2020年05月24日

説教 『わたしの声を聞きたまえ』

2020年5月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編27編7〜10節
27:7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
   憐れんで、わたしに答えてください。
27:8 心よ、主はお前に言われる
  「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
   主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
27:9 御顔を隠すことなく、怒ることなく
   あなたの僕を退けないでください。
   あなたはわたしの助け。
   救いの神よ、わたしを離れないでください
   見捨てないでください。
27:10 父母はわたしを見捨てようとも
   主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

 今年の4月12日は、教会の大祝祭日イースターでした。しかしもう一つ4月12日ということで覚えているのは、「その日から、この礼拝堂に集って一緒に礼拝に与ることが出来なくなった」ということではないでしょうか。私が皆さんの顔を見ることが出来なくなって、もう7週間が経つのです。寂しい「7週間」という日々です。でも実は、4月12日から数えて7週間という数え方は、教会暦にとって意味がある数え方なのです。それはイースターからの7週間を、教会は「復活節」という一括りでくくるからです。今朝は復活節最後の主日です。さらに代々の教会は、その主日ごとに個別の名前まで付けて来ました。その名前を聞いたら、キリスト者たちが自分の信仰をどのように培ってきたのか、それが現れるようにとの思いを込めてです。今朝の主日の名前は、詩編27編7節から採られました、それは「わたしの声を聞きたまえ」という名前です。キリスト者の生活の中に、「わたしの声を聞きたまえ」という祈りが、途絶えることはなかったということを表わすのです。そして今朝、改めて思います。この言葉は、過去の信仰者たちの祈りであるばかりでなく、今の私どもの心の中にある言葉でもあるようだ、と。

 この詩人は神様に向かって、まるで大声で叫ぶように言います、7節「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください」と。これは元々の聖書の言葉を見ますとブツブツと切れていて、「主よ。聞き給え。憐れみ給え。答え給え」と、必死にすがり付くような文面になっているのです。きっと、泣き叫ぶことしかできないような現実が、この詩人にあったからでしょう。私どもも自分の生活を振り返ってみたら、彼のような窮状を経験することがあるのだと思います。詩人が「主よ、聞いて下さい」というのは、誰もほかに聞いてくれなかったからですよね。私どもも相談したいことがあるとするでしょ。そのとき家族が傍にいるとするでしょ。子供は小さい頃は、親に相談しなくっちゃと話し出します。すると大抵「それは、お前のココとココが悪い。もっとこうすべきだ」と、きついダメ出しをされて、「エー、相談したら怒られるの?」と泣きたくなって、さらに「もっと頑張れ」と追い詰められてしまう。妻が夫にですね、「ちょっと聞いてもらいたいことがあるのだけど」と話しかけたら、「それはお前のココとココが悪い。もっとこうしなきゃ」とダメ出しをされて、「私が悪者なの?」と泣きたくなって、さらに「もっと頑張れ」と追い詰められてしまう。人は、ただ聞いて欲しいだけなのに、それを聞いてもらえないなら、心配事とか心の中の重荷は、行き場を失ってしまうんじゃないですか。この詩人は、誰にも聞いてもらえなかったのです。だから、心の底から絞り出すようにして、「主よ、聞いてください」と叫んだのです。さらにです、次の「憐れんでください」というのも同じでしょう。「憐れむ」という言葉は、本来の意味は、「恵み深く」とか、「好意を寄せる」という意味の言葉です。また次の「答えてください」というのは、「無視しないで」という意味です。つまりこの詩人を囲んでいる状況は、誰からも好意を寄せられず、周りから無視されている状況なのです。そんな詩人が、ついに神様に向かって叫んだのです、「あなただけは、私の話しを聞いて下さい。憐れんで下さい。私を無視しないで下さい」と。そしてこれは叫びであると共に、祈りでした。詩人は神様を知っている信仰者だったから、虚空に消えるような叫びではなく、彼は祈りの言葉として「わたしの声を、どうか聞いて下さい」と、神に訴えたのであります。

 その時、でした。その祈りの中で、詩人は、アッと気付かされたことがあったのです。私よく「アッと気付かされ」とか「エッと思った」とか「ウッと気付いた」とか言いますでしょ。「牧師って、変なこと思うんだなぁ」と不思議に思っている方もおられるかも知れませんが、でもこの「アッと気付かされる」って、聖書を読む時には大事なことなんです。なぜなら聖書って、生ける神の言葉として、私に語りかけられている生の言葉ですよね。それを聞き取ろうとしたら、その言葉を辞典で調べたって仕方なくて、「あなたの言葉が聞きたい」と耳も心も傾けるしかないんです。聞くという行為はそもそも人格的な行為なんです。「神と私」「汝と我」の人格的行為なんです。そうやって聞こうとした時にです。神の言葉は本来、天地創造の神の言葉なんですから、たかだか人間が有限な知識で理解できるはずもなく、だからもしもです、神の言葉を悟らせていただけるとしたら、それは神様ご自身が「分からせてあげるから」と助けて下さった時だけなんです。つまり、聖霊なる神が「あなたの心を開いて、贈り物として神の言葉を分からせてあげる」と働いて下さった時だけなんです。それは誰にとっても、祈りの中で起こされます。そのとき人は「アッと気付かされた」としか言いようがないようにして、御言葉の核心に触れることが出来るのです。この詩人も必死に祈る中で、アッと気付かされたことが起こりました。それを書き留めたのが8節なのです「心よ、主は、お前に言われる。わたしの顔をたずね求めよと」と。つまり、「主は私に、ご自分の御顔を尋ね求めて良いよと言って下さっている」ということであったのです。詩人はすがるしかない祈りの中で、「ああ私は、神を呼び求めて良いんだ。神様と私は、そういう関係でいるんだから」ということに、気付かされたのです。

 旧約聖書の民にとって、神様が「わたしの顔を尋ね求めよ」とおっしゃったら、すぐに思い浮かべることができる「神の御顔」がありました。それは父祖たちから聞いて来た出エジプトの出来事があったからです。彼らは、エジプトの国に奴隷となっていた人々です。毎日が苦しくて「誰かわたしの声を聞いて下さい。主よ、憐れんで下さい、わたしに答えて下さい」と叫んでいたのです。そこに、壮年男子だけで60万人の民が奴隷の国から脱出するという出来事が、神様によって起こされたのです。その日、人々は知りました、「主こそ、私たちの助け」と。それをこの詩人も9節で「あなたはわたしの助け」と告白したのです。「神様こそ私の助け。あなたが共にいて下されば、それだけで他は何もいらない。そこが私の居場所」と。私、20〜30年前に犬を飼っていました。シェットランドシープドックで、牧師館に来る前には、夏になると相模湖にあった家から、よく道志川に家族とバーベキューに出掛けたものです。もちろんシェルティーも一緒です。でもあの子、あんまり言う事を聞かない子で、ある夏のことでした。「ここに居るんだよ」と首輪を繋げていた場所から、いつの間にか抜け出して姿を消した。川に落ちたんじゃないかと心配して、必死に川辺を探していたらです。向こうのほうの家族から、「おー、そっちに行ったぞ」と声がして、大型犬がウォンウォンと吠える声。すると反対側から「おー、コッチに来たぞ」って。それで私「もしかしたら」とその声のほうに顔を向けたらです、そこに迷子になって、切なそうな目をしたシェットランドシープドックが一匹、私と目があったかと思った瞬間、脱兎のごとく人混みをかき分けて、ピョーンと私の胸の中に飛び込んで来たんです。そこで抱っこされてホッとした顔をしていました。ウチの犬でした。勝手に脱走して迷子になったのに「ここが僕の居場所、やれやれ安心」とばかりに、いつまでもしがみ付いて降りない。しょうがない子でしたが、でも思うんです、「私も迷子になる」と。神様の言うことを無視して、勝手に生き出すからです。「迷子の羊」なんて言うと耳障りは良いですが、でも実は自分勝手で、傲慢で、だから神を見失うことを起こしてしまうんです。そこで周りの「人間の顔」が気になり出して、自分は無視されているように思えて、恐くなったり孤独になったり。でもなんです、そんな時でも、その場で神様が、気付かせて下さるんです「心よ、主はお前に言われる。わたしの顔をたずね求めよ」と。私どもは求めて良いんです。主なる神の御顔を求めて良いんです。それは神様が、私どもよりも真剣に私のことを心配して、探していて下さるからです。「どこに迷い出したんだ、そこで怯えていないか、震えていないか」と激しく心配して下さって、私どもを探して下さっているからです。その神様が共にいて下さるなら、他に何もいらないんです。

 そういう関係に生きた詩人にとっては、もはや神様に、アレコレの願い事やご利益を叶えて欲しいと言う必要もなかったでしょう。「ただあなたが一緒に居て下さるなら、それで恐れもない。それが最善だ」と、そういう関係に、信頼の関係に戻れたからです。そして、そんな信頼関係というのは、神様と一緒に生活する中でこそ、心と体に染みついてゆくものです。神との信頼関係というのは、生活の中で「神と私」という二人三脚で生きることでしか生まれないし、育まれないし、また維持されないんです。私が小さい頃に育てられた奈良の教会のお婆ちゃん牧師先生は、口を開けば、「あっちゃん、神様の言葉を聞きや。聖書を読むしか聞けへんのやで。祈りや、祈らんと分からへんのやで」と言っていました。そう言ってくれたのは、私の現実生活のど真ん中に、神様との関係を刷り込ませるためだったと、今は分かります。身に染みついた深い信頼に生きていたら、危機の時も「私の声を聞きたまえ」と叫べる、「そう求めて良い自分なんだ」とハッキリ分かることが出来るからです。そう考えていた時、ふと「あ、私は神の顔を知っていた」と思ったのです。それは皆さんも知っている「神の御顔」です。それはイエス様。この旧約時代の詩人はまだ知らないから、だから9節で「あなたの僕を退けないでください…わたしを離れないでください。見捨てないでください」と言っていましたけれど、私どもは知っているんです。神の御顔をイエス様のお姿として思い起こすなら、そこでハッキリ言うことが出来る、「神は、私を退けられない。決して私から離れないお方。神は私を、絶対に見捨てないお方だ」と。主イエスは、私のことを私よりも大切にして下さったから、私の身勝手で起こした過ちと罪なのに、その裁きを身代わりに償って下さったのですよね。皆さん、あの十字架の上で命を捨てられたお方、そこに「神の御顔」があるのです。私のために苦しむ方の御顔、私のために死なれた方のお顔、それが「神の御顔」なのです。だからです。私どもは十字架の下に立つ時に、そこでこそ、神の御顔を尋ね当てることが出来る。そこでだけ、神様との深い信頼を育み続けることが出来るのです。そういう人ならどんな時も、神の懐に飛び込むように「わたしの声を聞き給え」と叫べるし、祈れる人になるのではありませんか。

 代々のキリスト者たちも、その中を生きました。信頼して、迫害の辛い日々も生きたのです。私どもにも、新しい1週間が始まります。さあ、信仰者の歩みに連なって、この週も過ごして行こうではありませんか。大胆に主イエスの御顔を仰いで、「呼び求めるわたしの声を聞きたまえ」と祈るのです。そこで、平安も戴けるのですから。
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2020年05月17日

説教 『かわいそうだ』

2020年5月17日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章32〜39節
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
15:39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 イエス様の傍には、いつも、群衆が詰めかけていたようで、今朝の場面でも4000人がいたと言われています。でもそれは、男だけを数えているだけで、その場には女性も居ただろうし、お婆ちゃんも子供も、赤ちゃんだって一緒にいたでしょう。だから群衆の数は、優に1万人を超えていたはずなんです。その群衆は、じゃあどういう人々だったのかと言うと、それも知ることができます。今朝の直前の箇所で、イエス様がガリラヤ湖のほとりで、大勢の人を癒された様子が記されていたからです。その人々とは、「口の利けない人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」だったようです。その一人ひとりが癒されてゆき、そして時が経ち、陽が傾いて来たのです。そこに起こった出来事が、今朝の箇所で読まれたことであったのです。イエス様が、7つのパンと少しの魚で、彼らを満腹にされた、「4000人の供食(食事を提供)」と言われている出来事でありました。

 さて、今朝の出来事を聞かれて、きっと皆さんの中には「あれ? この話しは前に聞いたことがあるような、私の勘違い?デジャブ?」と思われた方がおられると思います。いえいえ、勘違いじゃありません。今朝の箇所の1ページ前を見て下されば、「5000人を、5つのパンと2匹の魚で満腹にされた」という、イエス様の満腹奇跡が記されていて、それを憶えておられるのです。それは今朝の箇所と、そっくりな出来事でした。さらにその「5000人の供食」は、マルコにもルカにも、さらにヨハネも、つまり全ての福音書に漏れなく記されているので、これまでの教会生活の中で当然、どこかで耳にしたことが在り得るのです。だからそこで、「全く同じ出来事で、全く同じ結論になるのに。なぜ繰り返し書いているんだろう」と考えてしまうことも起こるんじゃないでしょうか、私がそうだったんです。皆さんは、いかが思われますか? もし訳があるなら、それはどんな訳なんでしょう。なぜマタイが、同じ結論なのに省かなかったのか。それがとても気になって、もう一度ゆっくりこの出来事を読み直してみたのです。

 5000人が満腹した出来事から、季節は移り変わり、半年ほどが過ぎたようです。そのときに、また同じような状況になりました。イエス様が、今度は4000人の群衆を前にして、32節「群衆がかわいそうだ。…空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れ切ってしまう」と。この時にイエス様の口から出たのは、晩ご飯の話題です。「晩ご飯がない。お腹がペコペコになる。どこかに、お握りはないのか、パンはないのか」そういう話しをしておられるんです。まるで家族の食事の心配をしてオロオロしている、お父さんのようなんです。それも、この「かわいそうだ」という単語は、私も何度か礼拝でも取り上げて来ましたが、聖書では特別な言葉で、これは「はらわた痛む」という意味がある、激しい言葉です。心配で心配で、「五臓六腑が、よじれるように辛い」という意味の言葉なんです。だからイエス様は、人々のご飯のことを考えたら、彼らがお腹がペコペコで困り果てるだろうと思ったら、心の五臓六腑が痙攣してよじれるように痛んだ、ということなんです。そして、そういう風に「かわいそうだ」と思われた時に、この出来事が始まったのです。弟子たちに「パンは幾つあるか」と聞かれて、以前になさった、5000人の奇跡と同じことをなさったのです。つまりイエス様は弟子たちに「ほら、あの時のことを憶えているだろ、あの時のことを、もう一度しようよ、一緒にここでしようよ。今日はパンが幾つあるのか」と言われたということなのです。そこに5000人の時と同じ、満腹するという結論にたどり着く奇跡が、起こったのです。

 私は、この時の出来事を辿りながら「イエス様はやっぱり、同じことを繰り返されたんだ」と思って、でも「もしかしたら、意識的に同じことを、前の通りにもう一度しようよ、とされたのかな」と気付いて、そして、「それって、つまり、イエス様の思いはいつも一つで、同じ結論へと行こうよ、一人ひとりが満腹になることを繰り返そうよ。いつも同じようにしてあげたいんだと仰っていた、ということなのかな」と、思ったのです。そう気付いたとき、ハッとしたのです。それはそこで、イエス様というお方の、そのお心を覗き見た気がしたからです。イエス様がどういうお方なのか、そのことにちょっと触れた気がしたからです。イエス様は、目の前に具体的な困り事があったら、何度でも同じことを繰り返されるんです。「かわいそうだ」と、御自分の心の五臓六腑をよじらせて、一緒に痛みを感じて「あなたが、喜びで満腹にことへと、繰り返ししてあげよう。私は、何度でも、満腹結論へと向かいたいんだ」と言われるのです。それが、イエス様にしみついているお姿なんです。先日、大阪にいる従姉と話しをしたんですけれど。もう何十年も会っていないのですが、「元気にしてる?」とね。そして「弟はどうしてる?」って聞いたら、「ああ、あの子はメソメソしてるでー」って。そう聞いた時、私の記憶の中にある弟の様子が、ありありと浮かんで来たんです。そして「小さい頃から、泣き虫やったもんな。そうそう、そうやった。それがI君やった」とね。会ってはいないのに、その人の姿が思い浮かんで来る。それは、名前に染みついた、その人独自の有り様があるからです。教会員の皆さんと、Oさんの思い出話をしたら、名前を聞いただけで、しゃべり出したら止まらない姿が思い出されませんか。また私は、ある姉妹の名前を聞いたら、その場に居ないのに、明るく笑う声が聞こえて来そうで、その笑顔まで見えて来そうになります。その人に染みついた、姿ってあるんです。マタイは、「イエス様は、人々の生活の中で共に生き、共に苦しみ、一緒にいる人がお腹が減ったら、ご自分のことよりも、あなたのことが心配だと、いつも助けて下さったお方だったよね」と伝えたくって、それを書き留めたのです。のちに教会が、キリスト者一人ひとりが、「そうそう、そういうお方がイエス様だったよね。そのお姿が、お名前を聞くだけで目に浮かんで来るよ」と、言える一人ひとりになって欲しかったからではないでしょうか。そのためには、文章としては不格好かも知れないけれど、同じことを繰り返し語るしか方法がない、と言うようにして、書き重ねたのです。誰もが「あれ、これまた書いているよ。うっかりしたのかなぁ」と心をザワつかせて、でもすぐに私のように気付くんです、「もしかしたら、イエス様ご自身がいつも同じことをしておられたのかも。人が困ったら、お腹が減るということでも、ご自分の心を痛めて、また同じことをしよう、あの日のことを繰り返してあげようと、人々を喜びで、満腹にされた」と気づいて行く。そして分かるんです、「それがイエス様なんだ。そうさ、それがイエス様というお方なんだ」と。マタイ福音書は、そのことに、気付いてもらいたかったんだと思うんです。

 そのイエス様のお姿を知って、私はくしは嬉しくなりました。でもすぐに、ちょっと気になることがあって、更に少し調べを進めてみて、ドキッとしたのです。このとき、イエス様は、人々を地面に座らせておられるので、草が枯れて地肌が見えていた真夏の頃でしょう。いや学者によっては「もう冬が近づいていた」という人もいます。そうであるならばです。すぐ気付くことがあって。もうすぐイエス様は、エルサレムに入城されるということ、つまりこの時イエス様の目の前で、十字架へと向かう日々がイエス様を飲み込もうと口を開いて待っている、ということなんです。皆さん、ハッキリさせたいことは、イエス様は、人々を繰り返し、恵みで満腹にしてあげようとされたのだけれど、でも人々のほうは、そのお方を拒絶するということです。とうとう十字架に架けてしまうほど、拒絶するということなんです。イエス様のほうは「あなたのために何でもしてあげたい、罪の苦しみからだって、救ってあげたい」と、心よじれるほど心配し下さるのに、人間はそのイエス様を拒絶するのです。そこにある大きなすれ違い、不気味なすれ違いが、今朝のイエス様のお姿に、もう始まっているような気がして、私はドキッとしたのです。そしてその故に、「そうなんだ」と気付かされたことがあって。それは、イエス様が繰り返し「あなたを恵みで満たしたい」と歩まれた歩みは、ご生涯の最後まで、消えることなく、薄れることもなく、貫かれた、それが十字架となったんだという事です。つまり、私どもの罪まみれの困窮を御覧になって、「かわいそうだ」と五臓六腑をよじって「あなたを恵みで満腹にしたい」と思われた、それが十字架で死なれるということになったという事です。私どもの罪と過ちと、汚れと背きと、その全ての償いの身代わりに、ご生涯の最後に、イエス様はそこでも与え抜かるのです。それは、パンと魚どころではない、ご自分の命で、満腹にして下さったという事なんです。

 十字架の上に見えるものがある。そこには、「あなたには神と隣人に対して、償い切れていない罪と過ちがあるね。そのあなたには裁きがあるよ。でも、その最大の困窮を、私が何とかしてあげたい」と、身代わりになられた救い主の姿があるのです。十字架の上に、もう一つ見えるものがある、それは、そのイエス様のお心を傲慢にも拒絶して、主イエスを見捨てて、十字架で死なれるままにしてしまった、私の姿です。皆さん、十字架の上で、イエス様の思いと、私どもの傲慢が、重なったのです。イエス様の「あなたを恵みで満腹にしてあげたい」という思いと、私どもの自分勝手さが、その2つが、十字架の上で交差したのです。そして、その貴い交わりの中で、神の恵みは圧倒的だから、私どもは丸ごと、その恵みに覆っていただいたのです。「神から赦される」という主イエスが与えて下さる最大の恵みで、満腹にさせていただいたのです。

 私どもの生活を見詰めて下さるのは、全てのことに「繰り返し、恵みで満腹にしてあげたい」と仰ってくださるイエス様です。ならば、今の私どもの重荷を御覧になって、「かわいそうだ」と思われないはずが無いではありませんか。私どもに「あなたの痛みが、私の痛みとなる。さあ、あの日のように、あなたも恵みで満たしてあげたい」と、御計画して下さらないはずはありません。「そうそう、イエス様はそういうお方だったよね」と主ご自身を信じるのです。そして委ね切る平安の中を、さあ、新しい1週間も過ごさせて戴こうではありませんか。
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2020年05月10日

説教 『すべてのことを理解できるようにしてくださる』

2020年5月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
テモテへの手紙二 2章1〜7節
2:1 そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
2:2 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。
2:4 兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。
2:5 また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
2:6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
2:7 わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

 この手紙は、パウロの同行者であったテモテを、励ます手紙でした。なぜ励ましが必要だったのか、それはテモテが、激しい苦難に見舞われていたからです。当時の教会は、信者の家で集会をするだけの小さなグループでした。彼らに加わる、敵対者からの圧力は凄まじいもので、誰もが、「教会は生き残れないだろう」と思えるほどのものだったそうです。そんな中で信仰者たち自身も「こんなに苦しい事ばかりなら、信じ続けて何になるのだろう」と、そういう思いが一人ひとりの中に入り込んで、こびり付こうしていた時代なのです。ふと思いました「もしも」と。もしも私どもが「試練があっても神様から恵みをもらえた。信じていて良かった、だからこれからも信じゆこう」と考えるのならです。祈っても祈っても叶えられる願いは一つもなく、恵みが全く見えなくて、そういうことが1度や2度じゃなく、延々と続いたらです。試練を辛抱する力も無くなりそうなほど追い詰められたらです。その時、何も応えてくれない神様を、なお頼ってゆくことに、迷いが始まるのではないですか。「神への信頼をしっかり握らねば」と思っても、指の間から砂がサラサラと落ちて行くように、信頼がどんどん消えてゆく、そんなことになりはしないでしょうか。苦難の日々に、助けを呼ぶ声に何も関わってくれない神様を、なお救い主として頼り続けていくことは人間にとって大変なことなんです。

 どうも人の信心というのは、どこか御利益宗教が混ざっているような気がしてなりません。神との関係を、願いを聞いて貰えるからとか、苦難を取り除いてくれからとか、結局そういう関係で見ている。そういう神様を求めているような気がしてなりません。だから日本では、八百万もの神々が作られたのですよね。そうやって多くの人が、願いを叶えるのが神様の役割だと思うから、神様が自分の願いに応えてくれない時「信じてどうなるんだろう」という不安が起こるのかも知れないんです。しかし、そこでなんです、「ちょっと待て」と思う。神様って、願ったことを叶えてくれるべきお方なのか、と。神と人とは、そういう関係なのか、と。もしも、ご利益で神を計ってしまうならです、「ちょっと待て」と思う。もしも「御利益の在る無し」に、神との関係を据えてしまったら、その先は、行き詰まりしか待っていない…、本当はお気付ですよね。私どもは、人生の中で、解決の見えない苦難に必ず襲われる、そこで私どもが、「自分を助けてくれる神様」という「神関係」しか握っていないのなら、苦難に食い尽くされそうになった時、何もしてくれない神様に不満ばかりが起こって、そこで「神関係」は完全に行き詰まるんです。皆さん、苦難とか試練は、少し我慢したら、頭の上を通り過ぎてくれるというような甘いものではありませんよね。この時のテモテも、苦難はどんどん酷くなる一方で、このあと大迫害時代がやって来るのです。主イエスを信じる者達の命が、消されて行く。そういう時代に、であります。先行きに光が全く見えない中に、今朝の御言葉が届けられたのです。それは、「信じれば、苦難が取り除かれる」という類の、安易な慰めではありませんでした、3節、「苦しみを忍びなさい」であったのです。

 それを具体的に説明しようとして、4節から例え話が3つ加えられました。3つもある、こんなにアレやコレやと例えを重ねたのは、伝えたいことを、なんとかして分かって欲しいからです。私も説教の中で、例え話をしたりします。私の子供の頃の話を始めたりすると、途端に皆さんの中で、ヒョイと顔をあげられる方が数人。それがアッチでもコッチでも、「待ってました」って感じで、その目はランランと輝いている、もう、何を待ってるんでしょうねぇ。「十字架のキリストが」と話し出した時にも同じように「待ってました」と顔を上げて下されば嬉しいんですけど。更に妙なことが礼拝のあとに起こる。それは「先生、あの例え話は、元はどんな聖書の話しでしたっけ」て。それを私に聞きますかぁ、変な人たちでしょ。そういう皆さんに、今は早く会いたいなと思いますけどね。「何とか伝えたい」という思いが募る時、語り手は例え話を始めるんです。この手紙の書き手をパウロとするなら、1節で、「わたしの子よ」とまで言って愛したテモテが、厳しい迫害の中で疲弊しているだろうと心配して、それでもそこで苦難をパッと消してくれる御利益の神様を求めないで、「苦しみを忍ぶんだよ」と伝えたくて、3つの例え話を始めたのです。1つ目は、兵士の例えを用いて「主なる神に、献身的に仕えて生きよ」ということであり、2つ目はスポーツを例にして「ルールに則って、与えられた環境の中で生きよ」ということです。3つ目は農夫を例にして「辛抱強く生きよ」と告げたのです。でも、3度重ねて説明しつつ、しかしそこでパウロはハタと気付いたように、説明をすること自体を止めたんです。3度も説明したから、充分わかっただろうと、説明を完結させたということではありません。本来説明というのは、どこまでいっても頭で、知識で、受け止めることだから、本当には身につかないと気付いたように、パウロは説明することから離れたのです。つまり「テモテは今、苦しみの中にある。そこで生きなきゃならないのに、どんなに完璧な説明をしても、頭に届けるものはテモテを生かすものにはならない」と気付いたように、知識として説明することから飛び退いたのです。そしてでした。いきなり「主は」と、これまでの人間的な「説明言語」とは全く異質な言葉を、告げたのです。「主は」と。パウロはそこで、主イエスに心を向けさせようとしたんです。テモテに、主イエスを指し示したのです。

 苦難の時、苦難を耐える方法論を言われても、その知識・知恵がどれほどの力になるのかと思います。または、「きっと先に実りがあるさ」という励ましを貰っても、また、「スポーツする人は苦しさに耐えて鍛錬する。農夫は汗水流して、実りを得る」と諭されても、「そんなことは僕だって知ってる」としか思えない。辛いということが辛いのに(変な日本語ですが)、方法論を聞かされても、「結局、他人事なんだよね」としか思えないんじゃないですか。それよりも何よりも、横に一緒に座って、むしろ黙って居てくれるほうが慰められたという経験を、皆さんはされことはありませんか。さらになんです。私は、そのような静かな慰めだけでなく、大きな慰め、躍動する慰めと言いますか、ググッと心の奥にまで届いた、確かに私を慰める、力ある言葉を受け取ったことがあるのです。それは、「祈っているよ」という言葉でした。つまりそこで私は、一瞬にして、自分の苦労を見ることから、主イエスを見上げることへと心を向け直させてもらったのです。パウロは、愛する信仰の子・テモテに、「苦しみを忍ぶんだ」ということを分からせるために、十分に説明をしたあとに、そんなものでは苦難のテモテを立ち上がらせることは出来ないと気付いたかのように叫んだのです、「主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるから」と。そうやって心をイエス様へと向けさせた。「主イエスが全部して下さるから。あなたが納得できるために必要な、すべての理解も、プレゼントしてくださるから」と告げたのです。だからテモテが自分自身で、「どうやって苦しみの中で、耐え忍んでゆけるんだろうか」と、考えあぐねなくて良いんです。主イエスにお任せしようとさえすれば良い、幼子のように素直に、ただ「主よ、主よ」と御名を呼べばいい。そうしたら主イエスが、今をどうやって忍ぶのかをも理解させてくれるから、ということなのです。苦しみの中にあっても、忍耐して生きることを、本当に自分の生き方にできるのは、主の御業、聖霊の助けにのみ依るからです。

 それも「すべてのことを理解できるように」とある「すべて」とは、「一つの欠けもなく」という意味です。つまり「兵士の従順さ」も「スポーツマンの鍛錬」も「農夫の忍耐」も、どれ1つ欠けることもなく、あなたの身に着くようにしてあげるという意味なのです。テモテは苦難の中で、もう十分苦しんでいました。そのことを、神様が知っておられるのです。大迫害時代が来て、テモテが、心も魂も弱り出すことを分かっていて下さるのです。そのテモテに、「神様が、重荷はもう十分だ。それ以上もう自分で悩まなくて良いからと言って下さるよ」と、パウロは伝えたいんです。「思い詰めなくて良い、ただ主を見上げるんだ。主が、あなたに必要なことを、すべてプレゼントして下さるのだから」と。それは、主イエスが私どもの生活に、必ず介入して来られるという宣言でもありました。主の霊は、私どもの生活の中で働かれます。それは、私どもを襲う苦難の日々を、その只中で私どもが忍べる者となるためにです。そこで私どもが「いま神様が共にいて下さる。だからこの日々を忍んでゆこう」と自分で決意できるまで、主ご自身がじっと、苦難の只中に私どもと一緒に、座っていて下さるということです。

 そう思い至った時、アッと思いました。本当の苦しみ、本物のどん底をなめ尽くされたのは、私なんかじゃなくて、イエス様ご自身だったと気付いたからです。人が味わう苦しさ、悲しさ、辛さの全てを、イエス様は知っておられるのです。全部ご自分が背負われたからではありませんか。人々から嫌われ、嘲られ、ばかにされ、味方と思っていた弟子からも見捨てられて、心はボロボロ。体だって、鞭を受けた背中は、肉が裂けている。そして十字架に釘付けされたのです。十字架の刑罰というのは、身体的に残酷な刑であるばかりでなく、神の敵として、罪人として、神から見捨てられるという宣告を受ける刑です。イエス様は御子なのに、父なる神が見えなくなる不安も、辛さも、見捨てられる怖さも、全部知っておられるのです。十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様。だから、余裕をもって苦難を味わったなどということでは決してありません。イエス様は、あらゆる苦しみを舐め尽くされ、疲弊し、うなだれ、失望を味わったお方なのです。それはただ一つの理由からです。それは、苦難を負う私どもに連なって下さるため、罪の重荷まで背負って下さるため、そこで「あなたの重荷は私が分かっている。辛いよね」と私どもと同じになって下さるためだったのです。それが「人と神様との関係」なんです。本当の「神関係」なんです。その神の御子イエス様が「あなたの今の生活で、苦しみを忍んで生きる人となって御覧。それが必要なことを、私が理解もさせてあげるから」とおっしゃって下さるのです。

 今朝、私どもは、「主は、すべてのことを理解できるようにしてくださる」と語りかけられています。このみ言葉を、心の底で握ろうではありませんか。そして、「あなたと一緒なら、今日を忍んで生きられます。あなたが共におられるのですから」と、祈りつつ、新しい一週間を歩んでゆこうではありませんか。

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2020年05月03日

説教 『神は遠く離れてはおられません』

2020年5月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
使徒言行録17章27〜29節
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、
  『我らは神の中に生き、動き、存在する』
  『我らもその子孫である』と、
   言っているとおりです。
17:29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

 今朝は、代々の教会が選んで来た使徒言行録17章を開きました。その27節、「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」と聞いた時、私は先ず思ったのです、「たしかに人間は、神様を求める時があるよね」と。順調な時は、自分のことしか考えていないかも知れません。でも、順調なママ最後までゆける人って、いないんですよね。思ってもいなかった壁にぶつかるんです。苦難や病、思い煩いや、人間関係の崩れなど、色々な嵐がやって来る。そこで人は不安を抱えてオロオロし、心も弱って来るのではないですか。その時にです。人間は誰もが、神に造られた命だから、本能的に、その造り主なる神へと心が向かう。そこで「助けて!」と神を求めて叫ぶのだと思うんです。ドイツの聖書学者が、このように言っていました、「全人類が、空気と水とパンのように生きるために必要とするものがある。それが、神を見いだすということだ」と。自分の力でどうしようもないことを抱えた時、人は「私は、どうしたら良いんだ」と叫んで、それに応えて下さるお方を探して、彷徨い出すのではい出すのではないのでしょうか。神を、探し求めるのです。そういう人々にパウロが語ったのです、「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」と。

 この言葉が語られたのは、パウロが伝道旅行をして、アテネの町に入った時でした。アテネとは御存知のとおり、ギリシア世界の中心です。そういう町でパウロが見たものは、数々の金や銀、木や石で作った神々の偶像だったのです。その数3000体。文化文明を誇る者たちが、それでも偶像にすがっている様子を見たのです。私どもは手で作られた偶像は持ってはいません。お守りなんて持っていないけれど、でも、自分のお守りのようにお金を持つ、権力を求め、力を持とうとするのではないですか。それがあったら安心だと考えるからです。でもいつしか、それらが偶像の神になっていこともあるんじゃないですか。アテネの人々も、左手で偶像を拝んで、右手でお金を拝んでいた。それでも安心なんかできなくて、あれもこれもと偶像を作り続けたのです。でも作っても作っても、心と魂が満たされない、彼らは渇いていたのです。そういう人々を見て、パウロは語り出したのです「あなた方はもう十分求めて来た、でも見当違いの所を探していたのだよ。石や木でお守りを作っても、どれだけお金を貯め込んでも、不安ばかり募ったのは見当外れだったからなのだよ」と。そして「向きかえれ、真の神・イエス様の方へと。そこであなたは、あなたを潤すお方を、神を見いだすことができるから」と、そう語り出したのです。

 それもです。パウロはそれを、信仰深い人々に語ったのではありません。人々は神を求めてアッチにフラフラ、コッチにフラフラ、ソッチを拝んだり、ドッチも拝んだり、向こうにご利益があると聞けばそちらにも、すり寄る。そんないい加減な人々だったから、パウロは、人々の信仰熱心に期待したというのでは決してないのです。彼が人々に、「探したら、神を見いだせるよ」と話せたのは、その理由は1つしかありません。それは、神様の方が、人々に出会うことを強く欲しておられるということ、神の側の熱心さによるということ以外ではありません。皆さん、人間が求めれば神様に出会えるのは、私どもが熱心で信仰があるからではありません。人間は誰も彼も、自分の思い通り遣りたくて、だから本当は神様に関わられるのは面倒で、自分勝手に生きてゆきたくて、そうやって神に背を向けて生きる者でしかないんです。何かして欲しい困り事がある時だけすり寄る、そんなご都合主義。図々しくも、今まで知らん顔していたのに「神様!」って、神を求めて叫んだりする。そんな輩なのに、神様が私どもに駆け寄って下さるというのは、神様の側がいつも、寝る暇も無く私どもを見詰めて、神が私どもを求めておられるということ以外、理由は1つもないのです。私には、2歳と1歳半の孫がおりまして。ご存知でしたよね。「孫、孫」という爺さんになっちゃいましたから。スマホには孫の写真と動画でメモリが一杯の爺さんです。最近、孫がトコトコ歩き回るんです。それも「そっちは危ない」という方へ行くのが得意なんです。なぜ「ダメ」って言われる事をするのが、あんなに上手なんでしょうね。そこで案の定、小石に躓いて「ママー」って泣き出すんです。そうしたら、です。これまたママというのは、どうしてあんなに甘いんでしょう。怒れば良いのに、「どうしたの〜」って駆け寄って抱っこしている。ママと2歳児は(3歳児は知りませんよ)「あなたが悪くても良くても、ただ愛している」、そういう関係なんですよね。神様は私どもが、ご利益しか求めない2歳児人間なのに、善人であろうが悪人であろうが、躓いて転んで「神様!」って求めたら、その瞬間に駆け寄って下さる、それを欲っしていて下さるお方だというのです。今朝、私どももそれを知って心からホッとして、嬉しくなるのではありませんでしょうか。

 さてパウロが、ここで話しを終わってくれていれば、なんて良かっただろうと思います。それなのに、ホッとしている私どもに、27節後半で、ちょっと気になることを加えていたのです。それは「神はわたしたち一人一人から、遠く離れてはおられません」でした。この「遠く離れてはおられない」と聞いて、あれ?と思ったのです。「遠く離れてはいないって、じゃあ、ちょっと離れているの?」と。皆さん気になりませんか? 大切な人から「一緒に居るよ」と言われて嬉しくなって、でもそのすぐ後「遠く離れては、いないからね」と言われたら「えっ、一緒じゃないの? ちょっと離れてるの? それって結局、どのへんにいるの?」と。どうも私これが気になって、考え込んでしまいました。数日ほど思い巡らしていて、ふと気づいたことがあったのです。それは、私も今まで「神が共におられて、恵みを得た」と嬉しく思った時があって、その心のまま揺れずに、神は共におられると信じて行けば良かったのに、その人生の途上でなのです、迷い道に入り込むことがあったのです。病気とか、先行き不安とか、仕事での思い煩いとか、そういう事が、神様と私との間に入り込んで、気付かない内に私をベールで覆うようにして、神との間に隙間を作ったのです。小さな、不信というベールが私どもを包んだら、それが薄いものでも、傍にいて下さるはずの神様が、そのベールに遮られて、見えなくなってしまう。そしてそんなベールに包まれたら、私どもはその中で縮こまり、独り言を始めるんです、「あのとき神様は共におられると思ったけれども、でも今、ここには居られないんじゃないか。神様は私の傍から去って行かれたのかも。苦難の中で私は置いてきぼりにされたのかも知れない。だからこんなに苦しいんだ。一人ぼっちで、誰も守ってくれないから」と。そして、不信という暗闇の中を、独り彷徨い出すのですい出すのです。

 皆さん、人と人との間にもちゃんと神がおられるということを、見失ったら。私どもは隣人を愛せなくなりますよ、知っておられましたか? 自分と隣人との間に、神が居られることを見失ったら、人を批判する思いが暴れ出すからです。隣人も、神様から愛されている大切な宝です。それなのに、その神様を見失ったら、人と人とはじかにぶつかって、相手に自分の言うことを聞かせる“陣地取り”が始まる。腕力と、言葉による力づくで、自分に従わせることでしか安心できないし、自分が主導権を握っていないと平安でいられなくなるんです。でも、です。人と人との間に、ちゃんと神様がいて下さって、神様が私を、隣人に、「さあこれが、我が愛する人だよ」と紹介してもらえたら、また隣人のことも「これが我が宝の人だよ」と紹介されて「さあ互いに支え合いなさい、愛し合って過ごして御覧、2人とも私が守るから」という御声を信じるなら、家族や友人、隣人と睦ましく暮らしてゆけるのです。だからもしも、そうあるべき私どもが、神様との間を遮るベールに覆われてしまったらなんです。神が近くに見えないと言うだけでなく、隣人との平和も見失ってしまうんです。そしてそのベール1枚は、薄いものであっても、決して侮れないと知っているのではありませんか。旧約聖書で、創世記の初めから延々と記されているのは、神様が傍におられるのに、人間が勝手にベールを作って、それに覆われ、神様が見えなくなって自分中心に歩く姿です。そして神様は、いつもそれを嘆いておられたのですよね。だから実は、人間の弱さを、誰よりも知っておられるのは、神ご自身と言えるのです。神様が「共にいよう」と願っておられるのに、私どもが勝手に、神から離れる覆いを作ったのです。それが聖書の示す「罪」なのです。そこで人は、人と神、人と人との関係が、破れる痛みを抱えたのです。そしてその痛みをも、神様は知っていて下さるんだ、ということなのです。

 神は知っておられる、だからでありました。その覆いを破り去ろうとしてくださったのも、神ご自身であられたのです。引き裂かれた関係が、人間にとって本当は辛い事なんだと、天の父が分かっていて下さったからです。そしてそのお覆いに、神様が風穴を開けるためになさったことは、ご自分の御子を私どもの中へとお送り下るということ、私どもが作った覆いの中へとお送り下さって、闇の中に生まれさせて下さったという出来事、つまり御子のご降誕であったのです。天の父は、ご自分は天の安全地帯にいて、高い天から、人間の闇の外から、関わられたのじゃありません。闇の内側に来られて、闇の中から、神との繋がりを取り戻すための風穴を開けて下さったのです。御子なる神が、御自分の血潮を流しながら、肉を傷だらけにされながら、命を引き換えにして、ベールを破られたのです。それが、十字架の出来事。私どもが神を見いだし得るのは、イエス様によって覆いを取り去って頂くことを通して、唯それによってだけなのです。

 祈るのです、「十字架の上で血潮を流されたのは、私が作ってしまった覆いを、罪を、神の御子が打ち破って下さるためでした。主の十字架、わがためなり。信じてあなたを見上げます」と。そう心から祈る時「神は、ずっと私を見詰め、共におられたのだ」と気付けるのです。今朝「神は遠くに離れてはおられません」と聞きました。それは今の私どもにとって、必要な御言葉だったのではありませんか。神様は私どもの新しい1週間も、共に歩んで下さいます。平安を頂いて、過ごしてゆこうではありませんか。
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2020年04月26日

説教 『イエスはこれらの人々をいやされた』

2020年4月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章29〜31節
15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。


 この礼拝準備のために、今朝の箇所を最初読んだ時、私はすぐ「あれ」と思いました。「これって直前の14章に書かれていることと、全く同じ、ダブっているみたい」と。そして、「だとしたら説教も同じになる、こりゃ参ったな。コッソリここを飛ばしてしまおうかな」とね。でも悪代官にも三分の理で、名だたる註解書もこの箇所を飛ばしているんです。さらに、イエス様のご生涯を同じように書き留めたルカ福音書では、この出来事を省いているんです。だから「私だって飛ばしても良いんじゃないの」と思ったわけで。でもそう思いつつ、ふと考えたのです。マタイがこれを書き留めたのは、わざわざ書き残したということで、つまりそこには何か訳がはず、と。そう気付いたら「それは何なんだろう」と改めて聞きたいと思って、祈りつつこの箇所の準備を、始めたのです。

 今朝の冒頭、29節には「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた」と、ありました。どこからガリラヤまで来られたのかなと思って、直前箇所を辿りましたら、それは異邦人だけが住む町「ティルスやシドン地方から」ということでした。その土地で、奇跡の御業をなさって、一行はガリラヤまで移動して来たのです。その一行の後を、たくさんの異邦人も一緒に付いて来たと思われます。ガリラヤ湖畔というのも、異邦人がたくさん住んでいた土地ですから、このときイエス様を取り巻いていたのは、もしかしたら殆どが、神様のことを知らない異邦人だったのかも知れません。そういう人たちが、病や、身体に重荷を抱えた家族や親友を、背負って来て、30節、「イエス様の足もとに横たえた」ということなんです。それもこの「横たえた」という言葉は、他の聖書箇所では、「投げ出した」とか「投げつけた」という、ちょっと乱暴な言葉なんです。つまり、イエス様に対する恭しさは無く、どちらかというと「治せるなら治してみてくれ。お前に出来るかどうか、見たら敬おう」という関わり方なのです。確かに人々は、今まで苦労して来ました。重い病の家族がいると、自分だって、苦しみますよね。愛しているからです、当人だけが苦しんでいるなんてこと、ないんじゃないですか。同じように重荷を背負うんです。それが、愛するということじゃないですか。愛するなら、その愛する他者のために、自分自身も何かを削るんです。単に看病することだって、時も財も、そして体力も心も削る。だから一緒に、心も体もクタクタになったりするんじゃないですか。愛するということは、自分自身を削ることだからです。そういう人たちが、一緒に重荷を背負い合って、神様のことを良くは知らないけれど、イエス様の前にやって来たのです、「あなたに、癒せるだろうか」と思いつつ、でした。
その人々を見て、イエス様は小言の一つも言われず、今までなさって来たと同じように、人々を受け入れ癒されたのです。そこになんの躊躇も在りませんでした。普通だったら、イエス様から見るなら、「奇跡だけ求めて来るお前たち、ご利益宗教のようにたかって来るだけなのか。いい加減にしてくれ」と言いたくなる場面じゃないですか。私、毎朝、御言葉に聴いて祈る時間をいただいていて、そのあとに朝ご飯を食べるのですけど、その時見ているドラマがあるんです。今やっているシリーズは、グータラ亭主が登場して、何度も嫁さんに迷惑をかけて、いつまでも小遣いをせびる。見ている私がイラっとします。その亭主に、ついに嫁が言ったんです「いい加減にして、私にせびるばっかりで、もう付き合い切れない」とね。見ていた私の胸もスッとする。同じことを繰り返す理不尽な相手に「いい加減にしろ」と言うは普通の反応じゃないですか。それなのにイエス様は、繰り返してご利益を求める人々との出来事なのに、今までと同じように、まったく躊躇もされる様子もなく、全ての人を癒されたのです。

 ここはガリラヤですから、当然、群衆の中に、ユダヤの民もいたでしょう。異邦人じゃないけれど、でもそのユダヤの人々も、まるで神を知らない異邦人に逆戻りしたようになっていて、イエス様のことを、自分に都合の良い奇跡をする人としか見ないで、恵みをせびったのです。そうであるのに、でした。彼らは、イエス様から怒られもせず、呆れられこともなく、何故なのか丁寧に、恵みをもらえたのです。30節、「イエスはこれらの人々をいやされた」とある通りに。何故だろうと思いつつ、そんな人々の姿を思い巡らしていた時にです、ふと気付いたことがあったのです、それは、「この群衆は、私に似ている」と。私もかつて、神様から具体的な生活に関わる、数えられる恵みを受けた時、心からの感謝をしました。自分の道が拓かれた時も、苦しかった人間関係で和解を得た時も、娘の病が癒された時も、祈りが聞かれた時々に「神は生きておられる、この私にも関わっていて下さった」と嬉しくて、神様が共にいて下さることに喜びが溢れて来ました。でも、それなのに、その心の躍動がまだ鎮まらない内にです。次の試練が襲って来た時に。また初めのように狼狽えて、神様をじっと信頼していることが出来なくなって、森の木々が風に揺れ動くように動揺し始めて、ついに、神が居られることを知らない者かのように、「もうダメだ」と思い出す。そうなったら「御心を成して下さい」なんてとても言えず、祈れず、ただ奇跡をせびる者のように「早く、どうにかしてくれ」と、恵みだけを求める者になっていたのです。それも最悪なことに「こんな具体的な問題は、神様だってどうにもならない」と、神を見くびり始めて、それでいて、苦難が解消しないことに「いつまでこの辛さを抱えないといといけないんですか」と、神様に文句を溜め込んでしまう。もう勝手なことを思い放題、言い放題で、神様との関りの中に生きている信仰者ではなく、神を知らない異邦人のようになってしまっていたのです。そんな姿に、私はこれまで何百、何千回もなって来ました。信じて雄々しい姿だったのはほんの瞬間で、不信と不満の思いに身を焼いていた姿が、人生の殆どだったのです。まさに私こそ、神を知らない者に、繰り返し逆戻りしていたんだと気付いたのです。しかし。その時、そう気付いたのと同時に、でありました。

 イエス様は、詰めかける人々に「いい加減にしてくれ」とは一言も言われず、そんなこと微塵も思われずに、全ての人を癒されたのだと知って、改めて「それが伝えたかった『特別なこと』だったのだ。それ自体が、良い知らせだったのかも」と思ったのです。この出来事は、繰り返し神を知らない者のようになる私どもに、それでもイエス様は、何度でも、初めてのように慈しみを注いで下さるお方だ、ということではありませんか。イエス様を取り囲んだ人々を、決して突き放しもせず、裁くこともなさらない。何度でも丁寧に、御手の業を一人ひとりに尽くして下さる。それも、ためらうことなしにです。つまり与えることだけに必死になられて、御自分への見返りを計算されないんです。繰り返し不信仰になる私どもに対しても、なのです。イエス様は神の御子なのですから、天の高見から人間を見て、「熱心な信仰者になったら救ってあげよう」と、なさっても良いはずなのに、そうはなさらなかったお方だということですよね。それどころか、神の居場所であるはずの「天の玉座」から、イエス様は飛び降りて、私どもの傍に低く降って来て下さったのです。神を信じ切れないという、神ご自身にとっては敵であるような者のところに降って、私どもの足もとで、私どもに跪くようにして、私どもに仕える方となって下さったということではないですか。真の神は、不信仰な罪人を裁く神ではなく、罪人に仕える神であられたのです。罪人の僕になられることを選ばれて、降って来られた御方なんです。それが、私どもの救い主イエス様だったのです。「そういうお方だったから、ここでも全ての人々を癒された」と分かって、さらに「だからだ」と思いました。このお方が、とうとう行き着いた場所は、全ての罪人に対して「いい加減にしろ」とは言われず、繰り返し「あなたのために何でもしてあげよう」と、命さえも与えて救おうとされた、十字架での死という場所だったんだ、と。イエス様は、私ども罪人を真に癒すために、とうとう命さえも与えて下さったのです。

 信じることにおいて、同じ失敗をしてしまう私どもであります。苦難と、現実に背負う生活の苦しみに、神様に委ねることが、何度も揺さぶられてしまう。そんな私どもであっても、なのです。主イエスは私どもに、繰り返し語り掛けて下さるんです、「私はあなたを見放さない、何度でも恵みを注ごう、繰り返し注ぐから」と。皆さん、辛抱して相手を信じているのは、私たちの方ではなくて、イエス様の方なのです。御子なる神の方が、忍耐して私どもを信じ続けていて下さるのです。「あなたを愛しているから」と言って、傍を離れないでいて下さるのです。「あなたにとって必要なことは、私がすべて分かっているから、大丈夫、それをしてあげよう」と言って下さるのです。

 『イエスはこれらの人々をいやされた』、今この福音を聞くことが必要なのは、私ども自身ではないでしょうか。それは、前代未聞の、長くて苦しい日々を過ごしているからです。だから、さあ今朝、み言葉を受けましょう。そこで、「一緒に礼拝が出来ない私どもの痛みも、主が、必ずいやしてくださる日が来る」と、希望をいただきましょう。そして今週も、私どものために躊躇なく、最善をしてくださる主イエスを見上げて、ご一緒に、一週間の日々を過ごしてゆこうではありませんか。
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2020年04月19日

説教 『その後』

2020年4月19日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨエル書3章1、2節
3:1 その後
  わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
  あなたたちの息子や娘は預言し
  老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは
  奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

 聖書は、「その後」と告げられていました。イスラエルの民に向けて、「今あるあなた方の将来に」ということです。ではこの時の彼らの「今」とは、どういう状況であったのか。調べてみましたら深い溜息が出て来ました。それは、彼らが抱えていた現実も「苦しみと嘆き」だったからです。人々はバビロン捕囚の後、古里エルサレムに帰って来ました。でもそこは、かつて新バビロン帝国によって徹底的に破壊され、瓦礫の町となっていたのです。畑も踏み荒らされて、信仰の拠り所だった神殿も見る影もなく壊され、体にも魂にも激しい飢えが襲います。やっと資材をかき集めて、小さくてもいいから神殿を再建しようとしました。でもそれも、同胞であった北イスラエルの人々から、妨害、攻撃される。彼らは苦しみの中で、「主よ、いつまで辛い生活は続くのですか」と、喘ぎつつ暮らしていたのです。その人々に向けて、神様からの言葉が、預言者ヨエルを通して届いたのです。それが、「その後」と始まる約束の言葉でした。ですからこの、「その後」とは、「あなた方の、今の苦しみの日々ののち、やがて来る未来を語るぞ」ということであったのです。

 その、やがて来る未来の約束とは、何であったのか。それが、1節、「わたしは(神である私は、ということです)、すべての人に、わが霊を注ぐ」ということでありました。神の霊が一人ひとりに注がれる、と言うのです。それを聞いた人々にとって、神の霊が注がれたらその時どんなことが起こるのか、すぐに想像がついたはずです。彼らは、父祖たちによって伝え聞いていたことが、あったからです。「神の霊」は「激しい風」となります。出エジプト記15章には、エジプトから脱出した民がファラオの軍隊に追撃され、その行く手も葦の海に塞がれる。そのとき激しい風が吹いて、海が左右に、壁のように分けられたことが記されています。その「風」が「神の霊」という言葉です。さらにそういう神の霊を受け取った人に、サムソンがいました。士師記4章に「主の霊が激しく降ったので、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた」とあります。神の霊が降ったら、神の力に満たされるのです。エゼキエル書37章には、「枯れた骨の谷」の幻が、記されています。骨に埋め尽くされた谷に、主の霊が吹き込まれると、骨と骨とが繋がり、肉が覆って人となる。さらに霊が吹き付けられると、彼らは生き返るという幻が告げられているのです。主の霊を受けることは、「神の命」を受けることであるのです。イスラエルの民は、「わが霊を注ぐ」と聞いた時、何が約束されているのかを、ありありと思い浮かべることが出来ました。それは、いま目の前に見ている苦しみの現実に、神の出来事が起こされて行くということです。それも、それを受け取るのは、「すべての人に注がれる」と言われていたのであり、その様子が現わされているのが、「息子や娘は預言し/老人は夢を見/若者は幻を見る」と言われていたことであったのです。さらに驚くべきことに、2節では、「奴隷になっている男女も」と告げられています。当時、主の恵みを受ける「神の民」と、その外に放り出されている「奴隷」と、その間には越えられない壁がありました。でもそれをいとも簡単に、主の霊は飛び越えて行くんです。主の目には「苦しむ人がそこにいる」ということにおいて、同じだからです。神様は、届きたいんです。その一人ひとりにです。そこに何ら分け隔てはなさらない。人間が作る壁と、あらゆる垣根を、主の霊は踏み越え、飛び越えて吹き渡るのです。「あなたに神の力を届けたいから。あなたに神の恵みが必要だから、だってあなたは苦しんでいるから」ということであったのです。

 苦難の中にいる人々に告げられた、今朝のみ言葉を聞いて、私は、「神の霊は、今ある私どもの苦難にも与えられている将来の約束だ」と思いました。でもそう思ったすぐあとに、真に恥ずかしながらでありますが、ふと考えたことがあったのです。決して、他の牧師先生方には漏れてはならない、恥ずかしながらでありますが、こう思ったのです。「その約束の成就を、じゃあボクは、いつ頃もらえるかな」と。いやらしいでしょ。不信仰でしょ。心の奥のほうで自分の声が囁くのです、「神の霊、神の力が注がれるのは分かりました。では、それはいつですか。私はいつまで、この苦難に我慢すればいいんですか」と。「本当に5月の連休明けには、また兄弟姉妹と一緒に集えるのですか。私たちの霊的“神殿再建”の日が、本当に来るのですか。もしかして休明けに、あともう1カ月待てって言われるんじゃないのですか」と。苦難の只中にある人にとって、神様からの将来の約束を、しっかり握ることって大変なんです、難しいんです。そしてそれが人間の弱さなんだと思うんです。辛い日々を通り過ぎた人から見たら、通り過ぎた後なら、「神様の約束は、真実だ」って言えるでしょう。でも私なんか、いつだって、苦しみの中で先が見えない時、信じる力も弱るんです。「主よ、お約束を聞きましたが、あなたの約束が成就するのは、いつですか」と言ってしまう。「この苦しみは、どこまで続くのですか」と思ってしまうんです。それは、神の民と言われた人々にとっても同じでした。詩編に、150編もある歌の中で、「嘆きの詩」というものに分類されるものはとても多く、その中にある言葉は「主よ、いつまでですか」であるのではありませんか。激しい苦難の中で、神様への信頼がいつの間にか消えて行く。それほどに苦難というのは、人間にとって圧倒的な敵であるのではありませんか。

 そんな中で、です。私は何度も、今朝の聖書個所を読み返していて、その中でどうしても気になった一言があったのです。それは冒頭の「その後」という一言でした。コレが気になって、改めて1節全体の文脈の中で、直訳調で読み直してみた時に、でした。ハッと、したのです。この「その後」という言葉は、元の聖書の言葉では、「そしてそれは、過ぎたそのあと、必ずやって来る」というニュアンスなんです。つまり、その将来のことは、当然のこととして実現されるということなんです。逆に言うなら、将来これが実現しないということは、1ミリも無いということなんです。人間が何をしようがしまいが、人間の側には全く関係なく、この世の事情にはまったく関係なく、それ自身として将来実現することに当然なっている、ということなんです。(私の言いたいこと、あー、伝わっていますでしょうかね。)あらかじめ決まっている将来のことを、今伝える、というニュアンスなんです。そういう意味では、これは、神様だけが使える未来形です。「今」という時間に「未来」の時間を断定できる、いわば「神様専用言語」なんです。ですから、「その後」とは、「あなたの未来の現実の中に、神の霊が注がれること、神の恵みの力が注がれることは、当然あなたにやって来る。私がそう言った時に、既にそれは事実となった」と言われていたということなのです。神がご自身に賭けて、断言しておられたのです。それに気付いた時、私は思わず、疑いと不信仰の場所から飛び退いて、跪きたくなりました。

 皆さん、信じるということは、「成就する約束が、何なのか」ではなく、「成就する約束を、して下さった方が誰なのか」ということで・・・、それが信仰ですよね。だから約束して下さったお方を信じたら、その約束が、たとえどんな内容であろうとも、私が心配しなくても良いのですよね。この相模原から北海道に行きたいとして、JRの切符を買えば、もう自分で「どの線路を使うのか、本当に目的地に着けるんだろうか、電車の馬力は、十分なのかな」なんて、何も心配しなくても良いじゃないですか。切符に「JR」と刻印されていれば、JRが目的地に、何時間かのちには、必ず到着させていてくれると安心していられるのではないですか。人生の旅路も同じです。私たちの人生の切符に、「神の約束」と刻印されているなら、その約束は(約束とは御言葉です)、御言葉によって示された約束は、「そののちに、必ずやって来る」と安心して待っていれば良いのです。だからです。神の約束は、それを受け取った時にもう既に、実現し始めていると言えるのです。私たちは、必ず来る未来へと、真っすぐに近付いているんです。神の恵みの力が満ちる日へと、まっすぐに向かって歩んでいるということなのです。

 それもです、私どもがこの御言葉を、復活節の中で聞いているということは、恵みです。それは、この約束をなさった方が、十字架の御苦しみを負われた御子なる神でもあられると、信じることが出来るからです。なぜなら御父と、御子と、御霊とは一つであられるから。つまり御子が知っておられる苦しみは、同時に、三位一体の御父が知っていて下さるということです。神は、私どもが味わう全ての苦しみを味わわれた、神なのです。それも、主イエスのご生涯において、さらに私どもは知っていることがあって、それは、神はその最大の苦難の向こう側に立たれたということではないですか。イエス様は、死から甦らされたのです。私どもはそれを感謝する復活節の中を、過ごしているのです。神は、死の苦難をさえ、打ち破って復活されたお方です。そのお方が、今、苦しみの中にある私どもに語り掛けて下さるのです、「あなたの今という時は、未来に向かっている時間。その後、必ず来る祝福を伝える。神の力が、あなたに注がれる日が、必ず来る。あなたの今の歩みは、そこへと向かっているのだ」と。

 皆さん、今朝私どもは、その神様からの御言葉を受け取るのです。「アレもコレも中止になった。兄弟姉妹にも会えない、辛いことばかり」と足元だけを見ることから、御業を成就して下さるお方を信じ、「その後」に必ず来る約束の中を、歩ませて頂こうではありませんか。今日の一歩は、そこへと着実に向かう一歩であるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:36| 主日説教要約