2017年06月18日

説教 『第一の勧め』

2017年6月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 2章1〜7節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 パウロは頻繁に祈ることを勧めています。ここでもテモテに牧会者として「まず祈る」ように命じます。それも「すべての人々のために」(一節)。当時、「王たち」といえば、ネロ皇帝の時代でパウロはネロの命令により斬首されています。「平穏で落ち着いた生活を送るため」(三節)に祈るようにと勧められてはいますが、歴史を振り返る限り、この祈りは答えられていません。「平穏(平安)」とは無風状態ではなく、嵐の中でさえ、「誰」と共にいるかにかかっているようです。祈りは願掛けのように理解されがちですが、それを含んでいるにせよ、本質的には「神との交わり」です。パウロは「とにかくまず神と親しく交わりなさい。そして、すべての人が救われるのではないにしろ、すべての人のために祈り、『真理を知る(御言葉の中で成長する』よう教えなさい。これがあなたの務めです」とテモテに言っているのではないでしょうか。「(祈りは)美事(よきこと)にして、我らの救い主なる神の御意に適うことなり」(文語訳)。「祈られる者にとっても、祈る者にとっても、人間にとって良いこと」なのです。愛する者(=神)に喜んでいただくこと(=祈り)を実行するのですから、これ以上の喜びはないはずです。「すべての人々のために祈る」のですが、彼らが好むことを言うわけではありません。どのように反対・迫害されても、真理はひとつです。

 多神教の下でも、神は唯一と告白し、排他的と言われても、神と人との間の仲介者はイエスのみと宣言する。ナンセンスと揶揄されようとも、その方は受肉された神の子、そしてその方は十字架上で私たちのために贖いの死を遂げた方、と教会は語り続けるのです。このメッセージは、まず牧会者が受け止めるべきです。しかし、同時にすべてのキリスト者への命令でもあります。この責任を果たすために、まず祈らなければなりません。
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2017年06月11日

説教 『認めようとすれば分かる』

2017年6月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイ福音書11章7〜19節
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
 『笛を吹いたのに、
 踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、
 悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」


 ユダヤの人々は、神様からの「救い主は来る」との約束を何百年も待っていました。そこに主イエスが現れたのに、彼らはそれを認めようとしなかったのです。
そういう彼らに、イエス様が仰ったのです、14節、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は彼は(ヨハネのこと)、現れるはずのエリヤである」と。イエス様は見せたいのです「既に救いに関わる全てのことが、あなたの傍で始まっているんだ」と。この「認めようとすれば」とは、「受け入れようとしたら」という意味があり、それも辞典には、「その人を、受け入れる場所を必要とする」とも加えて説明されていました。

 そう聞くとすぐに私など、「心の部屋を片付けなきゃ」と思ってしまいます。でもイエス様はここで、迎え入れるために「片付けなさい」とは仰っておられないんです。救い主は「あなたの部屋にそのまま入る」と仰っているのです。それは、その部屋が私どもの現実だからです。苦しみを背負った人の現実だからです。人の心の中は、取っ散らかっているんです。それも、神を知っている信仰者だからこそ、「ああして、こうやって救ってほしい」って、自分の思いで心の部屋が散らかってしまう。でもそこで良い。心の部屋をスッキリ片付けてしまって、清く正しい信仰者となって、それからイエス様を迎え入れるなんてことじゃない。主イエスは、「あなたの散らかったままの心の部屋で良い。ドアを開けてくれてゴミだらけの部屋に迎え入れてくれたら、そこが私の場所。救い主である私が立つ場所だから」と言って下さっているのです。

 主は、喜びがあり、悲しみも苦しみもある現実の中に、既に来て、私どもの心のドアの外に立っておられるんです。それもドアをノックされる主の御手には、十字架の傷跡がある。「もう何にも心配しなくていいから。自分用の神様像を作ったことも、ゴミだらけの心の中も、負い目も罪も、もう全て赦されているから。私はあなたの救い主なのだから、さあ中に入れておくれ」と。そしてです「あなたの取っ散らかった心の、ど真ん中に一緒に座らせておくれ。そこが私の場所だから。そうしたらあなたの傍に、私がいると分かるから」と呼びかけ続けていて下さるのです。

 救い主の方が、私どもが迎え入れるのを、じっと辛抱して、待っていて下さったのです。力で突入することもお出来になるのに、私どもが心を開いて「本当によくおいで下さいました」と、お迎えするのを、ずっと辛抱強く待っていて下さったのです。そして私どもが迎え入れたその時、自分の考える救いよりも、神のなさる御心の救いのほうが、どんなに大きく広いかを、味わい知ることになるのです。
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2017年06月04日

聖霊降臨日(ペンテコステ)説教 『わたしたちの言葉で聞こうとは』

2017年6月4日(ペンテコステ)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

使徒言行録2章1〜11節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


 神様がなさった十字架も復活の出来事も、伝えなきゃ、そこで終わってしまうんです。

 神様が、ついにそれを実行されました、3節、「炎のような舌が分れ分れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で語り出した」と。それは聞いた人たちの証言で言い直すと、11節、「彼らがわたしたちの言葉で、神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」ということです。弟子たちが聖霊を受けて語り出した時、人々はそれぞれ「あなたの言葉に、わたしの古里の言葉が聞こえる。私がホッとする言葉で、私の生活の中に、心の中に届くように語ってくれている」と感じたのです。

 それは、神様が本気で、全ての人間の言葉を使われ出されたということです。この日に起こっていたことは、神様が、「あなたと同じ古里の人になろうとされた」ということなんです。私にとっては、神様が関西弁で、「あんなぁ、あっちゃん分かるか〜」と語り出して下さったということなんです。それが起こったのは、神様が、聞く人の生活の中に、立ちたかったからです。その人生に一緒に添いたかったからです。そうやって神様が、相手の心の中に生きている言葉を、ご自分の言葉にされた。それはまた、神様が私ども人間のためにご自分の言葉を変えられたということなのです。

 神様は、力づくで私どもの耳を開いて、ご自分に従わせようとされるんじゃないんです。神様は何よりもまず、私どもと同じになって、身をかがめて私どもと一緒になって下さるのです。それは降誕の時も、十字架の時も同じだったのではないですか。神様はいつでも、栄光あるご自身に固執されず、ご自分を削りに削られるんです。ご自分を変えられるんです。そして、降誕と十字架と復活の御業を成し遂げられたあと、その御自分の恵みの福音を伝えようとされた時も、神様は伝える言葉を、私どもの側に身を寄せて下さったのです。それが、聖霊に満たされた弟子達が、聞く人の生活の言葉で語り出した、ペンテコステの出来事だったのです。

 私どもも弟子たちと同じように、聖霊を受けた一人一人です。あの受洗の日に水がジャーっとかけられた時、聖霊が注がれていたのです。私どもも祈りつつひざまずいたあの日、神の御霊が私どもの内に降って、神と一体となるように一つに結び付けられたのです。それは私どもも、聖霊に満たされたこの時の弟子たちのように、相手の言葉で、隣人の生活の中で、福音を語り出すはずの一人一人だということです。あなたが語ること、それが神様の願いなんです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:52| 主日説教要約

2017年05月28日

説教 『必ずご覧になっている』

2017年5月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

詩編10編12〜15節
立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。
なぜ、逆らう者は神を侮り
罰などはない、と心に思うのでしょう。
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。
逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き
彼の反逆を余すところなく罰してください。

 詩人の嘆きは、深いものがありました。詩の冒頭には、「主よ、なぜ遠くに離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と嘆いて、さらに前半の締め括りでも「神はわたしをお忘れになった」と嘆いている。彼は、自分を見ていて欲しい神が、自分から離れたということを嘆いているんです。人はひょっとしたら、「私のことを見て欲しい」と願っていて、それも「このままの私を、このままに見て欲しい」と願っていて、それが満たされない時、本当に苦しむのではないでしょうか。

 しかしなのです。状況が好転したとか、問題が解決したとか何もないのも関わらず、突然、彼の思いの中に光が差し込んで来たようになる。それが、14節、「あなたは(神様は)必ずご覧になる」です。この「ご覧になる」という言葉は、「分かる」とか「理解する」という意味の言葉です。だから、全てを理解するほどに、神様がご自分の事として受け止めて下さるということです。さらに、神様がそのようにご覧下さるものは何なのか、それを詩人は続けて「御手に労苦と悩みをゆだねる人を」と語るのです。

 詩人は気付いたのです、「神様は、労苦と悩みの人を、必ずご覧になって下さる神であられるのだ」ということを。何か優れている部分を見て、それを褒めて下さるとか、何かできることを見て喜んで下さるとか、そういう神ではないのです。何も自分の良い所を数えることが出来ないで、むしろ辛さに押しつぶされてオロオロして、八方塞で座り込んでしまって、弱々しく震えている。そんな自分を抱えて、「こんな私ですけど」と言いながら、悲しみながら、それでも神様に向かって「私の手を掴んで欲しい」とすがる者を、神は必ず、「分かっている。ちゃんと見ているよ」と放っておかれない、そういう神だと、彼は思い出したのです。

 この詩人は「神は必ずご覧になっている」というところに立ち帰れた時、不思議な安心がやって来ました。それは、「私が、神を見ていなきゃ」という焦りから解放されたからです。それは、私が神を見ているかどうかに全く関係なく、神が私を見詰めていて下さるということを信じたということです。私が神を見詰めることが福音じゃなくて、神が私を見詰めていて下さることが福音なんです。私どもの方が神を捉えられなくなっても、見えなくなっても、神様の方が私どもを、必ずご覧になっていて下さるんです。私どもはその御手の中にいるんです。神の御手の中で、信仰生活を、不安も苦しみも、喜びも重ねつつ過ごして行くのです。「必ず神様がご覧になっている」、そのことを繰り返し思い出させていただいて、安心して自分の生涯を歩み切ればいいんです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:19| 主日説教要約

2017年05月21日

説教 『目指すところは愛』

2017年5月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 1章3〜11節
マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。

 この手紙の著者は―議論があるものの―パウロ、受取人はテモテ。目的は⑴偽教師の中で悪戦苦闘するテモテを励ます、⑵テモテの働きはパウロの権威に基づいていることを示す、⑶教会内の制度化、⑷教会員の訓練。

 最初にパウロはテモテに「エフェソにとどまる」(一節)そして「ある人々に命じる」(一節)よう強い口調で勧めます。テモテはパウロと共にマケドニアへ行きたがっていたかもしれません。しかし、テモテはエフェソで必要とされていましたし、今ひとつ自立しなければならなかったのしょう。依存する心をあえて断ち切ることで、イエスのみに頼る関係を築かせたかったのです。私たちにも必要な姿勢です。パウロは多くの人々に語りましたが、「子として」育てたのはテモテでした。キリスト教信仰の真髄は、一人の命からもう一人の命へ、一対一のようにしか伝わらないのかもしれません。

 次に「命じた」のは、「信仰による神の救いの計画の実現」(四節)でした。教会は何が最も大切かー優先させるべきは何か―を知るべきです。福音を広め、教会を形成し、それを管理する神の奉仕が私たちの第一の役割です。このパウロの命令の目的は「愛」でした。Tコリント一三章で語っているように最も大いなるものは愛なのです。牧会者テモテに求めたのは、議論に強くなることではなく、愛を身に付け、その愛を伝えることでした。彼の敵対者に対して求めたのも彼らの中に愛が引き起こされることでした。愛はイエスを信じる信仰から生まれる誠実さの実と言えます。それを求めよう、またその愛を語るようにパウロは命じるのです。最後に、パウロは自身の証しをもってテモテを励まします。かつては迫害者だった自分が赦され、宣教者とされた事実。神がキリストにおいて自分に成されたことを語ればよい、御言葉の真理のみ語ればよい。個人の経験ほど説得力のあるメッセージはないのです。自分は「罪人の最たる者」といまだに現在形でパウロは語ります。私たちも罪赦された罪人に過ぎません。謙遜な心で託された福音を語り続けましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 23:23| 主日説教要約

2017年05月14日

説教 『生死を共に』

2017年5月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 7章2〜4節
わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。

 コリントの中で信仰生活も甚だしく乱れていました。それに心を痛めたパウロに、理解してくれない人達が、パウロ批判を始めたのです。それが2節から伺えるのです、「わたしたちは(パウロたち)だれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした」と。このようにパウロが抗弁するのは、その逆を言われていたからではないですか。その非難に対して彼は、不思議なことに、抗弁することで終始しないのです。このすぐあとに、その状況を通り抜けてしまったように、4節「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています」と。関係が回復したように喜んでいるのです。

 パウロは非難されて、関係は冷え切っていたはずではないですか。それなのに、です。どうして彼は、そこを乗り越えて、相手との関係を喜べるようになっているのですか。パウロに、その信頼と誇りに至らせたのは一体何なのか。その理由が、3節の最後、「わたしたちと生死を共にしているのです」ということだったのです。元の言葉は、「わたしたちと共に死ぬ。そしてまた共に生きる」です。パウロは、本気で言うのです「共に死ぬ。また共に生きる」と。この2つを重ねて言うのです。そしてこの順序で、並べて言うのです「共に死に、共に生きる」と。そのことを改めて思い巡らせていて、ハッとさせられたのです。それは、「共に死ぬ。そして共に生きる。これを実現して下さった方がおられる」と気付かされたからです。それは「共に死んで下さった。同時に共に生きて下さる、それはイエス様が私どものためにして下さったことではないか」ということです。ロマ書6章8節「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになる」。パウロは、「キリスト者一人ひとりが、キリストに共につなげられている。死ぬことにおいて、また生きることにおいてだ」と言い切るのです。それは同時に、この一人のお方・主イエスに結び付けられている私どもだからこそ、私ども全ては主にあって共に結ばれている、ということではないですか。お互い同士を直線的に見詰め合って「あなたを信頼しているよ、生死を共にしよう」というんじゃない。そんなことしようとしても、人間同士なんてとってももろい。主イエスを扇の要として、キリストと共に結ばれ続けてゆくのです。ひとえに、結び目に立って下さったイエス様のお陰なのです。

 パウロは言いたいんです。キリストに結ばれた私とあなた方、その結び目は神の御子だ。だからその方を見上げたら、神の大切な一人として、あなたも私も見えると。そういうキリストと生死を共にする者同士として、慰め合い、誇り合っても行けるのだ、と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:56| 主日説教要約