2019年01月13日

説教 『新たな力を得』

2019年1月13日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書40章27〜31節
ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


 この時イザヤが語りかけた相手は、「私たちはこんなに苦しい生活をしているのに、神様は分かってくれない」と嘆いていた人々です。それに対してイザヤは「神様はあなたがたのことを分かっている。いやそれだけじゃない。主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と語りかけたのです。

 この「新たな力を得る」という「得る」という言葉は、「入れ替える」とか「良いものに交換する」という意味を持つ言葉です。つまり、自分がずっと願ってきた延長線上で、それを得るというのではないのです。自分の願って来たものと全く違うものに、交換されるということなんです。確かに神様は、私たちがどんなに苦しみ、そこでどんなことを望んで来たかも全部知っていて下さいます。でもそこで「もうだいぶ苦労して来たから、あなたの願い事をそろそろ叶えてあげよう」というようにして私どもに力を与えて下さるというのではないのです。神様は、私どもが考えもしなかったような輝く希望を、私どもの頭の中や心の中でグルグルと巡らしていた古い思いと入れ替えるとおっしゃるのです。全く新しい世界を始めるぞとおっしゃるのです。その新しい世界が、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」という世界なのです。

 現実に目の前にあるのは、今までと何も変わらない暗闇であるかも知れない。しかしなのです。信じるということは、神様は私の、このトンネルの中に来られるのだからアッチに行ったり、コッチに行ったりするまい、ということ。そうやって待っている私どもの現実に、神様の方から来て下さる。そこで「新たな力」を受け取るのです。そこが受け取る場所だからです。神の御業は、決して遅過ぎることはありません。だから、神様を求めることに身を潜めて、離れないで下さい。そこでいつか、自分の古い計画や思いを越えて、神の御業を喜ぶ私になっている日が来るのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約

2019年01月06日

年間主題聖句説教 『岩と頼むのはわたしたちの神のみ』

2019年1月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
サムエル記上1章21節〜2章3節
 さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
 夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」
 ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
 ハンナは祈って言った。
「主にあってわたしの心は喜び
主にあってわたしは角を高く上げる。
わたしは敵に対して口を大きく開き
御救いを喜び祝う。
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。
主は何事も知っておられる神
人の行いが正されずに済むであろうか。


 ハンナは子どもが生まれなくて、ずっと泣き続けた女です。そういうハンナに、夫エルカナは優しく接しはします。「このわたしは、あなたにとって10人もの息子にまさるではないか」と。でもその優しく聞こえるはずの言葉も、ハンナにとっては「どうして私の悲しみの傍に座って一緒に悲しんでくれないの。結局私は誰にも分かってもらえない」と思わせる一言でしかありませんでした。

 しかしそうやって、彼女にとって頼れる場所がどこにも無くなる中で、だったのです。ハンナは、たった一つ残されている場所に気付いたのです。それは神の御前でした。そこで、思いの全てを打ち明け出したのです。自分の中で、自分だけで考えて、一人で思い煩うことを手放したのです。そういう彼女の祈りは、「主よ、私は苦しい。私は悲しい。私は孤独です」と繰り返し訴えたに違いないんです。ただただ安心して、心からの言葉を注ぎ出したのです。その中のから、この祈りの言葉が生まれたのです。2章2節「岩と頼むのはわたしたちの神のみ」と。

 皆さんもいつかは老いて、色あせて、あらゆることを忘れていく日が来る。それでも、なんです。神様が、私を忘れられることは無い。神が、私どもの岩となっていて下さることを忘れること、止めてしまわれることは決してないのです。あなたに、絶え間なく固い岩として関り続けて下さるのです。ハンナはその神様へと、祈りの中で目を向けさせていただいて、だから気付けてゆけたことがあったのです。それは、自分の涙の人生の中にも、既に神様が関わり続けていて下さったという事をです。それを感得させていただいた時に、彼女は、「この後の人生も、神様は最善のことをして下さる以外にない」と、信じることが出来たのです。

 2019年も、変わらず主が、あなたを足元の大岩となって下さいます。それを信じて、歩み抜こうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:15| 主日説教要約

2018年12月24日

クリスマス礼拝説教 『一緒に登録するため』

2018年12月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書2章1〜7節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 ヨセフが臨月になっているマリアと一緒に、ナザレの村から旅を始めました。でもマリアは長旅など危険なのです。それなのになぜ2人は、実家を離れるような行動に出たのか。彼らは神の使いから「聖霊によって身ごもる」と聞いて、激しく悩んで、やっと委ねたけれど、そんなことを分かってくれる人は周りにいるはずもありません。自分の常識で人を裁く人たち追われ、実家を離れるしかなかったのです。

 そういう旅路を、どんな思いで歩いたのかと思います。2人ともそれぞれに「神の恵みが実現するはずなのに、奇跡なんか何も起こっていない。御言葉を受け取ったはずなのに、まるで地べたに這いつくばっているのが現実。神様、なぜなのですか」と、心の中で消えない叫びが渦巻いていただろうと思えてなりません。その2人の旅を見詰めるように、「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」と伝えていました。この「身ごもっていた」とは、原文では「子どもと一緒であったマリア」という意味なのです。つまり、2人きりの歩みではなかったのだということ。お腹にイエス様が一緒に居て下さった旅だったということなのです。それはまた、マリアとヨセフは、救い主イエス様をベツレヘムへお連れしたということです。

 私どもが「神様に従うと決めた私が、それなのに何故この重荷があるのですか」と問うのなら、それは神の恵みから遠くにいるようにしか思えない日々なのかも知れません。でも神様は、そこを救い主が共に居る場所として選んだのだよと、今朝告げているのです。トボトボと歩む現実の只中に、あなたのお腹の中にと言うほどに近く、救い主が一緒に居られるのだよと。さらにそのあなたによって、御心は実現して行くのだと。奇跡が起こるわけじゃない。ハッキリ神の御心が見えている訳じゃない。でもそこにも神の計画は進んでいるのです。御業が私どもの中に起こっているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:45| 主日説教要約

2018年12月17日

説教 『イエスは僕なのか』

2018年12月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
フィリピの信徒への手紙2章6〜11節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


  長く神から離れていた一人の老農夫が、渡りの途を失った小鳥たちを救うために自ら小鳥になって目の前に迫っている危険を知らせたいと願った瞬間、受肉の意味を悟った(「或るクリスマスの出来事」から)。毎年この時期に読んでいる文章です。「なぜ神が人になったのか」の問いに、「愛がそうさせた」(グァルディニ)と言う者がいます。使徒ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)と記します。しかし、宗教改革者ルターはこれを悲劇的な言葉だと告げます。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」(ロマ8章3節)からであると言うのです。人の罪は、御子の死により処断されました。その方法しか無かったのです。しかし、この決意と行為において神の心はどれほど痛んだことでしょう。我が子を死なせるために世に送ったのです。ここに人への痛みを伴った神の愛を見ます。御子も馬小屋で生まれ、直ぐに命を狙われることから始まり、十字架で処刑されるまで、ありとあらゆる痛みを人として経験しました。それでも構わないという人に対する御子の愛を見ます。私たちが受けている愛には言葉には出来ない痛みと犠牲を含まれています。これほどの愛を受けている私たちが父なる神と子なるイエスのために痛むことは、むしろ当然であり、痛みを避けて、恵みだけを求めることは不義理であり、身勝手と言えるかもしれません。恵みだけを求めることは、イエスを私たちの僕をする―言い換えれば、利用する―ことなのです。父と子との痛みに与る備えができた時、実は私たちの痛みは癒され始めています。愛する私たちを父が放置するはずがないからです。私たちも僕に徹しましょう。それがクリスマスに相応しい決意なのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:15| 主日説教要約

2018年12月09日

説教 『やがて全体が膨れる』

2018年12月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章31〜35節
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」


 弟子たちにとっては、一向にイエス様がローマを打ち破るために蜂起しようとなさらないことが不満だったようです。それを見て取ったイエス様が、このたとえ話を始められたのです。1つ目は、『からし種は種の中で一番小さいけれど、どんな野菜よりも大きくなる。神様の支配も、最初は人間には最も小さなもののように思えるけれど、一旦この世界で始まったら、どんどん大きくなる』ということです。2つ目もパン種とパンの練り粉の関係で、『天の国・神様の支配というのも、人々の日常の中に紛れ込むように小さな業として始まるけれど、ついには全体に行き渡って行くんだ』と。

 まことにイエス様は、人の目には存在を見出すことも叶わない最も小さき者として、天より降って来られました。そのことを思い出した時、私はハッとさせられたのです。イエス様がたとえ話でなさった、吹けば飛ぶような小さな「からし種」は、イエス様ご自身じゃなかったのかと気付かされたからです。暗闇の中に紛れるようにして、日常生活の端っこに紛れ込むようにして地上に降られたイエス様こそ、小麦の練り粉の中に入れられた「パン種」だったのです。

 そしてイエス様が、そんなに小さく貧しくなって下さったのは、本当の意味で小さく貧しい「罪人」と一緒になるためであったのではないですか。それは、全ての小さく貧しい罪人を救うためにです。「罪人の僕」にまでなって下さったイエス様。それが、真の救い主の姿なのです。このお方だけが、全世界を救えるのです。相応しくない者をさえ救い出せるからです。そのために神は、からし種のように小さくなり、パン種のように私どもに紛れる姿となる以外に方法を取り得なかったのです。それが、神の決断であられたのです。将軍のように来てこの世界を変えて行くのでなかったのは、ただ一つの理由からです、それは神が、あなたという一人を得るためであられたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:51| 主日説教要約

2018年12月02日

説教 『見よ、わたしの僕を』

2018年12月2日(アドヴェント第1主日)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書42章1〜4節
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 私どもの心を苛む敵は、やはり人間、それも隣人であることが多いんだと思います。それもです。人と人とが責め合う時には、いつも自分の側に正義があると思い込んでいる。だから、相手という敵を倒せば全てが良くなると思い込んでしまうことが起こるのです。そういう私どもに、1節「見よ、わたしの僕を」と語りかけます。自分の悩みや、自分で組み立てた救われ方を見るのではなく、「見よ、わたしの僕を」と言われるのです。そしてこの御言葉が、御子の降誕を待ち望む教会歴の中で読まれて来たということは、「わたしの僕」とは、御子なるイエス様のことであると読んで良いのです。

 その救い主イエスとはどういうお方なのか。2節、「彼は叫ばず、呼ばわらず」と。「敵をやっつけて下さい」という者に、御子は「そんなことに私は全く関わるつもりはない」と沈黙しておられる。

 さらにこのお方は、3節、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこと」もないお方だと言われます。人は病や苦難の中で、心だって傷つき、信仰だって倒れませんか。いとも簡単に信じることが消えかかる灯心です。でも御子は、折れそうになった弱々しい葦の枝を、風前の灯火となって消えそうな灯心の私どもを、見ていて下さると告げられているのです。それはそこで「お前の信仰は、そんなことでは駄目だ」と責めるためではない。主イエスが黙って見ておられるのは、折れそうになりながらも、まだ折れ切ってはいない私どもの小さな、小さな信仰です。神を信頼し切れないような私どもの信仰だけれど、まだ信じたくて、まだプスプスと小さな灯心が残っているような私どもの信仰を見ていて下さるのです。そして御子は、あなたの敵と思い込んでいる隣人と互いに手を取らせて、「愛し合う兄弟姉妹として、互いに重荷を負って歩いていく決心をしてくれないか」と語り掛け、「責め合うのではなく、愛し合ってくれないか。あなたの中には、まだその灯心が残っているのだから」と招いて下さるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:37| 主日説教要約