2019年12月01日

アドヴェント第1主日礼拝説教 『イエスは泣いた』

2019年12月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書19章37〜44節
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。天には平和、
いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」


 救い主がエルサレムに入場された時、人々は大歓声で迎えます。誰もが「これから大いなる救いが、圧倒的な力をもって起こるのだ」と期待に胸を膨らませつつ、イエス様の後に従ったのです。しかしイエス様は、4節、「イエスはその都のために泣いて」おられたのです。まるで敗北者のように嗚咽して、泣いておられたのです。

 普通、傷つけられて泣く姿は、人間が考える「全能の神の姿」ではありません。そこで泣いてしまっては、敗北者じゃないですか。でもその弱さの中に、イエス様は留まろうとされるのです。そう気付いた時に、ハッとしました。このエルサレム入城の後に、イエス様は十字架に架けられます。そこでもイエス様は、自分のして欲しいことだけ求める人間を責めたりなさいません。むしろその人の側に留まって、そんな人間と一緒の道を歩こうとされるのです。その場所が、罪人が立つ十字架の上だったのです。自己中心な者、その結果他者を傷つける者と一緒にいるために、神が十字架の上によじ登って下さったのです。罪人と一緒に歩みたかったからです。そこで私どもと一緒になるために。

 エルサレム入城の大歓声の中で、イエス様は孤独であられました。そのお姿は、お生まれになった時から始まっていたことを、私どもは知っています。イエス様はお生まれになった時から、無力さ、弱さ、敗北者、罪人の側に立たれて、神であられるのに十字架で死なれる道を、独りで歩かれるのです。それは、神様から離れる私どもを求めて、一緒に居ようとしてくださったからです。皆さん、十字架に向かうために降誕された方がおられるのです。愛するために、傷つくことから逃げなかったお方が、おられるのです。それは主、神の御子イエス様。このお方が、あなたを得るために、ご自分を捨てて死なれたのです。なぜ主は降誕されたのかを思いつつ、待降節を過ごして行きたいではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:25| 主日説教要約

2019年11月24日

説教 『心は遠く離れている』

2019年11月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章1〜9節
そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。』」


 イエス様は、「あなたの心はわたしから遠く離れている」と迫られます。それは「あなたの心は私の傍にいない。口では私のことを敬い、従うと言いながら、心は私に背を向けて、私を裏切っている」ということです。そこから自分中心な生き方が始まる。このイエス様の言葉には、憤り、悲しみ、嘆きが込められているように思えてなりません。

 次週はもう待降節です。そういう今朝に思わざるを得ないことがあります。それは、まず神様が「私の心はあなたの傍にいたい」と願われた御心が、イエス様の降誕となったということです。だからこそ、なのです。もしもそのイエス様が「誰も彼もが自分だけが大事だと言って、心は私から遠く離れた」と知られたのなら、「そんなお前たちなどもう知らない」と決別して当然ではないですか。

 でも実際、その時イエス様はどうなさったのかを、キリスト者はもう知らされています。それは、去って行った人間を追いかけて、なお傍に居ようとして下さったということではありませんか。イエス様が背きの私どもを追いかけて、やっと一緒になれたのは温かな場所ではありませんでした。信頼し合う声が溢れる場所ではなかった、それは十字架の上だったのです。父なる神から遠く離れた罪人が立つ所に、しかしそこにイエス様は「私は立つ、あなたの心と一つになるために」と立たれたのです、そして、「ついにここであなたと一つになれた。ここであなたのために死のう。私があなたに代わって罪を償うから」と言ってくださったのです。そのイエス様を知りつつ、再び今朝のみ言葉を聞くなら、もはや別れの言葉には聞こえない。遠く離れて行った私どもを悲しみつつ、しかしそこで切に呼びかけておられるように思えてなりません、「どうしてなお離れるのか、あなたも私の心を分かって欲しい。待っている、戻って欲しい」と。主は、私どもに、申し訳ないほど激しい未練がある。あなたをどこまでも、愛しておられるからなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:13| 主日説教要約

2019年11月17日

説教 『約束と律法』

2019年11月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙3章15〜29節
 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。


 アブラハムへの約束(創世記12、13,17章)は神からの自発的、一方的、先行的選びに拠るもので、与えられた約束に対して彼はただ「信じた」(創世記15章6節)だけでした。しかし、このようにして神との祝福の契約は成立しました。信仰は信頼と同義語と解せますから、彼は「祝福する」との神の言葉を「そうしてくださる」と受け入れ、頼り切り、委ね切っただけなのです。その信頼によって彼は「義とされ」(神との正しい関係に入れられ)ました。その430年後に律法がモーセを通して与えられました。愛と憐みの神が直接与えてくれたもの(出エジプト20章)ですから当然よいものです。ただし、後に来た律法が先にあった信仰を反故にすることはありません。しかし、罪を自覚させる道具にはなりました。それに悩んだのがパウロでした。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7章19節)。彼をこの罪から解放したのがキリストにある信仰でした(ガラテヤ3:16)。この信仰は神から「来た=現れる」(23節)もので、彼の信心や精進によって生み出したのではありません。ダマスコ途上で復活のイエスが現れた(来た)時、来たものなのです。彼は受け入れるだけでした。その結果、彼は「神の子」(3章26節)とされました。29節では「相続人」となっています。「神の子」「相続人」とされた時、受け取ったのが、パウロが好んで用いた表現である「キリストにおいて」(キリストの中で、キリストと共に)生きる祝福でした。聖書の「放蕩息子」と法華経の中の「長者窮子」の説話を比較して見ると、息子が立派な人間となることよりも、先に「父のもとに帰ってきた」という父子関係の再確立を聖書の神は優先しています。それは信仰(信頼=受け入れ、頼り切り、委ね切ること)によってのみ可能なのです。天の父に相応しい子になることは、その後に来る聖霊による業なのです。まずはキリストにおいて神の子とされることです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:47| 主日説教要約

2019年11月10日

幼児祝福式の礼拝説教 『小さい子供の体のようになり』

2019年11月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
列王記下5章8〜14節
神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 ナアマンは、お金もあるし権威もある軍の司令官でした。でも重い皮膚を患っていて、ずっと長い間「この病気が治りたい」と思っていたのです。そんなある日のこと「隣の国に神を信じるエリシャという人がいて、神様に病気を治す方法を聞いてもらって、その通りにしたら治る」という噂が届いて来たのです。もう嬉しくなったナアマン。「やっと治る」と思って、そして想像したのです。「エリシャっていう人は、きっと神様に『神よ〜、このナアマンを治したまえ』って儀式をして治してくれるのかな」とか、また「私の体をさすって、手で触れて奇跡をしてくれるんだろうか」とかね。そして、「きっとそうに違いない」と考えたのです。

 さてどうなったでしょうか。神の人エリシャは、儀式も奇跡もしてくれない。ただ「川に入って、体を洗いなさい」と言うだけなんです。それを聞いたナアマンはカンカンに怒り出しました。「私が考えていた治療方法と、あなたがいう神の方法と、全然違う」と思ったからです。大人って、どうしてすぐに怒るんでしょうかね。きっと、「自分の考えたことと違う」と思う時、怒り出すんでしょうね。それを聞いた家来が、「どうぞ一回でいいから、神様が言われた通りやってみてください」と。その通りにしてみた時でした、彼はすっかり治ったのです。それもです、「小さい子供の体のように」なったのです。ツルツルのピカピカに。今日礼拝に出席している皆さん(子供たち)の命は、神様が「最高だよ、大好きだよ、とっても素晴らしいよ」って言って、創ってくださった命なんです。ナアマンの体が「小さい子供のようになった」というのは、その所に戻れたということなんです。

 怒りを捨てて自由になれるのは「自分の考えと、これは違う」ということを捨てる時です。そして「神様が言われる通りに生きてみます」と立ち帰ったら、誰でも戻れるんです、神様に「お前は素晴らしい」と言っていただけた初めの姿に。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:50| 主日説教要約

2019年11月03日

召天者記念礼拝説教 『主は羊飼い』

2019年11月3日 召天者記念礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編23編1〜6節
賛歌。ダビデの詩。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。



 今日は、召天者記念日の礼拝です。喪失の痛みの中で「慰めの言葉」を聞くために集いました。そういう朝、詩編23編は告げます、「私どもは主イエスの羊だ」と。実際の羊は、力が無いし、知恵も無い、自分を守る牙もない、逃げても足は遅いし、それでいて頑固者で自分勝手で、無力で無能です。でもそれが私どもなんです。でもだからこそイエス様は、「お前には羊飼いの私が必要だ」と言って、抱きかかえて下さるのです。

 先に召された兄弟姉妹も、ご自分の飼い主であるイエス様の名前を呼び続けて、地上の人生を歩かれたのです。詩編23編には、そこにある「慰め」が告げられているのです。6節、「命のある限り、恵みと慈しみは、いつもわたしを追う」と。羊飼いの恵みが、私どもを追いかけるようにして、捉えようと迫って来ます。キリスト者は十字架を見上げる時、恵みと慈しみが、「罪を犯した私をさえ、追いかけるようにして、癒そう、救おうと私に迫って下さった」と受け取って来たのです。そんなイエス様であられるのですから、地上の命が終わったからといって、もう追いかけて下さらなくなるなんてことが、あるはずがないではないですか。

 6節に続けて「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまる」とありました。つまり「天の国に帰り、とこしえに、永遠に、主の御傍にとどまるのだ」ということです。生きていた時も、死ぬ時も、とこしえまでも私どもを励ますのは、私どもの羊飼いであられる主なのです。私がたとえ望みを失いそうになっている時も、どんな人生を歩んでいても、羊飼いが捕らえていて下さることが、ただ一つの慰めなんです。そのイエス様がです、私どもの愛する人が天に召されたあとも、主の御国で、愛する人をしっかり捉え続けていて下さるのです。「主は羊飼い」、その傍に今もあの人がいる。そのことへと顔を向けさせて頂きたいではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:12| 主日説教要約

2019年10月27日

説教 『主のものなのだから』

2019年10月27日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
サムエル記上2章4〜8節
勇士の弓は折られるが
よろめく者は力を帯びる。
食べ飽きている者はパンのために雇われ
飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み
多くの子をもつ女は衰える。
主は命を絶ち、また命を与え
陰府に下し、また引き上げてくださる。
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めてくださる。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。
大地のもろもろの柱は主のもの
主は世界をそれらの上に据えられた。


 ハンナには望んでも子どもが生まれませんでした。その辛い生活の中に神様が関わって下さって、男の子が生まれたのです。その感謝が「ハンナの祈り」という賛歌になりました。そうであるならここには、感謝を表す言葉だらけになるはずではないですか。それなのに7節では「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」とあるのです。そしてそんな言葉ばかりが続いてゆく。これって本当に、感謝とか喜びの言葉なんでしょうか。ハンナは「主は与え、主は奪う」と言っているんです、「世界の全権を握っておられるのは、あなたです」と歌っているのです。

 しかし何故そんなことを言い出せたのか。それは、ハンナは「神様は私のことを心配して下さっていない、だから子どもが生まれないんだ」と思い込んでいたかも知れないんです。そしてそこが一番、悲しんでいたことだった。だから富が在っても、家庭や地位が在っても、神様が関わっていて下さらないのならそれ自体では空しいと思えていた。そうであったからだと思うのです、自分が悲惨だと思っていた現実、子どもがいないということに神が関わって下さった時に気付いたのです。「神様は、私が気付かない内から、昔からずっと傍に居られる。すべては主のものなのだから、その恵みの支配の中に置かれていたのだ」と。

 「ハンナの祈り」の中には、静かに流れる通奏低音があります。それは、神は、全世界を揺り動かす力をもって、私どもを支えて下さるということです。ハンナは、それを実感したのです。たとえ自分で、自分をどんなに悲惨を見ようとも、叶えられないことが一杯だと嘆いても、しかしあなたは神様に憶えられているということです。神様は、私どもに言いたいのです、「あなたも私のものなのだから、私の愛する宝なのだから、どうして私が放って置けようか。あなたを世界を支配する力で支えたい」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:45| 主日説教要約