2022年05月31日

『日々の聖句』2022年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年5月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●2(月)
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。(使17・27)
「遠く離れてはおられません」って微妙。傍に一緒にいるのか、そうではないのか、悩んじゃうじゃないの。
これはアテネの町に偶像が散在していたのを見たパウロが言った言葉。偶像を一刀両断にしない。あなたは、真の神を見い出せる傍まで来ていると言う。でも、そこで立ち止まるな、さらに進め、真の神へと近付け、と告げたのだ。偶像の多い日本で、友人に伝えられる一言を得た気がした。


●3(火・祝日)
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。(1ヨハ4・7)
「互いに愛し合いましょう」と言われて、「ボクも一生懸命そういう人になろう」と決意を新たにして、アレっと思った。「愛は神から出る」という一言に、目が留まったからだ。
自分の心の中から愛する思いを絞り出すんじゃない。私の中には無い「愛」を、神様からいただいて、初めて一つの愛の業が始められるんだ。ならば、最初にすべきことは「愛を、私にも下さい」と祈ることからだね。


●4(水・祝日)
むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。 (1ペト4・16)
キリスト者は、キリスト者として生きるゆえに非難を受けるなら、その人に主の霊が留まって下さると言われる。だから恐れず「キリスト者の名で呼ばれること」を喜べと言うのだ。
主の霊は、キリスト者として堂々と立つ者に留まる。だから「聖霊が分からない」と言っていた時のボクは、まだ及び腰クリスチャンだったのかも。家庭で、職場でカミングアウトすれば、その人に御霊が添ってくれる。


●5(木・祝日)
彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。  (ルカ8・3)
マグダラのマリアと、ヘロデの家令の妻ヨハナ。されにスサンナと、実名が挙げられる。そこに加えて多くの婦人たちが、全てを差し出してイエス様一行に仕えていたのだ。
実名が挙がるのは、そこにリアリティーがあるから。彼女たちは、仕えることを本当に喜んでいたのだろう。価値観が「自分が大事で、自分にこだわる」ことから一変したから。「主と隣人が何よりも大事」となったから。


●6(金)
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。    (マコ12・17)
イエス様を陥れようとして「皇帝に税金を払うのは律法に適っているか」と問う人々。「納めないでいい」と言えば皇帝反逆罪だと言い、「納めよ」と言えば、この世にへつらう者だと律法的に断罪しようとした。それに対する主の答がこれだった。
「うまく対処された」という話じゃない。私自身が、何を大事にして生きるのかが問われているのだ。どこに心を向けているのかが問われてる。


●7(土)

神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。  (ロマ12・3)
この箇所の直前で「自分を過大評価するな」と言われる。また直後で、各自の奉仕についても、と。そこに挟まって今日、信仰においてもだと告げられていたのだ。その「信仰」は神が与えられるものだ、と。それも各人によって「度合い」が違うんだとも。
自分で「信仰が無い」と評価してはいけない。勿論「信仰がある」とも。ただ神を仰いで、御言葉に聞きつつコツコツ歩むのみ。「コツコツ信仰」だね。


●8(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●9(月)
「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタ9・37〜38)
町を巡るイエス様が、飼い主のいない羊のように弱り果てている人々をご覧になる。そのとき深く憐れまれて、この一言を言われたのだ。この直後に十二弟子を呼び寄せ、権能をお与えになり、各地に派遣される。
弟子の働き、教会の働きは、このイエス様のお心から、既に開始されていたと言えるのかも。人々を憐れまれたお心、その一点が開始点なのだ。それが、ボクにも届いたんだよね。


●10(火)
偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタ6・16)
人々は、信仰深い証しとして熱心に断食をした。でも、その姿を人に見てもらって「あの人は熱心だね」と言われたくて、懸命な振りも加えた。
私たちの奉仕も、同じような気がする。「素晴らしい奉仕ね」と評価されないと不満だし、褒められると嬉しい思いになる。人から評価されたら、そこでスルリと神の祝福を逃しているのに。評価を求める心が、神との間に壁を作るんだ。要注意だ。


●11(水)
人間にできることではないが、神にはできる。      (マコ10・27)
当時、神様からの祝福の印は金持ちとなることだった。その人が神の国に入るより「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたイエス様。その時「一体だれが救われるのだろう」とア然とした弟子たちに言われたのが、今朝の御言葉だった。
神は何でも出来るという「全能」は、スーパーマンということじゃない。御子を十字架に架けるという事になった。神の自己卑下で人は救われる。


●12(木)
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。(ルカ2・50)
神殿詣の際、十二歳のイエス様とはぐれた母マリア。境内にいたのを見つけて叱るマリアに「自分の父の家にいるのは当たり前だ」と答えられたイエス様。その言葉の意味が分からないマリア・・・。神殿は父なる神のおられる家だから、御子なるイエスがおられて当然なのに理解できないのだ。
ご復活までその無理解は続く。それは私たちにも同じこと。救い主への信仰は、つまりは復活信仰なのだ。


●13(金)
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。    (ヤコ5・15)
改めて、祈りの力の大きさに驚く。病人の傍で祈るなら、救われるのだから。でも、あれ?・・・。病人が、癒されるとは言われていないなぁ。
病の無い人生はない。死を前にしない人はいない。でもそんな時も平安でいられるなら。賛美の心で本人も祈る人となれるなら。癒されてもまた病む人間には、それが必要なことなのかも。それが救いかも。そういう祈りの友こそ、大事なのかも。


●14(土)
わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。   (使10・33)
異邦人コルネリウスが主の幻を見る。ペトロの来訪の幻だ。そしてやって来たペトロに言った言葉がコレだ。
でもこの言葉が、イエス様のことなど何も知らない異邦人が言ったということが驚きなんだ。ペトロ自身が半信半疑だった。しかし、これこそ神の計画。ここから福音がユダヤ地方を出て世界へ拡がって行ったのだから。神の計画は、人間の半信半疑の向こう側へ超えて進み行くんだ!


●15(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師


●16(月)
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 (ヤコ1・2)
エーっ! 「試練を喜びと思いなさい」なんて。試練って、できれば避けたいものなのに・・・。
聖書を開いて、ちょっと納得した。試練を通して「忍耐が生じる」とあったから。その忍耐によって「完全で申し分のない人」になれるから。ちょっとだけ、なるほどと思った。
試練も、真の天の父から戴くものなら、安心して身を委ねて良いのかも。今、ボクも少し成長したかな。


●17(火)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。 (1ヨハ4・4)
「内におられる方」は、もう既に居て下さることが前提だ。そのお方は「神の霊」とあった。聖霊なのだ。
聖霊が、ボクの内にもおられる。それを信じれば、世にあるどんな者にも対抗できるんだ。信じて委ねれば、だ。でも、その「入口」を間違っちゃうから、迷い道に踏み込んで結局「内なる方」に会えないのかも。「聖霊に委ねます」と祈って一日を始めなきゃ。その入り口を外すまい。


●18(水)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。    (ロマ14・1)
自分の信仰が正しいと思っている時、他人の信仰を心の中で批判する。それってボクの中にもある罪だ。隣人の小さな弱さを受け入れられないのは、ボクの弱さだ。友人の信仰生活の至らなさを、つい非難の目で見てしまうのは、ボクの至らなさなんだ。ボクの信仰の弱さは、隣人を見る時に露になる。
気を付けねば! そこで友人を傷つけてしまっているのだから。


●19(木)
彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。     (使2・11)
聖霊降臨の日、一同は聖霊が語らせるままに他の国々の言葉で福音を語り出したのだ。
「わたしたちの言葉で」とあるのは、もちろん諸外国人の「母国語で」ということもあるだろう。でも外国語が話せるようになった奇跡話じゃない。「自分が普段生活で話している言葉で話してくれた」ということが大事。「心に届く言葉」として届いたのだ。それこそが、聖霊の働きだから。


●20(金)
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 (1コリ7・19)
コリントの教会では「我々は割礼を受けたから、自動的に神の民」と言いつつ、生活は自己中心に陥っていた。
けしからんと思いつつ、ふと自分のことを振り返ったら・・・。「洗礼も受けてるから、もう神様に義と認められている」と言いつつ、生活は自分中心になっているかも。「義認」の後の「聖化」の生活を忘れていたかも。ああ、ボクもけしからん者の側にいた。悔い改めは、我にこそ。


●21(土)
イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。   (ヨハ20・19)
イエス様が十字架で死なれた。「我々もイエス一派だとして捉えられ殺される」と恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもった弟子たち。その恐れの真ん中に復活の主が来てくださって、無くてはならない一言を与えて下さった、「平和があるように」と。
ボクも不安や恐れに捕らわれる時、主は告げてくださる「あなたに平和」と。そうだ! 本当にみ言葉が支えとなることを、ボクも知っている。


●22(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師



●23(月)
これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。 (マタ 5・19 )
「掟」とは、父祖の時代からの「律法」のこと。私たちの時代で言えば、聖書にある御言葉の全てということだろう。小さな御言葉を一つでも破れば、ということ。
あ、「腹を立てるな」という御言葉なんて、しょっちゅう破っている。そんなボクは、天国で価値無き小さな者。いやそもそも天国に入れるんだろうか。御言葉に向かう姿勢が緊張して来た。それは良い緊張なのかも。


●24(火)
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。(ヨハ8・43)
神殿でユダヤ人たちを教えられるが、全く彼らにはイエス様の話が分からない。それは、彼らがイエス様を人間の教師としか見ていないから。だから御父なる神が御自分の父だと話しても、分からないんだ。神の言葉として、聞けないからだ。
ボクも聖書の言葉を受け取れない(従えない)時がある。それは「真に神の言葉」として聞いていない時。信仰の生命線は、聞く耳にあったのかも。


●25(水)
今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。    (マコ15・32)
十字架上のイエス様を見て、人々は言う。神の子ならそこから降りる奇跡だって簡単なことだろ。そういう証拠を見たら信じてやる、と。
なんて愚かな人たちなんだ、と思いながら、アッと気付いた。ボクも同じことを言っている時があると思ったから。それも祈りの中で「主よ、どうかこの苦難を取り除いて下さい。そうしたらもっと信じますから。もっと仕えますから」と。愚者は正に我なり。


●26(木)
神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。   (1コリ12・24)
「体」というのは「教会」のこと。集められた一人ひとりが「体を組み立てる」大切な部分だということ。
それも「私なんて、教会で何も奉仕できない貧しい者」と思ったら、その人こそ神に引き立てられる人になると言われている。だから、要らぬ自己卑下は、かえって奉仕を増やされることになるかも。ああ、どうすればいいんだろう。そうだ、やっぱり「主の御心のままに、お用い下さい」だね。


●27(金)
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり終わりである。  (黙21・6)
ヨハネがパトモス島で、主の天使から終末の日の幻を見せていただく。
黙示録を読んでいたら、恐ろしいことが起こりそうで恐くなる。でも、今朝の一言を聞いた時、何だか「安心していいんだ」と思えた。だってボクは、世界の最初の朝を造られた方を知っていて、その方が最後の日の夜まで守って下さるから。「あなたにお任せします」、これが終末の日の迎え方なんだ。終末を司る方も、主だから。


●28(土)
イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。  (ルカ2・51)
少年イエス様は、大工のヨセフ父さんの手伝いを一生懸命にされ、母マリアにも大切にされた。御子だから父なる神に愛されているのは当然だけど、両親にも、近所のおじちゃんおばちゃんにも愛されて成長したのだ。
信仰生活って、神に仕えるだけじゃないんだ。人にも仕える者となって、人の間で愛される者にもならなきゃ。孤高を決め込むのは、イエス様の姿とはちょっと違うぞ。


●29(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  西田恵一郎牧師


●30(月)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。  (2コリ12・10)
パウロは持病持ちで、説教中に倒れたらしい。「大きなことを言っていて、なんだこのザマは」と批判される。だから当然、「この弱さを取り除いて欲しい、万全に仕えられるため」と祈る。その祈りは叶わなかった。
そんな彼の言葉だから、今日の一言は重い真実。自分のしたいことを前に出さずに委ねたら、そこが神の働かれる場となる。神の出来事が起こされる場となる。確かに、最強だ!


●31(火)
(イエス)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」     (マコ1・15)
マルコ福音書は、イエス様の降誕物語もないし、幼いイエス様の様子も書かれていない。いきなり語り出したのが、今日のみ言葉なのだ。
私はキリストの福音を信じてもらうことを、「そのうち。あなたのタイミングで」と言って、先延ばしにしなかっただろうか。イエス様のように真剣勝負で「今、信じて!」と言い切れて来ただろうか。必死なのは、主おひとりにさせて来なかっただろうか・・・



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2022年04月30日

『日々の聖句』2022年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年4月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。  (ヘブ10・25)
ドキッとした。中高時代、礼拝をさぼった日のことを思い出したから。やっちゃいけないことだったんだ。
だって、この御言葉のあとに「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから」とあるから。イエス様の再臨の日に向かって歩んでいるボクだから。神の壮大な救いの歴史の中に立っているボクだから。むしろ、礼拝に出るための準備の日々が、ウイークデーなのだ。


●2(土)
(ザカリア)主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。 (ルカ1・72)
洗礼者ヨハネの父ザカリアが、聖霊に満たされて預言して言った言葉がこれだ。旧約時代からの神様の約束で「救い主を送るから」という言葉を、まるでいま見ている事実のようにして賛美したのだ。
ボクにもザカリアと同じように、既にいただいている約束を知っている。例えば、「世の終わりまであなたと共にいる」だ。信じて、今日を生きよう。きっと賛美の一日となるから。


●3(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
1部、2部  藤森誠伝道師



●4(月)
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。    (1コリ6・15)
この御言葉に続いて「みだらな行いを避けなさい」と言われる。それは「自分の体に対して罪を犯しているのだから」と。ハッとした。
私の体で、この口で、この目で、人を傷つける時、罪を犯す時、「ああ、何ということか」と嘆いているのは、イエス様なんだ。私の罪は、キリストの痛みなんだ。ならば、必死で罪を避けねば。大好きなイエス様を、これ以上苦しめたくはないから。


●5(火)
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 (ヤコ1・22)
まともにグサッと来た。それは、指摘されていることが的中していたから。それも、まるでボクの信仰生活を見られていたように・・・。「痛いな」と思ったら、命拾いしているのかも。そこから再出発できるから。
でも、ボクは自分を知っている。痛いという思いは、明日にはもう忘れてしまっているって。そうだ、この御言葉を、紙に書いて壁に貼らなきゃ! 自分の「信仰生命」のために。


●6(水)
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。     (1ヨハ2・17)
天の御父を愛して生きるか、それとも自分の生き方(この世)にしがみ付いて生きるのか・・・。二者択一を求められているのだ! どっちつかずではいけない。教会にいる時は「御父」で、日常生活では「この世」という二刀流はもっといけない。世にあるものを握ったら、体ごと「過ぎ去る」ほうへと引きずり込まれるからだ。
何だか厳しい話だぞ。しっかり目を覚まして、「御心」を握らなきゃ。


●7(木)
しかし、神の言葉はつながれていません。  (2テモ2・9)
パウロは同労者テモテに「私はキリストの福音を伝えるゆえに、牢で鎖につながれた」と言う。そこに続けて、今日の「しかし」があるのだ。
「体は捕縛され自由を失っても、御言葉は自由に前進する。神の言葉だから」と、力強く言う。パウロ自身が自分の“信仰力”でなく、神の言葉に生かされていたんだ。ボクも御言葉に生かされて生きたい。たとえ、この世の慣習に縛られようとも。


●8(金)
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。   (マタ20・14)
イエス様がなさった「ぶどう園の労働者」のたとえ話。主人は、九時から働いた人にも、十二時、三時、そして五時からチョコッと働いた人にも、同じ賃金を支払った。不公平だと文句を言った人に、この言葉が言われた。
昔CSの先生から「あなたが正に、五時の人やで」と聞いた時・・・。遅れて来て何も出来なかったボクにも「支払ってあげたい」と言ってもらえていることが、急に有難く聞こえて来た。


●9(土)
主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。  (1コリ16・23)
派閥争いで混乱するコリントの教会に、キリストによる一致を激烈に語るパウロ。不道徳な行いを避け、主の定めた生き方に立つように激しく迫る言葉。その手紙の最後が、この言葉で締め括られていた。つまり激しい言葉は、パウロのこの想いから出て来ていたということ。「主の恵みに生きて欲しい」という、愛する思いからだったのだ。真実に激しい愛は、脱線者を放っておかない。諦めないんだ。


●10(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
1部、2部  辻川篤 牧師



●11(月)
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることをしらないのですか。(1コリ3・16)
コリントの教会の一人にひとりに向かって「あなた方という群れこそが、神の神殿だ。それも一人ひとりの間に、主なる神がおられる」と忠言する。それは、教会の中が、互いに言い争い合って揺れていたからだ。
教会員同士が心を背け合う時、間におられる主が嘆かれる。御言葉は告げるのだ、「なぜそんなに神を悲しませるのか」と。これは痛烈な警告なのかも。全ての教会に向けてだ。


●12(火)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた(1コリ2・2)
パウロは伝道をする時、「イエス様の愛の教え」を伝えようとしたんじゃない。彼は「イエス様は罪人として十字架に架けられ、死に至った」ということのみ伝えたというのだ。敗北の印でしかない十字架の死なのに。
私たちも、愛のイエス様を伝えるのでも、慰め主のイエス様を伝えるのでもない。「十字架の死」のみ。罪の話しと、赦しの宣言なのだ。ここにしか、神のもとに戻れる道はないからだ。



●13(水)
思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。(ヤコ1・16-17)
恵み(良い贈り物や賜物)は、御父から戴くと当然思っているのに、なぜ「思い間違いをするな」と言うんだろう。それで聖書箇所を開いて驚いた。御父は、恵みだけでなく、悪への誘惑も与えると言う人がいたからだ。
御父が下さるのは恵みのみと思っているけど、苦境に立つ時、つい「神様、こんなものいらない。なぜこんな試練を与えるのですか」と、ボクも神のせいにして嘆いていないだろうか。


●14(木)
自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。(ヤコ1・25)
ヤコブの手紙は、私たちが忘れていたものを思い出させてくれる気がする。それは、一つひとつの御言葉(「完全な律法」)を、ちゃんと一つひとつ「行う」行いの大切さだ。
信じることで「義認」をいただいた。高価ないただきき物をした私たちだから、それに応えて歩まなければ。それは「聖化」の生活だ。忘れちゃいけない! そこに「幸せになる」ことがかかっているのだから。


●15(金)
ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。   (使10・20)
「わたし、って誰?」と、聖書を開いたら、ペトロの幻に現れた聖霊なる神のことだった。玄関にはペトロを捜しに来た異邦人が立っている。その彼らの招きに従って出かけた時、キリストの福音がユダヤ人のみならず世界中に拡がる出発点となったんだ。
全てが神様によって準備済みなんだ。あとは私が一歩を歩み出すだけ。「主よ。出発しなさいとの御声に、踏み出す勇気を与えて下さい」。


●16(土)
神は、…あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。   2コリ9・8)
ボクが善い業をするため、多くの恵みが満たされるって嬉しいと思って聖書を開いて、ウッと思った。「善い業」とは、「献金」のことだったから。
でもどうしてボクはそれを知って、ウッとたじろいでしまったのだろう? 心のどこかに、ドカンと献げることに躊躇があるのかな。パウロは、その心を突くと同時に、また励ますのかも。ドカンと与えられるから、ドカンと献げる喜びを経験しなさい、と。


●17(日)復活祭(イースター)礼拝


 主日早天礼拝は、祈祷会に代えられます。

礼拝説教
主   日  藤森誠 伝道師


●18(月)
逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て…   (マコ6・48)
弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に渡らせるイエス様。夕方になり、強風に舟は翻弄され出す。それをイエス様が「見て」と告げられていた。実際に目で見たのじゃないはず。でも御心の内に、ずっと彼らのことを見ておられたんだ。
アッと思った。ボクのことも「見て」下さる。苦悩は無いか、大丈夫かと心配しつつ。すぐ飛んで行くからと、ずっと見守られている。ホッとした。


●19(火)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。 (ロマ8・35)
悲しいこと、苦しいことが続くと、人は考え出す「神はどこにおられるのだろう。もう私は愛されていないのかも。こんなに辛いことばかりだから」と。そして探し出すのかも「ボクが犯した過ちのせいだろうか」と。
そんな思いに、御言葉は激しく語り掛けるのだ「いや、違う」と。「あなたからキリストの愛を引き離すものは何もない。あなたは今も愛されている」と。今朝、慰めが訪れた!


●20(水)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 (1テサ5・15)
いつも善を行い、喜んでいるように勧める中にこの言葉も挟まっていた。
言葉と行いで相手をやっつけたくて、眠れないほど激しく心が動く日がある。その心と、喜ぶ心とは同居できないんだ。そうなら、ボクの心に住んで欲しいのは、喜ぶ心の方だよね。
でも「気を付けなさい」と言われているのは、すぐ悪い心がボクの心に上がり込んで来るからかな。玄関に「勧誘お断り」の張り紙でもしようかな。


●21(木)
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。 (ヘブ3・14)
今日、神の声(御言葉)を聞くなら、心をかたくなにしないで今日従うように、と繰り返し告げられる中に、この言葉がある。それは、最後まで生ける神から離れずに、罪へと惑わされずに、今日の一歩、明日の一歩と歩み続ける生き方だ。
淡々と、しかし確実に、着実にだ。信仰者の歩み方って、地道なんだな。華々しく一瞬輝いて散る花より、コツコツでいい。コツコツが良いんだ。


●22(金)
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。     (ロマ9・20)
今朝の一言に、冷水をピシャリと浴びせられたような気がした。「御心のままに」と祈りながら、実際の生活は「アレもコレも足りない。恵みはあるのか」と、不平が心に満ちている。
「お前は何者だ」と、改めて自問せねば。本当に神を愛して従う者なのか、それとも神の上に立って自分の遣り方を押し通す者なのか、と。答えによっては、神の怒りがあるのだから。正に、今日が悔い改めの日かも。


●23(土)
それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。 (マコ8・29)
イエス様の奇跡が村々で噂になり始める。人々はイエス様を「洗礼者ヨハネの甦りだ」とか、「終末の日に再来する大預言者だ」とか、はやしたてた。そのとき主が弟子たちに向かって、今朝の言葉を言われたのだ。
これはそのまま私への問い掛けでもある。「あなたも、私に奇跡をしてもらうことを求めるのか? 私を神の御子として従うのか?」と。御言葉に促されて、ボクの自問が始まる。


●24(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●25(月)
互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。(1ヨハ3・11〜12)
「愛し合うことは、当然大事でしょ」と思った直後に「カインのようになってはなりません」と目にして、ハッとした。兄カインは、弟アベルを殺したのだ。その原因は、敵同士だったからじゃない。嫉妬だった。弟が優遇されていると、妬んだからだ。自分の心の中に、愛の灯を消す罪の塊がある。
「カインのように・・・」の一言にドキリとすることが、ボクを正しい道に引き戻してくれると思った。


●26(火)
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(使2・32)
「このイエス」の「この」って、「十字架で死なれた」ということだろう思って聖書を開いたら、それだけじゃなかった。ダビデ王の裔に救い主がお生まれになると預言されていたことの通り、という意味だった。「神の約束された通りのイエス」ということだ。
改めて「この」の意味の大きさが沁みる。神の言葉は、必ず実現するということだから。御言葉を聞く姿勢が変わった。それが実現するのだから。


●27(水)
「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。  (使10・4)
信心深い異邦人コルネリウス。祈っている時に、天使が現れた。恐れつつも応答した言葉がコレだ。そしてその後、言われた通りにペトロに出会い、キリストの信仰が異邦人世界に拡がる門戸を開くことになった。
「主よ、何でしょうか」と応答する人に、主の恵みの御業が起こる。それは家族、隣人にも拡がる恵みとなるのだ。ああ、ボクも、「はい、主よ」の一言を言える祈り人でありたい。


●28(木)
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。(1コリ12・6)
賜物って色々あるね。それを用いて様々な奉仕をする。教会においても、社会においても。さらに、この「すべてのことをなさる」というのは、賜物を与えることと、務めを与えることだと、聖書で言われていた。
あれッ。賜物を与えて下さることには「嬉しいな、ボクには何かな」と喜べるけど、同時与えられる務めを嫌がっちゃいけない。嫌がったら、いきなり賜物も小さくなるのかも。


●29(金・祝日)
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタ9・36)
イエス様が町や村に入った時、目に入って来た人々の様子は「一人ひとりが当てもなく迷い出して、弱り果ててしまった羊のようだ」と映った。その時「なんて愚かな人々」と思うのではなく「あなたに羊飼いがいたら」と、御自分の心を痛められたのだ。
御自分の大切な羊として見て下さる。そしてボクのことも、その一匹に数えていて下さるんだ。ああ、注がれる眼差しが、もう温かい。


●30(土)
大祭司であるイエスのことを考えなさい。(ヘブ3・1)
「大祭司」とは、神と人との間に立って執り成す役目。だから、神の側に立って御心を人に伝え、人の側にも立って願い求めを神に伝える。
真の神イエス様が、その「大祭司」でいて下さるということは、真に人となって下さるという以外には起こり得ない。御子なる神が全ての栄光を捨てて、人間の側へと降下して下さった。その大祭司イエス様を考える時、申し訳なさと有難さが溢れて来る。



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2022年03月31日

『日々の聖句』2022年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年3月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。(使17・23)
都アテネに多くの偶像があった。そこに「知られざる神」というのもあり、それを見たパウロがアテネの人々に語り出したのだ。「知らないで拝んでいるのですね。それもいいでしょう、でもそのお方の話しをしましょう。真の神を知って拝めるために」と。
相手を否定しない。でもちゃんと伝える方法があるんだ。伝道は、折伏ではない。まず自分の心を柔らかにして、相手を尊敬しなきゃね。


●2(水)
神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 (2コリ2・14)
今まで、「一生懸命に信仰生活を送って、少しでもキリストの香りを漂わせられるように頑張らなきゃ」と思って来た。そして挫折して来た。
今日じっくり御言葉を聴いて、自分の勘違いに気付いた。「神は、・・・漂わせてくださいます」なんだ。自分で漂わせるのじゃなく、神様の業なんだ。フッと肩の力が抜けた。同時に「あなたが用いやすい器にして下さい」と、祈りが変わった。


●3(木)
まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。      (ルカ10・5)
七十二人が、主の言葉を伝えるために派遣される。そこで家を訪ねた時、先ずすべきことをイエス様が教えられた。それは、早速自分が語りたい事や自分の思いを話し出すことじゃなかった。何よりも前に、相手のことを思うこと、平和があるようにと願い祈ることだった。
ボクは、そこがいつも逆転する気がする。ああ、自分のことを後にして、相手を先にする心になりたいな。


●4(金)
だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(1コリ1・29)
心の中でいつも自分を誇ってしまう。今朝の御言葉は、その過ちを犯さないようにと、神様がなさったことがあるというのだ。「それは何?」と思って聖書を開いたら、主は無に等しい人を選ばれるということだった。
「どうして・・・」と考えてみた。「もしかしたら、何も持たない人は全て神様に頼る。何か持っている人は自分を頼るからかも」と思った。それは正解。私の脱線もそこにあるから。


●5(土)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。   (フィリ3・21)
「卑しい」なんて言われて、ムッとする。でもよく自分のことを考えたら、罪まみれに染まった心、自分勝手にしか考えないで語り行動する姿は、まことに卑しい。神に背く者。
でもその私を、復活のイエス様と同じ形に変えて下さると言うのだ。地の底に沈んでいた汚泥を、天の国の宝石にして下さるのだ。その大変化への感謝を忘れまい。本来卑しい者であったことへの懺悔も忘れまい。


●6(日)
(「まん延防止措置」適用期間)
礼拝説教

早天、1部、2部、3部
辻川篤牧師


●7(月)
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。 (ヤコ3・17)
自分に蓄えたこの世の知恵に生きるのではない。上から(天の父から)出た知恵に生きよ、ということ。
ドキッとした。自分流の知恵は、上から出た知恵の反対だと気付いたから。それは汚れて、粗暴で、情け容赦なく、自分勝手で、無慈悲になっていて、偏見だらけで、偽善者・・・。正にこれは、ボクの姿だ。上からの知恵、つまり御言葉に従うことに意識的にならなきゃ。自分が変わるために。


●8(火)
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。     (1コリ6・19)
パウロは、みだらな行いや罪の行いを避けなさいと勧告する。でもそれは、律法によって禁じられているからとか、道徳に反するからということが根拠ではなかった。「あなたは神の目に大切だから、体は神が住む神殿なんだから」ということだった。
神様の御想いに応えて生きたい。喜ばれるボクであり続けたい。これって、「○○せねばならない」という生き方と全然違って、イイネ。


●9(水)
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベタイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。    (マコ1・20)
彼らとは、ゼベタイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネのこと。たった数行だけでも、多くのことが思い巡らせる。彼らは選択決断したんだ。そのとき自分にとって大切だと守り続けて来たものを後にした。世間の常識で大切だとされている物を後にした。「イエス様に従う」ことを先にしたから。
これが信じるということかも。何を先にするか、選択決断はボクも常に求められている。さあどうする。


●10(木)
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。  (1ヨハ5・14)
「何でも叶えてもらえる」とウキウキして「手始めに何をお願いしよう」と祈り始めようとした。でももう一度読み直してウッと思った。「御心に適うことを願うなら」とあったから。
神様が私に「してあげたい」と思っておられる事がある。それは私がちゃんと「ちょうだい」と願わないと、実現しないんだ。これは祈りを変えなきゃ。「あなたの御心を教えて下さい。私への贈り物は何ですか」とね。


●11(金)
心は燃えても、肉体は弱い。   (マタ26・41)
十字架刑で死なれる前夜、ゲッセマネの園で祈られる主。その横で、睡魔に襲われて眠っていた弟子たち。
今まで、祈らねばと思っても眠る弱さが指摘されていると思っていた。でも「そうかな?」と思う。直前に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われているのは、誘惑に負けまいと思っても堕罪する弱さを指摘している。堕罪を阻止するのは祈りだよ、という指摘かも。


●12(土)
わたしの家は、祈りの家でなければならない。     (ルカ19・46)
イエス様が、神殿に入って来られた。そこは御父が礼拝される場所だから、御子にとって「わたしの家」。それなのに両替商などが利益を貪る生活の場所となっていた。憤られる主。そしてこの御言葉を言われたのだ。
もし礼拝の場で、頭の中が「今日のお昼は何食べよう」とか、この世の心配事でいっぱいになったら、今朝の言葉はボクに向かって飛んで来る。ああこれも、ボクへの御言葉なんだ。


●13(日)
礼拝説教

早天、1部、2部
     藤森誠伝道師


●14(月)
はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタ25・40)
終末の日が来た時、天国に入れる人と入れない人が選り分けられる。祝福を受ける側が、今日の御言葉通りに生きた人。キリストに仕えることは、最も小さい者に仕えた人なのだ。
そう知ってもすぐに「その最も小さい人って誰? 分かればするよ」と、言い訳が始まってしまう。このままのボクじゃ危ない。教会の兄姉は天国に入って行くのに、ボクだけ外に放り出されることになる。マズイ!


●15(火)
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。  (コロ2・3)
考えを巡らせる知識と、それを用いる知恵。それをイエス様に倣ってするのだよと勧められる。それは、私たちが「巧みな議論にだまされないようにするため」と続けて記されていた。
巧みな議論って何だろう・・・と思い巡らせて、心当たりがあった。自分にこだわり始めることだ。自分の主張に熱くさせられる議論。そこではすっかり主を見失うことになるから。そこで罪への扉が開くから。


●16(水)
本当に、この人は神の子だった。 (マコ15・39)
イエス様が息を引き取られた。それを見ていた異邦人の軍隊長が、ユダヤ人の誰も言わなかった言葉を告白したのだ。犯罪人として死んだイエス様が、「神の子だった」と。
イエス様を神の子キリストと信じるのは、血筋によってでも、学びによってでも、修練でも、悟りでもない。一目見るだけで分かった彼にあったものは何なのだろう。求める心? 受け入れる心? 渇いた心かも。


●17(木)
あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。   (1テサ5・5)
主の言葉に聴従して、主の日に備えるように勧められている。
でも「光の子」とか「昼の子」って何のことだろう、思い巡らして気付いた。「光」や「昼」は、日中のこと。その時間は、起きている時間だろと言われているんだ。つまり、目を覚まして生きることなんだ。(逆に夜や闇は、自己中心の闇の中に眠りこけること。)さあ、目をカッと開いて、主を仰ごう。御足の後を雄々しく進まん!


●18(金)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。    (1コリ2・5)
パウロはキリストを伝える時、知恵の言葉を使わなかった。それってどういうこと? ・・・ふと「神が人間となり、十字架刑で死なれた。それが救いの業だった。そんなこと話しても、誰もが『そんなバカなこと』といぶかること。知恵に溢れた行為からは対極だから」と考えていて、「そこなんだ」と気付いた。「福音を握るのは、理解することじゃない。出来事の受諾。それが、信じるということだ」と。


●19(土)
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 (マコ1・31)
イエス様が伝道を開始されてすぐのこと。あちこちの村で病の人を癒し始められた。神の国の知らせを教えることと、人々の苦しみを共に苦しみ癒すこととが、同時に開始されている。アッと思った。「神を愛することと隣人を愛することは、同時に大事だ」とおっしゃっていたのは、イエス様ご自身だったから。思いが、そのままお姿となっておらたんだ。
ボクもそう生きてゆきたいな。


●20(日)
礼拝説教

早天、1部、2部
辻川篤牧師


●21(月・祝日)
(わたしたちは)無一物のようで、すべてのものを所有しています。     (2コリ6・10)
何も持たない人なのに、全てを持っているなんて。聖書って、いつもこの世では通じないことを言うね。
でも、と思った。これが本当ならどんなに良いか、と。それはボクも「何もうまくいかない。まるで無一物」と落ち込む日があるから。その日、この御言葉こそ嬉しく響く。「お前は神の子となったよね。それは天の宝を持っていること。これ以上の物はないのだから。必ず不足は無いからね」と。


●22(火)
地の果てに至るまで、わたしの証人となる。 (使1・8)
復活されたイエス様が、弟子たちと一緒に四十日間地上に留まられた後、天に昇られる。そのとき弟子たちに言い残されたのがこの言葉だ。
これは全てのキリスト者にも言われている御言葉。「地の果て」とは、辺境の地というのではなく、誰にも顧みられない隣人の所のこと。小さく弱い人、悲しみの人の傍。罪を悔いている友の所だ。そこに、イエス様の御業を告げよとの命令なのだ。行かねば!


●23(水)
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。   (ヤコ1・26)
父なる神様は、何でもボクのことをお見通しだ! それをちゃんと御言葉で教えても下さる。「そっちに行っちゃダメだよ」と言うように。
「舌を制するべきだ」って、頭では分かっているのに、生活で失敗する。礼拝で気付き直せても、一歩その場を離れて舌を動かした途端に、制することができなくなっている。「忘れっぽいから」じゃすまないのかも。そこに、隣人がいるのだから。


●24(木)
主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。   (エフェ6・10)
「偉大な力によって強くなれ」と聞いて、この世で上を目指して突進するぞと意気込んだ。でも今朝の箇所の後を読んだら、力を用いる目的が見当外れだったと気付く。
悪魔の策略を相手にするんだ。「神無しで自分本位でやれるさ。やってみようよ」という誘惑との闘い。その闘いに負けないように、主に寄り頼んで、御言葉と信仰を握れということだったんだ。ああ、危なかった。


●25(金)
ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。(使7・60)
主イエスの証をするステファノに、ユダヤの人々が怒って、一斉に襲い掛かり、石を投げた。殉教していく間際に、彼はこの言葉で祈ったのだ。
自分を殺そうとする敵を、彼はかばっているのだ。理解してくれようともせず牙をむく相手を、執り成しているのだ。ボクに出来るだろうか。
「無理だ」とすぐに放り出さずに、ずっとこの事は考えていきたいと思った。ボクの生涯をかけて。


●26(土)
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。(ヘブ5・2)
この「大祭司」は、父なる神と人間との間に立って、執り成しをする働き。もしその執り成し手が強くて賢くて迷いのない者なら、強い側のことしか分からない。でももし弱い人ならば・・・。この「大祭司」は、全ての弱さを身に引き受けて、罪人として死んで下さった主イエスのこと。弱く迷う側に立たれる唯一の執り成し手だ。
ボクの弁護人は、このお方しかいない。だってボクは、弱い者の頭だから。



●27(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主  日 西田恵一郎牧師


●28(月)
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハ4・23)
礼拝の「招詞」でよく聞く御言葉だ。「さあ今から礼拝が始まる」と聞いていたけど・・・。ヨハネが告げる「今」っていつだろうと、聖書を開いたら、サマリアの女(罪の女)が井戸端でイエス様に会った時のことだった。
「渇くことのない水を下さい」と願った女が、「私が永遠の命に至る水」と招かれたイエス様と出会った時が、真の礼拝の時なんだ。私にとっても鍵は、主との出会い。これのみ。


●29(火)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。   (エフェ1・23)
教会も人の集まりだから、人と人との間で凸凹した行き違いの苦労も起こって、嘆きも抱えて来た。
でも今朝、そんな弱さを含んだまま、その教会がキリストの体であると言われる。完全であられるキリストが充満している場所なんだと。
「やっぱり教会に居たい」と思った。欠けだらけのボクも包んでくれる、そこが教会だから。キリストに包まれる場所だから。


●30(水)
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。(コロ3・23)
これは「奴隷」に対して言われた言葉。当時は、借金が返済できない人が、ユダヤ人同士で、期間を決めて労働で返済する方法があった。でもその時、イヤイヤ仕えてはならないということ。主イエスに仕えるように、愛して働けということ。
心から隣人に仕え、しもべになり合う時、人と人との関係は豊かになれるから。ボクは、「主人」であるより「しもべ」でいたい。誰に対しても。


●31(木)
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。   (ロマ1・16)
「ギリシア人にも」の一言は、もしかしたらとても大きい一言かも。当時は、救いは神の民・ユダヤ人のみと誰もが思って疑わないことだったから。何千年もの常識を、この一言が覆したんだ。全ての人に、つまり私たちにも「神の力」が届けられるんだ。
喜ぶと同時に、アッと思った。全ての人とは、ボクの友人たちもだ。苦難の中にいる彼に届けなきゃ、急いで伝えなきゃ、「神の力は、君のもの」と。



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2022年02月28日

『日々の聖句』2022年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年2月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。   (ルカ14・33)
エー、持ち物を一切捨てるの と驚いた。きっとこれをイエス様から聞いた群衆も同じだろうな。でも改めて、主イエスに従って行くってどういうことなのだろうと考え直せた。
「アレもコレも欲しい」という関係から、真逆の「一切あなたに献げます」という関係への招き。自分中心から、神中心への大回転を起こすことへの招きなのかも。そこに全てが満たされる場所があるのだ。ウムー、深い。


●2(水)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (1ヨハ1・9)
神様に罪赦されること、さらに清めていただくためには、一つの条件がある。それは「悔い改め」ることだ。
「ああ、その悔い改めが、大変なんだよね」と思って、ふと思い出した。かつて幼稚園の礼拝で、自分がいつも園児たちに言っていたことだ。それは「ごめんなさい」って言える子になろうね。そうしたら「もういいよ」って言って貰えるから、と。その一言で良いからね、と。なんだか出来そうかも。


●3(木)
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。  (1ペト2・5)
イエス様は「尊いかなめ石」として、全ての人の救いのかなめ石となってくださった。そこに並べて「あなたがた自身も生きた石として用いられよ」と言われていたんだ。
ある姉妹が「私はこの家庭に遣わされているのかも。家族のために祈るため、救いのために。そう思って良いの?」とおっしゃっておられた。今日の御言葉が「そうだよ、それで良いんだよ」と言っているように聞こえた。


●4(金)
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。  (1ペト2・16)
キリスト者は、本来すべてのことに自由である。この世の習慣〈から〉、常識〈から〉も、自分のこだわり〈から〉さえ自由である。いや何よりも、キリストに従うこと〈への〉自由がある。それは、そこに生きることを何者によっても犯されざる自由なのだ! 
だからなのかもしれない。そこにあるのは、神の僕として行動する人の姿なのかも。イエス様に倣って生きる姿でありたい。まず今日だけでも。


●5(土)
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。(マコ7・20-21)
弟子たちが手を洗わない食事をしているのを見て、「体を清めよという律法違反だ」と責める人々。その時イエス様が「人を汚すものは、外から体に入るんじゃない」と言われ、そして今朝の御言葉を続けられたのだ。
心の中から、傷つける言葉が出る。たとえ口をつぐんでも、心の中から態度に出る。そうやって罪を犯している。「主よ、私の心を変えて下さい。罪を犯すことから救って下さい」。


●6(日)
(「まん延防止」適用期間)
礼 拝
早天、1部、2部、3部
辻川篤牧師

●7(月)
キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 (1ペト3・16)
この「善い生活」って何? と思って聖書を開いたら「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、(自分の信仰の希望を)弁明する」ということだった。そのように生きれば、相手は悪口を言っても、恥じ入るよ、と。
相手に見せる姿は、自分流の生き方ではなかった。それでは、的はずれになるんだ。相手に見せる姿をこそ、自分で総チェックしなきゃ。偽善者と言われて自分が恥じ入る前に。


●8(火)
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。  (1ヨハ4・20)
「神は愛です」(一六節)とあって、「神がまずわたしたちを愛してくださった」と続き(一九)、「兄弟をも愛すべきです」(二一)と応答する一連の文節の中に、今日の御言葉がある。
神に愛され、その神を愛し、兄弟を愛することは連結している。どの一点を切っても、全体がバラバラになる。それが「偽り者」の姿なんだ。上辺クリスチャンになるまい。今日を、無条件に隣人を愛する日としたい。


●9(水)
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  (2コリ12・9)
主イエスは、私の弱い部分でおおいに働いて下さるんだ。私の得意なこと・強い部分では、「自分の力でやろう」とするから、主の御手が伸ばされる余地もなくなるのかも。
私の祈りは、かなり前から「主よ、弱くして下さい。あなたが働いて下さるように」だ。だから人から「牧師を強めてお用い下さい」と祈られると、ちょっと居心地が悪いんだな。まあ、世間からは、かなりの変人かもね。


●10(木)
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。     (1コリ4・3)
何のことかな? と思って聖書を開いたら、キリスト者としての生き方だった。人から裁かれようと気にしない、自分で裁くことだってしない。「なんて自由な生き方なんだろう」と思って読み続けたら、アッと思った。「わたしを裁くのは主なのです」とあったからだ。
主に委ねて歩こう。それでこそ本当に自由になれるから。だって主こそ、私の優しい羊飼いなんだから。


●11(金)
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。       (フィリ4・6)
「思い煩うな」と言われた続きに、祈りにおいて願いや求めを打ち明けて良い、と言われている。でも、その祈りは、「感謝を込める」ことから始めないといけないよ、とも。
もしかしたら、感謝することに一心になって神様に顔を向けたら、自分勝手な願いだらけの言葉は、少なくなっていくのかも。そういう祈りをする人が、思い煩わない人生となるのかも。感謝は、幸いへの秘訣かも。


●12(土)
誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。(ルカ22・46)
十字架の前夜、ゲッセマネの園で祈るイエス様と弟子たち。主が、「御心のままに」と苦しみながら祈る横で、眠り込む弟子。そんな場面で、この御言葉をおっしゃったのだ。
単に眠っていたのが、悪いのじゃない。誘惑は、祈らない時に来るから。眠いという以外に、忙しいからとか、周りの目があるからとか。あらゆる理由で祈らないところに忍び込むから。祈りが、堕罪からボクを守る。


●13(日)
(「まん延防止」適用期間)
礼 拝
早天、1部、2部、3部
藤森誠伝道師


●14(月)
このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。(使14・15)
リストラの町で、パウロが足の不自由な男を癒した。途端に人々がパウロを「神だ」と騒ぎ出したのだ。それを見たパウロが、大声で人々を制止したのだ。そして天地創造の唯一の神のことを伝え始めた。
どうして人間って、奇跡にだけ目が行くのだろう。御利益にだけ目が行くのだろう。そんなの信仰じゃないと思って、ふと考えた。苦しみ、悲しみが、深過ぎるからだろうか・・・と。


●15(火)
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。  (1ヨハ3・18)
口先だけの愛・・・と聞いて、ドキッとした。まさに、自分のことを言われているような気がしたから。
でも「子たちよ」の呼び掛けに、目が留まった。「御父につながっているなら、父なる神の子どもたちなのだから、きっと出来るよ」と励まされているように聞こえたから。「さあもう一歩、前へ進んでごらん。相手に手を添えてあげる愛へ、傍に行く愛へ、あなたなら出来るから」、と。


●16(水)
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。  (ヨハ10・11)
これは、大好きな「良い羊飼いのたとえ話」だ。幼い頃にこれを聞いて、羊飼いのイエス様を嬉しく思った。大人になってコレを聞いて「羊のために命を捨てる」ということに、有難くも申し訳なく思った。歳を経てこれを聞いて、「良い羊飼い」のイエス様がさらに近くに思えるようになった。人生にずっと共にいて下さったことを振り返れるから。ああ、ボクはずっと羊飼いのイエス様が大好きだったんだな。


●17(木)
不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。(コロ3・25)
これは主人と奴隷(ユダヤ人同士で借金が返せない時、最大6年契約で労働によって返済できる制度があった)との関係に告げられた言葉だ。
たとえ契約による主従関係でも、お互い愛し合う思いを失ってはいけない。不義はそこに入り込むから。それは主人に対しても、しもべに対しても分け隔てない報いがある。隣人を愛することは、ここまで突き詰められている真理なんだな。


●18(金)
罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。(ルカ7・49)
罪深い女が、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭った。主はその女に「あなたの罪は赦された」と宣言された。それを見た人々がどよめき、今朝の一言を言ったのだ。
私にも十字架の上から御声が届く「あなたの罪は赦された」と。それを有難く聴くのは、罪の女。そして罪の私。もし、自分にそんな罪はないと思うなら、赦しの恵みも主御自身も、私と関わりない。この人々のように。


●19(土)
御子を信じる者は裁かれない。   (ヨハ3・18)
父なる神が、独り子を与えて下さるほどに、あなたは愛されているよと告げられる。それは、あなたを裁くためではなく、あなたを救うためだったのだよ、と。そこに今朝の御言葉は続くのだ。
「私のため」に「私へ」の贈り物とされたのが神の御子。そのことを、心から受け取ったら、もう送り主の御父に繋がっている。そこにあるのは、裁きの関係でなく、親子の関係なんだ。


●20(日)
(コロナ禍の状況で変更あり)

礼 拝
主日早天 辻川篤牧師
主   日 辻川篤牧師


●21(月)
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロ2・12)
キリストの十字架と一緒に、私の罪も償えた。またキリストの復活と一緒に、私にも新しい生命が戴けた。それらダブルの恵みは、ただ一点を根拠としている。それが、「洗礼によって」なのだ。
人の信仰はもろく弱い。小さな試練ですぐ揺れる。しかし、洗礼を受けたという事実は揺るがない。ああ、洗礼の素晴らしさよ。それを与えていただけたことこそ、大いなる恵み。


●22(火)
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(使10・15)
ペトロが伝道の旅を開始した。そのとき律法で汚れた生き物を「屠って食べよ」との声が天からするけど、拒むペトロ。その彼に、さらに語り掛けた神の言葉が、今朝の御言葉だった。
「汚れているから救われない」と思っていたのは「異邦人」のこと。でも神は、その異邦人の伝道へと向かわせる。伝道のことでも、自分の常識がブレーキになるんだ。「そんなブレーキ踏むな」と、打ち砕くのは神御自身。


●23(水)
(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。  (マコ6・6)
イエス様が古里に帰られた時、誰も「救い主」と信じなかった。「単なる大工の息子じゃないか」と笑った。外側だけ見て信じない姿に、イエス様が嘆かれたのが今朝の一言だ。
人々はどうして・・・と思って、ふと気づいた。「きっと、主が語られる言葉を聞かなかったからだ」と。それはボクも同じ。不信仰への入り口は、御言葉に耳を傾けないこと。ご利益的な業だけ見ようとしたら、見失う。


●24(木)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。 (マタ10・30〜31)
「人を恐れるな」とイエス様が語り出される文脈にある御言葉だ。主なる神に守られているから、人のことを恐れないで良いと告げて下さるのだ。
分かってはいても、人の目を気にする。人の評価に一喜一憂して、さらに病んだりもする。もしかしたらこれって信仰の問題なのかも。神へと目を向け直しなさいと促されているんだ。その時、見守られているって気付けるのだから。平安は、そこにしかない。


●25(金)
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブ3・13)
「生ける神から離れてしまわないように」と勧告する。そのために、なのだ。「日々励まし合いなさい」と言われているのだ。一人では信仰を守れないから、ボクの信仰を守るために兄弟姉妹が要る。兄姉が信仰に立ち続けるために、わたしが居るのだ。
それも「今日という日のうちに」という一言が心に留まった。急げ、明日に延ばすな、ということ。今日、堕罪への落とし穴が開いているからだ。


●26(土)
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。(使8・15)
「サマリア」とは、ユダヤ人にとっては犬猿の仲だった人々の町。そこで神の霊を受けられるようにと、ペトロらが、その人々のために祈ったのだ。
既に人との垣根が取り払われている。毛嫌いする者同士であっても、その間に架け橋となられる主がおられるから。あ、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との御言葉は、主御自身が成就して下さるんだ。それなのに私が尚こだわって、どうするんだ。


●27(日)
(コロナ禍の状況で変更あり)

礼 拝

主日早天 辻川篤牧師
主   日 藤森誠伝道師


●28(月)
それほど言うなら、よろしい。   (マコ7・29)
自分の娘が苦しんでいる。誰も癒せなかった。そこに来られたイエス様に、すがり付く母。でもイエス様は「あなたに資格はない」と断った。異邦人だったから。その言葉の上に「よろしい」の一言が響いたのだ。
ボクも同じかも。恵みを受ける「資格」なんて無い。でもすがり付いたら、資格のない者にさえ「よろしい」と言って下さるのだ。罪人への「よろしい」の一言こそ、福音だと思った。



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2022年01月31日

『日々の聖句』2022年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2022年1月


【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 (2コリ3・16)
二〇二二年の冒頭にこの御言葉が響き渡る。どの方向に向いて歩けばよいかが宣言されているのだ。それはまた、主から目を放して歩いたら、途端に途方に暮れるということかも。
「目を離すわけない」と呟いて、アッと思った。目を離す場所に気付いたから。それは最も身近な場所、自己本位になる場所、自分の主張や常識が出張る場所。いま気付けて良かった。新年からギリギリセーフだな。


●2(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主   日 藤森誠伝道師
(主題聖句の説教です)

●3(月)
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。    (ヤコ4・12)
兄弟を裁いてはならない、という文脈の中にある御言葉だ。「裁いているあなたは、いったい何サマなんだ!」と痛烈に迫って来るのだ。いやそもそも、「お前は人を裁く人間だ。そのことに気付いているのか」と迫られているんだ。
もしも今、ハッとすることが出来たら、今日の歩みは大丈夫かも。「言葉と態度で、裁き人とはならないように」と気を付けられるから。


●4(火)
心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。
(ヨハ14・1)
イエス様に、受難への道が一気に進み出す直前のこと。長い「告別説教」を弟子たちに語り出された。その冒頭にあるのがこの御言葉だ「心を騒がせないで良いよ」と。
ボクの人生の中にも、「大変なことになる」と思ってアタフタする時が来る。その日、主はこの御言葉ボクの心の中にも響かせて下さる「心を騒がせないで、わたしを信じたら良いからね」と。今日格別の御言葉を握った。


●5(水)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)
愛のイエス様なのに「怒った」なんて、どうして? 聖書を見て、そのわけが分かった。人々が、自分の常識や慣習ばかり大事にして、目の前の悲しみの人を愛せなかったから。愛せない、愛さないというのは、主の目には腹立たしいほどのことなのだ。
ボクも主を怒らせているかも。今日の言動を、心の底から変えなきゃ。「かたくなな者よ」と主を嘆かせる前に。そうだ、ボクが変わらなきゃ。


●6(木)
一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使2・4)
聖霊降臨の日の出来事だ。弟子たちは、主の言葉と、十字架の出来事の証言を、世界中の言葉で語り出した。世界の人々が、聞いて、信じて、救われるために。伝道の歴史が、聖霊降臨の日、ここに始動したんだ。
「よーし、私も続け」と意気込んで「待て、祈らなきゃ」と思った。それは「霊が語らせるままに」の一言が目に入ったから。「私の口を、ただ聖霊さまの道具とし給え」と、思ったから。


●7(金)
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
   (1コリ15・3)
パウロが、キリストの十字架の死と御復活を語り始める前に、今朝の一言を宣言した。それは、十字架と復活は人間が考え出したものじゃないということ。これは目撃者たちの証言だ、ということ。つまり、「最初に出来事があった」という宣言だ。
信仰は、精神論の類ではない。出来事の証言・・・ここにボクの信仰の出発点もある。「イエス様の出来事」という現実に、だ。そこが急所なのだ。


●8(土)
主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。    (ヨハ13・14)
イエス様が死なれる前夜の聖木曜日。これから先、話もしてあげられなくなるんだという中、「忘れないでね」というようにして話されたのが、これだ。互いに足を洗い合うということ。その洗足とは、相手のしもべになること。それが正に主のお姿だった。
「あの人の足なら洗える、この人は嫌だ」などと言うまい。主は、自分を見捨てるペトロの足さえ洗われたのだから。喜んで洗われたのだから。


●9(日)
礼拝説教

主日早天 辻川篤牧師
主   日 藤森誠伝道師


●10(月)
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。    (1ヨハ1・10)
心の内にすぐ「毎日祈っているし、礼拝に行っているし、私は悪人じゃない。確かに罪人だってことは認めるけど、『罪を犯した』と言われたら抗弁したくなる」との思いが巡った。
そんな私の心の中には「神の言葉はない」と言われているんだ。つまり「神がいない。お前は神を追い出しているから」と。ああ、「傲慢の罪を赦して」と祈ることからしか今日を始められない。主と共に歩みたいから。


●11(火)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
(コロ3・12)
私は、父なる神に愛された。受洗の日に、天の御父の子供としていただけたんだ。神の家の子供として、御父の家族にしていただけたんだ。
だから、この世でも、その家の子はその家の子らしく育ってゆくように、天の家の子は天の家風に染まって育たなきゃ。天の父に似る者として、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容な子に。いつか隣人に、「あの人は天国の家の子だね」って言われるほどにね。


●12(水)
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。  (1コリ1・10)
教会の中にさえ、仲たがいがあった。パウロはその人々に向けて「固く結び合いなさい」と言ったのだ。そのためには「心を一つにし」と。
でもそれって「何に一つになるの?」と考えて、聖書を読み進めて、分かった。私のために御子が死なれたという十字架の出来事にだった。「申し訳い、有難い」と生きるなら、皆がそこに思いを寄せたなら、そこで一つになれる。その一点以外に無し。


●13(木)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
     (ヤコ3・6)
私は多くの失敗を口から出る言葉によって、しでかして来た。「自分はこんな性分だから」とか「周りも分かってくれているから」とか言っていられない。傷ついている人がいるから。
今朝改めて、単なる失敗で終われないと気付かされる。舌が、私を汚し、人生を焼き尽くし、私自身を地獄の火で燃やすのだ、と言われていたから。「恐い」と思って舌を制しなきゃ。それも、今すぐからだ。


●14(金)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
(2テモ2・13)
「キリストの立派な兵士として、苦しみを忍べ」と、パウロがテモテに語りかけた。「あなたが従ってゆくキリストは、真実なお方だから委ねて進め」と言うのだ。今朝、その勧めはそのまま私への言葉として届いて来る。
この世の現実で、御言葉に従うなんて「無理」とか「損をする」とか「非常識だ」と思える場面に出遭う。その時にこそ、今日の御言葉を握ろう。ボクも主の兵士・キリスト者だから。


●15(土)
一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使2・4)
聖霊降臨の日の出来事だ。弟子たちは、主の言葉と、十字架の出来事の証言を、世界中の言葉で語り出した。世界の人々が、聞いて、信じて、救われるために。伝道の歴史が、聖霊降臨の日、ここに始動したんだ。
「よーし、私も続け」と意気込んで「待て、祈らなきゃ」と思った。それは「霊が語らせるままに」の一言が目に入ったから。「私の口を、ただ聖霊さまの道具とし給え」と、思ったから。


●16(日)
礼拝説教

主日早天 辻川篤牧師
主   日 西田恵一郎牧師


●17(月)
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された
 (使2・23)
聖霊に満ちたペトロが長い説教を始めた。それは、イエス様の十字架の出来事についての話であった。
人の目から見たら、イエス様の死は敗北にしか見えない。でもそれが全て、神の計画だったと告げるのだ。そこを通り抜けて復活の勝利が実現したのだ、と。私が弱り切った場所に、イエス様が立たれる。そこで結びついて下さるため。そこから勝利へと連れて行ってくれるため。ああ感謝。


●18(火)
御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
(ヨハ3・35)
洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエス様の周りに人が集まるのを妬む。その様子を見て、ヨハネが「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(三十節)と告げた。その理由が続けて告げられる中に、今朝の言葉もあった。
イエス様に自分を明け渡して、私は陥落しても良いと思った。だって神の全権がイエス様の手にあるんだから。そこに私も握ってもらえたら、そこが安心の場所だと思えたから。


●19(水)
わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
(マタ 5・22 )
私はすぐに腹を立ててしまう。きっとその時「自分にこそ義がある」と思い込んでいるからかも。口に出さなくても、行動に出なくても、その思い自体を御言葉がグサリと突き刺した。思い一つから、悲しい出来事が始まるからだ。大事な人との関係を壊すから。主がそのことを悲しまれる。
「主よ、ボクの心の暴走を止めてください」と祈らねば。隣人との関係の喪失は、喜びの喪失となるから。


●20(木)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。
(ルカ5・10)
漁師のペトロの所にイエス様が訪ねて来られ、最初の弟子として招かれた。その呼び掛けは「人を救う漁師となれ」だった。いや、あれ? ちょっと違うかも・・・「漁師となれ」じゃなくて「漁師になる」だ。断言なんだ。
私も様々な奉仕の業に就く。その時主は「この奉仕に仕える人になれ」じゃなくて「仕える人になる」と断言されるんだ。奉仕は選びの業だ。嫌ですと言えないわけが分かったかも。


●21(金)
このように主によってしっかりと立ちなさい。    (フィリ4・1)
「このように」ってどのように? と思って聖書を開いたら、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がお与えになる賞を目指して、ひたすら走れ」ということだった。信仰生活の怠惰は、許されないんだ。
でも「しっかりと」という言葉に、親が子を遠くに送り出す時「しっかりね」と励ます声が重なる気がした。信頼され、期待されている。祈ってもいてくれる。そんな温かさも感じた。


●22(土)
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
    (マコ7・14)
イエス様が群衆に教えようとされる前、この一言を言われた。
それは、聞く耳を開かせるため。何となく聞いてちゃいけないんだ。御言葉を聞く時は、いつもこうあらねばならないんだ。頭で知識として聞くのではない。心の奥にまで入れ込んで、自分を御言葉で変革させようとする聞き方でなければ。それが、悟るということだから。日々御言葉によって、改革されて生きるべし、だ。


●23(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主   日 辻川篤牧師


●24(月)
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
(コロ1・17)
世界が創られる前から、御父と一緒に居られたイエス様が、すべてのものを支えていて下さる。そのイエス様のことをボクは知っている。弱く貧しい者、罪人に寄り添われた神だと。
そのお方が神として、世界の終わるまで、ずっと支えて下さるということなんだ。ボクのこの先の人生も、神様にどのように支えられるかが、よく分かる。イエス様を知ったから。信仰による平安は、リアルな平安なり。


●25(火)
あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
(マコ8・33)
「これをイエス様に言われるなんて、この人は図星に指摘されたんだろうなぁ・・・、ボクもこんな時あるから気を付けなきゃね」とか、のん気に考えていて、聖書を開いたとき一瞬で緊張が走った。「サタン、引き下がれ」と叱責される場面だったから。
神のことを思わず、自分のことしか考えない。それがサタンなんだと気付いたから。イエス様に敵する者なのだ。のん気に構えてなどいられない。


●26(水)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
 (マコ14・38)
十字架の死へと激しく出来事が進む直前。ゲッセマネの園で祈られる。でも横で弟子たちは眠っていたのだ。その彼らに、この言葉が告げられた。
居眠っていたことに対してだけではないと思う。これから先に起こる十字架の出来事を前にしたら、心は燃えても、体は逃げ出すからだ。その弟子たちを思って「祈るのだよ」と励まして下さったように聞こえた。それは、弱い信仰のボクの心にも届いた。


●27(木)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
(コロ1・15)
父なる神の姿を人が見ることは出来ない。でも御子なる神イエス様に神の姿が在るんだ。それは貧しい姿、寄り添う姿、身代わりに十字架で死なれる姿。それが神のお姿なんだ。
さらに「すべてが造られる前」から居られたのは、天地創造の前に御父と共に居られたということ。クリスマスの日に生まれたんじゃない。三位一体ということが、少し分かった気がした。イエス様を見詰めた時に、ね。


●28(金)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。    (ヨハ4・14)
サマリアの女が、昼間の炎暑下で水汲みに来る。人目を避けて生きるわけがあったから。男を次々に替えて生きている女だったから。その女にイエス様が出会われて、「あなたは渇いているだろ」と目を向けられる。そして、この御言葉を言われたのだ。
自分のせいだと分かっている。それでも心は渇くんだ。その渇きを、批判するのでなく憐れんで下さるのは主のみ。私もあなたの水を飲みたい。


●29(土)
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」    (ルカ1・28)
天使ガブリエルが、処女マリアのところに神の言葉をもって来た。これは『受胎告知』の場面だ。マリアはこれを聞いた時、「何のこと?」と戸惑ってしまう。人知では考えられもしない処女受胎が告知されたのだから。でもそれを受け取ってゆくマリア・・・
自分の想いを超えたことなのに、それでも神の計画と受け取る。それこそが「主が共におられる」ことに起こる奇跡だ。恵みそのものなんだ。


●30(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主   日 辻川篤牧師

●31(月)
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
(1ペト3・15)
初代キリスト者たちには、周りに信仰者はいない。この世で、軋轢も、生き辛さもあった。それは、日本で生きるキリスト者と同じだなって思う。
だからこそ今朝の御言葉がリアルに響いて来る。心でいつも主を礼拝し、周りから「どうして一緒のことをしないの?」と問われたら、「ボクは、イエス様に従いたいんだ」と言える言葉と、勇気を備えておこう。そこには、必ず聖霊の助けがあるから。

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2021年12月31日

『日々の聖句』2021年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年12月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。   (ハバ2・20)

 南ユダ王国にバビロン捕囚が起ころうとしている。その時、偶像にすがろうとする者たちもいた。神の民であるにもかかわらず! そういう背信の人々に向けて、預言者ハバククが「災いだ」と告げたのだ。さらにそこに続けて、立ち帰らせるために「主は神殿におられる」と、顔を向き返らせようともしたのだ。
 主なる神に頼ることが出来ない人々。委ねるということが、どういうことかさえ分からない人々。しかし神は、そんな人々なのに、なお呼び求められるのだ。私の前に帰れ、と。


●2(木)
わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。    (エゼ36・27)

 都エルサレムが包囲される預言がなされる中で、その後の回復も語られる。それは、人々が再び主の言葉に従って歩む喜ばしい姿となっているから、ということだった。
 改めて今日、それが人々の回心や努力によって出来ることじゃないって、悟らされる。だって、「主の霊を心の中に置いていただいたから」って言われているから。聖霊が、ボクを光の子として歩める者としてくれる。今日の祈りは決まった、「聖霊よ、来て下さい」だ。


●3(金)
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。    (詩139・1)

 この詩人は、主を賛美している。それは、自分が自分のことを知るよりも、主御自身がご存知でいてくださると喜んでいるのだ。
 「それってどういうこと?」と考えて、そこに在る恵みに気付いた。今まで、自分のことは自分が一番知っていると思っていたけれど、「あなたは自分が思っているよりも、はるかに高価な存在だ」と言ってもらえるということ。人は誰も自分のことを分かってくれないと嘆いていたけど、「私だけはあなたを捕らえ続けているから」と言ってもらえることなんだ。


●4(土)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」        (ヨブ1・9)

 神に従い続けた無垢な人ヨブ。そこにサタンがやって来て神に言った言葉がこれだ。「神様がいっぱい恵みを与えているから、彼は従っているだけじゃないのか。それはやっぱりご利益信心じゃないのか」と。「ご利益をくれない神なら、簡単に神を捨てるに決まっている」と。
 この言葉には、真の恐ろしさがある。「私には図星かも」と揺さぶって来るからだ。ボクは、見える恵みが無い時に、なお神に従えるだろうか。自信など全くない。ああ、小さくて良いから、からし種一粒の信仰が欲しい。


●5(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●6(月)
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」   (サム下12・13)

 ダビデ王が、家臣のウリヤをわざと戦死させ、妻のバト・シェバを奪った。その罪を、主に遣わされたナタンに暴かれた時、ダビデが悔いて言った言葉がこれだ。それは「私は殺人と姦淫を犯しました」という言葉じゃなかった。「主に対して罪を犯した」と告白したのだ。
 「罪」とは、すべて「主なる神への背き」だからだ。社会の法律によって決められた「犯罪」のことじゃない。故に「罪」は、主に対して償われなければならないんだ。この「罪意識」を勘違いしたら、「赦し」の経験も手に出来ない。


●7(火)
あなたは、「自分の手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。     (申8・17)

 奴隷だったエジプトの国から、主によって脱出できた人々が、いよいよヨルダン川を渡って「約束の地」に入ろうとする時、その主を忘れることの無いようにと戒めが告げられた。
 ふと「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と思い浮かんだ。洋の東西変わらないんだなぁと。
でも神様との関係は、恵みの業を忘れちゃいけないよというどころの話じゃない。だってこの御言葉の後に、忘れたら「滅びる」と言われていたから。そして人々はその通りに滅びる。これは、旧約全巻を貫く警告なのかも。


●8(水)
ダビデは主に尋ねた。   (サム上23・10)

 ダビデに、サウル王が命を狙って兵士全員を出陣させた。その時ダビデは、逃げるべきか否かの身の振り方を「主に尋ねた」のだ。
 え、そんなことまで「尋ねるの?」と不思議に思う。緊急事態なのに、自分で決めても良い具体的な事柄なのに・・・と。
 でも「ああ同じだ」とも気付いた。私も「ちょこっと祈りをしていた」と。郵便を出す前に「主よ、お用い下さい」とポストの前でちょこっと祈る。スーパーで「良い買い物ができますように」と、ちょこっと。集会の前に「楽しい時にして下さい」と。生活の全が、主と共にある。


●9(木)
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。   (詩116・12)

 詩人には苦しみがあったけれど「魂の死から、助け出してくださった」と感謝している。そして「感謝です」で終わらない。応答の業へと向かうのだ。「どのように答えようか」と。
 私は「感謝です」で終わっていないだろうか。いや、感謝の祈りさえ忘れている時もある。そんな私も、具体的に神様の恵みに応答できる業を知っていた。それは「献金」だ。「この身を献げても足りないぐらいに感謝しています」と「献身のしるし」として応答できるのだ。献金は、私の喜びの時間、神様との対話の時だ。


●10(金)
主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。   (サム上3・19)

 「彼」とはサムエルのこと。成長してゆく日々に、主が共におられ、サムエルに告げられた言葉は、成し遂げられずに終わるものは「一つたりともなかった」ということだ。
 私たちにも、主の言葉は臨む。それは聖書の御言葉によってだ。それを聖霊さまが一人ひとりの心に、必要な時に、必要な御言葉を届けてくださるのだ。届いた言葉は、「一つたりとも」無にならない。ならば、私たちのすべきことは、「私への御言葉は何ですか」と、しっかり聞き取ること以外に無し!


●11(土)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。   (サム上17・47)

 これは少年ダビデが、巨人ゴリアトに対峙して言い放った言葉だ。CSも幼稚園の子どもたちも、少年ダビデの活躍が大好きだ。
私も胸躍らせてこの物語を聞いて来た。でも大人になった今、ふと思う。私の「ゴリアト」は、目の前にある「困難」かもと。そこでいつも私は、自分の力を振り回そうとする。主を信頼して進むことは、現実での信仰の話なのに。つまり少年ダビデの物語は、単なる勇者物語じゃない。私の生き方を問いただす鏡なのだ。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●13(月)
神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。         (創6・12)

 不穏な空気が漂うように聞こえる文章。そうだ! このあとノアの大洪水が起こって、悪に満ちた大地は水で覆われるのだ。天の御父は地を御覧になった時、どう思われたのだろう。そのお顔、そのお心はどうだったのだろう。今日の箇所の近くの六節に、それが垣間見える一言があった、「心を痛められた」と。
 ふと御父の御顔が、十字架の上の御子イエス様の御顔と重なる気がした。悲しみと苦悶の御顔が・・・。申し訳なさでいっぱいになった。


●14(火)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。  (イザ31・5)

 これは、旧約聖書にいくつも出て来る神の御姿。律法の書の申命記、また文学の詩編、預言書のイザヤ書に出て来る。つまり聖書全般だ。それは、母鷲が大きな翼を広げて、雛を守る姿だ。敵からも困難からさえも、自らの翼の陰に抱え込んで雛を守って下さる姿だ。
 ボクは、この比喩が大好きだ。幼い頃に聞いて、イメージを膨らませて、神様の慈しみを身近に感じて来た。今も、この比喩は、ボクの中の特等席にある。


●15(水)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。   (エレ31・3)

 オオー、神様からの激しく豊かなラブコールだ。誰がこの言葉を受けることができたのか? きっとそれに相応しい人なんだろうなと思って聖書を開いたら。それは、背きのイスラエルの民。でも、悔い改めて、償いを終えて救われた人々だった。
 初めから完璧な人なんていない。「ああ、自分こそ神に背く者」と気付けばいい。そこで回心すればいい。その人に、神様のラブコールは注がれるのだから。主は、悔い改める人をこそ愛されるのだから。


●16(木)
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」   (創4・13)

 弟殺しのカイン。主に「お前は呪われる者となった」と断罪されるのだ。その言葉に震えて応答したのがこの言葉だった。嫉妬に心が奪われている時は、自分のしている罪の重さも気付けない。ただ、主の呼び掛けだけが、犯した罪の重さに気付かせるのかも。
 では、私はどうだ、私への裁きを聞いたか? あ、正に聞いたのだ。それは聖書によって、神が「お前は御子を殺したのだ。お前の罪のゆえに、あの十字架で」と言われた言葉を。だから私も「重すぎて・・・」と悔いねばならない者。


●17(金)
愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。      (箴二九・一一)

 「感情」とは、喜びや愛情もあるけれど、それだけじゃない。逆の怒りや、憎しみや自己主張欲とかも。聖書を開いたら、この箇所の「感情」は、やっぱり悪い思いのことだった。
 怒りの感情を制すべしと、聖書が言う。それは、怒りの感情をさらけ出したら失敗するのが人間だから。その愚かさに誰もが、あっと言う間に陥ってしまうから。「自分は正にそれだ」と知る者が、知恵ある人となるのかも。ブレーキをかけるタイミングを逃さない人でいられるから。そういう大人になりたいな。


●18(土)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。   (サム上2・26)

 後にダビデ王を任職する祭司となるサムエル。「当然、神にも人にも喜ばれる者として育ったよね」とほほえましく読んでいたら、この直前には彼の師である祭司エリの息子たちの横暴が記されていた。彼らの悪はひどく「主は彼らの命を絶とうとしておられた」と。その対比が、ここに示されていることなんだ。
 主の言葉に従うか、否か。それはとんでもなく違う結果に繋がるんだ。神との関係が活き活きとするか、絶たれるかなんだ。必死に御言葉に食らいつけ。それを喜ぶボクになれ!


●19(日)クリスマス礼拝

説教

   主日早天礼拝  辻川篤牧師
   一部礼拝    藤森誠伝道師(ライブ配信)
   二部礼拝    辻川篤牧師
   三部礼拝    藤森誠伝道師


●20(月)
第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。    (創2・2)

 主が天地を創られた七日間のこと。六日で全てを完成され、それらを御覧になって「極めて良い」と満足されたのだ。そしてその次の日を、他の「働き日」と取り分けて、一日を「聖別」されたのだ。それが「安息日」となった。
 「安息日」は、そののち人間に与えられた。文字のニュアンスからすると、「やれやれ一週間の仕事が終わって安堵、一息つこう」という感じ。でも、ちょっと違うぞ、と気付いた。安息日は、他の働き日から取り分け=聖めて大切にする事。だからここに礼拝が始まったんだ。


●21(火)
(モーセは民に言った)「あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」          (申1・31)

 モーセがイスラエルの民に、神から授かった全ての約束事を語り出した。これは正にモーセの遺言にあたる。その中で、何よりもまず神から戴いた恵みを伝えたのだ。それは、出エジプトの救いの出来事という恵み。その中心に当たるのが、今日の御言葉だった。
 神の恵みって何なのか、今日よく分かる。それは、全能の神がボクの父でいて下さるということ。それも慈愛に満ちた父として。ボクをおんぶしてくれる父として。ホッとして、感謝。


●22(水)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。   (創22・1)

 「神からの試練は、どんなことの後にやって来るの?」と思って聖書を開いた。それは、待望の息子イサクが誕生したあと。神に懇願し続けたことが、やっと実った喜びの絶頂にあるあと・・・だった。
 うう・・・どういうことなんだろう。どうして喜びのままの日々が続いてくれないんだろう。「もしかしたら」と考えた。喜びだけでなく、辛いこと苦しいことも神の支配の中にあると経験させるため? より強く折れない神信頼に成長させられるためなのかも。でも・・・、ボクへの試練は、少ない目にして欲しいかも。


●23(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。   (ルカ2・15)

 あれ、どうして今日だけ新約聖書? 確かに自分でくじを引いたのだけど、でもどうしてこの日だけ新約にしたんだろう・・・。もう理由は思い出せないけど(去年の夏に一年分のくじ引きをしてるから)。
 でも、と改めて思った。明日はクリスマス・イヴ。はやる思いで「その出来事を見ようではないか」と自分自身を整えても良いのかも。主のご降誕は、ボクのために起こったんだから。ボクのための出来事、罪人のボクの救いのためにだ。さあ、心の全方向を降誕に向けよう。


●24(金) クリスマス・イヴ
ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」   (サム下12・7)

 ダビデが、忠実な部下のウリヤを最前線に送って戦死させ、妻を横取りした。殺人と姦淫の罪人となったダビデ王。その王に、主に遣わされたナタンが「あなたは姦淫と殺人の罪人がいたらどうするか」と問う。即座に「けしからん、死刑だ」と激怒したダビデ。そのとき「その男はあなただ」とナタンが言ったのだ。
 ボクにもナタンの声が聞こえる「罪人、その男はあなただ。神が激怒しておられるぞ」と。自分の罪には気付かない、気付けない。気付こうとしない深い罪が、私の中にもある。


イヴ礼拝
  第1礼拝説教 藤森誠伝道師
  第2礼拝説教 辻川篤牧師
  第3礼拝説教 藤森誠伝道師(ライブ配信)
 

●25(土)
神はわたしの歩む道を、知っておられるはずだ。   (ヨブ23・10)

 神に従って生きていた「無垢な人」ヨブ。しかし試みに遭って、財産と家族と健康も失った。そこに友人たちが来て「因果応報だ。お前が犯した悪の報いだ」と責め立てる。それに応えたのが、今日の言葉だ。「正しく歩んで来た事は、きっと神ご自身が知っていて下さる」と。
神に全てを知られて、なお胸を張れるヨブにはかなわないと思った。ボクは、むしろ隠したい事ばかりだから・・・。
でも、ボクは罪も見てもらおう。ご覧になるのは、救い主なる神と信じて。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●27(月)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。         (哀3・56)

 預言者は、人々の背信によって亡国となることを嘆いている。その嘆きは、主に向かって「耳を閉ざさないで」という一言となったのだ。主が、自分の叫びに耳を貸さず心も閉ざしておられるように思えたからだろう。
もしかしたら、それが彼の一番の悲しみなのかも知れない。「お前になど、もう関わりたくない」とそっぽを向かれることが、一番辛いことだから。「それ、分かるかも」と思った。神様との関りでも、隣人との関りでも、「耳を閉ざさないで」と叫ぶ日々が、一番苦しいから。


●28(火)
わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。   (エレ31・33)

 背信のゆえ、裁きのバビロン捕囚が始まろうとする前。その苦難の日々が始まる前から、希望が伝えられた。「あなたの未来に希望がある」と。そこに続けて今日の言葉があった。
 「これが何より大事な言葉かも」と思った。神様の言葉を捨てて背信に走った人々。だから、「あなたは愛されていると知ってるよね」と語る律法の言葉が大事なんだ。それを、彼らの心に据えようとされる。それも人々の努力でというのじゃない。主御自身が、だ。そこにもう、愛されてるというお心が溢れている。


●29(水)
(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。   (代下26・16)

 南ユダ王国のウジヤ王は、主の目にかなう正しいことを行って五十二年間も王座にいた祝福された王。その彼が・・・いやその彼も、だ。勢力が増し順風満帆の時につまずいたのだ。
 なぜ? きっと、全て自分の力で出来た事だと勘違いしたから。「神無しで、何でも自分で出来るよ」と、アダムに囁いたサタンが彼の傍にもいたから。そしてそれは、ボクの傍でもささやいて来る。ああ、祈らなきゃ、「誇る者は主を誇れと、生きさせてください」と。


●30(木)
イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。   (士7・2)

 イスラエル十二部族連合を導く士師として、主がギデオンを立てられた。いざ出陣という時に、主は彼に命じられたのだ「兵が多すぎるから減らせ」と。「たったこれだけの人数で、どうして戦えるのか」と思うほどまで、減らせと。その理由が、今日の箇所であった。
 弱い時に強い。主が戦って下さるから。だからボクは「私を強くして」とは祈るまい。「私を弱く貧しくして下さい」と祈ろう。変な奴と思われてもいい、御業によってのみ進むために。


●31(金)
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。         (詩98・1)

 二〇二一年は、コロナ禍のど真ん中を歩いた一年だった。会堂で礼拝をすることが出来なかった日々は、何十日に及んだだろう。
 しかし今朝、それらの日々に区切りをつける御言葉を聞いた。神が言われるのだ「新しい歌を歌いなさい、私があなたがたの想像を超える業を、二〇二二年のために既に成し遂げたから」と。苦労の多かった一年を閉じるに相応しい聖句、神様からの賜物としての御言葉に聞こえる。既に御手によって準備ずみの恵みに信頼して、賛美の歌を歌おう。ハレルヤと。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:47| 『日々の聖句』