2019年05月12日

母の日の礼拝説教 「最初の約束」

2019年5月12日
相模原教会牧師 辻川篤
エフェソの信徒への手紙6章1〜3節
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。


 天におられて相応しい神が、私どもの救い主となるために、地上に降誕されました。そのお姿は、よりによって息子の姿であられたのです。

 その親でいてくださる御父が、どういう思いを持っておられたお方か、十字架を見上げる時にハッキリ分かります。人間を救うために天の親がされたことは、息子イエスを犠牲にすることでした。その日、息子が十字架に架けられるのを、御父は黙って見ておられたのです。どれほどの苦しみだったろうかと思います。この日、我が子を人間の罪の救いのために死なせる御父の呻きが、天に響いていたのです。その呻きを、息子であるイエス様もご自分と一体のようにして分かっておられたから、十字架に架けられる直前「御心のままに」と祈られたのではないですか。さらに、いよいよ十字架の上で息を引き取られる時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避けた」(マタイ27章)とある。御子だけが苦しみ悶えたのじゃない。父なる御神の苦しみを映すかのように、天も大地も、悶え苦しんだのです。改めてそう気付かされて、その上で今朝の御言葉を聞き直して分かったことがありました。それは、「父と母と敬いなさい。これは最初の約束」と言われていることは、「御父と御子を見詰めたら、天の父と御子の結びつきがどんなに貴いか分かるだろ。そのあなたなら、あなただから、御心によって縁組された地上の親子の間で、あなたも愛という絆において生きられる」と告げられていたということなのです。

 母の日の今朝、「父と母を敬いなさい」という戒めを、「これは最初の約束だ」と告げる中で聞きました。御父と御子との貴い結びつきが分かるからこそ、私どもの両親との関係も、そこに添わせるものとならせて頂きたいと歩みだすのです。そうやってこの御言葉に自分の歩みを合わせた日々に、必ず神様の祝福もあるのですから。
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2019年05月05日

説教 『故郷にお帰りになった』

2019年5月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章53〜58節
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。


 故郷のナザレ村に着いたイエス様が、会堂で教え始められた途端にです。人々は「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と自分の周りを見回して「この人は大工の息子だ」とか考えたのです。人々はイエス様を、イエス様ご自身を見ようとしない、出会おうともしない。イエス様自身を求めようとさえしない。

 イエス様も、ご自分が期待されないと分かっておられたでしょう。でもそこで、少しは悔い改めさせようとか、奇跡で目を開かせようとか、そういう目的があって村に帰られたんじゃないんです。何かを成し遂げる目的を持っておられたんじゃない。ここにある出来事は、主が、ご自分を求めず、無理解で、嘲る人々、そういう姿になる人たちの傍に行かれた、ただそれだけなんです。そして、ただそのことのために故郷に帰られたということ、その1点は確かなことであるのではないですか。

 今朝知るのは、イエス様はご自分が求められていないとご存じであっても、ご自分が期待されてもいない信頼されてもいない、頼られてもいないと分かっておられるのに、それでもイエス様は「そのあなたに会いたい。そのあなたに会わなければ、ただあなたの傍に行きたいから」と、意を決して私ども頑なな「心の故郷」に帰って下さるということです。傍に来て下さることそのものが目的だからと、私どもを求めて下さるのです。あなたは、自分でも気づいていない時にも、あなたの傍に行かねばと近づいて来て下さるイエス様に支えられています。悲しみが余りにも深くて、主を求めることさえ忘れる日でも、自己本位になって勝手気ままに過ごしてしまっている日々でも。それでもその只中に、「あなたの所へ行かねば」と、たとえご自分が敬われないと分かっていても、そこに一緒にいようとして下さるイエス様がいて下さるのです。そのお方が、神であられるイエス様。そのお方が、あなたの救い主であられるイエス様なのです。
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2019年04月29日

説教 『新たに生まれさせ』

2019年4月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ペトロの手紙一 1章3〜5節
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。


 私どもは、「生まれ変わりたい」と思うほどの日々を通ることがないでしょうか。心の持ちようではどうにもならないと分かっていて、だからそこで「今の自分を全部取り替えたい」という思いが起こる。そういう私どもにみ言葉は語りかけるのです「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と。この「神の憐れみ」ですが、ペトロの場合は、「人間が抱えてしまう現実の苦しみに、神が一緒に苦しんで下さること、神の共苦、神のコンパッション」です。そんな為さり方は、人間には考え付きもしないことでした。神が人と共に苦しむなんて、神が人の罪をわざわざ背負うなんて、神が死ぬなんて、尋常ではありません。そうです、正に尋常でないことが十字架の上に起こったのです。十字架の上には、目に見える「神の共苦」があったのです。だからです。私どもがどんな苦しみの中にある時も、十字架に至るイエス様が受けた嘲り、鞭打ちで裂かれた肉体の痛み、人から見捨てられた痛いほどの悲しみ、とうとう十字架に架けられた「死」を思い起したら、そこに私どもの苦しみで重ならないものは一つもないと分かる。全てをなめ尽くすようにして、イエス様は死に至られたからです。

 でも私どもは十字架を見上げる時に、そこに見るのは、イエス様の「死」だけではないことも知っています。復活祭の礼拝で知ったからです、「イエス様は十字架上での死を、私どもと一緒に歩くように歩いて下さったのち、しかしその死を打ち破って、ご復活された」と。苦しみと死が、そこで行き止まりの終着駅ではないことを、復活の主は現わしにして下さったのです。そして、「あなたも、こうやって新たに生まれさせられる」と、甦りのお姿をも見せて下さったのではないですか。ご復活のイエス様が、「あなたは苦しみも死も通るだろう。辛いだろう、しかしあなたもそこで終わらない。私のように新しくされるのだ」と教えて下さったのです。
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2019年04月21日

イースター説教 『イエスが行く手に立っていた』

2019年4月21日(復活祭・イースター)
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書28章5〜10節
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


 主イエスご復活の知らせを、墓の前で天使から聞いたマリアたち。その知らせを弟子たちにも伝えるために走り出したのです。その時の思いを一言で「恐れながらも大いに喜び」と伝えていました。それは半信半疑だからです。喜びたい思いはあります。でもご復活の知らせを喜びたいという信仰と、死には抗えないのではないのかという疑いと、片方ずつに、片足ずつで立っている。片足信仰なんです。だから半分信じて、でも半分疑っている。彼女たちは、自分がつくり出す現実に片足を絡まれながら、神が招く喜びに片足をそっと入れながら、もつれつつ走っていたのです。

 その道の途上で、でありました、9節「イエスが行く手に立っていた」のです。それは、半分自分の現実主義に足を取られ、でも半分喜びたいと望みつつ走る、そのもつれつつ走る道のど真ん中でということです。それもこの「行く手に立っていた」という言葉は、本来は「出会う」という意味の言葉で、つまりイエス様は、マリアたちがもつれる足で走る道の途上で、ここで出会わなければならないんだと、待っていて下さったということです。先回りして、マリアたちをここで受け止めようとしていて下さったのです。そのようにしてマリアたちの歩みの行く手に、主が立っていて下さったのです。

 そこでイエス様は、日常の挨拶言葉で「おはよう」と言われます。まるで普段着の「おはよう」で、「私はあなたの日常生活の中に、復活して立っているんだ、死に勝利したのだ」とマリアたちに悟らせたのです。私どもも生活の中で、死への恐怖に何度も襲われるでしょう。でもその道でご復活のイエス様は、必ず出会わねばならないというようにして、私どもの行く手に立っていて下さるのです。そこであなたに出会って「おはよう。喜べ」と語り掛けて下さるためにです。だから安心してイースターの喜びの礼拝から、日常の生活へと出て行こうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:45| 主日説教要約

2019年04月14日

説教 『イエスの涙の意味』

2019年4月14日の礼拝(棕櫚の主日)
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ルカによる福音書19章28〜44節
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。天には平和、
 いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」


 今日は棕櫚の主日です。イエスが王として都エルサレムに入城したことを覚える主日です。イエスのエルサレム入城の記事は、四福音書すべてに記されています。描き方に違いはありますが、大筋の内容は共通しており、イエスが王として入城する。そして群集や弟子たちは凱旋将軍を迎えるように歓迎するということです。しかし、明らかなのは人々の受け止め方とイエスの思いの食い違いです。それがイエスの涙となって表現されています。何がイエスを泣かせたのか…。入城を前にしてイエスには鬼気迫る雰囲気が漂っていました(マルコ10章32節、ルカ19章28節)。何か大きな深刻な問題に立ち向かう覚悟を示すように。一方、人々の態度や言葉には事態の深刻さへの無理解が際立っていました。「12人はこれらのことが何も分からなかった」、「この方は、預言者イエスだ」などが表す通りです。平和時に用いる「ろば」(ゼカリヤ9章9〜10節)になぜイエスが乗ったに思いを巡らす者も見当たりませんでした。指導者たちは嫉妬と保身からイエス殺害計画に乗り出します。イエスの涙は彼らの不信仰への悲しみの涙でした。信仰とは信頼と同義語で、神の意に全幅の信頼をかけて、無条件的にこれに服従することです。この服従の行為において人間に対する王としての神の支配が開始し、人間に対する神の活動を経験するのです。このイエスへの信頼、愛、そして王としてのイエスへの服従が欠如していたのです。これが不信仰です。不信仰の先には滅びしかない。そう知るイエスは涙を流されたのです。人々はイエスのことは知っていた。しかし、イエスをメシアまた主として知ってはおらず、信頼してもいなかった。イエスをメシアそして主として信頼したい。そして、復活が真に死を滅ぼした力として私たちの中に息づき、イエスを主とし、その僕として生きる私たちとされましょう。
のには、祈りの生活の確立が必要なのです。祈りの生
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:55| 主日説教要約

2019年04月07日

説教 『心を燃やさないでいられない』

2019年4月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 11章16〜33節
もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。


 パウロも「多くの者が、肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と自分のことを誇り出します。今朝の箇所で「誇る」と言われている言葉は、元の言葉では「力む」という意味も持っている言葉です。ではパウロは何を誇りとするのか。それが23節から怒涛のように始まるのです、「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く」と。さらに、鞭打たれたこと、石を投げられたこと、同胞からも異邦人からも難を受けて、町でも荒れ野でも苦労し、しばしば眠らず飢え渇いたことです。でもこれらは、どう見ても全て失敗談です。どうしてこれが誇りなのかと思いつつ、一つのことに気付かされました。このお姿は、紛れもなくキリストではないのかと。

 パウロは、ダマスコ途上の出来事で全てを悟ったのです、「主イエスこそが、私のために、苦労して、骨折って、しばしば眠らすに過ごし、飢え渇き、人々の無理解という寒さに凍え、裸にされ、そして真に死なれたのだ、私のためだったんだ」と。そう分かった時、彼は新しく生まれさせられたのです。だからこそ、新しい生き方が始まったのです。彼は、イエス様と同じになりたかったのです。だから、彼も隣人の足もとに降るように生き始めたのです。一人でも多くの隣人に仕えたくて、主の救いを受け取ってもらいたかったからです。まるでキリストと同じボロ雑巾のようになった生き様であったのです。パウロも主イエスのように、隣人の泥沼の中に入って行きたかったからです、その思いが、29節、「だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」だったのです。それは、人の目から見たら失敗にしか見えない姿でした。しかしそれは、父なる神の目から見たら、御子イエスとそっくりにしか見えない姿であったのです。そう生きることに、彼は「力んだ」のです。力を入れたのです、それが、彼の「誇ること」であったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:08| 主日説教要約