2020年07月13日

説教「苦しみを共に、慰めをも共に」

2020年7月19日の礼拝(創立72周年記念礼拝。相模原教会ピスガ館奉献礼拝)
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 1章3〜7節
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
1:5 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
1:6 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
1:7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。


 「会堂閉鎖」を決めた日、私は大きな不安を抱えていたのです、「目に見える繋がりの切断によって、交わりの崩壊を起こしてしまうかも知れない」と。

 パウロは、自分のことを理解しようともしない人たちに向けて、5節、「キリストの苦しみが満ち溢れてわたしたちにも及んでいる」と言います。「キリストの苦しみ」が、パウロとコリントの一人ひとりにも及んでいると言うんです。それは、キリストご自身が一人ひとりの所に訪ねて下さって「さあ私の苦しみを共にするんだよ、共有しよう」と交わりを作って下さったという以外にはありません。そのイエス様の苦しみは、抽象的・精神論的な話じゃありませんでした。自分を苦しめる者のために、身代わりになられたのです。なぜそれほどまでに、苦しみを背負われなければならなかったのか。そのことを、今朝の御言葉においても告げられるのです、「キリストの苦しみが、わたしたちにも及ぶためだった」と。肉体の苦しみも、見捨てられる苦しみも、全部知っておられるイエス様が、私どもの所に「あなたの苦しみを、私は分かち合える。あなたの罪の苦しみも私には分かる。神に見捨てられたと思えるような、深い悔い改めの思いも分かる。私は、あなたと全ての苦しみにおいて共になることが出来る。交わりに生きることが、私だけは出来る」と、私どもを包んで下さったということなのです。会堂が閉鎖されていた間、離れ離れになっていた私たちの只中にも、あらゆる苦しみを共にしようと、キリストが立っていて下さったのです。そのキリストにおいて私どもは1つの群れとして、教会であり続けたのです。

 苦しみを共にした私どもに、同時に、「慰めをも共にしている」と告げられています。苦しみを共にして下さるイエス様は、その場所で、私どもをいつも強めてもいて下さったのです。だからこの苦難を歩み通せた、またこれからも歩んで行けると思うのです。
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2020年07月05日

説教「キリストのものになる」

2020年7月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ローマの信徒への手紙1章5〜6節
1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。


 6節、「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」と。これ読んでウーンと唸ってしまいました。そもそも「あなたはキリストのものになる」ということは、「あなたは、あなた自身のものではなくなる。あなたは自分の自由にならなくなる。キリストの所有となるからだ」と言われたということだからです。

 パウロは若い日、自分の主義主張でひた走りに走っていました。正にその時に、だったのです。ダマスコ途上でご復活のキリストと出会って、「神の敵として生きていた自分に、主は出会って呼び掛けて下さった」と知ったのです。そしてそこで、人間にとっては非常識だと考えてしまう「あなたはあなたのものじゃなくて、キリストのもの」という招きを、喜びの中で受け入れたのです。呼ばれる資格などなかった自分を、主が召して下さったと知ったその日、彼は、自分が自分の主人であることを手放す日となりました。

 イエス様を知るまでは、きっと誰もがそれぞれに自分の思い通りに生きて来たでしょう。自分の思い通りにすることが自由だと思い込んで来た、その人生で、実はその人生の只中でこそ、救い主イエス様は私どもと出会ってくださるんです。パウロのようにです。イエス様が私どもの「人間の常識」に踏み込んで下さって、「あなたがキリストのものになる生き方がある。神の宝となれ、あなたは神の御子の命で買い戻された高価な存在なんだから。私と一緒に生きよう、神と共に歩もう」と呼び掛けて下さるのです。それを、「そうしたい」と受け入れることが、「キリストのものになる」ということなんです。

 皆さんは、洗礼を受けられました。その日あなたも、キリストのものにしていただけたのです。その恵みの大きさを、今週も、現実の生活を歩む中で思い巡らしつつ、過ごしてゆこうではありませんか。
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2020年06月28日

説教 「ヨナのしるしのほかにはない」

2020年6月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書16章1〜4節
16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
16:2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。


 人々が「「我々が驚くような奇跡をやって見ろ。その奇跡を見たら、我々がお前を救世主として許可しよう」とイエス様に言いのけます。これは、神の御子の上に、自分が立とうとしたということです。そこが、かつて主イエスの敵対者として悪魔が立った場所であったのです。その姿に、彼らだけでなく、私もなってしまう。心の中で「ああして欲しい、こうでなきゃ嫌だ」と思っていて、その思いがこびりついて、イエス様と私との関係が、神と人間との関係であるのに、私が主(あるじ)となっているんです。

 イエス様は、彼らの心の中にあるものを見詰めて言われました、4節、「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。つまり「しるしをあげよう、でも私が選ぶしるしは、ヨナのしるし。これだけだよ」ということです。イエス様が十字架で死なれるという受難は、まだこの時、彼らは知らないことでした。でもイエス様はここで予め、ヨナが3日3晩、闇の中にいたことと重ねて、十字架で死なれることを語っておられるのです。「あなたがたの罪の身代わりに、私は死ぬ。それが私の選ぶ、あなたに示す天からのしるし、神の奇跡だ。これ以外あなたにあげる奇跡はない。でもこれ1つあれば、あなたの救いは成し遂げられるのだ」と話されたということなのです。

 そこには、彼らの自己中心を責める思いではなかったでしょう。むしろそんな彼らに、福音の核心を伝えたかったのです。罪人の友となられたイエス様だからこそです。そんな主イエスだから、敵対する者にも眼差しを向けて、「ヨナのしるしがある、それをあなたの為にもしてあげるから。後で必ず思い出しておくれ」と言われたのではないのでしょうか。「あとで良い、あとでも良いから、そこで気付いてほしい」と思われたのではないのでしょうか。それを私どもも受け入れたら、たとえ苦難がある日にも「既に私は十字架の奇跡を戴けている。我、恵みは足れり」と生きられるのです。
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2020年06月22日

説教 「見よ、われ新しきことを為さん」

2020年6月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
イザヤ書43章15〜21節
43:15 わたしは主、あなたたちの聖なる神
 イスラエルの創造主、あなたたちの王。
43:16 主はこう言われる。海の中に道を通し
 恐るべき水の中に通路を開かれた方
43:17 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
 彼らを倒して再び立つことを許さず
 灯心のように消え去らせた方。
43:18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。
 今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。
 わたしは荒れ野に道を敷き
 砂漠に大河を流れさせる。
43:20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
 荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
 わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。
 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。


 コロナ禍の中を生きながら、「新しい」という言葉が頻繁に耳に入って来るようになったと感じます。確かに、私たちは新しい時代を生きることになりました。「新しさ」を前にして、再確認すべきことを御言葉から学びたいと思います。イザヤ書(1〜39章)はイスラエル人に対する罪の𠮟責や神の審判を内容とする峻厳な預言で一杯です。語られた言葉とは裏腹に、目に見えるところでは国は隆盛を誇り、生活は満ち足りでいました。ところが、40章に入ると(40〜55章は第2イザヤと呼ばれ無名な預言者による言葉とされています)、慰めと励ましの言葉で満ちています。しかし、民は捕囚の最中(さなか)でした。従って、彼らはいずれの場合も預言者たちの言葉を信じることができませんでした。順風満帆でも謙遜になり、艱難辛苦の中でも希望を持つ。難しいことですが、祈り求めたい姿勢です。40章に入り、「新たな力を得る」(31節)など多くの励ましの言葉は、そのまま感謝しつつ受け入れてよいのです。しかし、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の草のようなもの」(40:17)であることを忘れてはなりません。「人は何と空しく、弱い者か」を心底知り、神の前に額ずき、跪いて捧げる礼拝の在り方を再確認しなければならないのです。42章に入っても、民は相変わらず不信仰で未熟です。それにも関わらず、「主の僕」の召命が記されています。「主の僕」は、解放者キュロス王、イスラエルの民、イエスご自身と理解できますが、私たちでもあるのです。神の使命を負わされた僕なのです。「我等も亦小なりといへども神の選びを受けし僕たる以上、―信者は皆神の僕ではないか―イエスに倣う者とならなければならない」(矢内原忠雄)。「私は主、あなたたちの王」と言われる方に目を向け、自らは「野の草」であることを知り、「主の僕」として立たされている事を覚えながら新しい時代を生きる者となりましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 08:12| 主日説教要約

2020年06月14日

説教「この方が、わたしたちの主イエス・キリスト」

2020年6月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ローマの信徒への手紙1章1〜4節
1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。


 ロマ書の冒頭は「パウロから、ローマの人たちへ」という挨拶で自己紹介を始めます。でも彼は、肩書を告げたのではないのです。そういうことは一切必要ないと、考えたからに外なりません。そんなパウロが語り出した言葉が、開口一番、1節「キリスト・イエスの僕」であったのです。またキリストの御旨のままに、選び出されて使徒とされたとも言い、なぜ選ばれたのかと言うと、福音を伝えるためだと言ったのです。そしてその「福音」は何かということも、「福音とは、神の御子に関すること。あのイエス様のことだ」と簡潔な言葉で語り、そして4節で「この方が(神の御子が)、わたしたちの主イエス・キリストです」と結んだのです。一気に語りました。

 皆さん、改めて伺ってみたいのですが「あなたにとって、福音って何ですか」。もしも、「聖書もなかなか良いことを言うなあ、お陰で無事に過ごせるようになった」とか、そういう類が「福音」だったとしたらです。続けて教会に来るけど、日曜日は聖書を握って、平日は流行の指南書を握っている、そんな「片手で握る信仰」になりはしないでしょうか。今朝、御言葉は私どもに迫って来ます、「福音は、御子に関すること。その方が主イエス・キリストだ」と。あなたのために天の父がずっと苦しんで来られ、呻きながら私どもに最も良い事をして下さった。それは、御子の命に引き替えて私は救われたという出来事なのだ、と。この破格の知らせに触れた時、パウロは全身全霊で「キリストの僕である私。私はこのお方の他に何もいらないという者」と自己紹介したのです。

 み言葉は「十字架を見上げて御覧、神の御子を」と囁ききます。そこで繰り返し思い起こせることがあるからです、「ここに福音がある。神の御子、この方こそ私の救い主、イエス様こそ我が救い」と。さあそれを受け取って、新しい週の日々へと出掛けようではありませんか。神の御子が、私どもの日々にも共におられるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:59| 主日説教要約

2020年06月07日

説教「心を合わせて祈っていた」

2020年6月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
使徒言行録1章12〜14節
1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 キリスト昇天後、120人が心を合わせて祈っていました。でもこれは、そんなに簡単な話じゃないはずなんです。

 きっと彼らの祈りは、初めは一人ひとりがバラバラに、自分が抱えている課題を、神様に知って欲しいと祈り始めたでしょう。でも、そういう騒めきの祈りの時間が暫くあって、一人が気付くんです。イエス様と一緒に旅をしていた時、あれほど「私に従え、後ろについて来るんだ」と言われたのに、自分が第1という席を譲らない。だから、イエス様が十字架に掛けられても、自分の席を守る事が第1で、だから簡単に2番目のイエス様を切り捨てたんです。その姿が罪人なんです。ペトロも自分の姿を見詰めたら、「あなたのことを知らないと3度も否認して見捨てた、それが私だ」と気付き直したら、たまらず立ち上がって「私は、あなたを捨てた罪人です」と、悔いる心のままに祈りの言葉がボソリと出る。その時、それまでは、皆のざわめきの祈りの中で、どんな祈りの声もかき消されていたのに、「罪人は私でした」と告白した、その祈りが口から洩れた瞬間です。雑踏の祈りの言葉の中から、その1つを拾い上げるように聞いて「私もイエス様を捨てた。自分だけを守ろうとした罪人」と思えて、どこからか「アーメン」という声が聞こえて来て。悔いた心ですすり泣く声に混じって「アーメン」と。しかしそこにトマスが立ち上がって、「この疑い深い者にも、あなたは御復活の姿を見せて下さって、なお信じる者となれと声を掛けて下さった、感謝です」と祈る。聞いていた者の中から、今度は力強く「アーメン」と声があがる。気付いたら、全ての者が十字架の出来事と、ご復活の出来事を胸に豊かに甦らせて、1つの思いに結び合わされていた、私にはそう思えてなりません。

 私たちの重苦しい日々は、まだ続きそうです。でも礼拝に帰って来て、イエス様を主として心を合わせて祈る時、私どもは、今日を生きる信仰も、今日を生きる力も平安も、兄弟姉妹と一緒に戴くことが出来るのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:12| 主日説教要約