移動は大変だから? しかしそこに留まれば、町もろとも滅びしかない。その真剣さを知るのは、むしろ主ご自身。だからせき立てて言われたのだ「命がけで逃れよ、さあ早く」と。
 ボクにも、主は声を掛けられる「あなたの悪を離れよ、命がけで逃れよ」と。神様、ハラハラさせて御免なさい。あなたの促しに従います。


●31(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:39| 『日々の聖句』

2020年12月31日

『日々の聖句』2020年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年12月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。    (マコ3・9)

 湖畔におられたイエス様の所に、人々が怒涛のように押し寄せて来た。病の人や苦しみの人が奇跡を求めて、イエス様に触れようと押しかけて来たからだ。
 それを御覧になったイエス様は、自分勝手を叱るのでもなく呆れるのでもなく、一歩だけ退かれる。全員に癒しが届く、ご自分が押しつぶされない距離をとられたのだ。どこまでも「あなたのために私はいるよ」と歩まれた主。その御足の跡をボクも歩んでいたい。


●2(水)
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。 (使11・21)

 ステファノの殉教事件で迫害の嵐が起こり、キリスト者たちは散り散りに。アンティオキアまで逃げた人々が、困難にもかかわらず福音を告げ知らせたのだ。主がその人々を助けて、大きな群れが生まれてゆくことになる。
 主が助けられたのは、単に弱り切った人というのじゃない。「しかし、にもかかわらず」と十字架の福音を証しした人たちを、だ。
私は今まで勘違いして来たのかも。弱いから助けがあるのじゃい。弱くても信仰に生きる人に、だ。主こそ誇りと生きる者に、だ。


●3(木)
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。         (ヤコ3・10)

 十二節分もかけて徹底的に、「舌は死を持つ毒に満ちている」と語られる。その中の一節だ。執拗に告げられるのは、口から出る言葉で、人はどうしても失敗をしてしまうから。そしてその結果は、激しい悪を生むからだ。
 口から出るものは、心から生まれる。言葉に、心の奥が透けて見えているということなんだ。ドキッとした、「私は口が悪いんです」って暢気に言ってはいられない。酷い悪を作り出す人間だと、見られているのだから。


●4(金)
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。    (ヨハ21・12)

 単なる朝食場面かなと思ったが、ヨハネ福音書の最終章であることに気付いて、ハッとした。ご復活の場面だと思ったからだ。
 甦らされたイエス様は、これまでと同じように朝食を一緒にされる。集まって、分け合って、日毎の糧を口にされる。それは、日常の中に復活の喜びが介入して来ると肌身で分かるため。「今ここにも福音が満ちている」と分かるため。ありがたい。私の今朝の食卓も、復活のイエス様が一緒だったんだ。明日は「おはようございます」と、挨拶の祈りをしようかな。


●5(土)
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。    (1ペト2・12)

 「キリスト者って、どんな人だろう? 愛の人なのか? 偽善者なのか? この世の人と変わらないのか?・・・」と、人々は私を見ているのだ。
 私を通して、福音が届けられる。緊張して生きねば。正に祈りつつしか過ごせない。信仰者の生活は、ピリッとしているべきなんだ。


●6(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●7(月)
それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。   (マタ16・15) 

 主は全土を巡られたけれど、ご自分への信仰を見つけられなかった。弟子たちに「人々は私を何と言ってるのか」と問われる。「預言者の一人だと言ってます」と答える弟子たち。そこで再び問い直された言葉がこれだ「人々のことはもう良い。それでは、あなたはどうなのか。私への信仰はあるのか」と。
 「私の主よ、私の神よ、あなたは救い主です」と答えたい。四六時中そう告白し続けて過ごしたい。覚めている時も眠っている時さえ。その信仰を私にも与え給え。


●8(火)
あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。(使5・4)

 「え、神を欺いたのだなんて、恐い。どういうこと?」と聖書を開いたら、アナニアとサフィラ夫妻が、献金を真心から献げるのではなく、偽りがあったからだ。それをペトロが、「サタンに心奪われた」と告げたのだ。
 奉仕も、献げることも、礼拝することさえも真実の心からしないならばサタンの支配下なのだ。献金の額で人の目が気になる、奉仕の業で人の評判が気になる、そこには神への欺きが潜んでいる。
 これは、最もボクの近くにある心。「恐いことを思っているのだ」と気付くことが大事だ。


●9(水)
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。 (マコ2・22)

 救い主を信じる信仰は、この世の生き方をする生活の中には入れられないんだ。信仰も、生活も、どちらも破れてひどいことになるから、とイエス様が言われた。
 日常生活は今のまま変えず、信仰生活もしようと思っていたら双倒れになる。この世を捨てなきゃ。だから古来から隠遁者生活をする修道会も生まれて来たのかも。でも修道院に入らないボクは、どう生きれば良いの? もしかしたら「これが普通だ、常識だ」と言いそうになる時に、「ちょっと待て、イエス様ならどうされた?」とリセットして生きることかも。


●10(木)
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。  (1ヨハ4・20)

 「偽り者です」とは、誰に向かって偽りを言っているのかと考えて、すぐに分かった。瞬間、ヒヤッとした。それは、神に対して偽っているからだ。当然その人を見ているのは神なのだ。
 神が「お前は私を愛しているのか」と御覧になる時、私の告白を聞かれるというよりも、ハッキリと私の本音が現れる場を知っておられる。それは、隣人との生活の現場だ。神を愛するように、実際に隣人を愛さなければ。確かこれって、あの「黄金律」だったよね。やっぱり二つは、一つなんだな。


●11(金)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。    (マコ14・6)

 最後の晩餐の時、一人の女が高価な香油の瓶を割ってイエス様に注ぎ切ってしまった。その女に対して、人々が「もっと律法に適った方法があるのに、貧しい人に施すという方法が」と呟いた時、主が言われた言葉がこれだ。
 教会の奉仕も、社会奉仕も、「これが通例として良いやり方だ」という思いが、「ただ主の喜びのために」という心を覆ってしまう時がある。改めて一心不乱に「主の喜ばれることは何?」ということに、心を据え直そう。教会でも、さらに社会奉仕に関わる時でさえも。


●12(土)
信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。      (ガラ3・7)

 律法に従って善行を積み重ねた人が救われると考えていた人々に、パウロは「行いじゃないよ」と告げた。イエス様が救って下さると信じる者が、恵みによって救われるのだ、と。
 人は、努力して修行して悟りに至る道が王道だと考えやすい。だから神に喜ばれるのも、品行方正で善行を積み重ねることが大事だと。でも、違うんだ。「自分が望むことが何もできない、イエス様に救っていただくしかない」と信じる者が、神に喜ばれる人なんだ。まるで乳を求める赤ちゃんのように、なんだ。


●13(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師
   



●14(月)
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。         (ヨハ1・29)

 洗礼者ヨハネが、イエス様を見つけて叫んだのが、今朝の言葉だ。イエス様が「誰であるのか」が、この一言で全て告げられている。世界中の人々の罪を取り除くことが出来る救い主であられる方、神であられる方、それなのにご自分が贖いの供え物として屠られる小羊となられる方だ、と。
 それがお前に関わるお方なんだというようにして、「見よ」と告げられていたのだ。
 あ、「世の」というところを「篤の」と入れ替えたら、ドキッとした。2000年前の言葉が、ボクの心に飛び込んで、刺さったから。


●15(火)
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。    (コロ2・3)

 哲学による知恵を得るのが正しく生きるために最重要なことだと、議論の花を咲かせていた人々。しかし最も大事な真理は、キリストが死なれて三日目に甦らされたことだと御言葉は告げる。そこに、人間には捉えようもない神の愛の真理が、顕になってるのだからと。
 本当に大切なものは、人間が考え出したり、生み出せるものじゃないのですね。それは、上から来る。それを受け取る方法は、一つだけ。信じるという方法。それって大人より幼な子が得意なこと。幼な子のようになりたいな。


●16(水)
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。     (ヨハ3・5)

 善行を積んで律法に添って生きていた優等生ニコデモ。でも、天国に入るためには何か足りないように気付いていて、イエス様の所にコッソリ訪ねた。そこで聞いた言葉がこれだ。「信じて洗礼を受けること、それのみが天国への門なんだよ」と。
 天国には、努力したら入れるというんじゃない。招かれて恵みとして入るんだ。つまり神からのプレゼント。ああ、全ての人にこの洗礼という贈り物を受け取って欲しい。一緒に天国に行きたいから。それが牧師人生唯一の願い。


●17(木)
裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。       (ヤコ5・9)

 幼い頃、「最後の審判の日が来る。そのとき裁きもあるぞ」と聞いて来て、ちょっと恐かった。でも、「裁きを受けないようにするためには」って、御言葉は教えてくれる。「あの頃これも一緒に、ちゃんと教えて欲しかったな」と不満に思って、アッと小さく声が出た。今、不平を言ってしまってる、と気付いたから。
 「不平を言わぬこと」って難しい。でも今朝、「逃げちゃダメ、そこから逃げちゃダメ」って御言葉が叫んでいるように聞こえた。


●18(金)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。    (エフェ6・16)

 悪に対抗して立たてと告げられる中で、神の武具が与えられると言われる。その武具の一つが「信仰」。これは防御のための盾。イエス様だけを見詰めて、信じて歩む。それが悪の誘いを打ち払うことになるのだ、と。
 誘惑を打ち払うのは、自分に強い意志が無ければと思ってた。でも、私の意志なんて弱いとも分かっていた。だから、だ。親にすがる子供のように歩めばいい。すがりつく手を離さなきゃいいんだ。その手が「信仰」なのだから。


●19(土)
御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。    (エフェ1・17〜18)

 神様を初めて知った日も、より深く知ってゆくことも、「自分の努力」じゃないんだ。知恵と天からの知らせを聞ける霊を送って下さるという、「天の父の贈り物」によってなのだ。
 じゃあボクは、それを受け取るために心を広く開けて「主よ、父よ」と呼べばいい。何だか最近、幼な子になる勧めばかり思い巡らせているなぁ。もしかしたら御父との関係の赤ちゃん返りって、ふふっ、かなり良い事なのかもね。


●20(日)

クリスマス礼拝説教

         辻川篤牧師



●21(月)
本当に、この人は神の子だった。      (マコ15・39)

 クリスマス礼拝を過ごした次の朝に聞いた御言葉として、心に染み込んで来た。これは、十字架で死なれるイエス様を見た百人隊長が告白した言葉だけれど、この言葉にこそ、降誕の目的が秘められていたのだと、今朝改めて思ったから。
天から降られた理由は、十字架の死に向かうこと。人間の誕生は喜びだけなのに、イエス様の降誕は、深い悲しみを背負っておられたんだ。今朝ボクも思う「あなたこそ本当に神の子」と。深い感謝と、もったいなさと、慕わしさと、喜びとが、混ざり合って心に拡がった。


●22(火)
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。     (ヨハ14・6)

 「父のもとに行く」というのは端的に「天の国に行く」ということだ。
父なる神を知るだけなら、色々な本を読んで学ぶこともできるだろう。でもそれは、ショーケースに入っている食品サンプルを見ているだけのこと。本当に天国で御父に会えるためには、イエス様を信じることのみなんだ。学ぶことと、信じることは異次元のこと。そしてその実りも、文字通り天と地の違いなんだ。「主よ、ただ信じます」と生きていたい。


●23(水)
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」    (ヤコ4・6)

 神様の恵みは、是非いただきたい。神様の敵になるなんて、滅相もないこと。そう願う私はどうすべきなのか! 私にはもう既に分かっていたのかも知れない。今朝の御言葉を見て、そう思った。
 高慢になるな、ということ。謙遜になれということ。でもきっと、その真逆を生きている。その結果が、神様との関係にまで深く影響するって分かっているのに。
 今日、生き方を修正しよう。すぐに改めねば! 主よ、ボクを謙遜な者に変えて下さい。


●24(木・クリスマス イブ)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。    (コロ3・12)

 今日はクリスマス・イブの日だから、特にこの御言葉はジ〜ンと心に沁みて来る気がする。「あなたも神に選ばれ、愛されているよ」と聞こえて来るから。「ほら、イエス様があなたの所にお生まれになったのを見詰めたら、それが確かだと分かるだろ」と。
 だから愛された者として、ボクも憐れみと慈愛をもって生きよう。イエス様のように謙遜に、柔和に歩んでゆきたい。素直にそう思う。


●25(金・降誕日)
(イエス)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  (マコ2・17)
 
 この御言葉の通りに、御子イエス様が天から降って来て、この私が生きる地上に来られ、私の生活の中で語りかけて下さるのだ。罪人のあなたを招くために、降誕したのだよ、と。
 それは、救いが必要だから。病人が医者を命綱として必要とするように、救い主がいて下さらないと永遠の死を死んでしまうからですね。往診のために傍に来た医者のように降誕された主を、今日一日思いつつ過ごしたい。


●26(土)
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。    (1コリ10・32)

 一瞬、目を疑った。「人に惑わされるな」と言われているのじゃなくて、「私自身が人を惑わす原因となるな」と言われていたから。聖書を開いたら、自分の信仰理解を他者に上から押し付けることへの警告だった。そういうふうに生きるのではなく、他者の信仰生活の利益となるように語り、振舞わなくちゃ。
 自分が育った教派的な違いで、他の信仰者を色眼鏡で見ちゃいけない。互いの違いを「信仰の豊かさ」と受け取って、喜び合って生きるべき。主は一人、信仰は一つなのだから。


●27(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●28(月)
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。    (1ペト4・1)

 イエス様は、この世で受難を受けられてからご復活をなさった。そこを通らずして勝利もなかった。そのイエス様の御足の跡を行く私なのだから、私も闘いを通らずして進めない。それは、かつてこの世で自分の欲に従って歩いていた生き方を捨てる闘いだ。
 主の御言葉を握れ。それが私の武装だから。それも、主日礼拝で受け取った御言葉を、一週間握り通せば良いのかも。まだ今日は月曜なんだから、忘れているようではイカンよね。


●29(火)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。      (ヘブ11・17)

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と十一章一節に始まる段落で、数々の信仰の先達たちの実際の歩みが告げられてゆく。「確かに彼らは、そのように歩んだ信仰の父祖たちだった」と。そして「確かにその歩みの中で、神の計画の内にあった恵みも受け取っていったよ」と。
 私の一歩も、そのようでありたい。たとえ今は神の御計画が見えなくても、御言葉を信じて一歩を踏み出したい! そここそが、見えない未来につながっている道だから。


●30(水)
使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び     (使5・41)

 「エエっ! 辱めを受けることを喜ぶの?」と驚いてこの箇所を開いたら、イエス様の福音を語ったことによって迫害を受け、鞭打たれたことだった。「なんだ、信仰を告白した故の迫害を、キリスト者として喜んだんだ」と辱めの意味を知って、ホッとして、ギクッとした。「ボクは現実生活で、恐れず伝道できているか」と自問したら、たじろぐ自分がいたから。
 彼らと私は何が違うのだろう、何が足りないんだろ。もしかしたら信仰と、信仰のようなものとの違いかも。命懸けじゃないのかも。


●31(木)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)

 二〇二〇年が今日で閉じられる。今年はコロナ禍の中で、色々なことを自粛させられて「待つ」ことの多い日々だった。それもいつ終わるか分からない故に、余計に辛かった。
 聖書も「待て」という。でもそれはハッキリしたゴールがある。それも希望に満ちたゴールだ。イエス様が再臨されて、涙がことごとく拭われる日なんだから。「信じて待つ」というのは、この世の「待たされる」というのとは全然違って、希望があるね。
 さあ、新しく「信じる一年」が始まるよ。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:20| 『日々の聖句』

2020年11月30日

『日々の聖句』2020年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年11月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(日)

主日礼拝説教

召天者記念礼拝

         辻川篤牧師



●2(月)
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。 (2テサ3・5)

 神様が私を愛してくださると悟れるのは、自分の信仰によるのじゃない。キリストに立ち帰って従う者となることも、私の信仰によるのじゃないんだ。全てを悟れるのは、主ご自身の御業なのだ。
 何もかも主の御業による贈り物。地上の肉体の誕生も、霊的新生も、信仰者としての生涯までも、全て手厚い愛の中。ボクはそうしていただけるのに相応しい物を、何も持っていないのに、ただ主の愛が溢れたんだ。


●3(火・文化の日)
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 (1コリ9・25)

 「ボクも、賞としての冠をもらえるんだ」と、素直に嬉しく思った。栄冠なんて、あんまり縁がなかったから嬉しいと思えたのかな? いやちょっと違うかも、この栄冠が神様からいただけるんだと直感したから。
 金も銀も月桂樹も朽ち果てる。でも、神様に「キリスト者として人生をよく走り抜いたね」と褒められつついただく冠は、天の国で朽ちることはない。だから、さあボクの足よ、目標に向かってひたすら走れ。天の栄冠を目掛けて、今日を走ろう。いざ!


●4(水)
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 (マコ15・14)

 人々の声は激しく「殺せ、殺せ」と叫ぶ。そこで一人も、「何ということを言うのだ。救い主だぞ」と主の側に付く者はいない。弟子でさえ逃げ去ったのだから。巻き添えになるのが怖かったから。ふと思った。イエス様は、ご自分を殺す者のために死なれたんだ。正に理不尽な死。罪人の救いのために、何て酷いことが起こっていたのか! 
 私はどこに立つのか。群衆の側か、逃亡弟子と一緒か。いずれにしても弱虫で自己中心な罪人の側。私こそ酷いことをする張本人!


●5(木)
だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 (1コリ1・29)

 誇ってしまうものは何か。それは、自力で手に入れたと勘違いするもの。聖書はそれらを「地位、力、知恵、能力だ」と数え上げていた。でもこれらって、学校では「自力で獲得するもの」と教えて来たのに。
 聖書は、全部神様からの贈り物だと言う。それを気付かせるため、無力な者を選ぶのだとも言う。確かに聖書では無力で弱い者がいつも選ばれる。それは誰よりも、罪人だね。だって「神のお陰って」一番分かる人だから。罪人は、赦してくださった主だけを誇るから。


●6(金)
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 (1ヨハ4・9)

 「お遣わしになった」その場所は、人々の上に立って導く場所じゃなかった。この世の救世主のように、人々の先頭に立ったのでもない。私たちは、神の独り子が遣わされた場を知っている。それは処刑台の上、罪人が死ぬ十字架の上だった、と知っている。
 そこに、天の父の私たちへの愛が露わとなったんだ。独り子の十字架こそ誇らん。


●7(土)
あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。 (ルカ10・41〜42)
 
 マリアと違って、イエス様のもてなしのためにせわしく立ち働くマルタ。マリアが何もしないのに腹を立てた時、イエス様がマルタに言われたのが、今朝の御言葉だ。
 「マルタよ、思い悩み過ぎるよ。重荷を降ろして御覧、私から恵みの言葉をもらうだけで良いんだよ。それが必要なただ一つのことなんだから。さあ立ち帰って、受け取れ」と。これは招きの言葉だ。決してマルタ型人間を責めてはおられない。マルタも愛しておられるから。


●8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●9(月)
まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 (ルカ15・20)

 親に生前財産分与を要求し、それを遊興で使い果たした自分勝手な息子。飢え死に寸前で、家に帰る放蕩息子。
 その息子の帰りを毎日待っていた父親が、自分を捨てた息子なのに、走り寄って出迎えてキスをした。イエス様は、その自己中心息子があなただよ、この父親が父なる神様だよと譬え話をされたのだ。幼い頃これを聞いた日、御父の思いを知って、心が温かくなった。


●10(火)
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 (マタ5・18)

 イエス様の「山上の垂訓」の一言。人々は、救い主が来たら、旧い神の掟である「律法」は要らなくなって、救いのみが来ると誤解していた。私も同じ誤解をしているかも。律法の行いは、不要になったと。
 でも主は「否」と言われた。律法は、神が人を祝福へ導く道標だから。その御言葉に聴従せずして幸いはないんだよ、と。


●11(水)
(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。 (マコ6・6)

 故郷に帰られたイエス様を、子どもの頃から知る人々が、「あれは我々と同じ人間、大工の息子じゃないか」と言い捨てたのだ。
 目で見て、自分の常識で考えるだけなら、イエス様を主とは分からない。そして、その肉の目を「不信仰」と言われたのだ。イエス様を主と仰ぐためには、信仰の目が必要なんだ。
 そういう目を持っていた人を知っている。それは長血の女や、娘が死にかけている父親、罪人。そうだ「主よ、憐れんで下さい」との叫びを持っている人たちだった。試練とか魂の渇きは、神からの大事な贈り物かもしれない。


●12(木)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 (エフェ4・31)

 「捨てなさい」と厳命されている。それは「お前はこれらすべてに染まっているから」という指摘じゃないのか。
 いつも自己中心で、隣人への慈しみも自分に余裕があって気が向いた時だけ。いつも自分が正義だと腹を立てていて、怒り出し、ついに大声でわめく。結局どれもが、他者を悪者にしても自分を守ろうとする悪意から出る。
 即捨てねば! 裁きの日を仰ぎ見て、真っすぐ顔を上げられる私になりたいから。


●13(金)
律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリ3・9)

 神から「お前は義しい者、私の子だよ」と認めてもらえる方法が二つある。一つは、自分が修練する律法厳守の道。でもこれは、他者を「あいつは全然ダメだ」と批判する目が生まれ、「自分は少しは義しい」と誇る目が開く。
 もう一つが、イエス様が私を救って下さったと信じる道だ。それが「救われる」ということなんだ。ここで開かれる目もある。それは、「ただ感謝」という心の目だ。ボクはやっぱりこっちが良いな。というか、コッチしかないな。


●14(土)
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 (1ヨハ1・8)
 
 私の幼い日の記憶・・・真面目に信仰生活を過ごしている高齢の婦人が、説教で「あなたは罪人だ」と聞いた日の事。礼拝後「私が罪人だなんて失礼よ。信仰者として生きているのに」と噛みついていた。その方を知っている私も「そりゃそうだ」と思っていた。
 大人になった今は「自分が罪人だと受け止められること、それが信仰。それも、その信仰さえも神様からの贈りもの」と思う。そして、「それを知ることが、福音なんだ」とも。


●15(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●16(月)
しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。 (2テサ3・3)

 キリスト者として歩もうとする時、信仰の生活をくじかせようと、あらゆる敵が襲って来る。光の道から、闇の方へと誘い込む敵である。「信仰を捨てたほうが楽だよ、自由になれるよ」と誘惑者が語りかける。「伝道なんてやめろよ、一人だけこの世で浮いてしまうぞ」と揺さぶって来る。
 しかし、だ。我らにはただお一人、味方がいてくださる。それは万軍の主。主ご自身が盾、砦、そして守り手だ。ゆえに、いざ行かん。


●17(火)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 (フィリ4・4)

 誰もが、「私はこれが大好き、愛唱聖句だ」とおっしゃる御言葉だ。誰もが、喜びに常に満ちている生活を過ごしたいと願っていて、でも現実は不安なことや暗くなることが多い日々だからだろう。さらに、自分で自分の心を喜ばせるなんて無理だなとも気付いていて・・・
 この御言葉の後には「主はすぐ近くにおられる」と続く。辛く暗いと思う日々の中にイエス様がいて下さる、だから喜べるだろと言うのだ。喜びの源であるイエス様を見詰めたら、あなたの今日は、喜びで染まるから、とね。


●18(水)
わたしは、イエスの焼印を身に受けているのです。 (ガラ6・17)

 私もイエス様を信じて洗礼を受けた日、この焼き印をいただいた。主が「これは私のもの。他の誰もコレを傷つけてはならぬ。まして奪い取ってはならぬ。これは我が宝の人だから」と宣言して下さって、天の国の家紋を身に焼き付けて下さったのだ。
 なんの功もなき私なのに、貴い印を受け取った。ただ主が一方的に私を愛して下さったから。その思いに応答して今日を生きたい。「私はキリストのものとされた者」と歩みたい。それを主がご覧になって、喜んで下さるから。


●19(木)
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです。 (ヘブ11・8)

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語られる文脈の中に、今朝の御言葉がある。まさに御言葉の通りに生きた証人たちの姿である。
 「あなたもそのように生きてごらん。その先に神様からの恵みが待っているのだから」と、今朝私にも語りかけられているのだ。「アブラハムの話じゃない、あなたのことだよ」とね。


●20(金)
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 (ガラ3・27)

 この御言葉の直前には、「キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とある。私は、神様をお父さんと呼んでも良い「神の子」とされた、それが「ただ洗礼を受けたから」ということなんだ。
 一つのことは確実に分かる。「神の子」とされたのは、ボクが何か良いことが出来たからじゃないと。だからこれは「一方的な贈り物」なんだと。それを「恵み」と言うんだと。洗礼は、恵みの結晶だ。ダイヤモンドよりも高価な結晶だ。私の第一の宝なのだ。私は裕福なのだ!


●21(土)
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 (ヘブ13・8)
 
 「神は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしないと約束される方だ」と、この直前で語られている。「だからなのだ」と言うのだ。あなたの昨日も、今日も、また明日も、永遠の昔から永遠の未来までキリストに守られていると分かるだろ、と。
 「ああ、本当に分かります」と、心に感じるボクがいる。さらに、「そのあなたに委ねることができるボクは、幸いです」と心から今朝感じる。その思いのままで一日を過ごしたい。臨在の主を信じて、夜まで走り抜こう。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●23(月・勤労感謝の日)
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。 (1コリ11・23)

 「何を伝えたの?」と、聖書を開いたら、最後の晩餐での出来事だった。私たちも、その時の主の命令に添って礼拝で聖餐式に与っている。恵みの座で、「これはあなたがたのためのわたしの体である」と、主のお声を聞くようにして、パンを受けている。それも、十字架で裂かれた肉として受け取るのだ。
 かの日から連綿と伝え聞いている出来事を、私も伝えよう。「あなたのために主は死なれたよ。あなたは救われたのだよ」と。普く伝わることこそ、主ご自身の願いなんだから。


●24(火)
これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 (1ヨハ2・1)

 「闇の中を歩むな」と厳命された後に、今朝そのように言うのは「罪を犯さないようになるため」と加えられる。さらにその先も見てくれて、「たとえ罪を犯してもイエス様がおられるよ。弁護して下さるから」と告げられていた。
 守られているからこそ「ありがたし」と義しく生きよう。「かたじけなし」と頑張るんだ。「私は罪人だから無理」と諦念に逃げ込むな。


●25(水)
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 (エフェ3・19)

 人知をはるかに超えるこの愛って、それはキリストご自身。ご自分の命を投げ出して罪人を救ってくださったお方そのもののこと。
 主を知れば、愛の全てを知る。それが私にさえも与えられてるって知ったら、既に愛に包まれてたって分かる。正しく知るって、正しい豊かさに満ちることと連結している。列車の連結器のように、ガシャンと繋がっているんだ。


●26(木)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (1コリ10・13)

 この御言葉は、何度も読んで来た。何度も聞いて、そして祈って来た。それも、病院のベッドに横たわる兄姉の傍らで。自宅で闘病をしている兄姉の横で。そこで一緒に御言葉を聞いて、慰められるために。
 そして真実、御言葉が神の言葉として響いていた。その場で一緒に平安に包まれて来たのだ。苦難の中に、光を見ていた。


●27(金)
主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。 (1コリ6・17)

 洗礼を受けた者は、「主に結び付く者」とされた。身体も心も「主と一つの霊となる」ほどに固く結ばれたのだ。この身体は、「主の霊が宿る神殿となった」とも言われている。大いなる栄光をいただいたのだ。だからこそ、自己中心な生活から離れねばならない。大いなる栄光には、大いなる責任も伴うのだ。
 あれ、これどこかで聞いたフレーズ。スーパーマンがベン爺さんに言われていたフレーズかも。でもボクは、スーパーマンよりも大いなる存在になったんだ。それは、いわばキリストマン。主の正義に生きねば。


●28(土)
この方の服にでも触れればいやしていただける。 (マコ5・28)
 
 12年間も出血が止まらないで苦しんで来た女。多くの医者にかかっても苦しめられるだけで、全財産を失っても悪くなる一方で、もう八方塞がりだった。
 その女が、「イエス様の服にでも触れればいやしていただける。この苦しみから救われる」と信じて、必死に近づいた。彼女に残されたものは、もう「触れる」ということだけだったから。そして癒されたのだ。
 私にとって、ただ一つの求めるべき「この方の服」ってなんだろう。それは、間違いなく「この方の御言葉」である。そこに救いが起こる。



●29(日)

アドヴェント第一主日礼拝説教

        藤森誠神学生
       (東京神学大学大学院2年)



●30(月)
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。  (1ペト2・16)

 キリスト者は旅人として、「自由な人」として生きるべきだけれど、その自由の使い方の方向性がハッキリ示される。
 今まで「自由」を勘違いして来たかも。あれこれすべきこと「からの」自由じゃなくて、あれこれすべきこと「への」自由なんだ。この世にどう見られようと、神の栄光を表わして生きること「への」自由なんだ。白日の下でキリスト者として堂々と生きること「への」自由なんだ。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』

2020年10月31日

『日々の聖句』2020年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年10月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(木)
キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。   (コロ3・15)

 この「平和」は「平安」という意味もあるから、尚更その平和、平安が欲しいと思う。でもふと思った、「平和」は、「キリストの」だと言われている。そこが肝心かなめかも。つまり自分だけが安泰であれば良いというような勝手な平安じゃないんだ。
あっ、「キリストの」というのは、キリストの言葉を聞いて生きること、そこで生まれる神の平和のこと。今まで自分勝手がいつも平和を壊して来た。勘違いを修正して、今度こそ真の平和を手に入れん!


●2(金)
マラナ・タ(主よ、来てください)  (1コリ16・22)

 「主よ、来てください」と、魂の奥から絞り出すように願うパウロ。再臨の主が、全ての苦しみと悩みと争いから解放してくれて、神の国の到来をもたらしてくれるからだ。私だって、同じ祈りをしている「御国を来たらせ給え(主の祈り)」とね。
 だけど本気で「今来て欲しい」と願っているだろうか。「この楽しみのプランが終わってから」と、何となく思っているかも。それって、「今は来ないで」と言っていることかも。ゾッとした。私の信仰に、この世への抜け穴が開いていると気付いたから。


●3(土)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。      (ヤコ2・1)

 「自分は主を信じる者」と思っている。でも日常を生きる姿は、「クリスチャンにあらず」ということがある。その矛盾は、人を愛する時・赦す時に現れる。私自身が相手を、愛せる人・赦せる人とか、愛せない人・赦せない人と区別している時だ。
 今朝、「あなたは、そうであってはならない」と迫る。あなたこそ神に分け隔てされないで、愛し・赦してもらえたのだからと。「そのあなたなら主に倣って生きられるはずだよ」と。「ハイ、主よ」と今日を歩もう。


●4(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。  (ルカ12・15)

 これは、貪欲な人を責めようとしているんじゃない。どんなに物を持っていても、あなたの命は財産ではどうにもならないから、ということ。命に関わることにこそ貪欲になるんだよということ。
 自分のために金銀を求めないで、神の前に豊かさを積むことを求めよう。主に喜ばれる以外のことは、貧しくて良いんだから。ま、我が家はどっちみち貧民だけどね。
貪欲であって、むしろ良い。ただその手を伸ばす方向を間違わなければ。神の喜びを得るべく、ググッと手を伸ばそう。


●6(火)
だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた    (使2・6)

 聖霊が降った時、弟子たちが「イエス様は救い主なる神」と証しを始めた。それも諸外国から来ていた人が「自分の故郷の言葉で話されている」と驚いたのだ。
 単に、諸外国語で語られたという奇跡話じゃない。むしろ、自己中心におごっている時、悲しみにある時、何も信じられなくなるような時、そこにも届くように同じ心になってくれる言葉で語られたということ。あっ、だからボクも、四面楚歌と思える日に届いた御言葉を「ボクに語りかけている」と聞けたんだ。


●7(水)
大祭司であるイエスのことを考えなさい。       (ヘブ3・1)

 神と人間との間に立って、仲介者の働きをするのが「大祭司」。それもイエス様は、私が犯した罪を知って、私の代わりにご自分が十字架刑を担って、償ってくださった大祭司の中の大祭司なのだ。
 私には、この上ない味方がいた。私が罪を犯す弱さも全部知っていて、なお私の味方をして、父なる神に弁護してくださるお方。そんな私の大祭司が、今日も傍に立っていてくださることを思い起そう。永遠の味方のイエス様が居られることを思ったら、今日を歩める力が湧いて来るから。


●8(木)
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。   (1ペト2・3〜4)

 人は、聖書を読んで知ることができたはず。イエス様がどれほど愛してくださっていたかを。ご自分の命を投げ出してくださったほどに。そしてなおずっと愛し続けていてくださることを、ボクも知った。
 それなのに今まで、他の何に頼ろうとしていたんだろう。何にすがろうとしていたんだろう。主に立ち帰らなきゃ。恵み深い方のもとに帰らなきゃ。きっともう、迎えに出てくださっているはずだから。み腕に飛び込もう。


●9(金)
神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。   (ロマ12・3)

 キリスト者として完全な生き方をせよと言われる。でもその直後に今朝の御言葉が続けられるのだ、「各自の信仰の度合いに応じてだよ」と。ちょっとホッとする。
でも慌ててすぐ、緊張した。「これは努力八分目で良いということじゃない」と気付いたから。「人と比べないで良い。でもそこで力は、十二分に注げ」ということだから。見てくださる主にだけ喜んでもらえれば良い。これって、良い緊張ではあるね。


●10(土)
世の無力な者を選ばれました。    (1コリ1・27)
 
 神様は御自分の救いを伝えるために、能力のある者や知恵のある者を選ばれなかったと告げられる。無学で、卑しくて、この世で無に等しい人をこそ選んで用いられると。なぜ? それは神様以外に頼るものが一切ない人だからだ。
 「私は何の能力もない者です」という人に、ある日ドッと来る、神に仕える奉仕が。「ああ、それはまずいよぉ」と思ったけど、神様に頼って懸命に仕えたら、その人こそ神の恵みも一番戴ける人になるのかも。なすべき奉仕も、戴く恵みも、神様任せで良いんだな。


●11(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●12(月)
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。      (エフェ4・29)

 心の中にすぐに沸いて来る言葉は「悪い言葉」、または「悲しませる言葉」「打倒す言葉」だ。御言葉は、そういうものを全部捨てろと言う。その代わりに口にすべき言葉として「恵みに満たしてあげなさい、成長させてあげなさい、そのための言葉を語りなさい」と告げるのだ。
 僕は捨てることも、与えてあげることも出来ていない。一体何やってるんだろう。最も身近にある「言葉」というもので。


●13(火)
万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。    (1コリ8・6)
   

命の流れがここにある。
生まれ出る時も神の御手の中から、そして地上の生涯を終えて死ぬ時も御手の中へと帰って行けるのだ。
だから地上の命の全ての時間は、神様の中にある、安心して歩んで良いのですね。
そう思ったら、預かりものとしての地上の命を、より良く生きたいなと思った。
そうしたら、何だか今日はホッとした気持ちで一日が始まる気がした。


●14(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。    (ヘブ3・16)

 ヘブル書は、「今日、主の声(御言葉)を聞いたなら、神に反抗した時のように、心をかたくなにするな。今日のうちに従え」と繰り返し告げる。
そしてその後に今朝の言葉がある。「ああ、誰も彼もが反抗したじゃないか」と。主が嘆いておられる。ボクにはこれが「お前だけはそうなってくれるな、お前だけは私を愛してくれるよね」と告げる主の御声に聞こえた。


●15(木)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。       (1ペト5・7)

 この御言葉を、ただ繰り返して唱えるだけで、なんだか心に平安が広がって来る。ただ口で唱えるだけで、なんだかイエス様が目の前で語りかけて下さているように感じられて来る。御言葉が、神様の声そのものに聞こえて来る。
 そうだ、そうやって今日の一日を過ごそう。そうしたら一日の終わりには、この御言葉が心の底に染みついているから。神の声が、私の心に住み着いてくれるから。


●16(金)
少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。    (マコ5・41)

 「娘は死んでしまったから、もうどうしようもない」と嘆く両親。その涙と絶望の前で、イエス様は娘の手を取って、まるで当然のように言い切られたのだ「起きなさい」と。死を支配される権威ある者のように、揺り起こされるのだ。
 私も、落ち込んで、絶望して、まるで死んだようになっている時、イエス様は私の手を取って言ってくださるのだ「起きよ」と。そしてさらに死の先の復活の日にもこの言葉を聞くのだ「起きよ」と。なんという力ある言葉、嬉しい言葉だろう。


●17(土)
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されている   (使16・10)

 「こんな人には福音を話しても無駄だ。聞いてはくれないし、分かるわけない」と思われていた異邦人のマケドニア人。でも、その「当然無理、あの人には無理」という壁を壊されるのは神様。「あの人も私の愛する一人だから」という一点で、壁を超えて行かれるのだ。
 私もその御心に従おう。自分の「あの人だけは無理」という思いを後ろに退けて、「すべてものをあなたの御想いの中で」と祈りつつ歩もう。きっとそこで、ボクも、壁を超えて行けるから。


●18(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●19(月)
いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。   (1ペト2・11)

 この地上の生活は、やがてまことの古里・天の国に着くまでの旅路。だからこの地上の物に執着して生きるのでなく、むしろ捕らわれないように何時も御国を仰ぎ見て生きるんだ。それって、なんて壮大な旅なんだろう。それも御国は予約済み。なんて楽しみな旅路なんだろう。
 でもその古里を忘れさせるのが、この世に執着させる欲。「クワバラ、近付くまい」と思って、祈っていることが大事かも。


●20(火)
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。    (ルカ7・47)

 罪深い女が、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭って、香油を塗った。周りの人々は「罪人がいまさらなんだ」と白眼視したけれど、イエス様は違ったんだ。
 イエス様に罪赦されたと分かる人は、周りの目なんか関係ない、ただイエス様を喜んで生きる人になるんだ。私も受洗の日に罪を赦された一人。この女のように生きる人になりたい。ただ主を見詰めて。


●21(水)
(わたしたちは)無一物のようで、すべてのものを所有しています。     (2コリ6・10)

 パウロが、「キリスト者として生きようとするなら、この世からの悪評もあるし、辛い思いや悲しい思いもするだろう」と言う。世から見たら、何も誇らしいものを持っていないように見えるからと。でも、と言うのだ。「あなたはすべてものを所有している」と。価値観がひっくり返されているような御言葉だ。
天の蔵にある物は、神の子である私たちの物だからだ。うっひゃー、この世のどんな大富豪よりもスゴイ。そうさ、天の国を仰ぎ見ればね! そこが、大事な大転換点だね。


●22(木)
(イエスは)永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。   (ルカ1・33)

 天使ガブリエルがマリアに、受胎を告知する。そこに今朝の知らせも含まれていた、「イエス様は、神が祝福を約束された神の民を永遠に守るから。平和の支配はイエス様によって尽きることがないから」と。
 この「ヤコブの家(神の民)」が、聖霊降臨後、つまり私たちの時代では「教会」となった。それは、相模原教会に平和の支配が及んでいるということ。教会に所属する意味は、平和に所属することなんだ。素晴らしい所属。その恵みを大事にしたいな。


●23(金)
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。    (エフェ六・4)

 御言葉が、家庭の在り方に踏み込んで来る。家庭が、一番最初の「隣人との出会いの場」となるからだ。そしてそこで人は、最も失敗しやすいからだ。
 父親は子供の前で、まるで仕える者のように、その子を活かす言葉を注がないといけないということ。その姿は、イエス様の弟子たちに対するように。失望させられても、怒りたくても、忍耐に忍耐を重ねて臨まれた主のように。これは紙に書かれた目標じゃない、そう生きよとの厳命だ。


●24(土)
あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。    (使20・28)

 エフェソの教会を離れる時、パウロが「邪説を唱える輩が来る。まず自分自身に気を付けろ。でも、群れの兄弟姉妹のことも気を付けてあげてね」と告げたのだ。
 自分のことばかり思う時、隣人が見えない。他者のことばかり気遣う時、自分のことが見えなくなることがある。でも自分も隣人も大事。そのことを気付かせてくれるのは、御言葉だ。主が、どちらも気遣ってくださって、引き戻してくださるから。常に、御言葉にハッとして立ち帰ろう。


●25(日)

主日礼拝説教

       藤森誠神学生 (東京神学大学大学院2年)



●26(月)
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。        (1ヨハ1・3)

 御子イエス様と地上の旅をした愛弟子ヨハネたちが、新たに信仰者たちに告げたのは、驚くべき言葉だった、「自分たちと一緒に信じて生きることは、あなたも御子イエス様と御父なる神との交わりに生きることになるのだ」と。
 信じる者たちの交わりは、人間的な横の繋がりだけじゃないんだ。天地を結んで、縦の繋がりでもあるのだ。主に在る隣人との交わりをおろそかにすまい。そこには同時に、神との交わりが重なっているのだから。


●27(火)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。    (ルカ19・5)

 人々から、「罪人」のレッテルを貼られていたザアカイ。でも、罪人の友となっておられるという噂のイエス様に会いたくて、でも群衆に遮られて仕方なく木の上に。
 そのザアカイに、イエス様が声をかけてくださった、「会いたいと思っていたのは、私の方だよ。お前を探していたよ。さあ私が友となるよ」と。
イエス様のこの御声は、私にも届いて来る。御声に、なんだか胸が熱くなった。


●28(水)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。    (ガラ5・25)

 神の導きとは、すなわち私の内におられる主の霊が私を導いていてくださるということ。その小さな御声を聞けなくさせるのが、自分の中にある大きな声だ。それは欲情であり、うぬぼれであり、ねたみであり、つまり罪の実なのだ。
 霊が導く小さく細い声を聴かねば。「祈ろう」と気付いた。それも沈黙して、主を想うだけの黙想の祈りをしてみよう。ボクの心にも、主の語りかけが聞こえて来るかも知れないから。主の御言葉によって。


●29(木)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。    (フィリ3・21)

 天地創造の時から御力を振るわれた「先在の主」なるイエス様。そのお方が私の罪とも闘って、勝利してくださった。さらにご復活の命までくださったのだ。
 偉大な御力が私の隅々にまで及んでいる。私の貴さはこのキリストの御業ゆえ。だから二度と自分で自分を見くびるまい。成された御業を見くびる事だから。


●30(金)
富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。    (ヤコ1・10)

 富んでいる所から飛び退けと言われている。そこに立っていると草花のようにしおれて滅び去るからだと警告されている。
 「えっ貧しいことが良いことなの?」と思ってしまう。でもそんな単純なことじゃないみたいだ、「低くされることを」と言われているから。もしかしたら、と思った。懸命に富を得て、でも自分で握らず分け与えて、与え尽くせばいいのかもと。そうやって貧しくなった姿はイエス様のようだから。


●31(土)
自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。    (ヤコ1・25)

 「神が命じる言葉としての律法を聞くだけの人になるな」という命令する。それは単に禁止命令で終わらず、「行え。行う人になれ」という強い招きとなっている。
 今日はっきり「そっちに行くな。こっちを行け」と聞いた。これほど明確な道標はない。それなのに道を外れるなら、それは神への反抗。それが、ボクの内に潜む罪。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:54| 『日々の聖句』

2020年09月30日

『日々の聖句』2020年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年9月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 (ヤコ2・26)

 心だけで受け取る信心がある。頭だけで受け取る教理がある。目と耳だけで受け取る聖書の言葉がある。ただ受け取るだけの信仰もあるだろう。しかしそれは「死んだ信仰だ」と告げられているのだ。
 愛するお方が語りかけている御言葉を聞いたら、居ても立ってもいられないで体が動くはず。こうして欲しいと言われたら、心も燃えて「お応えしたい」と動くはず。イキイキと隣人を愛する生き方になるはずなんだ。死に体にはなるまい。


●2(水)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」     (ルカ18・13)

 今朝のみ言葉に続けて「義とされたのはこの人であって、ファリサイ派の人ではない」とイエス様が言われていた。
 「あなたは不信仰者」と言われてムッとするなら真の不信仰者。自分は罪人だと分かっている不信仰者は、少しは義しいと思っている不信仰者より、主の喜びに近い。あれっ、結局皆、不信仰者? じゃあボクは、悔いる不信仰者でいよう。


●3(木)
わたしたちは神に属する者です。     (1ヨハ4・6)

 人間が作り出した「常識」「当たり前」を生活の基にするのが「この世に属する者」。神の言葉のみを基にするのが「神に属する者」。端的に聖書は言い切る。
 ボクも主のみ言葉を愛して生活しているから、「神に属する者」に入れてもらえているのかな。しばしば、中途半端に両方に足を突っ込むようなことをする罪人だけど、それでも神様は「私に属する者だよ」と言って下さるのかな・・・。
どうもそうらしい。それが福音なんだ。その御心に応えて生きたい、今日こそ。


●4(金)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。     (ヘブ4・15)

 「この大祭司」とは、天に居られる御子イエス様。その「大祭司って何?」と考えたら、神と人との間に立って執り成す働きをしてくれる人のこと。イエス様が、私の大祭司として居てくださるんだ。それも私の弱さを知って、同情しながら。
その「弱さって、苦手な事とか?」と考えて、アッと気付いた「それは私の罪」と。私の罪と過ちをイエス様が執り成して下さる。お陰で私は赦された。つまり私は、主のお陰という存在だ。それが有り難い。


●5(土)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。    (1コリ2・5)

 「神の力によって信じるようになるため」に、パウロは何をしたのか。それは一つのことだ。それが、神の御子なのに十字架で死なれた出来事を伝えること。またあらゆることをしなかった。それが、信じたらこんな恵みがあるとご利益を巧みに語ること。神の力は、神の十字架の死を聞くところに働くからだ。
 私もそこに立ち続けたい。十字架にすがる姿を見て欲しい。それを伝えたい。


●6(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。     (1テモ2・5)

 イエス様は、真に神であられる方。同時に降誕された真の人であられる方。だからこの方こそ、神と人との間に立つ仲介者になれるお方なんだ。それもキリスト・救い主として立って下さる。つまり私の罪も弱さも、過ちも自己中心さも全部知って、身代わりに償って下さったお方が、神に執り成してくれるんだ。
私は、この仲介者から離れたら生きてゆけない。それに気付く時、信仰の中核に触れているんだ。そこにしがみつけ。


●8(火)
互いに重荷を担いなさい。     (ガラ6・2)

 隣人の苦しみを一緒に担えと言う。また「互いに」だから。自分も素直に担ってもらうこと。そういう関係に生きよと言われている。単なる助け合いではない。「隣人とそういう関係になれ」と言われているのだ。そうしたら、「キリストの律法を全うできる」とさえ、続けて言われていた。
 隣人に対して「何をするのか、どう生きるのか」の土台には、「どういう関係になるのか」があるのだ。そこを忘れたら偽善者になる。「何をしたか」は、自分を誇らせるから。互いにという「関係」にこそ立て。


●9(水)
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。    (ヤコ4・12)

 ドキッとした、神様から鋭い矢が私を目掛けて飛んで来たから。ブスリとこの御言葉の矢が、心臓に刺さったのだ。
振り返ったらボクは、いつも正義面して隣人の悪口を思ってしまう。大事な家族のはずなのに、気付いたら裁いている。
今朝、御言葉がそんなボクの心臓に刺さってくれた。だから悔い改めの痛みをもって、今までの自分から飛び退ける。そうしたら、もしかしたら主に赦してもらえるかもしれない。そうしたら、隣人関係がもっと幸いになれるかも。きっとなれる。


●10(木)
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。        (ヘブ3・14)
 

 信仰生活は、教会に来るようになって洗礼を受けたら、そこで終わりじゃないんだ。卒業って無いんだと、薄々分かってたけどね。だって、学校じゃないんだから。
 信仰生活はイエス様と一緒に歩く人生の日々なんだから。主の言葉を聞いたら、その言葉と一緒に歩む。それも独りじゃないよ、主の霊・聖霊との二人三脚。さあ今朝も、今日という旅に出発しよう。


●11(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。    (1コリ14・33)

 これは教会の中で預言や異言を語る時、さらにその解釈を聞く時の整然とした秩序の勧めだ。「相模原教会では異言が語られることはないから、これは関係ない」とは言えない。全ての教会の集まりの中にあるべき秩序の話なのだから。
 「教会なのに秩序って堅苦しい。教会って自由な所じゃないの?」と思って、すぐに気付いた。共に集い尊重し合う、そこに主にある平和の秩序があるから真の自由がある。自由と自分勝手は異質だ。

●12(土)
あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。        (ヨハ1・26)

 バプテスマのヨハネが告げた「知らない方」とは誰か。それは御子なる神・真の救い主イエス様のこと。でも「知らない」ってどういう意味なんだろう。「イエス様のことは知っているのに」と考えて、アッと思った。
聖書では「知る」って「一つになるほど分かる」という風に使われてる。それは頭の中の知識じゃ駄目なんだ。それを見透かしているように御言葉は告げる、知らない方が「お・ら・れ・る」と。愚か者の中に、既に内住されるイエス様。感謝です。


●13(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師   



●14(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。     (マコ1・35)

 イエス様がいよいよガリラヤ中に大伝道を開始される直前。静かな所で御父と一対一の祈りの時を持たれた。
 そういえばイエス様は、大事なことが始まる直前、また忙しくなる前に必ず御父に祈っておられる。
 そういえばボクは、祈りの時間を削ってバタバタ立ち働いてしまう。全く逆のことをしていた。よし、今朝はじっくり祈る事から始めよう。忙しくなりそうだから。

●15(火)
掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。   (1ヨハ3・23)

 「神の掟」を一言で言うなら、「愛し合うこと」。イエス様の命令を一言で表すなら、「愛し合うこと」とヨハネは告げる。
 私は今まで「愛する」って、ほんわかした甘いイメージに捉えていたかも。しかし、愛を生きることとは、神の掟を生きること。これこそ「掟だ」と聞いて、ドキッとした。神の厳命だと知ったら、命懸けで第一に取り組むことなんだと悟れたから。背筋が、ビシッとしたゾ。


●16(水)
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。     (ヤコ4・3)

 欲していても、熱望して祈っても得られないことがあると御言葉は言う。人と争うため、自分の主張を押し通そうとして求める願いだからだ、と。それは、得ても神の敵となるものだからだ、と。それを「間違った動機」と告げているのだ。
 もしかして、正しい動機で求めたものは得られるの? 人の重荷を負うため、人を愛するため、人を赦すための求めは得られるのかな。そうさ、きっとそうだよ!


●17(木)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。   (コロ3・17)

 ここに、今日の一挙手一投足、更に心の向け方までが詰まっている。
 「だって腹が立つからこう言いたい」とか「だってこう言ってやるのが正論だから」とか「私がこうしたい、ああしたい」とか「願いが叶わなかったから、感謝できなくて当然」とか、いつもの言い訳をするまい。今朝の御言葉に一言も足さず一言も減らさず、そうやって今日を生きてみよう。それが「御心を生きること」と信じて。


●18(金)
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。   (1ヨハ1・10)

 いきなりドキッとさせられた。御言葉に言い当てられてしまっているから。「お前には罪がある。自分には具体的な罪は無いと思っていたら大間違い。神は見通しておられるぞ」と迫られている気がしたから。
 「ああ、どうしよう」と心細くなって、この箇所を開いたら、「自分の罪を公に言い表すなら、神は罪を赦し・・・」と言われていた。「救われた」と思った。そして、罪に気付く場が、救いへの入口と気付いた。


●19(土)
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。     (ルカ10・3)

 イエス様が七十二人を選んで、町や村に伝道のため派遣される。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだと知っておられながら。それでも「あなたを遣わす。行け」と命令されるのだ。
 伝道する時の私たちの恐れも、イエス様は知っていて下さる。困難もご存じでいて下さる。しかしなのだ、だから撤退して良いよとは言われない。諦めて良いとは言われない。「あなたが必要だ、行っておくれ」と背中を押されるのだ。だから行こう、もう一度だけ勇気を振り絞れ、自分!


●20(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)




●21(月・敬老の日)
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。     (フィリ4・6)

 「思い煩うのはやめる」って、どういうことかな。自分が思い悩むことをやめてしまえば良いのかな。いや、実際はそんなことでは済まないとも思うし・・・アレッ、これってもう思い悩んでいる?
 聖書は言う、思い煩うことを自分で握らず手放せるのは、手放す先があるからだと。それは、私に最善を備えて下さる主。だから「求めているものを神に打ち明けろ。何事につけ感謝をこめて祈れ、神様に話せ」と促すのだ。主が守るから、苦しみを握り続けなくて良いんだよ、と。


●22(火・秋分の日)
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。   (1ヨハ5・13)

 イエス様の御業を受け入れたら、救いの恵みを戴ける。でも、賜物はそれだけじゃないと告げる。「もはや死なない身となりぬ」という永遠の命も戴けたとのだと。
 神様が私になさることは「与えるのみ」の御業。そうやって恵みで満たそうというのが御心。そうか! 御心に従うということは、窮屈じゃない。恵みを戴く側を歩くということ。選択の迷いは吹き飛んだ。


●23(水)
まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。        (マコ8・17)

 イエス様の激しい叱責、または嘆きにも聞こえる。何があったのか聖書を開いて分かった。イエス様ご自身と、お言葉に頼らず、自分の常識で考えてしまう弟子たちに、呆れられたのだ。
 イエス様に従うことは弟子たちでさえ難しかった。自分の中にある人間的常識が、一番の障害物だと気付いていなかったから。きっと常識で生きる大人は、信じることから遠いのかも。ボクは幼な子になりたい。信頼するしか知らない幼な子に。


●24(木)
相変わらず肉の人だからです。    (1コリ3・3)

 「肉の人」というのは、ここでは「お互いの間に妬みや争いが絶えない、ただの人」ということ。それも、福音を聞いたのに「相変わらず」だと言われている。
 責められているように感じる。そうだ、責められているんだ。福音を知らされてなお自分勝手に生きているから。呆れられているんだ。諦められてしまう前に、立ち帰らなきゃ。いい加減にしなきゃ。
それにしても「相変わらず」の一言が耳に痛い。いや、痛いと感じたから助かったのかも。立ち帰らなきゃと気付けたから。


●25(金)
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。   (1ヨハ1・5)
 

 「神は光である」と端的に宣言される。続いて、あなたが神の子とされたのなら、光の子として歩んでいるはず、まだ闇の中で歩いているようならおかしいぞ、とも。
 ハッとした。ボクも受洗の日に、神様の家の子に養子縁組して頂けたのだから、誰から見られても「あの人は神の家の方だよね」と噂が立つように生きなきゃね。


●26(土)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。    (ヨハ3・16)

 私の幼い頃に、教会学校で何度も口ずさんで暗唱をさせられた御言葉だ。これが、心に刷り込ませねばならないほどに大切な御言葉だったからだ。
ここに、神が御自分の独り子を「辻川のために」与えたと記されている。ここで天の御父の思いが分かる。どんなに私が愛されているかが分かる。私の価がどんなに高いかが分かるんだ。
それを知ることが、人間にとって第一に大切なことだと、今は人にも伝えたい。


●27(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師 



●28(月)
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。  (ロマ5・3〜4)

 中を飛ばして一言で言うと、「苦難は→希望を生む」ということになる。エッと思った。苦難が行き着く先は、不安とか、失望とかであるはずなのに・・・
 一体どこから来る希望なんだろう、知りたい、と思ってこの箇所を開いたら「キリストのお陰で」「神の愛が注がれているから」「義とされたから」という御言葉が次々に目に飛び込んで来た。
 キリストにあって生きる、そこで、苦難も希望へと繋がるんだ。主にすがらん!


●29(火)
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」      (ヨハ3・3)

 頭脳優秀、品行方正のニコデモ。でも不安で、夜中に隠れてイエス様を訪ねたのだ。「私は天国に行けるのですか? 誰よりも資格はあると思うんですが、でも何か大事なものが足りない気がするのです」と聞いた彼に、主が答えられた。
 主は、全ての人に言われる、「洗礼を受けなさい。唯それだけでいい、それが天国への扉を開ける鍵だから」と。無償で与えられる鍵、だから洗礼は恵なのですね。


●30(水)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。  (ルカ6・19)

 病を抱えた人たちが、イエス様なら癒して頂けると信頼して押しかけて来た。癒し目的だけど、でも「何とかして」と必死になって。その「何とかして」の一言が心にとまった。
 「ボクはそれほど必死にイエス様にすがるように祈っているだろうか」と思ったから。「何とかして」と必死さが、在るだろうか。身を投げ出すほどの信頼が欠けているんじゃないだろうか。今日からは「何とかして」と全身ですがって祈ろう。そうやってイエス様にぶつかるように近付くんだ!

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:02| 『日々の聖句』

2020年08月31日

『日々の聖句』2020年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年8月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。    (マコ14・38)

 十字架に架けられる直前、ゲッセマネで弟子たちと祈られるイエス様。でも弟子は一人残らず眠ってしまう。睡魔に襲われたから。そんな弟子たちを、それでもなお気遣われるイエス様。死が迫っておられるのに、気になさるのは弟子のことだった。
 私も、ここでこそ祈らねばならないという時でさえ、自分の思いという殻の中で惰眠する。その私をさえ気遣って下さるイエス様。今度こそ従おう、このお方に。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。    (マタ9・29〜30)

 二人の盲人が主にすがる「憐れんでください」と。主が「わたしにできると信じるか」と問う。「はい、主よ」と即座に答える二人。そして、この御業が起こった。
 主イエスとの遣り取りを通して、御業が起こる。私は、この貴い遣り取りの途中で、自分で中断させてしまうのかも。だから御業まで繋がらないのかも。本気で信じることが、御業へと繋がる道なのに。


●4(火)
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。     (ヤコ1・19)

 主に喜ばれる人になる道が語られる。「人のいう事を聞く人になれ。自分の言いたいことを一方的にまくしたてるな」と。
あれっ、ボクは逆になってるかも。人の言うことは受け入れず、まず「でも」とか「しかし」とか思ってしまう。そして自分の考えが普通で常識的なんだとまくしたてる。怒るのに遅くと言われても、ボクは瞬間湯沸かし器。パッと熱くなる。弁解の余地なしと気付いた。そのボクが変わらなきゃ、主を悲しませるばかりなのかも。


●5(水)
兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。   (ヤコ4・11)

 「よし! この御言葉を、あの人に言ってやろう。あの人にピッタリだから」と思って、アッと気付いた。よく読んでみたら「悪口を言い合ってはなりません」とあったから。つまり、私も悪口を言っているということ、これは私自身への忠告だったと気付いたから。これを隣人に言いつけること自体が、悪口だった。危ない、アブナイ。


●6(木)
わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。      (ヘブ13・13)

 イエス様は、神殿の外で十字架に架けられた。同じように、私たちも福音を実らせるために、「宿営の外に出て」と言われている。そこに行けと促されている。
「外」ってどこ? それは教会の門の外のこと。そこにいる友人や家族のもとで福音を広げよ、ということ。そこが主イエスの「みもと」なのだから。先立って主が、教会の塀の外で伝道しておられるのだから。主を独りにさせておいてなるものか。

●7(金)
むしろ末席に行って座りなさい。    (ルカ14・10)

 「末席に行くって当然のこと。上席に座りたがったりしないよ」と思う。でも、その「末席」ってどこだろう。この世なら、一番後ろとか、入り口近くかな。ふと、集会中の部屋を思い浮かべた。そうしたら、後ろの方に人がひしめいている様子が浮かんだ。きっと皆、奥ゆかしいからかな?
 でも待てよ。どうして「前から座って」とお願いされても、前はガラガラで後ろの席取り合戦するんだろう。もしかしたらそこが居心地が良い「上席」なのかも。はて、イエス様が言われた「末席」ってどこかな。


●8(土)
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。        (1ヨハ2・4)

 「信仰がある」と言いながら「御言葉を守らない者は神に対しても偽善者だ」と聞こえて来て、ドキッとした。心の中で信じていれば、行いは別だと思っていた。
 でも、それは自分に向けての言い訳なのかも知れない。行いを棚上げする詭弁だ。だって今日の言葉が「その人は真理なき偽り者だ」と指摘しているのだから。
 ドキッとしたボクは、まだ立ち帰れるチャンスはあるのかも。まずいぞと分かるから。

●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月・山の日)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。     (ルカ3・4)

 洗礼者ヨハネが、「救い主イエス様を迎える前に、まずあなたが歩んでいる道を整えよ」と叫ぶ。「神に喜ばれる者として、御言葉を聞いて行う者としての道を歩め」と。そのためには、まず自分の生活の歩み方を見詰めること。そうしたら誰もが悔い改めから始めないといけなくなるはず。一人だに義しい人はいないのだから。
 毎日、この準備から始めねば。自分が見当違いの道の上を歩いてたら、救い主に会えないぞと、ヨハネは言うのだから。これって脅し? そうだ、愛からの脅しだ。

●11(火)
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ2・7)

 イエス様が降誕された日のこと。臨月のマリアが「宿屋の片隅でいい。相部屋でもいいから」と懇願したのに、一人さえも場所を譲らなかった。だから、家畜小屋で赤ちゃんイエス様は生まれなければならなかったのだ。
 自分の主張や自分主義は、イエス様に場所を譲らない。いつまでも自分が居座ろうとする。まさにそれが罪人の姿。
御言葉に自分を明け渡さない姿こそ、罪人の私の姿なんだ。主の悲しむ御顔が、頭をかすめた。


●12(水)
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。   (ヘブ12・12)

 生活の中で、信仰心の手が萎えてしまうことがある。「もう委ね切れない、倒れて立ち上がれない」と思う日がある。でもその日、神様からのみ言葉が届くのだ「あなたの天の父なる神が、あなたを鍛錬しておられるんだ。今も、その御手の中、ご計画の中に居る。あなたは今日も神の眼差しの中。だからもう一度力を込めて、信じて委ねることに立て」と。
 さあ行こう、今日の歩みへと。鍛錬のバーベルをもう一回持ち上げるんだ。


●13(木)
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。  (1コリ9・19)
   

 パウロは、誰にも縛られず自由に生きる。同時に誰のためにも奴隷のように仕える者になる。なぜ? それは全ての人が、キリストを信じる人に加わって欲しいから。福音も、押し売りしたら追い払われる。上から目線じゃ聞いてもらえない。だから、下からなんだ。自由に下に立てる人が、伝道する人になれるのかも。
 私も、そんな人になりたい。「どうしてそこまでするの」と言われるほどに仕えたい。


●14(金)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。     (エフェ1・13)

 聞いて→信じて→聖霊を受けた。あ、この順序は、私と一緒だ。教会に来た日に初めて福音を聞いた→そして信仰の芽吹きを与えられて育てられ→ついに受洗。その日に、聖霊の注ぎを受けていた。
 手続き万全、私も正当な神の家の子になった。それは、キリストという紋付きを着ているということ。なんて凄い手順を辿っていたのか。ただ恵みのみ、感謝のみ。

●15(土)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。   (ルカ5・10)

 イエス様が、ガリラヤ湖の漁師だったシモン・ペトロに声を掛ける。ご自分の弟子へと、お招きになる出来事が起こるのだ。そのときのイエス様の一言がこれだ。
 ペトロに告げられたのは「安心しなさい」という慰めでなく「信じなさい」ということでもない。人々を神の国に招く人になれ、という〈使命〉だった。キリスト者が主に従うということについて、ここに大事なことが言われている。それはイエス様の使命に生きるということ。それって忘れがちかも。恵みを戴く事ばかり気にしてるから?


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。   (コロ1・18)

 「第一」であられる「御子」イエス様。「すべてのこと」と言うのは、聖書を開いたら本当にあらゆることにおいてだった。天地創造の前から居られ。教会という主の体の頭であられ、また復活においても最初に甦られた方。イエス様を信じるというのは、恵みを願う信仰とは別物だった。
 私が被造物で、僕であることに着座すること、わきまえること。まずそこからだ。


●18(火)
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。   (コロ4・6)

 「塩で味付けされた」ってどんな言葉か気になるなぁ。きっとそれが在ると、聞く相手が「ああ美味しい、嬉しい」と喜ばせる言葉。さらに相手を活かす言葉なのだろう。でも、もしかしたら・・・
御言葉が、「いつも」と言っていることにも心を留めなきゃいけないのかも。自分が言いたい時だけ、余裕がある時だけとか、言いたい相手だけというのでなく、「口から出る言葉すべて」というのが「いつも」ということかも。きっと、そうだな。イエス様を思ったら、そうなさっていたもん。


●19(水)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。    (ガラ1・12)

 パウロは、ガラテヤの信徒に自己紹介する。そこで、自分がなぜ主の弟子とされたかを詳らかに伝えていくのだ。その話の冒頭が、福音をキリストから(上から)直接示されたのだと告げたのだ。学び(下から)という手段によって知ったんじゃないと。
 私もそこは一緒だ。神の言葉(御言葉)を直接上から戴いて、聖霊が上から注がれて「あ、救いがある」と知ったんだ。感謝


●20(木)
その言葉には、権威があった。         (ルカ4・32)

 人々を教えるイエス様。その教えに皆驚いた。その理由が、今朝の一言だ。
 私たちにとっても、イエス様の語られることは「良い話」とか、「教訓として学ぶべきことが多い」とかいうことじゃない。「人生の指針になる」とか「幸せになるための秘訣」とかいうことでは一切ないんだ。
 じゃ、何なんだ。それは、我が君主からの言葉として、全身全霊で聞き従うべき言葉だ。それが権威ある一言ということ。「主よ、お言葉のままに」と答えるべきなのだ。今まで、勘違いして来たかも。


●21(金)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。   (マタ10・30〜31)

 「髪の毛までも一本残らず」数えていて下さるってスゴイと直感する。さらに「どういうことだろう」と思い巡らしたら、本当に有難いと思えて来た。だって、自分で数えられないほどの小さな苦難や、まだ気付いていない小さな重荷も、神様は全部知っていて下さるということだから。
 自分で思い煩わなくて良い。今日、私のすべきことは一つと分かった。ただ頼ること、本気で委ねることなんだと。


●22(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。   (フィリ1・27)

 「福音にふさわしい生活を送る」と聞いて、「ボクも当然そうするよ」と思って、アレッと気付いた。「ひたすら」という一言ってどういうことかな、と思い巡らしたから。それは日曜のことだけじゃない。仕事の時も、食事の時も、苦手な人に会う時も、会議の時も、全ての時でということ。生き生きと元気な時も、病む時も、死を目前にしている時もということだ。
 これは、自分の「ご都合信仰」への挑戦となる。これは自分との闘いだ。


●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
愛は自慢せず、高ぶらない。    (1コリ13・4)

 聖書の中で「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所だ。世界中の教会で、この御言葉は代々にわたって告げられて来た。それは結婚式の場で、だ。
 愛する生活を始めようとする二人に語られ、また長い夫婦生活をして来た列席の夫婦の耳にも届けられて来た。御言葉の通りに生きれば、本当に愛は実るんだと。それって、愛は心情の問題じゃないということかも。心の話しでもあるけれど、愛って行いの話しなんだ。言葉において態度において、自慢せず高ぶるな、だ。


●25(火)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。         (1ペト2・2)

 「霊の乳を慕い求める」ってどうやったら良いのだろう。聖書を見たら、私たちは「神の生きた言葉によって新たに生まれた」赤ちゃんだということ。ならば、お乳は生きた神の言葉だよね。御言葉を慕い求めて生きれば良いんだ。
それ無しには生きられなくて、赤ちゃんが泣いて求めるように、貪るように求めるんだ。そうさ、命に関わることだから。

●26(水)
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。   (ヘブ3・13)

 御言葉が私を見詰めて、切迫している私の危機が見えているように「危ない、急げ、今日という日のうちに」と迫って来る。今日を逃したら、あとは罪の奈落の底に落ちて行くんだと。
 僕は自分自身の罪を、こんなに真剣に考えていなかったかも知れない。でも今、急いで、具体的な罪の業を捨て去らねば。罪の泥沼に飲み込まれる前に。


●27(木)
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。    (エフェ5・17)

 この御言葉は、「神に倣う者になれ」「光の子として歩め」「何が主に喜ばれるか吟味せよ」と言われている文脈に告げられていた。それらを無視して歩むのが、無分別者ということ。分かっているのに、知らないように生きるのが、超無分別。
ああ、ボクは無分別が何かを分かっていた。それなのに、知らない振りをする時がある。それって一番嫌われるタイプの人間じゃないか。主に嫌われたくない。自分が変わらなきゃ。今日、変わらなきゃ。


28(金)
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 (ルカ1・44)


 従姉のエリサベトのところに、受胎したマリアが訪ねてきた時のこと。彼女は聖霊によって、マリアがイエス様を身ごもったことを知って喜んだのだ。エリサベトの胎内の子さえ喜びに踊ったと言うほどに。
 私は、彼女たちの降誕を喜ぶ姿に、自分の喜びはあまりにも小さいと思ってしまう。年に一度のお祝いぐらいにしか思っていないのかも。はらわた踊る程の喜びに生きていたい。救い主の到来なんだから。


●29(土)
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。    (ヘブ12・6)

 「天の父がなさる鍛錬って何?」と思う。「病気とか苦難や試練かなあ。どれもキツイしなぁ」と考えて「あっ、そうだ、聖書を見なきゃ」とこの箇所を開いた。
 そうしたら、鍛錬と言うのは私たちが自分の罪と、血を流すほど戦わせることだった。自分の罪と戦い抜く、それも全力で戦うようにボクを追い込むことだった。これまでひどい勘違いをしていた。
 避けてはいけない、逃げてはいけない戦いだから御父が一緒にいてくださるのだ。


●30(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)

       


●31(月)
いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。 (ヘブ13・9)

 異なった教えは、「いろいろ」あると言われている。そんなにたくさんあるのかなと思ったけど、それらは私たちを取り巻いている生活の中で溢れているらしい。その教えは、今まで住み慣れたこの世で語られた教えなんだ。
 聖書を離れまい。心して、この「一書」から離れまい。「一書のみ」の信仰生活を歩みたい。だって、迷わされた道の行き先は、神を嘆かせ、人を傷つけてしまっている場所だから。ボクは、そこに決して戻りたくないんだ!


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』