2017年11月20日

説教 『何を信じるかではなく、誰を信じるか』

2017年11月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙二 1章8〜14節
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


 パウロからテモテへの二通目の手紙は激励の手紙です。一通目よりもより個人的で、パウロの遺言といえます。激励の常套句には「頑張って」や「大丈夫」がありますが、これらは使い方次第では、とても他人行儀で無責任な言葉になり兼ねません。そうならないためには、しっかりとした根拠が必要です。パウロはテモテに「頑張れ」「大丈夫」と言ったかもしれませんが、彼には根拠がありました。根拠は神と自分自身とテモテにありました。神は「(わたしたちを)救い、呼び出し」(九節)、「死を滅ぼし、不滅の命を現し」(一〇節)、「力と愛と思慮分別の霊をくださった」(七節)方です。このお方の計画と恵みによってテモテは今あるのです。テモテの師、パウロ、は「(神に)任命され」(一一節)、「苦しみを恥じていません」(一二節)、「(神を)知っており、確信して」(一二節)います。彼の知識と確信は経験に裏づけられていました。テモテはパウロに愛されており(三、四節)、彼の信仰は代々宿ったものであり(五節)、神の救い・呼び出し・死の滅ぼし不滅の命の顕現・霊の授与も「わたしたち」― 自分(パウロ)だけでなく、テモテも ― へのものでもありました。ところが、十四節の「ゆだねられた良いもの」だけが「あなた」―テモテ個人―へのものでした。彼だけに独自に神からゆだねられた何かがあったのです。私たちにもその独自の「何か」があるのです。それを「守る」(十四節)ように勧められていますが、自力で可能なことではありません。それを知るパウロは「聖霊によって守りなさい」(十四節)と加えています。聖霊に支えられながら、祈り、御言葉を読み、交わり、働くのです。パウロの激励の言葉は「再び燃え立たせなさい」(六節)に集約されています。私たちの信仰の炎は弱まります。弱さを抱えているのが人間ですから。そこで、賜物などの良きものも、思い患いなどの喜ばしくないものも、すべてを丸ごと神にゆだねるのです。そこから「再び燃え立たせる」聖霊による神の業が再開され、信仰の炎は再燃するのです。
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2017年11月12日

説教(幼児祝福式が行われる礼拝で) 『この子は生涯、主にゆだねられた者』

2017年11月12日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

サムエル記上 1章26〜28節
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。


 この聖書個所に、ハンナというお母さんが登場します。その子どもは、名前がサムエル君。まだ歳は3歳なんです。その子を、母さんハンナは教会に連れて来て、「この子は生涯、主にゆだねられた者(つまり、この子はずっと、神様におまかせします)」って言ったのです。どうしてだろうって思います。ひょっとしたらお母さんは神様に会ったことがあって、だから「神様が一番安心」って分かって、だから「神様にお任せしよう」と言ったのかも知れませんよね。そうすると、「どこで神様に会っていたのだろうか」と思いませんか。

 ハンナには、ずっと願っていたことがありました。「赤ちゃんを授けてほしい」ということです。そしてそれを彼女は、神様に「これがあれば他に何にも要らないというほど私の一番して欲しいことは、赤ちゃんを授けてほしいのです」と祈っていたのです。それを神様が、「よし、分かったよ。そうしてあげよう」と叶えて下さってサムエルが生まれた。その時にハンナは、「神様が私の願いに、分かったよと応えて下さった。神様は本当に、私の必死の願いを聞いてもらえた」と知ったのです。誰でも、自分の願っていることをちゃんと聞いて受け取ってくれたら、「ああ、自分は大事にされている」と分かるよね。自分の事をちゃんと見ていてくれるんだと、分かるよね。そのようにハンナは、サムエルを与えられた時に、「私は、神様に大切にされている」って分かったのです。その時なのです、ハンナは「神様は私の願いに関わって下さった。あなたは生きておられます、私はそのあなたを信じていきます」と確信出来たのです。そのゆえに「あなたを信じたら安心。それが一番安心。だからこの子をあなたにお任せします」と言えたのだと思うのです。

 このハンナが言った「わたしが願った」(27節)という「願った」という言葉と、「主にゆだねられた」(28節)という「ゆだねられた、おまかせした」という言葉は、聖書の言語では同じ単語です。つまり、願うこととゆだねることは、深く結びついているのです。それも、神様が関わって下さる事柄の中で、これはとても大切な結びつきなのです。

 お母さんハンナは、サムエル君を神様にゆだねました。それは、生涯神様からの恵みをいただく人生に入れたということです。今日、私たちも礼拝の中で幼児祝福式を行います。それは、みんなのご家族がみんなを神様に「お任せします」ってゆだねることです。一番安心な神様に、ゆだねられるのです。そうやってそこで、みんなは神様からの贈り物としての祝福を受け取る人生に入るのですよ。
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2017年11月05日

召天者記念日礼拝説教 『この身にイエスの命が現れるため』

2017年11月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二4章7〜11節
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。


 私どもはそれぞれの日生まれて、地上の命をスタートさせました。でもそれは、死に向かってのカウントダウンが始まった日でもあります。全ての人が「汝、死すべき者であることを覚えよ」という時間の中を生きているのです。しかし、です。それでもキリスト者なら、人間は神様ご自身が「命の息」をフッと吹き入れて下さったから、命が灯がともって生き始めたんだと知らされています。それは、神様にとっては“特別な宝”ということではないですか。ならば事実としての死が来るということと、神様に愛されている私の人生だということと、どういうことになるのですか。そんな死の現実に思いを馳せる召天者記念日に、教会で読まれた聖書個所が、今朝の箇所なのです。

 さてその10節には、「イエスの命がこの体に現れるため」とあり、11節にも同じように「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」と、繰り返して告げられています。繰り返すのは、大事なことだからですよね。私どもが神様からそれぞれの人生を預けられたのは、自分の人生を、死を忘れたようにして謳歌するためではありません。でも死に取りつかれてしまって恐れさせるためにでもありません。神様は、「イエスの命」というものがあって、それが「あなたに現われるためだ」とおっしゃるのです。つまり、「死ぬはずの身だけれども、でもそのあなたに、新しい命が現れる。あなたの存在は、イエスの命が現れる存在なんだ」ということなのです。つまり「死の向こう側に、あなたの人生はまだ続いている。あなたはさらに先の目的地に向かって歩み続ける存在なんだ。そうだ、イエスの命があなたを死の向こう側へと歩み行かせる。体の死は、単なる通過駅の一つにしかなくなってしまっているんだ」ということなのです。

 改めてイエス様を見たら「イエスの命」というのは、この世が想像できるような、魂だけが風になって吹き渡っているような命ではないと分かります。それが聖書の告げて来た、イエス様の復活の出来事であるのではないですか。「イエスの命」とは、「復活の命」です。確かに人間は脆い「土の器」の体で生きているでしょう。それでも、その中に「イエスの命」を入れて戴けたならです。死の向こう側が一気に開くのです。それは、信仰の先達者の背中を見たら分かるのではないですか。本気で「死が終着駅などではない」と信じて生きた者は、死を前にして「こんなに急に来るとは思ってもみなかったけど」と言いつつも、ハッハッハーと生きたのです。そこにご復活のイエスの命が、明らかに現れているのではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:04| 主日説教要約

2017年10月22日

説教 『立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださる』

2017年10月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

歴代誌上22章11〜16節
わたしの子よ、今こそ主が共にいてくださり、あなたについて告げられたとおり、あなたの神、主の神殿の建築を成し遂げることができるように。 賢明に判断し識別する力を主があなたに与え、イスラエルの統治を託してくださり、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。あなたは、主がイスラエルのために、モーセにお授けになった掟と法を行うよう心掛けるなら、そのとき成し遂げることができる。勇気をもて。雄々しくあれ。恐れてはならない。おじけてはならない。見よ、わたしは苦労して主の神殿のために金十万キカル、銀百万キカルを準備した。青銅も鉄もおびただしくて量りきれない。材木も石材も準備した。更に増し加えるがよい。あなたのもとには多くの職人、採石労働者、石工、大工、あらゆる分野のあらゆる達人がおり、金、銀、青銅、鉄も数えきれない。立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように。


 ダビデは息子ソロモンに、11節「今こそ主が共にいてくださり…主の神殿の建築を成し遂げることができるように」と告げ、続けて「勇気を持て。雄々しくあれ」と励まし、さらに最後に、16節「立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように」と締め括ります。若いソロモンにとって、彼の経験では中身が把握できないような大事業・神殿建築です。でもそれをダビデは「主が共にいて下さる」という言葉でサンドイッチしたのです。たとえ未熟でも「これは主が共にいて下さる恵みの事業なんだ」と直感できるためでした。

 そういう今朝の御言葉を聞いた時にです。ふと思ったことがありました。それは、私どもは何となく「主が共にいてくださる」という御言葉を聞いて、「ああ良かった、有難や」と安心し切って、そこで立ち止まって、ちっとも立ち上がろうとしないという事をしてしまうんじゃないでしょうか。でも神様がダビデの口を通してソロモンを招かれた時、「わたしが共にいる」ということと「立ち上がって実行せよ」ということとは、分け難く結びついているのです。「神の計画が成就されるために、残されたことが一つある。あなたが立ち上がって実行することだ」ということなんです。つまり、神様が共にいて下さるという場所は、私どもが決めようとする小さな世界じゃないからです。私どもの手に中に入るだけの小さな世界の、外に、神の御計画の世界があるからです。

 神の御心のままに、御計画の方へと立ち上がることを、最も厳しい状況の中でなさったお方は神の御子イエス様です。イエス様は、目の前に十字架に掛けられて死ぬことが待っている。その重さを分かりつつ、ゲッセマネの園で「しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られたのではないですか。そして立ち上がった先に、全ての人の救いという天の父のご計画が成し遂げられたのですよね。

 私どもは、自分の考える居心地の良い所にいつまでも座り込んでいたいです。そこに安心があるように思えるからです。しかし、信仰の生活の中で、神様は私ども一人ひとりを呼び出されるのです。そこは、私どもが思ってもいない高みかもしれません。自分では無理と思えるような奉仕かもしれません。そんなのNOと言いたい神の御業への参加かも知れません。でもそういう私どもに、神様は「わたしがあなたと共にいるから」と、神の約束でサンドイッチしてくださって、その上で招かれるのです、「神の計画に、あなたが一歩踏み出して欲しい、さあ立ち上がり、あとは実行するだけだよ」と。神の恵みを受け取る人生の場所へと、招いて下さるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:38| 主日説教要約

2017年10月15日

説教 『神の人への勧め』

2017年10月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テモテへの手紙一 6章11〜16節
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


 第一の手紙を閉じるにあたり、筆者パウロが指摘するポイントをいくつか振り返っておきます。
 一、指導者テモテと教会に託されていたのは「福音」。福音とは(a)聖霊によりおとめマリアは身ごもり神の子を生んだ。その子はイエス・キリスト、(b)すべての人の罪の身代わりとなりイエスは十字架で死んだ、(c)三日目に死より甦り、死を滅ぼし、神と共に生きる命を与えてくださった。

 二、福音を語り、それに生きるのは「戦い」である。
 三、この戦いの中でまず勧められたのが「祈り」。手紙の終わりに来て、パウロはテモテを「神の人」―旧約の概念で、モーセ、ヨシュア、サムエルに用いられている―と呼び、「ひたすら主に喜ばれるものである」(Uコリント五章九節)こと、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める」(六章一一節)よう勧める。イエスは、これを「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と表現しています。

 イエスは神の御前に生きました。パウロも神とイエスの前で真実であるよう生きてきました。同じように生きるようにとテモテに教えます。この手紙をテモテと共に聞いている信徒にも協働者としてテモテを助け、支えるように勧められています。このような生き方を貫こうとすると、この世との「戦い」が当然起こります。金銭・知識・地位・支配等との戦いです。これらへの誘惑の始まりは「欲」です。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ一章一五節)。パウロにとって戦い抜く秘訣は、「試みに遭わせることなく悪より救い出したまえ」と祈りつつ、「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ三章八節)を一層増し加えることでした。イエスのすばらしさを知れば知るほど、それ以外のすべては「塵あくた」となるのです。この実感を持ちながら「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(Tテモテ四章一三節)とパウロはテモテに勧めるのです。そして、信徒は語られた恵みに共に与るのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:22| 主日説教要約

2017年10月08日

説教 『散らされた人々が、語りかけた』

2017年10月8日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

使徒言行録111926

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。


エルサレムで迫害に苦しんだ人々が、居場所を求めて北へと逃げます。19節に「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」とある通りにですしかしその新生活は、何もかも整った引っ越しなんかじゃありませんでした。それなのにです、「生活を守って下さい、見つからないように」と言うどころか、20節「ギリシア語を話す人にも語りかけた」というのです。そんなことしたら「あんた、あのステファノの事件を知らないのですか、熱狂主義者に捕まるぞ」と忠告されてもおかしくはない事じゃないですか。それなのに彼らは、全ての人に語りかけたというのです。


ある日、ある信仰者が、ユダヤ人以外に話をしてみたのです、「あなたも、本当の幸いの話を聞かないか」と。その時でした、人々がキリスト者の語り掛けを聞いてくれるという出来事が起こったのです。考えたら、何よりも彼らは難民としてやって来ていたから、着の身着のままで逃れて来た漂流者と見られていたはずです。お金も、名誉も、評判も、一つもない。無名の難民として流れ着いた。その故に彼らは、アンティオキアの全ての人の底辺に立つ者となっていたということではないでしょうか。そのどん底からなのです、彼らは「イエス様はこんな私のために命を捨てられたのです」と生き生きと語り出したのです。


アッと思いました。彼らの立っていた場所は、イエス様が立たれた場所と同じだったんだと気付かされたからです。誰からも認められず、誰からも必要とされなかったのはイエス様です。天から降って来られた神の御子なのに、人はそのイエス様を、天からの難民扱いにしたのです。嘲られ、唾を吐きかけられ、鞭打たれ、とうとう十字架に掛けられたのではないですか。神なるイエス様こそが、どん底に立って下さったのです。それは、そこから私どもに福音を届けるためにです。


その主が、無名のキリスト者たちと共におられたのです。そして彼らを用いて、御業が起こされて行ったのです。彼らはそれを目の当たりにして、気付かされたでしょう、「自分たちは価値無き者のように扱われて来た。そんな自分たちなのに、このアンティオキアで、そんな自分たちを通して神の力が働いている」と。そして「私たちはここに呼び出されたんだ。ここで用いられる者となるために。それが初めからの神のご計画だったのかも知れない」と。喜びに震えただろうと思うんです。


神の計画は常に、人間の思いや計画を超えて先行するのです。その道を、その時は気付きもせずにトボトボとでも行く時、「私の歩みは、神の臨在される中にあった。私が用いられる場所へ、私は運ばれて来たんだ」と気付かせてもいただけるのです。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:46| 主日説教要約