2017年10月01日

説教 『神殿よりも偉大なものがここにある』

2017年10月1日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書12章1〜8節

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」



安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちに、ファリサイ派の人々が抗議しました、「穂を摘んだのは刈り入れる事だから仕事に入る。その穂を手で揉んだのは脱穀作業に当たる。中身を選り分けたのは収穫作業だし、ごみを除いて食べたのは食事の用意という仕事だ。お前たちはいくつ律法違反をしたのか分かっているのか」と。笑い話か、とさえ思ってしまう。でもファリサイ派の人たちは「我々こそが律法をよく理解している。イエスよ、お前は安息を与えると言っておきながら、その逆に、弟子たちに安息させないで仕事をさせたことになるんだ」と本気で言ったのです。


私どもは彼らの話を聞いて、窮屈さしかないように思えませんか。むしろ人間が求める安息を粉々に砕いていたのは、ファリサイ派のほうです。それは彼らが「自分の解釈こそが正しい」と言い出したところで、自分中心の世界に閉じこもったからです。主イエスから離れたからです。そこで神様が見えなくなっていた。そして実は、自分の主張しか無い世界、自分しか居ない世界となっていたから、傍にいる空腹を抱えた生身の隣人の姿も、見えなくなってしまっていたのです。


そういう時に、「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と全ての人を招かれたイエス様が、安息を巡る話を始められたのです。「父なる神の御心は、お腹がすいて弱っている部下がいるなら、“食べても良いよ”という思いを優先させるのが、神の御心だ」と。それをさらに、ホセア書を用いて「神の願う世界は、隣人に憐れみを注ぐことだ、愛することだよ」とおっしゃったのです。神の御心でみるならば、空腹の弟子たちが麦畑の中を通る時、「律法によって食べるな」じゃなくて、「食べても良いよ」が、告げるべき言葉じゃないのかとおっしゃったのです。


そしてそれに加えてイエス様は、6節「神殿よりも偉大なものが、ここにある」とおっしゃったのです。それは、「今までは、人間の方が、神に遭うために神殿まで出掛けて行かなければならなかった。しかし今は、神である私の方が天より降って来て、あなたの傍に来た。あなたを訪ねて近づく神である私が、ここにいる。神の方があなたの所に来たという出来事が、ここにある。さあ『神殿よりも偉大なものが、ここにある』そのことを見るんだ」とおっしゃったということなのです。


そのイエス様に安息があるのです。それは逆にイエス様から離れたら、自分へのこだわりに逸れて行ったら、そこには自分の平安も、隣人との平安も失うことになるのです。主は私どもを招いておられます。「偉大なものがここにある、私がここにいる。その私のもとに来たらいい。あなたの望む平安があるから」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:09| 主日説教要約

2017年09月25日

説教 『喜びと貧しさがあふれ出て』

2017年9月24日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 8章1〜7節

兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


ここには、並べて書かれるはずのない言葉が並んでいます。「激しい試練を受けている」と「満ち満ちた喜び」と「極度の貧しさ」と「惜しまず施した」です。この人々は、厳しい迫害で極貧の生活となっていたようです。しかしその貧しさの中で、彼らは喜びにあふれ出し、施す側に加わったのです。それも3節には「力以上に自ら進んで」とありました。彼らは、出しても良いというラインを超えて、自分が痛いと思うところまで、隣人に与えてしまったのです。パウロがその姿を見て驚いてしまうほどのことがに起こっていたのです。


何故なんだろうと、何日も思い巡らしていました。すると、先ほどの「聖なる者たちを助けるための慈善の業」とある「助ける」という言葉が、「給仕する」とか「もてなす」という意味だということに目が留まったのです。彼らは身を切って献げているのに、上に立つのではなく給仕する側に立ったのです。つまり僕になって、下に立ったのです。そう知った時に、彼らの姿はまぎれもなく十字架の主のお姿と一緒だと気付かされたのです。イエス様が捨てられたのは、いのちだけではありません。あらゆる尊厳も剥ぎ取られました。貧しさの極みがそこにあった。そうやって人に仕える僕となられたのです。「人々は、十字架のイエス様と、同じ所に立とうとしたんじゃないだろうか。そうだ、彼らはキリストに倣いたかったんだ」と気付いたのです。


そう気付かされた時に、改めて今朝の聖書の始まりに「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と語り出されていたことが、貧しさの中にいる人々が尽くす側に立ったことに、繋がるように思えたのです。貧しい人々が喜びにあふれて相手に尽くせた姿が「神の恵みそのものだったのかも知れない」と思ったからです。私どもは大抵、「神様からの恵みがありますように」と言う時、その人に神様が何かを益々加えて与えて下さることを考えます。だから、自分の持っているものが減ってしまうと、それは恵みなんかじゃないと考えやすい。でも聖書は告げるのです。マケドニアの信仰者たちは、何かを戴くことが恵みじゃなくて、それを遥かに上回って、何もかも与えることが出来ることが恵みなんだと生きたのだと。それは、キリストのように生きる姿となることで、それが最も高価な恵みなんだということなのです。


彼らは、キリストに似る姿の中で、輝いていられたのです。信仰は、激しい試練の中にあっても、貧しさに溢れてもなお喜びに満ち満ちて生きて、与えられるよりも与える側に立って生きることが出来るんです。キリストのように生きる者へと変えていただけるのです。それが、神の恵みであるのです。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:55| 主日説教要約

2017年09月18日

説教 『隠れていることはあり得ない』

2017年9月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 5章24〜25節
ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。


 テモテへの勧めは、教会全体の人たち、やもめ、指導者に対するものへと進みます。「叱る」は「責める、非難する」を意味する強い言葉で、そうではなく、「諭す」(熱心に勧める、忠告する、穏やかに助言する、慰める)よう求められています。老人だけでなく、すべての人々を牧会者は神の家族の一員と捉え、接するようパウロは勧めます。そこで必要なのが、教会とは何かの再確認です(三章一五節)。

 @教会は「生ける神」のもので、人のものでない、A教会は「真理の柱であり、土台」である。そこで説かれる「真理」とは、一.受肉、二.救いの業はキリストにおいて為された、三.教会は聖霊の存在によって特徴づけられる、四.教会は礼拝のために聖別されている、五.賜物がそれぞれに与えられており、それは他者のために用いる。賜物を用いる働きの一つにやもめの世話があります。実際的な世話をする賜物を持つ奉仕者が居る一方で、「本当のやもめ」を見分けるのは牧会者の務めで、「潔白」(誠実、真剣、思慮深さ)が求められます。これは長老などの指導者たちへの正しい対応のためにも必要です。神の問いかけに敏感であるためです。

 ここでも、教会とは何かをしっかりと理解しておくべきでしょう。「教会のための教会、自己目的としての教会から世のための教会」であること、また「教会のこの世性とキリスト教性とを束ねる中心にキリストの現実がある」ことを忘れてはなりません。その教会でのキリスト者の交わりはイエス・キリストを通しての、イエスにある(in)交わりです。この交わりを理想化し、現実の教会の姿に失望する人は少なくないかもしれません。教会でも「よく指導している長老」とそうでない者がいたようです。牧者は―すべての人に当てはまるのですが―隠れた部分での生活(祈りや黙想)に励みながらも、自身の力の限界を自覚し、隠されたものすべてを明らかにされる神を畏れ、信頼し、待望すべきなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:56| 主日説教要約

2017年09月11日

敬老の日を覚えての礼拝説教 『長老を尊び、神を畏れなさい』

2017年9月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

レビ記19章1〜2、32節
 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

 白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。


 「敬老の日」を覚える日、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」と読まれました。それを聞いて「聖書も、小さい頃から道徳で聞いて来た、お年寄りを大切にしなさいという話をするんだ」と思ってしまう。しかしアレッとも思う、「もし道徳の話なら、なぜ『長老を尊びなさい。』で終わらず、『あなたの神を畏れなさい』と一言つくのか」と。

 19章には実に、多くの律法が記されています。これらを束ねる中心が、2節の「あなたたちは聖なる者となりなさい」です。これを要として、それを具体的に生きるのはどうしたら良いのかが示されて行く中の1つに「長老を尊ぶ」ということがあるのです。長老の側に一切関係なく、むしろ「尊ぶ側のあなたが聖なる者となるために」ということです。この「聖」とは「たくさんある物の中から、取り分ける」という意味の言葉です。ですから、「あなたたちは私の側に一緒に立つ者として、取り分けられた者なのだから、そのように生きよ」と告げられたのち、そこに「そういう者たちの地上の姿は、こうなるんだよ。長老を尊んで生きるのだ」と、おっしゃったということなのです。皆さん、信仰の生活とは、アッチコッチの現実にぶつかりながら、この地上を旅するということです。そしてキリスト者たちは、この世とは違う歩みをするはずなんです。世間から見たら、「あの人たちは、我々と違う生き方をしてる」と言われるはずなんです。

 さらに、神様からの戒めには、命じられる前に神様からの「あなたならできるでしょ」が付いている「断言命法」と言われ命令方法です。親が子供に「これをしなさい」と言う時、子供が出来るかどうかちゃんと見計らっていますよね。今朝の19章も、私どもと一緒に生活して下さる神様が「あなたならできるでしょ」との思いでおっしゃった戒めなんです。そういう神様からの促しの中で人生を歩み抜けたらです。若い日々だけではなくて、老いていく日々も、神様に取り分けられた者として、聖なる者として、隣人との関りのど真ん中を通って、生きて行けたらです。どんなに素敵な人生なのかと思います。全生涯が隣人を敬って生きることは、神様によって願われている事だからです。キリスト者は、隣人を敬う側にいつまでも立つ者として、そのことを喜びとして生きることが望まれている。相手を叱り飛ばしたり、見下したりしない。自分の意見を押し付けたりしない。いつも教わる側に立って、いつも柔和で、全ての人に愛される年長者になってゆく。そしてそういう人が、実は、「当たり前のように長老を尊ぶ者」と、なっているのではないでしょうか。同時にそれが、聖なる者たちの姿でもあるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:21| 主日説教要約

2017年09月03日

説教 『わたしのもとに来なさい』

2017年9月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書11章28〜30節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 誰もが「疲れた者、重荷を負う者は」と呼びかけられたら、「ああ、それは私のことだ」と、心の琴線に触れるのではないでしょうか。そこに加えて「あなたがたを休ませてあげよう」という言葉が聞こえて来たら、ホッとするのだと思うのです。

 でも原文では「疲れた者、重荷を負う者は」と、始まりません。「私に来なさい。我に来たれ」という命令から、この御言葉は始まるんです。そしてそのあとに、呼びかけられる者は誰なのかということが続いて、「疲れている者だよ」という順序なんです。つまり主イエスが「わたしのもとに来なさい」と宣言されたこと、そこが一番大切なことであるということです。

 そう呼びかけられるイエス様が、どういう歩みをされる「私」で在られたのか知っています。イエス様は、降誕される地上の歩みの初めから、最も暗い所に立たれたのではないですか。皆さん、イエス様の知らない苦しみはありません。私どもの涙はイエス様も流された涙なんです。そしてそんな御生涯の最後も、見捨てられた罪人として十字架に掛けられて死なれるのですよね。それらは、全て私どものためだった。そのイエス様が「私のところに来たら、あなたにも休みがあるから」と招かれたのです。今朝の御言葉から響いて来る慰めは、そうやって私どもとの関わりを結んで下さるイエス様が、「さあ私のもとに」とおっしゃったことに、慰めの源泉があるのだと思うのです。

 しかし、です。少し前の箇所を振り返ってみたら、イエス様がどれだけ熱心にお教えになられても、奇跡をなさっても、誰もイエス様のところに来なかったことが書かれています。その直後にイエス様が再び「わたしのもとに来なさい」と言われている。ですからイエス様のところに行くとは、単に傍で見ているだけじゃ駄目なんです。イエス様は、「聞いているだけ、見ているだけじゃなくて、私に結び付け」と叫んでおられるんです。それが29節、「わたしの軛を負いなさい」という一言になったのだと思います。私どもも教会に来て、今朝も礼拝堂に座っています。しかしその私どもが、ただイエス様の傍で傍観者として「今日も良い話を聞いたな」と言っているだけでは、福音は始まらない。イエス様が一歩、歩かれたら、首根っこを結び付けられたイエス様と足取りに合わせて私どもも一歩、歩みを進めるのか、それとも私は私と生きるのか、です。

 生き生きとした休みを戴く。それには、決心が必要とされています。「イエス様のもとに行く」ということです。逆にその一つの小さな決心だけで、全ての安心を戴けて、私どもの重荷は軽くして頂けるのです。その決意が、私どもの人生を変えるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:51| 主日説教要約

2017年08月28日

説教 『ラザロの復活』

2017年8月27日の礼拝
秋葉恭子牧師(日本基督教団富士見丘教会協力牧師)

ヨハネによる福音書11章33節〜44節
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。


 今日の聖書の箇所には、私たちのイメージとは異なるイエスさまがおられます。心に憤りを覚えるイエスさま、大声で叫ばれるイエスさま。極めつけは、「ラザロ、出て来なさい。」この「ラザロ、出て来なさい」という言葉は劇的な言葉です。罪と汚れ、その裁きとしての死は人間の命を、そして生きたことをむなしく不毛なものとします。手と足を布で巻かれ、顔は覆いで包まれ、そのうちに腐って死臭を放つ、絶望の極みの場所です。絶望の極みの場所、自らが犯しつづけた罪の裁きを受け、死に取り込まれる場所です。その裁きを無効にし、死を滅ぼすには、罪も汚れもない命そのものであるお方が、自らも死に取り込まれて死ななければならない。その死の後、復活するしかない。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれ、よみがえらせることによって、イエスさまは御自身の復活を鮮やかにお示しになっているのです。

 そのことを考えていくと、イエスさまの憤りがはっきりしてきます。イエスさまはマルタに仰いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。そして、マルタは答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。

 洞穴のお墓の前で、洞穴をふさいでいる石を取り除くように、イエスさまがお命じになったとき、マルタは「四日もたっていて臭う」からとためらいます。死んでしまったという絶望に捕らわれて、信じていることが事実として、身に刻まれていないのです。「信じております。」口では「信じている」と言うことができる。しかし、真実に信じているなら、できるはずのことができない、それが私たちです。イエスさまは、そのように人々を絶望に陥れる死というものに怒り、憤りを覚えておられるのです。そして、信じることができずに罪と死の縄目につながれて続けている人々を憐れみ、憤りを覚えておられるのです。

 人々がラザロの墓の石を取りのけると、イエスさまは神様に祈られました。そして、父なる神様にこう祈られたのです。41節「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」これから行うラザロの復活(蘇生)を「聞き入れてください」ではないのです。「聞き入れてくださって感謝します」なのです。主イエスは、既に父なる神様がラザロの復活(蘇生)の出来事を良しとして聞き入れてくださっている、そのことを御存知なのです。それ程までに、主イエス・キリストと父なる神様は一つであられ、一つの目的を、つまり私たちの罪を赦し、汚れを清め、父・子・聖霊なる神様の交わりに招きいれること、つまりこの私たちの肉も心も全存在を救いたいという、私たちを真実に復活させる目的を共有しておられたということなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:28| 主日説教要約