2019年12月31日

『日々の聖句』 目次

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2019年09月30日

『日々の聖句』2019年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年9月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。(箴10・19)

 ソロモンの格言集としてまとめられた中の一節。
 日本でも「口は禍の元」とか「沈黙は金」とかいう。誰もが分かっているのに、どうして要らない一言を口から出すのだろう。一言メールしたり手紙を送ったりしてしまうんだろ。そこで人を傷つけているのに。きっと、その言葉を作りだす元のところ、つまり私の中、つまり私の心の中に悪が住み着いているから。あ、だから、これは罪の問題なんだ。処世術の話じゃない。


●3(火)
まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。  (ネヘ9・19)

 バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できた民。そこで自らの背きの罪を告白し、同時に主の憐れみをたたえた。
 神の慈愛にいつ気付けるのか、ちょっと分かったかも。それは恵みに満ちた日々じゃない。逆に、過ちと罪に落ち込み、それが神への背きの姿だったと気付かされて悔いる心に、なお自分が見捨てられていないことに気付けた時。正にそこで神の愛が分かる。罪人なのに、なお赦され愛されていることこそ、主の憐れみだから。


●4(水)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」 (創24・27)      

 アブラハムの僕が、主人の息子イサクの嫁探しの旅に出た。それは干し草の中から針を捜すようなもの。でも条件に合う人に出会えた時、祈った言葉がこれだ。
 到底無理と思える問題も、御心ならば成し遂げられる。ならば、「困難を乗り越えられた」と思う時は「ここに御心があった」という信仰と「ああ感謝」という祈りが起こる時なんだ。達成感に浸っている場合じゃない。「自分にご褒美」なんて見当違い。今頃気付いて恥ずかしや。


●5(木)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。  (詩3・4)

 この「それでも」ってどういうことか。ダビデが息子に命を狙われ、さらに周りの者から「お前に神の救いなどあるものか」と言われても、「それでも」ということだ。
 主への信頼は、絶体絶命の時にこそ問われるんだ。絶望の淵に立った時に、信仰の在る無しが露呈するのだ。ああ御霊よ、私にも、この詩人ダビデのような一言を唇にのぼらせて下さい。「主よ、あなただけ」というすがる信仰を与え給え。


●6(金)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。     (ゼカ4・6)

 バビロン捕囚の苦しみの後、都への帰還が主の使いによって告知される。それは、人々の力によるのでもなく、政治的な勝利でもない。主は、「わが霊によって」と告げられたのだ。
 全ての苦労が報われたように思う日が、私にも来るかも。努力が実ったように思え、風が私に吹いて来たなんて思う日も来るかも。しかしその時にこそ祈ろう「ただ主のお陰。主の霊がこんな私にも働いてくださったんだ。畏れと感謝のみ」と。


●7(土)
人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。  (申8・5)   

 出エジプト後の荒野の旅を振り返って、モーセが御旨を伝える。あの日々は、あなた方を主の民に育てる訓練の時、神が御自分の子として育てた日々だったのだと。
 神への全き信頼者となること、真の信仰者となることを願うのは、私自身よりも、御父なんだ。「試練が厳しい」と思う日に、一番そばにいてくれるのも天の御父なのですね。「さあもう一度私の言葉に従って御覧」との励ましが聞こえます。


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●9(月)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。(ヨナ1・14)

 御心に背いて船で逃げ出し、大嵐に遭ったヨナ。そこで観念したヨナが「私を海に放り込め」と言うが、船員達は何とか自力で陸に戻ろうとする。行き詰る攻防の末、ヨナを海に投げ入れる直前で、神に向かって叫んだ船員たちの言葉だ。
 目を離せないノンフィクションドラマを見ているようだ。しかしその現実の遣り取りの中に、神が居られる。そうだ、私の現実も同じなんだ。今日という一日の中心に神が居られる。「御心のままに」と祈って始めよう。私の嵐を乗り切るために。


●10(火)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」  (民12・13)

 モーセを非難し、「自分だって神の言葉を直接取り次げる」と豪語したミリアム。途端に重い皮膚病になった。神に打たれたからだ。その彼女のために、非難されたモーセが、執り成して叫んだのだ。
 一二章ではモーセを「謙遜な人であった」とも記していた。モーセの叫びを聞いて、謙遜の意味が初めて分かった気がする。それは末席に座ったり、控え目な態度等じゃなく、自分を非難する人さえ愛せること。弱い人でなく強い人なんだ。


●11(水)
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」   (創1・26)

 天地創造の時、神が人間をどのようなご計画で創られたかが記されている。
 人は神と阿吽の関係に創られた。それは御心を完全に知ることが出来る存在ということ。加えて、世界の調和を保持する神の働きを、人間の使命として委ねても下さった。私は神の大切な存在、神に信頼された存在なんだ。相応しく歩みたい。そうさ、御心と阿吽の呼吸で。


●12(木)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 預言者エゼキエルが、捕囚の民の中で語る。捕囚後の希望についてだ。それは、神に背いた頑なな石の心から、神が、悔い改めと柔らかな肉の心を与えてくださること。柔らかな心で、まっすぐに神を喜んで歩めるようになるよという知らせだ。
 悔い改めも主に従う心も、自己責任だと思っていた。でも、神様から戴けることに身を任せれば良いんだ。なんて至れり尽くせりなんだろう。ふと、がんじがらめの信仰理解から解放された気がした。


●13(金)
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。       (詩103・10)

 この直後に「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と続く。これは赦しと恵みの宣言だ。
 この御言葉を、私たちも礼拝のたびに聞いて来た。「ざんけの祈り」のあとの「赦しの言葉」として聞いて来た。来る週ごとに、繰り返し悔い改めを吐き出し、赦しと恵みを吸い込む。まるで呼吸のように。ああこれが、信仰者の人生なんだ。


●14(土)
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。  (王上19・12)

 エリアが命を狙われて荒野に逃げる。行倒れた場所で、激しい風が起こって山が砕け、地震が起こり、火が噴き出した。でもその驚天動地の中に、どこにも主なる神はおられない。その全ての後に、ささやく声が聞こえて来た。主の御声だった。
 苦難に喘いで、「早く助けて、何とかして、もう駄目です」と騒々しい祈りの中に、主の御声は届いて来ないんだ。主張する口を閉じて、ただ聴く者となって御言葉に聞くなら、生ける神の言葉として届いて来る。私も一瞬で良いから静まろう。

●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎協力牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月・敬老の日)
知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。      (詩19・13)

 重い背きの罪から清められ、主に喜ばれたいと願う詩人。その祈りは、自分の罪を探して思い起こし、気付き、悔い改めるだけにとどまらなかった。自分が知らずに犯した過ちと罪があると、わきまえていたから。ここに達する人が、真に驕りから離れた信仰者と言えるんだろう。
 私の祈りに欠けがあったと気付かされる。今朝この詩人の祈りを、私も加えて祈ろう。今夜も明日も、口癖の祈りのように祈ろう。それが私にも必要だから。


●17(火)
主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。   (出4・14) 

 神がモーセに使命を与えて「民をエジプトから導き出して欲しい」と言われる。でも言い訳だらけで断るモーセ。何度も否んで「誰か他の人にさせてください」と言った時、ついに神の怒りが爆発したのだ。
 神が一個人に怒りをぶつけるなんて、めったに見ないお姿。その怒りは、神が求める奉仕を、言い訳だらけで断った故にだった。僕も神をイラつかせている時があるかも、いやある。あの奉仕を脇に置いた時。あれは神様からの懇願だったのに。


●18(水)
復讐してはならない。   (レビ19・18)

 主がモーセに「これを民に告げよ」と掟を言い渡された。レビ記はすべて、その言葉で満ちている。その中の一つが今朝の御言葉だ。この直後に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と続いていた。
 気付くと、相手を打ち負かそうとして頭はカッカと燃え、言葉の武器を取って、心は怒りで満たされる。唇が震えている。それが復讐する者の姿なんだ。しかしそれは、愛することをしない者の姿なんだ。私は、なんて愛の無い者。私は罪を抱えて歩いていた。主よ、憐れみ給え。


●19(木)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 イスラエルの民が出エジプトの後、荒野を旅する途上で、モアブの平野の異邦人バラムに神が語りかけた。このとき彼はひれ伏して言った言葉がこれだ。
 異邦人でさえ、主から「行け」と言われれば行き「止まれ」と言われれば引き返す。それなのにキリスト者であるボクの歩みは、どうにも自分勝手過ぎないか。今日こそ「御意は何ですか」と問うて、聞いた御言葉のままを実際に歩んでみるぞ。


●20(金)
「できなかったのだ」などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。     (箴24・12)

 力を出し惜しみして、人を助けようとしなかった人に、「お前の心を見抜いているぞ」と主が言われる。「そのお前の行いに応じて報いも来るぞ」と加えて言われる。
 ヒヤッとした。「できなかった」と、隣人の苦難の横を通り過ぎている自分に気付いたから。「祈っている」と言いながら、訪ねもせず、慰めの葉書一つも出さなかった。「できなかった」とは、結局自分に向けての言い訳。それは罪。それを神は調べられるのだ。そんな自分から今日変わりたい。


●21(土)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない。   (イザ54・10)

 この直前には、私はあなたの罪と過ちを背負った苦難のしもべだ、と告げる主の言葉がある。あなたの罪だけど、私が償うと語られたのだ。もはやあなたを責めることはない、とまで語り掛けて下さっていた。
 だから「山が移り・・・」という御言葉は「どんなことがあっても」と告げる最上級表現。「私にはあなたを慈しむ心しかない」とまで宣言して下さっているのだ。私を包むのは、ただ神の慈しみのみだ!


●22(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月・秋分の日)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は畳みかけるように「主を賛美せよ、ほめ歌をうたえ、喜べ」と促す。その根拠が、この御言葉なのだ。世界は主の慈しみに満ちているからだ、と。
 私は慈しみに満ちている世を生きていたんだ。本当は、目の前には、苦しみと悩みへと漕ぎ出すような日々があるのじゃない。主の慈しみの御目があまねく注がれている世界を歩んでいるんだ。そうさ! 足元の暗がりばかリ見ないで、天を見上げるんだ。さあ、心を高く上げて、主が慈しまれた一日へと踏み出そう。


●24(火)
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」   (サム上3・10)

 夜、少年サムエルに主が呼びかけられた。親しく名前を呼んで対話を始めようと、二度、三度、そして四度までも。そこにサムエルの召命が起こったのだ。
 懸命に関りを求めて、諦めないで呼び続けて下さるのは、主の側なんだ。二人の間に、恵みを届ける関係を生みたいと願ってくださるから。神様のことを知った私も、呼び掛けられ、求められた一人なんだ。神に大切にされた一人なのですね。


●25(水)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20)

 南ユダのヨシャファト王の時代、周辺諸国から攻め込まれた。そのとき王は、一心に主を求めて歩み、民にもそれを命じた。それが今日の御言葉である。それは勝利へと続く道の在りかでもあった。
 人は自分で勝利方程式を立てて、それを神に実現してと祈ったりする。でも「あれ、それって違うんだ」と気付いた。「これは神の戦い。だから私は僕としてどう戦えば良いですか」と御心を問う事こそすべき事。それが主に信頼する姿なんだ。


●26(木)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 詩人は、敵の手に落ちることから救われ、魂が陰府から引き上げられたことを感謝してこの詩を歌った。彼は、苦しくて泣き崩れる夜を知っている詩人。しかし同時に、必ず神が嘆きの底から引き上げて辛い日々を過ぎ去らせて下さることも知っている詩人だ。
 きっとその信仰体験があるなら、次の試練に襲われた時、涙の夜の只中にあってさえ、この詩を歌える。明けない夜はないことを、信仰の目で見られるから。


●27(金)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。    (詩139・23)

 詩人は神に「心の中を隅々まで知り尽くして欲しい」と願う。悩みも迷いも不信仰も吟味されてしまうのに。
 ちょっと恐いなと思った。妬みや不平や批判も、全部お見通しにされるから。隠したい不信仰さえ見つけられるのだから。でも、それだから知ってもらわないといけないのかも。そこで歩む道を修正できるから。病原が見つかったら、やっと治療に入れるように。私も精密検査してほしい。


●28(土)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。   (ヨブ30・20)

 神様に「無垢で正しい人」と評価されたヨブなのに、突然苦難に襲われた。全財産と健康も失って、神に叫ぶヨブ。
 自分の苦しみを神は知っておられるのに、回復してくれないと苛立つヨブ。こんなに祈っているのにと、情けなくなる。さらに、それなのになお御前を離れない。彼は全てを失っても、神様だけは失わないでいられるんだ。僕もその選択をしたい。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子協力牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16・8)

 この詩編をダビデの詩だと読むなら、言葉の一つひとつが躍動して来る。どんなに主を愛しているのか、どれほど喜んでいるか、信頼しているかが伝わって来る。
 その根拠は、主は共にいてくださるという実感なんだ。
 ふと、イエス様の降誕を思った。「その名は、インマヌエルと呼ばれる(神は我々と共におられる)」と。私も「主は右にいます」ことを知っている。インマヌエルの主に結ばれる洗礼を受けたのだから。さあ顔を上げて「わたしも揺らぐことなし」と言わん。

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2019年08月31日

『日々の聖句』2019年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年8月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(木)
(サタンは言った)「彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」  (ヨブ1・11)

 神に祝福されて裕福だったヨブ。神からも「無垢で正しい人」と太鼓判を押されていた。そこにサタンが挑戦したのだ「彼はご利益で神を慕っているに過ぎない。全てを奪われたら、きびすを返すさ」と。
 「主よ、この挑戦を私には与えないで下さい。自分の信仰の弱さを知っています。あっと言う間に吹き飛ぶ塵のような信仰だと知っていますから。だからあなたにすがりついて生きているだけなのですから」。


●2(金)
(神は言われた)「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」   (創3・11)

 禁止された実を食べて神に背いたアダムとエバ。恐ろしくて隠れていた所に、神が来て問われた言葉がこれだ。「駄目だと言ったのに、たった一つの禁止だったのに。それでも背いたのか。食べたのか」と。
 責める言葉というより、悲痛な神の嘆きに聞こえて来る。「どうして私をそこまでないがしろにしたのか。難しくない約束だったのに、その一つさえ守ってくれなかったのか、それがお前なのか」と。堕罪は人間の嘆きである前に、神の嘆きなんだ。


●3(土)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。    (ルツ2・12)

 夫と死別したルツが、姑のナオミの故郷に戻って来た。異邦人のルツにとっては、よそ者でしかない土地。それなのにナオミの一族であったボアズは、彼女を温かく迎えたのだ、「ルツよ、あなたは神が翼を広げる親鳥の翼の中に覆われたのだよ、もう安心して良い、祝福があるから」と。
 主の御もとに駆け込むことが、無条件で祝福を戴ける唯一の道。私も導かれて、御翼のもとに入れていただいた異邦人だと思ったら、ホッとして、嬉しくなった。


4(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。  (箴16・32)

 書き留められた古よりの格言集としての箴言。 しかしソロモンが書き留めたものとして聞く時、単なる知恵に終わらない。これは、自らの生活を整える決意へと促してくれる。
 忍耐せずに、自分の意見と力で押し切ろうとして、人とぶつかって来た。自分を制することが出来ずに、人を変えようとして争った。そこで隣人を打ち負かそうとして、不和を生んでいた。今、修正せねば。この御言葉を聞いている、今。


●6(火)
主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。   (哀3・31)

 亡国を嘆きつつ、その中で主の憐れみに希望を置く預言者。それは主を、「懲らしめても、いつまでも捨て置かれないお方」として知っているから。
 もしも御父の懲らしめを、反抗したりせずに、頭を垂れて受けられるのだとしたら。それは、御父こそ「あなたを見捨てない。あなたのためなら何でもする」とお心を砕かれる方と知っているから。恵みを受けることも、懲らしめを受けることも、主を見上げることにおいて同じなのだ。


●7(水)
しかし、ノアは主の好意を得た。   (創6・8)

 天地創造の後、地上に人が増え始めたのだが、誰も彼もが悪い事ばかり考える。神はそれをご覧になって、人を創られたことを悔いられるのだ。しかし、そこにたった一人、主の慰めの人がいた。それが無垢な人・ノアだった。
 良いものとして人を創ったのに、その人間が神の心を痛める原因になるなんて。
主よ、私も神を悲しませない一人なりたい。どうすれば良いのですか。あ、きっといつも御心を尋ねて過ごすことかも。そこから外れる時、堕罪の口が開くから。


●8(木)
イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。  (エズ3・1)

 バビロン捕囚から、ようやく都に帰還できた人々。その時に先ずしたことが、神殿に大集合して礼拝することだった。それも、「一人の人のようになった」と。
 礼拝に集った兄弟姉妹がお互いを想い合ったら一つになれる、というのではない。そこで一人の神の言葉を聴くこと、一人のお方に祈り、一人のお方を賛美すること。そのとき一つになれているのだ。全ての人が「ただ主のみ」の心になっているから。

●9(金)
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 (詩95・7)

 この詩人は、民と一緒に主へと顔を向けて「わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊」と告白して歌う。そこに続く言葉が、これなのだ。
 私も日毎に主に「私の主よ、わが神よ」と祈っている。でもそこに続けるべき御言葉を、心の中でさえ言い忘れていたのかも知れない。祈らねば「私は御言葉に従わないことがたくさんあります。そうやってあなたの御声に背を向けて来ました。でも今日こそ、御言葉に従います」と。信じる心は、信じる歩みと一体なのだから。


●10(土)
神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。  (ヨブ17・9)

 神に「正しい人」と言われたヨブが苦難に遭った。友人は「自業自得じゃないのか」と責めたてる。その言葉に、自分でももがきつつこの言葉を告げたのだ。「人から揺らされても、自分でも揺れても、なお神に従う道を行くしかない」と。
 苦難の日に、「何か悪い事をしたから報いを受けているのだろうか」と、心配に征服されそうになる。その時自らに言わねば「お前は、主に従う道を黙々と行くだけだ」と。「次の一歩に、勇気を持て」と。


●11(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●12(月・山の日)
わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください。   (詩31・16)

 この詩人は敵に囲まれ「急いでわたしを救い出してください」(3)とすがる。でもそのあと「わたしにふさわしいときに」と言い換えたのだ。圧倒的に神を信頼しているからこそ、何もかも委ねられるのだ。
 私はいつも「いま助けて」と叫んでる。でもそんな神頼みと、神信頼とは違うものなのかも。私も今日から「私にふさわしいときに。全てを神に委ねますから」と祈ろう。神信頼に一歩でも近づくために。


●13(火)
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。」  (イザ35・4)
   

 大国アッシリアに責められた時、民は恐れてエジプトに助けを求める。大国の陰に入れば助かると思ったから。そこに告げられたのだ「よろめくな。神を見よ。神こそがあなたたちを救うお方なのだから」と。
 困難に襲われたら、慌てて打開策を立てて、それから祈っている私。なぜ第一に神に顔を向けないのだろう。今朝の御言葉は、そういう私の不信仰に突き刺さる。叱るように、同時に励ますように。


●14(水)
(主は仰せになった)「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」   (ヨブ40・2)

 苦難の中で不平をもらすヨブ。「神よ、あなたに向かって叫んでいるのに、あなたは冷酷だ」(三〇・二〇以下)と。思いを全部吐き出したヨブに、ついに神が口を開かれた「お前は一体何者なのか」と。その激しい言葉に、今日の言葉も続くのだ。
 私も同じ不平を言う日がある。その時私に向けても同じ御言葉が告げられているのだ。ガツンと言われて、やっと我に返れた。やっと本来の立ち位置に戻れた。


●15(木)
神は驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知りえない、大きな業を成し遂げられる。  (ヨブ37・5)

 大変な試練を受けて、神への不満さえ漏らし始めたヨブに、友人エリフが答える「あなたは自分が正しいと言うが、神の御業を人間が知り得ようか」と。そして今日の言葉も告げられたのだ。
 友人の言葉は全くの正論だった。でもヨブを立ち帰らせ慰めたのは、直後(三八章)から始まる神の語り掛けだ。人間の正論より、神の御声そのものが人を活かす。私にとっても然り、御言葉のみ!


●16(金)
イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。  (士7・2)

 ミディアン人との戦いを前に、大軍を集めた士師ギデオン。そこに主の言葉が臨んだ。それは、人々がおごらないために、兵を減らせという命令だった。
 神は人間の手を弱くされる。それは「神様、どうぞあなたが成し遂げて下さい。唯あなたにすがります」と心を整えて頂くため。苦難を前にまず整えられるのはその信仰。「ただ主のお陰」と心を向けるため。主よ、私の心も手もお預けします。


●17(土)
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ」 (創1・28)

 天地創造の時、男と女を創造された神様が、人に向けて言われた言葉だ。この一言に、アダムとエバを見て大喜びされる神の笑顔が見えるようだ。御父の胸のときめきまで聞こえて来そうだ。人の親が、生まれてきた赤ちゃんを見て満面の笑みで「大切な我が子、大きくなるんだよ」と抱きしめているように。
人は最初から、神様の宝だったんだ。私の存在の意味は、ここに既にある。祝福された存在という事。だからこそ、その御父の喜びに応答するように生きたい。


●18(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●19(月)
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」  (創3・9)

 エデンの園で、神様が禁じた木の実を食べたアダムとエバ。背きの結果、神の顔さえ見ることが出来ずに隠れていたとき。神が彼らを呼ばれたのだ。
 背きは、神様との関係を引き裂いてしまう。でも、自分の罪のゆえに顔を上げられないで隠れるしかない人間を、なお神様は探して下さるのだ。求めて下さる、「あなたの傍にいたいのだよ」と。
 神様は私にも、「お前はどこにいるのか」と朝毎に呼び掛けて下さる。その御声に応えるように、日毎に御前に出よう。


●20(火)
主は命じて言われた。「強く、また雄々しくあれ。・・・わたしはいつもあなたと共にいる。」  (申31・23) 

 モーセが地上の命を終えようとする前に後継者ヨシュアを立てた。そのヨシュアに主が命じて言われたのだ「雄々しくあれ」と。更にそのようにあれる根拠は「わたしが共にいる」からということだった。
 私も今日という日に踏み出さねば。たとえ心萎える事が待っていても、雄々しく、だ。それが神の「命令」だから。それも「わたしが共に歩むから」との保証付きなのだから。よろめく膝に力を入れよ!


●21(水)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。      (創39・23)

 兄弟の策略でエジプトに売られて来たヨセフ。そこで王の宮廷役人に仕えて財産管理まで任される。しかし一転、主人の妻の策略で投獄される。でもそこで監守長の好意を得て、獄中でも平穏だった。
 どんな苦難が襲っても切り抜けて幸いへと転じる。その理由を、今朝ひと言で告げていたのだ「主が共におられ」と。
 今日一人ひとりに同じ主が共におられる。必ず「うまく計らわれる」主が。委ねるか、委ねないかで今日の一日が変わる。


●22(木)
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもない。  (申4・31)

 モーセが民に向かって再度律法を語り直す「申命記」。遺言ともいうべき言葉の中で、偶像礼拝を警告して「あなたの神、主は・・・」と語っているのだ。
 偶像を拝むべからず、とは単なる禁止命令じゃない。「あなたと共におられる神は、あなたを深く愛しているのだから」という促しなのだ。「あなたを想うお方を忘れないで」、という切なる迫りさえ感じた。


●23(金)
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。 (詩51・19)

 この詩には表題として「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されていた。
 ダビデは、償いの献げ物をしますと言う。しかしその直後に、律法に適った償いの仕方をやり遂げるより、神は何よりも「悔いる心」を求められる、と告げられる。神関係の核心がここにある。
「悔いる心」が神の御心を動かす、「もう良いよ、赦すから、我が子よ」と。


●24(土)

神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣と全ての家畜を御心に留めた。  (創8・1)

 箱舟の外は大洪水。もはやそこに生きる物はいない。まるで死の世界の中にポツンと箱舟だけが漂っている。もしも神が御心に留めて下さらなかったなら、箱舟は浮いてもいられなかっただろう・・・。
 「私」という「舟」も、「今日」という「大海原」に浮かんで進もうとしている。船子一枚下は、恐れもあるし不安もある。でもそんな私も、神様が御心に留めていただいたなら、ホッとして歩み出せる。いや、嵐になろうとも盤石の出帆なんだ。


●25(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●26(月)
主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから・・・  (士6・16)

 ミディアン人に略奪の限りを尽くされていたイスラエルの民。そのとき主の使いがギデオンに語った「行くがよい。人々を救い出すから」と。その成就の鍵である「あなたと共にいるから」という約束と共に。
 困難に囲まれて心身ともに疲弊する日もある。しかしそこに主が語りかけるのだ「行くべき所を示すから立て。私があなたと共にいるのだから」と。自分の目だけで状況を計るまい。主の目が将来を見ておられるのだから。などか行かざるべき。


●27(火)
あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。 (申4・24)

 偶像を拝むことへの警告としてモーセが民に語る言葉の一部分だ。
なんとも激しい言葉。たじろいでしまいそうにさえなる。しかし、モーセは律法を言い渡す時、躊躇せずにコレを言うのだ。それは、「あなたを、心焦がれるほど愛している神がおられる。だからよそ見しないでくれよ」と伝えたいから。
「私はこんなに愛されている」と分かったら、初めて「少しでも応えたい、火傷するほど熱い愛に」と歩み出せるのですね。


●28(水)
恵みのとき、定められたときが来ました。    (詩102・14)

 この節の前をみると、詩人は貧しくされ、心挫けて祈っていることが分かる。その祈りの中ですがるようにこの言葉を言ったのだ。つまり「今が恵みの時じゃないですか! もうその時が来ているんです、どうか憐れんで立ち上がって下さい!」と。
 何て大胆な求め方なのか、と思った。人の側から「あなたが立ち上がる時は今ですよ」と断言するのだから。あ、それほど信じ切っているのかも。「救って下さい」じゃなく「救って下さらないはずはない」と。堅い信仰は大胆な信頼を生むんだ。


●29(木)
主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」     (創26・2)

 大飢饉にみまわれたイサクたち。そういう時、隣人たちは誰もが豊かなエジプトに庇護を求めて来た。しかし主は、「あなたが頼る場所は、私が用意するから」と告げられたのだ。イサクは、大勢が行く道とは違う道を進むことになる。
 飢餓という絶体絶命の時でさえ、彼は御言葉へと舵を切った。私は、聖書から聞く御言葉と、大勢が行く常識と、どちらを取るだろう。特に困難の日に・・・。

●30(金)
わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。 (エレ24・7)

 ユダ王国がバビロンに滅ぼされた後、捕囚の地にいる人々に示された主の言葉。
 亡国は、人々が神をないがしろにしたから。「この世に生きるには、世にも倣わねば。単なる付き合いだからから構わない」と生きたから。でも、そんな〈中途半端信者〉に、なお神が「私はあなたの主だ、それがどういう意味が知ってくれ。まっすぐに私だけを信じる信仰に生きてくれ。その心をあげるから」と迫った。信仰を失わないのも、主の憐れみのお陰なのだ。


●31(土)
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。(イザ2・4)

 イザヤが、王国滅亡の後の回復を預言する。それは、もはや剣を持たない日が来るという平和の告知。その日には、人々が大河のように神の御前になだれ込んで、全ての人が主の光の中に歩む日々だ、と加えて告げられていた。
なぜ人は争い、なぜ人は武器を持つのか。自分が神となるからなんだ。その争いで、私も苦しみに捕らえられるのに。
「私のバビロン捕囚」から解放されるのも、ただ主の下に立つことのみ。だからさあ明日、礼拝に帰ろう。


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2019年07月31日

『日々の聖句』2019年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年7月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(月)
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。  (創15・13)

 主は、アブラハムから4世代のあとの子孫について、ここで語っておられるのだ。その将来に起こる苦難を見据えつつ、そこにも共におられることを伝えたいために。
 避けられない苦難を受けねばならない人生。その不安の中で、一番の安心はその苦難を神が把握していて下さること。御手が必ずそこに及んでいることなんだ。


●2(火)
その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。   (出12・42)

 430年間苦しめられ、奴隷にされていたエジプトからいよいよ脱出する。壮年男子だけで60万人が一斉に脱出しなければならない。この世紀の大脱出に寝ずの番をして下さったのは神であった。
 神に愛されているというのは、こういうことなんだと思った。それは具体的に守られているということ。一番怖くて不安な時にこそ、一番近くにいて下さるという行為となること。その神様を知っている私の人生は、それがもう幸いなことなんだ。


●3(水)
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。  (創3・6)

 神が「食べるな」と命じたエデンの園にある一本の木の実。その実を、エバがとって食べ、アダムにも渡して、彼も食べた。そうやって人は神に背き、罪に堕ちたのだ。
 何でもない風景のように、淡々と木の実を取って、おいしそうに食べて、傍の人にも渡して、一緒に実を食べて・・・と続く。
何でもないようにして罪に堕ちてゆく人間。ああ恐ろしい。何でもないような生活の風景に、堕罪への口は大きく開いているんだ。そう気付いたら身が凍りついた。


●4(木)
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。  (レビ19・2)

 主なる神が、モーセを通して律法の全容を告げられる。その膨大な掟の中心に据えられた御心が、この御言葉だ。
 「私は聖い者だから、あなたも聖い者となれる」と語りかける主。この「聖さ」は汚れなき「清さ」という意味じゃない。「特別に取り分ける」ということが「聖さ」の意味。「あなたは私が特別に取り分けた人、大切にされた人として生きてご覧」と言われているんだ。なんだか嬉しい。


●5(金)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。   (箴2・6)

 「知恵を求め、知識を捜せ」と、諭すように語られる。そうするなら「神を知るから」とも。なぜか、知恵と知識が、主なる神と重ねて語られている。
 なんだか不思議な諭しだ。どうして、「知恵と知識」とを、「主ご自身」と重ねているのだろう。もしかしたら、知恵とは完全で正しい道を歩む術のことだから、主の口から出る以外には無いということかも。それなら御言葉を捜し求めればいいんだ。あ、すごいことに気付いたのかも。


●6(土)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。   (民14・41)

 主が「約束の地に行け」と言うと、人々は「いやだ」と言う。主が「私を侮ったから約束の地には入れはい」と言うと「今から進撃する」と、勝手なことを言う。そんな民に「背いてばかりだ。成功するはずがない」と言われたのだ。
 人はどうして、御言葉に背を向けるのか。そうやって自分の遣りたいようにしかしないのか。どこまで自分勝手なのかと、無性に腹が立つ・・・。あ、その姿って私のことなのかも。ふと神の嘆きが聞こえた。


7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         藤森 誠 神学生



●8(月)
主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」と言われた。      (出33・14)

 モーセが荒野の旅で、民の背きに手を焼かされて嘆く時、主に求めて「なお進まねばならないのなら、あなたの好意を示して欲しい」と求めた。その応答がこれだ。
 「私への主の好意」って何なのか、今日ハッキリと分かった。それは、どの道も一緒に同行して下さるということ。苦難の日も、罪に落ちた日も、悲しみに沈む日も傍に主がおられない日は無いということ。これ以上に好かれているという証しはあるだろうか。本当にボクは幸せ者だ。


●9(火)
この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。   (王上8・29)

 ソロモン王がついに神殿建築を完成させた。その時、延々と主に祈った言葉の一つがこれだ。いや、むしろこれを繰り返し祈ったと言える「主よ、天にいまして耳を傾け、聞き届けてください」と。
 ふと「私はどう祈っているだろう」と思う。ソロモンは、主が聞いて下さればそこでもう解決が備えられていると信じている。「祈り」って、「このお方以外に解決はないと信じる」こと。祈りは、信仰と直結している。今日の祈りから変えなくては。


●10(水)
ノアは主のために祭壇を築いた。   (創8・20)

 大洪水のあと、ノアは箱舟から全ての生き物を乾いた地に出した。大雨は、もはや過ぎ去った。その時ノアがまずしたことは、祭壇を築くこと、つまり礼拝することだった。これが「無垢な人」の姿なんだ。
 私は「乗り越えられた、助かった」という時、まず何をしているだろう。「自分にご褒美」とか言って、なお自分のことばかりかも。神が支え助けて下さったのに、御許に駆け寄るのは後回し。毎日主のお陰なら、週ごとにまず祭壇を築く思いが募って然りなのに。ああ、全然無垢じゃない。


●11(木)
彼らが神によって戦ったからである。   (代上5・22)

 ヤコブの長男ルベンの生きざまと敵との戦い方が語られる。それは、彼が必ず「神に助けを求めた」(二〇)こと、また「その信頼のゆえに祈りは聞き入れられた」こと。そしてそこに今朝の御言葉が続く。
 今日改めて気付いた。それは、旧約聖書に出て来る人間の姿は、「神に頼る人」か「神に背を向けた自分勝手な人」かだ、と。それも「神によって」歩む人の数は、片手でも余るのかも、と。選択肢はいつもこの二つしかない。真ん中の道はない。お前はどっちを行くのかと問われている。


●12(金)
ベツレヘムよ・・・お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。   (ミカ5・1)

 南北王国の滅亡を預言するミカ。しかしそれで終わらず、その先に約束された救いの日も預言した。それも、人々が「こんな所から救い主が出るはずがない」と思う片田舎のベツレヘムから出るのだ、と。
 私も勝手に、「こんな所に救い主はおられない」と思い込む所がたくさんある。それは、生活の中の現実的な苦難の場所。でも、そこを目掛けるようにして救い主は来られ、立って下さるんだ。救い主の居られない所は無いということなんだ。


●13(土)
アブラムは、ハランを出発したとき七五歳であった。  (創12・4)
   

アブラム(後のアブラハム)は突然、神様からの召命を受けた。古里も親も友人からも離れて、神が示す見ず知らずの土地に行け、と。そこで祝福するからと。その時もう「七五歳であった」と告げていた。
 豊かに成功して、後は余生をと思う齢なのに、その先へ行かせる神。ここからまた一苦労、いや本当の苦労の山があるなんて。常識外なのに従うアブラム。信仰って、捨てることと出発することなのかも。


●14(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月・海の日)
わたしの目にあなたは価高く、貴い。  (イザ43・4)

 イザヤが、捕囚の民の解放を預言している。苦難の中にいる人すべてに届く主からの言葉だ。この四節に続いて「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」とあった。
 これは聞くたびに慰められて来た私の大切な御言葉だ。きっとすべての苦労を抱える人にとっても大事な御言葉だろう。これを「わたしの目の中に入れても痛くないほど愛している」というように聞き取った説教者がいた。御神からの優しい御声が聞こえて来るようだ。


●16(火)
「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。」  (出34・14)

 シナイ山に一人登ったモーセに十戒を賜る主。しかし人々は待っていられず、金の子牛を作って「これが神だ」を拝み、神の逆鱗に触れた。そののちのこと。悔いて嘆く人々に、十戒の再授与が行われる。その時に主が言われた言葉がこれだ。
 「あなたを赦した」という御思いと、「あなたの神だ」という御心が重なる。なぜなら「熱いほどあなたを愛しているから」とさえ聞こえて来た。私は愛されているんだ。


●17(水)
沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。     (詩37・7)

 この詩人の周りには、悪事を謀る者がたくさんいて、不正を働く者もたくさんいて、そういう者たちに憤りと怒りで苛立っている人がいる。その人に向けて告げているのだ「沈黙せよ。主に委ねて待て」と。
 私はいかに心騒がせて、騒がしく祈っていたかと思ってハッとした。周りに腹を立てて裁いていたことに気付いた。くだくだ祈るのは、主のなさることを待てない不信から。今日、祈る姿から変わろう。「御心が成るために、私は何をしたら良いですか」と聞いてみよう。沈黙は聴くことだから。



●18(木)
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。  (詩18・29)

 ダビデが敵から、主によって逃れさせられた時の詩として聞いて来た教会。消えそうな灯とは命のことか。闇はいかに深かっただろう。そこに御手が届いたのだ。
 主こそ、私の今日という命を灯し、生き生きと輝かせてくださるお方。「私は自分一人で生きているんじゃない」と改めて気付いたら、今日の一歩を踏み出す足に力が入った。光が主から差し込まれる!


●19(金)
主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。  (士4・14)

 イスラエルの民を苦しめて来た敵は、圧倒的な武力を誇る。そこに向けて「立て、行け」と出陣を命じた士師デボラ。そこに勝利があるという唯一の根拠が、「主が、あなたに先立って出て行かれた」からという一事であった。
 私にも今日行くべき所がある。そこは今日の働きがある場所。困難という敵がいようとも、そこに私より先に主が行っておられる。そこで私の到着を待っておられる。だから行かねば。今日の戦いの場に。


●20(土)
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。   (詩19・9)

 この詩人は、主の命令、つまり律法・戒め・裁き(全て同じもの)を聞き、そのまま従って行うことに、全身で喜びを表している。主の命令を行うことへの喜びは、まさに主ご自身への信頼から出ている。
 私は御言葉を聞くことに、これほど喜びを感じているか? 聞いて、そのまま従って行っているか? どこか義務感の重苦しさを含んではいないだろうか。喜びが薄いのは、御言葉に従った時に与えられる喜びの「御言葉経験」が少ないからかも。ああ喜びが欲しい。ならば従わなきゃ。


●21(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけなさい   (申4・9)

 モーセが民に、主の掟を忠実に行うように連綿と勧告する。その中にこの言葉が挟まれるように語られているのだ。
 人々は「あの命令はこの人に丁度いい、この命令はなかなか良いから、あの人に聞かせたい」と聞いてただろう。自分のことを棚上げにして。だからハッとさせるためこの言葉が挟まれなければならなかったのだ。
 アッと思った。神が私に語り掛けているのに、御言葉を横にいなす自分に気付いたから。自分で自分に「喝!」だ。


●23(火)
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。  (詩24・7)

 詩人は、主をお迎えする喜びを高らかに歌う。主こそ世界を創られた方、恵みを賜る方、強く雄々しく戦われる主、栄光に輝く王なのだと。ただし、誰がその主を迎えることが出来るかも告げられていた。それは、「主を求める人」だと。
 恵みは来る。既に私の生活のドアを叩いている。でも、私自身は本気で主を求めているだろうか。この詩人のようにワクワクして迎え入れようとしているか。さあ、ドアを開けよう。心からワクワクしつつ。


●24(水)
そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。  (代下20・17)

 南ユダ王国の王となったヨシャファトは、多くの悪い王がいた中で、数少ない良い王の一人だった。それは彼が、主を求めて生きたからだ。そのゆえに国は、大軍に攻められようとも「主があなたを救う」、と守られたのだ。
 幼い頃まわりから「神仏に頼らず、自分で戦え」と聞かされたけど、違うんだ。「まず主を求めて、次に従うことに全力になる」、この順序が勝敗を決するのだ。


●25(木)
ユダのすべての人々がその幼子も、妻も、息子と共に主の御前に立っていた。(代下20・13)

 南ユダのヨシャファト王は、主の前で礼拝するとき、独りではなかった。「すべての人々と共に」であった。ここに、人間のあるべき姿がある。
 王と民は、皆の顔を一斉に主の方に向けている。あっ、その姿はまるで、親鳥から生きるための餌をもらおうとする雛鳥が、一斉に口を開いて鳴いている姿に似ているかも。人々は、御言葉を食べたいと、真の親に顔を向けているのだ。私たちの教会の家族も、この姿へと導かれたい。


●26(金)
第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。   (創2・2)

 天地創造の七日目のこと。神は世界を創り終えて安息・休息なさったのだという。そしてこの日を、働かれた他の日々から特別に取り分けて、祝福された。これが人間への「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という招きに繋がってゆくのだ。
 私にとっても安息が必要。それは疲れを癒すためということもあるけれど、むしろ神がなさった祝福をいただくためにだ。だから神の前に行かなきゃ。祝福の受け取り場所の礼拝に!


●27(土)
殺してはならない。  (出20・13)

 モーセが神から授かった「十戒」の中の第六戒。神が「隣人を殺すな」と迫る。
 幼い頃は、「ボクは殺人なんてしませんよ。十個ある戒めの中で、これだけは守れています」と思っていた。でも、大人になるにつれて分かって来たことがある。刃物よりも、言葉で人を傷つけ殺してしまっていることの、なんと多いことかと。相手の人格を攻撃して、そして殺している。
 「十戒」って、成すべき目標であるよりも、自分の本当の姿を映し出す鏡なのかもしれない。そこに私の罪が映っている。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。 (詩55・23)

 詩人を囲むのは、敵、悩み、不安、災い、嘆き、死の恐怖、争い、戦慄、労苦・・・。そんなあらゆる困難にいる者に御言葉が届いた「あなたの重荷を主なる神にゆだねるんだ、支えられるから」と。
 人生で抱える数々の苦しみの中で、この詩に出て来ないものはないかも知れない。そしてこの一つにでも襲われたら、簡単に押しつぶされそうになるって経験している。これはそういう闇に届く言葉。光の言葉、聞かねばならない御言葉だ。


●30(火)
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。  (詩23・5)

 「主はわたしの羊飼い、」と始まる二三編の後半の一節だ。苦しめる者に囲まれつつ、その現実の中で主を見上げ、そこに生まれた堅い信頼が、賛歌となった。
 神を信頼して褒め称える言葉が生まれるは、幸いに立つ者の唇じゃない。逆境や困難、死の陰の谷を歩む者の唇に生まれるのだ。そして、それが信仰の生まれる場所なのかも知れない。ならばその場所は、人生のアチコチにある! それにしてもこの二三編は、明るく力強いなぁ。

●31(水)
あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。 (ネヘ9・6)

 バビロン捕囚後にエルサレム再建を担い、その歴史を記録したネヘミヤ。神の民の最悪の時も、再起の喜びも知る人の神賛美だ。その賛美の源は、神への背きの重さがあるのに、神が「しかし」と赦される方でいて下さること。単に「再建を感謝」というのじゃない。「こんな私なのに赦して下さるなんて有難い」と告白したのだ。
 彼がここで言う「命」って、生物学的な「命」だけでなく、「神に愛される特別な存在としていただける、それが私の命の意味」と、言っているように聞こえてきた。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:27| 『日々の聖句』

2019年06月30日

『日々の聖句』2019年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年6月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。      (士6・15)

 人々はミディアン人によって略奪され、嘆きは天に届いた。そのとき主がギデオンに「あなたが民を救い出せ」と告げた。それに彼が「私は一番貧弱者で、一番若輩なのに、なぜ私ですか」と答えたのだ。
 なぜ神様はいつも、相応しく思えない者を選ばれるのだろうと思いあぐねて、ふと思った。彼の業のどこを見ても。彼が自分で成し遂げたとは見えないからかも。能力に依らず、神の霊によって成すためだ。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。     (箴1・15)

 知恵の書の箴言が「わが子よ、父の諭しに聞き従え」と語る。その中の一つが、ならず者の道に踏み込むなということだ。
 「そんなこと分かっているよ」と思っているつもりで、いつの間にかその道に入り込んでいる気がする。大体ならず者って何? と聖書を見たら、罪もない隣人を苦しめて奪う者で、舌と行いで傷つける者だった。あれっ、それってやっぱりボクのことだと気付いて慌てる。慌てたら、まだ救いがあるのかも。飛び退いて立ち帰れるから。


●4(火)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  (イザ9・1)

 南北イスラエルの滅亡が迫る。その中にあってイザヤは希望を告げた。それは、かつてのダビデ王の時のような恵みの日々の到来。平和の君が来るよ、と語られていた。それが大いなる光だぞ、と。
 きっと人々は、その光をリアルに思い浮かべられただろう。あのダビデ王の時が来ると思い浮かべられたから。それと同じように、いやそれ以上に私もリアルに平和の君を思い浮かべられる。それはイエス様を知っているから。私の大いなる光だから。


●5(水)
年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。 (創21・2)

九〇歳のサラがついに息子を産んだ。「とても無理」と思えて、期待することさえ出来なかったのに。しかしその希望の領域に、神はサラを連れ出されたのだ。
「それは、神が約束されていた時期であった」と加えられた一言にドキッとした。神の計画には、成就する時があるのだ。その時まで、たとえ人間が諦めようとも、そこを貫いて突き進む。ああ私に、失望の中で信じる信仰をください。


●6(木)
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出20・7)

 「十戒」の中の第三戒である。
 当時の人々は、気安く「神かけて誓う」とか「主の名によって嘘偽りなどない」とか「ああ神様、なんてこったい」と口癖のように言っていたらしい。貴い御名が、形ばかりで口に上っていたらしい。
 改めて「みだりに唱えるな」とは何か、と思う。「神に真向かえ」ということかも。「主よ」と御名を呼ぶところに、既に神様が臨在されているのだから。私に耳を傾けて、「何だい?」と御心も向けてくださっているのだから。その御前に立つのだから。


●7(金)
人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。      (箴5・21)

 安全な人生の道がある。その道では、人はもう迷って悩み悲しむことはない。幸いへの道がある。それは、必ず最高の人生となる道だ。なぜって、その道は主なる神が「すべて計っておられる」道だから。
 あとは、その道を踏み行くか否かだけ。それなのに、その選択を私は何度間違って来たことか。自分で「こっちの道がよさそう」と踏み出して、迷子になって来た。
主の〈御言葉の道〉を踏み続けたい。その道に留まろう。そうさ、主の道に。


●8(土)
(民は)主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみをご覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。    (出4・31)

 エジプトで苦しむ民に遣わされるモーセ。初めは、誰も自分の言葉など信じないと悩んでいたが・・・。神に預かった言葉を語った時、民は神の言葉だと信じた。
 私も家族や友人の中に遣わされている。でもその場で、「私に何が語れるのか」と怖じる。しかし今朝「御言葉がある。そのまま語れば神の御業が起こる」と気付けた。「それに賭ければ良いんだ」と。

●9(日・第2主日・聖霊降臨日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。」   (士16・28)

 主によって与えられた怪力。その秘密をうかつにも知られてしまって、力を失ったサムソン。敵に捕らえられ笑い者にされていた時、彼は悔いて、すがり直して、そして祈った。ただ主の臨在を祈った。そこに、再び怪力が戻って来るのだ。
 ボクには怪力はないけど、主のおかげで一歩を踏み出せる。それなのに一日に何度、主を忘れることか。サムソンの祈りは、私の朝毎の祈り、夜毎の祈りだ。


●11(火)
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。  (イザ30・21)

 主に背いた南ユダ王国の民。バビロンから敵の声が迫った時も、主が「静かにしていれば救われる」と言われるのに、なお背いてエジプトと同盟して逃れようと画策する始末。とうとう行き詰って震えるしかない民に、この言葉が届いた。
 それは、なお救う、との主の御旨。震えるお前のゆえに導き出さないではいられない、との御心。罪人の背中を支える御手がある。それが、主の御手。破格の恩寵。


●12(水)
イスラエルの人々は、主に問うた。        (士20・27)

 ならず者の民による非道な仕打ちに、制裁を加えんとして立ち上がったイスラエルの軍団。しかし連敗に次ぐ連敗で4万人の兵を失う。途方に暮れて主の前で泣き崩れる人々。退却こそ最善策と思われた時に、彼らは主に決断を委ねた。
 泣く時、おじる時、逃げ出したくなるとき、それでも主に祈る。逃げ出してしまうのではなくて、浮足立ったままでも良いから主に祈る。そこで御心を聴く者こそ、主に従う強者だから。委ねることは、本当の強さなんだな。


●13(木)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。   (士10・10)
   

 人々は主なる神を礼拝していながら、もう片足をバアルの神、アシュトドの神、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕えていた。その姿はまるで片足信者。その姿が、「神を捨てた」と告げられていたのだ。
 ドキッとした。礼拝しつつも、「己」を神とする自己中心は、神を捨てているのだ。キリスト者こそ、警鐘を鳴らされている。

●14(金)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。  (詩133・1)

 この詩人として、ダビデが都に上る時に詠んだ歌として聞くなら、その胸の高鳴りまでもが聞こえて来そうに思える。礼拝に集うということを、何よりも喜ぶ彼がいる。一緒に神の前に出られることが、最大の恵みと数えている彼がいる。
 私も、その喜びが分かる。礼拝堂に、あの人この人、久しぶりに来られた人、困難を乗り越えて集っている人の顔がある時、「なんという喜び」と心が震えて来るから。その場、その時に優るものはない。


●15(土)
イスラエルの人々よ、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。       (イザ27・12)

 都が破滅する預言に、すぐ続けるようにして語りかけられる回復の預言。神の民は再び集められる。そしてエルサレムで礼拝する日が来るのだ、と。
 主は、何度も私たちを顧みてくださる。それも「全員を集める」というような十把一絡げの方法じゃなく、「あなたを、そしてあなたを」というように「ひとりひとり」なのだ。さらに、地に伏すあなたを「拾い」あげるようにして集めて下さるのだ。その一人に、私も入っているのですね!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。   (代下26・16)

 主を畏れ敬う王で、南ユダの王たちの中では稀有なウジヤ王だったのに・・・。主によって繁栄していることを忘れて思い上がった時、神をないがしろにしたのだ。
 ああ、ウジヤよ、お前もかと思う。人が罪の現実に転落するのは、逆境ではなく順境の時にこそ。敬神家であっても神を捨てる。祝福の土台を捨てることなのに。
私にいつも大小の逆境が続くは、かえって神の憐れみなのかも。きっとそうだ。


●18(火)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。   (申31・6)

 120歳になったモーセが、荒野で民を率いる後継者・ヨシュアを任命するとき、人々の前で発した言葉だ。それはヨシュアの人柄や能力を披歴したのではない。彼の前に立つ方を披歴したのだ。共に歩み、見放すことはない方・主なる神を。
 私たちも、ただ主によって導かれる群れ。群れが一つとなって一心に主のほうを見上げれば、困難に遭っても恐れることなく、迷いもない。「ただ主」これのみ。


●19(水)
「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」        (エレ33・3)

 エレミヤが、バビロンによる南ユダ王国滅亡を預言した時、王は怒って彼を投獄した。その獄中の彼へと、主が語り掛けたのだ。国が滅びたのちに約束されるエルサレム復興を。裁きの後に、なお希望も備えられていることを。
 どん底と思える獄中。何もかも失敗してしまったと思える場所に、主の言葉が差し込んで来る。鉄格子も壁も何かはせん。「我を呼べ」と御声は突入して来る。


●20(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」      (出14・16)

 出エジプトの後すぐ、人々の背後にエジプト軍が迫って来た。行く手を葦の海が阻む。その絶体絶命に、もう死ぬしかないと叫ぶ民。しかし主はその絶体絶命で、「進め」とモーセに命じられたのだ。
 人の目に見える困難による絶体絶命は、神の目には全く違って見えているんだ。それは、御業が起こる場所としてご覧になっているということ。そこに届く「成せ」との御言葉に従えば、その先に、恵みの御業を受け取る日が待っているのだ。


●21(金)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が亡びてゆく。その只中で回復の希望を神から戴いて語る預言者ミカ。救い主の到来と、残された人々に神を慕う者がいることを。その人々は、もはや人間に頼らず、神にのみ頼るのだ、と。
現実にどうやって人に頼らず、見えない神に頼るのかと呟いて、ハッとした。それって、御言葉を神の言葉と聞かない人の呟きだと気付いたから。神を頼ることは御言葉に頼ること、それもすぐ傍に神の言葉は届いている。従う私になりたい。


●22(土)
心の中で兄弟を憎んではならない。       (レビ19・17)

 主が民に勧告される、「聖なる者となれ」と。そのために「父母を敬え」「偶像を仰ぐな」「隣人を虐げるな」等と言われ、「兄弟を憎むな」とも命じられたのだ。
 人を憎んではならないとは、仲良く暮らすための勧めという程度の話じゃない。人を憎むことは、聖くなろうとする歩みを離れ、自分を汚す道を進むことなんだ。神の御心の外の荒涼とした世界に踏み込むことなんだ。あ、だからそこは悩みと苦しみが渦巻いていたんだ。憎しみは、捨てるべき心のゴミ。必ず自分で捨てねば。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。      (コへ3・20)

 全ての人にやって来る「死」。コへレトの言葉はその現実に真向かわせる。それも、終末の彼岸にある希望に目を向けさせるのではなく、現実の此岸を見詰めさせる。そして言いたいのだ「今を生きよ」と。
 「どうせ塵になるのだから・・・」と生きることじゃない。厭世家になるのでもなく、単に楽天家になるのでもなく、「しっかり今日という日を生きよ」と語りかけているのだ。よし、瞬間瞬間を大切に生きようぞ! それが貴き御旨だから。


●25(火)
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。  (詩22・11)

 苦難が近づき、助けてくれる人もいないという状況の中で、詩人が声をあげた。それは、「あなたは、私の神様なのだから」という祈りだった。
 決して「神がおられるなら助けて」というような不安な祈りじゃない。むしろ助けが来ることは分かり切っているという祈りだ。生まれる前から神に守られていることを信じる者の声だ。詩人は「助けて下さらないはずが無い」と言っているのだ。危機の時に、不安に揺れない祈りがある。
これは、信仰告白そのものだなぁ。


●26(水)
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。       (ヨエ3・1)

 南ユダ王国の滅亡を預言するヨエル。神への背きが止まらないゆえに、ついに裁かれる日が来るのだ。しかしその預言は悲しみだけで終わらない。回復の日が、その後に来ると告げられるから。親しく主の霊を受け、再び神を礼拝する「主と我」の日々が来るからと。それが希望だよと。
 御霊なる神よ。今日、私にも豊かに注ぎ給え。そのとき私も生き生きと生き出せるから。神の子として歩み出せるから。


●27(木)
主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。   (詩3・5)

 詩人には、予想だにしなかった苦難が襲いかかっている。信頼した者に裏切られて命さえ狙われている。「お前に神の救いなどあるものか」と責める者が迫る。その只中で詩人は、「それでも」と声を上げた。「主よ、あなたはわたしの盾」と。そして今朝のこの信頼の言葉を告げたのだ。
 私も、声を主に向けよう。自分の中で呟くのではなく、また人に向けて吠えるのでもなく、主に向かおう。それも、嘆きの言葉に乗せて、信頼の言葉も一緒に。


●28(金)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 (詩23・1)

 詩編全150編の中で、これは最も多くの信仰者に愛され、暗唱された詩ではないだろうか。
 これは決して安泰の中にある人が書いた詩ではない。敵が周りを囲んでいて、死の陰の谷を歩まされるような時に「わたしには何も欠けることがない」と告白したのだ。「主がわたしの羊飼いでいてくださるからだ」と。そこに、苦難の中にある信仰者の琴線に触れた理由があるのだろう。
私も苦難の淵で、最期の病床で、静かに口ずさんでいたい御言葉だ。


●28(土)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。   (エレ29・13〜14)

 バビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、エレミヤを通して「その地で生きよ」と伝えられる。「これは災いの計画でなく、将来と希望を与えるものだ」と。しかし主が、その地での人々の苦難をも思って加えられたのが今朝の御言葉だ。
 主は単に耐えろと言われるのではない。「私も一緒にいるから」と励まし、「あなたの苦しみに日こそ、私と会えるから」と。苦難こそ神を叫び求める日なのだから。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

        秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:15| 『日々の聖句』

2019年05月31日

『日々の聖句』2019年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年5月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水・祝日)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。 (創24・48)

 アブラハムに、息子イサクの嫁を探すようにと命じられた僕が、旅に出た。誰がふさわしいか、さらに相手が承諾するのか否かも分からない、全てが見当もつかない旅。しかし僕が祈りつつ進んだ時、最もふさわしいリベカの家族に出会えたのだ。
 見当もつかない旅をしているのは、私の人生も同じかもしれない。その先で、神が用意していて下さる恵を手にするために。その恵は、旅路を導かれるのは、真に共にいて下さる神だという信仰なのかも。


●2(木・国民の休日)
助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。     (出2・23)

 エジプトの地で、奴隷の労役に苦しみの叫びをあげたイスラエルの民。その声が神に届いた時、出エジプトの奇跡の出来事が始まる。モーセの召命は、神様が民の叫びを聞かれた直後なのだ。
 壮大な救いの御業が起こる出発点は、人々が置かれた不条理を鑑みられたからじゃない。人々の叫び声に神様が心痛まれたということ、憐れんでくださったということ。それは、私の叫ぶ祈りにも、神様は立ち上がってくださるという福音。届かない叫び声は無いのだ。

●3(金・憲法記念日)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。     (エレ26・2)

 神殿に立つエレミヤが、民全体に神の言葉を伝える。その語り出しが、これだ。
 「神の言葉を削らずにすべて語れ! ひと言も減らすな」と言われなければならなかった人々。これは、私にも突き刺さる言葉だ。御言葉から自分の都合の悪い部分を省いて、勝手に骨に抜きして、挙句の果てに一言も聞かない心になっているから。そこが、幸いから迷い出す道なのに。御言葉が消えた道なのに。ああ、御言葉をそのまま聞く耳でいたい。


●4(土・みどりの日)
主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 (ヨシュ2・11)

 ヨシュアがエリコの町に斥候を送り出す。その彼らをかくまった女ラハブ。異邦人の彼女なのに、なぜそのようにしたのか。それは、神がなさった出エジプトの出来事を知って、そこで神を畏れたからだ。御業を聞いただけで、神が生きて自分にも働かれることを信じたからだ。
 私も神の御業を知り、じかに御言葉さえ聞いている。でもこの女のように神を仰いだ生活をしているだろうか。主よ、私にも今朝、新しく信仰を与えてください。


●5(日・第1主日・こどもの日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月・振替休日)
恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。 (出14・13)

 意気揚々とエジプトを脱出した民の背後に、エジプト軍が迫って来た。人々が泣き叫ぶ中、一人モーセがこれを告げる。 前もって「必ず救いを見る」と聞いた神の約束を信じない人々。その狼狽の中で、ただ一人、神の言葉を信じて立ったのだ。
私も、狼狽する現実が真実のように見えても、〈残った一人の信じる者〉の側でいたいな。人の判断じゃなく、神の言葉にすがっている一人に、私もなりたい。


●7(火)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。(ゼカ8・17)

 イスラエルは、北も南も滅び去った。残された人々に、預言者ゼカリヤが語るのだ「悪の力離れて、主に立ち帰れ」と。そして成すべき具体的なことの一つに、今日の言葉が告げられたのだ。
 まだ心の中で相手への悪口が生まれているだけの時、その私に神は「わたしは憎むぞ」を言っておられる。それを聞いて、ドキッとする。すぐに飛びのいて悪から逃れねば。そうだ、今すぐにだ!


●8(水)
アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」 (創21・22)

 アブラハムが寄留したゲラルの地で、王たちが言った言葉だ。アブラハムが神に守られている現実を見て、降参して激白したのだ。異邦人であるのに。
 隣人が私の生活を見ている。そこで何が見えているのかな。「神が居るとは思えない」としか見えない生活をしていたら、神様に申し訳ない。私を通して神の現臨こそ見えて欲しいのに。祈りつつ歩まねば。


●9(木)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。   (士5・11)

 イスラエルに王が立てられる前、民を導く士師がいた。その一人デボラが、圧倒的な力を誇る敵を破った時に歌ったのがこれだ。人には勝算の見えない戦いだったのに、神が「行け」と命じて導かれた時、人間の計算を超えた出来事が起こる。そして、そこにこの歌が生まれた。
 私達も困難を乗り越えさせて頂いて今がある。でもそれを語り告げているだろうか。その日々を思い起こして、数えて、賛美したら、そこに希望が生まれるのに。


●10(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家 (申6・11)

 モーセは、神が与えて下さった一つひとつのものを数え上げてゆく。その中の一つがこれである。そしてその最後に言うのだ「あなたをエジプトの国、奴隷の家かな導き出された主を決して忘れるな」と。
 達成感に包まれる時、誘惑する者の声が囁く「君もなかなかやるじゃないか。一人で頑張ったね」と。自分を褒める言葉も心に沸いて来る。しかしその時こそ、気を付けて己に言わねばならない「否。全ては主のお陰、私は感謝に生きる」と。そこが、脱線の分岐点なのだから。


●11(土)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。    (イザ53・4)

 預言者イザヤによる『苦難の僕』の一節。この姿に私たちは、十字架へと向かう御子のお姿を見る。
 私のデスクにある十字架には主イエスが架けられている。やつれ切った顔、自重で筋が切れて伸び切った両腕、見る影もない姿。「この処刑は、罪人の私が受けねばならないはずだったのに」と思ったら、己の罪の重さが分かる。身代わりになれれた方の痛みが分かる。それほどまでに愛された愛の深さが見えて来るよう思えた。

●12(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。 (ヨブ7・17)
   

 ヨブは苦難の中で、友人から「自業自得だ」と追い詰められる。その中で彼は神に「私の罪など見張らないで、放って置いてくださればいいのに」と訴えた。
 苦難の時、なお神様から離れず、神に問い、神に嘆き、百%神と格闘している。「神様にすがる」って、こういうことなのかもしれない。願い事をする時じゃなく、苦難の時に、信仰はあらわになる。


●14(火)
あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 (レビ25・2)

 主の命令がモーセに降る。6年の間は畑に種を蒔いて収穫して良いが、7年目は土地を休ませねばならないと。安息命令は人間だけではなく、大地にも及ぶ。
 ああ、いわんや人間をや! 休むことは、私のことを私以上に心配していて下さる神様の命令、御父の願いなんだ。「休みが必要なんだ。息継ぎなしに走り続けるな」と。だから、休む場所は、御前でなきゃ。礼拝以外の場所はないのですね。


●15(水)
主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。  (ヨシュ24・16)

 老人ヨシュアが、民に告別の言葉を語る「主を固く信頼せよ」と。それに応答して人々が答えたのが、これだ。しかしこの時、人々は既に諸々の偶像を拝んでいた。
 「不信仰。背信」って何だろう・・・と改めて思う。それは、単に主を信じない事じゃないのかも。むしろ、自分がしたい事を何でもすること、自分の常識を神としていること、この世に倣うことを優先していることかも。片手間に主も拝むことだ。私の生活にも忍び込む罪。


●16(木)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。    (王上11・10)

 二度も現れたというのは、神様が心配で「絶対、絶対だめだからね」と、ソロモンの傍を離れられなかったということ。そこまで手厚く思いを掛けていただいた彼なのに、それでも背信へと走るソロモン。そこに、背信への誘惑の恐ろしさを見る。
 「私なら、そこまで思われたら絶対従う」と思って、すぐ「ソロモンでさえ駄目だったのに、私なら速攻背信だ」と思った。奢らないことが、私を堕罪から守る。


●17(金)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。 (イザ26・19)

 この「あなた」とは、主なる神のこと。人々が背信のゆえに平和を失って苦難に在る時、イザヤが回復の希望告げた。暗闇の中に「光の露」が降りるよと語った。
 でもなぜ喜びが見えない現実に、彼は光の露を見ているのだろう。民はまだ償いもしていないし、これから裁きの日が来るのに、既に赦された民のように接している・・・。あ、彼は民を「救われる者達よ」と見ているのかも。「相応しくない者が、そのままで赦されること」が「救い」だから。


●18(土)
主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創18・15)

 八十九歳のサラが、主から「来年、男の子を産む」と知らされ、「そんなはずが無い」と神の言葉を嘲笑した。途端に主から「なぜ笑ったのか。主に不可能なことなどない」と叱責される。それでも「笑ってません」と嘘をついて弁明するサラに、主が言われたのがこの言葉だ。
 サラは自分の常識を神の言葉の上に置き、叱責されても弁解する。なぜ「はい」とも「御免なさい」とも言えなかったのか。
そこに自分の姿が重なる。だからこそ今日、信仰を刷新する転換点にしたい。


●19(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師



●20(月)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 (エレ20・9)

 主の言葉を伝えたエレミヤに、人々からの嘲笑が浴びせられた。だから二度と伝えるものかと思った彼が、その直後にこの言葉を告白したのだ。
 私も日毎に御言葉を受けている。でもそれを隣人や家族に伝えているだろうか。私の中の御言葉も、伝えられることを願って燃えているのに。口よ、語れ!


●21(火)
(あなたたちは)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。 (ヨシュ24・15)

モーセの後継者として民を率いたヨシュア。彼は民にコンコンと神様がどんなに守って下さったかを語る。奴隷の家エジプトからの脱出と、その後の荒野の旅路の守りも。そして今、約束の地に辿り着いた時に人々に問うのだ「主に仕えるか、または土着の神に仕えるのか。どちらか一つを選べ」と。
どちらか一つなんだ。どちらも、では駄目なんだ。片足信者じゃ、必ず転ぶから。それもその怪我は重傷になるから。


●22(水)
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。      (イザ29・19)

 背信のゆえに滅んだ後、回復の希望が告げられた。それは人々が悔い改めたゆえの恵みじゃなく、主の憐れみだった。
 喜びに心躍る時がある。でもその時「聖なる方のゆえに、主のゆえに」と、どれだけ心を神に向けているだろうか。主を忘れて万歳と心躍らせるだけかも。「主のゆえに」というのは、自然に心に浮かぶ思いじゃない。全てのことにおいて意識的に心に刻まねば。この一点で、一日が変わる。


●23(木)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。 (ナホ1・7)

 専制的な権力によって異国の地ニネベに住む人々は苦しんでいた。その街に向けてナホムが告げたのは、弱く虐げられた人々に向けられた神の強い眼差しだ。守り抜いて下さるという圧倒的な宣言だ。
 神の民以外にまで御手が覆っていることを示す。神の愛は、パウロの異邦人伝道以前から及んでいたんだ。あ、当然かも。だって全ての命は御手の業なんだから、ご自身のものを大事にされるはず。そこに私の友人の命も入っていないはずはない。


●24(金)
お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 (サム上17・45)

 少年ダビデがペリシテ軍の大男ゴリアトの挑戦を受けた。イスラエル全軍は怯えたのに、少年の勇気はどこから来たのか。
「主の名によって」とは「主が戦う」ということ、ここなのだ。私も大きな困難=ゴリアトに襲いかかられる。その時、ダビデのように主を見るのか否か。そこで結果まで違って来るんだ。勝利か敗走か、と。


●25(土)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。 (申6・15)

 「主は熱情の神」って、どういうことかなと思って聖書を開いたら、主を捨てて異教の神々に走ったなら、主の怒りは燃え上がるということだった。
 激しく愛することって、激しく求めるということ。「恵みの全てをあなたにあげたい」という真剣さ。逆に「あなたを想う私を裏切らないで」ということ。主は私を祝福によって独占したいんだ。なんて素晴らしい独占なんだ! その傍から、どうして離れて良いだろうか。留まって生きたい。


●26(日・第4主日)

主日礼拝説教

         ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授、聖学院大学総合研究所客員教授)



●27(月)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。        (ハバ2・3)

 南王国滅亡の時代に立った預言者ハバクク。神の義しい裁きのために押し寄せる敵軍の迫りを見て「裁きのためとはいえ、敵が容赦なく剣を抜いても良いのでしょうか」と嘆く。その彼に、主の言葉が届いたのだ。「もう一つの幻がある、神に従う者は生きるから」と。希望の預言だった。
 罪と過ちに、自らを見て「悔いと嘆き」があり、同時に御言葉を見て「救いと希望」を見る。その全てに神が関わっていて下さるのですね。嗚呼それが信仰生活!


●28(火)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 (創1・11)

 天地創造の場面。混沌の中に、光と闇が分けられ、天と地が分けられ、地には植物が満ちて行く。世界が生まれた!
 全てのものが神との関りの中で命を得ていく。その壮大な関りよ! その壮大な関りの中に、私の小さな命も入られているんだ。私の中にも、神の天地創造がある。それは、私も神に結ばれて、世界の全ての命と繋がっているということだ。


●29(水)
「わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」 (出19・5)

 エジプト脱出の後、モーセと人々はシナイ山の麓に着いた。そこで神がモーセに語りかけたのだ。この直後、モーセは山に登り「契約」の中身である十戒を賜る。
 神様はいつも「こっちの道を行け、迷い道に入るな、こっちの道が祝福に満ちる所へ行く道だから」と示される。そういう道標が「契約」なんだ。それもカーナビのように、迷っても、道を外れても、立ち帰る道を示してくれる、「こっちだよ」と。


●30(木・昇天日)
生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主  (ルツ2・10)

 異郷の地で夫と死別し、二人の息子たちも死に、嫁のルツだけを連れて失意のうちに帰京したナオミ。その嫁ルツが、ナオミの親戚で地主のボアズから厚意を得、食べ物も満ち足りて行く。その不思議な成り行きを見ていたナオミが、背後に主の御業を感得して言った言葉がこれだ。
 全ての出来事の背後に、主の生きた御手がある。私の生活にも、主の慈しみが惜しみなく注がれているんだ。その目があれば、苦難の日も希望の光が見える。


●31(金)
「わたしは主である。」 (出6・2)

 モーセが主の命令通り、ファラオに「民を去らせよ」と言うと、逆に民の労役は重くなった。民がモーセに不満を言い、モーセが主に訴えた時、主から「必ず救い出すから」との答えが伝えられる。その冒頭に、この宣言があったのだ。
 「わたしは主である。」これは何にも増して確実な、約束成就への基。その御声は、今朝私にも届いているのだ「わたしはあなたの主だ」と。その一言を胸に、波のように襲い来る心配事があっても、恐れず今日の一日へと踏み出そう。いざ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:50| 『日々の聖句』