2020年04月19日

説教 『その後』

2020年4月19日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨエル書3章1、2節
3:1 その後
  わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
  あなたたちの息子や娘は預言し
  老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは
  奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

 聖書は、「その後」と告げられていました。イスラエルの民に向けて、「今あるあなた方の将来に」ということです。ではこの時の彼らの「今」とは、どういう状況であったのか。調べてみましたら深い溜息が出て来ました。それは、彼らが抱えていた現実も「苦しみと嘆き」だったからです。人々はバビロン捕囚の後、古里エルサレムに帰って来ました。でもそこは、かつて新バビロン帝国によって徹底的に破壊され、瓦礫の町となっていたのです。畑も踏み荒らされて、信仰の拠り所だった神殿も見る影もなく壊され、体にも魂にも激しい飢えが襲います。やっと資材をかき集めて、小さくてもいいから神殿を再建しようとしました。でもそれも、同胞であった北イスラエルの人々から、妨害、攻撃される。彼らは苦しみの中で、「主よ、いつまで辛い生活は続くのですか」と、喘ぎつつ暮らしていたのです。その人々に向けて、神様からの言葉が、預言者ヨエルを通して届いたのです。それが、「その後」と始まる約束の言葉でした。ですからこの、「その後」とは、「あなた方の、今の苦しみの日々ののち、やがて来る未来を語るぞ」ということであったのです。

 その、やがて来る未来の約束とは、何であったのか。それが、1節、「わたしは(神である私は、ということです)、すべての人に、わが霊を注ぐ」ということでありました。神の霊が一人ひとりに注がれる、と言うのです。それを聞いた人々にとって、神の霊が注がれたらその時どんなことが起こるのか、すぐに想像がついたはずです。彼らは、父祖たちによって伝え聞いていたことが、あったからです。「神の霊」は「激しい風」となります。出エジプト記15章には、エジプトから脱出した民がファラオの軍隊に追撃され、その行く手も葦の海に塞がれる。そのとき激しい風が吹いて、海が左右に、壁のように分けられたことが記されています。その「風」が「神の霊」という言葉です。さらにそういう神の霊を受け取った人に、サムソンがいました。士師記4章に「主の霊が激しく降ったので、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた」とあります。神の霊が降ったら、神の力に満たされるのです。エゼキエル書37章には、「枯れた骨の谷」の幻が、記されています。骨に埋め尽くされた谷に、主の霊が吹き込まれると、骨と骨とが繋がり、肉が覆って人となる。さらに霊が吹き付けられると、彼らは生き返るという幻が告げられているのです。主の霊を受けることは、「神の命」を受けることであるのです。イスラエルの民は、「わが霊を注ぐ」と聞いた時、何が約束されているのかを、ありありと思い浮かべることが出来ました。それは、いま目の前に見ている苦しみの現実に、神の出来事が起こされて行くということです。それも、それを受け取るのは、「すべての人に注がれる」と言われていたのであり、その様子が現わされているのが、「息子や娘は預言し/老人は夢を見/若者は幻を見る」と言われていたことであったのです。さらに驚くべきことに、2節では、「奴隷になっている男女も」と告げられています。当時、主の恵みを受ける「神の民」と、その外に放り出されている「奴隷」と、その間には越えられない壁がありました。でもそれをいとも簡単に、主の霊は飛び越えて行くんです。主の目には「苦しむ人がそこにいる」ということにおいて、同じだからです。神様は、届きたいんです。その一人ひとりにです。そこに何ら分け隔てはなさらない。人間が作る壁と、あらゆる垣根を、主の霊は踏み越え、飛び越えて吹き渡るのです。「あなたに神の力を届けたいから。あなたに神の恵みが必要だから、だってあなたは苦しんでいるから」ということであったのです。

 苦難の中にいる人々に告げられた、今朝のみ言葉を聞いて、私は、「神の霊は、今ある私どもの苦難にも与えられている将来の約束だ」と思いました。でもそう思ったすぐあとに、真に恥ずかしながらでありますが、ふと考えたことがあったのです。決して、他の牧師先生方には漏れてはならない、恥ずかしながらでありますが、こう思ったのです。「その約束の成就を、じゃあボクは、いつ頃もらえるかな」と。いやらしいでしょ。不信仰でしょ。心の奥のほうで自分の声が囁くのです、「神の霊、神の力が注がれるのは分かりました。では、それはいつですか。私はいつまで、この苦難に我慢すればいいんですか」と。「本当に5月の連休明けには、また兄弟姉妹と一緒に集えるのですか。私たちの霊的“神殿再建”の日が、本当に来るのですか。もしかして休明けに、あともう1カ月待てって言われるんじゃないのですか」と。苦難の只中にある人にとって、神様からの将来の約束を、しっかり握ることって大変なんです、難しいんです。そしてそれが人間の弱さなんだと思うんです。辛い日々を通り過ぎた人から見たら、通り過ぎた後なら、「神様の約束は、真実だ」って言えるでしょう。でも私なんか、いつだって、苦しみの中で先が見えない時、信じる力も弱るんです。「主よ、お約束を聞きましたが、あなたの約束が成就するのは、いつですか」と言ってしまう。「この苦しみは、どこまで続くのですか」と思ってしまうんです。それは、神の民と言われた人々にとっても同じでした。詩編に、150編もある歌の中で、「嘆きの詩」というものに分類されるものはとても多く、その中にある言葉は「主よ、いつまでですか」であるのではありませんか。激しい苦難の中で、神様への信頼がいつの間にか消えて行く。それほどに苦難というのは、人間にとって圧倒的な敵であるのではありませんか。

 そんな中で、です。私は何度も、今朝の聖書個所を読み返していて、その中でどうしても気になった一言があったのです。それは冒頭の「その後」という一言でした。コレが気になって、改めて1節全体の文脈の中で、直訳調で読み直してみた時に、でした。ハッと、したのです。この「その後」という言葉は、元の聖書の言葉では、「そしてそれは、過ぎたそのあと、必ずやって来る」というニュアンスなんです。つまり、その将来のことは、当然のこととして実現されるということなんです。逆に言うなら、将来これが実現しないということは、1ミリも無いということなんです。人間が何をしようがしまいが、人間の側には全く関係なく、この世の事情にはまったく関係なく、それ自身として将来実現することに当然なっている、ということなんです。(私の言いたいこと、あー、伝わっていますでしょうかね。)あらかじめ決まっている将来のことを、今伝える、というニュアンスなんです。そういう意味では、これは、神様だけが使える未来形です。「今」という時間に「未来」の時間を断定できる、いわば「神様専用言語」なんです。ですから、「その後」とは、「あなたの未来の現実の中に、神の霊が注がれること、神の恵みの力が注がれることは、当然あなたにやって来る。私がそう言った時に、既にそれは事実となった」と言われていたということなのです。神がご自身に賭けて、断言しておられたのです。それに気付いた時、私は思わず、疑いと不信仰の場所から飛び退いて、跪きたくなりました。

 皆さん、信じるということは、「成就する約束が、何なのか」ではなく、「成就する約束を、して下さった方が誰なのか」ということで・・・、それが信仰ですよね。だから約束して下さったお方を信じたら、その約束が、たとえどんな内容であろうとも、私が心配しなくても良いのですよね。この相模原から北海道に行きたいとして、JRの切符を買えば、もう自分で「どの線路を使うのか、本当に目的地に着けるんだろうか、電車の馬力は、十分なのかな」なんて、何も心配しなくても良いじゃないですか。切符に「JR」と刻印されていれば、JRが目的地に、何時間かのちには、必ず到着させていてくれると安心していられるのではないですか。人生の旅路も同じです。私たちの人生の切符に、「神の約束」と刻印されているなら、その約束は(約束とは御言葉です)、御言葉によって示された約束は、「そののちに、必ずやって来る」と安心して待っていれば良いのです。だからです。神の約束は、それを受け取った時にもう既に、実現し始めていると言えるのです。私たちは、必ず来る未来へと、真っすぐに近付いているんです。神の恵みの力が満ちる日へと、まっすぐに向かって歩んでいるということなのです。

 それもです、私どもがこの御言葉を、復活節の中で聞いているということは、恵みです。それは、この約束をなさった方が、十字架の御苦しみを負われた御子なる神でもあられると、信じることが出来るからです。なぜなら御父と、御子と、御霊とは一つであられるから。つまり御子が知っておられる苦しみは、同時に、三位一体の御父が知っていて下さるということです。神は、私どもが味わう全ての苦しみを味わわれた、神なのです。それも、主イエスのご生涯において、さらに私どもは知っていることがあって、それは、神はその最大の苦難の向こう側に立たれたということではないですか。イエス様は、死から甦らされたのです。私どもはそれを感謝する復活節の中を、過ごしているのです。神は、死の苦難をさえ、打ち破って復活されたお方です。そのお方が、今、苦しみの中にある私どもに語り掛けて下さるのです、「あなたの今という時は、未来に向かっている時間。その後、必ず来る祝福を伝える。神の力が、あなたに注がれる日が、必ず来る。あなたの今の歩みは、そこへと向かっているのだ」と。

 皆さん、今朝私どもは、その神様からの御言葉を受け取るのです。「アレもコレも中止になった。兄弟姉妹にも会えない、辛いことばかり」と足元だけを見ることから、御業を成就して下さるお方を信じ、「その後」に必ず来る約束の中を、歩ませて頂こうではありませんか。今日の一歩は、そこへと着実に向かう一歩であるのですから。
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2020年04月12日

イースター礼拝説教 『恐れながらも大いに喜び』

2020年4月12日(復活祭)の説教
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書28章1〜8節
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

 主イエスのご復活を祝う朝です。だから今日は喜びに沸くはずの、イースター礼拝なんです。それなのに、経験したことのない寂しさが、この礼拝堂にはあります。いま、私の前には、いつもの親しい顔が誰もいない。藤森神学生の顔が、目の前にポツンとあるだけ。あ、藤森さんの顔が、どうと言うことではありませんよ。今日はいつもにも増して、愛らしい顔をしていますから。でも今日の礼拝は、教会成立にとって最も大切な「聖徒の交わり」が、つまり信じる者たちの群れが、消え去っているんです。会衆のいない礼拝堂を見ている。だから激しい寂しさを感じるのです。相模原教会がまるで死んだようになっていて、恐ろしささえ、感じられてなりません。人間は時に、へばりつくような恐ろしさを、抱えることがあります。それは、先行きの見えない、経験によって見通すことのできない現実の中で、それが不安となって、その不安が恐れを産むのかも知れません。それを今、私は礼拝の中で感じているのだと思うんです。それは私だけではなく、きっと今、ご自宅で、一人で礼拝をしておられる相模原教会の全ての兄弟姉妹が、不安と、そこから来る得体の知れない恐れを、経験させられているのではないでしょうか。そういう私どもが、しかしそういう中にある主日に、イエス様の御復活の知らせを聞こうとしているのです。私は思います、今年のイースターほど、イエス様からの「喜びの知らせ」を聞くことに、飢えている年はないと。今年ほど、私たちを、恐れから解放してくれる知らせを、復活の福音を、切望している年はないのではありませんでしょうか。

 現実の中にある「恐れ」は、あらゆる「不安」につながっているように思います。計画していたことが順調に進むと思っていたのに、突然その計画が閉ざされたら、途方に暮れて不安になる。また、今まで通りの生活をしていれば平穏に暮らしてゆけると思っていたのに、その平穏が突然消えたら、先行きが見えなくて、不安に包まれるのじゃないでしょうか。そこに言いようのない恐れも、起こって来るのです。そして、そういう不安と恐れの最たるものが、命の終わりである「死そのもの」なんだと思うんです。死に対する恐れは誰にとっても同じでしょう。死んだ先が誰も分からないからです。それは自分の死だけでなく、愛する人の死別にこそ、思わされるのかも知れない。その現実を前にしたら、人は、恐れに覆われてしまうではないでしょうか。

 イエス様が十字架の上で死なれた日から、3日目のこと。マグダラのマリアと、もう一人のマリアが、イエス様が葬られた墓に向かっていました。「死んでしまわれたから、何もかもおしまいになったけれど亡骸にでもすがれたら」と、死者が眠る、お墓に行ったのです。でも、でした。そこには、祭司たちが雇った兵隊がいたのです。見張りの番をしていた兵たちです。死んだイエス様の遺体を、弟子たちが盗み出さないように、用心したからです。その時、でした。その墓に天から、主の使いが降って来たのです。そして、墓の上に立ったかと思ったら、入り口を塞いでいた巨大な石をゴロンと、脇へ押しやった。石はまるで重みなど無いかのように、横へと転がる。その上に、天使は腰掛椅子のようにヒョイと腰かけて、墓の中を、丸見えに見せたのです。墓の中に在るべきものが、無いということを見せるためにです。死なれたイエス様のむくろが、そこには無いということを、人間の目に見せるために。墓を塞いでいた入り口の巨石が、取り除かれたのです。驚愕して震え出す番兵たち。訓練された兵隊なのに、体に力が入らない。全く予期していないことが、目の前で起こったからです。4節、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあった通りでした。彼らは、恐れに押しつぶされたのです。自分の経験にも、この世の常識にも、どこにも入らない事が起こったからです。何よりも在るべきはずの死者の亡骸が、墓で朽ちていくだけのものなのに、そこに横たわっていないんです。死の向こうには何も起こらないはずなのに、そこになお出来事が進んでいたのです。何があっても動じることのない屈強な兵士たちが、気を失って死人のようになるほど、恐れに押しつぶされたのであります。

 その恐れは番兵だけでなく、少し離れた所にいたマリアたちも同じでありました。だからです、天使が2人に向かって言ったのです、5節、「怖れることはない」と。この「恐れ」という言葉は、番兵たちが「恐ろしさのあまり」とあった恐れと、同じ語源の言葉です。つまり番兵が押しつぶされた「恐れ」と、天使が、マリアたちに言った「恐れ」とは、同じものだったということです。それは、神ご自身が、マリアたちも気絶してしまいそうな恐れを抱いていたことを、知って下さっていたということです。死が終わりでないなんて理解できなくて、自分たちが生きて来たこの世とは別の世界のことが起こっているようで、そこに自分たちが今、立ち合い、今触れているようで、不安になって、恐れに包まれたのです。それを神ご自身が天使を通して、「恐れがあるよね、分かっているよ」と言って下さったということです。そしてその上で、「しかし」と言うようにして伝えて下さったことがある。それが、主イエスの御復活の知らせであったのです、7節「あの方は、死者の中から復活された」と。それは、神様からの、人間の常識をひっくり返す、それも、人間を恐れから解放させる知らせでした。神が宣言されたのです、「死んだ先は分からないから、不安しかないと思っていたあなたがたよ。しかし、御子イエスは、その死を、虚無の塊、恐れの塊を打ち砕かれたのだ」と。

 それを聞いたマリアたちは、墓を背にして走り出しました。だから最初わたくしは、この説教の準備をした時、「マリアたちは復活の知らせを聞いて、恐れも吹き飛んで、喜びに満たされて駆け出した」と、そう思ったのです。墓に来る前は、暗い顔をして、トボトボやって来たけれど、復活の知らせに、墓から帰る時は、喜びに輝く顔をして走り出したと考えたら、そうだったら胸のすく思いがするじゃないですか。それが分かり易いんじゃないですか。それなのに、でした。よく読んでみたら、ちょっと違ったんです。そんな単純な、ハッピーエンドの物語では、ないようなんです。聖書が物語るのは、人間が望むようなハッピーエンドじゃなくて、聖書には、人間の真実の姿が物語られるんです。そこにこそ(人間の真実の姿にこそ)、福音は届くからです。それが8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」という姿だったのです。直訳調で読むならば「恐れを抱えて、同時に大きな喜びがあって」であります。つまり恐れが吹き飛んだのではないんです。恐れがパッと消えた顔をしているんじゃないんです。楽しいミュージカルなら、今まで暗い顔をしていたマリアたちに、パッとスポットライトが当たって、その瞬間、輝く顔で、歌い出す、踊り出すということにもなるでしょう。それが、観客の望むことだからです。でも。 人間の本当の姿は、違ったのです。彼女たちは、恐れを抱えたまま走り出したのです。そして、この「恐れながらも」とある「恐れ」とは、まさしく番兵たちが死人のようになった「恐ろしさ」と同じ言葉であり、またマリアたちが、天使から「恐れるな」と言ってもらえた、その「恐れ」と同じ言葉であったのです。つまり彼女たちは、恐れを捨てて走っているんじゃない、抱えたまま走っているんです。恐れが消え去っていたのではなかったのです。しかしその彼女たちに、ただ一つだけ、墓に来た時とは違っていたことがあって、それが、ご復活の知らせを聞いたという出来事であったのです。それが、恐れを抱えている彼女たちに、喜びも与えたのです。それはもはや、恐れだけに支配されているのではない、ということです。マリアたちは、恐れを抱えつつ、しかしそれを覆うほどの大きな喜びに、すっぽり包まれていたということなのです。

 彼女たちにはこの先、恐ろしい困難が山ほどやって来ます。マリアたちはイエス様が捕らえられ十字架で殺された経緯を、傍で見て来ましたから、そのイエス様を神の御子だと告白したら、自分たちも迫害を受けることを知っているんです。そのことを考えたら不安で、胸が締め付けられそうになるでしょう。そこに恐れが起こる。それは消えてくれたりはしないんです。でも、です。マリアたちはこの日、一つのことを、確実に悟れたのです。それは、あのイエス様の十字架は、そこでの「死」は、それで終わりではなかったということをです。究極の恐れの源であった「死」を、自分たちの常識ではもうどうしようも無いと思っていた不安の源を、打ち砕いたお方がいるということをです。死は終わりではない、それは「新しい生命の始まりだった」ということを、マリアたちは受け取ったのです。イエス様は確かに死なれた、しかしそのお方が「死人の中から復活された」と、天使から聞いた時、恐れの源である、死を超えるお方を知ったのです。その時、たとえ人生の中で、どんな大きな恐れを抱えても、そこに共に立ち、さらにその向こう側にさえ立たれたお方が居られるということを、受け取ったということではありませんか。彼女たちは信じたのです「恐れはある、しかしその恐れは、もはや私を支配しない」と。そして決意したのです「恐れを打ち砕いた主イエスの側に、私も立つ。主を信じて、復活の勝利の中に、私も生きる」と。

 今朝、そのご復活の知らせは、私どもにも届いています、「恐れながらも 大いに喜んで走れ」と。主は、「復活の私を信じなさい。私から喜びを受けよ」と招いておられるのです。私どもは今、誰も経験しなかった未曽有の事態に、先行きが見えず、自分の命さえ脅かされているような不安を、抱えさせられています。まるで恐れが、支配者のように振舞っているように見える。しかし主のご復活を祝う朝、私どもは顔を上げるんです。苦難と死を引き受けて下さり、そこに共に立ち、しかしその只中から復活された主イエスを見上げるのです。2020年の復活祭に、私は改めて、「ご復活の喜びそのもの」を戴いている思いになっています。復活の教理を学んでいるんじゃない、復活についての勉強しているのでもない。生身の恐れに介入して下さり、そこで私どもと一緒に歩んで下さるイエス様を見上げさせて頂いているんです。救い主は、私どもの弱さと、罪と、恐れの中に介入して下さる神であられます。私どもの恐れの只中に、喜びを運ぶためにです。それを戴けたら、私どもはたとえ恐れを抱えつつも、喜びの支配の中を歩み出せるのです。さあ行きましょう、与えられた今週の歩みへと。復活された主イエスを仰いで。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:16| 主日説教要約

2020年04月05日

棕櫚の主日説教 『近づき、見て、泣いた』

2020年4月5日(棕櫚の主日)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書19章41〜44節
19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」


 新年度を張り切って始めるべき、4月最初の礼拝ですが、今朝は逆に、その時間を短縮しなければなりませんでした。「教会では絶対にウイルス感染を起こさせない」、そのためにです。相模原教会も悩みつつ、先週の礼拝から「式順序」の中で、いくつかを省いて来ました、「あれっ、どこかカットしてた?」と気付かない方が、おられたりして。さらに今日は任職式・就任式もありますので、もっと何かを短縮できないかと考えましたら、ありました。説教です。それで今日は、いつもより説教が短い。寂しいですよね。それとも、ひょっとして、まさか、いや、そんなはずはない…。今朝は、まことに残念でしょうが、短い説教になります。それで一つ、心配事が私には起こりました。それは、この災いが去って、普段の説教時間に戻した時に、皆さんが、「長いわね〜」と思ったりしないだろうか、とね。まぁ、そんなことばっかり言っていないで、さあ礼拝しましょう。私どもはこの礼拝にあずかるために、体調管理だって細心の注意をして、ここにやって参りました。短い時間にしましたが、せっかくの礼拝です。いつにも増して生き生きと過ごしましょう。喜びながら、御言葉を食べるのです。私どもの魂の糧のためにです。それが必要だから集まったのです。イエス様も、山上の説教で「たとえ断食する時も、顔を見苦しくするな」とおっしゃいました。苦しみの時も顔を洗え、と言われたのです。晴れ晴れとした顔で過ごせ、と言われたのです。私どもは今、災いの中にあります。不安で、不安の虜になりそうで、顔は曇りがちです。しかし。顔を洗って、喜びつつ御言葉を貪り食べようではありませんか。せっかく、礼拝に来たのですから。

 そういう今朝は教会暦にとりましても、真に大切な日であります。それは今週の金曜日に、イエス様が十字架で死なれる「受難日」を迎えるからです。今朝、受難週が始まったのです。そういう主日に先ほど読まれた聖書個所には、イエス様一行がエルサレムに入るため、オリーブ山から降りて、都に近づかれたという様子が記されていました。41節、「エルサレムが近づき、都が見えたとき」と。そこで弟子たちは、歓喜の声を上げるのです。自分たちが慕って来たイエス様が、ついに都の王になる日が来ると、感極まったからです。周りの群衆も「この方が、ローマ軍をやっつけてくれる救世主だ」と、大喜びしました。しかし、なのです。その喜びの渦の中に、場違いな声が聞こえて来たのです。喜びの中で、一人だけが、泣き声を発していたからです。一人だけ泣いていた。その人は、イエス様でした。再び41節、「エルサレムに近づき都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて」とあった通りです。全ての人が都を見ながら喜んでいたのに、一人だけ泣いておられたのです。それも、この「泣いて」という言葉は、「号泣」なんです。怒りを含んだ号泣であり、挫折を嘆く涙でもあるのです。傍にいた弟子たちは、驚いたに違いありません。何故こんなに嬉しい時に、何が泣けて来るのか、全く分からなかったからです。その彼らの「何故」という思いに答えるように、イエス様が言われたのが42節だったのです、「もしこの日に、お前も(エルサレムに住む人々ということでしょう)お前も、平和への道をわきまえていたなら・・・」と。イエス様は、「ああ、都エルサレムに住むお前たち、誰も彼もが平和への道を、わきまえていない。それを思うと、私の内から、怒りと嘆きが溢れて来て、涙が止まらない」と言われたのです。

 ここで言われた「平和への道」とは何なのか。それは「エルサレム」という名前の意味を知ればすぐに、気付けることかも知れません。「エルサレム。イェル シャライム」とは「平和の 所有」とか「平和の 基礎」という意味の言葉です。つまり「この都を見たら、平和の姿が何なのか、目の当たりに見られる」ということなんです。そして、人と人とが平和に生きている姿こそ、神様の喜ばれる姿だから、「都エルサレムを見たら、神との平和も目の当たりに見られる」ということです。隣人との平和、神との平和が満ちている都、それが「エルサレム」なのです。それなのに、でした。イエス様が都エルサレムを御覧になったら、そこにいる人々の現実は、互いに争い合う姿しかない。誰も彼もが、自分だけが正しいと言い張って、他者を受け入られず、つまり愛せず、つまり赦せないんです。そして相手を屈服させようとするか、逆に自分に閉じこもるか。隣人が邪魔だと思ったら、関わりさえも捨てる。そうやって、自分だけが平和であれば良い、自分の生活だけ平穏であれば良いと、生きていたのです。そんな姿しかなくって、だからイエス様はそこで号泣されたのです、「エルサレムこそ、『神の平和を目の当たりにする場所』じゃなかったのか、それなのに、誰もわきまえない」と。

 でもその日、不思議なことが起こったのです。そんな場所なのに、イエス様は泣きながら、全てを知りつつ尚、そこに入って行こうとされるんです。号泣しながらも、足を止めることはなさらなかったのです。都は罪と過ち、神への背きと、自己中心と、傲慢の匂いが漂っていた。その悪臭が、そこに住む人間から出ていると知っておられるのに、イエス様は、そのヘドロの中へと、足を踏み入れられるのです、近づいて行かれるのです。御子なる神であられるイエス様は、全能の神です。何でもしようと思われることは、お出来になる神なんです。だから憤られたのなら、その怒りを、そのままぶつければ良かったんじゃないですか。神であられるのですから、裁けば良いじゃないですか。父なる神が、「平和が見える都になる」と期待されたのに、人々は背いて、まるで盗賊の巣にしたのですから、厳しく裁けば良いじゃないですか。または、「お前たちのような自己中心で、都合の良い時にだけ神様、神様とすり寄る“ご都合信仰”の者たちなど、愛想が尽きた」と、見捨てて当然じゃないのですか。人と人との間だって、我慢の限界ってありますよね「堪忍袋の緒が切れる、仏の顔も三度」って言うじゃないですか。もう見捨てても当然、我慢の限界のはずなんです。それなのにイエス様は泣きながら、去って行かれたのではなかったのです。イエス様は、泣きながら近づかれたのです。人々の中へとです。罪人の中へとです。これは、他人事じゃありません。そうです、イエス様は「私どもの罪の生活の中に、私どものエルサレムの中に」近づき入って来られるのです。「平和の生活が、あなたになら目の当たりに見えるだろ」と期待して下さったはずのクリスチャンなのに、私どもの姿を見られたら、そこに神の平和が見えない、偽善者。それなのに、そこでイエス様は、その私どもを見捨てないで、裁かれないで、罰しようともなさらないで、イエス様の方が号泣しながら、私どものエルサレムの中へ、なお近づき、なおその中へと、入って来られようとなさるんです。なぜですか? 何故なのですか、イエス様!

 それは、罪の泥沼の中にご自分の身を沈めて、私どもの足元に潜り込んで、私どもを押し上げてくださるためにで、ありました。それが、十字架で私どもの身代わりに、死なれたという出来事だったのです。皆さん。イエス様の十字架は、私どもの、罪の泥沼の下に、一番底に、立っているのです。イエス様が、あなたの泥にまみれても良いと、決意して下さったからです。それほどに、あなたは、神に愛されたのです。あなたが洗礼を受けたということは、その愛を、あなたも受け取ったということなのです。

 イエス様は、涙を流しつつあなたに近づかれ、あなたのために命を捨てられました。それを憶える「受難週」という特別な一週間が始まったのです。大切に、一日一日を過ごしてゆこうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:34| 主日説教要約

2020年03月30日

説教 『まことの神殿』

2020年3月29日の礼拝
相模原教会協力牧師 秋葉恭子
ヨハネによる福音書2章13〜22節
2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 過越しの祭りのときに、神殿の境内で繰り広げられていた喧騒は、まさに昔も現代も変わらぬこの世の状況です。支配階級から庶民まで、真実に神様をあがめ、自分の罪を悔い改めて神様の赦しを心から願い祈る姿はほとんど見られません。それは2000年前のユダヤ教や、ユダヤ人だけの問題ではありません。そこで問われているのは、わたしたち自身の罪だということです。人間の根源的な罪だということです。イエスさまの鞭は、わたしたちが暮らすこの世に向けて振り下ろされている、父なる神様のただならぬ怒りの象徴だということです。

 鞭をふるい、両替人の金をまき散らし、台を倒され、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と叫ぶイエスさまを目の当たりにして弟子たちが思い出した御言葉として、詩編の69篇10節「あなたの家を思う熱意が熱意がわたしを食い尽くす」が引用されています。神を信じる信仰のゆえに、迫害を受けて苦しむ信仰者の苦悩を歌った歌です。この信仰ゆえに苦しむ義なるお方というのは、主イエス・キリストご自身にほかならない、ということを指し示しています。完璧に義なるお方、神様の御前に立つことができる義しい者が理由のない迫害に苦しまなければ、罪に染まった人間が贖われることはなく、その者が蘇らなければ救いは完成しないということが語りかけられています。

 イエスさまが三日で建て直してみせるとおっしゃった神殿は、御自身の体のことでした。神様の独り子であられる御自身がすべての人のための一回限りの犠牲のささげものとして十字架にかかり、人々の罪を贖うこと。ヨミにまでくだり、復活して、天に昇り、全能の父なる神の右に座して永遠の命が約束されること。そのことを心で信じて、口で告白して洗礼を受けた者たちに、助け主として聖霊を送ること。そのように主イエス・キリストを真の救い主と信じる聖徒の交わりが、まことの神殿、教会となるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:20| 主日説教要約

2020年03月22日

説教 「主よ、ごもっともです。しかし」

2020年3月3月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章21〜28節
15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 私どもは、どんなに祈っても、神様が聞いて下さっているのか分からないということを経験しませんか。ここに書き留められている出来事も、この女がイエス様に、御百度を踏むように願い続けたから幸いを得たというような事ではないのです。イエス様が、ユダヤ人と異邦人との間に引かれた境界線は、厳然として残っているのです。そして女に向かって、「私には、分かろうともしないユダヤの民がいる。それでも、そっちが先なんだ。お前は、受け取る資格も無いんだよ。それは分かっているだろ」と言われたのです。

 その言葉を女が聞いた時に、であったのです。彼女は「なんて冷たい方」、とは言わなかったのです。まるで「真にそうだった」と気付い直したように、主イエスの言葉に応答したのです、「主よ、ごもっともです」と。「主よ、私は、あなたが引かれた境界線の外にいる者。そんな私が今更、苦しみがあるから、憐れんで欲しいと今更すり寄るなんて。そうです。私は、あなたに相応しくない罪人でした」という、懺悔でもあった。今までは、願い倒そうと、熱心さに燃えていたでしょう。でも彼女は、自分自身を真実に悟って、その場にうずくまったのです。そしてです、主イエスもであります、この女の「ごもっともです」という一言を聞かれた時にでした。驚くべきことに、御子なる神が、異邦人のとの間にあった境界線を、踏み越えられたのです。恵みを渡さないと引かれた一線を、主イエスの方から乗り越えられたのです。

 私どもは本当は、神の恵みの境界線の外に立たされていた者たちです。でもそれを悔いて「主よ、ごもっともです」と言えたなら、イエス様はその私どもに告げて下さるのです、「私があなたの側に、境界線を踏み越えて入った。あなたの側に立つため。あなたの身代わりなるため、それが十字架という場所だよ。そこで、私があなたの身代わりに命を捨てる。もう、神の恵みは、あなたに届くから」と。
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2020年03月08日

説教 「主よ思い起こしてください」

2020年3月8日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編25編6〜11節
25:6 主よ思い起こしてください
   あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず
   慈しみ深く、御恵みのために
   主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし
   罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き
   主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって
   主の道はすべて、慈しみとまこと。
25:11 主よ、あなたの御名のために
   罪深いわたしをお赦しください。


 この詩人は、まず神様に、「主よ思い起こしてください。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを」と言います。神様は必ず自分を慈しんでくださるはずだと、信頼し切っているんです。そういう近い関係に生きていたのです。でも驚いたのは、そう言い切れた言葉に、彼がすぐに続けて言った言葉を見た時にでありました。「わたしの若いときの罪と背きは、思い起こさないで」と。つまり彼には、神様に対して申し開きの出来ないようなことをしてしまったという記憶があるのです。それも、まだ償いが終わっていないという後ろめたさがあるんです。償いの重さ厳しさを知っている詩人だから、「忘れて欲しい」と言いたいのは分かります。でも、私がこの詩を不思議だと思ったのは、彼が神様に「あなたの慈しみを思い起こして。与えて」と言った、その口で、「私の悪いところは忘れてね」と言っていることなんです。なんだか、調子良すぎはしませんか。

 それでも詩人は、その2つを同時に言います。そのことを思い巡らしていて、ふと私は「ここにあるのは、神の慈しみと、人の罪とが、入り混ぜられて、一つに溶け合おうとしていることだ」と気付いて、ハッとしたのです。「ここに、神の恵みと、神の赦しが、一つに重ねられている」と思えたからです。そして「この詩人はまだ見ることは出来なかったけれど、彼が思い描いた、神の慈しみと、人の罪が重なるということが出来事化した、その場所を私は知っていた」と気付いたからです。それが、イエス様が架けられた十字架の上ではなかったのですか。十字架の上で、神の御子が死なれる。そこでイエス様の弟子たちは「神の慈しみと、人の罪とが重なり合い、混ざり合い、一つに溶け合っている」ということを目撃したのです。そしてキリスト者の私どもも、信仰によってその出来事を目撃するのです。「最も輝く神の慈しみは、私の十字架に届けられた」と。
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