2017年10月22日

説教 『立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださる』

2017年10月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

歴代誌上22章11〜16節
わたしの子よ、今こそ主が共にいてくださり、あなたについて告げられたとおり、あなたの神、主の神殿の建築を成し遂げることができるように。 賢明に判断し識別する力を主があなたに与え、イスラエルの統治を託してくださり、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。あなたは、主がイスラエルのために、モーセにお授けになった掟と法を行うよう心掛けるなら、そのとき成し遂げることができる。勇気をもて。雄々しくあれ。恐れてはならない。おじけてはならない。見よ、わたしは苦労して主の神殿のために金十万キカル、銀百万キカルを準備した。青銅も鉄もおびただしくて量りきれない。材木も石材も準備した。更に増し加えるがよい。あなたのもとには多くの職人、採石労働者、石工、大工、あらゆる分野のあらゆる達人がおり、金、銀、青銅、鉄も数えきれない。立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように。


 ダビデは息子ソロモンに、11節「今こそ主が共にいてくださり…主の神殿の建築を成し遂げることができるように」と告げ、続けて「勇気を持て。雄々しくあれ」と励まし、さらに最後に、16節「立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように」と締め括ります。若いソロモンにとって、彼の経験では中身が把握できないような大事業・神殿建築です。でもそれをダビデは「主が共にいて下さる」という言葉でサンドイッチしたのです。たとえ未熟でも「これは主が共にいて下さる恵みの事業なんだ」と直感できるためでした。

 そういう今朝の御言葉を聞いた時にです。ふと思ったことがありました。それは、私どもは何となく「主が共にいてくださる」という御言葉を聞いて、「ああ良かった、有難や」と安心し切って、そこで立ち止まって、ちっとも立ち上がろうとしないという事をしてしまうんじゃないでしょうか。でも神様がダビデの口を通してソロモンを招かれた時、「わたしが共にいる」ということと「立ち上がって実行せよ」ということとは、分け難く結びついているのです。「神の計画が成就されるために、残されたことが一つある。あなたが立ち上がって実行することだ」ということなんです。つまり、神様が共にいて下さるという場所は、私どもが決めようとする小さな世界じゃないからです。私どもの手に中に入るだけの小さな世界の、外に、神の御計画の世界があるからです。

 神の御心のままに、御計画の方へと立ち上がることを、最も厳しい状況の中でなさったお方は神の御子イエス様です。イエス様は、目の前に十字架に掛けられて死ぬことが待っている。その重さを分かりつつ、ゲッセマネの園で「しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られたのではないですか。そして立ち上がった先に、全ての人の救いという天の父のご計画が成し遂げられたのですよね。

 私どもは、自分の考える居心地の良い所にいつまでも座り込んでいたいです。そこに安心があるように思えるからです。しかし、信仰の生活の中で、神様は私ども一人ひとりを呼び出されるのです。そこは、私どもが思ってもいない高みかもしれません。自分では無理と思えるような奉仕かもしれません。そんなのNOと言いたい神の御業への参加かも知れません。でもそういう私どもに、神様は「わたしがあなたと共にいるから」と、神の約束でサンドイッチしてくださって、その上で招かれるのです、「神の計画に、あなたが一歩踏み出して欲しい、さあ立ち上がり、あとは実行するだけだよ」と。神の恵みを受け取る人生の場所へと、招いて下さるのです。
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2017年10月15日

説教 『神の人への勧め』

2017年10月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テモテへの手紙一 6章11〜16節
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


 第一の手紙を閉じるにあたり、筆者パウロが指摘するポイントをいくつか振り返っておきます。
 一、指導者テモテと教会に託されていたのは「福音」。福音とは(a)聖霊によりおとめマリアは身ごもり神の子を生んだ。その子はイエス・キリスト、(b)すべての人の罪の身代わりとなりイエスは十字架で死んだ、(c)三日目に死より甦り、死を滅ぼし、神と共に生きる命を与えてくださった。

 二、福音を語り、それに生きるのは「戦い」である。
 三、この戦いの中でまず勧められたのが「祈り」。手紙の終わりに来て、パウロはテモテを「神の人」―旧約の概念で、モーセ、ヨシュア、サムエルに用いられている―と呼び、「ひたすら主に喜ばれるものである」(Uコリント五章九節)こと、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める」(六章一一節)よう勧める。イエスは、これを「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と表現しています。

 イエスは神の御前に生きました。パウロも神とイエスの前で真実であるよう生きてきました。同じように生きるようにとテモテに教えます。この手紙をテモテと共に聞いている信徒にも協働者としてテモテを助け、支えるように勧められています。このような生き方を貫こうとすると、この世との「戦い」が当然起こります。金銭・知識・地位・支配等との戦いです。これらへの誘惑の始まりは「欲」です。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ一章一五節)。パウロにとって戦い抜く秘訣は、「試みに遭わせることなく悪より救い出したまえ」と祈りつつ、「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ三章八節)を一層増し加えることでした。イエスのすばらしさを知れば知るほど、それ以外のすべては「塵あくた」となるのです。この実感を持ちながら「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(Tテモテ四章一三節)とパウロはテモテに勧めるのです。そして、信徒は語られた恵みに共に与るのです。
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2017年10月08日

説教 『散らされた人々が、語りかけた』

2017年10月8日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

使徒言行録111926

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。


エルサレムで迫害に苦しんだ人々が、居場所を求めて北へと逃げます。19節に「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」とある通りにですしかしその新生活は、何もかも整った引っ越しなんかじゃありませんでした。それなのにです、「生活を守って下さい、見つからないように」と言うどころか、20節「ギリシア語を話す人にも語りかけた」というのです。そんなことしたら「あんた、あのステファノの事件を知らないのですか、熱狂主義者に捕まるぞ」と忠告されてもおかしくはない事じゃないですか。それなのに彼らは、全ての人に語りかけたというのです。


ある日、ある信仰者が、ユダヤ人以外に話をしてみたのです、「あなたも、本当の幸いの話を聞かないか」と。その時でした、人々がキリスト者の語り掛けを聞いてくれるという出来事が起こったのです。考えたら、何よりも彼らは難民としてやって来ていたから、着の身着のままで逃れて来た漂流者と見られていたはずです。お金も、名誉も、評判も、一つもない。無名の難民として流れ着いた。その故に彼らは、アンティオキアの全ての人の底辺に立つ者となっていたということではないでしょうか。そのどん底からなのです、彼らは「イエス様はこんな私のために命を捨てられたのです」と生き生きと語り出したのです。


アッと思いました。彼らの立っていた場所は、イエス様が立たれた場所と同じだったんだと気付かされたからです。誰からも認められず、誰からも必要とされなかったのはイエス様です。天から降って来られた神の御子なのに、人はそのイエス様を、天からの難民扱いにしたのです。嘲られ、唾を吐きかけられ、鞭打たれ、とうとう十字架に掛けられたのではないですか。神なるイエス様こそが、どん底に立って下さったのです。それは、そこから私どもに福音を届けるためにです。


その主が、無名のキリスト者たちと共におられたのです。そして彼らを用いて、御業が起こされて行ったのです。彼らはそれを目の当たりにして、気付かされたでしょう、「自分たちは価値無き者のように扱われて来た。そんな自分たちなのに、このアンティオキアで、そんな自分たちを通して神の力が働いている」と。そして「私たちはここに呼び出されたんだ。ここで用いられる者となるために。それが初めからの神のご計画だったのかも知れない」と。喜びに震えただろうと思うんです。


神の計画は常に、人間の思いや計画を超えて先行するのです。その道を、その時は気付きもせずにトボトボとでも行く時、「私の歩みは、神の臨在される中にあった。私が用いられる場所へ、私は運ばれて来たんだ」と気付かせてもいただけるのです。

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2017年10月01日

説教 『神殿よりも偉大なものがここにある』

2017年10月1日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書12章1〜8節

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」



安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちに、ファリサイ派の人々が抗議しました、「穂を摘んだのは刈り入れる事だから仕事に入る。その穂を手で揉んだのは脱穀作業に当たる。中身を選り分けたのは収穫作業だし、ごみを除いて食べたのは食事の用意という仕事だ。お前たちはいくつ律法違反をしたのか分かっているのか」と。笑い話か、とさえ思ってしまう。でもファリサイ派の人たちは「我々こそが律法をよく理解している。イエスよ、お前は安息を与えると言っておきながら、その逆に、弟子たちに安息させないで仕事をさせたことになるんだ」と本気で言ったのです。


私どもは彼らの話を聞いて、窮屈さしかないように思えませんか。むしろ人間が求める安息を粉々に砕いていたのは、ファリサイ派のほうです。それは彼らが「自分の解釈こそが正しい」と言い出したところで、自分中心の世界に閉じこもったからです。主イエスから離れたからです。そこで神様が見えなくなっていた。そして実は、自分の主張しか無い世界、自分しか居ない世界となっていたから、傍にいる空腹を抱えた生身の隣人の姿も、見えなくなってしまっていたのです。


そういう時に、「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と全ての人を招かれたイエス様が、安息を巡る話を始められたのです。「父なる神の御心は、お腹がすいて弱っている部下がいるなら、“食べても良いよ”という思いを優先させるのが、神の御心だ」と。それをさらに、ホセア書を用いて「神の願う世界は、隣人に憐れみを注ぐことだ、愛することだよ」とおっしゃったのです。神の御心でみるならば、空腹の弟子たちが麦畑の中を通る時、「律法によって食べるな」じゃなくて、「食べても良いよ」が、告げるべき言葉じゃないのかとおっしゃったのです。


そしてそれに加えてイエス様は、6節「神殿よりも偉大なものが、ここにある」とおっしゃったのです。それは、「今までは、人間の方が、神に遭うために神殿まで出掛けて行かなければならなかった。しかし今は、神である私の方が天より降って来て、あなたの傍に来た。あなたを訪ねて近づく神である私が、ここにいる。神の方があなたの所に来たという出来事が、ここにある。さあ『神殿よりも偉大なものが、ここにある』そのことを見るんだ」とおっしゃったということなのです。


そのイエス様に安息があるのです。それは逆にイエス様から離れたら、自分へのこだわりに逸れて行ったら、そこには自分の平安も、隣人との平安も失うことになるのです。主は私どもを招いておられます。「偉大なものがここにある、私がここにいる。その私のもとに来たらいい。あなたの望む平安があるから」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:09| 主日説教要約

2017年09月25日

説教 『喜びと貧しさがあふれ出て』

2017年9月24日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 8章1〜7節

兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


ここには、並べて書かれるはずのない言葉が並んでいます。「激しい試練を受けている」と「満ち満ちた喜び」と「極度の貧しさ」と「惜しまず施した」です。この人々は、厳しい迫害で極貧の生活となっていたようです。しかしその貧しさの中で、彼らは喜びにあふれ出し、施す側に加わったのです。それも3節には「力以上に自ら進んで」とありました。彼らは、出しても良いというラインを超えて、自分が痛いと思うところまで、隣人に与えてしまったのです。パウロがその姿を見て驚いてしまうほどのことがに起こっていたのです。


何故なんだろうと、何日も思い巡らしていました。すると、先ほどの「聖なる者たちを助けるための慈善の業」とある「助ける」という言葉が、「給仕する」とか「もてなす」という意味だということに目が留まったのです。彼らは身を切って献げているのに、上に立つのではなく給仕する側に立ったのです。つまり僕になって、下に立ったのです。そう知った時に、彼らの姿はまぎれもなく十字架の主のお姿と一緒だと気付かされたのです。イエス様が捨てられたのは、いのちだけではありません。あらゆる尊厳も剥ぎ取られました。貧しさの極みがそこにあった。そうやって人に仕える僕となられたのです。「人々は、十字架のイエス様と、同じ所に立とうとしたんじゃないだろうか。そうだ、彼らはキリストに倣いたかったんだ」と気付いたのです。


そう気付かされた時に、改めて今朝の聖書の始まりに「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と語り出されていたことが、貧しさの中にいる人々が尽くす側に立ったことに、繋がるように思えたのです。貧しい人々が喜びにあふれて相手に尽くせた姿が「神の恵みそのものだったのかも知れない」と思ったからです。私どもは大抵、「神様からの恵みがありますように」と言う時、その人に神様が何かを益々加えて与えて下さることを考えます。だから、自分の持っているものが減ってしまうと、それは恵みなんかじゃないと考えやすい。でも聖書は告げるのです。マケドニアの信仰者たちは、何かを戴くことが恵みじゃなくて、それを遥かに上回って、何もかも与えることが出来ることが恵みなんだと生きたのだと。それは、キリストのように生きる姿となることで、それが最も高価な恵みなんだということなのです。


彼らは、キリストに似る姿の中で、輝いていられたのです。信仰は、激しい試練の中にあっても、貧しさに溢れてもなお喜びに満ち満ちて生きて、与えられるよりも与える側に立って生きることが出来るんです。キリストのように生きる者へと変えていただけるのです。それが、神の恵みであるのです。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:55| 主日説教要約

2017年09月18日

説教 『隠れていることはあり得ない』

2017年9月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 5章24〜25節
ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。


 テモテへの勧めは、教会全体の人たち、やもめ、指導者に対するものへと進みます。「叱る」は「責める、非難する」を意味する強い言葉で、そうではなく、「諭す」(熱心に勧める、忠告する、穏やかに助言する、慰める)よう求められています。老人だけでなく、すべての人々を牧会者は神の家族の一員と捉え、接するようパウロは勧めます。そこで必要なのが、教会とは何かの再確認です(三章一五節)。

 @教会は「生ける神」のもので、人のものでない、A教会は「真理の柱であり、土台」である。そこで説かれる「真理」とは、一.受肉、二.救いの業はキリストにおいて為された、三.教会は聖霊の存在によって特徴づけられる、四.教会は礼拝のために聖別されている、五.賜物がそれぞれに与えられており、それは他者のために用いる。賜物を用いる働きの一つにやもめの世話があります。実際的な世話をする賜物を持つ奉仕者が居る一方で、「本当のやもめ」を見分けるのは牧会者の務めで、「潔白」(誠実、真剣、思慮深さ)が求められます。これは長老などの指導者たちへの正しい対応のためにも必要です。神の問いかけに敏感であるためです。

 ここでも、教会とは何かをしっかりと理解しておくべきでしょう。「教会のための教会、自己目的としての教会から世のための教会」であること、また「教会のこの世性とキリスト教性とを束ねる中心にキリストの現実がある」ことを忘れてはなりません。その教会でのキリスト者の交わりはイエス・キリストを通しての、イエスにある(in)交わりです。この交わりを理想化し、現実の教会の姿に失望する人は少なくないかもしれません。教会でも「よく指導している長老」とそうでない者がいたようです。牧者は―すべての人に当てはまるのですが―隠れた部分での生活(祈りや黙想)に励みながらも、自身の力の限界を自覚し、隠されたものすべてを明らかにされる神を畏れ、信頼し、待望すべきなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:56| 主日説教要約