相模原教会牧師 辻川篤
ヨエル書3章1、2節
3:1 その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
聖書は、「その後」と告げられていました。イスラエルの民に向けて、「今あるあなた方の将来に」ということです。ではこの時の彼らの「今」とは、どういう状況であったのか。調べてみましたら深い溜息が出て来ました。それは、彼らが抱えていた現実も「苦しみと嘆き」だったからです。人々はバビロン捕囚の後、古里エルサレムに帰って来ました。でもそこは、かつて新バビロン帝国によって徹底的に破壊され、瓦礫の町となっていたのです。畑も踏み荒らされて、信仰の拠り所だった神殿も見る影もなく壊され、体にも魂にも激しい飢えが襲います。やっと資材をかき集めて、小さくてもいいから神殿を再建しようとしました。でもそれも、同胞であった北イスラエルの人々から、妨害、攻撃される。彼らは苦しみの中で、「主よ、いつまで辛い生活は続くのですか」と、喘ぎつつ暮らしていたのです。その人々に向けて、神様からの言葉が、預言者ヨエルを通して届いたのです。それが、「その後」と始まる約束の言葉でした。ですからこの、「その後」とは、「あなた方の、今の苦しみの日々ののち、やがて来る未来を語るぞ」ということであったのです。
その、やがて来る未来の約束とは、何であったのか。それが、1節、「わたしは(神である私は、ということです)、すべての人に、わが霊を注ぐ」ということでありました。神の霊が一人ひとりに注がれる、と言うのです。それを聞いた人々にとって、神の霊が注がれたらその時どんなことが起こるのか、すぐに想像がついたはずです。彼らは、父祖たちによって伝え聞いていたことが、あったからです。「神の霊」は「激しい風」となります。出エジプト記15章には、エジプトから脱出した民がファラオの軍隊に追撃され、その行く手も葦の海に塞がれる。そのとき激しい風が吹いて、海が左右に、壁のように分けられたことが記されています。その「風」が「神の霊」という言葉です。さらにそういう神の霊を受け取った人に、サムソンがいました。士師記4章に「主の霊が激しく降ったので、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた」とあります。神の霊が降ったら、神の力に満たされるのです。エゼキエル書37章には、「枯れた骨の谷」の幻が、記されています。骨に埋め尽くされた谷に、主の霊が吹き込まれると、骨と骨とが繋がり、肉が覆って人となる。さらに霊が吹き付けられると、彼らは生き返るという幻が告げられているのです。主の霊を受けることは、「神の命」を受けることであるのです。イスラエルの民は、「わが霊を注ぐ」と聞いた時、何が約束されているのかを、ありありと思い浮かべることが出来ました。それは、いま目の前に見ている苦しみの現実に、神の出来事が起こされて行くということです。それも、それを受け取るのは、「すべての人に注がれる」と言われていたのであり、その様子が現わされているのが、「息子や娘は預言し/老人は夢を見/若者は幻を見る」と言われていたことであったのです。さらに驚くべきことに、2節では、「奴隷になっている男女も」と告げられています。当時、主の恵みを受ける「神の民」と、その外に放り出されている「奴隷」と、その間には越えられない壁がありました。でもそれをいとも簡単に、主の霊は飛び越えて行くんです。主の目には「苦しむ人がそこにいる」ということにおいて、同じだからです。神様は、届きたいんです。その一人ひとりにです。そこに何ら分け隔てはなさらない。人間が作る壁と、あらゆる垣根を、主の霊は踏み越え、飛び越えて吹き渡るのです。「あなたに神の力を届けたいから。あなたに神の恵みが必要だから、だってあなたは苦しんでいるから」ということであったのです。
苦難の中にいる人々に告げられた、今朝のみ言葉を聞いて、私は、「神の霊は、今ある私どもの苦難にも与えられている将来の約束だ」と思いました。でもそう思ったすぐあとに、真に恥ずかしながらでありますが、ふと考えたことがあったのです。決して、他の牧師先生方には漏れてはならない、恥ずかしながらでありますが、こう思ったのです。「その約束の成就を、じゃあボクは、いつ頃もらえるかな」と。いやらしいでしょ。不信仰でしょ。心の奥のほうで自分の声が囁くのです、「神の霊、神の力が注がれるのは分かりました。では、それはいつですか。私はいつまで、この苦難に我慢すればいいんですか」と。「本当に5月の連休明けには、また兄弟姉妹と一緒に集えるのですか。私たちの霊的“神殿再建”の日が、本当に来るのですか。もしかして休明けに、あともう1カ月待てって言われるんじゃないのですか」と。苦難の只中にある人にとって、神様からの将来の約束を、しっかり握ることって大変なんです、難しいんです。そしてそれが人間の弱さなんだと思うんです。辛い日々を通り過ぎた人から見たら、通り過ぎた後なら、「神様の約束は、真実だ」って言えるでしょう。でも私なんか、いつだって、苦しみの中で先が見えない時、信じる力も弱るんです。「主よ、お約束を聞きましたが、あなたの約束が成就するのは、いつですか」と言ってしまう。「この苦しみは、どこまで続くのですか」と思ってしまうんです。それは、神の民と言われた人々にとっても同じでした。詩編に、150編もある歌の中で、「嘆きの詩」というものに分類されるものはとても多く、その中にある言葉は「主よ、いつまでですか」であるのではありませんか。激しい苦難の中で、神様への信頼がいつの間にか消えて行く。それほどに苦難というのは、人間にとって圧倒的な敵であるのではありませんか。
そんな中で、です。私は何度も、今朝の聖書個所を読み返していて、その中でどうしても気になった一言があったのです。それは冒頭の「その後」という一言でした。コレが気になって、改めて1節全体の文脈の中で、直訳調で読み直してみた時に、でした。ハッと、したのです。この「その後」という言葉は、元の聖書の言葉では、「そしてそれは、過ぎたそのあと、必ずやって来る」というニュアンスなんです。つまり、その将来のことは、当然のこととして実現されるということなんです。逆に言うなら、将来これが実現しないということは、1ミリも無いということなんです。人間が何をしようがしまいが、人間の側には全く関係なく、この世の事情にはまったく関係なく、それ自身として将来実現することに当然なっている、ということなんです。(私の言いたいこと、あー、伝わっていますでしょうかね。)あらかじめ決まっている将来のことを、今伝える、というニュアンスなんです。そういう意味では、これは、神様だけが使える未来形です。「今」という時間に「未来」の時間を断定できる、いわば「神様専用言語」なんです。ですから、「その後」とは、「あなたの未来の現実の中に、神の霊が注がれること、神の恵みの力が注がれることは、当然あなたにやって来る。私がそう言った時に、既にそれは事実となった」と言われていたということなのです。神がご自身に賭けて、断言しておられたのです。それに気付いた時、私は思わず、疑いと不信仰の場所から飛び退いて、跪きたくなりました。
皆さん、信じるということは、「成就する約束が、何なのか」ではなく、「成就する約束を、して下さった方が誰なのか」ということで・・・、それが信仰ですよね。だから約束して下さったお方を信じたら、その約束が、たとえどんな内容であろうとも、私が心配しなくても良いのですよね。この相模原から北海道に行きたいとして、JRの切符を買えば、もう自分で「どの線路を使うのか、本当に目的地に着けるんだろうか、電車の馬力は、十分なのかな」なんて、何も心配しなくても良いじゃないですか。切符に「JR」と刻印されていれば、JRが目的地に、何時間かのちには、必ず到着させていてくれると安心していられるのではないですか。人生の旅路も同じです。私たちの人生の切符に、「神の約束」と刻印されているなら、その約束は(約束とは御言葉です)、御言葉によって示された約束は、「そののちに、必ずやって来る」と安心して待っていれば良いのです。だからです。神の約束は、それを受け取った時にもう既に、実現し始めていると言えるのです。私たちは、必ず来る未来へと、真っすぐに近付いているんです。神の恵みの力が満ちる日へと、まっすぐに向かって歩んでいるということなのです。
それもです、私どもがこの御言葉を、復活節の中で聞いているということは、恵みです。それは、この約束をなさった方が、十字架の御苦しみを負われた御子なる神でもあられると、信じることが出来るからです。なぜなら御父と、御子と、御霊とは一つであられるから。つまり御子が知っておられる苦しみは、同時に、三位一体の御父が知っていて下さるということです。神は、私どもが味わう全ての苦しみを味わわれた、神なのです。それも、主イエスのご生涯において、さらに私どもは知っていることがあって、それは、神はその最大の苦難の向こう側に立たれたということではないですか。イエス様は、死から甦らされたのです。私どもはそれを感謝する復活節の中を、過ごしているのです。神は、死の苦難をさえ、打ち破って復活されたお方です。そのお方が、今、苦しみの中にある私どもに語り掛けて下さるのです、「あなたの今という時は、未来に向かっている時間。その後、必ず来る祝福を伝える。神の力が、あなたに注がれる日が、必ず来る。あなたの今の歩みは、そこへと向かっているのだ」と。
皆さん、今朝私どもは、その神様からの御言葉を受け取るのです。「アレもコレも中止になった。兄弟姉妹にも会えない、辛いことばかり」と足元だけを見ることから、御業を成就して下さるお方を信じ、「その後」に必ず来る約束の中を、歩ませて頂こうではありませんか。今日の一歩は、そこへと着実に向かう一歩であるのですから。