2020年05月31日

『日々の聖句』2020年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年5月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(金)
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。         (マコ5・22)

 ヤイロの娘が、死にそうだった。その町の近くにイエス様がやって来られると知ったヤイロは、一目散にやって来る。群衆をかき分けて、イエス様の足もとに来て、ひれ伏して願ったのだ、「助けて!」と。
 ふと考えた「私は、誰の所に駆け寄っているだろうか」と。自分の遣り方でジタバタした後に、やっと祈り始める。ヤイロのように一直線にイエス様にすがっていないかも知れない。真の神が傍におられるのに。


●2(土)
(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。   (1コリ13・7)

 「愛の賛歌」と呼ばれるカ所だ。十三節にもわたって延々と「愛とは何か」が語られる。いや「この愛を生きよ」と勧告されているのだ。厳しい命令なのだ。
 私も結婚式の時、必ず読んで来た御言葉。一言一言かみしめながら、「あなたがたはこれから一層忍べ、信じ合え、互いに耐えよ」と。人生バラ色って顔をして聞く二人に「本気の勧告なんだぞ」と言って来た。「ここに留まるなら生涯、幸せは続くから」と。夫婦関係以外にも然りだ。


●3(日・憲法記念日)

主日礼拝説教
  全員「家庭礼拝」
         辻川篤牧師




●4(月・みどりの日)
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。   (使8・15)

 「サマリア」とは、ユダヤの人にとっては忌み嫌った犬猿の仲の人たちが住む場所。そこにもペトロとヨハネが遣わされる。そして自分たちと同じように神の霊が注がれるようにと、その人々のために祈ったのだ。同じ神の民とならんがために。
 最も嫌った隣人なのに、最も大事な恵みを主に願うなんてスゴイ。好きな人だけ愛するボクとは大違いだ。敵を愛し迫害する者のために祈ることに本気に生きる。本気の信仰がボクには足りなかった。


●5(火・こどもの日)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。   (ルカ15・7)

 九十九匹の羊を野原に残して、迷子の一匹を探す羊飼いの例え話。その一匹とは、罪のゆえに神様のもとから離れた人のこと。「自己中心で歩くお前だ」と言われている。そして、その一人を探し出した時の御父の喜びの大きさを告げている。
 「我は罪人、迷い出た一匹」と気付けた者にだけ、恵みがある。義人ではなく、罪人と悔いた者が、恵みの受け取り手だ。

●6(水・振替休日)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)

 目の前に、片手の萎えた男が「癒されたい」と願いながら立っている。でも人々は、「律法によれば、今日は治療も禁止の安息日だ」と、心を頑なにしている。それを見たイエス様が、愛することを優先しない人々の心を悲しまれたのだ。
 私も自分の「こうあるべき」が「愛すること」の上に立つ時、イエス様は悲しんでおられる。私の傍で、私を見詰めながら・・・


●7(木)
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。   (1ペト1・22)

 イエス様から真理を受け取り、魂を清められたら、そのあとは「恵みを感謝」と言っているだけでは終われない。キリスト者には、責任が生じる。それは貴い責任。それが、深く愛し合って生きることだ。
 神様から戴き物をするだけでなく、応答(お返し)をする。それは親しい間柄。さらに戴き物が高価だと分かる人が、お返しも大きい。懸命に愛して生きよう。


●8(金)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。    (ルカ6・46)

 イエス様を怒らせた。それはなんと、主の弟子たちだった。
 一番御言葉を聞いて学んでいるはずの者なのに、一つも生き方が変わらない。相変わらず自分の価値観の中を生きていて、それなのに「自分は少しは良い人間だ」と思い込んでいる。そういう弟子たちに向かって激しく怒られたのだ。「なぜ御言葉を生きないのか」と。
 キリスト者の私に言われている気がしてハッとした。襟を正して生き直さねば。


●9(土)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。     (1コリ6・11)

 あなたは今や、主の十字架によって義とされていると言われる。でもこの「しかし」が気になって聖書を見たら、以前は不義を行い強欲で、人を悪く言い、物を奪っていたと告げられていた。ヒヤッとした。
 日常生活が、救われた以前の姿のままだと気付いたから。申し訳ない、それは十字架の死を無にする行為だから。救われたはずの私が、主を悲しませる。今日こそ生き方を変えよう。聖とされた姿に。


●10(日)

主日礼拝説教
「会衆参加の礼拝」再開予定
         辻川篤牧師




●11(月)
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」   (マタ18・22)

 ペトロがイエス様に、「赦すのは一回や二回でなく、七回(つまり完全にという意味)ですね」と物知り顔で言う。「よく分かっているね」と褒められると思った。しかしイエス様は「七の七十倍(完全×無限にという意味)だよ」と諭されたのだ。
 自分の傲慢さが、赦すことにさえ現れる。「これだけ赦したら充分だ」と勝手に一線を引いて満足している。イエス様はその一線を叱られるのだ。無限だ、と。


●12(火)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。   (ヘブ12・14)

 「すべての人との」と言われる。自分と気の合う人とだけではない、避けている人や気に食わない人とも、ということ。なんて大きな目標だろうか、と思ってドキッとした。聖書を開いて続きを読んだら「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」とあったからだ。
 単なる努力目標なんかじゃなかった。このように生きないと、主を見失う。大変なことになるんだ。最も失いたくないお方を失うんだ。真剣な招きなんだ。


●13(水)
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。     (2コリ5・21)
   

 「神と和解させていただきなさい」と語られた後に、このみ言葉が続く。神様との関係が断絶していたからということ。神様にすがりたいことがいっぱいあるのに、関係を崩した原因は、全て私の神への背き。だから和解が必要だった。でも! そのために必要なことを、神の側がして下さったと、今日のみ言葉は告げているのだ。
 「我が主」と親しく呼べることは、普通の恵みじゃない。破格の恵みだったんだ。


●14(木)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。   (ヨハ2・25)

イエス様が多くの奇跡をなさったので、たくさんの人々がイエス様を信じた。その出来事の直後に、この御言葉が告げられている。まるで「お前たちは、自分の欲していることを満たしてくれる召使のような魔術師を求めているだけだ」と見透かされている。イエス様を見ても、主ご自身を喜ばずに、奇跡だけを求める心が見抜かれている。「奇跡を起こす主ではなく、十字架の主にこそ従いたい」と祈り求めたい。今日が、信仰再出発の日だ。


●15(金)
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。    (エフェ6・17)

 悪魔の策略に対抗して戦うための「神の武具」が並べられる。胸当て、盾、兜も。その中に、剣も挙げられるのだ。戦いのために万全の準備が提供される。それは、襲い来る悪は強敵だからだ。
 それにしても神の言葉の剣って、どういう風に使うんだろう。御言葉を誰に突き刺すんだろう・・・。そうだ! 悪は私の内に起こる自己中心の思いや自己正義化の誘惑。そこに御言葉を突き刺すんだ。「御言葉に従え」と切りつけるのは私の傲慢。ン? 悪の本陣、我が内にあり?!


●16(土)
ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。    (使7・60)

 キリストを伝えたステファノが、暴徒化した群衆の投げつける石によって殺害される。そのとき彼は主に祈って叫んだのだ、「この人々の罪は、自分が何をしているのか知らないで犯している。彼らをも私は愛している。だからこの罪を彼らに負わせないで」と。そして殉教したのだ。
 イエス様の福音を伝える時、石つぶてを受けることになるのかも。言葉や態度による拒否が。でもその一人を愛したい。その一人が救われることが、喜びだから。


●17(日)

主日礼拝説教

          辻川篤牧師



●18(月)
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。     (マタ2・10)

 イエス様がお生まれになったことを示す星が輝いた時、東方の博士たちは喜びに沸いて旅に出た。真の王の中の王に会いたくて、拝みたくて。
 たった一つの小さなしるし。夜空の星という小さなしるしを見ただけで、喜びに溢れた彼ら。それに比べて私は、たくさんの主の言葉を受け取っている。御言葉が主ご自身として迫って来る。しっかり受け取らなきゃ。博士たちは馬小屋に駆け込んだけど、私も聖書に駆け込まなきゃ。


●19(火)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。         (ガラ3・18)

 善い行いが出来たら神様から恵みを戴けるのではない。ただ神が「与える、無償で与えたいから」と約束なさったことを、神が守るというゆえにだ、と告げられているのだ。神の側の自由な決定権。人間の側のどんな条件にも依らないのだ。
 だから「罪人であるにもかかわらず」恵みを戴けるのだ。その嬉しさはきっと自分に何の条件も見い出せない貧しい人、罪まみれの人にこそ大きい。今日、罪を直視しよう。恵みの貴さが味わえるから。


●20(水)
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。         (ルカ6・21)

 「エッ、泣いている人が幸いなんて、どういうこと?」と驚いて聖書を開いたら、イエス様の『平地の説教』(マタイの山上の説教の並行箇所)のカ所だった。全く貧しくさせられ、生きる支えが自分の中に何も無い人は、神にのみ頼って、そこで神様から恵みを受け取る人になると言うのだ。
委ねるしかない人が、恵みの最も近くにいる。自分の非力を見詰めて、手を主に挙げよう。「主よ、主よ」と生きよう。そこで賜る恵みに、笑みがこぼれるから。


●21(木)昇天日
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。   (1ヨハ2・17)

 「世にあるものを愛するな、欲するな」と戒められる。なぜなら世にあるものは、全てはかなく過ぎ去って、消えるものだから、と。ならば何を求めて生きるのか。それが、神の御心・神の言葉を生きることなのだ。それは、永遠の命に繋がる道。
 2つの道が目の前にある。自分の欲が望む道と、神が望まれる道。今日という一日も、その選択の連続だ。踏み出す道を見誤るな。祈りつつ、考えて、選べ。

●22(金)
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。  (使2・32)

 イエス様の十字架の死とご復活を語るペトロの説教での言葉だ。その中で「このイエスを」と言われた「この」って「どの?」と思って聖書を読んだら、旧約の時代から神によって告知されていた救い主の到来のことだった。預言が、「このイエス」に成就したのだと言われていたのだ。
 私もずっと救いを望んで来た。その救い主の到来が、あなたにも来たよと告げられる。改めて「私の救い主よ、イエス様!」と仰ごう。望みの実現がここにあるから。


●23(土)
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。    (ルカ12・33)

 イエス様が「思い悩むな」と語られる話しの中にある一つだ。財産への思い悩みについて、驚くことに、まず「売り払って施せ」と。自分のためでなく隣人のために使ったら、天に財産を蓄えたことになるから、と。その宝は誰も盗めないから、と。
 人は老い先も豊かでいたくて蓄えるのだろう。でも主はそのやり方は「思い悩みを蓄えているだけ」と言われる。隣人を愛したら、そこに豊かさは溢れるからと。神と人を愛する、人生そこに尽きるのかな。


●24(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。   (使12・5)
 

 ヘロデ王はヤコブを殺し、ペトロも投獄した。この危機を前にして、教会は祈ったのだ。打倒ヘロデに、拳を挙げて決起したのではなく、神に委ねて祈ったのだ。
 教会は、信徒たちで埋め尽くされていただろう。大音声だったか、静寂だったかは分からない。でも思いは一つとなって主に向かっていた。そこに神の御業が起こったのだ。祈りこそ武器だ。神の武具だ。


●26(火)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。    (コロ3・8)

 不従順な者として歩んで来た生き方を、「捨てよ」と言われる。神の怒りがあるからだ、と。そして、その生き様のこれらだと示されたのが、今朝のみ言葉だ。
 一つひとつを見て考えた。「どれもが、心の奥にいつもへばりついていて、私の心と一体になっているものばかりだ」と。あっ、と気付いた。「これらを捨てることは、結局私を捨てること。古い私を脱ぎ捨てることなのかも」と。新しい私に、日々新しくされねばならないんだ。


●27(水)
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」   (ヨハ6・9) 

 男だけで5千人の大集会に、集めた食料はごく少し。そこで弟子が主に言ったのだ。「どうしようもないでしょ」、と。
 目で見た物を常識的に判断して生きる方法がある。でも信仰の生き方は、そこにはない。微塵もない! 信仰生活とは、まずイエス様に「私はどうしたら良いですか」と祈って、聞いて、従う生き方。私の心よ、そちらを選択するんだ、今日も!


●28(木)
わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。    (ルカ10・16)

 イエス様が弟子たちを教えて、悔い改めない町の人々のことをこのように言われたのだ。「私の言葉を拒むのは、父である神ご自身を拒む者なのだ。神を拒んで軽い罰で済むはずがないぞ」と。
 主の言葉(聖書の御言葉)と、自分の常識が持っている言葉・生き方とを、天秤に掛けている場合じゃない。むさぼるように御言葉を探して、自分のものにしなければ。神様から「お前は私を拒む者」と烙印を押されるなんて絶対イヤだから。


●29(金)
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベタイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。  (マコ1・20)

 十二弟子のゼベタイの子ヤコブとヨハネを呼ばれた時、立ち上がった二人は財産も地位も家も失ってしまった。それでもイエス様に従う方を喜んだのだ。
 主は彼らを招く時、彼らが一切を捨てると信頼しておられたのだろうか。もしかしたら彼らの決意というよりも、主が彼らを信頼されるお心が一途だったのかも知れない。主に呼ばれた全てのキリスト者には、それと同じ信頼が寄せられている!


●30(土)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。   (2テモ1・7)

 福音を伝えるために、キリスト者は苦しみを負うことになる。しかしその者にこそ神の力が降る。聖霊が降るのだ。「臆病になるな、分別を備えよ。愛を持て。その全てを、聖霊が与えてくれるから」と。
 神の力であり、神ご自身である聖霊がキリスト者に降った。それは、私にも。そしてそれは、神の目的を果たすためにだ。主を証し、福音を伝えるには勇気がいるから。主よ、私の小さな口をも用い給え。


●31(日)聖霊降臨日

ペンテコステ礼拝説教

         辻川篤牧師

    礼拝後、ペンテコステ祝会予定

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:35| 『日々の聖句』

2020年04月30日

『日々の聖句』2020年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年4月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(水)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した。    (1ヨハ4・10)

聖書を開いたら、「神は、独り子を世にお遣わしになりました」と告げられ、「ここに神の愛が示されました」と断言され、そして今日のみ言葉が告げられるのだ。そればかりでなく、この後には「ですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と続くのだ。
私の周りは、なんと「愛」で満ちている世界なのか。それこそが本来の世界の姿なんだ。愛されている私、だから隣人も愛して生きよう。今日、この世界で!


●2(木)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。    (2コリ12・10)

 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主から受け取った後に、今日のパウロの告白は続く。彼の確信は堅い。この通りの信仰体験をして来たからだ。全て託した時、神の御業を体験して来たのだ。
 自分を明け渡した時のみ恵みを得る。それ以外の場所ではない。神からの恵みと、自分の願望成就とは別物なんだ。


●3(金)
あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。   (エフェ2・13)

 「誰と誰が近くなったの?」と思って、この箇所を開いたら、犬猿の仲だったユダヤ人と異邦人だった。そして、彼らを結び付けた絆が、キリストの十字架での血潮によるのだと告げられていたのだ。
 結びつくはずのない人と思う人が、キリストの血によって結び付けられた。ならば信仰者同士の仲違いは、あってはならない。主の血を軽んじることだから。


●4(土)
主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。   (2コリ8・21)

パウロ自身が、「公明正大にふるまおうと心がけている」という。清廉潔白な彼なのに何故なお「公明正大に」というのか。
前後の文脈を見て、募金の話しをしていると分かった。彼は、お金の恐さを知っている。教会でも、人と人との間に簡単に不信感を作り出すのがお金だから。お金は魔物ともなると、知っているのだ。
私も、受洗準備や転入会者にお願いすることがある「教会でお金の貸し借りはしないで」と。魔物の姿を知っているから。


●5(日)棕櫚の主日・受難週

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
あなたはもはや奴隷ではなく、子です。         (ガラ4・7)

 あなた方は今まで、この世のあらゆる欲の奴隷だった、と御言葉は示す。でも今日の御言葉は、今はそうじゃないんだと宣言する。今は、もはや父なる神からあらゆる恵みをいただける子どもとされたのだ、と。神の子なのだと。
 子であるってスゴイと改めて思う。それは、親の財産の相続人と認知されていることだから。恩恵の正式な受取人なのだから。それも、その親が「父なる神」だなんて。ボクはどれほど恵まれているんだろう。どれほど愛されているんだろう。感謝。


●7(火)
わたちたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。   (2コリ5・1)

 地上の命を育むこの身体は、いつかは老いて滅びる日が来る。でも洗礼者の目は、さらにその向こうにある日々へと向かうのだ。天の住まいでの命を知っているから。
 もはや死は滅びではない。天の住まいへの引っ越しなのだ。それは地上のマンション、億ションよりもはるかに願わしい家。その住民券をすでに手にしているのだ。死よ、お前の勝利はどこにあるのか!


●8(水)
イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。   (ルカ7・50)

 罪深い女がイエス様に近づき、涙で足を濡らして髪で拭い、高価な香油を塗った。それを見たファリサイ派の人々が、罪人が紛れ込んだことに憤る。しかし主は、この女の愛の大きさは救われたことの大きさだ、と言われたのだ。そして、この御言葉のように、救いの宣言をなさった。
 イエス様を深く愛したのは罪人。必死に近づいたのは罪人。そして祝福されるのも罪人だ。主の救いは、罪人のための贈り物なのだ。この女のあとに続こう。


●9(木)洗足の木曜日
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。   (ヤコ2・12)

 人を激しく裁いている時、自分は正義の側に立っていると思っている。だから激高してもしまう。でも御言葉は「同じ憤りによって、あなた自身が、真の義なる方・神によって裁かれるのだぞ」と告げているのだ。お前自身気をつけろ、と。
 そこに御言葉は続く「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下ります。憐れみは裁きに打ち勝つ」と。どう語り、またふるまうか「分かった」と思った。


●10(金)受難日
どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。         (エフェ6・18)

 悪に対抗するために神の武具を身につけて強く生きよと勧められる文脈で、この御言葉が告げられる。闘うためのキーワードが、「祈ること」と告げられている。
 主ご自身も十字架の時を前にして、ゲッセマネの園で御父に祈られたじゃないか。祈りという対話がなければ、闘いは孤軍となるから。いわんや弱い私は、祈らずして一歩たりとも進め得ようか!


●11(土)
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。   (1コリ10・23)

 コリントの教会の中で、互いの行動を批判する分派を作って争い合っていた。その双方に向けて言うのだ「何を言っても、何をしても良い。しかしお前のその行動は、何の益になるのだ。相手にも自分にも無益だ」と。それから彼らを導く言葉を加えた「だれでも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」と。
 ハッとした。今日どう生きれば良いかが分かったから。「あなたの利益のため」と、全ての思いを込めて過ごそう。


●12(日)復活日

イースター礼拝説教

               辻川篤牧師


  (祝会だけ延期、ペンテコステに合流)


●13(月)
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」         (ヨハ4・26)
   

 罪の女にイエス様が「魂が渇いているだろ、私が与える水を飲め。永遠に渇かない水だから」と語りかける。女は「そのような救い主が来ると知ってはいますが」と言った時、主が言われたのがこの言葉だ。
 私も救いを求め、渇くことのない水を求める。そのとき私にも主は言われる「あなたが聖書を開いた時、それが救いの言葉だよ。渇かない水だよ」と。救い主よ、あなたはこんなに近くにおられたのですね。


●14(火)
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください       (ルカ15・19)

 生前遺産分与を父に強要した息子が、そのお金を使い果たした後、家に帰ろうと思った。そのとき言い訳の計画を立てて「こう言えば・・・」と思った言葉がこれだ。追い詰められてなお自分の作戦を立てる放蕩息子。でもこのあと、条件なしで赦す父が待っていることを知るのだ。
 私は「放蕩息子の帰還」の譬えが大好き。追い詰められて言い訳なのに、その心配さえ無用にさせる天の父のお心が見えるから。赦しに、神の愛が見えるから。


●15(水)
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」       (マコ14・31)

 このように言い張ったペトロは、この後イエス様が裁判にかけられている場面で、「そんな人は知らない」と否認してしまう。
 イエス様の仲間と思われるのが怖くなるペトロ。「ボクもその状況になったら彼のようになる」と思いつつハッとした。「暢気だ」と気付いたから。死の危機がなくても、日常生活の中でイエス様から離れて自分中心になる。ペトロよりもたちが悪い。


●16(木)
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。   (1ペト5・6)

 高慢を打ち砕き、謙遜に生きることを求められる。しかしこれは、単なる慎み深い人になることの勧めじゃない。この世でも、そんな修身話はいくらでもあるから。
 何が違うのか! それは「神の力強い御手の下で」という一点。神の御手の下に自分を明け渡して全面降伏するということ。そうすれば神が最善をなさると信頼すること。そこに身を鎮めることが真の謙遜なのだ。これは神信頼の話なんだ。


●17(金)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。   (コロ1・15)

 父なる神は人間の目に見えないが、御子イエス様は降誕されて目に見えるお方となって下さった。御子によって、見えない神が見える姿となったのだと告げる。
さらに、神が天地創造の前からおられたように、三位一体の御子も、そこに同時におられた「先在の主」だと告げられている。これに「イエス様は2千年前にお生まれになったんじゃないの?」と驚く人は多い。実は私も、神学校に行く前はそうだった。誰にも言えない内緒の話し・・・


●18(土)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。   (ヨハ4・14)

 姦淫の罪を重ねたサマリアの女に告げられたイエス様の招きの一言だ。渇かない命の水、心も魂も潤す水を飲め、と。
 渇きを覚える日もある。でもその傍に水が無いから渇くのじゃない。生ける水である主ご自身は傍におられ、御言葉の水を与えて下さる。それを飲めば良い。それなのに、だ。私が渇くのは、受けたはずの手の指の間から、命の水をこぼしているから。ジャージャーと落として、手に残っていない。そうだ、自分で捨てていたのかも。ギュッと御言葉を握って生きていたい。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。     (使18・9〜10)

 異邦人伝道の旅をするパウロ。フィリピで投獄され、テサロニケで騒動に巻き込まれ、アテネであざ笑われ、コリントの町に来た。困難があっても伝道に邁進するパウロ。しかし、その意欲は、単に彼自身の意志の力強さではなかった。主の「語り続けよ」との御声に従ったゆえであった。
 彼は、ただ主に従う僕であったのだ。そこで成し遂げる力をもいただいていた。進む道も拓かれたのだ。私も主の僕、御言葉が「成せ」と言われる道を行かん。


●21(火)昇天日
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。    (ルカ5・5)

 漁師ペトロが、プロとしての経験上すべての術を駆使して漁をしたが、一匹も獲れなかった。もう陽が昇って漁をする時は過ぎたのに、イエス様が来て、網を降ろせと言う。その非常識な言葉に、ペトロは何故なのか聞き従う。そこに神の奇跡を経験することが起こったのだ。
 私も「主よ、あなたのお言葉ですから、おっしゃる通りにしてみます」と今日を生きてみよう。自分では非常識と思えても御言葉に賭けよう。そこに起こることこそ神の業。私もそこに生きていたいから。


●22(水)
神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。     (ロマ8・31)

 神が私の側について敵と闘って下さる。その敵とは、聖書を開いたら「罪、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」と、あらゆるものが数え挙げられていた。
 今日という日にも、私の前方に敵が立つのかも。しかしその時も己に言わん「ひるむなかれ」と。私は勝利の道を歩めるのだから。私の先陣に神が立たれ、私の横に神がおられ、私のしんがりを神が守って下さるから。「敵」を見て恐れず、「神」をこそ見て安心の中を進軍したい。


●23(木)
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。      (マタ5・22)

 山上の垂訓で、「腹を立てる者」への勧告が記されている。律法では「目には目を、歯には歯を」という基本が許されていたが、イエス様はそれを越えて、一切腹を立てるなと言われる。それは、仲直りすること、和解することへの激しい勧めだ。
 あっそうか。仲直りも和解も、「愛して生きよう」と思ったら、そこに起こる当然の思い。そこで律法を超えるのだ。隣人関係の全ての軸足が定まった気がした。


●24(金)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。   (ルカ6・37)

 これに続けて「赦しなさい。そうすれば、あなたも赦される」「与えなさい。そうすれば、あなたも与えられる」と主は言っておられた。
 いつも「罪人の私を赦して下さい」と祈って「恵みを与えて下さい」とすがって来た。でも今日分かった。その鍵は私が握っていた、と。今まで私がドアの鍵を閉めていたのだ。私が隣人を赦して与える人になれば良い。さあ、赦しと恵みの扉を開こう。


●25(土)
人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。     (使9・35)

 アイネアUそれはペトロに癒された人。8年間も中風で苦しんでいたが、「キリストがいやしてくださる、起きよ」との招きに、委ねてすぐに従ったから。その姿を見た人が、今キリストが生きて働かれると信じたのだ。そして我も我もと主に立ち帰った。
信じることが伝染する。それって、良いな。主が今ここに居て下さる、委ねたらどんなに凄いことが起こるのか、それが伝わって欲しい人が私の傍にも居る。そのためには私がまず立ち帰らなきゃ。口ばかりでなく、生活丸ごと立ち帰らなきゃ。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。   (ヤコ2・13)

 「自分は義しい」と思っている人が、他者を裁いた。律法を掲げて攻撃した。しかしその人に向けて告げられる「お前には神の厳しい裁きがある。憐れみを失った者には、神も憐れみをかけないから」と。
 人を裁くことを簡単にしてしまう。心で裁き、口に出て、行動にまで。人を愛することをすぐ忘れる。罪人は正に私。その私に慰めの言葉が聞こえた「憐れみは裁きに勝つから、今日こそ方向転換だ」と。


●28(火)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。   (1テモ6・11)

 信仰の戦いがあるぞと迫る。敵はあなたの内にある欲望で、それがあなたを破滅に陥れると告げられる。その闘いに勝つために、6つの項目が掲げられたのだ。
 なんだか6つの中心に、「信仰」と「愛」が光っているように見えて来る。そうだ!自己中心の欲望に溺れて破滅に転ぶ前に、「聖書を開こう」と思った。そのどこを切っても、信仰と愛が語られているから。それが私を、破滅の道に入るのをとどまらせるから。そうさ!聖書を開こう。


●29(水・祝日)
キリストはすべての支配や権威の頭です。      (コロ2・10)

 あなたがたは人間の言い伝えにすぎない慣習に従うことなく、キリストに結ばれた者として歩めと告げられる。それは、キリストこそあらゆる支配、あらゆる権威の上に立つ王の中の王であるから、と。そのお方を頭として戴けば良いのだから。
 圧倒的な導き手が、私の前を行かれる。そのお方が、今日私に呼びかける「来た、あなたの頭として。それで良いか」と。あるじの席に自分が座り込むことから飛び退いて、キリストを迎えよう「わが真の王は、他の誰あろうあなたのみ」と。


●30(木)
互いに平和に過ごしなさい。    (1テサ5・13)

 テサロニケの教会に向けた手紙で、最後に締めくくりの言葉が書かれてゆく。その中のキーワードの一つがこれだ。このほかにも「愛をもって尊敬し合う」「励まし助ける」「忍耐強く接する」などだ。
 もう分かっているし、聞いてると思う言葉が並んでいる。でも何も守れていないのかもしれない。知っていることと、その通りに生きることの間には、深い溝があるんだ。今日こそ渡らねば、今こそ飛び越えなきゃ。そうしないと、いつまでも変われないから。そんなの嫌だから。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 20:12| 『日々の聖句』

2020年03月31日

『日々の聖句』2020年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年3月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
心は燃えても、肉体は弱い。    (マタ26・41)

 十字架につけられる前夜、ゲッセマネで悶えつつ祈られるイエス様。その傍らで弟子は一人も起きていない。一人も祈っていいなかった。それを見て「一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」と嘆きつつ、続けられた言葉がこれだ。喝を入れられたのだろうか、深い嘆きか。
 「お前は一時も私と祈っていない」と、御言葉が突き刺さる。願い事しかしない祈り、心が伴わない形式的な祈り・・・それらは主が共にいない祈りだ。祈りにおける惰眠は、誘惑に陥る入り口なのに。


●3(火)
神は、・・・あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。    (2コリ9・8)

 コリントの人々に献金を募る。惜しまず与える人になれと、勧告しながら。でもその直後に、あなたの献げた手に、神が更に恵みを満ち溢れさせるほど入れて下さるから、と言ったのが今日の御言葉だ。
 献げる人の手は空にならない。多く献げてもなお溢れて来る。それは神の奇跡の補充! 一度経験しなきゃ。いや一度じゃ勿体ない。生涯、神の業を味いたい。


●4(水)
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。   (ロマ6・14)

 キリストと共に生きるということは、私の罪の償いのために身代わりに命を捨てたイエス様と結ばれて生きるということ。もはや罪の支配下に居ないのだ。もはや恵みの真下に立つのだ。御言葉は、それにふさわしく「生きよ」と語りかける。
 イエス様の十字架の死を無駄にするまい。あなたに所属する者として、恵みの直下を晴れ晴れ歩きます。誰から見られても、あなたを愛している者と分かるように、十字架を誇って、今日を生きます!


●5(木)
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。    (ヨハ12・36)

 ユダヤの当局者たちがイエス様を殺す計画を進めている。その中で、ご自分も十字架の死を覚悟してゆかれる。それでも群衆は、何も悟ろうとしない。その人々に向けて、主が言われたのがこの言葉だ。
まるで「光である私を信じてくれ、あなたと一緒に居る間に信じる者となっておくれ。もうすぐあなたの傍にはいられなくなるのだから」と叫ぶ声に聞こえる。まるで「お前を失いたくない、早く私の所に来るのだ」と必死に招く声に聞こえて来た。


●6(金)
罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。     (ルカ7・49)

 罪深い女がイエス様に近寄り、涙で御足を濡らし、髪の毛で拭い香油を塗った。その女の心を見て、イエス様が「あなたの罪は赦された」と言った時、同席の人が動揺して今日の言葉を言ったのだ。罪の赦しは、神のみが出来ることだったから。
 この時の人々の問いは、真実を射抜いている。罪を赦したイエス様こそ、まことに神の御子だから。あとはそれを受け入れるだけで良い。そうすれば目の前の方が、救い主となるのだから。皆気付いてはいる。でも次の一歩で、生死が分かたれる。


●7(土)
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。    (1ペト3・18)

 「罪のため」とは、人々の罪のために。いや、私の罪のためということ。「ただ一度苦しまれた」とは、私の罪の身代わりに十字架で死なれた苦しみだ。正しい方・イエス様が、正しくない者・罪人の私のために死なれたと、今日の御言葉は告げる。
 淡々と語れているが、尋常ではないことが告げられている。淡々と聞き流すまい。頭の中で受け取るまい。神が死なれたのだ! 私の心の中心で受け取らねば。


8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●9(月)
あなたが信じたとおりになるように。    (マタ8・13)

百人隊長の僕が中風に苦しんでいた。そこで隊長がイエス様に癒しを懇願する。それも、遠くから、一言治るように命じて下さるだけで充分ですからと。その信仰を見てイエス様が言われたのがこの言葉だ。そして僕は癒された。
「自分が信じたとおりになる」ってすごい。でもそれは、自分が願った通りになるという自己中心の話じゃない。私の願いが御心と重ならねば。もしかして信じるとは「私の願いは、あなたの願いが成ること」と祈ること。ふむ、禅問答のようだ。


●10(火)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。    (1テモ2・4)

 パウロが「信仰によるまことの子」と愛したテモテに、励ましの手紙を書き送る。その中で、為政者のために祈れと勧めた。それはキリスト者が平安に信仰生活を送れるため。いや何よりも先ず、神が彼らの救いを望んでおられるからだ、と。
 私も為政者のために祈ろう。「政治にあたる者が真理と公平をもって御心を行うことが出来るように」と。あ、これは礼拝で祈っている牧会祈祷。そこに心も乗せねば「為政者が救いを知るように」と。


●11(水)
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。   (1テモ1・15)

 イエス様が来られた、十字架で死なれたーその事実をテモテに語り直すパウロ。その出来事の一切は、ただただ罪人のためだったのだ、と。ここに真理があると。
 これは聖餐式のたびに語りかけられる招きの聖句だ。「ああ、私のため、それも罪人の私のため」と信頼し切って、恵みの座に出てぬかずこう。「そのまま受けよ」と私に差し出される十字架の恵みを。


●12(木)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。   (ルカ2・11)

 エルサレムの寂しい郊外で、夜通し羊の番をしていた羊飼いに、天使が神様からの知らせを告げた。良い知らせなど一度も貰ったことがない貧しい人生。そこに、誰も貰ったことのない最高の知らせが届いたのだ。あなたの救い主が生まれたと。
 この知らせは、今日私にも届く知らせ。いや、友人にも家族にも届いている。ただその声の方に、顔を向ければいいのだ。「あなたがたのために」とは「わたしのために」なんだと。気付けばいいのだ。それを伝えなきゃ。あの人に、私の大事な人に。


●13(金)
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。     (1ヨハ4・12)
   

 神は目に見えない。でもヨハネは「見える」と言う。どこで? 人と人とが互いに愛し合う姿においてだ、と。
 私が隣人を愛して重荷を負い、かつ私も隣人に愛されて重荷を負われて生きるなら。神が私の内に生きておられると伝わるんだ。今日、そんな私でありたい。


●14(土)
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。   (ロマ1・16)

 あらゆる人を救う「神の力」がある。何も功績がない人も、貧しくても、神に背いた罪人さえも救う「神の力」がある。ただ「信じたい、信じます」と告白するだけで、神の子とされる「神の力」がある。「福音」にその力がある、と告げられていた。
 神の力って、天変地異の奇跡じゃないんだ。人を罪から救うために注がれる。救いの良い知らせ(福音)そのものが、出来事を起こす。あっ、それこそ奇跡なんだ。


●15(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月)
舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。           (ヤコ3・8)

 ヤコブは、同じ人間の口から神賛美と、隣人への呪いが出ると嘆く。それも一旦口から出た言葉は、人に死をもたらす毒に満ちていると。さらに、そういう舌を制御できる人は一人もいないと言うのだ。
 一体私はどうすれば良いのか。ただ分かることは、自分がその舌の持ち主だと悔いることだ。いや具体的に「申し訳なかった」と隣人に赦しを求めること。毒を出しっ放しにすることこそ、弱さだから。


●17(火)
十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。   (マコ6・7)

 イエス様が、弟子たちを村々に派遣される。神の国の知らせを告げて伝道させるために。そのとき決して一人では行かせられなかった。二人ずつ組にされたのだ。
 私も御用を授かって遣わされる。伝道であったり、奉仕の場であったり。でもそこでのイエス様の思いは「一人で抱えるなよ。必ず二人でするのだよ」ということ。ならば奉仕をするにしても何にしても、まずパートナーを見つけることから始めなきゃ。一人舞台は、御心じゃないんだ。


●18(水)
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべきお方です、アーメン。    (ロマ1・25)

 この御言葉の直前に、あらゆる罪の業が数え挙げられてゆく。その最たるものが、造り主の代わりに造られたものを拝んだことだと言われる。そして今朝の御言葉が宣言されるのだ。これはコッチを見よ、真の造り主を、という強い迫り。同時に、自分の欲、自分の遣り方、自分の腹という偶像を見るなとの迫りでもある。
「コッチへ」の標識を、確かに見た。だから「あなたこそ造り主」という道へハンドルを切らねば。アクセルもその道で踏め。


●19(木)
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。   (ヤコ4・7)

 神に従って生きることと、悪に対抗して歩むことは一対の事。そうすれば悪の誘惑は近づかなくなるからと勧められる。一方だけではダメだ!と。
 御言葉に従いたいという歩みをしているつもりだけれど、一方の足は自分のしたいことをしてしまっている。自己中心という悪の道を、片足は進みたがる。ああ、《片足信仰》だから誘惑が押し寄せ続けるんだ。片足を取られて、ひっくり返るんだ。


●20(金・祝日)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」   (ルカ1・38)

人間の思いの世界では想像することさえできなかった処女マリアの受胎告知。でもマリアは、天使から「神にできないことは何一つない」と聞いた時「お言葉どおり」と受け入れた。理解できたんじゃない、ただ委ねたのだ。
 信じて歩き出すというのは、理解できたとか、学び終えたとか、納得できたとか、そんなこととは別次元にあることかも。
そうだ、信仰は神の世界にあること、委ねる世界にあることなんだ。


●21(土)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。   (エフェ5・21)

 「互いに」というのは妻と夫だ。妻よ、主なる神に仕えるように夫に仕えよ、と。また同時に、夫よ、主が御自分の全てをお与えになったように妻を愛しなさい、と。
 これが命じられるということは、つまりこの通りにできていないからなんだ。神様が、「この通りに生きていないから、家の中に辛さが起こるんだよ」と知っていてくださる。だから招かれる、「この御言葉に足を乗せて生きよ、この通りに生きてご覧、あなたの家に幸が生まれるから」と。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月)
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。         (使2・38)

 聖霊を受けたペトロが、群衆に語り出した。「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、神は救い主となさった」と。それを聞いた人々はざわめき「どうしたら」とうろたえる。そこへペトロが告げたのだ「悔い改めて、赦されよ」と。
 「私が御子を十字架に架けた張本人」と知ることが、救いへの唯一の道。2千年前も、今の私も同じ。それ以外救いの道はない。しかしただそこで、救いは成る!


●24(火)
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。   (ルカ2・47)

 イエス様が少年の頃のこと。神殿で律法の学者たちを相手に問答をした。そのイエス様の言葉に、大人の皆が驚いたのだ。
 「そんなこと当たり前。聖書の言葉なんだから、神の御子が良く知っていて当たり前。だって、御父が命じた律法なのだから」と思って、ハッとした。「正にそうだ。聖書の言葉は神の御心そのものなんだ」と気付き直したから。神の思いがここにある。ここで御心を聴ける。そうやって聖書を開き続けよう。ワクワクして開こう。


●25(水)
愛することのない者は、死にとどまったままです。   (1ヨハ3・14)

 愛弟子ヨハネが語るー主イエスが命を捨ててまであなたを愛したことを知っているだろ。愛そのものを知ったはず。ならば兄弟姉妹を愛せるはずじゃないか。それなのに未だ愛さないのなら、あなたこそ「死」んだまま、つまり「罪」のまみれだ、と。
 愛され、救われた喜びに生きる者は、その姿が生きる姿に現れるのだ。兄弟姉妹を実際に愛する姿になる。自分が受けたことを喜ぶだけで、与えない愛などないのだから。形に現れないない愛はないのだから。形にならない信仰も、実はないのだ。


●26(木)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。   (ヤコ3・6)

 大きな森さえ焼き尽くす小さな火。それが「舌」だと言われている。それは口から出る言葉だ。賛美もする口だが、不義の世界にも属する。だから恐ろしい。
 失敗する人をたくさん見て来た。単に処世術としてではなく神の戒めとして受け止めねば。舌だけでなく、メールで失敗した人もたくさん見て来た。恐ろしい。


●27(金)
わたしたちの本国は天にあります。  (フィリ3・20)

 自分の腹を神として、自分の生活しか考えない人を見つつ、パウロは勧める。あなたはあのような人たちであってはならない、と。あなたはこの世の人ではなく、神の国の人、神の家族の一員なのだから、と。だからふさわしく生きよと勧めるのだ。
 「私の本国は、この世じゃない。国籍は天にある。神の国の人間だ」と自分に言い聞かせるべき日がある。それは、信仰に生きる時に生じる苦難の日。そして、信仰の道を逸れている罪の日も。その日「我が本国は天にあり」と自分に告げよ。


●28(土)
主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。   (ヨハ13・14)

 イエス様が十字架で死なれる前日のこと。弟子たちの前にひざまずいて、奴隷の仕事である〈洗足〉をなさった。しもべの姿となられたのだ。そして「私のようにあなたもしなさい」と言われたのだ。
 イエス様は「私の通りに実行するなら、幸があるよ」と招かれる。私は幸せを求めはするが、見当違いの所で探していたのかも。ここにあるのに。洗足の実行の場に。


●29(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。   (2テモ2・13)

 キリストの立派な兵士として、苦しみを忍び進め、と言われる。そのあなた方の頭であるキリストご自身が、栄光を得させて下さるから、と。キリストの勝利こそ揺るぎない真実だから、と。
 信仰に生きる苦労を抱えているか?それならば、キリストの兵士だ。逆に生きづらさを避けて、この世の流れに身を任せていないか? 身を任せるべきはキリスト、つまり主の御言葉。寄りかかるものを間違えたら、大転倒するぞ。危ないぞ。


●31(火)
むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。   (コロ2・8)

 「だまし事」って何だろうと、聖書を開いたら「人間の言い伝えにすぎない哲学」だった。つまり、十字架の恵みと復活をナンセンスだと片付けるこの世の知識のことだ。その虜にされるな、と警告する。
 「ボクは大丈夫、信じてるから」と思って、ハッとした。「私は騙されない」と思う人が、オレオレ詐欺に引っ掛かるらしい。この世の常識は、信仰という宝を奪い取ろうと身近に忍び寄る。だから、いつも聖書で確認しなきゃ、「この道は、信仰の道か? この世の知識か?」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:00| 『日々の聖句』

2020年02月29日

『日々の聖句』2020年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年2月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。           (ヤコ4・1)

 戦いも争いもなくなって欲しいもの。でも御言葉は、戦いも争いも「あなたが欲しているから起こるのだ」と迫る。「お前の心に火種があるのだ」と釘を刺す。
 ドキッとした。そして「そんなはずない。アイツが原因だ」と弁明したくなる。でも、ふと思った「私が原因なら、戦いも争いもなくせるのかも。私が変わればいいのだから」と。光の差す道が、見えた気がした。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。    (使5・29)

 これは、平穏な時に告白した言葉ではない。迫害の中で、最高法院に立たされて尋問された時の言葉だ。死が目の前に迫りつつ「人に権威があろうとも、それに従わない。ただ主のみ」と言い切ったのだ。
 私も平穏な時なら、何度でも言える。でも、人間の前で、長いものには巻かれろと迫られる社会の中で、そこでなお神の言葉にこそ従いますと言えるだろうか。それで立場が危うくなっても、浮いてしまっても、この一言が言えるだろうか。ああ主よ、信仰を増してください。


●4(火)
義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。        (1ペト3・14)

迫害の中にあったキリスト者には、苦しみを避けて生きるほうが楽に見えた。しかし御言葉は、そこに留まれという。そこはキリストが歩まれた道だから、と。ついに勝利して、御国に上る道だから、と。
御言葉の通りに従おうとしたら、この世ではアチコチでぶつかる。「信従」の道は険しい。でもそこを歩もう。その道にこそ、キリストの足跡が見えるから。そこが御国に繋がる道だから。


●5(水)
いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。    (ヘブ3・18)

 厳しく刺し貫く言葉が届く。神の安息にあずからせはしないと告げられる者が居るということ。それは神のみ言葉を聞いても従わなかった者なのだ、ということ。
 「それはお前だ」と言われたようでドキッとした。御言葉に従ったと言えない自分を分かっているから。「そんな私は主の安息に入れてもらえますか?」と悔い改めること、それは命が掛かっていることなんだ。


●6(木)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている    (ヘブ4・14)

 神は私の心の奥底まで見通され、心や思いや考えまでも見分けられると言う。その神様を前にして、自分で弁明をしなくてはならないのだ。一体誰が、その裁きに耐えられるのだろう! 震える者へと告げられた御言葉がこれだ。御子イエスが、あなたを執り成してくれるよ、と。
 神様を前にして執り成し手となって下さるイエス様。あなた無しでは生きられない。あなたがいて下さって本当に良かった。


●7(金)
子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(マコ10・15)

 子供に祝福を戴きたいと、親たちがやって来た。それを見た弟子たちが、邪魔だと叱る。しかしさらにそれを見てイエス様が、叱って言われた言葉がこれだ。主は、来させなさいと言われる。そして、あなたこそ子供のようになって、私から戴くだけで生きる者となれと招かれたのだ。
 私もウッカリすると、良い話を聞こうとして御言葉を聞いている。それは違うと主は言われる「来い、御言葉から祝福を受けるために、乳飲み子のように」と。


●8(土)
自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。     (マコ7・9)

 人々は神を敬う者のようにしていたが、自分の生活で都合が悪くなると「その御言葉は現実生活では無理だから」と言って平気だった。律法を自分勝手に解釈して隣人を責めさえして、自己利益に生きていた。その姿に、イエス様が声を荒げて怒られたのだ。
 これは私への言葉なのか? 御言葉を身勝手に聞き流して棚上げしてる。飾り物にしている。やっぱりこれは私への怒りなんだ。今日こそ他人事で済ませまいぞ。


●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。    (1ペト4・8)

 終末の日が来たら、裁きの座に立たねばない・・・そのことまでを思い描きながら、今をどう生きるのかを告げる。その時、「何よりもまず」と言われたことが、「愛し合いなさい」だった。
 その愛とは心情的なものでなく、身代わりに死なれたキリストに倣うこと。身を捨てる愛。それも「愛し合う」のだから、互いでなきゃならない。つまり愛されているっていうことに気付かなければ。そんな日常になったらココも神の国?良いねぇ!


●11(火・祝日)
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。    (ヤコ2・17)

 ヤコブは教会に告げる、「自分は信仰を持っているというものがいても・・・」と。口先だけの信仰が何になるのかと、激しく畳みかける。その現状を憂いたからだ。
 「死んだ信仰」というものがあるんだ。腐って臭くなる信仰って、あるんだ。
たった一つの温かい手を伸べること、悲しむ人の横に座ること、話を聞いてあげること、そこからで良い。そこから始めよう。きっとすべてそこから変わるから。芳しいキリスト者の香りがし始めるから。


●12(水)
神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。     (2コリ2・14)

 キリスト者は、キリストの香りが漂い出すと言う。その香りは、キリストを知った恵みへの賛美、感謝の祈り、愛の業など。
 「ああ大変!」と思いつつ、大事な一句に気付いた。それは「神は」の一言。主語は「神」なんだ。私は、神様が香りを漂わせて御業をなさる為の管。通りの良い管でいればいい。欲で詰まらせまいぞ。


●13(木)
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。        (マコ7・14)
   

 イエス様は「聞きなさい」と言われるだけでなく、同時に「物分かりが悪い」と嘆かれながら、「悟りなさい」と言われる。きっと、聞くだけで聞き流したり、棚上げしたりする人ばかりだったからだろう。
 イエス様は、私に言っておられるのかも。「物分かりの悪いのはお前だよ」と。でもイエス様は私を招いておられるのかも「悟れ、受け入れよ、私の言葉を。お前を愛する私の言葉だから」と。あ、悟るべきことは、何よりも先ずその一点だったのかも。


●14(金)
御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。    (1ヨハ3・2)

 神の子とされたキリスト者たちにつげられる。「イエス様が再び来られる再臨の日に、驚くべき恵みを味わうよ」と。「あなたも、イエス様と本当の弟妹のように、そっくりだと分かるよ」と。
 だからこそ「地上に生きる今日も、イエス様の真の弟妹として生きよう」と思う。友達がボクを見たら、「お前、最近キリストっぽい?」と言われたら、嬉しいな。


●15(土)
霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。    (ロマ8・26)

 どう祈るべきか言葉にならないほど苦しむ日々がある。でもその呻きの日々も、聖霊ご自身が私に代わって、父なる神に執り成していて下さるのだ。だから、忍耐して今日を生きよと言われている。
 祈る時、独りで祈っているんじゃないんだ。傍には聖霊が一緒に居て下さる。それも私の側に着く執り成し手として。
それって、私の側に立つ神がおられるということ。聖霊なる神と私が、想いも立ち位置も一つになっているんだ。そんな奇跡が、祈りで起こっている。祈りってスゴイ


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。        (コロ3・5)

 自己中心になる姿の最たるものが「貪欲」。それはあらゆる物を貪る欲望。自分のものにしたいという悪。それを捨てろと言われている。「それは、お前の中で自分がつくり出して拝む偶像となるから」「お前の中に巣くう悪となるから」と。
 「捨てろ」と言われていることは、私の中にも「在る」ということだ。「私には無い」と思うところに危険が潜む。「私もむさぼる欲がある」と思って警戒せねば。毎朝、私の中の「貪欲掃除」から始めなきゃ。


●18(火)
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。    (エフェ4・2)

 エフェソの教会の信徒たちに、一致を保って過ごせと語る。その中で言われた具体的なことがこれらなのだ。人が一致するために必須のことが、高ぶらず柔和で寛容になることなのだ。
 一致することって、一致の目標とか手段とか手順とか、そんなことじゃなかった。私の心の在り方が問題なんだ。私の心が、一致を揺るがなくもするし、崩しもする。私こそ自己中心の高ぶりを捨てねば。今すぐ、あそこでも、ここでも。


●19(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。     (フィリ2・4)

 利己心を捨て、隣人に心を配って生きることへ招く。そのためには、へりくだること、相手を自分よりも優れた方と考えることが必須だとも重ねて語られていた。
 自己中心から離れて隣人を思いやることは出来そうかも・・・。でもそれって本当にするためには、「あなたは私より優れてる」って生きることが前提。ああ、やっぱり「自分の方が優れてる」って認められることに固執する自分がいる。関係を壊す元凶は我にあり。この石の心を砕き給え。


●20(木)
一同が一つになって集まっていると     (使2・1)

 聖霊降臨が起こる直前のこと。弟子たちの群れは一つに集まっていた。そこで祈るために心を合わせていたのだ。その上に、主の霊が降った。
 このペンテコステの出来事は、私たちの上にも起こる。それは礼拝の時だ。だって、思いを一つにして祈っている時だから。来る週ごとの礼拝に、聖霊は充満している。だからそこで、慰められ、励まされ、魂が満たされて、それぞれの生活へと送り出されることが起こるんだ。まさに初代の弟子たちの群れと同じなんだね。


●21(金)
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタ5・37)

 山上の垂訓の中の一節だ。自分勝手に「私はこれをする」と誓ってはならないと告げられる。イエス様は、御言葉に聴いて、御心を「然り、そうします」と歩くこと。御言葉によらないなら、人から勧められても、自分自身がしたくても「否、それはしません」と生きよと言われたのだ。
 完全な幸いへの道しるべは、御言葉そのものになのだ。その本道を、頑固に「然り」と行こう。脇道に入るまい。


●22(土)
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。       (ヨハ7・37)

 群衆を前にして、イエス様が大声で呼び掛けられる。人々は仮庵祭でごった返して、今ある生活で大忙し。振り返る間もなく走り続けている。祭司長は妬みにかられ、下役はイエス様を捉えようと走る。
 ふと「渇いている人はだれでも」という呼び掛けが、「あなたは渇いていないか? 本当は渇きがあるね」と、優しく語られる御声に聞こえて来た。そう聞こえたらもう大丈夫なのかも。だって、その人が、生命の水をくださるのだから。

●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月・振替休日)
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。   (1コリ1・23)

 人々は、救いの確証にしるしを求めた。または、説得的に証明することを求めた。しかしパウロは告げる。人間にとっては愚かなことと見えることしか伝えない。それは、神であられる御子が地上に降り、人の手によって十字架に付けられて死んでしまわれたということ。それが、あなたの救いのためになされたことだ、と。
 アーメン。御子の十字架以外に見るまい。キリストの死は、我が救いのためなり。それ以外なにも求めまい。アーメン。

●25(火)
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。    (ルカ2・50)

 神殿詣に両親と来ていた少年イエスが、はぐれた? いや、神殿に一人残って学者たちを教えていたのだ。やっと探し出した母マリアたちに「私が父の家(神殿は天の御父の家そのもの)にいたのは当たり前でしょ」と言う少年イエス。でも両親はその意味が分からない。イエス様が神の御子とまだ分かっていなかったから。
 私たちも「イエス様こそ御父なる神の御子」と心底悟れば一気に真理を得る。神が人と成った恵みも、死なれた秘儀も。


●26(水)灰の水曜日・受難節
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。    (1ヨハ5・5)

 神を愛すること・その方の掟(つまり御言葉)を守ること・悪の世に打ち勝って神の子として生きられること・・・これらは全部繋がっていると言われている。迫害の世で生きる羅針盤としての言葉だ。
 受難節に入った。私の罪のために十字架で死なれた主を憶える日々。それは、具体的に「こう生きよ」と聞いているのに、従わない姿を数えることだ。信じますと言いながら、神の言葉を無視している。勝利への羅針盤を自ら捨てる姿を数えよ。


●27(木)
不平を言わずにもてなし合いなさい。        (1ペト4・9)

 心を込めて愛し合いなさいと告げられた直後、この御言葉が告げられてゆく。まるで愛し合うことの中身が分かるように。愛し合うためにはこうやって心と手を足を動かすんだよと、教えるように。
 確かに、もてなすことはお互いに大切。でもその時「嫌だな」とか「辛いな」とか「面倒だな」とか「義務だし仕方ないな」とか、そういう心じゃ駄目ってことなんだ。
あれ! どうしてスルスルと不平の言葉が出て来るんだろう。ボクの心の中を掃除しなきゃ。こりゃあ、大掃除になるな。



●28(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。   (エフェ6・11)

 悪魔の策略が、襲って来るのだ。それを甘く考えてはいけない。それは、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする闘いだと聖書は告げる。その闘いに対抗する神の武具は真理、正義、福音、信仰、救い、主の霊、そして神の言葉だ。
 信仰生活そのものからはずれる時、悪との闘いに敗れるのだ。今日という一歩も、その闘いが開戦される一日。気を引き締めよ! 神の武具を取れ!


●29(土)
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。  (ヘブ10・36)

 神を信じて御心を行う時、世から迫害を受けたキリスト者たち。その受けた苦しみ、そこでの忍耐は、正しい闘いだったのだよと言われているのだ。だから、希望をもって今まで通り御心に歩めばよい、と。
 歩んで来た過去を想起することは、未来への希望に繋がる。私も、これまで通りただ御言葉に従おう。周りから、そんな生き方だと言われても、この世から浮いていると言われても、そこは御国への本通りだから。その先に、ゴールがあるのだから。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:04| 『日々の聖句』

2020年01月31日

『日々の聖句』2020年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年1月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水)2020年元日

元旦礼拝説教

         藤森誠神学生



●2(木)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。  (1ペト2・4)

迫害に苦しんでいた諸教会のキリスト者に、洗礼の恵みを思い起こさせるために書かれた励ましの手紙である。イエス様は十字架で死なれたが、御父の救いの御計画だった、と。そして今朝のみ言葉の直前には「この主のもとに来なさい」と、宣言するように記されていた。
 私も行こう。貴い要石となって下さった主のもとに。朝ごと、夜ごとに跪いて祈る一年であらせていただきたい。


●3(金)
偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。     (マタ20・26〜27)

 ゼベタイの息子たち(主の弟子)の母が、イエス様に「息子をあなたの左大臣、右大臣にして下さい」と願い出た時、主が答えられた言葉。「偉くなりたいんだね、それなら人の上でなく、皆の下に立ってご覧。それも、しもべになれ」と言われたのだ。
 この世は「テッペン取ってやる」という言葉が流行る。でも神様は違うのだ、「しもべの座を取ってやると生きてご覧」と。そこは神の御子と同じ座だからと。


●4(土)
キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。     (エフェ3・12)

 神の民のユダヤ人だけでなく、あらゆる異邦人にも神の恵みは注がれると語り続けたパウロ。「あなたも信じたら良い、そうしたら神に近づけるから」と。
 ただキリストを信じること・・・、そこから溢れる絶大な恵みを改めて思う。天におられる神が遠くに思えて叫んでいたのに「イエスは救い主」と信じたら、誰でも神の御傍に行けるのだ。この「大胆」さが、「罪人こそ近づける」ということなんだ!


●5(日)

主日礼拝説教
(2020年 年間主題聖句から)

         辻川篤牧師



●6(月)公現日
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。   (ルカ17・15)

 重い皮膚病に苦しんで来た十人が、イエス様の指示された通りにしたら、みんな癒された。でもイエス様の所に感謝して戻って来たのは、たった一人だったのだ。
 「なんて自分勝手な信仰か」と思う。思った瞬間、冷や汗が出た。朝に「今日もお守り下さい」と祈りながら、夜、「一日を感謝します」と祈り忘れている。そんなことが一事が万事だ。自分勝手な信仰は、私だった。今日、変わらなきゃ。


●7(火)
恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。        (ヘブ4・16)

 主イエスは、私たちの弱さを知っていてくださって、その上でなお父なる神に執り成してくださる仲介者。また弁護人でもいてくださる。その主イエスがおられるのだからと、御言葉は告げる、「助けて」と近づけば良いと。そこが恵みの座だよと。
 待っていてくださる方がいる。それも味方として居てくださる。だから今日も、祈りの中で近づこう。その貴い恵みの座に。そこで主が傍に立ってくださるから。


●8(水)
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。   (1ペト1・5)

 この世が完成する終末の日、つまり主が再臨して下さる日、救いの恵みだけに満たされる。もう苦労は終わる、流す涙も拭われる。それがリアルな希望となるのは、ただ信じることのみと告げられる。
 ああ、信じた向こう側にあるのは、完全な平安だ。真の希望なんだ。たとえ今は苦しい人生の道中でも、光を見詰めて歩けるんだ。信じることって、スゴイ。


●9(木)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。        (ロマ14・1)

 いまだ古い律法的な習慣から抜け切れないでいるキリスト者たちがいた。逆にその兄弟たちを批判する者たちもいた。その批判者たちへ向けて、パウロは告げたのだ。互いに尊重し合い、仕え合うことを見失っているぞ、と釘をさしたのだ。
 「信仰生活とはこうあるべき」と批判する時、隣人を愛することを忘れている。なぜすぐに、隣人も神に愛されている一人ということを忘れてしまうのだろう。愛するとは、受け入れることなのに。


●10(金)
イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。   (1コリ1・2)

 「この人たち」とは誰のことだろうと思って聖書を開いたら、イエス様の御名を呼び求める全ての人だった。それなのに、そのコリントの教会の中で分裂があったのだ。
 教会の信仰者を結びつける一点は、主の名を呼ぶ者とされたということ。つまり扇の要は、主ご自身なんだ。そこに結ばれて、一人ひとりはバラバラでも一つになれる。生活背景も、教派さえも越えて一致できるんだ。十字架を見上げて「主よ、主よ」と仰ぎたい、あなたと一緒に。


●11(土)
あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。   (ヘブ3・12)

 これは信仰の無い人にではなく、信仰者に語りかけられている御言葉だ。生ける神から離れないように励まし合って、今日を歩めと、諭されているのだ。
 神が私から離れるから、恵みが見えなくなるんじゃない。私が離れてしまうから神が見えなくなるんだ。必死で私を握り続けようとして下さる神様なのに・・・。
先ず今日、御手の内に留まろう。一日また一日、その積み重ねを生きよう。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月・成人の日)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)
   

 ガリラヤ湖上で、嵐に悩む弟子たち。横を見ると、イエス様は安寧に眠っておられる。必死に揺り起こしてすがった時、主は立ち上がって風を叱り、波を鎮めた場面がこれだ。このあと主は弟子に「なぜ怖がるのだ。まだ信じないのか」と嘆かれた。
私の人生の航海にも、主が同乗して下さる。それを信じて進めばいい。たとえ嵐になろうとも、見るべきは波風ではなく、同乗される主ご自身。目を離すな!


●14(火)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。   (ヨハ6・36)

 イエス様が「わたしは命のパンである」と群衆を招かれる。また「信じる者は決して渇くことがない」とも。しかしそれに続けて嘆かれたのだ「しかしあなたがたは信じない」と。目の前で見ているのに、と。
 まるで鋭い矢のように、私の胸にも主の嘆きがグサリと突き刺さる。「御言葉を聞いているのに信じない、あなたはもう聞いているのに」と、イエス様がこっちを見ておられる。悲しい顔で私を見ておられる。
 それをしっかり受け止めねば。信じる者になりたいから、今日変わりたいから。


●15(水)
悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。        (マコ10・22)

 財産が有り、善い行いを積んでいた男が、イエス様に「天の国に入るにはどうすれば良いか」を聞いた。そのとき「持っている物を売り払って施し、私に従え」と言われた主。それを聞いて悲しむ男。手放せなかったからだ。
 主に従う道は、自分の遣り方を温存した延長線上にはない。まず捨てて、従うこと。前者が出来ないのなら、その先もない。私もまず握りしめる自我を捨てよう。そこが、背きと罪の巣くう場なのだから。


●16(木)
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。   (ヨハ6・47)

 「わたしは命のパンである」と言われた主が、群衆を招かれる。その命のパンを食べて、生きよと。それが信じる者なのだと。
 私も、イエス様が命のパンだと知ってはいる。でも、それを食べて生きているだろうか。御言葉を第一のパンだと、むさぼり食っているだろうか。ああ、知っている人と、実際に食べる人とは、別なんだなぁ。その間には、大きく深い淵があるんだ。 信じていない側にとどまるのでなく、今日その淵を超えよう。御言葉に生きよう。


●17(金)
はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。   (マタ25・40)

 イエス様が、「審判の日」に祝福される者と呪われる者が分けられる話をされた。祝福される者とは、小さく貧しく弱った隣人に寄り添った人だよ、と。
 祝福を得るのは、大仰な行いを積むことじゃない。それは、隣にいる一人に手を差し出すこと。それをイエス様は「私にしてくれたこと」とさえ言って下さるのだ。その手を、今日伸ばそう。ためらわず。


●18(土)
今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている    (ガラ4・9)

 パウロがガラテヤの信徒たちに、「今まで神でない偶像を虚しく拝んできたが、今は真の神を知っているよね」と言う。それも、「さらに深く、神があなたを知っている深い関係に入っているんだよ」と言う。「それなのにどうして逆戻りするのか」との嘆きも、この後に続いていた。
 私も、まず神様が私を愛して下さって、「相思相愛の関係」に入れて頂けた。それなのにその愛から離れたら、神の嘆きはどんなに悲しいだろう、深い痛みだろう。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた   (1コリ2・2)

知恵も学歴も、ありとあらゆる能力を持っていたパウロが、福音を伝えるためにはそれらを用いないと語る。十字架につけられたキリストを伝えることしかしないと言う。人の目に愚かとしか見えない磔にされたイエス様しか語るまいと言う。あなたがたが、その一点で救いに至って欲しいから。人の知恵によらず、神の御業のみによって救われて欲しいから、と。
ただ十字架にすがろう。ただ十字架を誇ろう。そして十字架に留まるのだ。


●21(火)
さあ、立て。ここから出かけよう。        (ヨハ14・31)

「イエス様、どこに出掛けれられるの?」と思って聖書を開いたら、アッと思った。これは、裏切られて捕らえられる直前の場面。つまり出掛ける場所は、十字架への道ということだったから。
主は、しっかりと十字架を見詰めておられる。そこから目を離されない。そこが救いを成し遂げられる場所だから。
ふと「お前のために行く。さあ、一緒に来なさい。十字架の真下に立ってお前の救いの完成を見よ」と仰っているように聞こえた。私も十字架から目を離すまい。


●22(水)
異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。   (ルカ2・32)

幼子イエス様が神殿に連れて来られた時、信仰の人シメオンが神を称えて言った言葉がこれだ。「わたしはこの目で救いを見た」と告げ「異邦人を照らす光だ」とイエス様を指して言ったのだ。
まだ赤ちゃんなのに、見ただけで「万人の救い主」と喜びに溢れたシメオン。それなのに私は、主の御言葉を直に聞いてさえいるのに喜びが薄い。信心が鈍いのか?真剣に「主の言葉だ」と受け取る心のキャッチャーミットが、ほころびているのか。


●23(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。   (ルカ2・15)

 夜の闇夜に突然、天使の大群が現れて羊飼いたちにイエス様のお生まれが告げ知らされた。そのとき羊飼いたちは、すぐに立って走り出したのだ、「その出来事を見ようではないか」と。胸躍らせながら、ベツレヘムに駆けだしたのだ。
 私も、すぐに立って走り出そう。「イエス様にお会いしよう」と、朝ごとに祈りの場に駆け出そう。そこでいつも会えるから。主のみ言葉を聞きたいと聖書を開こう。そこでいつもお言葉を聞けるから。


●24(金)
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。       (1コリ6・19)

 パウロは、コリントの信徒たちの乱れた生活を聞いて、嘆きつつ訴える。あなたはキリストによって聖くされ、神の霊が宿る神殿となったのだから、神の栄光を現わして生きるべきだろ、と。
 私の体も、神の住まう神殿なんだ。受洗の日に聖霊を戴いて、こんな私も神殿とされたんだ。だから毎朝「この体をどう使えば、神の栄光をあらわせますか」と祈って始めよう。きっと御子のように隣人を愛して生きよ、って言われるのかもね。


●25(土)
イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。   (ヘブ13・15)

 この直前で、あなたがたを聖なる者とするため死なれたキリストが、あなたの大祭司となってくださったのだと告げて、「だから」と今朝の御言葉に続く。イエス様への感謝と賛美は、ここに根拠があるのだ。
 御子の命が、私への贈り物とされた。なんという高価で貴い戴き物か。その貴さが分かる人だけが、応分のお返しが出来る。「私の身を献げてもまだ足りない」との思いをもって、御前に進み出たい。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
この方においては「然り」だけが実現したのです。 (2コリ1・19) 

 父なる神の約束は、御子イエスにおいて全てが成就した。「あなたの罪が赦される」という、最大困難の約束さえもだ。これだけは駄目だ、というものは一つもなかった。「すべて御子の死によって、実現したのだ」と、言われているのだ。
 神様は、私の何もかもを御存知の上でなお、私を肯定して下さる。無条件で、だ。「神様なぜ?」と問うてみて、ふと「お前を愛しているから、お前を守りたいから、お前を失いたくないから。救いたいから」と、御心が聞こえた気がした。


●28(火)
霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。   (使8・29)

 人徳がある立派な人物だけど、まだ真の神を知らなかったエチオピア人が、馬車に乗って走り去る。その時、神の霊がフィリポに「お前があの人を追いかけろ。一緒に行け。そしてキリストを証するのだ」と告げたのだ。
 私にも聖霊が告げる「お前も行け、あの人の所へ。待っているんじゃなく、追いかけて寄り添え」と。途端に走り出したフィリポのようになりたい。そこに救いが起こるから。愛する隣人に起こるから!


●29(水)
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。     (コロ2・12)

 キリストと共に死んだ私。同時にキリストと共に新しい生命とされた私。どこまでもピッタリ引っ付いて生きている今という日。そのあなた方だから、キリストと結ばれて生きよ、と御言葉は告げる。
 もし一体となった二人がバラバラになったら、その裂け目を痛むのは私だけではなく、同時にイエス様もだ。私の罪の歩みはイエス様を「痛い」と叫ばせているんだ。


●30(木)
真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。    (1ペト4・19)

 信じて生きるゆえに迫害と苦しみの中にあるキリスト者に、御言葉は「それでも善い行いに生きるのだ。あとのことは真実であられる神が傍におられるから、お任せすればよい。全存在をゆだねたらいいから」と告げる。
 私の生き方に、今日改めて照準が定められた。それは、ただ神の御言葉に従って生きるのみ。たとえ人が見て評価しなくても、なじられても気にしない。だって、見ておられるのは、御父なんだもん。


●31(金)
レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。     (マコ2・14)

 当時、人々から「売国奴」とさえ言われて嫌われて、それでもローマ帝国側で働いていた徴税人。その徴税人だったレビに、イエス様だけが目を留めて下さって、「私に従う弟子になれ」と招いて下さった。
 私にも、イエス様は同じように目を留めて下さり、同じように招いて下さる。罪人の私なのに・・・。コッチに来るようにと手招きして下さる。だから、すぐ立ち上がって従ったレビのように、私も立ち上がろう。イエス様の弟子とされるために。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:24| 『日々の聖句』

2019年12月31日

『日々の聖句』2019年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年12月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(日・アドヴェント第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。      (ルツ1・9)

 ナオミは、夫と二人の息子に先立たれた。その悲しみの中で、息子の妻たち(その一人がルツ)に、断腸の思いで、実家に帰って新しい嫁ぎ先を探すように勧める。その最後に加えた言葉がこれだ。
 本当は別れたくないし、独り残されるのは寂しかっただろう。でも相手のことを最優先に思ったナオミ。それも快く出発できるように、祝福の言葉も添えたのだ。
隣人を想うとは、自分は断腸の思いを抱えて、なお相手の幸いを願うことなんだ。私の今日の一歩もココに合わせたい。


●3(火)
わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませてください。  (王上8・58)

 ソロモンが神殿を完成させ、主に祈り終えると、全会衆を祝福して叫んだ。その言葉がこれなのだが、不思議な感じがする。祝福というよりまるで祈願だから。
 私も「私の心を主に向けさせ、御心を歩ませて下さい」ということが、願いと同時に祝福ということなのか。あ! 正に「然り」だ。この願いは必ず聞かれ、これを実現していただいた先には、祝福された生活があるから。祈り方が分かったぞ!


●4(水)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。    (ルツ2・13)

 未亡人となったルツが、姑ナオミと一緒にベツレヘムに着いた。彼女にナオミの一族のボアズが声を掛ける「苦労を全部知ってるよ。主なる神が、御翼のもとに逃れて来たあなたに報いてくださるように」と。その言葉に答えたルツの応答がこれだ。
 隣人の一言が本当に慰めになるのだなぁ。「分かっているよ」という一言と「主の守りがあるように」という言葉が。私もそんな言葉で、いつも隣人に接したい。


●5(木)
この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。  (イザ29・13)

 主が神の民に向かって嘆かれた。いや怒っておられるのだ、「口で、主よ、主よと言いながら、心は離れている。形ばかりの民だ」と。
 口だけの信仰って、在るんだ。形だけの信仰って在るんだ。熱い信仰者のようで、まったく冷めていることが在るんだ。なんだか一つひとつにギクッとするのは何故だろう。敏感に心が反応する今の内に、早く主に立ち帰ろう。手遅れになる前に。


●6(金)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。     (箴3・12)

 「主の懲らしめを避けるな」と告げられた御言葉に直結して、今日の聖句が語られていた。
 愛されることは、四六時中求めている。苦しむことは、いつも避けている。でも、「ああ辛い、きつい」と思うことも、神様の御手の中でなら、愛されている事の中に入っているんだ。神様の為さることは、すべてが愛から出ているから。
ならば、今日の祈りも「御心のままに」ですよね。ちょっとドキドキするけど。


●7(土)
あなたの道を主にまかせよ。  (詩37・5) 

 どうも、この詩人の周りには「悪事を謀る者」がうじゃうじゃいるようだ。「いら立つな」と言われているほどに。また「不正を行う者」が甘い汁を吸っているようだ。「うらやむな」と言われているほどに。そのような中で「あなたの道を主にまかせよ」と告げられていたのだ。
 あなたはイライラしなくて良い、主が計画されるから、その道こそ最善だからということなんだ。「あっ、主の道を行くことこそ、甘い汁なんだ!」 あれ今、変な言い方したかな?


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●9(月)
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。  (イザ60・19)

 バビロン捕囚の後に、民の回復が預言される。そこで神の輝きは、昼の太陽よりも夜の月よりも、あなたを明るく照らすと告げられるのだ。もはや沈むことさえない太陽に、あなたの神がなられるのだと。
 あらゆる事に優って主に望む事は「私を照らす光でいて。もう離れないで」ということ。そのとき私が弱くても、闇に打ち勝てるのだから。ふと、そのために降誕されたイエス様を思った。罪と死の闇に勝たれた主を。預言が出来事となったことを。


●10(火)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。   (イザ55・7)

 背きへの裁きのあとに、祝福への回復が預言者イザヤによって語られる。
 「これは背きの民イスラエルへの言葉」として傍聴していては駄目だ。「神に逆らう者」の箇所に「いつも自分中心になる私」と入れねば。「結局自分を神としている我」と入れねば。そうすればやっと「主に立ち帰るならば」との招きが胸に響くから。そこに憐れみを受ける道が開くから。


●11(水)
(ダビデの詩。賛歌)地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。   (詩24・1)

 詩人は、世界のあらゆる物の所有者が神であると歌う。それは、一切のものは主が造られたからだと。被造物を、一つひとつ大切に築き上げたのは神だからと。
 自分が所有されているということを、詩人は嬉しそうに言う。それは自分で自分を守るより安心だと知っているから。それも神に所有されるとは、神が「私の宝物だ」と誇っておられると知っているから。私の命も神のもの。それは、私も、神の誇りの一人だということ。嬉しいね。


●12(木)
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。  (エゼ18・21)

 神がエゼキエルを通して、背きの民に「悪人の死を喜ばない、むしろ生きることを喜ぶ。だから私のところに立ち帰っておくれ」と告げられる。
義しい裁判官の神が、判決をエコ贔屓して曲げるなんて。その人は、御心に背いた張本人なのに。そう腹を立てた直後、神に背く悪人ってボクだって気付いて、ふと神の愛って何なのか分かった気がした。


●13(金)
その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。       (創6・9)
   

 地上に悪が満ち、神は人を造ったことを後悔して大洪水を計画される。しかしその中でたった一人神の好意を得た人がいた。その人こそ「無垢な人」、つまり「神と共に歩んだ」人・ノアであった。
 神様から好意を得るのは、一つのことなんだ。それは一心に御心に向かうことだ。本当の「無垢」って、神様だけを思う人なんだ。私には無垢さがない、自分の事ばっかり思っているから。それで良いはずない。


●14(土)
七年目ごとに負債を免除しなさい。         (申15・1)

 たとえ正当な貸し借りでさえ、七年目が来たら全て免除しなければならない。それが主の掟! そう生きるのなら、貧しい同胞がいなくなるから。さらに自分も、全ては主から与えられていたことを思い出し、立ち帰れるから。
 何でも手に握りしめて「これは私の物」と主張して来た。でも神様は「違う。恵みによってあなたに貸している物だよ」と言われる。だから握る手を緩めよう。それも、七年に一回で良いのだから。それにしても、なんと握っている物の多いことか。


●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月)
強く、雄々しくあれ。  (ヨシュ1・6)

 モーセの死後、主はヨシュアを選ばれた。それはヨルダン川を渡って、約束の地に民を導き入れる務めのために。そこで「強く、雄々しくあれ」と言われたのだ。
 私なら「とんでもない、私になど無理」と断りたくなる。今までも小さな奉仕さえ、言い訳をして「できません」と言ってきた。でも今朝、「強く、雄々しくあれ」と言われた先に「あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる」とあったのを見て、思いが変わった。従う先にのみ主がおられる。ならばどうして留まれようか。


●17(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。  (王上8・60)

 ついにエルサレム神殿が完成し、ソロモン王が祭壇の前で長い祈りをささげた。その締めくくりの祈りの言葉がこれだ。それはソロモンの願い、民の願い、そして主ご自身の御心が三重となった言葉だった。
 私もこの祈りを、礼拝ごとに兄弟姉妹と一緒にささげていた。それは主の祈り、「御名が崇められますように」と。いや主日だけでなく、事あるごとに祈り続けるのだ。私の口癖となるまでに。


●18(水)
主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。  (サム上12・24)

 民を導いて来た祭司サムエル。歳を取り、世を去る日が近づいた。そのとき民に告別の辞を残すのだ。それは、主を畏れ心を尽くして主の言葉に従うなら幸があるという、代々変わらぬ教えだった。その最後に「本当にそうだっただろ」との思いで、今朝の一言を加えたのだ。
 今日「行け」と言われた道を行こう。「行くな」との道に入るまい。確かに今までそこに幸があった。そう思ったら聴従の思いが新たになった。ちょっと悟れたかな。


●19(木)
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。  (ヨブ2・10)

 家族、財産、栄光をすべて突然失ったヨブ。自らもひどい皮膚病に七転八倒する。その時にこの一言を言ったのだ。幸福も不幸も主の御手からのものなのだから「いただこうではないか」と。
 私の祈りはヨブとはまったく違う。「幸福だけ下さい、もっと下さい」と言い続けている。そういう自分に気付いて赤面した。「御心のままに」と口で言いながら、神に指図していたと気付いたから。心から従う人になりたい。気付けた今日から!


●20(金)
主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えてくださる。    (箴2・7)

 主から賜る「力」と「盾」が、誰に与えられるか述べられる。「正しい人」「完全な道を歩く人」だと。そしてこのあとには、主の見守りは、主の慈しみに生きる人の道に注がれるのだと、続いていた。
 力が欲しい、盾も欲しい、見守られたいと思う。でもその一つも手にできないなら、私が「戴ける場所」に立っていないからかも。主の方こそ「あげたいのに」と私を探しておられるのに。御言葉の通りに生きようとする者が、全てを手に入れるのだ。


●21(土)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。    (イザ31・5)

 慰めの主の言葉。しかしこれは新バビロン帝国に攻められた時、エジプトに助けを求めた民に告げられたのだ「人間に頼るな、主に立ち帰れ」との警告と共に。
 なぜ人間は神に助けを求めないで、目の前の被造物に頼るんだろう。信じていないからかも。神様の方はこんなに熱心に守ろうとして下さっているのに。こんなに大事にされているのに。不信心は我なり。そんな私のために、御子は来て下さった。


●22(日・第4主日・クリスマス礼拝)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月)
わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。          (ホセ6・6)

 イスラエルの民が神に背を向けた。彼らは神殿で礼拝をしていなかったわけではない。しかし他の日には、異教の神々も拝んでいたのだ。神殿に行くも、形だけの礼拝、形骸化した信仰になっていたのだ。
 二股信仰って、神様への背信なんだ。神様のほうは「あなたと私」という相思相愛でいたいのに、人間のほうが二股では、神は悲しむよね。嘆くし、怒るよね。ああそれが裏切りの姿、罪人の姿なんだ。


●24(火・クリスマスイブ)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。  (詩37・24)

 主に従う人=無垢な人=主に望みをおく人の人生がどのようなものになるのかを語る詩人。それは、苦難が無いというのではない。たとえ倒れても、傍におられる主が捕らえて下さる人生ということ。
 「主なる神が共にいてくださる」、それが最善で最大の恵みだと告げる詩人の声に、「その通りだな」って、今朝思う。だって今日はクリスマス・イブなんだもん。今宵は、御手に捉えてくださるために御子が来て下さったことを想って祈ろう。


●25(水・降誕日)
偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません。   (詩26・4〜5)

 主なる神に、全き信頼を寄せ、かつそのように歩んでいた詩人の信仰告白だ。 なぜ信頼し切れる人生であれるのか? きっと神に愛された実感があったからだ。
それなら私だって、神が私のために天より降らせたイエス様の降誕を見詰めたら、私も愛されたんだって分かる。今日は、その御子の降誕を見詰めて過ごしたい。そんな特別な日なんだから。


●26(木)
いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。 (詩3・7)

 「いかに多くの民に包囲されても」と告げられている敵が誰なのか。一節で「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあるのを見て愕然とした。我が子が敵となって、命を狙っていたなんて。「決して恐れません」という詩人の抱えた「恐れ」の複雑さを思う。それは戸惑い、悲しみ、嘆き、絶望感・・・。
それらに囲まれて尚「恐れない」と言えた詩人。直前に「主が支えていてくださいます」とあった。秘訣はこれのみ。私も主を仰ごう。たとえ悲嘆の日があれども。


●27(金)
(モーセは)「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。     (出32・26) 

 モーセがシナイ山で十戒を授かっている間、民は金の子牛をつくって拝み、神に背いた。そのときモーセが人々に告げた最後通告がこれだ。そして集った者は赦された。集まるべき場所がある。罪を「悔いる」というのは、その場所に集まること。心の中でクヨクヨしていることじゃない。
 主日ごとに礼拝に集まるのは、悔い改めることと、立ち帰ることと、赦しの宣言を賜ることが同時に起こっている大事な場所だから。私も帰ろう、罪人だから。


●28(土)
主を畏れることは知恵の初め。  (箴1・7)

 知恵の書は語る「主なる神を知ること、それも畏敬すべき神として知ることこそが、人が知るべき第一のことだ」と。
 明日は礼拝。来る週ごとに礼拝にあずかれるということは、一週間ごとに大切な立ち位置に修正されるということなんだ。一週間で大分ずれってしまった立ち位置だから。自分を神とする自己中心にずれていたから。主の言葉を聞いて、祈る事、賛美する事を通して、初めの所に立ち直そう。それも今年最後の礼拝。出席できるために全ての準備を今日中に。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)


●30(月)
人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。  (創8・21)

 ノアの大洪水のあと、神が新しくした世界を見て言われた言葉だ。人間が自らの罪のゆえに、当然の報いを受けたのに、悔いられたのは神ご自身だった。それほどに人に寄り添われる神。それも罪人に寄り添われるのが、主なる神なんだ。
今年も何度主を嘆かせて来ただろう。そのたびに何度も赦されて来た。その神の愛の深さを静かに数えよう。忘れないように具体的に数えよう。罪と赦しを。


●31(火)
岩と頼むのは、わたしたちの神のみ。         (上サム2・2)

 今年の年間主題聖句は、この御言葉をいただいた。私たちの歩みを確かにする御言葉として受け取った。私たちがどんな時にでも、主なる神を頼みとする者に立ち帰れるようにと。
 支えていただいた日もある。忘れてしまってうろたえていた日もある。でも通り過ぎてきた日々を振り返って、改めて心の底から告白の言葉が湧いて来る。「アーメン、まことに岩と頼むのは、わたしたちの神のみでした。ハレルヤ」と。


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