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2023年12月31日
『日々の聖句』 目次
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 23:59| 『日々の聖句』
2023年03月31日
『日々の聖句』2023年3月
相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2023年3月
●1(水)
●2(木)
●3(金)
●4(土)
●5(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●6(月)
●7(火)
●8(水)
●9(木)
●10(金)
●11(土)
●12(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●13(月)
●14(火)
●15(水)
●16(木)
●17(金)
●18(土)
●19(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●20(月)
●21(火・祝日)
●22(水)
●23(木)
●24(金)
●25(土)
●26(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●27(月)
●28(火)
●29(水)
●30(木)
●31(金)
み言葉のパンで生きる365日
2023年3月
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(水)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 (詩139・23)
神様に、私の心を探って「何を願い、何を思い、何を悩んでいるか」を調べ尽くして欲しいと申し出るなんて。自分の心の中は、自分が一番よく分かっていると思っていたのに。
でも、本当に辛いことは、自分でも心に蓋をしてしまっている。本当に悩むことは、自分でも忘れるようにしている。でも、主こそが、私よりも私を知っていて下さるお方。ハッとした。そしてなんだか慰められた。
●2(木)
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。 (詩19・2)
壮大なスケールで、神の栄光をたたえた詩人。叫び出したいほどの喜びが伝わって来る。主なる神との豊かな交わりに生きているからだろう。
ボクには、こんなに爆発しそうな神賛美があるだろうか。もしないのなら、自分のことばかりを見詰めているからかも。自分の願望、現実、そして自分の罪・・・。結局、自分しか見詰めていないのなら、神の恵みは見えて来ない。主にこそ振り返らねば。
●3(金)
わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。 (創28・15)
神が「約束を果たすまで決して見捨てない」と言って下さる。その「約束」が気になって、聖書を開いた。それは、ヤコブが自分の罪のゆえに、兄の復讐を恐れて荒野に逃亡していた時のこと。「あなたを守り、必ず祝福の地に連れ帰る」との約束だった。
過ちを犯した者なのに、それでもなお愛することを止められない主。罪人なのに・・・。ああ、その主のお心は、ボクにも向けられているんだ。
●4(土)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。 (箴3・9)
智恵の書である『箴言』は、主へのささげものを求める。それは、まず先に主から与えられているものがあると伝える中での言葉だ。それも「豊かに持っている中から」と言われている。だから、献げ物はお返しなのだ。
献金のことを、少し誤解していたかも。自分が持っている物が減ってしまう気がしていた。でも献金は、主に与えられている物の豊かさを想う時なんだ。献金も、感謝だ!
●5(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●6(月)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。 (イザ31・5)
新バビロン帝国が攻めて来る。そのとき人々は恐れて、大国エジプトと同盟を結んで守ってもらおうとした。そういう人々にイザヤが「人間に頼るな、主があなた方を守られる方だから」と伝えたのだ。
神様が人々を守る姿は、親鳥が翼を広げて雛を包む姿。その翼は、ボクの上にも広げられている。人に頼らず、まず神に委ねる、ボクはそういう雛鳥でありたいな。
●7(火)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。 (哀3・56)
詩人は、激しい恐れの淵から叫んでいる。神に向かって叫んでいる。それは、主の御名を呼ぶ自分の声に耳を閉ざさないで下さいという叫びだった。聞いていただけたら必ず救って下さるという確信を漂わせて。
彼は、ただ主だけを信頼している。私たちも、恐れと苦しみの日、本気でどこに顔を向けるかが大事だ。人の助けか、自分の経験か、それとも力の限り主を求めるか、だ。
●8(水)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 (ミカ7・19)
南北王国時代に、預言者ミカが主によって幻を見せられて預言した。それは、民の腐敗に対する審判の言葉に満ちていた。
しかしその中にあって、今日の言葉が告げられていたのだ。人々が罪に傾くのを必死になって抑えようとしているのは、父なる神なのだ。罪を一掃しようと熱心になられているのは神様なのだ。ここに、主の慈しみの何たるかを見た気がした。
●9(木)
主を畏れることは知恵の初め。 (箴1・7)
『箴言』には、これと同じような御言葉に溢れている。人間にとって「知恵ある者」となるには、主なる神を畏れ敬って生きることが土台なのだと、口を酸っぱくして言うのだ。
畏敬するならば、当然、そのお方の言葉を聞いて従うだろう。新約においては「キリストに聴従すること」だ。聖書全巻は、この事において一貫していた。聴従は、知恵ある者の初めの姿、また行きつく姿なり。
●10(金)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。 (ホセ6・3)
北イスラエル滅亡のとき、預言者ホセアが立てられた。背信のゆえの審きを伝えるために。しかしそれだけではなかった。王国の回復についても告げられたのだ、「偽りの悔い改めを捨てて、主に立ち帰れ」と。
倒れても、また立ち上がれる道が、神様のほうから示していただける。背きの者なれども御父の愛は消えない。こんなに強くて熱い愛を見たことがあるか。否、ただ主のみだ。
●11(土)
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。 (イザ10・21)
旧約で「残りの者」というのは、鍵言葉だ。神への背きによって人々は審きを受ける。しかしそこで悔い改めた者が残る。そして、その真に悔いた者たちは少数だけれども、神に立ち帰り祝福の基となるというのだ。
残りの者は、人間にとっての希望というよりも、神様にとっての期待なのだ。「少しは私に立ち帰ってくれるだろ、祝福を与え続けたいから」と。
神のお心に、応答して生きたい!
●12(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●13(月)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。 (ゼファ3・15)
北王国は既に亡び、南ユダ王国の滅亡も間近となっていた。そこに預言者ゼファニアが「神の声を聞かず、主に信頼しなかった都は災いだ」と告げた。しかし不思議なことに、裁きの宣告と共に、最後に「都エルサレミよ、喜び踊れ」と加えたのだ。罪の贖いの宣告だった。
罪を赦す神。そのために悩み苦しまれたのは神。その御父の愛が、私にも及んでいる、この罪人にも。
●14(火)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)
「貧しい人の苦しみ」って、どういうこと? 単にお金が無いというのではないかも知れない。当時、富める人は神の祝福を得ているからと考えられていた。そうであるなら、貧しい人は祝福から遠くにいる人なのかも。
それでも主は、そこに起こる苦しみも悲しみにも、心を砕いて下さる。まるで罪人のために死なれた主イエスのように。天地創造の時から、変わらない主のお心に触れた思いがした。
●15(水)
聖なる方を知ることは分別の初め。 (箴9・10)
知恵の書である『箴言』。その知恵の中の知恵が、主を知ることなのだ。私たちにとっては、神を知り、神の言葉を知ることだ。そのことが、人生をどう歩むのか、善と悪をわきまえることに直結する。
ボクはこれまで、どんな知恵を土台として来たか。今からでも遅くない、聖なる主の言葉をすべての土台に据え直すんだ。義しく豊かに生きるため。幸せを手にするために。
●16(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。 (エレ9・23)
ん? なんだか知恵の書『箴言』の中にある言葉のような・・・。でもこれは単なる信仰的知恵じゃない。彼は南ユダ王国の民の背信の只中で語っている。神を捨てる民に向けて、必死に叫ぶ、「主を誇れ、主を知れ」と。
それはそのままボクにも届けられている。主の言葉を預かって語るエレミヤが、時を超えてこのボクにも。ボクが、生活の中で自分を誇ることがあるから。主を忘れる時があるから。
●17(金)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。 (イザ1・2)
南ユダ王国に、主なる神が語り掛けた。それはご自分の愛する民に向けての言葉。しかしそれは、祝福の言葉ではなかった。背きに対する激しくも厳しい審判の宣言であった。
審判を前に、「我々は何ということをしたのか」と、我に返れば良かったのに。しかし民は悔い改めなかった。
主の怒りの言葉に耳を傾ける。それは、むしろ好機。立ち帰る最後の転換点なんだ。逃すまいぞ。
●18(土)
わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。 (イザ46・13)
主の恵みの業が届けられる。それも「もはや遠くない」時に、「遅れることなく」とも言われている。
今日、御言葉がボクの心にそのままダイレクトにやって来た。そして心の奥にまで染み込んだ。
御言葉を聞いただけで、まだ実現してもいないけど、もうボクの心は、ホッとしている。これが「信じる」ってことかな。そして、「信頼する」ということの実りだね。
●19(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●20(月)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。 (エレ26・2)
人々にとって安易な道しか語らない偽預言者たちがいた。人々もその甘言を選んで、悪の道を歩いていた。そういう人々に向けて、主が預言者エレミヤを通して言われたのだ。神の言葉を人間の都合で減らすな、耳に痛くても、それが真実な言葉だから、と。
ボクも御言葉を自分都合で「これは無理」と減らすことがある。その心を見て、主は一喝されるのだ。
●21(火・祝日)
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。(創15・13)
神がアブラハムに語る言葉は、このあとアブラハム子のイサク、その子ヤコブ、その子ヨセフ、その後に起こるエジプトでの寄留生活の出来事となる。さらに、その奴隷生活からの脱出(出エジプト)の予告も。
「あ、そうか」と思った。人にとっては苦しみの奴隷生活。でも「神が先を見ていて下さること」なのだ。主が先立っていて下さるんだ。ふと今日、苦難の見方が変わった気がした。
●22(水)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。 (ゼカ2・15)
捕囚期に、主の言葉を伝えたゼカリヤ。都への帰還の希望と、彼らを略奪した国々への審判の後に、諸国は、主なる神が生きておられると知ることになると伝えるのだ。そこに起こるのは、全世界の人々が、「主こそ神」と礼拝し出すということだ。
なんて壮大な祝福。まるでエデンの園の回復の姿のようだ。この争い多き世界は、本当は、そんな神の熱望の実現へと向かっているんだ!
●23(木)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。(代上29・14)
ダビデ王が、第一神殿建築に向けて、全会衆に寄贈品を求めた。宝物庫は溢れるほどに満たされたのだ。そのとき主に祈った言葉がこれだ。
彼は「主よ、こんなに集めました」とか「こんなに一生懸命しました」とは言わなかった。すごいな、と思う。きっとボクなら、「少しは自分を褒めてあげよう」なんて思っているかも。
これからは全ての奉仕をした後、ボクもこのダビデの祈りを祈りたい。
●24(金)
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。 (エゼ36・26)
自らの背信によって、イスラエル全家は壊滅、離散した。その人々に向けて、主なる神は語り掛けられるのだ。神の民として育んだあなたを惜しむ、と。そのゆえに、主御自身が人々を救い出す計画を立てられるのだ。人々に、神のみを求める心を与えること、また主の言葉に従う霊を与えるということを。
私の心も、御手によって入れ替えていただきたい。主をのみ慕う心に。
●25(土)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。 (ゼファ3・17)
南ユダ王国の末期。主の裁きと、その後の恵みを語る預言者ゼファニヤが立てられた。今朝の言葉は、イスラエルの回復時の希望の宣告だ。
喜びの日の到来時、そのただ中に居てくださる主は、その前にある償いの日々にもずっとただ中にあって、一緒に歩んでいて下さったということ。まさに神こそが、共に泣き、共に喜ぶお方なんだ。その方が、今日のボクとも、共に居てくださる。
●26(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●27(月)
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。 (エレ17・14)
捕囚の中で、エレミヤは周りから「お前の神は助けてもくれない力の無い神だ」と揶揄され続けた。現実は周りの人が言う通りなのだ。そういう中で彼は、この言葉を言った。正に、信仰の告白だ!
「あなたがなさろうとする時、御心は必ずなる」と完全に委ねている。順風満帆の時でなく、苦難の中で、信仰は明らかになる。その有る無しまで。
●28(火)
よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。 (ルツ2・10)
未亡人となった異邦人ルツが、実家にも帰らずに姑と一緒に見知らぬ土地ベツレヘム(姑の故郷)について来た。姑に仕えるためだ。そのルツを見て、夫の一族であるボアズが優しく声を掛けたのだ。このルツから生まれる子孫に、ダビデ王が登場する。
自分で考える安心安寧を選択せず、見知らぬ土地に出発したルツに、アブラハムの姿が重なる。自分の計画の外に、大きな祝福が待っている!
●29(水)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)
歌人は、深い淵の底から、主に叫び声を上げている。万策尽きて、ただ御名を呼ぶばかりの者になっている。すがれるのは、もうここしかないと、声もかれるほどに。
しかし叫び続けるのは、「このお方は、必ず見捨てない」と心の奥に信頼の塊があるから。もしかしたら主に頼る生き方に、諦めという言葉は無いかも。もしかしたら神に頼るって、強い生き方なのかも知れない。
●30(木)
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。 (詩44・7)
誰でも敵と戦う前、武器を揃える。戦場の場合でなくても、相手をやっつける言葉を一晩中考え、やり込める証拠を整える。または計画実現のための資金や仲間集めをしようとする。それなのにこの詩人は・・・。
主なる神が戦われると、信じている。それを本気で依り頼めるのは、信仰の有る無しだ。敵との戦いの前に、自分の信仰を問う戦いがある! そしてそれが、何よりも大切なんだ。
●31(金)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。 (士10・10)
まだ王がいない士師の時代。人々は周辺国の神々も拝み出した。主の怒りは燃え上がり、その国々を、イスラエルの敵として攻めさせた。苦境の中で、ようやく自分たちの罪に気付いた人々が言った言葉がこれだ。
改めて、主が厭う罪とは何かが分かる。それは刑罰に関わる話じゃなく、主をのみ信頼しないこと。ボクの生活の中にも、その瞬間が、あまたある。ボクも主を嘆かせる罪人だ。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:22| 『日々の聖句』
2023年03月19日
『日々の聖句』2023年4月
相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2023年4月
●1(土)
●2(日・棕櫚の主日)
礼拝説教
(棕櫚の主日)
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●3(月)
●4(火)
●5(水)
●6(木・洗足の木曜日)
●7(金・受難日)
●8(土)
●9(日・復活祭 イースター)
礼拝説教
イースター(復活祭)
早天祈祷会 津川優司 兄
主 日 藤森誠 伝道師
●10(月)
●11(火)
●12(水)
●13(木)
●14(金)
●15(土)
●16(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●17(月)
●18(火)
●19(水)
●20(木)
●21(金)
●22(土)
●23(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●24(月)
●25(火)
●26(水)
●27(木)
●28(金)
●29(土・祝日)
●30(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
み言葉のパンで生きる365日
2023年4月
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(土)
地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。 (イザ24・5)
大地が人に「汚された」、と聖書は告げる。地球や環境のことが、聖書に扱われているんだ。「信心や善悪のことなら馴染むけど」と思いつつ、ちょっと意外に感じて、すぐに「当然かも」と思い直した。だって、世界を造られたのは、神御自身なんだから。それも、全てを見て「良し」と言われたほどに愛されたのだから。
それなのに、人の罪が、自然も汚すのだ。環境問題は、信仰問題だ。
●2(日・棕櫚の主日)
礼拝説教
(棕櫚の主日)
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●3(月)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。 (箴20・19)
「そんな人と関わるのは嫌だね」と思いながら・・・。そう思っている自分が、人の秘密を漏らしている者かも。陰で、嫌いな人の悪口を言っている者かも。正義は当然自分にあるという口調で、直接会って、手紙やメールまで使って。
ああ、私の中に、神が忌み嫌う者の姿がある。先ずその自分に気付いて、悔い改めて、金輪際交わらないように縁を切らねば。
●4(火)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。 (サム上2・26)
主なる神に喜ばれる者になったら、隣人にも喜ばれる人になれているということかな。いや、隣人に喜ばれる人が、神に喜んでもらえる者ということか? でも、そんな卵が先か鶏が先かという話じゃない。御言葉に聴従して生きるなら、神にも人にも喜ばれる者となって〈いる〉ということなんだから。だから、「すくすく育ち」というのは、身体の話だけじゃなくて、霊的な話なんだよね。
●5(水)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」 (創12・1)
アブラハムが、神様から祝福へと呼び出される。しかしそれは、未踏の地への旅立ちだった。自分を自分で支える地縁・血縁の全てを捨てて出発することへの呼び出しだった。
ボクも神様の祝福を求めている。でもそれを戴く場所へと呼び出された時、アブラハムのように応えられるだろうか。神様のなさり方に、応答できるだろうか。御心に従いたいと言っていながら、従わないボクがいる。
●6(木・洗足の木曜日)
わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。(イザ55・8)
イザヤが背信の民に「神に立ち帰るなら豊かに赦して下さる」と主の御旨を伝えたのがこの御言葉だ。
人と人なら、裏切り者を赦したりしないだろう。再び愛したりしない。償い切らせて、なお縁を切ろうとするだろう。でも父なる神は違うのだ。
ボクはそれを知っている。十字架の上の御子のお姿に、神の御子が死なれた姿に、そこに神の思いが露わとなったことを。
●7(金・受難日)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。 (詩37・24)
きっと誰もが人生の中で、行き詰まり、倒れ伏してしまう時を経験するだろう。誰からも、どこからも助けがなく、見放されているように思える日がある。
でも今朝、御言葉は、「たとえ倒れても、あなたをとらえる御手は去りはしない」と告げるのだ。あなたが倒れ込んだ、その足元で、主があなたを支えていると。どんな時も、決して見放されはしない、と。
●8(土)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。 (コヘ8・5-6)
改めて「賢者」ってどういう人のことかなと考えさせられた。知恵や知識が豊かとかじゃない。経験の豊富さとか、弁が立つ人とかでもない。
空気が読めて、状況判断できる人とかでもない。ん? ちょっとこれには近いのかも。なぜなら、「ふさわしい時を読む人」のことだから。
でも、その「時」は誰が教えてくれるのかな? ボクは、もう知っているな。それは、あのお方、イエス様だ。
●9(日・復活祭 イースター)
礼拝説教
イースター(復活祭)
早天祈祷会 津川優司 兄
主 日 藤森誠 伝道師
●10(月)
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 (創4・4-5)
最初の兄弟の物語。兄のカインも弟のアベルも献げ物をしたのだけれど・・・。神は弟の物だけを受け取られた。その神の御旨は人間には分からない。しかし兄カインは、思い通りに行かないから、嫉妬して激しく怒ったのだ。愛されていることは変わっていないのに・・・。
ふと放蕩息子の兄の怒りを思い出した。人はどこまでも自分中心なのかも。最初の兄弟からずっと。
●11(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。 (詩84・11)
詩人は、「神の庭で過ごす一日」を、この上もなく幸いな時だと謳っている。栄華を極める王宮で過ごすよりも、大きな恵みだと言うのだ。
そんな主の庭って、どこだろう。天の国のことかな? それなら地上に生きるボクには、少しだけ遠い場所。あ、もしかしたら、あそこだ。あそこが主の庭だ。それは、主の神殿、礼拝堂だ。ボクもいつも、「礼拝は千日にもまさる恵み」と過ごしたい。
●12(水)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。 (ゼカ2・14)
捕囚の地でゼカリヤが、主の言葉を人々に告げた。それは、見捨てられたように見えるイスラエルの民に、しかし「あなたと一緒にいるよ」という主の約束の言葉だった。
きっとこの言葉は、人々にとって慰めと希望の言葉として聞こえただろう。ボクも、それがちょっと分かる気がする。打ちひしがれた日に、一緒にいてくれた一人の友の存在が嬉しかったから。ただ居てくれるだけで・・・
●13(木)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。 (箴1・23)
主の霊を戴くには、それを受け取る器を、自分の中に準備しなくちゃならないのかな。でもそれは、自力で自分の心の中を綺麗にする、というようなことじゃないらしい。
それは「懲らしめを受け入れる」という場所を持つことだと告げられていた。首を洗って御前に出るんだなぁ。なんか恐いな。でも、本当に私の御父だと信頼したら、御前に出られる。委ねられる。信仰の問題なのだ。
●14(金)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。 (詩4・9)
なんて素敵な安らぎの時間なんだろう。私も、いつもこんな風に過ごしたいと思う。でも、これはどういう場面なのだろうかと思って聖書を開いたら、詩人は苦難の底から主を呼び求めていた。さらに、「おののいて罪を離れ・・・主に寄り頼む人に御顔を向けて下さる」と告げられていた。
安らぎの時間は、主に立ち帰り、主に信頼する所にある。ボクも御父のもとに帰ろう、平安を求める故に。
●15(土)
モーセは主に言った。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」 (出4・10)
主が、イスラエルの民をエジプトから脱出させるための指導者としてモーセを選んだ。その時彼は、「口下手だし、人の前に立つのは苦手だし、無理です」と、主に対して拒んだのだ。
「御心に楯突くなんて、なんて不遜で不敬虔な」と思って、ハッとした。やりたい奉仕しかしない、やりたくない苦手な奉仕はしない。そんな姿は、ボクに似ていると気付いたから。恥ずかしくなった。主に対して。
●16(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●17(月)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」 (エレ7・23)
「むしろ」って何を指してるの?
聖書を開いたら、人々は律法を遵守して献げ物をしているけど、心が伴っていないことを主が見抜いてこれを言われたのだ。
神様が喜ばれることが何なのか、ハッキリ分かる。それは、ボクも御言葉に聞き従うことだ。それも心から喜びつつ。あっ、今、主の御声が聞こえる気がする「分かったのなら、そのようにしなさい」と。
●18(火)
獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。 (サム上17・37)
少年ダビデは、大男の戦士ゴリアトに対峙した。戦いのために持っているのは、投げ石だけ・・・。そのとき少年ダビデが言った言葉がコレだ。
単に「いま神を信頼している」ということだけじゃない。ダビデの信仰は、「かつて、あの日を守って下さった神」という現実味だ。信仰は、信仰体験も大切なのかも。、神の御業を数える体験の積み重ねだ。そこに育つ確信が、未来への信頼の基ともなる。
●19(水)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。 (ゼカ2・17)
「黙せ」と言われているから、神様は怒っておられるのかと思ったら、「主は・・・立ち上がられる」からだと告げられていた。どういうこと?と聖書を開いたら、都への帰還の喜びの知らせだった。
「黙るように」とは、「もう嘆くな。悲しみの日々は終わるから」ということなんだ。嘆きを終わらせるのは、単純な問題解決じゃなく、神様から未来の希望を得ることにあるんだ。
●20(木)
わたしは初めであり、終わりである。 (イザ44・6)
「これは、新約のヨハネ黙示録の御言葉」と思うけど、旧約の預言者イザヤを通して神が告げられた御言葉だ。神様がご自身を顕す時、古来も未来も、同じ言葉になるんだなぁ。
これを、捕囚の民が聞いたのだ。自分達の初めから、そしてこれから先もずっと主なる神がともに居てくださる。その宣言は、何よりもの励ましになっただろう。そしてその励ましは、今を生きるボクにも届くのだ。
●21(金)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。(エレ2・19)
自分の罪が、自分への懲らしめになるの? 私の背信が、私を責めるの? どういうことだろう・・・。聖書を見て分かった。
神からの報いを負うことになるからだ。罪も背信も、何もなかったかのようには終われないんだ。
今朝の御言葉が、ボクが過ちを犯す前のブレーキになってくれたら。そのために、大切な一言として、これを心に納めておこう。自分を守るため。
●22(土)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 (詩23・1)
「あ、これはボクの好きなやつ」と、私の心が叫んだ。
多くの兄弟姉妹も「何十年もこの御言葉に支えられて来た。私の愛唱聖句です」とおっしゃると思う。この詩編二三編がそれほど愛されるのは、詩人が困窮の中に在りながらも、そこから告白された言葉の力強さによるのかも知れない。
ボクはこの先、棺の中にまで携えて行こう、この御言葉を。
●23(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●24(月)
彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。 (申3・22)
モーセが後継者ヨシュアに命じる、「ヨルダン川を渡って、民が受け継ぐ土地へ進め」と。それは、神の御旨。しかしその御計画には困難があった。敵がいたのだから。
今朝、御言葉は告げる。神の計画なら、神が戦って下さると。ならばボクの心配は、「どんな困難があるか」ではなく、「ちゃんと御旨を聞き取れるか」だ。祈りに依らないでは、一歩も進めないゾ。
●25(火)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。 (ヨナ2・3)
ヨナが、神の命令から逃亡した先で嵐に遭い、海に放り出されて死ぬ直前。神が遣わした魚に呑まれて助かる。自業自得なのに、それでも背いたヨナを助ける主。そこでやっと彼は悔い改められたのだ。そして神に顔を上げられた。
真の悔い改めって、神の恵みの中で起こるんだ。単に自分だけで悔いて懺悔する自分の業じゃない。そこはもう、慈しみの御手の中!
●26(水)
今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。 (ヨシュ23・8)
モーセから引き継いで、民を安住の地に導き入れたヨシュア。彼も老人となり、地上を去らんとする時、告別の辞を語った。その遺言の中心は、やはりこの言葉となったのだ。
その言葉は、私たちに向けての遺言でもある。この先、人生の航海を進むための揺るぎなき羅針盤としての言葉でもある。いざ、この針の示す方へと舵を切ろう。今日一日を迷わずに過ごせるために。
●27(木)
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。 (箴10・12)
「いさかい」の原因が示されている。それは自分の心の中に巣くっている「憎しみ」だ。または、隣人の心の奥にある「憎しみ」。でも、その悲しみの原因となる「いさかい」を除く方法も示されていた。それが、「憎しみ」に替えて愛すること。まず自分から相手を愛すること。相手が憎しみをもって自分を見ていても、愛すること。これ以外の解決はない。もしも世界がこれに気付けば、平和が生まれるのに。
●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。 (出16・8)
エジプトを脱出した民が、「食べ物が無くて死ぬ」と不平を言った。それに対してモーセが「神はその不平を聞いて、裁きではなく恵みを下さる。日毎にマナで満腹になる」と。しかしそこに加えたのだ「神に不平を言うお前たちは、ナニサマなのだ」と。
グサッと来た「一体ナニサマなのか」と言われたことに。でももっとグサッと来た。不相応な不平にさえ恵みで応えて下さる神様の御心に。
●29(土・祝日)
主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。 (詩33・9)
主なる神の御心こそが、代々にわたって実現されてゆく。そうであるならば、私たちがすべき祈りは、「あのことをして下さい、こうして下さい」と願うことじゃなくて、「あなたの御旨を悟らせて下さい。御心にお従いしますから」ということだ。でも、分かっているのに、現実生活に戻るとすっかり忘れている・・・。あっ、「人の愚かさ」の正体見つけたり。この忘却への無頓着さにあり!
●30(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:03| 『日々の聖句』
2023年02月28日
『日々の聖句』2023年2月
相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2023年2月
●1(水)
●2(木)
●3(金)
●4(土)
●5(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●6(月)
●7(火)
●8(水)
●9(木)
●10(金)
●11(土・祝日)
●12(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●13(月)
●14(火)
●15(水)
●16(木)
●17(金)
●18(土)
●19(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●20(月)
●21(火)
●22(水)
●23(木・祝日)
●24(金)
●25(土)
●26(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●27(月)
●28(火)
み言葉のパンで生きる365日
2023年2月
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(水)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)
「ニネベの都は滅びる」と、神の裁きを伝えた預言者ヨナ。それを聞いた人々が悔い改めたのをご覧になった主が、災いをやめられたのだ。自分がほら吹きになったと思ったヨナが不満を現わしたことに、主が言われた言葉がこれだ。
何でも自分の考えとおりにいかないと、すぐに不満に思う。どこまで人は、自己中心なのか。その姿が、ボクの中にも巣食っているんだ。
●2(木)
わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと主は言われる。ただ、お前の犯した罪を認めよ。(エレ3・12〜13)
なんて慈しみ深い神様のお言葉!
これは神に背いたイスラエルへの語り掛けだと思うと、その優しさがリアルに伝わって来る気がする。しかし、だ。最後の一言にビクリとした。「お前の犯した罪を認めよ」と。
神の目にちゃんと罪が数え上げられている。それを見ない振りをしていたのはボクだけかも。悔い改めは、慈しみを受ける唯一の入り口。この狭き門を通る以外、恵み無し、だ。
●3(金)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。 (ヨシュ1・9)
モーセの後継者として民を率いることになったヨシュア。「絶対無理」と思う大役だ。その彼に、主が語り掛けたのが、この御言葉だった。
モーセの時も同じだった。たじろぐ者に語り掛けるのは、いつもこの約束だ。アブラハムにも、ヤコブにも、エレミヤにも同じだった。そして私たちにも。イエス様こそ「神は我らと共にいる」というお方。この約束が、立ち上がって進める原動力なんだ。
●4(土)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。 (サム上17・47)
少年ダビデが、敵の大男ゴリアトの前に立った時、この言葉を告げた。主が戦われるから、自分の手で戦う必要はない、ということ。それが、剣も槍も要らずに勝利する道なんだ。
ならばボクも、自分の戦いが「主の御心か否か」を知ることが、勝敗の別れ道となる。でもそれって、どうやって分かるのだろう。あ、だから祈らねばならないんだ。何が何でも、その祈りを身につけなきゃ!
●5(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●6(月)
ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。(創19・16)
ソドムとゴモラの町が、悪に満ちた。それを嘆かれた主が、裁きによって滅ぼすことを決められる。そこに住むロトの家族に逃げる猶予を与えて。でもロトは、裁きの言葉を実感できず、グズグズしている。その彼を天の使いが救い出すのだ。
結局、自分主義に留まるロト。その姿は、御言葉を真摯に聞けないボクに似ている。焦っているのは、神のほうだとも分からずに。
●7(火)
主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 (詩16・7)
詩編の中にある「信頼の歌」と呼ばれるものだ。しかしこの詩は「神よ、守ってください」と、苦難の中からの叫びから始められていた。つまりこの詩人は、困窮の中にいるのだ。にもかかわらず、いやむしろその中にあって、彼は神への信頼を固くして歌っていたのだ。平穏な中での、安易な信仰告白ではないんだ。
ボクも、この信仰に生きてゆきたい。困難のない日々は無いのだから。
●8(水)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。 (詩41・4)
「その人」って誰のことだろう・・・。詳しいことは分からないが、一つのことだけは分かってる。この祈りは、隣人のための祈りということ。自分を助けて欲しいという「自分のため祈り」じゃない。隣人を自分のことのように愛している人の祈りだ。
執り成しの祈りは、必ず主に聞き届けていただける。ならば、もし世界中の人が執り成し合えば、もっと素敵な世になるのだろうに・・・。
●9(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 (創2・24)
まだアダムが独りでいた時、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と、エバを造り、彼に出会わせた。
「一体となる」というのは、ニカワで張り合わすという意味だ。そういう助け手が、人には必要なんだ。助けられて助けるという関係が、必要なんだ。「助けて!」と叫ぶことも必要なんだ。人が独りで生きるのは良くないと、神様がご存じでいて下さる。
●10(金)
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 (出3・6)
神の山ホレブで、モーセに現れた主が、ご自分のことを指して言われた。
イスラエルの民の一員にとって、この言葉は特別な意味を持っていた。「あなたは祝福の基となる」と父祖アブラハムを選び分けた主が、あなたの神でもあると言われたのだから。それは「あなたも、その永遠の約束の相手なのだよ」と言われたということ。
その言葉は、そのまま洗礼を受けたボクにも語り掛けられている。
●11(土・祝日)
ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。 (創28・17)
兄エサウを騙し、復讐を恐れて荒野に逃亡したヤコブ。石を枕にして寝ていた時、天からの階段を上り下りする天使たちの夢を見た。その夢から覚めた時の言葉がこれだ。
自分の罪の結果の惨めさの中にいた彼が、どん底の場所で神との交わりの場があったと気付く。ボクも同じだった。どん底だと思っていた日に、ボクに語り掛ける主の言葉に触れた。神の臨在を感じた時だった。
●12(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●13(月)
主があなたと共におられることがよく分かったからです。(創26・28)
井戸を巡って、イサクがペリシテ人から危害を加えられた。その時イサクは、争わずに新しい井戸を掘りあてる。その井戸も奪われても、次の井戸を掘りあてるイサク。祝福され続けるイサクを見たペリシテ人が、これを言ったのだ。奪い返そうとしなかったイサクは、主の臨在に生きた。それを見た異邦人も主の臨在を知った。ボクもそのようにありたい。こう生きたい。
●14(火)
見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。(エゼ37・5)
捕囚の民に、エゼキエルが主の言葉を伝えた。人々が罪によって枯れた骨のようになっている。そこで「我々の望みはうせ、もう亡びる」と言っている。しかし、「見よ」と語り掛けたのだ。「お前たちは生き返る」と。
心も身体も疲れ切ったと思う日、罪と過ちに悔いて打ちひしがれる日がある。その日にもう「助けて」と祈るまい。「聖霊を下さい」祈ろう。主の霊を受けるなら、生き返れるから。
●15(水)
わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、と万軍の主は言われる。 (ゼカ1・3)
バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えた。それは、都への帰還の幻だ。嬉しいニュース。でもそれを手にするには、一つのことが必要だった。それが、「主に立ち帰る」ということだった。
改めて思う「神に立ち帰るって、どうすることなのだろう」と。私も恵みが欲しいから、これは真剣な問い。立ち帰るって、実際はどうすることなのか知りたい。祈って主に聞かねば。
●16(木)
復讐してはならない。 (レビ19・18)
主がモーセに仰せになった律法の中の「神聖法集」にある一つだ。神の民として、聖であるための掟だ。
そもそも直前で、「隣人に恨みを抱くな」とさえある。恨むことは、聖であることをけがすことなんだ。ボクも心に留めよう。また直後では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあった。復讐しないことは、愛すること。ボクも心に留めよう。ボクも、聖であるべき神の子供だから。
●17(金)
主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。 (ヨエ2・23)
南ユダ王国の滅亡を伝える預言者ヨエル。背信の民に下す審判は、必ず実現するぞ、と告げるのだ。しかし、その文脈の中にあって、この御言葉も語られたのだ。主に立ち帰って、断食し、悔い改めるならば・・・と。
主は、罪人が御自分のもとに立ち戻って来るのを待っておられるんだ。放蕩息子の父のように。ああ、それが私の天の父。そして背信者がボクだ。けだし、御父の元に帰らばや!
●18(土)
(ファラオは言った)「主とは一体何者なのか。…わたしは主など知らない」 (出5・2)
モーセがファラオのもとに行って「主の命令です。イスラエルの民全員を出国させよ」と交渉を始めた時、ファラオが言った言葉だ。主の言葉と言われても、一向に聞こうとしないファラオ。そして「主なる神など知らないから」とうそぶいた。アッと思った。御言葉に従わない時のボクは、このファラオと同じことを言っていると気付いたから。「神なんて知らない」と言っている彼と同じなんだ、と。
●19(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●20(月)
あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。 (ヨシュ1・11)
モーセの死後、イスラエルの民はヨルダン川を渡ろうとする。その直前、後継者ヨシュアが民の役人たちに告げた言葉がこれだ。
渡河の目的は、永住の地を得ること。その未来を実現させるのが「主が得させようとしておられる」という一点なのだ。つまり未来は、主の手から、民に渡される。
ならば、御言葉に従って出発するなら、そこにこそ未来がある。
●21(火)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サム上3・10)
神殿に仕えていた少年サムエル。夜寝ていると、自分を呼ぶ声がする。祭司エリに聞くと、「主が呼んでおられるのだよ」と教えられた。そして4度目に呼ばれた時・・・。
主なる神は私たちにも呼び掛けられる。礼拝を通して、また御言葉によって。その呼び掛けに「はい、私に何をさせたいのですか」と応答する時に、主の御心の御業が動き出すのだ。私の応答を、神は待っておられる。
●22(水)
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。・・・わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 (創6・7)
ノアの大洪水が起こった原因譚が、地上に悪が満ちたということだった。そのとき地上を目にして主が嘆かれたのが、この言葉となった。
主なる神が、愛する思いを込めて人を造られたのに・・・。人々のしていることを見た時、嘆いて「後悔する」とさえ言わせてしまうなんて。この時の人々の姿と、ボクも同じことをしている。それは主を後悔させていること。ボクが日々しでかす罪のゆえに。
●23(木・祝日)
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 (創2・9)
憧れの「何不自由ない生活」がそこにあった。それがエデンの園。好ましいものに囲まれて過ごせる場所だった。それを準備されたのは、父なる神なのだ。どんなにアダムは御父に愛されていたのだろうかと思う。まるで過保護とも思えるほどに・・・。それなのに彼は、このエデンの園を出なければならなくなる。自らの背きのゆえに。
人間って、どこまで愚かなんだろう。恵みを自分で捨てるんだから。
●24(金)
「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」 (王上1・29)
老いたダビデが、後を継ぐ者を任命するために、ソロモンの母バト・シェバを呼んで語り掛けた。任命の根拠は、ソロモンの能力によらず、血筋によらない。ただ「生きておられる主」の御業によるということだった。
大きな決断をする時、ボクは何を根拠にして決めるだろうか。「主は生きておられる」と信じて、祈ることから始めているだろうか。それも本気で、臨在の主に聴いているだろうか。
●25(土)
わたしがあなたと共にいて、救い出すと、主は言われた。 (エレ1・19)
エレミヤは、主から預言者として召命を受けた時、自分は未熟だからと固辞した。彼には分かっていたのだ。主の言葉を人々に伝えたら、反感を買って迫害を受ける、と。その彼に主が最後に言った言葉がこれだ。「神が共にいて、救い出す」とは、この戦いは主御自身の戦いだということ。
主は、全てのキリスト者にも語りかける、「行け、御言葉を伝えよ、私が戦うから」と。などて退くべきか。
●26(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●27(月)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。(ゼカ1・16)
捕囚となっている時。御使いによって主の言葉が届いた。自分たちの罪によって捕囚の苦しみがあった。しかしやがてその日は終わり、都エルサレムに帰還できる日が来るということ。それはつまり、赦される日が来るということなんだ。
帰還の喜びの意味が分かった。単なる帰京の喜びでなく、赦しの喜びなんだ。ああボクにもそれが分かる。赦しの喜びが一番だって。
●28(火)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(エレ7・23)
冒頭の「むしろ」とは何か。それは、いけにえの捧げ物を形式的にささげて、良しとしてしまうことだ。
私たちの信仰生活も、形式的になる時がある。それは、食前の祈りでさえもだ。いつもの言葉をつぶやくだけになっている時。主日に、礼拝堂に座っているだけになっている時。そのとき心から、主と差し向っていないのだ。主は、そんなボクに「むしろ、心砕かれて我に従え」と言われる。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:35| 『日々の聖句』
2023年01月31日
『日々の聖句』2023年1月
相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2023年1月
●1(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●2(月・祝日)
●3(火)
●4(水)
●5(木)
●6(金)
●7(土)
●8(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
(主題聖句説教)
●9(月・祝日)
●10(火)
●11(水)
●12(木)
●13(金)
●14(土)
●15(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●16(月)
●17(火)
●18(水)
●19(木)
●20(金)
●21(土)
●22(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●23(月)
●24(火)
●25(水)
●26(木)
●27(金)
●28(土)
●29(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●30(月)
●31(火)
み言葉のパンで生きる365日
2023年1月
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●2(月・祝日)
二度とかたくなになってはならない。(申10・16)
イスラエルの民は、金の子牛で、偶像の神を作って拝んだ。自分の思いに凝り固まって、神を捨てたのだ。神様の怒りは極みに達する。しかしモーセの執り成しによって、人々は赦された。その後に、彼が民に約束させたのが、この言葉だ。
今朝、御言葉がボク自身に突き付けられている思いがした。
●3(火)
わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。 (詩51・4)
バト・シェバと通じたダビデ。姦淫の罪を預言者ナタンに指摘された。そこで彼はようやく裁きが目の前にあることを悟って、そして震えた。
自分の罪なのに、本当は自分で気付けないのかも。かのダビデ王でさえであった。でも罪は、単なる不道徳とか、法律違反とか、犯罪の類の話じゃない。神への背きだ。だから、心底恐ろしいんだ。救いを願うしかない。自分で自分を救えないから。
●4(水)
主は命じて言われた。「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる。」 (申31・23)
大預言者モーセの跡を継ぐヨシュア。たじろがずに民を率いて進むためには、自分の能力によらず、ただ主に依り頼めばいいのだ。
「主が共におられるなら安心」と思う。でも・・・なのだ。共におられる神に、真剣に祈っているだろうか。御声が聞けているだろうか。祈りが、自分の中で堂々巡りになる単なる呟きになっていないだろうか。御声に従わない時、共におられる神を見失う。
●5(木)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。(創22・1)
諦めていた「息子の誕生」。でも神が約束して下さった通り、イサクが与えられた。感謝と喜びの絶頂にあったアブラハム。しかしその「後で」神が彼を試みられた。息子イサクを捧げ物として屠れという命令だった。
ふとヨブ記の御言葉が浮かんだ「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」。私がアブラハムなら何を思い、どうするだろう。それを思い巡らして、今日を過ごしてみよう。
●6(金)
わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。 (エレ15・21)
主から「背信のゆえに捕囚が起こる」と伝えるよう託宣を受けたエレミヤ。でも告げたら、人々から迫害されると予想できて、拒み続けた。その彼に、今朝の御言葉が臨んだ。
この世で私たちも、御言葉に従おうとすれば、そこで周りからの白眼視が起こる。その辛さが予想できるから、逃れたくて、言い訳もして来た。でもそれでいいのか・・・。主はバックアップするぞと仰っているのに。
●7(土)
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。 (エレ31・25)
人々は、背信のゆえにバビロン捕囚となる。その彼らにエレミヤが、神からの言葉を伝えたのだ。回復の日が来ると。それが今朝の御言葉だった。
自分の罪のゆえに主から見捨てられたのだと絶望の中にいる人々にとって、この約束はどんなに慰め深い言葉となっただろうかと思う。主は、罪人を見捨てない。回復こそが神の願いだから。ふと、ボクへと届けられたメッセージに聞こえた。
●8(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
(主題聖句説教)
●9(月・祝日)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 (イザ55・1)
異教の地バビロンに捕囚となっていた人々。自分の背信のゆえにこの現実になったんだと悔いて、失ったものの大きさを嘆いていた。「渇き」の中に居たのだ。そこにイザヤが、神からの慰めを語った。
ボクにも嘆き「渇く」時がある。その時、その心に直接染み込んで来る御言葉がある、「水のところに(主の御許に)来るがよい」と。聞いた時に、既に癒されている。
●10(火)
わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。(ヨシュ1・7)
大預言者モーセの後継に、ヨシュアが立てられた。そのとき神様から告げられた言葉がコレだ。それは「頑張れ」とか「期待しているから」ではない。「あなたの能力を発揮してね」でもない。ただ「我に従え」だった。
私たちへの神の求めも、同じなのかも知れないと思った。自分の能力を発揮することでも、自分が頑張ることでもない。御言葉に従うことなのだ。鍵は、御言葉に従えるか否かだ。
●11(水)
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 (詩14・2)
人が神様を求めるよりも、神様の方が私たちを熱心に、そして辛抱強く求めていて下さるんだ。まるで「お前がいないと寂しいのに。お前を愛しているのに・・・。私の心にかなう人は、どこにもいないのか」と嘆きつつ、探し回っていて下さるのだ。
「主よ、ここにいますと応えたい。そう言える私になりたい」。いざ、その決意が、今日のボクの言動を整えてくれる。
●12(木)
主がモーセに命じられたとおりであった。 (出40・32)
エジプトから逃げ出せた民が、荒野の旅のあいだ主を礼拝するための「幕屋」をつくり終えた。それは細部まで「主の命じられたとおりであった」のだ。この御言葉が十数回も連続して告げられる。それもこの章が、出エジプト記の最終章なのだ。
主が命じる御言葉どおりに生きること、それがボクの人生の最終章でもありたい。その途上の今日という日も、御言葉のままに歩まん。
●13(金)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。 (創17・17)
願いに願って、祈りに祈って来た息子の誕生なのに、いざ御使いが「とうとう生まれる」と告げた時、彼は疑ったのだ。自分の常識で「百歳なのに、もう無理じゃないか」と、不平まじりに。彼は笑った、いや冷笑したのだ。
神に願うって、何なのだろう。本当は真剣勝負のことなのに、自分の常識の中で、言葉上だけで願っていないだろうか。そんなボクの祈りに、神は怒りをおぼえないだろうか。
●14(土)
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。 (イザ1・18)
自分のことは少しは分かっている。神を知っていながら、御言葉を知っていながら、それでもそれらを無視して自己中心に生きて、そこで人も傷つけていた。神の目から見たら、汚れ切った泥水のような色が、私だ。
でもその私に神は言われたのだ。「真っ白にしてあげられるよ」と。これが旧約の言葉であることに改めて驚く。主の十字架の遥か前から、御父の思いは、この一点だと知ったから。
●15(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●16(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。(エゼ34・15)
バビロン捕囚期、人々は亡国の民となった。しかしその指導者に、神の言葉が臨んだのだ。それが「あなたがたは私の群れだよ」という宣言。さらに「私が養い、憩わせる」という約束だった。
神が人を見放さないというのは、見捨てられて当然なのに、にもかかわらずということだ。神の愛は一瞬もたじろがず、弱まらない。愛することにおいて熱情の神なのだ。
●17(火)
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。 (アモ5・4)
「信仰の民なんだから、当然のことなのに」と思いつつ、預言者アモスの言葉だということにハッとした。北イスラエルに、背教の罪の審判が、宣告された直後だったから。
「滅びがあるのに、これは何?」と思いつつアッと思った。裁きはある、でも「その中でなお私と共に生きよ」と言われてるのだ。裁きの日は、見捨てられることじゃない。立ち帰る日を、主は耐えつつ待っておられる。
●18(水)
「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。(創19・14)
ソドムとゴモラに悪が満ち、神が町を滅ぼそうとされる。ロトがそれを御使いから聞いて、娘婿に「早く逃げよ」と言った言葉がこれだ。でも聞いても、信じ切れない婿たち・・・。
ボクも御言葉を聞きはする。聖書によって「罪の生活から離れよ、逃げよ」と。でも、もしかしたら彼らと同じように聞いても従えないのは、神が本気で忠告していると受け取っていないからかも。ああボクは愚鈍信仰。
●19(木)
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせてくださる。(サム下22・40)
圧倒的な力を誇るペリシテとの戦い。次第に疲れ果てて来るダビデ率いるイスラエルの兵たち。しかしダビデたちはこの戦いを切り抜けたのだ。その手腕と統率力において、彼に優る者はいない。しかし彼は、自分を誇ることを微塵もしなかったのだ。「主が力を下さった」と知っていたから。
ボクが人の目を気にして、人からの評価を気にするのは、それは性格じゃなく、信仰の問題なのかも。
●20(金)
いとうべきものをあなたの家に持ち込んではならない。 (申7・26)
ふと、「いとう(厭う)べきものって、何だろう」と思う。「単にボクが厭うもの、嫌いなものじゃないだろうな」と思って、すぐに聖書を開いた。
それは、神ではない偶像のことだった。またふと思う、「神以外に頼ってしまうものは、ボクの周りにたくさんある」と。お金や人脈や自分の経験など。それらを神よりも頼ってしまう。御父はそれを、厭うと言われているんだ。「お前の傍に置くな」と。
●21(土)
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。 (詩19・9)
神様からの命令(すべての御言葉)は、「まっすぐ」だと言われる。そしてすべてが「喜びを与える」ものだと。
今まで「神の命令って厳しいもの、でも嫌でも従わなければならないもの」と思っていた。でも、「まっすぐ」とは、迷い心なしに愛してくれて、それ以外には無い命令。私を生かす言葉で、だから必ず喜びの実を結ぶもの。「嬉しいな」と思ったら、命令への向かい方が、今日ちょっと変わった。
●22(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●23(月)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。(ダニ3・17)
バビロン帝国が都エルサレムを陥落させた時、自国に3人の青年を宮廷仕えとして連行して来た。彼らの能力の高さをねたんだカルデア人に諮られて王の怒りを買い、炉の中に入れられそうになる。その時、彼らが言った言葉がこれだ。
神を神とすることは、命賭けの信頼。でもボクは、世に流されて周りに合わせてしまう時がある。青年がしたことを、ボクはできない軟弱者。
●24(火)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。 (エレ9・23)
力強い御言葉ー。しかしこれが、イスラエルの民の背信の堕落を厳しく審く神の言葉の中にあったと知って、ドキリとした。
信仰の一般論を話してたのではない。力を頼り、知恵を誇り、自分の策略を巡らし、結局自分しか頼っていない人々への審判なのだ。ああ真に、聖書の言葉には、一般論なんて一言も無い。私個人に目掛けて、激しく御許に立ち帰らせる言葉なんだ。
●25(水)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。(王上8・60)
ソロモン王が神殿建築完成の時、長い祈りをささげた。その祈りの後に民を祝福して言った言葉が、これだ。主の助けが人々に与えられ、そのことのゆえにイスラエルの民のみならず、地上の全ての人が、神がどなたであるかを知ることになるように、と。
恵みの業の御計画は、受け取る人の幸いのためのみならず、世界に御名を知らせしめるためなんだ。ああ、御計画は何て広くて大きいんだろう!
●26(木)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。 (サム上2・3)
息子が授からずに、嘆き悲しんでいたハンナに、サムエルが生まれた。成長して幼子になった時、主に委ねるために神殿に連れて来て祈った。今朝の言葉は、その中の一言だ。
その祈りの中身は「願いが叶って嬉しいです」というよりも、「主こそ岩と頼む方。全てを知り、全てを統べ治められる」という、神御自身への賛美だ。御利益信仰にならないで済むには、この心が大事なのかも。
●27(金)
天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。 (王上8・27)
ダビデ王の子ソロモンが、民の念願の神殿を完成させた。荘厳な建物、至聖所には契約の箱も安置した。その偉業は、誇っても良いはず。そのとき彼が、主に祈った言葉がこれだ。「我々が主を納めるのではない。主が我らを治める」と。ボクは神様を、ボクの願いを叶えてくれる方という小さな神殿に押し込めていないだろうか。神は自由に御心を成す方なのに。主客転倒が、神関係でも起こる。
●28(土)
人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。(コヘ3・13)
コヘレトの言葉は言う、「今日を生きよ。その日の苦労は、その日だけで十分だから」と。だから今日与えられた労苦に一生懸命に向かい合い、そして一日が終われば与えられた食事をいただいて眠りにつこう、と。
今朝の御言葉は、そんな人間本来の生き方に立ち帰らせてくれる。なんだか、肩の荷が下りて、ホッする。もしかしたらボクは、必要のない重荷まで背負い過ぎているのかも。
●29(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●30(月)
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。 (イザ60・2)
バビロン捕囚の苦しみにあえぐイスラエルの人々に、エルサレム帰還の希望が告げられた。闇の中で見る光だった。その光の輝きは、闇が深かったからこそ、どんなに明るかっただろうか。その光は、主なる神ご自身の栄光なのだから。
その光は、新約の時代に生きる私の上にも現れた。イエス様の降誕だ。「あなたの上に」と2回繰り返される御言葉に、心が熱くなった。
●31(火)
あなたの道を主にまかせよ。 (詩37・5)
自分の道、自分の人生、自分の望みを、主に任せてしまうなんて・・・、本当にできるのだろうか。むしろボクは、自分の道、望みが叶うために主が助けてよ!って言って来たかも。
ふと思った。これは「主人」が逆転することかも、と。自分自身から、主御自身へと。そこに神の計画される御心の世界が始まるから。自分が思い描くよりも遥かに豊かな人生が、そこに生まれるから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』
2022年12月31日
『日々の聖句』2022年12月
相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日
2022年12月
●1(木)
●2(金)
●3(土)
●4(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●5(月)
●6(火)
●7(水)
●8(木)
●9(金)
●10(土)
●11(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●12(月)
●13(火)
●14(水)
●15(木)
●16(金)
●17(土)
●18(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●19(月)
●20(火)
●21(水)
●22(木)
●23(金)
●24(土)
●25(日)
降誕祭(クリスマス)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●26(月)
●27(火)
●28(水)
●29(木)
●30(金)
●31(土)
み言葉のパンで生きる365日
2022年12月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(木)
兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(2テサ3・13)
「怠惰な生活をし・・・余計なことをしている者がいる」と警告されて、今朝のみ言葉が続いていた。主に与えられた業をし続ける生活をするようにと、勧められているのだ。
「勿論そうしよう」と思って、同時に「たゆまず」の一言も聞き漏らしてはいけないとも気付いた。時においても「たゆまず」事柄においても「たゆまず」だ。人生ってマラソンのようかも。でも独りじゃなく、主の伴走がある。
●2(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 (エフェ6・11)
「悪魔の策略」というのがあると言う。「そんなもの本当にいるの? 本当にあるの?」と侮ってはいけない。人間には分からなくても、その策略に対抗するには「神の武具」が必要なほど恐ろしいものなのだから。
だからさあ、「福音」「信仰」「神の言葉」等の武具を取れ。知らないうちに滅びの道へと迷い込まないように。「ボクは大丈夫」と油断する時が、策略にはまっている瞬間なのだから。
●3(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリ1・27)
ボクだってキリスト者として「福音にふさわしい生活」をしているつもりでいた。でも今朝、「ひたすら」の一言にドキッとした。「しているつもり」だなんて、のんびりしすぎていたと気付いたから。
御心に従う生活を、「したい時にしかしていない」自分がいる。でも「ひたすら」というのは、死に至るまで従順だったイエス様のように生きること。覚悟を決めた生き方なんだ。
●4(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●5(月)
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハ5・8)
三十八年も病気で苦しんでいた人が横たわっていた。その男を憐れまれたイエス様が声かけられたのだ。一言だけで癒せるから。苦しみを取り除ける権威を持った言葉だから。現状を一気に変えるお言葉なのだ。
ふと思った。この一言を信じて立ち上がった男に、御業は起こった。でもボクは、本気で御言葉を信じて立ち上がろうとしているだろうか、と。現状が変わらない原因は、そこかも。
●6(火)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。(1ヨハ1・3)
聖書を開いて御言葉に聞く人は、「わたしたちとの交わり」へと招かれている。その「交わり」とは、この箇所の直後に「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあった。
伝えられる御言葉を聞くのは、「学び」のためじゃない。神様と関わる生活に入れられるためなんだ。「キリスト教の知識のため」じゃない。ボクの生活に直結している。聞くことで、人生を変えることが起こるんだ。
●7(水)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 (2コリ6・2)
「やった!ついに恵みが与えられる」と喜んで「何を戴けるんだろうか」とワクワクして「あんな事、こんな事をして頂きたいな」と、数え出す。
でも、それは勘違だった。前後に「いただいた恵みを無駄にするな」「奉仕の務め」「神に仕える者としての実」と記されていたから。仕えるために与えられた恵みだ。ボクって、してもらいたい事ばかり。少しは大人にならなきゃ、もう六四歳だけどね・・・
●8(木)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
兄弟姉妹が集う教会で、一人ひとりはその肢体。そして頭がイエス様だと告げられる。イエス様の思い、考えによって体全体は動くのだ。
それゆえに、何をするにも全員がまず御心を聞かなきゃ。「イエス様、今から会議をします。私はどうしたら良いのですか」「今から奉仕をします。今から〇〇します。御心を選択させてください」と。そうしたら、教会中がイエス様色に染まるから。
●9(金)
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着けなさい。 (エフェ6・14)
勇ましい戦士の姿! なにか激しい戦いの予感をさせられる。聖書を開いたら、正に戦いがあると告げられていた。対抗する敵は、「悪魔の策略」、「邪悪な日」だ。
そんな恐ろしい敵が、自分の周りにいるのだろうか? いや、そんな風にボヤボヤしていると、してやられてしまう。私の外にも内にも、策略の手は及んでいるのだから。我もいざ立たん、神の武具を身に着けて。
●10(土)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。 (1テサ5・23)
この箇所の直前に「良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と命じられていた。まさに「全く聖なる者」の姿だ。
でも、それを自力で頑張って達成しなさいとは言われていない。「平和の神御自身が」して下さるようにと祈っている。今までいつも自分が頑張らなきゃダメだと焦っていた。でも信仰とは、頼ること。真に頼れる方を知っている安寧なんだ。ホッとした。
●11(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●12(月)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 (ガラ5・25)
私たちは「神の導きがある」という世界を生きている信仰者。
「その導きは目に見えるのかな?」「そうさ! 聖書の御言葉こそが見える導きだ」。「耳で聞こえるのかな?」「そうさ! 祈りの中で心に浮かぶ思いや決心は、心の耳へと語り掛けられた神様からの応答」。それらこそ、神の霊の働きなのです。
我らは、まさしく聖霊の導きに従って前進する信仰者なんだ。
●13(火)
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。(ヤコ1・23)
「え、大喜利? 『その心は』・・・」と思って聖書を開いたら「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると・・・すぐに忘れる」とあった。「なるほど上手いこと言う。面白い」と思った、そしてヒヤリとした。笑ってはいられない。御言葉に従って生きなきゃ何にもならないぞと言われているのだから。神様に言われているのだから。
一歩でも、御言葉の通りに歩まねば。そして、また次の一歩も、ね。
●14(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 (フィリ2・4)
キリスト者として、隣人のことも当然、気にかけているつもりでいる。自分のことしか考えないなんて、そんな信仰者はいないんじゃないの?
でも、今日の御言葉の直前に「へりくだって、相手を自分よりも優れた者として考え」とあった。他人のことを気に掛けてると言っていながら、相手を見る時の目線が間違っていたかも。ちゃんと下に立って僕になっていなかったかも。傲慢だったかも。
●15(木)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロ1・13)
ボクは以前は、恵みとは別の世界(自分が神となる自己中心の世界、闇の世界)に住んでいて、そこで神様のことを知って、神様に委ねようと自分で信じて決心した、と思ってた。
でも今日、全てのことをしてくださったのは、御父なのだよと告げられる。それを、ただ「感謝しかありません」と、百l受け身で受け取ることが、信仰の出発点なのかも。今日、信仰理解が一変した気がする。
●16(金)
主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。 (ヘブ13・6)
こう言い切れる自信は、一体どこから来るのだろう? 聖書を開いて、分かった。そこには、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と、神様の約束の言葉があった。
神の約束を聞く。そこには、私の内に無い、勇気の種がある。それを戴いたら、芽生え、私の内で信頼と勇気が大きく育つんだ。やっぱり信仰は、御言葉を聞くことに始まるんだな。
●17(土)
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 (ロマ8・14)
主なる神を「天の御父」と呼べる私たちになった。でもそんなこと、万物を創造された神に対して、本来ならちょっと非常識な振る舞いで無礼になるのかも。いや、絶対に無礼だ。
聖霊を戴いている証拠が、祈りの時に「天の父よ」と安心して呼び掛ける心を持てている、ということかも。だったら、御父の子として喜ばれる歩みをしよう。天の父が、ボクを見て「恥ずかしい」と思わないように。
●18(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●19(月)
二人の目が開け、イエスだと分かった。 (ルカ24・31)
ご復活のイエス様が、エマオ途上で弟子たちと会われ、一夜の宿で夕食を共にされた。そこで、最後の晩餐と同じように「パン裂き」をなさった時のことだ。二人の弟子の信仰の目が開いたのだ、そして「あ、これは主だ。真に復活された」と悟れた。
十字架も、復活も、救いも全部、自分の理解で分かるようなことじゃない。目を開いていただかねば。正に「信仰」そのものが、「賜物」なんだ。
●20(火)
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 (2テモ2・8)
この箇所の少し前に「キリスト・イエスの立派な兵士として」キリスト者の苦しみを忍ぶようにと告げられていた。その私たちが、イエス様のことを想起するようにと促されている。それは、イエス様が「死者の中から復活された」ということの想起だ。
復活の福音ー。それは私たちには復活の命があるという貴い約束だ。これこそが、イエス様に結び付けられて生きる者の忍耐を支える希望だ。
●21(水)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。 (ルカ6・35)
イエス様は、善を行い、与え続けることを求められる。ふと「自分にはなかなか出来ないよ」と思う。でも、そういうボクに、主は「弱いあなただけど、もう一度やってごらん」と優しく言っておられるのかもと考えてみた。
でも、そんな風に御言葉を自分に都合よく、勝手に丸めても良いんだろうか。然り! 主は「ここを生きよ」と厳命されている。そして賭けた者のみ、恵みの世界を経験するのだ。
●22(木)
御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。 (ヘブ13・21)
あらゆる恵みが、私たちの懐に押し込まれるようにして、溢れるように入れてもらえる。「ああ、感謝だな」と思って有頂天になっていたボクは、今朝の御言葉でふと気付いた。
なぜ恵みを戴けるのかを告げていたからだ。それは、「御心を行うため」。ボクが神様の御心・御計画を喜んで上手に行えるために戴ける道具だったんだ。使い方を間違えないようにしないと実りは無いのかもね。
●23(金)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 (使1・8)
「あなた方と共にいる」と伝え続けたイエス様が、天に帰られる直前に語られたのが、今朝の御言葉だ。
「神は私と共に居られる」ということは、そんな気がするという抽象的なことじゃなかった。イエス様が今も共に居てくださるというのは、聖霊がボクの内側に内住されるということ。その現実なんだ。ボクも受け取った、受洗の日に。ボクの内にも神が共におられる。それこそが力だ!
●24(土)
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブ10・22)
「神に近づこう」、そう願って生きている。そこが恵みの源だから。
でも今朝の御言葉で、ふと思う「ボクは信頼しきっているだろうか」と。ご利益宗教のように、願い事だけを言いっ放しにしていないだろうか。また「ボクは真心を込めているだろうか」と。なんだかドライな関係ではないだろうか。
ああ、幼な子のようになりたい。無心に「天の父よ」と呼ぶ者でいたい。
●25(日)
降誕祭(クリスマス)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●26(月)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。 (ルカ19・10)
「人の子」とは、神の御子イエス様のこと。誰かを探しに、天から降って来られた。それは「失われたもの」と、御言葉は告げていた。
ある日、その「失われたもの」が自分自身のことだと気が付いた。そのときイエス様のことが、グンと近くなった。神様のことが、グンと近くなった。天の高い所におられる方じゃなく、ボクの傍らに居て下さる方になった。クリスマスが、感謝の日となった。
●27(火)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(1ヨハ4・15)
「ボクもキリスト者としてその一人だ。神がボクのうちにとどまってくださる、感謝」と思った。でもすぐ後に「公に言い表す人は」の一言に目が留まって、うろたえた。「周りを見て、口にすることを躊躇する時がないだろうか」と思ったから。会社や食堂で、公にするどころか、祈ることさえ気後れする。そこで、貝になっている。
内におられる神に、悔い改めるばかり。そしてすがるばかりの我なり。
●28(水)
世の汚れに染まらないように自分を守ること (ヤコ1・27)
あー、ボクはもう染まり切っている。世の汚れは「舌を制することができず」「困っている人を世話せず」「御言葉を聞いても行わず」という人のことだったから。
あー、ボクはかなり焦ってきた。染まらないで自分を守れた人が「神の御前に清くけがれのない信心だ」と言われていたから。もうダメかも。
いや、今日が岐路だ。今日を、立ち帰る日とすれば良いのだから。
●29(木)
もし信じるなら、神の栄光が見られる。 (ヨハ11・40)
墓に葬られたラザロ。既に死んで四日も経っていた。傍で泣くラザロの姉妹マルタ。その彼女にイエス様がおっしゃったのがこの御言葉だ。「神の栄光」とは、ラザロが死を打ち破って生き返ることだった。
信仰は、人が「これは絶対に無理」と思う壁を破る。ボクの周りにも「絶対無理」が溢れていた。それと向き合って祈って来た。ボクもそこで神の御業を見て来た。今朝の言葉は、真だ。
●30(金)
こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える (ルカ1・73〜74)
ああ、明日はもう大晦日。その日に、洗礼者ヨハネの父・ザカリアの賛歌を聞く。それは救い主の降誕と、その道を整えるヨハネの誕生の喜びだ。
私のこの一年も、イエス様に支えられた日々だった。自分の不信仰で多くの過ちを犯したけど、そのたびにイエス様が御許に立ち帰らせて下さった。それこそが「敵からの救い」だった。感謝で今年を終え、加えて恐れなく主に従う決意も新しくしよう。
●31(土)
神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使4・19)
ユダヤ人当局者から「イエスの名によって福音を語るな」と命じられたペトロたち。そのとき躊躇しないでこの言葉を告げたのだ。「殺すなら殺してくれ」と言っていることになるのに。
「聴従か死か」。本気で主に信頼して生きていないと、この一言は言えない。ボクは言い訳ばかりしているうちに、この本気さを失っていたのかも。大晦日の夜、そのことを黙想する時にしたら、来年はいい年になるかも。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:15| 『日々の聖句』