2018年08月27日

説教 『御子イエス・キリスト』

2018年8月26日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙1章9〜23節
こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。


  小アジア(現トルコ)の一都市コロサイの教会に宛てたパウロによる手紙です。この教会は、彼の同労者エパフラスによって牧されておりました。手紙の冒頭でパウロが信徒たちの信仰と愛における交わりに感謝の気持ちを表しているように、教会は健全な成長を遂げていたようです。しかし、異端思想が侵入しているとの報告を耳にし、福音の正しい理解に立った信仰生活と教会形成を進めるようパウロは励まします。

 この異端を特定するのは困難ですが、天使礼拝・律法主義・神秘主義など様々な要素が入り交じっていることから推し量ると、「イエスのみ」による救いは不十分であり、プラスアルファが必要であると説いていたようです。そこで、パウロは13〜20節の間で12回も「御子」という言葉を繰り返し用いながら、イエスがいかなるお方かを説明し、救いは「イエスのみ」によることを確認します。御子は「神の姿」、神と共に創造された方、すべてを支える方、教会の頭、和解する方、すべてにおいて第一の方と説くことにより、「イエスのみ」の信仰に立つよう勧めます。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節a)がこの手紙のテーマです。

 かつて奴隷貿易に関わり、後に牧師となったジョン・ニュートンは彼が作詞した讃美歌(How sweet the name of Jesus Christ sounds)の一節をJesusはいかなる方であるかのみで綴っています。「イエス、私の羊飼い、兄弟、友、私の預言者、祭司、そして王。私の主、私の命、私の道、私の存在理由。私の捧げる賛美をお受け下さい」。「イエスのみ」で十分ではないでしょうか。いえ、イエスの他に救いはないのです。この方のみに賛美を捧げ、忠誠を誓い、御心のままに福音を伝え、福音に生きる者として頂きましょう。
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2018年08月19日

説教 『打ち砕かれた心を包むために』

2018年8月19日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書61章1〜3節
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。

 捕囚からエルサレムに帰還して来たのに、瓦礫の山となった都を見た人々の希望は、粉々に砕けたのです。そういう人々に向かってイザヤが、神様から「告げ知らせよ」と遣わされて、語り始めたのです。それは、1節「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には開放を告知させるために」でありました。

 それはまるで大きな風呂敷で、心の破片を優しく全部、拾い上げて包むようにです。それも、砕けてしまったあなたの心の良い所だけを拾うんじゃない。「憤りも、憎しみも、嫉妬や妬みも、そういう欠片を全部まとめて包み込む。罪を犯した心の部分を、それもあなたの欠片だから」と告げられたのです。それが、具体的に告げられてゆくのが、「灰に代えて、冠をかぶらせ(悔いて悲しむ心に、喜びの王冠を被せてあげるということ)」であり。「嘆きに代えて、喜びの香油を(喜びの香油とは祝いの印です。それをあなたの嘆きと交換してあげようと言われる)」、「暗い心に代えて、賛美の衣をまとわせる」であったのです。このイザヤの告知を聞いていた人々は、現実を前にして幻滅の中にいました。しかしその悔いも悲しみも、戸惑いも失望さえも、そして罪の心さえも全部包み込んで、「あなた自身を救う」と告げられたのです。

 殆どの聖書学者は、ここでルカによる福音書4章を開いていました。そこでちょうどイエス様が、このイザヤ書61章を引用して話をしておられたからです。「この聖書の言葉は今日、あなたがたが聞いたとき実現した」と。イエス様はおっしゃったのです「私が来た。だからこのイザヤの言葉は、私によって今あなたに実現しているのだ」と。つまり、イエス様は「この私があなたの打ち砕かれた心を包んであげる。私があなたを丸ごと包む風呂敷になってあげる。苦しみの欠片も、罪の欠片も全部包んで、私があなたの暗い心に賛美の衣をまとわせてあげるから」とおっしゃったということです。私どもを包むのは、イエス様ご自身です。

 私どもが自分の罪のゆえに纏まらない心を、イエス様は纏めて下さるために十字架に掛かられたのです。灰をかぶって悔い改めるべきなのは私どもだったのに。そのイエス様だからこそ、「あなたに、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせてあげるから」とおっしゃったことは真実であると分かるのです。だから私どもは、私どもの打ち砕かれた心を、この十字架の下に持って来れば良い。十字架の下に立つなら、私どもの耳にも聞こえて来る言葉があるからです、「あなたの打ち砕かれた心を、私が包むから。もう大丈夫だから」と。
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2018年08月12日

説教 『種は落ちた』

2018年8月12日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイ福音書13章1〜9、18〜23節
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


 広い土地に、農夫がロバを連れて種を蒔きます。種が入った袋を背中に乗せたロバが歩いた跡に、袋から種がポトリ、ポトリと落ちる。その種の落ちた場所が4つ描かれていて、道端と、石だらけと、茨の間と、そして良い土地でした。さてこの種を蒔く農夫の例えを聞いていた人々は、「自分たちがしている種蒔きも、そんな風に無駄がある。勿体ないけど、仕方ないよ」と思った人もいたでしょう。それでも例え話を聞きながら人々は、「この農夫って、我々とは違って、その種を気にして、ずっと目で追っているみたいだ」と気付いたかもしれない。自分たちは「無駄になるのもしょうがないよ」と思うだけで、いちいちその1粒を目では追わない。でもこの農夫は、つまり神様は、1粒を丁寧に追いかけておられるのです。

 そうやって種を見詰めていたら、コロコロと転がった先で、「何てことだろう、そこは人が踏みしめた堅い道端じゃないか。そこは石だらけじゃないか、茨だらけじゃないか」と、農夫の悲しみが生まれたということなのです。神様に溜息をもらさせてしまったということです。このイエス様の例え話は、種の行き先を見詰める父なる神の話です。そのお心の話なのです。ここに聞こえるのは、教育的訓示ではありません。「良い心になれ」と、お尻を叩くのでもないんです。繰り返し聞こえて来るのは、「種は落ちた。でもそこで、あなたのなかで御言葉は、奪い取られたのだ。枯れてしまったのだ、塞がれてしまったんだ。一つの実りも無かったのか」という、神の嘆きであるのではありませんか。

 でも、だからであります。何度も1粒を蒔く、忍耐して下さって繰り返し1粒を落とされる。その1粒の御言葉がであります。もしもついに私どもの良い土地に落ちたなら、それをご覧になったなら、なのです。辛抱し続けて下さった父なる神様が、繰り返された嘆きのあとについに、あなたの中に御言葉が実り出したのをご覧になったらです。そこにある神様の喜びは、どう表現して良いか分からないくらい特別に大きいな喜びとなるのではありませんでしょうか。まさにそれが23節、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった、ついに実りを結んだよ」との、神様の爆発的喜びなのです。イエス様は、あなたの天の父の喜びが、そのときどんなに大きいかを伝えたかっのだと思うのです。その喜びの特別さを伝えたかったと思えてなりません。

 神様は、1粒の御言葉によって私どもが花を咲かせて実りをもたらすようになることを、つまり御言葉の通りに生きるキリスト者となることを待っていて下さるのです。そこに神の喜びがあるからなのです。
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2018年08月05日

説教 『武器は、従順』

2018年8月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二10章1〜6節
さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。

 パウロは毅然として、2節、「わたしたちのことを肉に従って歩いているとみなしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かう」と。そのパウロが手にする武器が、4節で「神に由来する力」だと言われていたのです。

 「神に由来する力」って、敵を圧倒的に打ち負かしてしまうパワーだと思われませんか。この世はそういう力が一番大切だと思っているでしょう。でもパウロが、もしもこの世的なパワーで敵味方の戦いを開始するのだとしたらです。神様がその戦いに、「神に由来する力」をもって加担されると言うのでしょうか。そんなはずはないと思えてなりません。敵味方を作る中に、愛され愛するという世界が崩れるからです。それは、神の痛みであるはずだからです。

 この「神に由来する力」という言葉は、「忍耐をもって苦難や災難に立ち向かう、力強さ」です。苦難があったら、それをやっつけるんじゃないんです。苦難を忍耐して、むしろその逆に重荷を引き受けて、担い切るんです。アッと思いました、それはイエス様が十字架に掛けられた御姿ではないですか。イエス様が辿られた道は、他者をねじ伏せたのじゃなくて、御自分がねじ伏せられ、とうとう十字架の上にねじ伏せられて命まで奪われたのです。神の御子にパワーが無かったから十字架刑で死なれたんじゃない。むしろ全てのパワーを放棄され、父なる神への従順を貫かれたからではないですか。イエス様はご自分のパワーに生きるのではなく、御心への全き「従順」に生きられた。その御父への「従順」が、イエス様の、罪と戦う真の「武器」であられたのではないですか。

 御心に従う道は、人間には弱さにしか見えないでしょう。敗北にしか見えない。しかしそこに神の勝利がある。皆さん、これが「神に由来する力」であるのです。パウロは、知識においても、行いにおいても超一流でしたから、言い負かせることぐらい簡単だったでしょう。しかし彼は、キリストの姿に生きる、苦難の僕の姿に生きる、御心に従順であろうとしたのです。そこにあるのは、神の最善の計画の成就であり、神の勝利であると確信していたからであります。

 どんな場面でも、まず祈って御心を聞いて、その御声に従う人は、実は本当は強い人です。それはきっとそう生きる時に、血を流す思いをするのは自分だからです。それを引き受けるからです。キリストのようにです。でも、もしもそのように生きることが出来たら。そのあなたとキリストが一つになっていて下さるのです。そのあなたを通して、神の計画が前進するのです。神の勝利が起こされるのです。
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2018年07月22日

説教 『御名を唱えて、立ち上がる』

2018年7月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編20編1〜10節
指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
苦難の日に主があなたに答え
ヤコブの神の御名があなたを高く上げ
聖所から助けを遣わし
シオンからあなたを支えてくださるように。
あなたの供え物をことごとく心に留め
あなたのささげるいけにえを快く受け入れ
あなたの心の願いをかなえ
あなたの計らいを実現させてくださるように。
我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ
我らの神の御名によって
旗を掲げることができるように。
主が、あなたの求めるところを
すべて実現させてくださるように。
今、わたしは知った
主は油注がれた方に勝利を授け
聖なる天から彼に答えて
右の御手による救いの力を示されることを。
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。
彼らは力を失って倒れるが
我らは力に満ちて立ち上がる。
主よ、王に勝利を与え
呼び求める我らに答えてください。


 この詩の前半には「どうか苦難の日に、支えてください」と必死に祈ります。それなのに後半になって急に「今、分かってしまった。勝利を授けられると」と安心し切っているのです。まるでそこをヒョイと飛び越えて、安心な場所に着地している。何故そんなことができるのだろうか。それはこの詩人が、8節、「戦車を誇る者あり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」からでした。

 戦車を誇る者というのは、自分の武力とか策略とか、つまり人間の力で何とかしよう、支配できると考える世界です。でも詩人は、それと対比するように、もう一つ別の世界を語りました。それが「主の御名を唱える」という世界です。この「唱える」とは、「思い起こす」という意味の言葉です。「神様ご自身の現実が働いている世界」を、思い起こすのです。そのようにした時にでした。詩人は、人間の力に支えられる世界から、神の現実が働く世界へと飛び越えられたのです。

 人によっては、自分の人生を振り返って「あの時は不満だった、あの日は不運だった」と、不満ばかりを数えるでしょう。でも神様を知るということは、そういう数え方から解放されて、「どの時も神様は最善をして下さった、その御業を数えることが出来る」ということです。そしてそれこそが、恵みそのものだと思うのです、なぜなら、世界は神の働きに満ちていると思い起こせたら、未来も、神様が必ず働いて下さる現実の中にいるのだと信じることができるからです。たとえ今苦難の中にあっても、未来を神が恵みをもって支えていて下さると確信することが出来るんです。

 力強く胸を打つ詩編です。では、この歌を知っていた民は、このあと敵に恐れることなく進めたのかというとそんなことはありませんでした。朝は明るくて元気でいるけれど、歩き出したところで小さな苦難にぶつかるともう心配顔で歩いてしまう。その姿は、私にそっくり。でも、そんな人間だからこそです。そんな私どもを、誰よりも心配して下さるお方がおられるって知っているということが一番大事なんです。弱い私を見放さないで、なお関り続けて下さる方がいて下さる。そのお方が神なのです。私どもが神を忘れそうになっても、私どもを「神の現実が働かれる世界」に捕らえて、据え続けて下さるのは神様なのです。

 苦難に襲われることだってあるでしょう。でもその度に礼拝に帰って来て下さい。神が過ぐる1週間も、現実に働き続けて下さったことを思い起こすために。そこで、やって来る1週間も、神が働かれる世界に生きることを心に刻み直させていただくためにです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 19:11| 主日説教要約

2018年07月16日

説教 『主によって、キリストによって』

2018年7月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
フィレモンへの手紙17〜20節
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。


 フィレモンはパウロによってキリストに導かれた敬虔な信者で、裕福でもあったようで、彼の家は教会として開放されていました。オネシモはフィレモンの物を持ち逃げした奴隷。彼もパウロを通してキリストを信じるようになりました。法に従ってオネシモを送還しようとするパウロは、彼を愛によって迎え入れて欲しいとフィレモンに嘆願の手紙を書きます。それがこの書簡の目的でした。

 パウロが導いた二人の信者を取り持つために、「使徒」としての立場と権限を用いれば、思いのままに事を進めることはそう難しくはなかったと思われます。しかし、「囚人」「年老いた者」として自分を紹介し、へり下り、繊細に相手の立場を考慮しながらフィレモンの愛に訴えます。理由の一つは「キリストの完全さに到達するように」と訳せる六節bにあるようです。フィレモンには信仰における一層の成長が望まれていたのでしょう。私たちにおいても成長の目標はキリストであり、常にキリストに、より一層似る者となることです。先にキリストを信じた者として、私たちもパウロのように謙遜に丁寧に人々に対応しているかが問われているのではないでしょうか。人を導く時、次に問われるのは「人による対応を超えた神の介入」を思っているかです。持ち逃げした奴隷との「しばらく」(一五節)の離別に「いつまでも」(一五節)続く兄弟関係(パートナーシップ)を生み出す神の摂理(神の計画と配慮、神の目的の成就)を見ているかということです。

 人は現状のみを事実として見るが、神は可能性を事実として見るのです。パウロも一人の逃亡奴隷に可能性と神の御心を見て、執り成しをしました。「罪人の頭」である自分のために執り成したイエスを思うと、彼もそうせずにはいられなかったのです。更にその先に、使徒・主人・奴隷の関係を超えて、神との和解のためのパートナーとなれることを知っていたのです。私たちも皆、和解の働きのために召されたパートナーです。その関係は「主によって、キリストによって」(二〇節)しか確立する道は他にないのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 06:54| 主日説教要約