2018年06月24日

説教 『蒔く人に種を与える方』

2018年6月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 9章6〜15節
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 人は、人を想うことが出来る! そこに、「わたしも人のために」という思いが生まれて来るのだと思います。でも実はそこで、不思議なのですが、初めは「無償でしてあげたい」と思っていたはずなのです。それなのにその心のどこかに、なぜか見返りを求めている自分が居ることに気付く。「有り難う」という小さな一言で良いんです。でももしそれがなかったら、「あら。」と思ってしまう自分がいる。「ただ人のためになりたい」と始めた、愛する種蒔きであるはずなのにです。

 何故そんなことになるのでしょうか。きっとそれは、人にしてあげる時、自分の手の中にどれだけのものがあるか数えていて、これだけなら人に与えても大丈夫かなと計算している。そういう与え方というのは、手の中に減った分を見詰めるということでもあります。減った分が気になるということです。そこに、減った分を埋めたいという思いも当然起こって来るということであります。その埋めるものが「有り難う、素晴らしい働きね」という一言だったりするのです。

 コリントの人々は、エルサレム教会を想って募金を始めていました。その人々に向けてパウロが、農夫の例え話をしたのです。大人の農夫なら、若者たちにも伝えたでしょう「お前たち、バーッと思いっきり蒔くんだぞ。手の中に残すことなんて気にするな。何も心配しないで良い。必ずお前たちの手の中には、将来多くの実りによって、余りある種をまた入れてもらえるのだから」と。経験豊かな農夫が、そのように言い切れるのは、実りの「仕組み」を知っていた訳ではありません。彼は、豊かに種を与え続けて下さる「お方」を知っていたのです。10節、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなた方に種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を、成長させてくださいます」と。

 私どもも「人のために」と生きてみたいと願います。それは、私どもの傍にも、大切な人がいるからじゃないですか。そういう私どもが、自分の手の中にあるもの捕らわれずに、愛するという種を蒔き続ける人になれるのは、「種を蒔く人に種をお与えになるお方を、見詰めて歩かせていただく」、ただそこにおいてです。そのお方と一緒に歩き出せたなら、そのとき自分が持っている愛するという種が、どれ程の大きさか小ささかさえも気にしなくて良くなる。必要があるなら、神が何時でも何でも与えて、私どもの手に握らせて下さると信じることが出来るからです。

 愛するという種を蒔いて下さい。蒔き切って下さい。バーッと蒔いて下さい。それでもなおそのあなたには、種を与えるお方が共におられるのですから。
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2018年06月18日

説教 『新たに造りかえられる』

2018年6月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テトスへの手紙3章1〜11節
人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。


 「次のことを思い起こさせなさい」(一節)とパウロはテトスに勧めます。その内容は倫理的に正しい事柄です。「Cで始まる民族は最悪」と言われていた民族の一つであるクレタ人を牧会するテトスには「彼らに何を言っても無駄、どうせ聞かない…」という諦めや決めつけの気持ちが無かったとも限りません。しかし、「わたしたちもかつては」(二節)と諭すようにパウロは続けます。「かつては」と「今は」を対比する説教は初代教会に多く見られます(ロマ六章一七〜一八節、Tコリ六章九〜一一節、エフェ二章二節、コロ三章七〜八節、Tテモ一章一三〜一七節、Tペト一章十四〜十六節)。パウロは一般的な意味での「わたしたち」と言っていますが、「罪人のかしら」(Tテモ一章十五節)と告白した自分自身のことを思っていたかもしれません。「我をも救いし奇しき恵み」(賛美歌第二編一六七番)はパウロの、またジョン・ニュートン――この讃美歌の作詞者――の、そして私たちの経験でもあります。「救い」とは「癒す」に由来し、「解放する、自由にする」という原意があります。人間を捕えて幸福を妨げているものから解放して、健康・自由・真実の幸福を与える。そして、罪と死から解放して霊魂の不死や死からの復活を主張する。それが、当時も、またその後にも存在する「救済宗教」の特徴です。多くの場合、その「救世主」は軍事的・政治的英雄でした。しかし、唯一・真の救い主イエス・キリストは「苦難の僕」としての救世主でした。人の苦しみ・痛み・病を代わりに負い、死なれた。しかし、死から蘇り、死を滅ぼし、永遠の命(神と共にあり、活き活きとした、目的をもって生きる、新しい価値観に生きる命)へと私たちを「新しく生まれさせた」(五節)。そのお方が私たちの救い主・主イエス・キリストです。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(イザヤ書五三章二節)救い主。パウロが宣言する通り「この言葉は真実」(八節)なのです。故に私たちは「これらのことを力強く主張」(八節)し続けるのです。聖霊によって造りかえらた者には、言葉と共に善い行いも結果として付いて来るのです。
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2018年06月10日

説教 『空き家になっている』

2018年6月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章43〜45節
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 主は人々に向けて「汚れた霊は、人から出て行くと」と話し出されます。それを聞いて群衆も「自分も心を綺麗に掃除した。それなりにはしている。汚れた者を追い出した」と、ちょっと誇ったはずなのです。

 しかし、でした。イエス様は「(汚れた霊が)『出て来た我が家に戻ろう』と言う」と言われる。さらに「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」と。掃除をしたというのは、「自分なりに義しく聖い心で生活を送っている。礼拝もしている。自分の心は悪人のように汚れていない。自分のやり方でそれなりに聖くなれている」という心だということです。そうであるなら「そういう生き方で十分じゃないの」と言いたくなること、ありませんか。

 この「空き家」という言葉は、「暇である。何も働いていない」という意味があります。神の言葉に応答することが働いていないということです。自分の生き方が変わらない姿です。主は単に「空き家にしないように気を付けなさい」と言っておられるんじゃないんです。「誰も結局、神の御声に応答しようとしない、いつまでも変わらないお前たちなのか」と途方に暮れて、嘆いておられるのです。人間にとって、自分で解決できない難問が、自分を変えるということですよね。自分の思い通りに、やりたい通りにしたいと思って来たから、そこで人を傷つけもした。そんな古い自分から、御心を喜んで生きる自分になるには、神様に明け渡さないといけない。でも心の奥では、いつまでも自分の思い通りに生きたくて、だから、自分だってある程度は聖い生き方が出来ると思い込んで来た。できると思い込ませたのが、汚れた霊の策略なのに。そこでなら、「神から離れて生きても自分だけで大丈夫だよ」と思わせることが、簡単に出来るからです。そういう自分から向きを変えて、御心に応答する自分に変わっていくことは、至難の業なのです。

 そういう私どもをイエス様は知っていて、憐れんで下さって「あなたは空き家なんだ。あなたの中に神は居ない」と告げて下さるのです。それも諦めずに告げ続け、関り続けて共に居て下さるのです。そのイエス様だからこそ、このお方に依りすがるなら、そこで初めて世界一頑なな私も、少しは変われるのかもしれない。そこで「主よ、この頑なな私は、今日どう生きればよいのですか」と祈り始めるからです。「あなたの御心に従いたい、主よ、助けて」とチョコっと祈る。またチョコっと、そして四六時中、生活の中で神様と対話をし始めている。そんな神様との対話の時間がいつもあって…。その生活が、神が心の内におられる姿なのです。そのあなたはもう、変われているのです。
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2018年06月03日

説教 『ぜひあなたの家に泊まりたい』

2018年6月3日の礼拝
東京神学大学学部4年 藤森誠

ルカによる福音書19章1〜10節
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 ザアカイは、イエスがどんな人なのかを見に行きました。しかし、群衆に遮られ見ることができなかったため、木の上に登ったのです。木の上は他に誰もいません。素晴らしい見晴らしです。そこに、イエス様が近づいて来られ、立ち止まり、上を見て言われるのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 何とも不思議な呼びかけです。イエス様は初対面の相手にも関わらず、家に泊まりたいと言われる。私だったなら、準備ができていないからと断るでしょう。しかし、ザアカイはその言葉に従い、すぐにイエス様を迎えました。しかも喜んで迎え入れたのです。それによって、「救いがこの家を訪れた」のです。その日、ザアカイの家を訪れたのは誰であったのか。それはイエス様です。つまり、イエス様ご自身が救いなのです。そのイエス様は、失われた者を探して救うために来られたと言われるのです。

 失われた者とは、神様から失われてしまった者です。しかし、それは神様が捨てたということを意味しません。神様の元を離れるのは、いつも私達人間なのです。ザアカイは木に登ったことで、最善の選択をしたつもりが、イエス様から遠ざかるという最悪の選択をしてしまっていたのでした。

 ですがイエス様は、自ら離れて行く私達を探して見つけ、あなたの家に泊まりたいと言われるのです。イエス様を家に泊めるということは、私たちの心の中にお迎えするということです。しかし、これが難しいのです。私の心の思いを含めた全生活が、見られてしまうからです。できれば、イエス様をお迎えしたくない。心に私だけが住む時、そこにあるのは、私の思うままにできる自己中心な私です。しかしそれではいけないと主は語られるのです。

 イエス様が私の心に住む時、私達に悔い改めが起こるのです。日々の生活においても、イエス様を思う時、私達の心のあるじはイエス様となるのです。私が望む道を歩んでいたのを、神様が望まれる道を歩む、それも主と共に歩むのです。ここに救いが起こるのです。しかし、気が付くと、私はこう歩みたいという思いが大きくなり、イエス様の居場所を奪ってしまうことがあります。ですから、私達はこの物語を読むたびにイエス様から問われています。「あなたの心に今も私は留まっているのか。そうでないなら、私はあなたの家に留まらねばならない。それが私の意思であり、神様の願いであるのだ」と。そう、主は願っていてくださるのです。

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2018年05月27日

説教 『無意味なものにならないため』

2018年5月27日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二9章章1〜5節
聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。

 パウロは、コリントの教会から1年前に「エルサレム教会への募金を集めてますから、待っていて下さい」との約束を聞いていました。でも1年という時間は長いもので、その間に教会で諸問題が堰を切ったように溢れ出したのです。私どもならそういう時、他人のことを思って支えたいという思いは、どうなるのかと思います。もしかしたら「他人のことを気付かっている余裕なんて無い」と言い始めたりしないでしょうか。そして他者を憶えて祈ることさえ忘れて行くことも。

 そうであるのなら、コリントの人たちに伝える言葉は当然、忠告になるはずだと思います。しかしパウロは募金を集めるのを忘れないようにと勧告する前に、2節、「あなたがたを誇りました」と言ったのです。募金が集まったかどうか、彼らが約束を守る人たちであったかどうか、その結果を見ないで、結果を見る前に、「誇った」と言っているのです。人は大抵、相手の行いの結果を見て「なんて素晴らしい人だろう。私の誇りです」と言うじゃないですか。でもパウロは、彼らが満足のいく募金をしてくれたから、その結果が素晴らしくって誇るんじゃない。その順序を全く無視しているのです。彼らのすることを見ないで、大胆に冒険するように、信頼するほうに飛び込んだのです。

 彼らの「他者を思う心」は、教会の諸問題の波に飲み込まれて失う危機の中を歩んでいた。だからパウロは居ても立ってもいられなかったのでしょう。だから彼らに「あなた方には、隣人を愛する心が在るだろ」と伝えないではいられなかった。その思いで「あなたたちを私は誇っている。誇り続けているから」とこの手紙を書き送ったのだと思えてなりません。

 今朝の御言葉が、聖書の御言葉であることにおいて、単に2千年前にパウロという特定の人が、コリントという特定の人々に告げた言葉でなくなります。これが神の御言葉であることにおいて、私どもにも、神ご自身から告げられている宣言になるのです。主なる神が、今朝わたしどもにも告げていて下さる、「あなたは私の誇りだ。だから私のその思いを、無意味なものにしないでおくれ」と。私どもに「他者を思う人として生きておくれ。行いにおいて、あなたの口から出る言葉において、そのように生きておくれ」と告げていて下さるのです。神は、私どもを信じ切る冒険をして下さる。私どもが、必ず神様の信頼に応答する姿に歩むことを、信頼していて下さるからです。新しい1週間が始まりました。たとえ荒れ狂う問題があろうとも、そこでもなお他者を思い、隣人のために祈り、家族のために神に執り成すキリスト者として、歩もうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:30| 主日説教要約

2018年05月20日

ペンテコステ礼拝説教 『賜物として聖霊を受ける』

2018年5月20日の礼拝(聖霊降臨日)
相模原教会牧師 辻川篤
使徒言行録2章36〜42節
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 神様は人を愛し抜かれる、どこまでも。しかし人間は自分のことしか考えない、どこまでも。そういう神の思いと、人間の自己中心の思いが、イエス様を挟んで、十字架という出来事を起こしたのです。そのことを、ペトロがハッキリと群衆に宣告しました。その時でした、人々はペトロの説教に「わたしたちはどうしたらよいのですか」という戸惑いの言葉が飛び出したのです。「取り返しのつかないことをしてしまった」と気付いたからです。その人々にペトロは語ります。それは、赦されることへの道標のような言葉でした。つまり、悔い改めるんだよ、洗礼を受けるんだよ、赦していただけるからと。でもそれで終わらない。そこに「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と加えたのです。

 聖霊を受ける前まで、彼らは自分たちがキリストの側に着く者であることを、周りに知られることを恐れていました。だから家の中に閉じ篭って、キリスト者であることが分からないように隠れて、身内のキリスト者の中だけで祈っていたのです。外では祈らないのです、祈れないのです、周りの目が恐かったからです。その彼らに聖霊が降った時、それまでの彼らの姿とは一遍するのです。一人ひとりが群衆の前に出て、「私はキリストの側に立つ者です」と語り出したのです。

 自分たちがイエス様を殺したんだと分かった彼ら。赦してもらいたかった、でもそれをさえ言えず、憶病に囚われていた彼ら。そんな彼らに、しかし神様が彼らを助ける助け手を、聖霊を送って下さったのです。その時にハッと気づけたのです「そうだ、私が死ぬべき身代わりに、私が赦されるために、イエス様は十字架で身代わりに死なれた。あの出来事は、私のためだったのだ」と。それも「私はそれほどに、天の父に愛され続けた存在なのだ!」と分からせていただいた。そこで“世界で一番頑固な自分”という存在が、変えられたのです。これが聖霊の働きなのです。「私はこんなに愚かなのに、なおその私は神様に愛されるために生きている存在だ」と分かることが、聖霊の働きで起こることなのです。私どもにとっても同じです。世界一自己中心な私、それでも神様は「どんなに時をかけても、私はあなたを求め続ける。お前が愛されていると分かるまで」と、語り続けておられるのです。

 そのことに聖霊によって気付かされた弟子たちが、そこで、「天の父に愛されている私として生きたい」と歩み出した。そこに群衆に語る言葉も生まれたのです「あなたも洗礼を受けなさい、賜物としての聖霊を受けなさい」と。それは「あなたも天の父から、お前は貴い私の宝、愛していると言われていると分からせていただいて生きるんだ」ということであったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:07| 主日説教要約