2020年02月29日

『日々の聖句』2020年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年2月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。           (ヤコ4・1)

 戦いも争いもなくなって欲しいもの。でも御言葉は、戦いも争いも「あなたが欲しているから起こるのだ」と迫る。「お前の心に火種があるのだ」と釘を刺す。
 ドキッとした。そして「そんなはずない。アイツが原因だ」と弁明したくなる。でも、ふと思った「私が原因なら、戦いも争いもなくせるのかも。私が変わればいいのだから」と。光の差す道が、見えた気がした。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。    (使5・29)

 これは、平穏な時に告白した言葉ではない。迫害の中で、最高法院に立たされて尋問された時の言葉だ。死が目の前に迫りつつ「人に権威があろうとも、それに従わない。ただ主のみ」と言い切ったのだ。
 私も平穏な時なら、何度でも言える。でも、人間の前で、長いものには巻かれろと迫られる社会の中で、そこでなお神の言葉にこそ従いますと言えるだろうか。それで立場が危うくなっても、浮いてしまっても、この一言が言えるだろうか。ああ主よ、信仰を増してください。


●4(火)
義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。        (1ペト3・14)

迫害の中にあったキリスト者には、苦しみを避けて生きるほうが楽に見えた。しかし御言葉は、そこに留まれという。そこはキリストが歩まれた道だから、と。ついに勝利して、御国に上る道だから、と。
御言葉の通りに従おうとしたら、この世ではアチコチでぶつかる。「信従」の道は険しい。でもそこを歩もう。その道にこそ、キリストの足跡が見えるから。そこが御国に繋がる道だから。


●5(水)
いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。    (ヘブ3・18)

 厳しく刺し貫く言葉が届く。神の安息にあずからせはしないと告げられる者が居るということ。それは神のみ言葉を聞いても従わなかった者なのだ、ということ。
 「それはお前だ」と言われたようでドキッとした。御言葉に従ったと言えない自分を分かっているから。「そんな私は主の安息に入れてもらえますか?」と悔い改めること、それは命が掛かっていることなんだ。


●6(木)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている    (ヘブ4・14)

 神は私の心の奥底まで見通され、心や思いや考えまでも見分けられると言う。その神様を前にして、自分で弁明をしなくてはならないのだ。一体誰が、その裁きに耐えられるのだろう! 震える者へと告げられた御言葉がこれだ。御子イエスが、あなたを執り成してくれるよ、と。
 神様を前にして執り成し手となって下さるイエス様。あなた無しでは生きられない。あなたがいて下さって本当に良かった。


●7(金)
子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(マコ10・15)

 子供に祝福を戴きたいと、親たちがやって来た。それを見た弟子たちが、邪魔だと叱る。しかしさらにそれを見てイエス様が、叱って言われた言葉がこれだ。主は、来させなさいと言われる。そして、あなたこそ子供のようになって、私から戴くだけで生きる者となれと招かれたのだ。
 私もウッカリすると、良い話を聞こうとして御言葉を聞いている。それは違うと主は言われる「来い、御言葉から祝福を受けるために、乳飲み子のように」と。


●8(土)
自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。     (マコ7・9)

 人々は神を敬う者のようにしていたが、自分の生活で都合が悪くなると「その御言葉は現実生活では無理だから」と言って平気だった。律法を自分勝手に解釈して隣人を責めさえして、自己利益に生きていた。その姿に、イエス様が声を荒げて怒られたのだ。
 これは私への言葉なのか? 御言葉を身勝手に聞き流して棚上げしてる。飾り物にしている。やっぱりこれは私への怒りなんだ。今日こそ他人事で済ませまいぞ。


●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。    (1ペト4・8)

 終末の日が来たら、裁きの座に立たねばない・・・そのことまでを思い描きながら、今をどう生きるのかを告げる。その時、「何よりもまず」と言われたことが、「愛し合いなさい」だった。
 その愛とは心情的なものでなく、身代わりに死なれたキリストに倣うこと。身を捨てる愛。それも「愛し合う」のだから、互いでなきゃならない。つまり愛されているっていうことに気付かなければ。そんな日常になったらココも神の国?良いねぇ!


●11(火・祝日)
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。    (ヤコ2・17)

 ヤコブは教会に告げる、「自分は信仰を持っているというものがいても・・・」と。口先だけの信仰が何になるのかと、激しく畳みかける。その現状を憂いたからだ。
 「死んだ信仰」というものがあるんだ。腐って臭くなる信仰って、あるんだ。
たった一つの温かい手を伸べること、悲しむ人の横に座ること、話を聞いてあげること、そこからで良い。そこから始めよう。きっとすべてそこから変わるから。芳しいキリスト者の香りがし始めるから。


●12(水)
神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。     (2コリ2・14)

 キリスト者は、キリストの香りが漂い出すと言う。その香りは、キリストを知った恵みへの賛美、感謝の祈り、愛の業など。
 「ああ大変!」と思いつつ、大事な一句に気付いた。それは「神は」の一言。主語は「神」なんだ。私は、神様が香りを漂わせて御業をなさる為の管。通りの良い管でいればいい。欲で詰まらせまいぞ。


●13(木)
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。        (マコ7・14)
   

 イエス様は「聞きなさい」と言われるだけでなく、同時に「物分かりが悪い」と嘆かれながら、「悟りなさい」と言われる。きっと、聞くだけで聞き流したり、棚上げしたりする人ばかりだったからだろう。
 イエス様は、私に言っておられるのかも。「物分かりの悪いのはお前だよ」と。でもイエス様は私を招いておられるのかも「悟れ、受け入れよ、私の言葉を。お前を愛する私の言葉だから」と。あ、悟るべきことは、何よりも先ずその一点だったのかも。


●14(金)
御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。    (1ヨハ3・2)

 神の子とされたキリスト者たちにつげられる。「イエス様が再び来られる再臨の日に、驚くべき恵みを味わうよ」と。「あなたも、イエス様と本当の弟妹のように、そっくりだと分かるよ」と。
 だからこそ「地上に生きる今日も、イエス様の真の弟妹として生きよう」と思う。友達がボクを見たら、「お前、最近キリストっぽい?」と言われたら、嬉しいな。


●15(土)
霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。    (ロマ8・26)

 どう祈るべきか言葉にならないほど苦しむ日々がある。でもその呻きの日々も、聖霊ご自身が私に代わって、父なる神に執り成していて下さるのだ。だから、忍耐して今日を生きよと言われている。
 祈る時、独りで祈っているんじゃないんだ。傍には聖霊が一緒に居て下さる。それも私の側に着く執り成し手として。
それって、私の側に立つ神がおられるということ。聖霊なる神と私が、想いも立ち位置も一つになっているんだ。そんな奇跡が、祈りで起こっている。祈りってスゴイ


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。        (コロ3・5)

 自己中心になる姿の最たるものが「貪欲」。それはあらゆる物を貪る欲望。自分のものにしたいという悪。それを捨てろと言われている。「それは、お前の中で自分がつくり出して拝む偶像となるから」「お前の中に巣くう悪となるから」と。
 「捨てろ」と言われていることは、私の中にも「在る」ということだ。「私には無い」と思うところに危険が潜む。「私もむさぼる欲がある」と思って警戒せねば。毎朝、私の中の「貪欲掃除」から始めなきゃ。


●18(火)
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。    (エフェ4・2)

 エフェソの教会の信徒たちに、一致を保って過ごせと語る。その中で言われた具体的なことがこれらなのだ。人が一致するために必須のことが、高ぶらず柔和で寛容になることなのだ。
 一致することって、一致の目標とか手段とか手順とか、そんなことじゃなかった。私の心の在り方が問題なんだ。私の心が、一致を揺るがなくもするし、崩しもする。私こそ自己中心の高ぶりを捨てねば。今すぐ、あそこでも、ここでも。


●19(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。     (フィリ2・4)

 利己心を捨て、隣人に心を配って生きることへ招く。そのためには、へりくだること、相手を自分よりも優れた方と考えることが必須だとも重ねて語られていた。
 自己中心から離れて隣人を思いやることは出来そうかも・・・。でもそれって本当にするためには、「あなたは私より優れてる」って生きることが前提。ああ、やっぱり「自分の方が優れてる」って認められることに固執する自分がいる。関係を壊す元凶は我にあり。この石の心を砕き給え。


●20(木)
一同が一つになって集まっていると     (使2・1)

 聖霊降臨が起こる直前のこと。弟子たちの群れは一つに集まっていた。そこで祈るために心を合わせていたのだ。その上に、主の霊が降った。
 このペンテコステの出来事は、私たちの上にも起こる。それは礼拝の時だ。だって、思いを一つにして祈っている時だから。来る週ごとの礼拝に、聖霊は充満している。だからそこで、慰められ、励まされ、魂が満たされて、それぞれの生活へと送り出されることが起こるんだ。まさに初代の弟子たちの群れと同じなんだね。


●21(金)
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタ5・37)

 山上の垂訓の中の一節だ。自分勝手に「私はこれをする」と誓ってはならないと告げられる。イエス様は、御言葉に聴いて、御心を「然り、そうします」と歩くこと。御言葉によらないなら、人から勧められても、自分自身がしたくても「否、それはしません」と生きよと言われたのだ。
 完全な幸いへの道しるべは、御言葉そのものになのだ。その本道を、頑固に「然り」と行こう。脇道に入るまい。


●22(土)
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。       (ヨハ7・37)

 群衆を前にして、イエス様が大声で呼び掛けられる。人々は仮庵祭でごった返して、今ある生活で大忙し。振り返る間もなく走り続けている。祭司長は妬みにかられ、下役はイエス様を捉えようと走る。
 ふと「渇いている人はだれでも」という呼び掛けが、「あなたは渇いていないか? 本当は渇きがあるね」と、優しく語られる御声に聞こえて来た。そう聞こえたらもう大丈夫なのかも。だって、その人が、生命の水をくださるのだから。

●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月・振替休日)
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。   (1コリ1・23)

 人々は、救いの確証にしるしを求めた。または、説得的に証明することを求めた。しかしパウロは告げる。人間にとっては愚かなことと見えることしか伝えない。それは、神であられる御子が地上に降り、人の手によって十字架に付けられて死んでしまわれたということ。それが、あなたの救いのためになされたことだ、と。
 アーメン。御子の十字架以外に見るまい。キリストの死は、我が救いのためなり。それ以外なにも求めまい。アーメン。

●25(火)
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。    (ルカ2・50)

 神殿詣に両親と来ていた少年イエスが、はぐれた? いや、神殿に一人残って学者たちを教えていたのだ。やっと探し出した母マリアたちに「私が父の家(神殿は天の御父の家そのもの)にいたのは当たり前でしょ」と言う少年イエス。でも両親はその意味が分からない。イエス様が神の御子とまだ分かっていなかったから。
 私たちも「イエス様こそ御父なる神の御子」と心底悟れば一気に真理を得る。神が人と成った恵みも、死なれた秘儀も。


●26(水)灰の水曜日・受難節
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。    (1ヨハ5・5)

 神を愛すること・その方の掟(つまり御言葉)を守ること・悪の世に打ち勝って神の子として生きられること・・・これらは全部繋がっていると言われている。迫害の世で生きる羅針盤としての言葉だ。
 受難節に入った。私の罪のために十字架で死なれた主を憶える日々。それは、具体的に「こう生きよ」と聞いているのに、従わない姿を数えることだ。信じますと言いながら、神の言葉を無視している。勝利への羅針盤を自ら捨てる姿を数えよ。


●27(木)
不平を言わずにもてなし合いなさい。        (1ペト4・9)

 心を込めて愛し合いなさいと告げられた直後、この御言葉が告げられてゆく。まるで愛し合うことの中身が分かるように。愛し合うためにはこうやって心と手を足を動かすんだよと、教えるように。
 確かに、もてなすことはお互いに大切。でもその時「嫌だな」とか「辛いな」とか「面倒だな」とか「義務だし仕方ないな」とか、そういう心じゃ駄目ってことなんだ。
あれ! どうしてスルスルと不平の言葉が出て来るんだろう。ボクの心の中を掃除しなきゃ。こりゃあ、大掃除になるな。



●28(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。   (エフェ6・11)

 悪魔の策略が、襲って来るのだ。それを甘く考えてはいけない。それは、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする闘いだと聖書は告げる。その闘いに対抗する神の武具は真理、正義、福音、信仰、救い、主の霊、そして神の言葉だ。
 信仰生活そのものからはずれる時、悪との闘いに敗れるのだ。今日という一歩も、その闘いが開戦される一日。気を引き締めよ! 神の武具を取れ!


●29(土)
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。  (ヘブ10・36)

 神を信じて御心を行う時、世から迫害を受けたキリスト者たち。その受けた苦しみ、そこでの忍耐は、正しい闘いだったのだよと言われているのだ。だから、希望をもって今まで通り御心に歩めばよい、と。
 歩んで来た過去を想起することは、未来への希望に繋がる。私も、これまで通りただ御言葉に従おう。周りから、そんな生き方だと言われても、この世から浮いていると言われても、そこは御国への本通りだから。その先に、ゴールがあるのだから。


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2020年01月31日

『日々の聖句』2020年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年1月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水)2020年元日

元旦礼拝説教

         藤森誠神学生



●2(木)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。  (1ペト2・4)

迫害に苦しんでいた諸教会のキリスト者に、洗礼の恵みを思い起こさせるために書かれた励ましの手紙である。イエス様は十字架で死なれたが、御父の救いの御計画だった、と。そして今朝のみ言葉の直前には「この主のもとに来なさい」と、宣言するように記されていた。
 私も行こう。貴い要石となって下さった主のもとに。朝ごと、夜ごとに跪いて祈る一年であらせていただきたい。


●3(金)
偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。     (マタ20・26〜27)

 ゼベタイの息子たち(主の弟子)の母が、イエス様に「息子をあなたの左大臣、右大臣にして下さい」と願い出た時、主が答えられた言葉。「偉くなりたいんだね、それなら人の上でなく、皆の下に立ってご覧。それも、しもべになれ」と言われたのだ。
 この世は「テッペン取ってやる」という言葉が流行る。でも神様は違うのだ、「しもべの座を取ってやると生きてご覧」と。そこは神の御子と同じ座だからと。


●4(土)
キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。     (エフェ3・12)

 神の民のユダヤ人だけでなく、あらゆる異邦人にも神の恵みは注がれると語り続けたパウロ。「あなたも信じたら良い、そうしたら神に近づけるから」と。
 ただキリストを信じること・・・、そこから溢れる絶大な恵みを改めて思う。天におられる神が遠くに思えて叫んでいたのに「イエスは救い主」と信じたら、誰でも神の御傍に行けるのだ。この「大胆」さが、「罪人こそ近づける」ということなんだ!


●5(日)

主日礼拝説教
(2020年 年間主題聖句から)

         辻川篤牧師



●6(月)公現日
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。   (ルカ17・15)

 重い皮膚病に苦しんで来た十人が、イエス様の指示された通りにしたら、みんな癒された。でもイエス様の所に感謝して戻って来たのは、たった一人だったのだ。
 「なんて自分勝手な信仰か」と思う。思った瞬間、冷や汗が出た。朝に「今日もお守り下さい」と祈りながら、夜、「一日を感謝します」と祈り忘れている。そんなことが一事が万事だ。自分勝手な信仰は、私だった。今日、変わらなきゃ。


●7(火)
恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。        (ヘブ4・16)

 主イエスは、私たちの弱さを知っていてくださって、その上でなお父なる神に執り成してくださる仲介者。また弁護人でもいてくださる。その主イエスがおられるのだからと、御言葉は告げる、「助けて」と近づけば良いと。そこが恵みの座だよと。
 待っていてくださる方がいる。それも味方として居てくださる。だから今日も、祈りの中で近づこう。その貴い恵みの座に。そこで主が傍に立ってくださるから。


●8(水)
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。   (1ペト1・5)

 この世が完成する終末の日、つまり主が再臨して下さる日、救いの恵みだけに満たされる。もう苦労は終わる、流す涙も拭われる。それがリアルな希望となるのは、ただ信じることのみと告げられる。
 ああ、信じた向こう側にあるのは、完全な平安だ。真の希望なんだ。たとえ今は苦しい人生の道中でも、光を見詰めて歩けるんだ。信じることって、スゴイ。


●9(木)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。        (ロマ14・1)

 いまだ古い律法的な習慣から抜け切れないでいるキリスト者たちがいた。逆にその兄弟たちを批判する者たちもいた。その批判者たちへ向けて、パウロは告げたのだ。互いに尊重し合い、仕え合うことを見失っているぞ、と釘をさしたのだ。
 「信仰生活とはこうあるべき」と批判する時、隣人を愛することを忘れている。なぜすぐに、隣人も神に愛されている一人ということを忘れてしまうのだろう。愛するとは、受け入れることなのに。


●10(金)
イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。   (1コリ1・2)

 「この人たち」とは誰のことだろうと思って聖書を開いたら、イエス様の御名を呼び求める全ての人だった。それなのに、そのコリントの教会の中で分裂があったのだ。
 教会の信仰者を結びつける一点は、主の名を呼ぶ者とされたということ。つまり扇の要は、主ご自身なんだ。そこに結ばれて、一人ひとりはバラバラでも一つになれる。生活背景も、教派さえも越えて一致できるんだ。十字架を見上げて「主よ、主よ」と仰ぎたい、あなたと一緒に。


●11(土)
あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。   (ヘブ3・12)

 これは信仰の無い人にではなく、信仰者に語りかけられている御言葉だ。生ける神から離れないように励まし合って、今日を歩めと、諭されているのだ。
 神が私から離れるから、恵みが見えなくなるんじゃない。私が離れてしまうから神が見えなくなるんだ。必死で私を握り続けようとして下さる神様なのに・・・。
先ず今日、御手の内に留まろう。一日また一日、その積み重ねを生きよう。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月・成人の日)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)
   

 ガリラヤ湖上で、嵐に悩む弟子たち。横を見ると、イエス様は安寧に眠っておられる。必死に揺り起こしてすがった時、主は立ち上がって風を叱り、波を鎮めた場面がこれだ。このあと主は弟子に「なぜ怖がるのだ。まだ信じないのか」と嘆かれた。
私の人生の航海にも、主が同乗して下さる。それを信じて進めばいい。たとえ嵐になろうとも、見るべきは波風ではなく、同乗される主ご自身。目を離すな!


●14(火)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。   (ヨハ6・36)

 イエス様が「わたしは命のパンである」と群衆を招かれる。また「信じる者は決して渇くことがない」とも。しかしそれに続けて嘆かれたのだ「しかしあなたがたは信じない」と。目の前で見ているのに、と。
 まるで鋭い矢のように、私の胸にも主の嘆きがグサリと突き刺さる。「御言葉を聞いているのに信じない、あなたはもう聞いているのに」と、イエス様がこっちを見ておられる。悲しい顔で私を見ておられる。
 それをしっかり受け止めねば。信じる者になりたいから、今日変わりたいから。


●15(水)
悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。        (マコ10・22)

 財産が有り、善い行いを積んでいた男が、イエス様に「天の国に入るにはどうすれば良いか」を聞いた。そのとき「持っている物を売り払って施し、私に従え」と言われた主。それを聞いて悲しむ男。手放せなかったからだ。
 主に従う道は、自分の遣り方を温存した延長線上にはない。まず捨てて、従うこと。前者が出来ないのなら、その先もない。私もまず握りしめる自我を捨てよう。そこが、背きと罪の巣くう場なのだから。


●16(木)
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。   (ヨハ6・47)

 「わたしは命のパンである」と言われた主が、群衆を招かれる。その命のパンを食べて、生きよと。それが信じる者なのだと。
 私も、イエス様が命のパンだと知ってはいる。でも、それを食べて生きているだろうか。御言葉を第一のパンだと、むさぼり食っているだろうか。ああ、知っている人と、実際に食べる人とは、別なんだなぁ。その間には、大きく深い淵があるんだ。 信じていない側にとどまるのでなく、今日その淵を超えよう。御言葉に生きよう。


●17(金)
はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。   (マタ25・40)

 イエス様が、「審判の日」に祝福される者と呪われる者が分けられる話をされた。祝福される者とは、小さく貧しく弱った隣人に寄り添った人だよ、と。
 祝福を得るのは、大仰な行いを積むことじゃない。それは、隣にいる一人に手を差し出すこと。それをイエス様は「私にしてくれたこと」とさえ言って下さるのだ。その手を、今日伸ばそう。ためらわず。


●18(土)
今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている    (ガラ4・9)

 パウロがガラテヤの信徒たちに、「今まで神でない偶像を虚しく拝んできたが、今は真の神を知っているよね」と言う。それも、「さらに深く、神があなたを知っている深い関係に入っているんだよ」と言う。「それなのにどうして逆戻りするのか」との嘆きも、この後に続いていた。
 私も、まず神様が私を愛して下さって、「相思相愛の関係」に入れて頂けた。それなのにその愛から離れたら、神の嘆きはどんなに悲しいだろう、深い痛みだろう。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた   (1コリ2・2)

知恵も学歴も、ありとあらゆる能力を持っていたパウロが、福音を伝えるためにはそれらを用いないと語る。十字架につけられたキリストを伝えることしかしないと言う。人の目に愚かとしか見えない磔にされたイエス様しか語るまいと言う。あなたがたが、その一点で救いに至って欲しいから。人の知恵によらず、神の御業のみによって救われて欲しいから、と。
ただ十字架にすがろう。ただ十字架を誇ろう。そして十字架に留まるのだ。


●21(火)
さあ、立て。ここから出かけよう。        (ヨハ14・31)

「イエス様、どこに出掛けれられるの?」と思って聖書を開いたら、アッと思った。これは、裏切られて捕らえられる直前の場面。つまり出掛ける場所は、十字架への道ということだったから。
主は、しっかりと十字架を見詰めておられる。そこから目を離されない。そこが救いを成し遂げられる場所だから。
ふと「お前のために行く。さあ、一緒に来なさい。十字架の真下に立ってお前の救いの完成を見よ」と仰っているように聞こえた。私も十字架から目を離すまい。


●22(水)
異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。   (ルカ2・32)

幼子イエス様が神殿に連れて来られた時、信仰の人シメオンが神を称えて言った言葉がこれだ。「わたしはこの目で救いを見た」と告げ「異邦人を照らす光だ」とイエス様を指して言ったのだ。
まだ赤ちゃんなのに、見ただけで「万人の救い主」と喜びに溢れたシメオン。それなのに私は、主の御言葉を直に聞いてさえいるのに喜びが薄い。信心が鈍いのか?真剣に「主の言葉だ」と受け取る心のキャッチャーミットが、ほころびているのか。


●23(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。   (ルカ2・15)

 夜の闇夜に突然、天使の大群が現れて羊飼いたちにイエス様のお生まれが告げ知らされた。そのとき羊飼いたちは、すぐに立って走り出したのだ、「その出来事を見ようではないか」と。胸躍らせながら、ベツレヘムに駆けだしたのだ。
 私も、すぐに立って走り出そう。「イエス様にお会いしよう」と、朝ごとに祈りの場に駆け出そう。そこでいつも会えるから。主のみ言葉を聞きたいと聖書を開こう。そこでいつもお言葉を聞けるから。


●24(金)
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。       (1コリ6・19)

 パウロは、コリントの信徒たちの乱れた生活を聞いて、嘆きつつ訴える。あなたはキリストによって聖くされ、神の霊が宿る神殿となったのだから、神の栄光を現わして生きるべきだろ、と。
 私の体も、神の住まう神殿なんだ。受洗の日に聖霊を戴いて、こんな私も神殿とされたんだ。だから毎朝「この体をどう使えば、神の栄光をあらわせますか」と祈って始めよう。きっと御子のように隣人を愛して生きよ、って言われるのかもね。


●25(土)
イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。   (ヘブ13・15)

 この直前で、あなたがたを聖なる者とするため死なれたキリストが、あなたの大祭司となってくださったのだと告げて、「だから」と今朝の御言葉に続く。イエス様への感謝と賛美は、ここに根拠があるのだ。
 御子の命が、私への贈り物とされた。なんという高価で貴い戴き物か。その貴さが分かる人だけが、応分のお返しが出来る。「私の身を献げてもまだ足りない」との思いをもって、御前に進み出たい。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
この方においては「然り」だけが実現したのです。 (2コリ1・19) 

 父なる神の約束は、御子イエスにおいて全てが成就した。「あなたの罪が赦される」という、最大困難の約束さえもだ。これだけは駄目だ、というものは一つもなかった。「すべて御子の死によって、実現したのだ」と、言われているのだ。
 神様は、私の何もかもを御存知の上でなお、私を肯定して下さる。無条件で、だ。「神様なぜ?」と問うてみて、ふと「お前を愛しているから、お前を守りたいから、お前を失いたくないから。救いたいから」と、御心が聞こえた気がした。


●28(火)
霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。   (使8・29)

 人徳がある立派な人物だけど、まだ真の神を知らなかったエチオピア人が、馬車に乗って走り去る。その時、神の霊がフィリポに「お前があの人を追いかけろ。一緒に行け。そしてキリストを証するのだ」と告げたのだ。
 私にも聖霊が告げる「お前も行け、あの人の所へ。待っているんじゃなく、追いかけて寄り添え」と。途端に走り出したフィリポのようになりたい。そこに救いが起こるから。愛する隣人に起こるから!


●29(水)
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。     (コロ2・12)

 キリストと共に死んだ私。同時にキリストと共に新しい生命とされた私。どこまでもピッタリ引っ付いて生きている今という日。そのあなた方だから、キリストと結ばれて生きよ、と御言葉は告げる。
 もし一体となった二人がバラバラになったら、その裂け目を痛むのは私だけではなく、同時にイエス様もだ。私の罪の歩みはイエス様を「痛い」と叫ばせているんだ。


●30(木)
真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。    (1ペト4・19)

 信じて生きるゆえに迫害と苦しみの中にあるキリスト者に、御言葉は「それでも善い行いに生きるのだ。あとのことは真実であられる神が傍におられるから、お任せすればよい。全存在をゆだねたらいいから」と告げる。
 私の生き方に、今日改めて照準が定められた。それは、ただ神の御言葉に従って生きるのみ。たとえ人が見て評価しなくても、なじられても気にしない。だって、見ておられるのは、御父なんだもん。


●31(金)
レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。     (マコ2・14)

 当時、人々から「売国奴」とさえ言われて嫌われて、それでもローマ帝国側で働いていた徴税人。その徴税人だったレビに、イエス様だけが目を留めて下さって、「私に従う弟子になれ」と招いて下さった。
 私にも、イエス様は同じように目を留めて下さり、同じように招いて下さる。罪人の私なのに・・・。コッチに来るようにと手招きして下さる。だから、すぐ立ち上がって従ったレビのように、私も立ち上がろう。イエス様の弟子とされるために。


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2019年12月31日

『日々の聖句』2019年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年12月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(日・アドヴェント第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。      (ルツ1・9)

 ナオミは、夫と二人の息子に先立たれた。その悲しみの中で、息子の妻たち(その一人がルツ)に、断腸の思いで、実家に帰って新しい嫁ぎ先を探すように勧める。その最後に加えた言葉がこれだ。
 本当は別れたくないし、独り残されるのは寂しかっただろう。でも相手のことを最優先に思ったナオミ。それも快く出発できるように、祝福の言葉も添えたのだ。
隣人を想うとは、自分は断腸の思いを抱えて、なお相手の幸いを願うことなんだ。私の今日の一歩もココに合わせたい。


●3(火)
わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませてください。  (王上8・58)

 ソロモンが神殿を完成させ、主に祈り終えると、全会衆を祝福して叫んだ。その言葉がこれなのだが、不思議な感じがする。祝福というよりまるで祈願だから。
 私も「私の心を主に向けさせ、御心を歩ませて下さい」ということが、願いと同時に祝福ということなのか。あ! 正に「然り」だ。この願いは必ず聞かれ、これを実現していただいた先には、祝福された生活があるから。祈り方が分かったぞ!


●4(水)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。    (ルツ2・13)

 未亡人となったルツが、姑ナオミと一緒にベツレヘムに着いた。彼女にナオミの一族のボアズが声を掛ける「苦労を全部知ってるよ。主なる神が、御翼のもとに逃れて来たあなたに報いてくださるように」と。その言葉に答えたルツの応答がこれだ。
 隣人の一言が本当に慰めになるのだなぁ。「分かっているよ」という一言と「主の守りがあるように」という言葉が。私もそんな言葉で、いつも隣人に接したい。


●5(木)
この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。  (イザ29・13)

 主が神の民に向かって嘆かれた。いや怒っておられるのだ、「口で、主よ、主よと言いながら、心は離れている。形ばかりの民だ」と。
 口だけの信仰って、在るんだ。形だけの信仰って在るんだ。熱い信仰者のようで、まったく冷めていることが在るんだ。なんだか一つひとつにギクッとするのは何故だろう。敏感に心が反応する今の内に、早く主に立ち帰ろう。手遅れになる前に。


●6(金)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。     (箴3・12)

 「主の懲らしめを避けるな」と告げられた御言葉に直結して、今日の聖句が語られていた。
 愛されることは、四六時中求めている。苦しむことは、いつも避けている。でも、「ああ辛い、きつい」と思うことも、神様の御手の中でなら、愛されている事の中に入っているんだ。神様の為さることは、すべてが愛から出ているから。
ならば、今日の祈りも「御心のままに」ですよね。ちょっとドキドキするけど。


●7(土)
あなたの道を主にまかせよ。  (詩37・5) 

 どうも、この詩人の周りには「悪事を謀る者」がうじゃうじゃいるようだ。「いら立つな」と言われているほどに。また「不正を行う者」が甘い汁を吸っているようだ。「うらやむな」と言われているほどに。そのような中で「あなたの道を主にまかせよ」と告げられていたのだ。
 あなたはイライラしなくて良い、主が計画されるから、その道こそ最善だからということなんだ。「あっ、主の道を行くことこそ、甘い汁なんだ!」 あれ今、変な言い方したかな?


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●9(月)
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。  (イザ60・19)

 バビロン捕囚の後に、民の回復が預言される。そこで神の輝きは、昼の太陽よりも夜の月よりも、あなたを明るく照らすと告げられるのだ。もはや沈むことさえない太陽に、あなたの神がなられるのだと。
 あらゆる事に優って主に望む事は「私を照らす光でいて。もう離れないで」ということ。そのとき私が弱くても、闇に打ち勝てるのだから。ふと、そのために降誕されたイエス様を思った。罪と死の闇に勝たれた主を。預言が出来事となったことを。


●10(火)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。   (イザ55・7)

 背きへの裁きのあとに、祝福への回復が預言者イザヤによって語られる。
 「これは背きの民イスラエルへの言葉」として傍聴していては駄目だ。「神に逆らう者」の箇所に「いつも自分中心になる私」と入れねば。「結局自分を神としている我」と入れねば。そうすればやっと「主に立ち帰るならば」との招きが胸に響くから。そこに憐れみを受ける道が開くから。


●11(水)
(ダビデの詩。賛歌)地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。   (詩24・1)

 詩人は、世界のあらゆる物の所有者が神であると歌う。それは、一切のものは主が造られたからだと。被造物を、一つひとつ大切に築き上げたのは神だからと。
 自分が所有されているということを、詩人は嬉しそうに言う。それは自分で自分を守るより安心だと知っているから。それも神に所有されるとは、神が「私の宝物だ」と誇っておられると知っているから。私の命も神のもの。それは、私も、神の誇りの一人だということ。嬉しいね。


●12(木)
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。  (エゼ18・21)

 神がエゼキエルを通して、背きの民に「悪人の死を喜ばない、むしろ生きることを喜ぶ。だから私のところに立ち帰っておくれ」と告げられる。
義しい裁判官の神が、判決をエコ贔屓して曲げるなんて。その人は、御心に背いた張本人なのに。そう腹を立てた直後、神に背く悪人ってボクだって気付いて、ふと神の愛って何なのか分かった気がした。


●13(金)
その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。       (創6・9)
   

 地上に悪が満ち、神は人を造ったことを後悔して大洪水を計画される。しかしその中でたった一人神の好意を得た人がいた。その人こそ「無垢な人」、つまり「神と共に歩んだ」人・ノアであった。
 神様から好意を得るのは、一つのことなんだ。それは一心に御心に向かうことだ。本当の「無垢」って、神様だけを思う人なんだ。私には無垢さがない、自分の事ばっかり思っているから。それで良いはずない。


●14(土)
七年目ごとに負債を免除しなさい。         (申15・1)

 たとえ正当な貸し借りでさえ、七年目が来たら全て免除しなければならない。それが主の掟! そう生きるのなら、貧しい同胞がいなくなるから。さらに自分も、全ては主から与えられていたことを思い出し、立ち帰れるから。
 何でも手に握りしめて「これは私の物」と主張して来た。でも神様は「違う。恵みによってあなたに貸している物だよ」と言われる。だから握る手を緩めよう。それも、七年に一回で良いのだから。それにしても、なんと握っている物の多いことか。


●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月)
強く、雄々しくあれ。  (ヨシュ1・6)

 モーセの死後、主はヨシュアを選ばれた。それはヨルダン川を渡って、約束の地に民を導き入れる務めのために。そこで「強く、雄々しくあれ」と言われたのだ。
 私なら「とんでもない、私になど無理」と断りたくなる。今までも小さな奉仕さえ、言い訳をして「できません」と言ってきた。でも今朝、「強く、雄々しくあれ」と言われた先に「あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる」とあったのを見て、思いが変わった。従う先にのみ主がおられる。ならばどうして留まれようか。


●17(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。  (王上8・60)

 ついにエルサレム神殿が完成し、ソロモン王が祭壇の前で長い祈りをささげた。その締めくくりの祈りの言葉がこれだ。それはソロモンの願い、民の願い、そして主ご自身の御心が三重となった言葉だった。
 私もこの祈りを、礼拝ごとに兄弟姉妹と一緒にささげていた。それは主の祈り、「御名が崇められますように」と。いや主日だけでなく、事あるごとに祈り続けるのだ。私の口癖となるまでに。


●18(水)
主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。  (サム上12・24)

 民を導いて来た祭司サムエル。歳を取り、世を去る日が近づいた。そのとき民に告別の辞を残すのだ。それは、主を畏れ心を尽くして主の言葉に従うなら幸があるという、代々変わらぬ教えだった。その最後に「本当にそうだっただろ」との思いで、今朝の一言を加えたのだ。
 今日「行け」と言われた道を行こう。「行くな」との道に入るまい。確かに今までそこに幸があった。そう思ったら聴従の思いが新たになった。ちょっと悟れたかな。


●19(木)
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。  (ヨブ2・10)

 家族、財産、栄光をすべて突然失ったヨブ。自らもひどい皮膚病に七転八倒する。その時にこの一言を言ったのだ。幸福も不幸も主の御手からのものなのだから「いただこうではないか」と。
 私の祈りはヨブとはまったく違う。「幸福だけ下さい、もっと下さい」と言い続けている。そういう自分に気付いて赤面した。「御心のままに」と口で言いながら、神に指図していたと気付いたから。心から従う人になりたい。気付けた今日から!


●20(金)
主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えてくださる。    (箴2・7)

 主から賜る「力」と「盾」が、誰に与えられるか述べられる。「正しい人」「完全な道を歩く人」だと。そしてこのあとには、主の見守りは、主の慈しみに生きる人の道に注がれるのだと、続いていた。
 力が欲しい、盾も欲しい、見守られたいと思う。でもその一つも手にできないなら、私が「戴ける場所」に立っていないからかも。主の方こそ「あげたいのに」と私を探しておられるのに。御言葉の通りに生きようとする者が、全てを手に入れるのだ。


●21(土)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。    (イザ31・5)

 慰めの主の言葉。しかしこれは新バビロン帝国に攻められた時、エジプトに助けを求めた民に告げられたのだ「人間に頼るな、主に立ち帰れ」との警告と共に。
 なぜ人間は神に助けを求めないで、目の前の被造物に頼るんだろう。信じていないからかも。神様の方はこんなに熱心に守ろうとして下さっているのに。こんなに大事にされているのに。不信心は我なり。そんな私のために、御子は来て下さった。


●22(日・第4主日・クリスマス礼拝)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月)
わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。          (ホセ6・6)

 イスラエルの民が神に背を向けた。彼らは神殿で礼拝をしていなかったわけではない。しかし他の日には、異教の神々も拝んでいたのだ。神殿に行くも、形だけの礼拝、形骸化した信仰になっていたのだ。
 二股信仰って、神様への背信なんだ。神様のほうは「あなたと私」という相思相愛でいたいのに、人間のほうが二股では、神は悲しむよね。嘆くし、怒るよね。ああそれが裏切りの姿、罪人の姿なんだ。


●24(火・クリスマスイブ)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。  (詩37・24)

 主に従う人=無垢な人=主に望みをおく人の人生がどのようなものになるのかを語る詩人。それは、苦難が無いというのではない。たとえ倒れても、傍におられる主が捕らえて下さる人生ということ。
 「主なる神が共にいてくださる」、それが最善で最大の恵みだと告げる詩人の声に、「その通りだな」って、今朝思う。だって今日はクリスマス・イブなんだもん。今宵は、御手に捉えてくださるために御子が来て下さったことを想って祈ろう。


●25(水・降誕日)
偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません。   (詩26・4〜5)

 主なる神に、全き信頼を寄せ、かつそのように歩んでいた詩人の信仰告白だ。 なぜ信頼し切れる人生であれるのか? きっと神に愛された実感があったからだ。
それなら私だって、神が私のために天より降らせたイエス様の降誕を見詰めたら、私も愛されたんだって分かる。今日は、その御子の降誕を見詰めて過ごしたい。そんな特別な日なんだから。


●26(木)
いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。 (詩3・7)

 「いかに多くの民に包囲されても」と告げられている敵が誰なのか。一節で「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあるのを見て愕然とした。我が子が敵となって、命を狙っていたなんて。「決して恐れません」という詩人の抱えた「恐れ」の複雑さを思う。それは戸惑い、悲しみ、嘆き、絶望感・・・。
それらに囲まれて尚「恐れない」と言えた詩人。直前に「主が支えていてくださいます」とあった。秘訣はこれのみ。私も主を仰ごう。たとえ悲嘆の日があれども。


●27(金)
(モーセは)「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。     (出32・26) 

 モーセがシナイ山で十戒を授かっている間、民は金の子牛をつくって拝み、神に背いた。そのときモーセが人々に告げた最後通告がこれだ。そして集った者は赦された。集まるべき場所がある。罪を「悔いる」というのは、その場所に集まること。心の中でクヨクヨしていることじゃない。
 主日ごとに礼拝に集まるのは、悔い改めることと、立ち帰ることと、赦しの宣言を賜ることが同時に起こっている大事な場所だから。私も帰ろう、罪人だから。


●28(土)
主を畏れることは知恵の初め。  (箴1・7)

 知恵の書は語る「主なる神を知ること、それも畏敬すべき神として知ることこそが、人が知るべき第一のことだ」と。
 明日は礼拝。来る週ごとに礼拝にあずかれるということは、一週間ごとに大切な立ち位置に修正されるということなんだ。一週間で大分ずれってしまった立ち位置だから。自分を神とする自己中心にずれていたから。主の言葉を聞いて、祈る事、賛美する事を通して、初めの所に立ち直そう。それも今年最後の礼拝。出席できるために全ての準備を今日中に。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)


●30(月)
人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。  (創8・21)

 ノアの大洪水のあと、神が新しくした世界を見て言われた言葉だ。人間が自らの罪のゆえに、当然の報いを受けたのに、悔いられたのは神ご自身だった。それほどに人に寄り添われる神。それも罪人に寄り添われるのが、主なる神なんだ。
今年も何度主を嘆かせて来ただろう。そのたびに何度も赦されて来た。その神の愛の深さを静かに数えよう。忘れないように具体的に数えよう。罪と赦しを。


●31(火)
岩と頼むのは、わたしたちの神のみ。         (上サム2・2)

 今年の年間主題聖句は、この御言葉をいただいた。私たちの歩みを確かにする御言葉として受け取った。私たちがどんな時にでも、主なる神を頼みとする者に立ち帰れるようにと。
 支えていただいた日もある。忘れてしまってうろたえていた日もある。でも通り過ぎてきた日々を振り返って、改めて心の底から告白の言葉が湧いて来る。「アーメン、まことに岩と頼むのは、わたしたちの神のみでした。ハレルヤ」と。


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2019年11月30日

『日々の聖句』2019年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年11月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(金)
恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。  (創21・17)

 アブラハムの妻サラの息子イサクを、侍女ハガルの息子がからかった。それで追放されるハガル母子。荒野で子供が死ぬのを見るのが忍びなくて、遠く離れて座り込むハガル。大声で泣くばかりの息子。その声を聞いて、御使いが母ハガルに告げたのだ「恐れるな。神が聞かれたから」と。
 旧約だから、神の民だけが大事にされると思ってた。でも異邦人の悲しみにも、主はお心を動かされる。あ、勿論かも。だって万人を創造された神なのだから。


●2(土)
わたしはあなたと契約を立てる。  (創6・18)

 ノアの大洪水が起こる直前、神はノアに「すべては息絶える。しかしあなたは箱舟に入って救われよ」と約束された。それもこれは命令なのに、「契約」だと言って下さったのだ。神の側も対等に責務を負う「契約」とすると言って下さったのだ。
 神なのだから一方的命令で良いはず。上意下達でよいはずなのに、約束を交わし合う対等の関係に立って下さるなんて。ああ、神様はいつも人間の傍に降って下さるんだ。人の横にきて愛するために。ふと、イエス様のお姿が思い浮かんだ。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月・文化の日)
「わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ」  (出33・17)

 主がシナイ山でモーセに十戒を授けていた時、民は麓で偶像を造って拝んでいた。怒った主は「もうあなたがたの間にはいない」と言われるのだ。必死に民を執り成すモーセ。そのとき、彼の執り成しを受け入れた主が「あなたの願いをかなえよう」と民を赦し、続けられた言葉がこれだ。
 執り成しの祈りって凄い! 私も名指しで選ばれてキリスト者となった故、家族の為に祈る時、主は私の祈りに応えて下さるのだ。必死に祈ろう。祈りは実るから。


●5(火)
わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。  (詩39・10)

 詩人は助けを求め、涙を流している。つまり苦難と悲しみがあるのだ。そこで不満も言いたいこともたくさんあるにもかかわらず、沈黙すると言うのだ。主の計らいに委ねると言うのだ。他にも「舌で過ちを犯さぬように」と告げていた。
私だって、そうすべきだと分かる。それでも私は今もなお人を傷つける言葉を言ってしまう。それは主に委ねる信仰が無いからかも。不信仰が姿となっているんだ。ああ、罪人の私を憐れんで下さい。


●6(水)
アドニヤは思い上がって、「わたしが王になる」と言った。  (王上1・5)

 ダビデ王が老衰に至った日、アドニアが王座を狙った。仲間づくりをして、兵を集めたのだ。全て御心ではないのに。それを「思い上がって」と、一蹴した。
 「私はこうする、いざ」と立ち上がろうとする日、「思い上がる者よ」と神から叱責されないため、もう一度立ち止まろう。もう一度祈ろう「これは御心でしょうか、進んで良いでしょうか」と。その祈りが、自分の「思い上がり」と神の「御心」を峻別させるのだから。大事の前にこそ静まれ。


●7(木)
ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。  (サム上1・15) 

 子供を望むけれど、与えられないで嘆くハンナ。その悩みを夫さえ理解してくれず、孤独に祈り続けたハンナ。ある日、神殿で長時間祈っている彼女に祭司が問いかけた時、彼女が答えた言葉がこれだ。
 訴えたい事、苦しい事をそのまま全部注ぎ出せば良い。聞いて下さる天の父がおられるから。それが、御父への「祈り」となるのだから。父は生きておられ、待っておられる。だから、さあ私も注ぎ出そう! 今日の思いを、今日という日に。

●8(金)
母の教えをおろそかにするな。  (箴1・8)

 知恵の書であるソロモンの箴言。その中に繰り返し言われるのが、「父の諭しに聞き従う」ことと、それに並んで「母の教えに生きる」ことだ。
 なぜ、この世でも当たり前のことを、わざわざ聖書で何度も言われるのだろう・・・。そう思いつつ、でも一つのことに気付いた。それは、誰もが、いつも言い訳をしながら、しないことだから。
これは処世術じゃないし、道徳の話しでもない。ここに生きるとき、神が与えた親子関係も整うのだ。


●9(土)
聖なる方を知ることは分別の初め。    (箴9・10)

 あ、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言一・七)と同じトーンが聞こえる。「主を畏れること、それが知恵」(ヨブ二八・二八)や、「主を畏れることは知恵の初め」(詩一一一・一〇)もあった。
 知恵の書である箴言でも、民が覚えて歌う詩編歌にも、どちらも同じことが言われている。それは、頭の中に刻み、心に沁みつかせるべき御言葉だからなんだ。「聖なる方を知れ、そして畏れ敬え」と、私も促されている。今日聞いた、ゆえに今日行う者となろう。


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月)
食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。  (申8・10) 

 四十年の荒野の旅を終えて約束の地に入る直前、モーセが民全体に言い聞かせるのだ。「誰が辛い荒れ野の旅を守ってくれたかを今こそ思い出せ。主なる神を心に刻み直せ。主から離れないために」と。
 「全ては主のお陰」と思うことが、自分を守る。「自分の力」という傲慢が、自分を滅ぼすことになる。その一線を越えさせない唯一のことは、いつも主を想うことだ。簡単そう? 否、難易度最高かも。


●12(火)
「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」   (王下5・15)

 異国アラムにナアマンという司令官がいた。重い皮膚病を患っていたが、神の人エリシャの言葉通りにしたとき癒された。そのときナアマンが告白した言葉だ。
 まったく神を知らなかった人が、ついに神を知る日が来た。それも、直接神に出会ったのでもなく、ただエリシャの言葉が実現した体験を通してだ。ならば私の大切な人も「御言葉は真だ」って経験をしたら、神を知る日が来るはず。御言葉を伝えねば。諦めず、御言葉の力を信じて。


●13(水)
わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。  (エゼ36・26)
   

 イスラエルの国が滅びた。それは、神の言葉よりも己を中心にした罪の故。それをエゼキエルは「石の心だ」と言う。でもさらに、その心を神が取り除いて「肉の心」を与えると伝えたのだ。柔らかで、素直に神を喜ぶ心、従う心を与えると。
何度抜いても生えて来る傲慢な心を、丁寧に除いて下さるのは神。その上従う心も与えて下さる。それほど丁寧に愛されている。至れり尽くせりで愛されてる。


●14(木)
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。  (創2・7)

 創世記に、二章から「第二の天地創造物語」が始まる。そこでは、アダムがまず創られ、それを囲むように生きとし生けるものが整えられてゆく。その最後に、パートナーとしてのエバも。
 神がどれほど人間を特別なものとして創られたかに胸が迫る。命の息も、愛も、全部吹き入れられて私も生まれたんだ。神の宝物としての私。自分でも、自分を大事にしなきゃ。それが愛してくれた御父の願いの中を生きることになるから。


●15(金)
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。  (箴3・7)

 知恵の書からのみ言葉だ。
 「もちろん自分のことを知恵ある者だなんて思ってもいません」と考えてる。それなのに不思議だ、人と争う時「自分こそ正しい。あなたは間違っている」と激高して自分を主張している。それは、自分のほうが知恵ある者だと思っているからかも。
 今日のみ言葉は、そういう私にこそ突き刺さって来る刃。それは自分で気付かない暗部を切り出すための手術のメス。神を畏敬する健康体に戻るために。


●16(土)
あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。  (サム下7・29)

 ダビデが全イスラエルの王となった。戦えば勝利、進めば成果。その時に主に祈った長い祈りの中に、今朝の一言がある。「神様、あなたが御言葉を私に下さったら、恵みの中を歩めます」と言ったのだ。
 「御言葉を受ければ幸いの日々」と言っている。でもこれは「御言葉が無ければ、祝福の無い日々」ということ! 急いで祈ろう「私に御言葉を下さい、いつの日もどの瞬間も。その言葉に従いますから」と。


●17(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。 (出1・17)

 エジプトの王が、保身のために初子の男子の殺戮を命じた。逆らえば命はない。それでも一人の助産婦が、人を恐れるより神を畏れた。その一人によって、民をエジプトから脱出させるモーセが生まれた。
 神を畏れる人によって歴史は動いた。決して、人の目を伺っている人によらない。
私も今日、人に従うのか、御言葉に従うのか。次の一歩を踏み出す足に、「信仰」を込めろ。


●19(火)
彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。  (申3・22)

 モーセが荒野の四十年の旅を振り返って、民に話し聞かせる。いつも神様が先頭を切り拓き、しんがりを守って下さった日々であったことを。あの時も神が戦って下さった、この時もと、振り返ったのだ。
 私たちも、神がどんなに私のために繰り返し戦って下さったかを想起することが必要なんだ。それを心に刻み直せたら、今日という旅路も、神が先頭を切り拓いておられると信じられるから。


●20(水)
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。  (詩100・1)

 感謝の供え物を携えて、民が神殿に登って来る。そのときの賛歌の冒頭だ。 なんと晴れ晴れした様子なのだろう。主を前にする民が、喜びに包まれている。その胸の鼓動まで聞こえて来そうだ。
 私たちの礼拝でも、「招詞」によくこれが読まれる。この御言葉によって、胸躍らせて礼拝を始めるのだ。およそ三千年の時を超えて、礼拝者の胸の高鳴りが響き合うようだ。あっ、今朝の祈りの時も主の前に跪く時。それをこの御言葉で始めたら、喜びの心で一日をスタートできるね。


●21(木)
主よ、もう十分です。私の命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。  (王上19・4)

 預言者エリヤは、バアルに仕える者たちを打ち倒した。それに対してイスラエル王の妻イゼベル(異邦人、バアルを拝む)が激怒。エリヤの命を狙う。命からがら逃げた荒野で「もう充分、無理」と嘆いたのだ。
 御心に従ったのに、この世に生きる時に苦しみを追う。大預言者エリヤでさえ弱音を吐いたのだ。私なんて尚更無理。でも、そのエリヤをなお力付け用いたのは主。もしかしたら私も? そう、私もだ。


●22(金)
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。  (アモ5・4)

 王国滅亡を前にして、「イスラエルは倒れる」と語ったアモス。しかし、「その中にあってもなお主を求めよ、そして生きよ」と繰り返す。生き残ることへの強い招きを告げたのだ。
 栄える順風の時も、裁きの中の絶望の日も、唯一つのことを主は求められる。それは、神を求め、主の言葉を愛して生きること。そこに喜びも、慰めも、そしてどん底での希望もあるからだ。旧約時代も、今も、「主のみ」「御言葉のみ」なんだ。


●23(土・敬老感謝の日)
そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。 (王上19・11)

 イスラエル王の妻イゼベルに命を狙われ、恐れと無力感で洞穴に逃げ込んでいた預言者エリヤ。その彼に、主の言葉が届いたのだ「そこを出ろ」と。
 私も「その働きは無理です。できません」と逃げ込む洞穴がある。でも主はそんな私にも言われるのだ「お前の立つ場所はそこじゃない。さあそこから出よ」と。今日御言葉を受け取った、だから今日自分で作った洞穴を出よう。そして「御心のままに用いてください」と歩むのだ。そこ以外、御心の成る場所は無いのだから。


●24(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。 (イザ53・3)

 イザヤが、「苦難の僕」について告げた言葉。これを教会は代々にわたって、救い主イエス様のお姿として聞いて来た。軽蔑され、見捨てられ、私たちの病を知り、そして罪を負われたイエス様として・・・。
 待降節に読む箇所だ。読む度に胸が詰まる。「御子をその姿にさせたのは私だ」と知り直すから。その主によって癒され赦されたと知り直すから。クリスマスの喧騒の中で、御言葉だけが喜びの真実を語っている。その季節がもうすぐ来る。


●26(火)
曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。 (箴4・24)

 知恵の言葉としての聖書の御言葉だ。
 いつも箴言の言葉にはドキッとさせられる。まるで心の奥の病巣にまで突き刺して来る刃のような言葉だから。
 そうだ! そのメスによって切り出さなくては。ドキッとだけしている場合じゃない。「ひねくれた言葉」を切り出そう。唇から出るものは、心の底で生まれるから、奥までメスを入れて取り出さなきゃ。大手術のメスを握る聖霊よ、どうぞ大胆に切り取って下さい。どうぞ助けて下さい。


●27(水)
わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。  (代上29・17)

 ダビデ王が神殿建築のために、民に大胆な寄贈を求める。人々も進んで大量の金・銀・宝石を持ち寄った。その時に彼は祈った「御手から受け取った中から献げたに過ぎません。何よりその人の心を調べて、真心を喜んでください」と。
 私たちの献げ物も信仰と直結してる。神を想う心が現れる。主がそれを調べて、喜ばれたら嬉しいけど。献金に、信仰の嘘も誠も現れるなんて、ちょっと恐い。


●28(木)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。   (エゼ34・16)

 イスラエルの民が、羊飼いのいない羊の群れの有様になっていた。主への背きに満ち、国は滅ぼうとしていた。そのとき預言者エゼキエルが民に向かって告げたのだ。主ご自身が御自分の群れを探し出して、連れ戻して、世話をしてくださるから、と。傷ついたものを包むから、と。
 一人ひとりに一番心を掛けておられるのは主。私も、その一匹の羊なんだ。温かな眼差しに、背後から包まれているね。


●29(金)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。   (ゼファ3・17)

 南ユダ王国の罪と亡国を告げた預言者ゼファニヤ。しかしその裁きと共に、赦しと贖いも預言したのだ。残された者たちに与えられる喜びの日の到来を。
 罪は、水に流されない。裁きを受けねばなれない。でもそれは、愛されていないことじゃない。なぜなら、罪人と一緒にいるのは、その神ご自身なのだから。決して見捨てず「お前のただ中にいる」と言って下さるのだから。私という罪人に喜びを届けるため、じっと居続けて下さるのだから。


●30(土)
主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。   (出32・14)

 モーセがシナイ山で十戒を授かっているとき、麓では人々が金の子牛を拝んでいた。燃え上がる神の怒り。「滅ぼし尽くすと」断罪された。それなのに、モーセの執り成しで、主は怒って当然の怒りを思い直されたのだ。
 義なる神が、正当な裁きをまるで訂正するかのように「思い直す」なんて。でもそれはいつも人に向けてのお心。いつも、慈しみが優るから。いつも愛して下さっているから。そのお心が、今日の私をも包む。

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2019年10月31日

『日々の聖句』2019年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年10月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。  (サム上12・22)

 神に仕えるサムエルが民に「恐れるな」と語り出す。「あなたがたは悪を行ったが、今後はそれることなく主に仕えなさい」と。その理由に今日の御言葉が繋がる。
 こんなに人間を求めて、人を愛そうとしてくださる神がおられるのに、どうして神様に頼り切れないんだろう。〈自分自身〉という偶像が、心の内に巣くっているからだ。旧約の民の姿は、私の姿に重なる。立ち帰らなきゃ、朝ごとに夜ごとに。


●2(水)
神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。   (出2・24)

 エジプトの国で、奴隷として苦役を嘆いていたイスラエルの民。その激しい叫びがついに神に届いた時、神は遥か昔・五百年以上も前の約束を思い起こされた。「あなたを祝福する」と言われた約束を。
私も神様から約束を戴いた日がある。あの洗礼の日、神が「わが子とする」と約束して下さったのだ。今朝改めて、その約束を心に刻もう。今日も神の祝福の中に生きていると感じたら、何だか景色が変わって来るから。安心色になるから。


●3(木)
目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。   (イザ40・26)

 バビロンへの捕囚と、そこからの帰還を予告する預言者イザヤ。大きく歴史が動こうとしていた。そのとき、その歴史の支配者へと目を向けさせるのだ。あなたの主を見よ、と。
 行き詰ったら、広いところへ出かけよう。そして大空を見上げるんだ。それから、祈りの心をもって、万物を創られ、今も保持しておられる主を想おう。そうしたら、その御手の中に私の「今」があると思い出せるから。ホッと出来るから。


●4(金)
主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。  (詩16・7)

 励まされなければならない状況に窮している詩人。敵がいるからだ。
 そこで励まされることを願うのだけれど、彼は「勇気を出させてください」とか「敵をやっつけて」とかを願わないのだ。
一六編を読んで驚いた。彼の励ましはどこから来るのか、それは「私には主がおられる」という一点だったから。
 不安が募る夜ごとに、本当に安心させていただける言葉は「主が一緒だよ」という諭しなのですね。それは真だなぁ。


●5(土)
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。    (申9・7)

 出エジプトを果たした民が、約束の地に入ろうとする。そこで、強国との闘いが始まる。その民に向かってモーセが語った「主は勝利を賜るが、あなたがたが正しい民だからじゃない。『背き続けて来たにもかかわらず』なのだ。それを忘れるな」と。
 ドキッとした。「背きは数えられている。神は私の背きを忘れない」と思ったから。幸いの日々を過ごせているのは、にもかかわらずの恵み。それが罪人の恵みの受け取り方だったんだと、気付き直したから。


●6(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)  

 詩人は、明らかに苦しみに悶えている。隣人に責め立てられているから。侮られ、呪われ、騙され、打ち倒されそうなのだ。その淵から叫んでいる「主よ、あなたはどこにおられるのか」と。それがこの詩だ。
 苦難の暗闇が一層暗くなるのは、孤独に気付いた時かも。助けが一人もおらず、神さえも沈黙される時。祈っても、空を打つように感じる時なんだ。
 主よ、沈黙なさらないで! 私も、神様だけが頼りなのですから。


●8(火)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」   (創18・32)

 罪に満ちたソドムの町が、主の怒りによって滅ぼされようとする。そのときアブラハムが執り成して、神と押し問答した。正しい人が五十人いたら赦して下さるか。よろしい。では四十人でも。よろしい。三十人だったら。それもよろしい。そして遂に十人でもと言ったのだ。それらをすべて受け入れられたのが、主なる神だった。
 ふと、「主のほうこそ、少しでも正しい人がいてくれることを切望しているみたい」と思った。主のお心を覗いた気がした。


●9(水)
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」   (創1・14)

 昼の輝く太陽も、夜空に瞬く月も星も、全てが神の御手によると語る。全てが御心による配置。全てのバランスが、神の支配のもとにある。
 これを信じるとは、一切を委ねても安心できる「お方」に出会って、そこに生きるようになれるということ。そうだ! 天地創造が物語るのは、地球の出来方なんかじゃなくて、大切な「お方」との出会いへの招きがここにあるんだ。


●10(木)
わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。     (詩131・1)

 神殿に向かうダビデの詩として、古来より読まれて来た詩。礼拝に向かうのか、それとも追われて逃げた荒野からの帰還なのだろうか。いずれにしても、私の心とはまったく違う告白がここにある。 私は高みを望んでいたから。謙遜なのは振りだけで、大きくされることに心は捕らわれている。そんな自分に自分で恥ずかしい。今日からこの御言葉を自分に言い聞かせるんだ。今日からでもいいから。


●11(金)
あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し・・・行きなさい。    (申1・6〜7)

 ヨルダン川の東まで来た民の目の前に、神が父祖アブラハムに約束して下さった祝福の土地が広がる。そこへと、現状に留まることを蹴って、踏み出して行けと主がモーセを通して命じられたのだ。
 ひょっとしたら人は、慣れた現状に安住することに流れるのかも。でも主は、祝福はそこじゃないと言われる。さあ、留まることから向きを変えて出発しよう。未知の世界、でも主の御手の中の世界へ。


●12(土)
わたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。       (イザ43・25)

 神に背いて、その罪のゆえに異国に捕囚となった民。主は聖にして義なる神だから、その罪を見なかったことに出来ない。その神が人々の苦しみを見て、人間の罪を御自分がぬぐうと言われたのだ。
 人間の悪を、神様がまるで飲み込むようにして「もう思い出さない、もういいから」と言われる。赦す側の御父が、誰より苦しんでおられる。「あなたを愛しているから」って、御声が聞こえた気がした。


●13(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●14(月・体育の日)
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。      (詩36・7)

 詩人は、主の慈しみは天に満ちていると歌う。その慈しみの視線がどこまで届いているかを、今日の一言で伝えていた。全ての人に、そして全ての生き物にだと。
 「どうしてそこまで愛されるの? 一体、人も獣も何者だからなんだろう」と考えつつ、ふと思い出した。神様と全てのものの関りの初めを。全てのものは、御手によって創造された神の宝だったと。私も、隣人も、全ての生き物も主のもの。だから、主が必死に守って下さるんだ。その視線の中を、私は今日も生きる。


●15(火)
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」    (創4・9)

 カインは、妬みのために弟アベルを殺した。そのカインに主が「かけがえのない弟はどこにいる」と問われる。「知りません。そんな男のことなど」と激しく言い捨てる兄。罪は果てしなく膨らんで止まらない。
 自己中心に生きる罪。その時、自分が〈神〉になっている。そこで最愛の人との関係も壊しているのに。不幸へと落ちる元凶は、周りのせいでなく、自分の中にある。


●16(水)
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。    (創2・19)

 神が世界を創造された時、アダムが独りでいるのは良くないと、あらゆる生き物を連れて来られた(後に、女・エバを造られるのだけれど・・・)。
 生けるもの全て、人間の慰め手なんだ。人は孤独でいるのは良くないから! 急に、世界が愛らしく見えて来たかも。


●17(木)
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。      (出16・4)

 エジプト脱出ののち、荒野で民が飢えた時、主はマナを降らせる約束をされた。「一人ひとりに必要な分だけ、必ず与える」と。でも人は欲にまみれてかき集める。次の日、虫がついて臭くなるのに。
 主は試された! そこで明らかになったのは、約束に従う信頼ではなく、恵みさえ欲で踏みにじる罪の姿。飽き足らぬ欲の塊。その欲による収穫は、腐って臭うのに。そこから離れたい、離れねば。


●18(金)
主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。    (詩6・3)

 詩人は嘆き続けて疲れ切っている。その原因が自分の罪にあることを知り、懲らしめにあっていると分かっている。そのゆえに、神に憐れみを求められるのだ。あなたの憐れみが、私の嘆きを癒すのだと。
 素直に罪を認め、懲らしめと悟り、迷いもなく主に憐れみを乞える詩人。それは、それほどに神と一緒に生きているからなんだ。まるで「お父さん、御免なさい」と泣きつつ父に抱きつく幼子のように。怒られても愛されていると知ってるんだな。


●19(土)
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」    (創2・18)

 アダムがまだ独りだった時、彼自身よりも心配して下さったのは神様だった。孤独の危険性を、人間よりも、創り主のほうが分かっていて下さったから。そしてエバが造られた。それが、最初の隣人だった。
 人は隣人との間で悩む。友人であれ、家族であっても。でも本来、隣人とは、支え合うために神が私に添わせて下さった大切な人なんだ。私を孤独から救う一人なんだ。ふと、隣人(家族も友人も)を見る眼差しが、柔らかくなった気がする。


●20(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎協力牧師(和泉短期大学チャプレン)



●21(月・祝日)
あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら・・・     (王上8・33)

 神殿が完成した時、ソロモンが主に祈る。彼が願った一つひとつは、彼が何を大切にしていたかを表わす。それは「悔い改めるなら、赦しを」ということだった。
 私なら「恵みと祝福を下さい」と、まだ何かをねだっているかも。彼は、人は罪人だと分かっている。だから赦しを願った。これが真の王の姿。誠実な者の姿なんだ。


●22(火)
ひとりのみどりごがわたしたちのためにうまれた。  (イザ9・5)

 代々の教会が「イエス様の降誕を告げている」と聞いて来た箇所だ。罪による王国の滅亡を預言しつつ、尚その先の回復を預言したイザヤが告げる言葉に、教会は救い主の到来を聞いて来たのだ。
 罪を犯さざるを得ない罪人の私。そんな罪人だからこそ、私が聞きたい預言がある。聞かねばならない知らせがある。それは、私・罪人のための救い主の到来だ。
私もこの箇所が「一人の赤ちゃんが、私の罪の救いのために生まれた。イエス様を仰げ、この方を見よ」と聞こえた。


●23(水)
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。   (アモ5・24)

 南北王国が滅びる前の時代。イスラエルの民に「主は立ち帰れと言われたのに、お前たちは罪を重ねる! 滅びが待っているぞ」と嘆き語る預言者アモス。その中で、主にある者の礼拝生活の姿を加えて語ったのが、これだ。正義と恵みの業を、大河の水が豊かに溢れるほどに尽くせ、と。
 「私も少しなら恵みの業もしている・・・」ではNGなんだ。遠慮も見栄も恥じらいも、愛することにおいてはかなぐり捨てて、怒涛のごとく尽くすべし! べし、だ。


●24(木)
聖なる方は主のみ。あなたに並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。    (サム上2・2)

 今年の主題聖句! 子供がなくて悲しむハンナに、祭司から、願いは成就すると伝えられる。そのときハンナから悲しみは去り、この祈りの言葉を胸に刻んだのだ。
 この祈りは、彼女の生涯の祈りとなっただろう。「主への賛美」の祈りが、「信頼の告白」の祈りと繋がっている。その経験は、生涯において「土台の在りかは神様だ」と悟らせてくれる。ああ私も、この一連の中を生きたい。


●25(金)
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。        (サム上2・1)

 あ! これは、昨日と同じ「ハンナの祈り」の箇所だ。
 二日連続でクジで引かれるなんて、どういうことだろう。「ハンナの祈りを何度も読み返して、もっともっと自分のものにするんだよ」という御心だろうか。そうしたら、本当に苦難の中で、私もなお主を見上げて喜びを得る人になれるから。希望を持てるようになれるからかも。
さあ、聖書を開こう。何度も読んで味わい尽くそう。自分の言葉になるまで。


●26(土)
見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。(創13・15)

 主の召命に従って、故郷を後にして旅立ったアブラハム。一番大切に思う地縁血縁の場所を後にさえして、主の言葉を前にして進んだ。その彼に、想像を遥かに越えた恵みが待っていた。「見えるかぎりの土地すべて」が「故郷の見えていた限りの小さな土地」に引き替えられたのだ。
御言葉に従う道に、神の幸いが待っている。それを選ぶか否かは、私次第なのだ。この選択が、恵みの受領と直結している。信仰の歩みとは、選択のことなんだ。


●27(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●28(月)
復讐してはならない。    (レビ19・18)

 主が律法を仰せられる、「聖なる者となれ」と。その文脈に今日の御言葉もある。また、表裏一体で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ともあった。
 今まで、「復讐するな」とは、自分で仕返しするなという禁止命令だと思っていた。世の中は「倍返しだ」を喜ぶけれど、教会は違うんだ、という程度で考えていた。しかし、ここにある御心は、「愛せ」という命令なのだ。その中に「復讐」などという思いはないはずだと。それが聖なる者なのだよと。ガツンと言われた気がした。


●29(火)
「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。」     (エレ1・9)

 エレミヤ召命の場面だ。でも彼は「語る言葉を知りません。若者にすぎません」と固辞する。そういう彼に、主が優しく、しかし厳しく言われたのがこの言葉だ。
 私たちも、隣人に福音を伝えるように神様から託されている。でもいつも「私には無理」と言い訳している。そんな私にも届いた主の諭しに、悟らねば、「語る言葉は神がきっと備えて下さる。私に無かったのは言葉ではなく、小さな勇気。私をお用い下さいと祈る小さな祈りだった」と。


●30(水)
主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。    (詩25・8)

 詩人は、主の恵みを求め、慈しみに依り頼んで歌っている。
 私は、主の恵みと聞くと、素晴らしいプレゼントを戴けることだとイメージしてしまう。健康を戴けることとか、願いが叶うこととか、病が癒されることとか・・・。
 でも聖書は、そんなことを恵みと数えてはいない。主の恵みは、罪人が立ち帰れることだと考えているんだ。あ、然り。それ以上の恵みが他にあるだろうか。真にそれこそが、神からの最大の贈り物だった。


●31(木)
あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。   (出16・8)

 エジプト脱出の恵みの直後。感謝の言葉もソコソコに、人々は荒野で不平を言い出した。「腹が減った、モーセは我々を飢え死にさせる」と。その彼らにモーセが「私への不満だろうが、あなたたちは主に不平を述べているのだ」と警告したのだ。
 神様から恵みを受けても、すぐに不平が出る私。それはきっと、自分の神が自分自身で、神様を自分の願い事を叶える僕にしているからだ。「もっとこうして欲しい、こうでなきゃだめだ」と、神に命令しているからだ。御言葉にハッとして、いやヒヤッとして、傲慢の罪から飛び退かねば。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:46| 『日々の聖句』

2019年09月30日

『日々の聖句』2019年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年9月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。(箴10・19)

 ソロモンの格言集としてまとめられた中の一節。
 日本でも「口は禍の元」とか「沈黙は金」とかいう。誰もが分かっているのに、どうして要らない一言を口から出すのだろう。一言メールしたり手紙を送ったりしてしまうんだろ。そこで人を傷つけているのに。きっと、その言葉を作りだす元のところ、つまり私の中、つまり私の心の中に悪が住み着いているから。あ、だから、これは罪の問題なんだ。処世術の話じゃない。


●3(火)
まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。  (ネヘ9・19)

 バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できた民。そこで自らの背きの罪を告白し、同時に主の憐れみをたたえた。
 神の慈愛にいつ気付けるのか、ちょっと分かったかも。それは恵みに満ちた日々じゃない。逆に、過ちと罪に落ち込み、それが神への背きの姿だったと気付かされて悔いる心に、なお自分が見捨てられていないことに気付けた時。正にそこで神の愛が分かる。罪人なのに、なお赦され愛されていることこそ、主の憐れみだから。


●4(水)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」 (創24・27)      

 アブラハムの僕が、主人の息子イサクの嫁探しの旅に出た。それは干し草の中から針を捜すようなもの。でも条件に合う人に出会えた時、祈った言葉がこれだ。
 到底無理と思える問題も、御心ならば成し遂げられる。ならば、「困難を乗り越えられた」と思う時は「ここに御心があった」という信仰と「ああ感謝」という祈りが起こる時なんだ。達成感に浸っている場合じゃない。「自分にご褒美」なんて見当違い。今頃気付いて恥ずかしや。


●5(木)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。  (詩3・4)

 この「それでも」ってどういうことか。ダビデが息子に命を狙われ、さらに周りの者から「お前に神の救いなどあるものか」と言われても、「それでも」ということだ。
 主への信頼は、絶体絶命の時にこそ問われるんだ。絶望の淵に立った時に、信仰の在る無しが露呈するのだ。ああ御霊よ、私にも、この詩人ダビデのような一言を唇にのぼらせて下さい。「主よ、あなただけ」というすがる信仰を与え給え。


●6(金)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。     (ゼカ4・6)

 バビロン捕囚の苦しみの後、都への帰還が主の使いによって告知される。それは、人々の力によるのでもなく、政治的な勝利でもない。主は、「わが霊によって」と告げられたのだ。
 全ての苦労が報われたように思う日が、私にも来るかも。努力が実ったように思え、風が私に吹いて来たなんて思う日も来るかも。しかしその時にこそ祈ろう「ただ主のお陰。主の霊がこんな私にも働いてくださったんだ。畏れと感謝のみ」と。


●7(土)
人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。  (申8・5)   

 出エジプト後の荒野の旅を振り返って、モーセが御旨を伝える。あの日々は、あなた方を主の民に育てる訓練の時、神が御自分の子として育てた日々だったのだと。
 神への全き信頼者となること、真の信仰者となることを願うのは、私自身よりも、御父なんだ。「試練が厳しい」と思う日に、一番そばにいてくれるのも天の御父なのですね。「さあもう一度私の言葉に従って御覧」との励ましが聞こえます。


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●9(月)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。(ヨナ1・14)

 御心に背いて船で逃げ出し、大嵐に遭ったヨナ。そこで観念したヨナが「私を海に放り込め」と言うが、船員達は何とか自力で陸に戻ろうとする。行き詰る攻防の末、ヨナを海に投げ入れる直前で、神に向かって叫んだ船員たちの言葉だ。
 目を離せないノンフィクションドラマを見ているようだ。しかしその現実の遣り取りの中に、神が居られる。そうだ、私の現実も同じなんだ。今日という一日の中心に神が居られる。「御心のままに」と祈って始めよう。私の嵐を乗り切るために。


●10(火)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」  (民12・13)

 モーセを非難し、「自分だって神の言葉を直接取り次げる」と豪語したミリアム。途端に重い皮膚病になった。神に打たれたからだ。その彼女のために、非難されたモーセが、執り成して叫んだのだ。
 一二章ではモーセを「謙遜な人であった」とも記していた。モーセの叫びを聞いて、謙遜の意味が初めて分かった気がする。それは末席に座ったり、控え目な態度等じゃなく、自分を非難する人さえ愛せること。弱い人でなく強い人なんだ。


●11(水)
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」   (創1・26)

 天地創造の時、神が人間をどのようなご計画で創られたかが記されている。
 人は神と阿吽の関係に創られた。それは御心を完全に知ることが出来る存在ということ。加えて、世界の調和を保持する神の働きを、人間の使命として委ねても下さった。私は神の大切な存在、神に信頼された存在なんだ。相応しく歩みたい。そうさ、御心と阿吽の呼吸で。


●12(木)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 預言者エゼキエルが、捕囚の民の中で語る。捕囚後の希望についてだ。それは、神に背いた頑なな石の心から、神が、悔い改めと柔らかな肉の心を与えてくださること。柔らかな心で、まっすぐに神を喜んで歩めるようになるよという知らせだ。
 悔い改めも主に従う心も、自己責任だと思っていた。でも、神様から戴けることに身を任せれば良いんだ。なんて至れり尽くせりなんだろう。ふと、がんじがらめの信仰理解から解放された気がした。


●13(金)
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。       (詩103・10)

 この直後に「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と続く。これは赦しと恵みの宣言だ。
 この御言葉を、私たちも礼拝のたびに聞いて来た。「ざんけの祈り」のあとの「赦しの言葉」として聞いて来た。来る週ごとに、繰り返し悔い改めを吐き出し、赦しと恵みを吸い込む。まるで呼吸のように。ああこれが、信仰者の人生なんだ。


●14(土)
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。  (王上19・12)

 エリアが命を狙われて荒野に逃げる。行倒れた場所で、激しい風が起こって山が砕け、地震が起こり、火が噴き出した。でもその驚天動地の中に、どこにも主なる神はおられない。その全ての後に、ささやく声が聞こえて来た。主の御声だった。
 苦難に喘いで、「早く助けて、何とかして、もう駄目です」と騒々しい祈りの中に、主の御声は届いて来ないんだ。主張する口を閉じて、ただ聴く者となって御言葉に聞くなら、生ける神の言葉として届いて来る。私も一瞬で良いから静まろう。

●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎協力牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月・敬老の日)
知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。      (詩19・13)

 重い背きの罪から清められ、主に喜ばれたいと願う詩人。その祈りは、自分の罪を探して思い起こし、気付き、悔い改めるだけにとどまらなかった。自分が知らずに犯した過ちと罪があると、わきまえていたから。ここに達する人が、真に驕りから離れた信仰者と言えるんだろう。
 私の祈りに欠けがあったと気付かされる。今朝この詩人の祈りを、私も加えて祈ろう。今夜も明日も、口癖の祈りのように祈ろう。それが私にも必要だから。


●17(火)
主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。   (出4・14) 

 神がモーセに使命を与えて「民をエジプトから導き出して欲しい」と言われる。でも言い訳だらけで断るモーセ。何度も否んで「誰か他の人にさせてください」と言った時、ついに神の怒りが爆発したのだ。
 神が一個人に怒りをぶつけるなんて、めったに見ないお姿。その怒りは、神が求める奉仕を、言い訳だらけで断った故にだった。僕も神をイラつかせている時があるかも、いやある。あの奉仕を脇に置いた時。あれは神様からの懇願だったのに。


●18(水)
復讐してはならない。   (レビ19・18)

 主がモーセに「これを民に告げよ」と掟を言い渡された。レビ記はすべて、その言葉で満ちている。その中の一つが今朝の御言葉だ。この直後に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と続いていた。
 気付くと、相手を打ち負かそうとして頭はカッカと燃え、言葉の武器を取って、心は怒りで満たされる。唇が震えている。それが復讐する者の姿なんだ。しかしそれは、愛することをしない者の姿なんだ。私は、なんて愛の無い者。私は罪を抱えて歩いていた。主よ、憐れみ給え。


●19(木)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 イスラエルの民が出エジプトの後、荒野を旅する途上で、モアブの平野の異邦人バラムに神が語りかけた。このとき彼はひれ伏して言った言葉がこれだ。
 異邦人でさえ、主から「行け」と言われれば行き「止まれ」と言われれば引き返す。それなのにキリスト者であるボクの歩みは、どうにも自分勝手過ぎないか。今日こそ「御意は何ですか」と問うて、聞いた御言葉のままを実際に歩んでみるぞ。


●20(金)
「できなかったのだ」などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。     (箴24・12)

 力を出し惜しみして、人を助けようとしなかった人に、「お前の心を見抜いているぞ」と主が言われる。「そのお前の行いに応じて報いも来るぞ」と加えて言われる。
 ヒヤッとした。「できなかった」と、隣人の苦難の横を通り過ぎている自分に気付いたから。「祈っている」と言いながら、訪ねもせず、慰めの葉書一つも出さなかった。「できなかった」とは、結局自分に向けての言い訳。それは罪。それを神は調べられるのだ。そんな自分から今日変わりたい。


●21(土)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない。   (イザ54・10)

 この直前には、私はあなたの罪と過ちを背負った苦難のしもべだ、と告げる主の言葉がある。あなたの罪だけど、私が償うと語られたのだ。もはやあなたを責めることはない、とまで語り掛けて下さっていた。
 だから「山が移り・・・」という御言葉は「どんなことがあっても」と告げる最上級表現。「私にはあなたを慈しむ心しかない」とまで宣言して下さっているのだ。私を包むのは、ただ神の慈しみのみだ!


●22(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月・秋分の日)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は畳みかけるように「主を賛美せよ、ほめ歌をうたえ、喜べ」と促す。その根拠が、この御言葉なのだ。世界は主の慈しみに満ちているからだ、と。
 私は慈しみに満ちている世を生きていたんだ。本当は、目の前には、苦しみと悩みへと漕ぎ出すような日々があるのじゃない。主の慈しみの御目があまねく注がれている世界を歩んでいるんだ。そうさ! 足元の暗がりばかリ見ないで、天を見上げるんだ。さあ、心を高く上げて、主が慈しまれた一日へと踏み出そう。


●24(火)
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」   (サム上3・10)

 夜、少年サムエルに主が呼びかけられた。親しく名前を呼んで対話を始めようと、二度、三度、そして四度までも。そこにサムエルの召命が起こったのだ。
 懸命に関りを求めて、諦めないで呼び続けて下さるのは、主の側なんだ。二人の間に、恵みを届ける関係を生みたいと願ってくださるから。神様のことを知った私も、呼び掛けられ、求められた一人なんだ。神に大切にされた一人なのですね。


●25(水)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20)

 南ユダのヨシャファト王の時代、周辺諸国から攻め込まれた。そのとき王は、一心に主を求めて歩み、民にもそれを命じた。それが今日の御言葉である。それは勝利へと続く道の在りかでもあった。
 人は自分で勝利方程式を立てて、それを神に実現してと祈ったりする。でも「あれ、それって違うんだ」と気付いた。「これは神の戦い。だから私は僕としてどう戦えば良いですか」と御心を問う事こそすべき事。それが主に信頼する姿なんだ。


●26(木)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 詩人は、敵の手に落ちることから救われ、魂が陰府から引き上げられたことを感謝してこの詩を歌った。彼は、苦しくて泣き崩れる夜を知っている詩人。しかし同時に、必ず神が嘆きの底から引き上げて辛い日々を過ぎ去らせて下さることも知っている詩人だ。
 きっとその信仰体験があるなら、次の試練に襲われた時、涙の夜の只中にあってさえ、この詩を歌える。明けない夜はないことを、信仰の目で見られるから。


●27(金)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。    (詩139・23)

 詩人は神に「心の中を隅々まで知り尽くして欲しい」と願う。悩みも迷いも不信仰も吟味されてしまうのに。
 ちょっと恐いなと思った。妬みや不平や批判も、全部お見通しにされるから。隠したい不信仰さえ見つけられるのだから。でも、それだから知ってもらわないといけないのかも。そこで歩む道を修正できるから。病原が見つかったら、やっと治療に入れるように。私も精密検査してほしい。


●28(土)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。   (ヨブ30・20)

 神様に「無垢で正しい人」と評価されたヨブなのに、突然苦難に襲われた。全財産と健康も失って、神に叫ぶヨブ。
 自分の苦しみを神は知っておられるのに、回復してくれないと苛立つヨブ。こんなに祈っているのにと、情けなくなる。さらに、それなのになお御前を離れない。彼は全てを失っても、神様だけは失わないでいられるんだ。僕もその選択をしたい。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子協力牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16・8)

 この詩編をダビデの詩だと読むなら、言葉の一つひとつが躍動して来る。どんなに主を愛しているのか、どれほど喜んでいるか、信頼しているかが伝わって来る。
 その根拠は、主は共にいてくださるという実感なんだ。
 ふと、イエス様の降誕を思った。「その名は、インマヌエルと呼ばれる(神は我々と共におられる)」と。私も「主は右にいます」ことを知っている。インマヌエルの主に結ばれる洗礼を受けたのだから。さあ顔を上げて「わたしも揺らぐことなし」と言わん。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:25| 『日々の聖句』