2018年10月21日

説教 『パウロの労苦と苦闘の目的』

2018年10月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙2章1〜5節
わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。

  コロサイ教会の信徒たちが「キリストに結ばれて完全な者となる」(1章28節)、また「キリストを悟る」(2章1節)ために労苦し闘っているとパウロは言います。この目的を妨げる者(物)を放置することは彼にはできませんでした。割礼、食べ物飲み物、天使礼拝に「だまされないよう」(2章8節)と戒めていますが、現代に生きる私たちにとって、これらはメディアを通して流れている情報などに隠されているかもしれません。今も昔も、問題の根源は罪にあります。神から離れたことによってもたらされた神に対する不敬、人との対立、自己の中の矛盾。そこから生まれる諸悪。この罪を解決するのに神が用いた方法が御子イエスを世に遣わし、罪を贖うことでした。異端はそれを否定します。しかし、救いの道(方法)は、御子イエス・キリストしかないのです。人は例外なく幸せな人生、充実した生を求めます。それを地位や金銭や宗教に求めます。しかし、見出すことができるのはキリストの内において、だけなのです。「知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れて」(3節)いるのです。「キリストにおいて豊かな生が見出せる」(10節)のです。だから、「キリストに結ばれて歩み」(6節)たいのです。そのために、より深く祈り、より真摯に礼拝に臨み、より忠実に主に従いたいのです。祈りは神への祈願から神との対話へ、礼拝は義務から喜びへ、服従は強制から自発へ変わっていくことでしょう。それを助けるために、「愛によって結び合わされ」(2節)とあるように信徒の交わりも必要となってきます。なぜなら信仰の成長は交わりの中で育まれるからです。「我々はイエスを見くびるから姑息である。…イエスのごとき主を奉じ、これに身を托して、意気常に揚がらず喪家の狗然たるは理において有るまじき事と言わねばならぬ」(植村正久)。「すべての支配や権威の頭」であるキリストを更に求めましょう。
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2018年10月14日

説教 『一緒に抜かないように』

2018年10月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章24〜30、36〜43節
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 この世界が「畑」で、その畑に御子イエス様が「種」を蒔かれます。私どもはその「良い種」です。イエス様にそう言っていただいた通りに、私どもはこの世界を生きるようにと期待されているんです。しかしその世界に「毒麦」つまり「つまずきとなるもの、不法を行う者がやって来る」とイエス様はおっしゃいました。私たちが良い実を実らせようとしても、それを挫かせ滅ぼそうとする悪の力があるということです。

 私が最初このたとえ話で戸惑ったのは、たとえ話の主人が「毒麦を抜くのを止めなさい」と言われたことです。悪なのですから、早速抜いてしまうべきなのではないですか。それなのに、なのです。

 主はご自分に従って来ている群衆を見詰めながら、このたとえ話をなさいました。それは、彼らは元々良い麦だけれど、でも毒麦に取り囲まれたら途端に、弱ってゆく麦そのものだと知っておられるということです。つまり、「あなたがたは自分のことを強い根を持った良い麦だと思っているだろう。確かに良い種から芽を出した、天の父から見たら愛らしい芽だ。でも私はお前たちを知っている。この先お前たちは、お前を取り囲み絡め取り、巻き付いて来る悪によって、次第に弱って行くことになる」と。

 そのイエス様がおっしゃったのです「毒麦を抜こうとしたら、私の大切な良い麦まで抜かれてしまう。もうすっかり絡まれているから、枯れて力もなくなっているから、だからちょっとでも触ったら信仰が終わってしまいかねない、だから今は触れるな。毒麦は後回しで良いから」と。それは、「萎れて枯れたようになっている1本さえも、私には大事だから。私には、貴い1人なのだから」ということであったのだと思います。あなたは、主イエスがご覧になったら、萎れても枯れても、愛おしい御自分の良い麦なのですから。
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2018年10月07日

説教 『主から推薦される人こそ適格者』

2018年10月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 10章12〜18節
わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 パウロは、あなたを認めるのは気分屋の人間じゃなくて、主ご自身だと言います、18節「主から推薦される人こそ、適格者として(認められた者として)受け入れられるのです」と。確かに、私どもを認めて下さる方はおられます。でも私どもは、「主から推薦状をいただくのに相応しい者か」と問われたら、返答に口籠ってしまいませんか。

 主イエスが、私の推薦状を書いたらどういうことになるのかはすぐに想像がつきます。自分勝手に生きていた青年時代。洗礼を受けたのに、自分が神になって生きていたから、自分中心で平気で過ごしていた。その日々を神様は知っておられて、唾棄してしまいたい罪人が私なんです。だから「主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられる」と聞いても、自分はここにはいないなと気付いて…。でも、それでも、この御言葉に心惹かれるから、ここから離れられず、ずっと黙想を続け、ハッとしたのです。

 「主から推薦される人」とある「推薦」という言葉は、「一緒に立つ、傍に立つ」という意味を持つ言葉です。イエス様が傍に立って下さる私どもは、一体何者であるのか、それは「罪人」です。十字架の上でイエス様は、「自分の命を身代わりに捨てるほどに、大切にしたい人は、あなただよ。あなたこそが私の推薦したい人だから」と。そうやって主は、罪人を推薦して下さったのです。主は十字架の上で、私どもと一緒に立って、そうやって罪人を、ご自分の推薦する人と宣言して下さったのです。主の推薦状は、血で真っ赤に染まっていました。命がけの推薦状なのです。

 私どもには、心に刻みたいことがあります。たとえ人からの誉れがなくても、さらに自分でも自分を褒めようもないと落ち込んでも、私を推薦して下さるお方がおられるということをです。そのお方はイエス様、私どもの救い主なのです。
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2018年10月02日

説教 『初めに言があった』

2018年9月30日の礼拝
相模原教会協力牧師 秋葉恭子
ヨハネによる福音書1章1〜5節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 ヨハネは、主イエス・キリストを「言」(ロゴス)として、そして天地創造の時から神と共におられた、「初めに言があった」と紹介しました。ロゴスが本来持っている意味は「世界を構成している基本原理」です。そして、今日のテキストから、キリストを通して出来事を引き起こすダイナミックな神のみわざという具体的な意味が浮かび上がってきます。また、言葉本来の役割はコミュニケーションです。関係が壊れると口もきかない、回復すると言葉を交わすようになります。ロゴスである主イエス・キリストの出来事は、まさに、神様に背いた人間にとって、神様との関係を回復してくださる執り成しのため、赦しのための出来事でした。それは、人の魂あるいは霊をアガペーの愛をもって豊かに育む神様との関係の中に導くみわざです。

 「光は暗闇の中で輝いている」、まさに、ヨハネの時代も、2000年後の現代も、キリストの十字架は、暗闇を照らす光として輝いている、そのことをヨハネは力強く宣言しています。暗闇は欲望が支配する世界です。人間の欲望という塔は今も営々と築かれ続けその塔が落とす影、暗闇はますます広がり、その暗さを増していると、ヨハネは嘆いています。しかし、ヨハネは絶望してはいません。神様はあなたたちを暗闇から救い出そうとロゴスをこの世に送りました。今も、また暗闇のとき、しかし、絶望することはないのです。神様の愛の言が、救いの言が主イエス・キリストとして、暗闇の中で輝く光として現れてくださったからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:32| 主日説教要約

2018年09月23日

説教 『再び罪に心を留めない』

2018年9月23日の霊は
相模原教会牧師 辻川篤
エレミヤ書31章27〜34節
見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。その日には、人々はもはや言わない。
「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 バビロン捕囚の人々に、エレミヤを通して神様は「わたしは彼らを建て、また植えよう」と回復を語られます。さらに、34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を溜めることはない」とさえ言われたのです。そこに私はエーっと思ってしまいました。神様は「これまでの罪を赦そう」と言われているのではなくて、「これから先あなたの悪を赦したり罪を心に留めたり、そういうことはしなくても良くなるね」と言っておられるです。変ですよね。こののち人々は、本当に罪を犯すことはなくなったのですか?いいえ違います。

 全知全能の神が、この先の人間の姿を見通せなかったとでもいうのでしょうか。そんなはずはありません。34節の元々の言葉は、「悪を赦し」と「罪に心を留めない」という言葉は、単に未来のことを表す使われ方ではなくて、決意の意味も含むということです。ここを旧約学者の関根正雄は、次のように訳していました「本当に、わたしは彼らの罪を赦し、その咎をもはや思い出すことは、ない」と。私ども人間が、将来に罪を犯すことをしなくなるから、だから神様も罪を心に留めることが無くなるね、と言うんじゃないんです。たとえこの先に人が罪と過ちを重ねても、この決意は神が成就されるために、神が苦労して下さるということなのです。

 神様のこの言葉が実るのは、神ご自身の御子・イエス様によってでありました。主イエスが、全ての罪を背負って下さったから、もう償いのほうが先に終わらされたのです。私どもが罪を犯さなくなったからじゃない、私どもが自分の償いが出来たからじゃない。ただ神の側からの救いの御業のゆえに、今はもう天の御父の目から見たら、「再び罪に心を留めることはない」ということが、あなたに実現しているのです。だからその神の御心に、本気で心を添わせて生き始めるべきではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:09| 主日説教要約

2018年09月09日

説教 『秘密を悟る』

2018年9月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章10〜17節
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、
 決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


 イエス様が話しておられたアラム言葉で「たとえ話」とは「覆って分からなくする話」です。そこで弟子たちが不思議に思ったのは、話を聞こうと折角集まった群衆に、なぜ分からないような謎の話で話したのかということです。そう戸惑っていたら、他の箇所でもイエス様が「広めるな」と戒められていた場面があるではないですか。でも人々はイエス様の戒めなど聞きやしないで、「この方こそ奇跡の人だ」と触れ回ったのです。そのニュースを聞いて、ある者は自分に奇跡が欲しくって集まって来る。ある者はローマ解放の革命家が現れたと大騒ぎ。でもどれもこれも、自分たちの願望をイエスならやってくれると集まった人たちなのです。そこに至って、とうとう、たとえを用いて話をされることが始まったのです。

 なぜ直接語らず、また沈黙もされないのか? ふと1つ言えることがあるかもと思ったのです。それは、自分勝手にしか聞けない人々を前にして、イエス様の御心には、怒りが生まれたのではなかったということです。怒りは決別を生むけれど、主は違ったからです。「あなたの為に話したのに、あなたの為にして上げたのに、どうして何も分かろうとしてくれないんだ」と、悲しまれたのではないですか。その悲しみを抱えて、なお何とかしてあげたくて人々の元を去れられない。誤解されないように謎に包んで話すからと、そうやってやっぱり熱心に話し続けられたのです。それは「いつかあなたも天の国の秘密を受け取れる日が来る、だから今は包みに覆って渡しておく、それでも良いから受け取ってくれ」と、なお未来に期待して下さったということです。

 私はなかなか実りをつけない悪い木だけれど、イエス様は手を加え続けて下さる農夫なのです。主の方が私どもを信じて、悪い木に掛かりっきりになって下さるのです。そういう涙の農夫なのです。そうやって「天の国の秘密を、あなたも悟るように」とたくさんたとえ話を語って下さったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:40| 主日説教要約