2018年05月20日

ペンテコステ礼拝説教 『賜物として聖霊を受ける』

2018年5月20日の礼拝(聖霊降臨日)
相模原教会牧師 辻川篤
使徒言行録2章36〜42節
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 神様は人を愛し抜かれる、どこまでも。しかし人間は自分のことしか考えない、どこまでも。そういう神の思いと、人間の自己中心の思いが、イエス様を挟んで、十字架という出来事を起こしたのです。そのことを、ペトロがハッキリと群衆に宣告しました。その時でした、人々はペトロの説教に「わたしたちはどうしたらよいのですか」という戸惑いの言葉が飛び出したのです。「取り返しのつかないことをしてしまった」と気付いたからです。その人々にペトロは語ります。それは、赦されることへの道標のような言葉でした。つまり、悔い改めるんだよ、洗礼を受けるんだよ、赦していただけるからと。でもそれで終わらない。そこに「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と加えたのです。

 聖霊を受ける前まで、彼らは自分たちがキリストの側に着く者であることを、周りに知られることを恐れていました。だから家の中に閉じ篭って、キリスト者であることが分からないように隠れて、身内のキリスト者の中だけで祈っていたのです。外では祈らないのです、祈れないのです、周りの目が恐かったからです。その彼らに聖霊が降った時、それまでの彼らの姿とは一遍するのです。一人ひとりが群衆の前に出て、「私はキリストの側に立つ者です」と語り出したのです。

 自分たちがイエス様を殺したんだと分かった彼ら。赦してもらいたかった、でもそれをさえ言えず、憶病に囚われていた彼ら。そんな彼らに、しかし神様が彼らを助ける助け手を、聖霊を送って下さったのです。その時にハッと気づけたのです「そうだ、私が死ぬべき身代わりに、私が赦されるために、イエス様は十字架で身代わりに死なれた。あの出来事は、私のためだったのだ」と。それも「私はそれほどに、天の父に愛され続けた存在なのだ!」と分からせていただいた。そこで“世界で一番頑固な自分”という存在が、変えられたのです。これが聖霊の働きなのです。「私はこんなに愚かなのに、なおその私は神様に愛されるために生きている存在だ」と分かることが、聖霊の働きで起こることなのです。私どもにとっても同じです。世界一自己中心な私、それでも神様は「どんなに時をかけても、私はあなたを求め続ける。お前が愛されていると分かるまで」と、語り続けておられるのです。

 そのことに聖霊によって気付かされた弟子たちが、そこで、「天の父に愛されている私として生きたい」と歩み出した。そこに群衆に語る言葉も生まれたのです「あなたも洗礼を受けなさい、賜物としての聖霊を受けなさい」と。それは「あなたも天の父から、お前は貴い私の宝、愛していると言われていると分からせていただいて生きるんだ」ということであったのです。
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2018年05月13日

説教 『教えと実践の土台』

2018年5月13日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テトスへの手紙2章11〜15節
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。


 「しかし、あなたは」(一節)とテトスに対してもテモテに対するのと同じように師であるパウロは勧めます。世の中の流れがどう変わろうとも、変わらない御言葉―福音―を語りなさいということでしょう。教師と呼ばれる者たちの中に、経済的利得や地位・名誉のために教えをする者がいたとしても、「しかし、あなたは」純粋な動機と誠実さをもって「健全な教え」(一節)―正統的な聖書の教え―を伝えなさいと言うのです。そして、五種類の階層に対する具体的な教えの内容を示します。その教えは「語る」「勧める」「教える」(一、七、八節)だけでなく「良い行いの模範」(七節)を通して伝えられなければなりません。これもテモテに対する勧めと同じです。私たちキリスト者には、言葉における真実さと、その真実さを証明する行為が求められています。そこにはただ神が崇められるためというひたすらな思いが必要です(五、八、一〇節)。「私には重荷」と感じるかもしれません。パウロは言います「事実、あなたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ二章八節)。このことを再認識したいと思います。与えられた救いに感謝し、救い主に繋がっていればよいのです。枝は幹に繋がっていなければ生きてゆけないという弱さを知ることが「模範」となる秘訣のように思います。パウロは「わたしに倣え」(Tコリント一一章一節)と言っていますが、それは彼の信仰に倣うという意味で、考えや行動に、ではないのです。良い行いは主イエスに対する正しい信仰から流れ出るものなのです 。キリストによって「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた」(一一節)のですから、この恵みによって私たちは「今」を生き、そして「栄光を待ち望み」(一三節)―再臨を待ち望み―つつ生き続けるのです。「ご自分のものとして清めるため」(一四節)に私たちを贖い出した主は私たち以上に私たちと相見えることを待ち望んでおられます。これ程までに愛されているのです。確信をもってこの道を教え、生きてゆきましょう。
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2018年05月06日

説教 『しるしは与えられない』

2018年5月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章38〜42節
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」


 イエス様が手の萎えた男の癒されたとき、群衆が「この方は、救い主ではないか」と噂し始めます。それを聞いた途端、ファリサイ派たちは我慢ならぬとばかりイエス様を詰問し始めたのです、38節「しるしを見せてください」と。彼らが主張する奇跡は、一言でいうなら、天変地異を引き起こす奇跡ということでした。それは彼らが、「救い主はこうでなければならない」という人たちの考えを、イエス様ご自身よりも上に立たせたのです。イエス様を裁く側に立ったのです。

 「しるしを見せろ」と言ったファリサイ派に、イエス様はその思いも見通されて答えられます。39節「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。ヨナは奇跡を見せたわけではありません。彼はただ告げたのです「神に立ち帰れ」と。ニネベの人々が、「コレをしてくれたら信じよう」という事を一つもしなかった。しかしただ神の言葉を伝えた。その言葉を、人々は神の言葉として信じて、救われたのです。

 しるしとは、御言葉なのです。主は「私が語る言葉が、神の言葉そのものなのだ。それを信じて受け取ればいい」と言われるのです。皆さん、教会の信仰は、言葉の信仰です。御言葉信仰です。御言葉によって生かされるのです。不安の中でさまよう時「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をもそなえていてくださいます」と聞けたなら、それを神の言葉そのものと受け取れたならです。先日、病院で大きな手術をされた姉妹のベッド横でこの御言葉をお読みしました。そのあとで、姉妹はしみじみと「本当に、そうですね」とおっしゃいました。御言葉が、神様がいま一緒にいて下さることを気付かせてくれるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、その御言葉に(奇跡が起ころうが起こるまいと、全く関係なく)「神様が、私に語りかけている。私の重荷は、主が知っていて下さる」と、しっかり受け取らせて頂けるのではないですか。御言葉こそ、生ける神が私と共におられるという、この世のどこにもない、しるしなのです。

 苦労や病なしでは終われない人生です。でもその私どもにイエス様が「御言葉がある。あなたの傍にある。それが、神の御心のしるしそのものだ。受け取って生きよ」と告げていて下さるのです。私が幼い頃に通った教会の牧師が私に言っていたことを、私も申し上げましょう、「皆さん、聖書を開くのですよ。御言葉を聞くのですよ、心にしまうのですよ。それが神様があなたに示して下さる真のしるしだから」。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:09| 主日説教要約

2018年04月22日

説教 『あなたを避けどころとします』

2018年4月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編7編1〜6節
シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。

わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。
わたしを助け、追い迫る者から救ってください。
獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から
だれも奪い返し、助けてくれないのです。
わたしの神、主よ
もしわたしがこのようなことをしたのなら
わたしの手に不正があり
仲間に災いをこうむらせ
敵をいたずらに見逃したなら
敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき
わたしの命を地に踏みにじり
わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。

 この詩人には、敵がいたようです。その崖っ淵に立って叫びます、「わたしの神、主よ。あなたを避けどころとします」と。でもです。そこでふと思ったのです。それは「苦しい時になって『神様助けて、守って』と言うなんて、ご利益宗教とどこが違うのだろうか」と。そんなことを感じたのは、詩人が「助けて」と言ったあとに語り出した猛烈な自己弁護の言葉を読んだからです。今朝は読みませんでしたが、9節には「主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと」と。そんな自己正当化の激しさが、とても気になったのです。

 ただ確実なことが、一つありました。それは、この詩人にとって頼りに出来る方は、たった一人しかいないということです。彼が見詰めているのは、ただ一人の神なのです。そこに、一人の神と一人の私という関係があった。その「あなたと、わたし」との関係に、彼はしがみついたのです。「あなただけ」と、なり振り構わないで、彼はしがみ付いていたのです。ふと思いました、彼が自己弁護に取っ散らかっているようになっているのは、論証しているというより、泣きわめいている姿に近いと。冷静に「私は義しい」と言おうと考えてはいない。それよりも彼のこの主張は、まるで赤ん坊がママを求めて泣き叫んでいる姿に似ていると思ったのです。

 詩人は無遠慮にも、ただがむしゃらに「あなたを避けどころとさせてほしい」と言っているのです。自分を点検して、助けられる資格があるから、と言っているのではない。詩人は、絶対の依存を神に向けて、無条件の信頼をたった一人のお方に向けたのです。そういう関係に立ったのです。アッと思いました。

 彼はこの祈りを、「わたしの神、主よ」という言葉で始めていたことに、改めて目が留まったからです。「わたしの神」と呼びかける「わたし」と「神」との間に、それが結びつくための条件は何もありません。例えば、「信仰深い私と、そういう信仰者の神となって下さる方よ」とか、そういう前提は何もない。「私と、神」「我と、汝」、ただそれだけ。それが、「あなたを避けどころとする」という唯一の根拠だったのです。
私どもも、「わたしの神」という結びつきにしがみつくことへと招かれています。それは、私どもの人生にも敵という苦難が襲って来るからです。でもそこで私どもは「苦しい時だけで、すみません」なんて思わなくて良い。無遠慮で良いんです。神を避けどころとさせていただきなさい。「わたしの神よ」と呼べるくすしき絆に目を留めるなら、苦難に囲まれてなお、今日の一歩を踏み出すことが出来るから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:42| 主日説教要約

2018年04月15日

説教 『信仰を共にするまことの子テトスへ』

2018年4月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テトスへの手紙 1章10〜16節
実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。
「クレタ人はいつもうそつき、
悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。


 ユダヤ人パウロと異邦人テトスの間に存在した決定的な違いを克服させたのはイエス・キリストへの共通した信仰でした。利害の一致や目的意識の一致からは生まれない信頼関係が信仰により二人の間には生まれていました。神の業の証人また同労者としてパウロはテトスをエルサレムに同伴したほどですから、二人とも働きを共にし続けたかったことでしょう。しかし、自身の願いに反してテモテがエフェソに残ったように、テトスはクレタで牧会をすることになります。人の思いと神の思いは異なることがあります。これを受け入れるのが神に召された者の宿命なのかもしれません。ギリシアの諺に「Cで始まる民族は最低」というのがあるそうです。その民族の一つがクレタ人でした。
 「クレタ」は「嘘つき、偽り」の代名詞でした。クレタでの宣教は決して容易ではありませんでした。そこでの実情は「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多」(一〇節)かったのです。特に教会の内部に(「割礼を受けている人たちの中に」)。彼らは「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している」(一六節)者たちでした。パウロをして「彼らを沈黙させねばなりません」(一一節)と言わしめたほど状況は悪化していたようです。その中でパウロがテトスに求めたのは、自身が実践してきたこと、「人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導く」(一節)ことでした。
 「信仰を助け」とは「信仰を進める」という意味で、「福音こそ世界が必要としているもの」(一九二八年エルサレム国際宣教会議)と確認されたこの福音を宣言するということです。また、「信心」とは「信仰の生活化、生活の中で信仰が生かされる、生活の中に信仰を根づかせてゆく」ことで、信心の具体的な形は礼拝・祈り・奉仕です。牧会者はこれらの実践を説く、そして何より自らが実践しなければなりません。この手紙で、すべてのキリスト者には宣教の使命が託されており、この業は言葉と行いが伴いながら進むとパウロは語っているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:07| 主日説教要約

2018年04月08日

説教 『愛の証しを見せてください』

2018年4月8日の説教
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章22〜24節
彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。


 パウロは、「献金」のことを「愛の証し」と言い換えます。聖書で「愛」と言う言葉が出てきたら、人間的な情愛のことではないでしょう。「愛」と訳され言葉は、聖書の元々の言葉では「アガペー」といって、「自分の身も心も『あなたのために』と削って、与え切ってしまう思いと行い」のことです。ですからパウロは、「あなたがたの深い愛の証しを見せて欲しい。テトスや諸教会の人に、見せて欲しい」と告げていたということです。

 でも、と思います。キリスト者であっても自然な思いは「募金とか施しは、どれだけしたのかを人に見せないのが良いのではないか」ということのかも知れない。それなのにパウロは、一体何を告げたいのだろうかと、私は悩んでしまったのです。

 ふとまた、あのマルコ福音書にもルカ福音書にも書き留められていた「やもめの献金」の出来事を思い出しました。彼女小さな献げものは、賽銭箱の音さえ鳴らせなかったでしょう。しかしでした。その誰も気付きもしなかったやもめの行為を、傍におられたイエス様が、わざわざ証しされたのです「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。生活費を全部入れたからだ」と。弟子たちを呼び寄せて「この女は、まるで命そのものを削ったのだ」と公にされたのです。女の献金の業を、喜んで公にされたのは主ご自身だったのです。弟子たちを集合させてまで「さあ聞いてくれ、この女のしたことを私は公に示したい。この女の“削り出す愛”を私が証言しよう。そこであなたがたも一緒に喜んでくれるために」と話されたのです。人々に見せたかったのは、主イエスご自身の思いであったのです。

 パウロは、「あなたがたの愛の証しを見せてください」と言います。それは、そうやって生きる者は、キリストに似る者の姿だからです。自分のことを削って隣人のために生きようとする姿が愛であり、それは十字架で命を削り出されたキリストの姿に重なるからです。そしてそれが、イエス様ご自身が公にしたいことだったからです、「ここに私そっくりの者がいる。ここに私に従う者がいる。ここに私の友、私の兄弟姉妹がいる。その生き方で分かる、その愛の業で分かる」とね。

 今朝「献金の業」を、「奉仕の業」「愛の業」と言い換えられていたことに、信仰生活がとても豊かにとらえることが出来るように思えて、嬉しくなります。お金の事だけじゃないんです。私どもの手の業、足の業、口の業や、あらゆるものが「愛の業」になるなら、主の喜びとなり、主が「皆見てくれ、知ってくれ。この人がしたことを私が公にしたい。この人の愛の証しをしたい」と言ってくださるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:31| 主日説教要約