2018年04月22日

説教 『あなたを避けどころとします』

2018年4月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編7編1〜6節
シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。

わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。
わたしを助け、追い迫る者から救ってください。
獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から
だれも奪い返し、助けてくれないのです。
わたしの神、主よ
もしわたしがこのようなことをしたのなら
わたしの手に不正があり
仲間に災いをこうむらせ
敵をいたずらに見逃したなら
敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき
わたしの命を地に踏みにじり
わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。

 この詩人には、敵がいたようです。その崖っ淵に立って叫びます、「わたしの神、主よ。あなたを避けどころとします」と。でもです。そこでふと思ったのです。それは「苦しい時になって『神様助けて、守って』と言うなんて、ご利益宗教とどこが違うのだろうか」と。そんなことを感じたのは、詩人が「助けて」と言ったあとに語り出した猛烈な自己弁護の言葉を読んだからです。今朝は読みませんでしたが、9節には「主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと」と。そんな自己正当化の激しさが、とても気になったのです。

 ただ確実なことが、一つありました。それは、この詩人にとって頼りに出来る方は、たった一人しかいないということです。彼が見詰めているのは、ただ一人の神なのです。そこに、一人の神と一人の私という関係があった。その「あなたと、わたし」との関係に、彼はしがみついたのです。「あなただけ」と、なり振り構わないで、彼はしがみ付いていたのです。ふと思いました、彼が自己弁護に取っ散らかっているようになっているのは、論証しているというより、泣きわめいている姿に近いと。冷静に「私は義しい」と言おうと考えてはいない。それよりも彼のこの主張は、まるで赤ん坊がママを求めて泣き叫んでいる姿に似ていると思ったのです。

 詩人は無遠慮にも、ただがむしゃらに「あなたを避けどころとさせてほしい」と言っているのです。自分を点検して、助けられる資格があるから、と言っているのではない。詩人は、絶対の依存を神に向けて、無条件の信頼をたった一人のお方に向けたのです。そういう関係に立ったのです。アッと思いました。

 彼はこの祈りを、「わたしの神、主よ」という言葉で始めていたことに、改めて目が留まったからです。「わたしの神」と呼びかける「わたし」と「神」との間に、それが結びつくための条件は何もありません。例えば、「信仰深い私と、そういう信仰者の神となって下さる方よ」とか、そういう前提は何もない。「私と、神」「我と、汝」、ただそれだけ。それが、「あなたを避けどころとする」という唯一の根拠だったのです。
私どもも、「わたしの神」という結びつきにしがみつくことへと招かれています。それは、私どもの人生にも敵という苦難が襲って来るからです。でもそこで私どもは「苦しい時だけで、すみません」なんて思わなくて良い。無遠慮で良いんです。神を避けどころとさせていただきなさい。「わたしの神よ」と呼べるくすしき絆に目を留めるなら、苦難に囲まれてなお、今日の一歩を踏み出すことが出来るから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:42| 主日説教要約

2018年04月15日

説教 『信仰を共にするまことの子テトスへ』

2018年4月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テトスへの手紙 1章10〜16節
実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。
「クレタ人はいつもうそつき、
悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。


 ユダヤ人パウロと異邦人テトスの間に存在した決定的な違いを克服させたのはイエス・キリストへの共通した信仰でした。利害の一致や目的意識の一致からは生まれない信頼関係が信仰により二人の間には生まれていました。神の業の証人また同労者としてパウロはテトスをエルサレムに同伴したほどですから、二人とも働きを共にし続けたかったことでしょう。しかし、自身の願いに反してテモテがエフェソに残ったように、テトスはクレタで牧会をすることになります。人の思いと神の思いは異なることがあります。これを受け入れるのが神に召された者の宿命なのかもしれません。ギリシアの諺に「Cで始まる民族は最低」というのがあるそうです。その民族の一つがクレタ人でした。
 「クレタ」は「嘘つき、偽り」の代名詞でした。クレタでの宣教は決して容易ではありませんでした。そこでの実情は「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多」(一〇節)かったのです。特に教会の内部に(「割礼を受けている人たちの中に」)。彼らは「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している」(一六節)者たちでした。パウロをして「彼らを沈黙させねばなりません」(一一節)と言わしめたほど状況は悪化していたようです。その中でパウロがテトスに求めたのは、自身が実践してきたこと、「人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導く」(一節)ことでした。
 「信仰を助け」とは「信仰を進める」という意味で、「福音こそ世界が必要としているもの」(一九二八年エルサレム国際宣教会議)と確認されたこの福音を宣言するということです。また、「信心」とは「信仰の生活化、生活の中で信仰が生かされる、生活の中に信仰を根づかせてゆく」ことで、信心の具体的な形は礼拝・祈り・奉仕です。牧会者はこれらの実践を説く、そして何より自らが実践しなければなりません。この手紙で、すべてのキリスト者には宣教の使命が託されており、この業は言葉と行いが伴いながら進むとパウロは語っているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:07| 主日説教要約

2018年04月08日

説教 『愛の証しを見せてください』

2018年4月8日の説教
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章22〜24節
彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。


 パウロは、「献金」のことを「愛の証し」と言い換えます。聖書で「愛」と言う言葉が出てきたら、人間的な情愛のことではないでしょう。「愛」と訳され言葉は、聖書の元々の言葉では「アガペー」といって、「自分の身も心も『あなたのために』と削って、与え切ってしまう思いと行い」のことです。ですからパウロは、「あなたがたの深い愛の証しを見せて欲しい。テトスや諸教会の人に、見せて欲しい」と告げていたということです。

 でも、と思います。キリスト者であっても自然な思いは「募金とか施しは、どれだけしたのかを人に見せないのが良いのではないか」ということのかも知れない。それなのにパウロは、一体何を告げたいのだろうかと、私は悩んでしまったのです。

 ふとまた、あのマルコ福音書にもルカ福音書にも書き留められていた「やもめの献金」の出来事を思い出しました。彼女小さな献げものは、賽銭箱の音さえ鳴らせなかったでしょう。しかしでした。その誰も気付きもしなかったやもめの行為を、傍におられたイエス様が、わざわざ証しされたのです「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。生活費を全部入れたからだ」と。弟子たちを呼び寄せて「この女は、まるで命そのものを削ったのだ」と公にされたのです。女の献金の業を、喜んで公にされたのは主ご自身だったのです。弟子たちを集合させてまで「さあ聞いてくれ、この女のしたことを私は公に示したい。この女の“削り出す愛”を私が証言しよう。そこであなたがたも一緒に喜んでくれるために」と話されたのです。人々に見せたかったのは、主イエスご自身の思いであったのです。

 パウロは、「あなたがたの愛の証しを見せてください」と言います。それは、そうやって生きる者は、キリストに似る者の姿だからです。自分のことを削って隣人のために生きようとする姿が愛であり、それは十字架で命を削り出されたキリストの姿に重なるからです。そしてそれが、イエス様ご自身が公にしたいことだったからです、「ここに私そっくりの者がいる。ここに私に従う者がいる。ここに私の友、私の兄弟姉妹がいる。その生き方で分かる、その愛の業で分かる」とね。

 今朝「献金の業」を、「奉仕の業」「愛の業」と言い換えられていたことに、信仰生活がとても豊かにとらえることが出来るように思えて、嬉しくなります。お金の事だけじゃないんです。私どもの手の業、足の業、口の業や、あらゆるものが「愛の業」になるなら、主の喜びとなり、主が「皆見てくれ、知ってくれ。この人がしたことを私が公にしたい。この人の愛の証しをしたい」と言ってくださるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:31| 主日説教要約

2018年04月02日

イースター礼拝説教 『わたしの神よ』

2018年4月1日 イースター礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書20章24〜29節
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


 主イエスが甦らされた日、弟子たちがこもっていた部屋に御姿を現して下さいました。しかしそこにトマスは居合わせていなかったのです。戻って来た彼に、弟子たちが主の御復活を伝えます。でもトマスは一緒に喜ぶどころか、「なぜ私が居なかった時に…」と不満になる。それは不快な思いとなり、とうとうその憤懣が言葉となって外に出てしまったのです「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手を、そのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。弟子であるなら目を背けたいはずのイエス様の御傷に、トマスは自分の指でこじ開けてみなければ決して信じない、と言ったのです。その瞬間、弟子たちの間に一瞬、緊張が走ったでしょう。

 そして8日経ちました。再びご復活の主が現れて下さり、トマスに語りかけ始めます。その言葉は、あのトマスの言葉を、まるでそのままなぞるような言葉でした、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と。トマスが「わたしの指を、わたしの手を」と叫んだあの言葉を、イエス様は「あなたの指を、あなたの手を」と、そのままなぞられたのです。それは、トマスが「わたしの指を、わたしの手を」と叫んだ“あの場面”が、イエス様には「トマスよ、あれはお前の弱さが詰まった場所だったのだね」と、分かっておられたということではありませんか。トマスは、自分の思い通りにならなかったから、苛立ったのです。自分が一番慕ったはずなのに、その自分が認められなくて憤ったのです。そこではもう、主に委ねるなんて出来ない。自分で自分を守るしかないと、必死になって自分を守る鎧を着こんでいた。そしてそこで、彼は、信仰をも失っていたのです。そこで最も弱い姿になっていた。

 しかしイエス様は、そのトマスの弱い信仰のままで、彼をすっぽりと、言葉をもって覆って下さったのです。それは、トマスを赦すということでした。そこでトマスは気付かされて行くのです「弱さの中に立っていたのは私自身だった。その私に、かつて一緒に過ごしたあの日々のイエス様が、いま立っておられる。ここにおられるのは、甦られたイエス様、それ以外ではない」と。

 トマスはそこでようやく、イエス様に告げたかった“本当の思い”を告げることが出来たのです、28節、「わたしの主、わたしの神よ」と。それはそのまま彼の信仰告白の言葉でありました。

 甦られた主は、私どもの前にも立っていて下さいます。その甦りの主に、私どもも申し上げようではないですか「わたしの主、わたしの神よ」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:50| 主日説教要約

2018年03月25日

棕櫚の主日説教 『それを嘲りとは思わない』

2018年3月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書50章4〜9節
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか
われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか
わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。
見よ、彼らはすべて衣のように朽ち
しみに食い尽くされるであろう。

 イザヤが「エルサレム帰還の時が来た」と人々に告げます。しかしそこで大反発が起こったのです。「我々はここでの生活に十分満足している。神の御計画だと言われても、もう結構だ」と。その迫害は熾烈なものでした。鞭や棒で打たれ、そして「嘲りと唾を受けた」と言っています。イザヤは侮辱の限りを尽くされて、身も心も激しい苦しみを受けたのです。

 皆さん、それは神の言葉を伝えたからです。むしろ神の御旨に従ったからだと、伝えられているんです。「それにしても何故イザヤは、それでも語り続けたのだろうか」と思います。御心に従い続けても、そこで苦しみが増すだけなのに、どうして放り出さなかったのか、です。

 「なぜ」と問う私どもに、聖書は「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない」とイザヤの言葉を伝えます。この「助けてくださる」というのは、「手伝う」とか「手を添える」というように、弱ったり疲れ切った時にパートナーが一緒にいて、腕を抱えてくれたり背中に手を当てたりする、そういう「助け」です。それはまさに、助ける者が傍にいるということ無しには、起こりません。それはつまり、いま苦しんでいる場所が、私のパートナーとして神が共にいて下さる場所だ、ということではありませんか。つまり、神も共に苦しみを背負っておられる、神が私の十字架を一緒に背負っていて下さるということなのです。苦しみの中に、神が居られる。そこに私がいるからです。そして、だからこそそこで告白できることがある、「わたしはそれを(今の苦しみを)嘲りとは思わない」と。この苦しみの場にあって、なおここに神の御計画があると信じて立つ、ということであります。

 この箇所を読む時に、私どもはイエス様の十字架への道行きを思い起こさないではいられません。イエス様は、父なる神に従う歩みの中で起こる苦しみの中で、神の計画を真実に実現しておられたのです。この苦難を「嘲りとは思わない」、その道を進まれたのです。

 神の御心のままに歩みたいと生きて行くこの世の生活で苦しみに遭う日に、私どもは気付くことがある。私のために身代わりで死んでさえ下さった方が、いま私の具体的な苦しみにも「あなたと共にいるから」と付き添って下さるのだ、ということです。そして、そのイエス様と一緒なら私どもにも言えることがある、「御心に従って歩む人生、たとえ何があっても、それを嘲りとは思わない。なぜならそこが苦難の道であっても、私の思いや考えを遥かに超えた、神の計画が、きっとそこで実現する場所なのだから」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:14| 主日説教要約

2018年03月19日

説教 『御言葉を宣べ伝えなさい』

2018年3月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テモテへの手紙二 4章1〜8節
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。


 全存在をかけて勧めを行ってきたパウロはいよいよ最後の勧めへと進みます。その前に誰をあるいは何を意識して―誰あるいは何のため―に生きて(働いて)きたかを明確にします。「神とイエス・キリストの御前(存在の中)」(一節)で彼は生き、また働いて来たのです。彼が好んだ「キリストにおいてIn Christ」の表現は「主は共に居て守ってくださる」を意味すると同時に「主に見られていて、何一つ隠すことはできない」を意味していないでしょうか。主は「生きている者と死んだ者を裁く」(一節)方です。隠れた所で行った善い業も人の目に触れずに済んでいた不誠実な業も復活のキリストはすべてご存知で、主はその忠実さ不忠実さを公平に裁いてくださるのです。パウロの中では、教会をいくつ建てたとか、が救われた人の数などは全く問題ではありませんでした。ただ決められた道を走り通した、主に託されたことをやり遂げた。後はただ永遠の命の象徴である「義の冠」を「受けるばかり」(八節)―ドックに入る、落ち着く―だけなのです。主との完全な交わりを意味する「永遠の命」、パウロが求めた報いはそれだけではなかったのでしょうか。その報いを受けるばかりのパウロの最後の勧めは何だったか。「御言葉を宣べ伝えなさい」でした。受け入れられても受け入れられなくても、聞かれても聞かれなくても御言葉を伝えるのです。御言葉の中には歓迎され易い励ましや慰めの言葉もあれば、耳障りのよくない叱責や戒めの言葉もあります。どちらも御言葉ですから、どちらも語るのです。そうしてきたパウロは、それ故に迫害や苦難を受けました。しかし、それが「福音宣教者の仕事、自分の務め」(五節)なのです。愚直と言われようと要領が悪いと言われようと、誰にも評価されなくとも、「しかしあなたは」(一〇節)、「だがあなたは」(一四節)なのです。御言葉を宣べ伝え、御言葉に生きようとする者と神は共にいて、力づけてくださる。そして主を待ち望む者には、だれにでも義の冠を授けてくださる。そういう者、教会でありたいと願うものです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:20| 主日説教要約