2020年08月31日

『日々の聖句』2020年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年8月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。    (マコ14・38)

 十字架に架けられる直前、ゲッセマネで弟子たちと祈られるイエス様。でも弟子は一人残らず眠ってしまう。睡魔に襲われたから。そんな弟子たちを、それでもなお気遣われるイエス様。死が迫っておられるのに、気になさるのは弟子のことだった。
 私も、ここでこそ祈らねばならないという時でさえ、自分の思いという殻の中で惰眠する。その私をさえ気遣って下さるイエス様。今度こそ従おう、このお方に。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。    (マタ9・29〜30)

 二人の盲人が主にすがる「憐れんでください」と。主が「わたしにできると信じるか」と問う。「はい、主よ」と即座に答える二人。そして、この御業が起こった。
 主イエスとの遣り取りを通して、御業が起こる。私は、この貴い遣り取りの途中で、自分で中断させてしまうのかも。だから御業まで繋がらないのかも。本気で信じることが、御業へと繋がる道なのに。


●4(火)
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。     (ヤコ1・19)

 主に喜ばれる人になる道が語られる。「人のいう事を聞く人になれ。自分の言いたいことを一方的にまくしたてるな」と。
あれっ、ボクは逆になってるかも。人の言うことは受け入れず、まず「でも」とか「しかし」とか思ってしまう。そして自分の考えが普通で常識的なんだとまくしたてる。怒るのに遅くと言われても、ボクは瞬間湯沸かし器。パッと熱くなる。弁解の余地なしと気付いた。そのボクが変わらなきゃ、主を悲しませるばかりなのかも。


●5(水)
兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。   (ヤコ4・11)

 「よし! この御言葉を、あの人に言ってやろう。あの人にピッタリだから」と思って、アッと気付いた。よく読んでみたら「悪口を言い合ってはなりません」とあったから。つまり、私も悪口を言っているということ、これは私自身への忠告だったと気付いたから。これを隣人に言いつけること自体が、悪口だった。危ない、アブナイ。


●6(木)
わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。      (ヘブ13・13)

 イエス様は、神殿の外で十字架に架けられた。同じように、私たちも福音を実らせるために、「宿営の外に出て」と言われている。そこに行けと促されている。
「外」ってどこ? それは教会の門の外のこと。そこにいる友人や家族のもとで福音を広げよ、ということ。そこが主イエスの「みもと」なのだから。先立って主が、教会の塀の外で伝道しておられるのだから。主を独りにさせておいてなるものか。

●7(金)
むしろ末席に行って座りなさい。    (ルカ14・10)

 「末席に行くって当然のこと。上席に座りたがったりしないよ」と思う。でも、その「末席」ってどこだろう。この世なら、一番後ろとか、入り口近くかな。ふと、集会中の部屋を思い浮かべた。そうしたら、後ろの方に人がひしめいている様子が浮かんだ。きっと皆、奥ゆかしいからかな?
 でも待てよ。どうして「前から座って」とお願いされても、前はガラガラで後ろの席取り合戦するんだろう。もしかしたらそこが居心地が良い「上席」なのかも。はて、イエス様が言われた「末席」ってどこかな。


●8(土)
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。        (1ヨハ2・4)

 「信仰がある」と言いながら「御言葉を守らない者は神に対しても偽善者だ」と聞こえて来て、ドキッとした。心の中で信じていれば、行いは別だと思っていた。
 でも、それは自分に向けての言い訳なのかも知れない。行いを棚上げする詭弁だ。だって今日の言葉が「その人は真理なき偽り者だ」と指摘しているのだから。
 ドキッとしたボクは、まだ立ち帰れるチャンスはあるのかも。まずいぞと分かるから。

●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月・山の日)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。     (ルカ3・4)

 洗礼者ヨハネが、「救い主イエス様を迎える前に、まずあなたが歩んでいる道を整えよ」と叫ぶ。「神に喜ばれる者として、御言葉を聞いて行う者としての道を歩め」と。そのためには、まず自分の生活の歩み方を見詰めること。そうしたら誰もが悔い改めから始めないといけなくなるはず。一人だに義しい人はいないのだから。
 毎日、この準備から始めねば。自分が見当違いの道の上を歩いてたら、救い主に会えないぞと、ヨハネは言うのだから。これって脅し? そうだ、愛からの脅しだ。

●11(火)
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ2・7)

 イエス様が降誕された日のこと。臨月のマリアが「宿屋の片隅でいい。相部屋でもいいから」と懇願したのに、一人さえも場所を譲らなかった。だから、家畜小屋で赤ちゃんイエス様は生まれなければならなかったのだ。
 自分の主張や自分主義は、イエス様に場所を譲らない。いつまでも自分が居座ろうとする。まさにそれが罪人の姿。
御言葉に自分を明け渡さない姿こそ、罪人の私の姿なんだ。主の悲しむ御顔が、頭をかすめた。


●12(水)
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。   (ヘブ12・12)

 生活の中で、信仰心の手が萎えてしまうことがある。「もう委ね切れない、倒れて立ち上がれない」と思う日がある。でもその日、神様からのみ言葉が届くのだ「あなたの天の父なる神が、あなたを鍛錬しておられるんだ。今も、その御手の中、ご計画の中に居る。あなたは今日も神の眼差しの中。だからもう一度力を込めて、信じて委ねることに立て」と。
 さあ行こう、今日の歩みへと。鍛錬のバーベルをもう一回持ち上げるんだ。


●13(木)
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。  (1コリ9・19)
   

 パウロは、誰にも縛られず自由に生きる。同時に誰のためにも奴隷のように仕える者になる。なぜ? それは全ての人が、キリストを信じる人に加わって欲しいから。福音も、押し売りしたら追い払われる。上から目線じゃ聞いてもらえない。だから、下からなんだ。自由に下に立てる人が、伝道する人になれるのかも。
 私も、そんな人になりたい。「どうしてそこまでするの」と言われるほどに仕えたい。


●14(金)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。     (エフェ1・13)

 聞いて→信じて→聖霊を受けた。あ、この順序は、私と一緒だ。教会に来た日に初めて福音を聞いた→そして信仰の芽吹きを与えられて育てられ→ついに受洗。その日に、聖霊の注ぎを受けていた。
 手続き万全、私も正当な神の家の子になった。それは、キリストという紋付きを着ているということ。なんて凄い手順を辿っていたのか。ただ恵みのみ、感謝のみ。

●15(土)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。   (ルカ5・10)

 イエス様が、ガリラヤ湖の漁師だったシモン・ペトロに声を掛ける。ご自分の弟子へと、お招きになる出来事が起こるのだ。そのときのイエス様の一言がこれだ。
 ペトロに告げられたのは「安心しなさい」という慰めでなく「信じなさい」ということでもない。人々を神の国に招く人になれ、という〈使命〉だった。キリスト者が主に従うということについて、ここに大事なことが言われている。それはイエス様の使命に生きるということ。それって忘れがちかも。恵みを戴く事ばかり気にしてるから?


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。   (コロ1・18)

 「第一」であられる「御子」イエス様。「すべてのこと」と言うのは、聖書を開いたら本当にあらゆることにおいてだった。天地創造の前から居られ。教会という主の体の頭であられ、また復活においても最初に甦られた方。イエス様を信じるというのは、恵みを願う信仰とは別物だった。
 私が被造物で、僕であることに着座すること、わきまえること。まずそこからだ。


●18(火)
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。   (コロ4・6)

 「塩で味付けされた」ってどんな言葉か気になるなぁ。きっとそれが在ると、聞く相手が「ああ美味しい、嬉しい」と喜ばせる言葉。さらに相手を活かす言葉なのだろう。でも、もしかしたら・・・
御言葉が、「いつも」と言っていることにも心を留めなきゃいけないのかも。自分が言いたい時だけ、余裕がある時だけとか、言いたい相手だけというのでなく、「口から出る言葉すべて」というのが「いつも」ということかも。きっと、そうだな。イエス様を思ったら、そうなさっていたもん。


●19(水)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。    (ガラ1・12)

 パウロは、ガラテヤの信徒に自己紹介する。そこで、自分がなぜ主の弟子とされたかを詳らかに伝えていくのだ。その話の冒頭が、福音をキリストから(上から)直接示されたのだと告げたのだ。学び(下から)という手段によって知ったんじゃないと。
 私もそこは一緒だ。神の言葉(御言葉)を直接上から戴いて、聖霊が上から注がれて「あ、救いがある」と知ったんだ。感謝


●20(木)
その言葉には、権威があった。         (ルカ4・32)

 人々を教えるイエス様。その教えに皆驚いた。その理由が、今朝の一言だ。
 私たちにとっても、イエス様の語られることは「良い話」とか、「教訓として学ぶべきことが多い」とかいうことじゃない。「人生の指針になる」とか「幸せになるための秘訣」とかいうことでは一切ないんだ。
 じゃ、何なんだ。それは、我が君主からの言葉として、全身全霊で聞き従うべき言葉だ。それが権威ある一言ということ。「主よ、お言葉のままに」と答えるべきなのだ。今まで、勘違いして来たかも。


●21(金)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。   (マタ10・30〜31)

 「髪の毛までも一本残らず」数えていて下さるってスゴイと直感する。さらに「どういうことだろう」と思い巡らしたら、本当に有難いと思えて来た。だって、自分で数えられないほどの小さな苦難や、まだ気付いていない小さな重荷も、神様は全部知っていて下さるということだから。
 自分で思い煩わなくて良い。今日、私のすべきことは一つと分かった。ただ頼ること、本気で委ねることなんだと。


●22(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。   (フィリ1・27)

 「福音にふさわしい生活を送る」と聞いて、「ボクも当然そうするよ」と思って、アレッと気付いた。「ひたすら」という一言ってどういうことかな、と思い巡らしたから。それは日曜のことだけじゃない。仕事の時も、食事の時も、苦手な人に会う時も、会議の時も、全ての時でということ。生き生きと元気な時も、病む時も、死を目前にしている時もということだ。
 これは、自分の「ご都合信仰」への挑戦となる。これは自分との闘いだ。


●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
愛は自慢せず、高ぶらない。    (1コリ13・4)

 聖書の中で「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所だ。世界中の教会で、この御言葉は代々にわたって告げられて来た。それは結婚式の場で、だ。
 愛する生活を始めようとする二人に語られ、また長い夫婦生活をして来た列席の夫婦の耳にも届けられて来た。御言葉の通りに生きれば、本当に愛は実るんだと。それって、愛は心情の問題じゃないということかも。心の話しでもあるけれど、愛って行いの話しなんだ。言葉において態度において、自慢せず高ぶるな、だ。


●25(火)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。         (1ペト2・2)

 「霊の乳を慕い求める」ってどうやったら良いのだろう。聖書を見たら、私たちは「神の生きた言葉によって新たに生まれた」赤ちゃんだということ。ならば、お乳は生きた神の言葉だよね。御言葉を慕い求めて生きれば良いんだ。
それ無しには生きられなくて、赤ちゃんが泣いて求めるように、貪るように求めるんだ。そうさ、命に関わることだから。

●26(水)
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。   (ヘブ3・13)

 御言葉が私を見詰めて、切迫している私の危機が見えているように「危ない、急げ、今日という日のうちに」と迫って来る。今日を逃したら、あとは罪の奈落の底に落ちて行くんだと。
 僕は自分自身の罪を、こんなに真剣に考えていなかったかも知れない。でも今、急いで、具体的な罪の業を捨て去らねば。罪の泥沼に飲み込まれる前に。


●27(木)
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。    (エフェ5・17)

 この御言葉は、「神に倣う者になれ」「光の子として歩め」「何が主に喜ばれるか吟味せよ」と言われている文脈に告げられていた。それらを無視して歩むのが、無分別者ということ。分かっているのに、知らないように生きるのが、超無分別。
ああ、ボクは無分別が何かを分かっていた。それなのに、知らない振りをする時がある。それって一番嫌われるタイプの人間じゃないか。主に嫌われたくない。自分が変わらなきゃ。今日、変わらなきゃ。


28(金)
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 (ルカ1・44)


 従姉のエリサベトのところに、受胎したマリアが訪ねてきた時のこと。彼女は聖霊によって、マリアがイエス様を身ごもったことを知って喜んだのだ。エリサベトの胎内の子さえ喜びに踊ったと言うほどに。
 私は、彼女たちの降誕を喜ぶ姿に、自分の喜びはあまりにも小さいと思ってしまう。年に一度のお祝いぐらいにしか思っていないのかも。はらわた踊る程の喜びに生きていたい。救い主の到来なんだから。


●29(土)
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。    (ヘブ12・6)

 「天の父がなさる鍛錬って何?」と思う。「病気とか苦難や試練かなあ。どれもキツイしなぁ」と考えて「あっ、そうだ、聖書を見なきゃ」とこの箇所を開いた。
 そうしたら、鍛錬と言うのは私たちが自分の罪と、血を流すほど戦わせることだった。自分の罪と戦い抜く、それも全力で戦うようにボクを追い込むことだった。これまでひどい勘違いをしていた。
 避けてはいけない、逃げてはいけない戦いだから御父が一緒にいてくださるのだ。


●30(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)

       


●31(月)
いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。 (ヘブ13・9)

 異なった教えは、「いろいろ」あると言われている。そんなにたくさんあるのかなと思ったけど、それらは私たちを取り巻いている生活の中で溢れているらしい。その教えは、今まで住み慣れたこの世で語られた教えなんだ。
 聖書を離れまい。心して、この「一書」から離れまい。「一書のみ」の信仰生活を歩みたい。だって、迷わされた道の行き先は、神を嘆かせ、人を傷つけてしまっている場所だから。ボクは、そこに決して戻りたくないんだ!


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2020年07月31日

『日々の聖句』2020年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年7月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。  (ヤコ1・21)

 心に植え付けられた御言葉を、あなた自身が受け入れなさいと言われる。その御言葉が、あなたの魂を救うから、と。
 私は、自分を救ってくれるものを自分勝手に想像して、無駄に捜し回っていたのかも。力とか、奇跡とか、権力とかが私を救うと思っていたから。でも、本当に私を根底から救うのは全く別のものだった。
それは神の言葉、私を愛する全能者の言葉。その言葉が私の中にあるなら、それに頼る者は満たされる。たとえ病の中でも、困窮の中でも、喜びに生きられる。


●2(木)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。      (1コリ15・53)

 死者の復活についての福音宣言だ。いつもこれを「葬りの式」の時に朗読して来た。大切な人との地上の別れをした遺族にとって、何よりもの慰めになるから。
人の命は、この地上の命だけで終わらず、「死」は「新しい生命の始まり」だ。だったら、精一杯地上の日々を生きれば良いんだ。今日という日を大切に、丁寧に生きれば良いんだ。その先の心配はいらないから。その先にも希望があるのだから。


●3(金)
しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。   (マタ5・34)

 主が山上の垂訓で「一切誓いを立てるな」と言われた。「なぜ?」と思う。もしかしたらそれは、誓う事柄は、結局自分がやりたいと思うことから出て来るからかも知れない。つまりそれは、自分中心な決意なのだ。
 主は言われる「神が望まれることを『その通りにします』と従い、神が望まないことを『その通りにしません』と生きよ」と。誓う生活に自己中心が入り込む。聴従から引き離されるのだ。あぶない危ない。


●4(土)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。  (ルカ6・35)

 「何も当てにしないで」というのは、難しい。人から褒められる事、感謝される事を求めてしまうから。だから「良かったね」と評価されたら有頂天だし、「有難うの一つも無い」と不満も起こる。そんな情けない自分に気付いてもいない時さえある。
 イエス様がこれを、「敵を愛せ」という文脈で語られているのを知って、ハッとした。評価を求める人が、攻撃して来る「敵」を愛せるはずもない。結局自分を愛しているだけだから。ああ、人を愛する人になりたい。何も当てにしない私になりたい。


●5(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。    (1コリ1・25)

 「神の愚かさ」「神の弱さ」とは何か。それは、ご自身の御子を、罪人が処刑される十字架で死なせること。ご自分の御子なのに、敵である罪人の身代わりとならせること。・・・しかしその身代わりによって、人々を救えるのだ。それが神の賢さ。それを引き受けられたのが、神の強さ。
 これは単なる教理じゃない。今朝の一文に、神が人を愛された秘密が凝縮されている気がした。ボクはその愛を賜ったんだ。受洗の日に、この激しい愛を。


●7(火)
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。    (黙21・6)

 ヨハネの黙示録の最後のほうで、新しい天と新しい地の到来が告げられる。そこで、天の玉座から語りかける神の言葉が聞こえて来るのだ。その貴い言葉の一つがこれだ。
 神はいつも、そして最後まで、私に呼び掛け続けてくださるのだ「あなたは渇いていないか? 一人で大丈夫か? 私が傍にいるから私の所においで! 命の水を飲ませてあげるから」と。そのお声は、今日も私を招き、そして支えてくれる。


●8(水)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。   (1コリ12・26)

 「一つ」とは、一つのキリストの体、つまり教会のこと。一人ひとりがその体の「部分」なんだ。そこには昼食を作る「手」の人もいる。支える「腰」の人もいる。ボクは盲腸って言われたらどうしよう。でも、盲腸だって、そこが痛むと体全体が苦しむよね。体全体が、一つの部分のために祈るよね。あ、ちょっと分かったかも。つまり、「教会に所属しているって、いいな」とね。


●9(木)
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。    (マタ5・39)

 これはイエス様が語られた「山上の説教」。「この世の常識では許される反撃がある、抵抗権もあるだろう。しかし!」と。「悪人に一切手向かうな。下着を取られたら上着も持たせなさい」と。そして「侮辱されて殴られたら、辱められるまま受けよ」と言われたのが今朝の御言葉。
 そんなこと誰が出来るのかと思って、アッと思った。イエス様ご自身がそこを歩まれたから。半歩でも良いから御跡を行こう。幸いは、そっちにしかないのだから。


●10(金)
あなたの神である主を試してはならない。      (マタ4・7)

 「神様を試すなんて、そんな恐ろしいこと絶対ない」と思って聖書を開いたら驚いた。荒野でイエス様が悪魔に、「御父はあなたを必ず守るはずだから、いっぺん神殿から飛び降りてみたら」と唆されて、それへの返答だったから。私も「神様、ボクを守ってください。守ってくれると信じていますよ」と祈っている時、ちょっと変なことをしているんだ。心の端っこで、守ってくれるかどうか、様子見をしている自分がいる。
 「御心が成るように」と一言の祈りをささげて、ただ無心に主を拝もう。


●11(土)
愛は隣人に悪を行いません。        (ロマ13・10)

 「愛」と、「悪」という言葉が心に刺さる。それは自分で自身が、「愛がない」ということと、「悪い事をしてしまう」姿を自覚しているから。在って欲しいものがなく、無くていいものが在る。ボクは矛盾のかたまり。
 愛するということに心を向けて、どこまでもソコに執着すればいいんだ。愛に留まる人になりたい! 聖書はこの後に「愛は律法と全うする」と続けていた。全ては愛への一点集中だ。まさにその姿は、イエス様のご生涯そのものだ。御跡に従いたい。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。         (マコ4・40)
   

 舟がイエス様を乗せて、ガリラヤ湖を進む。突然、激しい風と波に、舟は浸水し始めた。慌てる弟子たちが船の艫を見たら、イエス様は眠っておられた。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と問い詰める弟子たちに、主イエスが言われたのがこの言葉だ。
 現実の苦難の嵐に溺れそうになる私。その時私も、この弟子たちそっくりに叫ぶ。イエス様の嘆きは、私への語り掛けだった。主を困らせ嘆かせるのはボクなんだ。


●14(火)
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。   (ヨハ14・14)

 イエス様が捕らえられ十字架に付けられる直前、弟子たちに告別説教をされる。「天の御父と私は一つだよ」と、また「私を信じなさい」と繰り返される。そこに続けて今朝の言葉を言われたのだ。だからイエス様に願うことは、天地創造の神に願うこと。何でも叶えられるはず!
だからこそ、ランプの精に願うような心ではだめ。緊張して言葉を選ばねば。そうだ、整えられた言葉を知っている。それは「主の祈り」、ここに全て集約されている。


●15(水)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。   (エフェ1・23)

 御父は、キリストを教会の頭としてお与えになられたと告げられ、その故に「教会はキリストの体なのだ」と言われているのだ。相模原教会の群れに召された一人ひとりは、イエス様の体の一部。なんて嬉しいことと思う。それと同時に、司令塔はイエス様だから、なんて安心と思う。
 頭と肢体が一体で動けば、全体が気持ちいいよね。主に従うって、本来気分爽快なことなんだ。そんな教会大好き!


●16(木)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。     (マタ6・3)

 「施しをする」というのは、当時の人々にとって、必ずしなければならない律法の一つだった。それを守れている事を誇らないように、いや更に自分自身も気付かないほど無心で成せと言われているのだ。
 小さな奉仕でも、人からどう見られるか気になるのは、結局誇りたくて、褒められたいと思っていること。いやらしい根性だなぁ。そんな私の根性が、全部イエス様にバレている。そして「いい加減にやめなさい」と言われている。私への直球の御言葉だ。


●17(金)
今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです。   (ロマ5・9)

 「信仰義認」の中核が語られている文脈に今日の御言葉がある。イエス様が私の罪の贖いのために十字架で死なれ、それによって私は義とされたということ。
 でも思うんだ。信仰義認を理解することと、感謝して、そこに喜んで生きていることとは別問題だって。自分を見て、そう思うんだ。頭デッカチで、かえってどうしようもないほど信仰者の姿から離れている。ボクはただ「イエス様、感謝です。あなたを愛しています」と生きる者でもありたい。


●18(土)
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。     (ヘブ5・2)

 「大祭司」とは、神と人との間に立って、人間のために神に執り成しをしてくれる働き。そして、大祭司の中の大祭司が、主イエスなんだと言われている。それも人々に嘲られ、弟子にも見捨てられ、十字架で死なれた最も弱さを味わわれた方が、私の側に立つ大祭司になって下さるのだと。私は、ただこのお方に全てを打ち明ければ良い、どこまでも私の味方となって下さる方に。私の大祭司だから。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。  (ルカ13・9)

 イエス様の例え話。3年間世話を続けても、まったく実が生らないイチジクの木(それは私のこと。信仰の実りがないこと)。そのイチジクの木を見て、畑の持ち主(神のこと)が園丁(イエス様のこと)に「切り倒せ、役に立たない木なのに、土地がもったいない」と。しかし、園丁は執り成して「もう1年だけ待って下さい」と願い、今朝の言葉を続けたのだ。
 私はいつまで園丁のイエス様に執り成させ、待たせ続けるのか。いつまで忍耐させるのか。一粒でも良い、実を生らせたい。


●21(火)
二人の目が開け、イエスだと分かった。     (ルカ24・31)

 エマオ途上で二人の弟子が御復活の主に出会う。でもそれがイエス様だと気付けない。その夜、宿泊した家で食事の時、イエス様が心の目を開いてくださって、初めて「目の前におられるのは、甦らされたイエス様だったんだ」と分かったのだ。
 見ても、見えていない。ただ主が私の信仰の目を開いてくださる時、復活が分かるんだ。きっと復活だけでなく、十字架も、罪も・・・、全てイエス様が目を開いてくださることによって、だ。何から何までお世話になって、信仰生活があるんだな。

●22(水)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。   (1ヨハ4・15)

 神はご自分の霊を私たちに分け与えて下さったよ、とヨハネは言う。だから私たちの内には既に神が留まっていると言われているのだ。だから信仰者は本当は「イエス様は御子なる神だ」と分かっているのだ。
自分の知識で難しくしないで、素直になれば神が分かる。それなのに、その素直さから、大人のつもりでいる僕は、いつも迷い出してしまう。幼子に、戻りたい。


●23(木・海の日)
わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。   (1テサ5・8)

 私たちはキリストによって光の子とされているから、とパウロは語りかける。だから顔を上げ、闘いのために胸当てをして、兜だってかぶろう、と。でも「だから信仰の闘いを闘うぞ」と言うのかと思ったら、「身を慎んでいよう」だなんて。これって、急にトーンダウンしてるってことなの? いいえ、大声出す人より、慎み深い人の方が本当は強い。それが光に属する人だ。


●24(金・スポーツの日)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。   (ロマ12・21)

 「悪に負ける」ってどういうことかなと思って聖書を開いたら、悪を持って悪に返すこと、つまり復讐だった。テレビで「やられたら十倍返しだ」って大流行したけど、その生き方は間違いなんだ。ハッキリ「悪」なんだ。復讐は復讐を招くから。
「善をもって」って何かなと聖書を見たら「敵が飢えたら食べさせること」だった。この世とキリスト者の姿は、違っていて当たり前なんだ。「百倍返し」って笑っているのはテレビを見てる時だけにしようっと。


●25(土)
心を騒がせるな。神を信じなさい。          (ヨハ14・1)

 この直前にイエス様は、ペトロが御自分のことを「そんな人は知らない」と否認することを予告しておられる。つまり御自分が一番心騒がされる状況におられるのに、心配しているのは御自分のことじゃない。そうではなくて、この先で主の十字架に直面する弟子たちのことだなんて。
 どこまでも一人ひとりのことを思ってくださり、最善の言葉を届けて支えようとして下さる。そのイエス様に、私も今日を守られているんだ。だから踏み出そう。イエス様が言われた御言葉の中を。

●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。    (マコ4・8)

 イエス様が、「御言葉」という「種」を懸命に蒔いて、人々が聞いて実ることを待っておられる姿を、種を蒔く農夫の姿で例えられた。(イエス様は例え話をたくさんしてくださる。でもいつも例え話の方が、ちょっと難しかったりするんだよなぁ・・・)
今日の例えも良く読んだら「お前も実を結ぶ良い畑になれ」という教訓じゃない。御言葉を蒔く人・イエス様の忍耐深い愛の話だ。「待っているから、実れよ」と。


●28(火)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。     (ヘブ11・1)

 これは、教会学校の子供たちも暗唱する聖句。それほど大切で、これからの人生を支える御言葉なのだ。この聖句のあとに、「見えない将来も主が共におられる」と信じた父祖たちの生涯が数えられる。アベル、ノア、アブラハム、ヨセフ等々。
 見えない未来を神に預けること、この神関係こそ「信じる」ということなのだ。私も神が計画してくださる未来こそ最善だと委ねて歩もう。今日という日が、そこへと向かう一歩だと心に据えて。


●29(水)
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。   (ヤコ4・8)

 神様が近づいてくださっていないように思えていた時、私が神様の所へ行こうとしなかったからということなのかな? 私が神を避けて彷徨っていたからということ?
 だったら神に近づくってどうしたら良いのだろう。確か「神は我々と共におられる」って方だと知っている。ならばボクはただ振り返れば良いのかも。自分のことばかり見ていた視線を、反対に向ければ良いのかも。もしかしたら、それが祈る瞬間なのかも。よし祈ろう、顔を主に向けて。


●30(木)
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。  (1テサ2・12)

 神が私たちに贈り物をしようとしてくださる。それなのに欲しくない者のように、この世にどっぷり浸って自分の欲のままに生活をしている。きっと贈り物の中身を、ちゃんと知らないからかも。
 贈り物の箱には、神の国の家紋が入った指輪と、家紋が付いた羽織が入っている。その指輪をはめて羽織を着たら、神の国の正式な子供となる。それは御国の栄光の相続人になることだ。破格の贈り物なんだ。知らぬ顔でいられようか!


●31(金)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。     (1ペト1・23)

 「新たに生まれた」って、私に向けて言われている。それも、「朽ちない神の言葉によって生まれた」ということだよと。
生まれたってどういうことだろう、と思い巡らして気付いた。神様から「お前の罪は赦された」と、神と私を隔てる罪の壁を取り去る言葉を戴いた時に、私は神の子に生まれたということ。受洗の日に起こっていたこと。そんな私の栄養は、やっぱりいつも、いつまでも、神の言葉だね。

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2020年06月30日

『日々の聖句』2020年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年6月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(月)
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。   (マタ18・35)

ペトロが「人を何度赦してあげたら良いですか」と問うたことに、イエス様が「七の七十倍だ、つまり完璧にだよ」と言われ、なお加えて「もし心から赦さないなら、神もあなたを赦さない」と言われた。
 隣人を赦すかどうか、それも心から赦せるかどうかは、心の広さや大きさの話じゃない。私自身に跳ね返ることだ。必死に赦さねば。衷心から赦さねば!


●2(火)
酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。    (ロマ13・13〜14)

 酒におぼれて酩酊する姿と、色におぼれた淫乱と、人と争う姿やねたむ姿が、並列して挙げられている。恥ずかしい姿と、人と争う姿は同じだと言われている。そういう姿を全て脱ぎ捨ててからじゃないと、キリストを着られないのだとも。
争う者のままで、上にキリストを着る〈着ぐるみ信仰生活〉は、すぐバレる。先ず脱ぎ捨てねば。今日は信仰生活の衣替えの日だ。肉の自分を、断捨離だ。


●3(水)
取りなさい。これはわたしの体である。      (マコ14・22)

 最後の晩餐で、主イエスが弟子たちに言われた言葉。私たちも主日の聖餐式のたびに、この言葉を聞いて来た。「このパンは、あなたのために十字架で裂かれた私の肉だ。取って食べよ。主の死は自分のためだったと、信じて味わえ」と。
 相模原教会では、主の体を戴く時にひざまずく。それ以外に相応しい姿勢があるだろうか。自分が主を十字架に釘付けにした張本人なのに、恵みを受け取れるのだから。ひざまずいて差し出す手に、圧倒的恵みが手渡される。救いの印だ。


●4(木)
しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。」    (使10・14)

 ペトロが忘我の中で夢を見る。律法で禁じられている「汚れた食べ物」が、天から吊るされて降りて来て、「食べよ」との御声を聞くのだ。その瞬間「とんでもない」と答えたペトロ。その汚れた物とは、異邦人のことを指している夢だった。御声に従って出かけた時、異邦人伝道が始まった。
人が、自分のこだわりを破れるのは、主の御言葉に従う時。その時に、新しい世界が開くのだ。私も「赦せ」「愛せ」との御言葉に従って、隣人との垣根を壊せ。


●5(金)
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。     (2コリ12・9)

 パウロは、主に「取り除いて欲しい」と願い続けた一つのトゲ(病か弱点か)があった。しかしその弱さを、主なる神は「そこが、私の恵みが働く場所だ。あなたの弱さに私の力は宿るのだよ」と告げられた。
 「これは私の強さだ、得意なこと」と、自分で自分を誇る場所は、傲慢が住みつく暗闇。だから弱さを大事にしよう。自分は無力だと首を垂れる場所で、主が主導権を握って働かれるのだから。


●6(土)
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。   (ヘブ13・20〜21)

 キリストこそ、神と人との間に立って執り成す弁護人・仲介者だと告げられた手紙の最後に、この言葉が来る。これは、締め括りの祈り。そうだ、祝祷だ。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。   (1ペト3・15)

 心の内にキリストを湛え、人に接する時は穏やかに信仰の喜びを話す。これが迫害の中を生きるキリスト者の姿なのだ。苦しい顔で生きるのじゃない。辛そうに生きるのじゃない。のびのび生きるんだ。
そうだ、柔和なイエス様のように! 肩から力を抜こう、眉間から皺を消そう。心を乱さず、腹にこそ力を入れて生きよう。それこそが大人の信仰者なのかも。


●9(火)
天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。    (ルカ1・30)

 天使から受胎告知を受けて、戸惑い恐れるマリア。その彼女に向けて、天使が「恐れないでいいよ。これは恵みなんだよ。それも神様からのね」と告げたのだ。
 神様からの恵みでも、それが自分で願うものでない場合がある。でも「神から」であるなら、人間の想像を超えた奇跡の恵みとなるのだ。マリアは救い主を産むことになるのだから。神の恵みって、委ねて受け取るものなんだな。蓋を開けて確認してから受け取るものじゃないのですね。


●10(水)
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。   (ルカ2・30)

 幼子のイエス様が、両親に抱かれて神殿に連れて来られた。その幼子を見たシメオンが、喜びに溢れてこの言葉を言った。一目見ただけで救い主だと悟ったのだ。
 イエス様を一目見ただけで悟れる人もいる。イエス様の言葉を百千万聞いても悟れないボクがいる。なぜシメオンのように生きられないのだろう。なぜ彼のように喜びに満たされないんだろ。きっと、自分が思い描く救い主像に固執してるから。自分の内側の声が、イエス様の言葉をかき消すから。聖霊よ、私を鎮めてください。


●11(木)
正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。   (1ヨハ3・10)

 この直前に、驚く言葉が記されている「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」と。そこに直結して今日の御言葉があるのだ。
 「神に属していない」と言われているのは「神の子じゃない、悪魔の子だ」と告げられているということなんだ。恐い! そうだ、恐いと思うままに「正しい生活をしなきゃ、隣人を愛さなきゃ」と心して生きねばならないんだ。中途半端は無い!


●12(金)
「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。   (使10・4)

 異邦人の百人隊長コルネリウスに、神の使いが呼びかけた。そのとき彼は恐くなるけど、逃げ出したり、呼び掛けを空耳かと疑ったりせずに、応答したのだ。それは「主よ、私に何か御用ですか。私に何をさせたいのですか。しもべは聞きます」との応答だった。そこに、ペトロとの出会いが起こり、異邦人伝道の扉が開いたのだ。
 私も、御言葉を聞いた時「主よ、このお言葉は何ですか」と応答したい。そこに神の業が開始されるのだから。


●13(土)
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。   (1コリ1・10)
   

 コリントで「自分が正しい」と主張し合って争っていた。そこで、教会が倒れかけた。
 今、これを書いている時、新型コロナウイルス感染症との闘いの真只中にある。マスコミから情報が溢れて来る中、皆の思いは揺らされている。しかし主よ、どうか心を一つにして、固く結びついて、この困難を乗り越えて行けますように。これを読む時は、光が見えていますように。


●14(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。   (1コリ10・24)

 自分がしたいと思うことは何でもすることが許されている、と言われる。でもその全てが益になるわけじゃないんだよとも。ではどうすれば良いのか、それが今朝の御言葉なのだ。他人がして欲しいと思うことを追い求めよ、隣人を愛することだと。
 「ああして欲しいのに、これが欲しいのに」と、心を自分の内側にばかり向けていたから、いつも不平不満を抱えていたのかも。でも外に向けてみよう。隣人に向けてみよう。今日がその始まりの日にしよう。


●16(火)
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。   (1ペト2・5)

 主イエスは、人々からは見捨てられたけれど、御父にとって尊い生きた石なのだと言われたことに続けて、「あなたがた自身も」と告げられていたのだ。あなたも神の目には、神の家を建てるかなめ石なんだよと言われているんだ。
 「キリストに倣って一歩だけ」と踏み出せたら、そこは神が崇められる神殿となるんだ。私の小さな信仰の小さな一歩でも神の家を建てる土台石になる、感謝。


●17(水)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。   (1ヨハ4・4)

 「世にいる者」とは、人を惑わす偽預言者。彼らは「神に頼るよりも自分が大事、皆もそうやっているよ」と惑わす者たち。一方「あなたがたの内におられる方」とは神の霊だ。「キリストはあなたのためにこの世に来て下さった」と告げる霊だ。
 「世の誘惑に勝たなきゃ、だから強い信仰でいなきゃ」と力んで来た。でも、内にいて下さる聖霊に目を向ければ良いんだ。「私を助けて」と、頼れば良いんだ。なんだか、フッと肩の力が抜けた。


●18(木)
人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。      (ヤコ1・14)

 誘惑は外から来るのではない。ましてや、神が人を誘惑されるなど言うべからずと告げられている。悪への誘惑は、自分の中から始まるのだ、と。
 エッと思った。今まで「誘惑から守って」とか「誘惑に陥らせないで」とか祈っていたから、自分の外から誘惑されると思っていたから。アッと思った。悪の病巣は、ボクの中に巣くっている欲望だと知ったから。今日から祈りを変えよう、「一切の欲望を捨てて、御心のままを生きさせて」と。


●19(金)
誇る者は主を誇れ    (1コリ1・31)

 非常に端的に言い切られている。自分を誇るな、一切誇るな、神があなたの主(主人)だから、あなたを贖う救い主なのだから、ということだ。
 「勿論その通りだ」と思っている、思っているはずだった。でもふと思う、「それなのにどうして自分の考えだけで生きようとするのか。祈ることが少ないのか。御言葉をおろそかにするのか」と。そして気付いた「私は偽善者」と。「私を赦して救って下さい」と悔いることから始めよう。それが、主を誇ることに至る道に繋がるから。


●20(土)
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない。  (1テモ6・7)

 信仰を持って生きることは、豊かになるためじゃない、と告げられる。なぜなら裸で生まれ、一文無しで天に帰るのだから、地上の財産が何になるのかということだ。
 この世で財を持つことを喜ぶ心と、信仰者の歩み(天に宝を積むことを喜ぶ心)とは、同居しないんだ。両方を丁度よくということは無いらしい。「じゃボクは、どっちかな? 本心はどっちだろう」・・・なんて迷っていること自体、マズイよね。


●21(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。       (コロ2・6)

 主イエスに救われた喜びの中で「キリストに結ばれて」という歩き方に、変われるよね、変わりなさい、と言われている。
 この世の歩みと歩調を合わせていた頃の生き方から、離れなさいと言われている。相変わらず他者を傷つけ、神様を第一にしない生き方じゃ、ダメなんだ。古里の教会の兄弟姉妹に久しぶりにあったら、「あれぇ、あっちゃん変わった?」と、信仰において言われたいな。

●23(火)
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。      (ヘブ12・4)

 外からも内からも試練を前にしていた信仰者たち。その中で本当の試練は、罪との戦いだと告げられる。でも不安を抱えないで良い。その試練は「父が子を鍛えるためという目的に沿っているもの。だから雄々しく進め」と諭されていたのだ。
 神の愛は、過保護でも放任主義でもない。私が信仰者として自立できるようにと、真剣な父のお心なんだ。私の真の益のために、誰よりも一番真剣なのは、御父なる神なのだ。


●24(水)
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。   (2コリ12・9)

 パウロが主から「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられたことを告白した文脈に、今朝の言葉もある。
 キリストの大いなる力が、私の中にスッポリ入る場所がある。それは自分で整えた応接間じゃなくて、何も出来なくて打ちひしがれた場所。それってどこ? それは病と無力さを味わう時「主よ、もうあなたに全てお任せします」と祈る場所かも。


●25(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。    (1コリ9・23)
 

 「どんなことでもします」とは、律法厳守の人には自分もそのようになり、異邦人には自分も異邦人のように、弱い人には弱い人のようになること。それは少しでも、その一人を得るためとパウロは言う。そうしたら、福音に共に与れるからと。
 救いの喜びは、自分一人で喜んでちゃダメなんだ。共に喜び合う人を得ないと未完成品で喜び半分。隣人に伝えなきゃ。


●26(金)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。   (ヨハ20・27)

 復活を信じられない弟子のトマス。その彼に主が現れて「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と十字架の聖痕を差し出された。そして「信じる者になれよ」と招かれたのだ。自分のこだわりと常識に捕らわれて意固地になっていたトマスの頑なな心の扉を開けたのは、イエス様の声。それも優しい招きの言葉だったのだ。
人間の知識では理解しようもない「復活」を、信じる心へと緩めるのも、主ご自身の御声。そうだ! 私もその招きを受けていた。「信じたい」と思ったその日に。


●27(土)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。         (マコ16・7)

 主が復活された知らせを、天使から聞いたマリアたち。その時ペトロたちに「主はガリラヤで待っておられる」と言付かった。
 ガリラヤ・・・それはイエス様と出会った場所。「この方こそ、ローマから解放してくれる救世主」と期待して旅を始めた場所。でも一切が消えた。そのゼロ地点こそ、主の計画に従い直せる場所。そこから再出発するために、ガリラヤで会うのだ。私のガリラヤは、朝ごとの祈りの場。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
この子は、・・・反対を受けるしるしとして定められています。   (ルカ2・34)

 幼子イエスを神殿に連れて来たマリアに、シメオンが告げた言葉だ。「この子は、人々から憎まれ嘲られて、ついには死なれる道を歩む。それが神の御計画だよ」と。それを聞いた母マリアは、心を痛めただろう。辛かっただろう。
 イエス様は、御父の御計画によって降誕され、地上で苦難を舐められ、人々に見捨てられ、ついに十字架で死なれる。そんなに辛い定めが、人の救いのため。いや私のため。私こそ心を痛めるべきなのだ。

●30(火)
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。   (ヨハ21・22)

 ご復活の主が、ペトロに「あなたは私に従え」とコンコンと諭される。それでイエス様と自分との深い関りを理解したはずなのに、ふと横を見て他の弟子のことが気になった。そして「この人はどうなのですか」と愚かにも聞いたペトロに、ガツンと言われたのが今日の御言葉。
 なぜ人のことが気になるんだろう。いつも人と比べて生きているから? 批判したり、妬んだり。でも主は言われる「私とあなたの関係で充分だろ」と。あ、然りだ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:12| 『日々の聖句』

2020年05月31日

『日々の聖句』2020年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年5月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(金)
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。         (マコ5・22)

 ヤイロの娘が、死にそうだった。その町の近くにイエス様がやって来られると知ったヤイロは、一目散にやって来る。群衆をかき分けて、イエス様の足もとに来て、ひれ伏して願ったのだ、「助けて!」と。
 ふと考えた「私は、誰の所に駆け寄っているだろうか」と。自分の遣り方でジタバタした後に、やっと祈り始める。ヤイロのように一直線にイエス様にすがっていないかも知れない。真の神が傍におられるのに。


●2(土)
(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。   (1コリ13・7)

 「愛の賛歌」と呼ばれるカ所だ。十三節にもわたって延々と「愛とは何か」が語られる。いや「この愛を生きよ」と勧告されているのだ。厳しい命令なのだ。
 私も結婚式の時、必ず読んで来た御言葉。一言一言かみしめながら、「あなたがたはこれから一層忍べ、信じ合え、互いに耐えよ」と。人生バラ色って顔をして聞く二人に「本気の勧告なんだぞ」と言って来た。「ここに留まるなら生涯、幸せは続くから」と。夫婦関係以外にも然りだ。


●3(日・憲法記念日)

主日礼拝説教
  全員「家庭礼拝」
         辻川篤牧師




●4(月・みどりの日)
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。   (使8・15)

 「サマリア」とは、ユダヤの人にとっては忌み嫌った犬猿の仲の人たちが住む場所。そこにもペトロとヨハネが遣わされる。そして自分たちと同じように神の霊が注がれるようにと、その人々のために祈ったのだ。同じ神の民とならんがために。
 最も嫌った隣人なのに、最も大事な恵みを主に願うなんてスゴイ。好きな人だけ愛するボクとは大違いだ。敵を愛し迫害する者のために祈ることに本気に生きる。本気の信仰がボクには足りなかった。


●5(火・こどもの日)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。   (ルカ15・7)

 九十九匹の羊を野原に残して、迷子の一匹を探す羊飼いの例え話。その一匹とは、罪のゆえに神様のもとから離れた人のこと。「自己中心で歩くお前だ」と言われている。そして、その一人を探し出した時の御父の喜びの大きさを告げている。
 「我は罪人、迷い出た一匹」と気付けた者にだけ、恵みがある。義人ではなく、罪人と悔いた者が、恵みの受け取り手だ。

●6(水・振替休日)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)

 目の前に、片手の萎えた男が「癒されたい」と願いながら立っている。でも人々は、「律法によれば、今日は治療も禁止の安息日だ」と、心を頑なにしている。それを見たイエス様が、愛することを優先しない人々の心を悲しまれたのだ。
 私も自分の「こうあるべき」が「愛すること」の上に立つ時、イエス様は悲しんでおられる。私の傍で、私を見詰めながら・・・


●7(木)
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。   (1ペト1・22)

 イエス様から真理を受け取り、魂を清められたら、そのあとは「恵みを感謝」と言っているだけでは終われない。キリスト者には、責任が生じる。それは貴い責任。それが、深く愛し合って生きることだ。
 神様から戴き物をするだけでなく、応答(お返し)をする。それは親しい間柄。さらに戴き物が高価だと分かる人が、お返しも大きい。懸命に愛して生きよう。


●8(金)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。    (ルカ6・46)

 イエス様を怒らせた。それはなんと、主の弟子たちだった。
 一番御言葉を聞いて学んでいるはずの者なのに、一つも生き方が変わらない。相変わらず自分の価値観の中を生きていて、それなのに「自分は少しは良い人間だ」と思い込んでいる。そういう弟子たちに向かって激しく怒られたのだ。「なぜ御言葉を生きないのか」と。
 キリスト者の私に言われている気がしてハッとした。襟を正して生き直さねば。


●9(土)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。     (1コリ6・11)

 あなたは今や、主の十字架によって義とされていると言われる。でもこの「しかし」が気になって聖書を見たら、以前は不義を行い強欲で、人を悪く言い、物を奪っていたと告げられていた。ヒヤッとした。
 日常生活が、救われた以前の姿のままだと気付いたから。申し訳ない、それは十字架の死を無にする行為だから。救われたはずの私が、主を悲しませる。今日こそ生き方を変えよう。聖とされた姿に。


●10(日)

主日礼拝説教
「会衆参加の礼拝」再開予定
         辻川篤牧師




●11(月)
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」   (マタ18・22)

 ペトロがイエス様に、「赦すのは一回や二回でなく、七回(つまり完全にという意味)ですね」と物知り顔で言う。「よく分かっているね」と褒められると思った。しかしイエス様は「七の七十倍(完全×無限にという意味)だよ」と諭されたのだ。
 自分の傲慢さが、赦すことにさえ現れる。「これだけ赦したら充分だ」と勝手に一線を引いて満足している。イエス様はその一線を叱られるのだ。無限だ、と。


●12(火)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。   (ヘブ12・14)

 「すべての人との」と言われる。自分と気の合う人とだけではない、避けている人や気に食わない人とも、ということ。なんて大きな目標だろうか、と思ってドキッとした。聖書を開いて続きを読んだら「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」とあったからだ。
 単なる努力目標なんかじゃなかった。このように生きないと、主を見失う。大変なことになるんだ。最も失いたくないお方を失うんだ。真剣な招きなんだ。


●13(水)
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。     (2コリ5・21)
   

 「神と和解させていただきなさい」と語られた後に、このみ言葉が続く。神様との関係が断絶していたからということ。神様にすがりたいことがいっぱいあるのに、関係を崩した原因は、全て私の神への背き。だから和解が必要だった。でも! そのために必要なことを、神の側がして下さったと、今日のみ言葉は告げているのだ。
 「我が主」と親しく呼べることは、普通の恵みじゃない。破格の恵みだったんだ。


●14(木)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。   (ヨハ2・25)

イエス様が多くの奇跡をなさったので、たくさんの人々がイエス様を信じた。その出来事の直後に、この御言葉が告げられている。まるで「お前たちは、自分の欲していることを満たしてくれる召使のような魔術師を求めているだけだ」と見透かされている。イエス様を見ても、主ご自身を喜ばずに、奇跡だけを求める心が見抜かれている。「奇跡を起こす主ではなく、十字架の主にこそ従いたい」と祈り求めたい。今日が、信仰再出発の日だ。


●15(金)
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。    (エフェ6・17)

 悪魔の策略に対抗して戦うための「神の武具」が並べられる。胸当て、盾、兜も。その中に、剣も挙げられるのだ。戦いのために万全の準備が提供される。それは、襲い来る悪は強敵だからだ。
 それにしても神の言葉の剣って、どういう風に使うんだろう。御言葉を誰に突き刺すんだろう・・・。そうだ! 悪は私の内に起こる自己中心の思いや自己正義化の誘惑。そこに御言葉を突き刺すんだ。「御言葉に従え」と切りつけるのは私の傲慢。ン? 悪の本陣、我が内にあり?!


●16(土)
ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。    (使7・60)

 キリストを伝えたステファノが、暴徒化した群衆の投げつける石によって殺害される。そのとき彼は主に祈って叫んだのだ、「この人々の罪は、自分が何をしているのか知らないで犯している。彼らをも私は愛している。だからこの罪を彼らに負わせないで」と。そして殉教したのだ。
 イエス様の福音を伝える時、石つぶてを受けることになるのかも。言葉や態度による拒否が。でもその一人を愛したい。その一人が救われることが、喜びだから。


●17(日)

主日礼拝説教

          辻川篤牧師



●18(月)
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。     (マタ2・10)

 イエス様がお生まれになったことを示す星が輝いた時、東方の博士たちは喜びに沸いて旅に出た。真の王の中の王に会いたくて、拝みたくて。
 たった一つの小さなしるし。夜空の星という小さなしるしを見ただけで、喜びに溢れた彼ら。それに比べて私は、たくさんの主の言葉を受け取っている。御言葉が主ご自身として迫って来る。しっかり受け取らなきゃ。博士たちは馬小屋に駆け込んだけど、私も聖書に駆け込まなきゃ。


●19(火)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。         (ガラ3・18)

 善い行いが出来たら神様から恵みを戴けるのではない。ただ神が「与える、無償で与えたいから」と約束なさったことを、神が守るというゆえにだ、と告げられているのだ。神の側の自由な決定権。人間の側のどんな条件にも依らないのだ。
 だから「罪人であるにもかかわらず」恵みを戴けるのだ。その嬉しさはきっと自分に何の条件も見い出せない貧しい人、罪まみれの人にこそ大きい。今日、罪を直視しよう。恵みの貴さが味わえるから。


●20(水)
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。         (ルカ6・21)

 「エッ、泣いている人が幸いなんて、どういうこと?」と驚いて聖書を開いたら、イエス様の『平地の説教』(マタイの山上の説教の並行箇所)のカ所だった。全く貧しくさせられ、生きる支えが自分の中に何も無い人は、神にのみ頼って、そこで神様から恵みを受け取る人になると言うのだ。
委ねるしかない人が、恵みの最も近くにいる。自分の非力を見詰めて、手を主に挙げよう。「主よ、主よ」と生きよう。そこで賜る恵みに、笑みがこぼれるから。


●21(木)昇天日
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。   (1ヨハ2・17)

 「世にあるものを愛するな、欲するな」と戒められる。なぜなら世にあるものは、全てはかなく過ぎ去って、消えるものだから、と。ならば何を求めて生きるのか。それが、神の御心・神の言葉を生きることなのだ。それは、永遠の命に繋がる道。
 2つの道が目の前にある。自分の欲が望む道と、神が望まれる道。今日という一日も、その選択の連続だ。踏み出す道を見誤るな。祈りつつ、考えて、選べ。

●22(金)
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。  (使2・32)

 イエス様の十字架の死とご復活を語るペトロの説教での言葉だ。その中で「このイエスを」と言われた「この」って「どの?」と思って聖書を読んだら、旧約の時代から神によって告知されていた救い主の到来のことだった。預言が、「このイエス」に成就したのだと言われていたのだ。
 私もずっと救いを望んで来た。その救い主の到来が、あなたにも来たよと告げられる。改めて「私の救い主よ、イエス様!」と仰ごう。望みの実現がここにあるから。


●23(土)
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。    (ルカ12・33)

 イエス様が「思い悩むな」と語られる話しの中にある一つだ。財産への思い悩みについて、驚くことに、まず「売り払って施せ」と。自分のためでなく隣人のために使ったら、天に財産を蓄えたことになるから、と。その宝は誰も盗めないから、と。
 人は老い先も豊かでいたくて蓄えるのだろう。でも主はそのやり方は「思い悩みを蓄えているだけ」と言われる。隣人を愛したら、そこに豊かさは溢れるからと。神と人を愛する、人生そこに尽きるのかな。


●24(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。   (使12・5)
 

 ヘロデ王はヤコブを殺し、ペトロも投獄した。この危機を前にして、教会は祈ったのだ。打倒ヘロデに、拳を挙げて決起したのではなく、神に委ねて祈ったのだ。
 教会は、信徒たちで埋め尽くされていただろう。大音声だったか、静寂だったかは分からない。でも思いは一つとなって主に向かっていた。そこに神の御業が起こったのだ。祈りこそ武器だ。神の武具だ。


●26(火)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。    (コロ3・8)

 不従順な者として歩んで来た生き方を、「捨てよ」と言われる。神の怒りがあるからだ、と。そして、その生き様のこれらだと示されたのが、今朝のみ言葉だ。
 一つひとつを見て考えた。「どれもが、心の奥にいつもへばりついていて、私の心と一体になっているものばかりだ」と。あっ、と気付いた。「これらを捨てることは、結局私を捨てること。古い私を脱ぎ捨てることなのかも」と。新しい私に、日々新しくされねばならないんだ。


●27(水)
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」   (ヨハ6・9) 

 男だけで5千人の大集会に、集めた食料はごく少し。そこで弟子が主に言ったのだ。「どうしようもないでしょ」、と。
 目で見た物を常識的に判断して生きる方法がある。でも信仰の生き方は、そこにはない。微塵もない! 信仰生活とは、まずイエス様に「私はどうしたら良いですか」と祈って、聞いて、従う生き方。私の心よ、そちらを選択するんだ、今日も!


●28(木)
わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。    (ルカ10・16)

 イエス様が弟子たちを教えて、悔い改めない町の人々のことをこのように言われたのだ。「私の言葉を拒むのは、父である神ご自身を拒む者なのだ。神を拒んで軽い罰で済むはずがないぞ」と。
 主の言葉(聖書の御言葉)と、自分の常識が持っている言葉・生き方とを、天秤に掛けている場合じゃない。むさぼるように御言葉を探して、自分のものにしなければ。神様から「お前は私を拒む者」と烙印を押されるなんて絶対イヤだから。


●29(金)
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベタイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。  (マコ1・20)

 十二弟子のゼベタイの子ヤコブとヨハネを呼ばれた時、立ち上がった二人は財産も地位も家も失ってしまった。それでもイエス様に従う方を喜んだのだ。
 主は彼らを招く時、彼らが一切を捨てると信頼しておられたのだろうか。もしかしたら彼らの決意というよりも、主が彼らを信頼されるお心が一途だったのかも知れない。主に呼ばれた全てのキリスト者には、それと同じ信頼が寄せられている!


●30(土)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。   (2テモ1・7)

 福音を伝えるために、キリスト者は苦しみを負うことになる。しかしその者にこそ神の力が降る。聖霊が降るのだ。「臆病になるな、分別を備えよ。愛を持て。その全てを、聖霊が与えてくれるから」と。
 神の力であり、神ご自身である聖霊がキリスト者に降った。それは、私にも。そしてそれは、神の目的を果たすためにだ。主を証し、福音を伝えるには勇気がいるから。主よ、私の小さな口をも用い給え。


●31(日)聖霊降臨日

ペンテコステ礼拝説教

         辻川篤牧師

    礼拝後、ペンテコステ祝会予定

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:35| 『日々の聖句』

2020年04月30日

『日々の聖句』2020年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年4月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(水)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した。    (1ヨハ4・10)

聖書を開いたら、「神は、独り子を世にお遣わしになりました」と告げられ、「ここに神の愛が示されました」と断言され、そして今日のみ言葉が告げられるのだ。そればかりでなく、この後には「ですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と続くのだ。
私の周りは、なんと「愛」で満ちている世界なのか。それこそが本来の世界の姿なんだ。愛されている私、だから隣人も愛して生きよう。今日、この世界で!


●2(木)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。    (2コリ12・10)

 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主から受け取った後に、今日のパウロの告白は続く。彼の確信は堅い。この通りの信仰体験をして来たからだ。全て託した時、神の御業を体験して来たのだ。
 自分を明け渡した時のみ恵みを得る。それ以外の場所ではない。神からの恵みと、自分の願望成就とは別物なんだ。


●3(金)
あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。   (エフェ2・13)

 「誰と誰が近くなったの?」と思って、この箇所を開いたら、犬猿の仲だったユダヤ人と異邦人だった。そして、彼らを結び付けた絆が、キリストの十字架での血潮によるのだと告げられていたのだ。
 結びつくはずのない人と思う人が、キリストの血によって結び付けられた。ならば信仰者同士の仲違いは、あってはならない。主の血を軽んじることだから。


●4(土)
主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。   (2コリ8・21)

パウロ自身が、「公明正大にふるまおうと心がけている」という。清廉潔白な彼なのに何故なお「公明正大に」というのか。
前後の文脈を見て、募金の話しをしていると分かった。彼は、お金の恐さを知っている。教会でも、人と人との間に簡単に不信感を作り出すのがお金だから。お金は魔物ともなると、知っているのだ。
私も、受洗準備や転入会者にお願いすることがある「教会でお金の貸し借りはしないで」と。魔物の姿を知っているから。


●5(日)棕櫚の主日・受難週

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
あなたはもはや奴隷ではなく、子です。         (ガラ4・7)

 あなた方は今まで、この世のあらゆる欲の奴隷だった、と御言葉は示す。でも今日の御言葉は、今はそうじゃないんだと宣言する。今は、もはや父なる神からあらゆる恵みをいただける子どもとされたのだ、と。神の子なのだと。
 子であるってスゴイと改めて思う。それは、親の財産の相続人と認知されていることだから。恩恵の正式な受取人なのだから。それも、その親が「父なる神」だなんて。ボクはどれほど恵まれているんだろう。どれほど愛されているんだろう。感謝。


●7(火)
わたちたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。   (2コリ5・1)

 地上の命を育むこの身体は、いつかは老いて滅びる日が来る。でも洗礼者の目は、さらにその向こうにある日々へと向かうのだ。天の住まいでの命を知っているから。
 もはや死は滅びではない。天の住まいへの引っ越しなのだ。それは地上のマンション、億ションよりもはるかに願わしい家。その住民券をすでに手にしているのだ。死よ、お前の勝利はどこにあるのか!


●8(水)
イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。   (ルカ7・50)

 罪深い女がイエス様に近づき、涙で足を濡らして髪で拭い、高価な香油を塗った。それを見たファリサイ派の人々が、罪人が紛れ込んだことに憤る。しかし主は、この女の愛の大きさは救われたことの大きさだ、と言われたのだ。そして、この御言葉のように、救いの宣言をなさった。
 イエス様を深く愛したのは罪人。必死に近づいたのは罪人。そして祝福されるのも罪人だ。主の救いは、罪人のための贈り物なのだ。この女のあとに続こう。


●9(木)洗足の木曜日
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。   (ヤコ2・12)

 人を激しく裁いている時、自分は正義の側に立っていると思っている。だから激高してもしまう。でも御言葉は「同じ憤りによって、あなた自身が、真の義なる方・神によって裁かれるのだぞ」と告げているのだ。お前自身気をつけろ、と。
 そこに御言葉は続く「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下ります。憐れみは裁きに打ち勝つ」と。どう語り、またふるまうか「分かった」と思った。


●10(金)受難日
どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。         (エフェ6・18)

 悪に対抗するために神の武具を身につけて強く生きよと勧められる文脈で、この御言葉が告げられる。闘うためのキーワードが、「祈ること」と告げられている。
 主ご自身も十字架の時を前にして、ゲッセマネの園で御父に祈られたじゃないか。祈りという対話がなければ、闘いは孤軍となるから。いわんや弱い私は、祈らずして一歩たりとも進め得ようか!


●11(土)
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。   (1コリ10・23)

 コリントの教会の中で、互いの行動を批判する分派を作って争い合っていた。その双方に向けて言うのだ「何を言っても、何をしても良い。しかしお前のその行動は、何の益になるのだ。相手にも自分にも無益だ」と。それから彼らを導く言葉を加えた「だれでも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」と。
 ハッとした。今日どう生きれば良いかが分かったから。「あなたの利益のため」と、全ての思いを込めて過ごそう。


●12(日)復活日

イースター礼拝説教

               辻川篤牧師


  (祝会だけ延期、ペンテコステに合流)


●13(月)
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」         (ヨハ4・26)
   

 罪の女にイエス様が「魂が渇いているだろ、私が与える水を飲め。永遠に渇かない水だから」と語りかける。女は「そのような救い主が来ると知ってはいますが」と言った時、主が言われたのがこの言葉だ。
 私も救いを求め、渇くことのない水を求める。そのとき私にも主は言われる「あなたが聖書を開いた時、それが救いの言葉だよ。渇かない水だよ」と。救い主よ、あなたはこんなに近くにおられたのですね。


●14(火)
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください       (ルカ15・19)

 生前遺産分与を父に強要した息子が、そのお金を使い果たした後、家に帰ろうと思った。そのとき言い訳の計画を立てて「こう言えば・・・」と思った言葉がこれだ。追い詰められてなお自分の作戦を立てる放蕩息子。でもこのあと、条件なしで赦す父が待っていることを知るのだ。
 私は「放蕩息子の帰還」の譬えが大好き。追い詰められて言い訳なのに、その心配さえ無用にさせる天の父のお心が見えるから。赦しに、神の愛が見えるから。


●15(水)
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」       (マコ14・31)

 このように言い張ったペトロは、この後イエス様が裁判にかけられている場面で、「そんな人は知らない」と否認してしまう。
 イエス様の仲間と思われるのが怖くなるペトロ。「ボクもその状況になったら彼のようになる」と思いつつハッとした。「暢気だ」と気付いたから。死の危機がなくても、日常生活の中でイエス様から離れて自分中心になる。ペトロよりもたちが悪い。


●16(木)
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。   (1ペト5・6)

 高慢を打ち砕き、謙遜に生きることを求められる。しかしこれは、単なる慎み深い人になることの勧めじゃない。この世でも、そんな修身話はいくらでもあるから。
 何が違うのか! それは「神の力強い御手の下で」という一点。神の御手の下に自分を明け渡して全面降伏するということ。そうすれば神が最善をなさると信頼すること。そこに身を鎮めることが真の謙遜なのだ。これは神信頼の話なんだ。


●17(金)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。   (コロ1・15)

 父なる神は人間の目に見えないが、御子イエス様は降誕されて目に見えるお方となって下さった。御子によって、見えない神が見える姿となったのだと告げる。
さらに、神が天地創造の前からおられたように、三位一体の御子も、そこに同時におられた「先在の主」だと告げられている。これに「イエス様は2千年前にお生まれになったんじゃないの?」と驚く人は多い。実は私も、神学校に行く前はそうだった。誰にも言えない内緒の話し・・・


●18(土)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。   (ヨハ4・14)

 姦淫の罪を重ねたサマリアの女に告げられたイエス様の招きの一言だ。渇かない命の水、心も魂も潤す水を飲め、と。
 渇きを覚える日もある。でもその傍に水が無いから渇くのじゃない。生ける水である主ご自身は傍におられ、御言葉の水を与えて下さる。それを飲めば良い。それなのに、だ。私が渇くのは、受けたはずの手の指の間から、命の水をこぼしているから。ジャージャーと落として、手に残っていない。そうだ、自分で捨てていたのかも。ギュッと御言葉を握って生きていたい。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。     (使18・9〜10)

 異邦人伝道の旅をするパウロ。フィリピで投獄され、テサロニケで騒動に巻き込まれ、アテネであざ笑われ、コリントの町に来た。困難があっても伝道に邁進するパウロ。しかし、その意欲は、単に彼自身の意志の力強さではなかった。主の「語り続けよ」との御声に従ったゆえであった。
 彼は、ただ主に従う僕であったのだ。そこで成し遂げる力をもいただいていた。進む道も拓かれたのだ。私も主の僕、御言葉が「成せ」と言われる道を行かん。


●21(火)昇天日
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。    (ルカ5・5)

 漁師ペトロが、プロとしての経験上すべての術を駆使して漁をしたが、一匹も獲れなかった。もう陽が昇って漁をする時は過ぎたのに、イエス様が来て、網を降ろせと言う。その非常識な言葉に、ペトロは何故なのか聞き従う。そこに神の奇跡を経験することが起こったのだ。
 私も「主よ、あなたのお言葉ですから、おっしゃる通りにしてみます」と今日を生きてみよう。自分では非常識と思えても御言葉に賭けよう。そこに起こることこそ神の業。私もそこに生きていたいから。


●22(水)
神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。     (ロマ8・31)

 神が私の側について敵と闘って下さる。その敵とは、聖書を開いたら「罪、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」と、あらゆるものが数え挙げられていた。
 今日という日にも、私の前方に敵が立つのかも。しかしその時も己に言わん「ひるむなかれ」と。私は勝利の道を歩めるのだから。私の先陣に神が立たれ、私の横に神がおられ、私のしんがりを神が守って下さるから。「敵」を見て恐れず、「神」をこそ見て安心の中を進軍したい。


●23(木)
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。      (マタ5・22)

 山上の垂訓で、「腹を立てる者」への勧告が記されている。律法では「目には目を、歯には歯を」という基本が許されていたが、イエス様はそれを越えて、一切腹を立てるなと言われる。それは、仲直りすること、和解することへの激しい勧めだ。
 あっそうか。仲直りも和解も、「愛して生きよう」と思ったら、そこに起こる当然の思い。そこで律法を超えるのだ。隣人関係の全ての軸足が定まった気がした。


●24(金)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。   (ルカ6・37)

 これに続けて「赦しなさい。そうすれば、あなたも赦される」「与えなさい。そうすれば、あなたも与えられる」と主は言っておられた。
 いつも「罪人の私を赦して下さい」と祈って「恵みを与えて下さい」とすがって来た。でも今日分かった。その鍵は私が握っていた、と。今まで私がドアの鍵を閉めていたのだ。私が隣人を赦して与える人になれば良い。さあ、赦しと恵みの扉を開こう。


●25(土)
人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。     (使9・35)

 アイネアUそれはペトロに癒された人。8年間も中風で苦しんでいたが、「キリストがいやしてくださる、起きよ」との招きに、委ねてすぐに従ったから。その姿を見た人が、今キリストが生きて働かれると信じたのだ。そして我も我もと主に立ち帰った。
信じることが伝染する。それって、良いな。主が今ここに居て下さる、委ねたらどんなに凄いことが起こるのか、それが伝わって欲しい人が私の傍にも居る。そのためには私がまず立ち帰らなきゃ。口ばかりでなく、生活丸ごと立ち帰らなきゃ。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。   (ヤコ2・13)

 「自分は義しい」と思っている人が、他者を裁いた。律法を掲げて攻撃した。しかしその人に向けて告げられる「お前には神の厳しい裁きがある。憐れみを失った者には、神も憐れみをかけないから」と。
 人を裁くことを簡単にしてしまう。心で裁き、口に出て、行動にまで。人を愛することをすぐ忘れる。罪人は正に私。その私に慰めの言葉が聞こえた「憐れみは裁きに勝つから、今日こそ方向転換だ」と。


●28(火)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。   (1テモ6・11)

 信仰の戦いがあるぞと迫る。敵はあなたの内にある欲望で、それがあなたを破滅に陥れると告げられる。その闘いに勝つために、6つの項目が掲げられたのだ。
 なんだか6つの中心に、「信仰」と「愛」が光っているように見えて来る。そうだ!自己中心の欲望に溺れて破滅に転ぶ前に、「聖書を開こう」と思った。そのどこを切っても、信仰と愛が語られているから。それが私を、破滅の道に入るのをとどまらせるから。そうさ!聖書を開こう。


●29(水・祝日)
キリストはすべての支配や権威の頭です。      (コロ2・10)

 あなたがたは人間の言い伝えにすぎない慣習に従うことなく、キリストに結ばれた者として歩めと告げられる。それは、キリストこそあらゆる支配、あらゆる権威の上に立つ王の中の王であるから、と。そのお方を頭として戴けば良いのだから。
 圧倒的な導き手が、私の前を行かれる。そのお方が、今日私に呼びかける「来た、あなたの頭として。それで良いか」と。あるじの席に自分が座り込むことから飛び退いて、キリストを迎えよう「わが真の王は、他の誰あろうあなたのみ」と。


●30(木)
互いに平和に過ごしなさい。    (1テサ5・13)

 テサロニケの教会に向けた手紙で、最後に締めくくりの言葉が書かれてゆく。その中のキーワードの一つがこれだ。このほかにも「愛をもって尊敬し合う」「励まし助ける」「忍耐強く接する」などだ。
 もう分かっているし、聞いてると思う言葉が並んでいる。でも何も守れていないのかもしれない。知っていることと、その通りに生きることの間には、深い溝があるんだ。今日こそ渡らねば、今こそ飛び越えなきゃ。そうしないと、いつまでも変われないから。そんなの嫌だから。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 20:12| 『日々の聖句』

2020年03月31日

『日々の聖句』2020年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年3月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
心は燃えても、肉体は弱い。    (マタ26・41)

 十字架につけられる前夜、ゲッセマネで悶えつつ祈られるイエス様。その傍らで弟子は一人も起きていない。一人も祈っていいなかった。それを見て「一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」と嘆きつつ、続けられた言葉がこれだ。喝を入れられたのだろうか、深い嘆きか。
 「お前は一時も私と祈っていない」と、御言葉が突き刺さる。願い事しかしない祈り、心が伴わない形式的な祈り・・・それらは主が共にいない祈りだ。祈りにおける惰眠は、誘惑に陥る入り口なのに。


●3(火)
神は、・・・あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。    (2コリ9・8)

 コリントの人々に献金を募る。惜しまず与える人になれと、勧告しながら。でもその直後に、あなたの献げた手に、神が更に恵みを満ち溢れさせるほど入れて下さるから、と言ったのが今日の御言葉だ。
 献げる人の手は空にならない。多く献げてもなお溢れて来る。それは神の奇跡の補充! 一度経験しなきゃ。いや一度じゃ勿体ない。生涯、神の業を味いたい。


●4(水)
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。   (ロマ6・14)

 キリストと共に生きるということは、私の罪の償いのために身代わりに命を捨てたイエス様と結ばれて生きるということ。もはや罪の支配下に居ないのだ。もはや恵みの真下に立つのだ。御言葉は、それにふさわしく「生きよ」と語りかける。
 イエス様の十字架の死を無駄にするまい。あなたに所属する者として、恵みの直下を晴れ晴れ歩きます。誰から見られても、あなたを愛している者と分かるように、十字架を誇って、今日を生きます!


●5(木)
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。    (ヨハ12・36)

 ユダヤの当局者たちがイエス様を殺す計画を進めている。その中で、ご自分も十字架の死を覚悟してゆかれる。それでも群衆は、何も悟ろうとしない。その人々に向けて、主が言われたのがこの言葉だ。
まるで「光である私を信じてくれ、あなたと一緒に居る間に信じる者となっておくれ。もうすぐあなたの傍にはいられなくなるのだから」と叫ぶ声に聞こえる。まるで「お前を失いたくない、早く私の所に来るのだ」と必死に招く声に聞こえて来た。


●6(金)
罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。     (ルカ7・49)

 罪深い女がイエス様に近寄り、涙で御足を濡らし、髪の毛で拭い香油を塗った。その女の心を見て、イエス様が「あなたの罪は赦された」と言った時、同席の人が動揺して今日の言葉を言ったのだ。罪の赦しは、神のみが出来ることだったから。
 この時の人々の問いは、真実を射抜いている。罪を赦したイエス様こそ、まことに神の御子だから。あとはそれを受け入れるだけで良い。そうすれば目の前の方が、救い主となるのだから。皆気付いてはいる。でも次の一歩で、生死が分かたれる。


●7(土)
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。    (1ペト3・18)

 「罪のため」とは、人々の罪のために。いや、私の罪のためということ。「ただ一度苦しまれた」とは、私の罪の身代わりに十字架で死なれた苦しみだ。正しい方・イエス様が、正しくない者・罪人の私のために死なれたと、今日の御言葉は告げる。
 淡々と語れているが、尋常ではないことが告げられている。淡々と聞き流すまい。頭の中で受け取るまい。神が死なれたのだ! 私の心の中心で受け取らねば。


8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●9(月)
あなたが信じたとおりになるように。    (マタ8・13)

百人隊長の僕が中風に苦しんでいた。そこで隊長がイエス様に癒しを懇願する。それも、遠くから、一言治るように命じて下さるだけで充分ですからと。その信仰を見てイエス様が言われたのがこの言葉だ。そして僕は癒された。
「自分が信じたとおりになる」ってすごい。でもそれは、自分が願った通りになるという自己中心の話じゃない。私の願いが御心と重ならねば。もしかして信じるとは「私の願いは、あなたの願いが成ること」と祈ること。ふむ、禅問答のようだ。


●10(火)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。    (1テモ2・4)

 パウロが「信仰によるまことの子」と愛したテモテに、励ましの手紙を書き送る。その中で、為政者のために祈れと勧めた。それはキリスト者が平安に信仰生活を送れるため。いや何よりも先ず、神が彼らの救いを望んでおられるからだ、と。
 私も為政者のために祈ろう。「政治にあたる者が真理と公平をもって御心を行うことが出来るように」と。あ、これは礼拝で祈っている牧会祈祷。そこに心も乗せねば「為政者が救いを知るように」と。


●11(水)
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。   (1テモ1・15)

 イエス様が来られた、十字架で死なれたーその事実をテモテに語り直すパウロ。その出来事の一切は、ただただ罪人のためだったのだ、と。ここに真理があると。
 これは聖餐式のたびに語りかけられる招きの聖句だ。「ああ、私のため、それも罪人の私のため」と信頼し切って、恵みの座に出てぬかずこう。「そのまま受けよ」と私に差し出される十字架の恵みを。


●12(木)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。   (ルカ2・11)

 エルサレムの寂しい郊外で、夜通し羊の番をしていた羊飼いに、天使が神様からの知らせを告げた。良い知らせなど一度も貰ったことがない貧しい人生。そこに、誰も貰ったことのない最高の知らせが届いたのだ。あなたの救い主が生まれたと。
 この知らせは、今日私にも届く知らせ。いや、友人にも家族にも届いている。ただその声の方に、顔を向ければいいのだ。「あなたがたのために」とは「わたしのために」なんだと。気付けばいいのだ。それを伝えなきゃ。あの人に、私の大事な人に。


●13(金)
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。     (1ヨハ4・12)
   

 神は目に見えない。でもヨハネは「見える」と言う。どこで? 人と人とが互いに愛し合う姿においてだ、と。
 私が隣人を愛して重荷を負い、かつ私も隣人に愛されて重荷を負われて生きるなら。神が私の内に生きておられると伝わるんだ。今日、そんな私でありたい。


●14(土)
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。   (ロマ1・16)

 あらゆる人を救う「神の力」がある。何も功績がない人も、貧しくても、神に背いた罪人さえも救う「神の力」がある。ただ「信じたい、信じます」と告白するだけで、神の子とされる「神の力」がある。「福音」にその力がある、と告げられていた。
 神の力って、天変地異の奇跡じゃないんだ。人を罪から救うために注がれる。救いの良い知らせ(福音)そのものが、出来事を起こす。あっ、それこそ奇跡なんだ。


●15(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月)
舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。           (ヤコ3・8)

 ヤコブは、同じ人間の口から神賛美と、隣人への呪いが出ると嘆く。それも一旦口から出た言葉は、人に死をもたらす毒に満ちていると。さらに、そういう舌を制御できる人は一人もいないと言うのだ。
 一体私はどうすれば良いのか。ただ分かることは、自分がその舌の持ち主だと悔いることだ。いや具体的に「申し訳なかった」と隣人に赦しを求めること。毒を出しっ放しにすることこそ、弱さだから。


●17(火)
十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。   (マコ6・7)

 イエス様が、弟子たちを村々に派遣される。神の国の知らせを告げて伝道させるために。そのとき決して一人では行かせられなかった。二人ずつ組にされたのだ。
 私も御用を授かって遣わされる。伝道であったり、奉仕の場であったり。でもそこでのイエス様の思いは「一人で抱えるなよ。必ず二人でするのだよ」ということ。ならば奉仕をするにしても何にしても、まずパートナーを見つけることから始めなきゃ。一人舞台は、御心じゃないんだ。


●18(水)
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべきお方です、アーメン。    (ロマ1・25)

 この御言葉の直前に、あらゆる罪の業が数え挙げられてゆく。その最たるものが、造り主の代わりに造られたものを拝んだことだと言われる。そして今朝の御言葉が宣言されるのだ。これはコッチを見よ、真の造り主を、という強い迫り。同時に、自分の欲、自分の遣り方、自分の腹という偶像を見るなとの迫りでもある。
「コッチへ」の標識を、確かに見た。だから「あなたこそ造り主」という道へハンドルを切らねば。アクセルもその道で踏め。


●19(木)
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。   (ヤコ4・7)

 神に従って生きることと、悪に対抗して歩むことは一対の事。そうすれば悪の誘惑は近づかなくなるからと勧められる。一方だけではダメだ!と。
 御言葉に従いたいという歩みをしているつもりだけれど、一方の足は自分のしたいことをしてしまっている。自己中心という悪の道を、片足は進みたがる。ああ、《片足信仰》だから誘惑が押し寄せ続けるんだ。片足を取られて、ひっくり返るんだ。


●20(金・祝日)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」   (ルカ1・38)

人間の思いの世界では想像することさえできなかった処女マリアの受胎告知。でもマリアは、天使から「神にできないことは何一つない」と聞いた時「お言葉どおり」と受け入れた。理解できたんじゃない、ただ委ねたのだ。
 信じて歩き出すというのは、理解できたとか、学び終えたとか、納得できたとか、そんなこととは別次元にあることかも。
そうだ、信仰は神の世界にあること、委ねる世界にあることなんだ。


●21(土)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。   (エフェ5・21)

 「互いに」というのは妻と夫だ。妻よ、主なる神に仕えるように夫に仕えよ、と。また同時に、夫よ、主が御自分の全てをお与えになったように妻を愛しなさい、と。
 これが命じられるということは、つまりこの通りにできていないからなんだ。神様が、「この通りに生きていないから、家の中に辛さが起こるんだよ」と知っていてくださる。だから招かれる、「この御言葉に足を乗せて生きよ、この通りに生きてご覧、あなたの家に幸が生まれるから」と。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月)
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。         (使2・38)

 聖霊を受けたペトロが、群衆に語り出した。「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、神は救い主となさった」と。それを聞いた人々はざわめき「どうしたら」とうろたえる。そこへペトロが告げたのだ「悔い改めて、赦されよ」と。
 「私が御子を十字架に架けた張本人」と知ることが、救いへの唯一の道。2千年前も、今の私も同じ。それ以外救いの道はない。しかしただそこで、救いは成る!


●24(火)
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。   (ルカ2・47)

 イエス様が少年の頃のこと。神殿で律法の学者たちを相手に問答をした。そのイエス様の言葉に、大人の皆が驚いたのだ。
 「そんなこと当たり前。聖書の言葉なんだから、神の御子が良く知っていて当たり前。だって、御父が命じた律法なのだから」と思って、ハッとした。「正にそうだ。聖書の言葉は神の御心そのものなんだ」と気付き直したから。神の思いがここにある。ここで御心を聴ける。そうやって聖書を開き続けよう。ワクワクして開こう。


●25(水)
愛することのない者は、死にとどまったままです。   (1ヨハ3・14)

 愛弟子ヨハネが語るー主イエスが命を捨ててまであなたを愛したことを知っているだろ。愛そのものを知ったはず。ならば兄弟姉妹を愛せるはずじゃないか。それなのに未だ愛さないのなら、あなたこそ「死」んだまま、つまり「罪」のまみれだ、と。
 愛され、救われた喜びに生きる者は、その姿が生きる姿に現れるのだ。兄弟姉妹を実際に愛する姿になる。自分が受けたことを喜ぶだけで、与えない愛などないのだから。形に現れないない愛はないのだから。形にならない信仰も、実はないのだ。


●26(木)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。   (ヤコ3・6)

 大きな森さえ焼き尽くす小さな火。それが「舌」だと言われている。それは口から出る言葉だ。賛美もする口だが、不義の世界にも属する。だから恐ろしい。
 失敗する人をたくさん見て来た。単に処世術としてではなく神の戒めとして受け止めねば。舌だけでなく、メールで失敗した人もたくさん見て来た。恐ろしい。


●27(金)
わたしたちの本国は天にあります。  (フィリ3・20)

 自分の腹を神として、自分の生活しか考えない人を見つつ、パウロは勧める。あなたはあのような人たちであってはならない、と。あなたはこの世の人ではなく、神の国の人、神の家族の一員なのだから、と。だからふさわしく生きよと勧めるのだ。
 「私の本国は、この世じゃない。国籍は天にある。神の国の人間だ」と自分に言い聞かせるべき日がある。それは、信仰に生きる時に生じる苦難の日。そして、信仰の道を逸れている罪の日も。その日「我が本国は天にあり」と自分に告げよ。


●28(土)
主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。   (ヨハ13・14)

 イエス様が十字架で死なれる前日のこと。弟子たちの前にひざまずいて、奴隷の仕事である〈洗足〉をなさった。しもべの姿となられたのだ。そして「私のようにあなたもしなさい」と言われたのだ。
 イエス様は「私の通りに実行するなら、幸があるよ」と招かれる。私は幸せを求めはするが、見当違いの所で探していたのかも。ここにあるのに。洗足の実行の場に。


●29(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。   (2テモ2・13)

 キリストの立派な兵士として、苦しみを忍び進め、と言われる。そのあなた方の頭であるキリストご自身が、栄光を得させて下さるから、と。キリストの勝利こそ揺るぎない真実だから、と。
 信仰に生きる苦労を抱えているか?それならば、キリストの兵士だ。逆に生きづらさを避けて、この世の流れに身を任せていないか? 身を任せるべきはキリスト、つまり主の御言葉。寄りかかるものを間違えたら、大転倒するぞ。危ないぞ。


●31(火)
むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。   (コロ2・8)

 「だまし事」って何だろうと、聖書を開いたら「人間の言い伝えにすぎない哲学」だった。つまり、十字架の恵みと復活をナンセンスだと片付けるこの世の知識のことだ。その虜にされるな、と警告する。
 「ボクは大丈夫、信じてるから」と思って、ハッとした。「私は騙されない」と思う人が、オレオレ詐欺に引っ掛かるらしい。この世の常識は、信仰という宝を奪い取ろうと身近に忍び寄る。だから、いつも聖書で確認しなきゃ、「この道は、信仰の道か? この世の知識か?」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:00| 『日々の聖句』