2021年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2021年06月30日

『日々の聖句』2021年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年6月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。   (ミカ7・19)

 人々の神への背きは極限に達し、神の怒りを背負った。しかしその人々に、主は新しい約束を語られる。それが、今日の御言葉だ。
 赦すということは、神ご自身が耐えられるということなんだ。人間の罪咎なのに、それをご自分で処分されるということ。そして、それをもう思い出さないように海の底に沈めてしまうこと。赦しは、神が苦しむことなんだ。そしてそれが愛だったんだ。ボクも、赦された罪人。それは愛されているということなんだ。


●2(水)
主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命である。   (申30・20)

 モーセが、主がご自分の民に結ばせた契約を、再び語り直した。「もしかしたら、これが全契約の中心かも」と思った。この一点に、生活を整えればいいんだ。この一点で良いのに、でも人間は聞き分けがないんだよなぁ・・・。
でも他人ごとじゃない! 私こそ、この一つのことが出来なくて、神関係にも、隣人関係でも迷子になって来たのだから。でも帰る道は分かっている、そうさ、知っているんだ。そう思えた時、もう御声を聞き始めているのかも。


●3(木)
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。   (ゼカ9・9)

 捕囚の民に開放の時を伝えるゼカリヤ。でもこの御言葉は、代々の教会で棕櫚の主日(受難週に入る日曜日)に、イエス様がエルサレム入城をされる場面を語る時に取り上げられて来た箇所だ。人々がイエス様を、歓声を上げて「王が来られる」と出迎えるのだ。
然り! 捕囚の民に告げられた神の救いの計画、解放の計画は、御子イエス様によって実現する。神の言葉は、真実な約束だから。私も御言葉を聞いたなら、そこですでに未来が見えるということ。それを信じるんだ!


●4(金)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」    (ヨナ4・11)

 背きの都ニネベに、ヨナが主の言葉を伝える「あと四十日で都は滅びる」と。でも、神は裁きを思いとどまられたのだ。大いに不満のヨナ。その彼に主が語られたのがこの御言葉だ。
 ヨナは知らなかった、神様は罪人をさえ愛されるということを。私も、この神の愛の中に入れられている。ボクも罪人だから。


●5(土)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てる。   (イザ59・1〜2)

 預言者イザヤが、背きの民に伝える。神様の助けの手が短いから、あなた方に救いが届かないんじゃない。神の耳が遠いから、あなたがたの願い求めが聞いてもらえないんじゃない。あなた自身の罪が、神とお前とのパイプを詰まらせているからだ、と。
 ドキッとした。私も「神様はなぜボクを助けて下さらないのか」と、不平を平気で祈っていたから。「罪を赦して」とまず祈るべきなのに。


●6(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。   (箴3・5〜6)

 「あ、そうだったのか!」と気付いた。今までは単に「神様に頼ればいい」と学んで、でも結局頼らないで来た。その元凶が分かったから。それは、神様にも頼るけど、自分にも頼っていたから。今日の御言葉は、そこを鋭く指摘して来る、「自分の分別には頼らず」と。
 一心に御言葉を聞いて、それに賭ける。自己中心の元凶である「自分の分別」を捨て、御言葉を薄めず削らず、そのままを生きよう。神信頼は、人生を御言葉に賭けることなり。


●8(火)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。       (ハバ2・3)

 都エルサレムの陥落を目前にする時代。神殿で仕えていた預言者ハバククに主が対話される。嘆くハバククに、義しい裁きと、救いの希望が告げられているのだ。
 「遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」、ああ、この御言葉が二千七百年もの時を超えて、そのまま私の心に届く。私の現実の中に届いて来る。そしてこの御言葉が、私の心にも小さな光を灯してくれた。主よ、今朝いただいた御言葉を握って、あなたの計画を待ちます。


●9(水)
わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。   (エズ8・22)

 捕囚からエルサレムに帰還した民に、主の律法を諭したのが祭司エズラだ。これはそのエズラの言葉。一読して、エッと思った。敵襲から身を守る術を、放棄しているから・・・!?
 続くカ所を読んで、なるほどと納得した。「神を尋ね求める者には、恵みの御手がある」とあったから。でも、実際にこれを求める者はいない。私たちの現実の戦いは、兵を整えないといけないと思うから。その常識を手放すまでは、神様からの恵みは遠いのかも。


●10(木)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。    (ゼカ8・17)

 都エルサレムに帰還した民が、喜びつつ神殿再建にとりかかる。その人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えたのだ。それは、バビロン捕囚となった先祖の轍を踏まないための道標だった。
 神様の導きとは、とても具体的なんだ。生活の中にある事柄なんだ。それは、一切の咎と過ちは生活の中に起こるから。それも私の中に芽生えるから。その悪の芽を、神は「憎む」と言われるのだ。


●11(金)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」   (ヨナ4・4)

 主の赦しが悪の都ニネベに注がれた。それを知った預言者ヨナが、「私は、主の裁きを伝えたのに、これでは面目が立たない」と怒った。その彼に主が言われたのが、この言葉だ。「罪人を赦したのが、お前には不服なのか」と。
 「二言などない神なのに、罪人への義しい決定を覆されるなんて、おかしい。ヨナが怒るのも無理はない」と考えていて、ハッとした。「ニネベの人々よりも、私こそ罪人だ」と気付いたから。裁きを翻した主の恵みは、罪人にだけ分かる恵み。その恵みに、私も生きている。


●12(土)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。   (箴1・23)

 今朝の御言葉の直前にガツンと、「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着を持つのか」と叱られている。
でも、叱って終わるんじゃない。「立ち帰れ」と言う。聖書って、最初から最後までこのトーンで貫かれているかも。そう気付いたら嬉しくなった。愚かで浅はかなことをしない者はいない、それは私自身だって分かっている。でも神様はそんな私が、ご自分に立ち帰ることをこそ喜んで下さるのだから。天の真の父として。


●13(日)


主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●14(月)
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と言った。     (創11・4)

 人々は、バベルの塔を作り始める。その目的は「天まで届いて、有名になりたい」ということ。でも「天まで届く」と言うのは、神の座に自分が届きたいということ。有名になるというのは、支配者になりたいということ。結局どちらも、自分が神になるという野望なんだ。
 ふと「テッペン取ってやる」という巷の言葉が重なっているように思えて、恐くなった。その言葉を、賞賛する世が、見当違いのことを望んでいるように見えたから。バベルの塔と同じ崩壊の道を、進んでいるように思えたから。


●15(火)
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教えなさい。    (申6・6〜7)

 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛せよ」との主の言葉を、心に留めよと言われている。しかもそれだけではない。この命令は、それを子供たちに教えよということだ。
 信じる生活というのは、自分の個人的なことだと考えがち。家族は別で良いって思いがどこかにある。よくて「家族伝道しなきゃ」ぐらい。でも神の思いは「自分の信仰」と、「家族に伝えること」は同じ重さなんだ。子供に教えることは必須なんだ。子供も神の宝だから。


●16(水)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。   (イザ6・5)

 主なる神からイザヤに、召命の声が掛けられた。その瞬間、彼はひれ伏したのだ。神の前に立つ自分は、罪人でしかないことに気付いていたから。その時に言った言葉が、これだ。
「でも、どうして?」と思う。なぜ「汚れた唇」と言ったのだろう。「汚れた心」でもなく「汚れた者」でもない。
 もしかしたら、罪は口から形となって出るものだからかも。口が、罪が溢れ出る扉だからかも。そのことって、僕にはすごくよく分かる。私も「汚れた唇の者」だと知っているから。


●17(木)
お前(ダビデ)はわたし(サウル)より正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。   (サム上24・18)

 ダビデを妬んで、命さえ狙ったサウル王。でもダビデは、逆襲するチャンスがあったのに、一切、手を出さなかった。それを後に知ったサウルが言った言葉が、コレだ。
 「正しくない」というのは、悪意を持つこと。「正しい」というのは、赦すこと、善意をもって接すること。それをサウルは、人生の最終章で悟ったのだ。ボクは、今、御言葉を聞いて悟りたい。悟って、そのように生きてゆきたい。


●18(金)
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。   (レビ19・16)

 主がモーセに、「聖なる民となるように」と律法を与える。その中の一つがこれだ。人と人との間におけるあらゆることが、ここに取り上げられていく。
 「中傷と偽証」が隣人との間を裂くと、忠告されている。ふと思った、「人と人との間に壁を作ったり、不和を生み出したりする物は、口から出て来るのか」と。かけがえのない友人に対してさえ、この過ちを犯してしまう。御言葉に従えないくらいなら、むしろ貝になりたい。この思いを、忘れないで今日を過ごそう。


●19(土)

主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。    (イザ66・2)

 神様に顧みていただけるのは「御言葉を守る人」とか「主に従う人」とか「善意の行いをする人」とかじゃないんだ。主ご自身は、そんなこと一言も言っておられない。
 むしろ「ああ私は、御心の通りに歩めない」と悲しむ人。「私はあの人を傷つけ、この人のつまずきとなった」と苦しむ人。「御言葉こそ真実。私の罪に、迫って来る」とおののき、ひれ伏す者。ふと思った、「神様に顔を上げられない時、慈愛の眼差しは注がれているのかも」と。


●20(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●21(月)
あなたの道、あなたの仕業が、これらのことをもたらす。   (エレ4・18)

「エ、なんだか怖い感じ・・・」と思って聖書を開いたら、やっぱり、自分の犯した悪によって、報いとして受ける災いのことだった。
 でも、先を読んで気付いた。神は怒って、裁判官のように冷たく言い放っているんじゃない。主は、嘆き悲しんでおられる。私の犯した仕業、道を外れて歩んだ日々について、お心が張り裂けそうになっておられるのは神ご自身なんだ。「ああなぜ、ダメだと言った道を行き、罪を犯したのか」と。深いため息とともに。
悲しませて、主よ、本当に御免なさい。


●22(火)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。   (ヨナ1・14)

ヨナが言った言葉だと思ったら、違った! 
神の派遣命令から背走したヨナを乗せた船が、嵐に遭う。ヨナが「私のせいで嵐に遭っている。私を海に放り込め」と告白する。躊躇する乗組員。一人の命を海に放り込むのだから。でも、万策尽きた後に、最後に決断したのだ。その時の彼らの言葉が、今朝の御言葉だった。
 異邦人が、主なる神に委ねた。それも熟達した信仰者のように。クリスチャンだけが神を知り、信じている人だと思っていたけど、見当違いで、不遜だったかも。傲慢だったかも。


●23(水)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。    (サム上2・3)

 これは、ハンナが、念願の息子(サムエル)が与えられ、喜びに溢れて神賛美する歌の一節だ。喜びの絶頂にある歌だ。それなのに何故だろう、手放しに喜ぶどころか、むしろ自分への戒めの言葉のように聞こえる。
 もしかしたら・・・人は喜びの絶頂で驕り高ぶる罪の穴に落ちると知っているからかも。だから気を引き締めて、なお主を仰いで自分を律しているんだ。信仰の母ハンナなんだ。戒めの言葉は、他人にではなくて、自分に向ける時に、最大の力を発揮するのですね。


●24(木)
主の山に、備えあり   (創22・14)

 アブラハムの息子・イサク奉献の場面だ。アブラハムは、神様から一人息子を焼き尽くす捧げ物にするように言われた時、どんな気持ちだったんだろう。やっと与えられた愛息子なのに、「主よ何故ですか」と悶々としたんじゃないんだろうか。それでも、その解決のない心を抱えて、主の言葉に従った彼。小刀をイサクに振り上げた瞬間、主が用意した捧げ物の雄羊を見つけたのだ。その場面の御言葉だ。
 結果を知っているから、安心して読める。でも渦中にいたら、ボクはどう生きるんだろう。悶々としつつ、一歩を踏み出せるんだろうか。


●25(金)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。   (コヘ3・20)

 地上の限られた命を生きるものとしての人間の虚しさを、突き詰めて示される。それは、塵から成って、塵に返る存在だということだ。
 でもコヘレトの言葉は、そこで止まらない。全体を通して告げられていることは、「今という時を喜んで生きよ」ということ。地位や財産や名誉などはかなく消えるのだから、今日の一日を、喜んで食べて飲めと言うのだ。
 今朝、主が「今日を喜んで過ごしたらいいよ」言って下さると受け取ったら、清々しい朝になった。他のものへの執着が消えたから。


●26(土)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。  (エゼ34・16)

 バビロン捕囚の人々の中で、預言者エゼキエルが主の言葉を伝えた。それは神様からの救出宣言。それも、ご自分が捜し出して、見つけ出して、抱きかかえて家に帰るという宣言。
 この神様の姿は、イエス様のあの言葉・・・「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ一〇章)と重なると感じた。羊飼いでいて下さる父なる神の姿は、イエス様に実現したのだ。そう思えたら、旧約の神の言葉は、実現する約束だと思えた。旧・新約どちらも読むことが大事なんだよね。


●27(日)

主日礼拝説教

         成智圭神学生
(東京神学大学学部4年)



●28(月)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。   (ゼカ2・17)

 バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが、主からの希望の言葉を告げた。それは、あなた方のために「主が立ち上がられる」という約束だ。それはつまり主である神が、座るべき天の玉座を、降りられるということ。それも私どもの傍に来て下さるために、ということ。一方的で、破格の恵みだ。それを、神に背いた民が聞いたのだ。神の救いの恵みは、本当は畏れ多くて、申し訳ないほどのこと。あ、私もその恵みを受けていた。あの受洗の日に。


●29(火)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。     (ホセ6・3)

 北イスラエル滅亡の少し前、主の言葉を語り続けたホセア。「今朝の言葉は、信頼に満ちた信仰告白だなぁ」と思っていたら、全然違った。なぜなら、本来ホセア書は、主を捨てる民の背きの姿が縷々記されている書だから。
 聖書を開いて、すぐに分かった。今朝の言葉は、人の口先だけにある言葉だったから。上辺だけで礼拝する人々の言葉だったから。
 ギクッとした。同時に「形だけの礼拝でなく、心から主を愛する者でいたい」と強く思った。


●30(水)
わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。   (哀3・40)

 背信のイスラエルの民の中にあって、詩人が歌う。「主よ、あなたに逆らって来たのは、私たち自身です」と。しかしその自分の姿を見詰めることが出来て、また受け止めることが出来たからこそ、立ち戻って行く道が分かるのだ。それは、主の元に帰るということ。その道は、一八〇度向きを変えるUターンなんだ。
 ああ、それが「悔い改める」ということ。神の御許へのUターンなんだ。それも安心して辿って良い道。それは、主ご自身が喜ばれるUターンなんだから、そこに聖霊の助けもあるよ。

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2021年05月31日

『日々の聖句』2021年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年5月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。   (エレ24・7)

 バビロン捕囚の最中。ユダの人々のことを主なる神が心に留めて下さり、預言者エレミヤに伝えた言葉がこれだ。人々が立ち帰るための「心」も彼らに与えるから、と。そして彼らを都エルサレムに連れて帰るのだよ、と。
 背きの民なのに、その人々を諦めないのは神ご自身。神様は、罪人を忍耐されるんだ。諦めきれず、なお救いの御手を伸ばされるんだ。
 もしかしたら、自分に罪人だと烙印を押して罪人に留まってしまうのは私自身かも。主の救いのご熱心にこそ、いざ!飛び込め。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月・憲法記念日)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。      (代上29・14)

 ダビデ王がエルサレム神殿建築のために、全会衆に寄進を求め、多くの寄贈品が集められた。それを目の前にして、彼は主に祈ったのだ「私はいただきものを、あなたに差し出すにすぎません」と。
 ここに献げ物をする際の心がある。「私の物を神様に差し上げる」ということじゃない。「神様からの預かりものをお返しする」のだ。神の物を神に、と喜んで明け渡す。そんな心の表れにしたいな、ボクの献金も!


●4(火・みどりの日)
人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。   (イザ2・22)

 バビロン捕囚が迫って来る時、主が預言者イザヤに見せた幻が記される。
 右往左往して、それでも主に立ち帰るよりも隣国と同盟を結んで、人間の力で切り抜けようとする人々。亡国のピンチなのに、それでも主の言葉に頼らず自分で計画を思い計る。
「今日の御言葉を、ちゃんと聞けばいいのに!これは、あの人に聞かせたい御言葉だな」と思って、我に返った。これはボクに向けて語られている主の言葉だと、気付いたから。


●5(水・こどもの日)
わが神、主よ・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。   (王上3・7)

 ソロモンが、主によって王に立てられる。その彼に、主なる神が枕元に立って「何事でも願うがよい」と語りかけた。それに応えたソロモンの言葉だ。それは、「王として下さって感謝です」というのじゃない。また単なる謙遜の言葉でもない。彼は自分を知っているのだ。それは、主の前に立つ者だけが分かること。
 ボクも十字架の前に立つ時に、本当の姿を知る。「私は取るに足りない者。それどころか罪人だ」と。さらに「それでも愛された」とも。


●6(木)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。   (サム上2・7)

 長い間、子どもが生まれずに悲しみの中にあったハンナが、主によって男の子を与えられた。その名はサムエル。その子を主に委ねるために神殿に上り礼拝する中で祈った言葉だ。貧しく過ごした日々を知っているハンナ。しかし満たされた日々も与えられた母ハンナ。全てを主の御手の中に置いて見たら、そこにこの「ハンナの賛歌」が生まれたんだ。
 委ね切る信仰というのは、そこに賛美が生まれるんだ。「委ねてます」と言いながら、しんどそうな顔をしてるのは、何かが違うのかも。


●7(金)
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。      (イザ43・19)

 主は人々に、「捕囚後」に目を向けさせる。そこに起ころうとしている恵みの御業へと心を向けさせる。それは、人間が考えることを超えて、新しいこと。それも、苦難のただ中で「もう芽生えている」と告げられているのだ。
 神の計画が、私にも常にある。それは、私の願うことをも超えた、新しいこと。そして、それはもう始まっているんだ。ああ、今日はなんて良い日なんだろう。その一歩としての一日を歩いていると知ったのだから。


●8(土)
主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた。      (申9・24)

 モーセが頑なな民に向かって嘆きの言葉を吐く。モーセ不在の時に、彼らが小牛の鋳造を作って拝んでいたからだ。彼の嘆きの原因はたった一つ、「神に背を向け続けた」ということなんだ。思い起こしても今回だけじゃない。主の助けでエジプトから逃げ出せた直後から、ずっとだった。
 モーセの嘆きは、主ご自身の嘆き。「お前はどうして私に背き続けるのか。お前を愛して守るのは、この私なのに」と。それは切なく泣かれる神の御声に聞こえた。


●9(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●10(月)
わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。  (エレ32・40)

 バビロン捕囚後の幻を、主がエレミヤを通して約束される。それは、都エルサレムへの帰還。そしてそこで一番大事な賜物について告げられたのだ。それが今日の一言、「あなた方の心を守って、神に従い、神から離れないようにしてあげるから」ということだった。
 それにしても「あなたの心を私から離れないようにするから」って、なんて熱いラブコールなんだろう。その吐息さえ聞こえて来そうだ。そうだ! 神は、生きた愛の言葉を語られる方。そんな方を、悲しませてなるまいゾ。


●11(火)
エジプト人は言った。「・・・主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」  (出14・25)

 エジプト軍が、逃げるイスラエルの民を葦の海の前で追い詰めた。しかし神が海を分けて、乾いた地の上を民に渡らせる。それを追いかけたエジプト人が、主によってかき乱されたのだ。それに直面したエジプト人が、神など知らなかった民なのに、「主が戦っておられる」と震えながら告白したのだ。
 「神などいない」という人々が、神を知る瞬間がある。それは、私が主に支えられて生きるのを見る時。そうか、伝道は、私の生き様にかかっているんだ。大伝道集会じゃないんだ。


●12(水)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。    (箴2・6)

 知識を取捨選択して用いるための「知恵」は、神様からいただくもの。だから、頭を低くして「主よ、御心でしたら与えて下さい」と受け取らなきゃ。
 また、あらゆるこの世の「知識」を得るのも、主なる神から。それも口伝えに与えて下さるというのだ。その方法は、真似をするということかも。主がまず御言葉を通して「人はこう生きるべし」と言われる。するとそのままそっくりに「人はこう生きるべし」とね。何だか師匠と弟子の関係みたい。然り、愛弟子なり。


●13(木)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみなさい。   (ヨシュ1・8)

 モーセの後継者として、主がヨシュアを立てられる。その召命の時、主が彼に語られた言葉がこれだ。神と人との間の大切な約束である「律法」に生きるようにとのこと。幸せへの羅針盤は、そこに記された言葉の一つひとつだからだ。その導かれる先には、神の祝福が待っているんだ。
 その律法は、ボクにとっての羅針盤でもあるよね。だからボクも御言葉を口ずさもう。一歩ずつの歩みを、そこに立たせるためにも。その行き着く先は、主の祝福なんだもん。


●14(金)
富を築く力をあなたに与えられたのは主である。(申8・18)

 モーセが民に、「エジプトの国から救い出されたのも、食べて満足できるようにしてもらえたのも、立派な家を得たのも、全て神のお陰だ」、と告げる。続けて、神様が先に約束を果たされたのだから、今度はあなたがたが、その神に従うという約束を守る番だよ、とも。
 命も衣食住も、まるごと神様のお世話の中で生きていいんだ。でも、ちゃんとお世話して下さる方が誰であるか、知っていることが大事。それなのに民は、主から離れるんだ。どうしようもなく恩知らずだなと思って、ハッとした。自分自身のことだと気付いたから。


●15(土)
わたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。 (出9・27)

 「私が間違っていて、神が正しい」と言えたこの人は、信仰の民じゃなかった。彼は異邦人で、加えて「自分こそが神だ、他に神はいない」と言っていたエジプト王・ファラオだったのだ。
 だからこそ驚いてしまった。一番、主なる神を信じることから遠いと思っていた人からこの言葉が出たからだ。たとえ一時的であったとしても、それはスゴイことだと思った。そして、それは私の友人にも起こって欲しいこととも思った。だってこの一言から、神との関りが、神様から始められているのだから。


●16(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●17(月)
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。    (王上17・16)

 預言者エリヤが、主の言われた通りに、干ばつの日にやもめの家に入って食事を乞うた。家に残った一握りの小麦粉で、パンを求めたのだ。その小麦を使えば、壺の中は空っぽになるのに、やもめはエリヤの求めに従う。それはエリヤが、「主なる神が粉は尽きない」と約束されたと伝えた言葉を信じたからだ。
「信じる」って「言葉に命を委ねて従う」ことなんだ。主の言葉は事実となるーそこに生きる軸を置くこと。心持ちの話じゃないんだ。


●18(火)
助産婦たちは神を畏れていた   (出1・21)

 エジプト王のファラオが、「イスラエル人の生まれた男子は、皆殺しにするように」との命令を出した。逆らうことは、死を意味する。しかし神の民であった助産婦は、「私が神だ」というファラオに言葉よりも、主に従った。その理由が、「神を畏れていた」からだ。
 ボクにとっても主を畏れ敬うことは、この世の権威に倣わず、主の言葉に倣って生きること。でも、この世的な慣習や、世間の目を神としていないだろうか。何を畏れるべきか、もう一度自分に問わねば。それも、あらゆる生活の場面で。世間の常識を神とするな!


●19(水)
苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。   (詩4・2)

 ダビデの詩編として聞くように勧められている。それは、彼が抱えた苦難を想うことが出来るから。愛息子による謀反で命を狙われた苦難だ。その時でもダビデは軍隊を整えたのでもなく、対抗策を考えたのでもない。何よりも主にすがったのだ。面前の苦難においてさえ、主が最善をなさると信じて生きたから。
 私は苦難を前に、すぐに武器を用意しようとする。言葉の槍、論破の知識を準備する。それって情けない信仰だ。苦難の日に、自分の信仰が丸裸にされるような気がした。


●20(木)
「律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」 (申32・46-〜47)

 これはモーセの最後の勧告。つまり遺言。迫力をもって伝えたのは、やっぱり「律法の言葉(神様との約束の言葉)を、しっかり聞いて、そこに生きよ」ということ。「それだけ守ったら必ず幸せに過ごせるから」ということ。これまでも口を酸っぱくして言って来たことだ。
 私もしっかり聞こう。モーセの枕辺に正座するようにして、この大切な遺言を。私も、命を支える御言葉に生きる者となるために。


●21(金)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。   (箴1・15)

 「彼ら」って誰のことかな? 聖書を開いてみた時、ドキッとした。厳しい言葉で「ならず者が誘惑する」と記されていたから。その誘惑も具体的に「一緒に来い・・・我々と運命を共にせよ」と記されていたから。身近に「彼ら」は居るんだと気付かされたから。
 つまり「彼らの道」とは、生活の中で当たり前のように思って来た人間的慣習ことであり、そこに神様がいない場所。そんな場所に、片足さえ突っ込むなと言われているんだ。巻き込まれて、命に関わる大怪我をするから。


●22(土)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。   (創28・16)

 兄を騙して長子の権を手に入れたヤコブ。そのゆえに兄の怒りを知り、命を狙われていると思って逃げ出したヤコブ。逃亡中に、荒野で仮寝する彼の傍に、主が立たれた。その眠りから覚めたヤコブが言った言葉がこれだ。
 「この場所に」という一言が、「自分身勝手な罪で窮地に陥ったヤコブなのに、その傍にも主が立って下さる。この窮地の場所が、同時に主がいて下さる場所なんだ」と思えたら、そこで慰められた。自分のせいで窮地を何度も経験するボクだから。


●23(日・聖霊降臨祭 ペンテコステ)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。   (エゼ33・11)

 捕囚の人々の中にいた預言者エゼキエル。彼が、神の言葉を受け取って人々に伝えた。それも神に背いた人々に伝えた。悪人と烙印を押された人々に、だ。
 それは神様の「お前が生きることを喜ぶよ。立ち帰っておくれ、私の所へ」と告げる悲痛な親の声のように聞こえる。まるでボクへの声に聞こえる。それは同時に「愛してる」って叫ぶ御声にも聞こえた。


●25(火)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。        (創17・17)

 アブラハムは主から「あなたの子孫は星の数ほどになる」と約束をいただいた。でもその日から二十五年が経ち百歳となっていた。その彼に「約束は本物だからね」という神に、心の中で笑ったのだ。「そんなの無理さ」と。
 彼は、神の約束と人間の常識とを天秤にかけた。そして被造物でしかない人間なのに、自分の常識の方を選んだ。これと同じことを私もしている。主よ、ただ「然り、御心のままに」といつも言える信仰を与えて下さい。


●26水)
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。         (詩27・4)

 「ああ、この詩人のように私も願って過ごしたい。この願いを第一の願いとして生きていたい」・・・そう素直に思えた。
 こういう心で過ごしたら、一日中、心を高く上げていられるだろうから。一日中、目を天の父へと向けていられるから。日がな一日、御心をたずねていられるだろうから。そんな一日は、きっと満たされているだろう、主の平安と、そして祝福に! そう素直に思えた。


●27(木)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20) 

 南ユダが敵の襲撃に遭った。恐れる人々。その時ヨシャファト王は、主に求めることを決意したのだ。その彼に主の言葉が臨んだ。
 主なる神に寄り頼むならば、「生かされる」と記されている。受け身で「生かされる」ということは彼は何もしないのかな?と思って聖書を開いたら、「主が戦う」と記されていた。
 私が今日生かされているというのも、主が戦っていて下さるからかな? きっとそうだ!滅びと死とに戦っていて下さる。今日守られていて、だから今日生かされているんだ。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。   (出16・8)

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で「食べ物が無い」と不平を言う。そこで主が、朝ごとに天からパン(マナ)を降らせ、夕ごとにうずらの肉を与えて下さった。その恵みの出来事が起こった原因が、何ということか、主に向かって述べた「不平」だったなんて。
 神様は、人間の不平に罰することで応えられなかった。なお恵みを与え続けられる。こんな不合理なことあるだろうか。そうだ、不合理をさえ飲み込まれる主。大きな愛なんだ。


●29(土)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。   (出13・3)
 
 奴隷の国、エジプトから人々は脱出できた。主の恵みの計画によってだ。神様は「その出来事を記念しなさい」と命じられる。繰り返してその恵みを思い出すために「思い起こす日を設けよ」ということなんだ。
「恵みを感謝」と思った瞬間、すぐ忘れてしまう弱いボク。恵みは、記憶し続けることと直結しているんだ。そうか!生を受けた恵みを記念する「誕生会」も大切な事だったんだな。


●30(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●31(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。     (ルツ1・9)

 ナオミは夫に先立たれ、息子たちとも死別。嫁たち二人が残ったけれど、一緒に居るより実家に帰そうと決意した。独りぼっちになるけれど、それが嫁たちにとっての最善だと決めたのだ。そして今日の一言を、別れの言葉に添えて伝えた。
 たった一つ残された命綱とも言えるような家族を手放すなんて。天涯孤独になるのに・・・。人は、ここまで人に対して優しくなれるのか。やもめのナオミが、「あなたのため」と決意したことに、優しさが具現化したのだ。
こんな人に、ボクもなりたい。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 07:35| 『日々の聖句』

2021年04月30日

『日々の聖句』2021年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年4月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。    (イザ四9・5)

 主の御用のため、困難な使命を受けた預言者イザヤ。人々からの賞賛もなく、理解さえされない働きに就いたのだ。しかしイザヤは知っていた。働きに報いるのは人間ではないことを。報いてくださるのは主だ、と。それゆえに彼は、今朝の言葉を堂々と告白したのだ「主の御目にわたしは重んじられている」と。さらに大声で言ったのだ、「わたしの神こそ、わたしの力」と。
 ボクも、主だけを見よう。そこからこそ安心して御用に就ける力も溢れて来るのだから。


●2(金)
わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。   (エレ32・39)

 この「わたしは」というのは、主なる神のこと。だから、神様ご自身が人々の心の中に、主を慕い、主の道に従う心も与えてくださるということだ。迷い道に入り込みやすい羊だから、自分のしたいことだけ勝手にする頑固な羊だから。私たちの心を柔らかにして、道を与え、心も整えてくださるというのだ。
 ああボクの神様って、なんて至れり尽くせりなんだろう。ボクは相当に幸せ者だなぁ。


●3(土)
主は地の面の全ての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。   (申14・2)

 モーセは民に「自分で自分を傷つけたりしないで」と告げる。その理由が、今朝の御言葉なのだ。つまり「神様が、誰よりもあなたのことを大切なんだと選んでくださったのだから」と。また「それほどに神様の特別な宝の一人ひとりなのだから」ということなのだ。
 私を「宝物だよ」と言ってくださるお方がおられる。私の主なる神だ。どうしてそのお方を悲しませられようか。絶対に嘆かせたくはない、絶対に失望させたくない。こんなにボクを大切にしてくださるのは、他にいないから。


●4(日・復活祭 イースター)

イースター礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
「わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」      (エレ7・23)

 神殿の前に立つエレミヤが、主の言葉を民に伝える。それは、幸いを得るために唯一の条件。たった一つの約束事。「主の道に歩むということ」、これだけで良かったのに・・・。
しかし、この呼びかけの直後に、聖書には「しかし彼らは聞き従わなかった」と記されていた。そこには「たった一つの条件だったのに、どうして」という神様の悲痛な叫びが伝わってくる。そして、私はこの「たった一つ」をどう聞くのか。改めて身を引き締めるべきだと思った。幸いから漏れ落ちないためにも。


●6(火)
彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。       (民11・17)

 モーセと共に荒野を行くイスラエルの民が、不平不満を彼一人の肩に集中させた。その重荷に「わたし一人では重すぎます」と主に訴えた時、主なる神は彼を支える七十人を立ててくださったのだ。そこにに、モーセと共に共同体を背負う同労者集団が生まれた。
 教会も同じような気がする。奉仕は一人でしちゃいけない。不満を共に負う者こそ、主に立てられた人。だからどんな奉仕も、その兄姉を祈り求めることから始めなきゃ。


●7(水)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。   (詩55・23)

ダビデの詩とされている。それも、自分の命を狙う敵に追い詰められているときに歌った詩なのだ。死が目の前に迫って来ていて、しかもその敵は以前親しく交わりを持っていた友なのだ。
身体も心も追い詰められる苦しみがある。その重荷を抱えたダビデは、その重荷を降ろすところを知るのだ。それは、主なる神の御手の中。ただ主お一人が、真の支え手なのだから。この一点で、彼は危機のただ中を進む。勝利はまだ見えなくても、前に進めるんだ。


●8(木)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。       (創39・23)

 兄たちの謀略によって、エジプトに奴隷として連れて来られたヨセフ。ファラオの宮廷侍従長の家で働くことになるが、そこでも主人の妻に言い寄られ、拒絶した途端に監獄行きに。どんどん事態は悪化するように見える。しかし不思議に、どの時も切り抜けるのだ。それを端的に告げたのが、今日の御言葉だ。
 ヨセフにはこれ以上の苦労はない人生に思えるけれど、見えない御手に支えられている。何だかそれを思ったら、「私もかな?」と思えてホッとした。見えない御手があるんだ、と。


●9(金)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。    (ゼカ1・16)

 時は、バビロン捕囚からエルサレム帰還へ移ろうとしている。そのとき主なる神が、そこでも先頭に立つと宣言してくださったのだ。一緒に帰還への道をたどってくださる。再建の歩みも御手を添えてくださるのだ。
 希望を与えるのは、主なる神。さらにその希望を実現してくださるのも主。至れり尽くせりで添い歩きしてくださる神様なんだ。
 あっ、生きる術を見つけたり! それは、このお方から離れない事。それは間違いない。


●10(土)
主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。   (士4・14)

 女預言者デボラが、イスラエルを導く士師となっていた時代のこと。九百両の戦車を率いた軍勢を目の前にして、司令官バラクに告げた言葉がこれだ。
 改めて、「勇気って、どこから出るのか」と思う。それは、勝算があるか否かかじゃない。自分の能力によるのでもない。ただ一つのことから来る。それは、主が先立ってくださっているかどうかだ。ならば勇気は祈りから来る。「私は進んで良いですか? そこへとあなたが導いておられるのですか」と問う祈りから来る。


●11(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●12(月)
あなたたちの神、主はこの土地をあなたたちに与えて、それを得させてくださった。   (申3・18)

 ついにイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って進撃しようとする直前のこと。まだ戦いが始まってもいない時に、主なる神が「勝利宣言」を、モーセを通して与えられたのだ。
 「主は、それを得させてくださった」と、未来に起こることが、まるで既に起こったことのように告げられている。それが、神がなさる約束というものなのだ。主の言葉は、必ずこの地で実現するから。ならば、御言葉に一切躊躇せず従おう。その先に、御言葉の実現を戴けるのだから。そこへと、まっしぐらだ!


●13(火)
わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。   (マラ3・20)

 「終末の日」を「審きの日」として、預言者マラキが語る。高慢な者や悪を行う者が、燃え尽くされる日となる、と。なんだか「終末」って怖いかも。でも同時に彼は告げるのだ。主なる神を畏れ敬う人には、明るい太陽が昇る日となると。親鳥の翼の下に雛が包まれるように、主に従ったゆえの傷はそこで癒されるよ、と。
アッと気付いた。「終末の日」は、「救いの日」なんだと。今日の歩みを、お前はこっち側に進む人になれと、招かれているんだ。


●14(水)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。    (ヨブ30・20)

 試練の中にあり、友人たちからも批判されるばかりのヨブが、主に向かって嘆きの声をあげた。その嘆きの中心は、自分がどんなに辛い目に遭っているかということじゃなかった。嘆きは、「神の沈黙」にあったのだ。
 どんなに苦しい日でも、天の真の父が、ちゃんと自分の苦しみを知っていてくださるって分かっていたら、耐えられもするよね。でも、ボクは知っている、この「神の沈黙」の辛さを。


●15(木)
あなたが呼べば主は答え、あなたが呼べば「わたしはここにいる」と言われる。  (イザ58・9)

 主なる神が、「ご自分に従う者の姿」を告げられた。「ああ、なんて嬉しい御言葉だろう」と思う。昨日は「神の沈黙」の厳しさを思わされたばかりだから、余計に嬉しい。
 でも「ちょっと待てよ」と思った。私はちゃんと神様を呼んでいるだろうか、と。自分一人でジタバタしているだけかも。更に悪いことに、何かあっても主を呼ばず、自分の経験に頼り、もっと悪いことに他の力を頼ろうとする。神様が最後になっている。改めて自分に言い聞かせねば「今朝の御言葉を生きよ」と。


●16(金)
あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。   (サム下7・29)

 ダビデ王が、主の前に出て祈った祈りの締めくくりの言葉だ。祝福と長寿を願いつつ、その賜り手にちゃんと顔を向けている。さらに願いのゴリ押しもしない。それは、主の計画が最善だと、委ね切れているから。
 ダビデは、主が「祝福あれ」と言われれば、祝福が生まれると信じている。なんという信仰だろう。まるで天地創造の時「光あれ」と言われて光があったことを、そのまま自分のこととして受け止めている。なんという信仰だろう。


●17(土)
長い年月、あなたは忍耐し    (ネヘ9・30)

 時は、捕囚から帰還後。ペルシャの国で仕えていたネヘミヤが、エルサレムから来た同胞が都の悲惨を嘆くのを聞いて、祈った言葉だ。この「あなたは忍耐し」とは、その人々のことだと思っていたら違っていた。聖書を開いたら、忍耐したのは神様だと知って、ビックリした。
 主の霊を送り続けたのに、耳を貸さなかった人々。しかし報いを負わせずに、なお忍耐されたのだ。それが、主の憐れみと恵みだったと記されていたのを知って、二度驚いた。憐れみと恵みって、主の忍耐のことなんだと分かったから。私の罪も、主は耐え続けていてくださる。


●18(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●19(月)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。   (詩3・4)

 息子アブサロムの反逆で、命まで狙われたダビデ王。周りからも「ダビデに神の助けなどあるものか」と嘲られる。しかし目の前にある絶体絶命を前にして、その只中で彼は、今朝の言葉を告げたのだ、主に向かって!
 心を高く上げたダビデ。万策尽きたと見えても、一策在り。それは、主を頼ること、神を信頼すること。いやそれこそが人間の万策に優るのだ。私もこの御言葉をなぞって祈ろう。そうやって今日の一日を始めよう。


●20(火)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。       (民27・17)

 老齢となったモーセが、後継者を主に願う。それは人々を愛する故。加えて、その人々がどんなに自分本位で生きてしまうかを知っている故。さらに、主なる神が相応しい人を選んでくださるのだと信じ切っている故。さらに、主に選ばれた人も、良き主の僕となることを確信していたからなのだ。
 「隣人を愛する」って、私とあなたの繋がりで考えることじゃないのかも。私と神とあなたという三角形の関係で考えることなんだ。いつも神様抜きにするから、失敗してたのかもね。


●21(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。     (箴3・29)

 ソロモン王のもとに集まった知恵の言葉集である『箴言』。ドキッとするものが多いけれど、今朝の言葉はとびっきりドキッとさせられた。御言葉が私の内心を突いていたから。
 友人に対してなのに、不信が起こり、不満がたまって、悪意が動き出す。悪意は、さらなる悪意を育てて、大きく膨らんでいく。しかし友は、そんな私に対しても、全く今まで通りに安心して傍に居てくれるのだ。その友への悪意って、裏切りそのものだと気付いた。悔い改めるべきは、我にこそ在る。


●22(木)
神に従う人の道を主は知っていてくださる。    (詩1・6)

 「いかに幸いなことか」と始まる詩編第一編。これは一五〇編ある詩の最初の歌だ。そこに、「神に従う人」と、「神に逆らう人」のことが歌われるのだ。もちろんこの詩人は、従うことへと強烈に招く。そこに幸があるからだ。もしかしたら、詩編全体で言いたいことの要約が、ここにあるのかも。
 きっとそうさ! 主に従う人の道をこそ、神様は見守って、支えてくださる。そのことを真っすぐに伝えているんだ。その道の上に、幸いが無いはずがあろうか。ボクもその道を行かん! 寄り道もせず、迷子にもなるまい。


●23(金)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。        (コヘ3・1)

 コヘレトの言葉(口語訳では伝道の書)の中で、一番よく知られた御言葉の箇所かも知れない。三章から「何事にも時があり」と始まって、生も死も、喜びも悲しみも「定められた時がある」と告げるのだ。それも、それを定められるのは神だと悟らせようとする。つまり、御手に委ねて思い煩うなということだ。
 ふと、今年の主題聖句を思い出した「主において常に喜びなさい」だ。そこに通じているなと思った。心穏やかに委ねられたら、思い煩いも緩められ、奥の深い喜びに生きられる、と。


●24(土)
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。   (箴30・8)

 昨日に続いて、今日も旧約聖書にある知恵の書の中の一つ、「箴言」からの御言葉だ。
 ふと「分相応」という言葉が浮かんだ。でも聖書も、そんなことを言うのだろうか・・・。聖書なのに、この世の格言と同じなのだろうか。
 あっ! 違うぞ。全然違う。私に定められた「分」は、人が定めるのではなくて、神様なのだから。「私の持ち分は、お金や養いのことさえも、神に委ねます」と言っている信仰の言葉なのだ。そこに立てたら、安心があるんだ。


●25(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●26(月)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。      (創19・29)

 ソドムとゴモラの町に悪が満ち、神が裁きを決められる。でも、アブラハムが執り成すのだ。それによって、その街に住んでいた甥のロトは、救出されることになる。
ロトの救出は、彼自身の祈りの熱心さや、信仰によるものじゃなかった。アブラハムの執り成しによったのだ。「執り成しの祈りは、なんて大きいのか。神の決断さえも揺り動かすのだから」と思った。祈りを聞いてくださる神様の御心は、深く広い。だから私も懸命に執り成そう。そうしたい人が、いっぱいいるから。


●27(火)
彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」   (代下20・21) 

 主と共に歩んだ南ユダのヨシャファト王。主が命じた戦いに出るとき、彼がしたことは、武具を整えるより、まず主をたたえる者を選び、軍隊の先頭に立たせて御名を賛美させたことだ。「主が行けと命じた時は、既に勝利は約束されたり」と知っていたから。ゆえに人間がすべき残されたことは、賛美のみだ、と。
 私も主の命令を聞くことに敏感でいたい。然り、御言葉こそ命令。それも、従う先には勝利アリ! 顔を上げ、主をたたえて従おう。


●28(水)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。    (創15・6)

 アブラハムは、神様から行く先も知らない場所へと旅立つように促される。それは恵みの計画だからという約束を「信じた」からだ。神は、その「信じた」ことを指して、「お前は義しい人だ」と認めてくださったのだ。
 あっ、義しい人になるのは、一生懸命に聖書の言葉通りの行いをすることじゃなかった。神様の言われることをそのまま信じることだ。ただその一つなんだ。今までちょっと勘違いの信仰生活をして来たかも。やっぱり行いも大事だと、何となく思っていたかもね。


●29(木・昭和の日)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」   (創18・32)

 あれ、数日前もソドムとゴモラの箇所だったような・・・。確かアブラハムが、悪が満ちるこの町を神様が滅ぼすと裁かれたとき、執り成したのだよね。「正しい人が十人いたら滅ぼさないで」と。それに応えられたのが、今朝の主の言葉だ。相手の幸のための執り成しは、神の決定さえも覆るほどに大きいんだな。
 あ、もしお互いの幸を執り成す祈りをする家族だったら、その祈りは聞かれ、家全体が幸福に満ちるんじゃない? すごいことに気付いちゃったかも。神様、それで良いのですよね。


●30(金)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 捕囚の人々の中から、主が預言者エゼキエルを選び立てられた。そして伝えたことが、これなのだ。人々が主に従う者となるように、頑なな心を捨てさせて、柔らかい心を持たせるよ、と告げられたのだ。
 今まで、主に従う従順な心は、自分で培うものだと思っていた。それが信仰者だと。でもちょっと違ってた。柔らかな心も、神様からの戴きもの。主は心さえも備えてくださるから、それを渇望して、ただ戴く人が信仰者なんだ。ああ、すべてが一方的な恵みなんだな。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:06| 『日々の聖句』

2021年03月31日

『日々の聖句』2021年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年3月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
(ソロモンは主に答えた)「善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(王上3・9)

 主なる神から賜物を戴ける。なんでも良いから一つ叶えようと言われた時に、ソロモン王は今朝の一言を願ったのだ。
 何でも叶うのに、今朝のこの一言を選んだソロモン。「ボクなら何を願うだろう」と思い巡らして、幼い日なら「大金持ちになりたい」と思うかな? 老いた日には「特にもう何も要らない」と思うかな? そんなこと考えていて、アッと思った。どちらも、信仰生活を脱線してるのかも。やっぱり、ソロモンはすごいな。


●2(火)
わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。  (エレ31・13)

 神への背きのゆえに起こったバビロン捕囚。しかし悔い改めの後に、神様が計画してくださっていることを、預言者エレミヤが伝えた。それは、散らされた民の帰還だ。悲しみの日々から、喜びの日々への帰還だ!
 ふと思った「苦しみの日々は、喜びの日々へとつながってゆくんだ。苦しみのまま終わらないんだ。それが主の御心、そして計画なのかも」と。そうであるならば、今日を耐えて進んでみよう。ここも神の計画の中と信じて。


●3(水)
心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。     (申4・29)

 偶像礼拝に対する禁止命令の文脈に、この御言葉はある。「一心に求めたら、必ず出会えるから。だから自分で作った偶像へ迷いだす必要はないんだよ」と告げられているのだ。
 なんだか「私の方こそ、あなたと出会いたいと熱望している神なんだからね」という神様からのラブコールのようにも聞こえてくる。ちょっと嬉しい。いや、それが天地創造の神からのラブコールなら、畏れ多くも有難い。そのお心に応えて歩かねば。それは、心を尽くして主を呼び求める祈りから始まる気がした。


●4(木)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」     (サム上3・10)

 少年サムエルが、夜中に主から呼びかけられた。そのとき起き上がって神に応答した最初の一言がこれなのだ。
 私たちも祈り始めたとき、神様と差し向かいになる。その時に先ずすべきことは、サムエルのこの応答なのかもしれない。それなのにボクは、どうしてもお願い事を早口にまくしたてそうになる。でもそれを横に置いて、言うべき言葉はココにある。「しもべは聞いています。主よ、どうぞあなたからお話しください」と。その時、そこに御心が伝えられるのだから。


●5(金)
目があっても、見えず、耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ敬いもせず、わたしの前におののきもしないのかと主は言われる。  (エレ5・21〜22)

 預言者エレミヤが、背きの民・ユダ王国の人々に向かって主の言葉を伝えた。
 ふと思った「私も聖書を通して御言葉を見ている。神の言葉として聞いてはいる。でも、周りの人から見られたら、まるで見もせず、聞きもしない人の姿として生きているのかも」と。エレミヤの言葉は、ボクへと向かっている。これは、ボクへの神様の嘆き悲しみだと思ったら、胸が苦しくなってきた。申し訳なさに・・・


●6(土)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。   (ゼカ2・15)

 捕囚の民に喜びの知らせが届く。それは、単なる捕囚からの解放ではなくて、神が再びあなたの只中に一緒に住まわれる、という知らせ。いやそれだけに留まらず、全ての隣人も神のもとに集う日が来る、という希望だった。
 いつも自分のことだけ考える私。救いのことだって・・・。でも神様は、全ての人の救いを見ておられる。ボクの隣人全ても、神の大切な一人一人だから。ああ、その神様の喜びを、私の喜びにして生きていたいな。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。   (出25・8)

 荒野を四十年も彷徨うことになった民。その人々に神様が、一緒に居たいと願って下さって、幕屋建設(礼拝のための聖なるテント)を、細かく教えて下さった。そのただ一つの御心は「彼らの中に住みたい」ということだった。
 神の御心は、天地創造の時から一事だったのだと、改めて思う。それは「あなたと居たい」ということ。さらにそれがインマヌエル(神は我々と共におられる)の主の降誕となったんだ。あれ、今、凄いことに気付いたのかもね。


●9(火)
なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。   (ヨブ24・1)

 神から「彼ほど無垢で正しい人はいない」とまで言われたヨブが、激しい試練の中で叫びを上げる。友人からも「自業自得じゃないのか」と責められ、悲しみを神に向けて叫ぶ「どうして神様をこんなに愛している私なのに、私は神様から愛されていない者のようだ」と。
 彼の一番の嘆きは、隣人の無理解じゃなかった。やっぱり神様との関係。そこに覆いが掛かっているように思われた時、いたたまれなくて叫んだのだ、「辛い」と。この一途さが、無垢で正しいということなのかも。


●10(水)
我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。   (出16・7)

 人々の心の中には不平の塊がある。それが、エジプト脱出後、彼らが自分中心の欲望から上げる言葉となった、「あれが無い、これも欲しい」と。彼らには、神への感謝がない。あんなに辛かった奴隷生活からの解放だったのに、もう神の救いの業を忘れて、「食い物をくれ」と叫ぶのだ。
 あれっ、これってボクの姿かも。今日も朝から「あれが無い、これも欲しい」って言っているから。「アレもコレも整えられました。感謝です」って祈ってから今日を始めなきゃね。


●11(木)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。    (イザ55・7)

 神は「わたしに聞き従えば、豊かさを楽しめる。わたしのもとに来るがよい、聞き従って魂に命を得るんだ」と、くるおしいほどに人々を求めて下さる。それも、背きの民に向かってだ。「背いて離れたけど、戻って来たら良いから、それだけで良いんだから」と。
 愛されることと、赦されることは、同じ地平にある。ただ神お一人、それを担って下さるんだ。その呼び掛けの中に、私も立っている。


●12(金)
さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。      (創8・16)

 大洪水の後、やっと水が引いた。その時に主がノアに言われた促しだ。それは「皆一緒に、大地を踏んで進め」という招きだった。
 全ての人と一緒に出発することが大事だと主は言われる。無垢で正しいノアだけじゃない。失敗もし、仲違いもあるし、すれ違いだってある欠けばかりの人間同士だけど、それでも一緒に歩むようにと言われている。気の合う人同士だけじゃないんだ。そして、それが新しい世界への出発だからと促されている。神様の願う世界を、垣間見た気がした。


●13(土)
神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。  (エズ8・21)
   
 ペルシャ王の布告によって、バビロン捕囚から都エルサレムに帰還する民。そのとき祭司エズラが祈ったのだ。それは、民の一人ひとりのために、そしてさらに持ち物のためにだった。
 エッ!「持ち物のために」祈ったの? と思った。全てのことのために祈るって、そこまですることなんだと驚いた。でも、そこまで神に委ねたら、すべてのことに満ち足れる平安がいただけるのだ。ああ、ボクの祈りも今日から変えよう、その平安が欲しいから。


●14(日)


主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。        (箴17・27)

 知恵の王ソロモンの箴言と言われ、親しまれて読まれて来た。ここには古今東西の知恵の言葉が詰まっている。その中でも繰り返し言われるのが「口を制すべし」だ。
 確かに、人との間に裂け目を作るのは、口から出た言葉だ。それは「私は口が悪い性質だから、大目に見て」なんて言っていられない。人を傷つけて平気で良いはずはないから。知恵においても、わきまえの無い人だと言われている。でも箴言にあるというのは、古今東西こんな人が多いんだろうな。あ、ボクのことか。


●16(火)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。    (ヨナ2・8)

 自分勝手をし通して窮地に陥ったヨナ。嵐の海に放り出され、大魚に飲まれて腹の中。三日三晩の後に、とうとう祈り出したのだ。そして、自分の愚かさの故の窮地だったのに、そんな者の祈りでさえ、神には届くのだ。
だから、もしかしたら人間の最も大きな罪は、祈らないことかも。だって、自己中心の罪にまみれた者の祈りさえ、神様は待っていて下さるのだから。その御心をさえ無視してしまうことが、祈らないことなのだから。


●17(水)
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。   (箴19・21)

 人間の想い計らいは挫折を含み、多くが思い煩いにもつながる。でも時を得て実現してゆくのは神のご計画なんだ。そうであるなら、私のすべき計画はこれで良い「主のご計画を悟る人になれるように。そしてそのご計画の成就に向けて、歩める人となるように」と。
 然り、私の人生の計画は、信仰から信仰に至り、ついには御国に入ること。その一本道を行こう。そこには平安があり、思い煩いはないから。それ、いいじゃない。


●18(木)
信じなければ、あなたがたは確かにされない。   (イザ7・9)

 ユダ王国に、隣国アラムとエフライムが同盟して攻めて来るとの知らせが届いた時、王も民もうろたえた。そのとき預言者イザヤが「落ち着いて、静かにしていなさい」と告げたのだ。それでも忠告を聞こうとしない王と民。目の前のことで、信じるより恐れることが上回ったからだ。そして告げられたのが今日の御言葉だ。
 信じるか、信じないか・・・それは、生きるか、滅びるかの分岐点なんだ。信じることは精神論どころの話じゃない。現実に直結している重大事なのだ。


●19(金)
わたしはお前の罪を取り去った。晴着を着せてもらいなさい。   (ゼカ3・4)

 ペルシャによるバビロン捕囚解放で、人々は都エルサレムへの帰還の希望を聞くのだ。そこで改めて預言者ゼカリヤを通して知ることは、「自分の罪のために報いを受けた。でも赦された。そこに回復が起こった」と。
 なんだか神様の声が優しく届くようだ「ゴメンねって言うあなたよ、もう良いよ。悔い改めたならもう良いから。同じ罪を犯さないでね。さあ、晴れ着に着替えて、ご飯をぎょうさん食べて、歩き出せ」とね。品行方正の義人よりも、悔いた罪人に、もっと優しい御父なんだ。


●20(土・春分の日)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)

 神に逆らう者たちの手によって、この詩人は苦しめられている。その手に陥り、倒れて、うずくまっている。でも詩人はその時、敵対して争うのじゃない。反論をまくしたてるのでもない。武器を取るのでもない。辛さを訴えたのは、神になのだ。それが義しい人の在り方。それが、主に寄りすがる信仰者の姿なのだ。
 真の正義は「自分の手にある」とせず、「すべて主の御手にある」と生きる。訴えは敵にではなく、主へと向ける。そこにこそ、恵みの御業も起こるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。      (民14・41)

 モーセに率いられて荒野を渡った民が、いよいよ約束の地を目の前にした。その時人々は、主に聞こうとせずに、自分で自分の能力を計って進撃の計画を立てた。その人々に、モーセが嘆きつつ忠言したのが、今朝の言葉だ。「立ち止まれ、まず主に聞くべきではないのか。従うべきではないのか」と。その声さえ無視した人々は、進撃先で全滅するのだ。
 「愚かさ」とは、「自力本願」かも。「賢明さ」とは、「主の言葉本願」。「御言葉本願」で進もう。そこに主の恵みの実りが、一杯あるから。


●23(火)
「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼の声に聞き従ってしまいました。」     (サム上15・24)

 イスラエル最初の王のサウルが、アマレク人との戦いに勝利した。しかしそこで彼は戦利品に心が揺れ、自分の思いで進み、主の思いに立つことをしなかった。それを主の僕サムエルにいさめられ、気付いて言った言葉がこれだ。
 「成功したな」と思った時に、落とし穴が開く。自分で成し遂げたと思うから。そこには神への感謝がなくなってしまうから。そこで人は罪を犯すんだ。あぶない、くわばら。


●24(水)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は、天を仰ぎ、大地を見渡して、心を震わせている。そこに主の御業を見つめることが出来ているからだ。それも、美しい御業をして見つめられるから。驚くべき力ある御業として見つめているから。
 ボクも、心震わせたい。大地を見て、大空を見て、野に咲く花を見て、飛び交う鳥を見て、だ。そこに神の慈しみを見詰めたいから。
あっ、一番大事なものを忘れていた、それは周りの自然にも増して、隣人を見てだ。この最後の一つが一番大事なんだ。だけどこの一つが、一番難しいのかも知れない。


●25(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」   (出14・16)

 エジプトから脱出するイスラエルの民が、その行く手を紅海に阻まれる。後ろには屈強なエジプト軍が追撃して来た。絶体絶命の時、モーセは民に「恐れることはない。主があなたたちのために戦われる」と告げたのだ。そしてそのモーセに主が命じられたのが、今日の御言葉だった。紅海が二つに割れて、人々は地面を歩いて渡れたのだ。
 人知を超えた救出の御業。私のゆく手を塞ぐ困難にも、主が戦って下さるのだ。だからボクは信じて御業を待つべし。静かに祈るべし。


●26(金)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)

 バビロン捕囚の後の「新たなエルサレム」は「主の都」となるのだと預言するゼカリヤ。その喜びの知らせの中心が、主ご自身が人々のただ中に臨在され、生活の中に住んでくださるということだった。
 私には、それが出来事となった日のことを知っている。それって、2000年前のクリスマスの日にイエス様が来られたことだよね。それも真の神が、真の人となって降誕されたことですよね。イエス様を見たら、御父が「あなたのただ中に住まう」と言われた御心が分かる。


●27(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」  (ヨシュ5・15)

 モーセの後継者として、神から選ばれたヨシュア。彼がエリコの町へ出陣する直前、主の軍勢の将軍と出会った。すぐに主の使いであると悟ったヨシュア。ひれ伏す彼に、主の使いが言った言葉がこれだ。彼がいた場所は、人間にとっては日常の中の何でもない場所だっただろう。でもそこで御業が起こったなら、それはもう「聖なる所」であるのだ。
 ボクの日常も、そこで神が御業をなさるということにおいて「聖なる所」なんだ。それを信じた瞬間、周りの景色が輝き出す気がした。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。    (詩84・11)

 詩人は全幅の信頼を、主なる神に置いている。それを言葉にし、また歌にしている。神殿に集う一時が、何にも勝る恵みだと歌っているのだ。
 それにしても、なんて美しい言葉だろう。なんて平安に満たされる言葉だろう。この「あなたの庭」というのは、ボクにとっては礼拝堂のことだ。そこに座って礼拝する時は、恵みを頂けるだけのスウィートな時間なんだ。その一日があれば、満たされて一週間の旅路へと出て行ける。さあ次の日曜日まで駆け抜けるぞ!


●30(火)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 主の言葉に従うバラム。その旅先で、剣を手にした主の使いに出会った。しかしバラムには御使いの姿が見えない。もしそのまま進めば命を落としていただろう。そのとき主がバラムの目を開かれ、御使いの姿を見せたのだ。
 不思議な出来事だなぁ、と思う。でもずっと彼の心には、自分の計画ではなく、主の意のままにという思いがあることが分かる。それさえあれば良いのかも。それが分かれば、良いのかも。それにしても不思議な出来事だなぁ。


●31(水)
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」    (創15・5)

 アブラハムは主から「子々孫々栄える」と祝福の約束をもらって旅立った。それなのに肝心の子供が、いつまで経っても生まれない。もはや祝福はないだろうと思う時、主の言葉が再び臨んだ。それが今日の言葉だ。人間の心は弱いから、周りの状況を見て、常識を見て、自分を見て、揺れに揺れる。「もう無理だろう」と諦める。しかし主の約束は堅いのだ。
だから私のすべき第一の事は、主の言葉を聞くことなのだ。その言葉こそ必ず成るから。

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2021年02月28日

『日々の聖句』2021年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年2月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が、わたしの味方をしてくれましょう。   (ヨブ17・3)

 全てを失って、自分も重い皮膚病で身もだえるヨブに、友人たちが議論を仕掛ける。それは「ヨブの自業自得だ」と責め立てる言葉。そのとき主を仰いで言った言葉がこれだ。
彼の味方は地上にいない。そう思える日に、一人だけおられることに目を向けることが「信仰」かも。その一人を知ることが「恵み」なのかも。そこで神の救いに出合えるのだから。
それにしても、ボクならきっと「もうちょっと早い目に助けて欲しいな」って思うけどな。


●2(火)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。 (エレ29・13、14)

 この御言葉は、主が「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている・・・それは平和の計画・・・将来と希望を与えるもの」と言われた直後にある。さらに、「わたしを呼び、祈り求めるなら聞く」と言われている言葉と一緒にある。
 主よ、あなたこそが私を呼び求めていて下さる。「お前に出会いたい、顔を向けておくれ」と言われる。私はなんて幸せ者! 神様に特別に愛されているんだって、感じられたから。


●3(水)
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」     (創3・12)

 アダムが、神が禁止した園の実を食べた。それを神様から指摘されたとき、彼は真っ先に言い訳をしたのだ。それも、まるで神様が悪いかのように言ったのだ。
 罪は、隣人を切り捨て、神に背を向けさせる。その先は、苦しみの奈落の底なのに。
 どうして、「主よ、ごめんなさい」と真っ先に言えなかったのだろう・・・。いや、そんな風に他人事として見てはいられない。ボクも、その一言を忘れる一人だから。罪人だから。


●4(木)
(主よ)あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。   (イザ25・1)

 預言者イザヤは、民を虐げる新バビロン帝国が陥落することを告げる。しかもまだ陥落前に、その日を主によって知らされ、信じて、主を賛美している言葉がこれだ。今は苦難のど真ん中に立っているのに、だ。
 新約のヘブル書の御言葉が、ふと浮かんだ「信仰とは・・・見えない事実を確認することです」と。信仰の目は、今既にここにあるようにして、神の御業を見られるんだ。たとえ試練のただ中でも、そこに平安があるのですね。


●5(金)
主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない。敵に打ち破られてはならない。        (民14・42)

 独断で敵に闘いを挑もうとする人々。しかしモーセは「主の命令は、行くなと言っている。その御心に背くな。自分勝手に進もうとするな。御心でない所は、主が共に居られない場所だから。そこでは敗走が待っているだけだから」と告げたのだ。
 人間って、どうして「行くな」と言われているのに進み、「行け」と言われているのにたじろぐのだろう。それも特に神の言葉に逆らってしまう・・・。旧約聖書には正に、私の姿がある。


●6(土)
わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。   (詩121・2)

 この詩人は山々を見上げて「わたしの助けはどこから来るのか」と不安げにつぶやく。しかしその直後なのだ。この言葉を、まるで確信に満ちて告げたのだ。それは「必ず来る」という確信と「天地創造の神の御手による助けが」という信頼に満ちている。
 彼の目は、自分の不安を見ることから、主を見上げることへと転回させられたんだ。既にそこに、主の働きが届いている。その恵みの中で顔を上げられたのだから。そこに、祈りのようなこの詩が始まっていくんだなぁ。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。  (王上11・9、10)

 ソロモン王は、主だけを礼拝していたはずなのに、どうして背信したのか。この箇所の直前に、七百人の王妃と三百人の側室が持ち込んだ「他の神々」も礼拝し出したとあった。正にそこだ。主を拝んでいるけど、コッチの神も拝む。そんな二股信仰こそ、神への背きなのだ。
 主日には主を拝むけど、平日は自分流の遣り方を奉っている。そんなボクの姿が重なって見える気がした。他の神々は、ボクの生活にもソロリと入り込んで来る。くわばら!


●9(火)
災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが、わたしによるのではない。   (イザ30・1)

 私も、何かにつけて計画を立てて歩み出す。計画無しに進むことこそ、無謀なことで、失敗が待っていると思うからだ。でも今朝、主はたった一つの注意を促される。それは「あなたの計画は、主である私の御心を問うた後に立てたのか?」と。
 祈ってから、始めなきゃ。計画を立てた後から「この計画をお守りください」って祈っていては、本末転倒なんだ。あれ、ボクはいつもそうやってしまっていたかも。軌道修正しなきゃ。


●10(水)
わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか   (ヨシュ5・14)

 イスラエルの民を率いて進むヨシュア。その彼の行く手に、主の使いが現れた。それを悟ったヨシュアは、すぐに地にひれ伏して、拝して、言った言葉がこれだ。
 私は、「ボクは主のしもべ、いつでもお従いします」と言っておきながら、私の方が神様に「アレをしてください、コレも叶えてくれ」と言いつけている。ヒヤリとした。完全に立場が逆だと気付いたから。そして思った「主よ、私にお言いつけくださいと、ボクも言える信仰者になりたい」と。それが私の立ち位置だから。


●11(木・祝日)
わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。   (申30・11)

 神様がイスラエルの民に、幸いに生きるための秘訣を語り聞かせる。その語りは、戒めという文字となった御言葉なのだ。それも、実行するのに難し過ぎることが語られているのじゃない。私たちの歩幅に合わせて、「あなたを守る神のことを思って生きるんだよ。隣人と仲良く生きるんだよ」ということだから。
いつもボクの傍にいようとして下さるのは神様の方なんだ。愛する子に寄り添われる天の父なんだ。反抗期は、もう卒業しなきゃ。


●12(金)
わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。    (レビ23・10)

「土地に入って穀物を収穫したならば」と、サラリと当然収穫を得るように言われている。私たちも一生懸命に働いたら収益は当然ついて来るものだと思っている。でもそれは勘違い。だって、収穫そのものは、本来神様からの贈り物なのだから。それを忘れてしまう。すべてが戴き物だってことを。
だから私にとって「当然」と言えることは、「収穫の贈り物を感謝する」ということ。それが、初穂を献げる事、つまり献金なのですね。


●13(土)
そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。    (代下20・17)

 ユダ王国は、いつも隣国から戦いを挑まれて、人々は悩みの中にあった。その時ヨシャファト王は、神殿で主の言葉に耳を傾け続けたのだ。その彼に臨んだ言葉がコレだ。それは「行け、戦え、勝利を与えるから」ということを遥かに越えた言葉だった。神様ご自身が、人間のために代わって戦うと言うのだから。
 これが、どこまでも我が子(人々)を愛する天の真の父の言葉なんだ。そしてその大きな御腕の中に、今日ボクも包まれている。

●14(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。    (出15・24)

 人々は、葦の海の奇跡によってエジプト軍から命からがら逃れられた。その恵みを味わったのに、たった三日進んだだけで不平を言ったのだ。「感謝!」と言った舌の根の乾かぬ内に、心の底にあったものが飛び出したから。それは、思い通りでないと我慢できなくなる不満、自己中心、神を神とも思わぬ心・・・。
 「感謝」って何なのだろうと思う。単に「有難いと言うこと」だけなのか。いや、「心を神様に据える人に変われる好機」かも。それなのにその幸いを捨てるのは、自分なのかも。


●16(火)
助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。   (詩22・6)

 この詩人は苦難の中で悶えている。そこで主に祈っても、聞いてくださらないようにしか思えなくて・・・。しかしそこで突然のように言ったのだ、それが今朝の御言葉だった。
 私も詩人のように振り返ろう。そして人生のあらゆるところで神様が支えていて下さったことを思い起そう。たとえ苦難のただ中では分からなくても、御手は確かに私の下を支えていて下さったことを。それを思い起こせたら、一歩進めるから。この詩人のように。


●17(水)
私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。   (創13・8)

 アブラハムが移った土地でトラブルが起こった。そこは、甥のロト一族と一緒に羊と牛を飼うには狭すぎたからだ。その時、立場上上位のアブラハムの方が身を引いたのだ。ここは相手に身を引かせるのが常識だと思うのに。でも彼はそうやって、争いを避けたのだ。
 私なら自分の正当性を主張したくて、身を引いたりしたくなくて、そこで争ってしまうのに。争った後で、いつも後悔するのに。その苦い水を飲まないですむ方法は一つ。アブラハムの生き方なんだ。彼って、やっぱりスゴイな。


●18(木)
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」   (創32・27)

 ヤコブに神の使いが現れ、格闘が始まった。それが夜明けまで続いた時、その人は「去らせてくれ」と言うのに、必死に食らいついて離れないヤコブ。相手が神の使いと分かっていたのだろうか・・・そこで彼が言った言葉がこれだ。
 なぜヤコブはしがみ付いて離れなかったのかな? 今朝の一言で分かるかも。それは単に負けん気が強かったからじゃなく、祝福されたかったから。ボクは祝福を賜ることを、抽象的にしか考えていないかも。ボクの信仰で足りないのは、祝福への執着だ。この必死さだ。


●19(金)
命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。  (創45・5)

 ヤコブの十二人の子供の中で、兄たちに妬まれたヨセフ。殺されかけたけどエジプトに奴隷となって引かれて行く。そこでファラオに次ぐ地位となったのだ。飢饉に瀕した兄たちと再会したヨセフが、恨み言も一切無く言った言葉がこれだ。
 ボクならきっと理不尽な兄達を責めただろう。でも彼は、全てのことを神の御心の内だったと告げたのだ。それは彼が神と共に生きたから。危機の時もただ神を頼った人の「染みついた信仰」なんだ。


●20(土)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え上がる炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。    (ダニ 3・17)

 バビロン捕囚となった人々の内、ダニエルら三人が王に仕えさせられる。でも側近の妬みによって策略にかかり、燃え盛る炉の中に放り込まれる刑を受けたのだ。投げ込まれる直前に彼らは、「神は必ず救う」と言った。
 私の大好きな箇所。痛快な出来事が書かれているから。でも、信仰の書なんだから、「私はどう生きているのか」を映す鏡として読まなきゃ。“炉”はボクの目の前にもあるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
わたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。   (士6・10)

 主の民が略奪されて苦しみに喘いだ。そこに預言者が遣わされて、「わたし(神)は告げておいた。だが」と告げたのだ。何を聞き従わなかったのかなと聖書を見たら、「アモリ人の神を畏れ敬うな」ということだった。
 アッと思った。神様を拝んでいないのではない。彼らは、「あれもこれも」と拝んだのだ。それが神の厭うことだったのに。主以外を拝む誘惑は、日本に住む私の身近にもある。いや自分の経験を神として最優先にしているボクの姿がある。元凶は我が内に潜んでいるのだ。


●23(火・祝日)
主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。    (申2・7)

 モーセが荒野の四十年の旅路を振り返りつつ、大事なことを思い出すのだ。それは「主が共に居て下さった」ことと「そのゆえに不足することは一つもなかった」ということだ。水も食もない荒野で、民は満たされていたのだ。
 私の人生の中でも「ああ、荒野を行く日々のようだ」と思える時があって、きっとまたこれからも「私の荒野」はあるだろう。でもそこで私も思い起そう「ここも主が共におられる場所だ」と。そうしたら、ホッとできて、一歩を踏み出せるから。主と共に歩む一歩を。


●24(水)
わたしには重すぎます。   (民11・14)

 荒野を旅する民が、四六時中モーセに激しい不満を言い続ける。「エジプトにいた時は、アレもコレも食べられたのに。お前が我々を連れ出したのは、荒野で死なせるためか」と。酷過ぎる不平を聞き続けた彼が、ついに「この民を負うのは重すぎます」と言ったのだ。
 御心に従って歩いたら、そこには自分にとってバラ色の人生が拓かれるというのじゃない。そこに約束されているのは、神の計画が成就するということ。そしてその成就こそ、最善の結果なんだ。「でも、弱音って出るんだよな」って思う。それでも、御旨は進むんだけど。


●25(木)
災いの日に、あなたこそわが避け所です。 (エレ17・17)

 エレミヤは、迫害する者がやってくる日のことを予感している。神様からの「あなたたちの罪のゆえに国は亡びる」との言葉を告げる故、反感を一身に買うからだ。彼は、その暗雲をもう見ている。でもそこで、悩み恐れを覚えても、そこに捕らわれてしまわない。それは、主なる神から目を離さないから。それが「あなたこそわが避け所」という信頼となったんだ。
 暗雲は、誰にでも来る。でもそこにだけ目を向けるな! 私たちを捉えているのは、主の守りの御手であることをこそ見つめていよう。安寧がそこにあるから。


●26(金)
恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。   (創21・17)

 アブラハムと女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれた。疎ましく思った妻サラが、親子を追い出す。荒野で途方に暮れたハガルに、主の使いが言葉をかけたのが、この御言葉だ。
 アブラハム→イサクとつながっていく神の計画の系図の外にあるイシュマエル。でもその人にも心を留められた神様。それは、アブラハムに関わる人だったからかも。だったら、もしかしたらキリスト者に関わる人の全てに、神の憐れみが届くのかも。あ、ボクは送り込まれているってことかも。友人に神の恵みが届くため。


●27(土)
お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。  (イザ1・19)

 南ユダ王国に、神の言葉が臨んだ。悪い行いを取り除いて神に従うなら恵みがある、でも頑なに背くなら滅びがある、と。
 二つの道の岐路で、神様は人間に選択権をゆだねてくださるんだ。人間は、神様のロボットのように操縦されるんじゃない。むしろ自分の意志によって行く道を選び取れるんだ。
「ああ、だからこそ祈らなきゃいけない」と思った。「主よ、私を導いてください。私の悪い心が、誤った選択を選ばないように」と。祈ることが、自分を救うのですね。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


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