2023年02月28日

『日々の聖句』2023年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年2月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)
「ニネベの都は滅びる」と、神の裁きを伝えた預言者ヨナ。それを聞いた人々が悔い改めたのをご覧になった主が、災いをやめられたのだ。自分がほら吹きになったと思ったヨナが不満を現わしたことに、主が言われた言葉がこれだ。
何でも自分の考えとおりにいかないと、すぐに不満に思う。どこまで人は、自己中心なのか。その姿が、ボクの中にも巣食っているんだ。


●2(木)
わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと主は言われる。ただ、お前の犯した罪を認めよ。(エレ3・12〜13)
なんて慈しみ深い神様のお言葉!
これは神に背いたイスラエルへの語り掛けだと思うと、その優しさがリアルに伝わって来る気がする。しかし、だ。最後の一言にビクリとした。「お前の犯した罪を認めよ」と。
神の目にちゃんと罪が数え上げられている。それを見ない振りをしていたのはボクだけかも。悔い改めは、慈しみを受ける唯一の入り口。この狭き門を通る以外、恵み無し、だ。


●3(金)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。  (ヨシュ1・9)
モーセの後継者として民を率いることになったヨシュア。「絶対無理」と思う大役だ。その彼に、主が語り掛けたのが、この御言葉だった。
モーセの時も同じだった。たじろぐ者に語り掛けるのは、いつもこの約束だ。アブラハムにも、ヤコブにも、エレミヤにも同じだった。そして私たちにも。イエス様こそ「神は我らと共にいる」というお方。この約束が、立ち上がって進める原動力なんだ。


●4(土)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。  (サム上17・47)
少年ダビデが、敵の大男ゴリアトの前に立った時、この言葉を告げた。主が戦われるから、自分の手で戦う必要はない、ということ。それが、剣も槍も要らずに勝利する道なんだ。
ならばボクも、自分の戦いが「主の御心か否か」を知ることが、勝敗の別れ道となる。でもそれって、どうやって分かるのだろう。あ、だから祈らねばならないんだ。何が何でも、その祈りを身につけなきゃ!


●5(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●6(月)
ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。(創19・16)
ソドムとゴモラの町が、悪に満ちた。それを嘆かれた主が、裁きによって滅ぼすことを決められる。そこに住むロトの家族に逃げる猶予を与えて。でもロトは、裁きの言葉を実感できず、グズグズしている。その彼を天の使いが救い出すのだ。
結局、自分主義に留まるロト。その姿は、御言葉を真摯に聞けないボクに似ている。焦っているのは、神のほうだとも分からずに。


●7(火)
主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 (詩16・7)
詩編の中にある「信頼の歌」と呼ばれるものだ。しかしこの詩は「神よ、守ってください」と、苦難の中からの叫びから始められていた。つまりこの詩人は、困窮の中にいるのだ。にもかかわらず、いやむしろその中にあって、彼は神への信頼を固くして歌っていたのだ。平穏な中での、安易な信仰告白ではないんだ。
ボクも、この信仰に生きてゆきたい。困難のない日々は無いのだから。


●8(水)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。 (詩41・4)
「その人」って誰のことだろう・・・。詳しいことは分からないが、一つのことだけは分かってる。この祈りは、隣人のための祈りということ。自分を助けて欲しいという「自分のため祈り」じゃない。隣人を自分のことのように愛している人の祈りだ。
執り成しの祈りは、必ず主に聞き届けていただける。ならば、もし世界中の人が執り成し合えば、もっと素敵な世になるのだろうに・・・。


●9(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。    (創2・24)
まだアダムが独りでいた時、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と、エバを造り、彼に出会わせた。
「一体となる」というのは、ニカワで張り合わすという意味だ。そういう助け手が、人には必要なんだ。助けられて助けるという関係が、必要なんだ。「助けて!」と叫ぶことも必要なんだ。人が独りで生きるのは良くないと、神様がご存じでいて下さる。


●10(金)
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」  (出3・6)
神の山ホレブで、モーセに現れた主が、ご自分のことを指して言われた。
イスラエルの民の一員にとって、この言葉は特別な意味を持っていた。「あなたは祝福の基となる」と父祖アブラハムを選び分けた主が、あなたの神でもあると言われたのだから。それは「あなたも、その永遠の約束の相手なのだよ」と言われたということ。
その言葉は、そのまま洗礼を受けたボクにも語り掛けられている。



●11(土・祝日)
ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。  (創28・17)
兄エサウを騙し、復讐を恐れて荒野に逃亡したヤコブ。石を枕にして寝ていた時、天からの階段を上り下りする天使たちの夢を見た。その夢から覚めた時の言葉がこれだ。
自分の罪の結果の惨めさの中にいた彼が、どん底の場所で神との交わりの場があったと気付く。ボクも同じだった。どん底だと思っていた日に、ボクに語り掛ける主の言葉に触れた。神の臨在を感じた時だった。


●12(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●13(月)
主があなたと共におられることがよく分かったからです。(創26・28)
井戸を巡って、イサクがペリシテ人から危害を加えられた。その時イサクは、争わずに新しい井戸を掘りあてる。その井戸も奪われても、次の井戸を掘りあてるイサク。祝福され続けるイサクを見たペリシテ人が、これを言ったのだ。奪い返そうとしなかったイサクは、主の臨在に生きた。それを見た異邦人も主の臨在を知った。ボクもそのようにありたい。こう生きたい。


●14(火)
見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。(エゼ37・5)
捕囚の民に、エゼキエルが主の言葉を伝えた。人々が罪によって枯れた骨のようになっている。そこで「我々の望みはうせ、もう亡びる」と言っている。しかし、「見よ」と語り掛けたのだ。「お前たちは生き返る」と。
心も身体も疲れ切ったと思う日、罪と過ちに悔いて打ちひしがれる日がある。その日にもう「助けて」と祈るまい。「聖霊を下さい」祈ろう。主の霊を受けるなら、生き返れるから。


●15(水)
わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、と万軍の主は言われる。  (ゼカ1・3)
バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えた。それは、都への帰還の幻だ。嬉しいニュース。でもそれを手にするには、一つのことが必要だった。それが、「主に立ち帰る」ということだった。
改めて思う「神に立ち帰るって、どうすることなのだろう」と。私も恵みが欲しいから、これは真剣な問い。立ち帰るって、実際はどうすることなのか知りたい。祈って主に聞かねば。


●16(木)
復讐してはならない。  (レビ19・18)
主がモーセに仰せになった律法の中の「神聖法集」にある一つだ。神の民として、聖であるための掟だ。
そもそも直前で、「隣人に恨みを抱くな」とさえある。恨むことは、聖であることをけがすことなんだ。ボクも心に留めよう。また直後では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあった。復讐しないことは、愛すること。ボクも心に留めよう。ボクも、聖であるべき神の子供だから。


●17(金)
主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。    (ヨエ2・23)
南ユダ王国の滅亡を伝える預言者ヨエル。背信の民に下す審判は、必ず実現するぞ、と告げるのだ。しかし、その文脈の中にあって、この御言葉も語られたのだ。主に立ち帰って、断食し、悔い改めるならば・・・と。
主は、罪人が御自分のもとに立ち戻って来るのを待っておられるんだ。放蕩息子の父のように。ああ、それが私の天の父。そして背信者がボクだ。けだし、御父の元に帰らばや!


●18(土)
(ファラオは言った)「主とは一体何者なのか。…わたしは主など知らない」    (出5・2)
モーセがファラオのもとに行って「主の命令です。イスラエルの民全員を出国させよ」と交渉を始めた時、ファラオが言った言葉だ。主の言葉と言われても、一向に聞こうとしないファラオ。そして「主なる神など知らないから」とうそぶいた。アッと思った。御言葉に従わない時のボクは、このファラオと同じことを言っていると気付いたから。「神なんて知らない」と言っている彼と同じなんだ、と。


●19(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●20(月)
あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。  (ヨシュ1・11)
モーセの死後、イスラエルの民はヨルダン川を渡ろうとする。その直前、後継者ヨシュアが民の役人たちに告げた言葉がこれだ。
渡河の目的は、永住の地を得ること。その未来を実現させるのが「主が得させようとしておられる」という一点なのだ。つまり未来は、主の手から、民に渡される。
ならば、御言葉に従って出発するなら、そこにこそ未来がある。


●21(火)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サム上3・10)
神殿に仕えていた少年サムエル。夜寝ていると、自分を呼ぶ声がする。祭司エリに聞くと、「主が呼んでおられるのだよ」と教えられた。そして4度目に呼ばれた時・・・。
主なる神は私たちにも呼び掛けられる。礼拝を通して、また御言葉によって。その呼び掛けに「はい、私に何をさせたいのですか」と応答する時に、主の御心の御業が動き出すのだ。私の応答を、神は待っておられる。


●22(水)
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。・・・わたしはこれらを造ったことを後悔する。」    (創6・7)
ノアの大洪水が起こった原因譚が、地上に悪が満ちたということだった。そのとき地上を目にして主が嘆かれたのが、この言葉となった。
主なる神が、愛する思いを込めて人を造られたのに・・・。人々のしていることを見た時、嘆いて「後悔する」とさえ言わせてしまうなんて。この時の人々の姿と、ボクも同じことをしている。それは主を後悔させていること。ボクが日々しでかす罪のゆえに。


●23(木・祝日)
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。   (創2・9)
憧れの「何不自由ない生活」がそこにあった。それがエデンの園。好ましいものに囲まれて過ごせる場所だった。それを準備されたのは、父なる神なのだ。どんなにアダムは御父に愛されていたのだろうかと思う。まるで過保護とも思えるほどに・・・。それなのに彼は、このエデンの園を出なければならなくなる。自らの背きのゆえに。
人間って、どこまで愚かなんだろう。恵みを自分で捨てるんだから。


●24(金)
「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」  (王上1・29)
老いたダビデが、後を継ぐ者を任命するために、ソロモンの母バト・シェバを呼んで語り掛けた。任命の根拠は、ソロモンの能力によらず、血筋によらない。ただ「生きておられる主」の御業によるということだった。
大きな決断をする時、ボクは何を根拠にして決めるだろうか。「主は生きておられる」と信じて、祈ることから始めているだろうか。それも本気で、臨在の主に聴いているだろうか。


●25(土)
わたしがあなたと共にいて、救い出すと、主は言われた。  (エレ1・19)
エレミヤは、主から預言者として召命を受けた時、自分は未熟だからと固辞した。彼には分かっていたのだ。主の言葉を人々に伝えたら、反感を買って迫害を受ける、と。その彼に主が最後に言った言葉がこれだ。「神が共にいて、救い出す」とは、この戦いは主御自身の戦いだということ。
主は、全てのキリスト者にも語りかける、「行け、御言葉を伝えよ、私が戦うから」と。などて退くべきか。


●26(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●27(月)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。(ゼカ1・16)
捕囚となっている時。御使いによって主の言葉が届いた。自分たちの罪によって捕囚の苦しみがあった。しかしやがてその日は終わり、都エルサレムに帰還できる日が来るということ。それはつまり、赦される日が来るということなんだ。
帰還の喜びの意味が分かった。単なる帰京の喜びでなく、赦しの喜びなんだ。ああボクにもそれが分かる。赦しの喜びが一番だって。


●28(火)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(エレ7・23)
冒頭の「むしろ」とは何か。それは、いけにえの捧げ物を形式的にささげて、良しとしてしまうことだ。
私たちの信仰生活も、形式的になる時がある。それは、食前の祈りでさえもだ。いつもの言葉をつぶやくだけになっている時。主日に、礼拝堂に座っているだけになっている時。そのとき心から、主と差し向っていないのだ。主は、そんなボクに「むしろ、心砕かれて我に従え」と言われる。

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2023年01月31日

『日々の聖句』2023年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年1月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●2(月・祝日)
二度とかたくなになってはならない。(申10・16)
イスラエルの民は、金の子牛で、偶像の神を作って拝んだ。自分の思いに凝り固まって、神を捨てたのだ。神様の怒りは極みに達する。しかしモーセの執り成しによって、人々は赦された。その後に、彼が民に約束させたのが、この言葉だ。
今朝、御言葉がボク自身に突き付けられている思いがした。


●3(火)
わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。   (詩51・4)
バト・シェバと通じたダビデ。姦淫の罪を預言者ナタンに指摘された。そこで彼はようやく裁きが目の前にあることを悟って、そして震えた。
自分の罪なのに、本当は自分で気付けないのかも。かのダビデ王でさえであった。でも罪は、単なる不道徳とか、法律違反とか、犯罪の類の話じゃない。神への背きだ。だから、心底恐ろしいんだ。救いを願うしかない。自分で自分を救えないから。


●4(水)
主は命じて言われた。「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる。」  (申31・23)
大預言者モーセの跡を継ぐヨシュア。たじろがずに民を率いて進むためには、自分の能力によらず、ただ主に依り頼めばいいのだ。
「主が共におられるなら安心」と思う。でも・・・なのだ。共におられる神に、真剣に祈っているだろうか。御声が聞けているだろうか。祈りが、自分の中で堂々巡りになる単なる呟きになっていないだろうか。御声に従わない時、共におられる神を見失う。


●5(木)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。(創22・1)
諦めていた「息子の誕生」。でも神が約束して下さった通り、イサクが与えられた。感謝と喜びの絶頂にあったアブラハム。しかしその「後で」神が彼を試みられた。息子イサクを捧げ物として屠れという命令だった。
ふとヨブ記の御言葉が浮かんだ「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」。私がアブラハムなら何を思い、どうするだろう。それを思い巡らして、今日を過ごしてみよう。


●6(金)
わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。    (エレ15・21)
主から「背信のゆえに捕囚が起こる」と伝えるよう託宣を受けたエレミヤ。でも告げたら、人々から迫害されると予想できて、拒み続けた。その彼に、今朝の御言葉が臨んだ。
この世で私たちも、御言葉に従おうとすれば、そこで周りからの白眼視が起こる。その辛さが予想できるから、逃れたくて、言い訳もして来た。でもそれでいいのか・・・。主はバックアップするぞと仰っているのに。


●7(土)
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。   (エレ31・25)
人々は、背信のゆえにバビロン捕囚となる。その彼らにエレミヤが、神からの言葉を伝えたのだ。回復の日が来ると。それが今朝の御言葉だった。
自分の罪のゆえに主から見捨てられたのだと絶望の中にいる人々にとって、この約束はどんなに慰め深い言葉となっただろうかと思う。主は、罪人を見捨てない。回復こそが神の願いだから。ふと、ボクへと届けられたメッセージに聞こえた。


●8(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師
(主題聖句説教)



●9(月・祝日)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  (イザ55・1)
異教の地バビロンに捕囚となっていた人々。自分の背信のゆえにこの現実になったんだと悔いて、失ったものの大きさを嘆いていた。「渇き」の中に居たのだ。そこにイザヤが、神からの慰めを語った。
ボクにも嘆き「渇く」時がある。その時、その心に直接染み込んで来る御言葉がある、「水のところに(主の御許に)来るがよい」と。聞いた時に、既に癒されている。


●10(火)
わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。(ヨシュ1・7)
大預言者モーセの後継に、ヨシュアが立てられた。そのとき神様から告げられた言葉がコレだ。それは「頑張れ」とか「期待しているから」ではない。「あなたの能力を発揮してね」でもない。ただ「我に従え」だった。
私たちへの神の求めも、同じなのかも知れないと思った。自分の能力を発揮することでも、自分が頑張ることでもない。御言葉に従うことなのだ。鍵は、御言葉に従えるか否かだ。


●11(水)
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 (詩14・2)
人が神様を求めるよりも、神様の方が私たちを熱心に、そして辛抱強く求めていて下さるんだ。まるで「お前がいないと寂しいのに。お前を愛しているのに・・・。私の心にかなう人は、どこにもいないのか」と嘆きつつ、探し回っていて下さるのだ。
「主よ、ここにいますと応えたい。そう言える私になりたい」。いざ、その決意が、今日のボクの言動を整えてくれる。


●12(木)
主がモーセに命じられたとおりであった。      (出40・32)
エジプトから逃げ出せた民が、荒野の旅のあいだ主を礼拝するための「幕屋」をつくり終えた。それは細部まで「主の命じられたとおりであった」のだ。この御言葉が十数回も連続して告げられる。それもこの章が、出エジプト記の最終章なのだ。
主が命じる御言葉どおりに生きること、それがボクの人生の最終章でもありたい。その途上の今日という日も、御言葉のままに歩まん。


●13(金)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。  (創17・17)
願いに願って、祈りに祈って来た息子の誕生なのに、いざ御使いが「とうとう生まれる」と告げた時、彼は疑ったのだ。自分の常識で「百歳なのに、もう無理じゃないか」と、不平まじりに。彼は笑った、いや冷笑したのだ。
神に願うって、何なのだろう。本当は真剣勝負のことなのに、自分の常識の中で、言葉上だけで願っていないだろうか。そんなボクの祈りに、神は怒りをおぼえないだろうか。


●14(土)
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。    (イザ1・18)
自分のことは少しは分かっている。神を知っていながら、御言葉を知っていながら、それでもそれらを無視して自己中心に生きて、そこで人も傷つけていた。神の目から見たら、汚れ切った泥水のような色が、私だ。
でもその私に神は言われたのだ。「真っ白にしてあげられるよ」と。これが旧約の言葉であることに改めて驚く。主の十字架の遥か前から、御父の思いは、この一点だと知ったから。


●15(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●16(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。(エゼ34・15)
バビロン捕囚期、人々は亡国の民となった。しかしその指導者に、神の言葉が臨んだのだ。それが「あなたがたは私の群れだよ」という宣言。さらに「私が養い、憩わせる」という約束だった。
神が人を見放さないというのは、見捨てられて当然なのに、にもかかわらずということだ。神の愛は一瞬もたじろがず、弱まらない。愛することにおいて熱情の神なのだ。


●17(火)
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。 (アモ5・4)
「信仰の民なんだから、当然のことなのに」と思いつつ、預言者アモスの言葉だということにハッとした。北イスラエルに、背教の罪の審判が、宣告された直後だったから。
「滅びがあるのに、これは何?」と思いつつアッと思った。裁きはある、でも「その中でなお私と共に生きよ」と言われてるのだ。裁きの日は、見捨てられることじゃない。立ち帰る日を、主は耐えつつ待っておられる。


●18(水)
「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。(創19・14)
ソドムとゴモラに悪が満ち、神が町を滅ぼそうとされる。ロトがそれを御使いから聞いて、娘婿に「早く逃げよ」と言った言葉がこれだ。でも聞いても、信じ切れない婿たち・・・。
ボクも御言葉を聞きはする。聖書によって「罪の生活から離れよ、逃げよ」と。でも、もしかしたら彼らと同じように聞いても従えないのは、神が本気で忠告していると受け取っていないからかも。ああボクは愚鈍信仰。


●19(木)
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせてくださる。(サム下22・40)
圧倒的な力を誇るペリシテとの戦い。次第に疲れ果てて来るダビデ率いるイスラエルの兵たち。しかしダビデたちはこの戦いを切り抜けたのだ。その手腕と統率力において、彼に優る者はいない。しかし彼は、自分を誇ることを微塵もしなかったのだ。「主が力を下さった」と知っていたから。
ボクが人の目を気にして、人からの評価を気にするのは、それは性格じゃなく、信仰の問題なのかも。


●20(金)
いとうべきものをあなたの家に持ち込んではならない。   (申7・26)
ふと、「いとう(厭う)べきものって、何だろう」と思う。「単にボクが厭うもの、嫌いなものじゃないだろうな」と思って、すぐに聖書を開いた。
それは、神ではない偶像のことだった。またふと思う、「神以外に頼ってしまうものは、ボクの周りにたくさんある」と。お金や人脈や自分の経験など。それらを神よりも頼ってしまう。御父はそれを、厭うと言われているんだ。「お前の傍に置くな」と。


●21(土)
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。    (詩19・9)
神様からの命令(すべての御言葉)は、「まっすぐ」だと言われる。そしてすべてが「喜びを与える」ものだと。
今まで「神の命令って厳しいもの、でも嫌でも従わなければならないもの」と思っていた。でも、「まっすぐ」とは、迷い心なしに愛してくれて、それ以外には無い命令。私を生かす言葉で、だから必ず喜びの実を結ぶもの。「嬉しいな」と思ったら、命令への向かい方が、今日ちょっと変わった。


●22(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●23(月)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。(ダニ3・17)
バビロン帝国が都エルサレムを陥落させた時、自国に3人の青年を宮廷仕えとして連行して来た。彼らの能力の高さをねたんだカルデア人に諮られて王の怒りを買い、炉の中に入れられそうになる。その時、彼らが言った言葉がこれだ。
神を神とすることは、命賭けの信頼。でもボクは、世に流されて周りに合わせてしまう時がある。青年がしたことを、ボクはできない軟弱者。


●24(火)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。     (エレ9・23)
力強い御言葉ー。しかしこれが、イスラエルの民の背信の堕落を厳しく審く神の言葉の中にあったと知って、ドキリとした。
信仰の一般論を話してたのではない。力を頼り、知恵を誇り、自分の策略を巡らし、結局自分しか頼っていない人々への審判なのだ。ああ真に、聖書の言葉には、一般論なんて一言も無い。私個人に目掛けて、激しく御許に立ち帰らせる言葉なんだ。


●25(水)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。(王上8・60)
ソロモン王が神殿建築完成の時、長い祈りをささげた。その祈りの後に民を祝福して言った言葉が、これだ。主の助けが人々に与えられ、そのことのゆえにイスラエルの民のみならず、地上の全ての人が、神がどなたであるかを知ることになるように、と。
恵みの業の御計画は、受け取る人の幸いのためのみならず、世界に御名を知らせしめるためなんだ。ああ、御計画は何て広くて大きいんだろう!


●26(木)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。    (サム上2・3)
息子が授からずに、嘆き悲しんでいたハンナに、サムエルが生まれた。成長して幼子になった時、主に委ねるために神殿に連れて来て祈った。今朝の言葉は、その中の一言だ。
その祈りの中身は「願いが叶って嬉しいです」というよりも、「主こそ岩と頼む方。全てを知り、全てを統べ治められる」という、神御自身への賛美だ。御利益信仰にならないで済むには、この心が大事なのかも。


●27(金)
天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。    (王上8・27)
ダビデ王の子ソロモンが、民の念願の神殿を完成させた。荘厳な建物、至聖所には契約の箱も安置した。その偉業は、誇っても良いはず。そのとき彼が、主に祈った言葉がこれだ。「我々が主を納めるのではない。主が我らを治める」と。ボクは神様を、ボクの願いを叶えてくれる方という小さな神殿に押し込めていないだろうか。神は自由に御心を成す方なのに。主客転倒が、神関係でも起こる。


●28(土)
人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。(コヘ3・13)
コヘレトの言葉は言う、「今日を生きよ。その日の苦労は、その日だけで十分だから」と。だから今日与えられた労苦に一生懸命に向かい合い、そして一日が終われば与えられた食事をいただいて眠りにつこう、と。
今朝の御言葉は、そんな人間本来の生き方に立ち帰らせてくれる。なんだか、肩の荷が下りて、ホッする。もしかしたらボクは、必要のない重荷まで背負い過ぎているのかも。


●29(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●30(月)
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。 (イザ60・2)
バビロン捕囚の苦しみにあえぐイスラエルの人々に、エルサレム帰還の希望が告げられた。闇の中で見る光だった。その光の輝きは、闇が深かったからこそ、どんなに明るかっただろうか。その光は、主なる神ご自身の栄光なのだから。
その光は、新約の時代に生きる私の上にも現れた。イエス様の降誕だ。「あなたの上に」と2回繰り返される御言葉に、心が熱くなった。


●31(火)
あなたの道を主にまかせよ。    (詩37・5)
自分の道、自分の人生、自分の望みを、主に任せてしまうなんて・・・、本当にできるのだろうか。むしろボクは、自分の道、望みが叶うために主が助けてよ!って言って来たかも。
ふと思った。これは「主人」が逆転することかも、と。自分自身から、主御自身へと。そこに神の計画される御心の世界が始まるから。自分が思い描くよりも遥かに豊かな人生が、そこに生まれるから。


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2022年12月31日

『日々の聖句』2022年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年12月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(2テサ3・13)
「怠惰な生活をし・・・余計なことをしている者がいる」と警告されて、今朝のみ言葉が続いていた。主に与えられた業をし続ける生活をするようにと、勧められているのだ。
「勿論そうしよう」と思って、同時に「たゆまず」の一言も聞き漏らしてはいけないとも気付いた。時においても「たゆまず」事柄においても「たゆまず」だ。人生ってマラソンのようかも。でも独りじゃなく、主の伴走がある。


●2(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 (エフェ6・11)
「悪魔の策略」というのがあると言う。「そんなもの本当にいるの? 本当にあるの?」と侮ってはいけない。人間には分からなくても、その策略に対抗するには「神の武具」が必要なほど恐ろしいものなのだから。
だからさあ、「福音」「信仰」「神の言葉」等の武具を取れ。知らないうちに滅びの道へと迷い込まないように。「ボクは大丈夫」と油断する時が、策略にはまっている瞬間なのだから。


●3(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリ1・27)
ボクだってキリスト者として「福音にふさわしい生活」をしているつもりでいた。でも今朝、「ひたすら」の一言にドキッとした。「しているつもり」だなんて、のんびりしすぎていたと気付いたから。
御心に従う生活を、「したい時にしかしていない」自分がいる。でも「ひたすら」というのは、死に至るまで従順だったイエス様のように生きること。覚悟を決めた生き方なんだ。


●4(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●5(月)
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハ5・8)
三十八年も病気で苦しんでいた人が横たわっていた。その男を憐れまれたイエス様が声かけられたのだ。一言だけで癒せるから。苦しみを取り除ける権威を持った言葉だから。現状を一気に変えるお言葉なのだ。
ふと思った。この一言を信じて立ち上がった男に、御業は起こった。でもボクは、本気で御言葉を信じて立ち上がろうとしているだろうか、と。現状が変わらない原因は、そこかも。


●6(火)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。(1ヨハ1・3)
聖書を開いて御言葉に聞く人は、「わたしたちとの交わり」へと招かれている。その「交わり」とは、この箇所の直後に「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあった。
伝えられる御言葉を聞くのは、「学び」のためじゃない。神様と関わる生活に入れられるためなんだ。「キリスト教の知識のため」じゃない。ボクの生活に直結している。聞くことで、人生を変えることが起こるんだ。


●7(水)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。    (2コリ6・2)
「やった!ついに恵みが与えられる」と喜んで「何を戴けるんだろうか」とワクワクして「あんな事、こんな事をして頂きたいな」と、数え出す。
でも、それは勘違だった。前後に「いただいた恵みを無駄にするな」「奉仕の務め」「神に仕える者としての実」と記されていたから。仕えるために与えられた恵みだ。ボクって、してもらいたい事ばかり。少しは大人にならなきゃ、もう六四歳だけどね・・・


●8(木)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
兄弟姉妹が集う教会で、一人ひとりはその肢体。そして頭がイエス様だと告げられる。イエス様の思い、考えによって体全体は動くのだ。
それゆえに、何をするにも全員がまず御心を聞かなきゃ。「イエス様、今から会議をします。私はどうしたら良いのですか」「今から奉仕をします。今から〇〇します。御心を選択させてください」と。そうしたら、教会中がイエス様色に染まるから。


●9(金)
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着けなさい。 (エフェ6・14)
勇ましい戦士の姿! なにか激しい戦いの予感をさせられる。聖書を開いたら、正に戦いがあると告げられていた。対抗する敵は、「悪魔の策略」、「邪悪な日」だ。
そんな恐ろしい敵が、自分の周りにいるのだろうか? いや、そんな風にボヤボヤしていると、してやられてしまう。私の外にも内にも、策略の手は及んでいるのだから。我もいざ立たん、神の武具を身に着けて。


●10(土)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。   (1テサ5・23)
この箇所の直前に「良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と命じられていた。まさに「全く聖なる者」の姿だ。
でも、それを自力で頑張って達成しなさいとは言われていない。「平和の神御自身が」して下さるようにと祈っている。今までいつも自分が頑張らなきゃダメだと焦っていた。でも信仰とは、頼ること。真に頼れる方を知っている安寧なんだ。ホッとした。


●11(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師




●12(月)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 (ガラ5・25)
私たちは「神の導きがある」という世界を生きている信仰者。
「その導きは目に見えるのかな?」「そうさ! 聖書の御言葉こそが見える導きだ」。「耳で聞こえるのかな?」「そうさ! 祈りの中で心に浮かぶ思いや決心は、心の耳へと語り掛けられた神様からの応答」。それらこそ、神の霊の働きなのです。
我らは、まさしく聖霊の導きに従って前進する信仰者なんだ。


●13(火)
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。(ヤコ1・23)
「え、大喜利? 『その心は』・・・」と思って聖書を開いたら「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると・・・すぐに忘れる」とあった。「なるほど上手いこと言う。面白い」と思った、そしてヒヤリとした。笑ってはいられない。御言葉に従って生きなきゃ何にもならないぞと言われているのだから。神様に言われているのだから。
一歩でも、御言葉の通りに歩まねば。そして、また次の一歩も、ね。


●14(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 (フィリ2・4)
キリスト者として、隣人のことも当然、気にかけているつもりでいる。自分のことしか考えないなんて、そんな信仰者はいないんじゃないの?
でも、今日の御言葉の直前に「へりくだって、相手を自分よりも優れた者として考え」とあった。他人のことを気に掛けてると言っていながら、相手を見る時の目線が間違っていたかも。ちゃんと下に立って僕になっていなかったかも。傲慢だったかも。


●15(木)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。  (コロ1・13)
ボクは以前は、恵みとは別の世界(自分が神となる自己中心の世界、闇の世界)に住んでいて、そこで神様のことを知って、神様に委ねようと自分で信じて決心した、と思ってた。
でも今日、全てのことをしてくださったのは、御父なのだよと告げられる。それを、ただ「感謝しかありません」と、百l受け身で受け取ることが、信仰の出発点なのかも。今日、信仰理解が一変した気がする。


●16(金)
主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。  (ヘブ13・6)
こう言い切れる自信は、一体どこから来るのだろう? 聖書を開いて、分かった。そこには、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と、神様の約束の言葉があった。
神の約束を聞く。そこには、私の内に無い、勇気の種がある。それを戴いたら、芽生え、私の内で信頼と勇気が大きく育つんだ。やっぱり信仰は、御言葉を聞くことに始まるんだな。


●17(土)
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。    (ロマ8・14)
主なる神を「天の御父」と呼べる私たちになった。でもそんなこと、万物を創造された神に対して、本来ならちょっと非常識な振る舞いで無礼になるのかも。いや、絶対に無礼だ。
聖霊を戴いている証拠が、祈りの時に「天の父よ」と安心して呼び掛ける心を持てている、ということかも。だったら、御父の子として喜ばれる歩みをしよう。天の父が、ボクを見て「恥ずかしい」と思わないように。


●18(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●19(月)
二人の目が開け、イエスだと分かった。    (ルカ24・31)
ご復活のイエス様が、エマオ途上で弟子たちと会われ、一夜の宿で夕食を共にされた。そこで、最後の晩餐と同じように「パン裂き」をなさった時のことだ。二人の弟子の信仰の目が開いたのだ、そして「あ、これは主だ。真に復活された」と悟れた。
十字架も、復活も、救いも全部、自分の理解で分かるようなことじゃない。目を開いていただかねば。正に「信仰」そのものが、「賜物」なんだ。


●20(火)
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 (2テモ2・8)
この箇所の少し前に「キリスト・イエスの立派な兵士として」キリスト者の苦しみを忍ぶようにと告げられていた。その私たちが、イエス様のことを想起するようにと促されている。それは、イエス様が「死者の中から復活された」ということの想起だ。
復活の福音ー。それは私たちには復活の命があるという貴い約束だ。これこそが、イエス様に結び付けられて生きる者の忍耐を支える希望だ。


●21(水)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。    (ルカ6・35)
イエス様は、善を行い、与え続けることを求められる。ふと「自分にはなかなか出来ないよ」と思う。でも、そういうボクに、主は「弱いあなただけど、もう一度やってごらん」と優しく言っておられるのかもと考えてみた。
でも、そんな風に御言葉を自分に都合よく、勝手に丸めても良いんだろうか。然り! 主は「ここを生きよ」と厳命されている。そして賭けた者のみ、恵みの世界を経験するのだ。


●22(木)
御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。  (ヘブ13・21)
あらゆる恵みが、私たちの懐に押し込まれるようにして、溢れるように入れてもらえる。「ああ、感謝だな」と思って有頂天になっていたボクは、今朝の御言葉でふと気付いた。
なぜ恵みを戴けるのかを告げていたからだ。それは、「御心を行うため」。ボクが神様の御心・御計画を喜んで上手に行えるために戴ける道具だったんだ。使い方を間違えないようにしないと実りは無いのかもね。


●23(金)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 (使1・8)
「あなた方と共にいる」と伝え続けたイエス様が、天に帰られる直前に語られたのが、今朝の御言葉だ。
「神は私と共に居られる」ということは、そんな気がするという抽象的なことじゃなかった。イエス様が今も共に居てくださるというのは、聖霊がボクの内側に内住されるということ。その現実なんだ。ボクも受け取った、受洗の日に。ボクの内にも神が共におられる。それこそが力だ!


●24(土)
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブ10・22)
「神に近づこう」、そう願って生きている。そこが恵みの源だから。
でも今朝の御言葉で、ふと思う「ボクは信頼しきっているだろうか」と。ご利益宗教のように、願い事だけを言いっ放しにしていないだろうか。また「ボクは真心を込めているだろうか」と。なんだかドライな関係ではないだろうか。
ああ、幼な子のようになりたい。無心に「天の父よ」と呼ぶ者でいたい。


●25(日)
降誕祭(クリスマス)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●26(月)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。  (ルカ19・10)
「人の子」とは、神の御子イエス様のこと。誰かを探しに、天から降って来られた。それは「失われたもの」と、御言葉は告げていた。
ある日、その「失われたもの」が自分自身のことだと気が付いた。そのときイエス様のことが、グンと近くなった。神様のことが、グンと近くなった。天の高い所におられる方じゃなく、ボクの傍らに居て下さる方になった。クリスマスが、感謝の日となった。


●27(火)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(1ヨハ4・15)
「ボクもキリスト者としてその一人だ。神がボクのうちにとどまってくださる、感謝」と思った。でもすぐ後に「公に言い表す人は」の一言に目が留まって、うろたえた。「周りを見て、口にすることを躊躇する時がないだろうか」と思ったから。会社や食堂で、公にするどころか、祈ることさえ気後れする。そこで、貝になっている。
内におられる神に、悔い改めるばかり。そしてすがるばかりの我なり。


●28(水)
世の汚れに染まらないように自分を守ること (ヤコ1・27)
あー、ボクはもう染まり切っている。世の汚れは「舌を制することができず」「困っている人を世話せず」「御言葉を聞いても行わず」という人のことだったから。
あー、ボクはかなり焦ってきた。染まらないで自分を守れた人が「神の御前に清くけがれのない信心だ」と言われていたから。もうダメかも。
いや、今日が岐路だ。今日を、立ち帰る日とすれば良いのだから。


●29(木)
もし信じるなら、神の栄光が見られる。 (ヨハ11・40)
墓に葬られたラザロ。既に死んで四日も経っていた。傍で泣くラザロの姉妹マルタ。その彼女にイエス様がおっしゃったのがこの御言葉だ。「神の栄光」とは、ラザロが死を打ち破って生き返ることだった。
信仰は、人が「これは絶対に無理」と思う壁を破る。ボクの周りにも「絶対無理」が溢れていた。それと向き合って祈って来た。ボクもそこで神の御業を見て来た。今朝の言葉は、真だ。


●30(金)
こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える (ルカ1・73〜74)
ああ、明日はもう大晦日。その日に、洗礼者ヨハネの父・ザカリアの賛歌を聞く。それは救い主の降誕と、その道を整えるヨハネの誕生の喜びだ。
私のこの一年も、イエス様に支えられた日々だった。自分の不信仰で多くの過ちを犯したけど、そのたびにイエス様が御許に立ち帰らせて下さった。それこそが「敵からの救い」だった。感謝で今年を終え、加えて恐れなく主に従う決意も新しくしよう。


●31(土)
神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使4・19)
ユダヤ人当局者から「イエスの名によって福音を語るな」と命じられたペトロたち。そのとき躊躇しないでこの言葉を告げたのだ。「殺すなら殺してくれ」と言っていることになるのに。
「聴従か死か」。本気で主に信頼して生きていないと、この一言は言えない。ボクは言い訳ばかりしているうちに、この本気さを失っていたのかも。大晦日の夜、そのことを黙想する時にしたら、来年はいい年になるかも。
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2022年11月30日

『日々の聖句』2022年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年11月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。(マコ1・38)

いつもイエス様の周りには、群衆が殺到して来ていた。休む間も無くなるイエス様。大変だったろうな、と思っていたけど、今朝「ちょっと違うかも」と思った。イエス様の方が、人びとを求めて、人々の中へと歩み行かれたんだと知ったから。それがイエス様の願いだったということも。
それを知って嬉しくなった。だってボクの所にも、イエス様の方から求めて来て下さったんだと分かったから。


●2(水)
あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(1ペト2・9)

私たちがイエス様によって救われた者となったのは、「ああ良かった」で終わるためじゃなくて、神からの任務を担うためだと告げられている。それは、主の御業の伝道だ。
これまで戴くことばかりを求めていたかも。戴き物の大きさを知っていても、少しもお返ししていなかったかも。でも、信仰の大人に成長しよう。御父がボクを信頼して、任せたいと言って下さる務めを知ったのだから。


●3(木・祝日)
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ロマ4・25)

イエス様が地上に降誕された出来事の意味が、そして御父の計画の目的が、ここに一文で言い尽くされている。それが、私たちの罪のため御子を死に渡し、私たちを義とされたくて、復活させられたのだ、と。
この一文こそ、クリスマス聖誕劇(ページェント)の最後に読まれるべき言葉じゃないのだろうか。「クリスマス嬉しい」だけじゃなく、降誕を真に感謝する者となるために。


●4(金)
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。   (1コリ15・10)

大使徒・パウロ。でも彼は、自分の働きを誇らない。それが今日の言葉となった。彼ほど誇れる結果を残した人はいないのに・・・。
彼は、キリスト者の迫害者だった自分を知っていた。神への反逆者だった自分を。しかしその自分が「救われた」ということも。そうだ! 彼は己を知り、また救い主を知っていたのだ。この二つが今日の言葉を生んだのだ。ボクも、この二つに生きたいな。


●5(土)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 (1テサ5・16-18)

これは、キリスト者ならきっと誰もが好きなみ言葉だ。喜びと、祈りと、感謝のハーモニー。こういう信仰の生涯を送りたいといつも願っている。
そしてそれは、私たちの願いだけじゃない。今日の御言葉の後に「これこそ・・・神があなたがたに望んでおられること」とあったからだ。
「大好きな御言葉だなぁ」だけで終わらせちゃいけない。これを生きなきゃ。神が切望しておられるのだから。


●6(日)
礼拝説教
(召天者記念礼拝)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●7(月)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。(コロ3・8)

神様の大切な隣人を傷つけている時、ボクの心の中には「自分こそが正しい。自分に正義がある」という欲から生まれる怒りがある。それを相手にぶつけてしまおうとする悪意がとぐろを巻く。完膚なきまでにやっつける言葉を選んでいる悪意だ。とうとう、その思いと言葉を口から出す。
ああ、ボクの心は罪の巣窟だ。その全部を捨ててしまいたい。恥ずべきことをしてると言われているのだから。


●8(火)
キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリ1・29)

イエス様と共に歩む人生は、苦労もある。家族に毎週教会に出掛けるのを理解してもらえないこと。仏式の葬儀での戸惑い、そして小さな迫害も・・・。信仰者として誠実であろうとするから、そこで悩むのかも。
そういう人を、主は「私の伴侶のように、苦労を共にしてくれるのだね」と喜んで下さる。でも、微塵も悩み無しでいる人は、どう思われているのか。「少しは悩もうよ」、かもね。


●9(水)
不平を言わずにもてなし合いなさい。 (1ペト4・9)

相手に仕えようとする時、「どうして私が? どうして私だけがするの?」とか、不平を感じてしまう。御言葉は、心から愛して仕えるようにと、促す。
んっ? でもそれだけじゃない「もてなし合う」というのは、もてなされる側にいても不平が出るということ。「もっとこうしてくれ、ああして欲しかった」とか。嗚呼、人はどこまで不平を持つ者なのか。あ、それボクか


●10(木)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている  (ヘブ4・14)

「偉大な大祭司」と「イエス様」とが、どう繋がるのか。それが大きな問題。そしてそこに大きな恵がある。それは「神との間の仲介者」が「大祭司」の働きだから。それにイエス様がなって下さると言うのだから。
イエス様は、ボクの執り成しのため、御自身の身を捨てて命懸けになられた。この大祭司がいてくれたから、ボクも神を「天の父」と呼べる。天国が「ボクの真の古里」って言える。


●11(金)
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。  (1ヨハ2・9)

「主によって救われて、ああ感謝だ」と信仰生活を歩む人に、御言葉は語り掛ける「あなたは、兄弟姉妹に憎しみを抱えていないか? 腹立たしい思いを抱えていないか?」と。そして「そうであるなら、あなたはまだ今も、主イエスを知る前の闇の中にいる者なのだよ」と。
闇の中に引きずり戻すのは、隣人のせいじゃなかった。自分自身だったんだ。まず自分が変わらなきゃ!


●12(土)
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。  (ヨハ12・26)

イエス様は、「・・・わたしに従え」と促される。
「ボクも、イエス様と一緒にいたいから、従って行こう」と思って、今朝の御言葉の直前カ所を読んでドキッとした。そこには「一粒の種、地に落ちて死なずば・・・」の御言葉が語られていたからだ。ここは、十字架の死の話しをしておられたのだ。だから、主に従うとは、そこまで行くということ。相当の覚悟がいる。・・・覚悟した!


●13(日)
礼拝説教
(ウエルカム礼拝)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●14(月)
キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。  (2コリ5・17)

多くの人は「生まれ変わりたい」と思うことがあるという。在りたい自分と、現実の自分が違うから・・・。
でも今朝御言葉は「あなたも新しく生まれ変われるよ」と告げる。「天の御父の子どもになれる。恵み豊かな天の国の家族になれるんだよ」と。そのために為すべきことは一つ。洗礼を受けること=キリストに結ばれること、この一つだよと。改めて洗礼の恵みの深さを噛みしめたい。


●15(火)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 (ヤコ2・1)

「人を分け隔て」なんて、ボクはそんなことしない。そう思いつつ聖書を開いたら、相手によって態度を変え、貧しい人を末席に座らせることだった。やっぱりボクはそんなことしないよ、と思う。でも、本当にそうかな。
自分の価値観で人を見て「あの人は出来ていない。あの人はおかしい」と裁いていないだろうか。批判するという末席に、座らせていないだろうか。自分が上に立とうとしてないか。


●16(水)
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 (マタ 5・18)

「律法主義はダメだ。行いで義とされるのじゃなくて、信仰だけが大事なんだ」と言うボクに、イエス様がガツンと言われた。「律法は消えないぞ。その一つさえ破ってもダメなんだよ」と。そもそも律法は、神との約束の言葉。それを軽視するなら、そこから神の言葉を大切するという堤が、蟻の一穴のように崩れ出すから。
ボクも神を慕う信じる者だから、懸命に、行いがが伴う者になりたい。


●17(木)
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。      (ルカ6・31)

律法の黄金律は「神を愛し、隣人を愛する」こと。その「隣人を愛する」ということは、単なる心情の話しではない。具体的に「このようにすべし」と言われている所作がある。それが今朝の御言葉なのだ。
優しい心になって、自分が「してあげたいな」と思うことをするんじゃない。まずは、その勘違いから訂正しなきゃ。「わたし本位」ではなく、「あなた本位」になることなのだから。


●18(金)
律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリ3・9)

「律法から生じる自分の義」とは、「私は十戒に従って生きようと励んでいる。人の道にも外れたりしない」と安心している生き方。「信仰に基づいて・・・」とは「私は何も出来ていない。むしろ御心に外れ、人の道にも外れている」と嘆く生き方。
今朝、御言葉は「神が喜ばれるのは後者だ」と言う。自分を見る目を捨てて、神様だけを見てすがる者でありたい。そこに「救い」があるから。


●19(土)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。  (1コリ12・26)

教会は「キリストの体」。その「一つの部分」とは、私のこと。私が悲しみ苦しんだら、兄弟姉妹も一緒に心を痛めて祈ってくれるのだ。喜べば一緒に祝ってくれるんだ。なんて嬉しい!
でも喜びつつ、ハタと思い留まった。「部分」というのは、隣人の兄姉のことでもあって・・・。私はその人の苦しみを一緒に背負って、祈っているだろうか。自分にしてもらうことばかりを求めていないだろうか・・・。


●20(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●21(月)
いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 (ヘブ3・18)

なんだか語気が激しく恐い感じがして、聖書カ所を開いたら・・・。出エジプトの恵みを受けたのに、神に従わないことばかりしていた頑ななイスラエルの民に対しての警告だった。
でも直後に「不信仰のせい」と言われているゆえに、このみ言葉はボクに向かって来る。だから直前の「今日、神の声を聞くなら・・・心をかたくなにしてはならない」との促しに、「御心を歩ませ給え」と祈りが始まる。


●22(火)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。 (1ペト3・9)

「はい、そうします」と言いながら、実際にはどれほど難しいことか、ちょっと本気で考えたら分かる。
ほんの一言でも気に入らないことを言われただけで、すぐに言い返す。倍返しで言い返す。その時すぐ言えなかったら、夜中までも頭の中でバトルを繰り返している。相手を打ち負かそうとして。
ああ私は、世の中で一番の愚か者。主の溜息が聞こえる気がする。


●23(水・祝日)
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。   (ガラ3・26)

私たちは、キリストに「結ばれた」と告げられている。そこで、いつ、どのようにして「結ばれた」のだろうか、と思い巡らしてみた。
結婚のようにかな? それとも・・・と考えていてハッとした。この結びつきは、イエス様のほうからの働き。それも命懸けの結びつき。その式場はゴルゴダの丘(十字架の上)だった。和やかな披露宴どころじゃない。正に、信仰によってのみ分かる真理。


●24(木)
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(1ヨハ5・15)

「何でも聞き入れてくれると信じる、イコール、願った時に既に叶えられている」、これってすごく合理的だな。でも現実の生活では、この実感は無い気もする。願っても、願っても、叶えられないのが現実だから。
聖書を見たら、この「願い事」は「永遠の命」のことだった。これは自力では無理だから、一番願わなきゃいけないこと。ボクは願い事の段階で、もう勘違いしていたのかも。


●25(金)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 (エフェ4・31)

嫌なことをされて、イライラするけれど「わめき、そしり」などしない。自分は、少なくとも信仰をもって生きようとしているから・・・。自分の側に「悪意」なんてない。だって悪いのは相手なんだから、と思っていた。
それでも、このみ言葉が何となく心に引っ掛かる。もしかしたら、神様が語り掛けておられるのかも、「気付かなければならないことに、今日、気付くのだよ」と。


●26(土)
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 (1コリ10・32)

ああ、いつも「あの人に惑わされた、あの人に煩わされた、嫌だなぁ」と思って来た。でも今朝改めて、全く勘違いをしていたんだと知った。
人に迷惑をかけたのは、私のほうだったんだ、と。私は被害者じゃなくて、加害者側だったんだ、と。「あの人の悪から守って下さい」と祈るよりも、「どうか私を赦して下さい」と祈るべきだったんだ。他人との関係回復は、自分の側から始まる。


●27(日)
礼拝説教
待降節(アドヴェント)第1主日

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●28(月)
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 (1ヨハ5・4)

「神から生まれた人」って、そんなこと可能な人間がいるんだろうか。ボクは両親から生まれたんだし・・・。
あっ! ボクの誕生日は2回あった。最初は病院でオギャーって生まれた日。2回目は、教会でオギャーって生まれた受洗の日だ。洗礼って、神から生まれた子となる凄い日。世に勝つ者に生まれ変われた日なんだ。誕生日として、もっと祝わなきゃ。年に2回、誕生日ケーキを食べなきゃね。


●29(火)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。    (ヤコ1・21)

心に植え付けられた御言葉を、受け入れて、あらゆる悪を素直に棄て去るようにと勧告される。その実りが、今朝のみ言葉なのだ。
心に届けられる御言葉がある。『日々の聖句』によって、また主日の礼拝において。それに従うことは、魂の救いに直結しているんだ。生活に喜びが消えているなら、御言葉を見失っているからかも。御言葉に背を向けて、闇ばかりを見ているからかも。


●30(水)
あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対して。     (1コリ6・8)

「兄弟たち」に対して、不義を行い、奪い合っているって何? 教会の中で争い合っているってこと?
何ということだろうか。主の体の教会の中でなんて・・・。互いに一つの体の肢体であるはずの兄弟に対してなんて・・・。「そんなことあってはならない」と思うようなことを、人はしてしまうものなのか。
ああ、その愚かさがボクにもある。教会の中でも、家庭の中でも・・・。




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2022年10月31日

『日々の聖句』2022年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年10月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。   (2コリ9・6)
惜しまず蒔く「種」とは、エルサレム教会への「献金」のことだった。
献げものとしての献金のことだと知って、じゃあ「惜しまず」って、どのくらいなんだろうと考え始める。金額のことなのか、それとも献げる時の気持ちのことなのだろうか、と。そう考え始めて、もしも次に献げる献金が変わったら、この御言葉が心に届いたということなのかも。信仰って、具体的な生活に直結している。

●2(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。  (ヤコ2・13)
こういう御言葉を聞くと、瞬間的に「憐れみをかけるって、どの程度まで?」とか「それは、嫌いな人とか敵に対してもということですか? そんなこと現実的にはどうかなぁ」とか、すぐに考え始めてしまう。振り返ったら、ボクは実際の行いで、人に対して分け隔てしている・・・。
そのこと全てに、ガツンと鉄拳を下された気がした。そうだ、ガツンとだ。痛いと思うことが大事なんだ。

●4(火)
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。   (1コリ12・27)
教会がキリストの体にたとえられる。そして、その体の一つひとつの部分が私たちなのだ、と。
「自分はどの部分なんだろう」と、ふと考える。奉仕する「手」だろうか、気を配る「目」だろうか、と。
でも今日は、自分のことを考えるのは横に置こう。「あの人はどんな大切な部分なんだろう」と考えよう。そうしたら、「あの人のために」と祈れるから。決して裁いたりしないから。

●5(水)
神は人を分け隔てなさらない。 (使10・34)
誰と誰を隔てないのか。それは、神様から恵みを戴けるのは当然と考えていたユダヤ人と、決してもらえないと考えていた異邦人とだ。でも・・・。
「これはユダヤ人に向けての話だ」と考えちゃいけない。私たちこそ、神の恵みについてあらゆる分け隔てをつくるから。他人を見て「あんな人」とか、自分を見て「私なんか」とも。そういう私たちに、神はキッパリ言われた。私に、分け隔てなどない、と。


●6(木)
時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった   (ルカ1・20)
天使がザカリアに現れ「洗礼者ヨハネが生まれるよ」と告知した。でも「私も妻も老人なのに、有り得ない」と信じない。その彼に、天使が再度告げたのだ「あなたは口が利けなくなる」という痛烈な裁きの言葉と共に。
天使の言葉(ボクには御言葉だ)を信じないのは、それでもいいやで済まされない。神様が「わたしの言葉を信じなかった」と嘆かれること。もしかしたら怒ってもいる。ドキッとした。


●7(金)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。      (コロ2・6)
イエス様を知って、洗礼を受けた。でもその後も肝心。「キリストに結ばれて歩みなさい」ということだ。
だって、そうしないと転んでしまうから。だって二人三脚のように片足はイエス様に結ばれているんだから。イエス様に合わせて(御言葉に合わせて)イッチ、ニ。イッチ、ニ。肩も主に抱かれながら、イッチ、ニとね。その歩き方こそが、幸せになれるゴールに向かっているんだから。


●8(土)
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。  (マタ21・3)
他人のロバなのに、主は「イエス様のために貸してください」と申し出るように命じられた。こんな非常識なことを言い出せるのか・・・。従ってみた彼らは、その時、お言葉通りになるという神の御業を経験したのだ。
ボクは「こんなの無理、非常識」と思える御言葉に、ちゃんと従えるだろうか。人間が出来そうなことしか従わないから、人間の射程範囲の小さな恵みしか得られないのかも。


●9(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 (ルカ19・5)
木の上にザアカイが居るなんて、誰も知らない。隠れていたんだから。でも彼はイエス様を見てみたくて枝陰に潜んでいたんだ。その真下でピタリと足を止め足られてイエス様。そして声を掛けられたのだ「降りて来なさい。あなたに会いたいから」と。
ボクの時も同じだった。ボクの傍でイエス様はピタリと足を止め、声を掛けて下さったんだ「あなたに会いたい」と。だから、今のボクがいる。


●11(火)
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。    (コロ3・14)
「身に着けなさい」と言われているということは、身に着いていないゾという指摘。さらに、気を付けないとゴッソリ落ちてしまうぞという警告。加えて、身に着くまでは訓練と修練が要るという諭しかも。
心して頑張らなきゃ。本気で頑張るべきことは、これなんだ。身に着けた愛によってこそ、人と人との関係は完成されるのだから。代替策は、他に何も無いのだから。


●12(水)
子たちよ、偶像を避けなさい。  (1ヨハ5・21)
「子たちよ」と優しく語り掛けられる。しかし、これがヨハネの手紙の最後の言葉なのだ。つまり、これがこの手紙で言いたいことの総まとめなのかも。この一言に手紙の内容は尽きるのだ、「偶像を避けなさい」と。
「周りにあるこの世の習慣や常識という偶像を避けよ。あなたの中にある自分中心という偶像から飛び退いて生きよ」と。そこから、新しく愛に生きることが始められるから、と。


●13(木)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。    (ルカ1・68)
洗礼者ヨハネが生まれた時、父ザカリアの第一声が、この言葉だ。それは、ついに救いの御業が始まるという喜び。神の救いの御業の進撃ラッパ。
神をたたえるのは、自分にアレコレの恵みを与えられた喜びなんかより、何よりも救いの御業なんだ。ボクは、ひょっとしたら自分への小さな恵みのことばかりを考えていて、救われたことを軽く考えてしまっているかも。すっとこどっこい信者かも。


●14(金)
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリ4・7)
この「宝」というのは。キリストこそ救い主という「福音」のことだ。その「福音」を伝えるのは、金でも銀でもない「土くれの器」でしかない人間だと、パウロは告げた。語る者を見るのでなくて、百%「福音の光」そのものを見て欲しいからだ。
隣人に福音を伝えたい。それなのに上手に語れないと下を向く私。でも土の器の私でいい。福音を大切に生きれば、器の中の宝が輝くから。


●15(土)
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    (ロマ3・25)
聖書は一切言葉を濁さず、父なる神が御子を供え物としたと告げる。
アブラハムが息子イサクを捧げ物にするように神に命じられ、祭壇を築いて息子を屠ろうとした出来事を読むたび「どんなに辛かったか」と心の痛みを思うのに・・・。御父は御子を本当に十字架で供え物にされた。それなのにどうしてボクは、その痛みを思い巡らすことが希薄なのか。ボクの信仰は、何を信じているんだろう。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●17(月)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。     (ヨハ6・36)
イエス様が、群衆を前にしてこの言葉を言われた。今、あなた方の前に「命のパン」である私が立っているが、見ているのに誰も信じない、と。
ふと、子供の頃にCSの先生に言っていた言葉を思い出した「弟子たちのようにボクだって、目の前でイエス様を見たら、いつでも信じるよ。でも見られへんからなぁ」と。ああ、幼な過ぎた。でもあれからボクは、少しは成長できたと言えるのかなぁ。


●18(火)
はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。  (使3・6)
ペトロが人々に向かって、イエス様のことを説き聞かせ始めた。彼らは分かっていた事実がある。それは五十日前、自分たちがイエスを十字架刑にして殺したということ。でもペトロは、そのお方が救い主だったと告げたのだ。人々は驚愕しただろう。自分がメシアを殺したと知ったから。
自分が主を殺したという驚きは全ての人の驚き。その驚きが信仰の入り口。そして救いへの唯一の入り口。


●19(水)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。  (マコ1・22)
人々を前にして、イエス様が会堂で教えられた。それは他の教師達とまるで違った。彼らは、調べたことを器用にまとめて語っただけ。それを人々は喜んで学んではいた。寺子屋のように。でもイエス様の話は、異質だった。神からの良い知らせ(福音)として伝えられたから。人々の心に「従う」という思いも生まれた。学習とは違う、信仰の決断として。
福音は、学習の世界の外にある。


●20(木)
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタ6・18)
「山上の垂訓」の中の一節だ。人々には「断食すべし」という律法があった。でもそれをする時「私はこんなに熱心にしていますよ。熱心な信仰ですよ」と人に見せようとして、苦しそうな顔をして見せた。結局、人の目や評価だけが気になり、縛られてた。
イエス様は「天の父が見ているから」と言われる。人の評価に縛られる自分から、解放してくれる。自分を誇る罪から、解き放ってくれるんだ。

●21(金)
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。  (1ペト4・14)
「キリスト者」と知られるだけで社会から爪弾きになる迫害があった。
「大変な時代があったんだ」と他人事のように考えちゃいけない。今でも、キリスト者として生きようとするなら主日厳守、十一献金、あらゆる偶像厳禁がある。ここに本気で立って「生きづらいなぁ」と思う生活をちゃんと送っているのかが問われているんだ。そしてその生きづらさこそ、ボクも神の子供だという証なのだ。


●22(土)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。      (ルカ2・11)
幼い頃から、教会で(また教会学校で)、クリスマスの聖誕劇で何度も聞いて来た御言葉だ。これは、野宿していた羊飼いたちに、天使が告げた嬉しい知らせ。なぜか聞くたびに、ボク自身が胸をときめかせた嬉しい知らせだ。
大人になっても、大好きな御言葉だ。聞くたびに心がホッとして、読むたびに平安が拡がる。私のために、救い主が来られたと聞くのだから。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●24(月)
イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」    (ルカ10・37)
イエス様から「隣人を愛するとは、傍で困っている人に、自分が手を差し伸べるということだ」と、善いサマリア人のたとえ話を聞いた。皆は「立派な教えだ」と感心する。でもその人々の顔を見て、イエス様が「知っているだけでなく、あなたが手を伸ばすのだよ」と言われたのだ。
ボクもこの教えを理解している。それなのにどうしてボクの手は、こんなに短くて、隣人に届かないんだろう。


●25(火)
マラナ・タ(主よ、来てください) (1コリ16・22)
コリントの教会に律法主義が再び持ち込まれ、主イエスから離れる「救いへの道の逆流」を起こしていた。そこにパウロが「主に立ち帰れ」と切々と手紙を書いたのだ。その締めくくりに、今朝の一言がある。
「立ち帰れ」と語る根拠が「ご復活の主は再び来られる、早くお迎えしたい」という再臨信仰。ボクにも再臨希望は与えられている。お迎えするに相応しいボクに、ならないとね。


●26(水)
あなたが信じたとおりになるように (マタ8・13)
異邦人の百人隊長が、部下の病の癒しを願い出た「ひと言おっしゃってください。お言葉だけで治していただけますから」と。それに対して、主が答えられたのが今朝の言葉だ。
「信じたとおりになる」ってスゴイ。信じるだけで、願いが叶えられるんだ。病の癒しでさえ、だ。
でもウッと思った。本気で信じてないなら何も動かないと気付いたから。信じことに、本気度が問われてる。


●27(木)
わたしたちは神に属する者です。 (1ヨハ4・6)
私たちはこの世に属する者ではなく、神の家に所属する者。なんて嬉しい呼び掛けだろう。私の側の努力も精進も一切問われることなく、「あなたは私の家の子だよ」と、御父に言っていただけるなんて!
ここに続けて「神を知る人は、わたしたちに(聖書の御言葉に)耳を傾けます」とあった。単に嬉しいというだけじゃ何か足りない。神の家の者らしく、御父の言葉に聞かなきゃね。


●28(金)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。 (マコ16・7)
イエス様の亡骸が納められた墓には、天使だけが居た。そして今日の言葉が告げられたのだ。「あなたがたの故郷・ガリラヤへ行け」と。でもなぜガリラヤだろう。一切が出発した場だから、新しい出発もそこからということか。ペトロにとってガリラヤ訛りは、主への裏切りが露呈した印。そこに立って再出発ということか。理由は絡み合っているのかも。ボクに復活の主が出会った下さった場のように。


●29(土)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(コロ1・23)
「福音(良い知らせ)」って、最近自分の周りに無いな・・・。「希望」も、今の自分には見つけられない。そう感じる日・・・。もしかしたらイエス様から心が離れているからかも。なぜって、イエス様ご自身が「希望」なんだから。また「福音」そのものなのだから。
「救われて神の子として愛される」、この良い知らせこそ「希望」に直結しているのだ。だから明日、礼拝に帰ろう! 福音を聞き直すために。


●30(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  西田恵一郎 牧師



●31(月)
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。   (マコ12・43)
献金箱に、生活費を全て献げた貧しいやもめを褒めたイエス様。
「でも、今日の生活費はどうするの? 自分はいいけど、子供のご飯はどうするの? これはやり過ぎじゃないの?」という思いが溢れて来る。そんなボクの思いに、イエス様が問い掛けて来るのかも、「自分の生活は確保しておいて、残ったものから出来る分だけ献金すればいいんじゃないの、という順序はどうなんだ!」と。



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2022年09月30日

『日々の聖句』2022年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年9月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。 (エフェ4・1)
どこに招かれたのか? それは、キリストの体である教会に、だ。一つの体となるように、頭であるキリストに結ばれて、各人が体の一部分として生きよということなのだ。
そうであれば、ふさわしくない姿とは、その一致を乱すことなのかも。どうすれば、そんな人にならずに済むのだろう・・・きっと、頭であるキリストのように、自分の全てを捨ててまで隣人に仕える者となることだね。


●2(金)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。   (1ペト2・4)
イエス様は、人々から評価されず、認められもせず、かえって見放され、殺されてしまった。しかしその歩み全てが、父なる神の御心に従われたご生涯だったというのだ。その故に、御心の「救いの成就」がなされたのだ。
今朝のみ言葉の直後に「あなたがた自身も生きた石として用いられよ」と続く。ボクも神の御心に従って生き通せということだ。それが「自分の十字架を負う」という真意なのだ。


●3(土)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 (1コリ13・5)
これは社会生活の一般的ハウツーかな、と思ったけれど。でも、1コリ一三章だと目に入って、アッと思った。それは、これが「愛の賛歌」と呼ばれる箇所からの御言葉だと気付いたから。つまり社会生活の基本は、隣人を愛することに尽きるということなのかも。愛が第一というのは、新郎新婦の間だけの話しではないんだ。
私も、今日会う全ての人との間で、この御言葉通り生きてゆきたい。


●4(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師

(コロナ禍の状況によっては変更)



●5(月)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)
主の再臨を願い求めつつ、地上での教会生活を整えるようにと勧められる。この世からの誘惑もあるだろう。しかし耐え忍んで生きよと。
でもこれは将来の希望をしっかり見ている忍耐。実りへ向かってのコツコツ歩みだ。手は土まみれ、体は汗まみれ、クタクタになるだろうけれど、それがそのまま実りに変わる日となると思ったら、喜びを秘めた歩みとなる。信仰者は、そんな農夫だ。


●6(火)
(イエス)「立って、真ん中に出なさい」  (ルカ6・08)
手の萎えた男が苦しんでいた。でもその日は、誰も彼を助けてあげられない。律法で一切の仕事を禁じられていた安息日だったから。ファリサイ派は、男の苦しみ見て無視した。しかしイエス様は、男を見て癒される。
主は、「真ん中に出なさい」と言われた。それは、「私はここですぐ、今苦しむあなたを救いたい」という御心の中に立つという場所。そのイエス様の想いは、私にも注がれている。


●7(水)
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊い   (1ペト1・7)
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」と言われた直後にこの御言葉が続く。信仰が本物になるためにたくさん試練を受けよ、と言われているのじゃない。
この世で信仰を守ろうとしたら、その者にだけ必ず試練が襲う。でもその者にだけ与えられる栄冠がある、と言われているんだ。耐え忍ぶ側に立つのか、そこから逃げるのか、さあ、私はどっちに立つのか。さあ!


●8(木)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。  (1コリ1・25)
「神の愚かさ、弱さ」とは、御子を十字架で死なせたという出来事そのものだ。だって、御父が嫌う罪人の身代わりを、御子にさせるなんて、愚かに思える。他に良い方法がなかったのかと思う。神が死ぬなんて、そんな姿は弱すぎで、もっと強力な御力の発揮の仕方はなかったのかと思う。
でも、その愚かで弱い方法によって、愚かで弱い全ての人が救いあげられたんだ。こんな罪人のボクでさえ。


●9(金)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  (ルカ15・7)
見失った迷子の羊の話しをされたイエス様。
その一匹って、どんな羊なんだろうと思い巡らしてみた。それは、自分中心で羊飼いの言葉を聞かずに勝手なことをする羊。つまり御父のもとを離反した罪人だ。もし、この羊が自分のことだと(知的理解でなく)心の底で受け取れたら、天にある喜びがボクの心にも響いて来る。恵みって、罪人理解に引っ付いているのだな。


●10(土)
互いにうそをついてはなりません。(コロ3・9)
母が「うそをつく子は大嫌い」と、よく言っていた。でも、今日の箇所の「うそ」というのは、虚言とか作り話とか詭弁とかいうのとは、何かちょっと違う気がする。それは聖書で、「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉」と一気に記されていた段落に直結していたからだ。うそは、忌むべき行いの中に入っているのだ。
「うそも方便」と上手に生きる者でなく、御言葉に愚直に生きたい。


●11(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師


(コロナ禍の状況によっては変更)

●12(月)
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。(1ヨハ3・15)
この「兄弟」はと血のつながった家族ではなく、勿論「隣人」のこと。「あいつが憎い」と思う時、その人を殺していると言われている。そんな大げさな、と思って、ウッと立ち止まった。
「大げさな」と思うのは「こんなことぐらいで人を殺しはしない。こんなことぐらい大丈夫だ」と、自分で勝手に思っているということだ。殺したのと同じ重さの罪だと、神が言っていることに、気付きもしないで・・・。


●13(火)
神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ(使11・18)
「異邦人をも」という一言が、使徒言行録にあることは、大切な意味がある。教会の働き・伝道の働きが始まった時に、何よりも「異邦人をも」という点が拡げられることが重大事だったことを示す一言だから。
この「異邦人」は、「こんな人が救われるはずがない」と言われていた人を意味する。それが「私」だったんだと改めて思う。更に、いつの間にか伝道を諦めている「あの人」のことかも。


●14(水)
さあ、立て。ここから出かけよう。 (ヨハ14・31)
イエス様が、受難が始まる直前に弟子たちに、告別の話しをされた。そしてこの言葉を告げられたのだ。「受難のど真ん中へと出かけよう」と。なぜなら、そこに御父の「御心の計画」があるからだ。
ボクも、これが「御心の道だ」と分かったら、たとえそこに苦難が予想されても、背を向けずに踏み出そう。そこへの道こそ、主が「さあ出掛けよう」と一緒に歩いて下さる道だから。


●15(木)
万物は御子によって、御子のために造られました。   (コロ1・16)
天地創造の時、御父と一緒に御子も創造の御業に就いておられた。だから「御子によって造られた」ということ。「御子のために」とは、神様は万物をご自身の「相手・パートナー」として造られたということ。御子なる神が、この世界と、また人々と関わることを求めておられるのだ。
だから、ボクが造られた意味は、御子のパートナーとされているという点で、一番輝くんだと思った。


●16(金)
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。 (マタ5・44-45)
イエス様の「山上の垂訓」の中の一節だ。いつも、聞いてすぐに「無理」と思って、放り投げて来た。でも改めて「天の父の子となるため」と聞いて、ドキッとした。敵を愛そうと試みさえしなかったら、御父の子となれないんだと、ふと気付いたから。
「無理」と放棄するのは自己中心そのもの。そこに罪が巣食う。だから何度も試みよう。これは御子の言葉だから。幸いへの招きの言葉だから。


●17(土)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。 (ルカ1・33)
「彼は永遠に神の民を治める者となる」と宣言されている。彼って誰のこと? 思って聖書を開いたら、天使が、降誕を告知をした場面だった。彼とは、私たちの主イエスだ!
「永遠に」ということは、今の私も含まれている。「ヤコブの家」ということは相模原教会も含まれている。つまり、私たちも御子のご支配の中に入れられているということ。ならば恐れず行こう。主の守りの支配の中を。


●18(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)

●19(月・祝日)
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。   (エフェ5・10)
いつも「何を主にしてもらいたいか」ばかり考えて来た。その結果「アレもコレもしてもらえない」と不満ばかり。でも今日気付かされた。「見るべき方向は、自分じゃなくて、主を見るんだ。方向が真逆だったから、主との関係も見えなかったのかも」と。
今日から「主が何をしてくれるのか」でなく「ボクが何をしたらいいの」だね。もっと早く気付けばよかった。そしてずっと忘れないようにしよう。


●20(火)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。     (ルカ13・9)
3年もいちじくの木に実がならない。主人は、こんな役立たずは切り倒して別の良い木に植え替えてしまえと言う。でも園丁が、今年もこのままにしておいて下さい。私が世話しますからと言ったのだ。実のならない木を愛する園丁が、イエス様のこと。
私が御心に適う生き方をする者になるのを、待って下さるイエス様。気の遠くなる忍耐で、不出来な者を赦し続けて。ああ、ボクも愛されてる。


●21(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。  (ヘブ3・16)
繰り返し「今日、神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と告げられる文脈の中に、今朝のみ言葉はある。誰が神に反抗なんてするんだと思っていた私は、「すべての者」だと聞いて、ギクリとした。「お前こそが、神への反抗者だ」と、神様から指差されたように聞こえたからだ。
今日気付けて良かった。崖っぷちで踏み止まれたということだから。


●22(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。    (マコ4・39)
風を叱りつけ、湖を一喝されるイエス様。その激しさにビックリする。
でもこんなに激しくなられたのはなぜ? それは、舟の中で弟子たちが、嵐に怯え切ってしまっていたから。主ご自身を信じられない弟子たち。それでも怯える姿に、主は味方になって下さったのだ。激しいほどに。
ボクも不信仰ですぐアタフタする。そんな姿にしかならないボクのためにも、主はまず立ち上がって下さる。


●23(金・祝日)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェ5・21)
キリストご自身に対するように、「あの人」に仕えるなんて。あんな人に仕えるなんて、出来るだろうか・・・
そう言えば、マザー・テレサは、カルカッタの駅で倒れている、誰にも顧みられない病者に、キリストご自身の姿が重なったという。ボクもまず一人に対して、更にもう一人に対して・・・と生きてみたい。失敗する日もあるけれど、一歩ずつでも。もし皆がそうなれば、この世界が変わるよ。

●24(土)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
相模原教会は、神の御子キリストの体。そうであるゆえに、頭はキリストご自身だと告げられている。
そうであるのに、それを私たちは本当にわきまえているだろうか。いつも自分の考えに合わない人を、心のどこかで批判してしまう。心に収めきれず、ついに言葉にも出す。その時、自分が頭となっているのに。真の頭なる主よ、あなたの座を取ろうとする罪人を、赦したまえ。

●25(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)


●26(月)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。 (ヨハ2・25)
「やっぱり、イエス様には全部お見通しなんだよねぇ」と思って、急に、何を見られているのか心配になった。
聖書を見たら、イエス様の奇跡を見て信じたという人達の心の中を、主はご存じだとあった。奇跡ばかり求める人間の欲を知っておられたということ。「ボクも彼らと同じ」と思った。してもらいたい要求ばかりを神に祈ってる。「従います」とは口先ばかり。それも主は知っておられる・・・


●27(火)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。     (マタ6・3)
どんなに善い行いも、他人にも自分自身にさえ気付かせないようにして行えということだ。いや、自分に対してということこそが、鬼門なのだ。私たちはいつも、自分の行いを誰かに褒められたいと思っている。口では謙遜なことを言っていても、心の奥では「私を認めて」と欲している。だから誰にも評価されないと、落ち込んでいる。ああ、主は図星でそれを見ている。そして、そこから救い出す。


●28(水)
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。(1コリ14・20)
んんっ? 「子供にみたいな判断」ってどんなことを言っているんだろう。聖書を開いたら、教会で、異言を得意顔で話すことだった。ちゃんと隣人に分かる言葉で話せということ。
「ボクは異言を使わないから関係ないな」と考えつつ、ちょっと待てと思った。ボクも「十字架と復活。罪と贖い」とか、キリスト教用語を繰り返すだけなら、友人には念仏のようにしか聞こえないかも。要注意だ。


●29(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(1コリ9・23)
「どんなことでもする」というのは、律法を持たない人には自分も持たない人のようになり、持つ人には自分も同じになること。「お前は優柔不断だ」と批判されるかも。自尊心を捨てているようにも聞こえる。しかしパウロは相手の下に立って、共に福音に与りたかったんだ。自分の評判なんか気にしていない。ああ、これが伝道するキリスト者の姿なんだろうな。私たちは、どこに立っているだろう。


●30(金)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。     (ロマ12・21)
悪を持って悪に返すな。飢えていたら食べさせるように。善を尽くして接するように、と言われている。
でも自分のことを顧みたら、相手を憎んで、心の中に留めておけずに陰口を言って、もっと悪いことに人にも言い広めている。そうやって相手をおとしめてしまっている。ボクはなんて卑怯な奴なんだ。信仰者の面汚しなのかも。ああだからこそ、今朝のみ言葉を両の手にしっかり握ろう。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』