2019年08月25日

説教 『完全な道』

2019年8月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編101編1〜8節
ダビデの詩。賛歌。
慈しみと裁きをわたしは歌い
主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
完全な道について解き明かします。
いつ、あなたは
わたしを訪れてくださるのでしょうか。
わたしは家にあって
無垢な心をもって行き来します。
卑しいことを目の前に置かず
背く者の行いを憎み
まつわりつくことを許さず
曲がった心を退け
悪を知ることはありません。
隠れて友をそしる者を滅ぼし
傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め
わたしと共に座に着かせ
完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
わたしの家においては
人を欺く者を座に着かせず
偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし
悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。


 詩人は「完全な道について解き明かします」と語りかけます。そして断言するように、「完全な道」を歩くことを誓ってゆきます、「卑しいことを目の前に置かず、背く者の行いを憎み、まつわりつくことを許さず、曲がった心を退け、悪を知ることはありません」と。そこに力強さを感じて、「なぜ迷いなく、将来完璧に生きると誓えるのだろう」と思ったのです。

 それは冒頭の、「慈しみと裁きをわたしは歌う」という御言葉に関連があるでしょう。聖書の「慈しみ」とは、「受けるに値しない者たちに与えられる神の恵み」です。「お前が受け取るなんて考えられないと言われる者へ、しかしなお与える側の一方的な決心によって、相応しくない者へ与えられる恵み」ということなのです。神様は、ご自分に背く輩に駆け寄るように近寄いて、爪はじき者を選び取るようにして、恵みを与えて下さるのです。それは、実に「罪人に向けられた恩寵」なのです。

 その「慈しみ」は、困窮している者を目掛けて来ます。だからです、「完全な道を歩みたい」と踏み出して、でも上手く生きられずに、「ああ、また失敗した」と嘆く者に、嘆くと同時にその虚しさの空洞に、神の慈しみは突入して来てくださるのです。

 詩人が願った「慈しみ」は、既に到来しました。イエス様が私どもを目掛けて降誕して下されたからです。つまり、「慈しみ」はあなたを訪れたのです。それはまたキリスト者は、いま「完全な道」の上に、立っているということです。「私は道であり、命である」と言われた主が、完全な道なのですから。その主が私どもの内に満ちている。だから内なるイエス様に、ただ依りすがって立てば良い。自分の力を見るんじゃない、自分の誠実さとか自分の決心を見るのじゃなく、ただ主を見上げるなら、そこでだけ、「完全な道」に立っていると、信じられるのです。目覚めて歩むのです。そうやって、完全な道に立ち続けようではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:38| 主日説教要約

2019年08月19日

説教 『畏れるべき方のみを畏れる』

2019年8月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒へ手紙2章11〜14節
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」


 「アンティオキアでの衝突事件」の記録です。選民意識の強いユダヤ人は異邦人と食事を共にすることはありませんでした。しかし、異邦人とユダヤ人の混合教会であったアンティオキア教会では、パウロやバルナバの導きの成果もあり、「福音の真理」 ― 「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(3章28節) ― に生きていました。「福音の真理」を公に認めたエルサレム会議後、エルサレム教会の指導者であったペトロがアンティオキアを訪問しました。当然、異邦人たちとも食事を共にしました。暫くして、同じエルサレム教会から割礼を受けることや律法遵守も必要とするユダヤ人キリスト者がやって来たのです。そうすると、ペトロは自分の評判やエルサレム教会への報告を気にしたのか、異邦人と食事をしなくなったのです。そのペトロをパウロは強く非難しました。人は評判を気にします。それは大使徒ペトロも同じだったのかもしれません。「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」(14節)誘惑に陥る可能性は誰にでもあるのです。従って、私たちは戒められ、正される必要があります。神から直接の場合もあれば、誰か「神の人」による場合もあるでしょう。パウロに非難された時、ペトロは主イエスによって叱責されたことを思い出したかもしれません。特にイエスに死に至るまで従うと豪語し、その後イエスを裏切った時のことを。しかし、その時、主イエスはまずおっしゃいました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と。ペトロはこの出来事の後、アンティオキア教会の初代総主教となり、一方、パウロは更に宣教の業を展開してゆくのです。私たちも正されつつ進むのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:50| 主日説教要約

2019年08月11日

説教 『見て深く憐れみ』

2019年8月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章13〜21節
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 ガリラヤ湖畔で弟子たちは、もう陽が暮れる時間ということ、食事する食料も無いということ、そういう状況を見ました。その状況下で、解決方法を熱心に考えたのです。彼らは状況の全てを誤りなく把握していました。全てを見ているつもりでした。

 でも、なのです。イエス様を見たら、彼らとは何かが全然違うんです。イエス様も、群衆を見たこと自体は弟子たちと同じで、人々を「大勢だ」とご覧になられたことも同じで、でもイエス様は、人数をご覧になっただけでは終わらなかったのです。イエス様が見られたのは、苦しんでいるその一人の人だった。苦しくて悲しくて、深く悩んで、涙を溜めているあなたという人を見詰められたのです。必死にやって来たあなたという人そのものを見詰められた。だからイエス様のお心に迫ったのは、「辛かったね、よく来たね、もう大丈夫だから」という思いであったに違いないのです。そのお心をです、今朝、御言葉は「深く憐れみ」と告げていたのです。

 この「憐れみ」は、「共に苦しむ」とか「共に耐える」「腸がよじれて痛むほど苦しむ」という激しい意味さえある言葉です。つまり憐れみの主は、私どもの悲惨さを共に耐え、弱い人と一緒に弱って下さるお方なのです。無力な人と一緒に無力さを耐え忍んで下さるお方。つまり、私どもの生きている場所に、ドップリ浸かって下さるお方であるということなんです。そしてそれは、十字架の上の主イエスのお姿そのものではないですか。十字架は、神の憐れみが出来事となったのですから。

 初代キリスト者たちは、迫害を受けました。そういう彼らがです、この「5000人の給食」の出来事を語り合いながら、「あのガリラヤ湖畔で、押し寄せた群衆の一人ひとりを見て共苦されたイエス様・十字架のキリストが、今私にも共にいて下さるね」と確信し合って、それが喜びとなったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:12| 主日説教要約

2019年08月04日

説教 『自分自身を使い果たしもしよう』

2019年8月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 12章11〜18節
わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。


 パウロは懸命に尽くして、コリントに教会が生まれた。それなのに、激しい批判が起こり出したのです。教会に偽教師たちが入り込んで来て、偽の悪口を言い広め始めたからです。その言葉に、コリントの信徒たちが簡単に揺さぶられ、あっさりと彼に背を向けたのです。

 しかしなぜそうまでされて、パウロは労苦を背負えたのでしょう。それが分かるのは、15節、「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」と言い切っていた、この言葉ではないですか。この「使い果たす」とは受け身の動詞ですから、「あなたが救いを得るためなら、私はあなたに使い果たされて、無くなってしまっても構わない」と言っていたということです。パウロのコリントの人々への思いは、「狂うほどに、あなたに自分の全てを献げ尽くしたい」でした。それは、私どもの身代わりに死んで下さったイエス様そのものの姿であります。イエス様は、嘲られて名誉も使い果たし、鞭打たれて力も使い果たし、十字架刑にされて命も捨てられた。血潮の一滴までも、あなたのため、罪人を救うためにと使い果たされたのです。そして、パウロたちキリスト者は、この十字架で死なれたキリストを知っていたゆえに、キリストと同じになりたいと生き始めたのではないですか。18節の「わたしたちは…同じ模範に倣って歩んだ」とある「模範」とは「足跡」という意味です。つまり主の足跡に、自分の足を重ねるように歩いたのです。大きく愛された人は、大胆に愛する人になれるからです。

 主はご自身を、私どものために使い果たされました。そして今度は私どもが、主の足跡の上に一歩踏み出す人となるのです。まず一歩を歩み出すことに、挑戦するのです。私どもが「自分自身を使い果たしもしよう」と、舵を切る番です。そこには必ず、福音が実る世界が広がるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:44| 主日説教要約

2019年07月28日

説教 『心に命が与えられますように』

2019年7月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編69編31〜34節
神の御名を賛美してわたしは歌い
御名を告白して、神をあがめます。
それは雄牛のいけにえよりも
角をもち、ひづめの割れた牛よりもなお
主に喜ばれることでしょう。
貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には
健やかな命が与えられますように。
主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。
主の民の捕われ人らを
決しておろそかにはされないでしょう。

 69編は、およそ8割が「嘆きの言葉」で埋められています。それなのに31節から突然、まるで別人になったように神を賛美し始めるのです。今朝の直前までと、今日の一行目との間には、ヒョイと超えることなど叶わない深い淵が、口を開けているのです。どこから彼の中に、この「感謝」が生まれたのでしょうか。そのことを思いながら、69編を繰り返し読んでみました。その時にです、彼が嘆きを繰り返す中で、神の名を呼んでいる呼び掛けに、ふとその言葉に、目が留まったのです。11節「恵みと慈しみの主よ」と呼び掛けているのです。さらに14節にも、「神よ、豊かな慈しみのゆえに」と。彼は延々と悩みを訴えました。でも、そうやって苦しみを数えてうずくまる中で、「主よ、あなたは〈慈しみ〉という方ではないですか」と叫んでいたのです。ハッとしました。

 この「神の慈しみ」は、単なる優しさじゃありません。「あなたを愛したい、支えたい、守りたい」と、人間の現実に介入する力なのです。それを知る詩人も、現実の苦難を見つつも、その中に介入して来られる「慈しみの主」に気付かされて行く。その中で、彼の心は次第に動かされて行く。自分に縛られることから、神の慈しみに包まれるほうへと、目を据え直されて行ったに違いないのです。その時に、でした。彼は、ついに深い淵を渡ったのです。苦難を嘆くだけの自分から、慈しみ深い主を賛美する信仰者へと、自分の力だけでは越えられない裂け目を、越えさせて頂いたのです。

 神様は、私どもの心を変えて下さいます。それも最も頑なになる苦難の嘆きに捕らわれる私の心を、賛美が生まれる心へ変えていただける。それが、実は「心に命を与えてくださる」ことなのです。関根訳では、「主を求める者よ。君たちの心は生きる」ということなのです。私どもの全ての歩みに、慈しみの主がおられる。そのことに向き直るなら、どんな現実の中にあっても、「心に命が与えられる」のです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:07| 主日説教要約

2019年07月21日

説教 『福音の真理がとどまるように』

2019年7月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙2章1〜10節
その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。


 復活のイエスと出会い、回心したパウロはダマスコに導かれ、その後、アラビアに退き、再びダマスコに戻り、3年間宣教しました。そして、エルサレムでペトロとヤコブに会い、シリア、キリキア地方で伝道します。「その後、14年たってから」(2章1節)エルサレムへ赴きます。いわゆる第一回エルサレム会議です。目的は「無駄に走ったのではないか意見を求める」(2章2節)ためでした。意見を求めた目的は、彼の業績を認めてもらったり、教会のお墨付きを得るためではありませんでした。彼の語ってきた「福音」が、彼らのそれと同じかどうかを確認するためでした。確かに同じものでした。従って、ガラテヤでパウロを批判していた者たちはパウロの福音を真正と認めるしかなくなったのです。その他の会議の成果として、互いに受け入れ合い、交わりを持つ必要があること(2章9節)、伝道の責任分担が明確になったこと(2章9節)、貧しい人たちを覚えるという共通理解を得たこと(2章10節)が挙げられます。しかし、それらに先立つこととして忘れてならないのは、パウロの宣言に見るように、一人ひとりがまずイエス・キリストとの直接の関係をもっているかです。私たちの福音は「人を通して」(1章1節)でも「人によるもの」(1章11節)でもなく、キリストの啓示によるのです。それがなければ、福音は借り物に過ぎず、勉強によって得た知識の域を出ることがないでしょう。それでは、神からの「良きおとずれ」を神の言葉として語ることはできません。そうかと言って、個人の経験だけを絶対化してしまうと、自己を神格化することになりかねません。私たちが語り、また聞く福音がペトロやパウロが語った福音と、つまり聖書が語っているところの福音と寸分違わぬものであるかに心に留めなければなりません。そして、個々が置かれた所で、その福音を語り、聞き、それに生きる者でなければならないのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:50| 主日説教要約