2017年09月11日

敬老の日を覚えての礼拝説教 『長老を尊び、神を畏れなさい』

2017年9月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

レビ記19章1〜2、32節
 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

 白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。


 「敬老の日」を覚える日、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」と読まれました。それを聞いて「聖書も、小さい頃から道徳で聞いて来た、お年寄りを大切にしなさいという話をするんだ」と思ってしまう。しかしアレッとも思う、「もし道徳の話なら、なぜ『長老を尊びなさい。』で終わらず、『あなたの神を畏れなさい』と一言つくのか」と。

 19章には実に、多くの律法が記されています。これらを束ねる中心が、2節の「あなたたちは聖なる者となりなさい」です。これを要として、それを具体的に生きるのはどうしたら良いのかが示されて行く中の1つに「長老を尊ぶ」ということがあるのです。長老の側に一切関係なく、むしろ「尊ぶ側のあなたが聖なる者となるために」ということです。この「聖」とは「たくさんある物の中から、取り分ける」という意味の言葉です。ですから、「あなたたちは私の側に一緒に立つ者として、取り分けられた者なのだから、そのように生きよ」と告げられたのち、そこに「そういう者たちの地上の姿は、こうなるんだよ。長老を尊んで生きるのだ」と、おっしゃったということなのです。皆さん、信仰の生活とは、アッチコッチの現実にぶつかりながら、この地上を旅するということです。そしてキリスト者たちは、この世とは違う歩みをするはずなんです。世間から見たら、「あの人たちは、我々と違う生き方をしてる」と言われるはずなんです。

 さらに、神様からの戒めには、命じられる前に神様からの「あなたならできるでしょ」が付いている「断言命法」と言われ命令方法です。親が子供に「これをしなさい」と言う時、子供が出来るかどうかちゃんと見計らっていますよね。今朝の19章も、私どもと一緒に生活して下さる神様が「あなたならできるでしょ」との思いでおっしゃった戒めなんです。そういう神様からの促しの中で人生を歩み抜けたらです。若い日々だけではなくて、老いていく日々も、神様に取り分けられた者として、聖なる者として、隣人との関りのど真ん中を通って、生きて行けたらです。どんなに素敵な人生なのかと思います。全生涯が隣人を敬って生きることは、神様によって願われている事だからです。キリスト者は、隣人を敬う側にいつまでも立つ者として、そのことを喜びとして生きることが望まれている。相手を叱り飛ばしたり、見下したりしない。自分の意見を押し付けたりしない。いつも教わる側に立って、いつも柔和で、全ての人に愛される年長者になってゆく。そしてそういう人が、実は、「当たり前のように長老を尊ぶ者」と、なっているのではないでしょうか。同時にそれが、聖なる者たちの姿でもあるのです。
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2017年09月03日

説教 『わたしのもとに来なさい』

2017年9月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書11章28〜30節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 誰もが「疲れた者、重荷を負う者は」と呼びかけられたら、「ああ、それは私のことだ」と、心の琴線に触れるのではないでしょうか。そこに加えて「あなたがたを休ませてあげよう」という言葉が聞こえて来たら、ホッとするのだと思うのです。

 でも原文では「疲れた者、重荷を負う者は」と、始まりません。「私に来なさい。我に来たれ」という命令から、この御言葉は始まるんです。そしてそのあとに、呼びかけられる者は誰なのかということが続いて、「疲れている者だよ」という順序なんです。つまり主イエスが「わたしのもとに来なさい」と宣言されたこと、そこが一番大切なことであるということです。

 そう呼びかけられるイエス様が、どういう歩みをされる「私」で在られたのか知っています。イエス様は、降誕される地上の歩みの初めから、最も暗い所に立たれたのではないですか。皆さん、イエス様の知らない苦しみはありません。私どもの涙はイエス様も流された涙なんです。そしてそんな御生涯の最後も、見捨てられた罪人として十字架に掛けられて死なれるのですよね。それらは、全て私どものためだった。そのイエス様が「私のところに来たら、あなたにも休みがあるから」と招かれたのです。今朝の御言葉から響いて来る慰めは、そうやって私どもとの関わりを結んで下さるイエス様が、「さあ私のもとに」とおっしゃったことに、慰めの源泉があるのだと思うのです。

 しかし、です。少し前の箇所を振り返ってみたら、イエス様がどれだけ熱心にお教えになられても、奇跡をなさっても、誰もイエス様のところに来なかったことが書かれています。その直後にイエス様が再び「わたしのもとに来なさい」と言われている。ですからイエス様のところに行くとは、単に傍で見ているだけじゃ駄目なんです。イエス様は、「聞いているだけ、見ているだけじゃなくて、私に結び付け」と叫んでおられるんです。それが29節、「わたしの軛を負いなさい」という一言になったのだと思います。私どもも教会に来て、今朝も礼拝堂に座っています。しかしその私どもが、ただイエス様の傍で傍観者として「今日も良い話を聞いたな」と言っているだけでは、福音は始まらない。イエス様が一歩、歩かれたら、首根っこを結び付けられたイエス様と足取りに合わせて私どもも一歩、歩みを進めるのか、それとも私は私と生きるのか、です。

 生き生きとした休みを戴く。それには、決心が必要とされています。「イエス様のもとに行く」ということです。逆にその一つの小さな決心だけで、全ての安心を戴けて、私どもの重荷は軽くして頂けるのです。その決意が、私どもの人生を変えるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:51| 主日説教要約

2017年08月28日

説教 『ラザロの復活』

2017年8月27日の礼拝
秋葉恭子牧師(日本基督教団富士見丘教会協力牧師)

ヨハネによる福音書11章33節〜44節
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。


 今日の聖書の箇所には、私たちのイメージとは異なるイエスさまがおられます。心に憤りを覚えるイエスさま、大声で叫ばれるイエスさま。極めつけは、「ラザロ、出て来なさい。」この「ラザロ、出て来なさい」という言葉は劇的な言葉です。罪と汚れ、その裁きとしての死は人間の命を、そして生きたことをむなしく不毛なものとします。手と足を布で巻かれ、顔は覆いで包まれ、そのうちに腐って死臭を放つ、絶望の極みの場所です。絶望の極みの場所、自らが犯しつづけた罪の裁きを受け、死に取り込まれる場所です。その裁きを無効にし、死を滅ぼすには、罪も汚れもない命そのものであるお方が、自らも死に取り込まれて死ななければならない。その死の後、復活するしかない。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれ、よみがえらせることによって、イエスさまは御自身の復活を鮮やかにお示しになっているのです。

 そのことを考えていくと、イエスさまの憤りがはっきりしてきます。イエスさまはマルタに仰いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。そして、マルタは答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。

 洞穴のお墓の前で、洞穴をふさいでいる石を取り除くように、イエスさまがお命じになったとき、マルタは「四日もたっていて臭う」からとためらいます。死んでしまったという絶望に捕らわれて、信じていることが事実として、身に刻まれていないのです。「信じております。」口では「信じている」と言うことができる。しかし、真実に信じているなら、できるはずのことができない、それが私たちです。イエスさまは、そのように人々を絶望に陥れる死というものに怒り、憤りを覚えておられるのです。そして、信じることができずに罪と死の縄目につながれて続けている人々を憐れみ、憤りを覚えておられるのです。

 人々がラザロの墓の石を取りのけると、イエスさまは神様に祈られました。そして、父なる神様にこう祈られたのです。41節「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」これから行うラザロの復活(蘇生)を「聞き入れてください」ではないのです。「聞き入れてくださって感謝します」なのです。主イエスは、既に父なる神様がラザロの復活(蘇生)の出来事を良しとして聞き入れてくださっている、そのことを御存知なのです。それ程までに、主イエス・キリストと父なる神様は一つであられ、一つの目的を、つまり私たちの罪を赦し、汚れを清め、父・子・聖霊なる神様の交わりに招きいれること、つまりこの私たちの肉も心も全存在を救いたいという、私たちを真実に復活させる目的を共有しておられたということなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:28| 主日説教要約

2017年08月21日

説教 『気を配るべきこと』

2017年8月20日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 4章6〜16節
これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。 これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。


 「これらのこと」(一節)とは、一章から四章五節までに述べられたこと。指導者としてまずは祈る事、倫理的資格も大切であること、間違った教えに気を付けることなど、です。これらを教えることが指導者の務めです。同時に、指導者は自分自身も「養われ」(一節)なければなりません。「(神の内に)住み続ける、とどまり続ける」と理解できます。他者を教えることにだけ心が向き、自分を教え、養うのを忘れてはなりません。そうでないと、「教師」にはなっても、「僕」にはなっていない恐れがあります。ですから、指導者は自らを振り返りながら、「自分を鍛えな」(七節)ければなりません。「体の鍛錬」(八節)も大切ですが、「信心=敬虔」(七、八節)―正しい教えと生活のための自己訓練―がより一層必要です。

 聖書の教えは、「今」のみを見るご利益主義でも「あの世」ばかり見て、この世をはかなむ厭世主義でもないからです。一一節で再度「教える」(六節)務めを確認します。やはり「教える」ことが牧会者の役割です。それには「模範」が伴わなければなりません。身に着いたものしか事実としては現れないのですから、牧会者の普段の神との交わりが問われるところです。

 一五節で「進歩」という言葉が使われています。当時のギリシア哲学が好む言葉だったようで、新約聖書で六回、うち三回が牧会書簡で使われています。イエスもパウロも自分を捧げて成長するよう勧めています(ヨハネ一七章一九節、エフェソ四章一三節)。牧会者は聖書の朗読・勧め・教えに「努める(勤勉に遂行する)」(一五節)ようパウロは再び繰り返します。そして、「離れてはなりません(打ち込む・没頭する)」(一五節)と念を押します。しかし、「教える」ことだけでは自己陶酔の誘惑に陥りかねません。「気を配る」べきは自分の生活や葛藤、人間性や対人関係に対してもです。主の働きの実現は自分を養うことにもあります。教えも説教も人を救うと同時に自分を救うものでなければなりません。加藤常昭牧師は、著書『説教論』の中で、自分が養われるような説教をするよう牧師たちに求めています。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 07:27| 主日説教要約

2017年08月13日

説教 『あなたがたのことを誇る』

2017年8月13日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 7章13〜17節
この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。


 私どもは人を誇る時、大抵その人の成し遂げた業とか、成し遂げ方に注目します。それなのにパウロは、行いや業績が何も分からないのに「その人たちを誇る」と言い出していたのです。それもその人たちとは、かつて不道徳に満ちた生活をしていて、パウロに怒られたコリントの人々なのです。その様子を知るために、テトスを使いに出していた。しかしなんとパウロは、テトスの報告を聞く前に、「コリントの人たちは私の誇りなんだ」と話していたのです。これはコリントの人たちがどんなに成長を遂げていたのかとか、偉業をなしたとか、そういうことには一切関わらない。誇れるような人になったから喜んだんじゃないということです。

 なぜそんなに揺るがない誇りを持てたのか、その誇りとは一体どのようなものなのか。カルヴァンは、新約聖書注解の中で次のように書いていました、「パウロがこんな風に喜んだのも、パウロが彼らの悔い改めを、何にも増して〈心に掛けていた〉からである」と。パウロは、人々が何が出来たか、どんな立派なことが出来るのか、そういう結果を見ていたのじゃありません。そういう結果の前に、「彼らも洗礼を受けた神の子供たちだから、父なる神の誇りの一人、そのゆえに、唯そのゆえに、私も彼らを誇りとする」ということだったのではないでしょうか。

 ふと思い起こしたのが、ルカ福音書にあるイエス様の放蕩息子の譬えでした。神の目から見たら、私どもは、「たとえ放蕩息子・娘になっても、御父に立ち帰って来てくれる。あなたは私の誇りの子たちだから」と、神様の方が信頼していて下さる、「神の誇りの一人ひとり」なんです。パウロは、そういう一人ひとりとしてコリントの人々を、神の子供とされた一人ひとりとして見ていたのです。だから彼らが、生活の乱れた放蕩息子状態であっても、テトスを送り出す前に、信じて言ったのです、「彼らを、私も誇っている」、そう言えたのです。

 キリスト者同士は、本当は誇り合うお互いとされている者たちです。それは天の父から「あなたは私の子供、私の誇りだよ」と言われている者たち同士だからです。放蕩息子のように、何でもできる自由こそ手に入れたいんだと神さえも服従させてしまうようなことをしても、やっぱり父の家に立ち帰ることを信頼されている。「我が子よ、あなたが誇りだよ」と声を掛けていて下さる天の父が居られる。その神の御心に添って兄弟姉妹を見る時、私どもも分かるんです「御父が誇りとするあなたは、私の誇りでもある、兄弟よ、姉妹よ」とね。パウロはそこに立ったのです。私ども相模原教会も、そういう群れでありたいですね。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:23| 主日説教要約

2017年08月06日

説教 『知る者に』

2017年8月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書11章25〜27節
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」


 イエス様は「心を尽くして語って来たのに、全ては無駄だったのか」と、人々の頑なさを嘆かれました。その嘆きをイエス様は、「父なる神も、一つの心のように分かっていて下さる、感謝だ」と、喜び出されます。さらに、御言葉を無心に吸って全てを委ねて生きる信仰の「幼子(赤ちゃん)」を、「父の御心の成就なのですね」と、喜び出されたのです。子なるイエス様と、父なる神とは、頑なな者への嘆きが、一つ心でした。さらに幼子への喜びも、一つ心でした。それを今朝イエス様は、父は子を「知る者」であり、子も父を「知る者」だと、「知る者」という言葉で、言い現わされていたのです。

 しかし、なのです。エッと思ったことがあるのです。それは、イエス様がボソッと「子と、子が示そうと思う者のほかには」と加えられたことです。つまり、父なる神と一つとなって知る者同士であるのは、子なる神だけでなく、「子が示そうと思う者」と加えられている。この「子が示そうと思う者」というのは、文脈から見て、明らかに「幼子」です。御子が御父を知る知り方に、人間がそっと加え入れられているということにです。いつの間にか、御子なる神に、私どもが寄り添わされているのです。これってどういうことなのですか。
それは、御子と御父が一つの愛の中で一体であられるように、御父は私どもにも、「お前のことも、御子と同じように愛しているから」と告げておられるということです。信仰の「幼子」は、その関係を無心に吸う者です。ただ吸って、それだけが命繋ぐ第1の糧となっていく者のことです。

 だとしたらです、そういう幼子なら「私は天の父に愛されている」ということが何よりも分かって、そのことさえ分かっているなら、生きる力が湧いて来るのかもしれない。自分の存在が神様に「肯定されている」と確信できるからです。神様から「あなたは何て麗しい存在なんだ」と喜ばれていると分かるからです。それを父の御心と一体となるようにして、知ることが出来る、そうなるなら、たとえ困窮の中を歩んでも、その嘆きを私どもと一つになるようにして分かっていて下さる天の父がおられることを、また四面楚歌の中でもなお天の父は「我が愛する子だと言っていて下さる」ということを、一つ心のように分かることが出来るということではないですか。

私どもは洗礼を受けた日、イエス様がおっしゃる「幼子」にならせていただいたのです。父なる神に結ばれた「神の幼子」なのです。それは、嘆きも悲しみも、神はあなたに一つとなっていて下さるということです。さら御子イエス様と同じように「天におられる私のお父様」と御父を呼んで、全てを打ち明け、心の重荷を一緒に受け取ってもらうことも出来るのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:09| 主日説教要約