2022年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2022年11月30日

『日々の聖句』2022年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年11月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。(マコ1・38)

いつもイエス様の周りには、群衆が殺到して来ていた。休む間も無くなるイエス様。大変だったろうな、と思っていたけど、今朝「ちょっと違うかも」と思った。イエス様の方が、人びとを求めて、人々の中へと歩み行かれたんだと知ったから。それがイエス様の願いだったということも。
それを知って嬉しくなった。だってボクの所にも、イエス様の方から求めて来て下さったんだと分かったから。


●2(水)
あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(1ペト2・9)

私たちがイエス様によって救われた者となったのは、「ああ良かった」で終わるためじゃなくて、神からの任務を担うためだと告げられている。それは、主の御業の伝道だ。
これまで戴くことばかりを求めていたかも。戴き物の大きさを知っていても、少しもお返ししていなかったかも。でも、信仰の大人に成長しよう。御父がボクを信頼して、任せたいと言って下さる務めを知ったのだから。


●3(木・祝日)
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ロマ4・25)

イエス様が地上に降誕された出来事の意味が、そして御父の計画の目的が、ここに一文で言い尽くされている。それが、私たちの罪のため御子を死に渡し、私たちを義とされたくて、復活させられたのだ、と。
この一文こそ、クリスマス聖誕劇(ページェント)の最後に読まれるべき言葉じゃないのだろうか。「クリスマス嬉しい」だけじゃなく、降誕を真に感謝する者となるために。


●4(金)
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。   (1コリ15・10)

大使徒・パウロ。でも彼は、自分の働きを誇らない。それが今日の言葉となった。彼ほど誇れる結果を残した人はいないのに・・・。
彼は、キリスト者の迫害者だった自分を知っていた。神への反逆者だった自分を。しかしその自分が「救われた」ということも。そうだ! 彼は己を知り、また救い主を知っていたのだ。この二つが今日の言葉を生んだのだ。ボクも、この二つに生きたいな。


●5(土)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 (1テサ5・16-18)

これは、キリスト者ならきっと誰もが好きなみ言葉だ。喜びと、祈りと、感謝のハーモニー。こういう信仰の生涯を送りたいといつも願っている。
そしてそれは、私たちの願いだけじゃない。今日の御言葉の後に「これこそ・・・神があなたがたに望んでおられること」とあったからだ。
「大好きな御言葉だなぁ」だけで終わらせちゃいけない。これを生きなきゃ。神が切望しておられるのだから。


●6(日)
礼拝説教
(召天者記念礼拝)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●7(月)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。(コロ3・8)

神様の大切な隣人を傷つけている時、ボクの心の中には「自分こそが正しい。自分に正義がある」という欲から生まれる怒りがある。それを相手にぶつけてしまおうとする悪意がとぐろを巻く。完膚なきまでにやっつける言葉を選んでいる悪意だ。とうとう、その思いと言葉を口から出す。
ああ、ボクの心は罪の巣窟だ。その全部を捨ててしまいたい。恥ずべきことをしてると言われているのだから。


●8(火)
キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリ1・29)

イエス様と共に歩む人生は、苦労もある。家族に毎週教会に出掛けるのを理解してもらえないこと。仏式の葬儀での戸惑い、そして小さな迫害も・・・。信仰者として誠実であろうとするから、そこで悩むのかも。
そういう人を、主は「私の伴侶のように、苦労を共にしてくれるのだね」と喜んで下さる。でも、微塵も悩み無しでいる人は、どう思われているのか。「少しは悩もうよ」、かもね。


●9(水)
不平を言わずにもてなし合いなさい。 (1ペト4・9)

相手に仕えようとする時、「どうして私が? どうして私だけがするの?」とか、不平を感じてしまう。御言葉は、心から愛して仕えるようにと、促す。
んっ? でもそれだけじゃない「もてなし合う」というのは、もてなされる側にいても不平が出るということ。「もっとこうしてくれ、ああして欲しかった」とか。嗚呼、人はどこまで不平を持つ者なのか。あ、それボクか


●10(木)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている  (ヘブ4・14)

「偉大な大祭司」と「イエス様」とが、どう繋がるのか。それが大きな問題。そしてそこに大きな恵がある。それは「神との間の仲介者」が「大祭司」の働きだから。それにイエス様がなって下さると言うのだから。
イエス様は、ボクの執り成しのため、御自身の身を捨てて命懸けになられた。この大祭司がいてくれたから、ボクも神を「天の父」と呼べる。天国が「ボクの真の古里」って言える。


●11(金)
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。  (1ヨハ2・9)

「主によって救われて、ああ感謝だ」と信仰生活を歩む人に、御言葉は語り掛ける「あなたは、兄弟姉妹に憎しみを抱えていないか? 腹立たしい思いを抱えていないか?」と。そして「そうであるなら、あなたはまだ今も、主イエスを知る前の闇の中にいる者なのだよ」と。
闇の中に引きずり戻すのは、隣人のせいじゃなかった。自分自身だったんだ。まず自分が変わらなきゃ!


●12(土)
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。  (ヨハ12・26)

イエス様は、「・・・わたしに従え」と促される。
「ボクも、イエス様と一緒にいたいから、従って行こう」と思って、今朝の御言葉の直前カ所を読んでドキッとした。そこには「一粒の種、地に落ちて死なずば・・・」の御言葉が語られていたからだ。ここは、十字架の死の話しをしておられたのだ。だから、主に従うとは、そこまで行くということ。相当の覚悟がいる。・・・覚悟した!


●13(日)
礼拝説教
(ウエルカム礼拝)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●14(月)
キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。  (2コリ5・17)

多くの人は「生まれ変わりたい」と思うことがあるという。在りたい自分と、現実の自分が違うから・・・。
でも今朝御言葉は「あなたも新しく生まれ変われるよ」と告げる。「天の御父の子どもになれる。恵み豊かな天の国の家族になれるんだよ」と。そのために為すべきことは一つ。洗礼を受けること=キリストに結ばれること、この一つだよと。改めて洗礼の恵みの深さを噛みしめたい。


●15(火)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 (ヤコ2・1)

「人を分け隔て」なんて、ボクはそんなことしない。そう思いつつ聖書を開いたら、相手によって態度を変え、貧しい人を末席に座らせることだった。やっぱりボクはそんなことしないよ、と思う。でも、本当にそうかな。
自分の価値観で人を見て「あの人は出来ていない。あの人はおかしい」と裁いていないだろうか。批判するという末席に、座らせていないだろうか。自分が上に立とうとしてないか。


●16(水)
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 (マタ 5・18)

「律法主義はダメだ。行いで義とされるのじゃなくて、信仰だけが大事なんだ」と言うボクに、イエス様がガツンと言われた。「律法は消えないぞ。その一つさえ破ってもダメなんだよ」と。そもそも律法は、神との約束の言葉。それを軽視するなら、そこから神の言葉を大切するという堤が、蟻の一穴のように崩れ出すから。
ボクも神を慕う信じる者だから、懸命に、行いがが伴う者になりたい。


●17(木)
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。      (ルカ6・31)

律法の黄金律は「神を愛し、隣人を愛する」こと。その「隣人を愛する」ということは、単なる心情の話しではない。具体的に「このようにすべし」と言われている所作がある。それが今朝の御言葉なのだ。
優しい心になって、自分が「してあげたいな」と思うことをするんじゃない。まずは、その勘違いから訂正しなきゃ。「わたし本位」ではなく、「あなた本位」になることなのだから。


●18(金)
律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリ3・9)

「律法から生じる自分の義」とは、「私は十戒に従って生きようと励んでいる。人の道にも外れたりしない」と安心している生き方。「信仰に基づいて・・・」とは「私は何も出来ていない。むしろ御心に外れ、人の道にも外れている」と嘆く生き方。
今朝、御言葉は「神が喜ばれるのは後者だ」と言う。自分を見る目を捨てて、神様だけを見てすがる者でありたい。そこに「救い」があるから。


●19(土)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。  (1コリ12・26)

教会は「キリストの体」。その「一つの部分」とは、私のこと。私が悲しみ苦しんだら、兄弟姉妹も一緒に心を痛めて祈ってくれるのだ。喜べば一緒に祝ってくれるんだ。なんて嬉しい!
でも喜びつつ、ハタと思い留まった。「部分」というのは、隣人の兄姉のことでもあって・・・。私はその人の苦しみを一緒に背負って、祈っているだろうか。自分にしてもらうことばかりを求めていないだろうか・・・。


●20(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●21(月)
いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 (ヘブ3・18)

なんだか語気が激しく恐い感じがして、聖書カ所を開いたら・・・。出エジプトの恵みを受けたのに、神に従わないことばかりしていた頑ななイスラエルの民に対しての警告だった。
でも直後に「不信仰のせい」と言われているゆえに、このみ言葉はボクに向かって来る。だから直前の「今日、神の声を聞くなら・・・心をかたくなにしてはならない」との促しに、「御心を歩ませ給え」と祈りが始まる。


●22(火)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。 (1ペト3・9)

「はい、そうします」と言いながら、実際にはどれほど難しいことか、ちょっと本気で考えたら分かる。
ほんの一言でも気に入らないことを言われただけで、すぐに言い返す。倍返しで言い返す。その時すぐ言えなかったら、夜中までも頭の中でバトルを繰り返している。相手を打ち負かそうとして。
ああ私は、世の中で一番の愚か者。主の溜息が聞こえる気がする。


●23(水・祝日)
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。   (ガラ3・26)

私たちは、キリストに「結ばれた」と告げられている。そこで、いつ、どのようにして「結ばれた」のだろうか、と思い巡らしてみた。
結婚のようにかな? それとも・・・と考えていてハッとした。この結びつきは、イエス様のほうからの働き。それも命懸けの結びつき。その式場はゴルゴダの丘(十字架の上)だった。和やかな披露宴どころじゃない。正に、信仰によってのみ分かる真理。


●24(木)
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(1ヨハ5・15)

「何でも聞き入れてくれると信じる、イコール、願った時に既に叶えられている」、これってすごく合理的だな。でも現実の生活では、この実感は無い気もする。願っても、願っても、叶えられないのが現実だから。
聖書を見たら、この「願い事」は「永遠の命」のことだった。これは自力では無理だから、一番願わなきゃいけないこと。ボクは願い事の段階で、もう勘違いしていたのかも。


●25(金)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 (エフェ4・31)

嫌なことをされて、イライラするけれど「わめき、そしり」などしない。自分は、少なくとも信仰をもって生きようとしているから・・・。自分の側に「悪意」なんてない。だって悪いのは相手なんだから、と思っていた。
それでも、このみ言葉が何となく心に引っ掛かる。もしかしたら、神様が語り掛けておられるのかも、「気付かなければならないことに、今日、気付くのだよ」と。


●26(土)
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 (1コリ10・32)

ああ、いつも「あの人に惑わされた、あの人に煩わされた、嫌だなぁ」と思って来た。でも今朝改めて、全く勘違いをしていたんだと知った。
人に迷惑をかけたのは、私のほうだったんだ、と。私は被害者じゃなくて、加害者側だったんだ、と。「あの人の悪から守って下さい」と祈るよりも、「どうか私を赦して下さい」と祈るべきだったんだ。他人との関係回復は、自分の側から始まる。


●27(日)
礼拝説教
待降節(アドヴェント)第1主日

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●28(月)
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 (1ヨハ5・4)

「神から生まれた人」って、そんなこと可能な人間がいるんだろうか。ボクは両親から生まれたんだし・・・。
あっ! ボクの誕生日は2回あった。最初は病院でオギャーって生まれた日。2回目は、教会でオギャーって生まれた受洗の日だ。洗礼って、神から生まれた子となる凄い日。世に勝つ者に生まれ変われた日なんだ。誕生日として、もっと祝わなきゃ。年に2回、誕生日ケーキを食べなきゃね。


●29(火)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。    (ヤコ1・21)

心に植え付けられた御言葉を、受け入れて、あらゆる悪を素直に棄て去るようにと勧告される。その実りが、今朝のみ言葉なのだ。
心に届けられる御言葉がある。『日々の聖句』によって、また主日の礼拝において。それに従うことは、魂の救いに直結しているんだ。生活に喜びが消えているなら、御言葉を見失っているからかも。御言葉に背を向けて、闇ばかりを見ているからかも。


●30(水)
あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対して。     (1コリ6・8)

「兄弟たち」に対して、不義を行い、奪い合っているって何? 教会の中で争い合っているってこと?
何ということだろうか。主の体の教会の中でなんて・・・。互いに一つの体の肢体であるはずの兄弟に対してなんて・・・。「そんなことあってはならない」と思うようなことを、人はしてしまうものなのか。
ああ、その愚かさがボクにもある。教会の中でも、家庭の中でも・・・。




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2022年11月11日

『日々の聖句』2022年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年12月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(2テサ3・13)
「怠惰な生活をし・・・余計なことをしている者がいる」と警告されて、今朝のみ言葉が続いていた。主に与えられた業をし続ける生活をするようにと、勧められているのだ。
「勿論そうしよう」と思って、同時に「たゆまず」の一言も聞き漏らしてはいけないとも気付いた。時においても「たゆまず」事柄においても「たゆまず」だ。人生ってマラソンのようかも。でも独りじゃなく、主の伴走がある。


●2(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 (エフェ6・11)
「悪魔の策略」というのがあると言う。「そんなもの本当にいるの? 本当にあるの?」と侮ってはいけない。人間には分からなくても、その策略に対抗するには「神の武具」が必要なほど恐ろしいものなのだから。
だからさあ、「福音」「信仰」「神の言葉」等の武具を取れ。知らないうちに滅びの道へと迷い込まないように。「ボクは大丈夫」と油断する時が、策略にはまっている瞬間なのだから。


●3(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリ1・27)
ボクだってキリスト者として「福音にふさわしい生活」をしているつもりでいた。でも今朝、「ひたすら」の一言にドキッとした。「しているつもり」だなんて、のんびりしすぎていたと気付いたから。
御心に従う生活を、「したい時にしかしていない」自分がいる。でも「ひたすら」というのは、死に至るまで従順だったイエス様のように生きること。覚悟を決めた生き方なんだ。


●4(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●5(月)
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハ5・8)
三十八年も病気で苦しんでいた人が横たわっていた。その男を憐れまれたイエス様が声かけられたのだ。一言だけで癒せるから。苦しみを取り除ける権威を持った言葉だから。現状を一気に変えるお言葉なのだ。
ふと思った。この一言を信じて立ち上がった男に、御業は起こった。でもボクは、本気で御言葉を信じて立ち上がろうとしているだろうか、と。現状が変わらない原因は、そこかも。


●6(火)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。(1ヨハ1・3)
聖書を開いて御言葉に聞く人は、「わたしたちとの交わり」へと招かれている。その「交わり」とは、この箇所の直後に「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあった。
伝えられる御言葉を聞くのは、「学び」のためじゃない。神様と関わる生活に入れられるためなんだ。「キリスト教の知識のため」じゃない。ボクの生活に直結している。聞くことで、人生を変えることが起こるんだ。


●7(水)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。    (2コリ6・2)
「やった!ついに恵みが与えられる」と喜んで「何を戴けるんだろうか」とワクワクして「あんな事、こんな事をして頂きたいな」と、数え出す。
でも、それは勘違だった。前後に「いただいた恵みを無駄にするな」「奉仕の務め」「神に仕える者としての実」と記されていたから。仕えるために与えられた恵みだ。ボクって、してもらいたい事ばかり。少しは大人にならなきゃ、もう六四歳だけどね・・・


●8(木)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
兄弟姉妹が集う教会で、一人ひとりはその肢体。そして頭がイエス様だと告げられる。イエス様の思い、考えによって体全体は動くのだ。
それゆえに、何をするにも全員がまず御心を聞かなきゃ。「イエス様、今から会議をします。私はどうしたら良いのですか」「今から奉仕をします。今から〇〇します。御心を選択させてください」と。そうしたら、教会中がイエス様色に染まるから。


●9(金)
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着けなさい。 (エフェ6・14)
勇ましい戦士の姿! なにか激しい戦いの予感をさせられる。聖書を開いたら、正に戦いがあると告げられていた。対抗する敵は、「悪魔の策略」、「邪悪な日」だ。
そんな恐ろしい敵が、自分の周りにいるのだろうか? いや、そんな風にボヤボヤしていると、してやられてしまう。私の外にも内にも、策略の手は及んでいるのだから。我もいざ立たん、神の武具を身に着けて。


●10(土)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。   (1テサ5・23)
この箇所の直前に「良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と命じられていた。まさに「全く聖なる者」の姿だ。
でも、それを自力で頑張って達成しなさいとは言われていない。「平和の神御自身が」して下さるようにと祈っている。今までいつも自分が頑張らなきゃダメだと焦っていた。でも信仰とは、頼ること。真に頼れる方を知っている安寧なんだ。ホッとした。


●11(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師




●12(月)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 (ガラ5・25)
私たちは「神の導きがある」という世界を生きている信仰者。
「その導きは目に見えるのかな?」「そうさ! 聖書の御言葉こそが見える導きだ」。「耳で聞こえるのかな?」「そうさ! 祈りの中で心に浮かぶ思いや決心は、心の耳へと語り掛けられた神様からの応答」。それらこそ、神の霊の働きなのです。
我らは、まさしく聖霊の導きに従って前進する信仰者なんだ。


●13(火)
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。(ヤコ1・23)
「え、大喜利? 『その心は』・・・」と思って聖書を開いたら「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると・・・すぐに忘れる」とあった。「なるほど上手いこと言う。面白い」と思った、そしてヒヤリとした。笑ってはいられない。御言葉に従って生きなきゃ何にもならないぞと言われているのだから。神様に言われているのだから。
一歩でも、御言葉の通りに歩まねば。そして、また次の一歩も、ね。


●14(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 (フィリ2・4)
キリスト者として、隣人のことも当然、気にかけているつもりでいる。自分のことしか考えないなんて、そんな信仰者はいないんじゃないの?
でも、今日の御言葉の直前に「へりくだって、相手を自分よりも優れた者として考え」とあった。他人のことを気に掛けてると言っていながら、相手を見る時の目線が間違っていたかも。ちゃんと下に立って僕になっていなかったかも。傲慢だったかも。


●15(木)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。  (コロ1・13)
ボクは以前は、恵みとは別の世界(自分が神となる自己中心の世界、闇の世界)に住んでいて、そこで神様のことを知って、神様に委ねようと自分で信じて決心した、と思ってた。
でも今日、全てのことをしてくださったのは、御父なのだよと告げられる。それを、ただ「感謝しかありません」と、百l受け身で受け取ることが、信仰の出発点なのかも。今日、信仰理解が一変した気がする。


●16(金)
主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。  (ヘブ13・6)
こう言い切れる自信は、一体どこから来るのだろう? 聖書を開いて、分かった。そこには、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と、神様の約束の言葉があった。
神の約束を聞く。そこには、私の内に無い、勇気の種がある。それを戴いたら、芽生え、私の内で信頼と勇気が大きく育つんだ。やっぱり信仰は、御言葉を聞くことに始まるんだな。


●17(土)
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。    (ロマ8・14)
主なる神を「天の御父」と呼べる私たちになった。でもそんなこと、万物を創造された神に対して、本来ならちょっと非常識な振る舞いで無礼になるのかも。いや、絶対に無礼だ。
聖霊を戴いている証拠が、祈りの時に「天の父よ」と安心して呼び掛ける心を持てている、ということかも。だったら、御父の子として喜ばれる歩みをしよう。天の父が、ボクを見て「恥ずかしい」と思わないように。


●18(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●19(月)
二人の目が開け、イエスだと分かった。    (ルカ24・31)
ご復活のイエス様が、エマオ途上で弟子たちと会われ、一夜の宿で夕食を共にされた。そこで、最後の晩餐と同じように「パン裂き」をなさった時のことだ。二人の弟子の信仰の目が開いたのだ、そして「あ、これは主だ。真に復活された」と悟れた。
十字架も、復活も、救いも全部、自分の理解で分かるようなことじゃない。目を開いていただかねば。正に「信仰」そのものが、「賜物」なんだ。


●20(火)
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 (2テモ2・8)
この箇所の少し前に「キリスト・イエスの立派な兵士として」キリスト者の苦しみを忍ぶようにと告げられていた。その私たちが、イエス様のことを想起するようにと促されている。それは、イエス様が「死者の中から復活された」ということの想起だ。
復活の福音ー。それは私たちには復活の命があるという貴い約束だ。これこそが、イエス様に結び付けられて生きる者の忍耐を支える希望だ。


●21(水)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。    (ルカ6・35)
イエス様は、善を行い、与え続けることを求められる。ふと「自分にはなかなか出来ないよ」と思う。でも、そういうボクに、主は「弱いあなただけど、もう一度やってごらん」と優しく言っておられるのかもと考えてみた。
でも、そんな風に御言葉を自分に都合よく、勝手に丸めても良いんだろうか。然り! 主は「ここを生きよ」と厳命されている。そして賭けた者のみ、恵みの世界を経験するのだ。


●22(木)
御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。  (ヘブ13・21)
あらゆる恵みが、私たちの懐に押し込まれるようにして、溢れるように入れてもらえる。「ああ、感謝だな」と思って有頂天になっていたボクは、今朝の御言葉でふと気付いた。
なぜ恵みを戴けるのかを告げていたからだ。それは、「御心を行うため」。ボクが神様の御心・御計画を喜んで上手に行えるために戴ける道具だったんだ。使い方を間違えないようにしないと実りは無いのかもね。


●23(金)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 (使1・8)
「あなた方と共にいる」と伝え続けたイエス様が、天に帰られる直前に語られたのが、今朝の御言葉だ。
「神は私と共に居られる」ということは、そんな気がするという抽象的なことじゃなかった。イエス様が今も共に居てくださるというのは、聖霊がボクの内側に内住されるということ。その現実なんだ。ボクも受け取った、受洗の日に。ボクの内にも神が共におられる。それこそが力だ!


●24(土)
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブ10・22)
「神に近づこう」、そう願って生きている。そこが恵みの源だから。
でも今朝の御言葉で、ふと思う「ボクは信頼しきっているだろうか」と。ご利益宗教のように、願い事だけを言いっ放しにしていないだろうか。また「ボクは真心を込めているだろうか」と。なんだかドライな関係ではないだろうか。
ああ、幼な子のようになりたい。無心に「天の父よ」と呼ぶ者でいたい。


●25(日)
降誕祭(クリスマス)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●26(月)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。  (ルカ19・10)
「人の子」とは、神の御子イエス様のこと。誰かを探しに、天から降って来られた。それは「失われたもの」と、御言葉は告げていた。
ある日、その「失われたもの」が自分自身のことだと気が付いた。そのときイエス様のことが、グンと近くなった。神様のことが、グンと近くなった。天の高い所におられる方じゃなく、ボクの傍らに居て下さる方になった。クリスマスが、感謝の日となった。


●27(火)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(1ヨハ4・15)
「ボクもキリスト者としてその一人だ。神がボクのうちにとどまってくださる、感謝」と思った。でもすぐ後に「公に言い表す人は」の一言に目が留まって、うろたえた。「周りを見て、口にすることを躊躇する時がないだろうか」と思ったから。会社や食堂で、公にするどころか、祈ることさえ気後れする。そこで、貝になっている。
内におられる神に、悔い改めるばかり。そしてすがるばかりの我なり。


●28(水)
世の汚れに染まらないように自分を守ること (ヤコ1・27)
あー、ボクはもう染まり切っている。世の汚れは「舌を制することができず」「困っている人を世話せず」「御言葉を聞いても行わず」という人のことだったから。
あー、ボクはかなり焦ってきた。染まらないで自分を守れた人が「神の御前に清くけがれのない信心だ」と言われていたから。もうダメかも。
いや、今日が岐路だ。今日を、立ち帰る日とすれば良いのだから。


●29(木)
もし信じるなら、神の栄光が見られる。 (ヨハ11・40)
墓に葬られたラザロ。既に死んで四日も経っていた。傍で泣くラザロの姉妹マルタ。その彼女にイエス様がおっしゃったのがこの御言葉だ。「神の栄光」とは、ラザロが死を打ち破って生き返ることだった。
信仰は、人が「これは絶対に無理」と思う壁を破る。ボクの周りにも「絶対無理」が溢れていた。それと向き合って祈って来た。ボクもそこで神の御業を見て来た。今朝の言葉は、真だ。


●30(金)
こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える (ルカ1・73〜74)
ああ、明日はもう大晦日。その日に、洗礼者ヨハネの父・ザカリアの賛歌を聞く。それは救い主の降誕と、その道を整えるヨハネの誕生の喜びだ。
私のこの一年も、イエス様に支えられた日々だった。自分の不信仰で多くの過ちを犯したけど、そのたびにイエス様が御許に立ち帰らせて下さった。それこそが「敵からの救い」だった。感謝で今年を終え、加えて恐れなく主に従う決意も新しくしよう。


●31(土)
神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使4・19)
ユダヤ人当局者から「イエスの名によって福音を語るな」と命じられたペトロたち。そのとき躊躇しないでこの言葉を告げたのだ。「殺すなら殺してくれ」と言っていることになるのに。
「聴従か死か」。本気で主に信頼して生きていないと、この一言は言えない。ボクは言い訳ばかりしているうちに、この本気さを失っていたのかも。大晦日の夜、そのことを黙想する時にしたら、来年はいい年になるかも。
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2022年10月31日

『日々の聖句』2022年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年10月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。   (2コリ9・6)
惜しまず蒔く「種」とは、エルサレム教会への「献金」のことだった。
献げものとしての献金のことだと知って、じゃあ「惜しまず」って、どのくらいなんだろうと考え始める。金額のことなのか、それとも献げる時の気持ちのことなのだろうか、と。そう考え始めて、もしも次に献げる献金が変わったら、この御言葉が心に届いたということなのかも。信仰って、具体的な生活に直結している。

●2(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。  (ヤコ2・13)
こういう御言葉を聞くと、瞬間的に「憐れみをかけるって、どの程度まで?」とか「それは、嫌いな人とか敵に対してもということですか? そんなこと現実的にはどうかなぁ」とか、すぐに考え始めてしまう。振り返ったら、ボクは実際の行いで、人に対して分け隔てしている・・・。
そのこと全てに、ガツンと鉄拳を下された気がした。そうだ、ガツンとだ。痛いと思うことが大事なんだ。

●4(火)
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。   (1コリ12・27)
教会がキリストの体にたとえられる。そして、その体の一つひとつの部分が私たちなのだ、と。
「自分はどの部分なんだろう」と、ふと考える。奉仕する「手」だろうか、気を配る「目」だろうか、と。
でも今日は、自分のことを考えるのは横に置こう。「あの人はどんな大切な部分なんだろう」と考えよう。そうしたら、「あの人のために」と祈れるから。決して裁いたりしないから。

●5(水)
神は人を分け隔てなさらない。 (使10・34)
誰と誰を隔てないのか。それは、神様から恵みを戴けるのは当然と考えていたユダヤ人と、決してもらえないと考えていた異邦人とだ。でも・・・。
「これはユダヤ人に向けての話だ」と考えちゃいけない。私たちこそ、神の恵みについてあらゆる分け隔てをつくるから。他人を見て「あんな人」とか、自分を見て「私なんか」とも。そういう私たちに、神はキッパリ言われた。私に、分け隔てなどない、と。


●6(木)
時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった   (ルカ1・20)
天使がザカリアに現れ「洗礼者ヨハネが生まれるよ」と告知した。でも「私も妻も老人なのに、有り得ない」と信じない。その彼に、天使が再度告げたのだ「あなたは口が利けなくなる」という痛烈な裁きの言葉と共に。
天使の言葉(ボクには御言葉だ)を信じないのは、それでもいいやで済まされない。神様が「わたしの言葉を信じなかった」と嘆かれること。もしかしたら怒ってもいる。ドキッとした。


●7(金)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。      (コロ2・6)
イエス様を知って、洗礼を受けた。でもその後も肝心。「キリストに結ばれて歩みなさい」ということだ。
だって、そうしないと転んでしまうから。だって二人三脚のように片足はイエス様に結ばれているんだから。イエス様に合わせて(御言葉に合わせて)イッチ、ニ。イッチ、ニ。肩も主に抱かれながら、イッチ、ニとね。その歩き方こそが、幸せになれるゴールに向かっているんだから。


●8(土)
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。  (マタ21・3)
他人のロバなのに、主は「イエス様のために貸してください」と申し出るように命じられた。こんな非常識なことを言い出せるのか・・・。従ってみた彼らは、その時、お言葉通りになるという神の御業を経験したのだ。
ボクは「こんなの無理、非常識」と思える御言葉に、ちゃんと従えるだろうか。人間が出来そうなことしか従わないから、人間の射程範囲の小さな恵みしか得られないのかも。


●9(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 (ルカ19・5)
木の上にザアカイが居るなんて、誰も知らない。隠れていたんだから。でも彼はイエス様を見てみたくて枝陰に潜んでいたんだ。その真下でピタリと足を止め足られてイエス様。そして声を掛けられたのだ「降りて来なさい。あなたに会いたいから」と。
ボクの時も同じだった。ボクの傍でイエス様はピタリと足を止め、声を掛けて下さったんだ「あなたに会いたい」と。だから、今のボクがいる。


●11(火)
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。    (コロ3・14)
「身に着けなさい」と言われているということは、身に着いていないゾという指摘。さらに、気を付けないとゴッソリ落ちてしまうぞという警告。加えて、身に着くまでは訓練と修練が要るという諭しかも。
心して頑張らなきゃ。本気で頑張るべきことは、これなんだ。身に着けた愛によってこそ、人と人との関係は完成されるのだから。代替策は、他に何も無いのだから。


●12(水)
子たちよ、偶像を避けなさい。  (1ヨハ5・21)
「子たちよ」と優しく語り掛けられる。しかし、これがヨハネの手紙の最後の言葉なのだ。つまり、これがこの手紙で言いたいことの総まとめなのかも。この一言に手紙の内容は尽きるのだ、「偶像を避けなさい」と。
「周りにあるこの世の習慣や常識という偶像を避けよ。あなたの中にある自分中心という偶像から飛び退いて生きよ」と。そこから、新しく愛に生きることが始められるから、と。


●13(木)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。    (ルカ1・68)
洗礼者ヨハネが生まれた時、父ザカリアの第一声が、この言葉だ。それは、ついに救いの御業が始まるという喜び。神の救いの御業の進撃ラッパ。
神をたたえるのは、自分にアレコレの恵みを与えられた喜びなんかより、何よりも救いの御業なんだ。ボクは、ひょっとしたら自分への小さな恵みのことばかりを考えていて、救われたことを軽く考えてしまっているかも。すっとこどっこい信者かも。


●14(金)
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリ4・7)
この「宝」というのは。キリストこそ救い主という「福音」のことだ。その「福音」を伝えるのは、金でも銀でもない「土くれの器」でしかない人間だと、パウロは告げた。語る者を見るのでなくて、百%「福音の光」そのものを見て欲しいからだ。
隣人に福音を伝えたい。それなのに上手に語れないと下を向く私。でも土の器の私でいい。福音を大切に生きれば、器の中の宝が輝くから。


●15(土)
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    (ロマ3・25)
聖書は一切言葉を濁さず、父なる神が御子を供え物としたと告げる。
アブラハムが息子イサクを捧げ物にするように神に命じられ、祭壇を築いて息子を屠ろうとした出来事を読むたび「どんなに辛かったか」と心の痛みを思うのに・・・。御父は御子を本当に十字架で供え物にされた。それなのにどうしてボクは、その痛みを思い巡らすことが希薄なのか。ボクの信仰は、何を信じているんだろう。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●17(月)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。     (ヨハ6・36)
イエス様が、群衆を前にしてこの言葉を言われた。今、あなた方の前に「命のパン」である私が立っているが、見ているのに誰も信じない、と。
ふと、子供の頃にCSの先生に言っていた言葉を思い出した「弟子たちのようにボクだって、目の前でイエス様を見たら、いつでも信じるよ。でも見られへんからなぁ」と。ああ、幼な過ぎた。でもあれからボクは、少しは成長できたと言えるのかなぁ。


●18(火)
はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。  (使3・6)
ペトロが人々に向かって、イエス様のことを説き聞かせ始めた。彼らは分かっていた事実がある。それは五十日前、自分たちがイエスを十字架刑にして殺したということ。でもペトロは、そのお方が救い主だったと告げたのだ。人々は驚愕しただろう。自分がメシアを殺したと知ったから。
自分が主を殺したという驚きは全ての人の驚き。その驚きが信仰の入り口。そして救いへの唯一の入り口。


●19(水)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。  (マコ1・22)
人々を前にして、イエス様が会堂で教えられた。それは他の教師達とまるで違った。彼らは、調べたことを器用にまとめて語っただけ。それを人々は喜んで学んではいた。寺子屋のように。でもイエス様の話は、異質だった。神からの良い知らせ(福音)として伝えられたから。人々の心に「従う」という思いも生まれた。学習とは違う、信仰の決断として。
福音は、学習の世界の外にある。


●20(木)
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタ6・18)
「山上の垂訓」の中の一節だ。人々には「断食すべし」という律法があった。でもそれをする時「私はこんなに熱心にしていますよ。熱心な信仰ですよ」と人に見せようとして、苦しそうな顔をして見せた。結局、人の目や評価だけが気になり、縛られてた。
イエス様は「天の父が見ているから」と言われる。人の評価に縛られる自分から、解放してくれる。自分を誇る罪から、解き放ってくれるんだ。

●21(金)
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。  (1ペト4・14)
「キリスト者」と知られるだけで社会から爪弾きになる迫害があった。
「大変な時代があったんだ」と他人事のように考えちゃいけない。今でも、キリスト者として生きようとするなら主日厳守、十一献金、あらゆる偶像厳禁がある。ここに本気で立って「生きづらいなぁ」と思う生活をちゃんと送っているのかが問われているんだ。そしてその生きづらさこそ、ボクも神の子供だという証なのだ。


●22(土)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。      (ルカ2・11)
幼い頃から、教会で(また教会学校で)、クリスマスの聖誕劇で何度も聞いて来た御言葉だ。これは、野宿していた羊飼いたちに、天使が告げた嬉しい知らせ。なぜか聞くたびに、ボク自身が胸をときめかせた嬉しい知らせだ。
大人になっても、大好きな御言葉だ。聞くたびに心がホッとして、読むたびに平安が拡がる。私のために、救い主が来られたと聞くのだから。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●24(月)
イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」    (ルカ10・37)
イエス様から「隣人を愛するとは、傍で困っている人に、自分が手を差し伸べるということだ」と、善いサマリア人のたとえ話を聞いた。皆は「立派な教えだ」と感心する。でもその人々の顔を見て、イエス様が「知っているだけでなく、あなたが手を伸ばすのだよ」と言われたのだ。
ボクもこの教えを理解している。それなのにどうしてボクの手は、こんなに短くて、隣人に届かないんだろう。


●25(火)
マラナ・タ(主よ、来てください) (1コリ16・22)
コリントの教会に律法主義が再び持ち込まれ、主イエスから離れる「救いへの道の逆流」を起こしていた。そこにパウロが「主に立ち帰れ」と切々と手紙を書いたのだ。その締めくくりに、今朝の一言がある。
「立ち帰れ」と語る根拠が「ご復活の主は再び来られる、早くお迎えしたい」という再臨信仰。ボクにも再臨希望は与えられている。お迎えするに相応しいボクに、ならないとね。


●26(水)
あなたが信じたとおりになるように (マタ8・13)
異邦人の百人隊長が、部下の病の癒しを願い出た「ひと言おっしゃってください。お言葉だけで治していただけますから」と。それに対して、主が答えられたのが今朝の言葉だ。
「信じたとおりになる」ってスゴイ。信じるだけで、願いが叶えられるんだ。病の癒しでさえ、だ。
でもウッと思った。本気で信じてないなら何も動かないと気付いたから。信じことに、本気度が問われてる。


●27(木)
わたしたちは神に属する者です。 (1ヨハ4・6)
私たちはこの世に属する者ではなく、神の家に所属する者。なんて嬉しい呼び掛けだろう。私の側の努力も精進も一切問われることなく、「あなたは私の家の子だよ」と、御父に言っていただけるなんて!
ここに続けて「神を知る人は、わたしたちに(聖書の御言葉に)耳を傾けます」とあった。単に嬉しいというだけじゃ何か足りない。神の家の者らしく、御父の言葉に聞かなきゃね。


●28(金)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。 (マコ16・7)
イエス様の亡骸が納められた墓には、天使だけが居た。そして今日の言葉が告げられたのだ。「あなたがたの故郷・ガリラヤへ行け」と。でもなぜガリラヤだろう。一切が出発した場だから、新しい出発もそこからということか。ペトロにとってガリラヤ訛りは、主への裏切りが露呈した印。そこに立って再出発ということか。理由は絡み合っているのかも。ボクに復活の主が出会った下さった場のように。


●29(土)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(コロ1・23)
「福音(良い知らせ)」って、最近自分の周りに無いな・・・。「希望」も、今の自分には見つけられない。そう感じる日・・・。もしかしたらイエス様から心が離れているからかも。なぜって、イエス様ご自身が「希望」なんだから。また「福音」そのものなのだから。
「救われて神の子として愛される」、この良い知らせこそ「希望」に直結しているのだ。だから明日、礼拝に帰ろう! 福音を聞き直すために。


●30(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  西田恵一郎 牧師



●31(月)
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。   (マコ12・43)
献金箱に、生活費を全て献げた貧しいやもめを褒めたイエス様。
「でも、今日の生活費はどうするの? 自分はいいけど、子供のご飯はどうするの? これはやり過ぎじゃないの?」という思いが溢れて来る。そんなボクの思いに、イエス様が問い掛けて来るのかも、「自分の生活は確保しておいて、残ったものから出来る分だけ献金すればいいんじゃないの、という順序はどうなんだ!」と。



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2022年09月30日

『日々の聖句』2022年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年9月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。 (エフェ4・1)
どこに招かれたのか? それは、キリストの体である教会に、だ。一つの体となるように、頭であるキリストに結ばれて、各人が体の一部分として生きよということなのだ。
そうであれば、ふさわしくない姿とは、その一致を乱すことなのかも。どうすれば、そんな人にならずに済むのだろう・・・きっと、頭であるキリストのように、自分の全てを捨ててまで隣人に仕える者となることだね。


●2(金)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。   (1ペト2・4)
イエス様は、人々から評価されず、認められもせず、かえって見放され、殺されてしまった。しかしその歩み全てが、父なる神の御心に従われたご生涯だったというのだ。その故に、御心の「救いの成就」がなされたのだ。
今朝のみ言葉の直後に「あなたがた自身も生きた石として用いられよ」と続く。ボクも神の御心に従って生き通せということだ。それが「自分の十字架を負う」という真意なのだ。


●3(土)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 (1コリ13・5)
これは社会生活の一般的ハウツーかな、と思ったけれど。でも、1コリ一三章だと目に入って、アッと思った。それは、これが「愛の賛歌」と呼ばれる箇所からの御言葉だと気付いたから。つまり社会生活の基本は、隣人を愛することに尽きるということなのかも。愛が第一というのは、新郎新婦の間だけの話しではないんだ。
私も、今日会う全ての人との間で、この御言葉通り生きてゆきたい。


●4(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師

(コロナ禍の状況によっては変更)



●5(月)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)
主の再臨を願い求めつつ、地上での教会生活を整えるようにと勧められる。この世からの誘惑もあるだろう。しかし耐え忍んで生きよと。
でもこれは将来の希望をしっかり見ている忍耐。実りへ向かってのコツコツ歩みだ。手は土まみれ、体は汗まみれ、クタクタになるだろうけれど、それがそのまま実りに変わる日となると思ったら、喜びを秘めた歩みとなる。信仰者は、そんな農夫だ。


●6(火)
(イエス)「立って、真ん中に出なさい」  (ルカ6・08)
手の萎えた男が苦しんでいた。でもその日は、誰も彼を助けてあげられない。律法で一切の仕事を禁じられていた安息日だったから。ファリサイ派は、男の苦しみ見て無視した。しかしイエス様は、男を見て癒される。
主は、「真ん中に出なさい」と言われた。それは、「私はここですぐ、今苦しむあなたを救いたい」という御心の中に立つという場所。そのイエス様の想いは、私にも注がれている。


●7(水)
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊い   (1ペト1・7)
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」と言われた直後にこの御言葉が続く。信仰が本物になるためにたくさん試練を受けよ、と言われているのじゃない。
この世で信仰を守ろうとしたら、その者にだけ必ず試練が襲う。でもその者にだけ与えられる栄冠がある、と言われているんだ。耐え忍ぶ側に立つのか、そこから逃げるのか、さあ、私はどっちに立つのか。さあ!


●8(木)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。  (1コリ1・25)
「神の愚かさ、弱さ」とは、御子を十字架で死なせたという出来事そのものだ。だって、御父が嫌う罪人の身代わりを、御子にさせるなんて、愚かに思える。他に良い方法がなかったのかと思う。神が死ぬなんて、そんな姿は弱すぎで、もっと強力な御力の発揮の仕方はなかったのかと思う。
でも、その愚かで弱い方法によって、愚かで弱い全ての人が救いあげられたんだ。こんな罪人のボクでさえ。


●9(金)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  (ルカ15・7)
見失った迷子の羊の話しをされたイエス様。
その一匹って、どんな羊なんだろうと思い巡らしてみた。それは、自分中心で羊飼いの言葉を聞かずに勝手なことをする羊。つまり御父のもとを離反した罪人だ。もし、この羊が自分のことだと(知的理解でなく)心の底で受け取れたら、天にある喜びがボクの心にも響いて来る。恵みって、罪人理解に引っ付いているのだな。


●10(土)
互いにうそをついてはなりません。(コロ3・9)
母が「うそをつく子は大嫌い」と、よく言っていた。でも、今日の箇所の「うそ」というのは、虚言とか作り話とか詭弁とかいうのとは、何かちょっと違う気がする。それは聖書で、「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉」と一気に記されていた段落に直結していたからだ。うそは、忌むべき行いの中に入っているのだ。
「うそも方便」と上手に生きる者でなく、御言葉に愚直に生きたい。


●11(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師


(コロナ禍の状況によっては変更)

●12(月)
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。(1ヨハ3・15)
この「兄弟」はと血のつながった家族ではなく、勿論「隣人」のこと。「あいつが憎い」と思う時、その人を殺していると言われている。そんな大げさな、と思って、ウッと立ち止まった。
「大げさな」と思うのは「こんなことぐらいで人を殺しはしない。こんなことぐらい大丈夫だ」と、自分で勝手に思っているということだ。殺したのと同じ重さの罪だと、神が言っていることに、気付きもしないで・・・。


●13(火)
神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ(使11・18)
「異邦人をも」という一言が、使徒言行録にあることは、大切な意味がある。教会の働き・伝道の働きが始まった時に、何よりも「異邦人をも」という点が拡げられることが重大事だったことを示す一言だから。
この「異邦人」は、「こんな人が救われるはずがない」と言われていた人を意味する。それが「私」だったんだと改めて思う。更に、いつの間にか伝道を諦めている「あの人」のことかも。


●14(水)
さあ、立て。ここから出かけよう。 (ヨハ14・31)
イエス様が、受難が始まる直前に弟子たちに、告別の話しをされた。そしてこの言葉を告げられたのだ。「受難のど真ん中へと出かけよう」と。なぜなら、そこに御父の「御心の計画」があるからだ。
ボクも、これが「御心の道だ」と分かったら、たとえそこに苦難が予想されても、背を向けずに踏み出そう。そこへの道こそ、主が「さあ出掛けよう」と一緒に歩いて下さる道だから。


●15(木)
万物は御子によって、御子のために造られました。   (コロ1・16)
天地創造の時、御父と一緒に御子も創造の御業に就いておられた。だから「御子によって造られた」ということ。「御子のために」とは、神様は万物をご自身の「相手・パートナー」として造られたということ。御子なる神が、この世界と、また人々と関わることを求めておられるのだ。
だから、ボクが造られた意味は、御子のパートナーとされているという点で、一番輝くんだと思った。


●16(金)
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。 (マタ5・44-45)
イエス様の「山上の垂訓」の中の一節だ。いつも、聞いてすぐに「無理」と思って、放り投げて来た。でも改めて「天の父の子となるため」と聞いて、ドキッとした。敵を愛そうと試みさえしなかったら、御父の子となれないんだと、ふと気付いたから。
「無理」と放棄するのは自己中心そのもの。そこに罪が巣食う。だから何度も試みよう。これは御子の言葉だから。幸いへの招きの言葉だから。


●17(土)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。 (ルカ1・33)
「彼は永遠に神の民を治める者となる」と宣言されている。彼って誰のこと? 思って聖書を開いたら、天使が、降誕を告知をした場面だった。彼とは、私たちの主イエスだ!
「永遠に」ということは、今の私も含まれている。「ヤコブの家」ということは相模原教会も含まれている。つまり、私たちも御子のご支配の中に入れられているということ。ならば恐れず行こう。主の守りの支配の中を。


●18(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)

●19(月・祝日)
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。   (エフェ5・10)
いつも「何を主にしてもらいたいか」ばかり考えて来た。その結果「アレもコレもしてもらえない」と不満ばかり。でも今日気付かされた。「見るべき方向は、自分じゃなくて、主を見るんだ。方向が真逆だったから、主との関係も見えなかったのかも」と。
今日から「主が何をしてくれるのか」でなく「ボクが何をしたらいいの」だね。もっと早く気付けばよかった。そしてずっと忘れないようにしよう。


●20(火)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。     (ルカ13・9)
3年もいちじくの木に実がならない。主人は、こんな役立たずは切り倒して別の良い木に植え替えてしまえと言う。でも園丁が、今年もこのままにしておいて下さい。私が世話しますからと言ったのだ。実のならない木を愛する園丁が、イエス様のこと。
私が御心に適う生き方をする者になるのを、待って下さるイエス様。気の遠くなる忍耐で、不出来な者を赦し続けて。ああ、ボクも愛されてる。


●21(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。  (ヘブ3・16)
繰り返し「今日、神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と告げられる文脈の中に、今朝のみ言葉はある。誰が神に反抗なんてするんだと思っていた私は、「すべての者」だと聞いて、ギクリとした。「お前こそが、神への反抗者だ」と、神様から指差されたように聞こえたからだ。
今日気付けて良かった。崖っぷちで踏み止まれたということだから。


●22(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。    (マコ4・39)
風を叱りつけ、湖を一喝されるイエス様。その激しさにビックリする。
でもこんなに激しくなられたのはなぜ? それは、舟の中で弟子たちが、嵐に怯え切ってしまっていたから。主ご自身を信じられない弟子たち。それでも怯える姿に、主は味方になって下さったのだ。激しいほどに。
ボクも不信仰ですぐアタフタする。そんな姿にしかならないボクのためにも、主はまず立ち上がって下さる。


●23(金・祝日)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェ5・21)
キリストご自身に対するように、「あの人」に仕えるなんて。あんな人に仕えるなんて、出来るだろうか・・・
そう言えば、マザー・テレサは、カルカッタの駅で倒れている、誰にも顧みられない病者に、キリストご自身の姿が重なったという。ボクもまず一人に対して、更にもう一人に対して・・・と生きてみたい。失敗する日もあるけれど、一歩ずつでも。もし皆がそうなれば、この世界が変わるよ。

●24(土)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
相模原教会は、神の御子キリストの体。そうであるゆえに、頭はキリストご自身だと告げられている。
そうであるのに、それを私たちは本当にわきまえているだろうか。いつも自分の考えに合わない人を、心のどこかで批判してしまう。心に収めきれず、ついに言葉にも出す。その時、自分が頭となっているのに。真の頭なる主よ、あなたの座を取ろうとする罪人を、赦したまえ。

●25(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)


●26(月)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。 (ヨハ2・25)
「やっぱり、イエス様には全部お見通しなんだよねぇ」と思って、急に、何を見られているのか心配になった。
聖書を見たら、イエス様の奇跡を見て信じたという人達の心の中を、主はご存じだとあった。奇跡ばかり求める人間の欲を知っておられたということ。「ボクも彼らと同じ」と思った。してもらいたい要求ばかりを神に祈ってる。「従います」とは口先ばかり。それも主は知っておられる・・・


●27(火)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。     (マタ6・3)
どんなに善い行いも、他人にも自分自身にさえ気付かせないようにして行えということだ。いや、自分に対してということこそが、鬼門なのだ。私たちはいつも、自分の行いを誰かに褒められたいと思っている。口では謙遜なことを言っていても、心の奥では「私を認めて」と欲している。だから誰にも評価されないと、落ち込んでいる。ああ、主は図星でそれを見ている。そして、そこから救い出す。


●28(水)
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。(1コリ14・20)
んんっ? 「子供にみたいな判断」ってどんなことを言っているんだろう。聖書を開いたら、教会で、異言を得意顔で話すことだった。ちゃんと隣人に分かる言葉で話せということ。
「ボクは異言を使わないから関係ないな」と考えつつ、ちょっと待てと思った。ボクも「十字架と復活。罪と贖い」とか、キリスト教用語を繰り返すだけなら、友人には念仏のようにしか聞こえないかも。要注意だ。


●29(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(1コリ9・23)
「どんなことでもする」というのは、律法を持たない人には自分も持たない人のようになり、持つ人には自分も同じになること。「お前は優柔不断だ」と批判されるかも。自尊心を捨てているようにも聞こえる。しかしパウロは相手の下に立って、共に福音に与りたかったんだ。自分の評判なんか気にしていない。ああ、これが伝道するキリスト者の姿なんだろうな。私たちは、どこに立っているだろう。


●30(金)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。     (ロマ12・21)
悪を持って悪に返すな。飢えていたら食べさせるように。善を尽くして接するように、と言われている。
でも自分のことを顧みたら、相手を憎んで、心の中に留めておけずに陰口を言って、もっと悪いことに人にも言い広めている。そうやって相手をおとしめてしまっている。ボクはなんて卑怯な奴なんだ。信仰者の面汚しなのかも。ああだからこそ、今朝のみ言葉を両の手にしっかり握ろう。

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2022年08月31日

『日々の聖句』2022年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年8月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)

●1(月)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。  (ルカ7・7)
百人隊長の部下が病気で死にかけた。その時、イエス様に会いに出かけた百人隊長が、遠くの家に残して来た部下の癒しを願い出たのだ、「あなたが『元気になれ』と一言おっしゃって下されば、部下は癒されます」と。その彼の信仰を、主は喜ばれる。
ボクも、聖書で御言葉を聞く。でも、彼のように御言葉の権威を信じているだろうか。信じ切らないボクを、イエス様はどう見てるのだろう。


●2(火)
あなたがたは自分で心を狭くしています。 (2コリ6・12)
コリントの教会の人たちに、心を込めてパウロが語って来たことを、彼らは受け入れなかったらしい。むしろ批判していた。しかし語り続けたのだ。
自分が受け入れられないことって、隣人関係では一番辛いことだろうに、なぜそれでも関係を結び続けようとしたのだろう。もしかしたら、愛する思いが消えなかったから。きっとそうだ。何としてでも彼らに福音を伝えたのは、その理由しかない。


●3(水)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 (1ペト2・1)
新生児は、お乳を飲まないと生きていけない。それと同じように、無心に聖霊を求めよと言われている。
でも人は言うだろう「その聖霊って、どこで飲めるの? どうやって飲むの?」と。全ての牧師は答えるだろう「だから、聖書を読む、そして祈る。聖霊を受けるのは、祈りの場でだから。そこで、主の言葉と一緒に受け取れるから」と。かつても今も全ての牧師は、口を酸っぱくして言うんだ。


●4(木)
愛は自慢せず、高ぶらない。  (1コリ13・4)
これは「愛の賛歌」と呼ばれる箇所。結婚式の時に必ず読まれる御言葉だ。でも、新郎新婦だけに向けた言葉じゃない。今の私たちにこそ必要な言葉なんだ。それは、誰もが、「愛すべき隣人」に囲まれて生きているから。そこで自分を誇ったり、自分こそが義しいと高ぶってしまう罪を犯してしまうからだ。
「高ぶるな。そこで愛することを見失うから」。まさに自らへの厳命だ。


●5(金)
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 (ヤコ2・12)
私たちの前にも、行うべき「律法」は厳然としてある。「十戒」がそれだし、「黄金律(神を愛し、隣人を愛すること)」もある。
今日という日を歩むべき道は、この神の言葉による律法なのだ。信仰があればいいなんて、律法を軽んじてはならない。本来は、神が私を愛して下さって、「ここを歩んで行ったら幸いになるからね」と示して下さった天の国への羅針盤なのだから。


●6(土)
御子を信じる人は永遠の命を得ている   (ヨハ3・36)
洗礼者ヨハネが、イエス様のことを証しして「神がお遣わしになった方、神の言葉を語る御子だ」と告げる。それに続けてこの言葉を語ったのだ。
「何をしてもらえるかという業でなく、ただこの方を見よ、イエスこそ御子なる神だから」と迫るヨハネ。「信じるところに、永遠の命もあるから」と。この「信じること、そしていただくこと」順序が大事な事かも。短い一文なのに、大切なことが示されている。


●7(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●8(月)
気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。  (ヘブ12・3)
信仰者の道には、重荷やからみつく罪がある。しかし自分に定められた競争を走り抜けと促される。その時に、なのだ。見上げるのは、私たちのために全ての重荷を忍耐され抜かれたイエス様だよ、と示されているのだ。そのお方が、今も私たちを支えていて下さるのだから、と。イエス様で心をいっぱいにしよう。今日も、応援していて下さる方がいると分かるから。それが勇気の源だから。


●9(火)
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。  (マコ10・51)
盲人のバルティマイ。物乞いをするしか生きる術がなく、人生を諦めていた男。でも、傍をイエス様が通ると知って叫んだ「憐れんでください」と。その叫びに、彼の苦しみも悲しみも全てを聞き取って、問いかけるイエス様「何をしてほしいのか」と。その眼差しに、もう癒しが始まっていた。
主の愛は、「何をしてほしいのか」という眼差しに、既にすべてが込められている気がした。感謝。


●10(水)
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。 (ヨハ21・22)
ご復活のイエス様がペトロに現れて「今度こそ私に従うのだよ」と導いて下さった。主を見捨てた自分なのに愛されていると知ったペトロ。それなのに彼は、隣の弟子が気になり出す。どうして人のことばかり気にするんだろう。なんて愚かなんだろう。
そのペトロに、なお優しくハッキリ諭されたのが、この御言葉だ。人のことを気にする愚か者にさえ(あ、ボクだ)、優しいイエス様。今朝も感謝。


●11(木・祝日)
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。     (ルカ5・5)
ペトロは、一日中漁をしたけれど、一匹も獲れなかった。もう陽は昇って、漁をしても獲れる時間じゃない。でも彼は、傍を通りかかったイエス様が、「網を降ろしなさい」と言われた言葉に、全てを委ねたのだ。
この時ペトロは、イエス様が御子だと分かっていたのだろうか。そんなはずは無い、じゃどうして? あ、「分かって従う」んじゃない、「従う中でイエスこそ主だと分かっていく」のかも。


●12(金)
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。   (マタ27・46)
イエス様が十字架の上で、天の父に向かって叫ばれる「私をどうして見捨てたのですか」と。天の父に捨てられるという厳しさもご存じでいて下さるのだ。これは、罪人の抱える叫びなのに。その厳しさを、主御自身が知って下さるのだ。
罪を身代わりに償って下さるだけじゃなく、神に捨てられる辛酸を舐め尽くしても下さった。その方が、私の救い主。そして御心なのだ。


●13(土)
あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。  (マコ12・24)
「思い違い」は何? それはユダヤ人の慣習で「レビラート婚(長男が亡くなったら、次男が兄嫁と結婚し、次男も死んだら、三男が妻にするという婚姻方法)」を持ち出して人々が問うたこと、「では死者の復活の日に、その嫁は誰の妻になるのか」と。
プっと笑ってしまう問い。でもボクも、この世の理屈で聖書を読もうとする。神の言葉に、自分の常識を覆いかぶせる。だから無理解になる。


●14(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●15(月)
あなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(2コリ6・1)
「いただいた恵み」って何だろう、「無駄にする」ってどういうことだろう・・・。聖書を開いて前後を読んだら、少し分かって来た。「恵み」とは、神の義を得ること。また「無駄にする」とは、再び罪の生活に堕ちていくということだった。分かったよ!
でも、分かった気になるだけで自分の生活に繋がらないなら、正にそこが「無駄にする」入り口。「今日の丸一日、主に従いたい」と歩まねばね。


●16(火)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。   (1ヨハ4・16)
「神は愛」。なんと端的に言い表す御言葉だろうか! 「神様イコール愛そのもの」ということなんだ。
その「愛」って、どんな具体的な姿だろうかと思って、アッと気付いた。私のためにご自分の命を投げ出された姿が思い出されたから。愛は、十字架の死なのだ。ヨハネの手紙にある「愛」という言葉を、「主の十字架」に置き換えて読み直したら、ものすごくリアルに聖書が聞こえて来た。


●17(水)
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。     (ルカ8・25)
イエス様の御声は、そのままボクへと向けられている「篤の信仰はどこにあるのか」と。この場面は、嵐で舟が転覆しそうになって、弟子が恐れのあまりにイエス様にすがって助けを求めた時、主からの返答だった。
ボクも「主は共におられる」と口にしてはいる。でも本気で「主がおられるから平安だ」と信じているだろうか。少しの波風で狼狽していないだろうか。信仰の無い私をお赦し下さい。


●18(木)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。  (エフェ5・8)
「光の子として歩みなさい」、この聖句は、白ゆりを卒園する子供たちに贈る言葉だ。幼稚園にいた時は、当たり前のようにイエス様の話を聞いて、毎日祈ることも出来た。でもこの世に出て行く時、その当たり前が当たり前でなくなるのだ。だからこそ伝えたい「もうイエス様を知ったあなたは、光である主に結ばれた。光の子として雄々しく歩めるよ」と。そしてそれは、私たち大人も同じなのだ。


●19(金)
わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。  (2コリ5・20)
この直前に、キリストが死んで下さった故に、全ての人が「神と和解」の恵みをいただいたと告げられている。この恵みを「受け取るように」と勧めるのが、主によって送り出された「使者の務め」だというのだ。
自分の信心で、隣人をしゃく伏しようとするのじゃない。キリストが願っているのは、主の伝令者となることなのだ。だから伝道は「何を伝えるのですか」と聞くことから始まる。


●20(土)
兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。   (1コリ8・12)
隣人の心を傷つけたら、キリストに対して罪を犯したことになるって、大変じゃないか! 御子への罪は、審きを免れないから・・・。
隣人を傷つけるって、何によってかボクは知っている。口から出る言葉だ。「口が悪い性格だから」なんて軽々に言ってはいられない。御子なる神への大罪なのだから。
今日から「隣人が、キリストそのもの」と生きてみよう。これ、秘訣かも。


●21(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●22(月)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。    (エフェ5・1)
子は親にそっくりに育つと、よく言われる。それは、天の父と神の子らである私との間でも同じであるはずだよと、言われているんだ。
聖書を開くたび、礼拝に出るたびに、御父の思いも御業も知らされる。それはご自身に背く罪人さえも愛されたこと。人を憐れみ、赦し抜かれたお姿。それなのにボクはちっとも似ていない。反抗期はもう卒業しなきゃ。よその子に見られるのは嫌だから。


●23(火)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。  (1テモ6・11)
おおー、何だかいっぱいあって、フルコースだなぁ。一遍にしなきゃいけないのかなぁ、どれか一つじゃダメ?
と考えつつ、ふと思った。フルコースの料理って一つひとつが大事で、その全てを食べて料理の完成と言える。一つだけで良いとは思わないよね。
正義も、信心も信仰も、愛も忍耐も柔和も、全てを追い求めよう。選り好みしない。全てで、一人のキリスト者の完成をつくるのだから。


●24(水)
思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタ6・31-32)
これは、イエス様の「山上の垂訓」の中にあるみ言葉だ。主は、想いを込めて群衆に語られた「思い煩うな。悩みに捕らわれるなよ」と。「なぜならあなた方の天の父は、あなたの苦労も涙も全部知っていて下さるんだから」と。必要は満たして頂けるのだ。
信じる人は、大変な恵を握れる!それは、人生の嵐の中にあっても平安であれること。ただしこれって、信じる人のみ気付ける恵かも、ね。


●25(木)
心の目を開いてくださるように。(エフェ1・18)
心の目が開かれて、見えるようになるものは一体何なのか⁈ それは、知恵と、神を深く知ることが出来ることと、神によって与えられる希望と、聖なる者が受け継ぐものの豊かさがどれほど大きいか、等だ。
「神の恵みが、ボクには見えない」と思う時、心の目が開かれていなかったからなんだ。だから「主よ、朝ごとにボクの心の目も開いて下さい」と願わなきゃ。見るために、祈らなきゃ。


●26(金)
神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。 (コロ1・11)
信仰者としての生活は、キリストに従って歩み、あらゆる善い行いをするようにと勧められている。でもそれをやり遂げる力は、自分の中から頑張って絞り出すのじゃない。もともと自分の中には無いからだ。
「信仰に生きる力は、私の中には無い」と知ることが第一のことかも。そこに立てたら「神様からいただいて立とう」と思えるから。「御力を注ぎ込んで下さい」と、まず祈れるから。


●27(土)
貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。  (ヤコ1・9、10)
エッ? 誰もが、富むことを求め、大きな家に住み、大会社の経営者になることを成功者の印と考えているのに・・・。逆に、貧しいことを誇るなんて、そんなの変人じゃないの?
でも、もしかしたらここに人生が豊かになる秘訣があるのかも。きっとそうだ。すぐ「神様、一遍ボクを富む者にして下さい。そこで身を低くしてみますので」と祈った。フーっ、ボクはどこまでもこの世の垢まみれだな。


●28(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●29(月)
御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。 (1ヨハ2・23)
全知全能の神を信じるということは、イエス様を信じるということ。それは、私の罪の身代わりに死なれたイエス様を信じるということ。だから何よりも自分の罪を見詰めること。自分の罪を悔いるどん底に、主イエスは立たれた。それこそが御父の御心。
生涯かけてそれを知り続けるのが信仰者の人生かも。もっと深く罪の重みに気付けば、もっと強く神に結ばれる。御父の愛がいよいよ分かる。


●30(火)
誇る者は主を誇れ  (2コリ10・17)
「主こそ誇りって、当然だよ」と思う。でもどうしてこんな当たり前のことを言われるんだろう・・・と思って、自分の心の底にあるものに気付いた。
それは、自分の評価がどうしても気になるということ。自分を誇りたいって思いが、心の底にこびりついているみたいだ。自分にしがみ付くボクを、主にしがみ付く者へと変えてくれる一言がこれなんだ。ボクにとっては無くてはならない一言だったんだ。


●31(水)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 (1コリ6・11) 
何が「洗われた」のか。聖書を開いたらギョッとした。あまりにも具体的なことだったから。それは、偶像礼拝、姦通、男娼、泥棒、強欲、酒におぼれること、人を悪く言い、人の物を何であれ奪うことだったから。一つでも身に覚えがあれば、汚れている。
しかし「洗礼」こそ聖霊によって洗われること。ボクも受けてて良かった。いや、そんな軽々しい話じゃない。生き死にの問題だったのだから。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:36| 『日々の聖句』