2018年01月23日

説教 『主の僕たる者は』

2018年1月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙二 2章20〜26節
さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。


 この短い一章の中に十項目ほどの命令をパウロは「愛する子」テモテに下しています。「強くなりなさい」(一節)、「ゆだねなさい」(二節)…「愚かで無知な議論を避けなさい」(二三節)など。指導者の端くれとして、「わたしはどれほど実行できているか…」、襟を正される思いです。後輩や弟子に勧めをする師には自分のことを棚に上げて言うだけ(言葉だけ)になったり、相手のためというより、自画自賛になったりする誘惑があります。師であるパウロは自分について多くを語っていません。自分は苦しみを受け、それに耐えたとだけ記しています。

 兵士・競技者・農夫の喩で三者に共通しているのは「苦しむこと・苦労すること」です。指導者にとっても苦しみは避けて通れない道なのです。他の手紙で自身の苦しみを詳しく語るパウロですが、気心知れたテモテにはその必要がなかったのでしょう。語るべきは自分のことではなくキリストのことだったのです。「キリストにおける恵みによって強くなる」(一節)、「キリストのことを思い起こす」(八節)、キリストとの一致、キリストの真実(一一〜一三節)。この姿勢を持つのが「主の僕」(二四節)なのです。主の僕は旧約聖書的な表現で、「主」はイザヤ書四三章の主(創造・贖い・共にいる・聖・救い・愛なるお方)、「僕」はイザヤ書五三章の「苦難の僕」(キリスト)を反映しています。主の僕である私たちは苦難の僕であったイエスのような生活をするかもしれない。

 しかし、その僕の主は創造・贖い・共にいる・聖・救い・愛なる方であられる。この主がおられるから、僕の苦難に意味が生まれ、苦難の実が実るのです。故に主の僕は「争わず、柔和に接し、教え、忍び、優しく教え導く」(二五節)ように努めるべきです。これは「聞く者」のためであり、教える者の満足のためではありません。キリストの内(in)に、キリストと共 (with) に、助け手(師)の導きを得て、やっとキリストのため(for)の働きができるようになるのです。指導者こそ、まずキリストにおける恵みによって強くならなければなりません。

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2018年01月14日

説教 『わたしの心に適った者』

2018年1月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章15〜21節
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。
 彼は異邦人に正義を知らせる。
 彼は争わず、叫ばず、
 その声を聞く者は大通りにはいない。
 正義を勝利に導くまで、
 彼は傷ついた葦を折らず、
 くすぶる灯心を消さない。
 異邦人は彼の名に望みをかける。」


 イエス様は見事ファリサイ派を論破して、病に悩む男を癒してあげます。それで彼らはイエスを殺そうと策略を始めたのです。15節の「イエスはそれを知って」というのは、その殺害計画のことです。もし私がこの場にいたら、きっと「難しい安息日論争を論破されたイエス様なのですから、殺害の陰謀を問い詰めることぐらい簡単ではないですか、今こそこの輩をやっつけてください」と言っていたはずです。それなのにでした。イエス様がなさったのは不可解な行動だったのです。15節「イエスは、そこを立ち去られた」と。なぜ立ち向かわないんだという不満で、モヤモヤして来る私…。

 イエス様は、ファリサイ派に立ち向かえたはずの場所を、退かれはしました。しかし、そのイエス様について来た群衆の「皆の病を」癒されます。病の辛さって、本人にとっては病状の重さ軽さに関係ないですよね。イエス様が「皆の病を」癒されたというのは、十把一絡げではなくて、一人ずつ受け止めて下さったということです。そう思ったら、ふと、イエス様のお心は直前の安息日論争をしておられた時から、何も変わっていないじゃないかと思ったのです。安息日論争も、論争をするために論争されたんじゃない。たった一人の手の萎えた男の辛さを、ご自分のこととして受け取られたから、安息日であろうとなかろうと、一切が後回しになって、一人の人の辛さに寄り添われたのではないですか。ファリサイ派の目から見たら、それが「安息日論争」となったと言うだけで、イエス様がなさったことは、「あなたのために、思いを尽くす」ということだったのではないですか。そういう姿は、ちっとも変っていない。アッと思いました。イエス様がいつも闘っておられたのは、ご自分のためではなくて、人のためだったと気付かされたからです。

 たとえご自分の命が奪われる策略を目の前にしても、自分のための闘いはなさらない。イエス様が力を尽くされるのは、いつも「あなたのため」であった。それも、20節には「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と記されています。傷ついた葦とは「役に立たない者」の譬えです。「くすぶる灯心」も、「無価値になってしまう者」の譬えです。そういう一人ひとりのために居られるのが、イエス様という存在なのだと告げられていたのです。それをマタイ福音書は、「この立ち去りのイエスが、わたしの心に適った者だと、父なる神が告げておられるのだ」と、記していたのです。

 神の心は、私どものことを私自身よりも大切に見詰めていて下さる思いです。私以上に、私を愛していて下さるのです。それが神様の願いであるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:47| 主日説教要約

2018年01月09日

2018年主題聖句説教 『愛がなければ、無に等しい』

2018年1月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙一13章1〜7節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


 この1年、私どもは「愛がなければ、無に等しい」という御言葉を、自分自身の額に引っ付けて歩むのです。そのとき、この「愛がなければ」というところを「愛する気持ちも一緒にしたほうが良いよ」という程度にしか考えないなら、そこでたやすく愛することを見失います。そこで、「愛なしにだって何だって出来るし、それで十分じゃないか」思うことが、始まってしまうのかも知れません。実は、自分で愛することを自分の中に留まらせておくことは出来ません。まして、自分が計画して訓練して、高めて行くことなど出来ないんです。そういう私どもに神様は、「愛がなければ、無に等しい」と突き付けられるのです。

 手に入れたい、手に入れなきゃと渇く私どもに、その思いになった心に、ようやく届いて来る御言葉がある。それが、愛についてハッキリと示している言葉、4節以降です、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない」と、それも、そう聞いて私どもは「このたった1つも、人間は持っていないものだった」と気付く、そこでさらにです、「いやたったお一人だけ、この愛に生きておられた方を知っている」と気付くのではないですか。それは、「ここにある姿は、イエス様の姿そのものではないか」ということです。パウロは、ただ写し取ったのです、神の御子イエス様の御姿をです。5節「自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。あっと、ようやく私は気付きました。「愛とは、イエス様そのものだった」と。

 どんなに熱心に奉仕しても、献げ物をしても、家族のために尽くしても、子どものために働いても、「愛がなければ、無に等しい」、だからこそ私どもは、本当に愛に生きる者に、変えられなければならないんです。日々新しく変えられ続けなければ、私どもの人生は危ういんです。そういう気付きの中にある私どもに、聖書は、この世と全く違う語り方をして来ます。愛そのもののお方、神の子イエス様を指し示して、「この方と共に生きよ」と告げるのです。「あなたの業は小さくて貧しいかもしれない、しかし主イエスが共にいるなら、愛そのものの方が、あなたを豊かさへと導くから」と。私どもは、十字架の下に駆け寄って、心の中に主イエスを戴いて、奉仕する時に主の姿に重ねさせていただき、献げる時に主を思い、語る時に主の口に私どもの口も合わせさせて頂いて、いつも主を思いつつ生きるのです。そのとき、私どもの小さな業も、イエス様が整え導いて下さいますから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:52| 主日説教要約

2017年12月24日

クリスマス礼拝説教 『言は肉となって、宿られた』

2017年12月24日(クリスマス)礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

ヨハネによる福音書1章14〜18節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


 ヨハネ福音書の降誕の御言葉は、天使もマリアも登場しません。この最も短い降誕の御言葉は「告白」だった。そう気付かされたら、単に「神の御子は人間となった」と言えば済むことなのに、敢えて「言は肉となった」と告げた単語の選び方に、そもそも伝えたい思いが込められているのかも知れないと思えたのです。

 ギュツラフ訳聖書は、今でも多くの神学者たちから、高い評価を得ている日本語訳です。漁師たちが生活で使っていた庶民の心にある日本語だからです。そのヨハネ福音書1章1節は、あまりにも有名な訳です。新共同訳では「初めに言があった」とある箇所を、こう訳したのです「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」と。「ワシらにとっては近寄りがたい、勿体ない賢さそのものという方が、世界の全てに先立っておられたのだ」という事です。その「言」というのが、今朝の14節にある「言」と同じ単語なのです。だからギュツラフたちは、「言は肉となった」を「カシコイモノワ ニンゲンニ ナラアタ」と、「天のおられるべき やんごとなき賢きお方が、人間になられた」と、それが神の御子の降誕の意味であったのだと聞き取ったのです。

 これは単に、「人間に変えられた」という風に聞いてはいけません。聖書で「肉」という言葉が使われる時、それは「欲」という言葉と引っ付く。つまり欲と同類だということです。過ちを犯して、息苦しい自分に転がり落ちて行くのに、それでも止められない、なお落ち込んで行く闇の姿が「肉」なのです。それは、その故に「罪」と逃れ難く引っ付いている言葉なのです。改めて、エッと驚かずにはいられません。神であられる方が、「欲と罪」の入れ物でしかない「肉」に、ご自身もなられたということだからです。イエス様は、欲と罪と、過ちと弱さと、涙と後悔と、そんなものが混ざっている坩堝の中にはまり込むために、天から落ちて来られたと言うのです。その坩堝の中で、ご自分も泥まみれになられるのだと、分かっていてもです。

 本当にイエス様は、あらゆる理不尽を受けて、暴力を受けて、屈辱まみれにされて、誰からも理解されず、罪人の頭のように十字架に掛けられて殺されてしまわれるのではないですか。泥まみれになられたのではないですか。それなのにイエス様は、その「肉」の中心目掛けて降って来られたのです。罪の巣窟の中に入り込んで来られたのです。それが、「言は肉となった」という御言葉の意味であったのです。神が、神であられる身を捨てて、肉の在り様しかできない私どもと一つとなるために、天より降って下さった。その「肉」の只中で、あなたの救い主となられるためだったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:58| 主日説教要約

2017年12月18日

説教 『この人であった』

2017年12月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

イザヤ書53章11〜12節
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。


 日本人の四分の一以上がクリスマスは何を祝う日か知らないとも言われています。ChristmasはChrist+mass(キリストのミサ)つまりキリストを礼拝する時です。クリスマスからキリストを取ってしまったら、ただのMass(集団・かたまり)になってしまいます。集団で騒いで終わらせるには、あまりにもったいないクリスマス。そうならないためには、クリスマスの中心であるキリストとはどういうお方かを知る必要があります。ヨハネ福音書一章には「言」(キリスト)は初めに神と共にあり、万物は「言」(キリスト)によって成ったと記されています。キリストは神・創造主だったのです。そうでありながら、「僕の身分になり、人間と同じものになられました」(フィリピ二章七節)とあり、Uコリント八章では「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」と表現されています。これが受肉(神が人となられた)です。

 その目的は一、「(人に)神の子となる資格を与える」(ヨハネ一章一二節)ため、二、「(人が)豊かになるため」(Uコリント八章九節)ため、三、「(人が)自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」(フィリピ二章四節)ようになるためでした。三つの関係(神との関係・自分との関係・他者との関係)の分裂を修復するためと言い換えることができるかもしれません。このために遣わされる「彼」(イエス・キリスト)の到来が、「彼」の誕生の五百年以上も前にイザヤ書五三章に預言されていたのです。

 何がそうさせたか…。「(神の)愛がそうさせた」(グァルディニ)のです。「現代の私たちは、知性によって捉えられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介すると捉えられなくなってしまうものをつかむことが苦手になった」(内山節)。神の愛は知性をも感性をも超えているのでしょう。ですから、信仰によって受け入れるしかないのです。「たとえ、キリストが千度ベツレヘムで生まれたとしても、あなたの心の中に生まれていないならば、それはむなしい」(アンゲルス・シレシウス)。今年のクリスマスがキリスト不在ではなく、中心におられるChrist+masでありますよう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 07:54| 主日説教要約

2017年12月10日

説教 『手で引き上げる』

2017年12月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書12章9〜14節
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。


 自分の羊が穴に落ちたら、すぐに駆けつけて引っ張り上げるということは、人々にとって普通の行動だったでしょう。でも一つだけ例外があって、「安息日には、あらゆる仕事をしてはない」という掟でした。そこにです。ファリサイ派の人々がイエス様のところに片手の萎えた人を連れて来て、「安息日に、この人の病気を治しても良いか」と問うて来たのです。「もしもイエスが、ここで安息日規定を破ったら、処罰できるぞ」と、罠を仕掛けたのです。でも言ってみればこの罠は子供だって見破れる、あからさまな罠です。イエス様はこう答えられれば十分だったはずなんです、「命に別状はなかったら、日没まで待ちましょう。安息日が終わってすぐに癒してあげるから」と。

 それなのにイエス様は、そんな小さな知恵さえも働かされずに、「手で引き上げてやらない者などいない。必ず引き上げるはずだ」と告げて、男を癒されたのです。罠を前にして、主はまるで、愚か者になられた!。でもなぜイエス様は、愚かになられたのか…。「わざわざ罠の中に、意識的に踏み込まれた」としか思えないではないですか。それはきっと罠に掛かることと刺し違えても、なさりたいことがあったからです。私どもは、この後イエス様が十字架に掛けられ殺されてしまう事になると知っています。ファリサイ派の「イエスを殺してしまおう」という相談は、ここで始まって実現してしまうことへと動き出すのです。そのことを主は知っておられた、しかしそれでもなお、そのきっかけとなる最初の言葉をここで告げられたのです、穴に落ちた羊、手の萎えた人を、11節「手で引き上げる」と。

 「手で」とは、「しっかりと抱きかかえる」という意味の言葉です。イエス様は、「私は羊のいる穴に降って行く、そこで私は羊を、この手で抱きしめる」とおっしゃったということです。そして「それが私だ、それが私・イエスという者である」と示されたということなのです。天に居られる神様なのだから、人間に向かって「頑張って上って来い」と言えば良いじゃないですか。それなのにイエス様は、地上に降って来られたのです。地上の穴の底にいる私どもと一緒に立たれるために。それがイエス様の降誕だったのではありませんか。
真実生ける神のなさり方は、人間が想像できるような合理的な姿ではありませんでした。「手で引き上げる」、その一言は、イエス様の覚悟された言葉であられたのだと思えてなりません。その主イエスが、私どもにも宣言される、「あなたも私の宝の一人。そのあなたが穴に落ちたら、いや確かに罪の穴に落ちる、でも必ず、私はあなたを、私の手で引き上げるから」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:29| 主日説教要約