2017年12月18日

説教 『この人であった』

2017年12月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

イザヤ書53章11〜12節
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。


 日本人の四分の一以上がクリスマスは何を祝う日か知らないとも言われています。ChristmasはChrist+mass(キリストのミサ)つまりキリストを礼拝する時です。クリスマスからキリストを取ってしまったら、ただのMass(集団・かたまり)になってしまいます。集団で騒いで終わらせるには、あまりにもったいないクリスマス。そうならないためには、クリスマスの中心であるキリストとはどういうお方かを知る必要があります。ヨハネ福音書一章には「言」(キリスト)は初めに神と共にあり、万物は「言」(キリスト)によって成ったと記されています。キリストは神・創造主だったのです。そうでありながら、「僕の身分になり、人間と同じものになられました」(フィリピ二章七節)とあり、Uコリント八章では「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」と表現されています。これが受肉(神が人となられた)です。

 その目的は一、「(人に)神の子となる資格を与える」(ヨハネ一章一二節)ため、二、「(人が)豊かになるため」(Uコリント八章九節)ため、三、「(人が)自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」(フィリピ二章四節)ようになるためでした。三つの関係(神との関係・自分との関係・他者との関係)の分裂を修復するためと言い換えることができるかもしれません。このために遣わされる「彼」(イエス・キリスト)の到来が、「彼」の誕生の五百年以上も前にイザヤ書五三章に預言されていたのです。

 何がそうさせたか…。「(神の)愛がそうさせた」(グァルディニ)のです。「現代の私たちは、知性によって捉えられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介すると捉えられなくなってしまうものをつかむことが苦手になった」(内山節)。神の愛は知性をも感性をも超えているのでしょう。ですから、信仰によって受け入れるしかないのです。「たとえ、キリストが千度ベツレヘムで生まれたとしても、あなたの心の中に生まれていないならば、それはむなしい」(アンゲルス・シレシウス)。今年のクリスマスがキリスト不在ではなく、中心におられるChrist+masでありますよう。
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2017年12月10日

説教 『手で引き上げる』

2017年12月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書12章9〜14節
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。


 自分の羊が穴に落ちたら、すぐに駆けつけて引っ張り上げるということは、人々にとって普通の行動だったでしょう。でも一つだけ例外があって、「安息日には、あらゆる仕事をしてはない」という掟でした。そこにです。ファリサイ派の人々がイエス様のところに片手の萎えた人を連れて来て、「安息日に、この人の病気を治しても良いか」と問うて来たのです。「もしもイエスが、ここで安息日規定を破ったら、処罰できるぞ」と、罠を仕掛けたのです。でも言ってみればこの罠は子供だって見破れる、あからさまな罠です。イエス様はこう答えられれば十分だったはずなんです、「命に別状はなかったら、日没まで待ちましょう。安息日が終わってすぐに癒してあげるから」と。

 それなのにイエス様は、そんな小さな知恵さえも働かされずに、「手で引き上げてやらない者などいない。必ず引き上げるはずだ」と告げて、男を癒されたのです。罠を前にして、主はまるで、愚か者になられた!。でもなぜイエス様は、愚かになられたのか…。「わざわざ罠の中に、意識的に踏み込まれた」としか思えないではないですか。それはきっと罠に掛かることと刺し違えても、なさりたいことがあったからです。私どもは、この後イエス様が十字架に掛けられ殺されてしまう事になると知っています。ファリサイ派の「イエスを殺してしまおう」という相談は、ここで始まって実現してしまうことへと動き出すのです。そのことを主は知っておられた、しかしそれでもなお、そのきっかけとなる最初の言葉をここで告げられたのです、穴に落ちた羊、手の萎えた人を、11節「手で引き上げる」と。

 「手で」とは、「しっかりと抱きかかえる」という意味の言葉です。イエス様は、「私は羊のいる穴に降って行く、そこで私は羊を、この手で抱きしめる」とおっしゃったということです。そして「それが私だ、それが私・イエスという者である」と示されたということなのです。天に居られる神様なのだから、人間に向かって「頑張って上って来い」と言えば良いじゃないですか。それなのにイエス様は、地上に降って来られたのです。地上の穴の底にいる私どもと一緒に立たれるために。それがイエス様の降誕だったのではありませんか。
真実生ける神のなさり方は、人間が想像できるような合理的な姿ではありませんでした。「手で引き上げる」、その一言は、イエス様の覚悟された言葉であられたのだと思えてなりません。その主イエスが、私どもにも宣言される、「あなたも私の宝の一人。そのあなたが穴に落ちたら、いや確かに罪の穴に落ちる、でも必ず、私はあなたを、私の手で引き上げるから」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:29| 主日説教要約

2017年12月03日

アドヴェント第T主日礼拝説教 『地の果てから、歌え』

2017年12月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

イザヤ書42章8〜13節
わたしは主、これがわたしの名。
わたしは栄光をほかの神に渡さず
わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
見よ、初めのことは成就した。
新しいことをわたしは告げよう。
それが芽生えてくる前に
わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの
島々とそこに住む者よ。
荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。
セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。
主に栄光を帰し
主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
主は、勇士のように出で立ち
戦士のように熱情を奮い起こし
叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。


 主を賛美する歌をどんな時に歌われますか。きっと「神様から恵みを受け取った時」とかではないでしょうか。しかしイスラエルの人々はこの時、国は焦土となり、故郷から遠くバビロンの地に捕囚とされていたのです。それもです、人々は神様との関係の中を生きて来た「神の民」なのです。だから、「自分たちの罪のゆえに、我々は神に見捨てられたんだ」という絶望の中にも居たのです。それを10節で、「地の果て」と言い表していたのです。

 その「地の果てから」なのです。イザヤは「歌え」と呼びかけるのです。神様からの恵みが一杯あったから感謝の歌が溢れるだろというんじゃない。これは、楽しいから歌うというこの世の常識からは絶対に生まれない呼び掛けなのです。10節、「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」。今ある現実から逃げるのじゃなくて、その現実にまみれて、ドン詰まりと思える状況の中に踏ん張って、「さあ歌え、お前の歌を聞かれる方がおられるから、主に向かって歌え、この世の常識からは生まれない歌を絞り出すのだ」と告げられたのです。それは「叫び声」です。今ある現実を両足で踏みしめて、父なる神に向かって吠えるように叫ぶ。慟哭するように歌うのです。その歌は「それでも主よ、なお私はあなたの栄誉を歌います。恵みがあったから歌うのではない、あなたが我らの神であられるゆえに栄誉を叫びます、主に栄光あれと」、と歌われる歌なのです。それこそがまさに「新しい歌」であるのではないですか。

 そしてこの特別の賛美は、賛美をする群れの中に座る時に、兄弟姉妹の歌声に支えられてなされることでもあるでしょう。イスラエルの民は礼拝の民でした。私どもも、主を賛美する礼拝に座っていることは、何にも増して幸いなことです。地の果ての喘ぎを抱えつつ、なお絞り出して歌える場所は「主を仰ぐ礼拝の場」だけだからです。そこでは一人で頑張らなくていい。信仰の群れでいるということは、その中の一人が「地の果て」と思える苦しみを抱えていても、礼拝で共に主に向かって歌う兄姉の歌声が、その一人を包み込む。そして、そのような群れの中にいるならです、たとえ今は絶望の中にあっても、いつか主の御業が起こされることを待っていることさえ出来るのです。それをイザヤは、こう告げていたのです、13節「主は勇士のように出で立ち、・・敵を圧倒される」と。神ご自身が、立ち上がって闘って下さる。本当に神は、私のために、私を苦しめるあらゆるものと対決して下さいます。そのために御子は天から降って来られたのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:58| 主日説教要約

2017年11月26日

説教 『(幹事職に与えられている主の恵みと支え)キリストに仕える者』

2017年11月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙一 4章1〜5節
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。


 教会の「幹事職」というのは、「教会も人が集まる所だから、まとめ役がいた方がいいだろう」と人間的に考えてつくられたものでは、一切ありません。教会が、主の御心に応えて生きたいと祈った末に生まれた「奉仕職」なのです。

 そういう信仰者の姿が、先ほど読まれた1節の「キリストに仕える者」であります。この「仕える者」という言葉は、「船の一番下で漕ぐ者」という意味がある言葉です。パウロの時代の船は帆船でした。その中でもガレー船は、船の下に左右からオールが出ていて、風のない時にそれを漕いで前進させるのです。その漕ぎ手が「仕える者」という言葉です。その先頭にはオールを漕ぐタイミングを合わせるために大太鼓を打ち鳴らす頭がいる。頭は誰よりも漕ぎ手一人ひとりを見詰めています。タイミングが一人でも合わないと、オールとオールがぶつかるからです。漕ぎ手たちも、そうやって見詰められていることを知っているから、頭を信じて、ただオールを持つ手に力を入れることに集中して、自分にある限りの力を出し切れるのです。漕ぎ手は「頭であるイエス様を信じて、あなたにお仕えしたい」…その思いで一杯であればいいのです。

 さてそのように生きる「キリストに仕える者」なら、知っていることがある。それは「なぜ、頭なるイエス様を信じることが出来るのか」、そのことです。それは、頭なるイエス様のほうが、何よりも先に私どもを、無条件に信じて下さったからではないですか。このパウロという男が何者であったのかをご存知でしょう。彼は鼻持ちならない自信家で、最初はキリスト者を見つけたら片っ端から縛り上げていた、ユダヤ当局側の手先だったのではないですか。主イエスの敵であった彼なのです。それなのに、人間の目から見たら「最も相応しくない」パウロを、主だけが信じて下さったのです。そのイエス様が私どもも、まず先に信じて下さるのです。そのことに私どもも応えたいと生きればいいのです。

 頭なるイエス様が「あなたが必要だから」と招かれます。その招きに応えて一生懸命オールを漕いだならです。その後に「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)です。「おほめにあずかります」とは「誉とされる」という意味の言葉です。教会に仕えて生きた者たちは、主と相まみえる日に「私を信じて力一杯漕いでくれたね。そのあなたは、我が誉れなり」と言って頂けるのです。今、次年度の幹事候補者が推薦され始めています。この貴い奉仕のために推薦を引き受けようとする兄弟姉妹のために、教会員一同、一心に祈ろうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:53| 主日説教要約

2017年11月20日

説教 『何を信じるかではなく、誰を信じるか』

2017年11月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙二 1章8〜14節
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


 パウロからテモテへの二通目の手紙は激励の手紙です。一通目よりもより個人的で、パウロの遺言といえます。激励の常套句には「頑張って」や「大丈夫」がありますが、これらは使い方次第では、とても他人行儀で無責任な言葉になり兼ねません。そうならないためには、しっかりとした根拠が必要です。パウロはテモテに「頑張れ」「大丈夫」と言ったかもしれませんが、彼には根拠がありました。根拠は神と自分自身とテモテにありました。神は「(わたしたちを)救い、呼び出し」(九節)、「死を滅ぼし、不滅の命を現し」(一〇節)、「力と愛と思慮分別の霊をくださった」(七節)方です。このお方の計画と恵みによってテモテは今あるのです。テモテの師、パウロ、は「(神に)任命され」(一一節)、「苦しみを恥じていません」(一二節)、「(神を)知っており、確信して」(一二節)います。彼の知識と確信は経験に裏づけられていました。テモテはパウロに愛されており(三、四節)、彼の信仰は代々宿ったものであり(五節)、神の救い・呼び出し・死の滅ぼし不滅の命の顕現・霊の授与も「わたしたち」― 自分(パウロ)だけでなく、テモテも ― へのものでもありました。ところが、十四節の「ゆだねられた良いもの」だけが「あなた」―テモテ個人―へのものでした。彼だけに独自に神からゆだねられた何かがあったのです。私たちにもその独自の「何か」があるのです。それを「守る」(十四節)ように勧められていますが、自力で可能なことではありません。それを知るパウロは「聖霊によって守りなさい」(十四節)と加えています。聖霊に支えられながら、祈り、御言葉を読み、交わり、働くのです。パウロの激励の言葉は「再び燃え立たせなさい」(六節)に集約されています。私たちの信仰の炎は弱まります。弱さを抱えているのが人間ですから。そこで、賜物などの良きものも、思い患いなどの喜ばしくないものも、すべてを丸ごと神にゆだねるのです。そこから「再び燃え立たせる」聖霊による神の業が再開され、信仰の炎は再燃するのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:31| 主日説教要約

2017年11月12日

説教(幼児祝福式が行われる礼拝で) 『この子は生涯、主にゆだねられた者』

2017年11月12日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

サムエル記上 1章26〜28節
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。


 この聖書個所に、ハンナというお母さんが登場します。その子どもは、名前がサムエル君。まだ歳は3歳なんです。その子を、母さんハンナは教会に連れて来て、「この子は生涯、主にゆだねられた者(つまり、この子はずっと、神様におまかせします)」って言ったのです。どうしてだろうって思います。ひょっとしたらお母さんは神様に会ったことがあって、だから「神様が一番安心」って分かって、だから「神様にお任せしよう」と言ったのかも知れませんよね。そうすると、「どこで神様に会っていたのだろうか」と思いませんか。

 ハンナには、ずっと願っていたことがありました。「赤ちゃんを授けてほしい」ということです。そしてそれを彼女は、神様に「これがあれば他に何にも要らないというほど私の一番して欲しいことは、赤ちゃんを授けてほしいのです」と祈っていたのです。それを神様が、「よし、分かったよ。そうしてあげよう」と叶えて下さってサムエルが生まれた。その時にハンナは、「神様が私の願いに、分かったよと応えて下さった。神様は本当に、私の必死の願いを聞いてもらえた」と知ったのです。誰でも、自分の願っていることをちゃんと聞いて受け取ってくれたら、「ああ、自分は大事にされている」と分かるよね。自分の事をちゃんと見ていてくれるんだと、分かるよね。そのようにハンナは、サムエルを与えられた時に、「私は、神様に大切にされている」って分かったのです。その時なのです、ハンナは「神様は私の願いに関わって下さった。あなたは生きておられます、私はそのあなたを信じていきます」と確信出来たのです。そのゆえに「あなたを信じたら安心。それが一番安心。だからこの子をあなたにお任せします」と言えたのだと思うのです。

 このハンナが言った「わたしが願った」(27節)という「願った」という言葉と、「主にゆだねられた」(28節)という「ゆだねられた、おまかせした」という言葉は、聖書の言語では同じ単語です。つまり、願うこととゆだねることは、深く結びついているのです。それも、神様が関わって下さる事柄の中で、これはとても大切な結びつきなのです。

 お母さんハンナは、サムエル君を神様にゆだねました。それは、生涯神様からの恵みをいただく人生に入れたということです。今日、私たちも礼拝の中で幼児祝福式を行います。それは、みんなのご家族がみんなを神様に「お任せします」ってゆだねることです。一番安心な神様に、ゆだねられるのです。そうやってそこで、みんなは神様からの贈り物としての祝福を受け取る人生に入るのですよ。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:38| 主日説教要約