2023年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2023年07月31日

『日々の聖句』2023年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年7月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼の声に聞き従ってしまいました。」  (サム上15・24)
罪の告白をしているこの男は、誰か? イスラエル諸部族の最初の王となったサウルであった。彼は、主の言葉を退けて、目の前にある戦利品を略奪したのだ。それは当時は「当然の戦いのやりかた」だったから。勝った者の常識とされる姿だったから。
ボクも「この世の生き方として当然だし、常識だ」と思う生き方がある。でも、一旦そこで立ち止まろう。「これは御言葉にかなっているか」と。


●2(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師




●3(月)
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。(出1・17)
モーセ誕生の時のこと。エジプトの王は、ヘブライ人の赤ちゃんが男子なら皆殺しにするようにと命令を下していた。逆らう者も皆殺しだ。その命令の下にあって、助産婦は王の顔色よりも、神の顔を見ていた。そこに、モーセが誕生したのだ。
神への畏れは、命懸けのことなんだ。人の顔色を見ながらじゃない。ああボクは、両天秤信仰かも知れない。それは神が厭うものなのに。


●4(火)
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」  (サム上3・10)
神が、少年サムエルに呼び掛けられた。主は御自分が呼んでいることに彼が気付くまで、何度でも呼ばれれる。それも「名前」を呼ぶというのは「他の誰かではなくあなただ」と、差し向かっておられるということ。
ふと、神様の接し方は、いつでも同じだなと思った。一人ひとりに呼び掛けて下さる。「はい、私を呼ばれたのですね。御声に従います」と応答できる時まで、ずっと・・・。


●5(水)
彼らが神によって戦ったからである。  (代上5・22)
彼らはエルサレムに攻め入る大軍の敵と戦い、勝利した。その勝因は、「神によって戦ったから」だ。
でも「神によって戦う」って、どうすること? 具体的にはどんな生き方? それを知らないと言葉だけがボクの頭上を上滑りして行くだけ。
自分の計画で戦ってきたボクが、神の言葉にのみ頼る戦い方が出来るんだろうか。祈らねば。そこにしか神から賜る勝利は無いのだから。


●6(木)
さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。  (創13・17)
縦横に歩き回った分だけ(好きなだけ)土地を与えられる。一体誰が、これほどの恵みを貰えたのか。それは、甥のロトに、先に豊潤な土地をあげてしまったアブラハムだった。
人に与え尽くしても、神に従う者には、更に多くを与えられる。溢れるほどの豊かさは、自分の能力や働きに関わるのでなく、神と隣人を愛する生き方か否かに直結している。然り、真の富は主の手から来るからだ。


●7(金)
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創12・8)
神様から、生まれ故郷を旅立って約束の地に行けと呼び出されたアブラハム。やがてカナンに着いた時「見渡す限りの土地を与える」と御声を聞いた。その場に立った時、彼は大喜びしたのでもなく、旅路の苦労を労い合ったのでもない。自分の歩いて来た道を振り返りもしない。ただ主に顔を上げて礼拝したのだ。一週間の旅路を終えた我らの礼拝もこうありたい。ただ御名を呼んで、跪かん。


●8(土)
わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。  (代下20・12)
南ユダ王国がヨシャファト王の時代、周辺諸国が徒党を組んで都エルサレムを攻撃して来た。そのとき王も民も成す術なく、ただ主の御前に立って祈った。「無力な私たちを放っておかないで下さい」と。
勝利への秘訣は、自分の無力を知り、力あるお方を仰ぐこと。そうだ、礼拝から始まる進撃がある。それはあらゆる課題を制してゆく参謀本部となり、また最前線となるのだ。


●9(日)
相模原教会創立75周年記念日

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
ユダよ、お前の神々は、町の数ほどあるではないか。(エレ2・28)
主が呼びかける「ユダよ」って誰だろう。町の数ほど神々がいて、あちこちで熱心に拝んでいるって、褒められてるの? いや、おかしい。
聖書を見たら「ユダ」とは南王国の民のことだった。「神々・・」とは、誰もが偶像を拝んでいることを、主が嘆く言葉だった。神はちゃんと見ておられる。ボクの心の中にも神以外を頼る偶像はないかと。今日を、主に立ち帰る日としなきゃ。


●11(火)
(主の御使いが言った)「あなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。」(士2・2)
モーセの後継者ヨシュアも死に、人々は神に背くようになる。それは、占領できた土地の住民たちの祭壇も築いて、拝み出すという背信だった。
これから長く住む土地だから、その住民たちとも仲良くしようと思ったからだろうか。祭壇を築いても、自分たちの信仰が揺れるわけではないから大丈夫と思ったからだろうか。
偶像崇拝とは、棄教でなく、この二股信仰だ。私達の身近に潜む罠。


●12(水)
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。   (イザ29・19)
苦しみの中で聞きたい言葉があるとしたら、きっと、これだろう。「この苦しみはいつまで続くのか」という問いは、「苦しみが終わる日が来るのだろうか」という不安の叫び。でもそこに、神様からの約束の言葉を聞けたなら。それも「喜び祝い」とか「喜び踊る」という明るい言葉と一緒に聞けたなら。その時、まだ苦しみの中でも、暗い心に光が灯る。不安の雲が晴れてゆく。未来を見せる主の言葉よ!


●13(木)
ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけなさい  (申4・9)
これは「ご自愛ください」というようなことか? 聖書を見たら、主との約束(十戒)を、新しい土地でも守って生きよということだった。そこに祝福を戴ける道があるからだ。でも、人々は土地の習わし(偶像)に流されてゆく。そこに背信の扉が開くのに。
これはボクにもある誘惑。習慣だからとか皆やっているからとか、それを御言葉に優先させてしまう。気を付けろ、あの扉をそこで開けている。

●14(金)
ダビデは主に尋ねた。  (サム上23・10)
ねたみのゆえにダビデの命を狙うサウル王。攻撃の知らせを受けた時、彼は迎え撃つ手段を練ったのではない。味方を増やそうと奔走したのでもない。逃げ出す手段を考えたのでもない。直ちに祈った。
ボクの祈りは、形だけになっていないだろうか。生死を分けるという時、先ず祈りに飛び込まない。右往左往するばかり。そんなボクは、祈りの力を、本当には分かっていないのかも。


●15(土)
姦淫してはならない。  (出20・14)
「十戒」の中の第7戒。「殺すな」という掟の次に置かれている。それほどに厳しい戒めなのだ。単に浮気はダメというような話じゃない。姦淫は、自分の家族も、隣人の家庭も破壊してしまう悲惨の原因だからだ。だから、隣人を殺すなという戒めと同じ響きが含まれていると、よく分かる。
私達の家庭のことを誰よりも真剣に愛して下さるのは、主ご自身。だからこそ、このお方に従ってゆきたい。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●17(海の日・月)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。(エレ3・14)
主に背いて他の神々の所に走った人々なのに。まるで姦淫した者たちなのに。主は「私のところに戻っておいで」と語り掛けて下さる。「戻って来るだけで全てを赦し、あなたを受け入れるから。私こそあなたのパートナーなのだから」と。
愛するって裏切られても変わらない心。あなたが私の主となって下さること、それに優る幸いなし。ああ主よ、私もあなたを愛します。


●18(火)
あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。      (ネヘ9・6)
バビロン捕囚から解放後のこと。ペルシャ王の献酌官ネヘミヤが、崩壊したエルサレムの都を視察した。人々は再建を妨害する敵とも戦い、ついに城壁を完成させて、モーセの律法に立って歩み始める。さらに彼らは、改めて自分たちの罪を告白して、まず悔い改めの礼拝をしたのだ。
再出発は、建物(神殿)の再建にあるにあらず。悔い改めなのだ。これなしには信仰の民の再建なし!


●19(水)
なんと軽率にお前は道を変えるのか。  (エレ2・36)
隣国のアッシリアによって北王国は滅びた。今また新バビロン帝国が攻めて来る。その時、南ユダ王国は、エジプトに頼ろうとする。主に頼ることから外れて、大国のほうが頼りになるように思ったから。この尻軽信仰が、国を亡ぼすことになるのに。
他人事のように言っていられない。困難に襲われた日に、ボクは何を第一に頼っただろうか。自分か、経験か、人脈か? 主を第一にしたか?


●20(木)
わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。  (創22・8)
アブラハムが、愛息子の命を神への献げ物にするために祭壇に向かう。息子イサクが聞く「お父さん、献げ物の小羊はどこにあるの?」と。それに父が答えたのだ。この「きっと」の一言は重い。絞り出した一言なんだ。
信仰って、なんだろう。将来が予測できる中で、神を信頼してついて行くことじゃない。五里霧中の現実の中で「きっと」と、一歩進むことなのかも。その一歩をボクも踏み出したい。


●21(金)
偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません。  (詩26・4-5)
信仰生活においても「朱に交われば赤くなる」というように悪い人と付き合うなということか? そう聞くと、「付き合わない方がいい悪い人って、あの人かな」と犯人探しが始まる。そして人を裁いている。
でも、ボクこそが欺く者・主に逆らう者なのに、勝手に義しい者の側に立ってしまう。こんなボクなのに、仲間に入れてくれる兄弟姉妹がいる。ああ、感謝かなって、気付いた。


●22(土)
主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」  (王上19・9)
偶像バラバにひざまずく民。その時エリヤがバアルの神官を滅ぼした。途端に、王妃イゼベルに命を狙われてしまうのだ。逃げて身を潜める洞穴で、主が臨んだ、「ここで何をしているのか」と。また「引き返せ」と。
主に従ったのに困難に遭う。そこで神の計画は進むけど。それにしても預言者って大変。聴従の人生は、安寧を頂けるという訳じゃないんだもん。って、そんな他人事でいいのか!


●23(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●24(月)
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもない。  (申4・31)
モーセが人々に勧告する。主なる神がどれほど愛して下さるお方かを、切々と語る。有難い言葉。
でもこれは・・・。偶像崇拝禁止勧告の中にある言葉だった。つまりそれほど人々が、主なる神様以外にひれ伏す誘惑が強いということ。
ボクの傍にも、その誘惑は忍び足で寄って来る。お金に頼れ、経験や人脈こそ頼れ、神礼拝はそのあとで良いからと。あな恐ろしや。


●25(火)
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。    (エゼ36・26)
捕囚の民は、捕囚の地でやっと、自らの罪を数え始めた。そして「神の赦しはあるのだろうか」とも。そこに主なる神が希望の言葉を告げる「今までの自己中心の背信の心に変えて、新しい心を与える」と。「私があなたの主、あなたをも守る神。その関係を喜ぶ心を新しく与えるから」と。
主を信じる心って、神様からの賜り物なんだ。ボクも祈ろう「主よ、信仰を今日も新しく与えて下さい」と。


●26(水)
わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとする。    (エレ32・41)
バビロンの地で捕囚となっている人々は、喘ぎながら「神が我々を罰しておられる」と嘆いていた。
しかしその人々に、主がエレミヤを通して、「エルサレムの都に帰れるから、私の民よ、私の心はこれだよ」と語り掛けたのだ。「恵みが見えない」とつぶやくボク。でも神様からは全く違う言葉が告げられていたんだ。どこですれ違ったんだろう。恵みの御言葉の中に帰りたい。


●27(木)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。  (詩55・23)
ああ、なんてホッとする御言葉。肩がフッと軽くなった。
でも、ふと思う「どうして『ゆだねよ』と命令形で言われなければならないんだろう」と。もしかしたらボクらは皆、重荷というものを自分で抱え込んで手放そうとしないからかも。重荷なのに、神様に手放せない。ああここにも、信仰の問いかけがあるのかも。「主にゆだねよ」の「主に」という一言こそ、鍵言葉なんだ。


●28(金)
神を知らぬ者は心に言う、「神などいない」と。      (詩14・1)
「神様なんていない、見えないし触れもしないから」と中学生の頃、友人は言った。そこには「自分のことは自分で切り拓く。自分が自分の王なのだから」との思いがあった。彼は今、どうしているのだろうか・・・。
あの日「でも神はいるよ」と言えたボクの根拠は何だったのだろうか。そうだ、神様というお方を知っていたから。イエス様を通して知っていたから。聖書によって知っていたから。


●29(土)
主があなたの傍らにいまし、足が罠にかからないように守ってくださる。(箴3・26)
神が共に居て下さるというのは、そこで貴い御業をして下さるためだと告げられている。その中身は、そもそも悪い方へと陥らないように守って下さるということ。つまり主は、私達の人生の「前」を進んで下さるのだ。罠にかからないように。
また同時に、「しんがり」にも居て下さる。「主に委ねる安心」というのは、この神様に、ちゃんと挟まれる場所を歩くということかもね。


●30(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●31(月)
主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。  (王上8・56)
遂にソロモンが、神殿を完成させた。その時、民の前で長い感謝の祈りをささげたのだ。その締めくくりに、今日の言葉がある。
モーセに告げられた「あなたと共にいる」という約束の言葉は、いつも真実だったと振り返っている。それはボクにもまた真実。喜びの時も、病と苦難の日々も、主は共に居てくださった。ボクも感謝を数えて、今日を始めよう。

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2023年06月30日

『日々の聖句』2023年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年6月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。   (イザ11・9)
スゴイ! 全地が「主こそ神」と称える日が来るなんて。「大地」ということだから、全ての国々が争いをやめ、鳥も動物も木々さえも、お一人の主なる神を仰ぐ日が来るのだ。
これは、捕囚の中で語られた預言だ。単に、自分が救い出されることを願う個人主義じゃない。全てのものが一緒に主を仰ぐんだ。やっぱりスゴイ! ボクも自分のことだけでなく、隣人との間で、この信仰に立ちたい。


●2(金)
あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。 (イザ30・20)
捕囚の民に救いの日の到来を、預言者イザヤが告げた。「もはや隠れておられることなく」ということは、人々にとっての日々は、神が沈黙され、自分たちを見捨てて遠くに行ってしまわれたと思えた日々だったからだろう。
「神が共に居て下さらない」と思える日々が、ボクにとっても一番辛いって分かる。「神が共に居て下さる」、ここに一番の平安があることも。


●3(土)
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。   (レビ19・32)
これは、神聖法集の中の一つだ。神に喜ばれる者として生きる者への道標としての言葉を、神がモーセに語り聞かせた。
単なる倫理的な「敬老」の教えなどではない。「お年寄りを大切にしよう」という儒教的道徳の話でもない。年長者を尊ぶことは、神の掟だ。だから軽んじるということは、神を畏れないということに直結している。主に仕えるように、年長者を尊ぼう。


●4(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師



●5(月)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)
詩人の嘆きは、苦難そのものが辛いと言っているのではない。命を脅かされるほどの病や敵に襲われても、それ自体は嘆きではない。只一つのこと、主が共にいて下さらないということを悲しんでいるのだ。
それは逆に、どんな苦難の中にあっても、主が傍におられるなら生きてゆけるということ。そういうリアルな信頼なのだ。ボクも、そういう信仰者でありたいな。


●6(火)
彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける。   (イザ29・21)
一読して「何てケシカラン奴らだ」と思った。でも一呼吸おいて「あれ、他人事なんだろうか」と思う。そして、今朝の御言葉に自分を重ねつつ振り返って思う、「これは、あの人、この人のことじゃなくて、自分の姿だ」と。きっと人はボクを見て「何てケシカラン」と思っているのだろう。きっと神様も。今日が、その姿を止める転換点。自分の情けない姿に気付けた人が、救いの入り口に立てるから。


●7(水)
あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。   (詩10・14)
神が、労苦にある人を見つけて、助けの御手を伸ばして下さる。なんて有難く、嬉しいことだろう。それを私たちはいつも願っているのだから。
あ、でも大切な一言に気付いた。「御手に労苦と悩みをゆだねる人」とある中の「ゆだねる」だ。助けは、本気で神に委ねる人にだけ注がれる。自分が「アレコレして欲しい」と願う人じゃない。解決の方法も時も委ねる人だけだ。同じようで、全く違う。


●8(木)
あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる。    (詩18・36)
神様の救いは、高い天から、助けのロープを垂らされ「さあ、ここまで登っておいで」というのではない。神ご自身が、倒れ伏す者の下へと降って来られるのだ。それも、私たちが再び力を得て、自分で立ち上がれる「強い者」として下さるために。
まるで、最前線にまで駆け寄ってくれる救助隊のようだ。その助けを呼ぶためには、これだけで良い、「主よ、私はココです」と。


●9(金)
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」  (イザ7・11)
南ユダ王国に敵の攻撃が迫っていた。その時アハズ王も民も心配で激しく動揺した。その王に、主なる神が言われた言葉がこれだ。
敵となるもの(人も困窮も)が迫る時、自分が持ってるあらゆる手段によって解決しようとする。でもそこで動揺が止まらず、かえって不安が募る。一番大切なことを忘れているから。主を求めることだ。ふと、「ボクもこの愚かな民と同じだ」と思った。


●10(土)
神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。    (ダニ1・9)
侵略国バビロンに連行された少年ダニエル。そこで宮廷に仕えさせられるため駆り出された。そのとき神様が、バビロンの侍従長の心に働きかけられたのだ。神の方法は、人間の想像を超えている。敵の心さえも手中にして用いられるのだ。
それなのにボクは自分の中で考えて「ア〜して欲しい、コ〜して助けて」と願ってる。今日こそ「御心を成して下さい」という祈りに変わらなきゃ!


●11(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●12(月)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。     (ホセ6・3)
南北に分裂してなお続く背信。その前途に国の滅亡が待っている。そこに立ってホセアは語り続けた。
日々人が追い求めていたのは、自分の満足、自分の計画、自分の栄誉。しかしホセアは「主を知ることを求めよ。主の計画、主の望まれること、主の喜びだ」と。
これはボクの生活に告げられた御言葉だ。正に今日という全ての瞬間を、この言葉に重ねて歩めと。


●13(火)
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。   (創22・6)
神が、愛息子イサクを、焼き尽くす献げ物とせよと告げられた。それは息子の命を自らの手で取ること。そのための火と刃物を手にして、彼はその場に向かう。何を考え、何を思っていたのか・・・。決して、力強い足取りではなかっただろう。でも進む、「主の言葉だから」と。黙々と。
ボクも行こう、先は分からずとも、トボトボとでも。そこが行く道だから。そこに、御業が起こされるから。


●14(水)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。   (ルツ2・13)
異邦人で未亡人のルツが、姑と一緒にベツレヘムに来た。未亡人に仕事などない。その日の食べ物にも窮した二人に、親戚のボアズが優しい言葉をかけた。人は口から入る食べ物で生きる。でも、それよりも生きる力となる食べ物は、心に触れる言葉だ。相手を分かってあげる言葉、相手に添って居られる言葉だ。それって、分かる気がする・・・。そんな言葉で周りが満ちていったら、良いのにな。


●15(木)
彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主はあなたのただ中におられ、大いなる畏るべき神だからである。    (申7・21)
この「彼ら」とは? イスラエルの民よりも強大な諸国のことだった。
その諸国というのは、私たちにとっては身に降りかかる難題でもある。「そんなのとても無理です」と思える困難でもある。ボクもそれらを前にしたらうろたえるかも。いや、うろたえてばかりの人生だった。でも、主が言われるのだ「私があなたの中に居るから、心配いらない」と。大いなる方が私の内に居ます。もう大丈夫だ!


●16(金)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。     (詩42・2)
川底が見えるまで涸れた谷を、水を求めて鳴きながら鹿が一匹よろめき歩いている。その姿が、苦難の日に神の御名を呼び求めて、しかしそこで答えのない渇きに嘆く詩人の姿と重なるのだ。「主よ、あなたはどこにおられるのですか」と泣いている。
いや詩人の姿じゃない。私たちの姿。何度祈っても、神の応答が聞こえない日々の姿。その泣き声は、私たちの叫び。ただ主に頼る者の叫び。


●17(土)
ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。   (ハガ2・19)
これらの実は「豊かさ」のしるし。つまり「実を結んでいない」とは、人々は未だ、悔い改めて神の前に立ち帰り豊かな信仰に生き始めていないと告げられる。でも、そこでなお預言者ハガイは「しかし」と言う。神は、それでも今日からその人々に祝福を与える、と。これを聞いたのは捕囚の民。どんなに嬉しかっただろう。
祝福が、悔い改めが条件となっていない。主の一方的憐れみ。感謝だ。


●18(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●19(月)
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。     (マラ3・20)
徹底的な神の裁きが告げられる。その直後にだった、「しかし」と今朝の御言葉が語られたのだ。
神を畏れ敬うことは、心の問題じゃないんだ。また単なる信仰生活の目標でもない。これは、永遠の滅びか義の太陽が昇るか、死ぬか生きるかの分かれ道の話。自分の存在を掛けるべきことなんだ。
さあ今日、舵を切ろう。義の太陽が昇る世界の方へ。


●20(火)
彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。  (申15・10)
「彼は」って誰のこと? 聖書を見たら、「貧しい同胞」のことだった。つまり隣人のことだ。
神様は、私たちが人に与えるために豊かにして下さるのだ。貯め込んで、自分のために使うためじゃない。
何だか財産について、新しく目が開かれた気がする。思いっきり手を開いて、握りしめず、感謝して手渡そう。一旦ボクに与えられたお金を。御心に従うために。


●21(水)
「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。     (エズ3・11)
バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民は、ついにペルシャのキュロス王によって解放された。そうやって都に帰還できた人々は、先ず礼拝したのだ。廃墟の神殿に、祭壇だけ築いて、それでも喜びの礼拝をした。
ボクも苦難に遭う日がある。でもそれを通り抜けた時、ボクは何をしているだろう。単純に喜んでいるだけで良いのか。いや、まず礼拝なのだ。その恵みは、神から来たのだから。


●22(木)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。   (創28・16)
ヤコブは、兄エサウの報復を恐れて荒野に逃げた。そのとき夢で、天からの階段を昇り降りする御使いを見て、気付いて言った言葉がこれだ。
「こんな所に主はいない」と思えるような、人生の荒野がある。しかしそこでこそ気付けるのだ。主が共におられるというのは、ボクがどこに居ようとも真実なのだと。だからこそ誰もが、苦難の中で神にすがれる。臨在は、信じる前に既にある真実だから。


●23(金)
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。   (ハバ2・4)
新バビロン帝国が攻めてくる中、預言者ハバククが主に問う「彼らは力によって支配するために剣を抜いているが、それで良いのか」と。それに対して主が答えたのがこの御言葉だ。単に「神に従おうと思う人は信仰に生きる人だね」という程度の話じゃない。死を前にして、お前は自分の力に頼るのか、信仰にのみ頼るのかを問う。いずれかを選ぶ命がけの選択だ。
今日ボクは、どっちに立つのだ!


●24(土)
御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。  (詩86・11)
神を神として畏れ敬うことは、自分の信仰心から出て来るものだと思っていた。
でも、この詩人は真実を知っている。神への畏敬は、本当は人間の心の中には一かけらも無いということを。神を愛する想いも、本来の人間には、無いのだということも。人は皆、神に背く者・罪人というのが本性だから。
ボクも祈ろう、毎朝祈ろう「御名をあがめさせたまえ」と。

●25(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●26(月)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。   (士5・11)
背信の民に、女預言者デボラが立てられた。彼女によってカナンの王は倒れ、人々に平和が戻る。その時にデボラが歌った歌がこれだ。
普通なら自分の業を後世に語り継ごうとするのに、彼女は自分の功績に関心が無い。全ては主の御手からと分かっている人は、主の御業を語り告ぐ。恵みが分からない時、勘違いして自分を誇る。ボクは、そんな愚か者になるまいゾ。


●27(火)
「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」   (出3・5)
モーセが神の山ホレブに上って行った時、主が声を掛けた「神の領域に踏み込むな」と。もしかしたら、ボクも警告される時があるのかも・・・。
神の領域に、土足で踏み込むことがあるからだ。それは、御心として下さる神の計画の場があるのに、自分の計画・やり方でしか進みたくないと自分中心に歩く時だ。土足で御心の場を汚している。その時、自分中心という履物を脱げと警告の声が響く。


●28(水)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。  (ミカ5・6)
「彼ら」とは誰か。神の審判によって砕かれる民の中にあって「残された人々」のことだった。旧約の中で、この「残された人々」というのは、鍵言葉だ。その「小さな芽」から、神の祝福は再び拡がるのだから。
主の目に適うのは、人の力に頼らず、神に望みを置く人。民の中では弱い人々のグループだが、憐れみを受けて生き残る。ボクはどちらに立つのか。自分の強さか神の憐れみか。


●29(木)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。   (民14・41)
モーセの忠告も聞かず、人々は自分の思いだけで、自分の計画を立てて戦いに出た。その先で剣に倒れた。
人はどうして勝手なことをするんだろう。そんな風に思っていてハッとした。ボクも祈らないで事を始める時がある。現実の課題だから自分で決めて当然と思っているから。本当は現実の課題だから祈らなきゃならないのに。「成功するはずはない」という道に、迷い込まないために。


●30(金)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。    (詩20・8)
武器を持つよりも、祈りの方が強いんだと、ボクは本気で考えているだろうか。真剣に信じているだろうか。いつも自分で知恵を絞って策を練って、自分の武器というものを優先して、その後で「守って下さい」と祈っていたりしないだろうか。
この詩人のように、本気で信仰に生きていきたい。祈りの力を知る信仰者になりたい。神の御業は、そこでのみ見られるのだから。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:32| 『日々の聖句』

2023年05月31日

『日々の聖句』2023年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年5月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。」  (エレ23・3)
南ユダ王国は滅ぼされ、民は離散した。しかし、彼らは昔、神が選び、「我が民となる」とされた民なのだ。その想いを、神が貫かれる。背きの民だけれども、にもかかわらず残った人々を再び都へと呼び戻すから、と語り掛けられたのだ。
背きの者に向けて、「私が愛する思いは消えないから」というメッセージは、そのまま今朝、放蕩息子のボクにも届いた。嬉しかった。


●2(火)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。 (サム上2・7)
これは「ハンナの祈り」の中の一言。赤ちゃんが与えられずに悲しみの中にあったハンナに、主が息子サムエルを授けた。その子を神殿に連れて来た時、賛美して祈ったのだ。
悲しみを知っている人は、主の恵みが、つぶさに分かる。「この幸いは偶然でもラッキーでもない。主が与えて下さった」と。「全ては主の御手の中だ」と分かる。それは貧しくされた時にも先を望み見て平安を得る根源。


●3(水・祝日)
食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。   (申8・10)
モーセが荒野の四十年の旅を振り返りつつ、十戒を賜った日のことを語った。そこで、その神からの戒めを守って歩むなら幸いを得ると告げたのが、今朝の御言葉だ。それは、現実的な衣食住も満たす恵みなのだと。
しかし私たちは知っている。満たされても、なおそこで満足できない民の歴史を。そして思う。それはボクの姿でもあると。主をたたえない根源に、ボクの中にある強欲がある。


●4(木・祝日)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。 (イザ6・5)
「汚れた唇」って何だろう。
思い巡らしていて思いついたのは、隣人を悪く言う自分の口のこと。自分が義しいと主張して、悪い噂を広める口のこと。兄弟姉妹をおとしめる言葉が出て来る唇のこと・・・。
いや、唇でなく、その唇を持っている自分自身のこと。心根に罪が渦巻いている自分自身のことだ。赦されることが必要な私の存在そのもののことなんだ。


●5(金・祝日)
「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」   (エレ31・10)
帝国が攻めて来る、バビロン捕囚の日が迫っている。その人々に向けて「神の懲らしめをちゃんと受けよ、怖がらずに。悔い改め日々を過ごせるために」と告げたエレミヤ。しかしそれだけでなく、その日々の向こうにある恵みの約束も告げたのだ、「主が守るから。回復の日が来るから」と。
主の御手の中にある懲らしめならば、それは未来への道。ならば逃げるな、むしろ首を洗って前に出よう。


●6(土)
あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください。  (詩28・1-2)
これは、ダビデが歌った歌として読むように促されている詩編。彼は、愛息子アブサロムによって命を狙われた。息子の反逆に、どれほど苦しみ悲しんだことだろう。その中でこの詩が生まれたのだとしたら・・・。
詩が彼の肉声のように聞こえて来る。困難の中で祈り続けていても、神が沈黙しているように思える時、絶望の淵に立たされる。まさに祈りへの神の応答は、「命綱」なのだから。


●7(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●8(月)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。  (創24・48)
イサクのお嫁をイスラエルの民族の中から選ぶために、父アブラハムの僕が旅に出発した。その旅先で祈っている時、後にイサクの妻となるリベカと偶然出会えたのだ。
否! 偶然ではない。僕がその時言ったのが「主が導いてくださいました」という信仰の言葉だった。
ボクも祈っていたら分かる。全ての出来事は、偶然じゃない。あれもこれも主の御手がそこにあったと。


●9(火)
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。   (サム上12・21)
「むなしいもの」って何だろうと思って、聖書を開いたら、アレコレの個別の話ではなかった。むなしいものとは、主なる神ではない全ての物や、事や、人であった。
自分の周りにある「むなしいもの」を考えてみた。お金に頼ることもある、人脈に頼ることもある。・・・でも、主以外に頼ってしまう最も厄介なものがあった。自分自身であり、驕りだ。それこそが主の厭うものだ。


●10(水)
心の中で兄弟を憎んではならない。   (レビ19・17)
これは神聖法集の中の言葉。つまり、神に喜ばれる民として相応しく生きるための道標なのだ。それはまた、キリスト者として相応しく生きるための法と言い換えても良い。
でも、信仰生活の中で、ふと隣人への不平が起こる。それが口から出た日には、目も当てられない。それでも自分が義しいと思っている。ああ、神様から見られたら、目も当てられない者、それはボクなのかも。


●11(木)
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。  (イザ35・10)
まだバビロン捕囚は起こっていない。これからやって来る大きな苦難。しかしそこで預言者イザヤは、更に向こうにある希望を告げたのだ。それは自分が思い描く期待などではない。神が与える未来であった。
これは「苦あれば楽あり」などという程度の楽観視ではない。神の計画なのだ。苦しみのある人生だから、ボクも神の御旨を聞いて歩みたい。神が描く未来に行くために。


●12(金)
あなたたちも寄留者も主の前には区別はない。    (民15・15)
これは神を礼拝するときの掟。それなのに、驚いた。「礼拝する神の民」とされているイスラエルの人々に向けてだけでなく、ここでは異邦人の寄留者も含まれているのだから。
そうか! 思い出した。出エジプトは、異邦人も一緒に逃げたのだった。その一人ひとりも神の守りの中に入れられたのだ。そして、ボクもその中に入れられている一人だ。異邦人なのに、恵みの中に数えられている。


●13(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」 (ヨシュ5・15)
ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、エリコの平野に到着した。でもそこで彼の前に、主の軍の将軍が現れて言った言葉がこれだ。
私たちにとっては、相模原の地にある礼拝堂が、その「聖なる所」だ。ふと、そこに入る時、土足で上がり込んでいないだろうかと思った。下履きというのでなく、心が土足だということ。自己中心の泥がこびりついた履物を脱いで、祈りの場に入らねば。


●14(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●15(月)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)
心に沁みて届く御言葉だ。「自分にも、悲しみと辛さに、泣きながら夜を過ごすことがある」と分かる人には、なおさらだろう。でも、この詩人と同じように、信じるなら「悲しみで終わらない」とも分かる。「喜びの朝が待っている」と、悲しみの夜の只中で言えるんだ。
信仰って、本当にありがたいな。苦しみの無い人生はないから、改めてそう思う。


●16(火)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。  (創39・23)
「ヨセフはいいナー。神様に全てをうまくいくように計ってもらえたなんて。素敵な生活を送ったんだろうな」と思って聖書を見たら・・・。
彼はエジプトで侍従長の家の使用人となっていた。そこで主人の妻に誘惑されて、断ったら謀られて、監獄に入れられてしまう。踏んだり蹴ったりなことばかり。そうか! 主が共におられて守られるというのは、災難苦難が無くなることじゃないんだ。乗り越える力を得ることなんだ。


●17(水)
あなたに背いたことをわたしは知っています。      (詩51・5)
この詩は、「ダビデが部下の妻バド・シェバと通じたとき預言者ナタンがダビデのもとにやって来たとき」という但し書きが添えられた。
姦淫の罪、部下を裏切る罪、戦いに送って殺した殺人の罪。彼はそれを知った。その時、神の前に出る。裁かれることを承知で。それは、神以外に罪を拭って下さる方はいないと知っていたから。裁きこそが恵みへの道。そこにだけ、赦しがあるから。


●18(木)
神に僅かに劣るものとして人を造られた。   (詩8・6)
詩人は「人間とは、一体何者だというのか。神が顧みて下さるなんて、そんな特別扱いが許されるなんて」と自問する。そしてハッと気づいたようにして、今朝の言葉を歌ったのだ。
「神に僅かに劣る」というのは、神の座に近いという傲慢じゃない。神様に直接目をかけられ、だから生きとし生ける物の中で唯一神様のお心が分かる者ということ。そこには自惚れでなく、賛美しか起こらない。


●19(金)
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 (エゼ34・11)
神の民と言われたイスラエルの民。でも自らの背信のゆえに国は滅び、人々は異邦の地に離散した。南王国の人々は、バビロンへ捕囚となる・・・。
しかし神は、人々を見捨てたのではなかった。それは人々が神を求め続けたからではない、神が人々を求め続けたからだ。「探し出す」、「世話をするから」と言って下さるのだ。
今朝、その言葉だけで癒された。神の想いに触れたから。


●20(土)
行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。   (エレ2・2)
エレミヤは、神様からの言葉を、都エルサレムにいる背信の民に、あまねく伝えねばならない。その中身は、神の怒りと、神の嘆きの言葉だった。
耳にして厳しい「自分の罪」の告発は、実は、正しい道に方向転換させてくれる最後の警告だ。そしてそれは、恵みに至る唯一の入り口なんだ。顔を背けてはならない。自分と関係ないと思ってはならない。恵みへの道を、そこで失ってしまうから。


●21(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●22(月)
あなたたちがわたしに助けを求めて叫んだとき、わたしは彼らの手からあなたたちを救ったではないか。しかしあなたたちはわたしを捨て・・・(士10・12〜13)
ああ、激しい神の嘆きの言葉。「懸命に愛を注いだのに、あなたたちは私から離れて行った。他の人(異邦人の神々)を慕って行った・・・」と嘆いておられる。イスラエルの民はなんて薄情な背信者たちなんだろうと思って、ハッとした。
ボクも、神様のお心も御言葉も棚上げして、〈自分の遣り方〉という〈神〉を慕って行く時がある。我こそ、神の嘆きの子なり。


●23(火)
だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら・・・こたえてください。    (王上8・38〜39)
とうとう神殿が完成した。そのときのソロモン王の祈りの中の言葉がこれだ。そして「心に痛み」とは、飢えや、病に苦しむこと、災難が降りかかること、敵に襲われることだった。
王は自分の繁栄を求めない。健康も、財産も。彼の願いは民の平安。そして、民と神との間の強い結びつきだった。彼は、良き執り成し手なのだ。ボクもこんな信仰者でいたい。また、兄弟姉妹で互いにこう祈り合いたい。


●24(水)
あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。   (ルツ1・16)
えっ? あなたのものは全部私のものって言ってるみたい。一見、強欲だな。でもこれって何のことだろう。
聖書を見て分かった。夫に先立たれたルツが、姑の故郷に一緒に行こうとする時、自分の民族や家族と別れる決意だ。自分の民族神も捨て、主なる神を私の神とする告白だ。
強欲どころか全てを捨てる決意。それは一見、貧しくなるけど、豊かさに至る道だと、ボクは知っている。


●25(木)
わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。      (詩6・7)
詩人の一言一言が胸に沁み入る。嘆きの強さ、悲しみの深さが伝わって来るから。これは、ダビデの詩として読むなら、詩人の思いが良く伝わって来るとも言われている詩。彼は、愛息子の謀反で命を狙われた王。本当に切なくて辛かっただろうなぁ。
私たちも涙の枯れない夜がある。辛くて胸をかきむしる日々もある。その訴えをどこにもって行くべきか。そうだ、詩人と同じように、神にだ。


●26(金)
イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。    (出3・9)
エジプトで奴隷となっていた民の大脱出が起こる。その出来事の出発点が、ここなのだ。神が、人々の叫び声を聞かれたということだった。
神の救いの御業が、私たちにも起こる。それは、私たちが苦しみにあえいで叫ぶ時だ。打ちひしがれている姿を、神がご覧になった時だ。ボクの苦難に心を痛めて下さる。そのお方が私の神、私の主。なんと畏れ多きこと、そして嬉しいことだろうか。


●27(土)
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。   (アモ5・24)
南北王国の滅亡前のこと。民に向けて預言者アモスが告げた神の言葉だ。神殿礼拝で、形ばかりの献げ物や賛美の歌よりも、心からの礼拝をせよと告げる。それは具体的には何か。それを今朝の御言葉が示した。
神に対しては、正義を尽くすこと。隣人に対しては、恵みの業を注ぐこと。あ、これはイエス様が言われた『黄金律』と重なる気がする。そうだ、神の願いはずっと同じなんだ!


●28(日)
 (聖霊降臨祭・ペンテコステ)
早天祈祷会 永盛理香子 姉

礼拝説教 
主   日  藤森誠 伝道師



●29(月)
それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。   (士2・18)
「それは」とは何だったのか。人々を導くヨシュアが亡くなり、民は主から離れた。その結果、略奪者に苦しめられる。その時、民の呻きを聞いた神が、再び民を導く者を立てて下さったことだった。
罪人であっても、神に憐れみを乞うて良いんだ。主は哀れに思って、心を動かして下さるから。それが、旧約時代から変わらない神の真実。その中にボクも飛び込もう。


●30(火)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。    (イザ26・19)
イザヤは、国が亡びた先にある神の恵みの御業に顔を向ける。人々の背きのゆえに捕囚となるが、その先を見ているのだ。いや、祈りの中で見させられている。「あなた(神)の送られる露(恵み)は光の露」と。
なぜ滅亡へと転がり落ちるのが目の前にある現実なのに、その向こうの希望が見えるのだろう。きっと祈りの生活は、神との生きた対話の時間だから。祈りが見る未来があるのだ。


●31(水)
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。   (エレ11・20)
人々はエレミヤに「神の言葉を伝えるな」と脅した。自分達の背信を指摘され、悔い改めを迫られるのを嫌ったからだ。彼は窮地に立たされた。
そのとき彼は、人々に言い返したのでも争ったのでもない。自分の正義を主張したのでもない。神のもとに駆け込んだのだ。つまり祈った。そこが解決の唯一の場と分かっていたから。
ボクも窮地に立つ日がある。その時「主よ、打ち明けます」と祈ろう。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:23| 『日々の聖句』

2023年04月30日

『日々の聖句』2023年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年4月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。   (イザ24・5)
大地が人に「汚された」、と聖書は告げる。地球や環境のことが、聖書に扱われているんだ。「信心や善悪のことなら馴染むけど」と思いつつ、ちょっと意外に感じて、すぐに「当然かも」と思い直した。だって、世界を造られたのは、神御自身なんだから。それも、全てを見て「良し」と言われたほどに愛されたのだから。
それなのに、人の罪が、自然も汚すのだ。環境問題は、信仰問題だ。


●2(日・棕櫚の主日)
礼拝説教
(棕櫚の主日)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。  (箴20・19)
「そんな人と関わるのは嫌だね」と思いながら・・・。そう思っている自分が、人の秘密を漏らしている者かも。陰で、嫌いな人の悪口を言っている者かも。正義は当然自分にあるという口調で、直接会って、手紙やメールまで使って。
ああ、私の中に、神が忌み嫌う者の姿がある。先ずその自分に気付いて、悔い改めて、金輪際交わらないように縁を切らねば。


●4(火)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。  (サム上2・26)
主なる神に喜ばれる者になったら、隣人にも喜ばれる人になれているということかな。いや、隣人に喜ばれる人が、神に喜んでもらえる者ということか? でも、そんな卵が先か鶏が先かという話じゃない。御言葉に聴従して生きるなら、神にも人にも喜ばれる者となって〈いる〉ということなんだから。だから、「すくすく育ち」というのは、身体の話だけじゃなくて、霊的な話なんだよね。


●5(水)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」  (創12・1)
アブラハムが、神様から祝福へと呼び出される。しかしそれは、未踏の地への旅立ちだった。自分を自分で支える地縁・血縁の全てを捨てて出発することへの呼び出しだった。
ボクも神様の祝福を求めている。でもそれを戴く場所へと呼び出された時、アブラハムのように応えられるだろうか。神様のなさり方に、応答できるだろうか。御心に従いたいと言っていながら、従わないボクがいる。


●6(木・洗足の木曜日)
わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。(イザ55・8)
イザヤが背信の民に「神に立ち帰るなら豊かに赦して下さる」と主の御旨を伝えたのがこの御言葉だ。
人と人なら、裏切り者を赦したりしないだろう。再び愛したりしない。償い切らせて、なお縁を切ろうとするだろう。でも父なる神は違うのだ。
ボクはそれを知っている。十字架の上の御子のお姿に、神の御子が死なれた姿に、そこに神の思いが露わとなったことを。


●7(金・受難日)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。  (詩37・24)
きっと誰もが人生の中で、行き詰まり、倒れ伏してしまう時を経験するだろう。誰からも、どこからも助けがなく、見放されているように思える日がある。
でも今朝、御言葉は、「たとえ倒れても、あなたをとらえる御手は去りはしない」と告げるのだ。あなたが倒れ込んだ、その足元で、主があなたを支えていると。どんな時も、決して見放されはしない、と。


●8(土)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。  (コヘ8・5-6)
改めて「賢者」ってどういう人のことかなと考えさせられた。知恵や知識が豊かとかじゃない。経験の豊富さとか、弁が立つ人とかでもない。
空気が読めて、状況判断できる人とかでもない。ん? ちょっとこれには近いのかも。なぜなら、「ふさわしい時を読む人」のことだから。
でも、その「時」は誰が教えてくれるのかな? ボクは、もう知っているな。それは、あのお方、イエス様だ。


●9(日・復活祭 イースター)
礼拝説教
イースター(復活祭)

早天祈祷会 津川優司 兄
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。   (創4・4-5)
最初の兄弟の物語。兄のカインも弟のアベルも献げ物をしたのだけれど・・・。神は弟の物だけを受け取られた。その神の御旨は人間には分からない。しかし兄カインは、思い通りに行かないから、嫉妬して激しく怒ったのだ。愛されていることは変わっていないのに・・・。
ふと放蕩息子の兄の怒りを思い出した。人はどこまでも自分中心なのかも。最初の兄弟からずっと。


●11(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。   (詩84・11)
詩人は、「神の庭で過ごす一日」を、この上もなく幸いな時だと謳っている。栄華を極める王宮で過ごすよりも、大きな恵みだと言うのだ。
そんな主の庭って、どこだろう。天の国のことかな? それなら地上に生きるボクには、少しだけ遠い場所。あ、もしかしたら、あそこだ。あそこが主の庭だ。それは、主の神殿、礼拝堂だ。ボクもいつも、「礼拝は千日にもまさる恵み」と過ごしたい。


●12(水)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)
捕囚の地でゼカリヤが、主の言葉を人々に告げた。それは、見捨てられたように見えるイスラエルの民に、しかし「あなたと一緒にいるよ」という主の約束の言葉だった。
きっとこの言葉は、人々にとって慰めと希望の言葉として聞こえただろう。ボクも、それがちょっと分かる気がする。打ちひしがれた日に、一緒にいてくれた一人の友の存在が嬉しかったから。ただ居てくれるだけで・・・


●13(木)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。     (箴1・23)
主の霊を戴くには、それを受け取る器を、自分の中に準備しなくちゃならないのかな。でもそれは、自力で自分の心の中を綺麗にする、というようなことじゃないらしい。
それは「懲らしめを受け入れる」という場所を持つことだと告げられていた。首を洗って御前に出るんだなぁ。なんか恐いな。でも、本当に私の御父だと信頼したら、御前に出られる。委ねられる。信仰の問題なのだ。


●14(金)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。   (詩4・9)
なんて素敵な安らぎの時間なんだろう。私も、いつもこんな風に過ごしたいと思う。でも、これはどういう場面なのだろうかと思って聖書を開いたら、詩人は苦難の底から主を呼び求めていた。さらに、「おののいて罪を離れ・・・主に寄り頼む人に御顔を向けて下さる」と告げられていた。
安らぎの時間は、主に立ち帰り、主に信頼する所にある。ボクも御父のもとに帰ろう、平安を求める故に。


●15(土)
モーセは主に言った。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」     (出4・10)
主が、イスラエルの民をエジプトから脱出させるための指導者としてモーセを選んだ。その時彼は、「口下手だし、人の前に立つのは苦手だし、無理です」と、主に対して拒んだのだ。
「御心に楯突くなんて、なんて不遜で不敬虔な」と思って、ハッとした。やりたい奉仕しかしない、やりたくない苦手な奉仕はしない。そんな姿は、ボクに似ていると気付いたから。恥ずかしくなった。主に対して。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●17(月)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」  (エレ7・23)
「むしろ」って何を指してるの?
聖書を開いたら、人々は律法を遵守して献げ物をしているけど、心が伴っていないことを主が見抜いてこれを言われたのだ。
神様が喜ばれることが何なのか、ハッキリ分かる。それは、ボクも御言葉に聞き従うことだ。それも心から喜びつつ。あっ、今、主の御声が聞こえる気がする「分かったのなら、そのようにしなさい」と。


●18(火)
獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。   (サム上17・37)
少年ダビデは、大男の戦士ゴリアトに対峙した。戦いのために持っているのは、投げ石だけ・・・。そのとき少年ダビデが言った言葉がコレだ。
単に「いま神を信頼している」ということだけじゃない。ダビデの信仰は、「かつて、あの日を守って下さった神」という現実味だ。信仰は、信仰体験も大切なのかも。、神の御業を数える体験の積み重ねだ。そこに育つ確信が、未来への信頼の基ともなる。


●19(水)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。   (ゼカ2・17)
「黙せ」と言われているから、神様は怒っておられるのかと思ったら、「主は・・・立ち上がられる」からだと告げられていた。どういうこと?と聖書を開いたら、都への帰還の喜びの知らせだった。
「黙るように」とは、「もう嘆くな。悲しみの日々は終わるから」ということなんだ。嘆きを終わらせるのは、単純な問題解決じゃなく、神様から未来の希望を得ることにあるんだ。


●20(木)
わたしは初めであり、終わりである。   (イザ44・6)
「これは、新約のヨハネ黙示録の御言葉」と思うけど、旧約の預言者イザヤを通して神が告げられた御言葉だ。神様がご自身を顕す時、古来も未来も、同じ言葉になるんだなぁ。
これを、捕囚の民が聞いたのだ。自分達の初めから、そしてこれから先もずっと主なる神がともに居てくださる。その宣言は、何よりもの励ましになっただろう。そしてその励ましは、今を生きるボクにも届くのだ。


●21(金)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。(エレ2・19)
自分の罪が、自分への懲らしめになるの? 私の背信が、私を責めるの? どういうことだろう・・・。聖書を見て分かった。
神からの報いを負うことになるからだ。罪も背信も、何もなかったかのようには終われないんだ。
今朝の御言葉が、ボクが過ちを犯す前のブレーキになってくれたら。そのために、大切な一言として、これを心に納めておこう。自分を守るため。


●22(土)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。     (詩23・1)
「あ、これはボクの好きなやつ」と、私の心が叫んだ。
多くの兄弟姉妹も「何十年もこの御言葉に支えられて来た。私の愛唱聖句です」とおっしゃると思う。この詩編二三編がそれほど愛されるのは、詩人が困窮の中に在りながらも、そこから告白された言葉の力強さによるのかも知れない。
ボクはこの先、棺の中にまで携えて行こう、この御言葉を。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●24(月)
彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。   (申3・22)
モーセが後継者ヨシュアに命じる、「ヨルダン川を渡って、民が受け継ぐ土地へ進め」と。それは、神の御旨。しかしその御計画には困難があった。敵がいたのだから。
今朝、御言葉は告げる。神の計画なら、神が戦って下さると。ならばボクの心配は、「どんな困難があるか」ではなく、「ちゃんと御旨を聞き取れるか」だ。祈りに依らないでは、一歩も進めないゾ。


●25(火)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。  (ヨナ2・3)
ヨナが、神の命令から逃亡した先で嵐に遭い、海に放り出されて死ぬ直前。神が遣わした魚に呑まれて助かる。自業自得なのに、それでも背いたヨナを助ける主。そこでやっと彼は悔い改められたのだ。そして神に顔を上げられた。
真の悔い改めって、神の恵みの中で起こるんだ。単に自分だけで悔いて懺悔する自分の業じゃない。そこはもう、慈しみの御手の中!


●26(水)
今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。   (ヨシュ23・8)
モーセから引き継いで、民を安住の地に導き入れたヨシュア。彼も老人となり、地上を去らんとする時、告別の辞を語った。その遺言の中心は、やはりこの言葉となったのだ。
その言葉は、私たちに向けての遺言でもある。この先、人生の航海を進むための揺るぎなき羅針盤としての言葉でもある。いざ、この針の示す方へと舵を切ろう。今日一日を迷わずに過ごせるために。


●27(木)
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。   (箴10・12)
「いさかい」の原因が示されている。それは自分の心の中に巣くっている「憎しみ」だ。または、隣人の心の奥にある「憎しみ」。でも、その悲しみの原因となる「いさかい」を除く方法も示されていた。それが、「憎しみ」に替えて愛すること。まず自分から相手を愛すること。相手が憎しみをもって自分を見ていても、愛すること。これ以外の解決はない。もしも世界がこれに気付けば、平和が生まれるのに。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。     (出16・8)
エジプトを脱出した民が、「食べ物が無くて死ぬ」と不平を言った。それに対してモーセが「神はその不平を聞いて、裁きではなく恵みを下さる。日毎にマナで満腹になる」と。しかしそこに加えたのだ「神に不平を言うお前たちは、ナニサマなのだ」と。
グサッと来た「一体ナニサマなのか」と言われたことに。でももっとグサッと来た。不相応な不平にさえ恵みで応えて下さる神様の御心に。


●29(土・祝日)
主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。     (詩33・9)
主なる神の御心こそが、代々にわたって実現されてゆく。そうであるならば、私たちがすべき祈りは、「あのことをして下さい、こうして下さい」と願うことじゃなくて、「あなたの御旨を悟らせて下さい。御心にお従いしますから」ということだ。でも、分かっているのに、現実生活に戻るとすっかり忘れている・・・。あっ、「人の愚かさ」の正体見つけたり。この忘却への無頓着さにあり!


●30(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:03| 『日々の聖句』

2023年03月31日

『日々の聖句』2023年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年3月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 (詩139・23)
神様に、私の心を探って「何を願い、何を思い、何を悩んでいるか」を調べ尽くして欲しいと申し出るなんて。自分の心の中は、自分が一番よく分かっていると思っていたのに。
でも、本当に辛いことは、自分でも心に蓋をしてしまっている。本当に悩むことは、自分でも忘れるようにしている。でも、主こそが、私よりも私を知っていて下さるお方。ハッとした。そしてなんだか慰められた。


●2(木)
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。    (詩19・2)
壮大なスケールで、神の栄光をたたえた詩人。叫び出したいほどの喜びが伝わって来る。主なる神との豊かな交わりに生きているからだろう。
ボクには、こんなに爆発しそうな神賛美があるだろうか。もしないのなら、自分のことばかりを見詰めているからかも。自分の願望、現実、そして自分の罪・・・。結局、自分しか見詰めていないのなら、神の恵みは見えて来ない。主にこそ振り返らねば。


●3(金)
わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。  (創28・15)
神が「約束を果たすまで決して見捨てない」と言って下さる。その「約束」が気になって、聖書を開いた。それは、ヤコブが自分の罪のゆえに、兄の復讐を恐れて荒野に逃亡していた時のこと。「あなたを守り、必ず祝福の地に連れ帰る」との約束だった。
過ちを犯した者なのに、それでもなお愛することを止められない主。罪人なのに・・・。ああ、その主のお心は、ボクにも向けられているんだ。


●4(土)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。   (箴3・9)
智恵の書である『箴言』は、主へのささげものを求める。それは、まず先に主から与えられているものがあると伝える中での言葉だ。それも「豊かに持っている中から」と言われている。だから、献げ物はお返しなのだ。
献金のことを、少し誤解していたかも。自分が持っている物が減ってしまう気がしていた。でも献金は、主に与えられている物の豊かさを想う時なんだ。献金も、感謝だ!


●5(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●6(月)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。 (イザ31・5)
新バビロン帝国が攻めて来る。そのとき人々は恐れて、大国エジプトと同盟を結んで守ってもらおうとした。そういう人々にイザヤが「人間に頼るな、主があなた方を守られる方だから」と伝えたのだ。
神様が人々を守る姿は、親鳥が翼を広げて雛を包む姿。その翼は、ボクの上にも広げられている。人に頼らず、まず神に委ねる、ボクはそういう雛鳥でありたいな。


●7(火)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。    (哀3・56)
詩人は、激しい恐れの淵から叫んでいる。神に向かって叫んでいる。それは、主の御名を呼ぶ自分の声に耳を閉ざさないで下さいという叫びだった。聞いていただけたら必ず救って下さるという確信を漂わせて。
彼は、ただ主だけを信頼している。私たちも、恐れと苦しみの日、本気でどこに顔を向けるかが大事だ。人の助けか、自分の経験か、それとも力の限り主を求めるか、だ。


●8(水)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。   (ミカ7・19)
南北王国時代に、預言者ミカが主によって幻を見せられて預言した。それは、民の腐敗に対する審判の言葉に満ちていた。
しかしその中にあって、今日の言葉が告げられていたのだ。人々が罪に傾くのを必死になって抑えようとしているのは、父なる神なのだ。罪を一掃しようと熱心になられているのは神様なのだ。ここに、主の慈しみの何たるかを見た気がした。


●9(木)
主を畏れることは知恵の初め。   (箴1・7)
『箴言』には、これと同じような御言葉に溢れている。人間にとって「知恵ある者」となるには、主なる神を畏れ敬って生きることが土台なのだと、口を酸っぱくして言うのだ。
畏敬するならば、当然、そのお方の言葉を聞いて従うだろう。新約においては「キリストに聴従すること」だ。聖書全巻は、この事において一貫していた。聴従は、知恵ある者の初めの姿、また行きつく姿なり。


●10(金)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。    (ホセ6・3)
北イスラエル滅亡のとき、預言者ホセアが立てられた。背信のゆえの審きを伝えるために。しかしそれだけではなかった。王国の回復についても告げられたのだ、「偽りの悔い改めを捨てて、主に立ち帰れ」と。
倒れても、また立ち上がれる道が、神様のほうから示していただける。背きの者なれども御父の愛は消えない。こんなに強くて熱い愛を見たことがあるか。否、ただ主のみだ。


●11(土)
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。   (イザ10・21)
旧約で「残りの者」というのは、鍵言葉だ。神への背きによって人々は審きを受ける。しかしそこで悔い改めた者が残る。そして、その真に悔いた者たちは少数だけれども、神に立ち帰り祝福の基となるというのだ。
残りの者は、人間にとっての希望というよりも、神様にとっての期待なのだ。「少しは私に立ち帰ってくれるだろ、祝福を与え続けたいから」と。
神のお心に、応答して生きたい!


●12(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●13(月)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。   (ゼファ3・15)
北王国は既に亡び、南ユダ王国の滅亡も間近となっていた。そこに預言者ゼファニアが「神の声を聞かず、主に信頼しなかった都は災いだ」と告げた。しかし不思議なことに、裁きの宣告と共に、最後に「都エルサレミよ、喜び踊れ」と加えたのだ。罪の贖いの宣告だった。
罪を赦す神。そのために悩み苦しまれたのは神。その御父の愛が、私にも及んでいる、この罪人にも。


●14(火)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)
「貧しい人の苦しみ」って、どういうこと? 単にお金が無いというのではないかも知れない。当時、富める人は神の祝福を得ているからと考えられていた。そうであるなら、貧しい人は祝福から遠くにいる人なのかも。
それでも主は、そこに起こる苦しみも悲しみにも、心を砕いて下さる。まるで罪人のために死なれた主イエスのように。天地創造の時から、変わらない主のお心に触れた思いがした。


●15(水)
聖なる方を知ることは分別の初め。   (箴9・10)
知恵の書である『箴言』。その知恵の中の知恵が、主を知ることなのだ。私たちにとっては、神を知り、神の言葉を知ることだ。そのことが、人生をどう歩むのか、善と悪をわきまえることに直結する。
ボクはこれまで、どんな知恵を土台として来たか。今からでも遅くない、聖なる主の言葉をすべての土台に据え直すんだ。義しく豊かに生きるため。幸せを手にするために。


●16(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。    (エレ9・23)
ん? なんだか知恵の書『箴言』の中にある言葉のような・・・。でもこれは単なる信仰的知恵じゃない。彼は南ユダ王国の民の背信の只中で語っている。神を捨てる民に向けて、必死に叫ぶ、「主を誇れ、主を知れ」と。
それはそのままボクにも届けられている。主の言葉を預かって語るエレミヤが、時を超えてこのボクにも。ボクが、生活の中で自分を誇ることがあるから。主を忘れる時があるから。


●17(金)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。   (イザ1・2)
南ユダ王国に、主なる神が語り掛けた。それはご自分の愛する民に向けての言葉。しかしそれは、祝福の言葉ではなかった。背きに対する激しくも厳しい審判の宣言であった。
審判を前に、「我々は何ということをしたのか」と、我に返れば良かったのに。しかし民は悔い改めなかった。
主の怒りの言葉に耳を傾ける。それは、むしろ好機。立ち帰る最後の転換点なんだ。逃すまいぞ。


●18(土)
わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。   (イザ46・13)
主の恵みの業が届けられる。それも「もはや遠くない」時に、「遅れることなく」とも言われている。
今日、御言葉がボクの心にそのままダイレクトにやって来た。そして心の奥にまで染み込んだ。
御言葉を聞いただけで、まだ実現してもいないけど、もうボクの心は、ホッとしている。これが「信じる」ってことかな。そして、「信頼する」ということの実りだね。


●19(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●20(月)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。    (エレ26・2)
人々にとって安易な道しか語らない偽預言者たちがいた。人々もその甘言を選んで、悪の道を歩いていた。そういう人々に向けて、主が預言者エレミヤを通して言われたのだ。神の言葉を人間の都合で減らすな、耳に痛くても、それが真実な言葉だから、と。
ボクも御言葉を自分都合で「これは無理」と減らすことがある。その心を見て、主は一喝されるのだ。


●21(火・祝日)
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。(創15・13)
神がアブラハムに語る言葉は、このあとアブラハム子のイサク、その子ヤコブ、その子ヨセフ、その後に起こるエジプトでの寄留生活の出来事となる。さらに、その奴隷生活からの脱出(出エジプト)の予告も。
「あ、そうか」と思った。人にとっては苦しみの奴隷生活。でも「神が先を見ていて下さること」なのだ。主が先立っていて下さるんだ。ふと今日、苦難の見方が変わった気がした。


●22(水)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。   (ゼカ2・15)
捕囚期に、主の言葉を伝えたゼカリヤ。都への帰還の希望と、彼らを略奪した国々への審判の後に、諸国は、主なる神が生きておられると知ることになると伝えるのだ。そこに起こるのは、全世界の人々が、「主こそ神」と礼拝し出すということだ。
なんて壮大な祝福。まるでエデンの園の回復の姿のようだ。この争い多き世界は、本当は、そんな神の熱望の実現へと向かっているんだ!


●23(木)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。(代上29・14)
ダビデ王が、第一神殿建築に向けて、全会衆に寄贈品を求めた。宝物庫は溢れるほどに満たされたのだ。そのとき主に祈った言葉がこれだ。
彼は「主よ、こんなに集めました」とか「こんなに一生懸命しました」とは言わなかった。すごいな、と思う。きっとボクなら、「少しは自分を褒めてあげよう」なんて思っているかも。
これからは全ての奉仕をした後、ボクもこのダビデの祈りを祈りたい。


●24(金)
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。    (エゼ36・26)
自らの背信によって、イスラエル全家は壊滅、離散した。その人々に向けて、主なる神は語り掛けられるのだ。神の民として育んだあなたを惜しむ、と。そのゆえに、主御自身が人々を救い出す計画を立てられるのだ。人々に、神のみを求める心を与えること、また主の言葉に従う霊を与えるということを。
私の心も、御手によって入れ替えていただきたい。主をのみ慕う心に。


●25(土)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。  (ゼファ3・17)
南ユダ王国の末期。主の裁きと、その後の恵みを語る預言者ゼファニヤが立てられた。今朝の言葉は、イスラエルの回復時の希望の宣告だ。
喜びの日の到来時、そのただ中に居てくださる主は、その前にある償いの日々にもずっとただ中にあって、一緒に歩んでいて下さったということ。まさに神こそが、共に泣き、共に喜ぶお方なんだ。その方が、今日のボクとも、共に居てくださる。


●26(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●27(月)
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。    (エレ17・14)
捕囚の中で、エレミヤは周りから「お前の神は助けてもくれない力の無い神だ」と揶揄され続けた。現実は周りの人が言う通りなのだ。そういう中で彼は、この言葉を言った。正に、信仰の告白だ!
「あなたがなさろうとする時、御心は必ずなる」と完全に委ねている。順風満帆の時でなく、苦難の中で、信仰は明らかになる。その有る無しまで。


●28(火)
よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。   (ルツ2・10)
未亡人となった異邦人ルツが、実家にも帰らずに姑と一緒に見知らぬ土地ベツレヘム(姑の故郷)について来た。姑に仕えるためだ。そのルツを見て、夫の一族であるボアズが優しく声を掛けたのだ。このルツから生まれる子孫に、ダビデ王が登場する。
自分で考える安心安寧を選択せず、見知らぬ土地に出発したルツに、アブラハムの姿が重なる。自分の計画の外に、大きな祝福が待っている!


●29(水)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)
歌人は、深い淵の底から、主に叫び声を上げている。万策尽きて、ただ御名を呼ぶばかりの者になっている。すがれるのは、もうここしかないと、声もかれるほどに。
しかし叫び続けるのは、「このお方は、必ず見捨てない」と心の奥に信頼の塊があるから。もしかしたら主に頼る生き方に、諦めという言葉は無いかも。もしかしたら神に頼るって、強い生き方なのかも知れない。


●30(木)
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。  (詩44・7)
誰でも敵と戦う前、武器を揃える。戦場の場合でなくても、相手をやっつける言葉を一晩中考え、やり込める証拠を整える。または計画実現のための資金や仲間集めをしようとする。それなのにこの詩人は・・・。
主なる神が戦われると、信じている。それを本気で依り頼めるのは、信仰の有る無しだ。敵との戦いの前に、自分の信仰を問う戦いがある! そしてそれが、何よりも大切なんだ。


●31(金)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。   (士10・10)
まだ王がいない士師の時代。人々は周辺国の神々も拝み出した。主の怒りは燃え上がり、その国々を、イスラエルの敵として攻めさせた。苦境の中で、ようやく自分たちの罪に気付いた人々が言った言葉がこれだ。
改めて、主が厭う罪とは何かが分かる。それは刑罰に関わる話じゃなく、主をのみ信頼しないこと。ボクの生活の中にも、その瞬間が、あまたある。ボクも主を嘆かせる罪人だ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:22| 『日々の聖句』