2020年01月20日

説教 『奴隷ではなく、神の子』

2020年1月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙4章1〜7節
つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 前章の後半で律法の奴隷であった者たちがイエス・キリストへの信仰によって神の子とされ、律法から解放された。そして、神の祝福の相続人とされたことをパウロは説明しました。この箇所で、別の比喩を用いて、もう一度この真理の説明を繰り返し、5章でも再度、キリスト者の自由について説明がなされます。このことからも、「キリスト者の自由」がガラテヤ書のテーマであることを窺い知ることができます。

 奴隷状態にあったのはイスラエルの人たちだけではありませんでした。異邦人たちも「世を支配する諸霊」(3節)―ある霊力や迷信や占いなどの幼稚な教え―の奴隷でした。パウロの目にはガラテヤの信徒たちが「逆戻り」(9節)しつつあると映ったのでしょう。私たちも合理的生活を営んでいると言いながら、何物にも縛られていないと断言できないかもしれません。物や地位や名誉などに縛られてはいないでしょうか。
   
 「しかし」という言葉をもって、4節からパウロはキリストを通して与えられた神の祝福を人々に思い起こさせます。神は、御自分の独り子を人として「お遣わしにな」(4節)ったのです。その目的は、人を「贖い出」(5節)し、「神の子」(5節)とするためでした。それは、あの放蕩息子が惨めな状態から救い出され、子としての身分を回復したのと同様です。その結果、放蕩息子にも、また、私たちにも「アッバ、父よ」(6節)ムエル上1章11,16節)と叫ぶ「御子の霊」(6節)が与えられました。神の子とされた私たちは「神によって立てられた相続人」(7節)でもあります。相続人が相続した財産の一つが聖霊の付与なのです。かつてイスラエル人が神の祝福としていたのは、専ら富や嗣子さや長寿でした。しかし、キリストを通して私たちが相続したのは、もっと値高く、永続する「永遠の命」や変わらない希望や信仰、聖霊の力という霊的祝福です。それらをまず求める私たちでありたいものです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:12| 主日説教要約

2020年01月12日

説教 『自分を吟味しなさい』

2020年1月12日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 13章5〜10節
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。


 コリントの教会の中に争い合いがありました。彼らはキリストを信じていると言いながら、自分勝手に生きていたのです。その彼らに、「自分を吟味しなさい」と告げたのです。しかしパウロはそこに続けて「あなたたちは自分の内にキリスト受け入れたよね」と告げるのです。つまり「信仰に生きている姿があるなら、あなたの内にはキリストがおられる。これは重なるんだ」ということです。

 しかしどうして、キリストのことも知らされている彼らが、争い合うのか。そんな彼らには、坂を転がり始める瞬間がありました。それは隣人よりも、神よりも、自分を愛することに傾いた瞬間です。神を愛さなくなることじゃなくて、神様よりも自分の遣り方分を愛して、神を第1に愛することを後ろに追いやった時、隣人を傷つける坂道を転がり始めたのです。

 でももしも私どもが実際の生活を振り返って、自分も大事な人を傷つけてしまったと、心の端っこで悔やまれて、謝りたくって、赦してもらいたい人がいると気付くなら。「こんな私はどうしたら良いのですか」と、祈れたらなんです。そこでだけ、イエス様が語りかけて下さる声を聞くのです。「あなたの罪は赦された」と。イエス様は、罪人と共に居られる方です。「自分が罪人だ」と知っている者と、イエス様は一緒になろうとして下さるお方だからです。そして、それを知る者が、自分の内側にキリストがおられると受け取れる人なんです。なぜならキリストが駆け寄って下さるのは、自分の罪と過ちを隠している、私どもの内側だからです。そこで「もう大丈夫だ、“私を”見なさい、あなたの罪は赦された」と言って下さるのです。そこで「嬉しい、今度こそイエス様に喜んでもらえる生活を、隣人を愛する生活を歩きたい」という歩みに、立ち帰れるのです。

 キリストが内におられる、ならばキリストを信じて歩む姿となる。この幸いのループを歩んでいこうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:42| 主日説教要約

2020年01月05日

2020年主題聖句説教 『信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」

2020年1月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヘブライ人への手紙10章19〜25節(22節)
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

 今朝の19節から25節まで、15行あるこの文章は「神に近づこう」、この一言に集約されます。

 私どもは「神は共に居てくださる」と、そこに励まされて生きています。だからこそ苦難の日に「どうしてこんなに辛いことが続くの? 神様、あなたは今どこにおられるのですか」という叫び声をあげることが起こるのだと思うのです。「神を見失う」というのは、実は信仰者の叫びなのではないですか。

 そういう私どもに、たとえ私どもが神を見失う時にも、私どもが神に近づける道があると、御声が届けられたのです。19節、「イエスの血によって聖所に入れる」と。それを聞いてすぐに、その血潮は、イエス様が十字架に釘付けされた時に流れた血潮だと気付くのではないですか。私どもは本来、神様の言葉を一つも聞かずに、自分が神だと生きて来たのです。そういう私どもなのに、再び神様の前に出て、「私の愛する子よ」と言ってもらえる者となれる、その道をただ一人イエス様が開いてくださったのだと、聖書は知らせて来たのです。イエス様は、あの十字架の上から、罪人向かって言われるのです「私が、あなたのための道を造ったから。この十字架の道を通って、神の前に近づきなさい」と。

 キリスト者たちが礼拝した場所は、普通の民家でした。誰もが、十字架の下で、神と出会う時と場所を得たのです。自分で持っている誠実さとか、信心の強さとか、そういうものによらず、イエス様が「神に近づこう、私が用意した道においで」と呼び掛けて下さる御言葉に捉えられるなら。唯その時、罪人が、至聖所に入るのです。それが教会なのです。

 だから皆さん、礼拝に帰って来て下さい。礼拝という場で、身動きできない心を抱えて、じっと座っているだけでも良いんです。その時でもここが神と出会える場所なんです。本当に神様と会えると、信じて、ここに帰って来て下さい。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:06| 主日説教要約

2019年12月31日

説教 『最初のしるし』

2019年12月29日の礼拝
秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)
ヨハネによる福音書2章1〜12節
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。


 さて、今日の主題は「しるし」です。「しるし」は、奇跡、不思議なわざとも言い換えられ、しばしば同様の意味に、そしてしばしば一緒に用いられます。人間の理解を超える、驚くべき事柄で、神様の力とその支配を指し示す出来事を意味します。

 イエスさまを信頼して、信じて従った者たちの歩みが、母マリアと召使たちに示されています。イエスさまの母マリアに対する言葉は、「この宴会のぶどう酒がなくなろうと、それはわたしの知ったことではありません」と、冷淡に拒絶しているように思われますが、決してそうではありません。ここでは、むしろその次の「わたしの時はまだ来ていません。」と組み合わせて、「お母さん、そんなこと気にする必要はありません。あなたは安心して飲んでいればいいのです。私は、私の働くべき時がきたら、ちゃんとやりますから」と言っておられるのです。神様がお定めになったイエスさまの働くべき時、その時に、イエスさまは主権的に、自発的にきちんと働かれるのです。

 世話役はユダヤ教の指導者たち、召使は弟子たちと重なります。世話役は、ぶどう酒がどこから来たのか、知らなかった。「どこから来たのか」、この言葉はぶどう酒を与えたお方、イエスさまがどこから来られたか、さらにはその答え、父なる神様のもとから来られた、ということを含めて暗示しています。ここでは、「しるし」を見て、弟子たちがイエスさまを信じたかのように書かれています。しかし、後の章で、イエスさまは「見ないで信じる者は幸いである」と導かれるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:35| 主日説教要約

2019年12月22日

クリスマス礼拝説教 『これがしるし』

2019年12月22日の礼拝
相模原教会 辻川篤牧師
ルカによる福音書2章1〜12節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」


 2000年前、救い主が来られました。でもその日、誰も気付かない。それはきっと、人々が思い描いていた救世主登場の仕方ではなく、あまりにも弱々しく、悲惨の極みに生まれた赤ちゃんだったからです。しかし天使はそれを、救い主のしるしだよと告げたのです。

 ふと、思いました「もしかしたらそのことを、私どもも本当に良い知らせとして受け取れる瞬間があるのかも知れない」と。私どもも願い事を抱えて祈ります。でもなんです。そこでどんなに祈っても、一向に苦しみが解決してくれない時…。闇が続く日々の中で、奇跡を起こしてくれる神を期待して、かえって神様を見失って、神などいないという本当の闇に飲み込まれてしまいそうになる。でもその時なんです、その時こそその深い闇の中に、もしも、そこに届く言葉があったら。それも「救い主がお生まれになった。布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が、あなたがたへのしるしである」と届いたら。そこでジッと乳飲み子イエス様に目を凝らすことが出来たなら。私どもは、自分が放り込まれている暗い闇が、イエス様を包んでいた暗闇と重なっていることに、気付かされて行けるのかも知れない。そこで私どもは、神は、私の現実の苦しみを目掛けて天から降って下さるのだと知るのです。イエス様こそ、苦難に苦しむ私の所に、私どもの現実に重なるために降って来られたのです。

 救い主なる神の御子が、私どもの現実の中に来らました。それは、神様は私どもの困難を取り除いて下さるという方ではなく、私どもの困難の中に一緒に立って下さる方ということです。それは、私どものそれぞれが抱える悲惨の中に、イエス様が来て下さっということです。それを信じるなら、です。たとえこれから先、私どもが心も体も押しつぶされそうな苦しい現実に囲まれても、そこで確信することが出来る、「イエス様が、私は一緒に居る」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:28| 主日説教要約

2019年12月15日

説教 『神の驚くべき冒険』

2019年12月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
フィリピの信徒への手紙2章6〜11節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


 洗礼者ヨハネを授かるとのお告げを天使から受けた祭司ザカリアは、その言葉を受け入れることができませんでした(ルカ1章5〜25節)。イエスの母マリアも受胎告知の時、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」(ルカ1章34節)と応えています。人は理屈や常識に縛られており、たとえ祭司であっても神の言葉を受け入れることは容易ではありません。しかし、マリアはすぐに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と告白し、その後、あの「マグニフィカート(マリアの賛歌)」(ルカ1章46〜55節)を捧げています。この賛歌は非常に高尚で、貧しいうら若き女性が作ったとは思えない作品であるようです。その源はサムエル記上2章のハンナの賛歌にあり、詩編の中のいくつかの賛歌にも似ているようです。しかし、これは間違いなくマリアの告白です。彼女の信仰が神殿や会堂で聖書が朗読されるのを何度も聞く中で養われていたと考えることは十分にできます。「苦しいこと」(サムエル上1章11,16節)という不妊の女性ハンナの言葉とマリアの「身分の低い」(ルカ1章48節)という言葉は、ギリシア語では同じ意味として訳されるようです。苦しさ、弱さの中で、主の許に平伏し、祈る。これが礼拝であり、そこで聞く御言葉が私たちの信仰を養うのです。ハンナとマリアの共通点はそこにあり、そのようにして養われた信仰によって、神の選びを受け入れることができたのでしょう。「受肉」を「人間を愛する神の驚くべき冒険」と言った人がいます。神が人になったとしても、人はそれを受け入れるか…。それは愛ゆえの冒険でした。憂い・弱さ・苦しみを持ったまま、主の許に行き、御言葉を聞く。そのようにして養われた信仰によって、「神の冒険」を受け入れる。その時、必ずやマリアの賛歌が、私たちの賛歌となるでしょう。そして、クリスマスは確かな喜びの時となるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:38| 主日説教要約