2020年08月23日

説教「君よ、ただ神に向かえ」

2020年8月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編62編1〜9節 
62:1 指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
62:4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり
   人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして
   口先で祝福し、腹の底で呪う。
62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し
   御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

 私どもは危機に出遭ったらどうするのでしょう。詩編62編の詩人は、そんな時、その状況から逃げ出せもせず、しかしそこで神を信頼する歌を歌い出したのです。2節「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」と。
それが本当に出来るのは、彼が「神はどんな時も、私の岩でいて下さった。私を支えて下さる」と、苦難の中で経験したからなのです。そういう「神と私」という関係にあるんだと、悟ったからだと思うのです。さらにでした、「神と私」という生きた関係に目が拓かれた詩人。その「神関係」を知ったゆえに、彼はそこに続けて驚くような言葉を加えるのです。それは、「わたしの」と言っていた彼が、「わたしたちの」と語り出したということです。

 信仰というのは、個人主義の事柄ではありません。「神と私」の関係に目が開かれたら、確かにそこでまずは、自分自身の真の姿が分かるでしょう。自分中心の欲に生きている姿が露にされて、悔いるでしょう。そしてそれでも神様は「私の岩、私の救いとなって下さった」と分かる。本当に「神様に私は救われた、私は愛された」ってことが分かるんだと思います。でもその時、教会の信仰はそこで止まらないのです。それが、「こんな私をさえ愛して下さった神様は、私の隣人の苦しみも知って下さり、隣人をも愛して下さらないはずはない」ということなのです。「だって、罪人のこんな小さな者、私をさえ愛して下さったのだから。君も、神様はどんなに愛して下さっているか。君にとっても、神は岩、神は救いだよ」と悟るのではないですか。この世界は、神に愛されている世界なんです。この詩人は、それを感得した時、すぐに人々に振り返って言えたのです、「そうだ、君もだ。神は、わたしたちの避けどころ。…わたしたちのだよ」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:33| 主日説教要約

2020年08月16日

説教「キリストの律法」

2020年8月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙5章7〜15節
5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 「召し出す」(8節)には「呼ばれた」「招かれた」「選ばれてキリスト者とさせてくれた」という意味があります。しかも、現在完了形で用いられているので、私たちはこの「召し」に継続的に応え続けなければならないということなのです。そうでなければ、「わずかなパン種」(9節)=ちょっとした誘惑が大きな落とし穴になりかねないと警告しているのです。そして、パウロは今なお迫害を受けている現状を報告します(11節)。社会や他の指導者たちに迎合して「十字架プラスα(律法)」を福音として語らず、十字架と復活のみによる福音を説いているからです。「十字架プラスα」なら人々は躓かなかったでしょう。しかし、十字架のみによる救いを伝えた時、人々は躓いたのです。十字架あるいはキリストが「つまずき」(「道に敷かれた障害物・落とし穴」また「腹を立てる」の意味)となったのです。しかし、十字架は父なる神が、そして、子なるイエスが命を懸けて拓いてくださった救いの道なのです。人に対する御神と御子の愛の印なのです。そこに御心が凝縮されているのです。それを語らなければ、「真理」を曲げてしまうことになる。神の御心を無視することになる。神を悲しませることになるのです。この箇所以降でキリスト者が、十字架を負った者として、いかに生きるかを具体的にパウロは伝えます。十字架には罪からの救いがあります。この救いに与った者には「愛の行為」と「キリストと共に苦しむ」ことが伴って来ます。つまり、キリストと同じように「愛の行為」に生きる。そして、キリストと同じように「苦しむ」ことを覚悟する。これが古い律法ではなく、「キリストの律法」、言い換えるなら「愛の律法」、またイエスが遺言として残された「新しい掟」(ヨハネ13:34)に生きるということなのです。具体的な表れが「愛によって互いに仕え合う」(5:14)ことです。この内容を次回、学んでみたいと思います。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 20:54| 主日説教要約

2020年08月09日

説教「スピリチュアル ギフト」

2020年8月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ローマの信徒への手紙1章8〜15節
1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 パウロは「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えたい」と願って、ローマの教会を訪問したいと言います。その「“霊”の賜物」とは、「聖霊なる神からの賜物」です。それも、一人が全ての賜物を持っている訳じゃない。それぞれの兄弟姉妹が、教会というキリストの体の一部分として、神様からそれぞれに賜物をいただいているということです。

 でもなぜパウロは、「あなたがたに、いくらかでも分け与えたい」と言えたのでしょう。大伝道者だから持っているものがたくさんあったからでしょうか。いいえ違います。彼は、自分が取るに足りない者だと自覚していました。キリスト者を迫害しようとダマスコに向かっていた時、ご復活の主イエスが、現れて下さった、そこで全てが分かったのです。自分が自分でかき集めた物は、一切が「塵あくた」だったと。そして彼は、「誇る者は、ただ主を誇れ」と悟ったのです。主イエスこそ神であられたのに、罪人のために、(パウロは自分のことだと分かっていた、傲慢で、神に背を向けて生きていた自分こそ罪人だと)、その罪の身代わりに、償いのために死んで下さったお方。それがイエス様。それが分かった時、彼は「自分はむしろ神の目には敵だった。でも、そんな私でも御子イエスのものとして戴けた、救われた。それが、私が得た財産の全て」と分かったのです。パウロは、「自分は、神に愛された罪人」と分かって、だから今度は、自分がそのお方を愛する者となりかたったのです。命懸けで愛されたと悟ったから、その日から彼は、イエス様のように生きたいと生き始めたのです。それは、人々の足元に降る姿となった、「私の持っているものをあなたにあげたい。いくらかでも、貰ってもらえるなら、分け与えたい」と生きたのです。

 改めて今朝分かります。“霊”の賜物を分け合って歩む、そこに進むべき道がある、と。そういう群れに属する喜びをもって、新しい1週間を過ごしたいではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:39| 主日説教要約

2020年08月02日

説教「覚えていないのか」

2020年8月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書16章5〜12節
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 イエス様のもとに、弟子たちが遅れて合流して来ました。慌てて出発して、イエス様の所に着いてから気が付いたのです、「パンを忘れた」と。「忘れた、どうしよう」と不安に、心が捕らわれ、彼らの心は騒いだのです。本当は、守って下さるのはイエス様で、守って頂くのは自分たちで、そこに委ねれば平安があるのに、それが逆転していた。そこでは、守られている事を見失ってしまうんです。

 その弟子たちの心を見通されて、イエス様がおっしゃいました、「信仰の薄い者たちよ」と。続けて、つい先日の男だけで5000人にパン5つで満腹にされたこと、さらに4000人に7つのパンで満腹させた御業のことを話し出されたのです。彼らの頭の中にある記憶を、彼ら自身に思い起こさせてあげるように、ゆっくり話し始められたのです。それは決して、弟子たちを突き放す姿ではありませんでした。イエス様は、彼らの戸惑いの中に分け入って行かれたのです。彼ら自身が持っている記憶を一緒に辿って歩かれるように、「あの5つのパンだよ、あの7つのパンだよ。あれだよ、日毎の糧は、私が用意しただろ、それが私だよ」と、彼らの鈍い心を導くように、彼らの真横で、信仰が取っ散らかっている真横で、語りかけて下さったのです。

 この「信仰が薄い」という言葉は「信仰が小さい」という意味の言葉です。ですから全くないわけじゃないんです、しかし小さい。でも主は、その小ささを憐れんで下さるのです。「肝心な時に忘れちゃったのか、でも覚えているだろ、そのはずだろ」と。その御声を聞いた時、弟子たちはもう、自分で気付き始めます、「このお方に信頼すれば、そこに平安があるのだから」と。そして、そこから離れてしまって「自分の力で自分を救おうとするのが、ファリサイ派の教え、サドカイ派の教えだった」と…。「そこに注意しなきゃ、自分たち自身が」とも、気付いてゆけたのではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:50| 主日説教要約

2020年07月26日

説教「神に愛され、召されて聖なる者となった一同」

2020年7月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ローマの信徒への手紙1章7節
1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 私は、「あなたは聖なる者となった」と言われたら、「いえ、とんでもありません」と反射的に答えたくなります。「聖となる」、この言葉は「多くの物の中から、特別に取り分ける」という意味です。その意味が6節に見事に言い換えられていて、それが「キリストのものとなる」でした。つまり、「聖なる者となった」というのは、「キリストのものと取り分けられた」ということです。「純粋で汚れ無き人になった」というのではないんです。汚れもあるし濁ってもいる、弱さもある人が、そうであるのに取り分けられて、「キリストの所有となった」ということなんです。キリストが、私をご自分のものとして下さるために、代金を払われたということなんです。そう気付いたら、「こんな私のためにイエス様が支払って下さった代金のことを、私は知っている」と思いました。「ご自分のものとされるために支払われた代価は、イエス様のお命だった、命が代価だった、それをボクは知っている」と。イエス様は、私どもの弱さも過ちも、今なお過ちを犯して自分中心で人を傷つけ、神を信頼しきれないで生きている私どものこと、つまり不良品である私なんだと十分知っていて下さって、それでもなお「あなたが欲しい、自分のものとするよ」と、十字架の上で、命で代価を払って下さったのです。

 「なぜ、こんな私なのに」と戸惑ってしまいます。そんな私どもに今朝聖書は、その訳も告げていました。それが冒頭の「神に愛され」という一言なのです。「神に愛されたからだ」と。神様は私どもに「あなたを愛した。ただその故に、あなたを自分のものとしたい」と願って下さったのです。

 私どもの価値は、ただキリストによって、どんでん返しにされたのです。罪人であるのに、聖なる者とされた。それが、救われたということです。神様は今朝、「それを受け取れ、ただ喜べ、信じれば、それで良いから」と迫っていて下さっているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:24| 主日説教要約

2020年07月20日

説教 「愛の実践の伴う信仰」

2020年7月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙5章2〜6節
5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。


 5章1節の前半は原文のまま直訳すると「自由へと、キリストがわたしたちを自由にしてくださった」となるそうです。何からの自由かと言えば、@律法から;A「神でない神々」(4:8)から;B「日、月、時節、時などの諸霊」(4:9)からの自由です。「どのようにして自由にされたか?」。イエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じる信仰によって、です。「キリストへ信仰だけでは不十分」と説くパウロの敵対者たちに対して一貫して彼は「否」を唱え、キリストへの信仰の完全性を主張し、「しっかりしなさい」(5:2b)とガラテヤ人を励まします。「しっかりする」とはどういうことでしょうか。まず、「信仰のみ」「キリストのみ」の立場を明確にし、惑わされないことです。そうしながら、またその為にとも言えますが、「待ち望む」(5:5)ことです。イザヤ40章31節には「主を待ち望む者は新たなる力を得(る)」と記されています。これは「主に接して、主の近くで、主の近くで、主の前で」と解釈できます。確かに私たちは行為を通して主の働きを行います。しかし、待ち望むことによって魂は安らぎ、この安らぎの中で信仰は養われるのです。主を待ち望むとは、罪を告白する事、主への全き信頼と依存を新たにする事です。その時、生きるための知恵や力が与えられます。同時に、「義とされた者の希望が実現する」(5:5)日、つまり主の再臨の日を想起する時です。この中で「愛の実践が伴う信仰」が養われます。この信仰によって神と結びつく者にとって愛の実践は自然に起きる聖霊の実と言えます。無意識のうちに生み出している実とさえ言えるのです。計画的・組織的に愛の実践を行う事を否定はしません。しかし、一人ひとりから自然に生み出される愛の実践もあり、その実践を起こすのが信仰であり、その信仰を「主を待ち望む」ことで養いたいのです。主との時を大切にする私たちでありたいものです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 08:58| 主日説教要約