2019年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2019年03月31日

『日々の聖句』2019年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年3月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。(イザ48・18)
 
神様が民に「お前たちが私に背く者であったことを知っている」と語り掛ける。そこでなお告げられたのが、このみ言葉だ。
 神様の恵みはどこにあるのかと嘆いた日々が、私にもある。でも今日分かった。恵みの流れを堰き止めたのは私自身と。御言葉に生きないで、自分勝手に生きた背きが、恵みの大河を堰き止めた。砕きたまえ、私の罪を。恵みが流れ込むため。


●2(土)
人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。 (創9・6)

 大洪水の後、箱舟から出たノアに、神が人間の尊さを改めて告げる。命である血を流す者の償いは、命によって償わねばならぬと。人の命は、神が御自分に「かたどって造られた」ほどに尊く重いからだ。
 隣人の尊さは、神様との関係を見ないと本当には分からない。人間だけを見ているから簡単に傷つけてしまうのかも。言葉で刺して、心に血を流させることも同じ重い罪。神の悲しみなのですね。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)

 都陥落の中で、主に背いた故に起こった滅亡と知る者が、なお呼び求めている言葉だ。主の怒りを受けつつ、なお神にすがる。主以外に自分を赦し、なお愛して下さるお方はいないと信じているからだ。
 自分が御言葉に背いて生きたゆえの苦難だと知る日々の中で信仰は問われるんだ。自分の罪を悟ってなお「あなただけ」と神に求められるか、と。罪人なのに「なお愛される」と信じ切れるのか、と。切なくても呼び求め続けられるのか、と。


●5(火)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。 (出13・3)

 出エジプトの恵みの出来事の後、モーセが民に向かって「この日を記念せよ」と告げた。単に「ああ良かった、感謝」で終わらせるのでなく「神が私を救われたんだ」と子々孫々に語り継げと命じたのだ。
 私も神の恵みを受けて生きている。それなのに、願う時はしつこくしたのに感謝の祈りは一瞬で終わらせる。いや、忘れていることさえ。自分の祈りを変えなきゃ!


●6(水・灰の水曜日、受難節に入る)
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしをつけられた。 (創4・15)

 人類最初の殺人は、兄弟殺しだった。神は激しく嘆かれ、憤られて兄カインを追放される。しかしなのだ。神様は、人がカインをうち殺してしまわないように、「この者は神のもの。何人も手を触れるな」と、守るしるしをつけて下さったのだ。
 神は義しい方。しかしそれを上回って、神は愛なる方。罪人をなお愛されて守られる方。その御心の中に、私も入れられているのだ。この罪人の私も。


●7(木)
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。  (創12・4)

 アブラハムは、神様からの「私が行けという場所へ旅立て、地縁血縁の守りを後ろにして」という破天荒な召命に、疑いもせず、質問もせず、条件もつけずに、ただ立ち上がった。主の言葉に従ったのだ。
 「信仰の父」と呼ばれるアブラハム。信仰というのは、黙って主の言葉に従うか否かということに尽きるのかも思う。信じるというのは、心の問題じゃないんだ。ボクも自分を自分で守ろうとする事を一切後ろに置いて、御言葉に従って立ち上がりたい。それは祝福への旅立ちなのだから。


●8(金)
「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」  (王上1・29)

 年老いたダビデ王が、ソロモンに王位継承を言い渡す前に告げた言葉。現実はアドニアが「私が王位を継ぐ」と蜂起し、既に勢力はその方向に動いている只中で、ダビデは「否、神の計画こそが進む。主は生きておられるのだ」と言ったのだ。
 「たとえ世の流れがどこへ向こうとも、神の計画こそが進む。神は今も生きて我らを導く主なのだから。私の先頭を今も行かれているのだから」と言い切る、その決断こそ信仰。風見鶏になるな。


●9(土)
「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。 (エズ3・11)

 捕囚から都に帰還できた民。瓦礫の山だった神殿を再建したくても、資材も人員も足りない。しかしようやく神殿の基礎が据えられた時に、喜び叫んだのだ。
 まだ基礎だけで、建物は目に見えないのに、まるで見るようにして喜べた民。完成した将来が見えたからだ。恵みの実現を信じたから。主への賛美は、目に見える結果に対して起こるんじゃない。ボクは、見える事ばかりに気を取られているのかも。


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月)
あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。 (箴16・3)

 主に自分の計画を委ねるようにと、御言葉は告げる。
「分かった」と思った瞬間、「あれ、分からない」と思った。「ああしたい、こうしたい」という自分の願いと、それを主に委ねるということは、どういう関係になるの? 自分が計画したのに、それを委ねるって、どうすることなんだろう。
ひょっとしたら、私の最初の願いから関わってもらいつつ歩むことかも。ならば、祈らないと一歩も進めないな。


●12(火)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)

 神様はニネベの町の人々が悔い改めたのを見て、ご自分が宣告した裁きを取りやめられた。その神様の変更を、ヨナは不満に思って怒ったのだ。「償わせて当然なのに、なぜ簡単に赦されたのか」と。
 私も、そんな思いになる時があるのかもと思った。敵には裁きで、自分には愛を向けて欲しいと思っている時があるから。自分が神にでもなったつもりになっている。私も、その憐れみによって赦された〈神の敵であった者〉ということを忘れて。


●13(水)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。  (創19・29)

 罪に満ちた町ソドム。神の裁きによって滅ぼされんとする時、そこに住むロトの家族だけが主に救出された。
 ロトの救いは、ロトの義さによるのじゃなく「アブラハムを御心に留め」て起こったことだったなんて。前後を読んだら、彼が執り成したゆえに神が動かれたのだと分かった。改めて執り成しの祈りの力を想う。同時に自分の執り成しの貧弱さに気付く。真心は、執り成しの祈りと成るんだ。


●14(木)
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。 (民6・26)

 これは「アロンの祝祷」の一節だ。
 主なる神が、御顔を私にも向けて下さる事、それこそが祝福の基なんだ。罪人の私に天地創造の神が顔を向け下さる。それも慈しみの御顔で見て下さる。それを知っただけでホッとする。まるで幼子が知らない道でも、親が見ていてくれるだけでドンドン先に歩んで行けるように。
 「天の父の視線の中に私が居る」、そこに天来の安心を受け取って、〈今日〉という知らない道へ、いざ進み行かん。


●15(金)
主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」
 (民11・23)

 出エジプトの後、荒野で人々はモーセに不満をぶつけた。肉を食べていたエジプトにいた方が良かったと。どこまでも身勝手な人々。その不満を一身に受けたモーセが神に泣きついた時、神が発した一言。
 民の不平と不満を、本当に背負ったのは神お一人。その神が激しく「神の全知全能を見るべし」と迫られた。アッと思った、不安と不満は、罪の姿だったんだと。


●16(土)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。 (ヨナ2・3)

 ヨナが神に背いて船で逃亡し、大嵐の中で海の藻くずとなりかけた時、大魚に飲まれて腹の中・・・。そこで彼は主に祈ったのだ。助けを願う資格さえない自分だと分かっていつつも、彼は叫ぶように祈った。その祈りを聞いて下さった神様。
 神が耳を傾けて下さるのは、義しい者の祈りよりも、悔いて落ち込むばかりの者の叫びだ。我儘としか言いようがないけれど「あなたにすがるしかいない、主よ」と呻く祈りだ。そこに罪人の救いが起こるのだ。


●17(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
主を畏れることは宝である。 (イザ33・6)

 「主よ、我らを憐れんでください」と救いを求める祈りの文脈の最後を、この一言で締めくくる。
 自分の力や知識を圧倒する敵がいる。さらに自分の中にさえ傲慢が渦巻いていて、災いを呼び込んでしまっている。そんな群がる苦難の中で、なお救いを求めるには、自分を丸ごと神に明け渡すことしかないんだ。自分という城を手放すこと、降参すること、それが神を畏敬するという真の意味なの知れない。そして、そこにしか、主の救いは到来しないのかも。


●19(火)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。 (コへ8・5〜6)

 この「賢者」とはどのような人か。聖書はそれを、「災いが降りかかることがあっても『人には何が起こるのかは所詮分かりはしない』と受け入れて、今を生きる人だよ」と語っていた。 「不快なことに固執するな」(八・三)とも記されていた。
そうだ! 自分ではどうしようもないことなのに、心が囚われて苦しんでいたのかも。全てを受け入れる「賢者」は、主に委ねる信仰者のことなんだと思えた。


●20(水)
主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。 (出14・30)

 エジプトを脱出した直後、背後からはエジプト兵が迫り、前途も葦の海に行く手を阻まれた。そのとき主なる神が海を二つに割って、モーセたちを逃げ切らせたのだ。その出来事を人々は胸に刻んだ。そして語り継いだのだ「主は、救われた」と。
 私も人生で、「主が助けて下さった」と経験した。でもすぐに忘れて生きている。まして語り継ぐのでもない。隣人に神の出来事を伝える「証し」に無関心で生きて来た。恵を受けたのに薄情者だった。


●21(木・春分の日)
わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 (創13・8)

アブラハムが甥のロトとの間で配慮したことは、争いの種となるものを注意して取り除くことだった。賢明さをそのために用いたのだ。そして別々に住むことになる。
 私は自分の知恵を、隣人との争いを避けるために用いているだろうか。むしろ相手を打ち負かそうとして、言葉においても行いにおいても争うために使っていないだろうか。「わたしとあなたの間では、争うのはやめよう」との一言は、忘れてはいけない一言なのだ。日々繰り返し唱えん。


●22(金)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。  (民27・17)

 主がモーセに「私が与えた土地に入る前に、あなたは生涯を終える」と告げた時、彼は民の行く末を案じて求めたのがこの願いだ。後継者を立てて下さい、と。
 彼が思う事は自分の行く末のことじゃなく、民の事だった。なぜ、自分に不平を言い続けた張本人を、なお執り成せたのだろう。それは、人の集まりにある脆さを知っていたからかも。いや何より共同体を愛していたから。あ、教会と同じかも。主よ、とこしえに良い牧者を立てて下さい。


●23(土)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。(ホセ6・3)

 イスラエルの民の悔い改めの言葉だ。しかし驚くことに、このすぐ後に神の嘆きが続くのだ。「お前たちの愛はすぐに消え失せる露のようじゃないか」と。
 アッと思った。真実に悔い改めだったはずなのに、すぐさま消えてしまう姿。それは私の姿と瓜二つだと気付いたから。「悔い改めます、立ち帰ります」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに人を裁いている。主の嘆きは、私が悔い改めない事じゃなくて、その浅薄さにあったんだ。今日気付けた、だから今日変わらなきゃ。


●24(日・第3主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
主が御自分の聖なることを示された所である。 (民20・13)

 「示された所」とは、出エジプトの旅で民が「水もない荒野で死なせる気か」とモーセと争ったメリバという場所だ。そのメリバで、主は岩から水を出されたのだ。
 人間が争う場所が、主の御業がなされる場所となる。御業は争いの元を断つためになされた。主が聖であられることを示すというのは、奇跡そのものよりも、人と人との間にある争いを嫌われる方ということ、そのために何でもなさるというお姿なのかも。その主が、私のメリバにも共におられ、和解の奇跡を成される。


●26(火)
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 (出20・3)

 「十戒」の中の第一戒。神が「私はあなたをエジプトから救い出した主だ。どんなに愛しているか分かるだろ」と語り掛けれた後に「こんなに愛している私を捨てるはずないよね」と第一戒を定められたのだ。
 「十戒」には、そのどれにも「私はあなたをこんなに愛しているのだから」という呼び掛けが基調音にある。そこを受け取らないから、神を悲しませる罪を犯すのだ。「私を愛して下さる神を悲しませまい」と受け取ることが、一番大事なんだ。


●27(水)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。 (創28・16)

 兄エソウから長子の権を騙し取ったヤコブ。命の危険を感じて逃亡した荒野のど真ん中で主が語りかけた「あなたと共にいるから」と。そこでヤコブは全てを悟った。
 「主がこの場所におられる」・・・それは自分では最悪だと思っていた場所。一人では立つこともできない場所。しかし主は、その場所をこそ「おられる場所」として選んで下さるのだ。そこが救いの場となるから。何だか心が熱くなった。神がおられない場所など、どこにもないと知ったから。


●28(木)
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。 (レビ19・32)

 「十戒」以外にも、聖書には多くの律法が記されている。その中の一つが、年長者に最大の敬意をはらうことだ。それが「神を畏れること」であるとも言われていた。
 今まで「神を畏れる」って、心の持ち方だと思っていた。一歩進んで、御言葉に従う事でもあるかなと。でも「あれ?」と気付く。御言葉に従う事って、今日のみ言葉にも従順である事。神を畏れるって、具体的で身近にある事だったんだ。


●29(金)
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。 (詩23・4)

 詩編二三編は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と始まる有名な聖句。その中にあるのが、この一節だ。
 二三編は、私の人生の中で常に必要だった御言葉で、最大の危機の時にも支えてくれた。そして、これから先もこの御言葉を携えてゆくだろう。最期となる日、ベッドの上で酸素を吸入しながら、この御言葉を心の中で繰り返しているだろう。ここに、平安の全てがあるから。


●30(土)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。 (箴20・19)

 「ソロモンの箴言」と呼ばれて来た知恵の言葉。そして自分の姿を映す鏡の言葉。
 「あの人が、ここで言われている人だ。私もあの人って嫌だなぁと思って来たけど、聖書もやっぱりこう言っているよ」と納得顔して、すぐにアッと思った。「あの人は悪い、私は困っている」と告げ口する唇を持っているは私だと気付いたから。いつも自分だけ良い人になって、人を裁いて・・・私はなんて嫌な人間なんだろう。赦しと救いが必要なのは、私自身だったんだ。


●31(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)




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2019年03月18日

『日々の聖句』2019年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年4月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(月)
身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。    (詩3・6)

 ダビデ王が、息子アブサロムの反逆に遭い、命を狙われた。争うことを避けて逃亡した彼が、荒野で詠んだ歌。
 愛息子の牙から逃れた先は、戸惑いと悲しみしかない荒れ野だったはず。悲しみと絶体絶命しかないはず。そのどん底にいるのに、彼は平安に包まれている。恐れてもいない。なぜ? それは、主の御手の中で眠り、また生きているから。あっ、「平安」は、危機が無い「無事」に在るんじゃなく、「主の御手の中」に在るんだ!



●2(火)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 (ヨナ4・11)

 ヨナがニネベに「都は滅びる」と告げた途端、人々は悔い改めた。その展開に不平を言った時、彼は神の御思いを聞いた「私は罪人を惜しまずにはいられない」と。
 ヨナ書は、この神の一言で終わる。つまりこれを伝えたかったということ。神の御思いの奥底にあるのは裁きでなく「あなたを惜しむ」だ。その御心の中に私も居る。


●3(水)
わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(サム上2・30)

 祭司エリの息子たちが、その特権を利用して私腹を肥やしていた時、神の使いが父親のエリに忠告した言葉だ。
 一読した時、神が「私を重んじるのだぞ」と促す言葉だと思ったら、「お前は私を侮っている」と叱責しておられたのだ。それにしても息子の不義なのに、なぜ父親がとがめられるの? 背く息子には、神の怒りも届かないから? 叱責を聞き取れるのは、信仰が消えていないからかも。叱責が届く人には、神の期待があるんだ。


●4(木)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。   (イザ35・3)

 敵が取り囲んでいる。その先には都陥落しか見えないという現実の中で、預言者が告げたのは驚くべき言葉だった。今こそ力をみなぎらせて立ち上がれと促したのだ。そして今朝のみ言葉の後には、それができる根拠も続けて告げられていた「見よ、あなたたちの神を」(4)と。
 続く逆境の中で、人は意気消沈する。未来への計画も立てられない時に、失望もする。でもそのただ中で、この世にない言葉を聞くのだ「強くあれ」と。「神を見上げるならあなたもそうあれるから」と。


●5(金)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。  (申6・5)

 モーセの勧告の中心がこれだ。これを子々孫々に、寝ても覚めても語り伝えねばならない。勿論、自分の額に貼り付け、家の戸口の柱にも刻まねばならない。
 「全身全霊で神を愛せ」、これは神の命令なのだ。単なる暗唱聖句じゃない。「人生そのものが神を愛する者」となり、「生活のどの場面を切っても金太郎飴のように神を愛する者」となっているということ。
私は中途半端にしか聞いて来なかったかも。神の厳命なのに。信仰者なのに・・・


●6(土)
主は、はるかに高い天に住まわれ、シオンに正義と恵みの業を満たされる。 (イザ33・5)

 亡国の憂いの中で救いを求める悲痛な祈りが、急転、信頼の言葉に変わる。
 本気で救いを求める時、本気で神を仰ぐ。そのとき、自分の願望成就の手伝いをさせる召使のようなカミじゃなく、神様が御自分を顕される真の神を受け取ろうとするのかも。その時、本当に自分に関わられる神を知るんだ。そしてその時ようやく分かるんだ。現状はまだ不安の中にあっても、平安が神様から来るということを。このイザヤのように。

●7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
初めに、神は天地を創造された。 (創1・1)

私が生きるこの世界を開始されたのは、唯お一人、神であられる。それは、この世界は全て神の支配で満ちているということ。それはまた同時に、私が支配者ではないということ。聖書はその宣言から書かれ始める。
いつも生活の中に不満や不安が満ちて来るのは、自分の世界の中に神様を見失っているからかも。神様の御業の跡はいっぱいあるのに・・・。そうだ、「神が創られた」、この一点を、今日心に刻んで歩いてみよう。世界が違って見えて来るから。


●9(火)
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創32・27)

 ヤコブがヤボクの渡しで、神と一晩中格闘して、明け方にこの一言を言ったのだ。
 どういう闘いだったのかは知る術もない。でも一つだけ分かることがある。私はこんなにも神にしがみついて、取っ組み合いをするように祈りすがったことはないと。本当は神様と格闘するほどに真向うべきなのに。私こそが「祝福してくださるまで離さない」と、生涯かけて言い続けなければならない者なのに。ご利益を求める時にだけしか真剣になれない自分に気付く。


●10(水)
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。(エレ31・17)

 南王国末期の預言者エレミヤが、滅亡、捕囚の苦難を語る。でもそこに目を据えつつ、その中に回復の将来をも見たのだ「未来が在る。希望が在るよ」と。
 これまで私は、苦しみがないことが恵みだと考えていた。でも、私を立ち帰らせるための御手による苦難なら、そこが神の関わって下さっている場所。ならばその道の先にこそ、主から賜る希望もあるということ。その道の外に自分勝手に逸れることが、恵みの喪失なのだ。


●11(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。 (イザ49・5)

 イザヤが神様から使命を言い渡される。それは、全ての民を神のもとに立ち帰らせるべく遣わされる者となる大役だ。その時イザヤはこの言葉を言った「主の御目にわたしは重んじられているのだ」と。
 自分には荷が重くて無理と思う奉仕を前にした時、逃げ出したくなる。言い訳まで考えて断りたくなる。でも、その時にこそ知るべきことがあるのだ。「その重荷こそ、私が神に重んじられている印」と。そこまで信頼して下さる主に委ねたい。


●12(金)
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創3・21) 

 自分たちが犯した神への背き・堕罪によって、エデンの園を追放されるアダムとエバ。見捨てられて当然のことをしたのに、その二人が園の外で凍えないようにと衣を作られ、そっと着せてあげたのは、神ご自身だった。
 神様はどういう思いで、出ていく二人を見詰めておられたのだろう。悲しまれたのは神。その悲しみを私も神様に味わわせている。でもそんな者にさえ衣を着せられた御心を想って、今日の祈りを始めたい。


●13(土)
「なぜサラは笑ったのか。・・・主に不可能なことがあろうか。」(創18・13〜14)
   

九〇歳にならんとするサラが、主から「子どもが生まれる」と聞いた時、失笑した。その笑いは、「いくら神でも、無理だ」という軽蔑。サラは、現実と、神の全能とを天秤にかけた時、神の約束でさえ信じられなかったのだ。
身震いした。信じないということは、神の言葉を軽蔑することだと気付かされたから。神のみ言葉を聞いても、私も笑っている輩だったかもと、気付かされたから。


●14(日・第2主日・棕櫚の主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。(箴3・11)

 神と人との接し方を、父と子との関係で表す。厳しくもあり、慈しみ深くもある父の姿として。
 いつも祈る中で、懲らしめは辛いから「出来るだけ少なく、出来るだけ短い間で」と願っていた。でも、激しく関わられるのは、誰よりも私を心配して下さっているから。見放されていないから。愛想をつかされていないから。そこに子を愛する父の姿があるんだ。「私を大好きで関わって下さる天父の御心のままに」と祈らなきゃ。


●16(火)
イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。(詩121・4)

 「わたしの助けはどこから来るのか」と歌い始めた詩人が、次第に気付いてゆく。そこに今朝の言葉が告げられたのだ。
 いつも「助けて下さい、神様」と祈って、そこで祈り終えてしまう。だから不安のままだったのかも。今日から「助けて」と祈り終わらずに、あと五分、もう十分だけ祈ってみよう。神様が、今まで自分にとってどういうお方でいて下さったのかを思い出しながら。そうしたら、私もきっと今朝の御言葉のように気付けるのだから。


●17(水)
主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。 (出15・2)

 モーセたちは、エジプトを脱出してすぐ行く手を葦の海に阻まれ絶体絶命になる。そのとき神が海を割って彼らを救われたのだ。そこにモーセと民も声を合わせて主を賛美する歌がこだまする。その言葉の一節がこれだ。
 私は救われても「ヤレヤレ」と胸をなでおろすばかりで、感謝の祈りさえ忘れていることがある。救われた時が、主を忘れてしまう落とし穴が開く場所。ああ、私にも常にこの歌の言葉を歌わせ給え。


●18(木・洗足の木曜日)
(主は仰せになった)「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」(ヨブ40・8)

 苦難に遭っているヨブが「なぜ不正もない私が苦しむのか。神は何をしているんだ」と延々と呟いて、信仰から迷い出た後のこと。嵐の中から神が「神を責め立てるお前は何者か」と仰せになる。延々と諭す言葉の中に、今日の御言葉もある。
 私も、主にガツンと言われたほうが自分の立ち位置をハッキリ悟れるのかも。神のガツンは、一瞬にして私を呼び戻す声。


●19(金・受難日)
神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。     (ミカ7・18)

 イスラエルの民の咎と罪のゆえに国は滅びる。義なる神の裁きのゆえにだ。その只中で預言者ミカは人々に神の御心、御言葉を告げた、「赦し、慈しむ神だ」と。
 私の罪も神は見逃さない。神は誰よりも(私自身より)罪を凝視され、償いを問われている。義なる神のゆえ、見過ごせないのだ。しかし今朝、その憤りに優るお心を聞いた。悔いる私を求めて「お前を失いたくない」と叫ぶ慈父の御声を。


●20(土)
わたしには重すぎます。(民11・14)

 一人で全イスラエルの民を牧会していたモーセ。人々の不満は、一人モーセに向かう。それでも、神の約束の地カナンに人々を連れて行こうと労するモーセ。ついに疲れ果て、「この人たち全てを負うことは出来ない」と言ったのだ。その直後、主はモーセを支える七十人を聖別された。
 どんな小さな集まりでも、人の不平不満を一人で背負ったら、つぶれそうになるのかも。そんな時は、SOSって言って良いんだ。独りで支えなくて良いんだ。必要な助け手も、神様が添えてくれるから。


●21(日・第3主日・復活祭)

イースター記念礼拝

          説教 辻川篤牧師



●22(月)
わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ。(民14・24)

 この「わたし」とは「主なる神」。民がモーセに不平を言った時、神は怒って「この共同体を捨てる」と言われた。でもモーセが必死に執り成すことで、主は「聞き従わなかった者は祝福から除かれ、従い通した者は祝福に入る」と言い渡されたのだ。
 神は人を、十把一絡げで見られない。一人ひとりをしっかり見ていてくださる。その故に、まず自分が主に従う者でなくちゃ。人の信仰を裁いてる暇なんかない。


●23(火)
主が、「このようなことをしてはならない」と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。(王下17・12)

 北イスラエルが滅ぼされることになったのは何故なのかを列王記は語る。人々が神以外に偶像を造って拝んだからだ、と。
 偶像崇拝など、私はしていないと思う。でも最もタチの悪い偶像は、自己欲。神が「してはならない」と言われても、「私のやり方が正しい」「神様のことは教会でだけ。実生活は私が主」とやりたいように生きる己の心。そんな心に御言葉が再び警告する「そっちに行くな。危ないぞ」と。


●24(水)
いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 申4・7)

 イスラエルの民がいよいよ主の約束の地に入ろうとそる直前。モーセが勧告して再び主との掟を語り直す。その中で、約束を交わした神の慕わしさを告げたのだ。天地の主は、あなたに近付き、いつも傍で守って下さる神だからね、と。
 「神を知る」恵みは、今日の一日も神が傍におられると信じられる事。目には見えなくても私の横を御支えが伴走する安心を握る事。これが信仰者の特権だ。


●25(木)
(神は)安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 (創2・3)

 神は天地創造の第七の日に「ご自分の仕事を離れ、安息なさった」(二節)。神様は仕事を離れることを大切にされ、特別な日として格別に大事にされたんだ。
 最初に「休むこと」をなさったのは、神様だったんだ。働くことを喜ばれたのと同じように、休むことを喜ばれた。むしろその日を祝福の日とされている。そういう神様に会えるのが安息日の礼拝。創造された全てを見て一緒に喜ぶ日だ。まるでお祭りの日のように。然り、真の休み万歳。


●26(金)
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。(エレ11・20)

 民が神に背いた罪に、神は断罪を伝える。それもエレミヤに「彼らのために嘆いても祈ってもならない」と釘を刺して。そこに彼は、「お任せします」と応答したのだ。
 執り成しの祈りさえ拒絶される厳しい断罪だ。それに従うしかないエレミヤ。改めて、罪の恐さを想う。でもその罪の重さに気付けた時、やっと人は「救われるしかない己」に気付けるのかも。そこで十字架を仰いだ時に分かるんだ、「滅ぶべき我が身にもかかわらず、愛された」と。


●27(土)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。(申30・14)

 モーセが民に伝えた神の御心としての戒め。「こっちに行けば幸い、でも他の道へと逸れれば災い」と。そこに加えた一言が今朝の御言葉だ。道標は、あなたと一緒にあるから迷うことはないよね、と。
 「神様は私の心に道標を立てて下さったのに、なぜ脇道に入るだろう、ちゃんと歩いていたはずなのに」、なんて、すぐ他人事で話す私。近道、寄り道、迷い道へとハンドルを切るのは、自分の手だったのに。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月・昭和の日)
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。(哀3・32)

 御言葉は「十分懲らしめを味わえ」と告げる。でもそのあと、「懲らしめても、また憐れんでくださる」と告げられたのだ。それは、悩ますことが「御心ではない」のだからということだ。
 「コラー」っと神様から叱られている時に、そこから逃げ出すことばかり考えていた私。でも違うんだ。ちゃんと叱って下さる方こそ、ちゃんと私を愛していて下さる御父なんだ。だから懲らしめを受け止めることこそ、愛の受け止め方なのかも。


●30(火)
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。        (エレ29・11)

 バビロン捕囚として異国の地に連行された人々に、預言者エレミヤが希望の手紙を書き送った。その中の一文がコレだ。
 どん底にいる時の慰めは、その先に「新しい平和の計画がある」と神様が宣言して下さることだ。すぐに奇跡が起こって苦難が無くなることじゃない。それなら新しい苦難が待っているだけかもしれないから。そうじゃなくて、コレなんだ!

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2019年02月28日

『日々の聖句』2019年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年2月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。 (申13・1)

 モーセが多くの律法を授与する時に、どのように守るべきか釘をさした、「自分勝手に掟の中身を変えるな」と。
 私も自分の都合の良いように御言葉の内容を曲げてしまうことがある。「隣人を愛せ」との金言も「あの人が私に愛されるに相応しい人になったら」と心の中で一言加えている。神の言葉を骨抜きにする罪なのに。私も神を悩ませた背きの民と同じになる故、このクサビは私への言葉だ。


●2(土)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。(民14・43)

 「主はお前と共におられない」、衝撃的な宣告を受けた人々は、この後戦いに惨敗する。最初にカナンの土地に入る時、主の計画に不平を言い、抵抗し逆らって、自分勝手に歩み出した結果であった。どんなに勢いよく進んでも、主が共におられない歩みは一瞬で行き詰るのに。
 旧約聖書には「あ、ここにも私の姿がある。そこにも」と思える人間の愚かさに満ちている。だからこそここで自分を見つめ直せる。「立ち帰らねば」とも気付ける。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。  (出13・22)

 エジプトを脱出した民が、荒れ野の逃亡の旅で心も萎えて来る。その思いを誰よりも心配して下さったのは神ご自身だ。だから昼も夜も彼らの傍を離れない。それどころか彼らの先を進んで道を示し、最後尾を守っても下さった。
 ああ、私の今日という旅路にも、たとえ心萎える時があっても、神ご自身がお心を傾けて先頭を進んでいて下さる。私を離れずにいて下さる。だから心を強くして進み行こう、いざ出発せん。


●5(火)
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(創22・7)

 神からアブラハムが「息子イサクを献げ物にせよ」と試みられた時、イサクが唐突に言った言葉がこれだ。彼は息子の言葉をどういう思いで聞いたのだろうか。胸に突き刺さる問いではなかったのだろうか。
 「この道は御心なのか」と心配になることがある。常識では「絶対無理、嫌だ」と思える所へ向かう道だから。傍から「それでいいのか」と胸に刺さる声も聞こえるから。御心を歩む厳しさを改めて思う。

●6(水)
財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申8・13〜14)

 「満腹、満足だ」と思う時が一番危ないと、聖書は警告する。人生を振り返って「私も随分頑張って来たな」と安心する時が一番危ない。それは神を忘れて歩みだす道に入る瞬間だからと警告する。
 「ああ幸せ」と思う言葉に替えて「ああ主のお陰」といつも言おう。「苦労して来たなぁ」と思う心に替えて「ずっと神様に支え続けられたなぁ」と常に言おう。離反への淵は私の中で口を開いているから。


●7(木)
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。   (詩18・2)

 ダビデ王が、すべての敵から救い出された時、主を仰いで賛美した。
 彼は「やれやれ艱難を通り抜けた」と苦難を見て一息ついたのじゃない。「憎い奴らめ、ざまを見ろ」と敵を見たのでもない。「自分も頑張った」と己を見たのでもない。自分や敵を見る目を180度天に向き変えたのだ。そこで分かるのだ。主がいかに力強く救い出して下さるお方かということ、神がいかに近くに居て下さったかということが。私も、己の内側や人を見るのでなく、目を転じて主こそ仰がん。

●8(金)
男と女に創造された。(創1・27)

 神が人を創られた時、一人だけ創って「完成だ」とはなさらなかった。つまり人間は、その存在の初めから独りで存在するものではないのだ。互いに助け合う者を必要とする存在とされたのだ。独りでは生きられない存在となさったのだ。
 私の横に隣人がいるということは、当たり前の在り方なんだな。そこで愛し合い、助け合い、想い合い、執り成し合ってこそ人は人と成るのだから。独りで生きなくて良い。傍に助け合う隣人を、神がすでに創っておられるのだから。


●9(土)
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。   (創1・3)

 天地創造の初め、世界は神の「言葉」によって成った。まず混沌と闇の中に、「光あれ」と。そして神はその結果の一つひとつを見て、「良し」と言われるのだ。
 世界の全ては、神の想いがこもった「言葉」によって出来ているんだ。木も花も、動物たちも、私の傍にいる隣人の一人ひとりも、全ては神が「生まれ出るんだ。さあ生き生きと在れ。私が存在して欲しいと願う一つ、また一人よ」と願って下さっている存在なのだ。嗚呼その神の願いによって私という存在も生まれたのですね!


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月・祝日)
「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。」 (申4・2)

 モーセが、遺言を残すかのように「掟と法を忠実に行いなさい」と語り出す。それに続いて、その「忠実」が何であるのかを明確に示したのが今朝の一言だ。「律法に一言も加えず、一言も減らすな」と。
 御言葉に従うキリスト者にも今朝の言葉が響く。「赦せと言われるけど、あの人だけは無理と、勝手に減らすな。その御言葉はいつか従いますと、条件を加えるな」と。ただ「然り」と、黙々と歩みたい。


●12(火)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」(ヨブ1・9) 

 サタンは人間の一番弱いところを突いて来る「お前は自分の願い(病気を治してとか、試験に合格させてとか)を叶えてくれるから神を拝むのだろ」と。「祈っていても財産を失ったり、病気が治らなかったら、不平と不満で信仰を捨てるさ」と。
 私と神様との関係も、今朝もう一度問われる。「私はなぜ神様を慕うのか」と。「神が、私の主であるゆえにと、そこにちゃんと立っているか」と。サタンは今朝、私に挑戦して来ているのだ。


●13(水)
いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。    (詩1・1〜2)
   

 「幸いの在り処」を、詩人はズバリと告げる、「御言葉を昼も夜も口ずさみ、これを愛する人の処に在る」と。
 私は御言葉を、知ってはいる。でも四六時中、口ずさんでいるだろうか。御言葉で心が一杯になっているだろうか。いや、この世のアレコレだけで心が一杯になっているのかも知れない。そのアレコレに御言葉を関わらせてもいない。その時、幸いは指の間からスルリとこぼれ落ちているのに。


●14(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 (創2・24)

 「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉」と、自分の初めての、また唯一のパートナーとなったエバを前にして喜ぶアダム。この女と助け合って支え合って生きて行けるということを喜んだのだ。
 人って、何よりもの喜びは、お金や地位じゃない。支え合える助け手が傍に居ることなんだ。親友でも、家族でも、あらゆる隣人がそういう関係になったらどんなに良いだろう。夫婦はその最も大切なしるしなのかも。互いに仲良くしなきゃね。


●15(金)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。 (ヨナ2・8)

 神に逆らって逃げ出した果てに、嵐の海に投げ出され、大魚に腹に飲み込まれたヨナ。そこで神に顔を向け直した時、背きの者の祈りさえ御許に届いたのだ。
 神に反逆したにもかかわらず、そんな者の祈りさえ聞いていただける。無視され見捨てられて当然の関係なのに。人間同士なら、そんなこと在り得ないのに・・・。
 神様は決して関係を切りはしない。それこそが神の最大の奇跡、恩寵なのかも。


●16(土)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファ3・15)

 国が滅び、人々の中に恐れがとぐろを巻いていた。ジットリ絡みつくような闇があった。そこに神は、ゼファニアを通して「主があなたたちの只中にいるのだ。だからもう恐れるな」と宣言されたのだ。
 どんなに闇が深くとも、たった一点の光があれば、闇は退けられる。その一点が、主なのだ。私と共にいて下さる王なる主なのだ。踏み出す一歩の足元も、明るく照らされた。恐れず行かん。


●17(日・第1主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。(創35・2)

 ヤコブが神様から「ベテルに行って礼拝しなさい」と言われた時、家族と出発しようとする。その時に言った言葉だ。「みんな一緒に祝福を受けたい。そのために真の神へと、身も心も『着替えなさい』」と。
 家族の中で自分一人だけ祝福されていれば良いとは、そもそも神の願いではない。私も家族に、「さあ、真の神を仰ぐ姿に着替えようよ」と招くように促されている。家族の救いは、神の願いなんだ。

●19(火)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。(詩18・31)

 詩人は、神の道は完全だ、と告げる。さらに主のみ言葉は、その完全な道を示すのだと告げて、今日の言葉が続くのだ。
 単に、大樹に身を寄せれば安心、守ってもらえるというような事じゃない。「御もとに身を寄せる」とは、御言葉によって示さる神の道を歩むなら、その人を主ご自身が盾となって守らないはずがあろうかということなんだ。これは、主にのみ頼って生きたダビデの詩として聞けと言われる詩。その意味がよく分かる気がした。


●20(水)
柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。(箴15・1)

 神に願って知恵を得たソロモン王の箴言。知恵の言葉に満ちている書簡。
 私も知っている、憤りとか怒りとかが間にある関係は、どんなに暗いかを。その怒りを生むか鎮めるかは私の言葉にかかっているんだ。そうだとしたら、相手との関係が晴れ晴れする一日になるのか、曇りや大嵐になるのかは、私次第じゃない?
 そんな良い事、もっと早く教えてよ〜。 でも舌を制するのが一番難しいかも。それが知恵ある人だと言えるらしいから。


●21(木)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。(詩2・1)

 今朝のみ言葉は「なにゆえ主に逆らうのか」という叱責につながる。大声を上げて自己主張する。それは主に逆らう姿じゃないのかと告げるのだ。そして2編の最後で「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて」と辿り着く。
 むなしい者になりたくない。騒ぎ立てる者になりたくない。それは、神に逆らう者なのだから。ただ「主の御心を私にも成してください」と祈ろう。主のみ跡に従おう。信仰を、今朝新しく私に与え給え。


●22(金)
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らなければならない。(出12・24)

 「このこと」とは何か? 何を子々孫々守らねばならないのか。それは、エジプトの地で奴隷になっていたのを、神が御手をもって救い出して下さった救いの経験を語り継ぐこと。感謝を絶えさせない事だ。
 私も「御手によって助けられた」という経験がある。出エジプトより小さいけど、確かな出来事だった。でもそれを語り継いでいるか。もし神様への感謝を語り出せたら、私を囲む世界も神を知るんだ。


●23(土)
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」(創3・13)

 人が幸いでいるために必要なものは全部揃えられていたエデンの園。不足は何一つなかったのに、エバは「決してするな」と神に言われた唯一つの約束を破ったのだ。そのとき神様が言われた第一声がこれだ。
 私には、神の叱責ではなく、悲しみの声に聞こえる。情けなくて嘆く声に聞こえる。私も何度神様を嘆かせて来ただろうかと、シュンとする。でも同時に、どれほど気に掛けて頂いていたのかと、その熱い御思いが改めて迫って来るように思えた。


●24(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●25(月)
いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 (詩13・2)

 敵に囲まれ、内乱にも遭ったダビデ王。そういう彼が詠んだ詩として読めと、聖書は告げる。解決は主からのみ来ると、主にすがり続ける者の祈りがこれである。
 危機に及んだ時、私もまず神へと顔を向けよう。自分でアレコレと奔走し、万策尽きてやっと神様に「助けて」と求めるのでなく、いつも何よりもまず「主よ助けて。私はどうすれば良いのですか」と祈ろう。すがる姿に、もう信仰は現れているんだ。


●26(火)
天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。(詩8・2〜3)

 周りに満ちている神の御業を、詩人は心から賛美したいと胸躍らせている。でも彼は自分のことを知っている。それは、きっと戴いている恵みの御業を自分は数え上げ切れないだろうということを。ただ無条件で、気付かずに、戴くだけで生きているんだと。それを、自分は「乳飲み子」だと言ったのた。喜んで告白したのだ。
 私も「神様の乳飲み子」。今日を生きるための全てのものは、もう神が揃えていて下さる。安心してハイハイしよう。


●27(水)
見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。(イザ49・16)

 神様は「あなたを忘れることは決してない」と言われる。それはご自身の手の平に私の名を入れ墨して下さるほどに。決して消えないよう刻み込むようにだ。
 たとえ私が神様を見失っても、たとえ私が放蕩して離れても、神は手の平にある私の名を繰り返し呼んで下さるのだ。
 私は神様にどれほど愛されているか、少し分かった気がする。ご自分の手の平を傷つけてさえ、痛みさえも厭われない。あ、十字架の上の御子が心に浮かんだ。


●28(木)
隣人に関して偽証してはならない。  (出20・16)

 神ご自身が、モーセを通して与えた十の掟がある。今朝のみ言葉は、その『十戒』の中の第9戒だ。あらゆる嘘を言ってはならないと約束させる。それは、隣人との幸いな関係を一瞬で崩すからだ。さらに、神からの信頼も失うことになるからだ。
 巷で「嘘も方便。親切な嘘がある」と大人びた人が言っているのを聞いた。でも神様は、そこに付け込むサタンを見抜いている。いつしか自己中心的に拡げられていく嘘がからみついて来ると知っておられる。そこから逃れよと言っておられるのだ。

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2019年01月31日

『日々の聖句』2019年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年1月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(火・元旦礼拝)
「あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創22・18)

 アブラハムが、長男イサクを献げ物にするように神に告げられた時、苦しみつつも黙々と祭壇を築きイサクを屠ろうとした。その瞬間、彼の神信頼のゆえに親子ともども祝福される。その最後に告げられた御使いの言葉がこれである。
 神を信じることは闘いだと、いつも思う。自分の中にある疑いとの闘い、常識外れだと考える自分の尺度との闘い。御言葉を最優先させるって、自分がこだわる計画を手放すこと無しには無いんだな。でも手放す手に、祝福は溢れるんだ。


●2(水)
ユダのすべての町から人々が主を求めて集まってきた。(代下20・4)

 南ユダ王国の時代。都にモアブ人とアンモン人が大挙して襲って来た。そのとき王は戦略会議を開いたのでもなく、戦闘配備をしたのでもない。民と心を一つにして主に求めた。礼拝し、祈ったのだ。
 私は危機に襲われた時、自分の知恵を絞った。それから計画の成就を祈った。でもその一歩目が間違っていたのだ。聖書をずっと読んで来たつもりで、何を見ていたんだろう。肝心な一歩目が見当はずれだったのに。本気で修正したい!


●3(木)
あなたの父母を敬え。
(出20・12)                    

 律法の中の律法「十戒」の中の第5戒だ。その前半は、神と人との間の掟があり、後半は人と人との間の掟として「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」等がある。今朝のみ言葉は、後半の掟の最初に掲げられた戒めだ。つまり、神と人との間の掟ほどに重要な命令なのだ。
 父母を敬うことは、単なる道徳の話じゃない。誰もが分かっているはずの戒めだけど、誰もが壊しやすいもの。しかし神は、この関係が整う所に恵みを置かれた。ここが、人間関係の玄関なのだ。


●4(金)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)      

 詩人は、神様に向かって呼び求めている。苦難の底で(病気か、敵か、死が迫っているのか・・・)手を伸ばしている。しかしなぜかドッシリと信頼し切っている。
 あ、ご利益宗教の神頼みと決定的な違いが分かった気がした。詩人には、願う相手への信頼の固さがある。それは神様と関わる経験を持っていること、自分を守る神が誰かを知っているということだ。


●5(土)
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 (エレ31・34)               

 「神の民」とさえ呼んでいただいたのに、背き続けた人々。その報いであるバビロン捕囚の中で、神の言葉が人々に臨んだ。「もうあなたは罪を重ねないよね」と。
 圧倒的な赦しの宣言は、私への信頼と重なる。御言葉を棚に上げ、神の言葉なのに無視して、そうやって神を裏切った私を、まず信頼して下さる神。その信頼は、愛と重なっている。私は、赦しと信頼と愛に包まれている。それなのにどうしてなお神を悲しませられようか。


●6(日・第1主日・公現日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(創22・12)

 アブラハムが最愛の息子イサクを焼き尽くす献げ物にすべく、刃物を振りかざしたその時。神の使いが彼の手を止めさせて、「今、分かった」と告げたのだ。
 彼は神の言葉を聞いた時「絶対無理、嫌だ」と思わなかったのか? それでも届いた御言葉に従うのは、葛藤無くしてはないはず。「神を畏れる者か、自分に固執する者か」だ。机上ではなく、生きる現場でこの葛藤が起こる。そしてそこが祝福か、祝福に漏れるかの分かれ道なのだ。


●8(火)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。(エゼ33・11) 

 この「悪人」とは、犯罪人のことではない。神に背いた人のことだ。旧約では、神に裁かれて滅んで当然の罪人だ。それなのに神様の願いは、その罪人に向かって「立ち帰っておくれ」ということだった。
 旧約の神様って厳格な裁判官と思っていたけど、むしろ子を求めてやまない父のよう。ここに既に、愛の神の姿が見えた思いがした。神様は、ずっと愛だったんだ。


●9(水)
わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。 (エゼ3・10)

 捕囚の民の所へ遣わされるエゼキエル。主は「彼らはあなたの言葉を聞こうとしない」と言いつつ「彼らが拒もうとも『主はこう言われる』と語れ」と命じられた。その言葉を彼の心の中に入れて下さるのだ。
 どうして神を拒む人に、なお語らねばならないのかと思う。私には無理だと思う。でも神様は、その人をそれでも愛し続けておられるのかも。私にもその人を愛して欲しいのかも。神の愛に深さを、私にも生きて欲しいのかも。きっとそうなんだ。


●10(木)
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、・・・彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。(創22・2)

 独り子のイサクを焼き尽くす献げ物にせよと、神様から試みられたアブラハム。
どんな思いでこれを聞いたのだろう? 神様が約束して下さった贈り物としての息子だったはず。一番大切な息子。それを、神に従う印として返せだなんて。
宝も健康も、得たと思っているものは全て預かりもの。ならば失うのではなく、返す日が来る。ならばこれは、誰もがいつかは聞く言葉? 彼はこの後どうしたの。


●11(金)
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせてくださる。(サム下22・40)

 ダビデを襲う数々の苦難。サウル王から命を狙われ、ペリシテ人が攻め込み、飢饉に襲われ、彼は常に闘うことを余儀なくされた。しかしその全ての時を守ったのは主なる神。その一点を知っているダビデが感謝の詩を歌った。その一節がこれだ。
 私にも戦わねばならない時がある。願わない困難(病や試練も)が襲って来るから。しかしその時に、身を寄せるお方を私は知っているのだ。主よ、それはあなた!わたしの身に力を帯びさせて下さるお方!


●12(土)
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。(サム上12・21)

 サムエルが歳を取り、民を率いることから退こうとする時、告別の説教をした。
 「むなしいもの」と読んだ時、すぐに金や権力のことかなと考えた。でも聖書の前後を見たらハッキリ一つの事が示されていた。それは罪。主を離れ自分を頼ることだと分かって、恥ずかしくなった。どうしてボクは、すぐに罪のことだと気付けなかったんだろうと。罪を軽く考えているからか。自分から遠いものと思ってるからか。

●13(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●14(月・成人の日)
(主は言われた)「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出4・12)

 主が「お前にこの務めを担って欲しい」と召し出したのに「苦手です。弁も立ちません」とあらがうモーセ。それでも「あれもこれも備えるから」と忍耐された主なる神。モーセが踏み出すのを待つ神。
 いつもやりたい奉仕だけして、自己完結してきた私。でも神様は「こっちをこそ担え」と忍耐して待っておられる。そこに踏み出したら、壮大な神の計画が動き出すから。その道をこそ選べ、弱腰の私よ!


●15(火)
わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。(イザ8・17)

 エルサレムに敵が徒党を組んで来る、という知らせが届く。未だ神の助けは見えない。その恐れの只中で預言者イザヤは「なお神にのみ望みをかける」と告げた。
 神に望みをかけるというのは、お願い事を託すという程度じゃなかった。解決の糸口も見えない中で、なお全人生を神様に〈賭ける〉ということ。行く先を主に明け渡して、主権を譲ること。そこで解決が、人の手から、神の手に移るのだ。


●16(水)
泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。(エレ31・16)

 都エルサレムは陥落。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれる人々に、エレミヤが伝えた神の言葉。それは希望の約束、将来の約束。だから「泣きやむがよい」と。
 御心に背いて自分中心に生きたから行き詰まっていた。人との関係においても破れてゆく。その時、もし悔いるなら、この慰めの御言葉が聞こえて来る。立ち帰る者の涙は、必ず拭えるからと。そう言って下さる主と、今日も一緒に歩んでいたい。


●17(木)
主よ、あなたはわたしのともし火、主はわたしの闇を照らしてくださる。  (サム下22・29)

 ダビデが全ての敵と、サウル王の手から救い出された日、主を賛美して歌った。
 順風満帆の歩みに見えていた王なのに、いつも悩みに囲まれていたなんて。それも深い闇の中に居ただなんて。
私も闇と思える悩みに覆われる日がある。そのとき、御言葉に聴こう。聖書のみ言葉こそ、私を導き出してくれる神ご自身の言葉だから。その言葉が、私を照らす光なのだから。そうしたら、私も神を讃えて歌う朝が来るのだから。

●18(金)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。      (サム上二・三)

 不妊の女と言われて悩みの中を生きたハンナにサムエルが生まれた。そのとき喜びの中で主に祈る。賛美しつつ、同時に改めて自分の立ち位置を定める。悲しみを知って憐れむ主に委ねることに、自分を据え直す。信仰の謙遜さに立ち直した。
 喜びの中で、浮かれて思い上がることがある。自分の訴えが正しかったから願いが叶ったと。でも全ては主の御心、主の憐れみの御業だ。その中に留まろう。「祈って、委ねる」、この後者こそ大切だから。


●19(土)
「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。」(出3・10)

 神の命令がモーセに下る。それは人間のから見たら圧倒的な強の差があるエジプトの王の元に行くこと。だから「どうして私が行かなきゃならないの」と不平も出る。しかしなお神は「行け」とモーセを選んだのだ。民の解放という出来事を起こす神の使いとして。天の使いとしてだ。
 私達も「行け」と言われる場所や隣人の傍がある。そこに出掛けたら、神の御業が起こるために選ばれた一人として。誰もがそのとき、天の使いとされている。


●20(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●21(月)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。  (エレ9・23)

 南ユダ王国滅亡が目前に迫る中で、エレミヤが原因を予言する、「主の言葉に聞き従わなかったからだ」と。同時に帰る場所も告げた「目覚めて主を見よ。主こそ慈しみと恵みの業を行う方だから」と。
 神の恵が遠退いたと思うのは、神が私を離れたからじゃない。慈しみを受ける場から離れた私が原因。勘違いして嘆いていたのかも。老牧師が「礼拝厳守」と言ってたなぁ。そこが恵みの受領場所だから。


●22(火)
(ファラオは言った)「主とは一体何者なのか。・・・わたしは主など知らない」 (出5・2)

 モーセがエジプトの王に最初に会った時、王が言い放つ「お前が言う主とは何者か。私こそが主であり、王であるのに、他の誰に従うべきだと言うのか」と。
 ファラオのなんと不遜な言い方かと思う。その瞬間、彼の言葉が私の中にもあることに気付いてゾッとした。私も「この件については、神様に従うことはできません。私のやり方でしかやれません」と神様を払いのけている時があるから。その姿は、ファラオよりも不遜な者になっている。


●23(水)
主は約束なさったことを実現された。 (王上8・20)

 ソロモン王が、神の支えの中でとうとう神殿を完成させた。そのとき民の前に立って告げたのだ。父ダビデに神がなさった約束は、一つの言葉も欠けずに、ついに実現したのだと。約束の言葉は、神の口から放たれた時、どんなに時間がかかっても必ず実現へと向かっているのだと。
 神の約束の御言葉を信じたら、その瞬間に私の世界は一変する。現在は、神の計画の実現に向かう時間となるから。ああ、自分の将来を狭苦しくしていたのは、誰のせいでもない、私の不信だったんだな。


●24(木)
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。」 (創17・9)

 神がアブラハムに約束を交わされた「あなたを祝福する。あなたの子どもも孫もだよ。ずっとずっとだよ」と。そして「だから」と続けられたのだ。「だからあなたはその私の約束に従って生きるだけでいい」と。
 今まで「契約を守る」って、堅苦しいと感じていた。でも神様からの語りかけは、「ずっと愛しているから。その腕の中で守られて生きたら良いから」ということだったんだ。天の真の父に愛されて生きることだったんだ。その約束の中に居続けたい。


●25(金)
主があなたと共におられることがよく分かったからです。(創26・28) 

 ペリシテ人の王アビメレクが、イサクを見て悟るのだ「主があなたと共におられる」と。神を知らない王なのに、イサクの生活に神が生きておられることを見たのだ。
 私の生活は、隣人から見たら「神が共におられる」と気付けるのだろうか。それとも、不満と不安と憤りしかない「神と無関係の者」のように見えているのだろうか。口で「神を知っている」と言うことと、生活で「神と共に歩むことと」は、雲泥の差かも。私はどっちに立っているのかな。


●26(土)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。  (ホセ6・3)

 自らの背信により北王国が滅亡。人々が「我らは主を求めよう」と口で悔い改めた後、この言葉を続けたのだ。それを「信頼し切った悔い改め」と思ったけど、神様は「お前たちの愛は朝の霧のよう」と嘆かれる。これは、偽りの悔い改めだったのだ。
私も悔いた次の瞬間、罪を重ねてる。ルターが言った「主が悔い改めよと言われた時、全生涯が悔い改めであることを欲したもう」が心に染みる。それは真だな。

●27(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●28(月)
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 (イザ9・6)

 亡国の危機を前にした預言者イザヤ。彼は、国を救うのは人間の努力でも策略でも熱意でもないと言う。「ただ主を待ち望んで、御業に心を傾けよ。闇の中であれ祈りを重ねよ、待っておれ。主こそが、熱意をもってあなたを救うから」と。
いつも目の前の困難にうろたえる私。策を立て、それでも心配で、そこでやっと祈り出す始末。でも御言葉はそんな私に宣言する。ただ主に顔を上げるのみと。信仰は、余裕がある時の心の飾りじゃなくて、闇の中でも唯一残るものなのだと。


●29(火)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。 (詩42・2)

 「神はどこにおられるのか、私には見えない」と苦難のどん底で叫ぶ詩人。
 苦難に陥らない人はいない。でもその時私は、何を求めているだろう。解決策か、解決への奇跡が起こることか。神を求めるのも、奇跡を行う方となって欲しくて呼び求めているだけなのかも。
 詩人の求めはそれとは何かが違う。彼は神そのものを求めている。「奇跡さえ無くていい、ただ会いたい」と喘ぐように叫んでいる。そういう求めが、信仰なんだ。


●30(水)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。 (箴3・9)

 収入を手にした時、最初に生活費を取って、残りをささげものに配分するのではない。まず神に一番良い部分を取り分けよと告げられている。そうすればあなたの倉は満たされると約束もされていた。
 私は若い頃、生活費を確保してから「神様、今月はこれだけささげます」と、胸を張って言っていた。神様はきっと「お前にとって私は2番3番手なのか」と情けなく思っておられただろう。ささげることにも、神への畏敬の真実さが現れるんだ。


●31(木)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。(出15・13)

 追い迫るエジプトの大軍から、神が民を紅海を渡らせて救った時、モーセが歌った神賛美だ。
 誰もが「万事休す」と思ったのに、神様だけがその「万事休す」の向こう側への扉を開かれた。それが神の「御力」そして神の「慈しみ」なのですね。神の慈しみって、あなたの心の中の思いの話じゃなくて、出来事となる力なのですね。つまり慈しみを戴いたら、救いの出来事が始まる。その神の慈しみの射程に、私も入っているんだ。




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2018年12月31日

『日々の聖句』2018年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年12月
(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)




●1(土)
わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。  (使4・12)

 ペトロらは「イエスは死者の中から復活された」と告げたゆえに投獄された。その翌日、権力者の面々を前にした審問で、なお語り抜いたのがこの言葉だった。
 小心者の私には「怖くなかったのだろうか」と思えてしまう。私たちは、権力者を前にすることはないけど、近所や親戚や世間の面々の前に立っている。それはペトロラと同じ場所かも。勇気が欲しい。主を証するため、私にも聖霊を送り給え。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 (ヤコ1・12)

 離散した民が、その地において信仰生活を生きるのに、試練に遭っていた。そういう一人ひとりに向けて語られているのだ「忍べ。その先に命の冠があるから」と。
 改めて、試練がない人生なんて一人もいないんだと思う。ならば「なぜ自分だけ試練があるのか」と悩むのじゃなくて、グッと受け入れて、グイっと前へ踏み出そう。手をググっと命の冠の方へ伸ばすんだ。


●4(火)
神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 (ロマ6・23)

 「あなた方は今まで罪の奴隷だった。自己本位に生きる罪人だった。そのどこに神への信仰があるのか」と真実を突いた後に、「そのあなたに神様からの賜物があるのだ」と告げられた。つまり、神からの贈り物の大きさに気付ける人は、自分が罪人だとちゃんと気付けている罪人のみ。
 永遠の命は、受け取る資格もない自分だと気付けて、悔いた人への賜物。その低いハードルさえ、僕はちゃんと越えてなかったかも。悔い改めもせず浮かれてたかも。


●5(水)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (1ヨハ1・9)

 「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いる」と語った直後、ヨハネは「御免なさいと言い表したら、清められる」と告げた。
 罪を隠すつもりはないけれど・・・もしも自分の罪を数えられないのなら、赦しも清めも救いもないんだ! 主よ、「私は罪人です」と言い表せるほど具体的に罪を数えさせて下さい。そこが、あなたの恵みを受け取れる唯一の場所なのですから。


●6(木)
萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。(ヘブ12・12)

 鍛錬というのは当座は辛く苦しいと思うけど、霊の父は私たちを鍛えようとしてそれを与えておられるのだ、と告げられる。その先には、ご自分の神聖さにまで引き寄せようとしておられるのだと告げられたあとで、今朝のみ言葉が言われる。萎える手があるだろう、弱る足があるだろう、でももう一度立ち上がって御覧。目当てに向けて顔を上げて御覧、と。
 今の苦難が御父の鍛錬なら、それは今も御腕の中ということ。私は今、安心の中にいるのだ。じわっと力が湧いて来る。


●7(金)
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 (1コリ3・11)

 主によって召し集められた群れが「教会」。それは神の神殿、その土台はキリストだと告げられているのだ。
 「教会なんだから当たり前」と思ったすぐ後に、土台を忘れていることがあると気付いた。人間の思いで会議して、姉マルタのように動いて、人の常識が声高に言われる時、土台は己の思いになっている。
唯一思いが整えられているのは礼拝に与っている時。その心のまま生活したい。


●8(土)
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 (1コリ7・19)

 ユダヤ人キリスト者は、古くからの割礼を受けていることを誇った。異邦人キリスト者は、古いことに縛られないことを誇った。でもパウロは言い切る。神に喜ばれることは、むしろただ一つの事だけだ、それは誰にとっても、神の掟(御言葉)を大切に生きるか否かだ、と。
 御言葉をたくさん知っている信仰者がいる。まだあまり知らない信仰者がいる。でも肝心なのは、行うか否かだ。ああ一つの御言葉でもいい、今日そこに生きたい。


●9(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マコ3・35)

 イエス様を訪ねて来た母と弟達を指して「わたしの母、兄弟とはだれか」と問われる。皆が、そこにいる家族でしょと思った思いに「御父の言葉を、御子の私が行うように生きる人だ」と言われたのだ。
 私もイエス様の弟なんだと嬉しくなる。でも直後に、本当に弟になれているのかと不安になる。御言葉を行っていない自分の姿が分かるから。改めて、肉の自分の生き方を捨てて、〈神の家族〉になりたい。神様と〈他人のまま〉でいたくない。


●11(火)
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。  (ヤコ4・3)

 この御言葉の直前に「得られないのは、願い求めないから」とある。本気で神に求めない貧しい信仰。そして続くのが、求めても自分のためのことは得られないよと続くのだ。人はいつも自分しか見ていない。
 自分に目を向けることから、主に目を向けることへ向き直ろう。私が主に何を求めるかでなく、主が私に何を求めておられるのかに向き直ろう。そこが出発点、そしてゴール。そこで全てを得るのだから。


●12(水)
(イエス)まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。  (マコ8・17)

 「5千人の供食」の奇跡も「4千人の供食」も経験した弟子たちなのに、目の前にパンが一つしかないという現実に心を捕らわれて慌てふためいた。そのとき主が「まだ悟れない、心が頑なで鈍い者よ」と嘆かれた、いやあきれられた、いや怒られた。
 私も主の守りを経験したのに、次の困難が来たら信頼が消える。現実の小さな苦しみに、信仰は剥ぎ取られてしまう。
でも主は怒りつつ弟子を離れない。その憐れみの中で、私もやっと生きられる。


●13(木)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる。 (ロマ10・12)

 この「すべての人」の中には、同族でありながら敵対する人も、神など居ないと理屈ばかりいう人も、皆含まれる。ユダヤ人もギリシア人も区別は無いと言うのだ。
 「イエス様を知らないあの人も、神は助けて下さるのだろうか」と気になっていた。その不安に光が差す。「ただ呼び求めれば良いのだ」と知ったから。「呼び求める」ことの絶大な恵みを知ったから。そうだ、私が傍で一緒に呼び求めれば良いんだ。


●14(金)
信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(ガラ3・7)

 「良い行いを心掛けているし、正しく生きている。だから神にも認められる」と自認していたキリスト者に、パウロは「否」と告げる。「あなたに欠けたものがある。それは信仰だ。信仰によってのみ神の子とされるのに」と。
 律法主義とは無縁だと思っていた。でも、信仰を見るのでなく、自分の生き方を気にしているのは隠れ律法主義だ。改めて、自分の信仰はどうなのか、その一点を見詰め直そう。そこが出発点だから。


●15(土)
自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 (ヘブ12・1〜2)

 モーセもギデオンもダビデもサムエルも、全ての神の人らは忍耐強く信仰の道を走った。その歩みに我々も繋がっているのだと告げられる。さらに、我々は共に走って下さるイエス様がおられるのだから、先頭を進んで下さるイエス様がおられるのだからと、呼びかけられているのだ。
 苦労はある、しかし独りじゃないということが、何よりもの励ましに聞こえた。


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモ2・4)

 神は、「第一に願いと祈りと執り成しと感謝を、王たちやすべての高官たちのためにもささげよ」と言われる。そして「すべての人々が救われることを望んでおられる」と続くのだ。救いは、私が望む私の大切な人だけじゃない。異文化・異教徒・支配者・さらには敵も含めてである。
 私の祈りのなんと狭かったことか。その祈りの狭さは、私の心の狭さそのもの。今日、祈りの射程も心も変えてみよう。そこからきっと何かが変わっていくはず。


●18(火)
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。(ヨハ14・18)

 主が十字架に掛けられる前夜、弟子を前にしてなさった告別説教の中の一言。イエス様ご自身が、離別のあとに弟子たちが抱えるだろう悲しみを分かっていて下さる。傍に姿が見えず、尋ねられず、頼れない不安を知っていて下さるのだ。
 それは私も抱える不安かもと、ふと思った。その思いに御言葉は優しく響いて来る「あなたを独りぼっちにはしないから」と。「聖霊を送るから」と。ああ、主の霊が私の内に居られる。私は独りじゃない。


●19(水)
しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(1コリ15・10)

 パウロは、自分はキリストの迫害者・神の敵だったのに、主がキリストを伝える器として働かせて下さったのだと分かっている。その彼だからこそ、心の底から言えたのだ「働いたのは私でなく、神の恵みだ」と。
 真の謙遜は、単にへりくだることじゃない。それだけなら偽りの低さになる。罪を悔いて、神を高く上げることを欠いたら、見せかけしか残らない。「神の恵み」と言えるのは、生きた信仰の言葉なんだ。


●20(木)
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。  (ルカ10・3)

 イエス様は、弟子たちを含めて七十二人を伝道に遣わす。「神の国(平和の神の支配する日)が近づいた」と宣言するために。その派遣は、オオカミの群れの中に羊を送り込むような困難があるとご存知の上で、だ。
 危険を知りつつ託すほどに、信頼して下さっている。私達にも、主の口となって福音を持ち運んで欲しいと、願っていて下さるんだ。その御心を受け取って、私も立ち上がろう。追い風が吹いている。主ご自身から吹く追い風が。「行きなさい」と。


●21(金)
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。  (エフェ5・30)

 驚くことに、これは夫婦について教えられている中の一文だ。「妻たちよ、主に仕えるように夫に仕えよ。夫たちよ、主が教会を愛したように妻を愛せ」と。そして告げられるのだ「二人はキリストの体の一部、主にあって一体なんだよ」と。
 最も近い隣人が夫婦。そこにおいても破れを起こしてしまう現実。だからこそ、御言葉が立ち帰る場を示してくれているのだ。互いに傷つけ合うと、キリストが痛んでいる。補い合って生きてご覧。主もあなた方を包んで支えてくれているからと。


●22(土)
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。(1コリ16・13)

 信仰生活が乱れたコリント教会に向けての手紙の結びの言葉だ。烏合の衆となっていた彼らに、再びキリストの十字架を示し、死者の復活も伝え、霊的な賜物の話もして、献金のことも語って来た。その締め括りにこの言葉を告げたのだ。
 「しっかり立て」と励ます。でも、自分の遣り方によるのでなく、経験によるのでもなく、「私は赦されて救われた罪人、キリストのお陰で」という基に立つことだ。信仰を欠いたら、単なる〈元気な人〉になるだけだから。教会生活も私生活もだ。


●23(日・第4主日)

クリスマス礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月・祝日、クリスマスイヴ)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 (1テサ5・15)

 これは有名な「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい・・・」という御言葉に並んで書かれている言葉だ。喜びたい信仰生活を、「悪意」が一気に崩すからだ。その悪は、自分の内側から、行いと言葉によって出て来るのだ。
 もしも小さな悪意(相手への不満や、不信、憤りも)を持っていたら、小さな喜びさえ追い出される。喜びを滅ぼす悪は、私の内に居座るからだ。悪を抱えるのも私、捨てるのも私、決断は私がせねば。


●25(火・降誕日)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。   (コロ1・14)

 み言葉は「この御子によって」とキリストを指し示す。十字架の上のキリストという一点を指さす。あなたも父なる神に「愛する子らよ」と呼んでいただけるのは、御子の死によってのみなんだと。
 私が今あるのは御子のお陰ということをつい忘れてしまう。だから信仰生活も生ぬるかった。御子の命という戴き物への真剣な応答でなく、自分で出来る範囲の生き方だったから。降誕日の今日だからこそ「御子のお陰」と心して歩まん。


●26(水)
あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対して。 (1コリ6・8)

 教会の中に争いごとが起こっていた。信仰者同士なのに、争っていた。その姿をパウロは嘆いている。教会はその始まりの時から既に、醜い人間の姿のルツボになっていたんだな。
 教会は聖い人の集いだと思っていたけど、そうじゃない。罪人の頭領達の集まりなんだ。誰もが救ってもらわなければならない輩だから、神が呼び寄せられたのだ。だからこそ、救われた感謝が一番分かっているはずの群れ。そこに留まりたい。


●27(木)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。  (ルカ6・19)

 おびただしい人々が、イエス様のもとに押し寄せて来た。ただ触れることでさえ癒されるから、と押し掛けたのだ。
 彼らの姿を「ご利益宗教と、あまり変わらないじゃない」言い捨てには出来ない。イエス様に何とかして触れたいと必死に近づく思いが私にはあるのかと考えたら、恥ずかしくなったから。彼らの「何とかして」と走り寄る姿は、人目なんて気にしていない。心の中がイエス様でいっぱいになっている。心にイエス様だけがおられる。そんな姿に私もなれたらとさえ思えて来た。


●28(金)
相変わらず肉の人だからです。 (1コリ3・3)

 「肉の人」って何だろうかと聖書を見たら、「互いの間にねたみや争いが絶えない」人のことだった。そういう自己主張し合う者たちは「ただの人だ」とさえ言い切られる。その語気には嘆きさえ聞こえる。
 それも、「相変わらずだな」と言われていることにドキッとしてしまった。少しはキリスト者らしくなれていると思っていたのに、相変わらずの私だなんて。未だに愛するのでなく、争いを起こす肉の人。小さな自己主張を身にまとった肉の者。ああ、今もまだ私は、憐れみにすがる他なし。


●29(土)
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。(1コリ12・6)

 与えられた賜物を生かして奉仕する。そこに喜びがあるのは、賜物を生かせる喜びと繋がっているのだろう。でも御言葉は「その働きは神がなさっている」と語る。
 私は勘違いしてたのかも。私に御自分の賜物を与えた神は、〈私を用いて〉〈私を通して〉御自分が働こうとしておられるのに。神がなさるのに、自分がしたと勘違いしたら、そこで人目が気になることも始まるのに。どえらい勘違いをしてたかも。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●31(月)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。  (エフェ5・8)

 今までは神を悲しませて「憤り、怒り、わめき、そしり」など悪意に生きていただろうと聖書が語りかける。しかし続けて、あなたはキリストに結ばれたのだから、暗闇は去り、光の中に立っているのだと告げる。そこに高らかに響く、「光の子として歩みなさい」との御声が。
 今年を振り返りつつ、悔い改めて決意を新たにするのに相応しい神の言葉をいただけた。さあ腰の帯を締め直して、光の子として歩まんと。


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