2017年07月09日

説教 『ひたすら心を一つに』

2017年7月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

使徒言行録2章43〜47節
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


 12人の弟子を中心にして祈っているところに聖霊が下りました。その時にです、「人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった」とありました。きっと初めの教会はテンテコ舞いだったはずです。それなのにです。聖書には、「困った」とか「辛かった」とか、そういうことが全く記されていないんです。

 それが何故なのか。きっと、困ることが起こる前に、皆がそれぞれに、誰に言われるまでもなく、動いたからではないのでしょうか。そのように思わされたのは、44節、45節に、「信者たちは、みな一つとなって、すべての物を共有し財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、みながそれを分け合った」とあったからです。「おのおのの必要に応じて」というのは、お金の話だけではありません。そこには「手助け」という、必要もあったでしょう。文字通りの「手助け」です。お金も、労力も、優しい心や言葉も、そのための時間も「ここにはこんなことが必要だな。あんなことが必要だ」と思ったら、それが見えたら、何の躊躇もなく「私がしよう」と動いたのです。

 そうやって動き出した信仰者たちが教会の姿を作っていったのです。でもです、そのように動き出せることがなぜ出来たのか。何が彼らを、自然に動かしたのだろうかと思います。その秘密が、46節のことではないでしょうか、「毎日ひたすら心を一つにして」と。この「心を一つに」という言葉は、新約聖書ギリシャ語英語語彙辞典によると、「それはまるで音楽のイメージです。異なる音程と、音色と、違う音の高さがあって、でもそれらが調和した音楽になる。コンサートマスターの指揮の下に、素晴らしいオーケストラの楽器として奏でられる。そのように聖霊が、教会の一人ひとりの信仰者の生活を、お互いに混ぜ合わせるのです」と。そして、「これは、キリスト者の群れの独自性を理解させてくれる独特な言葉です」と。コンサートホールに響くハーモニー、それが、キリスト者の群れの「心を一つにする」という姿であるのだと言うのです。

 そして、教会に集うそれぞれの人を、そのように一つに結び合わせるのが、聖霊であるというのです。人間が号令をかけて「心を一つにすべし」と頑張るんじゃない。凸凹だらけの一人ひとりだけど、音色の全然違う楽器たちだけれど、聖霊なる神が「一つにしてあげるから」と頑張って下さる。そこで一人ひとりが自分の出せる音を出してみるんです。「おのおのの必要が満たされるためになら」と喜んで、自分の音色を出してみる。それを聖霊なる神が、結び合わせて下さる。その姿が、教会の初めから、今のこの相模原教会に至るまで、ずっと続いて貫かれて来た姿なのです。
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2017年07月02日

説教 『ああ、お前は!』

2017年7月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書11章20〜24節
それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」


 イエス様は、あらゆる奇跡も用いて、人々を神様中心の生活へと招かれたのです。それなのに誰 も変わろうとしない。それをご覧になっていて、ついにです、21節、「お前は不幸だ」と叱り始められたのです。でもこの言葉なんですが、元の言葉には「不幸」というような意味はありません。原文は「ウーアイ」です。腹の底から絞り出されて来る、言葉にならない呻き声、「あぅー」なんです。主が、呻かれたのです。

 この説教のために何度も読み直していて、「あれ」と思ったことがあります。それは、相変わらず神様のもとに立ち帰らないことの報いを引き受けなければならないのは、その当人であるはずです。報いを引き受けなきゃならないのは当人のはずで。だからイエス様は裁判官となって、「お前たちこそが、ウーアイと嘆く日が来るぞ」と判決を下すだけで良かったはずで、高い所から権威をもって「お前は、自らの結果として災いを受け取るんだぞ、嘆きがあるぞ」と宣言されるだけで良かったはずなんです。それなのに、変です。人々が呻いたのではなくて、「うぅー」と心痛められたのは、イエス様の方だったなんて…。

 全力を尽くして私どもを愛し抜いて下さるイエス様です。単なる裁判官ではいられないイエス様なんです。自分中心で、自分のやりたいようにしかしない私どものことを思って、情けなくて、悔しくて、やるせなくて、それらを全部ご自身の腕の中に抱え込んで、呻いて下さるのです。「ああ、お前は」と。それは、なお私どもが愛されているからです。「神の言うことも聞けないお前など、もう知らない」と見捨てるのでもない。「愛しているから」と、傍を離れてしまわないでいて下さるのです。

 私どもは知っているのではないですか。ご自分の数多くの奇跡も言葉も、何一つ分かってくれなかった人々へのイエス様の呻きは、十字架に掛けられた時までずっと続いたということをです。人々は結局最後まで、自分の姿に気付けなかったのですよね。イエス様お一人が気付いていて下さって、人が受けなければならない報いも、全部身代わりに背負って下さったのではないですか。その十字架の上でもイエス様は呻かれるのです、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。最後まで、真に心痛めて下さったのは、主お一人で、そして最後まで見捨てないでいて下さったのも、主であられたのです。

 だからこそ、「今度こそ、主を嘆かせまい。今度こそ、自分中心から離れて御言葉に従って生きてみよう」と歩みだすのです。それが主の喜ばれる、悔い改めた信仰者の生活でもあるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約

2017年06月25日

説教 『力づけてくださる神』

2017年6月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 7章5〜7節
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。


 パウロは気が気でなくなっていました「自分が書いた手紙が、コリントの人に上手く伝わっただろうか」と。だからその後の様子を見て来て欲しいと、同労者のテトスを送り出していたのです。そのテトスの帰りを待っている彼は、もう「大伝道者パウロ」の面影なんてありません。打ち萎れている。彼はまるで、破れてボロボロのボロ雑巾。それが、この時のパウロだったのです。

 しかし、です。全てを手放してしまったパウロが、空っぽになった場所に座り込んでいたから、その暗い現実の中に届いて来た光を見ることになるのです。テトスが帰って来たのです。パウロは、そのテトスの顔を見、その報告を聞いたでしょう。でもそこで彼は、自分の手紙がどういう効果を果たしたのかという関心が、まず心に浮かんだことじゃない。それが6節に「気落ちした者を力づけてくださる神は」とある言葉です。最初に飛び出した思いは「ああ、神様」という、神への思いなんです。自分に何が出来たか、何が出来なかったか、そんな風に自分に向けた関心じゃない、思いは神へ向かって、神を見詰めた。「神様。あなたは打ち萎れてボロ雑巾のようになった私を、力づけてくださる、そのお方ですね」と。マケドニアの地で、伝道の挫折で丸裸になったパウロが、「一切を失った私をなお捕らえ、なお力づけようとされる方がおられる。それがあなた」と、主ご自身と再び出会えていたのです。

 ではパウロがこの時「力づけられる」と言ったのは、また元のように元気モリモリ、頑張れるようになったということを言いたいのでしょうか。いいえ。彼は、自分がボロ布のようになったから分かることがあるからです。それは、全てのことに働いたのは、私ではなく、神だということです。彼にはそれが、嬉しいのです。自分がアレコレが出来ることを喜ぶんじゃないんです。「みんな聞いてくれ、神様が、私にあれこれしてくれたんだよ、神様がだよ」と、それが嬉しいって話したいんです。それを誇りたいんです。

 私どもも打ち萎れることがあるでしょう。でも神様は、あなたを慰め力づけ、喜びを届けるために、今も全てのことをしていて下さいます。一体、神が望まれないならどうして助けというものが起こるのですか。パウロは知ったのです、「神様は力づけることを願う神だ」と。それも「打ち萎れた者にはなおさらだ」と。そう思ったら、ハッと気づかされました。父なる神は、御子のいのちを捨ててまで、私どものためにと、私どもの罪を引き受けて、私どもを力づけることを願ってくださったのではないですか。それが顕に分かる十字架の下に立つのです。そこで私どもも、私どもを本当に力づけることを欲して下さる神を、見上げるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:50| 主日説教要約

2017年06月18日

説教 『第一の勧め』

2017年6月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 2章1〜7節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 パウロは頻繁に祈ることを勧めています。ここでもテモテに牧会者として「まず祈る」ように命じます。それも「すべての人々のために」(一節)。当時、「王たち」といえば、ネロ皇帝の時代でパウロはネロの命令により斬首されています。「平穏で落ち着いた生活を送るため」(三節)に祈るようにと勧められてはいますが、歴史を振り返る限り、この祈りは答えられていません。「平穏(平安)」とは無風状態ではなく、嵐の中でさえ、「誰」と共にいるかにかかっているようです。祈りは願掛けのように理解されがちですが、それを含んでいるにせよ、本質的には「神との交わり」です。パウロは「とにかくまず神と親しく交わりなさい。そして、すべての人が救われるのではないにしろ、すべての人のために祈り、『真理を知る(御言葉の中で成長する』よう教えなさい。これがあなたの務めです」とテモテに言っているのではないでしょうか。「(祈りは)美事(よきこと)にして、我らの救い主なる神の御意に適うことなり」(文語訳)。「祈られる者にとっても、祈る者にとっても、人間にとって良いこと」なのです。愛する者(=神)に喜んでいただくこと(=祈り)を実行するのですから、これ以上の喜びはないはずです。「すべての人々のために祈る」のですが、彼らが好むことを言うわけではありません。どのように反対・迫害されても、真理はひとつです。

 多神教の下でも、神は唯一と告白し、排他的と言われても、神と人との間の仲介者はイエスのみと宣言する。ナンセンスと揶揄されようとも、その方は受肉された神の子、そしてその方は十字架上で私たちのために贖いの死を遂げた方、と教会は語り続けるのです。このメッセージは、まず牧会者が受け止めるべきです。しかし、同時にすべてのキリスト者への命令でもあります。この責任を果たすために、まず祈らなければなりません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:01| 主日説教要約

2017年06月11日

説教 『認めようとすれば分かる』

2017年6月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイ福音書11章7〜19節
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
 『笛を吹いたのに、
 踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、
 悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」


 ユダヤの人々は、神様からの「救い主は来る」との約束を何百年も待っていました。そこに主イエスが現れたのに、彼らはそれを認めようとしなかったのです。
そういう彼らに、イエス様が仰ったのです、14節、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は彼は(ヨハネのこと)、現れるはずのエリヤである」と。イエス様は見せたいのです「既に救いに関わる全てのことが、あなたの傍で始まっているんだ」と。この「認めようとすれば」とは、「受け入れようとしたら」という意味があり、それも辞典には、「その人を、受け入れる場所を必要とする」とも加えて説明されていました。

 そう聞くとすぐに私など、「心の部屋を片付けなきゃ」と思ってしまいます。でもイエス様はここで、迎え入れるために「片付けなさい」とは仰っておられないんです。救い主は「あなたの部屋にそのまま入る」と仰っているのです。それは、その部屋が私どもの現実だからです。苦しみを背負った人の現実だからです。人の心の中は、取っ散らかっているんです。それも、神を知っている信仰者だからこそ、「ああして、こうやって救ってほしい」って、自分の思いで心の部屋が散らかってしまう。でもそこで良い。心の部屋をスッキリ片付けてしまって、清く正しい信仰者となって、それからイエス様を迎え入れるなんてことじゃない。主イエスは、「あなたの散らかったままの心の部屋で良い。ドアを開けてくれてゴミだらけの部屋に迎え入れてくれたら、そこが私の場所。救い主である私が立つ場所だから」と言って下さっているのです。

 主は、喜びがあり、悲しみも苦しみもある現実の中に、既に来て、私どもの心のドアの外に立っておられるんです。それもドアをノックされる主の御手には、十字架の傷跡がある。「もう何にも心配しなくていいから。自分用の神様像を作ったことも、ゴミだらけの心の中も、負い目も罪も、もう全て赦されているから。私はあなたの救い主なのだから、さあ中に入れておくれ」と。そしてです「あなたの取っ散らかった心の、ど真ん中に一緒に座らせておくれ。そこが私の場所だから。そうしたらあなたの傍に、私がいると分かるから」と呼びかけ続けていて下さるのです。

 救い主の方が、私どもが迎え入れるのを、じっと辛抱して、待っていて下さったのです。力で突入することもお出来になるのに、私どもが心を開いて「本当によくおいで下さいました」と、お迎えするのを、ずっと辛抱強く待っていて下さったのです。そして私どもが迎え入れたその時、自分の考える救いよりも、神のなさる御心の救いのほうが、どんなに大きく広いかを、味わい知ることになるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:40| 主日説教要約

2017年06月04日

聖霊降臨日(ペンテコステ)説教 『わたしたちの言葉で聞こうとは』

2017年6月4日(ペンテコステ)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

使徒言行録2章1〜11節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


 神様がなさった十字架も復活の出来事も、伝えなきゃ、そこで終わってしまうんです。

 神様が、ついにそれを実行されました、3節、「炎のような舌が分れ分れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で語り出した」と。それは聞いた人たちの証言で言い直すと、11節、「彼らがわたしたちの言葉で、神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」ということです。弟子たちが聖霊を受けて語り出した時、人々はそれぞれ「あなたの言葉に、わたしの古里の言葉が聞こえる。私がホッとする言葉で、私の生活の中に、心の中に届くように語ってくれている」と感じたのです。

 それは、神様が本気で、全ての人間の言葉を使われ出されたということです。この日に起こっていたことは、神様が、「あなたと同じ古里の人になろうとされた」ということなんです。私にとっては、神様が関西弁で、「あんなぁ、あっちゃん分かるか〜」と語り出して下さったということなんです。それが起こったのは、神様が、聞く人の生活の中に、立ちたかったからです。その人生に一緒に添いたかったからです。そうやって神様が、相手の心の中に生きている言葉を、ご自分の言葉にされた。それはまた、神様が私ども人間のためにご自分の言葉を変えられたということなのです。

 神様は、力づくで私どもの耳を開いて、ご自分に従わせようとされるんじゃないんです。神様は何よりもまず、私どもと同じになって、身をかがめて私どもと一緒になって下さるのです。それは降誕の時も、十字架の時も同じだったのではないですか。神様はいつでも、栄光あるご自身に固執されず、ご自分を削りに削られるんです。ご自分を変えられるんです。そして、降誕と十字架と復活の御業を成し遂げられたあと、その御自分の恵みの福音を伝えようとされた時も、神様は伝える言葉を、私どもの側に身を寄せて下さったのです。それが、聖霊に満たされた弟子達が、聞く人の生活の言葉で語り出した、ペンテコステの出来事だったのです。

 私どもも弟子たちと同じように、聖霊を受けた一人一人です。あの受洗の日に水がジャーっとかけられた時、聖霊が注がれていたのです。私どもも祈りつつひざまずいたあの日、神の御霊が私どもの内に降って、神と一体となるように一つに結び付けられたのです。それは私どもも、聖霊に満たされたこの時の弟子たちのように、相手の言葉で、隣人の生活の中で、福音を語り出すはずの一人一人だということです。あなたが語ること、それが神様の願いなんです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:52| 主日説教要約