2019年03月24日

説教 『新しいものと古いものを』

2019年3月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章51〜52節
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」


 イエス様は、「あなたという倉の中から、新しいものと古いものを取り出して生きよ」と言われます。この「古いもの」とは律法に生きることですし、「新しいもの」とはキリストに結ばれて福音に生きることでしょう。でもここで主は「新しいものか、古いものかを取り出す」とは言われないで、「新しいものと、古いものを取り出す」と言われたのです。両方一緒じゃないといけないということです。

 旧約の創世記には、人が神様に「特別に愛するあなた」として造られたことが記されています。それなのに人間は、「神無しで生きられる。あなた無しでやりたいんです。私が、私の神となる」と神様の御思いを裏切ったのです。その後の歴史の途中で、なお神様は人に寄り添おうとして「立ち帰れ。こう生きよ」と示す律法を下さったのに、その一つも守れない。そんな人間は、掟である律法に照らされたら、当然、有罪判決しかなくて…。それなのにです、真の親である天の父の御心は、「罪人よ、しかしなお、あなたを愛している」という御心を貫いて下さって、人の罪を、独り子イエスに代わって償わせたのではないですか。人は律法によっては確かに、誰も逃れようもなく有罪となります。でも、最終的に「有罪」をひっくり返してまでも、神ご自身による最高裁判決が宣言されたのです。私どもは赦されたのです。

 旧約と新約の両方が無かったら、人間がどんなに罪深いものなのか、しかしそんな者なのに天の父の「にもかかわらず」という御心が貫かれたことが分からなくなる。古いものと新しいもの、律法と十字架を通してこそ、私どもはハッキリと悟らされる、「私どもの罪深さを打ち砕いて、神の愛が勝った」ということがです。
そこに喜びが生まれたら、それを大事な隣人にも伝えたいではないですか。届けるためには、ただ「新しいものと古いものを」語れば良い。それがキリスト者なのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:57| 主日説教要約

2019年03月18日

説教 『恵みが共にあるように』

2019年3月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙4章18節
わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。


 本書簡の最後においてもパウロは祈りの要請をしています。自身の使命であり、生きる目的・意味である宣教の業が前進するようにとの祈りです。この祈りはパウロに留まらず、すべてのキリスト者の祈りです。特にこの箇所では、キリストの証人としての個人のあり方をパウロは示しています。@「時をよく用い」(5節)は機会を生かし、その為に良い準備をすること。A「賢くふるまう」(5節)の「賢く」は「知恵によって」とも訳され、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言9章10節)とありますが、神を敬い・愛し・従うところから知恵は生まれます。ヨブ記42章では、人間的知恵の否定において初めて神の知恵に至ると教えられ、コリントの第一書簡では知恵はキリスト自身とパウロは語っています。「賢くふるまう」とはキリストとの交わりに留まりながら判断し、選択し、生活することが宣教の働きに繋がるということなのです。B「快い言葉」とは「恵みある言葉」であり、イエスの十字架と復活を通して表された神の愛、そして聖霊による力という意味です。福音そのものである十字架と復活を語る。更に言葉だけでなく、現実の生活において裏付けられた経験を語るのです。「塩で味付けられた」とは経験から生まれた言葉であり、現実味の響きがある言葉なのです。C「一人一人に」(6節)とは、一人を大切にするということです。大使徒パウロによる大掛かりな働きも「一人」から始まりました。最後の18節では、再び祈りの要請をし、苦難を覚悟するよう勧めます。「恵み」で始まった本書簡は「恵み」によって閉じられます。イエスの十字架と復活によって示された神の愛と聖霊の力、その力によって行われる神の業。そして、キリスト・イエスご自身が共にあるようにと祈るしかない。神の恵みがなければ、働くことはおろか、生きることすらできない私たちです。神の恵みが今日も今週も共にあるように。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:20| 主日説教要約

2019年03月10日

説教 『そそのかし』

2019年3月10日の受難節第1主日礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
創世記3章1〜7節
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 エバは禁断の実を見て、「触れるだけで死ぬなんて聞いたことない。神様は私を不自由にする」と思ったに違いないんです。その心を見抜いた誘惑者が、エバの背中をポンと押した、4節「決して死ぬことはない」と。そしてついに牙をむいたのです5節、「それを食べると、神のようになる」と。ここを文語訳聖書は、強烈な訳をしていました「汝ら神の如くなる」。これが誘惑の本体なんです。それを聞いたエバが、6節「その木はいかにもおいしそうで、…賢くなるように唆していた。女は実を取って食べた」のです。この「唆した」という言葉は「好ましい、欲しい」という意味があります。つまりエバにとって「好ましかった」のです。エバが「欲しがった」のです。つまり神様との約束を捨てさせたのは、彼女の決断だった。その結果エバは、「神が守る」という完全な安心の生活の外に、立たされてしまったのです。

 「自業自得」って言葉がありますよね。もしもこの世界がそうであるなら、失敗したら終わりだという世界になってしまうのではないですか。フッと気付いたことがありました。そもそも神様は、男と女を創造された時、「極めて良かった」と言われたのです。だからこそ、です。その関係を破って離れてしまうエバとアダムを、神様はどんなに悲しく思われたことかと思えてなりません。その神様だからです。神様は2人を諦め切れずに、なお過ちの子たちを愛し続けられるのです。そして、人との関係を回復することを、現実のこととするために決断をされたのです。「神を捨てた償いを徹底的にさせる」と。しかしそれには驚くべき計画が伴っていたのです。それは「しかしそれは、神である我が独り子に担わせる。十字架刑によって御子イエスが死ぬのだ」と。十字架へと向き変わるなら、そこで「自分の罪の深さ」と「神の愛の深さ」が交わっているのが見える。そこで「自分の言葉を神とせず、主の言葉に生きよう」と歩み始められるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:32| 主日説教要約

2019年03月03日

説教 『キリストの真実にかけて』

2019年3月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 11章7〜15節
それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。


 パウロが、洗礼を受けたのに偽使徒となってしまうのは、どこに一線があるのかを告げます。それが10節「わたしの内にあるキリストの真実にかけて」ということでした。この箇所をカルヴァンは、「キリストの真実が私の内にある、だから」と訳したのです。

 この「キリストの真実」とは何か、それは、キリストが神様の御心を、私どもの歴史の中で出来事として現わして下さったことです。「人間って誰もが神様を裏切る者で、罪人であるのに。それでも御父なる神はどうしようもない人間を愛して下さる。それを、ご自分の御子キリストを十字架にかけた出来事によって、露に示された」ということです。「御父なる神は、あなたを赦して下さる神だよ」と。十字架に掛けられた御子を見上げたら、私に示された真理、神様の真の御心が分かる。それがキリストが示してくださった真実なのです。「キリストの真実」とは、「キリストによって啓示された真実」と言える。神様がどんなにあなたを愛していて下さるのかが、キリストによって露にされたのです。

 それは、神の言葉である聖書の御言葉によっても、私どもに出来事化します。御言葉は、生ける神そのものだからです。御言葉を聞くところに、そこにだけ、キリストは私どもにも、真実を示してくださるのです。「神が私を今も愛してくださっている」、その真実をです。「神様は私と今、一緒に居られる、本当に一緒にいて下さる」と悟らせて下さるのです。そのキリストの言葉は、真実そのものです。それを、「本当に神が今、私を呼んで下さっている」と受け取るなら、そこで既にキリストが届けて下さった真実に生きることが、始まっているのです。そこを踏み出せば、自分が想像できる程度の未来をはるかに越えて、神が出来事化して下さる人生の中を歩むことが出来る。「キリストの真実が私の内にある、だから」と生きることが出来るのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:43| 主日説教要約

2019年02月24日

説教『この方の豊かさの中から』

2019年2月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書1章15〜17節
「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。


 「この方の(イエス様)満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」16節。この「恵み」って何だと思われますか?直訳は「恵みの/代わりに/恵みを/受けた」です。つまり恵みは、古いものから新しいものに一新されたということです。律法を厳守した人がご褒美のように与えられる恵みが、古い恵みです。でも誰もが、神様が「こう生きよ」と言われているのに、「はいはい」と生返事で、自分の都合に合わせて御言葉を削ったり、変えたりして、やりたい放題で生きて来た。そんな人間を、神様が怒られないはずがないではないですか。それは私どもにぶつけられねばならないはずだった。それなのに神様は、事もあろうか、ご自分の御子に全部ぶつけられたのですよね。その怒りの激しさゆえに、御子イエス様は、神の怒りに打たれて死なねばならなかったのです。それが十字架の出来事だったのではないですか。そしてそこで人は、初めて、自力ではどうやっても手にできなかった、救いの恵み受け取ったのです。
 そこから、そこからだけ、あらゆる恵みも流れ込みます。神様からの恵みを受け取ることを阻む壁が、もう取り払われたからです。十字架の恵みを信じたら、誰でも、イエス様からの具体的な恵みの受取人ともされるのです。
 誰の人生にも長い日々の中には苦しみがあり、悩みだっていっぱいある。病がある。「どうして私が、私だけが」と思う理不尽なこともあるでしょう。さらに繰り返してしまう自分の罪がある。そういう人々に、今朝御言葉は告げるのです「あなたは呻くだろう、それは分かる。しかしあなたよ、辛いという言葉が、キリスト者の最後の言葉ではない。あなたも主イエスの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたから。あなたは、新しい恵みの受取人なのだよ。だからあなたの最後の言葉は、『苦しみはある、しかし私は、新しい恵みの中にいる』と言って良いのだ」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:48| 主日説教要約

2019年02月18日

説教 『天におられる主人』

2019年2月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙4章1〜6節
主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

 本書簡を通じてパウロは「すべて」「どんなこと」を頻繁に用いています。また、キリストが主人であるという表現も頻出します。後半のこの部分では、夫・妻・子・奴隷・主人に対する勧めがなされていますが、要はすべての人の主人はキリストであると宣言しているのです。これを忘れると、例外なく自分自身が主人になってしまいます。謙遜を身に着けることは何と難しいことか…。傲慢になる人間の傾向―性―をパウロはよく知っていました。彼にこの傾向を思いとどまらせたのは「罪人の頭」(Tテモテ1:16)という自己認識でした。神の恵みにより、イエスを通して赦された経験がないと決して言えない言葉です。そして、その告白を真実に保つには継続的で現在進行的な祈りが不可欠なのです。それ故に、パウロは「祈りなさい」(4:2)と勧めています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(3:10)には、祈りの生活の確立が必要なのです。祈りの生活の3つの要素は、@聖書を読む;A個人の祈り;B執り成しの祈りです。御言葉と共に居る時、私たちは立つべき確かな根拠と、なすべき歩みへのはっきりした方向づけが与えられます。祈る時、罪から守られ、霊的に成長し、労働のための誠実さと力が与えられます。そして、執り成しは務めであり、執り成す時間こそが、新しい喜びの源泉なのです。パウロは「祈ってください」(4:3)とも求めています。自分を下に据えていると言えます。祈り、祈られる関係に上下関係はありません。そして、共通の祈りの課題は福音宣教です。御言葉のために門が開かれるように祈るのです。この時、開かれたのはパウロの解放という門ではなく、幽閉の中で福音を記すという門でした。人の思いと神の思いは違うのです。あくまでも神こそが主人なのです。すべての者の主人である神にひたすら仕えましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:57| 主日説教要約