2019年02月24日

説教『この方の豊かさの中から』

2019年2月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書1章15〜17節
「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。


 「この方の(イエス様)満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」16節。この「恵み」って何だと思われますか?直訳は「恵みの/代わりに/恵みを/受けた」です。つまり恵みは、古いものから新しいものに一新されたということです。律法を厳守した人がご褒美のように与えられる恵みが、古い恵みです。でも誰もが、神様が「こう生きよ」と言われているのに、「はいはい」と生返事で、自分の都合に合わせて御言葉を削ったり、変えたりして、やりたい放題で生きて来た。そんな人間を、神様が怒られないはずがないではないですか。それは私どもにぶつけられねばならないはずだった。それなのに神様は、事もあろうか、ご自分の御子に全部ぶつけられたのですよね。その怒りの激しさゆえに、御子イエス様は、神の怒りに打たれて死なねばならなかったのです。それが十字架の出来事だったのではないですか。そしてそこで人は、初めて、自力ではどうやっても手にできなかった、救いの恵み受け取ったのです。
 そこから、そこからだけ、あらゆる恵みも流れ込みます。神様からの恵みを受け取ることを阻む壁が、もう取り払われたからです。十字架の恵みを信じたら、誰でも、イエス様からの具体的な恵みの受取人ともされるのです。
 誰の人生にも長い日々の中には苦しみがあり、悩みだっていっぱいある。病がある。「どうして私が、私だけが」と思う理不尽なこともあるでしょう。さらに繰り返してしまう自分の罪がある。そういう人々に、今朝御言葉は告げるのです「あなたは呻くだろう、それは分かる。しかしあなたよ、辛いという言葉が、キリスト者の最後の言葉ではない。あなたも主イエスの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたから。あなたは、新しい恵みの受取人なのだよ。だからあなたの最後の言葉は、『苦しみはある、しかし私は、新しい恵みの中にいる』と言って良いのだ」と。
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2019年02月18日

説教 『天におられる主人』

2019年2月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙4章1〜6節
主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

 本書簡を通じてパウロは「すべて」「どんなこと」を頻繁に用いています。また、キリストが主人であるという表現も頻出します。後半のこの部分では、夫・妻・子・奴隷・主人に対する勧めがなされていますが、要はすべての人の主人はキリストであると宣言しているのです。これを忘れると、例外なく自分自身が主人になってしまいます。謙遜を身に着けることは何と難しいことか…。傲慢になる人間の傾向―性―をパウロはよく知っていました。彼にこの傾向を思いとどまらせたのは「罪人の頭」(Tテモテ1:16)という自己認識でした。神の恵みにより、イエスを通して赦された経験がないと決して言えない言葉です。そして、その告白を真実に保つには継続的で現在進行的な祈りが不可欠なのです。それ故に、パウロは「祈りなさい」(4:2)と勧めています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(3:10)には、祈りの生活の確立が必要なのです。祈りの生活の3つの要素は、@聖書を読む;A個人の祈り;B執り成しの祈りです。御言葉と共に居る時、私たちは立つべき確かな根拠と、なすべき歩みへのはっきりした方向づけが与えられます。祈る時、罪から守られ、霊的に成長し、労働のための誠実さと力が与えられます。そして、執り成しは務めであり、執り成す時間こそが、新しい喜びの源泉なのです。パウロは「祈ってください」(4:3)とも求めています。自分を下に据えていると言えます。祈り、祈られる関係に上下関係はありません。そして、共通の祈りの課題は福音宣教です。御言葉のために門が開かれるように祈るのです。この時、開かれたのはパウロの解放という門ではなく、幽閉の中で福音を記すという門でした。人の思いと神の思いは違うのです。あくまでも神こそが主人なのです。すべての者の主人である神にひたすら仕えましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:57| 主日説教要約

2019年02月03日

説教 『天の国を見つけた人』

2019年2月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章44〜46節
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。


 「天の国(神の恵みの支配)」は、私どもの生活で見つけることが出来るものです。でもイエス様は、それを手に入れるには「持ち物をすっかり売り払って、それを買う人だ」と言われたのです。「先のことを考えたら、少しは残しておかないと」と思うのは私だけでしょうか。しかしそれでは、自分の側にまず取っておいて、「残り物」で神の恵みを戴こうとしていることです。これは御父に見られたら、「天の国」を軽んじている姿でしかない。イエス様はこの例え話をなさりながら、「あなた方は神の恵みの支配の中で暮したいと言うだろう。しかし誰も彼もが『現実的には無理だよ』と、背を向けるだろう」と。それが、自分を優先させる、人の存在の奥に潜んでいる「罪」そのものの姿であるのです。もう私どもは、「天の国」を手にすることなど叶わないのでしょうか。

 もしも、です。もしも、イエス様が仲裁人として、そこでなお「あなたが天の国を 手にして欲しい」と願って下さって、御父に執り成して下さったらです。アッと思いました。

 私どもは自分中心でいる罪人であるけれど、それでもなお、「神の恵みの支配」を手にしたい。その時まず人に必要なのは、何よりもその罪を償い切ることです。それは、私どもが持ち物を売り払ったとしても、償いに到底足りるものなんかじゃない。だから、イエス様がたったお一人で決意して下さったことは、ご自分が償いの身代わりなられることだった。それが、十字架の上で死なれたということであられたのではないですか。罪人が天の国を受け取るために必要な全ての代価は、イエス様が持てる全てを売り払って、つまり御子の位も、命をさえ捨てて、私どもの代わりに払って下さったのです。そうやってのみ「天の国」は、自分の罪の重さに失望しかけていた私どもの手に握らせていただけるものとなったのです。それは事実、私どもの手に届けられました。洗礼が、私たちを、「天の国の受け取り手」に、変えたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:12| 主日説教要約

2019年01月27日

説教 『キリスト婚約させた』

2019年1月27日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 11章1〜6節
わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。


 パウロは、コリントの教会のキリスト者に言うのです、「あなたがたはキリストと婚約したのだ。それがキリスト者だ」と。それで私は、神の御子との婚約で、どういう約束を交わし合ったのかと、ふと思ったのです。そこから説教準備で「キリストと結ばれるために、私の側がお渡しできたものが何かあったかな」と思い巡らし始めたのです。

 神の御子が婚約して下さった日、私どもが御子に差し出せたものは何だったのか。確かに私が持っていた、少しの善意があったかも知れない。悔い改める心もあったでしょう。でもそんなものは、天地創造の神の御子に結納品として交換し合うには余りにも貧し過ぎる小ささ。その逆に私が、山ほど持っていたものがある。それが、罪なんです。的外れに生きて来て、そこで罪を重ねて、隣人を傷つけて来た。それでも平気で、「この世で生きるには仕方がない。むしろ弱肉強食は必要悪だ」と、恥とも思わず、償いもせずに通り過ぎて来た。その姿は、イエス様の目から見たら不釣り合いな者でしかないのです。

 でも、そういう私どもが、御子の前に正座して、恥ずかしい自分の罪と過ちをお見せした時に。そこで、だったのです、キリストはそこで私どもの罪を見て、驚くべきことに「それで良い、お前の罪をもらおう」と全部引き取って下さったのではないですか。だから、イエス様が私の犯した罪の償いをされなければならなくなって、死んで償われたのではないですか。それが十字架の出来事だったのです。私どもとキリストとの婚約を形にした出来事、それが十字架だった。お返しにイエス様から、婚約のためにと私どもの差し出して下さったのは、神の御子が持っておられた、神の義だったのではないですか。そんな交換、神にとっては大損でしかない。でも神様は、その婚約こそが、「愛するあなたを見つけた、私のパートナーを見つけたよ」と言って下さる喜びであったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:55| 主日説教要約

2019年01月20日

説教 『すべてをイエスによって』

2019年1月20日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙3章12〜17節
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


  キリスト者には倫理道徳的に高い基準の生き方が求められていると言ってもいいでしょう。確かにそのように思わせる勧めがこの箇所にも記されています。このような生き方に対して「息苦しい」とか「つまらない」というイメージを持つ人も居るかもしれません。なぜ、キリスト者が聖い生活をしなければならないのか、その根拠がここに記されていると思います。「ですから」(1節、12節)に手掛かりがありそうです。「キリストと共に復活させられ」(1節)―新しい価値観・生活観で生き始めた―、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」(12節)の「ですから」、ここに記されている「コ」は目指すべきであると同時に当然の結果でもあるのです。旧約聖書でイスラエルが選ばれたようにキリスト者が選ばれたのは特権を得るためではなく、神に仕え、神の栄光を表わすためでした。世から聖別(切り離)され、神との関係を持つようにされたのも神に献げられた者として神に用いて頂くためでした。「愛されている」のも、互いに愛し合うことにより、わたしたちを通してイエスを「皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)ためです。このような恵みの中に置かれているということは、自分の救いのためだけでなく、神の働きのために、神の器として用いて頂くためなのです。「世の知らざるもの、我知るなり」とされるのですから、世とは違う生き方になるのは当然ではないでしょうか。代表的なのが礼拝です。キリスト者は、16節に記されている感謝・キリストの言葉を宿す・教え・ほめたたえるのです。そして、「すべてをイエスの名よって行」(17節)うのです。この勧めに重荷を感じるかもしれません。しかし、「イエスの名」を負うとは、イエスの代理人とされ、神の所有となり、保護の許に置かれ、神を知ることですから、責任と共に実行するための恵みも注がれます。選ばれ、聖別され、愛された者として歩み続けましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:17| 主日説教要約

2019年01月13日

説教 『新たな力を得』

2019年1月13日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書40章27〜31節
ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


 この時イザヤが語りかけた相手は、「私たちはこんなに苦しい生活をしているのに、神様は分かってくれない」と嘆いていた人々です。それに対してイザヤは「神様はあなたがたのことを分かっている。いやそれだけじゃない。主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と語りかけたのです。

 この「新たな力を得る」という「得る」という言葉は、「入れ替える」とか「良いものに交換する」という意味を持つ言葉です。つまり、自分がずっと願ってきた延長線上で、それを得るというのではないのです。自分の願って来たものと全く違うものに、交換されるということなんです。確かに神様は、私たちがどんなに苦しみ、そこでどんなことを望んで来たかも全部知っていて下さいます。でもそこで「もうだいぶ苦労して来たから、あなたの願い事をそろそろ叶えてあげよう」というようにして私どもに力を与えて下さるというのではないのです。神様は、私どもが考えもしなかったような輝く希望を、私どもの頭の中や心の中でグルグルと巡らしていた古い思いと入れ替えるとおっしゃるのです。全く新しい世界を始めるぞとおっしゃるのです。その新しい世界が、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」という世界なのです。

 現実に目の前にあるのは、今までと何も変わらない暗闇であるかも知れない。しかしなのです。信じるということは、神様は私の、このトンネルの中に来られるのだからアッチに行ったり、コッチに行ったりするまい、ということ。そうやって待っている私どもの現実に、神様の方から来て下さる。そこで「新たな力」を受け取るのです。そこが受け取る場所だからです。神の御業は、決して遅過ぎることはありません。だから、神様を求めることに身を潜めて、離れないで下さい。そこでいつか、自分の古い計画や思いを越えて、神の御業を喜ぶ私になっている日が来るのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約