2022年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2022年10月31日

『日々の聖句』2022年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年10月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。   (2コリ9・6)
惜しまず蒔く「種」とは、エルサレム教会への「献金」のことだった。
献げものとしての献金のことだと知って、じゃあ「惜しまず」って、どのくらいなんだろうと考え始める。金額のことなのか、それとも献げる時の気持ちのことなのだろうか、と。そう考え始めて、もしも次に献げる献金が変わったら、この御言葉が心に届いたということなのかも。信仰って、具体的な生活に直結している。

●2(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。  (ヤコ2・13)
こういう御言葉を聞くと、瞬間的に「憐れみをかけるって、どの程度まで?」とか「それは、嫌いな人とか敵に対してもということですか? そんなこと現実的にはどうかなぁ」とか、すぐに考え始めてしまう。振り返ったら、ボクは実際の行いで、人に対して分け隔てしている・・・。
そのこと全てに、ガツンと鉄拳を下された気がした。そうだ、ガツンとだ。痛いと思うことが大事なんだ。

●4(火)
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。   (1コリ12・27)
教会がキリストの体にたとえられる。そして、その体の一つひとつの部分が私たちなのだ、と。
「自分はどの部分なんだろう」と、ふと考える。奉仕する「手」だろうか、気を配る「目」だろうか、と。
でも今日は、自分のことを考えるのは横に置こう。「あの人はどんな大切な部分なんだろう」と考えよう。そうしたら、「あの人のために」と祈れるから。決して裁いたりしないから。

●5(水)
神は人を分け隔てなさらない。 (使10・34)
誰と誰を隔てないのか。それは、神様から恵みを戴けるのは当然と考えていたユダヤ人と、決してもらえないと考えていた異邦人とだ。でも・・・。
「これはユダヤ人に向けての話だ」と考えちゃいけない。私たちこそ、神の恵みについてあらゆる分け隔てをつくるから。他人を見て「あんな人」とか、自分を見て「私なんか」とも。そういう私たちに、神はキッパリ言われた。私に、分け隔てなどない、と。


●6(木)
時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった   (ルカ1・20)
天使がザカリアに現れ「洗礼者ヨハネが生まれるよ」と告知した。でも「私も妻も老人なのに、有り得ない」と信じない。その彼に、天使が再度告げたのだ「あなたは口が利けなくなる」という痛烈な裁きの言葉と共に。
天使の言葉(ボクには御言葉だ)を信じないのは、それでもいいやで済まされない。神様が「わたしの言葉を信じなかった」と嘆かれること。もしかしたら怒ってもいる。ドキッとした。


●7(金)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。      (コロ2・6)
イエス様を知って、洗礼を受けた。でもその後も肝心。「キリストに結ばれて歩みなさい」ということだ。
だって、そうしないと転んでしまうから。だって二人三脚のように片足はイエス様に結ばれているんだから。イエス様に合わせて(御言葉に合わせて)イッチ、ニ。イッチ、ニ。肩も主に抱かれながら、イッチ、ニとね。その歩き方こそが、幸せになれるゴールに向かっているんだから。


●8(土)
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。  (マタ21・3)
他人のロバなのに、主は「イエス様のために貸してください」と申し出るように命じられた。こんな非常識なことを言い出せるのか・・・。従ってみた彼らは、その時、お言葉通りになるという神の御業を経験したのだ。
ボクは「こんなの無理、非常識」と思える御言葉に、ちゃんと従えるだろうか。人間が出来そうなことしか従わないから、人間の射程範囲の小さな恵みしか得られないのかも。


●9(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 (ルカ19・5)
木の上にザアカイが居るなんて、誰も知らない。隠れていたんだから。でも彼はイエス様を見てみたくて枝陰に潜んでいたんだ。その真下でピタリと足を止め足られてイエス様。そして声を掛けられたのだ「降りて来なさい。あなたに会いたいから」と。
ボクの時も同じだった。ボクの傍でイエス様はピタリと足を止め、声を掛けて下さったんだ「あなたに会いたい」と。だから、今のボクがいる。


●11(火)
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。    (コロ3・14)
「身に着けなさい」と言われているということは、身に着いていないゾという指摘。さらに、気を付けないとゴッソリ落ちてしまうぞという警告。加えて、身に着くまでは訓練と修練が要るという諭しかも。
心して頑張らなきゃ。本気で頑張るべきことは、これなんだ。身に着けた愛によってこそ、人と人との関係は完成されるのだから。代替策は、他に何も無いのだから。


●12(水)
子たちよ、偶像を避けなさい。  (1ヨハ5・21)
「子たちよ」と優しく語り掛けられる。しかし、これがヨハネの手紙の最後の言葉なのだ。つまり、これがこの手紙で言いたいことの総まとめなのかも。この一言に手紙の内容は尽きるのだ、「偶像を避けなさい」と。
「周りにあるこの世の習慣や常識という偶像を避けよ。あなたの中にある自分中心という偶像から飛び退いて生きよ」と。そこから、新しく愛に生きることが始められるから、と。


●13(木)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。    (ルカ1・68)
洗礼者ヨハネが生まれた時、父ザカリアの第一声が、この言葉だ。それは、ついに救いの御業が始まるという喜び。神の救いの御業の進撃ラッパ。
神をたたえるのは、自分にアレコレの恵みを与えられた喜びなんかより、何よりも救いの御業なんだ。ボクは、ひょっとしたら自分への小さな恵みのことばかりを考えていて、救われたことを軽く考えてしまっているかも。すっとこどっこい信者かも。


●14(金)
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリ4・7)
この「宝」というのは。キリストこそ救い主という「福音」のことだ。その「福音」を伝えるのは、金でも銀でもない「土くれの器」でしかない人間だと、パウロは告げた。語る者を見るのでなくて、百%「福音の光」そのものを見て欲しいからだ。
隣人に福音を伝えたい。それなのに上手に語れないと下を向く私。でも土の器の私でいい。福音を大切に生きれば、器の中の宝が輝くから。


●15(土)
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    (ロマ3・25)
聖書は一切言葉を濁さず、父なる神が御子を供え物としたと告げる。
アブラハムが息子イサクを捧げ物にするように神に命じられ、祭壇を築いて息子を屠ろうとした出来事を読むたび「どんなに辛かったか」と心の痛みを思うのに・・・。御父は御子を本当に十字架で供え物にされた。それなのにどうしてボクは、その痛みを思い巡らすことが希薄なのか。ボクの信仰は、何を信じているんだろう。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●17(月)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。     (ヨハ6・36)
イエス様が、群衆を前にしてこの言葉を言われた。今、あなた方の前に「命のパン」である私が立っているが、見ているのに誰も信じない、と。
ふと、子供の頃にCSの先生に言っていた言葉を思い出した「弟子たちのようにボクだって、目の前でイエス様を見たら、いつでも信じるよ。でも見られへんからなぁ」と。ああ、幼な過ぎた。でもあれからボクは、少しは成長できたと言えるのかなぁ。


●18(火)
はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。  (使3・6)
ペトロが人々に向かって、イエス様のことを説き聞かせ始めた。彼らは分かっていた事実がある。それは五十日前、自分たちがイエスを十字架刑にして殺したということ。でもペトロは、そのお方が救い主だったと告げたのだ。人々は驚愕しただろう。自分がメシアを殺したと知ったから。
自分が主を殺したという驚きは全ての人の驚き。その驚きが信仰の入り口。そして救いへの唯一の入り口。


●19(水)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。  (マコ1・22)
人々を前にして、イエス様が会堂で教えられた。それは他の教師達とまるで違った。彼らは、調べたことを器用にまとめて語っただけ。それを人々は喜んで学んではいた。寺子屋のように。でもイエス様の話は、異質だった。神からの良い知らせ(福音)として伝えられたから。人々の心に「従う」という思いも生まれた。学習とは違う、信仰の決断として。
福音は、学習の世界の外にある。


●20(木)
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタ6・18)
「山上の垂訓」の中の一節だ。人々には「断食すべし」という律法があった。でもそれをする時「私はこんなに熱心にしていますよ。熱心な信仰ですよ」と人に見せようとして、苦しそうな顔をして見せた。結局、人の目や評価だけが気になり、縛られてた。
イエス様は「天の父が見ているから」と言われる。人の評価に縛られる自分から、解放してくれる。自分を誇る罪から、解き放ってくれるんだ。

●21(金)
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。  (1ペト4・14)
「キリスト者」と知られるだけで社会から爪弾きになる迫害があった。
「大変な時代があったんだ」と他人事のように考えちゃいけない。今でも、キリスト者として生きようとするなら主日厳守、十一献金、あらゆる偶像厳禁がある。ここに本気で立って「生きづらいなぁ」と思う生活をちゃんと送っているのかが問われているんだ。そしてその生きづらさこそ、ボクも神の子供だという証なのだ。


●22(土)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。      (ルカ2・11)
幼い頃から、教会で(また教会学校で)、クリスマスの聖誕劇で何度も聞いて来た御言葉だ。これは、野宿していた羊飼いたちに、天使が告げた嬉しい知らせ。なぜか聞くたびに、ボク自身が胸をときめかせた嬉しい知らせだ。
大人になっても、大好きな御言葉だ。聞くたびに心がホッとして、読むたびに平安が拡がる。私のために、救い主が来られたと聞くのだから。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●24(月)
イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」    (ルカ10・37)
イエス様から「隣人を愛するとは、傍で困っている人に、自分が手を差し伸べるということだ」と、善いサマリア人のたとえ話を聞いた。皆は「立派な教えだ」と感心する。でもその人々の顔を見て、イエス様が「知っているだけでなく、あなたが手を伸ばすのだよ」と言われたのだ。
ボクもこの教えを理解している。それなのにどうしてボクの手は、こんなに短くて、隣人に届かないんだろう。


●25(火)
マラナ・タ(主よ、来てください) (1コリ16・22)
コリントの教会に律法主義が再び持ち込まれ、主イエスから離れる「救いへの道の逆流」を起こしていた。そこにパウロが「主に立ち帰れ」と切々と手紙を書いたのだ。その締めくくりに、今朝の一言がある。
「立ち帰れ」と語る根拠が「ご復活の主は再び来られる、早くお迎えしたい」という再臨信仰。ボクにも再臨希望は与えられている。お迎えするに相応しいボクに、ならないとね。


●26(水)
あなたが信じたとおりになるように (マタ8・13)
異邦人の百人隊長が、部下の病の癒しを願い出た「ひと言おっしゃってください。お言葉だけで治していただけますから」と。それに対して、主が答えられたのが今朝の言葉だ。
「信じたとおりになる」ってスゴイ。信じるだけで、願いが叶えられるんだ。病の癒しでさえ、だ。
でもウッと思った。本気で信じてないなら何も動かないと気付いたから。信じことに、本気度が問われてる。


●27(木)
わたしたちは神に属する者です。 (1ヨハ4・6)
私たちはこの世に属する者ではなく、神の家に所属する者。なんて嬉しい呼び掛けだろう。私の側の努力も精進も一切問われることなく、「あなたは私の家の子だよ」と、御父に言っていただけるなんて!
ここに続けて「神を知る人は、わたしたちに(聖書の御言葉に)耳を傾けます」とあった。単に嬉しいというだけじゃ何か足りない。神の家の者らしく、御父の言葉に聞かなきゃね。


●28(金)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。 (マコ16・7)
イエス様の亡骸が納められた墓には、天使だけが居た。そして今日の言葉が告げられたのだ。「あなたがたの故郷・ガリラヤへ行け」と。でもなぜガリラヤだろう。一切が出発した場だから、新しい出発もそこからということか。ペトロにとってガリラヤ訛りは、主への裏切りが露呈した印。そこに立って再出発ということか。理由は絡み合っているのかも。ボクに復活の主が出会った下さった場のように。


●29(土)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(コロ1・23)
「福音(良い知らせ)」って、最近自分の周りに無いな・・・。「希望」も、今の自分には見つけられない。そう感じる日・・・。もしかしたらイエス様から心が離れているからかも。なぜって、イエス様ご自身が「希望」なんだから。また「福音」そのものなのだから。
「救われて神の子として愛される」、この良い知らせこそ「希望」に直結しているのだ。だから明日、礼拝に帰ろう! 福音を聞き直すために。


●30(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  西田恵一郎 牧師



●31(月)
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。   (マコ12・43)
献金箱に、生活費を全て献げた貧しいやもめを褒めたイエス様。
「でも、今日の生活費はどうするの? 自分はいいけど、子供のご飯はどうするの? これはやり過ぎじゃないの?」という思いが溢れて来る。そんなボクの思いに、イエス様が問い掛けて来るのかも、「自分の生活は確保しておいて、残ったものから出来る分だけ献金すればいいんじゃないの、という順序はどうなんだ!」と。



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2022年09月30日

『日々の聖句』2022年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年9月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。 (エフェ4・1)
どこに招かれたのか? それは、キリストの体である教会に、だ。一つの体となるように、頭であるキリストに結ばれて、各人が体の一部分として生きよということなのだ。
そうであれば、ふさわしくない姿とは、その一致を乱すことなのかも。どうすれば、そんな人にならずに済むのだろう・・・きっと、頭であるキリストのように、自分の全てを捨ててまで隣人に仕える者となることだね。


●2(金)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。   (1ペト2・4)
イエス様は、人々から評価されず、認められもせず、かえって見放され、殺されてしまった。しかしその歩み全てが、父なる神の御心に従われたご生涯だったというのだ。その故に、御心の「救いの成就」がなされたのだ。
今朝のみ言葉の直後に「あなたがた自身も生きた石として用いられよ」と続く。ボクも神の御心に従って生き通せということだ。それが「自分の十字架を負う」という真意なのだ。


●3(土)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 (1コリ13・5)
これは社会生活の一般的ハウツーかな、と思ったけれど。でも、1コリ一三章だと目に入って、アッと思った。それは、これが「愛の賛歌」と呼ばれる箇所からの御言葉だと気付いたから。つまり社会生活の基本は、隣人を愛することに尽きるということなのかも。愛が第一というのは、新郎新婦の間だけの話しではないんだ。
私も、今日会う全ての人との間で、この御言葉通り生きてゆきたい。


●4(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師

(コロナ禍の状況によっては変更)



●5(月)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)
主の再臨を願い求めつつ、地上での教会生活を整えるようにと勧められる。この世からの誘惑もあるだろう。しかし耐え忍んで生きよと。
でもこれは将来の希望をしっかり見ている忍耐。実りへ向かってのコツコツ歩みだ。手は土まみれ、体は汗まみれ、クタクタになるだろうけれど、それがそのまま実りに変わる日となると思ったら、喜びを秘めた歩みとなる。信仰者は、そんな農夫だ。


●6(火)
(イエス)「立って、真ん中に出なさい」  (ルカ6・08)
手の萎えた男が苦しんでいた。でもその日は、誰も彼を助けてあげられない。律法で一切の仕事を禁じられていた安息日だったから。ファリサイ派は、男の苦しみ見て無視した。しかしイエス様は、男を見て癒される。
主は、「真ん中に出なさい」と言われた。それは、「私はここですぐ、今苦しむあなたを救いたい」という御心の中に立つという場所。そのイエス様の想いは、私にも注がれている。


●7(水)
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊い   (1ペト1・7)
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」と言われた直後にこの御言葉が続く。信仰が本物になるためにたくさん試練を受けよ、と言われているのじゃない。
この世で信仰を守ろうとしたら、その者にだけ必ず試練が襲う。でもその者にだけ与えられる栄冠がある、と言われているんだ。耐え忍ぶ側に立つのか、そこから逃げるのか、さあ、私はどっちに立つのか。さあ!


●8(木)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。  (1コリ1・25)
「神の愚かさ、弱さ」とは、御子を十字架で死なせたという出来事そのものだ。だって、御父が嫌う罪人の身代わりを、御子にさせるなんて、愚かに思える。他に良い方法がなかったのかと思う。神が死ぬなんて、そんな姿は弱すぎで、もっと強力な御力の発揮の仕方はなかったのかと思う。
でも、その愚かで弱い方法によって、愚かで弱い全ての人が救いあげられたんだ。こんな罪人のボクでさえ。


●9(金)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  (ルカ15・7)
見失った迷子の羊の話しをされたイエス様。
その一匹って、どんな羊なんだろうと思い巡らしてみた。それは、自分中心で羊飼いの言葉を聞かずに勝手なことをする羊。つまり御父のもとを離反した罪人だ。もし、この羊が自分のことだと(知的理解でなく)心の底で受け取れたら、天にある喜びがボクの心にも響いて来る。恵みって、罪人理解に引っ付いているのだな。


●10(土)
互いにうそをついてはなりません。(コロ3・9)
母が「うそをつく子は大嫌い」と、よく言っていた。でも、今日の箇所の「うそ」というのは、虚言とか作り話とか詭弁とかいうのとは、何かちょっと違う気がする。それは聖書で、「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉」と一気に記されていた段落に直結していたからだ。うそは、忌むべき行いの中に入っているのだ。
「うそも方便」と上手に生きる者でなく、御言葉に愚直に生きたい。


●11(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師


(コロナ禍の状況によっては変更)

●12(月)
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。(1ヨハ3・15)
この「兄弟」はと血のつながった家族ではなく、勿論「隣人」のこと。「あいつが憎い」と思う時、その人を殺していると言われている。そんな大げさな、と思って、ウッと立ち止まった。
「大げさな」と思うのは「こんなことぐらいで人を殺しはしない。こんなことぐらい大丈夫だ」と、自分で勝手に思っているということだ。殺したのと同じ重さの罪だと、神が言っていることに、気付きもしないで・・・。


●13(火)
神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ(使11・18)
「異邦人をも」という一言が、使徒言行録にあることは、大切な意味がある。教会の働き・伝道の働きが始まった時に、何よりも「異邦人をも」という点が拡げられることが重大事だったことを示す一言だから。
この「異邦人」は、「こんな人が救われるはずがない」と言われていた人を意味する。それが「私」だったんだと改めて思う。更に、いつの間にか伝道を諦めている「あの人」のことかも。


●14(水)
さあ、立て。ここから出かけよう。 (ヨハ14・31)
イエス様が、受難が始まる直前に弟子たちに、告別の話しをされた。そしてこの言葉を告げられたのだ。「受難のど真ん中へと出かけよう」と。なぜなら、そこに御父の「御心の計画」があるからだ。
ボクも、これが「御心の道だ」と分かったら、たとえそこに苦難が予想されても、背を向けずに踏み出そう。そこへの道こそ、主が「さあ出掛けよう」と一緒に歩いて下さる道だから。


●15(木)
万物は御子によって、御子のために造られました。   (コロ1・16)
天地創造の時、御父と一緒に御子も創造の御業に就いておられた。だから「御子によって造られた」ということ。「御子のために」とは、神様は万物をご自身の「相手・パートナー」として造られたということ。御子なる神が、この世界と、また人々と関わることを求めておられるのだ。
だから、ボクが造られた意味は、御子のパートナーとされているという点で、一番輝くんだと思った。


●16(金)
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。 (マタ5・44-45)
イエス様の「山上の垂訓」の中の一節だ。いつも、聞いてすぐに「無理」と思って、放り投げて来た。でも改めて「天の父の子となるため」と聞いて、ドキッとした。敵を愛そうと試みさえしなかったら、御父の子となれないんだと、ふと気付いたから。
「無理」と放棄するのは自己中心そのもの。そこに罪が巣食う。だから何度も試みよう。これは御子の言葉だから。幸いへの招きの言葉だから。


●17(土)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。 (ルカ1・33)
「彼は永遠に神の民を治める者となる」と宣言されている。彼って誰のこと? 思って聖書を開いたら、天使が、降誕を告知をした場面だった。彼とは、私たちの主イエスだ!
「永遠に」ということは、今の私も含まれている。「ヤコブの家」ということは相模原教会も含まれている。つまり、私たちも御子のご支配の中に入れられているということ。ならば恐れず行こう。主の守りの支配の中を。


●18(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)

●19(月・祝日)
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。   (エフェ5・10)
いつも「何を主にしてもらいたいか」ばかり考えて来た。その結果「アレもコレもしてもらえない」と不満ばかり。でも今日気付かされた。「見るべき方向は、自分じゃなくて、主を見るんだ。方向が真逆だったから、主との関係も見えなかったのかも」と。
今日から「主が何をしてくれるのか」でなく「ボクが何をしたらいいの」だね。もっと早く気付けばよかった。そしてずっと忘れないようにしよう。


●20(火)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。     (ルカ13・9)
3年もいちじくの木に実がならない。主人は、こんな役立たずは切り倒して別の良い木に植え替えてしまえと言う。でも園丁が、今年もこのままにしておいて下さい。私が世話しますからと言ったのだ。実のならない木を愛する園丁が、イエス様のこと。
私が御心に適う生き方をする者になるのを、待って下さるイエス様。気の遠くなる忍耐で、不出来な者を赦し続けて。ああ、ボクも愛されてる。


●21(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。  (ヘブ3・16)
繰り返し「今日、神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と告げられる文脈の中に、今朝のみ言葉はある。誰が神に反抗なんてするんだと思っていた私は、「すべての者」だと聞いて、ギクリとした。「お前こそが、神への反抗者だ」と、神様から指差されたように聞こえたからだ。
今日気付けて良かった。崖っぷちで踏み止まれたということだから。


●22(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。    (マコ4・39)
風を叱りつけ、湖を一喝されるイエス様。その激しさにビックリする。
でもこんなに激しくなられたのはなぜ? それは、舟の中で弟子たちが、嵐に怯え切ってしまっていたから。主ご自身を信じられない弟子たち。それでも怯える姿に、主は味方になって下さったのだ。激しいほどに。
ボクも不信仰ですぐアタフタする。そんな姿にしかならないボクのためにも、主はまず立ち上がって下さる。


●23(金・祝日)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェ5・21)
キリストご自身に対するように、「あの人」に仕えるなんて。あんな人に仕えるなんて、出来るだろうか・・・
そう言えば、マザー・テレサは、カルカッタの駅で倒れている、誰にも顧みられない病者に、キリストご自身の姿が重なったという。ボクもまず一人に対して、更にもう一人に対して・・・と生きてみたい。失敗する日もあるけれど、一歩ずつでも。もし皆がそうなれば、この世界が変わるよ。

●24(土)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
相模原教会は、神の御子キリストの体。そうであるゆえに、頭はキリストご自身だと告げられている。
そうであるのに、それを私たちは本当にわきまえているだろうか。いつも自分の考えに合わない人を、心のどこかで批判してしまう。心に収めきれず、ついに言葉にも出す。その時、自分が頭となっているのに。真の頭なる主よ、あなたの座を取ろうとする罪人を、赦したまえ。

●25(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)


●26(月)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。 (ヨハ2・25)
「やっぱり、イエス様には全部お見通しなんだよねぇ」と思って、急に、何を見られているのか心配になった。
聖書を見たら、イエス様の奇跡を見て信じたという人達の心の中を、主はご存じだとあった。奇跡ばかり求める人間の欲を知っておられたということ。「ボクも彼らと同じ」と思った。してもらいたい要求ばかりを神に祈ってる。「従います」とは口先ばかり。それも主は知っておられる・・・


●27(火)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。     (マタ6・3)
どんなに善い行いも、他人にも自分自身にさえ気付かせないようにして行えということだ。いや、自分に対してということこそが、鬼門なのだ。私たちはいつも、自分の行いを誰かに褒められたいと思っている。口では謙遜なことを言っていても、心の奥では「私を認めて」と欲している。だから誰にも評価されないと、落ち込んでいる。ああ、主は図星でそれを見ている。そして、そこから救い出す。


●28(水)
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。(1コリ14・20)
んんっ? 「子供にみたいな判断」ってどんなことを言っているんだろう。聖書を開いたら、教会で、異言を得意顔で話すことだった。ちゃんと隣人に分かる言葉で話せということ。
「ボクは異言を使わないから関係ないな」と考えつつ、ちょっと待てと思った。ボクも「十字架と復活。罪と贖い」とか、キリスト教用語を繰り返すだけなら、友人には念仏のようにしか聞こえないかも。要注意だ。


●29(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(1コリ9・23)
「どんなことでもする」というのは、律法を持たない人には自分も持たない人のようになり、持つ人には自分も同じになること。「お前は優柔不断だ」と批判されるかも。自尊心を捨てているようにも聞こえる。しかしパウロは相手の下に立って、共に福音に与りたかったんだ。自分の評判なんか気にしていない。ああ、これが伝道するキリスト者の姿なんだろうな。私たちは、どこに立っているだろう。


●30(金)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。     (ロマ12・21)
悪を持って悪に返すな。飢えていたら食べさせるように。善を尽くして接するように、と言われている。
でも自分のことを顧みたら、相手を憎んで、心の中に留めておけずに陰口を言って、もっと悪いことに人にも言い広めている。そうやって相手をおとしめてしまっている。ボクはなんて卑怯な奴なんだ。信仰者の面汚しなのかも。ああだからこそ、今朝のみ言葉を両の手にしっかり握ろう。

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2022年08月31日

『日々の聖句』2022年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年8月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)

●1(月)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。  (ルカ7・7)
百人隊長の部下が病気で死にかけた。その時、イエス様に会いに出かけた百人隊長が、遠くの家に残して来た部下の癒しを願い出たのだ、「あなたが『元気になれ』と一言おっしゃって下されば、部下は癒されます」と。その彼の信仰を、主は喜ばれる。
ボクも、聖書で御言葉を聞く。でも、彼のように御言葉の権威を信じているだろうか。信じ切らないボクを、イエス様はどう見てるのだろう。


●2(火)
あなたがたは自分で心を狭くしています。 (2コリ6・12)
コリントの教会の人たちに、心を込めてパウロが語って来たことを、彼らは受け入れなかったらしい。むしろ批判していた。しかし語り続けたのだ。
自分が受け入れられないことって、隣人関係では一番辛いことだろうに、なぜそれでも関係を結び続けようとしたのだろう。もしかしたら、愛する思いが消えなかったから。きっとそうだ。何としてでも彼らに福音を伝えたのは、その理由しかない。


●3(水)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 (1ペト2・1)
新生児は、お乳を飲まないと生きていけない。それと同じように、無心に聖霊を求めよと言われている。
でも人は言うだろう「その聖霊って、どこで飲めるの? どうやって飲むの?」と。全ての牧師は答えるだろう「だから、聖書を読む、そして祈る。聖霊を受けるのは、祈りの場でだから。そこで、主の言葉と一緒に受け取れるから」と。かつても今も全ての牧師は、口を酸っぱくして言うんだ。


●4(木)
愛は自慢せず、高ぶらない。  (1コリ13・4)
これは「愛の賛歌」と呼ばれる箇所。結婚式の時に必ず読まれる御言葉だ。でも、新郎新婦だけに向けた言葉じゃない。今の私たちにこそ必要な言葉なんだ。それは、誰もが、「愛すべき隣人」に囲まれて生きているから。そこで自分を誇ったり、自分こそが義しいと高ぶってしまう罪を犯してしまうからだ。
「高ぶるな。そこで愛することを見失うから」。まさに自らへの厳命だ。


●5(金)
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 (ヤコ2・12)
私たちの前にも、行うべき「律法」は厳然としてある。「十戒」がそれだし、「黄金律(神を愛し、隣人を愛すること)」もある。
今日という日を歩むべき道は、この神の言葉による律法なのだ。信仰があればいいなんて、律法を軽んじてはならない。本来は、神が私を愛して下さって、「ここを歩んで行ったら幸いになるからね」と示して下さった天の国への羅針盤なのだから。


●6(土)
御子を信じる人は永遠の命を得ている   (ヨハ3・36)
洗礼者ヨハネが、イエス様のことを証しして「神がお遣わしになった方、神の言葉を語る御子だ」と告げる。それに続けてこの言葉を語ったのだ。
「何をしてもらえるかという業でなく、ただこの方を見よ、イエスこそ御子なる神だから」と迫るヨハネ。「信じるところに、永遠の命もあるから」と。この「信じること、そしていただくこと」順序が大事な事かも。短い一文なのに、大切なことが示されている。


●7(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●8(月)
気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。  (ヘブ12・3)
信仰者の道には、重荷やからみつく罪がある。しかし自分に定められた競争を走り抜けと促される。その時に、なのだ。見上げるのは、私たちのために全ての重荷を忍耐され抜かれたイエス様だよ、と示されているのだ。そのお方が、今も私たちを支えていて下さるのだから、と。イエス様で心をいっぱいにしよう。今日も、応援していて下さる方がいると分かるから。それが勇気の源だから。


●9(火)
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。  (マコ10・51)
盲人のバルティマイ。物乞いをするしか生きる術がなく、人生を諦めていた男。でも、傍をイエス様が通ると知って叫んだ「憐れんでください」と。その叫びに、彼の苦しみも悲しみも全てを聞き取って、問いかけるイエス様「何をしてほしいのか」と。その眼差しに、もう癒しが始まっていた。
主の愛は、「何をしてほしいのか」という眼差しに、既にすべてが込められている気がした。感謝。


●10(水)
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。 (ヨハ21・22)
ご復活のイエス様がペトロに現れて「今度こそ私に従うのだよ」と導いて下さった。主を見捨てた自分なのに愛されていると知ったペトロ。それなのに彼は、隣の弟子が気になり出す。どうして人のことばかり気にするんだろう。なんて愚かなんだろう。
そのペトロに、なお優しくハッキリ諭されたのが、この御言葉だ。人のことを気にする愚か者にさえ(あ、ボクだ)、優しいイエス様。今朝も感謝。


●11(木・祝日)
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。     (ルカ5・5)
ペトロは、一日中漁をしたけれど、一匹も獲れなかった。もう陽は昇って、漁をしても獲れる時間じゃない。でも彼は、傍を通りかかったイエス様が、「網を降ろしなさい」と言われた言葉に、全てを委ねたのだ。
この時ペトロは、イエス様が御子だと分かっていたのだろうか。そんなはずは無い、じゃどうして? あ、「分かって従う」んじゃない、「従う中でイエスこそ主だと分かっていく」のかも。


●12(金)
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。   (マタ27・46)
イエス様が十字架の上で、天の父に向かって叫ばれる「私をどうして見捨てたのですか」と。天の父に捨てられるという厳しさもご存じでいて下さるのだ。これは、罪人の抱える叫びなのに。その厳しさを、主御自身が知って下さるのだ。
罪を身代わりに償って下さるだけじゃなく、神に捨てられる辛酸を舐め尽くしても下さった。その方が、私の救い主。そして御心なのだ。


●13(土)
あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。  (マコ12・24)
「思い違い」は何? それはユダヤ人の慣習で「レビラート婚(長男が亡くなったら、次男が兄嫁と結婚し、次男も死んだら、三男が妻にするという婚姻方法)」を持ち出して人々が問うたこと、「では死者の復活の日に、その嫁は誰の妻になるのか」と。
プっと笑ってしまう問い。でもボクも、この世の理屈で聖書を読もうとする。神の言葉に、自分の常識を覆いかぶせる。だから無理解になる。


●14(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●15(月)
あなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(2コリ6・1)
「いただいた恵み」って何だろう、「無駄にする」ってどういうことだろう・・・。聖書を開いて前後を読んだら、少し分かって来た。「恵み」とは、神の義を得ること。また「無駄にする」とは、再び罪の生活に堕ちていくということだった。分かったよ!
でも、分かった気になるだけで自分の生活に繋がらないなら、正にそこが「無駄にする」入り口。「今日の丸一日、主に従いたい」と歩まねばね。


●16(火)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。   (1ヨハ4・16)
「神は愛」。なんと端的に言い表す御言葉だろうか! 「神様イコール愛そのもの」ということなんだ。
その「愛」って、どんな具体的な姿だろうかと思って、アッと気付いた。私のためにご自分の命を投げ出された姿が思い出されたから。愛は、十字架の死なのだ。ヨハネの手紙にある「愛」という言葉を、「主の十字架」に置き換えて読み直したら、ものすごくリアルに聖書が聞こえて来た。


●17(水)
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。     (ルカ8・25)
イエス様の御声は、そのままボクへと向けられている「篤の信仰はどこにあるのか」と。この場面は、嵐で舟が転覆しそうになって、弟子が恐れのあまりにイエス様にすがって助けを求めた時、主からの返答だった。
ボクも「主は共におられる」と口にしてはいる。でも本気で「主がおられるから平安だ」と信じているだろうか。少しの波風で狼狽していないだろうか。信仰の無い私をお赦し下さい。


●18(木)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。  (エフェ5・8)
「光の子として歩みなさい」、この聖句は、白ゆりを卒園する子供たちに贈る言葉だ。幼稚園にいた時は、当たり前のようにイエス様の話を聞いて、毎日祈ることも出来た。でもこの世に出て行く時、その当たり前が当たり前でなくなるのだ。だからこそ伝えたい「もうイエス様を知ったあなたは、光である主に結ばれた。光の子として雄々しく歩めるよ」と。そしてそれは、私たち大人も同じなのだ。


●19(金)
わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。  (2コリ5・20)
この直前に、キリストが死んで下さった故に、全ての人が「神と和解」の恵みをいただいたと告げられている。この恵みを「受け取るように」と勧めるのが、主によって送り出された「使者の務め」だというのだ。
自分の信心で、隣人をしゃく伏しようとするのじゃない。キリストが願っているのは、主の伝令者となることなのだ。だから伝道は「何を伝えるのですか」と聞くことから始まる。


●20(土)
兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。   (1コリ8・12)
隣人の心を傷つけたら、キリストに対して罪を犯したことになるって、大変じゃないか! 御子への罪は、審きを免れないから・・・。
隣人を傷つけるって、何によってかボクは知っている。口から出る言葉だ。「口が悪い性格だから」なんて軽々に言ってはいられない。御子なる神への大罪なのだから。
今日から「隣人が、キリストそのもの」と生きてみよう。これ、秘訣かも。


●21(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●22(月)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。    (エフェ5・1)
子は親にそっくりに育つと、よく言われる。それは、天の父と神の子らである私との間でも同じであるはずだよと、言われているんだ。
聖書を開くたび、礼拝に出るたびに、御父の思いも御業も知らされる。それはご自身に背く罪人さえも愛されたこと。人を憐れみ、赦し抜かれたお姿。それなのにボクはちっとも似ていない。反抗期はもう卒業しなきゃ。よその子に見られるのは嫌だから。


●23(火)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。  (1テモ6・11)
おおー、何だかいっぱいあって、フルコースだなぁ。一遍にしなきゃいけないのかなぁ、どれか一つじゃダメ?
と考えつつ、ふと思った。フルコースの料理って一つひとつが大事で、その全てを食べて料理の完成と言える。一つだけで良いとは思わないよね。
正義も、信心も信仰も、愛も忍耐も柔和も、全てを追い求めよう。選り好みしない。全てで、一人のキリスト者の完成をつくるのだから。


●24(水)
思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタ6・31-32)
これは、イエス様の「山上の垂訓」の中にあるみ言葉だ。主は、想いを込めて群衆に語られた「思い煩うな。悩みに捕らわれるなよ」と。「なぜならあなた方の天の父は、あなたの苦労も涙も全部知っていて下さるんだから」と。必要は満たして頂けるのだ。
信じる人は、大変な恵を握れる!それは、人生の嵐の中にあっても平安であれること。ただしこれって、信じる人のみ気付ける恵かも、ね。


●25(木)
心の目を開いてくださるように。(エフェ1・18)
心の目が開かれて、見えるようになるものは一体何なのか⁈ それは、知恵と、神を深く知ることが出来ることと、神によって与えられる希望と、聖なる者が受け継ぐものの豊かさがどれほど大きいか、等だ。
「神の恵みが、ボクには見えない」と思う時、心の目が開かれていなかったからなんだ。だから「主よ、朝ごとにボクの心の目も開いて下さい」と願わなきゃ。見るために、祈らなきゃ。


●26(金)
神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。 (コロ1・11)
信仰者としての生活は、キリストに従って歩み、あらゆる善い行いをするようにと勧められている。でもそれをやり遂げる力は、自分の中から頑張って絞り出すのじゃない。もともと自分の中には無いからだ。
「信仰に生きる力は、私の中には無い」と知ることが第一のことかも。そこに立てたら「神様からいただいて立とう」と思えるから。「御力を注ぎ込んで下さい」と、まず祈れるから。


●27(土)
貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。  (ヤコ1・9、10)
エッ? 誰もが、富むことを求め、大きな家に住み、大会社の経営者になることを成功者の印と考えているのに・・・。逆に、貧しいことを誇るなんて、そんなの変人じゃないの?
でも、もしかしたらここに人生が豊かになる秘訣があるのかも。きっとそうだ。すぐ「神様、一遍ボクを富む者にして下さい。そこで身を低くしてみますので」と祈った。フーっ、ボクはどこまでもこの世の垢まみれだな。


●28(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●29(月)
御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。 (1ヨハ2・23)
全知全能の神を信じるということは、イエス様を信じるということ。それは、私の罪の身代わりに死なれたイエス様を信じるということ。だから何よりも自分の罪を見詰めること。自分の罪を悔いるどん底に、主イエスは立たれた。それこそが御父の御心。
生涯かけてそれを知り続けるのが信仰者の人生かも。もっと深く罪の重みに気付けば、もっと強く神に結ばれる。御父の愛がいよいよ分かる。


●30(火)
誇る者は主を誇れ  (2コリ10・17)
「主こそ誇りって、当然だよ」と思う。でもどうしてこんな当たり前のことを言われるんだろう・・・と思って、自分の心の底にあるものに気付いた。
それは、自分の評価がどうしても気になるということ。自分を誇りたいって思いが、心の底にこびりついているみたいだ。自分にしがみ付くボクを、主にしがみ付く者へと変えてくれる一言がこれなんだ。ボクにとっては無くてはならない一言だったんだ。


●31(水)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 (1コリ6・11) 
何が「洗われた」のか。聖書を開いたらギョッとした。あまりにも具体的なことだったから。それは、偶像礼拝、姦通、男娼、泥棒、強欲、酒におぼれること、人を悪く言い、人の物を何であれ奪うことだったから。一つでも身に覚えがあれば、汚れている。
しかし「洗礼」こそ聖霊によって洗われること。ボクも受けてて良かった。いや、そんな軽々しい話じゃない。生き死にの問題だったのだから。

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2022年07月31日

『日々の聖句』2022年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年7月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)
愛に偽りがあってはなりません。  (ロマ12・9)
偽りのない愛って、具体的にどんな愛だろうかと思って聖書を開いて分かった。それは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」という言葉と並行して記されていたから。目の前にいる幼い子どもも、老いた親も、夫も妻も、友人も、全ての隣人を尊敬すること。自分より優れた者だと認めること。そこに「愛」が始まるのだ。単なる心情的なものじゃない。そこが欠けると、偽りとなる。


●2(土)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。   (ヘブ11・1)
これは、教会学校でも子どもたちが暗唱するほどに大切な聖句だ。
目の前の現実に御業が見えなくても、戴いた御言葉は必ず実現すると生きることが、信仰者の姿だと告げている。
今朝ボクも「私への御言葉は何ですか」と祈ろう。それが今日のボクの出発点だから。その御言葉こそが成就するのだから。あ、御言葉を聞き逃したら、実りも見逃すのかも。


●3(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主   日 辻川篤 牧師



●4(月)
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」   (ルカ19・9)
罪人だと言われた徴税人ザアカイを訪ねたイエス様。「今日あなたの家に泊まって、私はあなたの仲間になる」と言ってもらえた彼は、喜びに溢れて「自分の生き方を変えます」と言えたのだ。そのザアカイに主は、「あなたは救われたよ」とおっしゃった。
救いって、イエス様の訪問が先にあるんだ。それに応答する時に起こるんだ。ボクの受洗も、ボクの決心よりも前に主の訪問があった。ああ感謝。


●5(火)
いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。   (ヤコ1・6)
「いささかも疑わず」と言われて、ドキッとした。ボクだって、神を信じていないわけじゃない。でも、神に委ね切れない時があって、その時「自分で何とかしなきゃ」と走り出してしまっている。それは自分頼みになっている時。その時、ボクの中に神は不在。自分中心となってしまっている。
振り返れば、四六時中ボクの生活には、不信仰が顔を出す。ヤコブの手紙って、痛い所を突いて来るなぁ。


●6(水)
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守りなさい   (コロ2・7)
信仰者の歩みについて、キリストに結ばれて歩くこと、「キリストに根を下ろして」生きること、処世術に従わないことなどが告げられる。全て「キリストに従う」という言い換えかも。
では、キリストに従うってどうすることだろう。何となく御足の跡を行くイメージをすることか。否! 聖書の御言葉に従うことだ。まことに具体的な生き方なんだ。御言葉に、一兵卒のように従うことなんだ。


●7(木)
(イエス)「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」   (ヨハ5・17)
この日は、安息日だった。それは律法で「どんな働きもしてはならない」と定められていた日。でもイエス様は、病気の人々を癒される。そのとき律法違反だと怒ったユダヤ人たちに向けておっしゃった言葉がこれだ。
目の前に弱っている人がいる。悩んでいる人がいる。その時イエス様は、お心が動かないではいられないのだ。ボクも、そのイエス様の御跡に従うキリスト者。同じ歩みでありたいな。


●8(金)
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。   (1コリ13・3)
「愛の賛歌」と呼ばれてきた箇所だ。よく結婚式で、新郎新婦に向けて読まれている。二人のこれからの生活において、どう生きるべきかという羅針盤として「どんなに自己犠牲しても、愛がなければ無益だよ」と。
でも結婚式だけに必要な羅針盤の言葉じゃない。生涯必要&万人に必要。だって隣人がいない人生はないのだから。「汝、万事愛を基として生きよ」とボクにこそ言われている。


●9(土)
わたしたちの本国は天にあります。  (フィリ3・20)
「あなたがたは、十字架に敵対する者たちに囲まれている。しかし私に倣う者として生きよ」と勧められる。その根拠が、「本国は天にあるから」という希望なのだ。そこから来られる主の再臨を、待っていなさいと。
ボクはパスポートを持ってこの世を旅する旅人だ。その旅券には「国籍・天の国」と記されているんだ。それも、有効期限は永遠だ。御国の者らしく、この世の旅をしなきゃね。


●10(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主   日 藤森誠 伝道師



●11(月)
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。  (ルカ1・32)
天使ガブリエルがマリアに受胎告知する言葉の中に、これがある。「あなたは身ごもった。それはどんな子になるのか」ということを告げたのだ。
マリアにとって、処女降誕と同じくらい、神の御子を自分の胎に引き受けるという決心は、とんでもなく大きかっただろう。ボクにとっても、神の言葉(御言葉)を引き受けて生きることは、同じくらい大きな決心を要することなのかも。きっとそうだ。


●12(火)
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(ロマ5・6)
生涯で初めて、心から「神の御子イエス様が、ボクのために死なれた」と受け取った体験(新生体験)をしたのが、この御言葉を礼拝の中で聞いた時だった。忘れもしないあの日。ここから、ボクの人生は大転換したんだ。
「不信心な者のために」という一言が、心に突き刺さったのだ。「これは、ボクのことだ」と心をえぐられた。そして、死なれたイエス様が、ボクの救い主となった。御言葉体験だった。


●13(水)
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。  (ヘブ12・7)
「これ」って何だろう。聖書を見たら、「罪と戦って血を流すまで抵抗する」、「主の鍛錬」、「主から懲らしめられる」等だった。
これらは、単に人生の苦労を負えということじゃない。病気や試練に耐えろということじゃない。自分の罪と戦うこと。自己中心に流される自分と戦うことなんだ。自分を捨てる苦悩と戦うことなんだ。それが、「神の子」とされた者の姿なんだな。


●14(木)
取りなさい。これはわたしの体である。   (マコ14・22)
これは最後の晩餐でイエス様がおっしゃった言葉。パンを裂いて、弟子たちを見詰めならが、「十字架で裂かれる私の体なんだよ」という意味を込めながら、手渡されたのだ。
「取りなさい。これはわたしの体である」と、私もそのイエス様の食卓に連座する時がある。それが、礼拝の聖餐式。二千年前の主の晩餐の出来事が、そのとき再現されている。主が臨在される最も聖なる時間だ!


●15(金)
むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。     (コロ2・8)
「むなしいだまし事」って何? と聖書を開いたら、「人間の言い伝えにすぎない哲学」とあった。大学で哲学専攻だったボクは、カチンと来た。
「哲学」って、本来「愛智」の意味。それは良いものだよ、と思いつつ気付いた。人は、普遍の智に熱中しているようで、結局己の考えに捕らわれる。それは「キリストに従うものではない」と続いていた御言葉を見て納得。カチンと来るなんて百年早かった。


●16(土)
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。    (2コリ12・9)
パウロは「取り除いて下さい」と願い続けたトゲ(病かも?)があった。その弱さが無ければ、もっと神の御用が出来ると思っていた。その考えは、人間にとっては至極合理的だった。
でも彼は分かったのだ。弱い所は、自分はお手上げの場所。だからこそ神が自由に働ける場所だ、と。自分が出しゃばらないから。「私をそのままにお用い下さい」と祈りつつ進む自分になれるから。信仰の秘儀だ。


●17(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主   日 辻川篤 牧師



●18(月・祝日)
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。  (ルカ17・15)
病で苦しんでいた十人が、主に「癒して」と懇願する。その願いのままに十人が癒されたのに、主のもとに駆け寄って感謝したのは、一人だった。
なんて自分勝手だろうと腹が立つ。して欲しい事がある時だけ必死にすがって、与えられたのに感謝を忘れる。自分中心な人ばかりだと腹を立てて、アッと思った。この九人が、ボクの姿だと気付いたから。主のもとに戻ったこの一人に、ボクもなりたい。


●19(火)
舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。   (ヤコ3・8)
誰もが「舌」を持っている。しかしその舌によって、誰もが罪を犯す。
ヤコブは言う「どんな小さな火でも大きな森を燃やしてしまう。舌は火です。・・・全身を汚し、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・あらゆる種類の獣や鳥は人間によって制御されていますが、舌を制御できる人は一人もいません。・・・同じ口から賛美と呪いが出て来る」。ああ、もう十分だ。恐ろしさで震えて来る。


●20(水)
愛は隣人に悪を行いません。  (ロマ13・10)
どんな掟も、隣人を自分のように愛せという言葉に要約される、と告げられていて、だから愛せと言われているのだ。ここに愛の姿がある、と。
愛するって「人に何かをしてあげること」と思って来た。でも「あれ、ちょっと違うぞ」と気付く。愛するとは、悪を行わないこと。でもボクの中には、口にも態度にも出る悪がある。つまり、愛が少ないどころか、愛の無い者なんだ。悔い改めこそ出発点かも。


●21(木)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。    (マコ14・6)
貧しい女が、全財産とも言える高価な香油をイエス様に注ぎ尽くした。それを見た人々が「香油の代金で、施しという律法の義務を果たせば良いのに。そんな常識さえ無いなんて」と憤慨したのだ。その時イエス様が言われたのが、この言葉だった。
いつも常識で人を裁く人間。まるで私の姿。いつも愛で人を包むイエス様。主よ、私の歩みもどうかいつも修正して下さい。あなたのお心の中へ。


●22(金)
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。  (マタ5・22)
この「兄弟」とはもちろん血縁の兄弟じゃない。全ての隣人のことだ。誰に対しても一言「ばか」と言うなら、そうやって口で傷つけたなら、地獄行きだと、イエス様がおっしゃったのだ。腹を立てるだけで裁かれるとも。
今ここで震え上がった人は、裁きから逃れる道に立てるのかも。
続けて主は「仲直りしなさい」と厳命される。隣人関係がつまずくことを、御子が一番憂いておられる!


●23(土)
そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。   (1コリ9・16)
何をせずにはいられないのかな? と思って聖書を開いたら、やっぱり「福音を告げ知らせる」ことだった。この箇所には、「福音を告げ知らせる」という一句が、何度も繰り返されている。ただその一点で話を展開させたいというように。それ以外には関心が無いというように。
このパウロの思いを、全てのキリスト者が持ったら、世界が変わるかも。神の国が来るのが、早まるかもね。


●24(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主   日 藤森誠 伝道師



●25(月)
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。  (ヘブ13・5)
神様に喜ばれる生活はどのようなものか・・・、その文脈の中でこの言葉が言われる。
つまり、この御言葉を生きたら、ボクも神様に喜ばれる者となっているということだ。ああ、御言葉が示してくれる「生き方の羅針盤」は、なんて具体的なんだろう。今日から、お金についても「吾唯足知」と生きていきたい。そこに、神様が喜んでおられる御顔も、あるのだから。


●26(火)
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。 (2テモ1・14)
「ゆだねられている良いもの」というのは、恵みや信仰や愛のこと。それらをしっかり守るんだよ、と言われている。「頑張って信仰生活をしなきゃ」と思って、アレッと気付いた。
「わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と言われていたからだ。自分で頑張ろうとして走り出すんじゃない。自分の思いに頼るのではなく、聖霊に操縦してもらえということだ。まず祈らなきゃ、ね。


●27(水)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。    (ヨハ3・16)
これは、教会学校の生徒たちも暗唱するほど、聖書の中心メッセージだ。そして、世界中の人々に愛された御言葉でもある。
私も信仰生活の年月を重ねて、いよいよイエス様の言葉の深さが分かって来たように思う。私が愛されたことと、御子が死なれたこととは、直結しているんだ、と。神の愛は、目に見えるご自分の受難の出来事となったんだ、と。ここに愛の秘儀がある。


●28(木)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。    (フィリ4・4)
これは、多くのキリスト者たちの愛唱聖句だろう。何度聞いても、心がほっこり温かくなる御言葉だ。
そうだ! この御言葉通りのボクになろう。そのために、繰り返しこれを口の中で唱えよう。「主においてだ。主において常に喜びなさい。さあ、今日もそう生きよう」とね。そうやって御言葉が、心の奥に染み込むまで。いつも眉間にしわを寄せて生きているボクが、変わるまで。


●29(金)
わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。    (コロ4・4)
しかるべく語り伝えて、人々に明らかになるようにしたいと願っている「この計画」って何だろう。
聖書を開いたら、「キリストの秘められた計画」ということだった。また疑問がわく、その「秘められた」って何なの、と。きっとそれは、行いがなくても、キリストを信じるなら救われるということだ。これが、行い主義のユダヤ人にとって、「あり得ない」と思ったことだから。救いは、秘儀だ。


●30(土)
わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。    (エフェ4・7)
私たちには、もれなく賜物が与えられている。「私には何もないよ」という人は、一人もいないんだ。だから、何が賜物かを探すことが大事だし、楽しみなのかも知れない。
そして、私への賜物を決めるのは、私自身じゃなくて「キリスト」だ。それを勘違いして、「アレが欲しい、これが賜物だったら」と考えるから、探し出せないのかもね。さて、ボクにはどんな賜物が預けられているのかな。


●31(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主   日 西田恵一郎牧師




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2022年06月30日

『日々の聖句』2022年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年6月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。 (ヤコ4・7)
サタンの誘惑はイヤだから、そういうものは現実には無いって無視しようとか、考えることからも逃げようと思っていたけど、それじゃダメなんだ。誘惑には、しっかり「反抗」しなきゃならないんだ。
でも話しはそれで終わらない。何よりも「神に服従」することが先決なんだ。「ボクは、神の陣営に立つ者」と旗幟鮮明にすることが第一。主に従うことこそ、私を守る道なり。


●2(木)
我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。 (ルカ1・69)
洗礼者ヨハネの父ザカリアが預言した。それは、父祖から連綿と続いていた希望。だから旧約の王の名・ダビデが出ているんだ。なんて長い間待っていたんだろう。遥か昔から「救い主到来」という約束を待っていたのだ。
つまり、神様からの約束ならば、一千年かかろうとも必ず成就する。だったら、これから私の祈りは「アレコレが欲しい」じゃなく、「私への約束は何ですか?」となるよね。

●3(金)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる。 (ロマ10・12)
「すべての人に」というのは、「ユダヤ人とギリシア人との区別はなく」ということ。それは、「こんな人には神様が関わるはずがない」と思われていた異邦人にもということ。つまり私たちが、「あの人には神様のことを話しても、聞いてくれないさ」と思い込んでいる隣人のことなんだ。
本気で、福音を伝えなきゃ。神が恵みを授与される準備は整っているのだから。本気で家族に伝えなきゃ。


●4(土)
“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟る。(コロ1・9)
聖霊によって与えられる知恵によって、理解できるようになる事がある。それは、御言葉の理解なのかも。その知恵によって読み解くのは、「神の御心だ」と告げられているから。つまり聖書を読む前にしなきゃならないのは、「御霊を注いで下さい」と祈ること。逆に、祈らないでは御言葉は聞き取れない。聖書と共にある生活は、祈りと共にある生活、聖霊と共にある生活、この三つ巴なんだ。


●5(日)
ペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝

早天祈祷会   奨 励  山アうたう姉

主日礼拝   説 教  藤森誠 伝道師

●6(月)
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。  (ガラ2・19)
キリストと共に生きるというのは、キリストと共に十字架に架けられるということ。十字架に架けられるとは、父なる神の御計画を従順に担うこと。それも、死に至るまでだ。
イエス様が「自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われた意味が分かった気がした。「辛いと思う試練も負いなさい」ということじゃない。自分への神の御計画を、従順に負うということ。イエス様のように、だ。


●7(火)
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどです。     (1ヨハ3・1)
子でもないし、相応しくもないのに、私を抱き締めて「我が子にならないか? 我が家に来るかい?」と言って下さった。その恵みの大きさも分からずにモジモジしているだけの私を、養子に迎えて下さった。それが、天地を創造された神様なんだ。
神が、ボクの御父となって下さった。だから大胆に呼び掛けることが出来るんだ。今晩そっと呼んでみよう、晩祷の中で、「天のお父さん」と。


●8(水)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。(ヘブ12・14)
これは単なる平和主義への勧めじゃない。この直後に、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできない」と言われているからだ。生きるべき姿は、生活の中で具体的な姿になるのだ。
これは精神論じゃなくて、現実生活での話だ。だから「すべての人との平和」ということも何となく聞いていちゃダメ。「気の合う人とだけ」に流されるから。ボクの心は弱いから。


●9(木)
わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。     (ヤコ3・9)
ああこれは正に私のこと。図星だ。主を賛美するこの舌が、隣人を傷つけてしまう。目だって、十字架を仰ぎながら、その私の視線が人を傷つけてしまう。そんな姿を気付かせてくれるのは、ただ御言葉によってです。また、聖霊のお陰なのですね。
今朝、改めて気付かせてもらえたことがある。「悔い改め」という時、私こそ「生涯が悔い改め」ということ。舌で失敗だらけの人生だから。


●10(金)
主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。  (ヤコ4・10)
今まで、上へ上へ昇ろうと必死だった。そのためには人と競って、自分をのし上がらせないといけないと思っていた。自分を高める為には当然だと。そこで人を傷つけて来たのに・・・。
今日、意外な真理を聞く。主の前に、低く低く降れと。そうしたら、真の高みに連れて行ってもらえるからと。人を傷つけずに、最上に連れて行ってもらえるんだ。神が導く高みってどんな所かなぁ。見てみたいな。


●11(土)
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」  (使16・30)
パウロとシラスが投獄された日の夜。大地震が起こって牢は崩れ、囚人は皆脱走。その責任で自害しようとした看守。しかし獄中に平然と残っていたパウロに接して、驚きつつ言った言葉がこれだ。
この世の常識で考えたら、行き詰まりとしか思えない時がある。しかしそこに別の道がある。ただ「どうすべきか」を知ればよい。キリスト者はそれを知っている。だから伝えなきゃ。


●12(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●13(月)
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 (使1・14)
復活後のイエス様が、天に帰られた(昇天)。迫害者だらけの地上に取り残されて不安になる弟子たち。でも彼らは、祈っていたのだ。それは、召天前にイエス様が「エルサレムを離れず・・・待っていなさい」と言われた言葉を握って、守っていたからだ。
そこに平安と、留まる勇気も出て来た。御言葉を握って従う場所が、主との対話(それが祈りだ)の場となるからだ。祈りの場こそ、安寧の場。


●14(火)
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。  (1ヨハ3・3)
ヨハネが「御父に愛されている神の子たちだよ」と語り掛ける。そして、「だから御子イエスのようになるんだ。なれるから」と勧めるのだ。
これは、掟や律法のような言葉じゃない。胸に「主の家の者」という紋が縫い付けられている上着を着ているから、誇りをもって、相応しく生きるようにとの勧めだ。
特別な上着を着て胸を張ろう。清く生きよう、まさに我も神の子なり。


●15(水)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。  (マタ11・28)
これは、多くの人の心を慰めて来た主の言葉。ボクも何度癒されて来たことか。言葉が主の臨在そのもの。
真に御言葉を聞く時に、傍にイエス様が居て、語り掛けて下さるように感じる。「わたしのもとに」と聞く時、もうそこに主が立って、腕を広げていて下さるように思える。そうだ! たくさん御言葉を心に蓄えたら、いつも主が一緒だと感じられる。今日はなんだか良いことに気付けたゾ。


●16(木)
キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられている。 (ロマ5・2)
神様と共に生きられる恵みを戴けているのは、「キリストのお陰で」だよと告げられる。
人と人とだって、「お陰さまで」と言う相手に対しては、感謝とお礼をするものだ。それなのにイエス様にちゃんと感謝とお礼をしているだろうか。恵みを戴きながら「当たり前顔」している自分がいる。朝から夜まで、あらゆる恵みを数えては「キリストのお陰」と、噛みしめる一日にしたい。


●17(金)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 (マコ4・8)
イエス様がなさった、「御言葉を聞いて受け入れた人の実りは、大きい」というたとえ話だ。人生の真の喜びが、百倍もの実りになるんだ。
人は皆、それを求めてアクセクしているのかも。聖書が真の羅針盤なのに。それも分かり易い言葉による指南書。手にした者勝ちなのに。
しかしキリスト者でも、手にしているのに受け入れないなら、実りは一向に手に出来ないんだよなぁ。


●18(土)
わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。   (ヨハ6・35)
五つのパンで五千人が満腹した群衆が、イエス様に問うた。父祖たちが天からマナを与えられたように、私たちにも命をつなぐパンを下さいと。そのとき主が言われたのがこの言葉だ。「もうここにあるじゃないか、私が天から与えられたもの。私によってあなた方は命を得られるのだ」と。でも誰も理解できない。ボクはどうか? 主の福音を、命の言葉として貪り食おうとしているだろうか。


●19(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師


●20(月)
なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。     (1コリ6・7)
えっ、理不尽と思えることに甘んじろと言うの? そんな非常識なことを、なぜ言うのだろう。
パウロは、教会に争い事があること自体を嘆いていた。それも教会内の事を、この世の裁判に持ち込むことを批判していた。そうやって教会が苦しみの場となることを悲しんでいるのだ。そうならないために「むしろ」と言われていたのだ。「むしろ」と生きる人こそ、義の冠を得る人かも。

●21(火)
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。 (マタ5・37)
人々は、軽々に「神にかけて誓う」と口にしていた。でもイエス様は「神を自分の正当性のために引き合いに出すな」とおっしゃる。むしろ「神様が『せよ』と言われれば『確かに然り。行います』と言い、神様が『それは否、ダメだ』と言われれば『否です。しません』と生きよ」と言われた。
ボクも、主従逆転することがある。「主よ、あなたの然りが私の然り、否がボクの否」と今日を生きてみたい。


●22(水)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。(1コリ10・24)
すぐに、イエス様が言われた「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という御言葉を思い出した。パウロも、そこを生き、そしてそれを内部分裂していたコリントの教会の信徒たちにも求めたのだ。
聖書で同じことが言われ続けている。それは一向に身につかないということかも。それはボク自身においてもかも。今朝み言葉は、いい加減本気になれと、迫っているように聞こえる。


●23(木)
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。  (1ヨハ4・21)
「もちろん神を愛すべきだ、神を畏れ敬うべきだ」ということは、分かっていた。そうありたいと生きて来た。でも、今日改めて気付くのは、それと同じように「兄弟(隣人)をも愛すべきだ」と言われていたんだということ。それは同じ重さなんだ。
隣人愛は、単なる博愛精神の程度の話じゃない。道徳倫理の話じゃない。これは「掟」なのだ。神の命令なのだ。身の引き締まる思いがした。


●24(金)
人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。 (使9・35)
エッ! 隣人を主に立ち帰らせたアイネアって、どんな立派な人だったの? そう思って聖書を開いたら、ペトロが中風の女(アイネア)を癒した出来事が記されていただけだ。つまり、彼女の立派さじゃなかった。
だとしたら、教会でイエス様を知って、慰められて、平安に生き始めた全ての信仰者も、隣人を主に立ち帰らせられることが出来るのかも。そうだ、きっとそうだ。私達の出番だ。


●25(土)
人々はイエスをあざ笑った。    (マコ5・40)
会堂長ヤイロの娘が亡くなった。大声で人々が泣いている所に、イエス様が生き返らせようとして「死んだのではない。眠っているだけだ」とおっしゃった時、人々はあざ笑ったのだ。
「イエス様のお気持ちも、お言葉も信じられないなんてなんて、愚かな人々」と思って、ハッとした。ボクだって、御言葉を「現実には無理」って思うことはないか。それは心の中であざ笑っていることと同じなのに。


●26(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●27(月)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。  (ヘブ4・15)
「大祭司」は、神と人との間に立つ仲介者。神の御心を人に伝え、人々の代わりに神への罪の償いをするのだ。この大祭司が、イエス様だ。
それも大祭司イエス様は、厳しい仲介者じゃない。キリスト者として正しく生きたいのに過ちと罪を犯してしまう。そんな弱くて貧しいボクに寄り添って、心を寄せて下さる仲介者なんだ。このお方のお陰で、ボクも神の前に立てる。神の子としてね。


●28(火)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。   (ガラ1・12)
パウロは、伝えている福音は人から教わって語っているものではないと告げる。「キリストの啓示によって知らされたのです」と。つまり直接、主から与えられたものだということ。つまり彼は、「証言者」だということだ。
クリスチャンは皆、彼と同じなのだ。「○○さんを通して」とかはあるけれど、彼らを「管」として用いたのは主御自身。そして私達も証言者となる。隣にいる家族や友人のために。


●29(水)
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ロマ6・14)
洗礼の恵みがどれほど大きいかを高らかに宣言された後に、もう罪に支配されていないのだからキリストに結ばれた者として「恵みの下に」生きよ、と告げられているのだ。
改めて、洗礼を受けた者の生きざまって何だろうかと思う。そうだ、問うことを止めまい。現実の生活の中で「恵みの下」に生きる姿を、問い続けねば。ボクが、名前だけの枯れたキリスト者とならないために。


●30(木)
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。 (ヨハ3・30)
洗礼者ヨハネのもとに群衆が集まって来ていた。その彼が、「あの方(イエス様)」のことを指して言った言葉がこれだ。主が栄えることを願うのは分かる。でも同時に「自分は衰えねばならない」というのは何故だろう。
御足の跡に従うというのは、自分が退くこと、それは衰えるということかも。もしかしたら、人は頑張って前進するよりも、上手に退き衰えることの方が難しいかも。然り、だね。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:06| 『日々の聖句』