2019年02月28日

『日々の聖句』2019年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年2月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。 (申13・1)

 モーセが多くの律法を授与する時に、どのように守るべきか釘をさした、「自分勝手に掟の中身を変えるな」と。
 私も自分の都合の良いように御言葉の内容を曲げてしまうことがある。「隣人を愛せ」との金言も「あの人が私に愛されるに相応しい人になったら」と心の中で一言加えている。神の言葉を骨抜きにする罪なのに。私も神を悩ませた背きの民と同じになる故、このクサビは私への言葉だ。


●2(土)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。(民14・43)

 「主はお前と共におられない」、衝撃的な宣告を受けた人々は、この後戦いに惨敗する。最初にカナンの土地に入る時、主の計画に不平を言い、抵抗し逆らって、自分勝手に歩み出した結果であった。どんなに勢いよく進んでも、主が共におられない歩みは一瞬で行き詰るのに。
 旧約聖書には「あ、ここにも私の姿がある。そこにも」と思える人間の愚かさに満ちている。だからこそここで自分を見つめ直せる。「立ち帰らねば」とも気付ける。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。  (出13・22)

 エジプトを脱出した民が、荒れ野の逃亡の旅で心も萎えて来る。その思いを誰よりも心配して下さったのは神ご自身だ。だから昼も夜も彼らの傍を離れない。それどころか彼らの先を進んで道を示し、最後尾を守っても下さった。
 ああ、私の今日という旅路にも、たとえ心萎える時があっても、神ご自身がお心を傾けて先頭を進んでいて下さる。私を離れずにいて下さる。だから心を強くして進み行こう、いざ出発せん。


●5(火)
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(創22・7)

 神からアブラハムが「息子イサクを献げ物にせよ」と試みられた時、イサクが唐突に言った言葉がこれだ。彼は息子の言葉をどういう思いで聞いたのだろうか。胸に突き刺さる問いではなかったのだろうか。
 「この道は御心なのか」と心配になることがある。常識では「絶対無理、嫌だ」と思える所へ向かう道だから。傍から「それでいいのか」と胸に刺さる声も聞こえるから。御心を歩む厳しさを改めて思う。

●6(水)
財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申8・13〜14)

 「満腹、満足だ」と思う時が一番危ないと、聖書は警告する。人生を振り返って「私も随分頑張って来たな」と安心する時が一番危ない。それは神を忘れて歩みだす道に入る瞬間だからと警告する。
 「ああ幸せ」と思う言葉に替えて「ああ主のお陰」といつも言おう。「苦労して来たなぁ」と思う心に替えて「ずっと神様に支え続けられたなぁ」と常に言おう。離反への淵は私の中で口を開いているから。


●7(木)
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。   (詩18・2)

 ダビデ王が、すべての敵から救い出された時、主を仰いで賛美した。
 彼は「やれやれ艱難を通り抜けた」と苦難を見て一息ついたのじゃない。「憎い奴らめ、ざまを見ろ」と敵を見たのでもない。「自分も頑張った」と己を見たのでもない。自分や敵を見る目を180度天に向き変えたのだ。そこで分かるのだ。主がいかに力強く救い出して下さるお方かということ、神がいかに近くに居て下さったかということが。私も、己の内側や人を見るのでなく、目を転じて主こそ仰がん。

●8(金)
男と女に創造された。(創1・27)

 神が人を創られた時、一人だけ創って「完成だ」とはなさらなかった。つまり人間は、その存在の初めから独りで存在するものではないのだ。互いに助け合う者を必要とする存在とされたのだ。独りでは生きられない存在となさったのだ。
 私の横に隣人がいるということは、当たり前の在り方なんだな。そこで愛し合い、助け合い、想い合い、執り成し合ってこそ人は人と成るのだから。独りで生きなくて良い。傍に助け合う隣人を、神がすでに創っておられるのだから。


●9(土)
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。   (創1・3)

 天地創造の初め、世界は神の「言葉」によって成った。まず混沌と闇の中に、「光あれ」と。そして神はその結果の一つひとつを見て、「良し」と言われるのだ。
 世界の全ては、神の想いがこもった「言葉」によって出来ているんだ。木も花も、動物たちも、私の傍にいる隣人の一人ひとりも、全ては神が「生まれ出るんだ。さあ生き生きと在れ。私が存在して欲しいと願う一つ、また一人よ」と願って下さっている存在なのだ。嗚呼その神の願いによって私という存在も生まれたのですね!


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月・祝日)
「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。」 (申4・2)

 モーセが、遺言を残すかのように「掟と法を忠実に行いなさい」と語り出す。それに続いて、その「忠実」が何であるのかを明確に示したのが今朝の一言だ。「律法に一言も加えず、一言も減らすな」と。
 御言葉に従うキリスト者にも今朝の言葉が響く。「赦せと言われるけど、あの人だけは無理と、勝手に減らすな。その御言葉はいつか従いますと、条件を加えるな」と。ただ「然り」と、黙々と歩みたい。


●12(火)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」(ヨブ1・9) 

 サタンは人間の一番弱いところを突いて来る「お前は自分の願い(病気を治してとか、試験に合格させてとか)を叶えてくれるから神を拝むのだろ」と。「祈っていても財産を失ったり、病気が治らなかったら、不平と不満で信仰を捨てるさ」と。
 私と神様との関係も、今朝もう一度問われる。「私はなぜ神様を慕うのか」と。「神が、私の主であるゆえにと、そこにちゃんと立っているか」と。サタンは今朝、私に挑戦して来ているのだ。


●13(水)
いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。    (詩1・1〜2)
   

 「幸いの在り処」を、詩人はズバリと告げる、「御言葉を昼も夜も口ずさみ、これを愛する人の処に在る」と。
 私は御言葉を、知ってはいる。でも四六時中、口ずさんでいるだろうか。御言葉で心が一杯になっているだろうか。いや、この世のアレコレだけで心が一杯になっているのかも知れない。そのアレコレに御言葉を関わらせてもいない。その時、幸いは指の間からスルリとこぼれ落ちているのに。


●14(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 (創2・24)

 「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉」と、自分の初めての、また唯一のパートナーとなったエバを前にして喜ぶアダム。この女と助け合って支え合って生きて行けるということを喜んだのだ。
 人って、何よりもの喜びは、お金や地位じゃない。支え合える助け手が傍に居ることなんだ。親友でも、家族でも、あらゆる隣人がそういう関係になったらどんなに良いだろう。夫婦はその最も大切なしるしなのかも。互いに仲良くしなきゃね。


●15(金)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。 (ヨナ2・8)

 神に逆らって逃げ出した果てに、嵐の海に投げ出され、大魚に腹に飲み込まれたヨナ。そこで神に顔を向け直した時、背きの者の祈りさえ御許に届いたのだ。
 神に反逆したにもかかわらず、そんな者の祈りさえ聞いていただける。無視され見捨てられて当然の関係なのに。人間同士なら、そんなこと在り得ないのに・・・。
 神様は決して関係を切りはしない。それこそが神の最大の奇跡、恩寵なのかも。


●16(土)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファ3・15)

 国が滅び、人々の中に恐れがとぐろを巻いていた。ジットリ絡みつくような闇があった。そこに神は、ゼファニアを通して「主があなたたちの只中にいるのだ。だからもう恐れるな」と宣言されたのだ。
 どんなに闇が深くとも、たった一点の光があれば、闇は退けられる。その一点が、主なのだ。私と共にいて下さる王なる主なのだ。踏み出す一歩の足元も、明るく照らされた。恐れず行かん。


●17(日・第1主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。(創35・2)

 ヤコブが神様から「ベテルに行って礼拝しなさい」と言われた時、家族と出発しようとする。その時に言った言葉だ。「みんな一緒に祝福を受けたい。そのために真の神へと、身も心も『着替えなさい』」と。
 家族の中で自分一人だけ祝福されていれば良いとは、そもそも神の願いではない。私も家族に、「さあ、真の神を仰ぐ姿に着替えようよ」と招くように促されている。家族の救いは、神の願いなんだ。

●19(火)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。(詩18・31)

 詩人は、神の道は完全だ、と告げる。さらに主のみ言葉は、その完全な道を示すのだと告げて、今日の言葉が続くのだ。
 単に、大樹に身を寄せれば安心、守ってもらえるというような事じゃない。「御もとに身を寄せる」とは、御言葉によって示さる神の道を歩むなら、その人を主ご自身が盾となって守らないはずがあろうかということなんだ。これは、主にのみ頼って生きたダビデの詩として聞けと言われる詩。その意味がよく分かる気がした。


●20(水)
柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。(箴15・1)

 神に願って知恵を得たソロモン王の箴言。知恵の言葉に満ちている書簡。
 私も知っている、憤りとか怒りとかが間にある関係は、どんなに暗いかを。その怒りを生むか鎮めるかは私の言葉にかかっているんだ。そうだとしたら、相手との関係が晴れ晴れする一日になるのか、曇りや大嵐になるのかは、私次第じゃない?
 そんな良い事、もっと早く教えてよ〜。 でも舌を制するのが一番難しいかも。それが知恵ある人だと言えるらしいから。


●21(木)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。(詩2・1)

 今朝のみ言葉は「なにゆえ主に逆らうのか」という叱責につながる。大声を上げて自己主張する。それは主に逆らう姿じゃないのかと告げるのだ。そして2編の最後で「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて」と辿り着く。
 むなしい者になりたくない。騒ぎ立てる者になりたくない。それは、神に逆らう者なのだから。ただ「主の御心を私にも成してください」と祈ろう。主のみ跡に従おう。信仰を、今朝新しく私に与え給え。


●22(金)
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らなければならない。(出12・24)

 「このこと」とは何か? 何を子々孫々守らねばならないのか。それは、エジプトの地で奴隷になっていたのを、神が御手をもって救い出して下さった救いの経験を語り継ぐこと。感謝を絶えさせない事だ。
 私も「御手によって助けられた」という経験がある。出エジプトより小さいけど、確かな出来事だった。でもそれを語り継いでいるか。もし神様への感謝を語り出せたら、私を囲む世界も神を知るんだ。


●23(土)
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」(創3・13)

 人が幸いでいるために必要なものは全部揃えられていたエデンの園。不足は何一つなかったのに、エバは「決してするな」と神に言われた唯一つの約束を破ったのだ。そのとき神様が言われた第一声がこれだ。
 私には、神の叱責ではなく、悲しみの声に聞こえる。情けなくて嘆く声に聞こえる。私も何度神様を嘆かせて来ただろうかと、シュンとする。でも同時に、どれほど気に掛けて頂いていたのかと、その熱い御思いが改めて迫って来るように思えた。


●24(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●25(月)
いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 (詩13・2)

 敵に囲まれ、内乱にも遭ったダビデ王。そういう彼が詠んだ詩として読めと、聖書は告げる。解決は主からのみ来ると、主にすがり続ける者の祈りがこれである。
 危機に及んだ時、私もまず神へと顔を向けよう。自分でアレコレと奔走し、万策尽きてやっと神様に「助けて」と求めるのでなく、いつも何よりもまず「主よ助けて。私はどうすれば良いのですか」と祈ろう。すがる姿に、もう信仰は現れているんだ。


●26(火)
天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。(詩8・2〜3)

 周りに満ちている神の御業を、詩人は心から賛美したいと胸躍らせている。でも彼は自分のことを知っている。それは、きっと戴いている恵みの御業を自分は数え上げ切れないだろうということを。ただ無条件で、気付かずに、戴くだけで生きているんだと。それを、自分は「乳飲み子」だと言ったのた。喜んで告白したのだ。
 私も「神様の乳飲み子」。今日を生きるための全てのものは、もう神が揃えていて下さる。安心してハイハイしよう。


●27(水)
見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。(イザ49・16)

 神様は「あなたを忘れることは決してない」と言われる。それはご自身の手の平に私の名を入れ墨して下さるほどに。決して消えないよう刻み込むようにだ。
 たとえ私が神様を見失っても、たとえ私が放蕩して離れても、神は手の平にある私の名を繰り返し呼んで下さるのだ。
 私は神様にどれほど愛されているか、少し分かった気がする。ご自分の手の平を傷つけてさえ、痛みさえも厭われない。あ、十字架の上の御子が心に浮かんだ。


●28(木)
隣人に関して偽証してはならない。  (出20・16)

 神ご自身が、モーセを通して与えた十の掟がある。今朝のみ言葉は、その『十戒』の中の第9戒だ。あらゆる嘘を言ってはならないと約束させる。それは、隣人との幸いな関係を一瞬で崩すからだ。さらに、神からの信頼も失うことになるからだ。
 巷で「嘘も方便。親切な嘘がある」と大人びた人が言っているのを聞いた。でも神様は、そこに付け込むサタンを見抜いている。いつしか自己中心的に拡げられていく嘘がからみついて来ると知っておられる。そこから逃れよと言っておられるのだ。

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2019年01月31日

『日々の聖句』2019年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年1月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(火・元旦礼拝)
「あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創22・18)

 アブラハムが、長男イサクを献げ物にするように神に告げられた時、苦しみつつも黙々と祭壇を築きイサクを屠ろうとした。その瞬間、彼の神信頼のゆえに親子ともども祝福される。その最後に告げられた御使いの言葉がこれである。
 神を信じることは闘いだと、いつも思う。自分の中にある疑いとの闘い、常識外れだと考える自分の尺度との闘い。御言葉を最優先させるって、自分がこだわる計画を手放すこと無しには無いんだな。でも手放す手に、祝福は溢れるんだ。


●2(水)
ユダのすべての町から人々が主を求めて集まってきた。(代下20・4)

 南ユダ王国の時代。都にモアブ人とアンモン人が大挙して襲って来た。そのとき王は戦略会議を開いたのでもなく、戦闘配備をしたのでもない。民と心を一つにして主に求めた。礼拝し、祈ったのだ。
 私は危機に襲われた時、自分の知恵を絞った。それから計画の成就を祈った。でもその一歩目が間違っていたのだ。聖書をずっと読んで来たつもりで、何を見ていたんだろう。肝心な一歩目が見当はずれだったのに。本気で修正したい!


●3(木)
あなたの父母を敬え。
(出20・12)                    

 律法の中の律法「十戒」の中の第5戒だ。その前半は、神と人との間の掟があり、後半は人と人との間の掟として「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」等がある。今朝のみ言葉は、後半の掟の最初に掲げられた戒めだ。つまり、神と人との間の掟ほどに重要な命令なのだ。
 父母を敬うことは、単なる道徳の話じゃない。誰もが分かっているはずの戒めだけど、誰もが壊しやすいもの。しかし神は、この関係が整う所に恵みを置かれた。ここが、人間関係の玄関なのだ。


●4(金)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)      

 詩人は、神様に向かって呼び求めている。苦難の底で(病気か、敵か、死が迫っているのか・・・)手を伸ばしている。しかしなぜかドッシリと信頼し切っている。
 あ、ご利益宗教の神頼みと決定的な違いが分かった気がした。詩人には、願う相手への信頼の固さがある。それは神様と関わる経験を持っていること、自分を守る神が誰かを知っているということだ。


●5(土)
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 (エレ31・34)               

 「神の民」とさえ呼んでいただいたのに、背き続けた人々。その報いであるバビロン捕囚の中で、神の言葉が人々に臨んだ。「もうあなたは罪を重ねないよね」と。
 圧倒的な赦しの宣言は、私への信頼と重なる。御言葉を棚に上げ、神の言葉なのに無視して、そうやって神を裏切った私を、まず信頼して下さる神。その信頼は、愛と重なっている。私は、赦しと信頼と愛に包まれている。それなのにどうしてなお神を悲しませられようか。


●6(日・第1主日・公現日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(創22・12)

 アブラハムが最愛の息子イサクを焼き尽くす献げ物にすべく、刃物を振りかざしたその時。神の使いが彼の手を止めさせて、「今、分かった」と告げたのだ。
 彼は神の言葉を聞いた時「絶対無理、嫌だ」と思わなかったのか? それでも届いた御言葉に従うのは、葛藤無くしてはないはず。「神を畏れる者か、自分に固執する者か」だ。机上ではなく、生きる現場でこの葛藤が起こる。そしてそこが祝福か、祝福に漏れるかの分かれ道なのだ。


●8(火)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。(エゼ33・11) 

 この「悪人」とは、犯罪人のことではない。神に背いた人のことだ。旧約では、神に裁かれて滅んで当然の罪人だ。それなのに神様の願いは、その罪人に向かって「立ち帰っておくれ」ということだった。
 旧約の神様って厳格な裁判官と思っていたけど、むしろ子を求めてやまない父のよう。ここに既に、愛の神の姿が見えた思いがした。神様は、ずっと愛だったんだ。


●9(水)
わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。 (エゼ3・10)

 捕囚の民の所へ遣わされるエゼキエル。主は「彼らはあなたの言葉を聞こうとしない」と言いつつ「彼らが拒もうとも『主はこう言われる』と語れ」と命じられた。その言葉を彼の心の中に入れて下さるのだ。
 どうして神を拒む人に、なお語らねばならないのかと思う。私には無理だと思う。でも神様は、その人をそれでも愛し続けておられるのかも。私にもその人を愛して欲しいのかも。神の愛に深さを、私にも生きて欲しいのかも。きっとそうなんだ。


●10(木)
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、・・・彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。(創22・2)

 独り子のイサクを焼き尽くす献げ物にせよと、神様から試みられたアブラハム。
どんな思いでこれを聞いたのだろう? 神様が約束して下さった贈り物としての息子だったはず。一番大切な息子。それを、神に従う印として返せだなんて。
宝も健康も、得たと思っているものは全て預かりもの。ならば失うのではなく、返す日が来る。ならばこれは、誰もがいつかは聞く言葉? 彼はこの後どうしたの。


●11(金)
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせてくださる。(サム下22・40)

 ダビデを襲う数々の苦難。サウル王から命を狙われ、ペリシテ人が攻め込み、飢饉に襲われ、彼は常に闘うことを余儀なくされた。しかしその全ての時を守ったのは主なる神。その一点を知っているダビデが感謝の詩を歌った。その一節がこれだ。
 私にも戦わねばならない時がある。願わない困難(病や試練も)が襲って来るから。しかしその時に、身を寄せるお方を私は知っているのだ。主よ、それはあなた!わたしの身に力を帯びさせて下さるお方!


●12(土)
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。(サム上12・21)

 サムエルが歳を取り、民を率いることから退こうとする時、告別の説教をした。
 「むなしいもの」と読んだ時、すぐに金や権力のことかなと考えた。でも聖書の前後を見たらハッキリ一つの事が示されていた。それは罪。主を離れ自分を頼ることだと分かって、恥ずかしくなった。どうしてボクは、すぐに罪のことだと気付けなかったんだろうと。罪を軽く考えているからか。自分から遠いものと思ってるからか。

●13(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●14(月・成人の日)
(主は言われた)「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出4・12)

 主が「お前にこの務めを担って欲しい」と召し出したのに「苦手です。弁も立ちません」とあらがうモーセ。それでも「あれもこれも備えるから」と忍耐された主なる神。モーセが踏み出すのを待つ神。
 いつもやりたい奉仕だけして、自己完結してきた私。でも神様は「こっちをこそ担え」と忍耐して待っておられる。そこに踏み出したら、壮大な神の計画が動き出すから。その道をこそ選べ、弱腰の私よ!


●15(火)
わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。(イザ8・17)

 エルサレムに敵が徒党を組んで来る、という知らせが届く。未だ神の助けは見えない。その恐れの只中で預言者イザヤは「なお神にのみ望みをかける」と告げた。
 神に望みをかけるというのは、お願い事を託すという程度じゃなかった。解決の糸口も見えない中で、なお全人生を神様に〈賭ける〉ということ。行く先を主に明け渡して、主権を譲ること。そこで解決が、人の手から、神の手に移るのだ。


●16(水)
泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。(エレ31・16)

 都エルサレムは陥落。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれる人々に、エレミヤが伝えた神の言葉。それは希望の約束、将来の約束。だから「泣きやむがよい」と。
 御心に背いて自分中心に生きたから行き詰まっていた。人との関係においても破れてゆく。その時、もし悔いるなら、この慰めの御言葉が聞こえて来る。立ち帰る者の涙は、必ず拭えるからと。そう言って下さる主と、今日も一緒に歩んでいたい。


●17(木)
主よ、あなたはわたしのともし火、主はわたしの闇を照らしてくださる。  (サム下22・29)

 ダビデが全ての敵と、サウル王の手から救い出された日、主を賛美して歌った。
 順風満帆の歩みに見えていた王なのに、いつも悩みに囲まれていたなんて。それも深い闇の中に居ただなんて。
私も闇と思える悩みに覆われる日がある。そのとき、御言葉に聴こう。聖書のみ言葉こそ、私を導き出してくれる神ご自身の言葉だから。その言葉が、私を照らす光なのだから。そうしたら、私も神を讃えて歌う朝が来るのだから。

●18(金)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。      (サム上二・三)

 不妊の女と言われて悩みの中を生きたハンナにサムエルが生まれた。そのとき喜びの中で主に祈る。賛美しつつ、同時に改めて自分の立ち位置を定める。悲しみを知って憐れむ主に委ねることに、自分を据え直す。信仰の謙遜さに立ち直した。
 喜びの中で、浮かれて思い上がることがある。自分の訴えが正しかったから願いが叶ったと。でも全ては主の御心、主の憐れみの御業だ。その中に留まろう。「祈って、委ねる」、この後者こそ大切だから。


●19(土)
「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。」(出3・10)

 神の命令がモーセに下る。それは人間のから見たら圧倒的な強の差があるエジプトの王の元に行くこと。だから「どうして私が行かなきゃならないの」と不平も出る。しかしなお神は「行け」とモーセを選んだのだ。民の解放という出来事を起こす神の使いとして。天の使いとしてだ。
 私達も「行け」と言われる場所や隣人の傍がある。そこに出掛けたら、神の御業が起こるために選ばれた一人として。誰もがそのとき、天の使いとされている。


●20(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●21(月)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。  (エレ9・23)

 南ユダ王国滅亡が目前に迫る中で、エレミヤが原因を予言する、「主の言葉に聞き従わなかったからだ」と。同時に帰る場所も告げた「目覚めて主を見よ。主こそ慈しみと恵みの業を行う方だから」と。
 神の恵が遠退いたと思うのは、神が私を離れたからじゃない。慈しみを受ける場から離れた私が原因。勘違いして嘆いていたのかも。老牧師が「礼拝厳守」と言ってたなぁ。そこが恵みの受領場所だから。


●22(火)
(ファラオは言った)「主とは一体何者なのか。・・・わたしは主など知らない」 (出5・2)

 モーセがエジプトの王に最初に会った時、王が言い放つ「お前が言う主とは何者か。私こそが主であり、王であるのに、他の誰に従うべきだと言うのか」と。
 ファラオのなんと不遜な言い方かと思う。その瞬間、彼の言葉が私の中にもあることに気付いてゾッとした。私も「この件については、神様に従うことはできません。私のやり方でしかやれません」と神様を払いのけている時があるから。その姿は、ファラオよりも不遜な者になっている。


●23(水)
主は約束なさったことを実現された。 (王上8・20)

 ソロモン王が、神の支えの中でとうとう神殿を完成させた。そのとき民の前に立って告げたのだ。父ダビデに神がなさった約束は、一つの言葉も欠けずに、ついに実現したのだと。約束の言葉は、神の口から放たれた時、どんなに時間がかかっても必ず実現へと向かっているのだと。
 神の約束の御言葉を信じたら、その瞬間に私の世界は一変する。現在は、神の計画の実現に向かう時間となるから。ああ、自分の将来を狭苦しくしていたのは、誰のせいでもない、私の不信だったんだな。


●24(木)
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。」 (創17・9)

 神がアブラハムに約束を交わされた「あなたを祝福する。あなたの子どもも孫もだよ。ずっとずっとだよ」と。そして「だから」と続けられたのだ。「だからあなたはその私の約束に従って生きるだけでいい」と。
 今まで「契約を守る」って、堅苦しいと感じていた。でも神様からの語りかけは、「ずっと愛しているから。その腕の中で守られて生きたら良いから」ということだったんだ。天の真の父に愛されて生きることだったんだ。その約束の中に居続けたい。


●25(金)
主があなたと共におられることがよく分かったからです。(創26・28) 

 ペリシテ人の王アビメレクが、イサクを見て悟るのだ「主があなたと共におられる」と。神を知らない王なのに、イサクの生活に神が生きておられることを見たのだ。
 私の生活は、隣人から見たら「神が共におられる」と気付けるのだろうか。それとも、不満と不安と憤りしかない「神と無関係の者」のように見えているのだろうか。口で「神を知っている」と言うことと、生活で「神と共に歩むことと」は、雲泥の差かも。私はどっちに立っているのかな。


●26(土)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。  (ホセ6・3)

 自らの背信により北王国が滅亡。人々が「我らは主を求めよう」と口で悔い改めた後、この言葉を続けたのだ。それを「信頼し切った悔い改め」と思ったけど、神様は「お前たちの愛は朝の霧のよう」と嘆かれる。これは、偽りの悔い改めだったのだ。
私も悔いた次の瞬間、罪を重ねてる。ルターが言った「主が悔い改めよと言われた時、全生涯が悔い改めであることを欲したもう」が心に染みる。それは真だな。

●27(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●28(月)
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 (イザ9・6)

 亡国の危機を前にした預言者イザヤ。彼は、国を救うのは人間の努力でも策略でも熱意でもないと言う。「ただ主を待ち望んで、御業に心を傾けよ。闇の中であれ祈りを重ねよ、待っておれ。主こそが、熱意をもってあなたを救うから」と。
いつも目の前の困難にうろたえる私。策を立て、それでも心配で、そこでやっと祈り出す始末。でも御言葉はそんな私に宣言する。ただ主に顔を上げるのみと。信仰は、余裕がある時の心の飾りじゃなくて、闇の中でも唯一残るものなのだと。


●29(火)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。 (詩42・2)

 「神はどこにおられるのか、私には見えない」と苦難のどん底で叫ぶ詩人。
 苦難に陥らない人はいない。でもその時私は、何を求めているだろう。解決策か、解決への奇跡が起こることか。神を求めるのも、奇跡を行う方となって欲しくて呼び求めているだけなのかも。
 詩人の求めはそれとは何かが違う。彼は神そのものを求めている。「奇跡さえ無くていい、ただ会いたい」と喘ぐように叫んでいる。そういう求めが、信仰なんだ。


●30(水)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。 (箴3・9)

 収入を手にした時、最初に生活費を取って、残りをささげものに配分するのではない。まず神に一番良い部分を取り分けよと告げられている。そうすればあなたの倉は満たされると約束もされていた。
 私は若い頃、生活費を確保してから「神様、今月はこれだけささげます」と、胸を張って言っていた。神様はきっと「お前にとって私は2番3番手なのか」と情けなく思っておられただろう。ささげることにも、神への畏敬の真実さが現れるんだ。


●31(木)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。(出15・13)

 追い迫るエジプトの大軍から、神が民を紅海を渡らせて救った時、モーセが歌った神賛美だ。
 誰もが「万事休す」と思ったのに、神様だけがその「万事休す」の向こう側への扉を開かれた。それが神の「御力」そして神の「慈しみ」なのですね。神の慈しみって、あなたの心の中の思いの話じゃなくて、出来事となる力なのですね。つまり慈しみを戴いたら、救いの出来事が始まる。その神の慈しみの射程に、私も入っているんだ。




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2018年12月31日

『日々の聖句』2018年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年12月
(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)




●1(土)
わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。  (使4・12)

 ペトロらは「イエスは死者の中から復活された」と告げたゆえに投獄された。その翌日、権力者の面々を前にした審問で、なお語り抜いたのがこの言葉だった。
 小心者の私には「怖くなかったのだろうか」と思えてしまう。私たちは、権力者を前にすることはないけど、近所や親戚や世間の面々の前に立っている。それはペトロラと同じ場所かも。勇気が欲しい。主を証するため、私にも聖霊を送り給え。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 (ヤコ1・12)

 離散した民が、その地において信仰生活を生きるのに、試練に遭っていた。そういう一人ひとりに向けて語られているのだ「忍べ。その先に命の冠があるから」と。
 改めて、試練がない人生なんて一人もいないんだと思う。ならば「なぜ自分だけ試練があるのか」と悩むのじゃなくて、グッと受け入れて、グイっと前へ踏み出そう。手をググっと命の冠の方へ伸ばすんだ。


●4(火)
神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 (ロマ6・23)

 「あなた方は今まで罪の奴隷だった。自己本位に生きる罪人だった。そのどこに神への信仰があるのか」と真実を突いた後に、「そのあなたに神様からの賜物があるのだ」と告げられた。つまり、神からの贈り物の大きさに気付ける人は、自分が罪人だとちゃんと気付けている罪人のみ。
 永遠の命は、受け取る資格もない自分だと気付けて、悔いた人への賜物。その低いハードルさえ、僕はちゃんと越えてなかったかも。悔い改めもせず浮かれてたかも。


●5(水)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (1ヨハ1・9)

 「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いる」と語った直後、ヨハネは「御免なさいと言い表したら、清められる」と告げた。
 罪を隠すつもりはないけれど・・・もしも自分の罪を数えられないのなら、赦しも清めも救いもないんだ! 主よ、「私は罪人です」と言い表せるほど具体的に罪を数えさせて下さい。そこが、あなたの恵みを受け取れる唯一の場所なのですから。


●6(木)
萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。(ヘブ12・12)

 鍛錬というのは当座は辛く苦しいと思うけど、霊の父は私たちを鍛えようとしてそれを与えておられるのだ、と告げられる。その先には、ご自分の神聖さにまで引き寄せようとしておられるのだと告げられたあとで、今朝のみ言葉が言われる。萎える手があるだろう、弱る足があるだろう、でももう一度立ち上がって御覧。目当てに向けて顔を上げて御覧、と。
 今の苦難が御父の鍛錬なら、それは今も御腕の中ということ。私は今、安心の中にいるのだ。じわっと力が湧いて来る。


●7(金)
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 (1コリ3・11)

 主によって召し集められた群れが「教会」。それは神の神殿、その土台はキリストだと告げられているのだ。
 「教会なんだから当たり前」と思ったすぐ後に、土台を忘れていることがあると気付いた。人間の思いで会議して、姉マルタのように動いて、人の常識が声高に言われる時、土台は己の思いになっている。
唯一思いが整えられているのは礼拝に与っている時。その心のまま生活したい。


●8(土)
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 (1コリ7・19)

 ユダヤ人キリスト者は、古くからの割礼を受けていることを誇った。異邦人キリスト者は、古いことに縛られないことを誇った。でもパウロは言い切る。神に喜ばれることは、むしろただ一つの事だけだ、それは誰にとっても、神の掟(御言葉)を大切に生きるか否かだ、と。
 御言葉をたくさん知っている信仰者がいる。まだあまり知らない信仰者がいる。でも肝心なのは、行うか否かだ。ああ一つの御言葉でもいい、今日そこに生きたい。


●9(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マコ3・35)

 イエス様を訪ねて来た母と弟達を指して「わたしの母、兄弟とはだれか」と問われる。皆が、そこにいる家族でしょと思った思いに「御父の言葉を、御子の私が行うように生きる人だ」と言われたのだ。
 私もイエス様の弟なんだと嬉しくなる。でも直後に、本当に弟になれているのかと不安になる。御言葉を行っていない自分の姿が分かるから。改めて、肉の自分の生き方を捨てて、〈神の家族〉になりたい。神様と〈他人のまま〉でいたくない。


●11(火)
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。  (ヤコ4・3)

 この御言葉の直前に「得られないのは、願い求めないから」とある。本気で神に求めない貧しい信仰。そして続くのが、求めても自分のためのことは得られないよと続くのだ。人はいつも自分しか見ていない。
 自分に目を向けることから、主に目を向けることへ向き直ろう。私が主に何を求めるかでなく、主が私に何を求めておられるのかに向き直ろう。そこが出発点、そしてゴール。そこで全てを得るのだから。


●12(水)
(イエス)まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。  (マコ8・17)

 「5千人の供食」の奇跡も「4千人の供食」も経験した弟子たちなのに、目の前にパンが一つしかないという現実に心を捕らわれて慌てふためいた。そのとき主が「まだ悟れない、心が頑なで鈍い者よ」と嘆かれた、いやあきれられた、いや怒られた。
 私も主の守りを経験したのに、次の困難が来たら信頼が消える。現実の小さな苦しみに、信仰は剥ぎ取られてしまう。
でも主は怒りつつ弟子を離れない。その憐れみの中で、私もやっと生きられる。


●13(木)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる。 (ロマ10・12)

 この「すべての人」の中には、同族でありながら敵対する人も、神など居ないと理屈ばかりいう人も、皆含まれる。ユダヤ人もギリシア人も区別は無いと言うのだ。
 「イエス様を知らないあの人も、神は助けて下さるのだろうか」と気になっていた。その不安に光が差す。「ただ呼び求めれば良いのだ」と知ったから。「呼び求める」ことの絶大な恵みを知ったから。そうだ、私が傍で一緒に呼び求めれば良いんだ。


●14(金)
信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(ガラ3・7)

 「良い行いを心掛けているし、正しく生きている。だから神にも認められる」と自認していたキリスト者に、パウロは「否」と告げる。「あなたに欠けたものがある。それは信仰だ。信仰によってのみ神の子とされるのに」と。
 律法主義とは無縁だと思っていた。でも、信仰を見るのでなく、自分の生き方を気にしているのは隠れ律法主義だ。改めて、自分の信仰はどうなのか、その一点を見詰め直そう。そこが出発点だから。


●15(土)
自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 (ヘブ12・1〜2)

 モーセもギデオンもダビデもサムエルも、全ての神の人らは忍耐強く信仰の道を走った。その歩みに我々も繋がっているのだと告げられる。さらに、我々は共に走って下さるイエス様がおられるのだから、先頭を進んで下さるイエス様がおられるのだからと、呼びかけられているのだ。
 苦労はある、しかし独りじゃないということが、何よりもの励ましに聞こえた。


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモ2・4)

 神は、「第一に願いと祈りと執り成しと感謝を、王たちやすべての高官たちのためにもささげよ」と言われる。そして「すべての人々が救われることを望んでおられる」と続くのだ。救いは、私が望む私の大切な人だけじゃない。異文化・異教徒・支配者・さらには敵も含めてである。
 私の祈りのなんと狭かったことか。その祈りの狭さは、私の心の狭さそのもの。今日、祈りの射程も心も変えてみよう。そこからきっと何かが変わっていくはず。


●18(火)
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。(ヨハ14・18)

 主が十字架に掛けられる前夜、弟子を前にしてなさった告別説教の中の一言。イエス様ご自身が、離別のあとに弟子たちが抱えるだろう悲しみを分かっていて下さる。傍に姿が見えず、尋ねられず、頼れない不安を知っていて下さるのだ。
 それは私も抱える不安かもと、ふと思った。その思いに御言葉は優しく響いて来る「あなたを独りぼっちにはしないから」と。「聖霊を送るから」と。ああ、主の霊が私の内に居られる。私は独りじゃない。


●19(水)
しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(1コリ15・10)

 パウロは、自分はキリストの迫害者・神の敵だったのに、主がキリストを伝える器として働かせて下さったのだと分かっている。その彼だからこそ、心の底から言えたのだ「働いたのは私でなく、神の恵みだ」と。
 真の謙遜は、単にへりくだることじゃない。それだけなら偽りの低さになる。罪を悔いて、神を高く上げることを欠いたら、見せかけしか残らない。「神の恵み」と言えるのは、生きた信仰の言葉なんだ。


●20(木)
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。  (ルカ10・3)

 イエス様は、弟子たちを含めて七十二人を伝道に遣わす。「神の国(平和の神の支配する日)が近づいた」と宣言するために。その派遣は、オオカミの群れの中に羊を送り込むような困難があるとご存知の上で、だ。
 危険を知りつつ託すほどに、信頼して下さっている。私達にも、主の口となって福音を持ち運んで欲しいと、願っていて下さるんだ。その御心を受け取って、私も立ち上がろう。追い風が吹いている。主ご自身から吹く追い風が。「行きなさい」と。


●21(金)
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。  (エフェ5・30)

 驚くことに、これは夫婦について教えられている中の一文だ。「妻たちよ、主に仕えるように夫に仕えよ。夫たちよ、主が教会を愛したように妻を愛せ」と。そして告げられるのだ「二人はキリストの体の一部、主にあって一体なんだよ」と。
 最も近い隣人が夫婦。そこにおいても破れを起こしてしまう現実。だからこそ、御言葉が立ち帰る場を示してくれているのだ。互いに傷つけ合うと、キリストが痛んでいる。補い合って生きてご覧。主もあなた方を包んで支えてくれているからと。


●22(土)
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。(1コリ16・13)

 信仰生活が乱れたコリント教会に向けての手紙の結びの言葉だ。烏合の衆となっていた彼らに、再びキリストの十字架を示し、死者の復活も伝え、霊的な賜物の話もして、献金のことも語って来た。その締め括りにこの言葉を告げたのだ。
 「しっかり立て」と励ます。でも、自分の遣り方によるのでなく、経験によるのでもなく、「私は赦されて救われた罪人、キリストのお陰で」という基に立つことだ。信仰を欠いたら、単なる〈元気な人〉になるだけだから。教会生活も私生活もだ。


●23(日・第4主日)

クリスマス礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月・祝日、クリスマスイヴ)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 (1テサ5・15)

 これは有名な「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい・・・」という御言葉に並んで書かれている言葉だ。喜びたい信仰生活を、「悪意」が一気に崩すからだ。その悪は、自分の内側から、行いと言葉によって出て来るのだ。
 もしも小さな悪意(相手への不満や、不信、憤りも)を持っていたら、小さな喜びさえ追い出される。喜びを滅ぼす悪は、私の内に居座るからだ。悪を抱えるのも私、捨てるのも私、決断は私がせねば。


●25(火・降誕日)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。   (コロ1・14)

 み言葉は「この御子によって」とキリストを指し示す。十字架の上のキリストという一点を指さす。あなたも父なる神に「愛する子らよ」と呼んでいただけるのは、御子の死によってのみなんだと。
 私が今あるのは御子のお陰ということをつい忘れてしまう。だから信仰生活も生ぬるかった。御子の命という戴き物への真剣な応答でなく、自分で出来る範囲の生き方だったから。降誕日の今日だからこそ「御子のお陰」と心して歩まん。


●26(水)
あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対して。 (1コリ6・8)

 教会の中に争いごとが起こっていた。信仰者同士なのに、争っていた。その姿をパウロは嘆いている。教会はその始まりの時から既に、醜い人間の姿のルツボになっていたんだな。
 教会は聖い人の集いだと思っていたけど、そうじゃない。罪人の頭領達の集まりなんだ。誰もが救ってもらわなければならない輩だから、神が呼び寄せられたのだ。だからこそ、救われた感謝が一番分かっているはずの群れ。そこに留まりたい。


●27(木)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。  (ルカ6・19)

 おびただしい人々が、イエス様のもとに押し寄せて来た。ただ触れることでさえ癒されるから、と押し掛けたのだ。
 彼らの姿を「ご利益宗教と、あまり変わらないじゃない」言い捨てには出来ない。イエス様に何とかして触れたいと必死に近づく思いが私にはあるのかと考えたら、恥ずかしくなったから。彼らの「何とかして」と走り寄る姿は、人目なんて気にしていない。心の中がイエス様でいっぱいになっている。心にイエス様だけがおられる。そんな姿に私もなれたらとさえ思えて来た。


●28(金)
相変わらず肉の人だからです。 (1コリ3・3)

 「肉の人」って何だろうかと聖書を見たら、「互いの間にねたみや争いが絶えない」人のことだった。そういう自己主張し合う者たちは「ただの人だ」とさえ言い切られる。その語気には嘆きさえ聞こえる。
 それも、「相変わらずだな」と言われていることにドキッとしてしまった。少しはキリスト者らしくなれていると思っていたのに、相変わらずの私だなんて。未だに愛するのでなく、争いを起こす肉の人。小さな自己主張を身にまとった肉の者。ああ、今もまだ私は、憐れみにすがる他なし。


●29(土)
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。(1コリ12・6)

 与えられた賜物を生かして奉仕する。そこに喜びがあるのは、賜物を生かせる喜びと繋がっているのだろう。でも御言葉は「その働きは神がなさっている」と語る。
 私は勘違いしてたのかも。私に御自分の賜物を与えた神は、〈私を用いて〉〈私を通して〉御自分が働こうとしておられるのに。神がなさるのに、自分がしたと勘違いしたら、そこで人目が気になることも始まるのに。どえらい勘違いをしてたかも。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●31(月)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。  (エフェ5・8)

 今までは神を悲しませて「憤り、怒り、わめき、そしり」など悪意に生きていただろうと聖書が語りかける。しかし続けて、あなたはキリストに結ばれたのだから、暗闇は去り、光の中に立っているのだと告げる。そこに高らかに響く、「光の子として歩みなさい」との御声が。
 今年を振り返りつつ、悔い改めて決意を新たにするのに相応しい神の言葉をいただけた。さあ腰の帯を締め直して、光の子として歩まんと。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:23| 『日々の聖句』

2018年11月30日

『日々の聖句』2018年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年11月

(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 (ヨハ7・37)

 仮庵祭でイエス様は「渇いている人は」と呼び掛けられた。そして与える〈生きた水〉は〈霊〉であると聖書は加えてもいる。
 「渇いている人よ」と呼び掛けられて、きっと多くの人が振り向いただろう。人は誰もが本来渇いているから。その渇きはこの世の何ものをもっても埋めることは出来ない。だから、「自分で何とかできる」という人じゃなく「イエス様しか埋められない」と気付けた人が飲める水なのですね。その水は主から出る助け主・聖霊だから。


●2(金)
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 (2コリ3・16)

 自分の行いを見る〈律法主義〉に生きるなら、真の救いは見えない。「しかし」と御言葉は導く。主の方に向き直るのは、聖霊の働きによる、と。聖霊があなたの覆いを取り除いて下さるから、と。
 聖霊が「こっちを見て」と私を招いているのに、私はいつも自分だけを見ていた。自分の正しさとか、自分の願い、自分の不満・・・、どこまでいっても自分の眼鏡を通してだけ。覆いを自分でかぶっていたのか! 信仰の一歩目は、向き直りなんだ。


●3(土・祝日)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。  (コロ1・23)

 直前の箇所全体で、私たちの目を、キリストの十字架の御業・和解の御業へと集中させる。それから今朝の御言葉が告げられるのだ「そこから離れるな」と。
 キリストの素晴らしさも有難さも知ってはいる。それなのに私は、キリストから離れることがあるんだ。自分勝手に歩く私と、キリストを喜ぶ私と、その間をフラフラしているフラフラ信者。両足で福音に立つ不断の決意こそ、信仰なんだ。


●4(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●5(月)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」  (ルカ18・13)

 イエス様は「私は義しく在れて感謝」と祈った人を「その高ぶりようはなんだ」と見詰める。そして「私は罪を犯した。神に愛される資格もない」と祈った人を「あなたにこそ私が必要だ」と見詰められた。
 私もこの罪人のように祈りたいと思う。でも彼のように個々の罪を数えているか。数えないで「雰囲気だけの罪人」なら最大の偽善者かも。主よ、祈りを導いて!


●6(火)
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべきお方です、アーメン。   (ロマ1・25)

最初「ここに神賛美の声が聞こえる」と微笑ましく思えた。しかし聖書を開いて驚いた。そこには痛烈な批判があったから「お前たちは造り主の代わりに造られたものを拝んでこれに仕えた」とあったから。
 ハッとした。神を賛美するというのは、自分の常識やこの世の生き方に片足を染めつつ、もう片足で賛美するなんて、都合の良い生活には無いと分かったから。その人の賛美は、神の嘆きの元でしかないんだ。〈造り主お一人〉に立ち帰りたい。


●7(水)
今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。   (ヘブ3・15)

 この御言葉は3章と4章に3度も繰り返される。聞く者を一人も逃さないで、投網で捉えようとするように。
 御言葉を聞いて、心の深い所で受け止めて、自分を御言葉に添わせようと一歩を踏み出すのは、正に「今日」なのだ。今、この御言葉を聞いた直後「私を変えて下さい」と祈り始めること。その一歩さえないから、いつまでたっても「明日頑張ろう」で終わっていたのかも。さあ祈ろう。


●8(木)
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 (ヘブ10・22)

 イエス様は、御父がおられる天の聖所に私が入る道を拓かれて、私を執り成す大祭司としてもいて下さる。だから、まっすぐ神に近づけばよいと御言葉は告げる。
 なんて至れり尽くせりなんだ。どこまでイエス様は私のために尽くして下さるの?そんな価値など無い私なのに・・・。
もしかしたら神から見たら私も貴いのかも。それを、誰よりも御子が知っていて下さるのかも。放蕩息子が家に帰るように、私も帰ろう。朝毎に御前に帰ろう。


●9(金)
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。  (1コリ1・23)

 神様は〈奇跡〉を行うことによって人を救おうとされたのではない。また、誰もが納得できる〈教え〉によって導こうとされたのでもない。ただ「あなたのために御子が罪人として死なれた」という十字架を愚直に伝えることによってだけだと告げる。
 〈あの人〉が救われるには、十字架の出来事を伝えるしかない。ハッとした。神様が、〈あの人〉の傍にいる私の口をどれほど大切なものと見ていて下さるか分かったから。己の生き方などで伝えるのではない。


●10(土)
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。 (1テサ4・7)

 パウロが「情欲におぼれるな、兄弟を踏みつけるな、道を逸れれば神は罰せないではおかないぞ」と厳しく命令する。それは単に律法的にではなく、「あなたが聖なるも者となることが神の願いだからなのだよ」と、愛する眼差しで告げたのだ。
 厳しかった母教会の牧師や母が、一番私を愛してくれていたことを思い出す。二人とも「神に喜ばれる子になれ」と言っていた。あれは必死の言葉だったんだ。


●11(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●12(月)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。  (マタ6・3)

 人が善行をする時に訓戒された、「人に見てもらおうとしてするな。隠れて誰にも気付かれないようにするのだぞ」と。
 「人に見てもらおうとなんて思っていない、そんな気持ちはない」と思ってた。でも「人の目が気になるのはどうしてだろ」と気付く。人から「良かったね、素晴らしい」と言われたら喜んで、何も言われないと不満になる心がある。それも根深くある、すごく左右されている。神の賞賛より人の賞賛に取りつかれていたからかも。


●13(火)
神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 (1ペト5・10)

 キリスト者がこの世を歩む時、悪が襲って来る。それは「ほえたける獅子のようにやって来る」と告げられていた。そこに苦しむ者に神の力づけがあると言われていた。
 これは、信仰に立って生きんとする闘いを放棄しない者への励ましだ。この世の習わしに流されずに立たんとする人には、神の支えはとってもリアルに感じられるのですね。私もそういう一人でありたいな。


●14(水)
わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。 (ヨハ8・12)

 神殿の中で語られたイエス様の言葉。それも公で、広く知らされた言葉なのだ。
 その言葉は、なんだか謎めいて聞こえる「世の光」「命の光を持つ」等だけど。でも無性に私の心を捉えて放さない。もしかしたら「光」に憧れる思いがあるからか。光の反対の「闇の中を歩く」ことから逃げ出たいと願っているからかな。
 一本の道が見えた気がした。それは光をたどる道。そこを歩けばイエス様に繋がる道。あ、それが「従う」という事かも。


●15(木)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。  (ルカ1・68)

 洗礼者ヨハネの父ザカリアが、聖霊に満たされて語った預言の冒頭だ。年老いた自分に子どもが生まれるなんて信じられなかった彼。しかし今、神の御業を体験した時、今度は主の御業を伝え出す。喜んで語り出す、「ほめたたえよ、主を」と賛美したのだ。
 賛美というのは、自分の感情で作り出すものじゃない。賛美は、神の恵みの御業へのコダマのようなものかも。御業と賛美は二人三脚のように進むのだ。賛美上手な人は、恵み探し上手な人ってことかな。


●16(金)
世の無力な者を選ばれました。   (1コリ1・27)

 神は、家柄や能力や知恵のある者を選ばれない。それらが全くない者を選ばれると言われる。その者たちは、全く無力な十字架の主と同じ所にいるから。その場所で二人は結びつくことが出来るから。
 無力な者で良いんだと聞いて、ちょっと嬉しくなる。自分の無力さを分かっているから。無力が尊ばれるなんて!
 でも待てよ? 何の為に選ばれるのかと思って気付く。御用をさせるためだ。無力をさらけ出して、隣人に十字架の主を持ち運ぶためだ! なんか緊張するなぁ。


●17(土)
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。    (ヨハ15・4)

 イエス様が「わたしはぶどうの木」と話された一節だ。幹につながっていなければ枝の私たちはすぐ枯れる。枝に必要な水も栄養も、幹のイエス様からいただくから。
「嬉しいな」と聞いて「でもつながっているってどういうこと?」と思う。真剣に考えなきゃ、嬉しい気分だけで終わりそう。
栄養とは、御言葉。つながるとは、御言葉通り生きること。そう説かれているイエス様の話を聞き逃したら、気分屋クリスチャンで終わるところだった、危ない!


●18(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)


●19(月)
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。  (ガラ2・19)

 自分がどんな良いことをしたかによって神に「義しい人」と言っていただけるんじゃない。そうやって自分を見ている人は、自分が神になっている。その自分にこだわることを捨てることが、キリストと一緒に十字架で死なせていただくことなんだ。
 「キリストのお陰で」と生きることと、「自分のお陰で」とどこかで思っていることとは、相容れない。自分主義に死ぬことさえ、イエス様にして頂かなければできないのかも。それほどに自己執着は深い。


●20(火)
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。  (コロ3・14)

 愛さえあれば良いんじゃないの? と思ってたけど・・・。憐れ、謙遜、柔和、寛容を身に付けて、忍び合う事、許し合う事もせよと言われている。その上に愛することが来るのだ。全てのことを行って、それを完成させるきずなが、愛だから。
 今まで何だか〈部品〉も揃えずに、信仰生活が完成できると思っていたかも。愛だけあれば良いと思っていたけど、違うんだ。まず部品から。やっぱり王道はなく、コツコツ一歩ずつなんだな。


●21(水)
神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。  (エフェ4・32)

 「無慈悲、憤り、怒り・・・一切の悪意と一緒に捨てなさい」と告げられた後に今朝の御言葉が続く。赦すことを妨げるのは、あなたの中の悪意だと言われていた。
「私もあの人を赦そうかな」と軽々しく考えて、ハッとした。「神がキリストによってあなたがたを赦したように」とあるのは、相手を赦すために、命を捨てるほどに傷つくのは自分自身だということだから。相手を上から見て「赦してやろう」なんて、傲慢と、罪の極みだと気付いたから。


●22(木)
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。  (1コリ15・3)

 パウロは、主イエスの十字架と御復活、そして聖霊降臨を語った。その知らせが人を救うから。闇と罪のどん底から救い出すからだ。この神の力である福音を、彼は「わたしも受けた」、戴いたんだと告げた。彼自身が考え出したのではく、自分もバトンリレーの中継走者なのだ、と。
 受け取る→伝える→受け取る。世の果てまで繋がる福音リレー。あ、私も受け取るだけではリレーを中断させてしまう。


●23(金・祝日)
あなたがたも祈りで援助してください。 (2コリ1・11)

 パウロはアジア州での迫害に「死の宣告を受けた思いでした」という。しかしそこでこそ自分に頼らず、神に頼る者とされたと報告する。しかしそこで同時になのだ。あなたがたの祈りの援助も、どうかお願いしますと告げたのだ。それほどに執り成しの祈りは大切なのだ、と。
 自分が信じて歩むことが大事だと思う思いは、ひょっとしたらそこで、自分だけで信じていだら良いという誤解に陥るのかも。それはもはやキリスト教ではない。互いに祈り祈られる群れが教会なのだから。


●24(土)
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。  (1ヨハ5・5)

 悪の世に打ち勝てと勧められ、勇気が湧く。その悪とは、自分が愛したい人しか愛せない事、憎む人をつくることだと告げれている。その只中で十字架の主を信じて、その御姿に倣えば、愛を失った世に抗って生きられると告げられていたのだ。
 世の悪って何のことを言っているのかを知って愕然とした。「世の悪は我の中にあり」と気付いたから。隣人を分け隔てして愛せず、憎んだりする自分がいる。何よりもまず私を、十字架の傍に立たせ給え。


25(日・第4主日)

右向き三角1主日礼拝説教
「だれから聞いた福音か」
コロサイの信徒への手紙一章七〜一二
       大住雄一牧師
        (東京神学大学学長)

右向き三角1午後1時
「伝道70年記念講演」
講 師・大住雄一 東神大学長
テーマ・「70年は短いか」

●26(月)
群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。  (マコ8・2)

 成年男子だけで4千人が、7つのパンと2匹の魚だけで満腹した。その奇跡の発端が、イエス様のこの〈心配〉だった。「なんてかわいそうだ」と心を向けて下さる時、人知を超えた奇跡が起こった。
 奇跡ってすごいと羨ましがって、そういう奇跡は私には起こらないと残念で・・・。でも今朝気付いた。主の〈心配〉が奇跡の発端なら、僕にも奇跡は起こるかも。誰もがイエス様に心配されているから。そして今日を生きている。これは既に奇跡。


●27(火)
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方。  (エフェ3・20)

 「わたしたちの内に働く御力」は何なのか。文脈の中で語られていたのは「キリストの愛」だ。もちろんその「キリストの愛」とは、心情的な愛情なんかじゃない。ご自分の命を私のために投げ出された出来事だ。命懸けの激しい熱情だ。
 私のために死なれたお方が、なお私のために内住して下さる。万軍の王が内に立っていて下さるのだ。安心して進まん。


●28(水)
あなたはもはや奴隷ではなく、子です。  (ガラ4・7)

 キリストを信じるのはイエスを天の父の御子と信じること、その時あなたも神の長子イエスにつながる神の子に縁組されたのだ、とパウロは語る。同じ御父を「アッバ、父よ」と呼べる一人になった。それは長子イエスと同じように、天の宝も受け継ぐ者とさえされた事、と告げられていた。
 万軍の主が、この私にも「わが愛する子よ」と呼びかけて下さるんだ。だから私も「天のお父さん」と応答しよう。一日に何度も「天のお父さん」と呼んで過ごそう。きっと、今日が安らかな日になるから。


●29(木)
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。  (エフェ6・4)

 聖書に、親と子の正しい在り方が書かれている。それは、平安も幸いも家庭から生まれるし、そこから失いもするからだ。「主がしつけ諭されるように」とは、自らを十字架につけて「あなたのため」と自らの死を選ばれたお姿になれと言うこと。子どものために自らに死ぬ姿には、確かに上からガミガミ言って子どもを怒らせる姿はないよね。
この御言葉に従わねば。私も、子の親だから。子どもの幸いを願う親だから。


●30(金)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。    (ヘブ4・15)

 神と私の間に立って、私を執り成してくれるのが「大祭司」の務め。その務めを、救い主イエス様ご自身がなさって下さるということ。それも「お前の側に、お前びいきの大祭司として立つからね」と言って下さるのだ。「あなたの弱さも罪も恥も過ちも、すべて分かっている上でだよ」と。
 私には、味方がいる。それを信じて今日を歩みだそう。そうしたら自分の愚かさによって躓く時、その傍にただ一人一緒にいて下さるあなたを感じられるから。


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2018年10月31日

『日々の聖句』2018年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年10月
(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)




●1(月)
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。      (エフェ4・29)

 「隣人に語れ」と言われる。トラブルに関わらないように黙っていろというのじゃない。無関心で良いと言われているのじゃない。語れと言われている。それも、何を語るのかに気を付けて、そして語れと。
 私の生活は、ついこの逆になる。聞く人を引きずり降ろすことを話してる。その人をギャフンと言わせる言葉を探してた。いつからこんな人間になったんだろう。今日こそ、生まれ変わりたい。


●2(火)
イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。     (ルカ2・51)

 十二歳になったイエス様が、宮詣からナザレの村に帰って行かれた。そこで少年期を両親に仕えて暮らされたのだ。
 信仰の歩みは、宗教的に突飛なものじゃなくて身近にあると気付かされる。それは両親に仕えること。両親を心から敬い、それも無条件に敬って仕えることは、単なる親孝行の話じゃなくてイエス様ご自身の足跡だったんだ。その足跡に、私の足も乗せて歩もう。隣人を愛する最初の一歩は、正にここにあるから。


●3(水)
時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。    (マコ14・41、42)

 ゲッセマネの園で最後の祈りの後、意を決して「時が来た」と立ち上がられたイエス様。主はどこに行かれるのか?それは、ご自分が嘲られ、鞭打たれ、十字架刑で殺されることへと向かうということだ。自分の死へと向かうのに、なぜか力強い。決心の重みがズシリと伝わる。
 主よ、あなたは私の罪まで飲み込んで、身代わりに死なれるために立ち上がられたのですね。そのあなたの背中を見詰めつつ、私はどう生きるのか見詰め直さねば。

●4(木)
さあ、立て。ここから出かけよう。        (ヨハ14・31)

 あれっ! 昨日に続けて今朝も同じ場面。十字架の出来事直前の御言葉だ。主が 「今から起こることは天の父の御心なんだ。その御心の起こる場所に私は行く。さあ立て、あなたたちもその目撃者になれ。証言者となれ」と促されたのだ。
 主は私にも、「立て」と促される。それは安楽な場所へ向かう出発じゃない。たとえ自分の十字架と思える辛い場所でも、そこで御父の御心が成るから。でも2日連続でこのみ言葉なのは、私がよっぽど避けているからかな。主はお見通しかも。


●5(金)
神を愛するとは、神の掟を守ることです。      (1ヨハ5・3)

 人は、御神によって命を預けられた。御父の愛する子として生きている。そうであるなら、と今日の御言葉は続くのだ。生んで下さった方を、あなたも愛せるだろと。愛するなら、御父が言われたことを大事に聞いて守る子どもで在れるねと。
 御父を愛するって、やっぱり生活で目に見える形になるんだ。だからその姿が自分勝手になってる時、私は手に負えない放蕩息子になっている。御父を涙させる子になっている。御免なさい、そして今度こそ天のお父さんの言葉に従いたい。

●6(土)
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。            (ロマ12・12)

 キリスト者の生活の道標が掲げられる。「希望を持ってね、嘆きに生きるんじゃなくて喜ぶんだよ。苦難があるけど、忍耐するんだよ。どの瞬間も祈れ、祈らないと切り抜けられない事ばかりだからね」と。
 キリスト者になったら苦労だらけで辛いのかなと思ったけど、苦労があるのはキリスト者でなくても同じだし、と思い直す。そうしたら、道標を知っているのは凄い事だぞって辿り着いた。ということで結論、キリスト者で良かったと日々踏み出そう。


●7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月・祝日)
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。     (エフェ4・2)

エフェソ書は「教会はキリストの体。あなたがたはその部分」ということを中心に告げる。その一人ひとりが、一つの体として一致するためにはどう歩むのか。今日の御言葉は、そこに具体的に触れる。
 高ぶるとき、柔和さが消えて怒り出したり、狭い心で人をはかってしまう。そのとき、私は体をむしばんでいる元凶になっている。体全体がその痛みに悲鳴をあげている。ああ、キリストの体に結ばれた者として、愛らしい一部分であり続けたい。


●9(火)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。     (エフェ1・23)

 この教会に集まっている人間の集まりが、実は完全な神の御子の体そのものだと告げられる。それは、自分で自分のことを小さく貧しい者と思っても、無くてはならない一人ということ。その人がいないと体が痛むほどに大切な一人なんだ。
 自分の貴さって、教会を見たら分かるんだなぁ。教会に集められて良かったぁ。自分がこの世にいる意味が、ここで見つかるから。


●10(水)
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。       (エフェ5・10)

 「光の子として歩みなさい」と告げられたあとにこの御言葉が語られてゆく。だから「光の子として歩む」って「主に喜ばれる歩みかどうか自己吟味する者となる」ことなのだ。自己流に「積極的に生きよう」とか「明るく正しく」とか、勝手に考えることが求められているんじゃない。
 危うく信仰においても自分勝手になってしまうところだった。勝手なのが、御心から離れて闇の子となっていく入口なのに・・・。人のために死なれた主に倣おう。そのことだけに心を使う人になりたい。


●11(木)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。       (ロマ8・35)

 キリストの、私への愛がどれほど強いかが語られる。まるで疑う者を叱咤するように、激しく畳みかけるように。
 愛されるって、愛される側は忘れやすいよね。どんなに深く愛されても、なぜ忘れちゃうんだろう。加えて「愛されていないから、こんなに苦しみがあるんだ」と勝手に疑う。愛される現実をうつろにするのは、愛されている私自身なんだ。愛されることを知らない者より、もっと愚か者だ。


●12(金)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。     (マタ11・28)

主イエスの招きの言葉だ。
以前仕事をしていた時、たくさんの教会を回ったけど、多くの教会の玄関先にこの御言葉が掲げられていた。「主が、ご自身へと招く言葉が、きっと道行く人に届く」と信じて。
改めて思うのは、これは日々の生活を旅する私自身にも、まず届いて欲しい招きなんだと。自分の重荷を知っているから。キリスト者もそこで喘いでいるから。


●13(土)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。            (2コリ12・10)

 「侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、その時こそ強い」と言う。そこで神の奇跡が起こるからだろうか?大逆転が起こるから?いや違う!
 自分で成す術が全て無くなったら、聖書を読む以外になくなる。御言葉以外にすがるものが無くなる。そこで御言葉を真剣に食べたら、やっとキリストと一つになれるから。そこで神の最善を聞くから。


●14(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●15(月)
二人の目が開け、イエスだと分かった。     (ルカ24・31)

 エマオ途上で、復活された主イエスとずっと一緒に歩いて、話をして、お言葉を聞いていた弟子たち。それなのにその方が主イエスだとは分からなかった。そんな彼らがやっと目を開かれたのは、賛美と祈りと、そして主のパン裂き(聖餐)の時だった。
 私も目が曇る。主が日々の生活を一緒に歩いて下さるのが見えなくなる。だからこそ、聖餐式を大切にしよう。主がその場所に招いて、私の目も、繰り返し開いて下さるから。「わたしはあなたと今も共にいる」と悟らせて下さるから。


●16(火)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。     (フィリ3・21)

 主が再臨される日は、滅んでしまった肉の体が、新しい体に変えられる日。悲しみが喜びに変わる日だ。主と同じ復活の体に変えられる日だ。
これは今を支える希望。死に怯える今に届く「新しい命」の知らせだから。だから愛する君よ、洗礼を受けてくれ。あなたと一緒にこの希望を生きたいから。


●17(水)
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。        (ヨハ14・14)

 イエス様が「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じなさい」と繰り返されてから、願えば私がかなえようと告げられた。イエス様と父なる神は一人なる神ということ、それを「信じる」ことが最初に大事。そうしたらイエス様に願うことは、御父も同時に聞いて下さっていると、安心できるから。
「願って(そして)叶う」ことだけ見ていて「信じて(そして)願う」ことが抜けていたかも。最初が抜けてたから御業が動き出さないんだ。


●18(木)
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。    (マタ5・44、45)

 山上の垂訓で、主は「隣人を愛しなさい」と言われる。どこまでが隣人?と思う私たちに、「あなたの敵だ」と言われる。どこまで愛するの?と思う私たちに「祝福と恵みを祈るまでだ」と言われた。
 執り成しの祈りをしているつもりだった。でもその祈りの中に、私を攻撃し、嫌がらせをする人の顔があるだろうか。いいえ、愛したい人の顔しかないかも。ああ今朝、もう一遍、初めから祈り直しだ。


●19(金)
(イエスは言われた)わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。   (ルカ22・27)

 「あなたがたは仕える者になりなさい。あなたがたにとっては、私が給仕役だからね」と言われた言葉が、今日のみ言葉だ。私も仕える者でありたい、偉そうに人の上に立つのは嫌いだなと、素直に思う。
 でもふと思う、私は本当にイエス様に給仕をしてもらうことを喜んでいるだろうか。横に立たせるだけで、構わせないで、自分だけで勝手な生活をしてるかも。給仕の手は、み言葉で差し出される。その手をうっとうしがっていないだろうか。


●20(土)
神にできないことは何一つない。       (ルカ1・37)

 マリアが天使ガブリエルの受胎告知を聞いて戸惑い「常識では身籠ることなんてないのに」と訝った言葉に「神はおできになるんだよ。それが神なんだ」と告げられた。
 私たちも、「私のこの現実の苦難に、いくら神様でも関われない」とか「神様の恵みは、心の平安とか宗教的なことで、現実生活は常識的に考えないと」と思っている。そういう思いに今朝、御言葉が宣告したのだ「神の支配は、お前の小さな常識の世界さえ覆っている。お前は神の全能を現実生活の中で知るのだぞ」と。


●21(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。    (ロマ八・九)

 肉の思いに従って自己中心に歩いて来た者に、大転換が起こった。受洗者は聖霊に満たされ、かつ導かれて歩む者となったんだ。そうパウロは告げた。
 私もそのはずだったのに・・・尚人生に迷いが起こるのはなぜ?きっと肉の思いを自分で育て始めているから。霊の支配下なのに見当外れな事をするから自己分裂するんだ。まず肉の思いの芽を摘み取れ。


●23(火)
四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望しない。        (2コリ4・8)

 私たちは土の器。しかしそこにキリストの栄光という宝を入れて戴いている。パウロはそう宣言した後、だから四方から苦しめられても行き詰らないんだと告げた。
 今までちょっと勘違いしていたかも。神様が私を強めて下さるから行き詰らないのだと思っていた。でも私は粗末な土の器のまま。ただ、内に入れて戴いたキリストのお陰で失望しないんだ。だから一瞬も、内なるキリストから目を離すまい。その瞬間に行き詰まりが入り込んで来るから。


●24(水)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。     (2テモ1・7)

 神様は、力も思慮分別も私たちにくださった。大いに力づけられる言葉を、パウロはテモテに語った。
 私たちも御言葉を聞いて、勇気が湧いて来る。立ち上がろうって思えて来る。
でも・・・ちょっと待てよ。その力も分別も自分の願いを実現させるために与えられるんじゃないらしい。それは福音を伝える苦労を引き受けるためのもの。改めて決意しよう、立ち上がって伝えよう、と。


●25(木)
誇る者は主を誇れ    (1コリ1・31)

 キリスト者は、自分が神の子となるために、結局何にもできなかったんだと知っている。善い行いをしたいと思っていた、でもしていることは利己的で、自分中心で、御言葉の命令からかけ離れたお粗末さ。
 でもキリスト者は、一つのことを知っている。そんな私なのに、キリストが十字架で死なれたおかげで、百%あなたによって私が神の子とされたという不思議を。罪人が神の子とされた奇跡の恩寵を。
 だから改めて誇ろう、ただキリストを。私を救って下さった救い主を。ハレルヤ


●26(金)
心は燃えても、肉体は弱い。         (マタ26・41)

 十字架の直前にゲッセマネの園で祈られる主。でもその横で弟子は眠ってしまっていた。その情けない弟子たちを見た主は、そこで叱るのでもなく、「肉体は弱い」と人間の弱さに寄り添われたのだ。
 主の憐れみの深さが、この御言葉から滲みだす。しかし寄り添われただけではなかったことも、すぐに知る。同時に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われていたからだ。今日の御言葉は、弱さを抱えた私たちが立つべきところも示されているんだ、「祈るんだよ」と。


●27(土)
わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。    (ヨハ6・35)

 イエス様が、ご自分を「天から降って来た生きたパンだ」と言われる。「私を食べろ」と言われる。イエスを食べろと聞いた群衆は驚いただろう。さらに、食事を貰うこと、健康が守られることを求めて集まった群衆だから、願いが満たされないことに失望しただろう。
 しかし十字架を通して聞いたら、さらに戴く聖餐のパンを通して見たら分かる「真に私の命のパンはあなたです。私にも日々ください。真実に生きるために」と。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。      (1コリ15・53)

 私は必ず死ぬ。しかし主イエスが再臨される終わりの日が来たら、天よりの合図のラッパが鳴るんだ。そして私も甦らされて、新しい体で永遠に生きるんだ。パウロは兄弟姉妹に、それを伝えたいんだと語った。
 今朝私も思う。私もそれが聞きたかった知らせなんだと。さらにそれが、私の愛する人たちに聞かせてあげたかった知らせなんだと。「復活の希望があるよ」とね。


●30(火)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。  (ルカ12・15)

 お金をむさぼることを戒めるイエス様。
 でもふと思った。「私は、守銭奴ではないから、貪欲ではないよね。この御言葉については、私はセーフだ」と。
 しかしこれと一緒に、「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われていたことにドキリとした。お金は「神様のために豊かに使う預かり物」なのに、「自分のために使う物」と考えていたから。そこが人間の貪欲の始まりなのに。お金も「御心のままに使うことが出来ますように」という祈り無しでは、手にできない。


●31(水)
神は、・・・あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。      (2コリ9・8)

 神の恵みが与えられるのは、神の願いと御計画のためにだ。それは私が、恵みの賜物を預かって、あらゆる善い業を周りに溢れさせるためにだ。大きな、また小さな善き業をするためだ。決して自分の目的達成のためじゃない。
 ああ、私は盗人だったかも。預けられた恵みを、自分の目的のために勝手に使ってしまう「恵みドロボー」だったかも。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:35| 『日々の聖句』

2018年09月30日

『日々の聖句』2018年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日


(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年9月

●1(土)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。    (エフェ4・31)

 自分の心の中にある悪意から、人を傷つける一切のものが溢れ出る。一番愛している家族さえ傷つけ瀕死にさせてしまう。私の心に住み着いた無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりによって。
 人と和解していたと思っても、自分が変わらなきゃ何も始まらない。私の悪意を切り取って、捨てなきゃ何も始まらないんだ。そう思っても、まだ人のせいにする自分がいる。情けない人間の頭が私・・・。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。       (マコ1・22)

 主イエスが会堂で語る話しを聞いて、皆が驚いた。それは、他の教えと比べたり、選択可能だったりする人間の教え程度のものではなかったから。神の権威によって、圧倒的に迫る慰めであり、指針であり、励ましであり、掟だったから。
 私も勘違いする時がある。御言葉を「なかなかいい教え」という程度に聞いたり「そのうち従う」とか「これは無理」と自分で選択している時だ。襟を正して「然り」とのみ応答すべき神の言葉なのに。


●4(火)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。    (ヨハ1・14)

 最初に聖書を日本語訳したギュツラフは、この「言」を、何と訳して良いのか苦心した。そして「カシコイモノ」と訳したのだ。「やんごとなき畏きお方、そう日本人に言えば、きっと伝わる」と思って。
 天の父が「あなたを愛する」と言われた言葉が、そのまま畏き方として、人間と同じ肉体となって下さった。それも私たちの間に降って、宿りを得て下さった。
 何度も唱えるように口の中で噛みしめ味わいたい御言葉だ。噛み砕きにくい言葉だけれど、深みが増してくるから。


●5(水)
まず自分の目から丸太を取り除け。         (ルカ6・42)

 「人の罪を裁くな」とイエス様が言われる。それも隣人の罪は目の中のおが屑程度なのに、あなたは目の中に丸太を入れているようなものだぞ、と言われる。そして続けて言われたのがこの御言葉だ。あきれて「お前の大きな罪こそ問題なのに、なぜ自分のことには気付けないんだ。目の前にあるのになぜ見えないんだ」と。
 他人の小さな過ちを見つけては腹を立てて裁いていた。でもそんな私に向かって、主はハッキリ、「偽善者よ」と言われたのだ。今日を、悔い改めの日とせねば。


●6(木)
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。       (コロ3・16)

 いつも感謝する事、互いに教え諭す事、心から神を賛美する事・・・、これらの中心に今日の言葉が据えられている。
 そうか! 感謝も賛美も、心に宿した御言葉への応答として起こるんだ。自分の自然な肉の思いからじゃないんだ。キリストの言葉への応答だから、御言葉が心の内に無いと、感謝も賛美も自己満足になるのかも。熱してもすぐ冷める程度のものになるのかも。互いに諭す言葉だって、キリストの言葉以外は裁きになるしね。


●7(金)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。      (1コリ10・24)

 神の栄光を現わす生き方となるために、人との間でどう生きたら良いのか。その中心が語られている。それは、相手をどう変えてあげたら良いかと考えることじゃなかった。相手を導くことじゃなかった。自分の生きる軸足を、「相手のために」と据えることだった。
 何をするにしても自分に軸足を置いていたかも。だから人とすれ違って、傷つけて、失っていたのかも。イエス様のように「あなたのために」と軸足を据え直したい。


●8(土)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。  (ルカ1・38)

 天使から御子イエスの受胎を知らされた時、戸惑うマリア。でも神の使いの言葉を受け止めるうちに、自分の常識から神の御心へと向かい出す。そして「神にできないことは何一つない」と聞いた途端、マリアの口から今日の告白が出たのだ。
 マリアの心が、自分のこだわりから神の御心へと転回する時間を、神の側は忍耐して待っていてくださった。私の日々も、いつも神様の側が待っていて下さる。私も今日こそ、マリアのこの告白を言おう。

●9(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。  (マコ1・35)

 イエス様は大事な事をなさろうとする前に、赴く場所があられた。それが御父と二人になれる場・密室の祈りの場だ。
 私は何かに取り組もうとする時、いつもバタバタと自分の思いの中を走り回るだけ。そして自分が立てた計画の後で、やっと「御心のままに」なんて祈っている。これじゃ順序がさかさまだよね。
まず御父の前で自分の思いに沈黙しなきゃ。本当に御心を聞くために。


11(火)
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。   (ロマ10・17)

 信仰は、聖書の御言葉を聞くこと以外では始まらない。それは信じるということが、神様からの語り掛けへの応答だから。神の側からの働きかけが出発点だから。
 そうか! 自分で「神様のことを信じよう」と思うことが信仰の始まりと考えるたびに、信じることが見当はずれになっていたんだ。信仰さえも、身勝手になってしまっていたんだ。自分の思いが出発点だったから。「まず静かに、あなたの言葉を聞かせて下さい」と祈ることから始めたい。

●12(水)
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。      (ルカ7・13)

 一人息子が死んで棺が担ぎ出されるところに出くわしたイエス様。そのやもめの母の涙をご覧になった途端、ご自身の心も激しく痛まれ、近づき、息子を生き返らせなさった。
 イエス様が悲しみに近づかれる時、その悲しみと一緒に悲しみ始められる。泣く者と共に泣かれる。それが神の御心なのだ。「主の臨在」というのは、そういうお方が私の傍にもおられるということ。なんだか圧倒的な安心に包まれた感じがした。


●13(木)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。         (マコ14・6)

 ナルドの香油をイエス様に注ぎ切った女。きっと彼女の全財産だったはずの高価な品。それを見た人々が「もったいない、愚かな使い方だ」と非難した。そのとき盾となられたイエス様の言葉がこれだ。
 豊かな香りの部屋で、主は女の心も受け取って下さった。そして、イエス様だけを見詰め、主のためだけに全てを注ぎ切る女の思いを「良いこと」と宣言して下さったのだ。主を想う心と、主が想って下さるお心が重なる。私もこう在りたいな。


●14(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。    (1コリ14・33)

 教会の中で、一人ひとりの振る舞いを整えようとするパウロ。信仰においても、人は自分の主張だけする愚かさを重ねてしまう。それが悲しい無秩序を生むのに。それに向けて「否」とおっしゃるのは、神ご自身なのだ。
 正しい信仰も、平和も、声高に主張する人の中には生まれないのかも。真摯に聞く者になる者たちの中に、それも神の言葉を聴くことに生きる者の群れに生まれる。私もその一人になりたい。


●15(土)
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。    (ルカ14・33)

 イエス様は、何事も万全の準備をすることが大事だねという話をされて、結論でこれを語られた。つまり、主の弟子となるには、自分の持ち物、自分のこだわり、自分を優先したいという思いなど、一切捨てることが準備だということ。それは捨てないと必ず失敗するぞ、ということだ。
 持ち物よりも己を捨てることこそ難しい。その準備不足だから、主に従い切れないのかも。断捨離は自分自身にこそ!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●17(月・祝日)
主の栄光が周りを照らした。          (ルカ2・9)

 降誕の知らせを告げるため、主の天使が羊飼いたちに近付いた。そのとき神の栄光が照り輝き、彼らを包んだのだ。 「救い主が降誕される、あなたのために来られたのだよ」、この知らせこそが神の光そのものだ。そしてこの知らせを携え伝える者が、神の栄光さえも携えるのだ。
私もその知らせを聞いた日に、神の栄光に照らされていた。それを今度は友人に伝える人となる。そこで私もこの光を携える者にされていた。隣人をこの栄光に包むため。2千年続く福音リレーだ。


●18(火)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。  (ルカ6・36)

 「敵を愛しなさい。何も当てにしないで貸しなさい」というイエス様の話の結論にこれがある。あなたも天の父の子どもなんだからできるよね、と告げられるのだ。
 イエス様の言葉は、単なる命令じゃない。キリスト者はこうあるべしという戒律とか、道徳でさえない。主は私を見詰めて言われるんだ「できるよ、あなたならできるよ。だって、天の父の子どもだから、愛されている子どもとして生きてご覧」と。一歩踏み出す勇気が湧いて来る。


●19(水)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロ1・13)

 御子イエスによる贖いの御業を分かりやすい言葉で伝えてくれる。「あなたは闇の力に支配され、闇の行いに生きて来た。でも御父が救出して、祝福と光の陣営に移して下さったのだ」と。「もう自己中心という闇の支配の外なんだよ」と。
 天の父が脱出劇を成功して下さったんだ。だから、私は助けられた者として、光の陣営の中にいる者らしく、天を見上げて歩いて行こう。闇の陰を引きずるな!


●20(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)

 舟の上で、大嵐に悩む弟子たち。こんな困難はどうにもならない、と恐れる者たちの前で、主は嵐に一喝された「黙れ。沈まれ」と。
 愛弟子たちのために、何でもして下さるイエス様。自然をさえ従え、全てを支配されるイエス様。それを知って嬉しくなる。でも・・・。同時にこのすぐ後に言われた言葉が心に突き刺さった「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。私の不信の嵐にこそ「黙れ、静まれ」と言われた気がした。

●21(金)
わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。   (エフェ4・7)

 「教会」は「キリストの体」として「一つ」だから、一つになるように生きよと言われた直後に「しかし、わたしたち一人一人に」と続くのだ。一つであるということは、皆が同じであるということじゃなく、バラバラの個性だけれど結び合わされるということ。そのバラバラの個性を、神からの賜物として生かせということなんだ。
 個性が賜物となる。それはただ主が用いて下さる時にだけ。その受け身の用いられ方で、私も教会も、豊かになれるんだ。


●22(土)
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。   (1コリ4・3)

 コリントの教会の人たちから「使徒としてふさわしくない」と批判されたパウロが「人間に裁かれようとも問題ない」と断言して、「自分でさえも自分で裁かない」と続けた。「毅然と立つ彼。人の口にあることで動じないんだ」と思ったけど、その先がまだあった「裁くのは主である」と。
 一番の義なる裁判官の前に自分を立たせたパウロ。正も偽りも見通す神が裁判官。毅然とした姿だと感じたのは、その神の前に立ったからなんだ。人の口が気にならない場所は、そこ以外に無いんだ。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●24(月・祝日)
(マリア)「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」         (ルカ1・47)

 幼子イエスを宿したマリアに、従姉のエリザベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い」と告げた言葉に応答して“マリアの賛歌”が始まる。これはその冒頭の言葉だ。
 常識と懸け離れた受胎の出来事の中で、戸惑いを通って、しかしそれを「主の御業だね」と数え合う姉妹たちの何と豊かな姿だろう。一緒に現実の中で神を仰いでいる。一緒に賛美して、祈っている。

●25(火)
(イエス)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」        (マコ1・15)

 マルコ福音書の冒頭に、この主の第一声が置かれている。そしてこの御言葉が、福音書全体を貫いて、通奏低音のように響いているのだ「さあ早く、今こそ、悔い改めるんだ。神に向きなおれ、立ち帰っておいで。福音を信じるんだよ」と。
 私の人生の初めから、イエス様は語りかけていて下さっている。人生の通奏低音のようにずっと響いている御言葉が、これなんだ。激しくも、温かくも、切なくも響いている。私を捉えて離さない御言葉だ。


●26(水)
動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。           (1コリ15・58)

 パウロが「あなたは罪と死の支配下にいない。キリストによってもう勝利を手にしたんだ」と宣言して「こういうわけだから・・・」と語り出したのが今朝の御言葉だ。「安心して、ただ主のため、キリストのためにと歩いたら、万事が益となる」と告げた。そしてその最後には「そのどの苦労も無駄にならないからね」と加えた。
 人生が無駄にならないと、今日聞けて安心した。それって私も還暦になったからかな。人生の後半も、「ただ主のため」だ。


●27(木)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決めていた            (1コリ2・2)

 当時の一流私塾の首席だったパウロ。誰よりも知恵に満ちていた彼なのに。最も愚かに見える犯罪人の印・十字架刑で死んだイエスが救い主なんだと語り続けた。それ以外語るまいと決心さえして。
 「イエス様が救い主だ」と説得する言葉を探してきた私。でも説得や学びで信仰は生まれない。人が救い主を信じるのは、神の力のみ。それが最も顕れたのが十字架の死なんだ。私が伝える十字架の言葉に神が働かれると信じて愚直に語ろう。


●28(金)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。           (ルカ7・7)

百人の兵士の部隊長が、部下の病の癒しをイエス様に願い出た。しかも遠くから「お目通りする事さえ相応しくない私ですが、“治れ”と命じて下さい。あなたの命令に何もかもが服従しますから。権威を持つあなたの一言を」と申し出たのだ。
私には、これほどの信頼があるのだろうか。主の一言がどれほど力があるのか信じているだろうか。御言葉によってたくさん“一言”を戴いてきたのに聞き流した。御業が見えないのは、聞き流すからかも。


●29(土)
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。       (2テモ4・2)

 「信仰によるまことの子」と、パウロが信頼したテモテ。その彼に「折が悪い時がある。でもそのど真ん中で御言葉を語れ」と告げた。「誰も聞こうとしない時にも、なお語れ、それがあなたの務めだよ」とも。
 私は神様から恵みを貰うことばかり考えて、アレもコレも欲しいと言うだけかも。神様に「私の子よ」と言ってもらえているほどなのに、しなくてはならない務めは棚上げ。ふと、私って調子いいキリスト者だなと思えた。ひどく申し訳なく思えた。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



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