2011年04月18日
第1章 教会

[教会の塔]この塔は、何よりも天に向かって垂直に立つ塔として、創造主でいたもう神を指し示しています。この塔を見上げるごとに、目を地上から天に、また塔の先端の十字架に向けるのです。
教会には、誰が来るのですか
あるクリスチャンが高校時代、友人に「僕は教会に行っているんだ」と言って、ビックリされたことがあります。友人はどうしてビックリしたかと申しますと、「お前みたいな悪ガキが教会に行っているなんて」ということでした。それを聞いて、今度はそのクリスチャンほうがビックリ。
教会に集まる人は、あなたの隣で笑ったり泣いたりする学校の親しい友人であり、会社の同僚や近所のおばさん、親戚のおじさんであることも。どこにでもいる普通の人が教会に来ているのです。私はここに、キリスト教の教会の特徴があると思うのです。
教会は、誰のためにあるのですか
教会はエルサレムに生まれ、そこから世界中に広がっていきました。それは、単に地理的なことを意味するのではありません。人である限り誰もが持っている、だれかに自分を丸ごと受け止めてもらいたいという渇望、そしてそれに応えることが出来るお方への憧れ。そういう人間の根源に教会は届いていった結果、世界中に広がったのです。教会はあらゆる人の存在の根源に浸透していく普遍性があるのです。
教会は、誰が建てたのですか
そこで改めて「教会って何だろう」と考えてみました。教会とは、「同じ信仰を持っている者が、一緒にいた方が何かと便利だろう」と言って集合して出来たものなのでしょうか。もしそのようなものなら、社会のどこにでもある、同好会やクラブや政治結社と違わないことになります。
教会は、<人間が>つくろうと言って始まったのではないのです。<神様が>決意されて地上に建てられたものなのです。ですから教会とは、<上から>のものであり、それが本質であるのです。

Vincent van Gogh 『The Church at Auvers(オーヴェールの教会)』 (1890年)自ら死を選ぶまでの2ヶ月の間、ゴッホはオーヴェールで70点もの作品を残しました。これはオーヴェールの丘の中腹にある教会の風景。彼の画家としての心象風景を感じさせる名作です。この教会は12〜13世紀のローマン・ゴシック建築。

教会は、「聖なる教会、聖徒の交わり」
神様が私たちにしてくださった救いとは、一体どんなことなのか、それを要約したものに『使徒信条』という文書があります。世々の教会は、これを大切にしてきました。その使徒信条の中に、教会は「聖なる教会、聖徒の交わり」だと教えられています。
この「聖」という語は、もちろん「きよい」という意味があります。でもそのもともとの意味は、「とっておく」、「神様のために取り分ける」ということです。ですから「聖徒」というのは、神様のものとされたと人々ということです。その人がきよいとかきよくないということよりも、神様のものとしてその人が特別扱いにされているということが第一の意味なのです。そのような神様に取り分けられ、神によって招かれた者たちの群れが、「聖なる教会」であるのだというのです。きょう教会に集まった私たちも、その招きにあずかった一人であると信じて喜んでよいのです。
「神は真実な方です。この神によって、あなたが
たは神の子、わたしたちの主イエス・キリスト
との交わりに招き入れられたのです。」
(コリントの信徒への手紙一1章9節)
教会は、聖なる教会として、また聖徒の交わりとして、神によって2000年間立ち続けてまいりました。それを知る時、「教会がそんな壮大なところだったら、ここに来ても私など端っこにいるしかないかも」と、遠慮されるかもしれません。でも、あなたが今ここにおられるのは、何よりも神様が名指しで、「あなたも神の御子イエス・キリストとの交わりに入るのだよ」と招いてくださったということです。そのようにして、キリストに結び付けられた人々の群れの中に、今あなたがおられる。ちゃんと主によって、前もって準備された座におられる。そのことが既に素晴らしいことなのです。そのまま受け取ってよいのです。

Rembrandt van Rijn 『Christ Preaching (イエスの説教)』(1652年)
このエッチングには、イエス・キリストに招かれた多くの人々が描かれています。そこで皆、主イエスの語られる言葉に耳を傾けている様子がわかります。この主イエスを中心に、まことの交わりが生まれるのです。
このエッチングには、イエス・キリストに招かれた多くの人々が描かれています。そこで皆、主イエスの語られる言葉に耳を傾けている様子がわかります。この主イエスを中心に、まことの交わりが生まれるのです。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:11| 『これが知りたい12章』
第2章 礼拝

[主の日 朝の礼拝]
教会の歩みの中心
教会の歩みの中心は、礼拝です。教会は何よりも礼拝を大切にしていますし、礼拝を抜きにした信仰生活は考えられません。
その礼拝では何がなされるのでしょうか。礼拝では、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、聖書が読まれます。しかし、礼拝は、教会に何かがまつられていてそれを拝み、それに向かって祈り、歌を歌うというのではないのです。礼拝の中心には、神の言葉としての聖書があります。礼拝では聖書が読まれ、牧師によってそれに基づく説教がなされます。それを通して、私たちは、神はどのようなお方であり、私たちに何をして下さっているのかを知らされ、その神に目を向け心を向けます。そしてそこに、礼拝の中心があるといってよいのです。

Albrecht Dürer 『The Resurrection of Christ』 (1510年)
キリストの復活を記念して
礼拝は、原則として毎週日曜日に行われます。日曜日には、世界中の教会で礼拝が行われるのです。もともとユダヤ教では、礼拝の日は土曜日でした。しかし今からおよそ2000年前、主イエス・キリストが十字架にかかって死なれた後、その三日目に復活したのが日曜日であったことから、それを記念して、キリスト教では日曜日に礼拝をするようになりました。
礼拝が、十字架にかかられた主キリストの復活を記念する場だということは、礼拝はまず何よりも、聖書を通してキリストの十字架と復活の出来事を指し示される時だということです。礼拝は、聖書の言葉を通して、神の御子であるキリストが私たちのために人となってこの世に来られたこと、そして私たちの罪を赦すために十字架にかかられたこと、そして死に打ち勝ってよみがえられたことを伝えます。そして、私たちは、天にいます神が、その全てをなして下さっているほどに、私たちに関心を向け、私たちを愛し大切にされている方であることを知らされるのです。
本当の安息を与える場
元来礼拝の日は、「安息日」と呼ばれてきました。私たちは日々の生活の中で、安息を得ているでしょうか。平安があるでしょうか。日本では多くの人が、日曜日を遊びに出かけたり、体を休めるために使います。しかし、それによって本当に安息は得られるでしょうか。
たとえ体を休めても、気晴らしをしても、「私は一体何者なのか」「何故生きるべきなのか」「死とは一体何なのか」という、私たちを恐れさせ悩ませる問題は解決しません。しかしそれでは、本当の意味で安息を得ることにはならないと思うのです。
礼拝にはその解決の言葉があります。たとえ失敗だらけの人生であったとしても、あなたはなお神の子とされ、神に必要なものとされているということが語られます。また、死は全ての終わりではなく、私たちも終末にあのキリストのようによみがえらされ、その日に来るとされる神の国に共に生かされるということが、礼拝を通して明らかにされます。そして、どのような苦しみがあるとしても、世界がどのようになったとしても、そしてどこに行くことになったとしても、そのことは変わらないと告げられるのです。この事実こそ、私たちを安心させてくれます。そこに、安息と平安があります。
讃美という応答をもって
ですから、礼拝には、気晴らしや休息では決して得られない喜びと平安とがあると言ってよいでしょう。礼拝は喜びの声で満ちています。この私のようなものが、神から大切にされ、愛されていることが確信されるとき、それは神への讃美となって表れるのです。あの主イエス・キリストを生むことになったマリアはこう神を讃美しました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(ルカによる福音書1章47〜48節)。私たちもまた、この私が神に目を留められていることを、礼拝で讃美歌を歌って神を讃美し、祈りをもって神に感謝します。
確かに世界は混沌とし、希望がなかなか見出せないかもしれません。日々の生活は、私たちを疲れさせ、魂を萎えさせるかもしれません。けれども、礼拝は、いつも歌声で満ちています。それは、礼拝に本当の喜びがあり、安息があるからです。そして礼拝は、その喜びの内に、一週間のそれぞれの歩みへと新たな思いで押し出してくれるのです。
礼拝は全ての人に開かれています。どうぞどなたでも礼拝においでになってみてください。そして、共に喜びを与えられ、希望を与えられて、神を讃美しようではありませんか。
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
(ヘブライ人への手紙4章16節)
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:10| 『これが知りたい12章』
第3章 神

キリスト教が信じている神さまは日本(宗教)の神々とずい分と性格が違います。その違いをよく知らないと、キリスト教そのものがわからなくなってきます。このパンフレットによってその一部だけを見てみたいと思います。
超越神とヒトガミ
キリスト教の神さまは人間や世界・宇宙すべてをお造りになった方で、私たち人間とは全く次元の異なる存在です。たとえば私たち人間は必ず死んでいきますが、神は決して死なれることはありません。私たち人間はいろんな意味で不完全な存在ですが、神は完全なお方です。どんなに立派な人であっても、決して神にはなれない。あくまで神は神であって人ではなく、人は人であって決して神にはなり得ない。それがキリスト教信仰の根幹となっています。
しかし日本ではそうではありません。神と人とにそんな厳密な区別はなく、いや動物とすらそんなに区別がありません。江戸時代の国学者本居宣長が「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云ふなり」と定義しています。どこか少しでもすぐれたこと、変わったこと、おかしなところがある人間や動物、植物はみな神として認められます。それで、菅原道真(天神さま)、豊臣秀吉(豊国大明神)、徳川家康(東照大権現)などもみな神として崇められています。
また死んだ人はみな神霊となり、それぞれの家の先祖神となります。これが先祖崇拝です。死んだ人だけでなく、今生きている人でも特別にすぐれた能力(カリスマ)をあらわしている人は「生き神さま」としてあがめられることが多くいのです。
これらすべてを総称して「ヒトガミ信仰」と言ったりしますが、いずれにしても、神と人とが断絶することなく、何らかの仕方でつながっているのが日本の神信仰の特徴です。
普遍神と民族神
キリスト教の神さまは父、子、聖霊という三様の姿を持っておられますが、本質的には唯一神であられ、民族や国家を越えてすべての人々を支配し導いて下さる神です。ですからキリスト教信仰は世界中に広まっていくのです。この信仰によってどの国の人とも仲良く愛し合うことが出来ます。それを具体的にあらわしているのが「教会」です。ですから教会は世界中に建てられています。
しかし、日本の神さまは本質的に日本人だけの神です。この信仰によって日本人は他の国の人々と違って特別にすぐれた民族とされます。たとえば天照大御神という比類なきすぐれた神さまはただ日本人だけを照らしておられるのであって、この意味で日本人だけが特別に選ばれ、すぐれた、神々の子孫ということになります。「天皇を中心とした神の国・日本」という表現がなされるゆえんです。この信仰がある限り国際的に貢献することは難しいと言わなければなりません。

愛の神と森の神
キリスト教の神さまの本質は「愛」です。愛においてこそ神は最もよくご自身をあらわされます。「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神もかれにいます」と聖書に言われている通りです。ですから教会は世界のすべての人々と愛し合うために2000年間世界中に向かって伝道してきたのです。
これに対して日本の神々は「聖なる森(杜)」におられる神々です。日本宗教は何よりも森を大事にします。この美しき自然と神々は深く結びついています。まさしく日本の神々はこの水と緑豊かな日本でしか活動し得ない存在であります。日本宗教は自然宗教とも言われますが、正確に言うと「美しき自然」の宗教であり、神々であります。モーセに率いられたイスラエル民族が40年間彷徨(ほうこう)した岩と砂ばかりのシナイ砂漠のような所では日本宗教は成立し得ず、神々も生息し得ないでありましょう。
キリスト教の神はどんなに苛酷な自然であってもそれを越えて愛によって支配し、人間相互を愛と平和に導いて下さるのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」
(ヨハネの手紙一4章7節)
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:09| 『これが知りたい12章』
第4章 イエス・キリスト

[浦上天主堂 入り口上部]
イエス・キリスト
イエス・キリストとは一体何者なのか?これは古代の教会からいろいろと議論されてきました。教会にとって、イエス・キリストが何者なのかは、とても重要な問題です。聖書によるならば、イエス・キリストとは、人間のために人となり、地上に来てくださった神です。真の神が真の人として地上に来られたというのです。では、神はなぜ「人間のために」地上に来られたのでしょうか?
あなたの友となるため
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネによる福音書15章13〜15節)。
人間同士の友人関係とは、互いの信頼によって成り立っています。信頼が強くなればなるほど、その友情は深められより固い絆(きずな)がむすばれます。しかし、私たちは友人関係が壊れたり、途絶えてしまうことをしばしば経験するのではないでしょうか。裏切りや互いが離れていくことによって、いとも簡単に信頼は壊れることがあるのです。そして、一度壊れた信頼はなかなか元には戻りません。例え生涯壊れることがない信頼であったとしても、友人関係とは、永遠に続くものではありません。なぜならば、人は必ず死を迎えるからです。
もし、決して死ぬことのない存在、そして決して裏切ることのない存在が私たちの友でいてくれるならば、どんなにか心強いことでしょうか。聖書の中で、キリストは自ら語っております。私はあなたがたを友と呼ぶ、と。それは、キリストが私たちの友となるために地上に来てくださり、私たちを友として迎えていてくださっているということです。私たちがまだ友としてキリストを迎える準備が出来ていなくても、キリストはすでに私たちを友と呼んでくださいました。決して裏切ることがなく、決して死ぬことのない友が私たちにはいるのです。

Andrea del Sarto 『Christ the Redeemer(あがない主キリスト)』
手の甲に十字架の傷跡がはっきり見える。
手の甲に十字架の傷跡がはっきり見える。
あなたの罪を赦すため
あなたは、親しい友人とケンカをしたことがあるでしょうか。ケンカを解決し和解するためには、当人同士が許しあうことなしに、本当の和解は成立しません。また、そのケンカの原因が重大であった場合には、悪かった当人によって何らかの犠牲が支払われる場合もあります。
人類は、歴史の中で神との信頼関係を壊してきました。つまり、神とケンカをしてきたのです。そして、この関係が修復されるためには犠牲が必要でありました。この時、犠牲を支払ったのは神ご自身であったのです。神が悪かったからではありません。犠牲を払いきれない人間のために、神が人間となって犠牲を支払ってくださったのです。キリストが人間となって、命を犠牲にされたのです。
キリストは、私たちを友と呼ぶ時に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と語られました。真の神であり真の人であるキリストの十字架にこそ、私たちの友であるキリストの愛があるのです。
あなたの重荷を負うため
日々の歩みの中で、疲れやストレスをいつも抱えながら私たちは生活しています。時には、それらが重荷となって私たちを追い詰めることもあるでしょう。あなたは、その様な時一体どうするでしょうか?
重荷に押しつぶされて、もはや自らの力で立ち上がることも出来ない私たちに向かって、キリストは「わたしの軛(くびき)を負いなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章29〜30節)といわれます。負いきれない重荷を抱えていながら、キリストの重荷を負うのは、一見自殺行為のように思われます。
しかし、キリストが生きておられた時代の軛(くびき)とは、一つの軛を二頭の家畜が背負うのが一般的でした。「わたしの軛を負いなさい。」とは、一人では負いきれない重荷をキリストが共に背負ってくださる、と言うことです。キリストは、私たちの負いきれない重荷をすべて消し去ることも出来る方ですが、そのようなことは決してなさらず、私たちの重荷を共に背負い、共に運んでくださる友であるのです。
真の友となってくださったキリストにすべてを信頼し、キリストと共に生きる歩みとは、なんと心強く、なんと安らぎに満ちているのでしょうか。あなたがキリストと共に歩むことをキリストは待っておられます。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:08| 『これが知りたい12章』
第5章 聖書

[聖書台の上に開かれた聖書]
聖書との出会い
世界のベストセラーと呼ばれる聖書は、およそ2000ヶ国語に翻訳され、世界中の人々によって読まれています。日本でも、ホテルなどで手にしたことがあるという人は多いのではないでしょうか。悩んでいるときや慰めを求めている時、自分を救ってくれるような言葉を求めて、思いのままにページを開いてみたという人もいるでしょう。聖書の言葉に心を傾けて読む時、そこには必ずあなたにもっとも必要な言葉との出会いがあるはずです。
聖書をどう読むのか
しかし、聖書を一人で読んでいると、さまざまな矛盾や自然科学的な視点から見たときの不可能な記述が多くあることに気がつきます。そのために、聖書を読むことをやめてしまう人も多くいるでしょう。
しかし、聖書を読むときに、注意しなければならない点があります。それは、断片的に読んではならないと言うことです。聖書は旧約39巻、新約27巻、すべてで完結するものですから、その中にあるどんな小さな記述も削除(さくじょ)することは出来ません。それはちょうど、小説に似ています。小説のあるページの一部だけを読んでも意味が分からないように、聖書もまた、断片的に読んだのでは意味が分からなくなってしまいます。聖書は、初めから通読する必要があるのです。

1450年ころに、ヨハン・グーテンベルクがドイツ・ライン河畔にある町で、西洋で初めての活版印刷を始めた。その約5年後、活版印刷本の聖書を出版。これが「グーテンベルク聖書」と言われるものです。現存するのは47セットのみ。「グーテンベルク聖書」は、現在も世界で最も美しい印刷物とされており、美術的価値も高い。そのほとんどのページが42行で本文を組んでいるため、「四二行聖書」とも呼ばれています。
教会の信仰の書物である聖書
聖書がどのように記され、またどのように読まれてきたのかということを知ることは、聖書を読むときに重要なもう一つの点です。
例えば、新約聖書の中でも最も初期に記されたテサロニケの信徒への手紙一を見て見ましょう。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。」(テサロニケの信徒への手紙一1章1節)とあるように、聖書は教会のために記された書物なのです。まだ教会が建てられていない旧約聖書の時代もまた同じです。「聞け、イスラエルよ」(申命記6章4節)。ここで言われているイスラエルとは、神を信じ神に愛される民、その共同体を指しています。それは、私たちにとっては教会です。聖書は教会のために記され、教会の信仰者たちによって読まれてきた書物であるのです。それゆえに、聖書は教会を導き、教会の信仰を導いてきた書物であると言うことができます。
キリスト教においては、聖書を『正典』と呼びます。『聖典』とは呼びません。なぜならば、聖書は触れたり汚してはならない聖なる書物ではなく、教会の信仰の基準となり、教会の信仰を正しく導く書物であるからです。そうであるならば、聖書は一人で読まれるべきではなく、教会の中で読まれるべきであると言えるでしょう。
聖書とは、教会を支え、教会を導く書物であるのです。

Abraham Bloemaert『Christ and the Samaritan Woman』(1624年)。主イエスは井戸の傍で、サマリアの女に出会われました。この主との出会いにおいて、女に救いが到来するのです。(ヨハネによる福音書4章1〜42節に、この物語が記されています。)
キリストとの出会い
このようにして、聖書を読み進めていく中で、多くの発見やすばらしいみ言葉との出会いが与えられていくことでしょう。しかし、何よりも聖書の中にある最も大きな出会いとはイエス・キリストとの出会いにほかなりません。聖書は旧約・新約聖書をあわせると66巻の小さな書物から出来ていますが、そのすべての書物がそれぞれの仕方でイエス・キリストを証ししているからです。聖書の中でも、キリストご自身が「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)と語っておられます。
聖書とは、教会を支え、教会の信仰を導くものでありますが、何よりもその信仰の対象であるイエス・キリストへと教会を導くのが聖書なのです。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:07| 『これが知りたい12章』