2020年02月23日

説教 『主の声に聞き従え』

2020年2月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編95編1〜11節
95:1 主に向かって喜び歌おう。
   救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ
   楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神
   すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり
   山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。
   陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方
   主の御前にひざまずこう。
   共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
   主に養われる群れ、御手の内にある羊。
   今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように
   心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。
   わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい
   心の迷う民と呼んだ。
   彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り
   彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 「主の声に聞き従え」と告げられます。それは、主を熱く賛美していた人々に対してです。つまり彼らは、神を信頼することにおいて熱しやすく、冷めやすい人々だったからです。御業を経験したのに、すぐに忘れて頑なになり、不平の虜になったのです。ふと「それは私だ」と思いました。そんな、背くばかりの私が、なお神の恵みの中に留めていただけるなんて図々しい話が在り得るのでしょうか。もう自分の力ではどうしようもないんです。

 そう説教準備の中で気付かされた、そこで、でした。そんな私であるということを、私自身よりも知っていて下さる方がおられたと気付いたのです。それも、一瞬たりとも躊躇なさらないで、私のためにご自分の命を十字架に架けて、私を罪の道から取り戻してくださった方がおられた。それが御子なる神であられたのではないですか。私どもが少しは義しい者になれたら、神様はその義しい姿に関わって下さると言うんじゃないんです。その逆で、神の言葉を少しも本気で聞いていない、だから自分が神になる生き方でしか歩んでいない私どもに、神様は関わって下さるのです。それは神お一人がとんでもなく忍耐されたということ。それが、私どもを救う十字架の出来事だったのではないですか。

 私どもは、「ちっとも聞き従えない私です」と、その自分を抱えて、イエス様が血潮を流された十字架を見上げる時にだけ、そこから聞こえて来る御声がある。それは「お前のことはよく分かっている。罪人よ、しかし悟れ。あなたは赦された。私の血潮によって、あなたは赦された」と。そして聞くのです、この詩編の歌い人は知らなかったことを、「赦された者として、もう一度私の声に聞いて従う道を歩み出せ。今度こそ頑なになるなよ。心を迷わせないだろ、必ず最善をしていただけると信頼して生きられるだろ」と。良い知らせじゃないですか、これが、福音なんです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:45| 主日説教要約

2020年02月16日

説教 『キリストが形づくられるまで』

2020年2月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙4章8〜20節
4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。
4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。
4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。
4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。
4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。
4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。
4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 ガラテヤ人たちは、神の恵みにより「神の子」「神によって立てられた相続人」とされ、「世を支配する諸霊」による奴隷状態からも解放されました。しかし、彼らは逆戻りし、神によって授かった恵みある立場を放棄しかねない状態に陥っていました。「あきれ果て」(3章1節)たパウロは怒りと共に戒めてきましたが、ここでは彼の言葉は、もはや嘆願とも懇願とも捉えることができます。19節では遂に、この箇所でしか用いられていない「わたしの子供たち」と呼び、惑わす者たちから彼らを守ろうとするのです。惑わす者たちの熱心は、彼らの魂の救いのためでなく、私利私欲、野心野望のためでした。彼らが逆戻りせず、真理を見極めることができるようになるためには、「キリストが(彼らの)内に形づくられ」(4章19節)なければなりませんでした。「キリストと結ばれ、完全にキリストのものになる」あるいは「キリストの鋳型にはめられる」「キリストが刻印される」必要があったのです。そのために、パウロはもう一度産みの苦しみを味わっても構わないと言っているのです(4章19節)。それが神の心、聖霊の心です。パウロの中には一足先にその心が刻印されていたのです。彼の熱心は、彼の内にあった神(聖霊)の熱心だったのです。内におられる御霊が彼と共に「うめき」(ロマ8章26節)ながら、彼を執り成しつつ、彼と共に働いておられたのです。「罪人の頭」(Tテモテ1章15節)を自覚し、その罪が赦され、神の子・神の相続人とされ、御霊を賜るという恵みに浴した自分自身を思う時、その恵みから離れ、逆戻りするガラテヤ人を正さずにはおられなかったのです。私たちの周りには逆戻りさせる誘惑が溢れています。それらの誘惑を見極め、陥らないようになるにはキリストが内に形づくられなければならないのです。パウロが「語調を変えて話した」(4章20節)かったのは、このことだったのではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:00| 主日説教要約

2020年02月09日

説教 『完全な者になりなさい』

2020年2月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 13章11〜13節
13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
13:12 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


 パウロは手紙の最後で、中心を6つの言葉で表わしました。「喜びなさい」「完全な者になりなさい」「励まし合いなさい」「思いを一つにしなさい」「平和を保ちなさい」「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」であります。どれもが具体的なことでした。でもそう思った次に、「一つだけ違うぞ」と思った言葉があったのです。「完全な者って何だろう」と。調べましたら、「繕う」という意味があったのです。「完璧な人間になれ」と言うんじゃないんです。その逆に「自分の弱さを見詰めて良い。そこが神の働かれる場所だから。あなたが主導権を握れない弱さの場所、あなたが惨敗して撤退した空白の場所にこそ、神の繕われる御手が働く、そのことにお任せしなさい」と言われていたのです。

 キリストの使徒パウロとなる以前は、ユダヤ人当局のエリートでした。当然のように、権力者が妬んだイエス様を十字架に掛けることに加担したのです。その彼に、ダマスコ途上で甦らされた御復活の主が出会ってくださって、そこで大どんでん返しをさせられたのではないですか。パウロは「自分が御子なる神を十字架に架けて殺した」と気付かされる。でもそのイエス様が復活されて、神の敵であった自分に、なぜか親しく語り掛けて下さっている、その出来事の中で畏れつつも、全てを思い巡らし始めたのです。イエス様は、完璧な人と共におられたのではない、むしろ罪人の側に思いを寄せ、弱った者、悲しんでいる者に心を寄せ、最後にはご自分の命まで差し出された。それも、罪人と烙印を押された、この世の敗者のために、命を捨てられたのです。救うために、です。パウロはそれが分かった時、回心が起こったのです。「完全な者にされる」とは、自分の罪の破れがイエス様によって「繕われる」ということ。ボロ網だった自分が、神によって繕っていただけることだ、と。私どもも皆、イエス様のお命によって、「繕われた者」なのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:04| 主日説教要約

2020年02月02日

説教 『心から出るもの』

2020年2月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章10〜20節
15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
15:15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」


 ユダヤの人々は、汚れが体に入らないように食前に手を洗えという、浄めの掟を持っていました。しかしイエス様は、18節、「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」と言われます。人と接する時に、願ってもいないのだけれど、私どもの中にあるものがヒョイと外に出る。それが隣人を汚してしまうのです。そのヒョイと出るものが、心の中から出るもので、19節、「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」だと、イエス様は言われたのです。

 私どもは、自分の心の奥底にあるものが何なのか、悟ることが出来るのは何処なのでしょうか。それは、イエス様が、私の罪の為に身代わりになって死なれるのを見る場所以外ではありません。自分で自分の心の中を覗いたって、そこに汚れがあるなんて分かりっこありません。ただ、私の代わりに、罪の償いのために死なれるイエス様の姿を見た時、その時にだけ悟れる。自分がしでかしたことの重さがです。

 そして、です。そこで更に、私の身代わりなのに、イエス様が十字架で死なれることから逃げない姿を見たのなら、そこからだけ受け取れる事がある。それは、身代わりになることが、御子の願いだったということです。それは、イエス様が私を赦して下さっていること、私は愛されているということが分かるのです。人を傷つけた私なのに、そんな私どもを愛し方がいる。私を赦して下さった方が、たった一人おられる。それが、私どもの救い主イエス様であられるのです。

 イエス様だけが、自分でも覗けなかった暗闇の部分を知っていて下さいます。そこを、必死になって覗いて下さって、目を凝らして一つ残らず捜し出して下さって、ドブさらいをして下さって、その罪を全部拾い出して下さるのです。私どもを救いたいからです。隣人の関係に破れたままで生きちゃいけないって、イエス様の方が真剣になって下さるのです。信仰者は、このお方にすがって生きるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:08| 主日説教要約

2020年01月26日

説教 『その言葉は世界の果てに』

2020年1月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編19編1〜15節
19:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
19:2 天は神の栄光を物語り
   大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え
   夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく
   声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に
   その言葉は世界の果てに向かう。
   そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように
   勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち
   天の果てを目指して行く。
   その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ
   主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
   主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き
   主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
   蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し
   それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から
   どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し
   支配されないようにしてください。
   そうすれば、重い背きの罪から清められ
   わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
   心の思いが御前に置かれますように。
   主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。


 キリスト者でなくても、「この世界には大いなる方が居られるんだ」と感じるんじゃないでしょうか。そういう神様の知り方は、単にイメージではなく、具体的なものとなります。なぜなら神様は、御自分の思いを言葉にして伝えて下さるお方だからです。それが御言葉なのです。

 この詩人は、だからこそであったのかも知れません。お言葉によって御心を知らされているのに、その神様を悲しませる者であったことに気付いて愕然としたのです。14節「あなたの僕を、驕りから引き離してください」と。本当は、私どもの人生には、神様が取扱説明書を渡して下さっているはずなんです。御言葉は、信仰と生活との誤りなき規範なのですから。それなのに自己中心で生活を動かそうとするから、生活が壊れるのです。それは、神ご自身の悲しみなのです。だから詩人はもう一度、自分の目を神へと上げて言ったのです「あなたの僕を、驕りから引き離してください」と。その時でした、詩人の口からこの詩の最後の節に記された言葉が漏れ出たのです、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と。

 私は、人は驕って過ちを重ねてしまうのに、神様は贖って(取り戻して)下さるお方だと分かった上で、もう一度最初からこの詩を読み直してみました。その時、詩人が感じていた、本当の天の輝きに触れた気がしたのです。それは「この世界は全て神が愛された世界、それ以外の物は一つもない」という喜びです。そういう「神は全てを愛された」という響きが、5節、「世界の果てにまで向かう」のです。その「世界の果て」とは、単に地理的場所のことじゃありません。人を傷つけ、自分の正義ばかり主張して、神の御言葉を捨てて歩いている、そういう私どもがうずくまる場所です。その「世界の果てに向かって」、神の言葉が届くのです。「あなたは私の愛する人。どうしてそんな所に居るのか、私の傍で生きよ、愛されて生きよ」と、神の御声が届いて行くのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:41| 主日説教要約

2020年01月20日

説教 『奴隷ではなく、神の子』

2020年1月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙4章1〜7節
つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 前章の後半で律法の奴隷であった者たちがイエス・キリストへの信仰によって神の子とされ、律法から解放された。そして、神の祝福の相続人とされたことをパウロは説明しました。この箇所で、別の比喩を用いて、もう一度この真理の説明を繰り返し、5章でも再度、キリスト者の自由について説明がなされます。このことからも、「キリスト者の自由」がガラテヤ書のテーマであることを窺い知ることができます。

 奴隷状態にあったのはイスラエルの人たちだけではありませんでした。異邦人たちも「世を支配する諸霊」(3節)―ある霊力や迷信や占いなどの幼稚な教え―の奴隷でした。パウロの目にはガラテヤの信徒たちが「逆戻り」(9節)しつつあると映ったのでしょう。私たちも合理的生活を営んでいると言いながら、何物にも縛られていないと断言できないかもしれません。物や地位や名誉などに縛られてはいないでしょうか。
   
 「しかし」という言葉をもって、4節からパウロはキリストを通して与えられた神の祝福を人々に思い起こさせます。神は、御自分の独り子を人として「お遣わしにな」(4節)ったのです。その目的は、人を「贖い出」(5節)し、「神の子」(5節)とするためでした。それは、あの放蕩息子が惨めな状態から救い出され、子としての身分を回復したのと同様です。その結果、放蕩息子にも、また、私たちにも「アッバ、父よ」(6節)ムエル上1章11,16節)と叫ぶ「御子の霊」(6節)が与えられました。神の子とされた私たちは「神によって立てられた相続人」(7節)でもあります。相続人が相続した財産の一つが聖霊の付与なのです。かつてイスラエル人が神の祝福としていたのは、専ら富や嗣子さや長寿でした。しかし、キリストを通して私たちが相続したのは、もっと値高く、永続する「永遠の命」や変わらない希望や信仰、聖霊の力という霊的祝福です。それらをまず求める私たちでありたいものです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:12| 主日説教要約