2017年04月23日

説教 『見たことがないのに愛している』

2017年4月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

ペトロの手紙一 1章3〜9節
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。


 ペトロはイエス様の側近にいた弟子です。イエス様を「見ていた人」の代表です。それなのに彼は、繰り返し情けない姿を露にしてしまいます。見ているのに、信じられなかったからです。彼にとって「救い主」としての見える姿は、ユダヤの新しい国王になってくれる人でなければならなかったからです。それが救い主の納得できる証拠だと思ったからです。だからイエス様が十字架に掛けられんとした時、もう付いて行けなくて「そんな人は知らない」と叫んでしまったのです。自分が見ていたい救い主じゃなかったからです。

 「自分が救われる計画は、主がこうして、ああしてくれなければならない」と、自分の中で小さな救われ方の計画を立てていたペトロ。でも「イエス様はこうしてくれないといけない」という救われ方が、とうとう木っ端微塵にされる瞬間が訪れる。それがイエス様の真の死でした。彼は、十字架の上で息を引き取られたイエス様を見つめるほど、自分の計画がガラガラと崩れ去ってしまう。もはや彼には、見ていたはずだと思っていた「救い主像」が、失われてしまったのです。

 でも、そこで初めてなんです。彼が握りしめていた救い主像を打ち壊した十字架の向こう側に、なのです。彼を「見なくても信じる」ところへと導き入れてくれる声が、聞こえて来たのです。それはイエス様の復活の知らせでした。そこで彼はすぐに思い出せたはずなのです、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日ののちに復活する」との御言葉を。そして、それこそが真理の言葉だったのだと気付けたに違いないんです。「イエス様は、死を打ち破られた、死に勝利された、本当に救い主であられたんだ。あの御言葉を成就されたイエス様こそが、救い主であられたんだ、今はもう見ないでも分かる」と。自分が、自分で、自分の納得できる証拠を目の前で見ないと信じられない、愛せないというペトロではなくなっていました。

 今朝、改めて思います。自分の納得いく救い主像を作ろうとしてしまう私どもを、その迷い道から呼び戻してくれる声は、ただ1つだけだ、と。それは、復活のイエス様からの御声なんです。「あなたの苦しみを私も知っている。その私が復活だ。死を破って、今あなたの傍に立っている神だ。その私があなたと共にいるぞ」と告げられている御声なのです。主は今も生きておられるのです、約束のみ言葉通りに、あなたのために復活なさったからです。あなたと共にいたいためにです。それは私どもを愛し続けていて下さるために、ということではないですか。私どもの方が、たとえ主を見なくても、復活された主イエスが私どもを見つめつつ、共にいようとして下さるのです。
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2017年04月18日

イースター礼拝説教 『わたしは主を見ました』

2017年4月16日(復活祭・イースター)
相模原教会牧師 辻川篤

ヨハネによる福音書20章11〜18節
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


 マグダラのマリアは、復活されたイエス様が傍に立たれるのに気付けない、14節「イエスの立っておられるのが見えた。しかしそれがイエスだとは分からなかった」と。この「見える」とは、「眺める」という意味で、目に映っているのが何なのかを理解はしていないんです。マリアは、一生懸命主に仕えて来ました。でもそうやっているうちに、いつしか自分が熱心であることがイエス様が求めておられる第一のことだと思い出す。でも、自分が何かをしていることが信仰生活の土台になり始めたら、イエス様ご自身が見えなくなるんです。自分だけを見るようになるからです。マリアはどこまでも主に仕えて来れた。そういう従い方で十字架の下まで来れた。いや墓場までも。でも、してあげられることが何もないという時、行き詰ってしまったのです。

 そのマリアにイエス様が、16節、「マリア」と言われました。名前を呼ばれたのです。その時でした。イエス様との旅の日々の中で「マリアよ、マリアよ」と呼んで頂いていた心の中のイエス様の声と、目の前にいる方の声が、この瞬間重なったのです。その旅の日々に、イエス様から、何かにつけ名前を呼んでもらっていたはずです「マリアよ、荷物は重くはないか。マリアよ、昨日はよく眠れたかい。マリアよ、お前に平和あれシャローム」と。その声が一言あれば、いつも彼女は心が熱くなったでしょう。悩みなんかも吹き飛んだ。「イエス様と一緒に生きるなら、何も欠けることがない」、その思いをいつも起こしてくれたのが、自分の名前を呼んでくれる呼び掛けだったのです。それが本当は、彼女にとって一番大切な「主が傍におられる」という現実だった。その記憶が、今目の前におられる方と重なったのです。その瞬間でした、マリアの口からも、一緒に旅した日々の、心からほとばしり出る主を呼ぶ言葉が飛び出したのです「ラボニ。私の先生」と。それが生けるイエス様との活き活きとした現実だったのです。

 それを受け取ったマグダラのマリアは、そして弟子たちが集まっている宿に駆け込んで告げたのです、18節、「わたしは主を見ました」と。今度のこの「見ました」という言葉は、もはやあの「眺める」という言葉じゃありません。「心によって見る」という言葉です。生ける主が呼びかけて下さる中に私はいるんだ、という実感を回復したのです。

 主は復活されて私どもにも呼び掛けていて下さいます。たとえ私どもが「神様はどこにおられるのか、もう見えない…。それが現実じゃないですか」と思い込んでいても、その私どもに向かって「いや、私はあなたと共にいる。それがあなたの、本当の現実なんだ」と告げて下さるのです。
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2017年04月09日

説教 『主イエスを主(王)として』

2017年4月9日(棕櫚の主日)の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

マルコによる福音書11章1〜11節
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、
 祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、
 祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


 いよいよイエスのエルサレム入場(入城)の時が来ました。「時」(十字架と復活)が来たことを知ってでしょうか、イエスの様子は普段とは違い、緊張していたのかもしれません。人々が「驚き、恐れた」(一〇章三二節)ほどでした。しかし、弟子のヤコブとヨハネは、イエスの「何をしてほしいのか」の問いに対して、「出世」を求めます。その直後、癒しを求める盲人のバルテマイの目をイエスは開けます。弟子たちの真理と使命への目が開かれるのは復活のイエスと出会う時を待たなければなりませんでした。

 その後、イエスはエルサレムに入城しますが、凱旋のために使うロバの準備をしたのは、他でもないイエスご自身なのです。ある註解者が「イエスはここで王になろうとした」と言いました。「イエスは、実に確かに、王なのである。私はその方を主として、王として迎えているのか…」、そう問われているのではないでしょうか。しかし、その日がいつ来るかは誰にも分からない。だから『近い』という事実に立って、今ある神の支配に従い、信頼しつつ今日を、そして、その日までを生きる。それが教会の、また各自の生き方」と勧めているのです。「動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしない」

 信仰をもつとはイエスを救い主として迎えると同時に主人として迎えることです。しかし、いつの間にか、イエスは私たちの「僕」になり、私たちを「助ける者」としてのみ存在するようになっているかもしれません。私を支配する王でなくなっているのです。私たちがなすべきは、自分の服を脱ぎ」、ロバの上あるいは道に敷き、枝を道に敷くことです。つまり、イエスを主とするのです。私が主人となっていては、キリスト者は生きてゆけないのです。人生という旅をするのに、船ならキャプテン、飛行機ならパイロットでしょうか、それはイエスでなければならないのです。私たちは「副」(サブ)の席に着くべきなのです。

 「ホサナ」と叫んで、イエスを迎えたのは、同行の弟子たちと神殿の外に居た人々でした。神殿内にいた祭司や律法学者ではありませんでした。「様子を見て回った」イエスが翌日に行ったのは、宮清めでした。不当な場代や賄賂を取っていた彼らを責めたのです、彼らの主は金や名誉でした。決してイエスではありませんでした。イースターの前、イエスが主であることを再確認しましょう。

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2017年04月02日

説教 『完全に聖なる者に』

2017年4月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 6章14節〜7章1節
あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
そして、彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
だから、あの者どもの中から出て行き、
遠ざかるように』と主は仰せになる。
『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
父となり、
あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
全能の主はこう仰せられる。」
 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。


 コリントの教会の信仰者たちは、偶像の中に埋もれるようにして生きねばならない。そういう小さな群れに向かってパウロは語るのです。その締めくくりが、7章1節、「完全に聖なる者となりましょう」でした。
その勧めを聞いて、ここはひとつ頑張らなきゃいけないと思う。でもいつの間にか「頑張ったのに、いつの間にか私は、肉と霊のあらゆる汚れに逆戻りしてしまっている。一体どこで道に迷ってしまったんだ」となってしまいませんか。もしも頑張っても、神様が喜ばれる聖なる者へと少しも近づけなかったとしたら。それは最初の一歩の「頑張って、自分の力で聖くならねば」と思っていたことが迷い道への入り口だったかも知れないんです。

 それならば、最初の一歩をどこに据えたら良いのですか。それが、16節、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」です。「神殿」とは、「至聖所」という意味を持つ言葉です。そこは生ける神と出会う場所であり、神に近づける場所です。いやむしろ神が近づいて来て下さる場所です。神様は約束して下さったのです「お前たちは至聖所そのものだから、私はあなたの中に住む、あなたといつでも会えるために。またあなたの悩みの中を巡り歩く。あなたがキリスト者として生きようと悩んで、どう在ればいいのかと迷っている時、そのあなたの苦しみの中を巡り歩いているぞ。そうやって、あなたと一緒にいるから」と言って下さったということです。その神の決意が、人の思いとか一生懸命さとか、あらゆるものに先んじてあるのです。

 その神の先行する約束があって、神様は「あなたは私の神殿なのだから、私の神殿が聖いように、あなたも聖くしたい」と願って下さるのです。神様がご自分の住まわれる場所として、その神殿である私どもを整えようとして下さる。私どもは、その約束を畏れつつ、神様の御心に委ねて一歩踏み出すんです。

 確かに失敗もするでしょう。倒れてしまうでしょう。しかしそれでも、そこに一緒に倒れこんでいて下さる神が居られる。それは、あなたの人生の軛には、もう一方は御子なる神イエス様が繋がっていて下さるからです。御子であられる神様が、私どもが倒れるのと一緒に地べたに倒れ込んで下さるんです。そして「そのあなたと一緒にいる。もう一遍立ち上がろう」と支えて下さる。ならば「主よ、もう一歩進みたい」と本気で委ねることが、私どもの祈りとなるのではないですか。諦めることなく、自分を誇るのでもなく、何度も倒れ、何度も立ち上がるのです。そうやって生涯をかけて「聖なる者」へ成り続けて行くのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:45| 主日説教要約

2017年03月30日

説教 『未来には、希望がある』

2017年3月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

エレミヤ書31章15節〜20節
主はこう言われる。ラマで声が聞こえる
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む
息子たちはもういないのだから。
主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。
わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。
「あなたはわたしを懲らしめ
 わたしは馴らされていない子牛のように
 懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。
 わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。
 わたしは背きましたが、後悔し
 思い知らされ、腿を打って悔いました。
 わたしは恥を受け、卑しめられ
 若いときのそしりを負って来ました。」
エフライムはわたしのかけがえのない息子
喜びを与えてくれる子ではないか。
彼を退けるたびに
わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り
わたしは彼を憐れまずにはいられないと
主は言われる


 エレミヤはこの時、南王国が滅ぼされ、生き残った人たちと一緒にバビロンに連れて行かれる途上にあったと思われます。それなのに神様は、17節、「あなたの未来には希望がある」とおっしゃったのです。
「どうして」と思ってしまいます。もしかしたら、全能の神様だから何でも叶えて下さるということなのでしょうか。いいえ、そんな事ありません。彼らは自分でも分かっていたはずなんです、「バビロン捕囚は、自らの背きのゆえに受けている、神の怒りなんだ」と。

 でもです、それに続けて彼らは言います、「わたしは立ち帰ります」と。どこへ立ち帰るのか、それが「あなたは主。わたしの神です」という場所でした。その悔いてポツポツと言う小さな声を、神様が聞かれた。その時でした。とんでもない方向に、事が動き出したのです。人々が「わたしの神よ」と言った言葉に、神様も響き合うようにして「わたしのかけがえのない息子」と応答され、お心が激しく震え出す、それが20節、「彼のゆえに、胸は高鳴る」でした。

 ここの個所を文語訳聖書は「我がはらわた痛む」と訳しています。背信の民の「今は悔いの心で一杯です。あなたのもとに帰りたい」と呼びかけるのを聞いた時、神様は激しく、心臓が破れてしまいそうなほど苦しみ、腸がよじれるほどに、痛まれたということです。神様は、怒られて当然の状況です。そうであるはずなのに、神様はご自分の腸がちぎれそうになるほどに、ご自分が痛まれたのです。そして、「憐れまずにはいられない」と。「神の怒り」が、ここで突然、「神の愛」に変わっていませんか! ここに、怒りを超えてゆく愛がありませんか! 神様はご自分の怒りを、超えて行かれます。でもそれは、ご自分が痛みを負うこと無しには起こらなかった事です。そして、そういう神が言われた言葉が、「あなたの未来には、希望がある」であったのです。だからその希望は、奇跡をパッパッと起こせる神だからというんじゃない。そうじゃなくて、どんなに背きの者でも、罪人の頭でも、そのあなたのために、あなたの痛みを代わって丸ごと抱え込んで下さる神様が、共に居続けて下さるからです。そんな神様が、私どもを背負ってどこまでも一緒にいて下さることが、希望そのものとなるのです。

 神であられるイエス様が痛みを負われた十字架の出来事は、私どもが償うべき十字架刑を、主が代わって受けて下さった、真の痛みです。そしてそこで、私どもは十字架の主から「かけがえのない息子、娘よ、私は、なおあなたを憐れまないではいられない」とも言って頂けるのです。その主が共におられるゆえにです、「あなたの未来には、希望がある」のです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:27| 主日説教要約

2017年03月19日

説教 『パウロの祈りのリクエスト』

2017年3月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テサロニケの信徒への手紙二 3章1〜5節

終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。


 「終わりに」(一節)指導者パウロは信者に祈りを求めます、そして彼自身も信者のために祈ります。教会の交わりは祈りによる交わりと言えます。また、「主の言葉」(一節)による交わりでもあります。指導者は信者の為に祈りつつ、ひたすら御言葉を語る。信者は指導者のために祈り、語られる御言葉に聴き、それに生きる。これが教会(信仰)生活なのです。「最後に祈りのリクエストを…」と問われたなら、何を求めるでしょうか。「言葉に出そうと出さまいと、祈りは心からの願いである」と言った人がいますが、祈りのリクエストは、人の生き方・価値観を如実に示します。パウロは御言葉が宣べ伝えられるように、またあがめられるように求めます。「(悪人から)逃れられるように」と求めてもいますが、その目的は「キリストが公然とあがめられる」ためでした。パウロの願いはただ御言葉が、キリストがあがめられるように、でした。

 現代の教会もパウロの願いを教会の願いとしたいものです。教会はなぜ祈るのでしょう。「すべての人に、信仰があるわけではない」(二節)からです。そのために起こる現実の問題を弁えたうえで、パウロは絶対的な信頼を主の真実に置きます。主をまず信頼する故に、人を信頼するのです。人間への信頼は「主によって(あって)」(四節)生まれるもので、私たちは「主にとどまる(In Christ)に努めなければなりません。これが現実に対処する方法と言えます。主との交わりの中で「神の愛とキリストの忍耐」(五節)をいっそう悟る者でありたいです。

 最後の実生活の教えとして聖書の労働観をパウロは紹介します。再臨が近いから働かなくてよいと誤解していた人たちへ、創世記二章一五節から人は本来、働く者として神は創られたことを示し、怠惰を戒めます。そして、やはり最後は、パウロが常にそうしていたように祝福の祈りで手紙を閉じます。「主があなたがたと共におられ、キリストの恵みが、共にあるように」と祈ります。そこには「わたしにも同じように…」とリクエストする指導者の姿があるのではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:02| 主日説教要約