2011年04月18日

第6章 洗礼


[洗礼盤]


信仰から洗礼へ
 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
(ローマの信徒への手紙6章3〜4節)


教会のしるし
 説教と共に、教会の礼拝には聖礼典があります。イエス・キリストにある神の恵みを表します。
 神さまは、私たちに、キリストとその良い賜物のすべてにあずからせると、み言において約束してくださいました。その約束をたしかにし、保証するために、教会は主イエスの救いにあずかる聖礼典を設けました。
 洗礼と聖餐、その二つが主イエスに直接つながる聖礼典です。洗礼はキリスト者となることを表し、聖餐はキリスト者でありつづけることを表すものです。
 ここでは、洗礼についてご紹介します。

洗礼−神の子と教会−
 洗礼は、父と子と聖霊のみ名により、水によって行われます。
 十字架と復活の主は弟子たちに(教会に)、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じられたことを守るように教えなさい。」とお命じになりました。
 実は主イエスもヨルダン川で洗礼を受けられました。
 その時次のように天から神の声が聞こえてきました、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者」(マタイによる福音書3章17節)と。このみ言葉は、私たちが洗礼を受けるとき、主イエスを通して私たち自身にも語られるのです。罪人である私たちが神の子として認められる、ここに洗礼の恵みがあります。
 そしてこの神の子たちの交わりによって教会が建てられます。「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(コリントの信徒への手紙一12章13節)。洗礼の時に受けた聖霊は、個人的なものではなく、キリストの体=教会を建てる教会的な神の力なのです。
 洗礼を通して、神さまは私たちを、神さまの家族(神の国の民)の一員とし、神の子として、迎え入れてくださいます。洗礼の水によって、私たちは、私たちの罪を清めてくださる主イエスの死と復活にあずかります。私たちは主イエスと一つになり、また教会において主イエスに結ばれている全ての人々と一つとされます。罪赦されて、新しい命に生きる者となるのです。


Ghiberti Lorenzo『The Baptism of Christ』 (1427年)


洗礼を受けるには−悔い改めと信仰の告白−
 洗礼を受ける者は、信仰と悔い改めをもって、その恵みにあずかります。
 罪を告白し、信仰の言い表しをしなければなりません。それは、洗礼を受ける資格ではありません。もとより、洗礼を受ける資格など、だれももっていません。資格ではなく、私たち罪人を神の国へ招き入れようとしてくださる神さまの働きかけに対する私たちの応答です。
 それは自分勝手なものであってはなりません。教会の導きのもとで、神の恵みへの応答として、正しくなされることが大切です。み言と聖霊のお働きを祈り求めつつ、牧師や他の導き手の指導を受けてください。また、受洗のための準備会に出席してください。

洗礼を受けた者は
 洗礼は生涯で一度だけ受けるものです。「ただ一回」の恵みです。それで充分な、決して消えることのないしるしだからです。
 洗礼を受けた者は、キリストの体の一肢として教会に連なり、礼拝をささげ、聖餐にあずかり、その恵を証しし、感謝と祈り(信仰生活)に生きる者となります。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:06| 『これが知りたい12章』

第7章 聖餐


[聖餐卓の上にある聖餐用具]


信仰者が共にあずかる聖餐

「一同が食事をしているとき、イエスは
パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを
裂き、弟子たちに与えながら言われた。
『取って食べなさい。これは
わたしの体である。』」
(マタイによる福音書26章26節)


教会のしるし
 説教と共に、教会の礼拝には聖礼典があります。イエス・キリストにある神の恵みを表します。
 神さまは、私たちに、キリストとその良い賜物のすべてにあずからせると、み言葉において約束してくださいました。その約束をたしかにし、保証するために、教会は主イエスの救いにあずかる聖礼典を設けました。
 洗礼と聖餐、その二つが主イエスに直接つながる聖礼典です。洗礼はキリスト者となることを表し、聖餐はキリスト者でありつづけることを表すものです。
 ここでは、聖餐についてご紹介します。

聖餐−神さまの家族として養われる−
 パンとぶどう酒(教会によってはぶどう液を用いることもあります)をいただきます。
 聖餐は主の晩餐とも言われます。十字架の前夜、主は弟子たちと食事を共にし、パンを裂き「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、ぶどうの杯を取り「皆、この杯から飲みなさ い。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。また、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われ、神の国を約束してくださいました。
 聖餐において私たちは神さまの家族(神の国の民)としての食卓で養われます。私たちがいただくパンと杯を通して、主はご自分の体と血を私たちに与えて下さいます。私たちの信仰を新しくし、永遠の生命という賜物を与えてくださいます。主がすべての人のため、そして私のためにも死んで下さったことを思い起こしながら、感謝をもって、信仰によって、主を味わいます。


Leonard da Vinchi 『The Last Supper』 (1498年)


パンとぶどう酒を通して
 聖餐のパンとぶどう酒は、ただちにそれ自体が主イエスの体と血なのではありません。それはしるしです。主イエスご自身が定められたしるしを通して、聖霊のお働きによって、私たちは主イエスの体と血にあずかります。
 それは、主が体を裂き、血を流して打ちたてて下さった、神さまとの新しいかかわり、つまり、「契約」を表しています。聖餐にあずかるごとに、私たちが洗礼を授けられたこと、神さまが私たちを神さまの家族(神の国の民)の一員として、すなわち神の子として、迎え入れてくださったことを、感謝をもって思い起こすことができます。そして、信仰を新たにするのです。

聖餐を受ける人とは
 信仰を告白して洗礼を受けた者たちが、これにあずかります。それ以外の人は受けることができません。
 礼拝に続けて出席し、聖餐の恵みを教えられ、共にあずかりたいと願う人は、まず、洗礼を受けてください。それまでは、その時がくることを信じて祈りつつ、お待ちください。洗礼を受けて、キリストに結ばれることによって養われる養い、それが聖餐だからです。
 教会は、聖餐がキリストの恵みの秩序に従って正しく行われるようにと、注意を払っています。誰もが、ふさわしく聖餐にあずかることができるようにと祈り、 配慮します。聖餐を受ける人は、自分がそれを受けるに相応しいかどうか吟味しなければなりません。キリストへの信仰と信頼とを問います。私たちは主の恵みなくして信仰に生きることはできません。畏れをもって恵みの座に近づきましょう。


聖餐卓が聖壇の中央に置かれています。向かって左側に説教台、右側には聖書台があります。聖餐卓のすぐ右横にあるのが洗礼盤。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:05| 『これが知りたい12章』

第8章 祈り

祈りの始まり
 人はそれぞれの人生の旅路を始めた時、そのはじめから喜びと共に戸惑いも味わいます。それは、誰もが現実の壁にぶつかりながら、頭を抱えるようなところを通らされるからです。悩み、辛いと思うままに悲しみます。そしてその時、「わたしをここから救い出してくれる力のあるお方はどこにいるのか」と叫びの言葉を上げる。でももしそこで、その心と言葉を<上へ>と向けて叫ぶのなら、それが祈りの始まりなのです。
こうした人間の生に深く根ざした言葉を、誰に向けて訴えるのか自覚したものにするなら、私たちの内側にあった漠然とした思いは明確な形を取るのです。それは信頼をこめた祈りとなり、希望がそこに生まれます。

どう祈ったらよいのか
 祈ることを考え始めると、まもなく「どう祈ったらよいか分からない」、ということにぶつかるのではないかと思います。教会で信仰の先達者の祈りを聞きます。そのとき、自分も立派な祈りをしなくてはという気持ちが、焦りを呼ぶかもしれません。そうすると祈りの言葉が出てこなくなる。神様に叫びをぶつけたいという思いと、どう祈ったらよいのか言葉が分からない、そのはざまでイライラするのです。でも私は、「どう祈ってよいのか分からない」、それが本当の姿だと思うのです。そして、そこから出発するのだと。


あなたの祈りを待っておられる神
 どう祈ってよいのか…。そのうめきを一番よく知っているのは、自分自身よりも、実は祈りの受け取り手である神様であると思います。神こそが、私たちの心の奥にある悩みや叫びを、誰よりも真実に知っていてくださり、真剣に受け取っていてくださるのです。聖書に「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマの信徒への手紙8章26節)とあります。神ご自身に他ならない“霊”が、私たちのうめきを一緒にうめいて下さって、み父なる神に執り成して下さっているのです。その執り成しに支えられて、私たちの祈りが始まるです。

作者不明『Job in Pray』(1410年ごろ) 
草の上にひざまずいたヨブが、星にちりばまられた雲から姿を現している神に向かって、上を仰いで祈っています。背景の複雑な模様は、アカンサズ葉飾りの様式で描かれています。

 ですから、私たちはただそのお方を信頼して、顔を上げて「神様」と呼びかければよいのです。神は必ず全部受け取ってくださる。神こそが、あなたの呼びかける声を喜んで待っていてくださるのですから。
 神のみ名を呼ぶ祈りは、現実の生活から離れたところでするものではありません。むしろそこから生まれる様々な喜びや悲しみを神に打ち明け、委ねていく言葉です。私たちは、自分自身を神に投げかけるようにする、そこに神との対話としての祈りが生まれているのです。


Jean-Jacques Henner 『Young Woman Praying(祈る若い婦人)』 (1937年)


主イエスが与えてくださった祈り
 私たちは、どんな事でも神に率直に祈り求めることが許されている。しかしそのような私たちだからこそ、どのように祈ることが神に求められているのか、真摯に問うべきでしょう。
2000年前、弟子たちが主イエスにこの質問をいたしました。「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカによる福音書11章1節)と。弟子たちは、主が祈っている姿を見ていて、自分たちにもどう祈ったらよいのか教えて欲しいと願ったのです。それに答えて主イエスが示してくださったのが『主の祈り』でした。ですから『主の祈り』は、主イエスがご自分の祈りへと弟子たちを招き入れる祈りであったと言えるでしょう。私たちは、主イエスが「このように祈りなさい」と与えて下さった『主の祈り』を祈るとき、神のみ子イエスがみ父を呼ぶ祈りに、私たちの祈りも重ねられるのだと思います。そしてこの祈りの言葉に支えられて、私たちは誰もが祈りの筋道を整えられ、しっかりと父なる神へと心が上げられてゆけるのです。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:04| 『これが知りたい12章』

第9章 献金


Albrecht Dürer 『Adoration of Magi(博士たちの礼拝)』
東方から来た博士たちは、母マリアに抱かれて眠る御子と出会い、持てる最上の贈り物をささげました。


感謝と献身のしるし
 私たちの信仰生活は、主イエス・キリストの十字架と復活に現された神の恵みにお応えするものです。それは、感謝と献身の生活であるということができます。私たちの救いのために御子が尊い命をささげて下さったことを心から感謝し、私たちも自分自身とすべての生活を神のものとして献げるのです。
 献金も信仰生活における具体的なわざのひとつであり、神の恵みに対する感謝と献身のしるしとしてなされるものです。そのことによって、私たちは教会に召された一員として分に応じた責任を果たし、宣教のわざに参加してゆくのです。献金においても、私たちは神に用いられる喜びに満ち溢れるのです。ですから、献金は、願望の成就のためのお賽銭、参加費や会費の類とは根本的に性質が異なるということを覚えておかねばなりません。
 コリントの信徒への手紙二9章6〜7節は献金の意味を明らかにしてくれます。
 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」


作者不明 『Pieta』 (1500年頃)。十字架から降ろされた主イエスの遺体を抱える。


信仰の態度を映し出す献金
 献金をいくらしたらよいのかという問題があります。ここで大切なことは、神の前に真実であるということであって、他の人々と比較することではありません。
代々の教会は収入の十分の一を献げるという精神を大切にして参りました。旧約聖書のレビ記27章30節によれば「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」とあります。この「十分の一献金」の背景には、私たちのすべては本来、神からあたえられたものであるとの信仰があります。ですから、自分たちの必要をまず満たし、余ったものがあれば神に献げるという姿勢は、信仰者にふさわしくありません。そこには献げる痛みが何も伴わないからです。旧約の時代には収穫の初穂をまず神に献げることが求められていたように、私たちもまず与えられた収入の中から献金を聖別したいのです。そこにも神を中心とする生活が生き生きと整えられてくるのです。
 ルカ福音書21章1−4節に記される「貧しいやもめの献金」の記事はいつでも思い起こされてよいでしょう。他の人々にはわずかに見えたレプトン銅貨二枚に、貧しいやもめの信仰の大きな喜びと献げる大きな痛みが込められていました。主イエスはそれをご覧になり、お喜びになられたのです。


ルカによる福音書21章1〜4節「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」
写真 Gustave Dore 『 Bible Illustrations・やもめの献金 』 (1860年頃)


献金の使途と種類
 私たちの献金は、もっぱら所属する教会の伝道の働きのために用いられます。そこには牧師・伝道師・教育主事への謝儀、伝道費、礼典費、事務費、営繕維持費等も含まれます。もちろん、他教会、神学校、キリスト教主義学校、福祉施設を支援するために対外的に支出される場合もあります。すべては神の栄光が現されるためにとの祈りの内に献金は大切に用いられます。
 献金の種類としては、@礼拝献金 A月定献金 B特別献金(クリスマス・イースター等の教会暦に合わせた献金)C感謝献金(誕生・入学・結婚・全快等) D指定献金(会堂建築・オルガン奉献等)があります。どんな小さなことにおいても神の恵みに感謝して献げる機会としてゆくことは、健やかな信仰の証しです。私たちは、献げるという姿勢を身につけることの大切さを見失わないようにしたものです。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:03| 『これが知りたい12章』

第10章 結婚

愛するための結婚
 人はなぜ結婚するのでしょうか。このような質問をしますと、最近では、恐らく多くの方が、「愛しているから」と答えるのではないかと思います。確かに、愛しているかどうかは結婚の大事な要件の一つでしょう。しかし、聖書は、結婚にはそれ以上の理由があるというのです。
 結婚式でよく読まれる聖書の言葉に、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。……夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソの信徒への手紙5章21〜25節)というものがあります。ここでは、夫婦に対して、互いに愛し合い仕え合えと言っています。結婚する際に愛しているかどうかというのではありません。結婚してから、互いに愛し仕え合う夫婦。ここに聖書の重要な結婚観があると言ってよいでしょう。ですから、結婚式でなされる誓約も、「あなた方は今互いを愛していますか」とは聞きません。そうではなく、「愛することを約束しますか」と問います。結婚は、愛しているからするのではなく、神がお互いを、愛するために与えて下さったと信じ、そのような者として愛することを神に誓約することです。主イエス・キリストは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイによる福音書19章6節)と言われました。結婚式は、その神のご決意を全うしようとする、神と二人の厳かな契約の儀式であるのです。

助け合うために
 聖書は、そもそも人間は、互いに助け合うために男と女とに造られたと語っています。創世記2章にはこのように記されています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)。結婚は、この言葉が実現する時でもあります。つまり、結婚する相手を与えられるということは、具体的に助け合う相手が与えられたということでもあるのです。
 だからこそ、結婚式では、「あなたはこの兄弟(姉妹)と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか」「約束します」と神の前で誓約をします。神がこの相手を、あなたが愛し助け合う対象として与えて下さったと信ずるかどうか。そして、そのようにするかどうか。結婚しようとしている方も、また既に結婚されている方も、互いをそのようなものとして神から与えられた人として受け取り直しいつもこの誓約に立ち帰ってみるべきでしょう。

キリストの愛を知る家庭
 しかし、結婚生活の中では、互いに愛せないと思う時がやはりあるのではないでしょうか。しかし、そのような時、互いに愛し仕え合うことを教えている先ほどのエフェソの信徒への手紙の言葉をもう一度思い起こしていただきたいのです。そこでは、互いに愛し仕え合うことは、キリストと教会との関係に重ね合わされていました。キリストは教会に連なる私たち一人一人に、十字架でご自分を犠牲にされるほどに仕え、愛しておられるということが前提されているのです。ということは、私たちが互いを愛せなくなる時、是非一つのことを思い起こしたいと思います。キリストは、私たちの中に、私たちではとても愛せないようなものを見つけられるときにも、なお愛して下さっているということをです。
 結婚生活は、そのような、私たちの思いを遙かに超えた神の愛を学ぶ場でもあります。愛せない時に、そのような時でもなお愛して下さる神を思うことで、神の愛の深さを知ることができます。神の愛は、私たちの想像以上に深いのです。大体において、私たちは、愛するということがどのようなことであるかすらよくわかっていない部分があるのではないでしょうか。愛することは、自分の思いを相手にぶつけることとは違います。また、相手にも自分を愛して欲しいというように、見返りを求めるものとも違うのです。キリストの愛はそれ以上の愛です。ここに本当の愛の深さがあります。愛せないと思うような時でも、なお自分を与えるほどに仕える愛。そのような本当の愛を、キリストから学ばなければならないのではないでしょうか。
 そのためにも、結婚式の時だけでなく、夫婦が常に主の十字架の下に立ち続ける、つまり礼拝し続けることが重要です。愛する対象を神から与えられ、誓約したのになお愛せないことがある私たちです。しかしそこで共にもう一度キリストの十字架を見上げるなら、その私たちをなお赦し、愛されるキリストの愛があることを学ぶことができます。そして、自分が思っていた以上の愛の深さを知って、もう一度互いを愛してみることへと押し出されてゆきたいと思うのです。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたち
を愛してくださったからです。」
(ヨハネの手紙一 4章19節)


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:02| 『これが知りたい12章』

第11章 老いの悩み


[Daily Bread]

老人と神さま
 聖書に「見よ、『人の子』のような者が、天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」(ダニエル書7章13〜14節)というみ言葉があります。ここで神さまのことが「日の老いたる者」と表現されています。ユダヤ・キリスト教信仰では、古くから「老い」と「神(信仰)」とは深く関わりがあるとされてきました。それは、人が神の国から地上に生れ来て、死んでまた神の国へ戻っていくことを考えますと、神の国に近いのは子どもと老人ということになるからなのです。クリスマス物語でも、老人達が重要な役割を果たしています。ザカリアとエリサベト、シメオン、アンナ、といった人々です。神の子の誕生に人生を積み重ねてきた老人達の存在が無くてはならないことが示されています。
 年を重ねるということはより深く神に近くなるということ、そしてキリストの誕生の意味がより深く分かるようになるということなのです。シメオンがキリストと出会った時の言葉はこうでした。老いた者でなければ言えない信仰の告白です。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安
らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であ
なたの救いを見たからです。」 
(ルカによる福音書2章29〜30節)


Hyacinthe Rigaud
『The Presentation in the Temple』 (1743年)
中央の白髪の老人がシメオン。左下に、主イエスを抱いて神殿に入ってきた母マリアの姿があります。シメオンは、幼児を見るなり、急いで立ち上がって抱きあげようと手を伸ばしています。


長老を重んじる
 教会では、老いた者を特別に重んじる良き伝統を受け継いでいます。旧約聖書には次のように教えられています。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ記19章32節)。この精神を受け継いだキリスト教会でも老いたる者を特別に「長老」と呼んで制度的にも位置づけてきました。ですから新約聖書には「長老」という言葉が幾度となく出てまいります。
 「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです」(テモテへの手紙一5章17節)。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブの手紙5章14節)。「さて、わたしは長老の一人として、…長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、…むしろ、群れの模範になりなさい。…同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい」(ペテロの手紙一5章1〜5節)。
 教会は確かに、人生と信仰生活の年月を積み重ねた「老いたる者」の存在の意味を明確に位置づけ、それによって成り立っている世界です。


屋久島にある巨大な杉。樹齢2千年以上になる年輪を重ねた古木は、とても堂々としている。


成熟と成長
 コリントの信徒への手紙二4章16節に、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」とあります。これは人がどんなに歳をとっても内なる霊性はますます成長し、成熟していくということを教えています。肉体は衰えていっても霊性は成長し続けていく、ここに老いの恵みがあります。
 同じコリントの信徒への手紙二3章18節に「わたしたちは皆、…栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」とあるのも同じ恵みを示しています。霊性の成長と成熟によって神を証しし、人々を導いていく。これは特に老人に与えられている特別の力なのです。
 キリストにあって老いていく、ここに信仰の豊かさと恵みが凝縮されているのです。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:01| 『これが知りたい12章』