2017年07月23日

説教 『御心に適った悲しみ』

2017年7月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 7章8〜13節
あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。


 神様の御心は「あなたの本当の姿を、あなた自身が、あなたの外側から見詰めて欲しい」ということです。つまり自分自身を、「被告人席」に立たせよということなんです。そこで気付くことがあると、神様は知っておられるからです。それは私どもが、隣人のあの人この人に対して、どれほど厄介を掛けているかということです。私のあの事、あの言葉を、辛がっているかということをです。そしてそこに気付いてしまったら、私どもの心は、本当に痛むはずなんです。神の御心は、「そういう裸の自分に気付かされ、悲しみ痛むところに立ってご覧」と言われる。それも、その悲しみから逃れられる「正しい人」は一人もいないとも知っておられるのです。

 それは勿論、私どもを凹ませるためにではありません。その悲しみにちゃんと向き合う時に、そこでだけ見えて来る福音があるからです。それは、「そんな私のためにイエス様が身代わりになられた。あなたを裏切った私なのに、そんな私の身代わりに、被告人席に立って下さった。私が死なねばならない十字架の死を、主が代わって死なれたんだ」という、実感です。「他の誰でもない、この私のために、イエス様が死なれた」という実感です。そして、その中に立った時、暗いトンネルの向こうに見えることがある。それは「イエス様のお陰で、赦されて私は生きている」ということです。イエス様のお陰で、赦しの十字架に結ばれ、私がなお愛された。その神様のお心の深さに包まれて、神の目から見たら自分は貴かったんだということも分かって来るのだと思うのです。コリントの信徒たちは既にクリスチャンでした。でもその彼らも、繰り返し主に立ち帰ることが必要だったのです。その立ち帰りが、聖書の言う「悔い改め」なのです。神による悲しみは、この悔い改めと繋がっているのです。

 自分を自分で被告人席に立たせて見詰めるというのは、大仕事です。自分が傷つき痛む悲しみがあるからです。でもそれは孤独にゆく道じゃない。それは、神様が共に歩んで下さり、守っても下さり、到着を待っていても下さる、そういう道です。手厚いんです。そして、どうして神への背き人の私どもが、尚そんなに手厚くして頂けるかが、今朝分かる。それは、悔い改めという大仕事が、神の御心に適っているからですよね。神ご自身が、私どもにして欲しいと願っておられることだからです。そこを私どもが神様と、たどたどとゆくなら、その先で「私は、神に赦されて生きている!」と分かるからです。悔い改めのトンネルの向こうで、赦されて生きているという再発見、そして自分の貴さの再発見もするのです。
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2017年07月17日

説教 『生ける神の教会とは』

2017年7月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 3章14〜16節
わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。
すなわち、キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。



 二章でテモテと教会に「まず祈る」ように勧めたパウロは、次に監督と奉仕者の資格について触れます。その基準は非常に高いと言うほかありませんが、監督と奉仕者の持つ影響力からすれば、当然かもしれません。基準の高さは「良い仕事」(一節)がもたらす高慢という誘惑に陥ることから守るためと言えるかもしれません。

 しかし、これだけの資格を持つ人は決して多くないはずです。だからと言って、基準を下げることはできません。「今日の教会にとって成長の生命線は初代教会の形式を真似るのではなく、初代教会の霊を取り戻すことである」(B.H.ストリーター)。そのためには、初代教会が実践していたように、「まず祈る」ことではないでしょうか。更に「祈り合う」ことが必要です。F.R.バリーは「教会は聖人と罪人の両方にとって家庭であり学校である」と言っています。聖人でありたいと願いながらも、罪赦された罪人にすぎない者であることを自覚しながら、祈り合わなければならない人間の集まりであるということです。そこは、不完全な者たちの集まりではあるのですが、同時に神のパートナー(協働者)たちの共同体でもあるのです。

 そして、そこに神の真理が託されているのです。その真理とは一六節が語るように、イエス・キリストにおいて啓示された受肉と受難(十字架)と復活の事実です。教会は、それを支える柱であり、また守る土台(防波堤)なのです。様々な誤った教えは今までも数多くありました。これからも出てくるでしょう。しかし、教会は聖書の語る真理から逸れてはなりません。それを守るために、監督や奉仕者に求められる資格は重要なのです。そのために祈ったイグナチオ・デ・ロヨラの祈りに耳を傾けてみることが私たちには必要です。「主よ、惜しみなく尽くす心を教えてください。主であるあなたにふさわしく仕え、損失を顧みずに与え、傷つくことを恐れずに戦い、休息を求めずに働き、功を求めることなく仕事をする心を教えて下さい。あなたのみ旨を行っていると分かること、それ以外は何も求めません」。
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2017年07月09日

説教 『ひたすら心を一つに』

2017年7月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

使徒言行録2章43〜47節
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


 12人の弟子を中心にして祈っているところに聖霊が下りました。その時にです、「人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった」とありました。きっと初めの教会はテンテコ舞いだったはずです。それなのにです。聖書には、「困った」とか「辛かった」とか、そういうことが全く記されていないんです。

 それが何故なのか。きっと、困ることが起こる前に、皆がそれぞれに、誰に言われるまでもなく、動いたからではないのでしょうか。そのように思わされたのは、44節、45節に、「信者たちは、みな一つとなって、すべての物を共有し財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、みながそれを分け合った」とあったからです。「おのおのの必要に応じて」というのは、お金の話だけではありません。そこには「手助け」という、必要もあったでしょう。文字通りの「手助け」です。お金も、労力も、優しい心や言葉も、そのための時間も「ここにはこんなことが必要だな。あんなことが必要だ」と思ったら、それが見えたら、何の躊躇もなく「私がしよう」と動いたのです。

 そうやって動き出した信仰者たちが教会の姿を作っていったのです。でもです、そのように動き出せることがなぜ出来たのか。何が彼らを、自然に動かしたのだろうかと思います。その秘密が、46節のことではないでしょうか、「毎日ひたすら心を一つにして」と。この「心を一つに」という言葉は、新約聖書ギリシャ語英語語彙辞典によると、「それはまるで音楽のイメージです。異なる音程と、音色と、違う音の高さがあって、でもそれらが調和した音楽になる。コンサートマスターの指揮の下に、素晴らしいオーケストラの楽器として奏でられる。そのように聖霊が、教会の一人ひとりの信仰者の生活を、お互いに混ぜ合わせるのです」と。そして、「これは、キリスト者の群れの独自性を理解させてくれる独特な言葉です」と。コンサートホールに響くハーモニー、それが、キリスト者の群れの「心を一つにする」という姿であるのだと言うのです。

 そして、教会に集うそれぞれの人を、そのように一つに結び合わせるのが、聖霊であるというのです。人間が号令をかけて「心を一つにすべし」と頑張るんじゃない。凸凹だらけの一人ひとりだけど、音色の全然違う楽器たちだけれど、聖霊なる神が「一つにしてあげるから」と頑張って下さる。そこで一人ひとりが自分の出せる音を出してみるんです。「おのおのの必要が満たされるためになら」と喜んで、自分の音色を出してみる。それを聖霊なる神が、結び合わせて下さる。その姿が、教会の初めから、今のこの相模原教会に至るまで、ずっと続いて貫かれて来た姿なのです。
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2017年07月02日

説教 『ああ、お前は!』

2017年7月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書11章20〜24節
それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」


 イエス様は、あらゆる奇跡も用いて、人々を神様中心の生活へと招かれたのです。それなのに誰 も変わろうとしない。それをご覧になっていて、ついにです、21節、「お前は不幸だ」と叱り始められたのです。でもこの言葉なんですが、元の言葉には「不幸」というような意味はありません。原文は「ウーアイ」です。腹の底から絞り出されて来る、言葉にならない呻き声、「あぅー」なんです。主が、呻かれたのです。

 この説教のために何度も読み直していて、「あれ」と思ったことがあります。それは、相変わらず神様のもとに立ち帰らないことの報いを引き受けなければならないのは、その当人であるはずです。報いを引き受けなきゃならないのは当人のはずで。だからイエス様は裁判官となって、「お前たちこそが、ウーアイと嘆く日が来るぞ」と判決を下すだけで良かったはずで、高い所から権威をもって「お前は、自らの結果として災いを受け取るんだぞ、嘆きがあるぞ」と宣言されるだけで良かったはずなんです。それなのに、変です。人々が呻いたのではなくて、「うぅー」と心痛められたのは、イエス様の方だったなんて…。

 全力を尽くして私どもを愛し抜いて下さるイエス様です。単なる裁判官ではいられないイエス様なんです。自分中心で、自分のやりたいようにしかしない私どものことを思って、情けなくて、悔しくて、やるせなくて、それらを全部ご自身の腕の中に抱え込んで、呻いて下さるのです。「ああ、お前は」と。それは、なお私どもが愛されているからです。「神の言うことも聞けないお前など、もう知らない」と見捨てるのでもない。「愛しているから」と、傍を離れてしまわないでいて下さるのです。

 私どもは知っているのではないですか。ご自分の数多くの奇跡も言葉も、何一つ分かってくれなかった人々へのイエス様の呻きは、十字架に掛けられた時までずっと続いたということをです。人々は結局最後まで、自分の姿に気付けなかったのですよね。イエス様お一人が気付いていて下さって、人が受けなければならない報いも、全部身代わりに背負って下さったのではないですか。その十字架の上でもイエス様は呻かれるのです、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。最後まで、真に心痛めて下さったのは、主お一人で、そして最後まで見捨てないでいて下さったのも、主であられたのです。

 だからこそ、「今度こそ、主を嘆かせまい。今度こそ、自分中心から離れて御言葉に従って生きてみよう」と歩みだすのです。それが主の喜ばれる、悔い改めた信仰者の生活でもあるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約

2017年06月25日

説教 『力づけてくださる神』

2017年6月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 7章5〜7節
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。


 パウロは気が気でなくなっていました「自分が書いた手紙が、コリントの人に上手く伝わっただろうか」と。だからその後の様子を見て来て欲しいと、同労者のテトスを送り出していたのです。そのテトスの帰りを待っている彼は、もう「大伝道者パウロ」の面影なんてありません。打ち萎れている。彼はまるで、破れてボロボロのボロ雑巾。それが、この時のパウロだったのです。

 しかし、です。全てを手放してしまったパウロが、空っぽになった場所に座り込んでいたから、その暗い現実の中に届いて来た光を見ることになるのです。テトスが帰って来たのです。パウロは、そのテトスの顔を見、その報告を聞いたでしょう。でもそこで彼は、自分の手紙がどういう効果を果たしたのかという関心が、まず心に浮かんだことじゃない。それが6節に「気落ちした者を力づけてくださる神は」とある言葉です。最初に飛び出した思いは「ああ、神様」という、神への思いなんです。自分に何が出来たか、何が出来なかったか、そんな風に自分に向けた関心じゃない、思いは神へ向かって、神を見詰めた。「神様。あなたは打ち萎れてボロ雑巾のようになった私を、力づけてくださる、そのお方ですね」と。マケドニアの地で、伝道の挫折で丸裸になったパウロが、「一切を失った私をなお捕らえ、なお力づけようとされる方がおられる。それがあなた」と、主ご自身と再び出会えていたのです。

 ではパウロがこの時「力づけられる」と言ったのは、また元のように元気モリモリ、頑張れるようになったということを言いたいのでしょうか。いいえ。彼は、自分がボロ布のようになったから分かることがあるからです。それは、全てのことに働いたのは、私ではなく、神だということです。彼にはそれが、嬉しいのです。自分がアレコレが出来ることを喜ぶんじゃないんです。「みんな聞いてくれ、神様が、私にあれこれしてくれたんだよ、神様がだよ」と、それが嬉しいって話したいんです。それを誇りたいんです。

 私どもも打ち萎れることがあるでしょう。でも神様は、あなたを慰め力づけ、喜びを届けるために、今も全てのことをしていて下さいます。一体、神が望まれないならどうして助けというものが起こるのですか。パウロは知ったのです、「神様は力づけることを願う神だ」と。それも「打ち萎れた者にはなおさらだ」と。そう思ったら、ハッと気づかされました。父なる神は、御子のいのちを捨ててまで、私どものためにと、私どもの罪を引き受けて、私どもを力づけることを願ってくださったのではないですか。それが顕に分かる十字架の下に立つのです。そこで私どもも、私どもを本当に力づけることを欲して下さる神を、見上げるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:50| 主日説教要約

2017年06月18日

説教 『第一の勧め』

2017年6月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 2章1〜7節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 パウロは頻繁に祈ることを勧めています。ここでもテモテに牧会者として「まず祈る」ように命じます。それも「すべての人々のために」(一節)。当時、「王たち」といえば、ネロ皇帝の時代でパウロはネロの命令により斬首されています。「平穏で落ち着いた生活を送るため」(三節)に祈るようにと勧められてはいますが、歴史を振り返る限り、この祈りは答えられていません。「平穏(平安)」とは無風状態ではなく、嵐の中でさえ、「誰」と共にいるかにかかっているようです。祈りは願掛けのように理解されがちですが、それを含んでいるにせよ、本質的には「神との交わり」です。パウロは「とにかくまず神と親しく交わりなさい。そして、すべての人が救われるのではないにしろ、すべての人のために祈り、『真理を知る(御言葉の中で成長する』よう教えなさい。これがあなたの務めです」とテモテに言っているのではないでしょうか。「(祈りは)美事(よきこと)にして、我らの救い主なる神の御意に適うことなり」(文語訳)。「祈られる者にとっても、祈る者にとっても、人間にとって良いこと」なのです。愛する者(=神)に喜んでいただくこと(=祈り)を実行するのですから、これ以上の喜びはないはずです。「すべての人々のために祈る」のですが、彼らが好むことを言うわけではありません。どのように反対・迫害されても、真理はひとつです。

 多神教の下でも、神は唯一と告白し、排他的と言われても、神と人との間の仲介者はイエスのみと宣言する。ナンセンスと揶揄されようとも、その方は受肉された神の子、そしてその方は十字架上で私たちのために贖いの死を遂げた方、と教会は語り続けるのです。このメッセージは、まず牧会者が受け止めるべきです。しかし、同時にすべてのキリスト者への命令でもあります。この責任を果たすために、まず祈らなければなりません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:01| 主日説教要約