2019年07月14日

創立71周年記念日礼拝説教 『だから、あなたがたは行け』

2019年7月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書28章16〜20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


 弟子たちの前にご復活の主イエスが立たれたにもかかわらず、半信半疑になる。もう主の弟子集団だなんて胸を張れない、ほころびだらけの集まりになっていました。そんな彼らに、イエス様が近付いて言われたのが、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という大伝道命令だったのです。

 彼らがここで、イエス様にどんな返事をしたのかは記されていません。でも私は、「そんなこと、とても無理です」と答えたとしか思えないのです。そういう伝道命令って何なのか、思いあぐねていました。「こんなイエス様の計画は、弟子たちの誰一人として自分では思いもつかなかった事だったはずで」とか、「こんな計画は彼らの自分の内側には欠片もなかったのに」と・・・、そう思った瞬間でした。ハッと気付かされたのです。弟子たちは、自分の能力の範囲内で出来ることを計画したんじゃないんです。彼らは、自分の外から来た、つまり天から来た神の計画に、触れたのです。皆さん、自分の知らない世界、神が打ち拓く世界への入り口は、自分の中にはありません。それは、自分の外から来るのです。もしも神の恵みの世界、神の祝福の広き世界に入りたいのなら、神の御声、主の御言葉に聞く以外にありません。そして、それが自分の中に届けられたとき、どんなに不可能に思えても、無理だと言いたくても、人間の天秤によって計るのではなく、「主の御言葉ですから」と踏み出す時に、私どもは人間が計画する小さな幸いの外へと、連れ出されるのです。

 それも、十字架のイエス様の姿を見詰めた弟子たちだからこそ、分かったことがあります。それは、「この命令を告げる方は、罪人を赦すことのできる神の権能を持っておられる方だ」と。

 私どもは創立71年目に立っています。私どもが信じて出掛ければ、そこに神の救いの計画が実現して行くのです。主が「だから、あなたがたは行け」と招いておられるのです。
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2019年07月07日

説教 『救いの妨げ』

2019年7月7日の礼拝
東京神学大学大学院1年 藤森誠神学生
使徒言行録8章26〜39節
さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。


 エチオピア人の宦官にとって、最大の関心事は自分の救いに妨げがあるのかということでした。これは私達にとっても同じです。更には、救いをいただいている者にとっても、私の何かが神様の救いから漏れてしまう妨げとなっているのではないかという問いです。

 宦官には救いの妨げとなりうる二つの懸念がありました。一つは異邦人であるということ。もう一つは宦官であることです。その両者ともに、律法を通して、神の救いに与れない者と定められていたからです。だから、彼は聖書を必死に読んでいました。ここにこそ救いがあると思ったからです。彼には、地位も名誉もお金も、エルサレムまで礼拝に行くという篤い信仰もあったのに、聖書を理解することが出来ませんでした。救いの光を見出せない状況が、イザヤ書53章に現されている神の小羊の屈辱の状態と重なったのです。

 しかし、神様は宦官に聖霊を通して助け手を遣わされました。そこで初めて、イエス・キリストの福音を聴きます。これこそ、私が求めていた救いだと彼は喜びました。神の救いはただ、神の恵みによって与えられるプレゼントです。ですから、実は、私たちの側には、救いの妨げは一切無いのです。全て神様が備えてくださっています。それを信じて受け取るだけです。しかし、私達の苦しい現実において信じ切れなくなることがあります。その時にはみ言葉に聴かなければなりません。一方的な恵みへの確信は、神の言葉を通してしか与えられないからです。そうやって、繰り返し、救いの妨げが無いことを知らされて歩むのです。


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2019年06月24日

説教 『洗礼者ヨハネの首』

2019年6月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章1〜12節
そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 領主ヘロデにとって、洗礼者ヨハネは政治的不安要因でした。その宴会の席で、座興の一つのようにヨハネの首がはねられたのです。そのヨハネとイエス様との関りは11章11節にありました、「あなたより先に、使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう、と書いてあるのは、この人のことだ」。正に洗礼者ヨハネは死においてもイエス様の先に歩むように歩んでいたのです。

 ヨハネの盆の上の首は、イエス様の十字架の上の骸と重なるのです。私どもはイエス様の十字架の死の向こうに、すぐにご復活の勝利を思い浮かべます。またはです。十字架の死は、贖いの死だからと教理的に頭の中で理解して「全ての人の救いのために十字架に架けられて死なれた」と、大いなる目的のための十字架だったと、頭で理解する。それはそれで良いでしょう。でもそうやって十字架の死を直視しないで、一気に贖罪の意味や輝く勝利を見ようとしたら、その瞬間、そこに存在する死そのものを、見過ごしてしまう恐れがあるのかも知れないのです。しかし、死は、死なのです。洗礼者ヨハネは、実に寒々とした死を死んだのです、そしてその死そのものを、イエス様も死なれるのです。

 私どもに死がやって来ます。その死にどんな意味を引っ付けようとも、本人にとっては、死そのものに輝きなど無いのではないですか。それが死なねばならない死を、人は抱えているという現実なのです。イエス様はそういう私どもの人間の死を、ご自分も「盆に載せられた、洗礼者ヨハネの首となる」と進まれたのです。イエス様は、そういう「人間そのもの」となられたお方なのです。

 私どもはだから、信じることが出来ます「どんな死においても、そこにさえ主イエスが共におられる」ということを。そしてそこでこそなのです。死そのものを共に歩んで下さるお方であられるゆえに、そこで私どもを、死の向こうにある復活へと導き出して下さることも、お出来になるのです。
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2019年06月17日

説教 『福音は人によるものではない』

2019年6月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙1章11〜24節
兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。

  パウロは「はっきり言います」(11節)、彼が「告げ知らせた福音は、人によるものでは」(11節)ないと。それは神からのものだと言うのです。「人から受けたのでも教えられたのでもな」(11節)いとも言います。確かに、彼の福音は人からのものではなく、ダマスコ途上でキリストと出会い、直接キリストから受けたものでした。「啓示」(12節)―隠されていた事柄が明らかにされる―により、福音―イエスの十字架と復活―の意味が明らかにされたのです。聞き及んでいたイエスを知識ではなく、キリスト(救い主)として知り、神をキリストの父として知ることになったのです。「啓示」の信憑性の度合いは、証言ではなく、当事者の生き方における変化の度合いによって測られます。パウロへの啓示が真実であったことの証明が13〜24節に記されています。使徒言行録の9章においても彼の一大転換が読み取れます。啓示とは、いわゆる主観的神秘体験ではなく、イエスを力ある方、自身の存在をひっくり返すほど力ある方として知ることです。パウロが受けたような劇的な啓示ではなかったかもしれませんが、私たちもイエスが力ある方であることを知っています。イエスの力が働いたからこそ、今、イエスを救い主として信じているのです。あなたとイエスの間に誰か人を介したかもしれません。しかし、源はイエスなのです。2000年前、あのユダヤで神の業を行ったのと同じイエスが今も私たちと共におられ、力ある業を行ってくださるのです。いつしか、イエスを体(てい)の善い道徳家や優しく穏やかな教師に仕立てているのは私たちなのかもしれません。力あるイエスと出会ったパウロには、回心が起こり、宣教が続き、彼のことで人々が「神をほめたたえる」(24節)という結果が伴いました。私たちも同じ歩みを辿るのです。同じ力ある主イエスと出会ったのですから。一層深く主を知る者とさせて頂きましょう。
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2019年06月09日

ペンテコステ礼拝説教 『葉の陰に』

2019年6月9日(ペンテコステ)礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マルコによる福音書4章30〜32節
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」


 イエス様がなさった「からし種のたとえ」は、単純な「最初はからし種ほどに小さかった教会が、どんどん大きくなった」という成功話ではないでしょう。からし種は成長しても、大樹にはならないからです。野菜なのですから。

 人は、どうしても大樹の陰に入りたいと思います。それは弟子たちにとっても同じだったのです。イエス様について行けば、ローマを破って自分たちの王国を再建できると思ったのです。しかしそんな彼らが経験したのは、イエス様が十字架に架けられて死なれるということ、つまりイエス様は大樹でなかったということです。だからイエス様の傍から逃げ出したのです。そうやって逃げた先で、彼らは自分の弱さと、裏切ったという罪の悔いに縮こまっていたのです。それはまるで震えている小鳥たちの群れのようでした。

 震える弟子たちは、その場で気付いていったでしょう「むしろからし種はイエス様ご自身だった。誰より小さいものとなられたのだ」と。さらに彼らは、「あの時、葉は横に伸びて陰を作ると言われたイエス様。それが正に十字架の横木だったんだ」と気付いたと思うのです。つまり「イエス様の御手を釘付けにした十字架。それは人間の目から見たら最も無価値で小さな物。でもその十字架の横木は、人の罪を身代わりに償って下さるために流された血潮を染み込ませた。その十字架の横木の陰の下に、自分たちを入れて下さるために」と。その十字架という小さな葉っぱの陰で、その直下で聞けた主イエスのお言葉があったことも、きっと思い出したでしょう、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」と。それが、「イエス様というからし種の葉の陰」なのです。十字架の横木の陰なのです。

 小さな野菜の葉っぱの陰が2000年前に、小鳥たちを覆いました。そこに、彼らは巣をつくったのです。それが最初の教会であったのです。
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2019年06月02日

説教 『弱いときにこそ強い』

2019年6月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 12章1〜10節
わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


 主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げます。それを受け取ったパウロも、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と応答しました。この「弱さを誇る」とは、単純に「自分が何も出来ない時に、神様の御力がよく分かるから、弱さも大事だよね」というような事ではありません。また「自分が謙遜になるために、弱さが与えられる」というような教育目的な話しでも無い。だって苦難も病も、そして罪の重荷も、あらゆる弱さは、否応なしに襲って来るものではないのですか。ならば、弱さの中にある恵みって何なのでしょうか。

 イスラエルの民がエジプトで奴隷となって呻きの声をあげた時、神様は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、その痛みを知った。それゆえわたしは、降っていく」(出3章)と言われました。神様は、人の叫びを見聞きしたら、居ても立ってもいられず、人々の中に「降っていく」と言われたのです。新約の時代も、私どもの現実に神様は腰をかがめて近寄って下さった。それが、神の独り子の十字架の出来事だったのではないですか。十字架、何という惨めさ極み。何という低い場所、神の御子はそこに降って下さったのです。

 人間の目は、いつも上昇することに価値があると見ています。でも神様の目は真逆です、下へ向けられているんです。下へ、下へと向かう、そこに立っている私どもに届こうとして下さるゆえにです。だから、「主の恵み」とは、「神が弱くなって下さった」ということです。「主の力」とは、神が天の座を蹴って駆け降る、神の下へ向かう力のことです。だから信仰においても健康においても、弱り切って呻く所でこそ、私どもは十字架のイエス様に出会うのです。そこで聴くのは決して責める言葉ではない、「それでも神はあなたを愛している」という祝福なのです。そのことを、主は示して「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:10| 主日説教要約