2018年12月09日

説教 『やがて全体が膨れる』

2018年12月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章31〜35節
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」


 弟子たちにとっては、一向にイエス様がローマを打ち破るために蜂起しようとなさらないことが不満だったようです。それを見て取ったイエス様が、このたとえ話を始められたのです。1つ目は、『からし種は種の中で一番小さいけれど、どんな野菜よりも大きくなる。神様の支配も、最初は人間には最も小さなもののように思えるけれど、一旦この世界で始まったら、どんどん大きくなる』ということです。2つ目もパン種とパンの練り粉の関係で、『天の国・神様の支配というのも、人々の日常の中に紛れ込むように小さな業として始まるけれど、ついには全体に行き渡って行くんだ』と。

 まことにイエス様は、人の目には存在を見出すことも叶わない最も小さき者として、天より降って来られました。そのことを思い出した時、私はハッとさせられたのです。イエス様がたとえ話でなさった、吹けば飛ぶような小さな「からし種」は、イエス様ご自身じゃなかったのかと気付かされたからです。暗闇の中に紛れるようにして、日常生活の端っこに紛れ込むようにして地上に降られたイエス様こそ、小麦の練り粉の中に入れられた「パン種」だったのです。

 そしてイエス様が、そんなに小さく貧しくなって下さったのは、本当の意味で小さく貧しい「罪人」と一緒になるためであったのではないですか。それは、全ての小さく貧しい罪人を救うためにです。「罪人の僕」にまでなって下さったイエス様。それが、真の救い主の姿なのです。このお方だけが、全世界を救えるのです。相応しくない者をさえ救い出せるからです。そのために神は、からし種のように小さくなり、パン種のように私どもに紛れる姿となる以外に方法を取り得なかったのです。それが、神の決断であられたのです。将軍のように来てこの世界を変えて行くのでなかったのは、ただ一つの理由からです、それは神が、あなたという一人を得るためであられたのです。
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2018年12月02日

説教 『見よ、わたしの僕を』

2018年12月2日(アドヴェント第1主日)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書42章1〜4節
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 私どもの心を苛む敵は、やはり人間、それも隣人であることが多いんだと思います。それもです。人と人とが責め合う時には、いつも自分の側に正義があると思い込んでいる。だから、相手という敵を倒せば全てが良くなると思い込んでしまうことが起こるのです。そういう私どもに、1節「見よ、わたしの僕を」と語りかけます。自分の悩みや、自分で組み立てた救われ方を見るのではなく、「見よ、わたしの僕を」と言われるのです。そしてこの御言葉が、御子の降誕を待ち望む教会歴の中で読まれて来たということは、「わたしの僕」とは、御子なるイエス様のことであると読んで良いのです。

 その救い主イエスとはどういうお方なのか。2節、「彼は叫ばず、呼ばわらず」と。「敵をやっつけて下さい」という者に、御子は「そんなことに私は全く関わるつもりはない」と沈黙しておられる。

 さらにこのお方は、3節、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこと」もないお方だと言われます。人は病や苦難の中で、心だって傷つき、信仰だって倒れませんか。いとも簡単に信じることが消えかかる灯心です。でも御子は、折れそうになった弱々しい葦の枝を、風前の灯火となって消えそうな灯心の私どもを、見ていて下さると告げられているのです。それはそこで「お前の信仰は、そんなことでは駄目だ」と責めるためではない。主イエスが黙って見ておられるのは、折れそうになりながらも、まだ折れ切ってはいない私どもの小さな、小さな信仰です。神を信頼し切れないような私どもの信仰だけれど、まだ信じたくて、まだプスプスと小さな灯心が残っているような私どもの信仰を見ていて下さるのです。そして御子は、あなたの敵と思い込んでいる隣人と互いに手を取らせて、「愛し合う兄弟姉妹として、互いに重荷を負って歩いていく決心をしてくれないか」と語り掛け、「責め合うのではなく、愛し合ってくれないか。あなたの中には、まだその灯心が残っているのだから」と招いて下さるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:37| 主日説教要約

2018年11月19日

説教 『上にあるものを求めなさい』

2018年11月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙3章1〜11節
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。


  キリスト者となり、大きく変わったことの一つに人生観の変化、それに伴う価値観や生きる目的の変化があると思います。私たちの生活が地上のものではなく、上にあるものを求めるものになったということです。ウエストミンスター小教理問答の言葉を借りるなら、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」ということでしょう。これはなかなか難しい。コロサイの教会の人々も地上のものに心が引かれていたのです。「上」とはキリストが王として居られる領域ですから、パウロは私たちに支配者(王)であるキリストに目を向けるよう勧めているのです。彼の思想の中心である聖霊は昇天したキリストとほとんど同一視されているので、イエスを「求め、心を留める」とは聖霊を「求め、心を留める」ことです。聖霊は力であり助け主ですから、私たちが生きるのに必要な力や助けは聖霊に求め、聖霊から頂かなければなりません。私たちは、キリストと共に古い自分に死に、新しい自分に復活させられましたが、現在、新しい自分はキリストと共に神の内に隠されています。隠されてはいます―感覚では捉え切れない―が、新しい自分は確かにキリストと共に生きているのです。そして、キリストが現れる時、新しい自分は全き自分とされます。その時まで、「造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて、真の知識に達する」(10節)よう努め励むのです。「真の知識に達する」とは神について知る知識が増すにつれて、鏡に映し出されるように、その知識が自分の人格と生き方に反映されることです。それを求めながら、日々、礼拝・御言葉・祈り・交わりに専念することが私たちに求められているのです。地上のものへ目を向けさせる誘惑は強く、また巧妙です。しかし、神を知れば知るほど、地上のものは色あせてくるのです。キリストに目を向け続けましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:20| 主日説教要約

2018年11月11日

説教 『やり方をほめた』

2018年11月11日 子どもと一緒の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書16章1〜13節
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


 子どもたちと一緒の礼拝です。ですから大人の皆さん、今朝は心の時計を4〜5歳まで巻き戻して下さいね。
イエス様がたとえ話で、ある男の人の話をしました、「ボクはこうと決めたら、絶対にやり方を変えない、人目も気にしない」という人です。彼は、お金が大好きな男の人でした。そのためには、人から見下されようとも、ひどい男だと怒られようとも、自分のやり方を変えないんです。そういう「一度決めたことを変えない」というやり方、イエス様が褒めて下さったのです。

 私たちは教会で今、「イエス様のことが大好き。神様大好き」と言っているし、お祈りもしますよね。そういう思いが心の中にちゃんとある。でも学校に行ったときにです。そこで友達の目を気にしてしまったり、「イエス様って誰のことだよ、神様って本当にいるの?」とか言われたりしたら、それでも「イエス様のことが大好き」って生きることを、そのやり方を変えないでいられるだろうか。ひょっとしたら、友達になんて思われうるのかが気になって、学校ではイエス様の話を全然しなくなることはないだろうか。それどころか、お昼ご飯の時にお祈りしようかどうか迷い始めて、ついには出来なかったというようなことはないだろうか。つまり、「イエス様が大好き、神様を信じるんだ」というやり方が、教会と学校とで変わってしまっていたりしないだろうか。

 そういう姿は二股生活って言うのです。片足だけが「イエス様が好き」のほうに立っていて、もう片方は「イエス様なんて関係ない」というほうに立っているんです。イエス様は、人目も気にせずにやり方を変えなかった男の話をして、「あなたもどこに行っても、二股ではなくて、やり方を変えない生活をして欲しい。学校でもお家でも『神様が好き』って生きて欲しい」と言われたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:48| 主日説教要約

2018年11月04日

召天者記念礼拝説教 『わたしを信じる者は、死んでも生きる』

2018年11月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書11章17〜27節
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 
 イエス様がマルタと対話を始められた時、マルタはまだユダヤ人の先祖の宗教観の中にいました。それは死んだ後に、「終末の日、人は皆、死んでいる者も復活する、神の裁きを受けるため」ということです。そのマルタにイエス様は、同じ「復活」という言葉を重ねて、対話を始められました、「わたしは復活であり、命である」と。

 主イエスは、「私は死んで終わらない、私は復活する。それは永遠の命につながる復活なのだ」と言われたのです。その「永遠の命」とは、単に不老不死になるというような身体の話ではありません。父なる神に愛された子供として、『あなたが大好きだ』と言っていただく命です。それは御父にとっての御子と同じ命となるということです。そしてイエス様はそこでマルタを見詰めて「その命をあなたにあげる、あなたにもあげたい」と言われたのです。それが25節の「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という約束であったのです。

 死が怖い。そう思えるのは、死が断罪と滅びに結びついているからです。自分だけが知っていて、墓場まで持っていくと思っている過ちがあるかも知れない。でも墓場まで逃れたら、それで終わりというんじゃないんです。そこが終着駅じゃないからです。終わりの日、その償いを求められる。そこに恐れがある。でもその恐れに向けてイエス様が、「大丈夫、私はあなたの罪を引き受けて死んだ。でもそれだけでなく、私はその死さえ打ち破って復活した。さあ、その私にしがみついたらいい、私を信じたら良い」と断言してくださったのです。「恐れるな、あなたは私と同じ復活の命に生きる」と言っていただけるのです。これは、イエス様が、「あなたのことが大好きでずっとずっと一緒に生き続けたいから」と願ってプレゼントして下さった福音なのです、「わたしを信じる者は、(私と一緒に)死んでも生きる」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:06| 主日説教要約

2018年10月28日

説教 『あなたによって祝福に入る』

2018年10月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
創世記12章1〜4節
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。


 アブラムは神様から「あなたが祝福の源になる。地上のすべての人があなたによって祝福に入る」と聞いた時、「自分は相応しくない」と思わなかったのでしょうか。彼はこの後、神様を信じることにも不甲斐ない姿をさらすのにです。

 確かに神様と関わらなくても、人の模範になるような博愛に生きておられる方はたくさんおられます。でもなんです。神を知らないけど立派な博愛の方と、失敗ばかりのアブラムと決定的に違うことがある。それは、アブラムは全てのことを、将来までも一切神様に委ねたということです。その1点なんです。自分の持っている才能とか技術とか経験とかを、自分がコントロールして、ここに用いようとか、この人に役立てようかと考えて動くのは、この世の生き方です。でも神様と出会ったら、全ての配分を決めるのも、行き先を決めるのも、神に譲るということ、神に明け渡すしかありません。そしてそのように、神様に自分の全てを渡してしまった人、それがアブラムであったのです。その神の御手の中でアブラムは自分らしく歩んだのです。それは、失敗することにおいてもです。自分らしく歩いて、だから自分の弱さも出て失敗してしまう。でも、それらも全て神様に委ねて歩いたのです。失敗のどん底で、彼は神様に顔を上げ続けたのです。

 そして神様は、そうやって神に委ねるしかない者に、「そういう君によって、すべての隣人は祝福に入れられるのだよ」と、ご自分の祝福を届けさせることを託されたのです。罪人丸出しのあなたなのに、そのあなたと神様が一緒に歩んで下さるゆえに、行く先が満されていく。そんなあなたの信仰生活を隣人が見たらです。そこでのみ隣人に伝わることがある、「神は生きておられる、罪人と共にいて下さる」ということです。そこで隣人にも神の祝福が届くのです。隣人にも、神を生きたお方として見上げることが始まるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:02| 主日説教要約