2018年02月19日

説教 『しかし、あなたは』

2018年2月18日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テモテへの手紙二 3章10〜17節
しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。


 「終わりの時」(一節)とは主イエスの来臨の時から再臨の時までを言うので、私たちは現在「終わりの時」に生きていることになります。二節以降に述べられている悪の一覧表(悪のカタログ)―面白い表現だと思います―は二千年前だけに限定されて顕著だった訳ではありません。今も二千年前のそれ以前にも、人間が存在している時と所、いつでもどこにでも蔓延していました。悪の根源は罪です。問題は「罪」なのです。私たちが罪の現実と向き合い、その力を知る。それも、自分のこととして捉えないと、罪の罠に陥ってしまうことになります。

 罪とは「的をはずす」ことです。神という的から逸れると、@自己の破壊、A神からの疎外、B人間同士の対立、C自然との不調和という結果がもたらされてしまいます。これらの現実の一方で、神の御子キリストを通して罪からの救いが与えられたのも現実です。罪の中でも、最も厄介で注意を要するのは「信心を装いながら、信心の力を否定する」(五節)、宗教(家)かもしれません。たとえこの世の中がどのように動き、変わったとしても「しかしあなたは」(一〇節)、「だがあなたは」(一四節)とパウロが勧めるようにこの世の流行りに妥協したり迎合したりせず、頑なにまで「信心」―礼拝すること、祈ること、聖書を読み聖書を語ること、奉仕に励むことなど―に徹したいものです。

 パウロの生涯は、いよいよ終りに近づいています。後は「愛する信仰の子」テモテに託すしかありません。それに際し、改めて、この道は平坦ではないこと「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(一二節)と覚悟を促します。そして、何よりも大切なのは御言葉から離れないことだと確認します。テモテはパウロや祖母と母からそれを学び、その力を見てきました。人を救いに導く知恵と力は御言葉にあり、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」(一六節)のは御言葉なのです。罪の力に対抗するのは御言葉の力だけなのです。その力は信心から来ることを忘れてはなりません。
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2018年02月11日

説教 『神の国はあなたたちのところに来ている』

2018年2月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章22〜30節
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。


 イエス様の所に、目が見えず口も利くことが出来ず、自分の心も自由にすることが出来なかった人が連れて来られ、癒されました。群衆も彼と一緒に喜んで、「この人はダビデの子(救い主)ではないか」と叫び出します。その時、それを聞いたファリサイ派が、救い主であってたまるかとばかりに、イエス様を悪霊呼ばわりし出したのです。

 そこに、イエス様との論争が始まり、主があっけなく論破されました。しかし、その直後だったのです。イエス様は、これで決着とばかりにご自分の働きへと戻って行かれて良かったはずなのに、そうはなさらなかったのです。まるで彼らを論破することが目的ではないかのように、論理からはみ出した言葉を付け加えられたのです。それが28節、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」という言葉でありました。

 アレッと思いました。その「あなたたち」というのは、誰のことなのか、です。私は最初「勿論、イエス様の傍にいた群衆の一人一人で、素直にイエス様の到来を喜べた人達のこと」と思っていました。でも、イエス様がこの時に論争している相手は、つまり「あなたたたち」と呼び掛けられているのはファリサイ派なのです。そうするとイエス様は、「人々が憧れた神の国は、私を全否定して、私を悪霊呼ばわりして、おとしめようと謀ったお前たちの所に到来している」と仰ったということになるのではないですか。私は、「そんなこと、この世の常識とは、全く違う話じゃないか」と思ってしまったのです。皆さんはどう思われますか。

 そしてです。そう思った時、「こんなのこの世のどこにもない話だ」と気付けたら、その時ハッとしたのです。「これはイエス様が言われた、神様の支配される世界の話なんだ、この世が支配する常識的な話じゃないと感じたなら、それで当然なのかも」と、そこに立ち帰れたのです。その立ち位置は、「人間が、神の恵みはこんな所には無いと思おうがどうしようが、恵みの支配は、神の側からどこにいる人にも、上から襲うようにして到来するのだ」という立ち位置です。

 イエス様を明らかに足蹴にしたファリサイ派の人々に向けて、主イエスが「あなたたちのところに神の国は来ている」と言われることを通して、全ての人に明らかになったことがある。それは、「神の恵みの支配は、人が下から努力して登って行く所にあるのではない。むしろ上から降って来る。恵みは、誰にでも襲いかかり、あなたにも降り注ぐようにして、到来するのだ」ということなのです。そして主は「それを信じる者になれ」と、私どもを招くことをこそ、なさりたかったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:17| 主日説教要約

2018年02月04日

説教 『愛の純粋さを確かめようとして』

2018年2月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章8〜15節
わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、
わずかしか集めなかった者も、
不足することはなかった」と書いてあるとおりです。


 パウロは、貧しかったエルサレム教会を、富んでいる人が多いコリントの教会が献金で支えて欲しいと話して来ました。それもです、「これだけのものを献げなさいという言い方はしない」と。ではどう言ったのか、それが「他の人々の熱心さに照らして、あなたがたの愛の純粋さを確かめようとして、だ」ということでありました。神様は、あなたの慈善の業において、あなたの愛が本物かどうか、真実なものか中途半端なものなのか、心を尽くした結果なのかどうか、それを見詰めておられるのだと言うのです。

 その「愛」というのは、聖書の原語を見ますと、「とっても好き」とか、単なる心の持ちようの意味ではないことが分かります。これは、ご存知のことと思いますが「アガペー」です。つまり、自己犠牲の姿なのです。「あなたのために、私が自分を犠牲にする、そういう私として生きる」という姿なのです。心の話どころではない、自分を犠牲にする激しい“行為”なのです。そしてです。そういう特別な愛を、コリント教会の人々はまだ知らないのかというと、そんなことはありませんでした。彼らは既に十分知っていました、それは、その真の愛に生き、その愛によって死なれたお方を知っていたからです。十字架で死なれたイエス様です。

 イエス様はご生涯で、ご自分のものを持つことを一切断念されましたよね。それは、お金とか家とかいうモノだけのことじゃない。一切持たない貧しさとは、自分の理解者さえ持てなかった程にです。主は地上で、一人の理解者さえ持てなかったのです。そこで、とうとう命をさえ十字架の上で捨てさせられてしまったのではないですか。しかしそんなイエス様の全ての貧しさで、実は私どもが豊かになる。それが主ご自身の思いの現実化だったのではないですか。愛する「思い」は、必然的に、「業」に繋がるのです。

 言い換えるなら、愛に生きるならば、自分が痛みを負う。人と関わる愛は、そこに痛みが起こるのです。それは、愛することが、業と繋がっているからです。み言葉は私どもにも、「あなたの業には、愛があるか? それは真実な愛か? そこに痛みはあるか?」と問うて来ます。奉仕する事にも、善き業にも、献げ物をするということにおいてもです。だから私どもは「主よ、私がこの奉仕をしていて傷を負うことがあるのは、それで良かったのですね。愛そうとしたとき痛みを感じたのは、それで良かったのですね。兄弟姉妹のため、隣人のため、家族のため、教会のためと思う業で傷つく時、神様はそこに、私の中にも本物の愛を見つけて下さるのですね」と生きて行けばよいのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:43| 主日説教要約

2018年01月28日

説教 『主を待ち望め』

2018年1月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編27章11〜14節
主よ、あなたの道を示し
平らな道に導いてください。
わたしを陥れようとする者がいるのです。
貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
偽りの証人、不法を言い広める者が
わたしに逆らって立ちました。
わたしは信じます
命あるものの地で主の恵みを見ることを。
主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。

 詩編27編を書いた人の前には「敵」がいて、先行き不安の中にもいたようなのです。それなのに、まるで溌溂として「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ」と言ったのです。何だか強い人が、弱っている人を励まそうと言っている言葉のように聞こえませんか。でも、そもそも弱っている人に「雄々しくあれ、頑張れ」という励まし語って、禁句なのではないですか。

 もしもこの御言葉が、「主を待ち望め」という一言が付けられること無しに、単に「雄々しくあれ、心を強くせよ」と言っただけだとしたら。それは、頑張らなくてはならないのは、「あなたは今疲れているかも知れないけど、もっと奮起しろ」ということになりますよね。でもなんです。この詩人は、「雄々しくあれ…」と言う前に、「主を待ち望め」と一言を付けた。その一言によってです。一気に変わることがあったのです。

 「主を待ち望め」という一言によって、「あなたが頑張ること」が求められている事じゃなくなる。その逆に「あなたがすることは、ジッと待つことだ」ということになる。「主があなたのために立ち上がって下さる。その主を待っていたらいい。その約束を見たら、あなたは雄々しくあれるだと」ということになるからです。

 この詩は、伝統的にダビデの詩として読むならばニュアンスがよく聞き取れるだろうと言われてきました。だから「この詩は、ダビデが息子アブサロムに裏切られ、息子に命を狙われて、自分からエルサレムの城を明け渡した時のことだ」と考えた神学者もいます。ダビデは泣きながら都を下って逃げている時、嘆きつつこの詩を歌ったのです。そこで「主を待ち望め、そうだ、私の魂よ、主に望みを置け」と歌ったのです。それは、「この敵を、神様、何とかして下さい」というような、自分の苦しみに目を置いた歌とはならなかった。そうではなくて彼は、自分の思いや敵をさえ見ることから、神へと向き直って、主なる神へと目を向けたのです。自分の願いや不満じゃなくて、神へと心を置いた。その時にです。自分の中には何の希望もなくても、将来の見通しもまだ全くない中で、彼には力が湧いて来たのです。外から湧いて来る勇気に押し出されて、「さあ、雄々しくあれ。心を強くするんだ」と、自分に宣言することが出来たのです。

 詩人は、「あ〜、神様を知っていて良かった。大丈夫だよ、安心だよ」と言ったのです。「主を知っている、ああそうだ、その主を待ち望め」と。そしてそこに立つなら、どういう解決が待っているのか、まだ何の見通しもなくても、リアルな安心を、自分がつくり出さなくても、神様から与えていただけるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:37| 主日説教要約

2018年01月23日

説教 『主の僕たる者は』

2018年1月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙二 2章20〜26節
さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。


 この短い一章の中に十項目ほどの命令をパウロは「愛する子」テモテに下しています。「強くなりなさい」(一節)、「ゆだねなさい」(二節)…「愚かで無知な議論を避けなさい」(二三節)など。指導者の端くれとして、「わたしはどれほど実行できているか…」、襟を正される思いです。後輩や弟子に勧めをする師には自分のことを棚に上げて言うだけ(言葉だけ)になったり、相手のためというより、自画自賛になったりする誘惑があります。師であるパウロは自分について多くを語っていません。自分は苦しみを受け、それに耐えたとだけ記しています。

 兵士・競技者・農夫の喩で三者に共通しているのは「苦しむこと・苦労すること」です。指導者にとっても苦しみは避けて通れない道なのです。他の手紙で自身の苦しみを詳しく語るパウロですが、気心知れたテモテにはその必要がなかったのでしょう。語るべきは自分のことではなくキリストのことだったのです。「キリストにおける恵みによって強くなる」(一節)、「キリストのことを思い起こす」(八節)、キリストとの一致、キリストの真実(一一〜一三節)。この姿勢を持つのが「主の僕」(二四節)なのです。主の僕は旧約聖書的な表現で、「主」はイザヤ書四三章の主(創造・贖い・共にいる・聖・救い・愛なるお方)、「僕」はイザヤ書五三章の「苦難の僕」(キリスト)を反映しています。主の僕である私たちは苦難の僕であったイエスのような生活をするかもしれない。

 しかし、その僕の主は創造・贖い・共にいる・聖・救い・愛なる方であられる。この主がおられるから、僕の苦難に意味が生まれ、苦難の実が実るのです。故に主の僕は「争わず、柔和に接し、教え、忍び、優しく教え導く」(二五節)ように努めるべきです。これは「聞く者」のためであり、教える者の満足のためではありません。キリストの内(in)に、キリストと共 (with) に、助け手(師)の導きを得て、やっとキリストのため(for)の働きができるようになるのです。指導者こそ、まずキリストにおける恵みによって強くならなければなりません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 07:28| 主日説教要約

2018年01月14日

説教 『わたしの心に適った者』

2018年1月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章15〜21節
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。
 彼は異邦人に正義を知らせる。
 彼は争わず、叫ばず、
 その声を聞く者は大通りにはいない。
 正義を勝利に導くまで、
 彼は傷ついた葦を折らず、
 くすぶる灯心を消さない。
 異邦人は彼の名に望みをかける。」


 イエス様は見事ファリサイ派を論破して、病に悩む男を癒してあげます。それで彼らはイエスを殺そうと策略を始めたのです。15節の「イエスはそれを知って」というのは、その殺害計画のことです。もし私がこの場にいたら、きっと「難しい安息日論争を論破されたイエス様なのですから、殺害の陰謀を問い詰めることぐらい簡単ではないですか、今こそこの輩をやっつけてください」と言っていたはずです。それなのにでした。イエス様がなさったのは不可解な行動だったのです。15節「イエスは、そこを立ち去られた」と。なぜ立ち向かわないんだという不満で、モヤモヤして来る私…。

 イエス様は、ファリサイ派に立ち向かえたはずの場所を、退かれはしました。しかし、そのイエス様について来た群衆の「皆の病を」癒されます。病の辛さって、本人にとっては病状の重さ軽さに関係ないですよね。イエス様が「皆の病を」癒されたというのは、十把一絡げではなくて、一人ずつ受け止めて下さったということです。そう思ったら、ふと、イエス様のお心は直前の安息日論争をしておられた時から、何も変わっていないじゃないかと思ったのです。安息日論争も、論争をするために論争されたんじゃない。たった一人の手の萎えた男の辛さを、ご自分のこととして受け取られたから、安息日であろうとなかろうと、一切が後回しになって、一人の人の辛さに寄り添われたのではないですか。ファリサイ派の目から見たら、それが「安息日論争」となったと言うだけで、イエス様がなさったことは、「あなたのために、思いを尽くす」ということだったのではないですか。そういう姿は、ちっとも変っていない。アッと思いました。イエス様がいつも闘っておられたのは、ご自分のためではなくて、人のためだったと気付かされたからです。

 たとえご自分の命が奪われる策略を目の前にしても、自分のための闘いはなさらない。イエス様が力を尽くされるのは、いつも「あなたのため」であった。それも、20節には「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と記されています。傷ついた葦とは「役に立たない者」の譬えです。「くすぶる灯心」も、「無価値になってしまう者」の譬えです。そういう一人ひとりのために居られるのが、イエス様という存在なのだと告げられていたのです。それをマタイ福音書は、「この立ち去りのイエスが、わたしの心に適った者だと、父なる神が告げておられるのだ」と、記していたのです。

 神の心は、私どものことを私自身よりも大切に見詰めていて下さる思いです。私以上に、私を愛していて下さるのです。それが神様の願いであるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:47| 主日説教要約