2019年05月26日

説教 『聖霊に満たされることを願って』

2019年5月26日の礼拝
日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授 ナグネ牧師

創世記11章1〜9節
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

使徒言行録2章1〜13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


 私達は言葉を用います。相手との意思疎通も言葉無しにはできません。しかし、その言葉を用いて争いが起こります。誤解が生じます。なぜでしょうか。それは愛が欠けているからです。バベルの塔の物語はなぜお互いが良く理解できなくなったのかを教えてくれます。それは人が他人よりも、神よりも優位に立とうとしたからです。常に自分が正しく、相手は間違っていると考えています。だからお互いを理解できません。

 しかし、聖霊が降った時、人々は異なる言葉で語りました。それは相手に理解できる言葉、愛の言葉でした。それが聖霊の働きです。だから神の霊が必要なのです。この聖霊の言葉を聞いた人々は天下のあらゆる国の人々でした。その人たちが揃って、「私たちの言葉」と告白できるほどの言葉でした。聖霊に満たされた人は自分を捨て、相手の言葉を探し求めます。それは相手を思いやる心、愛の心です。人間の自己神化を打ち砕くのが聖霊の力です。

 霊に満たされた人々は、言葉は異なっても、同じことを語りました。それは、イエス・キリストの証言です。イエスがキリストであると語る人々の集まりが教会であり、海外宣教は初めの教会からの御業でした。宣教とは自分の外に出ていく愛の行為です。聖霊に満たされると福音を伝えたくなる。伝えずにはいられなくなる。霊に満たされる時、愛に満たされます。愛することは、人間の努力ではできません。神の力が必要です。だから愛の霊である聖霊を求めて生きていくのです。

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2019年05月19日

説教 『福音が福音である訳』

2019年5月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎


人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。


 使徒パウロは軌道修正のためにこの書簡を書きました。ガラテヤの諸教会が福音から離れる危機にあったので、改めて福音とは何かを説き、福音にふさわしい生き方を示したのです。パウロは明らかに心を痛め、失望しています。「あきれ果てています」(6節)「呪われるがよい」(8、9節)と強く表現している通りです。理由は信徒たちが神から離れ、他の福音に乗り換えようとしているからです。他の福音などというものが存在するはずもありません。福音はただ一つで、パウロ自身が、Tコリント15章3〜8節で「最も大切なこと」として語っているもの以外にはありません。それは、イエス・キリストの十字架と復活の事実で、この事実を信じることで救われるという真理です。宗教改革者ルターは「今日でも福音は多数の教会において根本的に変えられている」と警鐘を鳴らしましたが、21世紀の今日でも同じことが言えます。福音を変えてしまう理由とは、一つに「人の目、人の評価」を気にするところにあるのではないでしょうか。「よく思われたい、受け入れられたい」という誘惑です。模範的人物に映っていたパウロも、実は「人に取り入ろうとして」(10節)いたのです。そうしながら「望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7章19節)自分をよく知っていました。しかし、復活のイエスとの出会いによって、その生き方と訣別することになります。イエスの一方的な恵みによって救われた彼にとって他の福音など存在し得ないのです。イエスの十字架と復活という福音を変質させてしまったなら、救いはないのです。受け入れられたいという誘惑に駆られることはあるでしょう。しかし、その弱さを自覚し、その都度悔い改めるなら、それが神の恵みの道筋を開き、そこを通って恵みが入り、福音を証しする者として私たちを立ち続けさせてくれるのです。「神の僕」として立ち続けさせてくれるのです。
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2019年05月12日

母の日の礼拝説教 「最初の約束」

2019年5月12日
相模原教会牧師 辻川篤
エフェソの信徒への手紙6章1〜3節
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。


 天におられて相応しい神が、私どもの救い主となるために、地上に降誕されました。そのお姿は、よりによって息子の姿であられたのです。

 その親でいてくださる御父が、どういう思いを持っておられたお方か、十字架を見上げる時にハッキリ分かります。人間を救うために天の親がされたことは、息子イエスを犠牲にすることでした。その日、息子が十字架に架けられるのを、御父は黙って見ておられたのです。どれほどの苦しみだったろうかと思います。この日、我が子を人間の罪の救いのために死なせる御父の呻きが、天に響いていたのです。その呻きを、息子であるイエス様もご自分と一体のようにして分かっておられたから、十字架に架けられる直前「御心のままに」と祈られたのではないですか。さらに、いよいよ十字架の上で息を引き取られる時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避けた」(マタイ27章)とある。御子だけが苦しみ悶えたのじゃない。父なる御神の苦しみを映すかのように、天も大地も、悶え苦しんだのです。改めてそう気付かされて、その上で今朝の御言葉を聞き直して分かったことがありました。それは、「父と母と敬いなさい。これは最初の約束」と言われていることは、「御父と御子を見詰めたら、天の父と御子の結びつきがどんなに貴いか分かるだろ。そのあなたなら、あなただから、御心によって縁組された地上の親子の間で、あなたも愛という絆において生きられる」と告げられていたということなのです。

 母の日の今朝、「父と母を敬いなさい」という戒めを、「これは最初の約束だ」と告げる中で聞きました。御父と御子との貴い結びつきが分かるからこそ、私どもの両親との関係も、そこに添わせるものとならせて頂きたいと歩みだすのです。そうやってこの御言葉に自分の歩みを合わせた日々に、必ず神様の祝福もあるのですから。
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2019年05月05日

説教 『故郷にお帰りになった』

2019年5月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章53〜58節
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。


 故郷のナザレ村に着いたイエス様が、会堂で教え始められた途端にです。人々は「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と自分の周りを見回して「この人は大工の息子だ」とか考えたのです。人々はイエス様を、イエス様ご自身を見ようとしない、出会おうともしない。イエス様自身を求めようとさえしない。

 イエス様も、ご自分が期待されないと分かっておられたでしょう。でもそこで、少しは悔い改めさせようとか、奇跡で目を開かせようとか、そういう目的があって村に帰られたんじゃないんです。何かを成し遂げる目的を持っておられたんじゃない。ここにある出来事は、主が、ご自分を求めず、無理解で、嘲る人々、そういう姿になる人たちの傍に行かれた、ただそれだけなんです。そして、ただそのことのために故郷に帰られたということ、その1点は確かなことであるのではないですか。

 今朝知るのは、イエス様はご自分が求められていないとご存じであっても、ご自分が期待されてもいない信頼されてもいない、頼られてもいないと分かっておられるのに、それでもイエス様は「そのあなたに会いたい。そのあなたに会わなければ、ただあなたの傍に行きたいから」と、意を決して私ども頑なな「心の故郷」に帰って下さるということです。傍に来て下さることそのものが目的だからと、私どもを求めて下さるのです。あなたは、自分でも気づいていない時にも、あなたの傍に行かねばと近づいて来て下さるイエス様に支えられています。悲しみが余りにも深くて、主を求めることさえ忘れる日でも、自己本位になって勝手気ままに過ごしてしまっている日々でも。それでもその只中に、「あなたの所へ行かねば」と、たとえご自分が敬われないと分かっていても、そこに一緒にいようとして下さるイエス様がいて下さるのです。そのお方が、神であられるイエス様。そのお方が、あなたの救い主であられるイエス様なのです。
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2019年04月29日

説教 『新たに生まれさせ』

2019年4月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ペトロの手紙一 1章3〜5節
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。


 私どもは、「生まれ変わりたい」と思うほどの日々を通ることがないでしょうか。心の持ちようではどうにもならないと分かっていて、だからそこで「今の自分を全部取り替えたい」という思いが起こる。そういう私どもにみ言葉は語りかけるのです「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と。この「神の憐れみ」ですが、ペトロの場合は、「人間が抱えてしまう現実の苦しみに、神が一緒に苦しんで下さること、神の共苦、神のコンパッション」です。そんな為さり方は、人間には考え付きもしないことでした。神が人と共に苦しむなんて、神が人の罪をわざわざ背負うなんて、神が死ぬなんて、尋常ではありません。そうです、正に尋常でないことが十字架の上に起こったのです。十字架の上には、目に見える「神の共苦」があったのです。だからです。私どもがどんな苦しみの中にある時も、十字架に至るイエス様が受けた嘲り、鞭打ちで裂かれた肉体の痛み、人から見捨てられた痛いほどの悲しみ、とうとう十字架に架けられた「死」を思い起したら、そこに私どもの苦しみで重ならないものは一つもないと分かる。全てをなめ尽くすようにして、イエス様は死に至られたからです。

 でも私どもは十字架を見上げる時に、そこに見るのは、イエス様の「死」だけではないことも知っています。復活祭の礼拝で知ったからです、「イエス様は十字架上での死を、私どもと一緒に歩くように歩いて下さったのち、しかしその死を打ち破って、ご復活された」と。苦しみと死が、そこで行き止まりの終着駅ではないことを、復活の主は現わしにして下さったのです。そして、「あなたも、こうやって新たに生まれさせられる」と、甦りのお姿をも見せて下さったのではないですか。ご復活のイエス様が、「あなたは苦しみも死も通るだろう。辛いだろう、しかしあなたもそこで終わらない。私のように新しくされるのだ」と教えて下さったのです。
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2019年04月21日

イースター説教 『イエスが行く手に立っていた』

2019年4月21日(復活祭・イースター)
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書28章5〜10節
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


 主イエスご復活の知らせを、墓の前で天使から聞いたマリアたち。その知らせを弟子たちにも伝えるために走り出したのです。その時の思いを一言で「恐れながらも大いに喜び」と伝えていました。それは半信半疑だからです。喜びたい思いはあります。でもご復活の知らせを喜びたいという信仰と、死には抗えないのではないのかという疑いと、片方ずつに、片足ずつで立っている。片足信仰なんです。だから半分信じて、でも半分疑っている。彼女たちは、自分がつくり出す現実に片足を絡まれながら、神が招く喜びに片足をそっと入れながら、もつれつつ走っていたのです。

 その道の途上で、でありました、9節「イエスが行く手に立っていた」のです。それは、半分自分の現実主義に足を取られ、でも半分喜びたいと望みつつ走る、そのもつれつつ走る道のど真ん中でということです。それもこの「行く手に立っていた」という言葉は、本来は「出会う」という意味の言葉で、つまりイエス様は、マリアたちがもつれる足で走る道の途上で、ここで出会わなければならないんだと、待っていて下さったということです。先回りして、マリアたちをここで受け止めようとしていて下さったのです。そのようにしてマリアたちの歩みの行く手に、主が立っていて下さったのです。

 そこでイエス様は、日常の挨拶言葉で「おはよう」と言われます。まるで普段着の「おはよう」で、「私はあなたの日常生活の中に、復活して立っているんだ、死に勝利したのだ」とマリアたちに悟らせたのです。私どもも生活の中で、死への恐怖に何度も襲われるでしょう。でもその道でご復活のイエス様は、必ず出会わねばならないというようにして、私どもの行く手に立っていて下さるのです。そこであなたに出会って「おはよう。喜べ」と語り掛けて下さるためにです。だから安心してイースターの喜びの礼拝から、日常の生活へと出て行こうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:45| 主日説教要約