2021年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2021年09月30日

『日々の聖句』2021年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年9月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると     (創3・8)

 アダムとエバに主が会いに来て下さったのに、避けて逃げた。やましい事があったからだ。「これは禁断の木の実だよ」、「はい」という約束を破ったから。それは、人間最初の「神への背き」だった。でも、「主に顔を合わせられない」と、ちゃんと罪を自覚できている彼らを見て思った。それさえも出来ていないのなら、隠れもしないし、背きが他人事になる。それは神との関係も他人事になるのかも、と。
ボクは、どっちに立っているのだろう。


●2(木)
「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」      (ヨシュ6・2)

 神が約束された土地に、イスラエルは進撃する。しかし堅牢な防壁が敷かれていた。誰もが「これは無理だ」と思える状況の中で、指導者ヨシュアが民に進撃の命令を下したのだ。
 人は誰もが自分の経験に照らして、自分の判断を持つ。それは翻せないものだと思い込んでしまう。でも、もう一つの照らすべき基準が、信仰者にはあるのだ。それは神の言葉。確実に実現する言葉だから。私にとっては御言葉だ。御言葉への聴従は「勝利をあなたの手に渡す」と約束を戴いている事と同じなんだ。


●3(金)
あなたの道を主にまかせよ。   (詩37・5)

 聖書を開いたら、詩人の周りには悪だくみをする者達が栄える様子があった。決して平穏無事な中にいるのではないのだ。
 第一印象で、「そりゃみ言葉の言う通りだ、それが信仰の歩みだよ」・・・と思って、すぐにハッとした。だって私はいつも自分の道を自分で企てて、その次に「わたしの道を主が助けて下さい、守って下さい」と祈っていたから、いや願い倒していた、いや命令していたから。
 「私の道を主にまかせる」ために、第一歩から訂正しなければ。「主が企てる計画は何ですか」と、鎮まって聞く祈りから始めなきゃ。


●4(土)

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。    (創1・3)

 天地創造の最初の瞬間だ。
神が、世界を造られる。それは、材料を集めて、組み合わせてつくられたのじゃない。ただおっしゃったのだ、「在れ」と。そうすると、その言葉のままに「在った」のだ。
世界は神の「言葉」で成った。それは、神の「お心」が世界を造ったとも言える。世界の形は、神の御心の現れなんだ! だからなんだ。神は世界をお造りになった後、それを御覧になって「良し(very good)」と言われたのだ。ご自分の思いが、形となって世界に満ちていたから。そして、ボクもその中に入っているんだ。


●5(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」      (創3・4〜5)

 サタンの誘惑は、いつも同じ言葉でささやいて来る。「自分で好きなようにしたら良いじゃないか。自分の判断で大丈夫だよ。ちょっとやってみようよ。神様のことをよく知っているあなたの判断は、義しいのだから。さあ早くやってみようよ」と。
 今日もささやいて来る。生活の中で、職場で学校で、ダイニングで、台所で。その時ふと、神様不在の時間が出来る。要注意だ。


●7(火)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。          (詩42・6)

 詩人は歌い出す「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める」と。さらに「昼も夜も・・・涙ばかリ」と。悲嘆の底にある詩人。その彼が突然、自分自身に言い聞かせるようにして今朝の言葉を言ったのだ「なぜ呻くのか」と。そして、そう言える唯一の根拠が「神を待ち望め」であった。
 「信じる」とは、「苦難の中で神を思い起こすこと」だと思った。信頼して揺れない事じゃないんだ。嘆きの日はある。呻いて良い。でもそこで神を思い起こすこと、それが信仰なんだ。


●8(水)
民は自分たちを打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めようとしなかった。   (イザ9・12)

 北イスラエルの民が、主に悔い改めを迫られた。それなのに、まだ自分を誇り続け、「神に頼らなくても、自分だけでやっていける」と言い続けたのだ。その報いのゆえに、敵に打たれているのに・・・。
 「主に背いたゆえの懲らしめだ」と分かっても、なお傲慢であり続ける人々。なんという愚かな姿なんだと、憤慨すら覚える。そう思った瞬間ハッとした。主に立ち帰らない姿は、自分自身の中にあると気付いたから。特に、主日以外の平日は、もうボロボロだ、と。


●9(木)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」   (民12・13)

 モーセは、自分のため「助けて」と叫んだのじゃない。神に向けて「モーセだけが指導者だなんてズルイ。私だって出来る」と不平を言ったモーセの姉ミリアムのためだった。この不平のゆえに、彼女は神に打たれて、肉が半ば腐って死者のようになった。その彼女のためだ。
 執り成しの祈りって、自分を大事にしてくれる人のピンチのためだと思っていた。でも違う。自分を責めた人のためにも祈るんだ。聖書って、いつ読んでも驚かされる。そして悟らされる、「ボクは心が貧しい人間だなぁ」と。


●10(金)
(モーセは言った)「あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」    (出9・30)

 モーセたちが、エジプトのファラオの前で十の災いを起こす。その恐ろしさにファラオは「わたしが間違っていた」と言うのだか・・・。そこでモーセが答えた言葉がこれだ。
 「悪かった」という時点では、まだ悔い改めたとは言えない。大事な事は、誠に神を主として畏敬する者となるということ。「ゴメン」じゃ「まだまだ」と言われる。「我が神、わが主よ」と告白する者となって、そこを生きよ、とね。


●11(土)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。   (エレ20・9)

 イスラエルの民への裁きの言葉が、預言者エレミヤに預けられた。「罪の悔い改め」を伝えれば、人々から嫌われるのは必定。だから語りたくない。その気持ち、分かるなぁー。
 しかし、エレミヤは語り出す。主の言葉は、抑え込むことなど出来ないから。悔い改めを強いるのは、聞く人には嫌がられるけど、それこそが幸いへとつながる福音なのだから。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●13(月)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。    (詩4・9)

 詩人は、心安らかに眠りに就こうとしている。平安の中にいるんだなと思ったら、そうじゃなかった。前後の箇所を見たら「苦難から解き放ってください」と叫んでいたから。そんな中で「あなただけがわたしの心に喜びをくださる」と主を求めていた。それは、「アレをしてくれたら平和になれる」とか「助けてくれたら平和」とか、そんなことじゃない。「あなたのが傍に居てくれるなら、たとえ苦難に囲まれていても平和の中」と言っているのだ。
 私も見詰めよう、個々の「御業」ではなく「主ご自身」を。不動の平和に生きるため。


●14(火)
呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。   (エレ4・1)

 「呪うべきもの」とは何? それさえ捨てれば主の御許に居続けられる。そう思って聖書を開いて、分かった。それは、神様以外を求めて頼ること。また、主なる神の御声に従わないことだ、と。
 ドキッとした。御言葉に聴き従わないことを、ボクは軽く考えていたかもと気付いたから。神様の目から見たら、それは「呪うべきもの」で、「お前は、呪われよ」と言われている恐ろしい背きだと気付いたから。そして気付けて良かったと思った。やり直せるのだから。


●15(水)
わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。   (イザ26・12)

 そうか! 自分だけではどこまで行っても「未完成」ということなんだ。だから、出来る限りのことを粉骨砕身頑張って、そのあとは「主よ、お任せします。あなたが修正も、訂正も、完成もしてください」と委ねることが大事なんだ。
 「主よ、あなたの御心は、私が何をすることですか」という祈りに始まり、最後も「主よ、成し遂げるあなたにお任せします」という祈りで締めくくる。私たちの人生って、そんな「祈りの旅路」なんだな。


●16(木)
(主がアブラムに言われた)「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。       (創13・14)

 甥のロトに、先ず自由に土地を選ばせる。すると彼は、肥沃な土地を全部自分の物にしたのだ。アブラハムは「自分は残り物で良い、争いたくないから」と思ったのだ。そのアブラハムに主が祝福して言った言葉がコレだ。「あなたが見る土地を全て与える」という恵みだった。
 人間が見ることと、神が見ることは違う。人は自分の欲を見る、腹を見る、自分の思いだけを見る。それがロトだった。素直なんだけど、御心を生きる生き方ではなかったんだ。


●17(金)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。      (エレ9・23)

 私の祈りはいつも「主よ、恵みを与えてください」だった。願って、与えていただけると思っていたから。でもエレミヤは、そんな私に「違うゾ」と告げる。「恵みの業を行う事は、そもそも主の願い、神の喜びなのだ」と。
 そうか! 人が願う前から、主は与えようと満を持して待っておられる。あなたに必要な物をいっぱい与えたいと待っておられる。だから私の祈りは、「主よ、御心が行われますように。私はただ受け取ります」で十分なんだ。


●18(土)
しかし、お前たちはそれを望まなかった。   (イザ30・15)

 「せっかくの贈り物なのに、お前たちは受け取ろうとしなかった」と言われているような気がする。一体何を望まなかったのだろうかとイザヤ書を開いたら、それは、主を静かに信頼しているなら、それだけで救われるという恵みの贈り物だった。人々は、神を頼っている場合じゃないと焦って、自策に頼って滅びの道に入ってしまったのだ。
 なんて馬鹿なことを、もったいないことを、と思って、ハッとした。自策に頼るのは、私の姿そのものだと気付いたから。その手は、失敗を握っているのに。恵みを手放しているのに。


●19(日)



主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●20(月・敬老の日)
今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。    (サム上1・16)

 男子が授けられず、一族から冷遇されていたハンナ。その彼女に祭司が問いかけた時、彼女が答えた言葉がこれだ。
 きっとその目には涙が溢れ、声も震えていたかも。それでも悩みの深さは、誰にも分からない。しかし一つのことは祭司に分かっていた。彼女は悩み悲しみを神に訴えることを知っている女だ、と。信仰の女だと。
 信仰とは、悲しみのどん底でも、それを丸ごと預けられるお方を知っていること。そこに委ねて生きること。理屈や思想じゃない!


●21(火)
六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。   (レビ23・3)

 主なる神は天地創造の時、六日で世界を造られ七日目に安息された。人も七日目を安息日とする始まりがここにある。しかし信仰の民は、その安息日を、聖なる集会(礼拝)の日と定めたのだ。主の前に集って礼拝することこそが、真に安息できる時だからだ。
 「やっと日曜日、どこに遊びに行こう」じゃなくて、「やっと日曜日、休めるぞ、さあ教会に行こう」とワクワクしなきゃ。だってボクも信仰者だもん。安息が何かを知っているもん。


●22(水)
「そうだ、ここは天の門だ。」   (創28・17)

 兄のエサウを騙して長子の権を奪ったヤコブ。復讐を恐れて逃げた荒野で、御使いたちが天から上り下りする夢を見た。そのとき自分が聖なる場所にいるのだと悟ったのだ。そこで恐れおののいて言った言葉がこれだ。
 大罪を犯して、償いもしないで逃げたヤコブ。そんな彼なのに、なお主が共にいて下さったのだ。罪人を見放さないでおられた主のゆえに。きっと罪を犯した全ての人を、主は追いかけてくださる。それに気付けた時、信仰が始まるのかも。心が自分に向くことから、「そうだ!」と、主に向き変えさせられるから。


●23(木・秋分の日)
わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。    (エレ2・21)

 この御言葉は、子供の非行を嘆き悲しんでいる親の声のように聞こえる。正に、主が民の背信を嘆いている声だ。心が張り裂けるような思いになられて、溜息をつくように、涙をハラハラと流すようにして嘆いておられるんだ。
 主の御言葉に背いて罪を犯すということは、律法的な話しじゃない。親不孝をしていることなんだ。神様不幸をしていることなんだ。天のお父様、親不孝者の私を赦してください。


●24(金)
祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。   (レビ5・26)

 神と民との間に立って、執り成しをする祭司。「主よ、この者の罪をお赦しください。贖いのささげものをしますから」と告げるのだ。すると「責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」と神様が約束して下さったのだ。
祭司の務めってスゴイ! と思った。そして、新約の時代はキリスト者すべてが、その祭司の務めを担うのだ。それが『万人祭司』だ。好きな人、嫌いな人に関係なく、御前で黙々と執り成さねば。タイヘンだ! と思った。


●25(土)
ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」   (創21・22)

 ピコルって誰? 彼はアブラハムが旅路の途中で滞在したゲラル地方の軍隊長。彼は、アブラハムに現れた神の祝福の御業を次々と見たのだ。だからアブラハムと敵対したくなかった。「だってあなたは、神が味方する人。私にも友好に接して欲しい」と思ったのだろう。
 私も信仰者、それは神が味方する者。ならば隣人は私にも、ピコルがアブラハムにしたように接してくれるだろうか。改めて、信じる心だけでなく、生きる姿の総点検が必要かも。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●27(月)
あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。(ヨシュ1・11)

 出エジプトをしたイスラエルの民が荒野の旅を終え、神が約束されたカナンの土地に入ろうとする直前のこと。モーセの後継者ヨシュアが、民の役人に言った言葉がこれだ。
 よく読むと、気付かされることがある。得られる土地は、自分たちが頑張って取得するというのではない。「主が得させようとしておられる」土地ということ。それはまた、それ以上に欲してもいけないということ。ボクは、あれもこれもと求め過ぎるのかも。主の御思いの中のもので、十分なのに。最善なのに。


●28(火)
わたしはあなたと契約を立てる。          (創6・18)

 主が大洪水を起こされる前に、ノアに「箱舟を造って、あなたと祭司と、全ての生き物のつがいを入れよ。そしてともに生き延びよ」と。これは生き延びるための契約なのだ。
 有難い契約と思って、でもすぐ気付いた。これは契約だから「〇〇したら」という前提がある。それは、晴天の日に大雨対策の舟を造れという命令。人の目には非常識で嘲りとなること。でも信じて従うことが、生き延びる前提なんだ。ボクなら非常識だと嘲られても、主の言葉に従えるだろうか。きっと流されるのかも。そうやって御言葉を軽んじてる。


●29(水)
わたしは初めであり、終わりである。        (イザ44・6)

 「この言葉って、イエス様の言葉じゃなくて、イザヤ書にあった?」と思って聖書を開いたら、御神の言葉を預言者が伝えていたのだ。
 御父も御子も、熱く語ってくださるのだ「世界の初めから、世界の終わりまで私はいる。その私だから、あなたの人生をすべて包み込んで余りある。だからさあ、私を信頼して、生きよ」と。今日改めて、御子のみならず御父からも、一貫して呼び掛けられているのだと知って、何だか心強く思えて来た。天地創造から終末に至るまでを支配されるお方が、私を支えるお方なのだから。


●30(木)
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、…彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。      (創22・2)

 いつ読んでもドキッとさせられる箇所だ。愛息子のイサクを屠って、焼き尽くして献げ物とせよと、神が命令する場面だ。この後に神が、代わりの雄羊をアブラハムに与えると知っているから、まだ安心して読めるのだけど。
 神の命令が、どう考えても理不尽で実行不可能に思える時、ボクならどうするのだろう。愛息子奉献なんて自分には起こらないと言っていられない。正に神の命令は、御言葉において直面するのだから、汝の敵を愛せetc.と。

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2021年09月16日

『日々の聖句』2021年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年10月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)
安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。  (士18・6)

 十二部族がカナンの地に入った時、ダン族はなかなか土地が定まらない。そこで探索に出た先行隊に祭司が告げた言葉がこれだ。
 祝福があると約束された地に着いたけど、どこがその場所か分からない。彼らは不安だっただろうなぁ。「こっちにあるのかな? 本当に恵みはあるのかな? 導きが見えない・・・」と。そういう不安って分かる気がする。その時だ、「安心して行かれよ」の一言はどんなに嬉しかっただろう。ボクはそれをどこで聞くのだろう。それは聖書の御言葉からですね。


●2(土)
主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。」   (出32・9)

 モーセがシナイ山に登っていた間、民は金の子牛を造って、「これこそ神だ」と拝んでいた。主が燃え上がる怒りを発せられたのだ。
 主は、人々の荒野の旅路を守り、朝ごとにマナを与えて下さった。その主を、こうもあっさり裏切るなんて、私だって腹が立つ。主の怒りはいかばかりかと思って、ハッとした。守られて来たのに信頼し切れないのは、私自身。神の怒りは我が頭上にあり、と分かったから。ああ、だからこそ私には、救いが必要なのだ。


●3(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。        (エス4・16)

 ユダヤ民族の歴史・時代小説のエステル記。
 ユダヤ人絶滅を画策する異国の宰相ハマンに、その国の王妃となったユダヤ人エステルが対決を決意した。それは、王妃に選ばれたのが自分の知恵や美貌によらず、主の御旨だと悟ったからだ。
 「これは主の御心だ」と、信じた道を進もうとすることは、「死なねばならないのなら死ぬ覚悟」ということなのだ。自分を百%明け渡すことなのだ。それが信仰の決断なのだ。私も腹を決めねば。私も信仰者だから。


●5(火)
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。」         (エレ1・7)

 神様がエレミヤに、預言者となるよう命じた時、彼は「若者に過ぎないから無理です。人に語る言葉さえ知りません」と固辞した。
私だって同じように言うだろう「こんな大変な奉仕は、私には無理。そんな能力も、経験もないし。もっと他に適任者はいるでしょう」と。それでも主は、「行け」と言われるのだ。あっ、奉仕は自分で選ぶものじゃないのかも。そうだ!「神に強いられた恩寵」なんだ。


●6(水)
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。   (創22・6)

 アブラハムの手には、鋭い刃が握られている。それは愛する息子の首を落とすための道具。手には、種火が握られている。それは息子イサクを焼き尽くして、捧げ物にするための火。
 「そうすべし」との神の命令だから黙々と従うのだけれど、理由も意味も分からない。ただ分かるとすれば、「従う」ということだけが「意味」だということ。ボクはそんな一歩を踏み出せるのだろうか。信じるという世界は、この一歩の世界なんだけど・・・。


●7(木)
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。   (民9・23)

 エジプトの国から脱出できたイスラエルの民が、荒野の旅を続ける。そのとき、進むのも主の命令(雲が幕屋を離れることが印)、留まるのも主の命令(雲が幕屋の上に留まることが印)だった。主の言いつけを守ることに、命と恵みの授与を守る秘訣があったのだ。
 それは、私にとっても同じこと。聖書を通して届く主の命令は、聖書の「御言葉」だ。その御言葉を守らねば。「それは分かっている。でもできない」と言い訳するのは、もうやめなきゃ。いつ決意するんだ! 今日しかない。


●8(金)
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」   (創22・12)

 今日の箇所は、一昨日の箇所に続いている場面だ。三六五日のみ言葉を、くじ引きしてこの日の箇所も神様に選んでいただいて、そして連続の箇所になっている。それを御心と受けて、読み、聴かなきゃ。アブラハムは、とうとう刃を振りあげて、愛息子の命を取ろうとした。神の命令を信じて従おうと、苦しんで一歩を踏み出した。その時、御声がしたのだ。
 「神を畏れる」とは、自分の思いの一切を後にして、実際に踏み出すこと。葛藤無しにはない世界だ。葛藤そのものを、主は喜ばれる。


●9(土)
主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。  (サム下6・21〜22)

 神の箱が、ダビデ王の幕屋に運び込まれる。その喜びの大行列の先頭で、ダビデは跳ね踊ったのだ。その姿を窓から見下ろしたサウルの娘ミカルは、恥ずかしいとさげすんだ。それに対してダビデが胸を張ったのがこの言葉だ。
 人に褒められることばかり気にしている人がいる。主にどう見られているのかを想うのがダビデ。人の目か、主の目か。多くの人が人間のことばかり気にしている。おッと、ボクもそうだった。気付いた今日から、変わらなきゃ。


●10(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●11(月)
いつまで、あなたはその胸に、よこしまな思いを宿しているのか。   (エレ4・14)

 バビロンの兵が、南ユダ王国に迫る。その知らせを、エレミヤが伝えたのだ。そこには、国が亡びる原因も宣告されていた、「よこしまな思いを宿している」と。心の内にある悪だ。人々は悪を抱いたので国を失うと言われている。それでもまだその悪を握り続ける。
 「どうして自分が滅びる元凶をいつまでも握り続けるのか、なんて愚かな人々だ」と思って、自分の手を見てギクリとした。ボクの手の中にも、自己中心でいたいという背きの思いが握られていたから。それも、後生大事に。


●12(火)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。   (申6・15)

 モーセがイスラエルの民に伝えた「主の律法」の集大成が、この申命記。
 「主の熱情」って、かなり熱いのかな? 
 それは、遊牧民の一家族・アブラハムを導いて、恵を注ぎ続けたほど。その息子イサクに、またその息子ヤコブにと、祝福の約束が絶えなかったほど。大人数になった民が奴隷にされていたエジプトの国から、ついに救出されたほどだ。そして正に、ご自分の御子を罪人の私のために死なせてしまわれたほどだ。その熱情は、私の中にも注がれている!


●13(水)
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」  (創17・1)

 これは主なる神が、アブラハムに告げた言葉。でも注意して状況を見よう。それは、彼が九十九歳になった時の言葉だったから。つまり「主は一族を星の数ほど増やすと約束されたけど、跡継ぎなんて生まれる可能性はない」と思い始めた時だったから。約束の実現なんて無理だと、誰もが思う歳だったから。
 全能の神の御業がなされることへの最大の敵は、サタンじゃない。自分の中に在る「常識では無理だよ」と考える頑固な思い。ああ、神の敵は、我が内にあり。


●14(木)
彼らは尋ねもしなかった。「主はどこにおられるのか・・・」と。   (エレ2・6)

 主が、民の背信を嘆かれる。ずっとあなた方を守って来た私なのに、私を忘れて離れて行った、と。それも、私の代わりに他の空しいものを求めて、後を追って行ってしまった、と。
 この悲しみが、ボクにもちょっと分かる気がする。想いって、届かないことがあるんだよね。一生懸命にその人を想っているのに、離れていくことがあるんだよね。人と人との関係でも、そこに悲しみがあるのに、神の悲しみはどれほど大きいだろう。尽くして来たのに、全ての人が自分の元を去ったのだから。


●15(金)
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。    (イザ1・18)

 主がユダ王国に語りかける幻を、イザヤが見た。それは神が、人々の背信に断腸の思いとなっておられること。しかしそこで同時にこの言葉が告げられたのだ。それは「使い古された雑巾のような色に汚れているお前たちだけど、立ち帰るなら、雪のように真っ白にしてあげるから」という語り掛けだった。
 「愛する」とは「赦す」こと。「過去を振り返りもしない」ということ。そのために、神ご自身が痛みを引き受けている。神は、ボクのためにも、痛みを負われた。ボクも罪人だから。


●16(土)
ノアは主のために祭壇を築いた。         (創8・20)

 主によって大洪水が起こされ世界が新しくなった時、ノアの家族と獣や鳥などすべての生き物も箱舟から出た。大地を再び踏んだ時、ノアが先ずしたことは、「礼拝する」ことだったのだ。
 私たちも週の初めの日に、先ず礼拝することから始める。もしかしたらそれは、この時のノアの信仰と同じ所に立ってもいるのかも。ノアのように、主の栄光をただ仰ぐこと、今在ることへの感謝、この後も主にのみ従うことへの決心だ。私も礼拝から、これからの日々への一歩を始めるんだ。明日は、その礼拝だ。


●17(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●18(月)
主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。      (出14・21)

 エジプト脱出後、行く手を葦の海に阻まれた。その海を主が二つに分けて、逃げるために乾いた道を海底の真ん中に作られたのだ。
 「主はよもすがら」とある一言が、ボクの心に沁みた。神様が一晩中寝ないで、人々に寄り添って懸命になって下さったんだと知って、そのお心にボクの心が熱くなったから。「懸命に愛して下さるんだ」って、主のお心を知ったから。その主が、今日のボクの一日にも寄り添っていて下さる。さあ出掛けよう!


●19(火)
あなたたち、勇士は皆、隊伍を整え、同胞たちに先立って川を渡り、彼らを助けなさい。   (ヨシュ1・14)

 主が、モーセの後継者としてヨシュアを立てられた。そしてイスラエルの民がついにヨルダン川をわたって約束の地に入らんとする時、彼が部族長たちに命じた言葉がこれだ。
 遣わされた場所へ、先陣を切って行けと言われる。まだ未経験の地へ、未経験の働き(奉仕)への派遣だ。その時、自分ができるかどうかを自分で計らない。ただ「先立って川を渡れ」という言葉に従うのだ。御言葉に従うべし! 奉仕に就くことも、ここに原点あり。


●20(水)
ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。  (サム上1・10)

 子どもが生まれず親族から冷遇されて泣き続けていたハンナ。その悲しみの心そのものに添ってくれない夫エルカナ。悲しみを悲しみとして受け取ってくれる人が一人もいないハンナが、ただ一人のお方にすがって泣いたのだ。それが主なる神だった。
 悲しみの理由なんか後でいい、悲しみの解決方法なんか後でいい。ただ自分をそのまま受け入れてくれる方を、彼女は知っていたのだ。
すがりついて泣くことができて良かったね。そして、それがボクの神様でもあるのですね。


●21(木)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が滅亡する直前のこと。預言者ミカが両国についての幻を、主によって見せられた。国土が敵によって踏みにじられる時、生き残る者が起こされる、と。それはどういう人か。それが今日の御言葉に告げられた人だ。
 「ああ、やっぱりココなんだ」と思った。人間の力によらず、策略によらず、経験にもよらない者。しかし彼らは、主にのみ頼った。
 ボクは一体、どこに立って過ごしているんだろうか。振り返って、点検して、そして立ち帰らなきゃ。今朝の御言葉が指し示す姿に。


●22(金)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」  (創24・27)

 これは、イサクの妻となる人を探す命令をアブラハムから受けて旅立ったしもべの言葉だ。海辺の砂の中から一粒のダイヤを見つけ出すような任務に、彼は従ったのだ。そしてついに見つけた時、彼は主を仰いで感謝した。いやこれは感謝の祈りと言ってもいいかも知れない。
 誰もが、行き先不透明な旅という人生を歩んでいるのかも知れない。不安が付きまとう旅だ。でも「主が旅路を導かれる」と信じて一歩を踏み出すんだ。その先に、御心とされる結果が待っているから。だから、さあボクも。


●23(土)
「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。」    (申1・29)

 誰のことを恐れてはならないの? と思って聖書を開いた。これは、モーセが律法を解き明かして言った言葉集・申命記の中にある言葉。ヨルダン川を渡って神が約束して下さった土地に入らんとする直前の言葉だ。「主御自身があなた方に先立って行くから、どんな敵も恐れるな」ということだった。
 この御言葉を、私も今朝聞く。私への語りかけとして聞くのだ。困難という敵がいる一日への旅立ちの前に。御言葉がボクの心に響く「うろたえてはならない」と。いざ出陣だ!


●24(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●25(月)
律法に立ち帰るようにと、あなたは彼らに勧められたが、彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず、あなたの法に背いた。   (ネヘ9・29)

 捕囚期に、都に残された人々から話を聞いたネヘミヤ。そこで、民の背きのゆえに亡国と捕囚が起こったのだと、嘆いたのだ。
 でも、この聖書箇所の先を読んでいて、そこに出て来る御言葉に、胸が熱くなった。「しかしまことに憐れみ深いあなた(主)は・・・彼らを見捨てようとはなさらなかった」と。
ああ、人間の悔い改めの前に、既に神の憐れみが始まっているんだ。無条件の恵なんだ。


●26(火)
隣人の家を欲してはならない。    (出20・17)

 モーセが神から賜った「十戒」の十番目にあたる掟だ。隣人の所有物一切を、心の内で「欲しい」とさえ思ってはならないというのだ。それは、隣人との関係を崩す第一歩となるからだ。神がそれを知っていて、「そっちに行くなよ」と戒められたのだ。
 スラスラと説明できる。何度も「十戒」を説いて来たからだ。しかし、なのだ。上手に説明できることを、主は求めておられない。ただ「お前は今日、コレを生きよ」と言われるのだ。「十戒を知っているよ」ということと「その言葉を丁寧に生きているよ」とは雲泥の差がある。


●27(水)
わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。       (創22・8)

 これはイサク奉献の場面だ。主に「信従」を試されたアブラハムが、愛息子を献げる山に向かう時、息子から聞かれる「お父さん、焼き尽くす献げ物の小羊がいないけど、どうするの?」と。それに苦渋の思いで応えたのがこの言葉だ。きっと心の中で格闘していただろう「息子を献げろと神様は求められる。なぜそんなことをおっしゃったのか分からない。でもきっと訳がある。きっと大丈夫」と。そして言葉が漏れた「きっと神が備えてくださる」と。
 試練の中の言葉を、ボクの心に刻み込もう。


●28(木)
イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。   (エズ3・1)

 捕囚によってバビロンに、また周辺の地に、バラバラに散らされていた人々。ようやくペルシャのキュロス王によって解放された。その時だ。人々がまずしたのがコレなのだ。彼らは集まりたかった、一緒に礼拝したかったのだ。そこで一つの群れとなりたかったんだ。
 コロナ禍によって度々バラバラにされて、それぞれの場所に散らされて来た私たち。だから、彼らの気持ちが少しは分かる気がする。「一つになって礼拝したい」という気持ちが!


●29(金)
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。     (出16・4)

 出エジプト後、人々は水も食べ物もない荒野の旅を始める。そのとき神様は、「マナ(ウエハースのようなパン)」を天から与えた。毎日食べる分だけ集めるように、との約束と共に。この恵みの賜物は、人々が主の約束を守る者であるかどうかの試金石でもあったのだ。
 与えられた恵み以上に、もっと欲しいと求める欲がある。自分勝手さがある。足るを知ることのできない愚かさがある。それが神との約束上で出たとき、神を見くびる罪となる。


●30(土)
人は力によって勝つのではない。   (サム上2・9)

 ムムっ? 力によって勝つのじゃないなんて。でも、学力、能力、知力、経験力、人脈力、権力を、自分もつけなきゃって頑張ったのは、それによって勝つためだったはずなのに・・・
 こんなことを誰が言ったのかと思ったら、これは「ハンナの祈り」だった。子供が生まれなくて親族から虐げられていた女が、ついに主によってサムエルを与えられた時の歌だ。切なる願いが有るけれど、自分の力が一切及ばないと知った時、主にすがった女の言葉だった。
「勝利を得るための真の拠り所が分かった!」と思えて、気が引き締まった。


●31(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師






posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:25| 『日々の聖句』

2021年08月31日

『日々の聖句』2021年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年8月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●2(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。   (箴3・11)

 諭しはいいけれど、懲らしめはちょっと厳しいなぁと思った。でも、きっと諭されても、指導されても、言うことを聞かないボクがいるんだ。そういうボクの首根っこを捕まえて「こっちの道を歩くんだ。迷い道に入り込むんじゃない」と力いっぱい引き戻して下さることが、懲らしめということなんだ。そうだったら、どっちも主の愛の御業。その御業の中に生きていることこそが、幸いなんだ。
 でも、ぜひ、ソフトな懲らしめでお願いしますね、主よ。


●3(火)
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。   (イザ44・22)   

 この「あなた」とは、一個人のことではない。背きの民イスラエル全体に向けた「あなた」なのだ。そこで「赦し」の言葉を告げておられるのだ。喜びの知らせが、民全体を覆う!
 主は私一人だけでなく、私の家族にも目を留めていて下さる。いや、相模原の地の一人ひとり、いや日本の全ての人、いや世界中の人々も。全ての人に「わたしに立ち帰れ」と呼んでおられる。然り、全ての人が主の宝だからだ。


●4(水)
大いなる救いに至らせるためです。         (創45・7)

 「これってどんな場面?」と思って聖書を開いた。ヨセフが、兄たちに殺されかけた後、神の計画によってエジプトの宰相にまで上りつめる。そこで、飢饉によってエジプトに逃れて来た兄たちと再会。彼らが自分たちの行いを悔いている時、ヨセフが言った言葉だ。「神があなたたちより先に、私をエジプトに遣わされたんだ。あなたたちを救うために」と。
 こんな凄い信仰は、どこから来るんだろう。兄たちへの不満もない。「人」を見ないで「神のみ」を見ているからかな。そうやって生きている。ボクもなれるかなぁ、そんな信仰者に。


●5(木)
主を畏れることは知恵の初め。   (箴1・7)

 箴言は「知恵の書」と言われるけど、何のための「知恵」かを、ちゃんとわきまえねば。それは、神に従う者として立ち続けるための知恵だ。処世術でも、成功の秘訣でもない。
 この御言葉を、日ごとに口にしよう。その生活の中で、「主を畏敬する者」という在り方が、私の身にも沁み着くから。それが、私の真の幸いとなるのだから。あれ? 御利益みたい。然り、『ハイデルベルク信仰問答』は正に、神を心から敬うと、そこに利益が生じるのだと、平気で言っている。神の恵みは具体的なんだと。神畏敬は、窮屈ではなく、豊かなんだ。


●6(金)
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。     (創22・11)

 天の使いがアブラハムの名を大声で呼ばれる。一体何があったのか?  アブラハムが手に刃を持ち、今や愛息子イサクを屠ろうとした瞬間だった。「アブラハム」と、声で彼の手を止めた。「もうよい、あなたが神の言葉を第一にする者だと分かったから」と。
 何よりも大事なはずの息子を捧げようとするまで従えるなんて・・・。迷いは無かったのか。いや、迷いつつ、悩みつつ、それでも最後は従う方へと一歩進んだのかも。綺麗な信仰じゃない。呻きながらの一歩が、信仰なんだ。


●7(土)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。  (詩20・8)

 これを現代語に言い換えてみたら・・・
「私には、常識があると誇る者もあり、知恵や経験を誇る者もあり、培った人脈を誇る者もあり、権威権力を誇る者もある。身につけた理性的判断を誇る者もあるが、私たちは我らの神にのみ頼る。主の言葉を旗頭にして、この世の生活を賛美しつつ進む。人から愚か者に見られようとも、信仰の教友から『現実的でない』と批判されようとも、主の御言葉だけを握って生きる」、かな。リアルだな。


●8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤 牧師




●9(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。     (エゼ34・15)

 バビロン捕囚となった民、さらに各地に離散した民に向かって、主なる神が約束された。「あなたを探し出して世話をするから。あなた方は私の群れだから」と。亡国の民の回復が、今朝の御言葉だ。
 ふと「主は羊飼い」と歌う詩編二三編が聞こえて来るように思えた。信仰の民の歌は、主の約束の言葉と呼応しているのかも。今朝私にも「あなたを養い、憩わせる」と呼び掛けられてくる。だからボクも歌おう「主こそわが羊飼い」と。だってボクも信仰の民の一員だから。


●10(火)
自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。      (箴13・3)

 「いたずらに唇を開いてしまった」と後悔したことが何度あることか。その者は「滅びる」と言われている通り、そこでは辛いことが起こってしまった。もっと早く、この御言葉を知っていれば良かったのに・・・
 と思いつつ、「分かっていても、また唇は軽々しく開くんだろうな」とも思った。唇を開かせるのが私の自己中心に染まった心そのものだから。単に「慎重にね」という程度の話しじゃない。罪の問題なんだ。救いの問題なんだ。「主よ、我を憐れみ給え」と祈る問題なんだ。


●11(水)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を」       (創1・11)

 神が天地を創造される。そのとき大地を覆う草も果樹も創造された。神が愛する一つひとつのものとして。一本の草さえ、一つの果実さえが神の宝なのだ。神はこれを見て「良し(very good !)」と喜ばれたのだ。この地上の世界は、その神の誇らしい御心に、満ちているんだ。
 だからこそ、と改めて思った「自然を壊してはならないのだ。それは単なる環境問題じゃない。神の御心に背いているのだから」と。


●12(木)
主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。   (ルツ2・12a)

 異国の地で、夫と息子たちと死別したナオミ。悲しみの中で古里ベツレヘムに帰って来た。そのナオミにただ一人付き添ったのが、嫁のルツだった。彼女に、ナオミの親戚のボアズが声をかけて来た。その中の言葉がコレだ。
 「行い」に報いるのは、人からの賞賛じゃない。だけどボクは、人からどう思われているかとか、褒められたいとか、そんなことばかり気にしてしまう。そういう思いに、主の報いこそが豊かだと示すのだ。だって神の報いは、必ず出来事化するから。それを期待して待て、と。


●13(金)
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。    (詩7・2) 

 詩人は強大な敵を前にして「わたしを助け、救ってください」と叫ぶ。その叫びは、その通りだなと思いながら、改めて考えてしまった。それは「主を避けどころとします」と誓うように言っている点だ。もしかしたらボクは、「助けて」とだけ言って、この誓いを本気で考えていなかったかも。口だけで言って、現実は自分の手腕とか解決方法の傘の下にもぐろうとして来た。本気で「主を避けどころ」とするというのは、信仰の決断がいるんだと気付いた。


●14(土)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。   (出15・13)

 イスラエルの民は、エジプトから脱出できた直後、葦の海に逃げ道をふさがれる。その時も主は、海を割って人々を逃げ切らせてくださったのだ。今朝の御言葉はその時、モーセらが、主を賛美して歌った賛歌の中の一節だ。
 「あなたが、アレもコレもしてくださった」と、ちゃんと恵みを数えている。具体的に数えている。それをしないで、何となくの賛美じゃない。ボクも恵みの数え上手になりたいな。そこに、活き活きした賛美が溢れ出すのだから。


●15(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●16(月)
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。   (創19・26)

 退廃の町ソドムとゴモラが、主の怒りによって滅びる。その直前、アブラハムの執り成しでロトの家族は町の外まで逃げ出したのに・・・。妻だけ、神様から「後ろを振り返るな」と言われていた約束を破って塩の柱になった・・・。 なぜ振り返ってしまったのだろうか、と思う。「なぜ?」の理由は書いていない。
でも主は、ボクに向かっても「なぜ、み言葉を守れないの?」と、問うておられる気がした。そして「ボクにはまだ立ち帰る猶予がある」と気付いた。それが悔い改めなんだとも。


●17(火)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。   (イザ35・3)

 背信の民に、神の審きが降る。その計画がまさに現実となろうとする時、人々は慌てふためいて、心は散り散りになった。しかし主はそういう人々に、審きの知らせと共に、栄光の回復も告げておられたのだ。
 神の告げる未来は、確かに来る未来。先のことなのに確かだ、と言い切れるのは、主ご自身が実行されることだから。だから言える、「未来に立ち上がる力はどこから来るの? それは神の計画を信じることから」と。未来を歩む力の秘訣は、信仰なんだ。信仰ってスゴイ。


●18(水)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。   (エレ3・14)

 神に背き続け、信じることを捨てて歩んだ人々に、バビロン捕囚が与えられた。しかしその人々に、エレミヤを通して「帰還の日が来るから」との約束が伝えられたのだ。
 「背信の子らよ」との呼び掛けに、ドキッとした。神の目は、神に従う良い信仰者たちに向いているんじゃない。義しい者に心を寄せられるんじゃない。神が呼び掛けたいのは、ご自分に背いた者、ご自分を捨てた者たち。どこまでも罪人の側に心を寄せて下さるのだ。そして、その温かい視線の中に、ボクが居る。


●19(木)
人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
(箴20・24)

 知恵の書である『箴言』の一言は、心に迫って、「本当にそうだなぁ」と思わされる。
 でもきっと「当たってるなぁ」と思うだけで止めちゃいけないんだ。ここから自分の今日の生き方を、実際的に修正しないといけないから。「主よ、今日どのように生きればいいですか。あなたにお委ねしますから、導きだと気付いた今こそ、従う私にならせてください」と意を決するべきなんだ。知恵の書の言葉が生きたものとなるのは、その時のみだから。


●20(金)
御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。(エズ9・15)

 ペルシアのキュロス王によって捕囚から解放された民が、神殿再建のとりかかり、遂に完成した。続々とエルサレムに帰って来る人々。そのとき祭司エズラが祈った言葉がこれだ。有頂天にならず、「罪のゆえに裁きを受けた我々なのに、生き残りとしてここにいます。ご覧ください、悔いてぬかずく我らを」と。
 ああ、主が喜ばれる人がここにいる、と思った。主の前に悔いてぬかずく人、心打ち砕かれた人だ。ボクもこうあらねば、この姿に。


●21(土)
主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。   (王上8・56)

 この言葉は、だれが、どんな時に言ったの? と思って、聖書を開いて、胸が熱くなった。ソロモン王がエルサレム神殿を建て終えた時、全会衆を祝福して大声で語った言葉だった。彼は、主を賛美している。その感謝と喜びを会衆と共有しようとしている。その時に語るべき言葉が、これだったんだ。「主が語られた約束の言葉は、全てが実現した」と。
 私もみ言葉を聞く時に、この言葉を共有したい「御言葉は空しくならなかった」と。その為にも御言葉を生きん! 胸が熱くなった。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤 牧師




●23(月)
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。       (箴16・9)

 自分が計画する道でも、落とし穴があったり、危険があったりするから、その道は最善でないということもあるのだろうなぁ。
 だから計画をする時、一番良いことは、良きアドバイザーが傍にいてくれること。それも私の計画したいことを、誰よりもくみ取ってくれるアドバイザーだ。さらに私よりも最善の方法を知っているアドバイザーだ。
 主が備えて下さる。それも遠くの目標を示すのじゃなく、一歩先、また一歩先を示して下さる。相談相手は決まった。さあ祈ろう。


●24(火)
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。   (詩24・1)

 あっ、これは礼拝を始める時の御言葉「招詞」で、よく読まれる箇所だ。
 これを聞くだけで、いつも心を高く主なる神へと上げることが出来ていた。主の支配の壮大さへと、目が開かれて行く思いがしていた。
それを、今日を始めるという朝に聞けたことは(または、一日を終えた夜、その日を振り返って聞けたことは)、なんてラッキーなんだと改めて思った。だってこの一日も「主のもの」と確信できて歩み出せるから。安心して歩み続けることが出来るから。正に恵みだ!


●25(水)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。    (ルツ2・12b)

 夫と死別して、姑に尽くそうと故郷を離れ、見知らぬ姑の国に来た嫁のルツ。その姿を見た親族のボアズが、彼女に掛けた慰めの言葉だ。そして、祝福の言葉だ。
 自分がやりたい方法を優先にせず、他者のために生きたルツ。そこがきっと、主の御翼のもとそのものなんだ。親鳥の翼の下に逃れて来ていることになるんだ。そうだ、隣人を愛することは、自分を愛することに優先すること。そういう人を、神様は報いて下さるのだ。主の祝福は、身近な隣人の傍に在り。


●26(木)
あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。      (申9・4)

 出エジプトの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る前。モーセが「あなた方が正しいから恵みを得たのではない」と釘を差したのだ。
 すぐに考えてしまうのは「正しい人には、神から恵み。罪咎を抱える人には、神の恵みは遠い」ということ。
でも、すぐに考えるべきことは、「こんな私なのに、それでも神は恵みをもって答えて下さる」ということ。人間の常識をひっくり返した場所に、神の恵みは注がれるのだ。


●27(金)
(主は言われる)「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。」   (サム下7・15) 

 「彼」とは誰か。それは、ダビデの子ソロモンのこと。ダビデが神殿建築を決意した時、主なる神が「いや、あなたの子が建てる。それも私は、あなたの子をも祝福し続けるから」と約束なさった言葉なのだ。
 それを聞いて、きっとダビデは安心しただろう。自分自身への主の慈しみも嬉しいけれど、それが子供につながってゆくことは、もっと嬉しいことだから。そこに安寧もあり、平安もあるのだから。「安心して御国に上れる」と思えるのは、この安心を手にした時なんだろうな。


●28(土)
善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。      (アモ5・14)

 南北王国に滅亡の日がヒタヒタと近づいて来る。主なる神がとうとう、背信の民に審判を下されるのだ。それを前にして、人々の牧者として呼び掛けたアモス。それは、端的な言葉であった「善を求めよ、悪を求めるな」と。
 人々は、何が善で、何が悪なのか、神様に知らされていた民なのに。神の言葉として「律法」を賜っていた民なのに。それなのに、知っていて背き続けたのだ。ボクも神の思いを知っていて背いている。そこから離れて、御言葉にしがみついて生きる人にこそなりたい!


●29(日)

主日礼拝説教

         藤森誠 伝道師




●30(月)
わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。 (出3・20)

 神がモーセに、エジプトから民を救い出すことを命じた時、十の災いを予告された。
 私も幼い頃代、モーセが起こす奇跡に手に汗握った。でも今日改めて、ここで何が起こっていたのかを悟った気がした。それは「わたしは自ら手を下し」の一言によって、神が関われたことが大事だと思ったから。神が、人々の苦しみに介入されたのだ。その業が、目の前で繰り広げられる出来事となったのだ。人の嘆きに、神がご自分の手で触れられる。そんな出来事が、私の現実にも起こっているのですね。


●31(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。   (王上8・60)

 ソロモンがエルサレム神殿建築を完了させた。そこで祈りと願いを主にささげた後、大声で全会衆を祝福したのだ。その祝福の締め括りの言葉がこれだった。
 祝福を頂くということは、ただ一つのことを求めることと同じなんだ。それは「人が神を知る」ということ。ふと思い出した「主を畏れることは知恵の初め」という御言葉。また「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」という御言葉。全ては、この一点で繋がっているのかも。


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2021年07月31日

『日々の聖句』2021年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年7月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。   (出3・9)

 壮年男子だけで六十万人の民が、エジプトから大脱出した。その大きな出来事が起こった発端が、今朝の一点だった。それは、主が人々の叫びを聞かれたということだ。
 私の声も、主に届いたら必ず救いの出来事が起こされる。聞いた叫びを、そのまま聞き流すことなど出来ないお方だから。それがボクの神様。ボクを守る方。ならば試練にも耐えられる。だって、耐えられなくなったら叫べばいいから、その最終手段を持っているから。


●2(金)
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。   (レビ19・2)

 主なる神がモーセに、イスラエルの民への命令を託す。それは、人々を幸いへと続く道に招き入れるもの。その一つが、この御言葉だ。
 一瞬たじろいだ。だって創造主が聖い方であるのと同じように、ボクも聖い者となるようにということだから。「神の聖さと同じになるなんて無理」と思ったから。でもふと「あなたも天のお父さんの子供だから、きっとなれるよ」と御声が聞こえたようで、何だか心が温かくなった。「そうなりたい」との思いと一緒に。


●3(土)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。    (詩41・4)
   
 詩人は、弱い者に思いやりのある人の幸いを歌う。それは、自分が何かしてあげるということよりも前に、その人を主なる神に委ねる祈りとなった。
 ふと思った「祈りもしないで手だけ先に出したから、失敗してきたのかも」と。本当に助けることができるのは、主のみ。主が助けて下さることを求めることが抜けたら、手助けも余計なおせっかいになるのかも。「主のみ」、単純なこの一事が、ボクはいつも抜けるんだよな。


●4(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師




●5(月)
母の教えをおろそかにするな。   (箴1・8) 

 これは「父の諭しに従え」という御言葉とセットで命じられている。そしてすぐに思った「これって、日本でもよく聞く教えだよね」と。さらに、「もう知っているよ、分かった、分かった」と思って、アレッと思った。
 「分かった」で、話を終えちゃいけないんだと気付いたから。実際に行え、と命じられているんだと気付いたから。そして、これって人にとって一番やりにくいことだから、改めて言われなければならなかったことなんだと気付いたから。神様の命令と知っていて、行わないのは大罪だ! 一瞬、ヒヤッとした。


●6(火)
まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。   (イザ30・9)

 「彼ら」とは誰か! 「主の教えを聞かない」のだから、信仰の民とは別の誰かだろうかと思って聖書を開いたら、イスラエルの民だった。その人々が「預言者イザヤの言うことなんか聞かないで、大国エジプトの傘下に入ろう。それが賢い戦略だから」と言っていたのだ。
自分の常識に頼る。そこに神への反逆が潜んでいたのだ。それは私にもある罪への入り口。「主よ、今日をどう生きて、どう歩めばいいですか」と唱えるように祈る者でありたい。


●7(水)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。   (ヨシュ1・9)

 奴隷とされていた国・エジプトから、イスラエルの民を率いて脱出したモーセの後継者として、ヨシュアが立てられた。そのとき主が、彼を立てる保証とされたことが「共にいるから」ということだった。
 「神様が共にいてくださって、支え守ってくださるということ。それさえあればボクも前進できる」と思った。でもその後すぐ「あ、待って。でも大変な役目は、できたら申しつけないで欲しいな。だって今でいっぱい、いっぱいですから」って思った。ちょっと情けないかもね。


●8(木)
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。     (申八・二)

 出エジプトのあと、荒野を四十年間さまよったイスラエルの民。その人々が今や、主にいただく土地に入ろうとする時、モーセが告げた言葉がコレだ。それは、人々が生きるための全てを、主こそが備えてくださった日々を思い出せということ。「出来事を思い出せ」、それがモーセの遺言としての命令だった。
 神がしてくださった御業を想起することは大事なんだ。信仰は、御業の想起と一対。信仰は、抽象的な精神世界の事じゃないから。ボクの人生の中での御業の想起を、大事にしたい。


●9(金)
「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」        (出3・7)

 主なる神が世紀の大脱出を計画された。主が、その出来事を起こされた出発点を辿ったら、今日の一言だった。民の嘆きの声を聞かれたということ、その一点だった。
 私の嘆きも、主が聞かれたら、そこにもう救いの計画が始まっているのかも。主の御心は、そこで動き始めるから。それが愛するということの心の動き方だから。ボクもその御心の中に捕らえられていると思ったら、何だかそれだけで、もうホッしてるボクがいる。


●10(土)
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。    (創12・3)

 全人類が、一人の人によって神様の祝福の中に入る・・・そんなすごい人って誰なのかなと思って聖書を見たら、信仰の父祖アブラハムだった。 彼は、大役を任せられたんだ。嬉しくて光栄な役だけど、重責の役でもあるなぁ、とも思う。
そして、ふと思った。「家族の人はすべて、あなたによって祝福に入る、重責だよ」とも言われているんだろうな、と。家庭でこそ、祈りつつ過ごす者でいなくっちゃ。「偽善者、口ばっかりね」と言われないように祈らなきゃ。


●11(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●12(月)
それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。   (士2・18)

 「それは」とは、人々を導くための指導者=士師を、神様が立てて下さったということ。それによって民は、主に従う道を歩めたんだ。
 あ、これって出エジプトの出来事が起こった出発点と同じだ(9日の御言葉)と思った。主が私たちの呻きを聞かれたなら、それは救いの出来事になるんだということ。然り、神は動かれる。すぐに腰を上げられる。私の呻きを緊急事態だとして受け取って下さるから。その主に、今日も見守られているんだ。安堵。


●13(火)
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。    (詩18・29)

 この詩編は、ダビデがサウル王の手から救い出されたことを、主に感謝した歌として読むように勧められている。理不尽に命を狙う敵がいる。その闇の日々に、主が光となっておいで下さる。そして、闇は光に勝てないんだ。
 私たちにも、苦しい日々がある。理不尽だと嘆きたい日々がある。でも、そこに主が共にいて下さることを忘れまい。この詩人の歌を、自分自身の歌とするために。またそこで、落ち着いて闇の中に立てるためにも。


●14(水)
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。 (イザ60・19)

 バビロン捕囚からの解放の希望が、預言者イザヤによって告げられた。それは、昼に太陽が照らす光に、主ご自身がなられ、夜に月が照らしてくれる光に、神ご自身がなってくださるということ。もはや苦難の雲が出ようと、試練の嵐になろうと、かげることなき永遠の光に照らされるんだ。失望の暗闇が退けられるから、という知らせだった。
 ボクを照らす光も、主の光なんだ。闇は光に勝てない。そんな一日を、今日歩むんだ。安心して踏み出そう。主の光の下で。


●15(木)
あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ、わたしが命じることをすべて。 (エレ1・17)

 エレミヤが、神の言葉を預かって語り伝える「預言者」になるべく召し出された。その時に、主が彼に第一になすべきことを命じられたのだ。それは、語り伝える伝令者となること。それも、一言も減らさずに、であった。
 人に語る時に、都合の良いことだけ、受け入れられることだけを語りたくなる。きっと、人の目、人の評判を、気にしているからかも。
 でも、それはしてはならないんだ。神の言葉をそのまま伝えることは、神の命令なのだから。そこにこそ、神の御業が起こるのだから。


●16(金)
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。   (創2・20)

 天地創造の時のこと。まだアダムが独りだった時、神様は彼を助ける者を造ろうと、あらゆる生き物を創造された。でも、どの生き物もダメで・・・、最後にエバを造られたとき、アダムは大いに喜んだのだ。人を助けるのは、人なんだ。人しかいないんだなぁ。
 それなのにボクは、傷つける存在となっていないだろうか。ああ、主なる神の最初の御心に立ち帰りたい。そういう存在に立ち帰りたい。


●17(土)
ベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。   (ミカ5・1)

 神が、救い主を立てる計画を啓示された。それは、立派で力がある者が選ばれるということではなかった。最も小さい者なのだ。その人こそ、神様の御業を担う者とされるんだ。
旧約全体で、主に選ばれる僕は、いつもそうだった。何故だろう。もしも理由があるとしたら、その者の業ではなく、神の業だと分かるため。末席に座る人こそが、名指しされる。神様がじっと見ているのは、その人なんだ。


●18(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師




●19(月)
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。    (申9・7)

 恵によって与えられた出エジプトの後、荒野を四十年さまよった民。いよいよヨルダン川を渡って「約束の地」に入ろうとする直前、モーセが人々に語った言葉だ。それは、神に対して頑なな者で、そのゆえに神を怒らせ続けた者たちであったことを思い出させる言葉だった。
 人々は、自分たちの愚かさをわきまえさせられる。それは、「こんな者にもかかわらず、主はなお恵みを下さる」と本気で分かるため。
 「主に背き続けてきた」、この御言葉はボクにも必要だ。恵みの破格さを知るために。


●20(火)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。   (箴10・19)

 知恵の王・ソロモンの格言集として読むようにと勧められている「箴言」。今日もその一つだ。口から罪が出て来る。口を閉じれば、避けられるんだ。それは分かっている。きっと人は皆、口に出した後で「あんなこと言わなきゃ良かった」と落ち込むことを経験済みなのに、どうしていつも失敗するんだろう。
 その時いつも「私は正しい」という思いが暴れている。それが口から溢れ出る。罪は心で生まれている。そこを悔いねば。それも分かってるんだけど、やっぱりボクの口は開いちゃう。


●21(水)
(主は言われる)わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。   (イザ43・1〜2)

 「まっすぐに御言葉を聴こう。私に語りかけられる神の言葉として受け取ろう」・・・素直にそう直感させられる御言葉が、今朝与えられた。主が私と共に居ると約束しておられる。
今日を踏み出す勇気って、自分の中から絞り出さなくても良いんだ。だって、神様から与えて頂けるものなんだから。でも・・・困難は「大河」じゃなくて「小川」のほうが良いなぁ。


●22(木)
だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら・・・  (王上8・38)

 ソロモン王が、主に向かって願う。その言葉は、「我らの祈りを聞いて応えて下さい」という祈りとなった。そしてその祈り手についてのことが、今日の御言葉なのだ。「だれでも、心に痛みを覚えて祈る人」と。
 「これって、ボクのことだ」と直感した。そして「これは、あの人のこと。だってふさぎ込んでいたから、泣いていたから」と思った。さらに「ああ主は、すべての祈りを聞き届けて下さるのだ。そして応えていただける」と思えたら、もうそれだけで、私も慰められ始めていた。


●23(金)
「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」   (エレ31・10)

 バビロン捕囚の苦難と、帰還の希望を伝えた預言者エレミヤ。イスラエルの民自身の背信によって、異国の地に捕囚となっていく人々。でもその人々を見捨てず、忘れない方がいる。それが、主なる神だと伝えるのだ。
 それも、自分の命よりも羊を大事にする羊飼いのように、人々を守って下さると言うのだ。親の心子知らずのような民なのに守って下さる。主の熱い愛が、エレミヤを通して伝えられる。旧約の中に、ふと福音の香りがした。


●24(土)
(主の言葉がエリアに臨んだ)「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」   (王上17・4)

 数年間の干ばつが来る前に、主が預言者エリヤに言われた言葉がコレだ。カラスが朝夕にパンと肉とを運んで来て養ってくれる、と。
エーっ、烏が養うなんてことに任せ切って大丈夫なの? と思う。でも次の瞬間、「主の言葉が臨んだ・・・ここが大事なんだ」と気付いた。だって、人間の常識に立つより、神の約束こそ、はるかに確かだから。たとえ自分では非常識に思える「烏の給仕」でもだ。故に、御言葉を必死に聞くことこそ、生き残る王道だ。


●25(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●26(月)
あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。  (出16・28)

 出エジプトの後、荒野で飢えた人々が、主からマナを与えられた。毎日荒れ野でマナを拾い集め、六日目には二日分を与えられた。七日目は安息日として何もしないで良いように、神様が配慮して下さったのだ。それなのに人々は、七日目もマナをあさる。どこまでも自分勝手な人々。その不信仰を、主が、「いつまでそんなことを・・・」と嘆かれたのだ。
 主の言葉を信じ切れない事と、自分勝手さは、別物ではない。コインの表裏のように重なっている。主を嘆かせるコインとして。


●27(火)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。   (詩2・1) 

 「騒ぎ立ち・・・むなしく声をあげる」ということに重ねるようにして、次の節で「主に逆らう」と記されていた。自分の思い通りにすることが、神の御手から逃れようとすることなのだ。神様の言葉を捨てて、自分中心にしたいんだと生きることは、騒々しいだけで、さらに空しいことでしかないということなんだ。
 本当の自由、真に活き活きと生きられるのは、主を慕って従うという場所のみ。それなのに、とんでもない勘違いをしている時があるのかも。そこでなんだか疲弊しているのかも。


●28(水)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 あっ・・・、今朝、この御言葉がストレートに心に沁みて来た。
 日本中、世界中がコロナ禍の中にあって、今、目の前にある苦しみを抱えつつ喘いでいるような日々だから。そこにダイレクトに御言葉が届いて来る。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と告げられる主の言葉が、光が差し込むように届いて来る。
 そう感じたら、心がフッと緩められたように思えた。試練と苦難に縛られる縄目が、緩んだ気がしたから。


●29(木)
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。   (イザ45・23)

 ついにバビロン捕囚が終わろうとしている。それは、ペルシャのキュロス王によって新バビロン帝国が倒されるからだ。それは、偶然の歴史の展開などではなくて、神の約束の言葉の成就として起こるのだ。
 「必ず実現する言葉」がある。それも、「決して取り消されない言葉」だ。それが「神の言葉」だ。ならば、私には、御言葉を聴き分ける耳があればいい。信仰の耳があればいい。そこに、ボクの将来があるのだから。


●30(金)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。   (詩18・31)

 苦難の日、試練の日に「助けてー」と逃げ込める場所があるんだ。一生懸命やって来たのに全然うまくいかなくて、かえって辛いことになって、もう動けないという時、倒れ込んでも良い場所がある。それが主の御もとなんだ。
 それは一体、具体的にはどこなんだろう。それはきっと、個別の「密室の祈り」の場所。または「主日の礼拝」の時と場所だ。もうボクの周りには、たくさんあったんだと気付いた。そして、その場所が「在る」と知るだけで、ホッとして、今日を進めると思った。


●31(土)
わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。      (エゼ36・26)

 主に対して頑なで、背きを重ね、その裁きのゆえに新バビロン帝国に捕囚とされた人々。しかしその民に、主はなお心を向けられる。
 そしてまるで名医のように、「石の心(頑なで背きの心)」を切り取る大手術をして下さるというのだ。そこに、主の御言葉を受け取る柔らかな心、「肉の心」を移植して下さるために。そこが、新しい霊の宿る場所となる。
心の移植なんて、誰が出来るだろう。しかし決して失敗しない名医がおられる。私は信じてお任せすればいい。心をさらけ出せばいい。「主よ、私を、お取り扱いください」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 08:57| 『日々の聖句』

2021年06月30日

『日々の聖句』2021年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年6月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。   (ミカ7・19)

 人々の神への背きは極限に達し、神の怒りを背負った。しかしその人々に、主は新しい約束を語られる。それが、今日の御言葉だ。
 赦すということは、神ご自身が耐えられるということなんだ。人間の罪咎なのに、それをご自分で処分されるということ。そして、それをもう思い出さないように海の底に沈めてしまうこと。赦しは、神が苦しむことなんだ。そしてそれが愛だったんだ。ボクも、赦された罪人。それは愛されているということなんだ。


●2(水)
主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命である。   (申30・20)

 モーセが、主がご自分の民に結ばせた契約を、再び語り直した。「もしかしたら、これが全契約の中心かも」と思った。この一点に、生活を整えればいいんだ。この一点で良いのに、でも人間は聞き分けがないんだよなぁ・・・。
でも他人ごとじゃない! 私こそ、この一つのことが出来なくて、神関係にも、隣人関係でも迷子になって来たのだから。でも帰る道は分かっている、そうさ、知っているんだ。そう思えた時、もう御声を聞き始めているのかも。


●3(木)
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。   (ゼカ9・9)

 捕囚の民に開放の時を伝えるゼカリヤ。でもこの御言葉は、代々の教会で棕櫚の主日(受難週に入る日曜日)に、イエス様がエルサレム入城をされる場面を語る時に取り上げられて来た箇所だ。人々がイエス様を、歓声を上げて「王が来られる」と出迎えるのだ。
然り! 捕囚の民に告げられた神の救いの計画、解放の計画は、御子イエス様によって実現する。神の言葉は、真実な約束だから。私も御言葉を聞いたなら、そこですでに未来が見えるということ。それを信じるんだ!


●4(金)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」    (ヨナ4・11)

 背きの都ニネベに、ヨナが主の言葉を伝える「あと四十日で都は滅びる」と。でも、神は裁きを思いとどまられたのだ。大いに不満のヨナ。その彼に主が語られたのがこの御言葉だ。
 ヨナは知らなかった、神様は罪人をさえ愛されるということを。私も、この神の愛の中に入れられている。ボクも罪人だから。


●5(土)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てる。   (イザ59・1〜2)

 預言者イザヤが、背きの民に伝える。神様の助けの手が短いから、あなた方に救いが届かないんじゃない。神の耳が遠いから、あなたがたの願い求めが聞いてもらえないんじゃない。あなた自身の罪が、神とお前とのパイプを詰まらせているからだ、と。
 ドキッとした。私も「神様はなぜボクを助けて下さらないのか」と、不平を平気で祈っていたから。「罪を赦して」とまず祈るべきなのに。


●6(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。   (箴3・5〜6)

 「あ、そうだったのか!」と気付いた。今までは単に「神様に頼ればいい」と学んで、でも結局頼らないで来た。その元凶が分かったから。それは、神様にも頼るけど、自分にも頼っていたから。今日の御言葉は、そこを鋭く指摘して来る、「自分の分別には頼らず」と。
 一心に御言葉を聞いて、それに賭ける。自己中心の元凶である「自分の分別」を捨て、御言葉を薄めず削らず、そのままを生きよう。神信頼は、人生を御言葉に賭けることなり。


●8(火)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。       (ハバ2・3)

 都エルサレムの陥落を目前にする時代。神殿で仕えていた預言者ハバククに主が対話される。嘆くハバククに、義しい裁きと、救いの希望が告げられているのだ。
 「遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」、ああ、この御言葉が二千七百年もの時を超えて、そのまま私の心に届く。私の現実の中に届いて来る。そしてこの御言葉が、私の心にも小さな光を灯してくれた。主よ、今朝いただいた御言葉を握って、あなたの計画を待ちます。


●9(水)
わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。   (エズ8・22)

 捕囚からエルサレムに帰還した民に、主の律法を諭したのが祭司エズラだ。これはそのエズラの言葉。一読して、エッと思った。敵襲から身を守る術を、放棄しているから・・・!?
 続くカ所を読んで、なるほどと納得した。「神を尋ね求める者には、恵みの御手がある」とあったから。でも、実際にこれを求める者はいない。私たちの現実の戦いは、兵を整えないといけないと思うから。その常識を手放すまでは、神様からの恵みは遠いのかも。


●10(木)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。    (ゼカ8・17)

 都エルサレムに帰還した民が、喜びつつ神殿再建にとりかかる。その人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えたのだ。それは、バビロン捕囚となった先祖の轍を踏まないための道標だった。
 神様の導きとは、とても具体的なんだ。生活の中にある事柄なんだ。それは、一切の咎と過ちは生活の中に起こるから。それも私の中に芽生えるから。その悪の芽を、神は「憎む」と言われるのだ。


●11(金)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」   (ヨナ4・4)

 主の赦しが悪の都ニネベに注がれた。それを知った預言者ヨナが、「私は、主の裁きを伝えたのに、これでは面目が立たない」と怒った。その彼に主が言われたのが、この言葉だ。「罪人を赦したのが、お前には不服なのか」と。
 「二言などない神なのに、罪人への義しい決定を覆されるなんて、おかしい。ヨナが怒るのも無理はない」と考えていて、ハッとした。「ニネベの人々よりも、私こそ罪人だ」と気付いたから。裁きを翻した主の恵みは、罪人にだけ分かる恵み。その恵みに、私も生きている。


●12(土)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。   (箴1・23)

 今朝の御言葉の直前にガツンと、「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着を持つのか」と叱られている。
でも、叱って終わるんじゃない。「立ち帰れ」と言う。聖書って、最初から最後までこのトーンで貫かれているかも。そう気付いたら嬉しくなった。愚かで浅はかなことをしない者はいない、それは私自身だって分かっている。でも神様はそんな私が、ご自分に立ち帰ることをこそ喜んで下さるのだから。天の真の父として。


●13(日)


主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●14(月)
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と言った。     (創11・4)

 人々は、バベルの塔を作り始める。その目的は「天まで届いて、有名になりたい」ということ。でも「天まで届く」と言うのは、神の座に自分が届きたいということ。有名になるというのは、支配者になりたいということ。結局どちらも、自分が神になるという野望なんだ。
 ふと「テッペン取ってやる」という巷の言葉が重なっているように思えて、恐くなった。その言葉を、賞賛する世が、見当違いのことを望んでいるように見えたから。バベルの塔と同じ崩壊の道を、進んでいるように思えたから。


●15(火)
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教えなさい。    (申6・6〜7)

 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛せよ」との主の言葉を、心に留めよと言われている。しかもそれだけではない。この命令は、それを子供たちに教えよということだ。
 信じる生活というのは、自分の個人的なことだと考えがち。家族は別で良いって思いがどこかにある。よくて「家族伝道しなきゃ」ぐらい。でも神の思いは「自分の信仰」と、「家族に伝えること」は同じ重さなんだ。子供に教えることは必須なんだ。子供も神の宝だから。


●16(水)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。   (イザ6・5)

 主なる神からイザヤに、召命の声が掛けられた。その瞬間、彼はひれ伏したのだ。神の前に立つ自分は、罪人でしかないことに気付いていたから。その時に言った言葉が、これだ。
「でも、どうして?」と思う。なぜ「汚れた唇」と言ったのだろう。「汚れた心」でもなく「汚れた者」でもない。
 もしかしたら、罪は口から形となって出るものだからかも。口が、罪が溢れ出る扉だからかも。そのことって、僕にはすごくよく分かる。私も「汚れた唇の者」だと知っているから。


●17(木)
お前(ダビデ)はわたし(サウル)より正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。   (サム上24・18)

 ダビデを妬んで、命さえ狙ったサウル王。でもダビデは、逆襲するチャンスがあったのに、一切、手を出さなかった。それを後に知ったサウルが言った言葉が、コレだ。
 「正しくない」というのは、悪意を持つこと。「正しい」というのは、赦すこと、善意をもって接すること。それをサウルは、人生の最終章で悟ったのだ。ボクは、今、御言葉を聞いて悟りたい。悟って、そのように生きてゆきたい。


●18(金)
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。   (レビ19・16)

 主がモーセに、「聖なる民となるように」と律法を与える。その中の一つがこれだ。人と人との間におけるあらゆることが、ここに取り上げられていく。
 「中傷と偽証」が隣人との間を裂くと、忠告されている。ふと思った、「人と人との間に壁を作ったり、不和を生み出したりする物は、口から出て来るのか」と。かけがえのない友人に対してさえ、この過ちを犯してしまう。御言葉に従えないくらいなら、むしろ貝になりたい。この思いを、忘れないで今日を過ごそう。


●19(土)

主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。    (イザ66・2)

 神様に顧みていただけるのは「御言葉を守る人」とか「主に従う人」とか「善意の行いをする人」とかじゃないんだ。主ご自身は、そんなこと一言も言っておられない。
 むしろ「ああ私は、御心の通りに歩めない」と悲しむ人。「私はあの人を傷つけ、この人のつまずきとなった」と苦しむ人。「御言葉こそ真実。私の罪に、迫って来る」とおののき、ひれ伏す者。ふと思った、「神様に顔を上げられない時、慈愛の眼差しは注がれているのかも」と。


●20(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●21(月)
あなたの道、あなたの仕業が、これらのことをもたらす。   (エレ4・18)

「エ、なんだか怖い感じ・・・」と思って聖書を開いたら、やっぱり、自分の犯した悪によって、報いとして受ける災いのことだった。
 でも、先を読んで気付いた。神は怒って、裁判官のように冷たく言い放っているんじゃない。主は、嘆き悲しんでおられる。私の犯した仕業、道を外れて歩んだ日々について、お心が張り裂けそうになっておられるのは神ご自身なんだ。「ああなぜ、ダメだと言った道を行き、罪を犯したのか」と。深いため息とともに。
悲しませて、主よ、本当に御免なさい。


●22(火)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。   (ヨナ1・14)

ヨナが言った言葉だと思ったら、違った! 
神の派遣命令から背走したヨナを乗せた船が、嵐に遭う。ヨナが「私のせいで嵐に遭っている。私を海に放り込め」と告白する。躊躇する乗組員。一人の命を海に放り込むのだから。でも、万策尽きた後に、最後に決断したのだ。その時の彼らの言葉が、今朝の御言葉だった。
 異邦人が、主なる神に委ねた。それも熟達した信仰者のように。クリスチャンだけが神を知り、信じている人だと思っていたけど、見当違いで、不遜だったかも。傲慢だったかも。


●23(水)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。    (サム上2・3)

 これは、ハンナが、念願の息子(サムエル)が与えられ、喜びに溢れて神賛美する歌の一節だ。喜びの絶頂にある歌だ。それなのに何故だろう、手放しに喜ぶどころか、むしろ自分への戒めの言葉のように聞こえる。
 もしかしたら・・・人は喜びの絶頂で驕り高ぶる罪の穴に落ちると知っているからかも。だから気を引き締めて、なお主を仰いで自分を律しているんだ。信仰の母ハンナなんだ。戒めの言葉は、他人にではなくて、自分に向ける時に、最大の力を発揮するのですね。


●24(木)
主の山に、備えあり   (創22・14)

 アブラハムの息子・イサク奉献の場面だ。アブラハムは、神様から一人息子を焼き尽くす捧げ物にするように言われた時、どんな気持ちだったんだろう。やっと与えられた愛息子なのに、「主よ何故ですか」と悶々としたんじゃないんだろうか。それでも、その解決のない心を抱えて、主の言葉に従った彼。小刀をイサクに振り上げた瞬間、主が用意した捧げ物の雄羊を見つけたのだ。その場面の御言葉だ。
 結果を知っているから、安心して読める。でも渦中にいたら、ボクはどう生きるんだろう。悶々としつつ、一歩を踏み出せるんだろうか。


●25(金)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。   (コヘ3・20)

 地上の限られた命を生きるものとしての人間の虚しさを、突き詰めて示される。それは、塵から成って、塵に返る存在だということだ。
 でもコヘレトの言葉は、そこで止まらない。全体を通して告げられていることは、「今という時を喜んで生きよ」ということ。地位や財産や名誉などはかなく消えるのだから、今日の一日を、喜んで食べて飲めと言うのだ。
 今朝、主が「今日を喜んで過ごしたらいいよ」言って下さると受け取ったら、清々しい朝になった。他のものへの執着が消えたから。


●26(土)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。  (エゼ34・16)

 バビロン捕囚の人々の中で、預言者エゼキエルが主の言葉を伝えた。それは神様からの救出宣言。それも、ご自分が捜し出して、見つけ出して、抱きかかえて家に帰るという宣言。
 この神様の姿は、イエス様のあの言葉・・・「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ一〇章)と重なると感じた。羊飼いでいて下さる父なる神の姿は、イエス様に実現したのだ。そう思えたら、旧約の神の言葉は、実現する約束だと思えた。旧・新約どちらも読むことが大事なんだよね。


●27(日)

主日礼拝説教

         成智圭神学生
(東京神学大学学部4年)



●28(月)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。   (ゼカ2・17)

 バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが、主からの希望の言葉を告げた。それは、あなた方のために「主が立ち上がられる」という約束だ。それはつまり主である神が、座るべき天の玉座を、降りられるということ。それも私どもの傍に来て下さるために、ということ。一方的で、破格の恵みだ。それを、神に背いた民が聞いたのだ。神の救いの恵みは、本当は畏れ多くて、申し訳ないほどのこと。あ、私もその恵みを受けていた。あの受洗の日に。


●29(火)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。     (ホセ6・3)

 北イスラエル滅亡の少し前、主の言葉を語り続けたホセア。「今朝の言葉は、信頼に満ちた信仰告白だなぁ」と思っていたら、全然違った。なぜなら、本来ホセア書は、主を捨てる民の背きの姿が縷々記されている書だから。
 聖書を開いて、すぐに分かった。今朝の言葉は、人の口先だけにある言葉だったから。上辺だけで礼拝する人々の言葉だったから。
 ギクッとした。同時に「形だけの礼拝でなく、心から主を愛する者でいたい」と強く思った。


●30(水)
わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。   (哀3・40)

 背信のイスラエルの民の中にあって、詩人が歌う。「主よ、あなたに逆らって来たのは、私たち自身です」と。しかしその自分の姿を見詰めることが出来て、また受け止めることが出来たからこそ、立ち戻って行く道が分かるのだ。それは、主の元に帰るということ。その道は、一八〇度向きを変えるUターンなんだ。
 ああ、それが「悔い改める」ということ。神の御許へのUターンなんだ。それも安心して辿って良い道。それは、主ご自身が喜ばれるUターンなんだから、そこに聖霊の助けもあるよ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:09| 『日々の聖句』