相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書14章15〜19節
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
私どもはあの日から50日間も、礼拝堂で一緒に御言葉に聴く恵みを、奪われるようにして無くなった日々を過ごして来ました。ある幹事さんが「礼拝に飢えている」とおっしゃっていました。私どもは、礼拝に飢え渇いているのです。「礼拝の飢饉」と言っても良いかも知れない。そういう礼拝飢餓の中で、私たちはもしかしたら、気付かない内に心に傷を負っているのかも知れないと思うんです。確かにご自宅で、主日ごとに礼拝の時間持って来られたでしょう。それは、それぞれ恵みの時だったはずです。でも何かが欠けていて。いつも聞こえていた声が聞こえないんです。今までは賛美する時に、前から横から後ろから、兄弟姉妹が一緒に歌う声が聞こえていたのに。また「アーメン」と祈ったら、一緒に「アーメン」と唱和する声が聞こえて来た、でも今はそれがないんです。思い返したら、礼拝で力強く「アーメン」と祈られる息遣いの中に自分もいるということが、どれほど心地よいものであったのかと思うのではありませんか。それなのに、それらがなくて、心の内に「なんだか寂しいな」を感じたらです。「虚しさ」を感じたらです。それが心に受けている「痛み」だと言えのだと思うんです。「寂しいよう」と心が叫んでいるんです。
また、「もうペンテコステなの。いつの間に」と思うのも、ダイナミックな教会歴の時節を、緊張感を持って過ごすことを奪われて来たからではないですか。本来ならイースターには早天祈祷会、祝会、墓前礼拝と忙しく過ごし、ヘルモン会やぶどうの会では、野外礼拝だってあったでしょうし、忙しい4月5月であったはずなんです。でも1週間がまるで、束になって消えていったような気がする。それはいつもはあったはずの、教会歴の中で生きるドキドキ感を失っていたからです。さらに、もしかしたら深刻な傷は、そういう自分に、なぜなのか慣れて来ていて、教会生活への飢餓感を感じなくなってしまっているとしたらです。「このままでも良いのかも」と思い始める瞬間が、あったとしたらです。それこそ大きな喪失なんです。初代教会からの姿であった「兄弟姉妹が集まって祈り、礼拝していた」という喜びが、消えかけているからです。改めて私は「主日に教会に集うということは、凄いことをしていたんだ。教会とは、恵みの泉そのもので、そこで泉の水を飲まないと、私たちは魂が枯れる」と思うんです。それは言い換えるなら「大事なものを喪失している今、私どもには助けが必要だ」ということなのかも知れません。そういう朝、イエス様が弟子たちに「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とおっしゃった聖書個所が読まれたのです。この「弁護者」というのが、聖霊なのです。口語訳聖書では「助け主」となっていたのを、覚えておられる方もおられるでしょう。
さて、イエス様がこれをお話しになったのは、弟子たちと最後の食事をされていた場面でした。つまり次の日になったら、イエス様は十字架に架けられて、死んでしまわれるのです。死別の前夜なのです。そのことをイエス様だけが分かっておられて、遺言とも言うべき言葉を語っておられるのです。それは、ご自分がいなくなった後、弟子たちがどんなに不安になるだろうかと心配なさったからです。16節で、「別の弁護者を遣わす。永遠にあなたがたと一緒にいてくれるから」とおっしゃり、17節では、その助け主は「これからもあなたがたの内にいる」と約束して下さって、さらに18節で「わたしはあなたがたを みなしごにはしておかない」と。イエス様は畳みかけるように、励ましをお与えになっているのです。私は説教準備のために、最初、この箇所を読んだ時、イエス様が弟子たちを心配する思いが、ここに生き生きした吐露されているように思えてなりませんでした。ここには、別れが来るという切迫感があって、それゆえにイエス様の心配も、真に迫るのです。でもなのです、そう思いつつ、何度かここを読んでいて、アレッと気付いたことがあったのです。「アレッ、もしかしたら。心配しているのは、イエス様だけかも。ハラハラしているのは、お一人だけなのかも」と。
もうすぐ弟子たちは、イエス様と死別して途方に暮れるのに。イエス様はそれを「みなしごにはしない」と諭してもおられるのに。誰も何も感じていない。それどころか弟子たちは、イエス様から「あなたがたの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われて、議論を始めるんです。そんなことにだけ、関心があったのです。弟子たちの中には、ローマ側の手先だった徴税人マタイがいました。またその逆で、ローマ転覆を目論む武闘派集団「熱心党」に入っていたシモンもいました。だからもしかしたらシモンが、「マタイは売国奴だったから、お前が裏切る」とマタイを吊るし上げ、マタイも「シモンこそすぐカッとして、後先考えずに口が出る、手が出る、そんなお前が裏切り者になる」と食って掛かったかも知れない。その出来事が記されているマルコ福音書の14章や、ルカの22章には、そのことを「議論を始めた」と書かれていますが、そんな大人しい話し合いなどではなかったはずなんです。弟子たちは皆、イエス様が心配して下さっている事なんか放ったらかしにして、自分の正当性の主張と、保身に熱くなっていたのです。それが、イエス様が弟子たちを「みなしごにはしない」と心配しておられた、正にその席上であったのです。どうしてイエス様は、そんなどうしようもない弟子たちの心配なんかされるんですか。なぜ嘆きも叱りもしないで、なお心配なさるのですか。私なら、そんな人を心配するなんて、「絶対無理です!」(ま、そんな胸張って言うことじゃないですけど)。でも誰だって無理でしょ。イエス様だって、腹に据えかねて当然じゃないですか。堪忍袋の緒が切れるでしょ。仏の顔も三度まででしょ。弟子たちは、主イエスを嘆かせる自分の姿に、全く気付けない。私は彼らのそんな姿を思い巡らして、腹が立って、どうしてイエス様は「こんな時まで自分のことしか考えないのか」と怒らなかったのか、そう腹立たしく思った、でもその時だったのです。アッと思ったんです「あれ、これは他人事じゃない」と。神であるイエス様は、次の日が来たら十字架に架けられて死なれます。御子なる神が死なれるのは、自分の主張を通してくって、そのために自分が神になりたくって、だから真の天の御神を捨てて。だから神の敵となった、そんな、神に裁かれてしまう私の身代わりになって下さったからです。私は神関係を元に戻すために、血を流して償わなければならなかったはずで。でもその神関係を裏切った償いを、全部してくださったのはイエス様だったんです。神様の守護を一切失ってしまった私のために、イエス様は十字架の上で、苦しむ息の下で、「彼らを(辻川を)お赦しください。自分が何をしているから知らないのです」と、御父に執り成して下さったのです。私のため、神を見失っていることも知らないでいた罪人のために。皆さん、心から、罪人を心配して下さったのは、イエス様だけだった、お一人だけだったのです。罪人に心砕かれたのは、御子なる神様だったのです。そのイエス様が、十字架へと向かう覚悟の日に、その夜にも、この先に弟子たちが途方に暮れることに、心を砕いて下さっていたのです。
そのイエス様が「別の弁護者を遣わして」とおっしゃった「別の」とは、「イエス様とは別に、もう一人の」ということです。つまり、今まではイエス様ご自身が、弟子たちの弁護者だったということです。確かに、弟子たちのこれまでの旅はそうでした。いつもイエス様が、あらゆる艱難を、ご自身が盾となって、また壁となって、彼らを守って来られました。彼らが「イエス様と一緒なら安心」と歩めたのは、この弁護者イエス様のお陰だったのです。そういうイエス様と同じ、もう一人の方が、天の父から遣わされる「別の弁護者」なのです。それも、この「弁護者」という言葉は、元々「呼ばれて傍らに来てくれる者」という意味の言葉です。なぜ、呼ぶのかと言うと、傍らにいてもらいたいからです。傍にいて助けて欲しいからです。皆さんの生活にも、八方から責められて疲れ果ててしまったという日々がありませんか。苦難を抱える時に「もっとこうやって頑張れよ」と言われたって、それが正論だとしても、もう倒れそうになったということはありませんか。溜息が出てきて「まだ頑張らなきゃならない、分かってるけど、どうして一緒にやろうよって言ってくれないんだ」と思ったら「誰か一人でいいから、助けて」と叫びたくなる。そして「誰かぁ!」と呼び求める日、その呼び掛けに駆け寄ってくださる方がいる、と言うのです。そのお方が「もうあなたは一人じゃない。御子イエスがしたように、今度は私があなたを背負うから」と傍に来てくださる弁護者なのです。そしてその弁護者が、聖霊なる神であられるのです。私どもの傍らに、親しくいて下さる神なのです。私が幼い頃に通った奈良の教会では、お爺さんお婆さん教会員が祈る時、天に向かって、こう呼びかけていました、「聖霊さま」と。まことに力強く、確信に満ちて呼び掛けていたことを覚えています、「聖霊さま」と。傍にいて助けてくださる聖霊との生き生きとした関係を、私はそこに聞き取っていたのだと思います。
今から50年ほど前のこと。カナダ合同教会の総会で、「新信仰告白」が採択されました。私どもの「日本基督教団信仰告白」は、66年前の制定ですから、それよりも新しいものです。その文章を、孫引きなのですが、この説教準備の中で読みました。今朝そこから一部を抜粋してお読みしたいと思います。それは、この準備をしていたゆえに、特別に私の心に留まった言葉があったからです。ご紹介します。
牧師が
「キリストの信仰を現代的表現で共に告白しましょう」と告げて、始まります。
「人間は、ひとりではありません。人間は、神の世界の中を生きています」と。
素敵な信仰告白文ですよね。イエス様が、「あなたがたを みなしごにはしておかない」と約束してくださったから、私どもには弁護人、助け主なる聖霊がいて下さるのです。だからいつも、一人じゃない。私どもは、神の世界の中に、生きているからです。
さらにこの「新信仰告白」は続けます。今度は、牧師と会衆が共に言うんです。
「生においても 死においても、死を超えた生命においても。神は私たちと共におられます」と。
皆さん、今も、そして死の先にも、つまり最後の審判の日に神の御前に立つ時も、私どものために、弁護者なる聖霊が共にいて下さるということです。何という恵み。そしてこの信仰告白は、福音の中心を語った後に、締めくくります。
「私たちは、ひとりではありません。神に感謝をささげます」と。
皆さん、私たちは一人ではありません。永遠に私どもと一緒にいてくださる聖霊が、今一緒にいて下さり、この先いつまでも、傍にいて下さるからです。私どもはその中を、新しい週も生きるのです。さあ、聖霊さまが、助け主として傍に居て下さいます。だから安心して、この週も歩んで行こうではありませんか。