相模原教会牧師 辻川篤
詩編62編1〜9節
62:1 指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
62:4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり
人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして
口先で祝福し、腹の底で呪う。
62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。
私どもは危機に出遭ったらどうするのでしょう。詩編62編の詩人は、そんな時、その状況から逃げ出せもせず、しかしそこで神を信頼する歌を歌い出したのです。2節「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」と。
それが本当に出来るのは、彼が「神はどんな時も、私の岩でいて下さった。私を支えて下さる」と、苦難の中で経験したからなのです。そういう「神と私」という関係にあるんだと、悟ったからだと思うのです。さらにでした、「神と私」という生きた関係に目が拓かれた詩人。その「神関係」を知ったゆえに、彼はそこに続けて驚くような言葉を加えるのです。それは、「わたしの」と言っていた彼が、「わたしたちの」と語り出したということです。
信仰というのは、個人主義の事柄ではありません。「神と私」の関係に目が開かれたら、確かにそこでまずは、自分自身の真の姿が分かるでしょう。自分中心の欲に生きている姿が露にされて、悔いるでしょう。そしてそれでも神様は「私の岩、私の救いとなって下さった」と分かる。本当に「神様に私は救われた、私は愛された」ってことが分かるんだと思います。でもその時、教会の信仰はそこで止まらないのです。それが、「こんな私をさえ愛して下さった神様は、私の隣人の苦しみも知って下さり、隣人をも愛して下さらないはずはない」ということなのです。「だって、罪人のこんな小さな者、私をさえ愛して下さったのだから。君も、神様はどんなに愛して下さっているか。君にとっても、神は岩、神は救いだよ」と悟るのではないですか。この世界は、神に愛されている世界なんです。この詩人は、それを感得した時、すぐに人々に振り返って言えたのです、「そうだ、君もだ。神は、わたしたちの避けどころ。…わたしたちのだよ」と。