2019年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2019年05月31日

『日々の聖句』2019年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年5月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水・祝日)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。 (創24・48)

 アブラハムに、息子イサクの嫁を探すようにと命じられた僕が、旅に出た。誰がふさわしいか、さらに相手が承諾するのか否かも分からない、全てが見当もつかない旅。しかし僕が祈りつつ進んだ時、最もふさわしいリベカの家族に出会えたのだ。
 見当もつかない旅をしているのは、私の人生も同じかもしれない。その先で、神が用意していて下さる恵を手にするために。その恵は、旅路を導かれるのは、真に共にいて下さる神だという信仰なのかも。


●2(木・国民の休日)
助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。     (出2・23)

 エジプトの地で、奴隷の労役に苦しみの叫びをあげたイスラエルの民。その声が神に届いた時、出エジプトの奇跡の出来事が始まる。モーセの召命は、神様が民の叫びを聞かれた直後なのだ。
 壮大な救いの御業が起こる出発点は、人々が置かれた不条理を鑑みられたからじゃない。人々の叫び声に神様が心痛まれたということ、憐れんでくださったということ。それは、私の叫ぶ祈りにも、神様は立ち上がってくださるという福音。届かない叫び声は無いのだ。

●3(金・憲法記念日)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。     (エレ26・2)

 神殿に立つエレミヤが、民全体に神の言葉を伝える。その語り出しが、これだ。
 「神の言葉を削らずにすべて語れ! ひと言も減らすな」と言われなければならなかった人々。これは、私にも突き刺さる言葉だ。御言葉から自分の都合の悪い部分を省いて、勝手に骨に抜きして、挙句の果てに一言も聞かない心になっているから。そこが、幸いから迷い出す道なのに。御言葉が消えた道なのに。ああ、御言葉をそのまま聞く耳でいたい。


●4(土・みどりの日)
主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 (ヨシュ2・11)

 ヨシュアがエリコの町に斥候を送り出す。その彼らをかくまった女ラハブ。異邦人の彼女なのに、なぜそのようにしたのか。それは、神がなさった出エジプトの出来事を知って、そこで神を畏れたからだ。御業を聞いただけで、神が生きて自分にも働かれることを信じたからだ。
 私も神の御業を知り、じかに御言葉さえ聞いている。でもこの女のように神を仰いだ生活をしているだろうか。主よ、私にも今朝、新しく信仰を与えてください。


●5(日・第1主日・こどもの日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月・振替休日)
恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。 (出14・13)

 意気揚々とエジプトを脱出した民の背後に、エジプト軍が迫って来た。人々が泣き叫ぶ中、一人モーセがこれを告げる。 前もって「必ず救いを見る」と聞いた神の約束を信じない人々。その狼狽の中で、ただ一人、神の言葉を信じて立ったのだ。
私も、狼狽する現実が真実のように見えても、〈残った一人の信じる者〉の側でいたいな。人の判断じゃなく、神の言葉にすがっている一人に、私もなりたい。


●7(火)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。(ゼカ8・17)

 イスラエルは、北も南も滅び去った。残された人々に、預言者ゼカリヤが語るのだ「悪の力離れて、主に立ち帰れ」と。そして成すべき具体的なことの一つに、今日の言葉が告げられたのだ。
 まだ心の中で相手への悪口が生まれているだけの時、その私に神は「わたしは憎むぞ」を言っておられる。それを聞いて、ドキッとする。すぐに飛びのいて悪から逃れねば。そうだ、今すぐにだ!


●8(水)
アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」 (創21・22)

 アブラハムが寄留したゲラルの地で、王たちが言った言葉だ。アブラハムが神に守られている現実を見て、降参して激白したのだ。異邦人であるのに。
 隣人が私の生活を見ている。そこで何が見えているのかな。「神が居るとは思えない」としか見えない生活をしていたら、神様に申し訳ない。私を通して神の現臨こそ見えて欲しいのに。祈りつつ歩まねば。


●9(木)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。   (士5・11)

 イスラエルに王が立てられる前、民を導く士師がいた。その一人デボラが、圧倒的な力を誇る敵を破った時に歌ったのがこれだ。人には勝算の見えない戦いだったのに、神が「行け」と命じて導かれた時、人間の計算を超えた出来事が起こる。そして、そこにこの歌が生まれた。
 私達も困難を乗り越えさせて頂いて今がある。でもそれを語り告げているだろうか。その日々を思い起こして、数えて、賛美したら、そこに希望が生まれるのに。


●10(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家 (申6・11)

 モーセは、神が与えて下さった一つひとつのものを数え上げてゆく。その中の一つがこれである。そしてその最後に言うのだ「あなたをエジプトの国、奴隷の家かな導き出された主を決して忘れるな」と。
 達成感に包まれる時、誘惑する者の声が囁く「君もなかなかやるじゃないか。一人で頑張ったね」と。自分を褒める言葉も心に沸いて来る。しかしその時こそ、気を付けて己に言わねばならない「否。全ては主のお陰、私は感謝に生きる」と。そこが、脱線の分岐点なのだから。


●11(土)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。    (イザ53・4)

 預言者イザヤによる『苦難の僕』の一節。この姿に私たちは、十字架へと向かう御子のお姿を見る。
 私のデスクにある十字架には主イエスが架けられている。やつれ切った顔、自重で筋が切れて伸び切った両腕、見る影もない姿。「この処刑は、罪人の私が受けねばならないはずだったのに」と思ったら、己の罪の重さが分かる。身代わりになれれた方の痛みが分かる。それほどまでに愛された愛の深さが見えて来るよう思えた。

●12(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。 (ヨブ7・17)
   

 ヨブは苦難の中で、友人から「自業自得だ」と追い詰められる。その中で彼は神に「私の罪など見張らないで、放って置いてくださればいいのに」と訴えた。
 苦難の時、なお神様から離れず、神に問い、神に嘆き、百%神と格闘している。「神様にすがる」って、こういうことなのかもしれない。願い事をする時じゃなく、苦難の時に、信仰はあらわになる。


●14(火)
あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 (レビ25・2)

 主の命令がモーセに降る。6年の間は畑に種を蒔いて収穫して良いが、7年目は土地を休ませねばならないと。安息命令は人間だけではなく、大地にも及ぶ。
 ああ、いわんや人間をや! 休むことは、私のことを私以上に心配していて下さる神様の命令、御父の願いなんだ。「休みが必要なんだ。息継ぎなしに走り続けるな」と。だから、休む場所は、御前でなきゃ。礼拝以外の場所はないのですね。


●15(水)
主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。  (ヨシュ24・16)

 老人ヨシュアが、民に告別の言葉を語る「主を固く信頼せよ」と。それに応答して人々が答えたのが、これだ。しかしこの時、人々は既に諸々の偶像を拝んでいた。
 「不信仰。背信」って何だろう・・・と改めて思う。それは、単に主を信じない事じゃないのかも。むしろ、自分がしたい事を何でもすること、自分の常識を神としていること、この世に倣うことを優先していることかも。片手間に主も拝むことだ。私の生活にも忍び込む罪。


●16(木)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。    (王上11・10)

 二度も現れたというのは、神様が心配で「絶対、絶対だめだからね」と、ソロモンの傍を離れられなかったということ。そこまで手厚く思いを掛けていただいた彼なのに、それでも背信へと走るソロモン。そこに、背信への誘惑の恐ろしさを見る。
 「私なら、そこまで思われたら絶対従う」と思って、すぐ「ソロモンでさえ駄目だったのに、私なら速攻背信だ」と思った。奢らないことが、私を堕罪から守る。


●17(金)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。 (イザ26・19)

 この「あなた」とは、主なる神のこと。人々が背信のゆえに平和を失って苦難に在る時、イザヤが回復の希望告げた。暗闇の中に「光の露」が降りるよと語った。
 でもなぜ喜びが見えない現実に、彼は光の露を見ているのだろう。民はまだ償いもしていないし、これから裁きの日が来るのに、既に赦された民のように接している・・・。あ、彼は民を「救われる者達よ」と見ているのかも。「相応しくない者が、そのままで赦されること」が「救い」だから。


●18(土)
主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創18・15)

 八十九歳のサラが、主から「来年、男の子を産む」と知らされ、「そんなはずが無い」と神の言葉を嘲笑した。途端に主から「なぜ笑ったのか。主に不可能なことなどない」と叱責される。それでも「笑ってません」と嘘をついて弁明するサラに、主が言われたのがこの言葉だ。
 サラは自分の常識を神の言葉の上に置き、叱責されても弁解する。なぜ「はい」とも「御免なさい」とも言えなかったのか。
そこに自分の姿が重なる。だからこそ今日、信仰を刷新する転換点にしたい。


●19(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師



●20(月)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 (エレ20・9)

 主の言葉を伝えたエレミヤに、人々からの嘲笑が浴びせられた。だから二度と伝えるものかと思った彼が、その直後にこの言葉を告白したのだ。
 私も日毎に御言葉を受けている。でもそれを隣人や家族に伝えているだろうか。私の中の御言葉も、伝えられることを願って燃えているのに。口よ、語れ!


●21(火)
(あなたたちは)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。 (ヨシュ24・15)

モーセの後継者として民を率いたヨシュア。彼は民にコンコンと神様がどんなに守って下さったかを語る。奴隷の家エジプトからの脱出と、その後の荒野の旅路の守りも。そして今、約束の地に辿り着いた時に人々に問うのだ「主に仕えるか、または土着の神に仕えるのか。どちらか一つを選べ」と。
どちらか一つなんだ。どちらも、では駄目なんだ。片足信者じゃ、必ず転ぶから。それもその怪我は重傷になるから。


●22(水)
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。      (イザ29・19)

 背信のゆえに滅んだ後、回復の希望が告げられた。それは人々が悔い改めたゆえの恵みじゃなく、主の憐れみだった。
 喜びに心躍る時がある。でもその時「聖なる方のゆえに、主のゆえに」と、どれだけ心を神に向けているだろうか。主を忘れて万歳と心躍らせるだけかも。「主のゆえに」というのは、自然に心に浮かぶ思いじゃない。全てのことにおいて意識的に心に刻まねば。この一点で、一日が変わる。


●23(木)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。 (ナホ1・7)

 専制的な権力によって異国の地ニネベに住む人々は苦しんでいた。その街に向けてナホムが告げたのは、弱く虐げられた人々に向けられた神の強い眼差しだ。守り抜いて下さるという圧倒的な宣言だ。
 神の民以外にまで御手が覆っていることを示す。神の愛は、パウロの異邦人伝道以前から及んでいたんだ。あ、当然かも。だって全ての命は御手の業なんだから、ご自身のものを大事にされるはず。そこに私の友人の命も入っていないはずはない。


●24(金)
お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 (サム上17・45)

 少年ダビデがペリシテ軍の大男ゴリアトの挑戦を受けた。イスラエル全軍は怯えたのに、少年の勇気はどこから来たのか。
「主の名によって」とは「主が戦う」ということ、ここなのだ。私も大きな困難=ゴリアトに襲いかかられる。その時、ダビデのように主を見るのか否か。そこで結果まで違って来るんだ。勝利か敗走か、と。


●25(土)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。 (申6・15)

 「主は熱情の神」って、どういうことかなと思って聖書を開いたら、主を捨てて異教の神々に走ったなら、主の怒りは燃え上がるということだった。
 激しく愛することって、激しく求めるということ。「恵みの全てをあなたにあげたい」という真剣さ。逆に「あなたを想う私を裏切らないで」ということ。主は私を祝福によって独占したいんだ。なんて素晴らしい独占なんだ! その傍から、どうして離れて良いだろうか。留まって生きたい。


●26(日・第4主日)

主日礼拝説教

         ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授、聖学院大学総合研究所客員教授)



●27(月)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。        (ハバ2・3)

 南王国滅亡の時代に立った預言者ハバクク。神の義しい裁きのために押し寄せる敵軍の迫りを見て「裁きのためとはいえ、敵が容赦なく剣を抜いても良いのでしょうか」と嘆く。その彼に、主の言葉が届いたのだ。「もう一つの幻がある、神に従う者は生きるから」と。希望の預言だった。
 罪と過ちに、自らを見て「悔いと嘆き」があり、同時に御言葉を見て「救いと希望」を見る。その全てに神が関わっていて下さるのですね。嗚呼それが信仰生活!


●28(火)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 (創1・11)

 天地創造の場面。混沌の中に、光と闇が分けられ、天と地が分けられ、地には植物が満ちて行く。世界が生まれた!
 全てのものが神との関りの中で命を得ていく。その壮大な関りよ! その壮大な関りの中に、私の小さな命も入られているんだ。私の中にも、神の天地創造がある。それは、私も神に結ばれて、世界の全ての命と繋がっているということだ。


●29(水)
「わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」 (出19・5)

 エジプト脱出の後、モーセと人々はシナイ山の麓に着いた。そこで神がモーセに語りかけたのだ。この直後、モーセは山に登り「契約」の中身である十戒を賜る。
 神様はいつも「こっちの道を行け、迷い道に入るな、こっちの道が祝福に満ちる所へ行く道だから」と示される。そういう道標が「契約」なんだ。それもカーナビのように、迷っても、道を外れても、立ち帰る道を示してくれる、「こっちだよ」と。


●30(木・昇天日)
生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主  (ルツ2・10)

 異郷の地で夫と死別し、二人の息子たちも死に、嫁のルツだけを連れて失意のうちに帰京したナオミ。その嫁ルツが、ナオミの親戚で地主のボアズから厚意を得、食べ物も満ち足りて行く。その不思議な成り行きを見ていたナオミが、背後に主の御業を感得して言った言葉がこれだ。
 全ての出来事の背後に、主の生きた御手がある。私の生活にも、主の慈しみが惜しみなく注がれているんだ。その目があれば、苦難の日も希望の光が見える。


●31(金)
「わたしは主である。」 (出6・2)

 モーセが主の命令通り、ファラオに「民を去らせよ」と言うと、逆に民の労役は重くなった。民がモーセに不満を言い、モーセが主に訴えた時、主から「必ず救い出すから」との答えが伝えられる。その冒頭に、この宣言があったのだ。
 「わたしは主である。」これは何にも増して確実な、約束成就への基。その御声は、今朝私にも届いているのだ「わたしはあなたの主だ」と。その一言を胸に、波のように襲い来る心配事があっても、恐れず今日の一日へと踏み出そう。いざ。

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2019年05月22日

『日々の聖句』2019年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年6月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。      (士6・15)

 人々はミディアン人によって略奪され、嘆きは天に届いた。そのとき主がギデオンに「あなたが民を救い出せ」と告げた。それに彼が「私は一番貧弱者で、一番若輩なのに、なぜ私ですか」と答えたのだ。
 なぜ神様はいつも、相応しく思えない者を選ばれるのだろうと思いあぐねて、ふと思った。彼の業のどこを見ても。彼が自分で成し遂げたとは見えないからかも。能力に依らず、神の霊によって成すためだ。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。     (箴1・15)

 知恵の書の箴言が「わが子よ、父の諭しに聞き従え」と語る。その中の一つが、ならず者の道に踏み込むなということだ。
 「そんなこと分かっているよ」と思っているつもりで、いつの間にかその道に入り込んでいる気がする。大体ならず者って何? と聖書を見たら、罪もない隣人を苦しめて奪う者で、舌と行いで傷つける者だった。あれっ、それってやっぱりボクのことだと気付いて慌てる。慌てたら、まだ救いがあるのかも。飛び退いて立ち帰れるから。


●4(火)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  (イザ9・1)

 南北イスラエルの滅亡が迫る。その中にあってイザヤは希望を告げた。それは、かつてのダビデ王の時のような恵みの日々の到来。平和の君が来るよ、と語られていた。それが大いなる光だぞ、と。
 きっと人々は、その光をリアルに思い浮かべられただろう。あのダビデ王の時が来ると思い浮かべられたから。それと同じように、いやそれ以上に私もリアルに平和の君を思い浮かべられる。それはイエス様を知っているから。私の大いなる光だから。


●5(水)
年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。 (創21・2)

九〇歳のサラがついに息子を産んだ。「とても無理」と思えて、期待することさえ出来なかったのに。しかしその希望の領域に、神はサラを連れ出されたのだ。
「それは、神が約束されていた時期であった」と加えられた一言にドキッとした。神の計画には、成就する時があるのだ。その時まで、たとえ人間が諦めようとも、そこを貫いて突き進む。ああ私に、失望の中で信じる信仰をください。


●6(木)
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出20・7)

 「十戒」の中の第三戒である。
 当時の人々は、気安く「神かけて誓う」とか「主の名によって嘘偽りなどない」とか「ああ神様、なんてこったい」と口癖のように言っていたらしい。貴い御名が、形ばかりで口に上っていたらしい。
 改めて「みだりに唱えるな」とは何か、と思う。「神に真向かえ」ということかも。「主よ」と御名を呼ぶところに、既に神様が臨在されているのだから。私に耳を傾けて、「何だい?」と御心も向けてくださっているのだから。その御前に立つのだから。


●7(金)
人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。      (箴5・21)

 安全な人生の道がある。その道では、人はもう迷って悩み悲しむことはない。幸いへの道がある。それは、必ず最高の人生となる道だ。なぜって、その道は主なる神が「すべて計っておられる」道だから。
 あとは、その道を踏み行くか否かだけ。それなのに、その選択を私は何度間違って来たことか。自分で「こっちの道がよさそう」と踏み出して、迷子になって来た。
主の〈御言葉の道〉を踏み続けたい。その道に留まろう。そうさ、主の道に。


●8(土)
(民は)主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみをご覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。    (出4・31)

 エジプトで苦しむ民に遣わされるモーセ。初めは、誰も自分の言葉など信じないと悩んでいたが・・・。神に預かった言葉を語った時、民は神の言葉だと信じた。
 私も家族や友人の中に遣わされている。でもその場で、「私に何が語れるのか」と怖じる。しかし今朝「御言葉がある。そのまま語れば神の御業が起こる」と気付けた。「それに賭ければ良いんだ」と。

●9(日・第2主日・聖霊降臨日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。」   (士16・28)

 主によって与えられた怪力。その秘密をうかつにも知られてしまって、力を失ったサムソン。敵に捕らえられ笑い者にされていた時、彼は悔いて、すがり直して、そして祈った。ただ主の臨在を祈った。そこに、再び怪力が戻って来るのだ。
 ボクには怪力はないけど、主のおかげで一歩を踏み出せる。それなのに一日に何度、主を忘れることか。サムソンの祈りは、私の朝毎の祈り、夜毎の祈りだ。


●11(火)
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。  (イザ30・21)

 主に背いた南ユダ王国の民。バビロンから敵の声が迫った時も、主が「静かにしていれば救われる」と言われるのに、なお背いてエジプトと同盟して逃れようと画策する始末。とうとう行き詰って震えるしかない民に、この言葉が届いた。
 それは、なお救う、との主の御旨。震えるお前のゆえに導き出さないではいられない、との御心。罪人の背中を支える御手がある。それが、主の御手。破格の恩寵。


●12(水)
イスラエルの人々は、主に問うた。        (士20・27)

 ならず者の民による非道な仕打ちに、制裁を加えんとして立ち上がったイスラエルの軍団。しかし連敗に次ぐ連敗で4万人の兵を失う。途方に暮れて主の前で泣き崩れる人々。退却こそ最善策と思われた時に、彼らは主に決断を委ねた。
 泣く時、おじる時、逃げ出したくなるとき、それでも主に祈る。逃げ出してしまうのではなくて、浮足立ったままでも良いから主に祈る。そこで御心を聴く者こそ、主に従う強者だから。委ねることは、本当の強さなんだな。


●13(木)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。   (士10・10)
   

 人々は主なる神を礼拝していながら、もう片足をバアルの神、アシュトドの神、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕えていた。その姿はまるで片足信者。その姿が、「神を捨てた」と告げられていたのだ。
 ドキッとした。礼拝しつつも、「己」を神とする自己中心は、神を捨てているのだ。キリスト者こそ、警鐘を鳴らされている。

●14(金)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。  (詩133・1)

 この詩人として、ダビデが都に上る時に詠んだ歌として聞くなら、その胸の高鳴りまでもが聞こえて来そうに思える。礼拝に集うということを、何よりも喜ぶ彼がいる。一緒に神の前に出られることが、最大の恵みと数えている彼がいる。
 私も、その喜びが分かる。礼拝堂に、あの人この人、久しぶりに来られた人、困難を乗り越えて集っている人の顔がある時、「なんという喜び」と心が震えて来るから。その場、その時に優るものはない。


●15(土)
イスラエルの人々よ、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。       (イザ27・12)

 都が破滅する預言に、すぐ続けるようにして語りかけられる回復の預言。神の民は再び集められる。そしてエルサレムで礼拝する日が来るのだ、と。
 主は、何度も私たちを顧みてくださる。それも「全員を集める」というような十把一絡げの方法じゃなく、「あなたを、そしてあなたを」というように「ひとりひとり」なのだ。さらに、地に伏すあなたを「拾い」あげるようにして集めて下さるのだ。その一人に、私も入っているのですね!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。   (代下26・16)

 主を畏れ敬う王で、南ユダの王たちの中では稀有なウジヤ王だったのに・・・。主によって繁栄していることを忘れて思い上がった時、神をないがしろにしたのだ。
 ああ、ウジヤよ、お前もかと思う。人が罪の現実に転落するのは、逆境ではなく順境の時にこそ。敬神家であっても神を捨てる。祝福の土台を捨てることなのに。
私にいつも大小の逆境が続くは、かえって神の憐れみなのかも。きっとそうだ。


●18(火)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。   (申31・6)

 120歳になったモーセが、荒野で民を率いる後継者・ヨシュアを任命するとき、人々の前で発した言葉だ。それはヨシュアの人柄や能力を披歴したのではない。彼の前に立つ方を披歴したのだ。共に歩み、見放すことはない方・主なる神を。
 私たちも、ただ主によって導かれる群れ。群れが一つとなって一心に主のほうを見上げれば、困難に遭っても恐れることなく、迷いもない。「ただ主」これのみ。


●19(水)
「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」        (エレ33・3)

 エレミヤが、バビロンによる南ユダ王国滅亡を預言した時、王は怒って彼を投獄した。その獄中の彼へと、主が語り掛けたのだ。国が滅びたのちに約束されるエルサレム復興を。裁きの後に、なお希望も備えられていることを。
 どん底と思える獄中。何もかも失敗してしまったと思える場所に、主の言葉が差し込んで来る。鉄格子も壁も何かはせん。「我を呼べ」と御声は突入して来る。


●20(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」      (出14・16)

 出エジプトの後すぐ、人々の背後にエジプト軍が迫って来た。行く手を葦の海が阻む。その絶体絶命に、もう死ぬしかないと叫ぶ民。しかし主はその絶体絶命で、「進め」とモーセに命じられたのだ。
 人の目に見える困難による絶体絶命は、神の目には全く違って見えているんだ。それは、御業が起こる場所としてご覧になっているということ。そこに届く「成せ」との御言葉に従えば、その先に、恵みの御業を受け取る日が待っているのだ。


●21(金)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が亡びてゆく。その只中で回復の希望を神から戴いて語る預言者ミカ。救い主の到来と、残された人々に神を慕う者がいることを。その人々は、もはや人間に頼らず、神にのみ頼るのだ、と。
現実にどうやって人に頼らず、見えない神に頼るのかと呟いて、ハッとした。それって、御言葉を神の言葉と聞かない人の呟きだと気付いたから。神を頼ることは御言葉に頼ること、それもすぐ傍に神の言葉は届いている。従う私になりたい。


●22(土)
心の中で兄弟を憎んではならない。       (レビ19・17)

 主が民に勧告される、「聖なる者となれ」と。そのために「父母を敬え」「偶像を仰ぐな」「隣人を虐げるな」等と言われ、「兄弟を憎むな」とも命じられたのだ。
 人を憎んではならないとは、仲良く暮らすための勧めという程度の話じゃない。人を憎むことは、聖くなろうとする歩みを離れ、自分を汚す道を進むことなんだ。神の御心の外の荒涼とした世界に踏み込むことなんだ。あ、だからそこは悩みと苦しみが渦巻いていたんだ。憎しみは、捨てるべき心のゴミ。必ず自分で捨てねば。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。      (コへ3・20)

 全ての人にやって来る「死」。コへレトの言葉はその現実に真向かわせる。それも、終末の彼岸にある希望に目を向けさせるのではなく、現実の此岸を見詰めさせる。そして言いたいのだ「今を生きよ」と。
 「どうせ塵になるのだから・・・」と生きることじゃない。厭世家になるのでもなく、単に楽天家になるのでもなく、「しっかり今日という日を生きよ」と語りかけているのだ。よし、瞬間瞬間を大切に生きようぞ! それが貴き御旨だから。


●25(火)
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。  (詩22・11)

 苦難が近づき、助けてくれる人もいないという状況の中で、詩人が声をあげた。それは、「あなたは、私の神様なのだから」という祈りだった。
 決して「神がおられるなら助けて」というような不安な祈りじゃない。むしろ助けが来ることは分かり切っているという祈りだ。生まれる前から神に守られていることを信じる者の声だ。詩人は「助けて下さらないはずが無い」と言っているのだ。危機の時に、不安に揺れない祈りがある。
これは、信仰告白そのものだなぁ。


●26(水)
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。       (ヨエ3・1)

 南ユダ王国の滅亡を預言するヨエル。神への背きが止まらないゆえに、ついに裁かれる日が来るのだ。しかしその預言は悲しみだけで終わらない。回復の日が、その後に来ると告げられるから。親しく主の霊を受け、再び神を礼拝する「主と我」の日々が来るからと。それが希望だよと。
 御霊なる神よ。今日、私にも豊かに注ぎ給え。そのとき私も生き生きと生き出せるから。神の子として歩み出せるから。


●27(木)
主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。   (詩3・5)

 詩人には、予想だにしなかった苦難が襲いかかっている。信頼した者に裏切られて命さえ狙われている。「お前に神の救いなどあるものか」と責める者が迫る。その只中で詩人は、「それでも」と声を上げた。「主よ、あなたはわたしの盾」と。そして今朝のこの信頼の言葉を告げたのだ。
 私も、声を主に向けよう。自分の中で呟くのではなく、また人に向けて吠えるのでもなく、主に向かおう。それも、嘆きの言葉に乗せて、信頼の言葉も一緒に。


●28(金)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 (詩23・1)

 詩編全150編の中で、これは最も多くの信仰者に愛され、暗唱された詩ではないだろうか。
 これは決して安泰の中にある人が書いた詩ではない。敵が周りを囲んでいて、死の陰の谷を歩まされるような時に「わたしには何も欠けることがない」と告白したのだ。「主がわたしの羊飼いでいてくださるからだ」と。そこに、苦難の中にある信仰者の琴線に触れた理由があるのだろう。
私も苦難の淵で、最期の病床で、静かに口ずさんでいたい御言葉だ。


●28(土)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。   (エレ29・13〜14)

 バビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、エレミヤを通して「その地で生きよ」と伝えられる。「これは災いの計画でなく、将来と希望を与えるものだ」と。しかし主が、その地での人々の苦難をも思って加えられたのが今朝の御言葉だ。
 主は単に耐えろと言われるのではない。「私も一緒にいるから」と励まし、「あなたの苦しみに日こそ、私と会えるから」と。苦難こそ神を叫び求める日なのだから。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

        秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:15| 『日々の聖句』

2019年04月30日

『日々の聖句』2019年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年4月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(月)
身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。    (詩3・6)

 ダビデ王が、息子アブサロムの反逆に遭い、命を狙われた。争うことを避けて逃亡した彼が、荒野で詠んだ歌。
 愛息子の牙から逃れた先は、戸惑いと悲しみしかない荒れ野だったはず。悲しみと絶体絶命しかないはず。そのどん底にいるのに、彼は平安に包まれている。恐れてもいない。なぜ? それは、主の御手の中で眠り、また生きているから。あっ、「平安」は、危機が無い「無事」に在るんじゃなく、「主の御手の中」に在るんだ!



●2(火)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 (ヨナ4・11)

 ヨナがニネベに「都は滅びる」と告げた途端、人々は悔い改めた。その展開に不平を言った時、彼は神の御思いを聞いた「私は罪人を惜しまずにはいられない」と。
 ヨナ書は、この神の一言で終わる。つまりこれを伝えたかったということ。神の御思いの奥底にあるのは裁きでなく「あなたを惜しむ」だ。その御心の中に私も居る。


●3(水)
わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(サム上2・30)

 祭司エリの息子たちが、その特権を利用して私腹を肥やしていた時、神の使いが父親のエリに忠告した言葉だ。
 一読した時、神が「私を重んじるのだぞ」と促す言葉だと思ったら、「お前は私を侮っている」と叱責しておられたのだ。それにしても息子の不義なのに、なぜ父親がとがめられるの? 背く息子には、神の怒りも届かないから? 叱責を聞き取れるのは、信仰が消えていないからかも。叱責が届く人には、神の期待があるんだ。


●4(木)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。   (イザ35・3)

 敵が取り囲んでいる。その先には都陥落しか見えないという現実の中で、預言者が告げたのは驚くべき言葉だった。今こそ力をみなぎらせて立ち上がれと促したのだ。そして今朝のみ言葉の後には、それができる根拠も続けて告げられていた「見よ、あなたたちの神を」(4)と。
 続く逆境の中で、人は意気消沈する。未来への計画も立てられない時に、失望もする。でもそのただ中で、この世にない言葉を聞くのだ「強くあれ」と。「神を見上げるならあなたもそうあれるから」と。


●5(金)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。  (申6・5)

 モーセの勧告の中心がこれだ。これを子々孫々に、寝ても覚めても語り伝えねばならない。勿論、自分の額に貼り付け、家の戸口の柱にも刻まねばならない。
 「全身全霊で神を愛せ」、これは神の命令なのだ。単なる暗唱聖句じゃない。「人生そのものが神を愛する者」となり、「生活のどの場面を切っても金太郎飴のように神を愛する者」となっているということ。
私は中途半端にしか聞いて来なかったかも。神の厳命なのに。信仰者なのに・・・


●6(土)
主は、はるかに高い天に住まわれ、シオンに正義と恵みの業を満たされる。 (イザ33・5)

 亡国の憂いの中で救いを求める悲痛な祈りが、急転、信頼の言葉に変わる。
 本気で救いを求める時、本気で神を仰ぐ。そのとき、自分の願望成就の手伝いをさせる召使のようなカミじゃなく、神様が御自分を顕される真の神を受け取ろうとするのかも。その時、本当に自分に関わられる神を知るんだ。そしてその時ようやく分かるんだ。現状はまだ不安の中にあっても、平安が神様から来るということを。このイザヤのように。

●7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
初めに、神は天地を創造された。 (創1・1)

私が生きるこの世界を開始されたのは、唯お一人、神であられる。それは、この世界は全て神の支配で満ちているということ。それはまた同時に、私が支配者ではないということ。聖書はその宣言から書かれ始める。
いつも生活の中に不満や不安が満ちて来るのは、自分の世界の中に神様を見失っているからかも。神様の御業の跡はいっぱいあるのに・・・。そうだ、「神が創られた」、この一点を、今日心に刻んで歩いてみよう。世界が違って見えて来るから。


●9(火)
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創32・27)

 ヤコブがヤボクの渡しで、神と一晩中格闘して、明け方にこの一言を言ったのだ。
 どういう闘いだったのかは知る術もない。でも一つだけ分かることがある。私はこんなにも神にしがみついて、取っ組み合いをするように祈りすがったことはないと。本当は神様と格闘するほどに真向うべきなのに。私こそが「祝福してくださるまで離さない」と、生涯かけて言い続けなければならない者なのに。ご利益を求める時にだけしか真剣になれない自分に気付く。


●10(水)
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。(エレ31・17)

 南王国末期の預言者エレミヤが、滅亡、捕囚の苦難を語る。でもそこに目を据えつつ、その中に回復の将来をも見たのだ「未来が在る。希望が在るよ」と。
 これまで私は、苦しみがないことが恵みだと考えていた。でも、私を立ち帰らせるための御手による苦難なら、そこが神の関わって下さっている場所。ならばその道の先にこそ、主から賜る希望もあるということ。その道の外に自分勝手に逸れることが、恵みの喪失なのだ。


●11(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。 (イザ49・5)

 イザヤが神様から使命を言い渡される。それは、全ての民を神のもとに立ち帰らせるべく遣わされる者となる大役だ。その時イザヤはこの言葉を言った「主の御目にわたしは重んじられているのだ」と。
 自分には荷が重くて無理と思う奉仕を前にした時、逃げ出したくなる。言い訳まで考えて断りたくなる。でも、その時にこそ知るべきことがあるのだ。「その重荷こそ、私が神に重んじられている印」と。そこまで信頼して下さる主に委ねたい。


●12(金)
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創3・21) 

 自分たちが犯した神への背き・堕罪によって、エデンの園を追放されるアダムとエバ。見捨てられて当然のことをしたのに、その二人が園の外で凍えないようにと衣を作られ、そっと着せてあげたのは、神ご自身だった。
 神様はどういう思いで、出ていく二人を見詰めておられたのだろう。悲しまれたのは神。その悲しみを私も神様に味わわせている。でもそんな者にさえ衣を着せられた御心を想って、今日の祈りを始めたい。


●13(土)
「なぜサラは笑ったのか。・・・主に不可能なことがあろうか。」(創18・13〜14)
   

九〇歳にならんとするサラが、主から「子どもが生まれる」と聞いた時、失笑した。その笑いは、「いくら神でも、無理だ」という軽蔑。サラは、現実と、神の全能とを天秤にかけた時、神の約束でさえ信じられなかったのだ。
身震いした。信じないということは、神の言葉を軽蔑することだと気付かされたから。神のみ言葉を聞いても、私も笑っている輩だったかもと、気付かされたから。


●14(日・第2主日・棕櫚の主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。(箴3・11)

 神と人との接し方を、父と子との関係で表す。厳しくもあり、慈しみ深くもある父の姿として。
 いつも祈る中で、懲らしめは辛いから「出来るだけ少なく、出来るだけ短い間で」と願っていた。でも、激しく関わられるのは、誰よりも私を心配して下さっているから。見放されていないから。愛想をつかされていないから。そこに子を愛する父の姿があるんだ。「私を大好きで関わって下さる天父の御心のままに」と祈らなきゃ。


●16(火)
イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。(詩121・4)

 「わたしの助けはどこから来るのか」と歌い始めた詩人が、次第に気付いてゆく。そこに今朝の言葉が告げられたのだ。
 いつも「助けて下さい、神様」と祈って、そこで祈り終えてしまう。だから不安のままだったのかも。今日から「助けて」と祈り終わらずに、あと五分、もう十分だけ祈ってみよう。神様が、今まで自分にとってどういうお方でいて下さったのかを思い出しながら。そうしたら、私もきっと今朝の御言葉のように気付けるのだから。


●17(水)
主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。 (出15・2)

 モーセたちは、エジプトを脱出してすぐ行く手を葦の海に阻まれ絶体絶命になる。そのとき神が海を割って彼らを救われたのだ。そこにモーセと民も声を合わせて主を賛美する歌がこだまする。その言葉の一節がこれだ。
 私は救われても「ヤレヤレ」と胸をなでおろすばかりで、感謝の祈りさえ忘れていることがある。救われた時が、主を忘れてしまう落とし穴が開く場所。ああ、私にも常にこの歌の言葉を歌わせ給え。


●18(木・洗足の木曜日)
(主は仰せになった)「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」(ヨブ40・8)

 苦難に遭っているヨブが「なぜ不正もない私が苦しむのか。神は何をしているんだ」と延々と呟いて、信仰から迷い出た後のこと。嵐の中から神が「神を責め立てるお前は何者か」と仰せになる。延々と諭す言葉の中に、今日の御言葉もある。
 私も、主にガツンと言われたほうが自分の立ち位置をハッキリ悟れるのかも。神のガツンは、一瞬にして私を呼び戻す声。


●19(金・受難日)
神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。     (ミカ7・18)

 イスラエルの民の咎と罪のゆえに国は滅びる。義なる神の裁きのゆえにだ。その只中で預言者ミカは人々に神の御心、御言葉を告げた、「赦し、慈しむ神だ」と。
 私の罪も神は見逃さない。神は誰よりも(私自身より)罪を凝視され、償いを問われている。義なる神のゆえ、見過ごせないのだ。しかし今朝、その憤りに優るお心を聞いた。悔いる私を求めて「お前を失いたくない」と叫ぶ慈父の御声を。


●20(土)
わたしには重すぎます。(民11・14)

 一人で全イスラエルの民を牧会していたモーセ。人々の不満は、一人モーセに向かう。それでも、神の約束の地カナンに人々を連れて行こうと労するモーセ。ついに疲れ果て、「この人たち全てを負うことは出来ない」と言ったのだ。その直後、主はモーセを支える七十人を聖別された。
 どんな小さな集まりでも、人の不平不満を一人で背負ったら、つぶれそうになるのかも。そんな時は、SOSって言って良いんだ。独りで支えなくて良いんだ。必要な助け手も、神様が添えてくれるから。


●21(日・第3主日・復活祭)

イースター記念礼拝

          説教 辻川篤牧師



●22(月)
わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ。(民14・24)

 この「わたし」とは「主なる神」。民がモーセに不平を言った時、神は怒って「この共同体を捨てる」と言われた。でもモーセが必死に執り成すことで、主は「聞き従わなかった者は祝福から除かれ、従い通した者は祝福に入る」と言い渡されたのだ。
 神は人を、十把一絡げで見られない。一人ひとりをしっかり見ていてくださる。その故に、まず自分が主に従う者でなくちゃ。人の信仰を裁いてる暇なんかない。


●23(火)
主が、「このようなことをしてはならない」と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。(王下17・12)

 北イスラエルが滅ぼされることになったのは何故なのかを列王記は語る。人々が神以外に偶像を造って拝んだからだ、と。
 偶像崇拝など、私はしていないと思う。でも最もタチの悪い偶像は、自己欲。神が「してはならない」と言われても、「私のやり方が正しい」「神様のことは教会でだけ。実生活は私が主」とやりたいように生きる己の心。そんな心に御言葉が再び警告する「そっちに行くな。危ないぞ」と。


●24(水)
いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 申4・7)

 イスラエルの民がいよいよ主の約束の地に入ろうとそる直前。モーセが勧告して再び主との掟を語り直す。その中で、約束を交わした神の慕わしさを告げたのだ。天地の主は、あなたに近付き、いつも傍で守って下さる神だからね、と。
 「神を知る」恵みは、今日の一日も神が傍におられると信じられる事。目には見えなくても私の横を御支えが伴走する安心を握る事。これが信仰者の特権だ。


●25(木)
(神は)安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 (創2・3)

 神は天地創造の第七の日に「ご自分の仕事を離れ、安息なさった」(二節)。神様は仕事を離れることを大切にされ、特別な日として格別に大事にされたんだ。
 最初に「休むこと」をなさったのは、神様だったんだ。働くことを喜ばれたのと同じように、休むことを喜ばれた。むしろその日を祝福の日とされている。そういう神様に会えるのが安息日の礼拝。創造された全てを見て一緒に喜ぶ日だ。まるでお祭りの日のように。然り、真の休み万歳。


●26(金)
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。(エレ11・20)

 民が神に背いた罪に、神は断罪を伝える。それもエレミヤに「彼らのために嘆いても祈ってもならない」と釘を刺して。そこに彼は、「お任せします」と応答したのだ。
 執り成しの祈りさえ拒絶される厳しい断罪だ。それに従うしかないエレミヤ。改めて、罪の恐さを想う。でもその罪の重さに気付けた時、やっと人は「救われるしかない己」に気付けるのかも。そこで十字架を仰いだ時に分かるんだ、「滅ぶべき我が身にもかかわらず、愛された」と。


●27(土)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。(申30・14)

 モーセが民に伝えた神の御心としての戒め。「こっちに行けば幸い、でも他の道へと逸れれば災い」と。そこに加えた一言が今朝の御言葉だ。道標は、あなたと一緒にあるから迷うことはないよね、と。
 「神様は私の心に道標を立てて下さったのに、なぜ脇道に入るだろう、ちゃんと歩いていたはずなのに」、なんて、すぐ他人事で話す私。近道、寄り道、迷い道へとハンドルを切るのは、自分の手だったのに。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月・昭和の日)
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。(哀3・32)

 御言葉は「十分懲らしめを味わえ」と告げる。でもそのあと、「懲らしめても、また憐れんでくださる」と告げられたのだ。それは、悩ますことが「御心ではない」のだからということだ。
 「コラー」っと神様から叱られている時に、そこから逃げ出すことばかり考えていた私。でも違うんだ。ちゃんと叱って下さる方こそ、ちゃんと私を愛していて下さる御父なんだ。だから懲らしめを受け止めることこそ、愛の受け止め方なのかも。


●30(火)
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。        (エレ29・11)

 バビロン捕囚として異国の地に連行された人々に、預言者エレミヤが希望の手紙を書き送った。その中の一文がコレだ。
 どん底にいる時の慰めは、その先に「新しい平和の計画がある」と神様が宣言して下さることだ。すぐに奇跡が起こって苦難が無くなることじゃない。それなら新しい苦難が待っているだけかもしれないから。そうじゃなくて、コレなんだ!

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:24| 『日々の聖句』

2019年03月31日

『日々の聖句』2019年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年3月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。(イザ48・18)
 
神様が民に「お前たちが私に背く者であったことを知っている」と語り掛ける。そこでなお告げられたのが、このみ言葉だ。
 神様の恵みはどこにあるのかと嘆いた日々が、私にもある。でも今日分かった。恵みの流れを堰き止めたのは私自身と。御言葉に生きないで、自分勝手に生きた背きが、恵みの大河を堰き止めた。砕きたまえ、私の罪を。恵みが流れ込むため。


●2(土)
人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。 (創9・6)

 大洪水の後、箱舟から出たノアに、神が人間の尊さを改めて告げる。命である血を流す者の償いは、命によって償わねばならぬと。人の命は、神が御自分に「かたどって造られた」ほどに尊く重いからだ。
 隣人の尊さは、神様との関係を見ないと本当には分からない。人間だけを見ているから簡単に傷つけてしまうのかも。言葉で刺して、心に血を流させることも同じ重い罪。神の悲しみなのですね。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)

 都陥落の中で、主に背いた故に起こった滅亡と知る者が、なお呼び求めている言葉だ。主の怒りを受けつつ、なお神にすがる。主以外に自分を赦し、なお愛して下さるお方はいないと信じているからだ。
 自分が御言葉に背いて生きたゆえの苦難だと知る日々の中で信仰は問われるんだ。自分の罪を悟ってなお「あなただけ」と神に求められるか、と。罪人なのに「なお愛される」と信じ切れるのか、と。切なくても呼び求め続けられるのか、と。


●5(火)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。 (出13・3)

 出エジプトの恵みの出来事の後、モーセが民に向かって「この日を記念せよ」と告げた。単に「ああ良かった、感謝」で終わらせるのでなく「神が私を救われたんだ」と子々孫々に語り継げと命じたのだ。
 私も神の恵みを受けて生きている。それなのに、願う時はしつこくしたのに感謝の祈りは一瞬で終わらせる。いや、忘れていることさえ。自分の祈りを変えなきゃ!


●6(水・灰の水曜日、受難節に入る)
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしをつけられた。 (創4・15)

 人類最初の殺人は、兄弟殺しだった。神は激しく嘆かれ、憤られて兄カインを追放される。しかしなのだ。神様は、人がカインをうち殺してしまわないように、「この者は神のもの。何人も手を触れるな」と、守るしるしをつけて下さったのだ。
 神は義しい方。しかしそれを上回って、神は愛なる方。罪人をなお愛されて守られる方。その御心の中に、私も入れられているのだ。この罪人の私も。


●7(木)
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。  (創12・4)

 アブラハムは、神様からの「私が行けという場所へ旅立て、地縁血縁の守りを後ろにして」という破天荒な召命に、疑いもせず、質問もせず、条件もつけずに、ただ立ち上がった。主の言葉に従ったのだ。
 「信仰の父」と呼ばれるアブラハム。信仰というのは、黙って主の言葉に従うか否かということに尽きるのかも思う。信じるというのは、心の問題じゃないんだ。ボクも自分を自分で守ろうとする事を一切後ろに置いて、御言葉に従って立ち上がりたい。それは祝福への旅立ちなのだから。


●8(金)
「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」  (王上1・29)

 年老いたダビデ王が、ソロモンに王位継承を言い渡す前に告げた言葉。現実はアドニアが「私が王位を継ぐ」と蜂起し、既に勢力はその方向に動いている只中で、ダビデは「否、神の計画こそが進む。主は生きておられるのだ」と言ったのだ。
 「たとえ世の流れがどこへ向こうとも、神の計画こそが進む。神は今も生きて我らを導く主なのだから。私の先頭を今も行かれているのだから」と言い切る、その決断こそ信仰。風見鶏になるな。


●9(土)
「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。 (エズ3・11)

 捕囚から都に帰還できた民。瓦礫の山だった神殿を再建したくても、資材も人員も足りない。しかしようやく神殿の基礎が据えられた時に、喜び叫んだのだ。
 まだ基礎だけで、建物は目に見えないのに、まるで見るようにして喜べた民。完成した将来が見えたからだ。恵みの実現を信じたから。主への賛美は、目に見える結果に対して起こるんじゃない。ボクは、見える事ばかりに気を取られているのかも。


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月)
あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。 (箴16・3)

 主に自分の計画を委ねるようにと、御言葉は告げる。
「分かった」と思った瞬間、「あれ、分からない」と思った。「ああしたい、こうしたい」という自分の願いと、それを主に委ねるということは、どういう関係になるの? 自分が計画したのに、それを委ねるって、どうすることなんだろう。
ひょっとしたら、私の最初の願いから関わってもらいつつ歩むことかも。ならば、祈らないと一歩も進めないな。


●12(火)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)

 神様はニネベの町の人々が悔い改めたのを見て、ご自分が宣告した裁きを取りやめられた。その神様の変更を、ヨナは不満に思って怒ったのだ。「償わせて当然なのに、なぜ簡単に赦されたのか」と。
 私も、そんな思いになる時があるのかもと思った。敵には裁きで、自分には愛を向けて欲しいと思っている時があるから。自分が神にでもなったつもりになっている。私も、その憐れみによって赦された〈神の敵であった者〉ということを忘れて。


●13(水)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。  (創19・29)

 罪に満ちた町ソドム。神の裁きによって滅ぼされんとする時、そこに住むロトの家族だけが主に救出された。
 ロトの救いは、ロトの義さによるのじゃなく「アブラハムを御心に留め」て起こったことだったなんて。前後を読んだら、彼が執り成したゆえに神が動かれたのだと分かった。改めて執り成しの祈りの力を想う。同時に自分の執り成しの貧弱さに気付く。真心は、執り成しの祈りと成るんだ。


●14(木)
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。 (民6・26)

 これは「アロンの祝祷」の一節だ。
 主なる神が、御顔を私にも向けて下さる事、それこそが祝福の基なんだ。罪人の私に天地創造の神が顔を向け下さる。それも慈しみの御顔で見て下さる。それを知っただけでホッとする。まるで幼子が知らない道でも、親が見ていてくれるだけでドンドン先に歩んで行けるように。
 「天の父の視線の中に私が居る」、そこに天来の安心を受け取って、〈今日〉という知らない道へ、いざ進み行かん。


●15(金)
主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」
 (民11・23)

 出エジプトの後、荒野で人々はモーセに不満をぶつけた。肉を食べていたエジプトにいた方が良かったと。どこまでも身勝手な人々。その不満を一身に受けたモーセが神に泣きついた時、神が発した一言。
 民の不平と不満を、本当に背負ったのは神お一人。その神が激しく「神の全知全能を見るべし」と迫られた。アッと思った、不安と不満は、罪の姿だったんだと。


●16(土)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。 (ヨナ2・3)

 ヨナが神に背いて船で逃亡し、大嵐の中で海の藻くずとなりかけた時、大魚に飲まれて腹の中・・・。そこで彼は主に祈ったのだ。助けを願う資格さえない自分だと分かっていつつも、彼は叫ぶように祈った。その祈りを聞いて下さった神様。
 神が耳を傾けて下さるのは、義しい者の祈りよりも、悔いて落ち込むばかりの者の叫びだ。我儘としか言いようがないけれど「あなたにすがるしかいない、主よ」と呻く祈りだ。そこに罪人の救いが起こるのだ。


●17(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
主を畏れることは宝である。 (イザ33・6)

 「主よ、我らを憐れんでください」と救いを求める祈りの文脈の最後を、この一言で締めくくる。
 自分の力や知識を圧倒する敵がいる。さらに自分の中にさえ傲慢が渦巻いていて、災いを呼び込んでしまっている。そんな群がる苦難の中で、なお救いを求めるには、自分を丸ごと神に明け渡すことしかないんだ。自分という城を手放すこと、降参すること、それが神を畏敬するという真の意味なの知れない。そして、そこにしか、主の救いは到来しないのかも。


●19(火)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。 (コへ8・5〜6)

 この「賢者」とはどのような人か。聖書はそれを、「災いが降りかかることがあっても『人には何が起こるのかは所詮分かりはしない』と受け入れて、今を生きる人だよ」と語っていた。 「不快なことに固執するな」(八・三)とも記されていた。
そうだ! 自分ではどうしようもないことなのに、心が囚われて苦しんでいたのかも。全てを受け入れる「賢者」は、主に委ねる信仰者のことなんだと思えた。


●20(水)
主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。 (出14・30)

 エジプトを脱出した直後、背後からはエジプト兵が迫り、前途も葦の海に行く手を阻まれた。そのとき主なる神が海を二つに割って、モーセたちを逃げ切らせたのだ。その出来事を人々は胸に刻んだ。そして語り継いだのだ「主は、救われた」と。
 私も人生で、「主が助けて下さった」と経験した。でもすぐに忘れて生きている。まして語り継ぐのでもない。隣人に神の出来事を伝える「証し」に無関心で生きて来た。恵を受けたのに薄情者だった。


●21(木・春分の日)
わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 (創13・8)

アブラハムが甥のロトとの間で配慮したことは、争いの種となるものを注意して取り除くことだった。賢明さをそのために用いたのだ。そして別々に住むことになる。
 私は自分の知恵を、隣人との争いを避けるために用いているだろうか。むしろ相手を打ち負かそうとして、言葉においても行いにおいても争うために使っていないだろうか。「わたしとあなたの間では、争うのはやめよう」との一言は、忘れてはいけない一言なのだ。日々繰り返し唱えん。


●22(金)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。  (民27・17)

 主がモーセに「私が与えた土地に入る前に、あなたは生涯を終える」と告げた時、彼は民の行く末を案じて求めたのがこの願いだ。後継者を立てて下さい、と。
 彼が思う事は自分の行く末のことじゃなく、民の事だった。なぜ、自分に不平を言い続けた張本人を、なお執り成せたのだろう。それは、人の集まりにある脆さを知っていたからかも。いや何より共同体を愛していたから。あ、教会と同じかも。主よ、とこしえに良い牧者を立てて下さい。


●23(土)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。(ホセ6・3)

 イスラエルの民の悔い改めの言葉だ。しかし驚くことに、このすぐ後に神の嘆きが続くのだ。「お前たちの愛はすぐに消え失せる露のようじゃないか」と。
 アッと思った。真実に悔い改めだったはずなのに、すぐさま消えてしまう姿。それは私の姿と瓜二つだと気付いたから。「悔い改めます、立ち帰ります」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに人を裁いている。主の嘆きは、私が悔い改めない事じゃなくて、その浅薄さにあったんだ。今日気付けた、だから今日変わらなきゃ。


●24(日・第3主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
主が御自分の聖なることを示された所である。 (民20・13)

 「示された所」とは、出エジプトの旅で民が「水もない荒野で死なせる気か」とモーセと争ったメリバという場所だ。そのメリバで、主は岩から水を出されたのだ。
 人間が争う場所が、主の御業がなされる場所となる。御業は争いの元を断つためになされた。主が聖であられることを示すというのは、奇跡そのものよりも、人と人との間にある争いを嫌われる方ということ、そのために何でもなさるというお姿なのかも。その主が、私のメリバにも共におられ、和解の奇跡を成される。


●26(火)
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 (出20・3)

 「十戒」の中の第一戒。神が「私はあなたをエジプトから救い出した主だ。どんなに愛しているか分かるだろ」と語り掛けれた後に「こんなに愛している私を捨てるはずないよね」と第一戒を定められたのだ。
 「十戒」には、そのどれにも「私はあなたをこんなに愛しているのだから」という呼び掛けが基調音にある。そこを受け取らないから、神を悲しませる罪を犯すのだ。「私を愛して下さる神を悲しませまい」と受け取ることが、一番大事なんだ。


●27(水)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。 (創28・16)

 兄エソウから長子の権を騙し取ったヤコブ。命の危険を感じて逃亡した荒野のど真ん中で主が語りかけた「あなたと共にいるから」と。そこでヤコブは全てを悟った。
 「主がこの場所におられる」・・・それは自分では最悪だと思っていた場所。一人では立つこともできない場所。しかし主は、その場所をこそ「おられる場所」として選んで下さるのだ。そこが救いの場となるから。何だか心が熱くなった。神がおられない場所など、どこにもないと知ったから。


●28(木)
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。 (レビ19・32)

 「十戒」以外にも、聖書には多くの律法が記されている。その中の一つが、年長者に最大の敬意をはらうことだ。それが「神を畏れること」であるとも言われていた。
 今まで「神を畏れる」って、心の持ち方だと思っていた。一歩進んで、御言葉に従う事でもあるかなと。でも「あれ?」と気付く。御言葉に従う事って、今日のみ言葉にも従順である事。神を畏れるって、具体的で身近にある事だったんだ。


●29(金)
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。 (詩23・4)

 詩編二三編は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と始まる有名な聖句。その中にあるのが、この一節だ。
 二三編は、私の人生の中で常に必要だった御言葉で、最大の危機の時にも支えてくれた。そして、これから先もこの御言葉を携えてゆくだろう。最期となる日、ベッドの上で酸素を吸入しながら、この御言葉を心の中で繰り返しているだろう。ここに、平安の全てがあるから。


●30(土)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。 (箴20・19)

 「ソロモンの箴言」と呼ばれて来た知恵の言葉。そして自分の姿を映す鏡の言葉。
 「あの人が、ここで言われている人だ。私もあの人って嫌だなぁと思って来たけど、聖書もやっぱりこう言っているよ」と納得顔して、すぐにアッと思った。「あの人は悪い、私は困っている」と告げ口する唇を持っているは私だと気付いたから。いつも自分だけ良い人になって、人を裁いて・・・私はなんて嫌な人間なんだろう。赦しと救いが必要なのは、私自身だったんだ。


●31(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)




posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:41| 『日々の聖句』

2019年02月28日

『日々の聖句』2019年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年2月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。 (申13・1)

 モーセが多くの律法を授与する時に、どのように守るべきか釘をさした、「自分勝手に掟の中身を変えるな」と。
 私も自分の都合の良いように御言葉の内容を曲げてしまうことがある。「隣人を愛せ」との金言も「あの人が私に愛されるに相応しい人になったら」と心の中で一言加えている。神の言葉を骨抜きにする罪なのに。私も神を悩ませた背きの民と同じになる故、このクサビは私への言葉だ。


●2(土)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。(民14・43)

 「主はお前と共におられない」、衝撃的な宣告を受けた人々は、この後戦いに惨敗する。最初にカナンの土地に入る時、主の計画に不平を言い、抵抗し逆らって、自分勝手に歩み出した結果であった。どんなに勢いよく進んでも、主が共におられない歩みは一瞬で行き詰るのに。
 旧約聖書には「あ、ここにも私の姿がある。そこにも」と思える人間の愚かさに満ちている。だからこそここで自分を見つめ直せる。「立ち帰らねば」とも気付ける。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。  (出13・22)

 エジプトを脱出した民が、荒れ野の逃亡の旅で心も萎えて来る。その思いを誰よりも心配して下さったのは神ご自身だ。だから昼も夜も彼らの傍を離れない。それどころか彼らの先を進んで道を示し、最後尾を守っても下さった。
 ああ、私の今日という旅路にも、たとえ心萎える時があっても、神ご自身がお心を傾けて先頭を進んでいて下さる。私を離れずにいて下さる。だから心を強くして進み行こう、いざ出発せん。


●5(火)
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(創22・7)

 神からアブラハムが「息子イサクを献げ物にせよ」と試みられた時、イサクが唐突に言った言葉がこれだ。彼は息子の言葉をどういう思いで聞いたのだろうか。胸に突き刺さる問いではなかったのだろうか。
 「この道は御心なのか」と心配になることがある。常識では「絶対無理、嫌だ」と思える所へ向かう道だから。傍から「それでいいのか」と胸に刺さる声も聞こえるから。御心を歩む厳しさを改めて思う。

●6(水)
財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申8・13〜14)

 「満腹、満足だ」と思う時が一番危ないと、聖書は警告する。人生を振り返って「私も随分頑張って来たな」と安心する時が一番危ない。それは神を忘れて歩みだす道に入る瞬間だからと警告する。
 「ああ幸せ」と思う言葉に替えて「ああ主のお陰」といつも言おう。「苦労して来たなぁ」と思う心に替えて「ずっと神様に支え続けられたなぁ」と常に言おう。離反への淵は私の中で口を開いているから。


●7(木)
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。   (詩18・2)

 ダビデ王が、すべての敵から救い出された時、主を仰いで賛美した。
 彼は「やれやれ艱難を通り抜けた」と苦難を見て一息ついたのじゃない。「憎い奴らめ、ざまを見ろ」と敵を見たのでもない。「自分も頑張った」と己を見たのでもない。自分や敵を見る目を180度天に向き変えたのだ。そこで分かるのだ。主がいかに力強く救い出して下さるお方かということ、神がいかに近くに居て下さったかということが。私も、己の内側や人を見るのでなく、目を転じて主こそ仰がん。

●8(金)
男と女に創造された。(創1・27)

 神が人を創られた時、一人だけ創って「完成だ」とはなさらなかった。つまり人間は、その存在の初めから独りで存在するものではないのだ。互いに助け合う者を必要とする存在とされたのだ。独りでは生きられない存在となさったのだ。
 私の横に隣人がいるということは、当たり前の在り方なんだな。そこで愛し合い、助け合い、想い合い、執り成し合ってこそ人は人と成るのだから。独りで生きなくて良い。傍に助け合う隣人を、神がすでに創っておられるのだから。


●9(土)
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。   (創1・3)

 天地創造の初め、世界は神の「言葉」によって成った。まず混沌と闇の中に、「光あれ」と。そして神はその結果の一つひとつを見て、「良し」と言われるのだ。
 世界の全ては、神の想いがこもった「言葉」によって出来ているんだ。木も花も、動物たちも、私の傍にいる隣人の一人ひとりも、全ては神が「生まれ出るんだ。さあ生き生きと在れ。私が存在して欲しいと願う一つ、また一人よ」と願って下さっている存在なのだ。嗚呼その神の願いによって私という存在も生まれたのですね!


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月・祝日)
「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。」 (申4・2)

 モーセが、遺言を残すかのように「掟と法を忠実に行いなさい」と語り出す。それに続いて、その「忠実」が何であるのかを明確に示したのが今朝の一言だ。「律法に一言も加えず、一言も減らすな」と。
 御言葉に従うキリスト者にも今朝の言葉が響く。「赦せと言われるけど、あの人だけは無理と、勝手に減らすな。その御言葉はいつか従いますと、条件を加えるな」と。ただ「然り」と、黙々と歩みたい。


●12(火)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」(ヨブ1・9) 

 サタンは人間の一番弱いところを突いて来る「お前は自分の願い(病気を治してとか、試験に合格させてとか)を叶えてくれるから神を拝むのだろ」と。「祈っていても財産を失ったり、病気が治らなかったら、不平と不満で信仰を捨てるさ」と。
 私と神様との関係も、今朝もう一度問われる。「私はなぜ神様を慕うのか」と。「神が、私の主であるゆえにと、そこにちゃんと立っているか」と。サタンは今朝、私に挑戦して来ているのだ。


●13(水)
いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。    (詩1・1〜2)
   

 「幸いの在り処」を、詩人はズバリと告げる、「御言葉を昼も夜も口ずさみ、これを愛する人の処に在る」と。
 私は御言葉を、知ってはいる。でも四六時中、口ずさんでいるだろうか。御言葉で心が一杯になっているだろうか。いや、この世のアレコレだけで心が一杯になっているのかも知れない。そのアレコレに御言葉を関わらせてもいない。その時、幸いは指の間からスルリとこぼれ落ちているのに。


●14(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 (創2・24)

 「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉」と、自分の初めての、また唯一のパートナーとなったエバを前にして喜ぶアダム。この女と助け合って支え合って生きて行けるということを喜んだのだ。
 人って、何よりもの喜びは、お金や地位じゃない。支え合える助け手が傍に居ることなんだ。親友でも、家族でも、あらゆる隣人がそういう関係になったらどんなに良いだろう。夫婦はその最も大切なしるしなのかも。互いに仲良くしなきゃね。


●15(金)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。 (ヨナ2・8)

 神に逆らって逃げ出した果てに、嵐の海に投げ出され、大魚に腹に飲み込まれたヨナ。そこで神に顔を向け直した時、背きの者の祈りさえ御許に届いたのだ。
 神に反逆したにもかかわらず、そんな者の祈りさえ聞いていただける。無視され見捨てられて当然の関係なのに。人間同士なら、そんなこと在り得ないのに・・・。
 神様は決して関係を切りはしない。それこそが神の最大の奇跡、恩寵なのかも。


●16(土)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファ3・15)

 国が滅び、人々の中に恐れがとぐろを巻いていた。ジットリ絡みつくような闇があった。そこに神は、ゼファニアを通して「主があなたたちの只中にいるのだ。だからもう恐れるな」と宣言されたのだ。
 どんなに闇が深くとも、たった一点の光があれば、闇は退けられる。その一点が、主なのだ。私と共にいて下さる王なる主なのだ。踏み出す一歩の足元も、明るく照らされた。恐れず行かん。


●17(日・第1主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。(創35・2)

 ヤコブが神様から「ベテルに行って礼拝しなさい」と言われた時、家族と出発しようとする。その時に言った言葉だ。「みんな一緒に祝福を受けたい。そのために真の神へと、身も心も『着替えなさい』」と。
 家族の中で自分一人だけ祝福されていれば良いとは、そもそも神の願いではない。私も家族に、「さあ、真の神を仰ぐ姿に着替えようよ」と招くように促されている。家族の救いは、神の願いなんだ。

●19(火)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。(詩18・31)

 詩人は、神の道は完全だ、と告げる。さらに主のみ言葉は、その完全な道を示すのだと告げて、今日の言葉が続くのだ。
 単に、大樹に身を寄せれば安心、守ってもらえるというような事じゃない。「御もとに身を寄せる」とは、御言葉によって示さる神の道を歩むなら、その人を主ご自身が盾となって守らないはずがあろうかということなんだ。これは、主にのみ頼って生きたダビデの詩として聞けと言われる詩。その意味がよく分かる気がした。


●20(水)
柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。(箴15・1)

 神に願って知恵を得たソロモン王の箴言。知恵の言葉に満ちている書簡。
 私も知っている、憤りとか怒りとかが間にある関係は、どんなに暗いかを。その怒りを生むか鎮めるかは私の言葉にかかっているんだ。そうだとしたら、相手との関係が晴れ晴れする一日になるのか、曇りや大嵐になるのかは、私次第じゃない?
 そんな良い事、もっと早く教えてよ〜。 でも舌を制するのが一番難しいかも。それが知恵ある人だと言えるらしいから。


●21(木)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。(詩2・1)

 今朝のみ言葉は「なにゆえ主に逆らうのか」という叱責につながる。大声を上げて自己主張する。それは主に逆らう姿じゃないのかと告げるのだ。そして2編の最後で「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて」と辿り着く。
 むなしい者になりたくない。騒ぎ立てる者になりたくない。それは、神に逆らう者なのだから。ただ「主の御心を私にも成してください」と祈ろう。主のみ跡に従おう。信仰を、今朝新しく私に与え給え。


●22(金)
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らなければならない。(出12・24)

 「このこと」とは何か? 何を子々孫々守らねばならないのか。それは、エジプトの地で奴隷になっていたのを、神が御手をもって救い出して下さった救いの経験を語り継ぐこと。感謝を絶えさせない事だ。
 私も「御手によって助けられた」という経験がある。出エジプトより小さいけど、確かな出来事だった。でもそれを語り継いでいるか。もし神様への感謝を語り出せたら、私を囲む世界も神を知るんだ。


●23(土)
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」(創3・13)

 人が幸いでいるために必要なものは全部揃えられていたエデンの園。不足は何一つなかったのに、エバは「決してするな」と神に言われた唯一つの約束を破ったのだ。そのとき神様が言われた第一声がこれだ。
 私には、神の叱責ではなく、悲しみの声に聞こえる。情けなくて嘆く声に聞こえる。私も何度神様を嘆かせて来ただろうかと、シュンとする。でも同時に、どれほど気に掛けて頂いていたのかと、その熱い御思いが改めて迫って来るように思えた。


●24(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●25(月)
いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 (詩13・2)

 敵に囲まれ、内乱にも遭ったダビデ王。そういう彼が詠んだ詩として読めと、聖書は告げる。解決は主からのみ来ると、主にすがり続ける者の祈りがこれである。
 危機に及んだ時、私もまず神へと顔を向けよう。自分でアレコレと奔走し、万策尽きてやっと神様に「助けて」と求めるのでなく、いつも何よりもまず「主よ助けて。私はどうすれば良いのですか」と祈ろう。すがる姿に、もう信仰は現れているんだ。


●26(火)
天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。(詩8・2〜3)

 周りに満ちている神の御業を、詩人は心から賛美したいと胸躍らせている。でも彼は自分のことを知っている。それは、きっと戴いている恵みの御業を自分は数え上げ切れないだろうということを。ただ無条件で、気付かずに、戴くだけで生きているんだと。それを、自分は「乳飲み子」だと言ったのた。喜んで告白したのだ。
 私も「神様の乳飲み子」。今日を生きるための全てのものは、もう神が揃えていて下さる。安心してハイハイしよう。


●27(水)
見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。(イザ49・16)

 神様は「あなたを忘れることは決してない」と言われる。それはご自身の手の平に私の名を入れ墨して下さるほどに。決して消えないよう刻み込むようにだ。
 たとえ私が神様を見失っても、たとえ私が放蕩して離れても、神は手の平にある私の名を繰り返し呼んで下さるのだ。
 私は神様にどれほど愛されているか、少し分かった気がする。ご自分の手の平を傷つけてさえ、痛みさえも厭われない。あ、十字架の上の御子が心に浮かんだ。


●28(木)
隣人に関して偽証してはならない。  (出20・16)

 神ご自身が、モーセを通して与えた十の掟がある。今朝のみ言葉は、その『十戒』の中の第9戒だ。あらゆる嘘を言ってはならないと約束させる。それは、隣人との幸いな関係を一瞬で崩すからだ。さらに、神からの信頼も失うことになるからだ。
 巷で「嘘も方便。親切な嘘がある」と大人びた人が言っているのを聞いた。でも神様は、そこに付け込むサタンを見抜いている。いつしか自己中心的に拡げられていく嘘がからみついて来ると知っておられる。そこから逃れよと言っておられるのだ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:54| 『日々の聖句』