2018年11月11日

説教 『やり方をほめた』

2018年11月11日 子どもと一緒の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書16章1〜13節
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


 子どもたちと一緒の礼拝です。ですから大人の皆さん、今朝は心の時計を4〜5歳まで巻き戻して下さいね。
イエス様がたとえ話で、ある男の人の話をしました、「ボクはこうと決めたら、絶対にやり方を変えない、人目も気にしない」という人です。彼は、お金が大好きな男の人でした。そのためには、人から見下されようとも、ひどい男だと怒られようとも、自分のやり方を変えないんです。そういう「一度決めたことを変えない」というやり方、イエス様が褒めて下さったのです。

 私たちは教会で今、「イエス様のことが大好き。神様大好き」と言っているし、お祈りもしますよね。そういう思いが心の中にちゃんとある。でも学校に行ったときにです。そこで友達の目を気にしてしまったり、「イエス様って誰のことだよ、神様って本当にいるの?」とか言われたりしたら、それでも「イエス様のことが大好き」って生きることを、そのやり方を変えないでいられるだろうか。ひょっとしたら、友達になんて思われうるのかが気になって、学校ではイエス様の話を全然しなくなることはないだろうか。それどころか、お昼ご飯の時にお祈りしようかどうか迷い始めて、ついには出来なかったというようなことはないだろうか。つまり、「イエス様が大好き、神様を信じるんだ」というやり方が、教会と学校とで変わってしまっていたりしないだろうか。

 そういう姿は二股生活って言うのです。片足だけが「イエス様が好き」のほうに立っていて、もう片方は「イエス様なんて関係ない」というほうに立っているんです。イエス様は、人目も気にせずにやり方を変えなかった男の話をして、「あなたもどこに行っても、二股ではなくて、やり方を変えない生活をして欲しい。学校でもお家でも『神様が好き』って生きて欲しい」と言われたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:48| 主日説教要約

2018年11月04日

召天者記念礼拝説教 『わたしを信じる者は、死んでも生きる』

2018年11月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書11章17〜27節
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 
 イエス様がマルタと対話を始められた時、マルタはまだユダヤ人の先祖の宗教観の中にいました。それは死んだ後に、「終末の日、人は皆、死んでいる者も復活する、神の裁きを受けるため」ということです。そのマルタにイエス様は、同じ「復活」という言葉を重ねて、対話を始められました、「わたしは復活であり、命である」と。

 主イエスは、「私は死んで終わらない、私は復活する。それは永遠の命につながる復活なのだ」と言われたのです。その「永遠の命」とは、単に不老不死になるというような身体の話ではありません。父なる神に愛された子供として、『あなたが大好きだ』と言っていただく命です。それは御父にとっての御子と同じ命となるということです。そしてイエス様はそこでマルタを見詰めて「その命をあなたにあげる、あなたにもあげたい」と言われたのです。それが25節の「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という約束であったのです。

 死が怖い。そう思えるのは、死が断罪と滅びに結びついているからです。自分だけが知っていて、墓場まで持っていくと思っている過ちがあるかも知れない。でも墓場まで逃れたら、それで終わりというんじゃないんです。そこが終着駅じゃないからです。終わりの日、その償いを求められる。そこに恐れがある。でもその恐れに向けてイエス様が、「大丈夫、私はあなたの罪を引き受けて死んだ。でもそれだけでなく、私はその死さえ打ち破って復活した。さあ、その私にしがみついたらいい、私を信じたら良い」と断言してくださったのです。「恐れるな、あなたは私と同じ復活の命に生きる」と言っていただけるのです。これは、イエス様が、「あなたのことが大好きでずっとずっと一緒に生き続けたいから」と願ってプレゼントして下さった福音なのです、「わたしを信じる者は、(私と一緒に)死んでも生きる」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:06| 主日説教要約

2018年10月28日

説教 『あなたによって祝福に入る』

2018年10月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
創世記12章1〜4節
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。


 アブラムは神様から「あなたが祝福の源になる。地上のすべての人があなたによって祝福に入る」と聞いた時、「自分は相応しくない」と思わなかったのでしょうか。彼はこの後、神様を信じることにも不甲斐ない姿をさらすのにです。

 確かに神様と関わらなくても、人の模範になるような博愛に生きておられる方はたくさんおられます。でもなんです。神を知らないけど立派な博愛の方と、失敗ばかりのアブラムと決定的に違うことがある。それは、アブラムは全てのことを、将来までも一切神様に委ねたということです。その1点なんです。自分の持っている才能とか技術とか経験とかを、自分がコントロールして、ここに用いようとか、この人に役立てようかと考えて動くのは、この世の生き方です。でも神様と出会ったら、全ての配分を決めるのも、行き先を決めるのも、神に譲るということ、神に明け渡すしかありません。そしてそのように、神様に自分の全てを渡してしまった人、それがアブラムであったのです。その神の御手の中でアブラムは自分らしく歩んだのです。それは、失敗することにおいてもです。自分らしく歩いて、だから自分の弱さも出て失敗してしまう。でも、それらも全て神様に委ねて歩いたのです。失敗のどん底で、彼は神様に顔を上げ続けたのです。

 そして神様は、そうやって神に委ねるしかない者に、「そういう君によって、すべての隣人は祝福に入れられるのだよ」と、ご自分の祝福を届けさせることを託されたのです。罪人丸出しのあなたなのに、そのあなたと神様が一緒に歩んで下さるゆえに、行く先が満されていく。そんなあなたの信仰生活を隣人が見たらです。そこでのみ隣人に伝わることがある、「神は生きておられる、罪人と共にいて下さる」ということです。そこで隣人にも神の祝福が届くのです。隣人にも、神を生きたお方として見上げることが始まるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:02| 主日説教要約

2018年10月21日

説教 『パウロの労苦と苦闘の目的』

2018年10月21日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙2章1〜5節
わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。

  コロサイ教会の信徒たちが「キリストに結ばれて完全な者となる」(1章28節)、また「キリストを悟る」(2章1節)ために労苦し闘っているとパウロは言います。この目的を妨げる者(物)を放置することは彼にはできませんでした。割礼、食べ物飲み物、天使礼拝に「だまされないよう」(2章8節)と戒めていますが、現代に生きる私たちにとって、これらはメディアを通して流れている情報などに隠されているかもしれません。今も昔も、問題の根源は罪にあります。神から離れたことによってもたらされた神に対する不敬、人との対立、自己の中の矛盾。そこから生まれる諸悪。この罪を解決するのに神が用いた方法が御子イエスを世に遣わし、罪を贖うことでした。異端はそれを否定します。しかし、救いの道(方法)は、御子イエス・キリストしかないのです。人は例外なく幸せな人生、充実した生を求めます。それを地位や金銭や宗教に求めます。しかし、見出すことができるのはキリストの内において、だけなのです。「知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れて」(3節)いるのです。「キリストにおいて豊かな生が見出せる」(10節)のです。だから、「キリストに結ばれて歩み」(6節)たいのです。そのために、より深く祈り、より真摯に礼拝に臨み、より忠実に主に従いたいのです。祈りは神への祈願から神との対話へ、礼拝は義務から喜びへ、服従は強制から自発へ変わっていくことでしょう。それを助けるために、「愛によって結び合わされ」(2節)とあるように信徒の交わりも必要となってきます。なぜなら信仰の成長は交わりの中で育まれるからです。「我々はイエスを見くびるから姑息である。…イエスのごとき主を奉じ、これに身を托して、意気常に揚がらず喪家の狗然たるは理において有るまじき事と言わねばならぬ」(植村正久)。「すべての支配や権威の頭」であるキリストを更に求めましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:19| 主日説教要約

2018年10月14日

説教 『一緒に抜かないように』

2018年10月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章24〜30、36〜43節
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 この世界が「畑」で、その畑に御子イエス様が「種」を蒔かれます。私どもはその「良い種」です。イエス様にそう言っていただいた通りに、私どもはこの世界を生きるようにと期待されているんです。しかしその世界に「毒麦」つまり「つまずきとなるもの、不法を行う者がやって来る」とイエス様はおっしゃいました。私たちが良い実を実らせようとしても、それを挫かせ滅ぼそうとする悪の力があるということです。

 私が最初このたとえ話で戸惑ったのは、たとえ話の主人が「毒麦を抜くのを止めなさい」と言われたことです。悪なのですから、早速抜いてしまうべきなのではないですか。それなのに、なのです。

 主はご自分に従って来ている群衆を見詰めながら、このたとえ話をなさいました。それは、彼らは元々良い麦だけれど、でも毒麦に取り囲まれたら途端に、弱ってゆく麦そのものだと知っておられるということです。つまり、「あなたがたは自分のことを強い根を持った良い麦だと思っているだろう。確かに良い種から芽を出した、天の父から見たら愛らしい芽だ。でも私はお前たちを知っている。この先お前たちは、お前を取り囲み絡め取り、巻き付いて来る悪によって、次第に弱って行くことになる」と。

 そのイエス様がおっしゃったのです「毒麦を抜こうとしたら、私の大切な良い麦まで抜かれてしまう。もうすっかり絡まれているから、枯れて力もなくなっているから、だからちょっとでも触ったら信仰が終わってしまいかねない、だから今は触れるな。毒麦は後回しで良いから」と。それは、「萎れて枯れたようになっている1本さえも、私には大事だから。私には、貴い1人なのだから」ということであったのだと思います。あなたは、主イエスがご覧になったら、萎れても枯れても、愛おしい御自分の良い麦なのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:00| 主日説教要約

2018年10月07日

説教 『主から推薦される人こそ適格者』

2018年10月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 10章12〜18節
わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 パウロは、あなたを認めるのは気分屋の人間じゃなくて、主ご自身だと言います、18節「主から推薦される人こそ、適格者として(認められた者として)受け入れられるのです」と。確かに、私どもを認めて下さる方はおられます。でも私どもは、「主から推薦状をいただくのに相応しい者か」と問われたら、返答に口籠ってしまいませんか。

 主イエスが、私の推薦状を書いたらどういうことになるのかはすぐに想像がつきます。自分勝手に生きていた青年時代。洗礼を受けたのに、自分が神になって生きていたから、自分中心で平気で過ごしていた。その日々を神様は知っておられて、唾棄してしまいたい罪人が私なんです。だから「主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられる」と聞いても、自分はここにはいないなと気付いて…。でも、それでも、この御言葉に心惹かれるから、ここから離れられず、ずっと黙想を続け、ハッとしたのです。

 「主から推薦される人」とある「推薦」という言葉は、「一緒に立つ、傍に立つ」という意味を持つ言葉です。イエス様が傍に立って下さる私どもは、一体何者であるのか、それは「罪人」です。十字架の上でイエス様は、「自分の命を身代わりに捨てるほどに、大切にしたい人は、あなただよ。あなたこそが私の推薦したい人だから」と。そうやって主は、罪人を推薦して下さったのです。主は十字架の上で、私どもと一緒に立って、そうやって罪人を、ご自分の推薦する人と宣言して下さったのです。主の推薦状は、血で真っ赤に染まっていました。命がけの推薦状なのです。

 私どもには、心に刻みたいことがあります。たとえ人からの誉れがなくても、さらに自分でも自分を褒めようもないと落ち込んでも、私を推薦して下さるお方がおられるということをです。そのお方はイエス様、私どもの救い主なのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:48| 主日説教要約