2019年10月22日

説教 『十字架につけられたキリスト』

2019年10月20日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙3章1〜14節
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
  だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。


 「物分かりが悪い」(3章1,3節)と過激な表現を使って使徒パウロはガラテヤ人を叱責していますが、この真意は「自分の知恵や知識に確信のある人が陥り易く、自信を持っているために本来のものを見通すことができない。本来知らなければいけないことをわきまえなくなっていること」なのです。ユダヤ教から回心した教師たちも、一度はキリストの福音を信じました。しかし、いつしかかつての経験や知識に戻って行ったのです。そして、ガラテヤ人たちはこの教師たちの影響を受けていたのです。彼らはいずれも「本来のもの」を見失っていました。パウロが「はっきり示した」(1節)=「プラカードに大きく書き記した」(原語)のは「十字架につけられたキリスト」でした。元々は死刑の道具で呪いと恥の印であった十字架の上で、罪の呪いと恥を人類の身代わりにイエス様は受けてくださったのです。それにより、私たちの罪は清算され、罪の赦しと罪からの自由を得ました。「あれほどのことを体験した」(4節)とは「奇跡」(5節)とも言える回心の体験のことです。それが人の努力や業によって実現できたのでしょうか。いいえ、それはただ聖霊の力を通して、恵みによってのみ成し遂げられたものです。人間の側に必要だったのは、アブラハムの場合と同じように、ただ神を信じる(応答する)ことのみです。モーセに律法が与えられたのは、その500年ほど後のことでした。まずは、信仰があり、信仰によって神との関係が回復され、そして善い業が信仰の結果として生まれて行くのです。この信仰が生まれるのは御言葉を聞く時です。御言葉を聞く時とは、礼拝の時ではないでしょうか。礼拝の時に、信仰を生み出す御言葉を聞かなければ、本来のものを見失ってしまいます。聞くべき御言葉を聞くために、語る者も常に「十字架につけられたキリスト」をひたすら愚直と思われながら語り続けるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:57| 主日説教要約

2019年10月13日

説教 『共に生きています』

2019年10月13日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二13章1〜4節
わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

 イエス様は確かに弱くなられました。御父の計画に委ねる歩みは、弱さを通るからです。しかしそこに歩まれた故に勝利した。そのキリストをパウロは高く掲げて、4節、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる」と指し示したのです。そして「わたしたちもキリストに結ばれたものとして弱い者です」と。そう語るパウロには、「昔の私はこうじゃなかったけどね」という思いが暗黙裡にあったと思います。彼は自分の力で生きるとしたら、この世で最も成功が約束された人物でした。でも、復活されたイエス様、つまり真の大勝利のイエス様に出会った日に、パウロはイエス様と共に歩むほうに変えていただいたのです。180度の方向転換、回心でありました。そういう自分の回心を思いながら、彼はコリントの人々もキリストと共に歩む生き方へと、変わって欲しかったのだと思うのです。

 皆さん、キリストの結ばれて歩むということは、真剣勝負です。御言葉に従うという生き方は、単なる心の中にある努力目標などではないんです。それは、生き方を変える冒険に出る、ということなんです。今までの自分の「こういう計画でやれば安心、こうやって行けば想定内に収まる」と生きる生き方を放棄して、御言葉ならばと、神の言葉を自分の羅針盤に付け替えて踏み出す、その冒険をすることなんです。それは今までの自分自身への挑戦となるしょう。キリストと共に生きる者とは、そういう挑戦を、自分自身に挑み続ける者達のことなんです。

 その人生は必ず、主イエスが共にいて下さる日々になります。そしてそこが、神の力が豊かに働く場所となるのです。パウロは、「もしも今度コリントに訪問した時に、昔のままの自己中心なあなた方だったら、もう容赦しないから。今度は力づくでも変わってもらうから、変わって欲しいから。愛する兄弟姉妹なのだから」と告げたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:00| 主日説教要約

2019年10月06日

説教 『皆いやされた』

2019年10月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章34〜36節
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 イエス様一向は5千人の給食を終え、「やっと休める」とゲネサレトに上陸しました。でもそこにも大群衆が詰めかけたのです。単に、奇跡を見たいという野次馬ではありませんでした。集まって来たのは病人なんです。信仰なんて言えるものは何も無いけれど、それでも何とかしてもらえると望みをかけて、駆けつけて来たということなのです。これはもう、彼らの信仰がテーマにはなっていないんです。つまり、人間がどう信仰を持つのかが語られているのじゃないのです。むしろ信仰なき者に、そういう「皆」に、イエス様がどうされたのか、そのことが物語られているのではないのでしょうか。そう思って、もう一度イエス様のお姿に目を凝らして読み直してみたら、ただ無言で、一人ひとりを「皆いやして」おられたからです。そんな事が起こるのは、イエス様が人々の願いを前にされた時、即座に、御自分が休みたいという思いを、捨てられたということではないですか。

 ゲネサレトに、無言で黙々と不信仰な者のために仕えておられるイエス様がおられる。疲れ切ってもご自分の体にムチ打たれて、それでもなお人々が「ああ救われた」と思えることのためにと、仕えておられるイエス様がおられる。そしてでした、黙って尽くしつくされるそのお姿を見詰めていた時、私は、「ああイエス様は、そのお姿のまま、ついには十字架が立てられるゴルゴダの丘にまで向かわれたのだ」と気付かされたのです。人々がイエス様を救い主だと信じたから、イエス様は十字架で死なれる決心をされたんじゃないんです。「この人が救い主でなくて良い」そう思っている人々のためにイエス様は、十字架に掛かられたのです。

 救い主は、不信心な者を、救いたかったのです。私どもを、救いたかったのです。改めて、「私も恩寵を受け取った」と思い起こし、そこで「今度こそ応答して生きよう」と決意を新たにしたいではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:22| 主日説教要約

2019年09月23日

説教 『新しい歌を』

2019年9月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編96編1〜13節
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
国々に主の栄光を語り伝えよ
諸国の民にその驚くべき御業を。
大いなる主、大いに賛美される主
神々を超えて、最も畏るべき方。
諸国の民の神々はすべてむなしい。
主は天を造られ
御前には栄光と輝きがあり
聖所には力と光輝がある。
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。
供え物を携えて神の庭に入り
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
全地よ、御前におののけ。
国々にふれて言え、主こそ王と。
世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。
主は諸国の民を公平に裁かれる。
天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ
海とそこに満ちるものよ、とどろけ
野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め
森の木々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。
主は世界を正しく裁き
真実をもって諸国の民を裁かれる。

 読み始めた途端に、心を奮い立たせるような言葉が耳に届きます、「新しい歌を主に向かって歌え」と。それなのに、その主なる神が来られる時、その神は裁きを持って来られると言うのです。裁きはあるんです。それはそれで良い。でもせめて96編の中には入れないで欲しいと思いませんか。なぜって、主のなさる裁きの前では、折角の喜びが吹き飛んでしまうからですよね。でも、ふと思ったのです。生活恩恵とか、願い事の成就に神への賛歌が生まれるんじゃなくて、貧しくても、弱くされても、そこででも主に向かうなら喜びの歌が溢れる、そういう賛美が在るのかも知れないと。

 考えあぐねて、北森嘉蔵牧師が記していた物を手にした時、ハッとさせられました。「裁きの厳しさと、赦しの慈しみとが、貫き合っているのが十字架です。厳しい神が、徹底的に赦す神」と。この詩編96編の中で、十字架を見上げておられたのです。皆さん、裁きの神は来られます。全ての罪を裁くために来られるのです。でもその裁きを受け取ったのは、罪人の私じゃないんです。神は揺るがなく正しく裁かれる厳しいお方です。そうしないと、罪は消えないからです。でもそれを引き受けるのは、神ご自分であられて、神の御子イエスに、罪人が磔になる十字架で死なせられたのではないですか。神が傷つかれたのです。痛みは、神ご自身が背負われたのです。その傷によって、私どもは赦されたのです。救われたのです。

 そこで主に向かったなら、「罪と過ちの私なれど、イエス様の血潮によって今は生きる」と歌が始まる。アッと思いました。古い歌と言うのは、生活の中で恩恵をもらったから嬉しいという賛美だった。それも良い、全てのことは神様からの贈り物だからです。しかし、ここに「新しい歌」がある。十字架の上に、新しい歌がある。御救いの福音を喜ぶ歌が、です。キリスト者は、その「新しい歌を」、歌う群れなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:16| 主日説教要約

2019年09月15日

説教 『生きるために死ぬ』

2019年9月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙2章15〜21節
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 宗教改革者ルターはガラテヤ書を「私の妻」と呼び、この手紙から力を得て、改革の働きを進めたと言われています。宗教改革の三原則の一つである「信仰義認」となったのが今朝の箇所でありました。「義(正しい)」とは「曲がっておらず真っ直ぐ、基準に沿っている」という意味です。「基準」は神で、ユダヤ人に神から与えられた律法を行うことが基準である神に受け入れられることと彼らは信じていました。パウロもその一人でした。しかし、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7章19節)自分の罪深さを知らされ、罪の克服に対する無力さを認め、神が遣わされた神の子イエスに「信仰」(神への信頼、自身を神に委ねること、神に従順を尽くすこと)をもって近づいた時、彼は「義とされ」ました。罪と罰から救われ、神との正しい関係に入れられ、神と共に生きられるようにされたのです。「生きる」のは、「神に対して生きる」(19節)、つまり神に向かって、また神のために生きる者とされたのです。この新しい生き方をする前に、古い生き方に死ななければなりませんでした。それをパウロは「キリストと共に十字架につけられている」(19節)と表現しました。この表現は洗礼により罪の赦しとキリストとの交わりを意味する(ロマ6章)と同時に、キリストと苦難を共にする(コロサイ1章24節)を含みます。異邦人信者の中には、キリストにおける律法からの自由を主張しても、キリストと共に十字架を担うことを拒否する者がいました。しかし、キリストと共に生きるとは、主が通られたすべての喜びも苦しみも共有することなのです。主は私たちのパートナー“partner”(苦楽を共にする人)なのです。「キリストに対する信仰により義とされる」にはこういう生き方も含まれているのです。十字架は確かに悲惨です。しかし、その中に栄光が隠されているのです。こういう生き方には大きな喜びが伴ってもいるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:36| 主日説教要約

2019年09月08日

説教 『叫び声をあげた』

2019年9月8日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章22〜33節
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

弟子たちだけでガリラヤ湖に船出した夜。湖の上を歩いてイエス様が近づかれます。でも皆、「幽霊だ」と思って叫び声をあげたのです。その叫びを聞かれた瞬間、イエス様は「すぐに」彼らに話しかけられたのです。この「すぐに」というのは、叫び声をあげた弟子たちに一直線に駆け付けられたということです。もう安心。しかしマタイはそこで終わらずに、もう一度物語り始めたのです。ペトロが「湖の上を歩かせてほしい」と願い出て、そこで沈みそうになり、また怖くなって叫んだという出来事をでした。

神様を信じたら、人生に嵐が無くなるなんてことは決してありません。キリスト者にだって、嵐は繰り返し来る。そこで木の葉のように揺さぶられて、繰り返し疑ってしまうんです。その姿をペトロが生きていたのです。そういうペトロが、沈んで行く時、その腕を捕まえて下さった方がおられたのです。それが、イエス様でした。それが、救い主なのです。それもまたもや、31節、「イエスはすぐに」とあるように「すぐに」でありました。今朝聖書は繰り返し、「叫び声をあげた」と一対になるように「イエスはすぐに」と告げるのです。それはまた、イエス様が掴む御手は、沈む者と共にあるということ、義しい者に差し伸べられるんじゃないことをも示します。人間の叫びは、疑う者の「不信仰の叫び」です。でもそこに「イエスはすぐに」、なのです。主イエスが目を離さないでいて下さったのは「疑う者」、「信なき者」であった。そこで、「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と繰り返し捕まえて下さるためにです。

皆さん、十字架の上で私どもも、「私は罪のゆえに沈みます。助けてください」と叫び声をあげた。その時私どもは「わたしだ。恐れることはない」と言っていただけて、捉えられたのです。私どもの傍にいつでも駆け寄って下さる主がおられる。その主がおられるから、繰り返しやって来る強い風に怖れが起こっても、生きて行けるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:29| 主日説教要約