2020年03月30日

説教 『まことの神殿』

2020年3月29日の礼拝
相模原教会協力牧師 秋葉恭子
ヨハネによる福音書2章13〜22節
2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 過越しの祭りのときに、神殿の境内で繰り広げられていた喧騒は、まさに昔も現代も変わらぬこの世の状況です。支配階級から庶民まで、真実に神様をあがめ、自分の罪を悔い改めて神様の赦しを心から願い祈る姿はほとんど見られません。それは2000年前のユダヤ教や、ユダヤ人だけの問題ではありません。そこで問われているのは、わたしたち自身の罪だということです。人間の根源的な罪だということです。イエスさまの鞭は、わたしたちが暮らすこの世に向けて振り下ろされている、父なる神様のただならぬ怒りの象徴だということです。

 鞭をふるい、両替人の金をまき散らし、台を倒され、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と叫ぶイエスさまを目の当たりにして弟子たちが思い出した御言葉として、詩編の69篇10節「あなたの家を思う熱意が熱意がわたしを食い尽くす」が引用されています。神を信じる信仰のゆえに、迫害を受けて苦しむ信仰者の苦悩を歌った歌です。この信仰ゆえに苦しむ義なるお方というのは、主イエス・キリストご自身にほかならない、ということを指し示しています。完璧に義なるお方、神様の御前に立つことができる義しい者が理由のない迫害に苦しまなければ、罪に染まった人間が贖われることはなく、その者が蘇らなければ救いは完成しないということが語りかけられています。

 イエスさまが三日で建て直してみせるとおっしゃった神殿は、御自身の体のことでした。神様の独り子であられる御自身がすべての人のための一回限りの犠牲のささげものとして十字架にかかり、人々の罪を贖うこと。ヨミにまでくだり、復活して、天に昇り、全能の父なる神の右に座して永遠の命が約束されること。そのことを心で信じて、口で告白して洗礼を受けた者たちに、助け主として聖霊を送ること。そのように主イエス・キリストを真の救い主と信じる聖徒の交わりが、まことの神殿、教会となるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:20| 主日説教要約

2020年03月22日

説教 「主よ、ごもっともです。しかし」

2020年3月3月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章21〜28節
15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 私どもは、どんなに祈っても、神様が聞いて下さっているのか分からないということを経験しませんか。ここに書き留められている出来事も、この女がイエス様に、御百度を踏むように願い続けたから幸いを得たというような事ではないのです。イエス様が、ユダヤ人と異邦人との間に引かれた境界線は、厳然として残っているのです。そして女に向かって、「私には、分かろうともしないユダヤの民がいる。それでも、そっちが先なんだ。お前は、受け取る資格も無いんだよ。それは分かっているだろ」と言われたのです。

 その言葉を女が聞いた時に、であったのです。彼女は「なんて冷たい方」、とは言わなかったのです。まるで「真にそうだった」と気付い直したように、主イエスの言葉に応答したのです、「主よ、ごもっともです」と。「主よ、私は、あなたが引かれた境界線の外にいる者。そんな私が今更、苦しみがあるから、憐れんで欲しいと今更すり寄るなんて。そうです。私は、あなたに相応しくない罪人でした」という、懺悔でもあった。今までは、願い倒そうと、熱心さに燃えていたでしょう。でも彼女は、自分自身を真実に悟って、その場にうずくまったのです。そしてです、主イエスもであります、この女の「ごもっともです」という一言を聞かれた時にでした。驚くべきことに、御子なる神が、異邦人のとの間にあった境界線を、踏み越えられたのです。恵みを渡さないと引かれた一線を、主イエスの方から乗り越えられたのです。

 私どもは本当は、神の恵みの境界線の外に立たされていた者たちです。でもそれを悔いて「主よ、ごもっともです」と言えたなら、イエス様はその私どもに告げて下さるのです、「私があなたの側に、境界線を踏み越えて入った。あなたの側に立つため。あなたの身代わりなるため、それが十字架という場所だよ。そこで、私があなたの身代わりに命を捨てる。もう、神の恵みは、あなたに届くから」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:16| 主日説教要約

2020年03月08日

説教 「主よ思い起こしてください」

2020年3月8日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編25編6〜11節
25:6 主よ思い起こしてください
   あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず
   慈しみ深く、御恵みのために
   主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし
   罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き
   主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって
   主の道はすべて、慈しみとまこと。
25:11 主よ、あなたの御名のために
   罪深いわたしをお赦しください。


 この詩人は、まず神様に、「主よ思い起こしてください。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを」と言います。神様は必ず自分を慈しんでくださるはずだと、信頼し切っているんです。そういう近い関係に生きていたのです。でも驚いたのは、そう言い切れた言葉に、彼がすぐに続けて言った言葉を見た時にでありました。「わたしの若いときの罪と背きは、思い起こさないで」と。つまり彼には、神様に対して申し開きの出来ないようなことをしてしまったという記憶があるのです。それも、まだ償いが終わっていないという後ろめたさがあるんです。償いの重さ厳しさを知っている詩人だから、「忘れて欲しい」と言いたいのは分かります。でも、私がこの詩を不思議だと思ったのは、彼が神様に「あなたの慈しみを思い起こして。与えて」と言った、その口で、「私の悪いところは忘れてね」と言っていることなんです。なんだか、調子良すぎはしませんか。

 それでも詩人は、その2つを同時に言います。そのことを思い巡らしていて、ふと私は「ここにあるのは、神の慈しみと、人の罪とが、入り混ぜられて、一つに溶け合おうとしていることだ」と気付いて、ハッとしたのです。「ここに、神の恵みと、神の赦しが、一つに重ねられている」と思えたからです。そして「この詩人はまだ見ることは出来なかったけれど、彼が思い描いた、神の慈しみと、人の罪が重なるということが出来事化した、その場所を私は知っていた」と気付いたからです。それが、イエス様が架けられた十字架の上ではなかったのですか。十字架の上で、神の御子が死なれる。そこでイエス様の弟子たちは「神の慈しみと、人の罪とが重なり合い、混ざり合い、一つに溶け合っている」ということを目撃したのです。そしてキリスト者の私どもも、信仰によってその出来事を目撃するのです。「最も輝く神の慈しみは、私の十字架に届けられた」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:57| 主日説教要約

2020年03月01日

受難節第1主日説教 『神の子なら』

2020年3月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書4章1〜13節
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』
4:11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 「神の子なら…何でも出来るでしょ」と悪魔はイエス様に言います。その遣り取りを見ながら、「それらは、私が神様に期待することそのものだ」と思ったのです。期待と求めが一番先に立って、独り歩きし始めてしまう。その結果イエス様を、自分が思い描く期待の中に引きずり込んでしまうんです。その問いに主がなさった応答は、どれもがもっともな応答ではありました。でも、「神の子なら、苦しみから助けて下さるはずでしょ」と願った人にとっては、イエス様から「私は、そんなことはしない」と言われた事になります。

 イエス様が十字架に掛けられる日も、同じことが起こります。群衆が言う、「神の子なら…十字架から降りて来い」と。それなのにイエス様は、罪人の頭領であるかのように十字架刑を受けられたんです。何故! なぜイエス様は、ユダヤの民を解放せずに、弱い者のように死んでゆかれたのですか。その唯一の理由が、人間が考え出した期待に添うような神ではなく、それを拒否して、父なる神の御心を歩まれたからです。あなたを、罪と過ちの重荷から救い出したい、それが御父の思い。その思いに、従われたからです。それはイエス様が、本当に神の子だったからではないですか。

 イエス様は、私どもの、自前で作り出した期待が詰まった求めを聞いて、答えられるのです、「あなたの辛さも全部知っているよ」と。でもそこからなお続けて「あなたのために私がしてあげられる最も良いことは、奇跡を起こすことじゃない。あなたの求めをそのまま叶えることじゃない。あなたにとって最も良いことをしてあげる。御父と和解させてあげる。神から、愛される子とされるようにしてあげる。そのために、私があなたの罪を背負って死ぬ」と。そして「それは神の子だけが出来ること。正に、私は、神の子であるだから」と。

 その十字架の下で、私どもは自分の期待する解決の仕方を手放して、「神の子、主よ、あなたの御心のままに。私はお委ねします」と歩み出させていただけるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:39| 主日説教要約

2020年02月23日

説教 『主の声に聞き従え』

2020年2月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編95編1〜11節
95:1 主に向かって喜び歌おう。
   救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ
   楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神
   すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり
   山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。
   陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方
   主の御前にひざまずこう。
   共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
   主に養われる群れ、御手の内にある羊。
   今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように
   心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。
   わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい
   心の迷う民と呼んだ。
   彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り
   彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 「主の声に聞き従え」と告げられます。それは、主を熱く賛美していた人々に対してです。つまり彼らは、神を信頼することにおいて熱しやすく、冷めやすい人々だったからです。御業を経験したのに、すぐに忘れて頑なになり、不平の虜になったのです。ふと「それは私だ」と思いました。そんな、背くばかりの私が、なお神の恵みの中に留めていただけるなんて図々しい話が在り得るのでしょうか。もう自分の力ではどうしようもないんです。

 そう説教準備の中で気付かされた、そこで、でした。そんな私であるということを、私自身よりも知っていて下さる方がおられたと気付いたのです。それも、一瞬たりとも躊躇なさらないで、私のためにご自分の命を十字架に架けて、私を罪の道から取り戻してくださった方がおられた。それが御子なる神であられたのではないですか。私どもが少しは義しい者になれたら、神様はその義しい姿に関わって下さると言うんじゃないんです。その逆で、神の言葉を少しも本気で聞いていない、だから自分が神になる生き方でしか歩んでいない私どもに、神様は関わって下さるのです。それは神お一人がとんでもなく忍耐されたということ。それが、私どもを救う十字架の出来事だったのではないですか。

 私どもは、「ちっとも聞き従えない私です」と、その自分を抱えて、イエス様が血潮を流された十字架を見上げる時にだけ、そこから聞こえて来る御声がある。それは「お前のことはよく分かっている。罪人よ、しかし悟れ。あなたは赦された。私の血潮によって、あなたは赦された」と。そして聞くのです、この詩編の歌い人は知らなかったことを、「赦された者として、もう一度私の声に聞いて従う道を歩み出せ。今度こそ頑なになるなよ。心を迷わせないだろ、必ず最善をしていただけると信頼して生きられるだろ」と。良い知らせじゃないですか、これが、福音なんです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:45| 主日説教要約

2020年02月16日

説教 『キリストが形づくられるまで』

2020年2月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙4章8〜20節
4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。
4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。
4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。
4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。
4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。
4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。
4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 ガラテヤ人たちは、神の恵みにより「神の子」「神によって立てられた相続人」とされ、「世を支配する諸霊」による奴隷状態からも解放されました。しかし、彼らは逆戻りし、神によって授かった恵みある立場を放棄しかねない状態に陥っていました。「あきれ果て」(3章1節)たパウロは怒りと共に戒めてきましたが、ここでは彼の言葉は、もはや嘆願とも懇願とも捉えることができます。19節では遂に、この箇所でしか用いられていない「わたしの子供たち」と呼び、惑わす者たちから彼らを守ろうとするのです。惑わす者たちの熱心は、彼らの魂の救いのためでなく、私利私欲、野心野望のためでした。彼らが逆戻りせず、真理を見極めることができるようになるためには、「キリストが(彼らの)内に形づくられ」(4章19節)なければなりませんでした。「キリストと結ばれ、完全にキリストのものになる」あるいは「キリストの鋳型にはめられる」「キリストが刻印される」必要があったのです。そのために、パウロはもう一度産みの苦しみを味わっても構わないと言っているのです(4章19節)。それが神の心、聖霊の心です。パウロの中には一足先にその心が刻印されていたのです。彼の熱心は、彼の内にあった神(聖霊)の熱心だったのです。内におられる御霊が彼と共に「うめき」(ロマ8章26節)ながら、彼を執り成しつつ、彼と共に働いておられたのです。「罪人の頭」(Tテモテ1章15節)を自覚し、その罪が赦され、神の子・神の相続人とされ、御霊を賜るという恵みに浴した自分自身を思う時、その恵みから離れ、逆戻りするガラテヤ人を正さずにはおられなかったのです。私たちの周りには逆戻りさせる誘惑が溢れています。それらの誘惑を見極め、陥らないようになるにはキリストが内に形づくられなければならないのです。パウロが「語調を変えて話した」(4章20節)かったのは、このことだったのではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:00| 主日説教要約