2018年12月31日

『日々の聖句』 目次

日々の聖句を再開いたしました。

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2018年08月31日

『日々の聖句』2018年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年8月

●1(水)
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。      (ロマ12・1)

 生活の全ての時間で、全身全霊を神の御前に献げてしまうことーそれが真の「礼拝だ」と告げられる。礼拝は、礼拝堂に座っている姿ではないのだ。礼拝は生きる姿に現れる。そしてさらにその生活において、「この世に倣うな」とも加えられる。
 もしも、主日には礼拝堂に行くけれど、その他の日常は御心と違う生活をしたなら。そういう二重生活は、礼拝者にあらずと言われているのだ。日々の生活の中でこそ、礼拝する姿に生きなきゃ!


●2(木)
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。             (コロ3・13)

 相手が悪いと思っても、それが事実でも、「赦せ」と迫る。それは中途半端にじゃなくて、「主があなたがたを赦してくださったように」と続いて告げられていた。
 御言葉を前に、自分がどういう人間かに気付く。「私は、なんと赦せない心を持っている人間か!人を責めるしかしない人間なのか!忍耐できない人間なのか」と。主に赦されたことにあぐらをかいて生きている。この「互いに」とは、こちらこそ隣人を悩ませる存在なのだと気付かせる。


●3(金)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。     (マコ4・8)

 イエス様が「忍耐強く種を蒔き続ける父なる神」の譬え話をして下さった。その「種」とは「御言葉」のこと。御言葉を受け入れてゆく人が、どんなに豊かな人生となるかを伝えて下さったのだ。
 それにしても百倍って、すごいな。私にそんなに伸びしろが残っていたというのも驚く。あ!伸びしろがあるのに無駄にしていたのは、私自身なのかも。今日こそ御言葉の種を育ててみよう。聴従によって。


●4(土)
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。   (マタ5・4)

 山上の垂訓でイエス様が話された言葉だ。主の目には、全ての人の中にある悲しみが見えている。その悲しみを見たら駆け寄らないではいられない御父の心も知っておられる。だからただ「神よ」と手を伸ばせば慰められるんだよと言われたのだ。
 そうか、自分の中にある悲しみを正面から受け止め、それを不平に変えないで神の前に持って行けたら、慰めを豊かに得られる人になる。心を神に向ければ、悲しみさえ、天の蔵を開く鍵になる。


●5(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。            (ルカ6・12)

 十二人の弟子をお選びになるという大切な御業をなさる前夜のこと。イエス様は時間のすべてを、御父との対話のために使われた。祈って夜を明かされたのだ。
 重大な決断をすべき時に、私ならどうしているだろう。経験者を訪ねて助言を請うか、人を集めて談議するか、アタフタ焦っているだけかも。何よりまず御父のもとに駆け寄って、全てを告げるべきなのに。スタート点が違ってたかも。なんともトンチンカンな生き方をしているなぁ。


●7(火)
なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。      (1コリ6・7)

 信仰者同士で争い訴え合うことを、パウロは悲しむ。そこで、愛することも赦すことも知らないこの世の裁判官に委ねることを、嘆き怒る。そして、不義だと思うことをされても、身に引き受けよと諭す。そこで赦せ、名誉や宝を奪われても争うな、裁くな、むしろ与えろと叫ぶ。
 ふと、十字架に掛けられた主の苦しむ姿がここにある気がした。私もこれを辿って歩めば、平和を生み出せるのですね。


●8(水)
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。              (ヨハ12・36)

 この「光」とは、神の御子イエス様ご自身のこと。だから「光の子となる」とは、私も神の子となれるということ。そのために「光を信じる」とは、何となく信じた気持ではなく、主の言葉の通りに日常生活を歩むこと。本気で、具体的にだ!
 「信じる」って、信じた気になっていることがあるよね。「信じた気になる」ことと、「信じて生きる」こととは、雲泥の差がある。まるで光と闇とが正反対のように。聴従こそ、光の子の歩み方だ。


●9(木)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。   (ヨハ20・27)

 甦らされたイエス様が、復活を信じられずにいたトマスに言われた言葉。「あなたの手を伸ばし、私の脇に入れなさい」と十字架の御傷を見せながらだった。トマスが疑う心いっぱいで口走った「手を入れなきゃ信じられるものか」と叫んだ言葉を、まるで包み込むようにして「手を入れたらいいから、だからどうか信じない者になるな、私を信じるのだよ」と言われたのだ。
 その招きに、私も毎朝耳を傾けよう。私も毎日、弱さの塊になるから。主の招きが毎日必要だから。


●10(金)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。        (ガラ1・12)

 パウロは自分のことを、単なる伝令者だと告げる。キリストが「さあ伝えよ」とトップダウンで知らせて下さったことを、そのまま喜びの知らせと受け取って、「あなたにもそれを知って欲しい」と語ったのだ。
 私たちキリスト者も、主が知らせて下さった福音を、「私」という「管」を通らせて運ぶのだ。大切な隣人に。ああ私も、通りの良いホースとして生きたい。


●11(土・祝日)
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。     (エフェ3・19)

み言葉は、主の愛の広さ長さ、高さ深さを知って、あなたも愛されているって気付けと招く。あなたは特別な愛で満たされる存在なんだよと告げる。
自分の命よりあなたの方が大事だと、命を捨てた方が一人いた。それがイエス様。それを知ったら、独りであくせくしてたけど、心のこわばりが解けた気がした。


●12(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。       (ロマ5・1)

 もはや神様から罪を数え上げられて責められるのでもなく、裁かれるのでもない。これから先は平和な関係だけだよと宣言されるのだと言う。
自分で償い終えたからでも、精進したからでもないのに。それをパウロはこの直前で「ただ信仰によって」と告げていた。
 「信じる」って精神論じゃなかった。イエス様の死が私のせいで、私のためだと受け入れたら、とんでもない実りが届くんだ。神との間の平和という最高の実りが。


●14(火)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。   (1コリ2・5)

 エリートの筆頭だったパウロがキリストを宣べ伝えるのに、神はこんなに偉大で力ある方だと雄弁に弁論したのではないと言う。理路整然と論証したのではない。
むしろその逆に、十字架で死なれた方の出来事を伝えただけ。その方の死を伝えただけ。あなたのための死だったと伝えただけ。それが、あなたが愛された証の出来事だったと伝えただけだった。そこに、神の御力が働くからだったのですね。


●15(水)
言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。                 (マタ10・19、20)

 弟子たちを派遣する前に、主が「狼の群れに羊を送り込む」と困難を予告される。その時この言葉を添えられたのだ。
 家族の中で、地域や会社で伝道する時に、人の目が気になる。なんと言って語ればいいのか分からないから。でもその時、私も神の霊を内に宿した神の器となっていることを思い出そう。だから祈ったら安心して、小さな声でもいいから語り出そう。


●16(木)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。        (ルカ6・37)

これはルカの「平地の説教」(マタイは山上の説教)だ。イエス様の教えの核心だ。でもそう知りつつ見事に聞き流す私。それどころか「これはあの人に言われているのだ」と、人を裁きながら聞いてしまう。そうやって主の言葉を足蹴にしてしまう。そんな姿が罪人そのもの。いやそれさえ、あの人のせいでこうなったと言ってしまう。
聖霊よ、とことん罪人の私に、真の悔いる心を与えて下さい。憐れんで下さい。


●17(金)
子よ、あなたの罪は赦される。         (マコ2・5)

 今はもう自分で立つことも出来ないほど重体となっていた中風の男。その友人たちが、イエス様のおられた家の屋根から床に乗せて吊り下ろした時、主が男に言われたのがこの罪の赦しの宣言だった。
そこでアレッと思った「なぜ癒されるではなく、赦されるだったのか」と。
 重病の時、誰もがご利益宗教になってしまう。神を治療のための僕にしてしまう。そのねじれた関係を、まっすぐにされたのが主だったのだ、「赦されて、神の子として生きることが第一の幸だから」と。


●18(土)
主がお入り用なのです。            (マコ11・3)

 この御言葉って、「主が私を奉仕に用いようとしておられる」という程度に聞いてしまう。でもこれは、他人のロバを「代価なしに貸せと申し出よ」と、主が弟子に命じた場面なのだ。そして、弟子が断られて当然と思う場面で、主が語れと命じられた通りに「主がお入り用なのです」と語った時、主の御心が前進したのだ。
人は自分の常識に縛られる。でも主の促しの通りにしたら、そこに主の御計画が進むのだ。御業をストップさせる私の常識を後ろにして、今日を歩んでみよう。


●19(日・第3主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●20(月)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。    (2コリ9・6)

 これは、献げものの話だ。「お金」というあまりにもこの世的で、生々しい現実の話題だ。しかし御言葉は、そこに単刀直入に分け入る。「喜んで惜しまずに与える人を、神は喜ばれるのだ」と。
 信仰は心の宗教だ、と思いがちになる。しかし信仰は、現実の生々しい場所にこそ関わる。信仰者が、その現実の中で生きるからだ。仙人じゃないだもん。
全てにおいて惜しまず人に与える者でありたい。私もクリスチャンだから。


●21(火)
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。             (1コリ1・9)

 コリントの人々への手紙の冒頭で、感謝したいとパウロが伝える。そこで「本当に嬉しい」と叫んだのは、「神があなたがたを捉えた。神があなたをご自分の家族として招き入れて下さった」ということだった。
 「神が○○して下さった」との喜びは、自分のことじゃなくて隣人の救い。隣人の受洗にこそ、神の御業を見るから。私の“あの人”も早くその場に立って欲しいな。

●22(水)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。     (ルカ3・4)

洗礼者ヨハネが「自分勝手に歩む人生の道を、整え直せ。それは自己中心に曲がった道だから。あなたが唯一たどるべき道は、主の御言葉に従うという道だ。それはまっすぐ神に通じる道だから」と語る。そして、それが「悔い改めだ」と。
「悔い改め」って、心の中だけで「ああ悪かった」と悔いる思いじゃなかったんだ。聖書の告げる悔い改めは、現実の生きる道を変えるという行為。次の一歩をどう生きるかという行為なのだ。生き方の表面に現れて、見えるものなのだ。


●23(木)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。        (1コリ13・5)

 「愛」とは何かが具体的に語られていく。愛は、生き方の表に噴出して、形となるのだ。実りを持つのだ。
 「愛しているかどうか」は、形に出ると聞いてハッとする。親子でも夫婦でも、その実りが見えない時があるから。かえって相手を苦しめていることもある。それでも自分は愛を持っていると思っている時もある。でも今朝それは勘違いだと言われた。御言葉は私の姿を映し出す鏡だ!「愛する」人となるのは、努力がいるみたい。


●24(金)
励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。   (2コリ13・11)

コリントの人々にたくさん語ってきたパウロ。その言葉の束を、これをもって結ぶ。「励まし合うんだよ」と。
励まし合うって、単に「頑張ってね」と応援することじゃない。それでは二人の間にまだ距離があるから。“励ます”人になるのは、相手の思いをひたすら聴くこと。その二人の間では、不思議にも、自分も“励まされる”必要があることに気付ける。そこでは思いが一つになれていて “励まし合えて”いる。そこに主も共におられるのだと、パウロは加えて言っていた。


●25(土)
愛は隣人に悪を行いません。        (ロマ13・10)

 パウロが、全律法は「隣人を自分のように愛しなさい」に要約されると告げた。それに続けてこの言葉を語ったのだ。
 アッと思った。自分に無かったものに気付いたから。それは「愛」だったから。愛が無いから一番近い隣人にも、友人にも、家族にも、ああ家族にまで、悪を行ってしまう。悪口、そしり、争い、不和・・・。その行いの発信源が、愛の無さだったんだ。
愛がなければ、人を苦しめる人間になる。そんなのいやだ。主よ、こんな私を憐れんで、愛することを学ばせてください。


●26(日・第4主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●27(月)
その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。    (マタ1・23)

 天使が、降誕を夫ヨセフに伝える。その時にイエス様が“誰であるのか”を宣言した。「この方は、神があなたがたと共にいて下さることを実現された方である」と。
 いつも願っていたのは「神様、どうか私と今一緒に居て下さい。どうか守って、どうか支えて」ということ。今日から改めてその祈りの時に叫ぼう、この慕わしいお方のお名前を、「イエス様!」と。そうしたら祈りの聞き手が、急に近くに迫るから。


●28(火)
神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。       (ルカ8・39)

 墓場が住みかだった「悪霊に取りつかれた男」。しかしイエス様に出会って、汚れた霊は追い出された。感謝した男が「お供したい」としきりに願った時に、主はこの言葉を言われたのだ「あなたは、あなたの家に帰れ。そこで御業を語れ」と。
 それぞれの人に遣わされる場所がある。それは家族の中。信仰生活って、教会で実らせるんだと思っていたけど、家庭でこそ実らせるのですね。主は、そこで口を開けと願っておられる。勇気が欲しい。


●29(水)
もし、からし種一粒ほどの信仰があれば…。  (マタ17・20)

 弟子たちが「どうして私たちには悪霊を追い出せなかったのですか、あなたのようになぜ出来なかったのですか」とイエス様に問うたとき、主が答えられた一言だ。「鍵は信仰だよ」と。
 「信仰がないからだ」と言わたようで、ドキッとする。でも本気で信じたら、私も隣人に恵みを届ける人になれるのかと気付いたら、嬉しいドキリとなった。
 でもなぁ・・・、自分で「本気」と思っている信仰は、イエス様の「一粒でいいから」と言われた信仰に達しているんだろうか。


●30(木)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。  (1ヨハ4・16)

 畳みかけるように「神様イコール愛なのだ」と告げて来る。
 アッ、神=愛なら、神様に共にいて欲しいと願う時、私が愛する人になればいいんだと思った。神と共に生きたいと願ってもどうしたら良いのと悩むことは、もうない。私が隣人を愛する業に生きたら、神がそこに生きて働いているのだから。神を遠ざけるのも、共に生きるのも、私の側の問題が大きいんだなぁ。

●31(金)
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。  (1コリ3・21)

 「ですから、」って、何だからと言っているのかな?と聖書を遡ってみたら、「世の知恵に頼って生きることはまったく愚かなこと。ですから」ということだった。
 考えてみたらこの世の知恵って、自分で自分をのし上げようとすることに用いる。そこが、罪を塗り重ねる場なのに。そういう人間になろうとするなと、御言葉は促す。そして更に、自分で自分を誇ろうとする必要はないと悟ることへと促す。だって、神様が私を誇って下さるのだから。その喜びの下に入ればいいのだから、と。

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2018年08月21日

『日々の聖句』2018年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日


(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年9月

●1(土)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。    (エフェ4・31)

 自分の心の中にある悪意から、人を傷つける一切のものが溢れ出る。一番愛している家族さえ傷つけ瀕死にさせてしまう。私の心に住み着いた無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりによって。
 人と和解していたと思っても、自分が変わらなきゃ何も始まらない。私の悪意を切り取って、捨てなきゃ何も始まらないんだ。そう思っても、まだ人のせいにする自分がいる。情けない人間の頭が私・・・。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。       (マコ1・22)

 主イエスが会堂で語る話しを聞いて、皆が驚いた。それは、他の教えと比べたり、選択可能だったりする人間の教え程度のものではなかったから。神の権威によって、圧倒的に迫る慰めであり、指針であり、励ましであり、掟だったから。
 私も勘違いする時がある。御言葉を「なかなかいい教え」という程度に聞いたり「そのうち従う」とか「これは無理」と自分で選択している時だ。襟を正して「然り」とのみ応答すべき神の言葉なのに。


●4(火)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。    (ヨハ1・14)

 最初に聖書を日本語訳したギュツラフは、この「言」を、何と訳して良いのか苦心した。そして「カシコイモノ」と訳したのだ。「やんごとなき畏きお方、そう日本人に言えば、きっと伝わる」と思って。
 天の父が「あなたを愛する」と言われた言葉が、そのまま畏き方として、人間と同じ肉体となって下さった。それも私たちの間に降って、宿りを得て下さった。
 何度も唱えるように口の中で噛みしめ味わいたい御言葉だ。噛み砕きにくい言葉だけれど、深みが増してくるから。


●5(水)
まず自分の目から丸太を取り除け。         (ルカ6・42)

 「人の罪を裁くな」とイエス様が言われる。それも隣人の罪は目の中のおが屑程度なのに、あなたは目の中に丸太を入れているようなものだぞ、と言われる。そして続けて言われたのがこの御言葉だ。あきれて「お前の大きな罪こそ問題なのに、なぜ自分のことには気付けないんだ。目の前にあるのになぜ見えないんだ」と。
 他人の小さな過ちを見つけては腹を立てて裁いていた。でもそんな私に向かって、主はハッキリ、「偽善者よ」と言われたのだ。今日を、悔い改めの日とせねば。


●6(木)
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。       (コロ3・16)

 いつも感謝する事、互いに教え諭す事、心から神を賛美する事・・・、これらの中心に今日の言葉が据えられている。
 そうか! 感謝も賛美も、心に宿した御言葉への応答として起こるんだ。自分の自然な肉の思いからじゃないんだ。キリストの言葉への応答だから、御言葉が心の内に無いと、感謝も賛美も自己満足になるのかも。熱してもすぐ冷める程度のものになるのかも。互いに諭す言葉だって、キリストの言葉以外は裁きになるしね。


●7(金)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。      (1コリ10・24)

 神の栄光を現わす生き方となるために、人との間でどう生きたら良いのか。その中心が語られている。それは、相手をどう変えてあげたら良いかと考えることじゃなかった。相手を導くことじゃなかった。自分の生きる軸足を、「相手のために」と据えることだった。
 何をするにしても自分に軸足を置いていたかも。だから人とすれ違って、傷つけて、失っていたのかも。イエス様のように「あなたのために」と軸足を据え直したい。


●8(土)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。  (ルカ1・38)

 天使から御子イエスの受胎を知らされた時、戸惑うマリア。でも神の使いの言葉を受け止めるうちに、自分の常識から神の御心へと向かい出す。そして「神にできないことは何一つない」と聞いた途端、マリアの口から今日の告白が出たのだ。
 マリアの心が、自分のこだわりから神の御心へと転回する時間を、神の側は忍耐して待っていてくださった。私の日々も、いつも神様の側が待っていて下さる。私も今日こそ、マリアのこの告白を言おう。

●9(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。  (マコ1・35)

 イエス様は大事な事をなさろうとする前に、赴く場所があられた。それが御父と二人になれる場・密室の祈りの場だ。
 私は何かに取り組もうとする時、いつもバタバタと自分の思いの中を走り回るだけ。そして自分が立てた計画の後で、やっと「御心のままに」なんて祈っている。これじゃ順序がさかさまだよね。
まず御父の前で自分の思いに沈黙しなきゃ。本当に御心を聞くために。


11(火)
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。   (ロマ10・17)

 信仰は、聖書の御言葉を聞くこと以外では始まらない。それは信じるということが、神様からの語り掛けへの応答だから。神の側からの働きかけが出発点だから。
 そうか! 自分で「神様のことを信じよう」と思うことが信仰の始まりと考えるたびに、信じることが見当はずれになっていたんだ。信仰さえも、身勝手になってしまっていたんだ。自分の思いが出発点だったから。「まず静かに、あなたの言葉を聞かせて下さい」と祈ることから始めたい。

●12(水)
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。      (ルカ7・13)

 一人息子が死んで棺が担ぎ出されるところに出くわしたイエス様。そのやもめの母の涙をご覧になった途端、ご自身の心も激しく痛まれ、近づき、息子を生き返らせなさった。
 イエス様が悲しみに近づかれる時、その悲しみと一緒に悲しみ始められる。泣く者と共に泣かれる。それが神の御心なのだ。「主の臨在」というのは、そういうお方が私の傍にもおられるということ。なんだか圧倒的な安心に包まれた感じがした。


●13(木)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。         (マコ14・6)

 ナルドの香油をイエス様に注ぎ切った女。きっと彼女の全財産だったはずの高価な品。それを見た人々が「もったいない、愚かな使い方だ」と非難した。そのとき盾となられたイエス様の言葉がこれだ。
 豊かな香りの部屋で、主は女の心も受け取って下さった。そして、イエス様だけを見詰め、主のためだけに全てを注ぎ切る女の思いを「良いこと」と宣言して下さったのだ。主を想う心と、主が想って下さるお心が重なる。私もこう在りたいな。


●14(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。    (1コリ14・33)

 教会の中で、一人ひとりの振る舞いを整えようとするパウロ。信仰においても、人は自分の主張だけする愚かさを重ねてしまう。それが悲しい無秩序を生むのに。それに向けて「否」とおっしゃるのは、神ご自身なのだ。
 正しい信仰も、平和も、声高に主張する人の中には生まれないのかも。真摯に聞く者になる者たちの中に、それも神の言葉を聴くことに生きる者の群れに生まれる。私もその一人になりたい。


●15(土)
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。    (ルカ14・33)

 イエス様は、何事も万全の準備をすることが大事だねという話をされて、結論でこれを語られた。つまり、主の弟子となるには、自分の持ち物、自分のこだわり、自分を優先したいという思いなど、一切捨てることが準備だということ。それは捨てないと必ず失敗するぞ、ということだ。
 持ち物よりも己を捨てることこそ難しい。その準備不足だから、主に従い切れないのかも。断捨離は自分自身にこそ!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●17(月・祝日)
主の栄光が周りを照らした。          (ルカ2・9)

 降誕の知らせを告げるため、主の天使が羊飼いたちに近付いた。そのとき神の栄光が照り輝き、彼らを包んだのだ。 「救い主が降誕される、あなたのために来られたのだよ」、この知らせこそが神の光そのものだ。そしてこの知らせを携え伝える者が、神の栄光さえも携えるのだ。
私もその知らせを聞いた日に、神の栄光に照らされていた。それを今度は友人に伝える人となる。そこで私もこの光を携える者にされていた。隣人をこの栄光に包むため。2千年続く福音リレーだ。


●18(火)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。  (ルカ6・36)

 「敵を愛しなさい。何も当てにしないで貸しなさい」というイエス様の話の結論にこれがある。あなたも天の父の子どもなんだからできるよね、と告げられるのだ。
 イエス様の言葉は、単なる命令じゃない。キリスト者はこうあるべしという戒律とか、道徳でさえない。主は私を見詰めて言われるんだ「できるよ、あなたならできるよ。だって、天の父の子どもだから、愛されている子どもとして生きてご覧」と。一歩踏み出す勇気が湧いて来る。


●19(水)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロ1・13)

 御子イエスによる贖いの御業を分かりやすい言葉で伝えてくれる。「あなたは闇の力に支配され、闇の行いに生きて来た。でも御父が救出して、祝福と光の陣営に移して下さったのだ」と。「もう自己中心という闇の支配の外なんだよ」と。
 天の父が脱出劇を成功して下さったんだ。だから、私は助けられた者として、光の陣営の中にいる者らしく、天を見上げて歩いて行こう。闇の陰を引きずるな!


●20(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)

 舟の上で、大嵐に悩む弟子たち。こんな困難はどうにもならない、と恐れる者たちの前で、主は嵐に一喝された「黙れ。沈まれ」と。
 愛弟子たちのために、何でもして下さるイエス様。自然をさえ従え、全てを支配されるイエス様。それを知って嬉しくなる。でも・・・。同時にこのすぐ後に言われた言葉が心に突き刺さった「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。私の不信の嵐にこそ「黙れ、静まれ」と言われた気がした。

●21(金)
わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。   (エフェ4・7)

 「教会」は「キリストの体」として「一つ」だから、一つになるように生きよと言われた直後に「しかし、わたしたち一人一人に」と続くのだ。一つであるということは、皆が同じであるということじゃなく、バラバラの個性だけれど結び合わされるということ。そのバラバラの個性を、神からの賜物として生かせということなんだ。
 個性が賜物となる。それはただ主が用いて下さる時にだけ。その受け身の用いられ方で、私も教会も、豊かになれるんだ。


●22(土)
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。   (1コリ4・3)

 コリントの教会の人たちから「使徒としてふさわしくない」と批判されたパウロが「人間に裁かれようとも問題ない」と断言して、「自分でさえも自分で裁かない」と続けた。「毅然と立つ彼。人の口にあることで動じないんだ」と思ったけど、その先がまだあった「裁くのは主である」と。
 一番の義なる裁判官の前に自分を立たせたパウロ。正も偽りも見通す神が裁判官。毅然とした姿だと感じたのは、その神の前に立ったからなんだ。人の口が気にならない場所は、そこ以外に無いんだ。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●24(月・祝日)
(マリア)「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」         (ルカ1・47)

 幼子イエスを宿したマリアに、従姉のエリザベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い」と告げた言葉に応答して“マリアの賛歌”が始まる。これはその冒頭の言葉だ。
 常識と懸け離れた受胎の出来事の中で、戸惑いを通って、しかしそれを「主の御業だね」と数え合う姉妹たちの何と豊かな姿だろう。一緒に現実の中で神を仰いでいる。一緒に賛美して、祈っている。

●25(火)
(イエス)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」        (マコ1・15)

 マルコ福音書の冒頭に、この主の第一声が置かれている。そしてこの御言葉が、福音書全体を貫いて、通奏低音のように響いているのだ「さあ早く、今こそ、悔い改めるんだ。神に向きなおれ、立ち帰っておいで。福音を信じるんだよ」と。
 私の人生の初めから、イエス様は語りかけていて下さっている。人生の通奏低音のようにずっと響いている御言葉が、これなんだ。激しくも、温かくも、切なくも響いている。私を捉えて離さない御言葉だ。


●26(水)
動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。           (1コリ15・58)

 パウロが「あなたは罪と死の支配下にいない。キリストによってもう勝利を手にしたんだ」と宣言して「こういうわけだから・・・」と語り出したのが今朝の御言葉だ。「安心して、ただ主のため、キリストのためにと歩いたら、万事が益となる」と告げた。そしてその最後には「そのどの苦労も無駄にならないからね」と加えた。
 人生が無駄にならないと、今日聞けて安心した。それって私も還暦になったからかな。人生の後半も、「ただ主のため」だ。


●27(木)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決めていた            (1コリ2・2)

 当時の一流私塾の首席だったパウロ。誰よりも知恵に満ちていた彼なのに。最も愚かに見える犯罪人の印・十字架刑で死んだイエスが救い主なんだと語り続けた。それ以外語るまいと決心さえして。
 「イエス様が救い主だ」と説得する言葉を探してきた私。でも説得や学びで信仰は生まれない。人が救い主を信じるのは、神の力のみ。それが最も顕れたのが十字架の死なんだ。私が伝える十字架の言葉に神が働かれると信じて愚直に語ろう。


●28(金)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。           (ルカ7・7)

百人の兵士の部隊長が、部下の病の癒しをイエス様に願い出た。しかも遠くから「お目通りする事さえ相応しくない私ですが、“治れ”と命じて下さい。あなたの命令に何もかもが服従しますから。権威を持つあなたの一言を」と申し出たのだ。
私には、これほどの信頼があるのだろうか。主の一言がどれほど力があるのか信じているだろうか。御言葉によってたくさん“一言”を戴いてきたのに聞き流した。御業が見えないのは、聞き流すからかも。


●29(土)
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。       (2テモ4・2)

 「信仰によるまことの子」と、パウロが信頼したテモテ。その彼に「折が悪い時がある。でもそのど真ん中で御言葉を語れ」と告げた。「誰も聞こうとしない時にも、なお語れ、それがあなたの務めだよ」とも。
 私は神様から恵みを貰うことばかり考えて、アレもコレも欲しいと言うだけかも。神様に「私の子よ」と言ってもらえているほどなのに、しなくてはならない務めは棚上げ。ふと、私って調子いいキリスト者だなと思えた。ひどく申し訳なく思えた。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:01| 『日々の聖句』

2018年07月31日

『日々の聖句』2018年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年7月

●1(日・第1主日)

主日礼拝説教
         辻川篤牧師



●2(月)
レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。     (マコ2・14)

人々から売国奴・罪人と蔑まれ、そこで自分でも「お金さえあればいいんだ」と閉じこもって生きていたレビ。でも本当はそこから救い出して欲しと願っていたレビ。
イエス様は、その男に声を掛けられた、「わたしに従え、私のうしろに付いておいで」と。「あなたの居場所は私の傍だ」と。
主が罪人を呼ばれる、「あなたの居場所はそこじゃない、私の後ろだよ」と。その主が、私にも声を掛けておられる。だから罪に居座る場所から、立ち上がるんだ。


●3(火)
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。    (マタ6・8)

祈りが聞き入れられるのは、「言葉数を多くして熱心にしたら」と思う人々に、イエス様が「違うよ」と言われた。そして「主の祈り」を教えて下さったのだ。
お祈りすることって、「私はこれをして欲しい、どんなにそれを願っているか知ってくれ」と訴えることじゃないんだ。つまり自分の思いに目を向けることじゃなかった。「天におられる父よ」と、目を御父に向けたら、短くて、小さくて、呻くような言葉でも、御父に届く真の祈りとなるのだ。


●4(水)
心の目を開いてくださるように。   (エフェ1・18)

聖霊によって「心の目」が開かれたら、と御言葉は告げ始める。「どのような希望が与えられているか」悟れるよと。「私たちが受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」悟れるよと。更に「神の力がどれほど大きなものか」悟れるよと。
希望も、賜物の豊かさも、神の力さえ見えないと嘆いていたのは、自分自身に原因があったからかも。何を求めて祈るのかが、見当違いだったからなのかも。
今日から第一に「私の心の目を、どうか開いて下さい」と、祈り始めよう。


●5(木)
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。      (マコ7・20-21)

厳格な食物規定があった民。汚れているとされる食べ物を口に入れることを注意深く避けていた。でもイエス様が言われたのは、あなたの中から出る憎しみ、悪意、あなたの言葉が人を汚すのだと。
ドキッとした。自分の口から出る悪口も「人を汚す」と知ったから。なんと深い罪を犯し続けていたのか。隣人を汚す者こそ、きっと神の目には最大の罪人だ。そんな心、切って捨ててしまいたい。


●6(金)
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。   (ガラ3・13)

十字架に掛けられることの意味が、ここに告げられる。その場所は、神に捨てられ呪われた者が釘付けされる場所。そこに罪人の私が掛けられるはずなのに、御父は、御子を身代わりに掛けられた。
十字架を見上げるたび、犯した罪の恐ろしさが見える。呪われるべき自分が見える。でもそこにイエス様の姿が見えたら、どれほど私が愛されているのかが見えた。私は、ただ神の愛に生かされている。


●7(土)
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。    (ヨハ12・26)

主が「一粒の麦は…死ねば多くの実を結ぶ」と言われた御言葉に続く言葉だ。自分の主義を留保することと、主に従うことは両立しない。従うとは百%自分に死ぬこと。主に従うことの“覚悟”の大きさを知る。従うことの“実り”を想う。
この後に「わたしに従う者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」とあった。その道を、私は進みたい。


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師

●9(月)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。 (ルカ2・11)

 人として認められず、民の一員にも入れてもらえず、街の壁の外の地べたで生きていた羊飼いたち。その彼らに、天使が現れて告げた「まさにあなたのためだよ、今日イエス様がお生まれになったよ」と。
 救い主は、救いを必要としている人のところに「あなたのために来られた」と告げられるのだ。それなのに私は、飢え渇くように救いを求めているだろうか。「日常生活くらい自分でやっていける」と、自分の力で生きていないだろうか。その日々の中には、この福音は届かないのに…


●10(火)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。  (1テサ5・23)

 パウロはここに続けて、主イエスの再臨の時に、あなたを非のうちどころのないにしてくださるようにと、願い祈る。
 私が聖なる者となるのは、再臨の日に主の前に立たねばならないから。そこで御子に喜んでいただける私となっているためにだ。そしてそのような私となっていることが、神自身の願いだなんて…。ああ、今日の一日を、おろそかに過ごすまい。〈その日〉に向かっての大事な一日だから。神の願いに、一足を合わせよう。


●11(水)
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。   (1テモ1・15)

 そしてこの御言葉に続く「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と。使徒パウロが「私こそ罪人の頭領だ」と自ら言う。彼はそこで受け取る恵みを知っているから。その悔いた心でしか受け取れない恵みを知っているから。それが、主は罪人の私を救いに来て下さったということだ。
 神の救いの恵みは、自分は正しいと思っている人には無用の恩恵なのだ。ドキッ!


●12(木)
誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。    (ルカ22・46)

 受難の直前、イエス様はゲッセマネで苦しみ悶えて祈っておられた。そのとき弟子は何をしていたのか。お傍で一緒に祈っていたのか?いや違う!眠り込んでいたのだ。それを見て言われたのがこの言葉だ。
 イエス様の痛烈な思いが響いて来る「なぜこの時に、お前たちは私から心を離すのだ。なぜ思いを一緒にできないのか」と。
十字架を知っている私には、御声が深い悲しみを含んで聞こえる「お前もか?」と。でも、うっすら「お前なら私と一緒にいてくれるよね」との期待も聞こえた。


●13(金)
あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。   (マタ14・16)

 成年男子だけで5千人が空腹となった。そこで弟子が「各々ご飯を食べに行かせましょう」と提案した。最善の提案だった。そこでイエス様が言われたのがこれだ。
 「いや、あなたが目の前の隣人のために労するのだ」と言われる。自分の考えで最善と思える“人間の方法”を横に置いて、“神の国の方法”で生きよと言われる。
そうしたら、そこで神の奇跡も体験するから。5つのパンと2匹の魚で皆が満腹するという経験さえするのだから。


●14(土)
主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 (フィリ3・8)

 超一級の家柄で、学問も超一流学派の首席で、宗教的敬虔も抜きん出ていたパウロ。でもそれら全部を「損失だ。持たなきゃ良かった」と言う。なぜ? 人なら誰もが必死で求める一つひとつなのに。
 それは、主を求めることの妨げになるから。この世で一流になれば主を求めなくなるから。主に結ばれる事こそ最高だと知ったからだ。何も持たない私って結構幸せかも。最初から主のみを求めるから。


●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)

●16(月・祝日)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。      (ヘブ11・17)

 やっと生まれた大切な息子イサク。それなのに、父アブラハムはどんな思いで息子の首に刃を当てて屠ろうとしたのだろう。「イサク奉献」の出来事は、何度読んでも胸が詰まる。信仰とはこの覚悟が必要とされていると、突き付けられるから。
 私にとっても「イサク」がある。自分の命より大事と抱えているものだ。それを、神を信頼して手放せと言われているのだ。震えるような問いが、私にも迫っている。その迫りとの格闘が、信仰の格闘かも。


●17(火)
あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。  (2コリ8・7)

 パウロは献金の話をストレートにする。信仰と知識と愛と同じテーブルに乗せて語る。あっけらかんと「豊かに献げよ」と。
 でも私たちはなぜ、愛は素直ささげるのに、献金の話となると小声になるのだろう。もしかすると、お金に特別にこだわっているからかも。マモン(貪欲)の誘惑に絡められ、あっけらかんとなれないからかも。


●18(水)
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。      (1コリ1・18)

 「キリストが十字架で死なれた。それを信じるなら救われる」―この言葉の宣教によってのみ、神は救いの道を拓かれた。神の御子の死が私のためと信じるだけで救われるなんて、知者にはナンセンスに聞こえるだろう。しかし輝く福音なのだ。
 私は十字架にすがろう。救っていただく価なき者が救われる喜びが、そこにのみあるから。


●19(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。    (ルカ2・15)

 天の大軍が羊飼いたちに主の御降誕を知らせた夜、彼らは自分たちが座り込んでいた場所を蹴って即座に立ち上がった。降誕の主に会うことが、第一の願いだったから。お会いして礼拝したかったから。
 私たちは彼らのように、主日ごとに喜びに満たされて礼拝に駆けつけているだろうか。自分が居る場所に座り込んでいないだろうか。自分の用事や悩み事や楽しみに居座っていないだろうか。いつも、この羊飼いのようにありたいな。


●20(金)
あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。  (使20・28)

 エフェソの教会の長老たちに、パウロが遺言のように語る「自分のことに気を配るんだよ。信仰に生きるんだよ」と。それだけでなく「兄弟姉妹のことに気を配ってあげるんだ。自分と気の合う兄姉だけのことじゃなく、一人も漏らさず全員のために祈って生きよ」と告げたのだ。
 昨年、宗教改革5百年で万人祭司を学んだ。全員が祭司として互いに執り成し祈れということだった。それは万人が、長老のように配慮して生きることだね。


●21(土)
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。         (ルカ1・48)

 天使から受胎告知を受け取って、まだ結婚もしていないのにと戸惑うマリア。生まれる子は神の子と聞いて恐れるマリア。
 でも、少しずつ心が開かれていく。告げられた言葉をゆっくり噛みしめながら、自分の常識から離れ、神ご自身へと心を回転させていったから。そこに今朝の「マリアの賛歌」が生まれたのだ。
 私も神のなさることを見よう。自分のこだわりから離れよう。そこに私の神賛歌が生まれるから。全て喜びに変わるから。


●22(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師

●23(月)
イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた。       (ルカ24・45)

 復活された主が、弟子たちの中に現れてなさったことがこれだ。心の目、つまり信仰の目を開いて「十字架の死と復活が成し遂げられた」と悟らせること。「それを信じて救われよ」ということ。さらに「あなたがこれを伝える者となれ」ということ。
 聖書全巻が告げたい中心は、イエス様の十字架の死と御復活だった。それだけでなく、それを私にも伝えて欲しいということなんだ。「一人にでもいい、私も用いられたい。それが神の思いだから」と感じた。


●24(火)
(イエスは)大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ。    (マコ6・34)

 5千人に、2つのパンと5匹の魚で満腹になさった奇跡の出発点が、ココだ! イエス様が「なんてかわいそうな一人ひとりだ。羊飼いのいない羊たちのように迷っているじゃないか。何とかしてあげないではいられない」と激しく心動かされた御思いだ。
 その主の激しい愛の思いが、今日私にも注がれている。「お前を何とかしてあげないではいられない」との御思いが、今日の私を包んでいる。そのまま主の深い憐れみの中を生きよう。そこに恵みもあるから。


●25(水)
取りなさい。これはわたしの体である。      (マコ14・22)

 最後の晩餐で、イエス様が弟子たちにパンを与えられる。十字架にかけられ死なれる前夜、「これはわたしの体だ」と言って与えられる。無条件で、ただ「取れ」と与えられる。一言ひとことの重みが、弟子の一人ひとりに届くようにゆっくり噛みしめるようにおっしゃった。
 この言葉を私たちも聖餐式のたびに聞くのだ。私に向けて「取れ」と言われる。その時、生ける主が私たちに、見えるパンによっても現臨される。信仰をもって受け取るべし。それは聖なる瞬間だから。


●26(木)
真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。     (1ペト4・19)

 この御言葉の直前には、「御心に従って一生懸命生きるキリスト者が、そのゆえに世から試練を受けるのなら」ということが語られている。御言葉のままに生きるなら、世とすれ違って試練も受けるはずだ、ということ。そして、その上で、しかしそうであっても、と言われていたのだ。
少し今日の御言葉が分かったかも。聴従の生活の最後を、神に委ねなさいと言われているのだ。真を尽くして従う者に、主も真を尽くして下さるからと。


●27(金)
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。   (2コリ5・21)

 御子なる神だから、罪など一つもないイエス様。でも御父は、命で償わせる十字架に掛けられたのだ。罪人の側の私の身代わりにさせるために。そこまでして父なる神は、私と和解しようとなさった。
 でも普通は、過ちを犯した側が和解して欲しいと申し出るべきでしょ?背かれた神の側から「あなたと和解したい、失いたくない」と願って下さったなんて逆だよね。
あ、どれほど私は愛されていたのか。どこまで愛し抜かれているのか。いま分かる。


●28(土)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。       (エフェ4・1)

 神に招かれてキリストに結ばれた私達。その恵みの招きに応答する「ふさわしい歩み」というものがある。それは、柔和、互いに寛容で、平和に歩むことと言われる。
人からの頂き物なら、その価値に相応しいお返しをせねばと気を遣うはず。まして神様からの頂き物なら、最大の気を遣わないでいられようか。それも、これが応答すべきものだと指定されているのだから。恵みの価値の大きさが測れない時、応答の歩みもいい加減になるのかもね。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         伊藤忠彦牧師
        (相模原教会協力牧師)

●30(月)
主を信じる者は、だれも失望することがない。 (ロマ10・11)

 神様は、ご自分を心から呼び求める人に、誰でも(あの人も、私をさえ!)豊かにお恵みになると約束して下さる。その神の約束の中は、失望さえない。「信じること」と「恵みの中に入ること」が繋がる。
振り返れば、いつも人に期待しては裏切られ、辛い失望を味わって来た。そこからいつの間にか、神様も同じなのかも知れないと何となく思うことが始まるのかも。
今朝、自分に言うのだ「神を見くびるな」と。「神の約束に期待する私で居続けよ」と。そこが恵みの中なのだから。


●31(火)
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。      (ガラ3・27)

 「あなたがたは皆…神の子なのです」と言われた後に、この言葉が続く。人が神の子どもとしていただけるのは、洗礼を受けたから、それはキリストと結びつく縁組の結婚をしたこと、さらに“キリスト家”の家紋入り一張羅を着せてもらったからということだ。いや単に着物じゃない、キリストご自身を羽織ったのだ。
中身はこんな私のままで、誰が見ても神の家の人と見てもらえるんだ。急に、背筋がピンと伸びる思いがした。





posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:19| 『日々の聖句』

2018年06月30日

『日々の聖句』2018年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日


(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年6月

●1(金)
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり終わりである。    (黙21・6)

終末の到来が幻で語られる『黙示録』。竜や獣や大淫婦や最後の裁きが出て来る。それだけ聞くと何となく不安にも。見たこともないことだらけだから。
しかし、そこに語られた主の御言葉が安心の源なのだ。「この世界の初め(アルファ)に私が居た、最後(オメガ)の時も私が居る。どんな時も一緒だから」と。神が一緒にいて下さる、それさえあればいつでも。どこでも安心があるんだ。


●2(土)
下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。     (ルカ3・11)

これは洗礼者ヨハネが、群衆に語った言葉。その中身は「救い主を迎えるための道備えをするとはこういうことだ」との教えだ。その道がちゃんと心に開通すれば、救い主をお迎えする準備が整えられるのだから、と。
私は本当に主をお迎えできているのだろうかと不安になった。人に分けるどころか、お金も人からの評判も、何でも自分のものにしたいと思っているから。そんな頑なな心に、主は来て下さるのだろうか。


●3(日・第1主日)
主日礼拝説教
        藤森誠神学生(東京神学大学学部4年)

●4(月)
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。  (1テサ2・12)

パウロが、最も愛したテサロニケの教会の人々に語り掛ける「あなた方に真心から伝えたいのは、神様の思いなんだ。神があなた方に贈り物を用意したから受け取って欲しいと、熱情をもって言っておられるんだよ」と。その贈り物は驚くべきもの。ご自分が支配されるもの全てと、御国も、神ご自身の栄光までもだ。
こんなに凄いものを贈られるって、人って神様の“特別”なんだよね。愛されている子どもたちなんだな。


●5(火)
あなたがたは自分で心を狭くしています。    (2コリ6・12)

パウロが、コリントの教会の人たちに誤解されて非難されている。そのとき、なお彼は人々に心砕いて語りかける。心が通じ合わなくなった人と人とが、そのまま別れてしまうことを悲しむからだ。
大切な人と人との間がこじれる時がある。失いたくない関係なのに、非難し合うことになることがある。でもその時、非難する言葉に躍起になるのではなく、自分の心が狭くなっていることに気付けますように。和解のカギは、相手ではなく、自分の心にこそあるのだから。


●6(水)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。         (1テサ5・9)

「あなたを救うと決めた」と神が言われる。素直に喜べばいい。そして喜ぶならどうなるのかが、今日の前後に記されている。それは、単に万歳と自分勝手な生き方をするのではなく、「主と共に生きる」ようになること。いただいた救いの希望を兜として、身を慎んで生きること。
私の救いの喜びと、救われて生きる姿の2つは、繋がっているか?繋げないと!


●7(木)
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。  (マコ2・22)

人々は、「自分の行いによって神に認められる」という生き方をしていた。それが、父祖から教えられて来た“義しい人”となれる唯一の方法と思っていたから。
でもイエス様は言われる「私は新しいぶどう酒。あなたはそれを入れる革袋。私を心の中に入れるだけで救われるから。ただし、行いで頑張るという古いあなたのままじゃ駄目だよ。あなたは、ただ主を受け入れるという新しい革袋になれ」と。
今朝、「はい、古い自分を捨てて、ただ受け入れます」と、主に顔を向けよう。


●8(金)
神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。     (ロマ8・31)

この御言葉の直前に、「父なる神は、御子イエスをさえ惜しまず、あなたの身代わりの死を死なせた。それほどあなたを愛したのだ」と告げる。神が味方ということは、激しく愛して下さる事となるのだ。
ゆえにこの御言葉の直後に告知される「だれが敵対できるか。艱難か。苦しみか。飢えか。裸か。危険か。剣か」と。
朗々と御声が響き渡る。「神が私を愛する愛に、何も妨げとなるもの無し」と。私の今日の現実の中に御言葉が響く。

●9(土)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。    (1コリ9・23)

パウロは「弱い人に対しては、弱い人のようになりました…何とかして何人でも救うためです」と言う。これは自分を捨てる姿。それが「どんなことでも」ということ。あなたの傍に立てるなら、自分を捨てる覚悟なんだ。傍に一緒に立てたら、あなたのために救い主がおられると伝えられるから。福音を聞いてもらえるから。
愛する人が救われたら、私も喜びの中に入れる。ならば私も己を捨ててもいい。


●10(日・第2主日)
主日礼拝説教
         辻川篤牧師

●11(月)
(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。         (マコ6・6)

故郷に帰られたイエス様。そこでも教え、語り、人々の渇きを潤したいと願われたイエス様。それなのにどうしたことか人々は「なんだ、大工じゃないか。我々と同じ人間じゃないか」と表面しか見ない。見えない…。それを「不信仰」と驚かれ、嘆かれ、人々のもとを立ち去られた。
イエス様を救い主なる神と受け入れるのは、イエス様の外面を見るのでなく、その御言葉に心を傾けることだ。ならば2千年後の今だって、イエス様に会える。御言葉を通して!それが信じることなのだ。


●12(火)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。         (2コリ6・2)

人はそれぞれ神様から「賜物」を戴いている。それは神様からの「恵み」だよと語り掛けられる。そして、戴いた恵みは自分だけで抱え込んで、無駄にしてはいけないとも。それに続けて告げられたんだ「今や恵みの時だ。救いの日として十分に助けた。今こそあなたは賜物を手にした」と。
戴いた恵みを惜しみなく差し出して、今日こそ奉仕しなければ。神様からの戴き物は、そうやって使う物となるのですね。今までなんだか、この御言葉を、恵みを戴くことだけで聞いていたかも…。


●13(水)
思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。  (ヤコ1・16−17)

良い贈り物や賜物は、天の御父から来る…、それは当たり前だよと思っているけど。でも本気でそう受け取っているか。
この世を見て、あらゆる地上の力や権威に向かって、アレをコレを与えて欲しいと頼っていないか。
本当に私にとって良い賜物は、御父がプレゼントして下さる。だから祈りの言葉を整え直そう、「父よ、あなたの御心が、この私にも成りますように」と。


●14(木)
偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。    (マタ20・26−27)

息子に相応しい座をと願ったヤコブとヨハネの母。すぐに、あの人が認められるなら自分はもっと認められるはず、と言い出す弟子たち。それに主が答えられた。
私は今まで、「偉い人になりたいとか、一番上にとか思ってないや」とこの御言葉を脇に置いていたけど、そんな話じゃなかった。「上や下という程度じゃなく、徹底的に低きに降れということ。「皆の僕」になるとは、十字架で死なれる主の姿。


●15(金)
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。     (1コリ13・3)

「全財産を献金しても」とパウロは言う。また「身代わりに死んでも」と続ける(どっちも私には無理かも)。そこにパウロは続ける「たとえ可能でも、愛がなければ益なし」と。つまり何よりも大事な愛なのに、何よりも持つことが困難なのかも。
「私にも少しはあると思っていた愛が、実は全くなかった」と悟った時、祈りが生まれる。「主よ、真の愛する心と勇気を与えて下さい」と。


●16(土)
高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 (ルカ14・11)

婚礼の招待客たちが上席に群がるのをご覧になったイエス様が言われた言葉だ。続けて「末席を選べ」とも。
それを聞いて「私は上席に座ろうなんて思ったことない。いつも末席ですよ」と言うかも。しかしそこで変なことが起こる。末席に群がって、そこにこだわって動こうとしないこと。ああ、なぜ人は「自分はココしか嫌だ」と思う所に固執するのだろう。きっと、そこが自分にとって居心地良い上席だから。では真の末席とはどこなのか。


●17(日・第3主日)
主日礼拝説教
         西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)

●18(月)
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。      (マタ27・47)

十字架の上で、神の御子イエス様がこの言葉を叫ばれた。天の御父の真の御子であられるのに「なぜわたしをお見捨てになったのか」と。しかし天からの助けは何も起こらず、そのまま息を引き取られた。
私の身代わりに死なれるということは、こんなに壮絶なことだったのだ。神の敵である死に絡み取られ、神から見捨てられるという身代わりでもあったなんて。
主よ、あなたが私を救われるために負われた苦しみは、いかに深いことか。


●19(火)
主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。 (1コリ6・17)

今日の御言葉をさらに進めてパウロは「あなたがたの体は神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿だ」とも告げる。私たちは心だけでなく、この体も聖霊と結ばれているのだ。この体が、神をあがめる礼拝堂なんだ。
ならば、この「身体」も大切にしないでいられようか。清めないでいられようか。
信じるということは、心の事柄と思っていたけど、違うんだ。身体的にも神に繋げられるんだ。汚れた行いから体を遠ざけるべし。食べ過ぎ飲み過ぎもNGかな?


●20(水)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。       (ヤコ2・1)

ヤコブの手紙は、いつも私たちの信仰を死んだものにしてしまわない道を示してくれる。心の中だけの枯れた信心にしないように、主イエスの御足の跡をたどって歩めよと、信仰者の現実を整えてくれる。
隣人は皆、一人残らず御父の愛された神の子どもたち。それなのに私が分け隔てしたら、それは神の御心への明らかな反逆なのだ。激しい罪なのだ。
隣人(友人も家族もすべて)との不和は、私自身の罪から始まるのですね。


●21(木)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。    (1ヨハ4・19)

繰り返すように「神がわたしたちを愛した」「神の愛がわたしたちの内に示された」「神がまずわたしたちを愛してくださった」と畳みかけて告げられる。私たちの心の奥底に染み込むように。
そして、だから必ずこのようになるはずだ、と同じ内容が続く。それが「わたしたちも互いに愛し合えるよね」ということ。
私が愛されたのは、私も愛する者となるためだった。それも、愛され方が分かっているから、愛し方も分かるよね、と。


●22(金)
父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。    (ヨハ1・18)

主イエスの降誕で「言が肉となった」と告げる有名な箇所の締め括りに、この御言葉が語られる。
御父と一つであられたお方が、私の居る地上に来られた。御座を捨てて降られた。真の神である方が、地上に生きる真の人となられた。それらのことが、ここの数節で一気に告げられている気がした。
神のことを知りたいと思う時、降誕のイエス様を見詰めよう。そして十字架で命を捨てられたお姿を見詰めよう。


●23(土)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。        (ヨハ2・25)

都でたくさんの力あるしるしをなさったイエス様。婚礼で、水を祝いのブドウ酒に変え、多くの病の人を癒された。その業を見て、人々はイエス様を慕った。自分にもして欲しいと思ったから。奇跡を起こす力が魅力で群がった。
それはイエス様ご自身を求め慕ったのではなく、ご利益を求めたに過ぎなかった。主は、そういうご利益だけに心奪われる心を「知っているぞ」と言われるのだ。知っているゆえに、深く嘆いておられるのだ。


●24(日・第4主日)
主日礼拝説教
         辻川篤牧師

●25(月)
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。   (1ヨハ2・1)

ヨハネが伝えたいのは「罪を犯さないようになれ」ということ。そのために、神の言葉を聞いただけで終わらせず、守れということ。イエス様が歩まれたように自らも歩まねばならぬということ。その上で、この御言葉があるのだ。懸命に生きた上で、なお罪を犯した日。その人にこそ伝えられる、「大丈夫だ。あなたの弁護者として、主がおられるから」と。この御言葉は、前提無しに聞いてはいけないのかもね。


●26(火)
主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。     (ルカ5・8)

夜通し漁をして不漁だったシモン・ペトロ。でもイエス様がもう一度網を下ろせと言われるから、信じないまま降ろした網に、大漁という奇跡。驚く漁師仲間達。
その時シモンは自分が何者であるのかを悟った。「私は罪深い者だ」と。イエス様と出会った者がまず悟るのは、己の内なる姿。不信という罪人の姿だ。そのペトロに主は優しく「従っておいで」と招かれる。
自分は罪人だと知ることは、救いへの入り口なんだ。悔い改めは恵みなのだな。


●27(水)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した。         (1ヨハ4・10)

この御言葉の直後に「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と続く。それは、愛の関係の始まりは、神によって成し遂げられた十字架の出来事だということ。初めは神の側の、具体的な十字架が始まりだと言われているのだ。
神様を慕う思いは、私の心からほのかに生まれる思いじゃなかった。十字架に心打たれて、応答として溢れる思いなのだ。申し訳なくも有難い、激しい思いなのだ。


●28(木)
わたしは、イエスの焼印を身に受けているのです。      (ガラ6・17)

ガラテヤの教会に、キリストによるのでなく行いによって救われると、信仰を揺さぶる者達が入り込んで来た。そこで「信仰義認」を激しく語ったのがガラテヤ書だ。その結語に、この言葉が記された。
彼は単に自説を告げたいのではない。「十字架の主の所有となった。“主のもの”という焼き印を受けた。キリストによって救われた喜びに生きているんだ!」と激白したいのだ。私も「受洗の日に焼印を受けた。救われた印を受けている」と叫んで生きたい。変人かな?いやそれでいい。


●29(金)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。        (フィリ4・4)

パウロが、最愛のフィリピの信徒たちに勧めの言葉を送る「同じ思いを抱いて、励まし合うんだよ」と。そこに続けて「主において、喜びなさい」と告げられたのだ。それも一度で言い切れないと思ったのか「重ねて言います。喜びなさい」と。自力で頑張って努力しろと発破をかけるのではない「何でも神に打ち明けたら、そこでもう喜びが来るから」と告げる。
喜びは、主を信じることと直結するのだ。委ねた時にもうやって来るのですね。


●30(土)
恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。  (ヨハ1・17)

これは、主イエス御降誕を「受肉」として語った中にある御言葉だ。
良い行いによって救われるしかないという「律法」の法則がモーセを通して現れたことと、対照させて語られた言葉だ。
神の恵みと真理は「何をしてもあなたを救いたい」という熱意だ。それは、神の御子を地上に降らせてしまう。それも、朽ちるべき肉体を持たせた「受肉」によって具体化させられた。恵みは、神がご自身の栄光を捨てた姿に、現れたのだ。
受肉に、既に十字架が現れていた!

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:08| 『日々の聖句』

2018年05月31日

『日々の聖句』2018年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年5月

短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(新約編)
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(火)
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。  (エフェ4・26)

パッと心に火が付いて怒ってしまう。聖書は、それはあるだろうよ、と言ってくれる。しかしだ。その直後に、怒ったままで一日を終えるな!怒りを次の日まで持ち越すな!と命じる。ハッキリと、怒ったままでいるのは「罪だ」と告げる。
主よ、どうか怒りを捨てる決心を、私にも日々与えて下さい。私が怒ることを捨てたら、主が喜ばれるという信仰を与えて下さい。私が怒りを捨てても、主が最善をして下さるという信仰に生きる者とならせて下さい。


●2(水)
神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。    (1コリ12・24)

この「体」とは「キリストの体なる教会」のこと。その教会を、人の“輝く賜物”を用いて組み立てるのでないと言われる。見劣りしたり、役に立ちそうになかったり、取柄もない人を用いるのだと言われる。
なぜ?と考えて、気付いた。弱さって、天の父の御手が介入できる場となるから。誰の目にも、御業が働いて教会が建つのだと分かるから。そうか!「私には、その奉仕は苦手、無理です」と言っている人が、神様に目を付けられているんだな。


●3(木・祝日)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。 (1ヨハ4・4)

「イエスは天より降って受肉してくださった救い主キリスト」と告白出来たら、その人の内には神の霊が共にいるのだ。その信仰告白が、すでに助け手なる聖霊の御業だから。聖霊が「内におられる方」だ。
聖霊が、私の内におられ、私の内側から支え、心の内側にある言葉にならない呻きまで知っていて下さる。私の必要を、誰よりもハッキリと知っていて下さる。神の力を受けているんだ。何度でも自分に言おう、神の霊が我が内に在り、と。


●4(金・祝日)
御子の内にとどまりなさい。    (1ヨハ2・27)

イエス様は真に御子であられ、私の救い主キリストであられる―。この一事にとどまることを、この御言葉は迫ってくる。
それは、偽物の誘いが私たちを惑わせるから。その誘惑は、御子から離れさせて、自分主義にしがみつかせる誘い。つまり自分が神になる誘い。また聞いた御言葉を棚上げにさせる誘い。御子にこそ救いがあるのに、それを疑い出させる誘惑。
主は私を抱きしめていて下さる。でも私も主を求め、従う者であり続ける事も欠かせない。それは留まる決断の連続だ。


●5(土・祝日)
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  (1コリ13・13)

今年の年間聖句は「愛がなければ、無に等しい」。その文脈に繋がって出て来るのが、この御言葉だ。
信仰者の私にとって最も大いなるものは「信仰」なのかと思っていたけど、あれ、違うみたい。そうか、終わりの日、御国が来たら目の前に神を見るから、信じて待っていることも終わりが来る。希望も、もう実現するのだ。でも御父を愛することは、いつまでも残る。いよいよ輝くのだ。


●6(日・第1主日)

主日礼拝説教
     辻川篤牧師



●7(月)
たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。 (2コリ4・16)

私たちには、老いと病と艱難と誹謗中傷と…四方から苦しみが押し寄せる。そこで身も心も傷つき倒れそうになるだろう。確かに、私たちは衰える存在なんだ。しかし、それは『外なる人』のこと。
そうだ! 主と結ばれた私である『内なる人』は、苦難の日々に必ず主の恵みを見る。そこでこそ益々確信するだろう。「私は既に永遠の生命に結ばれている」という喜びを。ますます、ハレルヤだ。


●8(火)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。        (ガラ3・18)

 
神からの恵みは、いかにして手に出来るのか? これは重要関心事だ。その恵みは大きくて、神の子とされる安心も、死で終わらない新しい命もあるのだから。
 人は、大きな褒美を得るためには大きな努力をする。しかし神は言われる。神の恵みを受け取る方法は、「あなたにあげたい」と神が約束して下さったという事実を、ただ信じて、「感謝」と言えば良いと。
 私も、「約束を信じたら、もうそれでいただける」っていうの、良いなと思う。


●9(水)
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。    (テト3・5)

神様は私たちをじっと見て、「お前は正しく生きているか?熱心に奉仕し、献げ、隣人に尽くしているか?道を外れていないか?一つの悪事も行ったり、口にしたり、思ったりさえもしていないか?」と、採点されたりはしない。
神様は私たちをじっと見て、「ああ私の大事な子よ!愛しているよ!」と抱きしめて下さる。何もできず、かえってしたくないことをする私なのに…。感謝のみ。


●10(木)
いっさいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。    (1コリ4・7)

力もお金も能力も、今の境遇や健康さえ…、生命そのものだって、全てが神様からのいただき物。それは頭では理解しているつもり。でも、最初に忘れてしまうのが、このことなんだ。自分で勝ち取ったと思うから自分を誇り、持っていることにこだわり過ぎてしまうのだ。だから御言葉は続けて「なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのか」と告げる。
ガツンと言われた気がする。ガツンと言われる必要が、私にはあったから。


●11 (金)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。(ロマ11・33)

ユダヤ人は、異邦人へと救いが広がることに頑な民だった。でも異邦人が救いに与れた時に、逆にユダヤの民も立ち帰る機会となった。不思議にも、そうやって全てのことが用いられて、全ての人が救われて神の子とされる日がやって来るのだ。それが、神の知恵・恵みの知恵だったのだ。
家族や友人の中に、こんな不信仰なキリスト者でしかない私が居るのは、その私さえ用いて下さる神の知恵なのだ。
「こんなふつつか信仰者の私ですが、どうぞ用いたまえ」と今日も一日歩もう。


●12(土)
兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。   (1ヨハ2・10)

「救われて神の子とされ、御父の光の中に入れられた」と信仰生活を歩いているはずなのに、私の現実が、暗く重く闇の中のようだとしたら。隣人関係で深く苦しんでいるとしたら…。
み言葉は「それは、あなたに愛が欠いているからだ」と告げる。そして、関係に苦しむ日々から、一気に喜びの光の中に立ち帰れる方法があると告げる。
それは、「私が」「私から」「私だけであっても」、愛する側に立つことだ、と。


●13(日・第2主日)

主日礼拝説教
      西田恵一郎牧師
        (和泉短期大学チャプレン)



●14(月)
奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。  (1ペト4・11)

誰にでも、御父からそれぞれに賜物を預けられている。それは用いるため。小さな業でも御父は喜ばれるし、喜びたいからと、賜物は預けられているのだ。
もしも用いることが出来るのに、貯め込んでしまっていたら。一番悲しまれるのは御父なる神ご自身かも知れない。御父の“悲しみの子”にはなりたくないな。


●15 (火)
何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。      (1コリ10・31)

「何をするにしても」とは、「食べるにしても、飲むにしても」と記されていた。それは四六時中「神が褒め称えられるようにするには、どんな食べ方?どう飲めばいいの?どう話したらいいの?どういう風に生きたらいいの?」と考えること、悩むこと。神の喜ぶ道を本気で探して、自分の事ばかり考えるのを捨てること。
あぁ難しい。四六時中、自分中心の心だから。あっ、言葉こそ口から出す前に神の喜ぶものに整えねば。最難問かも。


●16(水)
少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。    (マコ5・41)

皆が絶望していた。それは、「娘はもう死んでしまったのだから、どうしようもない」と思ったから。「イエス様でも、こればっかりはどうしようもないだろう」と思ったから。
しかしイエス様は、その人間の思う「どしようもない」という絶望を打ち破られるのだ。それも、お言葉ひとつで! 「起きなさい」を命じられる言葉で。
主の言葉は、いのちの言葉なのだ。それも生きて働いて、出来事化する神の言葉なのだ。日ごとに戴いて過ごせる幸せ。


●17 (木)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。        (エフェ6・16)

悪の策略が押し寄せる。聖書はそれを絵空事とはしない。しかしその上で、だ。跳ね返せる「神の武具」を数え上げてくれて、実装するようにと促してくれるのだ。「盾」となるのが「信仰」だよ、と。
主よ、信仰は我が身を守る必需品なのですね。「私は主のもの。神に愛されている」と信じることが、悪から自分自身を守る武具なのですね。悪の策略は、私は無価値だと思い込ませることだから。


●18(金)
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。      (ルカ1・45)

これは、聖霊によってイエス様を宿した母マリアに、洗礼者ヨハネの母エリザベトが告げた言葉。人知を超えた受胎を、しかしそのままに「この身になりますように」と受け入れたマリアの信仰を、エリザベトが「なんと幸いでしょう」と言ったのだ。
私も、聖書の御言葉を聞くたびに、「無理だ」とか「これはあの人に丁度いい」とか「いずれまた」と自分から遠ざけずに、いつもそのまま受け入れて従いたい。そこに神からの幸いが実現するのだから。


●19(土)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコ1・21)

今日の聖句の前後に繰り返されている言葉がある。それらは同じ内容で、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」「御言葉を行う人になりなさい」「聞くだけで終わる者になってはいけません」…。ああ、なんと私は聞くだけの者で、受け入れない者だったことか。知るだけで、行わない者だったことか。行うことの実りは大きいのに、なんと軽視してきた事か。
今日の一歩一歩を、御言葉の上に置いて歩んで行こう。そうだ、御言葉を実際に生きるのだ。


●20(日・第3主日)ペンテコステ(聖霊降臨祭)

主日礼拝説教
      辻川篤牧師



●21 (月)
今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです。         (ロマ5・9)

キリストが死なれた――、このことを延々と語り続けるロマ書。「その死は不信心な者・罪人であるあなたのためだったのだよ」と語り続けるロマ書。
今日の御言葉は、「わたしたちは」という箇所に「〇〇は」と、具体的に名前を書き入れよ、と招くのだ。自分だけでなく、親も子供も孫も、友人も、愛するすべての人の名前を入れてみよ、と。そうしたら、キリストの死がぐっと近づいて来る。救いの恵みが、ぐっと近づいて来るから。


●22(火)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。     (1コリ6・11)

洗われる前の真っ黒な姿を、御言葉は赤裸々に告げる「…強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は…」と。あなたがそれだと。そこに続けて、この御言葉が告げられるのだ。キリストの名と聖霊によって、あなたを雪のように白くした。既に洗い切った。もう一点の汚れもの無いと。受洗の日にだよと。
相応しく歩もう。洗ってくださったのは、十字架の血潮によるのだから。


●23(水)
神は人を分け隔てなさらない。       (使10・34)

使徒ペトロがヤッファで神様から幻で「自分が、これは汚れたものだと常識にしていたことさえ、神が『清めた』と言われたら清くなる」と諭された。これが、異邦人を隔てず救い招く転換点となった。
人って、「今までこうしていた。これが普通・常識でしょ」と言って、自分の経験にしがみつく。それが隣人を分け隔てする壁となっていても、だ。
神様は、その壁が一番お嫌いなんだ。全てに恵みを届けたいから。そうだ、その神様の恵みのお心にこそしがみつこう。


●24(木)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。     (エフェ1・13)

み言葉を「聞いて」「信じて」最後に「証印」も押してもらった。振り返れば、正規の手順をすべて通って来たんだな。その手順を踏んで来たということは、正真正銘の鑑定書付ということ。神様から見たら、私にもハッキリくっきり「これは神の宝。神の子」とハンコが押されているんだ。
ならば、人から見られても「これは主のもの」と分かる歩みをしなくっちゃ。

●25 (金)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。    (ルカ6・46)

「主よ、主よ」と言うだけでは、信仰の堅固な土台とはならない。「神様、イエス様」と呼ぶだけでは、単なるご利益宗教と同じなんだ。イエス様はハッキリと言われる「私の言葉を行うこと、私に従うことが、あなたの信仰の土台をつくるのだ」と。「聞いても右から左で、行いにつながらない者は、信仰さえ倒壊するぞ」と。
厳しいなと思えるのは、私が日ごろ聞くだけで済ませている生活だからかも。信仰生活の本番は、ウイークデーにあり!


●26(土)
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることをしらないのですか。      (1コリ3・16)

キリスト者は、「建物」にたとえられる。その土台はキリストご自身。私たちは、その堅固な土台の上に建てられた聖なる神殿なのだ。だからキリストと一つとなり、キリストの言葉に聞いて、キリストに従う“存在”としてこの世にたっている。もうキリストまみれじゃないか。それも聖霊が、我が内に住まう建物とされているのだ。
私の存在は、もう「主のもの」。そのままの在りようを生きていたい。


●27 (日・第4主日)

主日礼拝説教
      辻川篤牧師



●28(月)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。   (ルカ5・10)

これは、ガリラヤ湖の漁師だったペトロがイエス様の弟子として歩みだす瞬間だ。その瞬間は、イエス様の一言で始まった「人を神のものとするために捕らえる“漁師に”なるのだ」と。それも、「漁師になるか?」とか「やってくれるか?」の問いかけじゃない。「漁師になる、あなたはもう弟子になると決まっているから」という激しい招きだ。
「人間をとる」という御言葉のところに、そっと自分の愛する人の名前を入れたら、私も心が熱くなった。


●29 (火)
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。  (ロマ3・24)

救いへ向かう一本道には、道筋がハッキリ分かるように“道標”がある。ここがその道だと分かるように“標識”が立っている。それがこの御言葉だ「ただキリストによる」「贖いの業を通して」「神の恵みによる」「無償で」「義とされる(ゴール)」だ。
どれもが道を見失わないための“道標”なんだ。そうだ!生活の中で迷子になりそうになったら、いつでもこの御言葉を思い出そう。立ち位置を修正するために。


●30(水)
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。」  (マコ10・21)

神の掟を完璧に守っていると自負する青年が、イエス様に「これ以上何が必要でしょうか」と問うた。それにイエス様が答えられたのがこの御言葉だ。それは「あなたに欠けているものがあるよ。それは隣人に尽くすことだよ。財産も能力も賜物も全てを投げ出して尽くし切って御覧」と。
それも、慈しみの目の中に青年をとらえて言われた。「本当はそこに立って欲しい」と導かれる眼差しで。「きっとあなたならできる日が来るから」との眼差しで。


●31(木)
起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。     (ルカ5・24)

中風を患っていた男を、友人達がイエス様のもとに担ぎ込んであげた。そこで主は、罪を赦して病も癒された場面だ。
起き上がることなんてもう一生できないと思いこんでいた病だけど、主はその苦しみを砕く一撃として「病の淵から起き上がれ、絶望から起き上がれ」と告げられたのだ。「ここしか自分の居場所は無いんだと、がんじがらめに縛られていた床を、お前が担ぎ上げろ、さあ自由に歩き出せ」と。私にも、今日必要な一言として、心に染み込んだ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:36| 『日々の聖句』