2022年01月31日

『日々の聖句』2022年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2022年1月


【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 (2コリ3・16)
二〇二二年の冒頭にこの御言葉が響き渡る。どの方向に向いて歩けばよいかが宣言されているのだ。それはまた、主から目を放して歩いたら、途端に途方に暮れるということかも。
「目を離すわけない」と呟いて、アッと思った。目を離す場所に気付いたから。それは最も身近な場所、自己本位になる場所、自分の主張や常識が出張る場所。いま気付けて良かった。新年からギリギリセーフだな。


●2(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主   日 藤森誠伝道師
(主題聖句の説教です)

●3(月)
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。    (ヤコ4・12)
兄弟を裁いてはならない、という文脈の中にある御言葉だ。「裁いているあなたは、いったい何サマなんだ!」と痛烈に迫って来るのだ。いやそもそも、「お前は人を裁く人間だ。そのことに気付いているのか」と迫られているんだ。
もしも今、ハッとすることが出来たら、今日の歩みは大丈夫かも。「言葉と態度で、裁き人とはならないように」と気を付けられるから。


●4(火)
心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。
(ヨハ14・1)
イエス様に、受難への道が一気に進み出す直前のこと。長い「告別説教」を弟子たちに語り出された。その冒頭にあるのがこの御言葉だ「心を騒がせないで良いよ」と。
ボクの人生の中にも、「大変なことになる」と思ってアタフタする時が来る。その日、主はこの御言葉ボクの心の中にも響かせて下さる「心を騒がせないで、わたしを信じたら良いからね」と。今日格別の御言葉を握った。


●5(水)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)
愛のイエス様なのに「怒った」なんて、どうして? 聖書を見て、そのわけが分かった。人々が、自分の常識や慣習ばかり大事にして、目の前の悲しみの人を愛せなかったから。愛せない、愛さないというのは、主の目には腹立たしいほどのことなのだ。
ボクも主を怒らせているかも。今日の言動を、心の底から変えなきゃ。「かたくなな者よ」と主を嘆かせる前に。そうだ、ボクが変わらなきゃ。


●6(木)
一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使2・4)
聖霊降臨の日の出来事だ。弟子たちは、主の言葉と、十字架の出来事の証言を、世界中の言葉で語り出した。世界の人々が、聞いて、信じて、救われるために。伝道の歴史が、聖霊降臨の日、ここに始動したんだ。
「よーし、私も続け」と意気込んで「待て、祈らなきゃ」と思った。それは「霊が語らせるままに」の一言が目に入ったから。「私の口を、ただ聖霊さまの道具とし給え」と、思ったから。


●7(金)
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
   (1コリ15・3)
パウロが、キリストの十字架の死と御復活を語り始める前に、今朝の一言を宣言した。それは、十字架と復活は人間が考え出したものじゃないということ。これは目撃者たちの証言だ、ということ。つまり、「最初に出来事があった」という宣言だ。
信仰は、精神論の類ではない。出来事の証言・・・ここにボクの信仰の出発点もある。「イエス様の出来事」という現実に、だ。そこが急所なのだ。


●8(土)
主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。    (ヨハ13・14)
イエス様が死なれる前夜の聖木曜日。これから先、話もしてあげられなくなるんだという中、「忘れないでね」というようにして話されたのが、これだ。互いに足を洗い合うということ。その洗足とは、相手のしもべになること。それが正に主のお姿だった。
「あの人の足なら洗える、この人は嫌だ」などと言うまい。主は、自分を見捨てるペトロの足さえ洗われたのだから。喜んで洗われたのだから。


●9(日)
礼拝説教

主日早天 辻川篤牧師
主   日 藤森誠伝道師


●10(月)
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。    (1ヨハ1・10)
心の内にすぐ「毎日祈っているし、礼拝に行っているし、私は悪人じゃない。確かに罪人だってことは認めるけど、『罪を犯した』と言われたら抗弁したくなる」との思いが巡った。
そんな私の心の中には「神の言葉はない」と言われているんだ。つまり「神がいない。お前は神を追い出しているから」と。ああ、「傲慢の罪を赦して」と祈ることからしか今日を始められない。主と共に歩みたいから。


●11(火)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
(コロ3・12)
私は、父なる神に愛された。受洗の日に、天の御父の子供としていただけたんだ。神の家の子供として、御父の家族にしていただけたんだ。
だから、この世でも、その家の子はその家の子らしく育ってゆくように、天の家の子は天の家風に染まって育たなきゃ。天の父に似る者として、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容な子に。いつか隣人に、「あの人は天国の家の子だね」って言われるほどにね。


●12(水)
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。  (1コリ1・10)
教会の中にさえ、仲たがいがあった。パウロはその人々に向けて「固く結び合いなさい」と言ったのだ。そのためには「心を一つにし」と。
でもそれって「何に一つになるの?」と考えて、聖書を読み進めて、分かった。私のために御子が死なれたという十字架の出来事にだった。「申し訳い、有難い」と生きるなら、皆がそこに思いを寄せたなら、そこで一つになれる。その一点以外に無し。


●13(木)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
     (ヤコ3・6)
私は多くの失敗を口から出る言葉によって、しでかして来た。「自分はこんな性分だから」とか「周りも分かってくれているから」とか言っていられない。傷ついている人がいるから。
今朝改めて、単なる失敗で終われないと気付かされる。舌が、私を汚し、人生を焼き尽くし、私自身を地獄の火で燃やすのだ、と言われていたから。「恐い」と思って舌を制しなきゃ。それも、今すぐからだ。


●14(金)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
(2テモ2・13)
「キリストの立派な兵士として、苦しみを忍べ」と、パウロがテモテに語りかけた。「あなたが従ってゆくキリストは、真実なお方だから委ねて進め」と言うのだ。今朝、その勧めはそのまま私への言葉として届いて来る。
この世の現実で、御言葉に従うなんて「無理」とか「損をする」とか「非常識だ」と思える場面に出遭う。その時にこそ、今日の御言葉を握ろう。ボクも主の兵士・キリスト者だから。


●15(土)
一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使2・4)
聖霊降臨の日の出来事だ。弟子たちは、主の言葉と、十字架の出来事の証言を、世界中の言葉で語り出した。世界の人々が、聞いて、信じて、救われるために。伝道の歴史が、聖霊降臨の日、ここに始動したんだ。
「よーし、私も続け」と意気込んで「待て、祈らなきゃ」と思った。それは「霊が語らせるままに」の一言が目に入ったから。「私の口を、ただ聖霊さまの道具とし給え」と、思ったから。


●16(日)
礼拝説教

主日早天 辻川篤牧師
主   日 西田恵一郎牧師


●17(月)
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された
 (使2・23)
聖霊に満ちたペトロが長い説教を始めた。それは、イエス様の十字架の出来事についての話であった。
人の目から見たら、イエス様の死は敗北にしか見えない。でもそれが全て、神の計画だったと告げるのだ。そこを通り抜けて復活の勝利が実現したのだ、と。私が弱り切った場所に、イエス様が立たれる。そこで結びついて下さるため。そこから勝利へと連れて行ってくれるため。ああ感謝。


●18(火)
御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
(ヨハ3・35)
洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエス様の周りに人が集まるのを妬む。その様子を見て、ヨハネが「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(三十節)と告げた。その理由が続けて告げられる中に、今朝の言葉もあった。
イエス様に自分を明け渡して、私は陥落しても良いと思った。だって神の全権がイエス様の手にあるんだから。そこに私も握ってもらえたら、そこが安心の場所だと思えたから。


●19(水)
わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
(マタ 5・22 )
私はすぐに腹を立ててしまう。きっとその時「自分にこそ義がある」と思い込んでいるからかも。口に出さなくても、行動に出なくても、その思い自体を御言葉がグサリと突き刺した。思い一つから、悲しい出来事が始まるからだ。大事な人との関係を壊すから。主がそのことを悲しまれる。
「主よ、ボクの心の暴走を止めてください」と祈らねば。隣人との関係の喪失は、喜びの喪失となるから。


●20(木)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。
(ルカ5・10)
漁師のペトロの所にイエス様が訪ねて来られ、最初の弟子として招かれた。その呼び掛けは「人を救う漁師となれ」だった。いや、あれ? ちょっと違うかも・・・「漁師となれ」じゃなくて「漁師になる」だ。断言なんだ。
私も様々な奉仕の業に就く。その時主は「この奉仕に仕える人になれ」じゃなくて「仕える人になる」と断言されるんだ。奉仕は選びの業だ。嫌ですと言えないわけが分かったかも。


●21(金)
このように主によってしっかりと立ちなさい。    (フィリ4・1)
「このように」ってどのように? と思って聖書を開いたら、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がお与えになる賞を目指して、ひたすら走れ」ということだった。信仰生活の怠惰は、許されないんだ。
でも「しっかりと」という言葉に、親が子を遠くに送り出す時「しっかりね」と励ます声が重なる気がした。信頼され、期待されている。祈ってもいてくれる。そんな温かさも感じた。


●22(土)
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
    (マコ7・14)
イエス様が群衆に教えようとされる前、この一言を言われた。
それは、聞く耳を開かせるため。何となく聞いてちゃいけないんだ。御言葉を聞く時は、いつもこうあらねばならないんだ。頭で知識として聞くのではない。心の奥にまで入れ込んで、自分を御言葉で変革させようとする聞き方でなければ。それが、悟るということだから。日々御言葉によって、改革されて生きるべし、だ。


●23(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主   日 辻川篤牧師


●24(月)
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
(コロ1・17)
世界が創られる前から、御父と一緒に居られたイエス様が、すべてのものを支えていて下さる。そのイエス様のことをボクは知っている。弱く貧しい者、罪人に寄り添われた神だと。
そのお方が神として、世界の終わるまで、ずっと支えて下さるということなんだ。ボクのこの先の人生も、神様にどのように支えられるかが、よく分かる。イエス様を知ったから。信仰による平安は、リアルな平安なり。


●25(火)
あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
(マコ8・33)
「これをイエス様に言われるなんて、この人は図星に指摘されたんだろうなぁ・・・、ボクもこんな時あるから気を付けなきゃね」とか、のん気に考えていて、聖書を開いたとき一瞬で緊張が走った。「サタン、引き下がれ」と叱責される場面だったから。
神のことを思わず、自分のことしか考えない。それがサタンなんだと気付いたから。イエス様に敵する者なのだ。のん気に構えてなどいられない。


●26(水)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
 (マコ14・38)
十字架の死へと激しく出来事が進む直前。ゲッセマネの園で祈られる。でも横で弟子たちは眠っていたのだ。その彼らに、この言葉が告げられた。
居眠っていたことに対してだけではないと思う。これから先に起こる十字架の出来事を前にしたら、心は燃えても、体は逃げ出すからだ。その弟子たちを思って「祈るのだよ」と励まして下さったように聞こえた。それは、弱い信仰のボクの心にも届いた。


●27(木)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
(コロ1・15)
父なる神の姿を人が見ることは出来ない。でも御子なる神イエス様に神の姿が在るんだ。それは貧しい姿、寄り添う姿、身代わりに十字架で死なれる姿。それが神のお姿なんだ。
さらに「すべてが造られる前」から居られたのは、天地創造の前に御父と共に居られたということ。クリスマスの日に生まれたんじゃない。三位一体ということが、少し分かった気がした。イエス様を見詰めた時に、ね。


●28(金)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。    (ヨハ4・14)
サマリアの女が、昼間の炎暑下で水汲みに来る。人目を避けて生きるわけがあったから。男を次々に替えて生きている女だったから。その女にイエス様が出会われて、「あなたは渇いているだろ」と目を向けられる。そして、この御言葉を言われたのだ。
自分のせいだと分かっている。それでも心は渇くんだ。その渇きを、批判するのでなく憐れんで下さるのは主のみ。私もあなたの水を飲みたい。


●29(土)
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」    (ルカ1・28)
天使ガブリエルが、処女マリアのところに神の言葉をもって来た。これは『受胎告知』の場面だ。マリアはこれを聞いた時、「何のこと?」と戸惑ってしまう。人知では考えられもしない処女受胎が告知されたのだから。でもそれを受け取ってゆくマリア・・・
自分の想いを超えたことなのに、それでも神の計画と受け取る。それこそが「主が共におられる」ことに起こる奇跡だ。恵みそのものなんだ。


●30(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主   日 辻川篤牧師

●31(月)
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
(1ペト3・15)
初代キリスト者たちには、周りに信仰者はいない。この世で、軋轢も、生き辛さもあった。それは、日本で生きるキリスト者と同じだなって思う。
だからこそ今朝の御言葉がリアルに響いて来る。心でいつも主を礼拝し、周りから「どうして一緒のことをしないの?」と問われたら、「ボクは、イエス様に従いたいんだ」と言える言葉と、勇気を備えておこう。そこには、必ず聖霊の助けがあるから。

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2021年12月31日

『日々の聖句』2021年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年12月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。   (ハバ2・20)

 南ユダ王国にバビロン捕囚が起ころうとしている。その時、偶像にすがろうとする者たちもいた。神の民であるにもかかわらず! そういう背信の人々に向けて、預言者ハバククが「災いだ」と告げたのだ。さらにそこに続けて、立ち帰らせるために「主は神殿におられる」と、顔を向き返らせようともしたのだ。
 主なる神に頼ることが出来ない人々。委ねるということが、どういうことかさえ分からない人々。しかし神は、そんな人々なのに、なお呼び求められるのだ。私の前に帰れ、と。


●2(木)
わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。    (エゼ36・27)

 都エルサレムが包囲される預言がなされる中で、その後の回復も語られる。それは、人々が再び主の言葉に従って歩む喜ばしい姿となっているから、ということだった。
 改めて今日、それが人々の回心や努力によって出来ることじゃないって、悟らされる。だって、「主の霊を心の中に置いていただいたから」って言われているから。聖霊が、ボクを光の子として歩める者としてくれる。今日の祈りは決まった、「聖霊よ、来て下さい」だ。


●3(金)
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。    (詩139・1)

 この詩人は、主を賛美している。それは、自分が自分のことを知るよりも、主御自身がご存知でいてくださると喜んでいるのだ。
 「それってどういうこと?」と考えて、そこに在る恵みに気付いた。今まで、自分のことは自分が一番知っていると思っていたけれど、「あなたは自分が思っているよりも、はるかに高価な存在だ」と言ってもらえるということ。人は誰も自分のことを分かってくれないと嘆いていたけど、「私だけはあなたを捕らえ続けているから」と言ってもらえることなんだ。


●4(土)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」        (ヨブ1・9)

 神に従い続けた無垢な人ヨブ。そこにサタンがやって来て神に言った言葉がこれだ。「神様がいっぱい恵みを与えているから、彼は従っているだけじゃないのか。それはやっぱりご利益信心じゃないのか」と。「ご利益をくれない神なら、簡単に神を捨てるに決まっている」と。
 この言葉には、真の恐ろしさがある。「私には図星かも」と揺さぶって来るからだ。ボクは、見える恵みが無い時に、なお神に従えるだろうか。自信など全くない。ああ、小さくて良いから、からし種一粒の信仰が欲しい。


●5(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●6(月)
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」   (サム下12・13)

 ダビデ王が、家臣のウリヤをわざと戦死させ、妻のバト・シェバを奪った。その罪を、主に遣わされたナタンに暴かれた時、ダビデが悔いて言った言葉がこれだ。それは「私は殺人と姦淫を犯しました」という言葉じゃなかった。「主に対して罪を犯した」と告白したのだ。
 「罪」とは、すべて「主なる神への背き」だからだ。社会の法律によって決められた「犯罪」のことじゃない。故に「罪」は、主に対して償われなければならないんだ。この「罪意識」を勘違いしたら、「赦し」の経験も手に出来ない。


●7(火)
あなたは、「自分の手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。     (申8・17)

 奴隷だったエジプトの国から、主によって脱出できた人々が、いよいよヨルダン川を渡って「約束の地」に入ろうとする時、その主を忘れることの無いようにと戒めが告げられた。
 ふと「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と思い浮かんだ。洋の東西変わらないんだなぁと。
でも神様との関係は、恵みの業を忘れちゃいけないよというどころの話じゃない。だってこの御言葉の後に、忘れたら「滅びる」と言われていたから。そして人々はその通りに滅びる。これは、旧約全巻を貫く警告なのかも。


●8(水)
ダビデは主に尋ねた。   (サム上23・10)

 ダビデに、サウル王が命を狙って兵士全員を出陣させた。その時ダビデは、逃げるべきか否かの身の振り方を「主に尋ねた」のだ。
 え、そんなことまで「尋ねるの?」と不思議に思う。緊急事態なのに、自分で決めても良い具体的な事柄なのに・・・と。
 でも「ああ同じだ」とも気付いた。私も「ちょこっと祈りをしていた」と。郵便を出す前に「主よ、お用い下さい」とポストの前でちょこっと祈る。スーパーで「良い買い物ができますように」と、ちょこっと。集会の前に「楽しい時にして下さい」と。生活の全が、主と共にある。


●9(木)
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。   (詩116・12)

 詩人には苦しみがあったけれど「魂の死から、助け出してくださった」と感謝している。そして「感謝です」で終わらない。応答の業へと向かうのだ。「どのように答えようか」と。
 私は「感謝です」で終わっていないだろうか。いや、感謝の祈りさえ忘れている時もある。そんな私も、具体的に神様の恵みに応答できる業を知っていた。それは「献金」だ。「この身を献げても足りないぐらいに感謝しています」と「献身のしるし」として応答できるのだ。献金は、私の喜びの時間、神様との対話の時だ。


●10(金)
主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。   (サム上3・19)

 「彼」とはサムエルのこと。成長してゆく日々に、主が共におられ、サムエルに告げられた言葉は、成し遂げられずに終わるものは「一つたりともなかった」ということだ。
 私たちにも、主の言葉は臨む。それは聖書の御言葉によってだ。それを聖霊さまが一人ひとりの心に、必要な時に、必要な御言葉を届けてくださるのだ。届いた言葉は、「一つたりとも」無にならない。ならば、私たちのすべきことは、「私への御言葉は何ですか」と、しっかり聞き取ること以外に無し!


●11(土)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。   (サム上17・47)

 これは少年ダビデが、巨人ゴリアトに対峙して言い放った言葉だ。CSも幼稚園の子どもたちも、少年ダビデの活躍が大好きだ。
私も胸躍らせてこの物語を聞いて来た。でも大人になった今、ふと思う。私の「ゴリアト」は、目の前にある「困難」かもと。そこでいつも私は、自分の力を振り回そうとする。主を信頼して進むことは、現実での信仰の話なのに。つまり少年ダビデの物語は、単なる勇者物語じゃない。私の生き方を問いただす鏡なのだ。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●13(月)
神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。         (創6・12)

 不穏な空気が漂うように聞こえる文章。そうだ! このあとノアの大洪水が起こって、悪に満ちた大地は水で覆われるのだ。天の御父は地を御覧になった時、どう思われたのだろう。そのお顔、そのお心はどうだったのだろう。今日の箇所の近くの六節に、それが垣間見える一言があった、「心を痛められた」と。
 ふと御父の御顔が、十字架の上の御子イエス様の御顔と重なる気がした。悲しみと苦悶の御顔が・・・。申し訳なさでいっぱいになった。


●14(火)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。  (イザ31・5)

 これは、旧約聖書にいくつも出て来る神の御姿。律法の書の申命記、また文学の詩編、預言書のイザヤ書に出て来る。つまり聖書全般だ。それは、母鷲が大きな翼を広げて、雛を守る姿だ。敵からも困難からさえも、自らの翼の陰に抱え込んで雛を守って下さる姿だ。
 ボクは、この比喩が大好きだ。幼い頃に聞いて、イメージを膨らませて、神様の慈しみを身近に感じて来た。今も、この比喩は、ボクの中の特等席にある。


●15(水)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。   (エレ31・3)

 オオー、神様からの激しく豊かなラブコールだ。誰がこの言葉を受けることができたのか? きっとそれに相応しい人なんだろうなと思って聖書を開いたら。それは、背きのイスラエルの民。でも、悔い改めて、償いを終えて救われた人々だった。
 初めから完璧な人なんていない。「ああ、自分こそ神に背く者」と気付けばいい。そこで回心すればいい。その人に、神様のラブコールは注がれるのだから。主は、悔い改める人をこそ愛されるのだから。


●16(木)
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」   (創4・13)

 弟殺しのカイン。主に「お前は呪われる者となった」と断罪されるのだ。その言葉に震えて応答したのがこの言葉だった。嫉妬に心が奪われている時は、自分のしている罪の重さも気付けない。ただ、主の呼び掛けだけが、犯した罪の重さに気付かせるのかも。
 では、私はどうだ、私への裁きを聞いたか? あ、正に聞いたのだ。それは聖書によって、神が「お前は御子を殺したのだ。お前の罪のゆえに、あの十字架で」と言われた言葉を。だから私も「重すぎて・・・」と悔いねばならない者。


●17(金)
愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。      (箴二九・一一)

 「感情」とは、喜びや愛情もあるけれど、それだけじゃない。逆の怒りや、憎しみや自己主張欲とかも。聖書を開いたら、この箇所の「感情」は、やっぱり悪い思いのことだった。
 怒りの感情を制すべしと、聖書が言う。それは、怒りの感情をさらけ出したら失敗するのが人間だから。その愚かさに誰もが、あっと言う間に陥ってしまうから。「自分は正にそれだ」と知る者が、知恵ある人となるのかも。ブレーキをかけるタイミングを逃さない人でいられるから。そういう大人になりたいな。


●18(土)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。   (サム上2・26)

 後にダビデ王を任職する祭司となるサムエル。「当然、神にも人にも喜ばれる者として育ったよね」とほほえましく読んでいたら、この直前には彼の師である祭司エリの息子たちの横暴が記されていた。彼らの悪はひどく「主は彼らの命を絶とうとしておられた」と。その対比が、ここに示されていることなんだ。
 主の言葉に従うか、否か。それはとんでもなく違う結果に繋がるんだ。神との関係が活き活きとするか、絶たれるかなんだ。必死に御言葉に食らいつけ。それを喜ぶボクになれ!


●19(日)クリスマス礼拝

説教

   主日早天礼拝  辻川篤牧師
   一部礼拝    藤森誠伝道師(ライブ配信)
   二部礼拝    辻川篤牧師
   三部礼拝    藤森誠伝道師


●20(月)
第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。    (創2・2)

 主が天地を創られた七日間のこと。六日で全てを完成され、それらを御覧になって「極めて良い」と満足されたのだ。そしてその次の日を、他の「働き日」と取り分けて、一日を「聖別」されたのだ。それが「安息日」となった。
 「安息日」は、そののち人間に与えられた。文字のニュアンスからすると、「やれやれ一週間の仕事が終わって安堵、一息つこう」という感じ。でも、ちょっと違うぞ、と気付いた。安息日は、他の働き日から取り分け=聖めて大切にする事。だからここに礼拝が始まったんだ。


●21(火)
(モーセは民に言った)「あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」          (申1・31)

 モーセがイスラエルの民に、神から授かった全ての約束事を語り出した。これは正にモーセの遺言にあたる。その中で、何よりもまず神から戴いた恵みを伝えたのだ。それは、出エジプトの救いの出来事という恵み。その中心に当たるのが、今日の御言葉だった。
 神の恵みって何なのか、今日よく分かる。それは、全能の神がボクの父でいて下さるということ。それも慈愛に満ちた父として。ボクをおんぶしてくれる父として。ホッとして、感謝。


●22(水)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。   (創22・1)

 「神からの試練は、どんなことの後にやって来るの?」と思って聖書を開いた。それは、待望の息子イサクが誕生したあと。神に懇願し続けたことが、やっと実った喜びの絶頂にあるあと・・・だった。
 うう・・・どういうことなんだろう。どうして喜びのままの日々が続いてくれないんだろう。「もしかしたら」と考えた。喜びだけでなく、辛いこと苦しいことも神の支配の中にあると経験させるため? より強く折れない神信頼に成長させられるためなのかも。でも・・・、ボクへの試練は、少ない目にして欲しいかも。


●23(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。   (ルカ2・15)

 あれ、どうして今日だけ新約聖書? 確かに自分でくじを引いたのだけど、でもどうしてこの日だけ新約にしたんだろう・・・。もう理由は思い出せないけど(去年の夏に一年分のくじ引きをしてるから)。
 でも、と改めて思った。明日はクリスマス・イヴ。はやる思いで「その出来事を見ようではないか」と自分自身を整えても良いのかも。主のご降誕は、ボクのために起こったんだから。ボクのための出来事、罪人のボクの救いのためにだ。さあ、心の全方向を降誕に向けよう。


●24(金) クリスマス・イヴ
ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」   (サム下12・7)

 ダビデが、忠実な部下のウリヤを最前線に送って戦死させ、妻を横取りした。殺人と姦淫の罪人となったダビデ王。その王に、主に遣わされたナタンが「あなたは姦淫と殺人の罪人がいたらどうするか」と問う。即座に「けしからん、死刑だ」と激怒したダビデ。そのとき「その男はあなただ」とナタンが言ったのだ。
 ボクにもナタンの声が聞こえる「罪人、その男はあなただ。神が激怒しておられるぞ」と。自分の罪には気付かない、気付けない。気付こうとしない深い罪が、私の中にもある。


イヴ礼拝
  第1礼拝説教 藤森誠伝道師
  第2礼拝説教 辻川篤牧師
  第3礼拝説教 藤森誠伝道師(ライブ配信)
 

●25(土)
神はわたしの歩む道を、知っておられるはずだ。   (ヨブ23・10)

 神に従って生きていた「無垢な人」ヨブ。しかし試みに遭って、財産と家族と健康も失った。そこに友人たちが来て「因果応報だ。お前が犯した悪の報いだ」と責め立てる。それに応えたのが、今日の言葉だ。「正しく歩んで来た事は、きっと神ご自身が知っていて下さる」と。
神に全てを知られて、なお胸を張れるヨブにはかなわないと思った。ボクは、むしろ隠したい事ばかりだから・・・。
でも、ボクは罪も見てもらおう。ご覧になるのは、救い主なる神と信じて。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●27(月)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。         (哀3・56)

 預言者は、人々の背信によって亡国となることを嘆いている。その嘆きは、主に向かって「耳を閉ざさないで」という一言となったのだ。主が、自分の叫びに耳を貸さず心も閉ざしておられるように思えたからだろう。
もしかしたら、それが彼の一番の悲しみなのかも知れない。「お前になど、もう関わりたくない」とそっぽを向かれることが、一番辛いことだから。「それ、分かるかも」と思った。神様との関りでも、隣人との関りでも、「耳を閉ざさないで」と叫ぶ日々が、一番苦しいから。


●28(火)
わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。   (エレ31・33)

 背信のゆえ、裁きのバビロン捕囚が始まろうとする前。その苦難の日々が始まる前から、希望が伝えられた。「あなたの未来に希望がある」と。そこに続けて今日の言葉があった。
 「これが何より大事な言葉かも」と思った。神様の言葉を捨てて背信に走った人々。だから、「あなたは愛されていると知ってるよね」と語る律法の言葉が大事なんだ。それを、彼らの心に据えようとされる。それも人々の努力でというのじゃない。主御自身が、だ。そこにもう、愛されてるというお心が溢れている。


●29(水)
(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。   (代下26・16)

 南ユダ王国のウジヤ王は、主の目にかなう正しいことを行って五十二年間も王座にいた祝福された王。その彼が・・・いやその彼も、だ。勢力が増し順風満帆の時につまずいたのだ。
 なぜ? きっと、全て自分の力で出来た事だと勘違いしたから。「神無しで、何でも自分で出来るよ」と、アダムに囁いたサタンが彼の傍にもいたから。そしてそれは、ボクの傍でもささやいて来る。ああ、祈らなきゃ、「誇る者は主を誇れと、生きさせてください」と。


●30(木)
イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。   (士7・2)

 イスラエル十二部族連合を導く士師として、主がギデオンを立てられた。いざ出陣という時に、主は彼に命じられたのだ「兵が多すぎるから減らせ」と。「たったこれだけの人数で、どうして戦えるのか」と思うほどまで、減らせと。その理由が、今日の箇所であった。
 弱い時に強い。主が戦って下さるから。だからボクは「私を強くして」とは祈るまい。「私を弱く貧しくして下さい」と祈ろう。変な奴と思われてもいい、御業によってのみ進むために。


●31(金)
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。         (詩98・1)

 二〇二一年は、コロナ禍のど真ん中を歩いた一年だった。会堂で礼拝をすることが出来なかった日々は、何十日に及んだだろう。
 しかし今朝、それらの日々に区切りをつける御言葉を聞いた。神が言われるのだ「新しい歌を歌いなさい、私があなたがたの想像を超える業を、二〇二二年のために既に成し遂げたから」と。苦労の多かった一年を閉じるに相応しい聖句、神様からの賜物としての御言葉に聞こえる。既に御手によって準備ずみの恵みに信頼して、賛美の歌を歌おう。ハレルヤと。

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2021年11月30日

『日々の聖句』2021年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年11月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。     (イザ30・15)

 ユダ王国が敵国に攻められた時、神がイザヤを通して言われたのがこの言葉だ。それなのに王も人々も、「大樹の陰に入れば大丈夫だ」と、エジプトと同盟を結ぼうとした。神の約束より、自分の遣り方に力があると過信したから。そうやって神を見くびって、自己流に立ったのだ。その結果が亡国と捕囚だった。
 彼らの生き方は、私の生き方と重なる。私も神を見くびって、御言葉よりも自分の経験に従ってしまう。罪の姿は、まるで双子だ。


●2(火)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。  (申6・5)

 モーセが人々に、神の掟を伝える。まず十戒が告げられ、その直後にこの言葉が続くのだ。まるで十戒の中心を貫く言葉だと示すように。また、まるで十戒を守って生きる者の「心」を説くかのように。
 私にも、この一つの心があれば、御言葉に従う生活が日常のあらゆる所に生まれるはず。自分のしたい事を愛するのでなく、ただ主への愛によって生きていきたい。さあ、そのために心の大掃除をしなきゃ。それも自己流では手抜きするから、聖霊に手伝ってもらって、ね。


●3(水・文化の日)
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。     (詩14・2)

 「神などいない」と言う人が地上に溢れ、満ちる時。それでも主は、目を凝らして探して下さるというのだ。くまなく探して下さるのだ「誰か一人でもいいから、私を愛してくれる人、頼ってくれる人はいないのか」と。
 「ああ、ボクがその人になりたい。神の子供として生きたい」と思う。聖霊さま、どうかボクを助けてください。自分の力や決心じゃ、なれないって、もう分かっていますから。神を求める真実な心さえ、主の賜物だということも。


●4(木)
イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、・・・        (申4・1)

 命を得るか、命を失うか、その分かれ道に道標が立っている。それが今朝の御言葉だ。
 それもこれは、肉体の生命の話だけじゃない。心と身体と魂の話。つまり私という存在の話がされているんだ。私が人生を、活き活きと生きられるかどうかの話なんだ。
 さあ、道標は既にある。それを見ることもできる。そのあとにこの道標に従うのか、無視するのかは私の決意にかかっている。いざ、ハンドルを、「従う」という方へ切れ!


●5(金)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。    (ヨシュ1・9)

 主なる神が、モーセの後継者としてヨシュアを選び、彼に語りかけられた。
 きっとヨシュアは、「大預言者モーセを継ぐなんて自分にできるのだろうか」と、戸惑ったはずだ。「神に背き続ける頑なな民なのに、どうやって率いていけるというのか」と不安になったはずだ。しかし、それらの思いを一気に吹き飛ばすのが、今朝の神様からの約束なのだ。「共にいるから」と。
 この御言葉が、今朝一人ひとりに語られている。私たちにも。さあ、出掛けよう!


●6(土)
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」       (創22・7)

 アブラハムが神から試みによって、愛息子を焼き尽くす献げ物とするため、山へ向かう。その道中で、イサクから問われた「お父さん、犠牲の小羊はどこ? ぼくじゃないよね」と。
 試練の意味が分からない時、悶々とする中で起こる問いが、これかも。つまり「この試みの意味は何?」と。そこで神からの答えは聞けない。ただ黙々と行くか、それとも逃げ出すか。決め手は、「主に従うか否か」だ。あ、全ての試練の意味は、ここかも知れない!


●7(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●8(月)
主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。   (ヨエ2・23)

 背きによってバビロン捕囚が起こる前。主の怒りの日が来ることが、ヨエルによって伝えられる。しかしそれと同時に、主の慈しみが伝えられていた。それは「悔い改めて、立ち帰れ」という呼び掛け。そこに恵みの雨も待っているし、豊かな未来も待っているから、と。
 「立ち帰るか、否か」が、「滅びか、恵か」の分岐点にあること。決断するのは、私自身なのだ。恵みが無いと嘆く前に、自分の決断を総点検しなきゃ。旧約には、その選択を間違えた人間の姿が満ちている。真似てなるまい。


●9(火)
彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける。    (イザ29・21)

 災いをもたらす者は、「言葉をもって」陥れようとして来る。刀や軍馬ではない。言葉によって傷つけようと迫る。
 なんだか恐いな、と思った。だって、私たちの周りには、軍馬は迫っていないけれど、言葉は溢れているから。だから、どの言葉に聴くべきかに、細心の注意がいる。一体どうしたらいいんだろう。そうだ、まず正しい言葉に耳慣れすることだ。そうしたら、取捨選択出来るようになるから。その言葉が、御言葉なんだな。


●10(水)
「なぜサラは笑ったのか。・・・主に不可能なことがあろうか。」    (創18・13〜14)

 年老いたサラに、主の使いが「来年、男の子が生まれる」と伝えた。そのときサラは、「そんなこと、いくら神様でも無理だ、非常識だ」と思って、秘かに笑ったのだ。自分の尺度で、神の言葉を計ったから。
この笑いは、赦されるのか! この笑いは、罪ではないのか。神の全能を笑ったのだから。 それでも、主の使いは、「主に不可能なことはない」というだけで、息子イサクが生まれる。
 神様の約束の言葉は、人間の不信心で取り消されたりしないんだ。恵みは罪を覆うんだ。


●11(木)
あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。  (エレ15・16)

 預言者エレミヤが人々に主の言葉を伝えても、誰からも顧みられず、むしろ黙らせようと命さえ狙われる。主の御用をしたのに受ける苦しみと辱めの中で、彼は神に向かって叫んだのだ。その時、神の前で自分とは何者かを言い表したのが、今朝の言葉だった。
 ボクも、ただ御言葉にのみ頼る者でありたい。「三度の飯より御言葉をむさぼり食べる!」。抽象的に言っているのではなく、神の御言葉に心から聴従したいのだ。それこそが、ボクを真に養うものとなるから。


●12(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家    (申6・11)

 「オ、なんだこの『家』は?」と思って聖書を開いたら、エジプト脱出後に神の民が得ることができた「乳と蜜の流れる土地」での豊かな生活のことだった。
 この『家』は、イスラエルの民のことだけじゃない。これは、私たちの家でもある。そこに今たとえ苦労や貧しさがあったとしても、まず全てを整えたのは自力じゃない。ただ主なる神の慈しみ。それを信じるなら、これからも神様が計画し満たして下さると、委ねられる。
来し方を振り返って握る信仰は、行く先の未来を安心して進む信仰につながるんだ。


●13(土)
見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。    (イザ12・2)

 捕囚の先にやって来る救いの日の恵みを、イザヤが人々に告げた。それは「都に帰還できるよ」という知らせ。「その時、あなたはこう言うであろう」と告げられたのが、この御言葉だ。
 なんて力強い言葉なんだろう。でもこの言葉は、これから来る苦難を乗り越えた先に言える言葉。それをもう知らされているということ。アッと思った。この言葉を神の約束として握って苦難を過ごすなら、そこで正に力を得る。私たちもコロナ禍の日々を、この言葉を握って進まん。そう思ったら力が湧いて来た。


●14(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●15(月)
(主の御使いが言った)「あなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。」     (士2・2)

 イスラエル十二部族が、カナンの地に入り、その土地を得た。しかし人々は、土地の神々の祭壇をそのままに放置したのだ。後にそれが彼らを罪に招く罠となるとも知らず。
 あらかじめ人間の弱さを知っておられる神は「これをしちゃダメだよ」と言ってくださる。でも人はそれをいい加減にしか聞けない。「こんなことぐらいは大丈夫だろう」と高を括る。人は、自分の弱ささえ知っていないんだ。あ、人は、じゃない、ボクは、と言うべきだった。


●16(火)
その人は流れのほとりに植えられた木。         (詩1・3)

 詩編全一五〇編へ招き入れる扉とも言うべき第一編。そこには、主の教えに従う者の幸と、逆らう者の虚しさが歌われている。今朝の一言は、言うに及ばず、従う者への祝福だ。
 とうとうと流れる川のほとり、その小高い土手に青々と茂る木が、枝葉をそよ風に揺すられながら、陽の光に照らされてきらめいている・・・。そんな情景が目に浮かんだ。そして、この御言葉が、そういう人生への招きとして聞こえて来た。「さあ、豊かな人生を生きるんだよ」と、父なる神が呼び掛けていて下さる。そっちの方を選んで生きたい。迷い出さずに。


●17(水)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない。    (イザ54・10)

 バビロン捕囚後のユダヤの民への恵みを、イザヤが伝えた。
 苦しみの日々は、誰の人生にもやって来る。たとえその苦しみが、試練であろうと、罪に対する懲らしめであろうと、理不尽と思える災害であろうとも。しかし、そこで一つのことは確かなのだ。それが今日の神の約束だ。見捨てられず、必ず慈しみを味わう日が来るということ。苦難がないことが恵みじゃなく、慈しみが離れないことが恵みなのですね。


●18(木)
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。    (詩23・2〜3)

 あ、これは、大好きな御言葉「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」に続く御言葉だ。「ボクはこの羊、水も、美味しそうな草も、豊かにある。そこでグ〜ンと伸びをして、不安一つなく安らいでいられる。そんな羊がボクなんだ」と、読むたびに深い安ど感を与えてくれる御言葉だ。
 これを今朝聞けて良かった。ちょっと最近不安なことばかりだったから。心配事でイライラしていたから。本来の自分を見失ってたから。


●19(金)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。    (ルツ2・13)

 未亡人ルツが、姑ナオミ(未亡人)の古里に帰って来た。勿論、その日の食べ物にも困る二人。そんな彼女たちに、親戚ボアズが自分の畑の落ち穂を拾わせて、命を繋いであげた。その心遣いに、ルツが感謝して言った言葉がこれだ。このルツの末裔にイエス様が生まれる。
 神の御業は、人を介して、人を用いて、人と人との間に起こるのだ。ならば「主よ、私もすべきことをさせ給え。御業のため」と祈ろう。


●20(土)
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。    (レビ19・9)

 どうして「刈り尽くしてはならない」のか。自分で苦闘して育て、やっと得た実りなのだから、全部自分の物じゃないのか? とやかく言われる必要ないのに・・・。でも、神のお心は違うんだ。この御言葉の後に「貧しい者のために残しておかねば」と言われていた。
 もしかしたら、自分が褒められたい、自分が認められたい・・・それらも「全部自分の物にする心」から出て来ているのかも。賞賛も収穫の一つだから。単に、物としての収穫だけじゃない。収穫の日にこそ、自分中心を捨てねば。


●21(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●22(月)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。    (ゼカ4・6)

 亡国の民に、預言者ゼカリヤが主の幻を伝えた。それは捕囚からの帰還の希望だ。しかもそれが、人の業に一切よらず、主御自身によって成し遂げられる御業だと伝えられた。
 アッと思った。背きの民に伝えられた「人間の業に一切よらず、ただ神の救いの御業によって」という恵みを、ボク受けていると思ったから。まさに、御子イエス様の救いの業と同じだと気付いたから。ボクの努力や行いによらず、御子が命を賭けられた御業によった、と。神様のなさることは、いつも「これ」なんだ。感謝


●23(火・勤労感謝の日)
主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。     (詩6・3)

 苦難の中にある人の「嘆きの詩」だ。
 でも二節を見ると、「主よ・・・憤って懲らしめないでください」とあるから、単に病気や不幸を嘆いているんじゃないんだ。この人の苦難の原因は、主の怒りによること、つまり自分の罪が引き起こしたと嘆いているんだ。
 「憐れんで」というのは、憐憫を乞うているのじゃない。「罪の赦し」を乞うているんだ。赦しが見えないことが、悲しみなんだ。信仰者の真実な嘆きの声を聞いた思いがした。ちゃんと嘆けた人に、ちゃんと恵みが届くのかも。


●24(水)
その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。      (創3・6)

 エバを誘惑する蛇が「禁じられた木の実を食べようよ。神のように善悪を知る者になれるから」と唆す。それを聞いたエバが「本当にその通りだ」と思って、積極的に彼女自身が決断したのだ。堕罪への道を。
 幼い頃、「蛇さえいなければ、罪を犯さなかったのに。蛇悪し!」と思っていた。でも、堕罪の根は、自分の中に在ったんだ。自分の奥から手がニューッと伸びて選んで掴んだ堕罪だったんだ。そのことにちゃんと悔いることが出来たら、そこで救いへの扉が開くのかも。


●25(木)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。    (申31・6)

 モーセの後継者ヨシュアが任命される時、彼に告げられたのがこの言葉だ。大預言者モーセを継ぐなんて怖じ惑うかも。全イスラエルを率いるなんて「無理」と思うかも。でもその人を勇気づけたのは、ただこの一点だったんだ、「主は共におられ、決して見捨てない」と。
 私たちも、キリスト者として現実を生きるのは、本当は誰にとっても大変なこと。でも、その時に今日の御言葉は、私にも語られているんだと思い出そう。怖じずに歩むために。


●26(金)
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。     (詩103・10)

「あれ? これはどこかで聞いたことがある・・・いや勿論そうだ・・・これは礼拝のたびに聞いている大事な御言葉だ。これは『赦しのことば』だ。」、一瞬にしてそんなことが頭の中を駆け巡った。
 一語一語を今朝噛みしめよう。「罪の赦し」って何なのかが、ここで宣言されているのだから。「神が人を赦す」ということの憐れみの大きさを悟ることができるから。その深さに驚くことができるから。感謝が生まれるから。


●27(土)
わたしがあなたと共にいて、救い出すと、主は言われた。    (エレ1・19)

 エレミヤが、預言者となるようにと召命を受けた。しかし彼は「わたしは若者に過ぎない」と断るのだ。そのエレミヤに、なお主が言われたのがこの言葉だった。
 まるで神様が「お前自身が頑張るんじゃない」と言っておられるようにも聞こえた。「頑張るのは私だから、その私があなたと共にいるのだから」とも。さらに「パートナーはあなたが良い」と、神の求愛のようにも聞こえた。エレミヤも「このお方となら、安心してゆける」と思ったのだろう。そこに大預言者が誕生する。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもない。          (申4・31)

 あれ? ごく最近も同じ御言葉だったような(選んだ時にダブったかな?)。あ、やっぱり二十五日と同じだ。でも箇所は違って、申命記三一章だ。つまり同じ内容が繰り返し記されているということ。それはつまり、「口を酸っぱくして言っている」ということ。「耳にタコができる」ほど言われていると言うこと。これが申命記の核心に触れている言葉だからかも。
 然り。正にその通りだ!


●30(火)
「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」    (創2・17)

 エデンの園で、何不自由なく暮らしていたアダムとエバ。その二人に、神様がたった一つの約束を交わす「これだけは食べちゃダメだよ。あなたの生き死にに関わることだから」と。
 私は知っている。二人は、このたった一つの約束も守れなかったということを。
 その末裔が私なんだ。私も、彼らと一緒かも。たった一つの約束(私にとっては御言葉だ)も守れていないのかも。きっとそうなのかも、一つの御言葉さえ、ううう・・・。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:57| 『日々の聖句』

2021年10月31日

『日々の聖句』2021年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年10月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)
安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。  (士18・6)

 十二部族がカナンの地に入った時、ダン族はなかなか土地が定まらない。そこで探索に出た先行隊に祭司が告げた言葉がこれだ。
 祝福があると約束された地に着いたけど、どこがその場所か分からない。彼らは不安だっただろうなぁ。「こっちにあるのかな? 本当に恵みはあるのかな? 導きが見えない・・・」と。そういう不安って分かる気がする。その時だ、「安心して行かれよ」の一言はどんなに嬉しかっただろう。ボクはそれをどこで聞くのだろう。それは聖書の御言葉からですね。


●2(土)
主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。」   (出32・9)

 モーセがシナイ山に登っていた間、民は金の子牛を造って、「これこそ神だ」と拝んでいた。主が燃え上がる怒りを発せられたのだ。
 主は、人々の荒野の旅路を守り、朝ごとにマナを与えて下さった。その主を、こうもあっさり裏切るなんて、私だって腹が立つ。主の怒りはいかばかりかと思って、ハッとした。守られて来たのに信頼し切れないのは、私自身。神の怒りは我が頭上にあり、と分かったから。ああ、だからこそ私には、救いが必要なのだ。


●3(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。        (エス4・16)

 ユダヤ民族の歴史・時代小説のエステル記。
 ユダヤ人絶滅を画策する異国の宰相ハマンに、その国の王妃となったユダヤ人エステルが対決を決意した。それは、王妃に選ばれたのが自分の知恵や美貌によらず、主の御旨だと悟ったからだ。
 「これは主の御心だ」と、信じた道を進もうとすることは、「死なねばならないのなら死ぬ覚悟」ということなのだ。自分を百%明け渡すことなのだ。それが信仰の決断なのだ。私も腹を決めねば。私も信仰者だから。


●5(火)
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。」         (エレ1・7)

 神様がエレミヤに、預言者となるよう命じた時、彼は「若者に過ぎないから無理です。人に語る言葉さえ知りません」と固辞した。
私だって同じように言うだろう「こんな大変な奉仕は、私には無理。そんな能力も、経験もないし。もっと他に適任者はいるでしょう」と。それでも主は、「行け」と言われるのだ。あっ、奉仕は自分で選ぶものじゃないのかも。そうだ!「神に強いられた恩寵」なんだ。


●6(水)
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。   (創22・6)

 アブラハムの手には、鋭い刃が握られている。それは愛する息子の首を落とすための道具。手には、種火が握られている。それは息子イサクを焼き尽くして、捧げ物にするための火。
 「そうすべし」との神の命令だから黙々と従うのだけれど、理由も意味も分からない。ただ分かるとすれば、「従う」ということだけが「意味」だということ。ボクはそんな一歩を踏み出せるのだろうか。信じるという世界は、この一歩の世界なんだけど・・・。


●7(木)
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。   (民9・23)

 エジプトの国から脱出できたイスラエルの民が、荒野の旅を続ける。そのとき、進むのも主の命令(雲が幕屋を離れることが印)、留まるのも主の命令(雲が幕屋の上に留まることが印)だった。主の言いつけを守ることに、命と恵みの授与を守る秘訣があったのだ。
 それは、私にとっても同じこと。聖書を通して届く主の命令は、聖書の「御言葉」だ。その御言葉を守らねば。「それは分かっている。でもできない」と言い訳するのは、もうやめなきゃ。いつ決意するんだ! 今日しかない。


●8(金)
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」   (創22・12)

 今日の箇所は、一昨日の箇所に続いている場面だ。三六五日のみ言葉を、くじ引きしてこの日の箇所も神様に選んでいただいて、そして連続の箇所になっている。それを御心と受けて、読み、聴かなきゃ。アブラハムは、とうとう刃を振りあげて、愛息子の命を取ろうとした。神の命令を信じて従おうと、苦しんで一歩を踏み出した。その時、御声がしたのだ。
 「神を畏れる」とは、自分の思いの一切を後にして、実際に踏み出すこと。葛藤無しにはない世界だ。葛藤そのものを、主は喜ばれる。


●9(土)
主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。  (サム下6・21〜22)

 神の箱が、ダビデ王の幕屋に運び込まれる。その喜びの大行列の先頭で、ダビデは跳ね踊ったのだ。その姿を窓から見下ろしたサウルの娘ミカルは、恥ずかしいとさげすんだ。それに対してダビデが胸を張ったのがこの言葉だ。
 人に褒められることばかり気にしている人がいる。主にどう見られているのかを想うのがダビデ。人の目か、主の目か。多くの人が人間のことばかり気にしている。おッと、ボクもそうだった。気付いた今日から、変わらなきゃ。


●10(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●11(月)
いつまで、あなたはその胸に、よこしまな思いを宿しているのか。   (エレ4・14)

 バビロンの兵が、南ユダ王国に迫る。その知らせを、エレミヤが伝えたのだ。そこには、国が亡びる原因も宣告されていた、「よこしまな思いを宿している」と。心の内にある悪だ。人々は悪を抱いたので国を失うと言われている。それでもまだその悪を握り続ける。
 「どうして自分が滅びる元凶をいつまでも握り続けるのか、なんて愚かな人々だ」と思って、自分の手を見てギクリとした。ボクの手の中にも、自己中心でいたいという背きの思いが握られていたから。それも、後生大事に。


●12(火)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。   (申6・15)

 モーセがイスラエルの民に伝えた「主の律法」の集大成が、この申命記。
 「主の熱情」って、かなり熱いのかな? 
 それは、遊牧民の一家族・アブラハムを導いて、恵を注ぎ続けたほど。その息子イサクに、またその息子ヤコブにと、祝福の約束が絶えなかったほど。大人数になった民が奴隷にされていたエジプトの国から、ついに救出されたほどだ。そして正に、ご自分の御子を罪人の私のために死なせてしまわれたほどだ。その熱情は、私の中にも注がれている!


●13(水)
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」  (創17・1)

 これは主なる神が、アブラハムに告げた言葉。でも注意して状況を見よう。それは、彼が九十九歳になった時の言葉だったから。つまり「主は一族を星の数ほど増やすと約束されたけど、跡継ぎなんて生まれる可能性はない」と思い始めた時だったから。約束の実現なんて無理だと、誰もが思う歳だったから。
 全能の神の御業がなされることへの最大の敵は、サタンじゃない。自分の中に在る「常識では無理だよ」と考える頑固な思い。ああ、神の敵は、我が内にあり。


●14(木)
彼らは尋ねもしなかった。「主はどこにおられるのか・・・」と。   (エレ2・6)

 主が、民の背信を嘆かれる。ずっとあなた方を守って来た私なのに、私を忘れて離れて行った、と。それも、私の代わりに他の空しいものを求めて、後を追って行ってしまった、と。
 この悲しみが、ボクにもちょっと分かる気がする。想いって、届かないことがあるんだよね。一生懸命にその人を想っているのに、離れていくことがあるんだよね。人と人との関係でも、そこに悲しみがあるのに、神の悲しみはどれほど大きいだろう。尽くして来たのに、全ての人が自分の元を去ったのだから。


●15(金)
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。    (イザ1・18)

 主がユダ王国に語りかける幻を、イザヤが見た。それは神が、人々の背信に断腸の思いとなっておられること。しかしそこで同時にこの言葉が告げられたのだ。それは「使い古された雑巾のような色に汚れているお前たちだけど、立ち帰るなら、雪のように真っ白にしてあげるから」という語り掛けだった。
 「愛する」とは「赦す」こと。「過去を振り返りもしない」ということ。そのために、神ご自身が痛みを引き受けている。神は、ボクのためにも、痛みを負われた。ボクも罪人だから。


●16(土)
ノアは主のために祭壇を築いた。         (創8・20)

 主によって大洪水が起こされ世界が新しくなった時、ノアの家族と獣や鳥などすべての生き物も箱舟から出た。大地を再び踏んだ時、ノアが先ずしたことは、「礼拝する」ことだったのだ。
 私たちも週の初めの日に、先ず礼拝することから始める。もしかしたらそれは、この時のノアの信仰と同じ所に立ってもいるのかも。ノアのように、主の栄光をただ仰ぐこと、今在ることへの感謝、この後も主にのみ従うことへの決心だ。私も礼拝から、これからの日々への一歩を始めるんだ。明日は、その礼拝だ。


●17(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●18(月)
主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。      (出14・21)

 エジプト脱出後、行く手を葦の海に阻まれた。その海を主が二つに分けて、逃げるために乾いた道を海底の真ん中に作られたのだ。
 「主はよもすがら」とある一言が、ボクの心に沁みた。神様が一晩中寝ないで、人々に寄り添って懸命になって下さったんだと知って、そのお心にボクの心が熱くなったから。「懸命に愛して下さるんだ」って、主のお心を知ったから。その主が、今日のボクの一日にも寄り添っていて下さる。さあ出掛けよう!


●19(火)
あなたたち、勇士は皆、隊伍を整え、同胞たちに先立って川を渡り、彼らを助けなさい。   (ヨシュ1・14)

 主が、モーセの後継者としてヨシュアを立てられた。そしてイスラエルの民がついにヨルダン川をわたって約束の地に入らんとする時、彼が部族長たちに命じた言葉がこれだ。
 遣わされた場所へ、先陣を切って行けと言われる。まだ未経験の地へ、未経験の働き(奉仕)への派遣だ。その時、自分ができるかどうかを自分で計らない。ただ「先立って川を渡れ」という言葉に従うのだ。御言葉に従うべし! 奉仕に就くことも、ここに原点あり。


●20(水)
ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。  (サム上1・10)

 子どもが生まれず親族から冷遇されて泣き続けていたハンナ。その悲しみの心そのものに添ってくれない夫エルカナ。悲しみを悲しみとして受け取ってくれる人が一人もいないハンナが、ただ一人のお方にすがって泣いたのだ。それが主なる神だった。
 悲しみの理由なんか後でいい、悲しみの解決方法なんか後でいい。ただ自分をそのまま受け入れてくれる方を、彼女は知っていたのだ。
すがりついて泣くことができて良かったね。そして、それがボクの神様でもあるのですね。


●21(木)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が滅亡する直前のこと。預言者ミカが両国についての幻を、主によって見せられた。国土が敵によって踏みにじられる時、生き残る者が起こされる、と。それはどういう人か。それが今日の御言葉に告げられた人だ。
 「ああ、やっぱりココなんだ」と思った。人間の力によらず、策略によらず、経験にもよらない者。しかし彼らは、主にのみ頼った。
 ボクは一体、どこに立って過ごしているんだろうか。振り返って、点検して、そして立ち帰らなきゃ。今朝の御言葉が指し示す姿に。


●22(金)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」  (創24・27)

 これは、イサクの妻となる人を探す命令をアブラハムから受けて旅立ったしもべの言葉だ。海辺の砂の中から一粒のダイヤを見つけ出すような任務に、彼は従ったのだ。そしてついに見つけた時、彼は主を仰いで感謝した。いやこれは感謝の祈りと言ってもいいかも知れない。
 誰もが、行き先不透明な旅という人生を歩んでいるのかも知れない。不安が付きまとう旅だ。でも「主が旅路を導かれる」と信じて一歩を踏み出すんだ。その先に、御心とされる結果が待っているから。だから、さあボクも。


●23(土)
「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。」    (申1・29)

 誰のことを恐れてはならないの? と思って聖書を開いた。これは、モーセが律法を解き明かして言った言葉集・申命記の中にある言葉。ヨルダン川を渡って神が約束して下さった土地に入らんとする直前の言葉だ。「主御自身があなた方に先立って行くから、どんな敵も恐れるな」ということだった。
 この御言葉を、私も今朝聞く。私への語りかけとして聞くのだ。困難という敵がいる一日への旅立ちの前に。御言葉がボクの心に響く「うろたえてはならない」と。いざ出陣だ!


●24(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●25(月)
律法に立ち帰るようにと、あなたは彼らに勧められたが、彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず、あなたの法に背いた。   (ネヘ9・29)

 捕囚期に、都に残された人々から話を聞いたネヘミヤ。そこで、民の背きのゆえに亡国と捕囚が起こったのだと、嘆いたのだ。
 でも、この聖書箇所の先を読んでいて、そこに出て来る御言葉に、胸が熱くなった。「しかしまことに憐れみ深いあなた(主)は・・・彼らを見捨てようとはなさらなかった」と。
ああ、人間の悔い改めの前に、既に神の憐れみが始まっているんだ。無条件の恵なんだ。


●26(火)
隣人の家を欲してはならない。    (出20・17)

 モーセが神から賜った「十戒」の十番目にあたる掟だ。隣人の所有物一切を、心の内で「欲しい」とさえ思ってはならないというのだ。それは、隣人との関係を崩す第一歩となるからだ。神がそれを知っていて、「そっちに行くなよ」と戒められたのだ。
 スラスラと説明できる。何度も「十戒」を説いて来たからだ。しかし、なのだ。上手に説明できることを、主は求めておられない。ただ「お前は今日、コレを生きよ」と言われるのだ。「十戒を知っているよ」ということと「その言葉を丁寧に生きているよ」とは雲泥の差がある。


●27(水)
わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。       (創22・8)

 これはイサク奉献の場面だ。主に「信従」を試されたアブラハムが、愛息子を献げる山に向かう時、息子から聞かれる「お父さん、焼き尽くす献げ物の小羊がいないけど、どうするの?」と。それに苦渋の思いで応えたのがこの言葉だ。きっと心の中で格闘していただろう「息子を献げろと神様は求められる。なぜそんなことをおっしゃったのか分からない。でもきっと訳がある。きっと大丈夫」と。そして言葉が漏れた「きっと神が備えてくださる」と。
 試練の中の言葉を、ボクの心に刻み込もう。


●28(木)
イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。   (エズ3・1)

 捕囚によってバビロンに、また周辺の地に、バラバラに散らされていた人々。ようやくペルシャのキュロス王によって解放された。その時だ。人々がまずしたのがコレなのだ。彼らは集まりたかった、一緒に礼拝したかったのだ。そこで一つの群れとなりたかったんだ。
 コロナ禍によって度々バラバラにされて、それぞれの場所に散らされて来た私たち。だから、彼らの気持ちが少しは分かる気がする。「一つになって礼拝したい」という気持ちが!


●29(金)
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。     (出16・4)

 出エジプト後、人々は水も食べ物もない荒野の旅を始める。そのとき神様は、「マナ(ウエハースのようなパン)」を天から与えた。毎日食べる分だけ集めるように、との約束と共に。この恵みの賜物は、人々が主の約束を守る者であるかどうかの試金石でもあったのだ。
 与えられた恵み以上に、もっと欲しいと求める欲がある。自分勝手さがある。足るを知ることのできない愚かさがある。それが神との約束上で出たとき、神を見くびる罪となる。


●30(土)
人は力によって勝つのではない。   (サム上2・9)

 ムムっ? 力によって勝つのじゃないなんて。でも、学力、能力、知力、経験力、人脈力、権力を、自分もつけなきゃって頑張ったのは、それによって勝つためだったはずなのに・・・
 こんなことを誰が言ったのかと思ったら、これは「ハンナの祈り」だった。子供が生まれなくて親族から虐げられていた女が、ついに主によってサムエルを与えられた時の歌だ。切なる願いが有るけれど、自分の力が一切及ばないと知った時、主にすがった女の言葉だった。
「勝利を得るための真の拠り所が分かった!」と思えて、気が引き締まった。


●31(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師






posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:25| 『日々の聖句』

2021年09月30日

『日々の聖句』2021年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年9月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると     (創3・8)

 アダムとエバに主が会いに来て下さったのに、避けて逃げた。やましい事があったからだ。「これは禁断の木の実だよ」、「はい」という約束を破ったから。それは、人間最初の「神への背き」だった。でも、「主に顔を合わせられない」と、ちゃんと罪を自覚できている彼らを見て思った。それさえも出来ていないのなら、隠れもしないし、背きが他人事になる。それは神との関係も他人事になるのかも、と。
ボクは、どっちに立っているのだろう。


●2(木)
「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」      (ヨシュ6・2)

 神が約束された土地に、イスラエルは進撃する。しかし堅牢な防壁が敷かれていた。誰もが「これは無理だ」と思える状況の中で、指導者ヨシュアが民に進撃の命令を下したのだ。
 人は誰もが自分の経験に照らして、自分の判断を持つ。それは翻せないものだと思い込んでしまう。でも、もう一つの照らすべき基準が、信仰者にはあるのだ。それは神の言葉。確実に実現する言葉だから。私にとっては御言葉だ。御言葉への聴従は「勝利をあなたの手に渡す」と約束を戴いている事と同じなんだ。


●3(金)
あなたの道を主にまかせよ。   (詩37・5)

 聖書を開いたら、詩人の周りには悪だくみをする者達が栄える様子があった。決して平穏無事な中にいるのではないのだ。
 第一印象で、「そりゃみ言葉の言う通りだ、それが信仰の歩みだよ」・・・と思って、すぐにハッとした。だって私はいつも自分の道を自分で企てて、その次に「わたしの道を主が助けて下さい、守って下さい」と祈っていたから、いや願い倒していた、いや命令していたから。
 「私の道を主にまかせる」ために、第一歩から訂正しなければ。「主が企てる計画は何ですか」と、鎮まって聞く祈りから始めなきゃ。


●4(土)

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。    (創1・3)

 天地創造の最初の瞬間だ。
神が、世界を造られる。それは、材料を集めて、組み合わせてつくられたのじゃない。ただおっしゃったのだ、「在れ」と。そうすると、その言葉のままに「在った」のだ。
世界は神の「言葉」で成った。それは、神の「お心」が世界を造ったとも言える。世界の形は、神の御心の現れなんだ! だからなんだ。神は世界をお造りになった後、それを御覧になって「良し(very good)」と言われたのだ。ご自分の思いが、形となって世界に満ちていたから。そして、ボクもその中に入っているんだ。


●5(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」      (創3・4〜5)

 サタンの誘惑は、いつも同じ言葉でささやいて来る。「自分で好きなようにしたら良いじゃないか。自分の判断で大丈夫だよ。ちょっとやってみようよ。神様のことをよく知っているあなたの判断は、義しいのだから。さあ早くやってみようよ」と。
 今日もささやいて来る。生活の中で、職場で学校で、ダイニングで、台所で。その時ふと、神様不在の時間が出来る。要注意だ。


●7(火)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。          (詩42・6)

 詩人は歌い出す「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める」と。さらに「昼も夜も・・・涙ばかリ」と。悲嘆の底にある詩人。その彼が突然、自分自身に言い聞かせるようにして今朝の言葉を言ったのだ「なぜ呻くのか」と。そして、そう言える唯一の根拠が「神を待ち望め」であった。
 「信じる」とは、「苦難の中で神を思い起こすこと」だと思った。信頼して揺れない事じゃないんだ。嘆きの日はある。呻いて良い。でもそこで神を思い起こすこと、それが信仰なんだ。


●8(水)
民は自分たちを打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めようとしなかった。   (イザ9・12)

 北イスラエルの民が、主に悔い改めを迫られた。それなのに、まだ自分を誇り続け、「神に頼らなくても、自分だけでやっていける」と言い続けたのだ。その報いのゆえに、敵に打たれているのに・・・。
 「主に背いたゆえの懲らしめだ」と分かっても、なお傲慢であり続ける人々。なんという愚かな姿なんだと、憤慨すら覚える。そう思った瞬間ハッとした。主に立ち帰らない姿は、自分自身の中にあると気付いたから。特に、主日以外の平日は、もうボロボロだ、と。


●9(木)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」   (民12・13)

 モーセは、自分のため「助けて」と叫んだのじゃない。神に向けて「モーセだけが指導者だなんてズルイ。私だって出来る」と不平を言ったモーセの姉ミリアムのためだった。この不平のゆえに、彼女は神に打たれて、肉が半ば腐って死者のようになった。その彼女のためだ。
 執り成しの祈りって、自分を大事にしてくれる人のピンチのためだと思っていた。でも違う。自分を責めた人のためにも祈るんだ。聖書って、いつ読んでも驚かされる。そして悟らされる、「ボクは心が貧しい人間だなぁ」と。


●10(金)
(モーセは言った)「あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」    (出9・30)

 モーセたちが、エジプトのファラオの前で十の災いを起こす。その恐ろしさにファラオは「わたしが間違っていた」と言うのだか・・・。そこでモーセが答えた言葉がこれだ。
 「悪かった」という時点では、まだ悔い改めたとは言えない。大事な事は、誠に神を主として畏敬する者となるということ。「ゴメン」じゃ「まだまだ」と言われる。「我が神、わが主よ」と告白する者となって、そこを生きよ、とね。


●11(土)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。   (エレ20・9)

 イスラエルの民への裁きの言葉が、預言者エレミヤに預けられた。「罪の悔い改め」を伝えれば、人々から嫌われるのは必定。だから語りたくない。その気持ち、分かるなぁー。
 しかし、エレミヤは語り出す。主の言葉は、抑え込むことなど出来ないから。悔い改めを強いるのは、聞く人には嫌がられるけど、それこそが幸いへとつながる福音なのだから。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●13(月)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。    (詩4・9)

 詩人は、心安らかに眠りに就こうとしている。平安の中にいるんだなと思ったら、そうじゃなかった。前後の箇所を見たら「苦難から解き放ってください」と叫んでいたから。そんな中で「あなただけがわたしの心に喜びをくださる」と主を求めていた。それは、「アレをしてくれたら平和になれる」とか「助けてくれたら平和」とか、そんなことじゃない。「あなたのが傍に居てくれるなら、たとえ苦難に囲まれていても平和の中」と言っているのだ。
 私も見詰めよう、個々の「御業」ではなく「主ご自身」を。不動の平和に生きるため。


●14(火)
呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。   (エレ4・1)

 「呪うべきもの」とは何? それさえ捨てれば主の御許に居続けられる。そう思って聖書を開いて、分かった。それは、神様以外を求めて頼ること。また、主なる神の御声に従わないことだ、と。
 ドキッとした。御言葉に聴き従わないことを、ボクは軽く考えていたかもと気付いたから。神様の目から見たら、それは「呪うべきもの」で、「お前は、呪われよ」と言われている恐ろしい背きだと気付いたから。そして気付けて良かったと思った。やり直せるのだから。


●15(水)
わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。   (イザ26・12)

 そうか! 自分だけではどこまで行っても「未完成」ということなんだ。だから、出来る限りのことを粉骨砕身頑張って、そのあとは「主よ、お任せします。あなたが修正も、訂正も、完成もしてください」と委ねることが大事なんだ。
 「主よ、あなたの御心は、私が何をすることですか」という祈りに始まり、最後も「主よ、成し遂げるあなたにお任せします」という祈りで締めくくる。私たちの人生って、そんな「祈りの旅路」なんだな。


●16(木)
(主がアブラムに言われた)「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。       (創13・14)

 甥のロトに、先ず自由に土地を選ばせる。すると彼は、肥沃な土地を全部自分の物にしたのだ。アブラハムは「自分は残り物で良い、争いたくないから」と思ったのだ。そのアブラハムに主が祝福して言った言葉がコレだ。「あなたが見る土地を全て与える」という恵みだった。
 人間が見ることと、神が見ることは違う。人は自分の欲を見る、腹を見る、自分の思いだけを見る。それがロトだった。素直なんだけど、御心を生きる生き方ではなかったんだ。


●17(金)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。      (エレ9・23)

 私の祈りはいつも「主よ、恵みを与えてください」だった。願って、与えていただけると思っていたから。でもエレミヤは、そんな私に「違うゾ」と告げる。「恵みの業を行う事は、そもそも主の願い、神の喜びなのだ」と。
 そうか! 人が願う前から、主は与えようと満を持して待っておられる。あなたに必要な物をいっぱい与えたいと待っておられる。だから私の祈りは、「主よ、御心が行われますように。私はただ受け取ります」で十分なんだ。


●18(土)
しかし、お前たちはそれを望まなかった。   (イザ30・15)

 「せっかくの贈り物なのに、お前たちは受け取ろうとしなかった」と言われているような気がする。一体何を望まなかったのだろうかとイザヤ書を開いたら、それは、主を静かに信頼しているなら、それだけで救われるという恵みの贈り物だった。人々は、神を頼っている場合じゃないと焦って、自策に頼って滅びの道に入ってしまったのだ。
 なんて馬鹿なことを、もったいないことを、と思って、ハッとした。自策に頼るのは、私の姿そのものだと気付いたから。その手は、失敗を握っているのに。恵みを手放しているのに。


●19(日)



主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●20(月・敬老の日)
今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。    (サム上1・16)

 男子が授けられず、一族から冷遇されていたハンナ。その彼女に祭司が問いかけた時、彼女が答えた言葉がこれだ。
 きっとその目には涙が溢れ、声も震えていたかも。それでも悩みの深さは、誰にも分からない。しかし一つのことは祭司に分かっていた。彼女は悩み悲しみを神に訴えることを知っている女だ、と。信仰の女だと。
 信仰とは、悲しみのどん底でも、それを丸ごと預けられるお方を知っていること。そこに委ねて生きること。理屈や思想じゃない!


●21(火)
六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。   (レビ23・3)

 主なる神は天地創造の時、六日で世界を造られ七日目に安息された。人も七日目を安息日とする始まりがここにある。しかし信仰の民は、その安息日を、聖なる集会(礼拝)の日と定めたのだ。主の前に集って礼拝することこそが、真に安息できる時だからだ。
 「やっと日曜日、どこに遊びに行こう」じゃなくて、「やっと日曜日、休めるぞ、さあ教会に行こう」とワクワクしなきゃ。だってボクも信仰者だもん。安息が何かを知っているもん。


●22(水)
「そうだ、ここは天の門だ。」   (創28・17)

 兄のエサウを騙して長子の権を奪ったヤコブ。復讐を恐れて逃げた荒野で、御使いたちが天から上り下りする夢を見た。そのとき自分が聖なる場所にいるのだと悟ったのだ。そこで恐れおののいて言った言葉がこれだ。
 大罪を犯して、償いもしないで逃げたヤコブ。そんな彼なのに、なお主が共にいて下さったのだ。罪人を見放さないでおられた主のゆえに。きっと罪を犯した全ての人を、主は追いかけてくださる。それに気付けた時、信仰が始まるのかも。心が自分に向くことから、「そうだ!」と、主に向き変えさせられるから。


●23(木・秋分の日)
わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。    (エレ2・21)

 この御言葉は、子供の非行を嘆き悲しんでいる親の声のように聞こえる。正に、主が民の背信を嘆いている声だ。心が張り裂けるような思いになられて、溜息をつくように、涙をハラハラと流すようにして嘆いておられるんだ。
 主の御言葉に背いて罪を犯すということは、律法的な話しじゃない。親不孝をしていることなんだ。神様不幸をしていることなんだ。天のお父様、親不孝者の私を赦してください。


●24(金)
祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。   (レビ5・26)

 神と民との間に立って、執り成しをする祭司。「主よ、この者の罪をお赦しください。贖いのささげものをしますから」と告げるのだ。すると「責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」と神様が約束して下さったのだ。
祭司の務めってスゴイ! と思った。そして、新約の時代はキリスト者すべてが、その祭司の務めを担うのだ。それが『万人祭司』だ。好きな人、嫌いな人に関係なく、御前で黙々と執り成さねば。タイヘンだ! と思った。


●25(土)
ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」   (創21・22)

 ピコルって誰? 彼はアブラハムが旅路の途中で滞在したゲラル地方の軍隊長。彼は、アブラハムに現れた神の祝福の御業を次々と見たのだ。だからアブラハムと敵対したくなかった。「だってあなたは、神が味方する人。私にも友好に接して欲しい」と思ったのだろう。
 私も信仰者、それは神が味方する者。ならば隣人は私にも、ピコルがアブラハムにしたように接してくれるだろうか。改めて、信じる心だけでなく、生きる姿の総点検が必要かも。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●27(月)
あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。(ヨシュ1・11)

 出エジプトをしたイスラエルの民が荒野の旅を終え、神が約束されたカナンの土地に入ろうとする直前のこと。モーセの後継者ヨシュアが、民の役人に言った言葉がこれだ。
 よく読むと、気付かされることがある。得られる土地は、自分たちが頑張って取得するというのではない。「主が得させようとしておられる」土地ということ。それはまた、それ以上に欲してもいけないということ。ボクは、あれもこれもと求め過ぎるのかも。主の御思いの中のもので、十分なのに。最善なのに。


●28(火)
わたしはあなたと契約を立てる。          (創6・18)

 主が大洪水を起こされる前に、ノアに「箱舟を造って、あなたと祭司と、全ての生き物のつがいを入れよ。そしてともに生き延びよ」と。これは生き延びるための契約なのだ。
 有難い契約と思って、でもすぐ気付いた。これは契約だから「〇〇したら」という前提がある。それは、晴天の日に大雨対策の舟を造れという命令。人の目には非常識で嘲りとなること。でも信じて従うことが、生き延びる前提なんだ。ボクなら非常識だと嘲られても、主の言葉に従えるだろうか。きっと流されるのかも。そうやって御言葉を軽んじてる。


●29(水)
わたしは初めであり、終わりである。        (イザ44・6)

 「この言葉って、イエス様の言葉じゃなくて、イザヤ書にあった?」と思って聖書を開いたら、御神の言葉を預言者が伝えていたのだ。
 御父も御子も、熱く語ってくださるのだ「世界の初めから、世界の終わりまで私はいる。その私だから、あなたの人生をすべて包み込んで余りある。だからさあ、私を信頼して、生きよ」と。今日改めて、御子のみならず御父からも、一貫して呼び掛けられているのだと知って、何だか心強く思えて来た。天地創造から終末に至るまでを支配されるお方が、私を支えるお方なのだから。


●30(木)
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、…彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。      (創22・2)

 いつ読んでもドキッとさせられる箇所だ。愛息子のイサクを屠って、焼き尽くして献げ物とせよと、神が命令する場面だ。この後に神が、代わりの雄羊をアブラハムに与えると知っているから、まだ安心して読めるのだけど。
 神の命令が、どう考えても理不尽で実行不可能に思える時、ボクならどうするのだろう。愛息子奉献なんて自分には起こらないと言っていられない。正に神の命令は、御言葉において直面するのだから、汝の敵を愛せetc.と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:24| 『日々の聖句』

2021年08月31日

『日々の聖句』2021年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年8月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●2(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。   (箴3・11)

 諭しはいいけれど、懲らしめはちょっと厳しいなぁと思った。でも、きっと諭されても、指導されても、言うことを聞かないボクがいるんだ。そういうボクの首根っこを捕まえて「こっちの道を歩くんだ。迷い道に入り込むんじゃない」と力いっぱい引き戻して下さることが、懲らしめということなんだ。そうだったら、どっちも主の愛の御業。その御業の中に生きていることこそが、幸いなんだ。
 でも、ぜひ、ソフトな懲らしめでお願いしますね、主よ。


●3(火)
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。   (イザ44・22)   

 この「あなた」とは、一個人のことではない。背きの民イスラエル全体に向けた「あなた」なのだ。そこで「赦し」の言葉を告げておられるのだ。喜びの知らせが、民全体を覆う!
 主は私一人だけでなく、私の家族にも目を留めていて下さる。いや、相模原の地の一人ひとり、いや日本の全ての人、いや世界中の人々も。全ての人に「わたしに立ち帰れ」と呼んでおられる。然り、全ての人が主の宝だからだ。


●4(水)
大いなる救いに至らせるためです。         (創45・7)

 「これってどんな場面?」と思って聖書を開いた。ヨセフが、兄たちに殺されかけた後、神の計画によってエジプトの宰相にまで上りつめる。そこで、飢饉によってエジプトに逃れて来た兄たちと再会。彼らが自分たちの行いを悔いている時、ヨセフが言った言葉だ。「神があなたたちより先に、私をエジプトに遣わされたんだ。あなたたちを救うために」と。
 こんな凄い信仰は、どこから来るんだろう。兄たちへの不満もない。「人」を見ないで「神のみ」を見ているからかな。そうやって生きている。ボクもなれるかなぁ、そんな信仰者に。


●5(木)
主を畏れることは知恵の初め。   (箴1・7)

 箴言は「知恵の書」と言われるけど、何のための「知恵」かを、ちゃんとわきまえねば。それは、神に従う者として立ち続けるための知恵だ。処世術でも、成功の秘訣でもない。
 この御言葉を、日ごとに口にしよう。その生活の中で、「主を畏敬する者」という在り方が、私の身にも沁み着くから。それが、私の真の幸いとなるのだから。あれ? 御利益みたい。然り、『ハイデルベルク信仰問答』は正に、神を心から敬うと、そこに利益が生じるのだと、平気で言っている。神の恵みは具体的なんだと。神畏敬は、窮屈ではなく、豊かなんだ。


●6(金)
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。     (創22・11)

 天の使いがアブラハムの名を大声で呼ばれる。一体何があったのか?  アブラハムが手に刃を持ち、今や愛息子イサクを屠ろうとした瞬間だった。「アブラハム」と、声で彼の手を止めた。「もうよい、あなたが神の言葉を第一にする者だと分かったから」と。
 何よりも大事なはずの息子を捧げようとするまで従えるなんて・・・。迷いは無かったのか。いや、迷いつつ、悩みつつ、それでも最後は従う方へと一歩進んだのかも。綺麗な信仰じゃない。呻きながらの一歩が、信仰なんだ。


●7(土)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。  (詩20・8)

 これを現代語に言い換えてみたら・・・
「私には、常識があると誇る者もあり、知恵や経験を誇る者もあり、培った人脈を誇る者もあり、権威権力を誇る者もある。身につけた理性的判断を誇る者もあるが、私たちは我らの神にのみ頼る。主の言葉を旗頭にして、この世の生活を賛美しつつ進む。人から愚か者に見られようとも、信仰の教友から『現実的でない』と批判されようとも、主の御言葉だけを握って生きる」、かな。リアルだな。


●8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤 牧師




●9(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。     (エゼ34・15)

 バビロン捕囚となった民、さらに各地に離散した民に向かって、主なる神が約束された。「あなたを探し出して世話をするから。あなた方は私の群れだから」と。亡国の民の回復が、今朝の御言葉だ。
 ふと「主は羊飼い」と歌う詩編二三編が聞こえて来るように思えた。信仰の民の歌は、主の約束の言葉と呼応しているのかも。今朝私にも「あなたを養い、憩わせる」と呼び掛けられてくる。だからボクも歌おう「主こそわが羊飼い」と。だってボクも信仰の民の一員だから。


●10(火)
自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。      (箴13・3)

 「いたずらに唇を開いてしまった」と後悔したことが何度あることか。その者は「滅びる」と言われている通り、そこでは辛いことが起こってしまった。もっと早く、この御言葉を知っていれば良かったのに・・・
 と思いつつ、「分かっていても、また唇は軽々しく開くんだろうな」とも思った。唇を開かせるのが私の自己中心に染まった心そのものだから。単に「慎重にね」という程度の話しじゃない。罪の問題なんだ。救いの問題なんだ。「主よ、我を憐れみ給え」と祈る問題なんだ。


●11(水)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を」       (創1・11)

 神が天地を創造される。そのとき大地を覆う草も果樹も創造された。神が愛する一つひとつのものとして。一本の草さえ、一つの果実さえが神の宝なのだ。神はこれを見て「良し(very good !)」と喜ばれたのだ。この地上の世界は、その神の誇らしい御心に、満ちているんだ。
 だからこそ、と改めて思った「自然を壊してはならないのだ。それは単なる環境問題じゃない。神の御心に背いているのだから」と。


●12(木)
主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。   (ルツ2・12a)

 異国の地で、夫と息子たちと死別したナオミ。悲しみの中で古里ベツレヘムに帰って来た。そのナオミにただ一人付き添ったのが、嫁のルツだった。彼女に、ナオミの親戚のボアズが声をかけて来た。その中の言葉がコレだ。
 「行い」に報いるのは、人からの賞賛じゃない。だけどボクは、人からどう思われているかとか、褒められたいとか、そんなことばかり気にしてしまう。そういう思いに、主の報いこそが豊かだと示すのだ。だって神の報いは、必ず出来事化するから。それを期待して待て、と。


●13(金)
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。    (詩7・2) 

 詩人は強大な敵を前にして「わたしを助け、救ってください」と叫ぶ。その叫びは、その通りだなと思いながら、改めて考えてしまった。それは「主を避けどころとします」と誓うように言っている点だ。もしかしたらボクは、「助けて」とだけ言って、この誓いを本気で考えていなかったかも。口だけで言って、現実は自分の手腕とか解決方法の傘の下にもぐろうとして来た。本気で「主を避けどころ」とするというのは、信仰の決断がいるんだと気付いた。


●14(土)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。   (出15・13)

 イスラエルの民は、エジプトから脱出できた直後、葦の海に逃げ道をふさがれる。その時も主は、海を割って人々を逃げ切らせてくださったのだ。今朝の御言葉はその時、モーセらが、主を賛美して歌った賛歌の中の一節だ。
 「あなたが、アレもコレもしてくださった」と、ちゃんと恵みを数えている。具体的に数えている。それをしないで、何となくの賛美じゃない。ボクも恵みの数え上手になりたいな。そこに、活き活きした賛美が溢れ出すのだから。


●15(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●16(月)
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。   (創19・26)

 退廃の町ソドムとゴモラが、主の怒りによって滅びる。その直前、アブラハムの執り成しでロトの家族は町の外まで逃げ出したのに・・・。妻だけ、神様から「後ろを振り返るな」と言われていた約束を破って塩の柱になった・・・。 なぜ振り返ってしまったのだろうか、と思う。「なぜ?」の理由は書いていない。
でも主は、ボクに向かっても「なぜ、み言葉を守れないの?」と、問うておられる気がした。そして「ボクにはまだ立ち帰る猶予がある」と気付いた。それが悔い改めなんだとも。


●17(火)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。   (イザ35・3)

 背信の民に、神の審きが降る。その計画がまさに現実となろうとする時、人々は慌てふためいて、心は散り散りになった。しかし主はそういう人々に、審きの知らせと共に、栄光の回復も告げておられたのだ。
 神の告げる未来は、確かに来る未来。先のことなのに確かだ、と言い切れるのは、主ご自身が実行されることだから。だから言える、「未来に立ち上がる力はどこから来るの? それは神の計画を信じることから」と。未来を歩む力の秘訣は、信仰なんだ。信仰ってスゴイ。


●18(水)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。   (エレ3・14)

 神に背き続け、信じることを捨てて歩んだ人々に、バビロン捕囚が与えられた。しかしその人々に、エレミヤを通して「帰還の日が来るから」との約束が伝えられたのだ。
 「背信の子らよ」との呼び掛けに、ドキッとした。神の目は、神に従う良い信仰者たちに向いているんじゃない。義しい者に心を寄せられるんじゃない。神が呼び掛けたいのは、ご自分に背いた者、ご自分を捨てた者たち。どこまでも罪人の側に心を寄せて下さるのだ。そして、その温かい視線の中に、ボクが居る。


●19(木)
人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
(箴20・24)

 知恵の書である『箴言』の一言は、心に迫って、「本当にそうだなぁ」と思わされる。
 でもきっと「当たってるなぁ」と思うだけで止めちゃいけないんだ。ここから自分の今日の生き方を、実際的に修正しないといけないから。「主よ、今日どのように生きればいいですか。あなたにお委ねしますから、導きだと気付いた今こそ、従う私にならせてください」と意を決するべきなんだ。知恵の書の言葉が生きたものとなるのは、その時のみだから。


●20(金)
御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。(エズ9・15)

 ペルシアのキュロス王によって捕囚から解放された民が、神殿再建のとりかかり、遂に完成した。続々とエルサレムに帰って来る人々。そのとき祭司エズラが祈った言葉がこれだ。有頂天にならず、「罪のゆえに裁きを受けた我々なのに、生き残りとしてここにいます。ご覧ください、悔いてぬかずく我らを」と。
 ああ、主が喜ばれる人がここにいる、と思った。主の前に悔いてぬかずく人、心打ち砕かれた人だ。ボクもこうあらねば、この姿に。


●21(土)
主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。   (王上8・56)

 この言葉は、だれが、どんな時に言ったの? と思って、聖書を開いて、胸が熱くなった。ソロモン王がエルサレム神殿を建て終えた時、全会衆を祝福して大声で語った言葉だった。彼は、主を賛美している。その感謝と喜びを会衆と共有しようとしている。その時に語るべき言葉が、これだったんだ。「主が語られた約束の言葉は、全てが実現した」と。
 私もみ言葉を聞く時に、この言葉を共有したい「御言葉は空しくならなかった」と。その為にも御言葉を生きん! 胸が熱くなった。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤 牧師




●23(月)
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。       (箴16・9)

 自分が計画する道でも、落とし穴があったり、危険があったりするから、その道は最善でないということもあるのだろうなぁ。
 だから計画をする時、一番良いことは、良きアドバイザーが傍にいてくれること。それも私の計画したいことを、誰よりもくみ取ってくれるアドバイザーだ。さらに私よりも最善の方法を知っているアドバイザーだ。
 主が備えて下さる。それも遠くの目標を示すのじゃなく、一歩先、また一歩先を示して下さる。相談相手は決まった。さあ祈ろう。


●24(火)
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。   (詩24・1)

 あっ、これは礼拝を始める時の御言葉「招詞」で、よく読まれる箇所だ。
 これを聞くだけで、いつも心を高く主なる神へと上げることが出来ていた。主の支配の壮大さへと、目が開かれて行く思いがしていた。
それを、今日を始めるという朝に聞けたことは(または、一日を終えた夜、その日を振り返って聞けたことは)、なんてラッキーなんだと改めて思った。だってこの一日も「主のもの」と確信できて歩み出せるから。安心して歩み続けることが出来るから。正に恵みだ!


●25(水)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。    (ルツ2・12b)

 夫と死別して、姑に尽くそうと故郷を離れ、見知らぬ姑の国に来た嫁のルツ。その姿を見た親族のボアズが、彼女に掛けた慰めの言葉だ。そして、祝福の言葉だ。
 自分がやりたい方法を優先にせず、他者のために生きたルツ。そこがきっと、主の御翼のもとそのものなんだ。親鳥の翼の下に逃れて来ていることになるんだ。そうだ、隣人を愛することは、自分を愛することに優先すること。そういう人を、神様は報いて下さるのだ。主の祝福は、身近な隣人の傍に在り。


●26(木)
あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。      (申9・4)

 出エジプトの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る前。モーセが「あなた方が正しいから恵みを得たのではない」と釘を差したのだ。
 すぐに考えてしまうのは「正しい人には、神から恵み。罪咎を抱える人には、神の恵みは遠い」ということ。
でも、すぐに考えるべきことは、「こんな私なのに、それでも神は恵みをもって答えて下さる」ということ。人間の常識をひっくり返した場所に、神の恵みは注がれるのだ。


●27(金)
(主は言われる)「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。」   (サム下7・15) 

 「彼」とは誰か。それは、ダビデの子ソロモンのこと。ダビデが神殿建築を決意した時、主なる神が「いや、あなたの子が建てる。それも私は、あなたの子をも祝福し続けるから」と約束なさった言葉なのだ。
 それを聞いて、きっとダビデは安心しただろう。自分自身への主の慈しみも嬉しいけれど、それが子供につながってゆくことは、もっと嬉しいことだから。そこに安寧もあり、平安もあるのだから。「安心して御国に上れる」と思えるのは、この安心を手にした時なんだろうな。


●28(土)
善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。      (アモ5・14)

 南北王国に滅亡の日がヒタヒタと近づいて来る。主なる神がとうとう、背信の民に審判を下されるのだ。それを前にして、人々の牧者として呼び掛けたアモス。それは、端的な言葉であった「善を求めよ、悪を求めるな」と。
 人々は、何が善で、何が悪なのか、神様に知らされていた民なのに。神の言葉として「律法」を賜っていた民なのに。それなのに、知っていて背き続けたのだ。ボクも神の思いを知っていて背いている。そこから離れて、御言葉にしがみついて生きる人にこそなりたい!


●29(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●30(月)
わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。 (出3・20)

 神がモーセに、エジプトから民を救い出すことを命じた時、十の災いを予告された。
 私も幼い頃代、モーセが起こす奇跡に手に汗握った。でも今日改めて、ここで何が起こっていたのかを悟った気がした。それは「わたしは自ら手を下し」の一言によって、神が関われたことが大事だと思ったから。神が、人々の苦しみに介入されたのだ。その業が、目の前で繰り広げられる出来事となったのだ。人の嘆きに、神がご自分の手で触れられる。そんな出来事が、私の現実にも起こっているのですね。


●31(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。   (王上8・60)

 ソロモンがエルサレム神殿建築を完了させた。そこで祈りと願いを主にささげた後、大声で全会衆を祝福したのだ。その祝福の締め括りの言葉がこれだった。
 祝福を頂くということは、ただ一つのことを求めることと同じなんだ。それは「人が神を知る」ということ。ふと思い出した「主を畏れることは知恵の初め」という御言葉。また「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」という御言葉。全ては、この一点で繋がっているのかも。


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