2020年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2020年10月31日

『日々の聖句』2020年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年10月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(木)
キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。   (コロ3・15)

 この「平和」は「平安」という意味もあるから、尚更その平和、平安が欲しいと思う。でもふと思った、「平和」は、「キリストの」だと言われている。そこが肝心かなめかも。つまり自分だけが安泰であれば良いというような勝手な平安じゃないんだ。
あっ、「キリストの」というのは、キリストの言葉を聞いて生きること、そこで生まれる神の平和のこと。今まで自分勝手がいつも平和を壊して来た。勘違いを修正して、今度こそ真の平和を手に入れん!


●2(金)
マラナ・タ(主よ、来てください)  (1コリ16・22)

 「主よ、来てください」と、魂の奥から絞り出すように願うパウロ。再臨の主が、全ての苦しみと悩みと争いから解放してくれて、神の国の到来をもたらしてくれるからだ。私だって、同じ祈りをしている「御国を来たらせ給え(主の祈り)」とね。
 だけど本気で「今来て欲しい」と願っているだろうか。「この楽しみのプランが終わってから」と、何となく思っているかも。それって、「今は来ないで」と言っていることかも。ゾッとした。私の信仰に、この世への抜け穴が開いていると気付いたから。


●3(土)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。      (ヤコ2・1)

 「自分は主を信じる者」と思っている。でも日常を生きる姿は、「クリスチャンにあらず」ということがある。その矛盾は、人を愛する時・赦す時に現れる。私自身が相手を、愛せる人・赦せる人とか、愛せない人・赦せない人と区別している時だ。
 今朝、「あなたは、そうであってはならない」と迫る。あなたこそ神に分け隔てされないで、愛し・赦してもらえたのだからと。「そのあなたなら主に倣って生きられるはずだよ」と。「ハイ、主よ」と今日を歩もう。


●4(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。  (ルカ12・15)

 これは、貪欲な人を責めようとしているんじゃない。どんなに物を持っていても、あなたの命は財産ではどうにもならないから、ということ。命に関わることにこそ貪欲になるんだよということ。
 自分のために金銀を求めないで、神の前に豊かさを積むことを求めよう。主に喜ばれる以外のことは、貧しくて良いんだから。ま、我が家はどっちみち貧民だけどね。
貪欲であって、むしろ良い。ただその手を伸ばす方向を間違わなければ。神の喜びを得るべく、ググッと手を伸ばそう。


●6(火)
だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた    (使2・6)

 聖霊が降った時、弟子たちが「イエス様は救い主なる神」と証しを始めた。それも諸外国から来ていた人が「自分の故郷の言葉で話されている」と驚いたのだ。
 単に、諸外国語で語られたという奇跡話じゃない。むしろ、自己中心におごっている時、悲しみにある時、何も信じられなくなるような時、そこにも届くように同じ心になってくれる言葉で語られたということ。あっ、だからボクも、四面楚歌と思える日に届いた御言葉を「ボクに語りかけている」と聞けたんだ。


●7(水)
大祭司であるイエスのことを考えなさい。       (ヘブ3・1)

 神と人間との間に立って、仲介者の働きをするのが「大祭司」。それもイエス様は、私が犯した罪を知って、私の代わりにご自分が十字架刑を担って、償ってくださった大祭司の中の大祭司なのだ。
 私には、この上ない味方がいた。私が罪を犯す弱さも全部知っていて、なお私の味方をして、父なる神に弁護してくださるお方。そんな私の大祭司が、今日も傍に立っていてくださることを思い起そう。永遠の味方のイエス様が居られることを思ったら、今日を歩める力が湧いて来るから。


●8(木)
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。   (1ペト2・3〜4)

 人は、聖書を読んで知ることができたはず。イエス様がどれほど愛してくださっていたかを。ご自分の命を投げ出してくださったほどに。そしてなおずっと愛し続けていてくださることを、ボクも知った。
 それなのに今まで、他の何に頼ろうとしていたんだろう。何にすがろうとしていたんだろう。主に立ち帰らなきゃ。恵み深い方のもとに帰らなきゃ。きっともう、迎えに出てくださっているはずだから。み腕に飛び込もう。


●9(金)
神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。   (ロマ12・3)

 キリスト者として完全な生き方をせよと言われる。でもその直後に今朝の御言葉が続けられるのだ、「各自の信仰の度合いに応じてだよ」と。ちょっとホッとする。
でも慌ててすぐ、緊張した。「これは努力八分目で良いということじゃない」と気付いたから。「人と比べないで良い。でもそこで力は、十二分に注げ」ということだから。見てくださる主にだけ喜んでもらえれば良い。これって、良い緊張ではあるね。


●10(土)
世の無力な者を選ばれました。    (1コリ1・27)
 
 神様は御自分の救いを伝えるために、能力のある者や知恵のある者を選ばれなかったと告げられる。無学で、卑しくて、この世で無に等しい人をこそ選んで用いられると。なぜ? それは神様以外に頼るものが一切ない人だからだ。
 「私は何の能力もない者です」という人に、ある日ドッと来る、神に仕える奉仕が。「ああ、それはまずいよぉ」と思ったけど、神様に頼って懸命に仕えたら、その人こそ神の恵みも一番戴ける人になるのかも。なすべき奉仕も、戴く恵みも、神様任せで良いんだな。


●11(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●12(月)
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。      (エフェ4・29)

 心の中にすぐに沸いて来る言葉は「悪い言葉」、または「悲しませる言葉」「打倒す言葉」だ。御言葉は、そういうものを全部捨てろと言う。その代わりに口にすべき言葉として「恵みに満たしてあげなさい、成長させてあげなさい、そのための言葉を語りなさい」と告げるのだ。
 僕は捨てることも、与えてあげることも出来ていない。一体何やってるんだろう。最も身近にある「言葉」というもので。


●13(火)
万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。    (1コリ8・6)
   

命の流れがここにある。
生まれ出る時も神の御手の中から、そして地上の生涯を終えて死ぬ時も御手の中へと帰って行けるのだ。
だから地上の命の全ての時間は、神様の中にある、安心して歩んで良いのですね。
そう思ったら、預かりものとしての地上の命を、より良く生きたいなと思った。
そうしたら、何だか今日はホッとした気持ちで一日が始まる気がした。


●14(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。    (ヘブ3・16)

 ヘブル書は、「今日、主の声(御言葉)を聞いたなら、神に反抗した時のように、心をかたくなにするな。今日のうちに従え」と繰り返し告げる。
そしてその後に今朝の言葉がある。「ああ、誰も彼もが反抗したじゃないか」と。主が嘆いておられる。ボクにはこれが「お前だけはそうなってくれるな、お前だけは私を愛してくれるよね」と告げる主の御声に聞こえた。


●15(木)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。       (1ペト5・7)

 この御言葉を、ただ繰り返して唱えるだけで、なんだか心に平安が広がって来る。ただ口で唱えるだけで、なんだかイエス様が目の前で語りかけて下さているように感じられて来る。御言葉が、神様の声そのものに聞こえて来る。
 そうだ、そうやって今日の一日を過ごそう。そうしたら一日の終わりには、この御言葉が心の底に染みついているから。神の声が、私の心に住み着いてくれるから。


●16(金)
少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。    (マコ5・41)

 「娘は死んでしまったから、もうどうしようもない」と嘆く両親。その涙と絶望の前で、イエス様は娘の手を取って、まるで当然のように言い切られたのだ「起きなさい」と。死を支配される権威ある者のように、揺り起こされるのだ。
 私も、落ち込んで、絶望して、まるで死んだようになっている時、イエス様は私の手を取って言ってくださるのだ「起きよ」と。そしてさらに死の先の復活の日にもこの言葉を聞くのだ「起きよ」と。なんという力ある言葉、嬉しい言葉だろう。


●17(土)
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されている   (使16・10)

 「こんな人には福音を話しても無駄だ。聞いてはくれないし、分かるわけない」と思われていた異邦人のマケドニア人。でも、その「当然無理、あの人には無理」という壁を壊されるのは神様。「あの人も私の愛する一人だから」という一点で、壁を超えて行かれるのだ。
 私もその御心に従おう。自分の「あの人だけは無理」という思いを後ろに退けて、「すべてものをあなたの御想いの中で」と祈りつつ歩もう。きっとそこで、ボクも、壁を超えて行けるから。


●18(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●19(月)
いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。   (1ペト2・11)

 この地上の生活は、やがてまことの古里・天の国に着くまでの旅路。だからこの地上の物に執着して生きるのでなく、むしろ捕らわれないように何時も御国を仰ぎ見て生きるんだ。それって、なんて壮大な旅なんだろう。それも御国は予約済み。なんて楽しみな旅路なんだろう。
 でもその古里を忘れさせるのが、この世に執着させる欲。「クワバラ、近付くまい」と思って、祈っていることが大事かも。


●20(火)
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。    (ルカ7・47)

 罪深い女が、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭って、香油を塗った。周りの人々は「罪人がいまさらなんだ」と白眼視したけれど、イエス様は違ったんだ。
 イエス様に罪赦されたと分かる人は、周りの目なんか関係ない、ただイエス様を喜んで生きる人になるんだ。私も受洗の日に罪を赦された一人。この女のように生きる人になりたい。ただ主を見詰めて。


●21(水)
(わたしたちは)無一物のようで、すべてのものを所有しています。     (2コリ6・10)

 パウロが、「キリスト者として生きようとするなら、この世からの悪評もあるし、辛い思いや悲しい思いもするだろう」と言う。世から見たら、何も誇らしいものを持っていないように見えるからと。でも、と言うのだ。「あなたはすべてものを所有している」と。価値観がひっくり返されているような御言葉だ。
天の蔵にある物は、神の子である私たちの物だからだ。うっひゃー、この世のどんな大富豪よりもスゴイ。そうさ、天の国を仰ぎ見ればね! そこが、大事な大転換点だね。


●22(木)
(イエスは)永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。   (ルカ1・33)

 天使ガブリエルがマリアに、受胎を告知する。そこに今朝の知らせも含まれていた、「イエス様は、神が祝福を約束された神の民を永遠に守るから。平和の支配はイエス様によって尽きることがないから」と。
 この「ヤコブの家(神の民)」が、聖霊降臨後、つまり私たちの時代では「教会」となった。それは、相模原教会に平和の支配が及んでいるということ。教会に所属する意味は、平和に所属することなんだ。素晴らしい所属。その恵みを大事にしたいな。


●23(金)
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。    (エフェ六・4)

 御言葉が、家庭の在り方に踏み込んで来る。家庭が、一番最初の「隣人との出会いの場」となるからだ。そしてそこで人は、最も失敗しやすいからだ。
 父親は子供の前で、まるで仕える者のように、その子を活かす言葉を注がないといけないということ。その姿は、イエス様の弟子たちに対するように。失望させられても、怒りたくても、忍耐に忍耐を重ねて臨まれた主のように。これは紙に書かれた目標じゃない、そう生きよとの厳命だ。


●24(土)
あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。    (使20・28)

 エフェソの教会を離れる時、パウロが「邪説を唱える輩が来る。まず自分自身に気を付けろ。でも、群れの兄弟姉妹のことも気を付けてあげてね」と告げたのだ。
 自分のことばかり思う時、隣人が見えない。他者のことばかり気遣う時、自分のことが見えなくなることがある。でも自分も隣人も大事。そのことを気付かせてくれるのは、御言葉だ。主が、どちらも気遣ってくださって、引き戻してくださるから。常に、御言葉にハッとして立ち帰ろう。


●25(日)

主日礼拝説教

       藤森誠神学生 (東京神学大学大学院2年)



●26(月)
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。        (1ヨハ1・3)

 御子イエス様と地上の旅をした愛弟子ヨハネたちが、新たに信仰者たちに告げたのは、驚くべき言葉だった、「自分たちと一緒に信じて生きることは、あなたも御子イエス様と御父なる神との交わりに生きることになるのだ」と。
 信じる者たちの交わりは、人間的な横の繋がりだけじゃないんだ。天地を結んで、縦の繋がりでもあるのだ。主に在る隣人との交わりをおろそかにすまい。そこには同時に、神との交わりが重なっているのだから。


●27(火)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。    (ルカ19・5)

 人々から、「罪人」のレッテルを貼られていたザアカイ。でも、罪人の友となっておられるという噂のイエス様に会いたくて、でも群衆に遮られて仕方なく木の上に。
 そのザアカイに、イエス様が声をかけてくださった、「会いたいと思っていたのは、私の方だよ。お前を探していたよ。さあ私が友となるよ」と。
イエス様のこの御声は、私にも届いて来る。御声に、なんだか胸が熱くなった。


●28(水)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。    (ガラ5・25)

 神の導きとは、すなわち私の内におられる主の霊が私を導いていてくださるということ。その小さな御声を聞けなくさせるのが、自分の中にある大きな声だ。それは欲情であり、うぬぼれであり、ねたみであり、つまり罪の実なのだ。
 霊が導く小さく細い声を聴かねば。「祈ろう」と気付いた。それも沈黙して、主を想うだけの黙想の祈りをしてみよう。ボクの心にも、主の語りかけが聞こえて来るかも知れないから。主の御言葉によって。


●29(木)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。    (フィリ3・21)

 天地創造の時から御力を振るわれた「先在の主」なるイエス様。そのお方が私の罪とも闘って、勝利してくださった。さらにご復活の命までくださったのだ。
 偉大な御力が私の隅々にまで及んでいる。私の貴さはこのキリストの御業ゆえ。だから二度と自分で自分を見くびるまい。成された御業を見くびる事だから。


●30(金)
富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。    (ヤコ1・10)

 富んでいる所から飛び退けと言われている。そこに立っていると草花のようにしおれて滅び去るからだと警告されている。
 「えっ貧しいことが良いことなの?」と思ってしまう。でもそんな単純なことじゃないみたいだ、「低くされることを」と言われているから。もしかしたら、と思った。懸命に富を得て、でも自分で握らず分け与えて、与え尽くせばいいのかもと。そうやって貧しくなった姿はイエス様のようだから。


●31(土)
自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。    (ヤコ1・25)

 「神が命じる言葉としての律法を聞くだけの人になるな」という命令する。それは単に禁止命令で終わらず、「行え。行う人になれ」という強い招きとなっている。
 今日はっきり「そっちに行くな。こっちを行け」と聞いた。これほど明確な道標はない。それなのに道を外れるなら、それは神への反抗。それが、ボクの内に潜む罪。

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2020年09月30日

『日々の聖句』2020年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年9月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 (ヤコ2・26)

 心だけで受け取る信心がある。頭だけで受け取る教理がある。目と耳だけで受け取る聖書の言葉がある。ただ受け取るだけの信仰もあるだろう。しかしそれは「死んだ信仰だ」と告げられているのだ。
 愛するお方が語りかけている御言葉を聞いたら、居ても立ってもいられないで体が動くはず。こうして欲しいと言われたら、心も燃えて「お応えしたい」と動くはず。イキイキと隣人を愛する生き方になるはずなんだ。死に体にはなるまい。


●2(水)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」     (ルカ18・13)

 今朝のみ言葉に続けて「義とされたのはこの人であって、ファリサイ派の人ではない」とイエス様が言われていた。
 「あなたは不信仰者」と言われてムッとするなら真の不信仰者。自分は罪人だと分かっている不信仰者は、少しは義しいと思っている不信仰者より、主の喜びに近い。あれっ、結局皆、不信仰者? じゃあボクは、悔いる不信仰者でいよう。


●3(木)
わたしたちは神に属する者です。     (1ヨハ4・6)

 人間が作り出した「常識」「当たり前」を生活の基にするのが「この世に属する者」。神の言葉のみを基にするのが「神に属する者」。端的に聖書は言い切る。
 ボクも主のみ言葉を愛して生活しているから、「神に属する者」に入れてもらえているのかな。しばしば、中途半端に両方に足を突っ込むようなことをする罪人だけど、それでも神様は「私に属する者だよ」と言って下さるのかな・・・。
どうもそうらしい。それが福音なんだ。その御心に応えて生きたい、今日こそ。


●4(金)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。     (ヘブ4・15)

 「この大祭司」とは、天に居られる御子イエス様。その「大祭司って何?」と考えたら、神と人との間に立って執り成す働きをしてくれる人のこと。イエス様が、私の大祭司として居てくださるんだ。それも私の弱さを知って、同情しながら。
その「弱さって、苦手な事とか?」と考えて、アッと気付いた「それは私の罪」と。私の罪と過ちをイエス様が執り成して下さる。お陰で私は赦された。つまり私は、主のお陰という存在だ。それが有り難い。


●5(土)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。    (1コリ2・5)

 「神の力によって信じるようになるため」に、パウロは何をしたのか。それは一つのことだ。それが、神の御子なのに十字架で死なれた出来事を伝えること。またあらゆることをしなかった。それが、信じたらこんな恵みがあるとご利益を巧みに語ること。神の力は、神の十字架の死を聞くところに働くからだ。
 私もそこに立ち続けたい。十字架にすがる姿を見て欲しい。それを伝えたい。


●6(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。     (1テモ2・5)

 イエス様は、真に神であられる方。同時に降誕された真の人であられる方。だからこの方こそ、神と人との間に立つ仲介者になれるお方なんだ。それもキリスト・救い主として立って下さる。つまり私の罪も弱さも、過ちも自己中心さも全部知って、身代わりに償って下さったお方が、神に執り成してくれるんだ。
私は、この仲介者から離れたら生きてゆけない。それに気付く時、信仰の中核に触れているんだ。そこにしがみつけ。


●8(火)
互いに重荷を担いなさい。     (ガラ6・2)

 隣人の苦しみを一緒に担えと言う。また「互いに」だから。自分も素直に担ってもらうこと。そういう関係に生きよと言われている。単なる助け合いではない。「隣人とそういう関係になれ」と言われているのだ。そうしたら、「キリストの律法を全うできる」とさえ、続けて言われていた。
 隣人に対して「何をするのか、どう生きるのか」の土台には、「どういう関係になるのか」があるのだ。そこを忘れたら偽善者になる。「何をしたか」は、自分を誇らせるから。互いにという「関係」にこそ立て。


●9(水)
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。    (ヤコ4・12)

 ドキッとした、神様から鋭い矢が私を目掛けて飛んで来たから。ブスリとこの御言葉の矢が、心臓に刺さったのだ。
振り返ったらボクは、いつも正義面して隣人の悪口を思ってしまう。大事な家族のはずなのに、気付いたら裁いている。
今朝、御言葉がそんなボクの心臓に刺さってくれた。だから悔い改めの痛みをもって、今までの自分から飛び退ける。そうしたら、もしかしたら主に赦してもらえるかもしれない。そうしたら、隣人関係がもっと幸いになれるかも。きっとなれる。


●10(木)
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。        (ヘブ3・14)
 

 信仰生活は、教会に来るようになって洗礼を受けたら、そこで終わりじゃないんだ。卒業って無いんだと、薄々分かってたけどね。だって、学校じゃないんだから。
 信仰生活はイエス様と一緒に歩く人生の日々なんだから。主の言葉を聞いたら、その言葉と一緒に歩む。それも独りじゃないよ、主の霊・聖霊との二人三脚。さあ今朝も、今日という旅に出発しよう。


●11(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。    (1コリ14・33)

 これは教会の中で預言や異言を語る時、さらにその解釈を聞く時の整然とした秩序の勧めだ。「相模原教会では異言が語られることはないから、これは関係ない」とは言えない。全ての教会の集まりの中にあるべき秩序の話なのだから。
 「教会なのに秩序って堅苦しい。教会って自由な所じゃないの?」と思って、すぐに気付いた。共に集い尊重し合う、そこに主にある平和の秩序があるから真の自由がある。自由と自分勝手は異質だ。

●12(土)
あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。        (ヨハ1・26)

 バプテスマのヨハネが告げた「知らない方」とは誰か。それは御子なる神・真の救い主イエス様のこと。でも「知らない」ってどういう意味なんだろう。「イエス様のことは知っているのに」と考えて、アッと思った。
聖書では「知る」って「一つになるほど分かる」という風に使われてる。それは頭の中の知識じゃ駄目なんだ。それを見透かしているように御言葉は告げる、知らない方が「お・ら・れ・る」と。愚か者の中に、既に内住されるイエス様。感謝です。


●13(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師   



●14(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。     (マコ1・35)

 イエス様がいよいよガリラヤ中に大伝道を開始される直前。静かな所で御父と一対一の祈りの時を持たれた。
 そういえばイエス様は、大事なことが始まる直前、また忙しくなる前に必ず御父に祈っておられる。
 そういえばボクは、祈りの時間を削ってバタバタ立ち働いてしまう。全く逆のことをしていた。よし、今朝はじっくり祈る事から始めよう。忙しくなりそうだから。

●15(火)
掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。   (1ヨハ3・23)

 「神の掟」を一言で言うなら、「愛し合うこと」。イエス様の命令を一言で表すなら、「愛し合うこと」とヨハネは告げる。
 私は今まで「愛する」って、ほんわかした甘いイメージに捉えていたかも。しかし、愛を生きることとは、神の掟を生きること。これこそ「掟だ」と聞いて、ドキッとした。神の厳命だと知ったら、命懸けで第一に取り組むことなんだと悟れたから。背筋が、ビシッとしたゾ。


●16(水)
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。     (ヤコ4・3)

 欲していても、熱望して祈っても得られないことがあると御言葉は言う。人と争うため、自分の主張を押し通そうとして求める願いだからだ、と。それは、得ても神の敵となるものだからだ、と。それを「間違った動機」と告げているのだ。
 もしかして、正しい動機で求めたものは得られるの? 人の重荷を負うため、人を愛するため、人を赦すための求めは得られるのかな。そうさ、きっとそうだよ!


●17(木)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。   (コロ3・17)

 ここに、今日の一挙手一投足、更に心の向け方までが詰まっている。
 「だって腹が立つからこう言いたい」とか「だってこう言ってやるのが正論だから」とか「私がこうしたい、ああしたい」とか「願いが叶わなかったから、感謝できなくて当然」とか、いつもの言い訳をするまい。今朝の御言葉に一言も足さず一言も減らさず、そうやって今日を生きてみよう。それが「御心を生きること」と信じて。


●18(金)
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。   (1ヨハ1・10)

 いきなりドキッとさせられた。御言葉に言い当てられてしまっているから。「お前には罪がある。自分には具体的な罪は無いと思っていたら大間違い。神は見通しておられるぞ」と迫られている気がしたから。
 「ああ、どうしよう」と心細くなって、この箇所を開いたら、「自分の罪を公に言い表すなら、神は罪を赦し・・・」と言われていた。「救われた」と思った。そして、罪に気付く場が、救いへの入口と気付いた。


●19(土)
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。     (ルカ10・3)

 イエス様が七十二人を選んで、町や村に伝道のため派遣される。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだと知っておられながら。それでも「あなたを遣わす。行け」と命令されるのだ。
 伝道する時の私たちの恐れも、イエス様は知っていて下さる。困難もご存じでいて下さる。しかしなのだ、だから撤退して良いよとは言われない。諦めて良いとは言われない。「あなたが必要だ、行っておくれ」と背中を押されるのだ。だから行こう、もう一度だけ勇気を振り絞れ、自分!


●20(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)




●21(月・敬老の日)
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。     (フィリ4・6)

 「思い煩うのはやめる」って、どういうことかな。自分が思い悩むことをやめてしまえば良いのかな。いや、実際はそんなことでは済まないとも思うし・・・アレッ、これってもう思い悩んでいる?
 聖書は言う、思い煩うことを自分で握らず手放せるのは、手放す先があるからだと。それは、私に最善を備えて下さる主。だから「求めているものを神に打ち明けろ。何事につけ感謝をこめて祈れ、神様に話せ」と促すのだ。主が守るから、苦しみを握り続けなくて良いんだよ、と。


●22(火・秋分の日)
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。   (1ヨハ5・13)

 イエス様の御業を受け入れたら、救いの恵みを戴ける。でも、賜物はそれだけじゃないと告げる。「もはや死なない身となりぬ」という永遠の命も戴けたとのだと。
 神様が私になさることは「与えるのみ」の御業。そうやって恵みで満たそうというのが御心。そうか! 御心に従うということは、窮屈じゃない。恵みを戴く側を歩くということ。選択の迷いは吹き飛んだ。


●23(水)
まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。        (マコ8・17)

 イエス様の激しい叱責、または嘆きにも聞こえる。何があったのか聖書を開いて分かった。イエス様ご自身と、お言葉に頼らず、自分の常識で考えてしまう弟子たちに、呆れられたのだ。
 イエス様に従うことは弟子たちでさえ難しかった。自分の中にある人間的常識が、一番の障害物だと気付いていなかったから。きっと常識で生きる大人は、信じることから遠いのかも。ボクは幼な子になりたい。信頼するしか知らない幼な子に。


●24(木)
相変わらず肉の人だからです。    (1コリ3・3)

 「肉の人」というのは、ここでは「お互いの間に妬みや争いが絶えない、ただの人」ということ。それも、福音を聞いたのに「相変わらず」だと言われている。
 責められているように感じる。そうだ、責められているんだ。福音を知らされてなお自分勝手に生きているから。呆れられているんだ。諦められてしまう前に、立ち帰らなきゃ。いい加減にしなきゃ。
それにしても「相変わらず」の一言が耳に痛い。いや、痛いと感じたから助かったのかも。立ち帰らなきゃと気付けたから。


●25(金)
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。   (1ヨハ1・5)
 

 「神は光である」と端的に宣言される。続いて、あなたが神の子とされたのなら、光の子として歩んでいるはず、まだ闇の中で歩いているようならおかしいぞ、とも。
 ハッとした。ボクも受洗の日に、神様の家の子に養子縁組して頂けたのだから、誰から見られても「あの人は神の家の方だよね」と噂が立つように生きなきゃね。


●26(土)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。    (ヨハ3・16)

 私の幼い頃に、教会学校で何度も口ずさんで暗唱をさせられた御言葉だ。これが、心に刷り込ませねばならないほどに大切な御言葉だったからだ。
ここに、神が御自分の独り子を「辻川のために」与えたと記されている。ここで天の御父の思いが分かる。どんなに私が愛されているかが分かる。私の価がどんなに高いかが分かるんだ。
それを知ることが、人間にとって第一に大切なことだと、今は人にも伝えたい。


●27(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師 



●28(月)
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。  (ロマ5・3〜4)

 中を飛ばして一言で言うと、「苦難は→希望を生む」ということになる。エッと思った。苦難が行き着く先は、不安とか、失望とかであるはずなのに・・・
 一体どこから来る希望なんだろう、知りたい、と思ってこの箇所を開いたら「キリストのお陰で」「神の愛が注がれているから」「義とされたから」という御言葉が次々に目に飛び込んで来た。
 キリストにあって生きる、そこで、苦難も希望へと繋がるんだ。主にすがらん!


●29(火)
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」      (ヨハ3・3)

 頭脳優秀、品行方正のニコデモ。でも不安で、夜中に隠れてイエス様を訪ねたのだ。「私は天国に行けるのですか? 誰よりも資格はあると思うんですが、でも何か大事なものが足りない気がするのです」と聞いた彼に、主が答えられた。
 主は、全ての人に言われる、「洗礼を受けなさい。唯それだけでいい、それが天国への扉を開ける鍵だから」と。無償で与えられる鍵、だから洗礼は恵なのですね。


●30(水)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。  (ルカ6・19)

 病を抱えた人たちが、イエス様なら癒して頂けると信頼して押しかけて来た。癒し目的だけど、でも「何とかして」と必死になって。その「何とかして」の一言が心にとまった。
 「ボクはそれほど必死にイエス様にすがるように祈っているだろうか」と思ったから。「何とかして」と必死さが、在るだろうか。身を投げ出すほどの信頼が欠けているんじゃないだろうか。今日からは「何とかして」と全身ですがって祈ろう。そうやってイエス様にぶつかるように近付くんだ!

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:02| 『日々の聖句』

2020年08月31日

『日々の聖句』2020年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年8月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。    (マコ14・38)

 十字架に架けられる直前、ゲッセマネで弟子たちと祈られるイエス様。でも弟子は一人残らず眠ってしまう。睡魔に襲われたから。そんな弟子たちを、それでもなお気遣われるイエス様。死が迫っておられるのに、気になさるのは弟子のことだった。
 私も、ここでこそ祈らねばならないという時でさえ、自分の思いという殻の中で惰眠する。その私をさえ気遣って下さるイエス様。今度こそ従おう、このお方に。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。    (マタ9・29〜30)

 二人の盲人が主にすがる「憐れんでください」と。主が「わたしにできると信じるか」と問う。「はい、主よ」と即座に答える二人。そして、この御業が起こった。
 主イエスとの遣り取りを通して、御業が起こる。私は、この貴い遣り取りの途中で、自分で中断させてしまうのかも。だから御業まで繋がらないのかも。本気で信じることが、御業へと繋がる道なのに。


●4(火)
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。     (ヤコ1・19)

 主に喜ばれる人になる道が語られる。「人のいう事を聞く人になれ。自分の言いたいことを一方的にまくしたてるな」と。
あれっ、ボクは逆になってるかも。人の言うことは受け入れず、まず「でも」とか「しかし」とか思ってしまう。そして自分の考えが普通で常識的なんだとまくしたてる。怒るのに遅くと言われても、ボクは瞬間湯沸かし器。パッと熱くなる。弁解の余地なしと気付いた。そのボクが変わらなきゃ、主を悲しませるばかりなのかも。


●5(水)
兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。   (ヤコ4・11)

 「よし! この御言葉を、あの人に言ってやろう。あの人にピッタリだから」と思って、アッと気付いた。よく読んでみたら「悪口を言い合ってはなりません」とあったから。つまり、私も悪口を言っているということ、これは私自身への忠告だったと気付いたから。これを隣人に言いつけること自体が、悪口だった。危ない、アブナイ。


●6(木)
わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。      (ヘブ13・13)

 イエス様は、神殿の外で十字架に架けられた。同じように、私たちも福音を実らせるために、「宿営の外に出て」と言われている。そこに行けと促されている。
「外」ってどこ? それは教会の門の外のこと。そこにいる友人や家族のもとで福音を広げよ、ということ。そこが主イエスの「みもと」なのだから。先立って主が、教会の塀の外で伝道しておられるのだから。主を独りにさせておいてなるものか。

●7(金)
むしろ末席に行って座りなさい。    (ルカ14・10)

 「末席に行くって当然のこと。上席に座りたがったりしないよ」と思う。でも、その「末席」ってどこだろう。この世なら、一番後ろとか、入り口近くかな。ふと、集会中の部屋を思い浮かべた。そうしたら、後ろの方に人がひしめいている様子が浮かんだ。きっと皆、奥ゆかしいからかな?
 でも待てよ。どうして「前から座って」とお願いされても、前はガラガラで後ろの席取り合戦するんだろう。もしかしたらそこが居心地が良い「上席」なのかも。はて、イエス様が言われた「末席」ってどこかな。


●8(土)
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。        (1ヨハ2・4)

 「信仰がある」と言いながら「御言葉を守らない者は神に対しても偽善者だ」と聞こえて来て、ドキッとした。心の中で信じていれば、行いは別だと思っていた。
 でも、それは自分に向けての言い訳なのかも知れない。行いを棚上げする詭弁だ。だって今日の言葉が「その人は真理なき偽り者だ」と指摘しているのだから。
 ドキッとしたボクは、まだ立ち帰れるチャンスはあるのかも。まずいぞと分かるから。

●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月・山の日)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。     (ルカ3・4)

 洗礼者ヨハネが、「救い主イエス様を迎える前に、まずあなたが歩んでいる道を整えよ」と叫ぶ。「神に喜ばれる者として、御言葉を聞いて行う者としての道を歩め」と。そのためには、まず自分の生活の歩み方を見詰めること。そうしたら誰もが悔い改めから始めないといけなくなるはず。一人だに義しい人はいないのだから。
 毎日、この準備から始めねば。自分が見当違いの道の上を歩いてたら、救い主に会えないぞと、ヨハネは言うのだから。これって脅し? そうだ、愛からの脅しだ。

●11(火)
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ2・7)

 イエス様が降誕された日のこと。臨月のマリアが「宿屋の片隅でいい。相部屋でもいいから」と懇願したのに、一人さえも場所を譲らなかった。だから、家畜小屋で赤ちゃんイエス様は生まれなければならなかったのだ。
 自分の主張や自分主義は、イエス様に場所を譲らない。いつまでも自分が居座ろうとする。まさにそれが罪人の姿。
御言葉に自分を明け渡さない姿こそ、罪人の私の姿なんだ。主の悲しむ御顔が、頭をかすめた。


●12(水)
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。   (ヘブ12・12)

 生活の中で、信仰心の手が萎えてしまうことがある。「もう委ね切れない、倒れて立ち上がれない」と思う日がある。でもその日、神様からのみ言葉が届くのだ「あなたの天の父なる神が、あなたを鍛錬しておられるんだ。今も、その御手の中、ご計画の中に居る。あなたは今日も神の眼差しの中。だからもう一度力を込めて、信じて委ねることに立て」と。
 さあ行こう、今日の歩みへと。鍛錬のバーベルをもう一回持ち上げるんだ。


●13(木)
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。  (1コリ9・19)
   

 パウロは、誰にも縛られず自由に生きる。同時に誰のためにも奴隷のように仕える者になる。なぜ? それは全ての人が、キリストを信じる人に加わって欲しいから。福音も、押し売りしたら追い払われる。上から目線じゃ聞いてもらえない。だから、下からなんだ。自由に下に立てる人が、伝道する人になれるのかも。
 私も、そんな人になりたい。「どうしてそこまでするの」と言われるほどに仕えたい。


●14(金)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。     (エフェ1・13)

 聞いて→信じて→聖霊を受けた。あ、この順序は、私と一緒だ。教会に来た日に初めて福音を聞いた→そして信仰の芽吹きを与えられて育てられ→ついに受洗。その日に、聖霊の注ぎを受けていた。
 手続き万全、私も正当な神の家の子になった。それは、キリストという紋付きを着ているということ。なんて凄い手順を辿っていたのか。ただ恵みのみ、感謝のみ。

●15(土)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。   (ルカ5・10)

 イエス様が、ガリラヤ湖の漁師だったシモン・ペトロに声を掛ける。ご自分の弟子へと、お招きになる出来事が起こるのだ。そのときのイエス様の一言がこれだ。
 ペトロに告げられたのは「安心しなさい」という慰めでなく「信じなさい」ということでもない。人々を神の国に招く人になれ、という〈使命〉だった。キリスト者が主に従うということについて、ここに大事なことが言われている。それはイエス様の使命に生きるということ。それって忘れがちかも。恵みを戴く事ばかり気にしてるから?


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。   (コロ1・18)

 「第一」であられる「御子」イエス様。「すべてのこと」と言うのは、聖書を開いたら本当にあらゆることにおいてだった。天地創造の前から居られ。教会という主の体の頭であられ、また復活においても最初に甦られた方。イエス様を信じるというのは、恵みを願う信仰とは別物だった。
 私が被造物で、僕であることに着座すること、わきまえること。まずそこからだ。


●18(火)
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。   (コロ4・6)

 「塩で味付けされた」ってどんな言葉か気になるなぁ。きっとそれが在ると、聞く相手が「ああ美味しい、嬉しい」と喜ばせる言葉。さらに相手を活かす言葉なのだろう。でも、もしかしたら・・・
御言葉が、「いつも」と言っていることにも心を留めなきゃいけないのかも。自分が言いたい時だけ、余裕がある時だけとか、言いたい相手だけというのでなく、「口から出る言葉すべて」というのが「いつも」ということかも。きっと、そうだな。イエス様を思ったら、そうなさっていたもん。


●19(水)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。    (ガラ1・12)

 パウロは、ガラテヤの信徒に自己紹介する。そこで、自分がなぜ主の弟子とされたかを詳らかに伝えていくのだ。その話の冒頭が、福音をキリストから(上から)直接示されたのだと告げたのだ。学び(下から)という手段によって知ったんじゃないと。
 私もそこは一緒だ。神の言葉(御言葉)を直接上から戴いて、聖霊が上から注がれて「あ、救いがある」と知ったんだ。感謝


●20(木)
その言葉には、権威があった。         (ルカ4・32)

 人々を教えるイエス様。その教えに皆驚いた。その理由が、今朝の一言だ。
 私たちにとっても、イエス様の語られることは「良い話」とか、「教訓として学ぶべきことが多い」とかいうことじゃない。「人生の指針になる」とか「幸せになるための秘訣」とかいうことでは一切ないんだ。
 じゃ、何なんだ。それは、我が君主からの言葉として、全身全霊で聞き従うべき言葉だ。それが権威ある一言ということ。「主よ、お言葉のままに」と答えるべきなのだ。今まで、勘違いして来たかも。


●21(金)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。   (マタ10・30〜31)

 「髪の毛までも一本残らず」数えていて下さるってスゴイと直感する。さらに「どういうことだろう」と思い巡らしたら、本当に有難いと思えて来た。だって、自分で数えられないほどの小さな苦難や、まだ気付いていない小さな重荷も、神様は全部知っていて下さるということだから。
 自分で思い煩わなくて良い。今日、私のすべきことは一つと分かった。ただ頼ること、本気で委ねることなんだと。


●22(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。   (フィリ1・27)

 「福音にふさわしい生活を送る」と聞いて、「ボクも当然そうするよ」と思って、アレッと気付いた。「ひたすら」という一言ってどういうことかな、と思い巡らしたから。それは日曜のことだけじゃない。仕事の時も、食事の時も、苦手な人に会う時も、会議の時も、全ての時でということ。生き生きと元気な時も、病む時も、死を目前にしている時もということだ。
 これは、自分の「ご都合信仰」への挑戦となる。これは自分との闘いだ。


●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
愛は自慢せず、高ぶらない。    (1コリ13・4)

 聖書の中で「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所だ。世界中の教会で、この御言葉は代々にわたって告げられて来た。それは結婚式の場で、だ。
 愛する生活を始めようとする二人に語られ、また長い夫婦生活をして来た列席の夫婦の耳にも届けられて来た。御言葉の通りに生きれば、本当に愛は実るんだと。それって、愛は心情の問題じゃないということかも。心の話しでもあるけれど、愛って行いの話しなんだ。言葉において態度において、自慢せず高ぶるな、だ。


●25(火)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。         (1ペト2・2)

 「霊の乳を慕い求める」ってどうやったら良いのだろう。聖書を見たら、私たちは「神の生きた言葉によって新たに生まれた」赤ちゃんだということ。ならば、お乳は生きた神の言葉だよね。御言葉を慕い求めて生きれば良いんだ。
それ無しには生きられなくて、赤ちゃんが泣いて求めるように、貪るように求めるんだ。そうさ、命に関わることだから。

●26(水)
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。   (ヘブ3・13)

 御言葉が私を見詰めて、切迫している私の危機が見えているように「危ない、急げ、今日という日のうちに」と迫って来る。今日を逃したら、あとは罪の奈落の底に落ちて行くんだと。
 僕は自分自身の罪を、こんなに真剣に考えていなかったかも知れない。でも今、急いで、具体的な罪の業を捨て去らねば。罪の泥沼に飲み込まれる前に。


●27(木)
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。    (エフェ5・17)

 この御言葉は、「神に倣う者になれ」「光の子として歩め」「何が主に喜ばれるか吟味せよ」と言われている文脈に告げられていた。それらを無視して歩むのが、無分別者ということ。分かっているのに、知らないように生きるのが、超無分別。
ああ、ボクは無分別が何かを分かっていた。それなのに、知らない振りをする時がある。それって一番嫌われるタイプの人間じゃないか。主に嫌われたくない。自分が変わらなきゃ。今日、変わらなきゃ。


28(金)
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 (ルカ1・44)


 従姉のエリサベトのところに、受胎したマリアが訪ねてきた時のこと。彼女は聖霊によって、マリアがイエス様を身ごもったことを知って喜んだのだ。エリサベトの胎内の子さえ喜びに踊ったと言うほどに。
 私は、彼女たちの降誕を喜ぶ姿に、自分の喜びはあまりにも小さいと思ってしまう。年に一度のお祝いぐらいにしか思っていないのかも。はらわた踊る程の喜びに生きていたい。救い主の到来なんだから。


●29(土)
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。    (ヘブ12・6)

 「天の父がなさる鍛錬って何?」と思う。「病気とか苦難や試練かなあ。どれもキツイしなぁ」と考えて「あっ、そうだ、聖書を見なきゃ」とこの箇所を開いた。
 そうしたら、鍛錬と言うのは私たちが自分の罪と、血を流すほど戦わせることだった。自分の罪と戦い抜く、それも全力で戦うようにボクを追い込むことだった。これまでひどい勘違いをしていた。
 避けてはいけない、逃げてはいけない戦いだから御父が一緒にいてくださるのだ。


●30(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)

       


●31(月)
いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。 (ヘブ13・9)

 異なった教えは、「いろいろ」あると言われている。そんなにたくさんあるのかなと思ったけど、それらは私たちを取り巻いている生活の中で溢れているらしい。その教えは、今まで住み慣れたこの世で語られた教えなんだ。
 聖書を離れまい。心して、この「一書」から離れまい。「一書のみ」の信仰生活を歩みたい。だって、迷わされた道の行き先は、神を嘆かせ、人を傷つけてしまっている場所だから。ボクは、そこに決して戻りたくないんだ!


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』

2020年07月31日

『日々の聖句』2020年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年7月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。  (ヤコ1・21)

 心に植え付けられた御言葉を、あなた自身が受け入れなさいと言われる。その御言葉が、あなたの魂を救うから、と。
 私は、自分を救ってくれるものを自分勝手に想像して、無駄に捜し回っていたのかも。力とか、奇跡とか、権力とかが私を救うと思っていたから。でも、本当に私を根底から救うのは全く別のものだった。
それは神の言葉、私を愛する全能者の言葉。その言葉が私の中にあるなら、それに頼る者は満たされる。たとえ病の中でも、困窮の中でも、喜びに生きられる。


●2(木)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。      (1コリ15・53)

 死者の復活についての福音宣言だ。いつもこれを「葬りの式」の時に朗読して来た。大切な人との地上の別れをした遺族にとって、何よりもの慰めになるから。
人の命は、この地上の命だけで終わらず、「死」は「新しい生命の始まり」だ。だったら、精一杯地上の日々を生きれば良いんだ。今日という日を大切に、丁寧に生きれば良いんだ。その先の心配はいらないから。その先にも希望があるのだから。


●3(金)
しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。   (マタ5・34)

 主が山上の垂訓で「一切誓いを立てるな」と言われた。「なぜ?」と思う。もしかしたらそれは、誓う事柄は、結局自分がやりたいと思うことから出て来るからかも知れない。つまりそれは、自分中心な決意なのだ。
 主は言われる「神が望まれることを『その通りにします』と従い、神が望まないことを『その通りにしません』と生きよ」と。誓う生活に自己中心が入り込む。聴従から引き離されるのだ。あぶない危ない。


●4(土)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。  (ルカ6・35)

 「何も当てにしないで」というのは、難しい。人から褒められる事、感謝される事を求めてしまうから。だから「良かったね」と評価されたら有頂天だし、「有難うの一つも無い」と不満も起こる。そんな情けない自分に気付いてもいない時さえある。
 イエス様がこれを、「敵を愛せ」という文脈で語られているのを知って、ハッとした。評価を求める人が、攻撃して来る「敵」を愛せるはずもない。結局自分を愛しているだけだから。ああ、人を愛する人になりたい。何も当てにしない私になりたい。


●5(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。    (1コリ1・25)

 「神の愚かさ」「神の弱さ」とは何か。それは、ご自身の御子を、罪人が処刑される十字架で死なせること。ご自分の御子なのに、敵である罪人の身代わりとならせること。・・・しかしその身代わりによって、人々を救えるのだ。それが神の賢さ。それを引き受けられたのが、神の強さ。
 これは単なる教理じゃない。今朝の一文に、神が人を愛された秘密が凝縮されている気がした。ボクはその愛を賜ったんだ。受洗の日に、この激しい愛を。


●7(火)
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。    (黙21・6)

 ヨハネの黙示録の最後のほうで、新しい天と新しい地の到来が告げられる。そこで、天の玉座から語りかける神の言葉が聞こえて来るのだ。その貴い言葉の一つがこれだ。
 神はいつも、そして最後まで、私に呼び掛け続けてくださるのだ「あなたは渇いていないか? 一人で大丈夫か? 私が傍にいるから私の所においで! 命の水を飲ませてあげるから」と。そのお声は、今日も私を招き、そして支えてくれる。


●8(水)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。   (1コリ12・26)

 「一つ」とは、一つのキリストの体、つまり教会のこと。一人ひとりがその体の「部分」なんだ。そこには昼食を作る「手」の人もいる。支える「腰」の人もいる。ボクは盲腸って言われたらどうしよう。でも、盲腸だって、そこが痛むと体全体が苦しむよね。体全体が、一つの部分のために祈るよね。あ、ちょっと分かったかも。つまり、「教会に所属しているって、いいな」とね。


●9(木)
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。    (マタ5・39)

 これはイエス様が語られた「山上の説教」。「この世の常識では許される反撃がある、抵抗権もあるだろう。しかし!」と。「悪人に一切手向かうな。下着を取られたら上着も持たせなさい」と。そして「侮辱されて殴られたら、辱められるまま受けよ」と言われたのが今朝の御言葉。
 そんなこと誰が出来るのかと思って、アッと思った。イエス様ご自身がそこを歩まれたから。半歩でも良いから御跡を行こう。幸いは、そっちにしかないのだから。


●10(金)
あなたの神である主を試してはならない。      (マタ4・7)

 「神様を試すなんて、そんな恐ろしいこと絶対ない」と思って聖書を開いたら驚いた。荒野でイエス様が悪魔に、「御父はあなたを必ず守るはずだから、いっぺん神殿から飛び降りてみたら」と唆されて、それへの返答だったから。私も「神様、ボクを守ってください。守ってくれると信じていますよ」と祈っている時、ちょっと変なことをしているんだ。心の端っこで、守ってくれるかどうか、様子見をしている自分がいる。
 「御心が成るように」と一言の祈りをささげて、ただ無心に主を拝もう。


●11(土)
愛は隣人に悪を行いません。        (ロマ13・10)

 「愛」と、「悪」という言葉が心に刺さる。それは自分で自身が、「愛がない」ということと、「悪い事をしてしまう」姿を自覚しているから。在って欲しいものがなく、無くていいものが在る。ボクは矛盾のかたまり。
 愛するということに心を向けて、どこまでもソコに執着すればいいんだ。愛に留まる人になりたい! 聖書はこの後に「愛は律法と全うする」と続けていた。全ては愛への一点集中だ。まさにその姿は、イエス様のご生涯そのものだ。御跡に従いたい。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。         (マコ4・40)
   

 舟がイエス様を乗せて、ガリラヤ湖を進む。突然、激しい風と波に、舟は浸水し始めた。慌てる弟子たちが船の艫を見たら、イエス様は眠っておられた。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と問い詰める弟子たちに、主イエスが言われたのがこの言葉だ。
 現実の苦難の嵐に溺れそうになる私。その時私も、この弟子たちそっくりに叫ぶ。イエス様の嘆きは、私への語り掛けだった。主を困らせ嘆かせるのはボクなんだ。


●14(火)
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。   (ヨハ14・14)

 イエス様が捕らえられ十字架に付けられる直前、弟子たちに告別説教をされる。「天の御父と私は一つだよ」と、また「私を信じなさい」と繰り返される。そこに続けて今朝の言葉を言われたのだ。だからイエス様に願うことは、天地創造の神に願うこと。何でも叶えられるはず!
だからこそ、ランプの精に願うような心ではだめ。緊張して言葉を選ばねば。そうだ、整えられた言葉を知っている。それは「主の祈り」、ここに全て集約されている。


●15(水)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。   (エフェ1・23)

 御父は、キリストを教会の頭としてお与えになられたと告げられ、その故に「教会はキリストの体なのだ」と言われているのだ。相模原教会の群れに召された一人ひとりは、イエス様の体の一部。なんて嬉しいことと思う。それと同時に、司令塔はイエス様だから、なんて安心と思う。
 頭と肢体が一体で動けば、全体が気持ちいいよね。主に従うって、本来気分爽快なことなんだ。そんな教会大好き!


●16(木)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。     (マタ6・3)

 「施しをする」というのは、当時の人々にとって、必ずしなければならない律法の一つだった。それを守れている事を誇らないように、いや更に自分自身も気付かないほど無心で成せと言われているのだ。
 小さな奉仕でも、人からどう見られるか気になるのは、結局誇りたくて、褒められたいと思っていること。いやらしい根性だなぁ。そんな私の根性が、全部イエス様にバレている。そして「いい加減にやめなさい」と言われている。私への直球の御言葉だ。


●17(金)
今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです。   (ロマ5・9)

 「信仰義認」の中核が語られている文脈に今日の御言葉がある。イエス様が私の罪の贖いのために十字架で死なれ、それによって私は義とされたということ。
 でも思うんだ。信仰義認を理解することと、感謝して、そこに喜んで生きていることとは別問題だって。自分を見て、そう思うんだ。頭デッカチで、かえってどうしようもないほど信仰者の姿から離れている。ボクはただ「イエス様、感謝です。あなたを愛しています」と生きる者でもありたい。


●18(土)
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。     (ヘブ5・2)

 「大祭司」とは、神と人との間に立って、人間のために神に執り成しをしてくれる働き。そして、大祭司の中の大祭司が、主イエスなんだと言われている。それも人々に嘲られ、弟子にも見捨てられ、十字架で死なれた最も弱さを味わわれた方が、私の側に立つ大祭司になって下さるのだと。私は、ただこのお方に全てを打ち明ければ良い、どこまでも私の味方となって下さる方に。私の大祭司だから。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。  (ルカ13・9)

 イエス様の例え話。3年間世話を続けても、まったく実が生らないイチジクの木(それは私のこと。信仰の実りがないこと)。そのイチジクの木を見て、畑の持ち主(神のこと)が園丁(イエス様のこと)に「切り倒せ、役に立たない木なのに、土地がもったいない」と。しかし、園丁は執り成して「もう1年だけ待って下さい」と願い、今朝の言葉を続けたのだ。
 私はいつまで園丁のイエス様に執り成させ、待たせ続けるのか。いつまで忍耐させるのか。一粒でも良い、実を生らせたい。


●21(火)
二人の目が開け、イエスだと分かった。     (ルカ24・31)

 エマオ途上で二人の弟子が御復活の主に出会う。でもそれがイエス様だと気付けない。その夜、宿泊した家で食事の時、イエス様が心の目を開いてくださって、初めて「目の前におられるのは、甦らされたイエス様だったんだ」と分かったのだ。
 見ても、見えていない。ただ主が私の信仰の目を開いてくださる時、復活が分かるんだ。きっと復活だけでなく、十字架も、罪も・・・、全てイエス様が目を開いてくださることによって、だ。何から何までお世話になって、信仰生活があるんだな。

●22(水)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。   (1ヨハ4・15)

 神はご自分の霊を私たちに分け与えて下さったよ、とヨハネは言う。だから私たちの内には既に神が留まっていると言われているのだ。だから信仰者は本当は「イエス様は御子なる神だ」と分かっているのだ。
自分の知識で難しくしないで、素直になれば神が分かる。それなのに、その素直さから、大人のつもりでいる僕は、いつも迷い出してしまう。幼子に、戻りたい。


●23(木・海の日)
わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。   (1テサ5・8)

 私たちはキリストによって光の子とされているから、とパウロは語りかける。だから顔を上げ、闘いのために胸当てをして、兜だってかぶろう、と。でも「だから信仰の闘いを闘うぞ」と言うのかと思ったら、「身を慎んでいよう」だなんて。これって、急にトーンダウンしてるってことなの? いいえ、大声出す人より、慎み深い人の方が本当は強い。それが光に属する人だ。


●24(金・スポーツの日)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。   (ロマ12・21)

 「悪に負ける」ってどういうことかなと思って聖書を開いたら、悪を持って悪に返すこと、つまり復讐だった。テレビで「やられたら十倍返しだ」って大流行したけど、その生き方は間違いなんだ。ハッキリ「悪」なんだ。復讐は復讐を招くから。
「善をもって」って何かなと聖書を見たら「敵が飢えたら食べさせること」だった。この世とキリスト者の姿は、違っていて当たり前なんだ。「百倍返し」って笑っているのはテレビを見てる時だけにしようっと。


●25(土)
心を騒がせるな。神を信じなさい。          (ヨハ14・1)

 この直前にイエス様は、ペトロが御自分のことを「そんな人は知らない」と否認することを予告しておられる。つまり御自分が一番心騒がされる状況におられるのに、心配しているのは御自分のことじゃない。そうではなくて、この先で主の十字架に直面する弟子たちのことだなんて。
 どこまでも一人ひとりのことを思ってくださり、最善の言葉を届けて支えようとして下さる。そのイエス様に、私も今日を守られているんだ。だから踏み出そう。イエス様が言われた御言葉の中を。

●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。    (マコ4・8)

 イエス様が、「御言葉」という「種」を懸命に蒔いて、人々が聞いて実ることを待っておられる姿を、種を蒔く農夫の姿で例えられた。(イエス様は例え話をたくさんしてくださる。でもいつも例え話の方が、ちょっと難しかったりするんだよなぁ・・・)
今日の例えも良く読んだら「お前も実を結ぶ良い畑になれ」という教訓じゃない。御言葉を蒔く人・イエス様の忍耐深い愛の話だ。「待っているから、実れよ」と。


●28(火)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。     (ヘブ11・1)

 これは、教会学校の子供たちも暗唱する聖句。それほど大切で、これからの人生を支える御言葉なのだ。この聖句のあとに、「見えない将来も主が共におられる」と信じた父祖たちの生涯が数えられる。アベル、ノア、アブラハム、ヨセフ等々。
 見えない未来を神に預けること、この神関係こそ「信じる」ということなのだ。私も神が計画してくださる未来こそ最善だと委ねて歩もう。今日という日が、そこへと向かう一歩だと心に据えて。


●29(水)
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。   (ヤコ4・8)

 神様が近づいてくださっていないように思えていた時、私が神様の所へ行こうとしなかったからということなのかな? 私が神を避けて彷徨っていたからということ?
 だったら神に近づくってどうしたら良いのだろう。確か「神は我々と共におられる」って方だと知っている。ならばボクはただ振り返れば良いのかも。自分のことばかり見ていた視線を、反対に向ければ良いのかも。もしかしたら、それが祈る瞬間なのかも。よし祈ろう、顔を主に向けて。


●30(木)
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。  (1テサ2・12)

 神が私たちに贈り物をしようとしてくださる。それなのに欲しくない者のように、この世にどっぷり浸って自分の欲のままに生活をしている。きっと贈り物の中身を、ちゃんと知らないからかも。
 贈り物の箱には、神の国の家紋が入った指輪と、家紋が付いた羽織が入っている。その指輪をはめて羽織を着たら、神の国の正式な子供となる。それは御国の栄光の相続人になることだ。破格の贈り物なんだ。知らぬ顔でいられようか!


●31(金)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。     (1ペト1・23)

 「新たに生まれた」って、私に向けて言われている。それも、「朽ちない神の言葉によって生まれた」ということだよと。
生まれたってどういうことだろう、と思い巡らして気付いた。神様から「お前の罪は赦された」と、神と私を隔てる罪の壁を取り去る言葉を戴いた時に、私は神の子に生まれたということ。受洗の日に起こっていたこと。そんな私の栄養は、やっぱりいつも、いつまでも、神の言葉だね。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:31| 『日々の聖句』

2020年06月30日

『日々の聖句』2020年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年6月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(月)
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。   (マタ18・35)

ペトロが「人を何度赦してあげたら良いですか」と問うたことに、イエス様が「七の七十倍だ、つまり完璧にだよ」と言われ、なお加えて「もし心から赦さないなら、神もあなたを赦さない」と言われた。
 隣人を赦すかどうか、それも心から赦せるかどうかは、心の広さや大きさの話じゃない。私自身に跳ね返ることだ。必死に赦さねば。衷心から赦さねば!


●2(火)
酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。    (ロマ13・13〜14)

 酒におぼれて酩酊する姿と、色におぼれた淫乱と、人と争う姿やねたむ姿が、並列して挙げられている。恥ずかしい姿と、人と争う姿は同じだと言われている。そういう姿を全て脱ぎ捨ててからじゃないと、キリストを着られないのだとも。
争う者のままで、上にキリストを着る〈着ぐるみ信仰生活〉は、すぐバレる。先ず脱ぎ捨てねば。今日は信仰生活の衣替えの日だ。肉の自分を、断捨離だ。


●3(水)
取りなさい。これはわたしの体である。      (マコ14・22)

 最後の晩餐で、主イエスが弟子たちに言われた言葉。私たちも主日の聖餐式のたびに、この言葉を聞いて来た。「このパンは、あなたのために十字架で裂かれた私の肉だ。取って食べよ。主の死は自分のためだったと、信じて味わえ」と。
 相模原教会では、主の体を戴く時にひざまずく。それ以外に相応しい姿勢があるだろうか。自分が主を十字架に釘付けにした張本人なのに、恵みを受け取れるのだから。ひざまずいて差し出す手に、圧倒的恵みが手渡される。救いの印だ。


●4(木)
しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。」    (使10・14)

 ペトロが忘我の中で夢を見る。律法で禁じられている「汚れた食べ物」が、天から吊るされて降りて来て、「食べよ」との御声を聞くのだ。その瞬間「とんでもない」と答えたペトロ。その汚れた物とは、異邦人のことを指している夢だった。御声に従って出かけた時、異邦人伝道が始まった。
人が、自分のこだわりを破れるのは、主の御言葉に従う時。その時に、新しい世界が開くのだ。私も「赦せ」「愛せ」との御言葉に従って、隣人との垣根を壊せ。


●5(金)
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。     (2コリ12・9)

 パウロは、主に「取り除いて欲しい」と願い続けた一つのトゲ(病か弱点か)があった。しかしその弱さを、主なる神は「そこが、私の恵みが働く場所だ。あなたの弱さに私の力は宿るのだよ」と告げられた。
 「これは私の強さだ、得意なこと」と、自分で自分を誇る場所は、傲慢が住みつく暗闇。だから弱さを大事にしよう。自分は無力だと首を垂れる場所で、主が主導権を握って働かれるのだから。


●6(土)
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。   (ヘブ13・20〜21)

 キリストこそ、神と人との間に立って執り成す弁護人・仲介者だと告げられた手紙の最後に、この言葉が来る。これは、締め括りの祈り。そうだ、祝祷だ。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。   (1ペト3・15)

 心の内にキリストを湛え、人に接する時は穏やかに信仰の喜びを話す。これが迫害の中を生きるキリスト者の姿なのだ。苦しい顔で生きるのじゃない。辛そうに生きるのじゃない。のびのび生きるんだ。
そうだ、柔和なイエス様のように! 肩から力を抜こう、眉間から皺を消そう。心を乱さず、腹にこそ力を入れて生きよう。それこそが大人の信仰者なのかも。


●9(火)
天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。    (ルカ1・30)

 天使から受胎告知を受けて、戸惑い恐れるマリア。その彼女に向けて、天使が「恐れないでいいよ。これは恵みなんだよ。それも神様からのね」と告げたのだ。
 神様からの恵みでも、それが自分で願うものでない場合がある。でも「神から」であるなら、人間の想像を超えた奇跡の恵みとなるのだ。マリアは救い主を産むことになるのだから。神の恵みって、委ねて受け取るものなんだな。蓋を開けて確認してから受け取るものじゃないのですね。


●10(水)
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。   (ルカ2・30)

 幼子のイエス様が、両親に抱かれて神殿に連れて来られた。その幼子を見たシメオンが、喜びに溢れてこの言葉を言った。一目見ただけで救い主だと悟ったのだ。
 イエス様を一目見ただけで悟れる人もいる。イエス様の言葉を百千万聞いても悟れないボクがいる。なぜシメオンのように生きられないのだろう。なぜ彼のように喜びに満たされないんだろ。きっと、自分が思い描く救い主像に固執してるから。自分の内側の声が、イエス様の言葉をかき消すから。聖霊よ、私を鎮めてください。


●11(木)
正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。   (1ヨハ3・10)

 この直前に、驚く言葉が記されている「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」と。そこに直結して今日の御言葉があるのだ。
 「神に属していない」と言われているのは「神の子じゃない、悪魔の子だ」と告げられているということなんだ。恐い! そうだ、恐いと思うままに「正しい生活をしなきゃ、隣人を愛さなきゃ」と心して生きねばならないんだ。中途半端は無い!


●12(金)
「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。   (使10・4)

 異邦人の百人隊長コルネリウスに、神の使いが呼びかけた。そのとき彼は恐くなるけど、逃げ出したり、呼び掛けを空耳かと疑ったりせずに、応答したのだ。それは「主よ、私に何か御用ですか。私に何をさせたいのですか。しもべは聞きます」との応答だった。そこに、ペトロとの出会いが起こり、異邦人伝道の扉が開いたのだ。
 私も、御言葉を聞いた時「主よ、このお言葉は何ですか」と応答したい。そこに神の業が開始されるのだから。


●13(土)
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。   (1コリ1・10)
   

 コリントで「自分が正しい」と主張し合って争っていた。そこで、教会が倒れかけた。
 今、これを書いている時、新型コロナウイルス感染症との闘いの真只中にある。マスコミから情報が溢れて来る中、皆の思いは揺らされている。しかし主よ、どうか心を一つにして、固く結びついて、この困難を乗り越えて行けますように。これを読む時は、光が見えていますように。


●14(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。   (1コリ10・24)

 自分がしたいと思うことは何でもすることが許されている、と言われる。でもその全てが益になるわけじゃないんだよとも。ではどうすれば良いのか、それが今朝の御言葉なのだ。他人がして欲しいと思うことを追い求めよ、隣人を愛することだと。
 「ああして欲しいのに、これが欲しいのに」と、心を自分の内側にばかり向けていたから、いつも不平不満を抱えていたのかも。でも外に向けてみよう。隣人に向けてみよう。今日がその始まりの日にしよう。


●16(火)
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。   (1ペト2・5)

 主イエスは、人々からは見捨てられたけれど、御父にとって尊い生きた石なのだと言われたことに続けて、「あなたがた自身も」と告げられていたのだ。あなたも神の目には、神の家を建てるかなめ石なんだよと言われているんだ。
 「キリストに倣って一歩だけ」と踏み出せたら、そこは神が崇められる神殿となるんだ。私の小さな信仰の小さな一歩でも神の家を建てる土台石になる、感謝。


●17(水)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。   (1ヨハ4・4)

 「世にいる者」とは、人を惑わす偽預言者。彼らは「神に頼るよりも自分が大事、皆もそうやっているよ」と惑わす者たち。一方「あなたがたの内におられる方」とは神の霊だ。「キリストはあなたのためにこの世に来て下さった」と告げる霊だ。
 「世の誘惑に勝たなきゃ、だから強い信仰でいなきゃ」と力んで来た。でも、内にいて下さる聖霊に目を向ければ良いんだ。「私を助けて」と、頼れば良いんだ。なんだか、フッと肩の力が抜けた。


●18(木)
人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。      (ヤコ1・14)

 誘惑は外から来るのではない。ましてや、神が人を誘惑されるなど言うべからずと告げられている。悪への誘惑は、自分の中から始まるのだ、と。
 エッと思った。今まで「誘惑から守って」とか「誘惑に陥らせないで」とか祈っていたから、自分の外から誘惑されると思っていたから。アッと思った。悪の病巣は、ボクの中に巣くっている欲望だと知ったから。今日から祈りを変えよう、「一切の欲望を捨てて、御心のままを生きさせて」と。


●19(金)
誇る者は主を誇れ    (1コリ1・31)

 非常に端的に言い切られている。自分を誇るな、一切誇るな、神があなたの主(主人)だから、あなたを贖う救い主なのだから、ということだ。
 「勿論その通りだ」と思っている、思っているはずだった。でもふと思う、「それなのにどうして自分の考えだけで生きようとするのか。祈ることが少ないのか。御言葉をおろそかにするのか」と。そして気付いた「私は偽善者」と。「私を赦して救って下さい」と悔いることから始めよう。それが、主を誇ることに至る道に繋がるから。


●20(土)
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない。  (1テモ6・7)

 信仰を持って生きることは、豊かになるためじゃない、と告げられる。なぜなら裸で生まれ、一文無しで天に帰るのだから、地上の財産が何になるのかということだ。
 この世で財を持つことを喜ぶ心と、信仰者の歩み(天に宝を積むことを喜ぶ心)とは、同居しないんだ。両方を丁度よくということは無いらしい。「じゃボクは、どっちかな? 本心はどっちだろう」・・・なんて迷っていること自体、マズイよね。


●21(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。       (コロ2・6)

 主イエスに救われた喜びの中で「キリストに結ばれて」という歩き方に、変われるよね、変わりなさい、と言われている。
 この世の歩みと歩調を合わせていた頃の生き方から、離れなさいと言われている。相変わらず他者を傷つけ、神様を第一にしない生き方じゃ、ダメなんだ。古里の教会の兄弟姉妹に久しぶりにあったら、「あれぇ、あっちゃん変わった?」と、信仰において言われたいな。

●23(火)
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。      (ヘブ12・4)

 外からも内からも試練を前にしていた信仰者たち。その中で本当の試練は、罪との戦いだと告げられる。でも不安を抱えないで良い。その試練は「父が子を鍛えるためという目的に沿っているもの。だから雄々しく進め」と諭されていたのだ。
 神の愛は、過保護でも放任主義でもない。私が信仰者として自立できるようにと、真剣な父のお心なんだ。私の真の益のために、誰よりも一番真剣なのは、御父なる神なのだ。


●24(水)
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。   (2コリ12・9)

 パウロが主から「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられたことを告白した文脈に、今朝の言葉もある。
 キリストの大いなる力が、私の中にスッポリ入る場所がある。それは自分で整えた応接間じゃなくて、何も出来なくて打ちひしがれた場所。それってどこ? それは病と無力さを味わう時「主よ、もうあなたに全てお任せします」と祈る場所かも。


●25(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。    (1コリ9・23)
 

 「どんなことでもします」とは、律法厳守の人には自分もそのようになり、異邦人には自分も異邦人のように、弱い人には弱い人のようになること。それは少しでも、その一人を得るためとパウロは言う。そうしたら、福音に共に与れるからと。
 救いの喜びは、自分一人で喜んでちゃダメなんだ。共に喜び合う人を得ないと未完成品で喜び半分。隣人に伝えなきゃ。


●26(金)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。   (ヨハ20・27)

 復活を信じられない弟子のトマス。その彼に主が現れて「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と十字架の聖痕を差し出された。そして「信じる者になれよ」と招かれたのだ。自分のこだわりと常識に捕らわれて意固地になっていたトマスの頑なな心の扉を開けたのは、イエス様の声。それも優しい招きの言葉だったのだ。
人間の知識では理解しようもない「復活」を、信じる心へと緩めるのも、主ご自身の御声。そうだ! 私もその招きを受けていた。「信じたい」と思ったその日に。


●27(土)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。         (マコ16・7)

 主が復活された知らせを、天使から聞いたマリアたち。その時ペトロたちに「主はガリラヤで待っておられる」と言付かった。
 ガリラヤ・・・それはイエス様と出会った場所。「この方こそ、ローマから解放してくれる救世主」と期待して旅を始めた場所。でも一切が消えた。そのゼロ地点こそ、主の計画に従い直せる場所。そこから再出発するために、ガリラヤで会うのだ。私のガリラヤは、朝ごとの祈りの場。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
この子は、・・・反対を受けるしるしとして定められています。   (ルカ2・34)

 幼子イエスを神殿に連れて来たマリアに、シメオンが告げた言葉だ。「この子は、人々から憎まれ嘲られて、ついには死なれる道を歩む。それが神の御計画だよ」と。それを聞いた母マリアは、心を痛めただろう。辛かっただろう。
 イエス様は、御父の御計画によって降誕され、地上で苦難を舐められ、人々に見捨てられ、ついに十字架で死なれる。そんなに辛い定めが、人の救いのため。いや私のため。私こそ心を痛めるべきなのだ。

●30(火)
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。   (ヨハ21・22)

 ご復活の主が、ペトロに「あなたは私に従え」とコンコンと諭される。それでイエス様と自分との深い関りを理解したはずなのに、ふと横を見て他の弟子のことが気になった。そして「この人はどうなのですか」と愚かにも聞いたペトロに、ガツンと言われたのが今日の御言葉。
 なぜ人のことが気になるんだろう。いつも人と比べて生きているから? 批判したり、妬んだり。でも主は言われる「私とあなたの関係で充分だろ」と。あ、然りだ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:12| 『日々の聖句』