2018年03月04日

説教 『主の栄光を現わすことと募金の業と』

2018年3月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章16〜21節
あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。


 献金は、お金を扱うことです。お金のことって、この世の話で、礼拝で聞く話じゃないと思われるかも知れない。しかしそんな常識を破るように、聖書はお金の話と、信仰の話を重ね合わせて来るのです。

 そんな献金の業のことを、新共同訳聖書は、19節で「慈善の業」と訳していましたが、これは聖書の元のギリシャ語では「カリス」となります。「カリス」とは「恵み」「贈り物」という意味がある言葉です。ですから「慈善の業(カリス)」が、パウロにとっては、「神の恵みの業に加わっている、そういう思いで献金の業をしているのだ」ということなのです。さらにこの「カリス」という意味は、人間から神様に向けた「感謝」という意味もある。つまり神様から「贈り物を届けるよ」と御業を差し出された時、私どもが「あなたからの恵みを(カリスを)、ちゃんと受け取りました。感謝です(カリスです)」と応答する。そういう含みを、この「カリス」という一言が持っているのです。

 天の御父からの贈り物は破格の恵みです。私のために、天の父は御子の命を与えて下さったのです。それを思う受難節を過ごしています。だからこそ改めて思うのは「本当に有り難うございます。そう言ってちゃんと受け取りたい。知らん顔してプイと背を向けるんじゃない、ゴミ箱に捨ててしまう事にしないで、本当に嬉しく受け取って感謝を示したい」と。そう思う私どもに、聖書は告げてくれます。「神様への感謝(カリス)は、あなたの手の中にある慈善の業(カリス)で、具体的に現わすことが出来るんだよ」と。

 私どもの誰の手にも、大人にも子どもにだって手に持てる物。一番身近にある物、それがお金です。高価なダイヤモンドではないんです。限られた人しか持てないような、金庫の奥にしまってあるお宝ではないんです。小学生だって、小さな手に握りしめることが出来るのがお金です。そのような地上の物が、神様からの恵みを、ああ嬉しいと心から現わす感謝とすることが出来る。言葉に表せないほどの感謝を、手の中にあるお金が現わしてくれるのだというのです。

 主なる神が称えられる。主御自身の栄光が、私どもによって現わされる。私のような貧しい者のこの世の生活においてです。それも、この世の物品である、お金という物が、「これは感謝です、あなたの恵みへの応答です」と献げられるなら、その手の中にある献金(カリス)を、私どもの側からの感謝(カリス)として、神様は受け取って下さるのです。そこに、主なる神の喜びも溢れる。そうやって主御自身の栄光が、私どもによって現わされるのです。
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2018年02月25日

説教 『しかし、聖霊に言い逆らう者…』

2018年2月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章31〜32節
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。


 「聖霊に言い逆らう者は、赦されることがない」。こともあろうに、慈しみ深いイエス様がこんなことをおっしゃるなんて、と思いませんか。

 しかしよく見ると、イエス様はここで「赦されない」とおっしゃる前に、「人の子に言い逆らう者は赦される」とも言っておられる。「人の子」とはイエス様ご自身のことです。ですからイエス様は「私のことを罵り言い逆らう者は、赦そう」とおっしゃったということです。それは口先だけの事ではなく、本当に「私を罵る者も赦す。全てを身に引き受けてあげる」と、十字架の道を歩まれたのではないですか。だからこそ余計に「それほどのことも身に引き受けて下さる慈しみのイエス様なのに、なぜ聖霊に言い逆らうことだけはするな、と言われたのか」と悩んでしまうのではないですか。

 皆さん、改めてうかがいますが、あなたは神の霊を冒涜したことはありますか? ちょっと不安になるのは、神様と生きた信仰生活を送る者にこそ、人生の苦難の時「神様、なぜ私にだけ働いて下さらないのですか」という小さな不満が起こるからです。でもその不満が、神様に知られているとしたらです…。

 実はそういう「神様なんて働いておられない」と思うことが、私どもの内で現実に働いておられる神の霊に対する「言い逆らい」であるのです。自分で見えなくても気付けなくても、本当は働いておられる神の霊がおられるのに、そのお方に向かって「あなたは何もしていないじゃないか」と言っている事なのです。それは、私どもの内に働いておられる聖霊を、否定して、罵っていることになるのです。

 私どものことを、誰よりも大切にして下さる神の霊が一緒に歩いていて下さるのに、人間の有限でしかない知識によって、「そんな方など、居ない」と否定することです。イエス様はここで、「どうしてこの世の知識で、聖霊など見えない、御力など無いじゃないかと言うのか」と嘆かれたのです。それは、「どうか受け入れて、聖霊の働きに生かされて生きよ」という、切なる願いの言葉だったのではないですか。イエス様は「あなたがどんな苦しみの中にあっても、いつも聖霊は、あなたの内にあって、あなたと一体となって歩いていて下さる。あなたに働き、支えている。それを信じて生きよ」と詰め寄られたのです。それは、「私のことはどんなに罵っても身に引き受けるから。しかし聖霊は、あなたを愛してあなたのために働いておられるのだから、どうか退けないでおくれ」との切なる招きでもあった のではないでしょうか。その招きを私どもが受け入れて過ごすなら、そこに平安も喜びも訪れるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:25| 主日説教要約

2018年02月19日

説教 『しかし、あなたは』

2018年2月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テモテへの手紙二 3章10〜17節
しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。


 「終わりの時」(一節)とは主イエスの来臨の時から再臨の時までを言うので、私たちは現在「終わりの時」に生きていることになります。二節以降に述べられている悪の一覧表(悪のカタログ)―面白い表現だと思います―は二千年前だけに限定されて顕著だった訳ではありません。今も二千年前のそれ以前にも、人間が存在している時と所、いつでもどこにでも蔓延していました。悪の根源は罪です。問題は「罪」なのです。私たちが罪の現実と向き合い、その力を知る。それも、自分のこととして捉えないと、罪の罠に陥ってしまうことになります。

 罪とは「的をはずす」ことです。神という的から逸れると、@自己の破壊、A神からの疎外、B人間同士の対立、C自然との不調和という結果がもたらされてしまいます。これらの現実の一方で、神の御子キリストを通して罪からの救いが与えられたのも現実です。罪の中でも、最も厄介で注意を要するのは「信心を装いながら、信心の力を否定する」(五節)、宗教(家)かもしれません。たとえこの世の中がどのように動き、変わったとしても「しかしあなたは」(一〇節)、「だがあなたは」(一四節)とパウロが勧めるようにこの世の流行りに妥協したり迎合したりせず、頑なにまで「信心」―礼拝すること、祈ること、聖書を読み聖書を語ること、奉仕に励むことなど―に徹したいものです。

 パウロの生涯は、いよいよ終りに近づいています。後は「愛する信仰の子」テモテに託すしかありません。それに際し、改めて、この道は平坦ではないこと「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(一二節)と覚悟を促します。そして、何よりも大切なのは御言葉から離れないことだと確認します。テモテはパウロや祖母と母からそれを学び、その力を見てきました。人を救いに導く知恵と力は御言葉にあり、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」(一六節)のは御言葉なのです。罪の力に対抗するのは御言葉の力だけなのです。その力は信心から来ることを忘れてはなりません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:34| 主日説教要約

2018年02月11日

説教 『神の国はあなたたちのところに来ている』

2018年2月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章22〜30節
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。


 イエス様の所に、目が見えず口も利くことが出来ず、自分の心も自由にすることが出来なかった人が連れて来られ、癒されました。群衆も彼と一緒に喜んで、「この人はダビデの子(救い主)ではないか」と叫び出します。その時、それを聞いたファリサイ派が、救い主であってたまるかとばかりに、イエス様を悪霊呼ばわりし出したのです。

 そこに、イエス様との論争が始まり、主があっけなく論破されました。しかし、その直後だったのです。イエス様は、これで決着とばかりにご自分の働きへと戻って行かれて良かったはずなのに、そうはなさらなかったのです。まるで彼らを論破することが目的ではないかのように、論理からはみ出した言葉を付け加えられたのです。それが28節、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」という言葉でありました。

 アレッと思いました。その「あなたたち」というのは、誰のことなのか、です。私は最初「勿論、イエス様の傍にいた群衆の一人一人で、素直にイエス様の到来を喜べた人達のこと」と思っていました。でも、イエス様がこの時に論争している相手は、つまり「あなたたたち」と呼び掛けられているのはファリサイ派なのです。そうするとイエス様は、「人々が憧れた神の国は、私を全否定して、私を悪霊呼ばわりして、おとしめようと謀ったお前たちの所に到来している」と仰ったということになるのではないですか。私は、「そんなこと、この世の常識とは、全く違う話じゃないか」と思ってしまったのです。皆さんはどう思われますか。

 そしてです。そう思った時、「こんなのこの世のどこにもない話だ」と気付けたら、その時ハッとしたのです。「これはイエス様が言われた、神様の支配される世界の話なんだ、この世が支配する常識的な話じゃないと感じたなら、それで当然なのかも」と、そこに立ち帰れたのです。その立ち位置は、「人間が、神の恵みはこんな所には無いと思おうがどうしようが、恵みの支配は、神の側からどこにいる人にも、上から襲うようにして到来するのだ」という立ち位置です。

 イエス様を明らかに足蹴にしたファリサイ派の人々に向けて、主イエスが「あなたたちのところに神の国は来ている」と言われることを通して、全ての人に明らかになったことがある。それは、「神の恵みの支配は、人が下から努力して登って行く所にあるのではない。むしろ上から降って来る。恵みは、誰にでも襲いかかり、あなたにも降り注ぐようにして、到来するのだ」ということなのです。そして主は「それを信じる者になれ」と、私どもを招くことをこそ、なさりたかったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:17| 主日説教要約

2018年02月04日

説教 『愛の純粋さを確かめようとして』

2018年2月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章8〜15節
わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、
わずかしか集めなかった者も、
不足することはなかった」と書いてあるとおりです。


 パウロは、貧しかったエルサレム教会を、富んでいる人が多いコリントの教会が献金で支えて欲しいと話して来ました。それもです、「これだけのものを献げなさいという言い方はしない」と。ではどう言ったのか、それが「他の人々の熱心さに照らして、あなたがたの愛の純粋さを確かめようとして、だ」ということでありました。神様は、あなたの慈善の業において、あなたの愛が本物かどうか、真実なものか中途半端なものなのか、心を尽くした結果なのかどうか、それを見詰めておられるのだと言うのです。

 その「愛」というのは、聖書の原語を見ますと、「とっても好き」とか、単なる心の持ちようの意味ではないことが分かります。これは、ご存知のことと思いますが「アガペー」です。つまり、自己犠牲の姿なのです。「あなたのために、私が自分を犠牲にする、そういう私として生きる」という姿なのです。心の話どころではない、自分を犠牲にする激しい“行為”なのです。そしてです。そういう特別な愛を、コリント教会の人々はまだ知らないのかというと、そんなことはありませんでした。彼らは既に十分知っていました、それは、その真の愛に生き、その愛によって死なれたお方を知っていたからです。十字架で死なれたイエス様です。

 イエス様はご生涯で、ご自分のものを持つことを一切断念されましたよね。それは、お金とか家とかいうモノだけのことじゃない。一切持たない貧しさとは、自分の理解者さえ持てなかった程にです。主は地上で、一人の理解者さえ持てなかったのです。そこで、とうとう命をさえ十字架の上で捨てさせられてしまったのではないですか。しかしそんなイエス様の全ての貧しさで、実は私どもが豊かになる。それが主ご自身の思いの現実化だったのではないですか。愛する「思い」は、必然的に、「業」に繋がるのです。

 言い換えるなら、愛に生きるならば、自分が痛みを負う。人と関わる愛は、そこに痛みが起こるのです。それは、愛することが、業と繋がっているからです。み言葉は私どもにも、「あなたの業には、愛があるか? それは真実な愛か? そこに痛みはあるか?」と問うて来ます。奉仕する事にも、善き業にも、献げ物をするということにおいてもです。だから私どもは「主よ、私がこの奉仕をしていて傷を負うことがあるのは、それで良かったのですね。愛そうとしたとき痛みを感じたのは、それで良かったのですね。兄弟姉妹のため、隣人のため、家族のため、教会のためと思う業で傷つく時、神様はそこに、私の中にも本物の愛を見つけて下さるのですね」と生きて行けばよいのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:43| 主日説教要約

2018年01月28日

説教 『主を待ち望め』

2018年1月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編27章11〜14節
主よ、あなたの道を示し
平らな道に導いてください。
わたしを陥れようとする者がいるのです。
貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
偽りの証人、不法を言い広める者が
わたしに逆らって立ちました。
わたしは信じます
命あるものの地で主の恵みを見ることを。
主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。

 詩編27編を書いた人の前には「敵」がいて、先行き不安の中にもいたようなのです。それなのに、まるで溌溂として「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ」と言ったのです。何だか強い人が、弱っている人を励まそうと言っている言葉のように聞こえませんか。でも、そもそも弱っている人に「雄々しくあれ、頑張れ」という励まし語って、禁句なのではないですか。

 もしもこの御言葉が、「主を待ち望め」という一言が付けられること無しに、単に「雄々しくあれ、心を強くせよ」と言っただけだとしたら。それは、頑張らなくてはならないのは、「あなたは今疲れているかも知れないけど、もっと奮起しろ」ということになりますよね。でもなんです。この詩人は、「雄々しくあれ…」と言う前に、「主を待ち望め」と一言を付けた。その一言によってです。一気に変わることがあったのです。

 「主を待ち望め」という一言によって、「あなたが頑張ること」が求められている事じゃなくなる。その逆に「あなたがすることは、ジッと待つことだ」ということになる。「主があなたのために立ち上がって下さる。その主を待っていたらいい。その約束を見たら、あなたは雄々しくあれるだと」ということになるからです。

 この詩は、伝統的にダビデの詩として読むならばニュアンスがよく聞き取れるだろうと言われてきました。だから「この詩は、ダビデが息子アブサロムに裏切られ、息子に命を狙われて、自分からエルサレムの城を明け渡した時のことだ」と考えた神学者もいます。ダビデは泣きながら都を下って逃げている時、嘆きつつこの詩を歌ったのです。そこで「主を待ち望め、そうだ、私の魂よ、主に望みを置け」と歌ったのです。それは、「この敵を、神様、何とかして下さい」というような、自分の苦しみに目を置いた歌とはならなかった。そうではなくて彼は、自分の思いや敵をさえ見ることから、神へと向き直って、主なる神へと目を向けたのです。自分の願いや不満じゃなくて、神へと心を置いた。その時にです。自分の中には何の希望もなくても、将来の見通しもまだ全くない中で、彼には力が湧いて来たのです。外から湧いて来る勇気に押し出されて、「さあ、雄々しくあれ。心を強くするんだ」と、自分に宣言することが出来たのです。

 詩人は、「あ〜、神様を知っていて良かった。大丈夫だよ、安心だよ」と言ったのです。「主を知っている、ああそうだ、その主を待ち望め」と。そしてそこに立つなら、どういう解決が待っているのか、まだ何の見通しもなくても、リアルな安心を、自分がつくり出さなくても、神様から与えていただけるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:37| 主日説教要約