2018年09月23日

説教 『再び罪に心を留めない』

2018年9月23日の霊は
相模原教会牧師 辻川篤
エレミヤ書31章27〜34節
見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。その日には、人々はもはや言わない。
「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 バビロン捕囚の人々に、エレミヤを通して神様は「わたしは彼らを建て、また植えよう」と回復を語られます。さらに、34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を溜めることはない」とさえ言われたのです。そこに私はエーっと思ってしまいました。神様は「これまでの罪を赦そう」と言われているのではなくて、「これから先あなたの悪を赦したり罪を心に留めたり、そういうことはしなくても良くなるね」と言っておられるです。変ですよね。こののち人々は、本当に罪を犯すことはなくなったのですか?いいえ違います。

 全知全能の神が、この先の人間の姿を見通せなかったとでもいうのでしょうか。そんなはずはありません。34節の元々の言葉は、「悪を赦し」と「罪に心を留めない」という言葉は、単に未来のことを表す使われ方ではなくて、決意の意味も含むということです。ここを旧約学者の関根正雄は、次のように訳していました「本当に、わたしは彼らの罪を赦し、その咎をもはや思い出すことは、ない」と。私ども人間が、将来に罪を犯すことをしなくなるから、だから神様も罪を心に留めることが無くなるね、と言うんじゃないんです。たとえこの先に人が罪と過ちを重ねても、この決意は神が成就されるために、神が苦労して下さるということなのです。

 神様のこの言葉が実るのは、神ご自身の御子・イエス様によってでありました。主イエスが、全ての罪を背負って下さったから、もう償いのほうが先に終わらされたのです。私どもが罪を犯さなくなったからじゃない、私どもが自分の償いが出来たからじゃない。ただ神の側からの救いの御業のゆえに、今はもう天の御父の目から見たら、「再び罪に心を留めることはない」ということが、あなたに実現しているのです。だからその神の御心に、本気で心を添わせて生き始めるべきではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:09| 主日説教要約

2018年09月09日

説教 『秘密を悟る』

2018年9月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章10〜17節
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、
 決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


 イエス様が話しておられたアラム言葉で「たとえ話」とは「覆って分からなくする話」です。そこで弟子たちが不思議に思ったのは、話を聞こうと折角集まった群衆に、なぜ分からないような謎の話で話したのかということです。そう戸惑っていたら、他の箇所でもイエス様が「広めるな」と戒められていた場面があるではないですか。でも人々はイエス様の戒めなど聞きやしないで、「この方こそ奇跡の人だ」と触れ回ったのです。そのニュースを聞いて、ある者は自分に奇跡が欲しくって集まって来る。ある者はローマ解放の革命家が現れたと大騒ぎ。でもどれもこれも、自分たちの願望をイエスならやってくれると集まった人たちなのです。そこに至って、とうとう、たとえを用いて話をされることが始まったのです。

 なぜ直接語らず、また沈黙もされないのか? ふと1つ言えることがあるかもと思ったのです。それは、自分勝手にしか聞けない人々を前にして、イエス様の御心には、怒りが生まれたのではなかったということです。怒りは決別を生むけれど、主は違ったからです。「あなたの為に話したのに、あなたの為にして上げたのに、どうして何も分かろうとしてくれないんだ」と、悲しまれたのではないですか。その悲しみを抱えて、なお何とかしてあげたくて人々の元を去れられない。誤解されないように謎に包んで話すからと、そうやってやっぱり熱心に話し続けられたのです。それは「いつかあなたも天の国の秘密を受け取れる日が来る、だから今は包みに覆って渡しておく、それでも良いから受け取ってくれ」と、なお未来に期待して下さったということです。

 私はなかなか実りをつけない悪い木だけれど、イエス様は手を加え続けて下さる農夫なのです。主の方が私どもを信じて、悪い木に掛かりっきりになって下さるのです。そういう涙の農夫なのです。そうやって「天の国の秘密を、あなたも悟るように」とたくさんたとえ話を語って下さったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:40| 主日説教要約

2018年09月03日

説教 『弱々しい人』

2018年9月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 10章7〜11節
あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10:10 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。


 外見で人を評価する傾向があったギリシャ人にとって、パウロの風貌はマイナス評価しかなかったでしょう。加えて、すぐに興奮するパウロの話は支離滅裂にしか聞こえず、人々から「内面においても軽蔑に値する」と言われたのです。パウロは人が憧れるものを、外面においても内面においても何一つ持っていない人でしかなかったのです。

 でもそれを、他人から言われてしまったら、全否定されたようで、いたたまれなくなるのではありませんか。しかし彼はそこで凹んでしまったのでもなく、またいつものように興奮して大反論を繰り広げたのでもなかったのです。驚くことに彼は、「まさにその通りだ、それが私だ」と言ったのです。

 そこで私は本当に驚いてしまいました。そしてそこでようやく、ハッと気づかされたことがあったのです。人々から何の評価もされず、軽蔑され、見下され、侮辱された「弱々しい人」の姿は、十字架に掛けられたイエス様の御姿そのものであったのではないかと。

 パウロは、「私の輝きを見よ」とは言わない。「私の弱々しさを見てくれ」と言うのです。「この無一物である姿を、誇るところなんて何もない姿を見てくれ」と。それが「私はキリストそっくりだろ、キリストのものだから」と告げる意味なのです。ギリシャ人が求める雄弁さなんて、もうどうでも良い。ただ愚直に、神様が自分にして下さった恵みを、十字架を証言し出したのです。律法学者のように上手に教えようとしたんじゃない、格好悪くていい、弱々しくていい。いやむしろキリストのように弱々しくなれたら、人間が求める優越さに立つ者でないことが露になれるから、それで良い、それが良いと生きたのです。その彼が、父なる神に用いられて生きられたら、それが嬉しかったのだと思えてなりません。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:46| 主日説教要約

2018年08月27日

説教 『御子イエス・キリスト』

2018年8月26日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙1章9〜23節
こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。


  小アジア(現トルコ)の一都市コロサイの教会に宛てたパウロによる手紙です。この教会は、彼の同労者エパフラスによって牧されておりました。手紙の冒頭でパウロが信徒たちの信仰と愛における交わりに感謝の気持ちを表しているように、教会は健全な成長を遂げていたようです。しかし、異端思想が侵入しているとの報告を耳にし、福音の正しい理解に立った信仰生活と教会形成を進めるようパウロは励まします。

 この異端を特定するのは困難ですが、天使礼拝・律法主義・神秘主義など様々な要素が入り交じっていることから推し量ると、「イエスのみ」による救いは不十分であり、プラスアルファが必要であると説いていたようです。そこで、パウロは13〜20節の間で12回も「御子」という言葉を繰り返し用いながら、イエスがいかなるお方かを説明し、救いは「イエスのみ」によることを確認します。御子は「神の姿」、神と共に創造された方、すべてを支える方、教会の頭、和解する方、すべてにおいて第一の方と説くことにより、「イエスのみ」の信仰に立つよう勧めます。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節a)がこの手紙のテーマです。

 かつて奴隷貿易に関わり、後に牧師となったジョン・ニュートンは彼が作詞した讃美歌(How sweet the name of Jesus Christ sounds)の一節をJesusはいかなる方であるかのみで綴っています。「イエス、私の羊飼い、兄弟、友、私の預言者、祭司、そして王。私の主、私の命、私の道、私の存在理由。私の捧げる賛美をお受け下さい」。「イエスのみ」で十分ではないでしょうか。いえ、イエスの他に救いはないのです。この方のみに賛美を捧げ、忠誠を誓い、御心のままに福音を伝え、福音に生きる者として頂きましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:21| 主日説教要約

2018年08月19日

説教 『打ち砕かれた心を包むために』

2018年8月19日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書61章1〜3節
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。

 捕囚からエルサレムに帰還して来たのに、瓦礫の山となった都を見た人々の希望は、粉々に砕けたのです。そういう人々に向かってイザヤが、神様から「告げ知らせよ」と遣わされて、語り始めたのです。それは、1節「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には開放を告知させるために」でありました。

 それはまるで大きな風呂敷で、心の破片を優しく全部、拾い上げて包むようにです。それも、砕けてしまったあなたの心の良い所だけを拾うんじゃない。「憤りも、憎しみも、嫉妬や妬みも、そういう欠片を全部まとめて包み込む。罪を犯した心の部分を、それもあなたの欠片だから」と告げられたのです。それが、具体的に告げられてゆくのが、「灰に代えて、冠をかぶらせ(悔いて悲しむ心に、喜びの王冠を被せてあげるということ)」であり。「嘆きに代えて、喜びの香油を(喜びの香油とは祝いの印です。それをあなたの嘆きと交換してあげようと言われる)」、「暗い心に代えて、賛美の衣をまとわせる」であったのです。このイザヤの告知を聞いていた人々は、現実を前にして幻滅の中にいました。しかしその悔いも悲しみも、戸惑いも失望さえも、そして罪の心さえも全部包み込んで、「あなた自身を救う」と告げられたのです。

 殆どの聖書学者は、ここでルカによる福音書4章を開いていました。そこでちょうどイエス様が、このイザヤ書61章を引用して話をしておられたからです。「この聖書の言葉は今日、あなたがたが聞いたとき実現した」と。イエス様はおっしゃったのです「私が来た。だからこのイザヤの言葉は、私によって今あなたに実現しているのだ」と。つまり、イエス様は「この私があなたの打ち砕かれた心を包んであげる。私があなたを丸ごと包む風呂敷になってあげる。苦しみの欠片も、罪の欠片も全部包んで、私があなたの暗い心に賛美の衣をまとわせてあげるから」とおっしゃったということです。私どもを包むのは、イエス様ご自身です。

 私どもが自分の罪のゆえに纏まらない心を、イエス様は纏めて下さるために十字架に掛かられたのです。灰をかぶって悔い改めるべきなのは私どもだったのに。そのイエス様だからこそ、「あなたに、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせてあげるから」とおっしゃったことは真実であると分かるのです。だから私どもは、私どもの打ち砕かれた心を、この十字架の下に持って来れば良い。十字架の下に立つなら、私どもの耳にも聞こえて来る言葉があるからです、「あなたの打ち砕かれた心を、私が包むから。もう大丈夫だから」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 主日説教要約

2018年08月12日

説教 『種は落ちた』

2018年8月12日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイ福音書13章1〜9、18〜23節
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


 広い土地に、農夫がロバを連れて種を蒔きます。種が入った袋を背中に乗せたロバが歩いた跡に、袋から種がポトリ、ポトリと落ちる。その種の落ちた場所が4つ描かれていて、道端と、石だらけと、茨の間と、そして良い土地でした。さてこの種を蒔く農夫の例えを聞いていた人々は、「自分たちがしている種蒔きも、そんな風に無駄がある。勿体ないけど、仕方ないよ」と思った人もいたでしょう。それでも例え話を聞きながら人々は、「この農夫って、我々とは違って、その種を気にして、ずっと目で追っているみたいだ」と気付いたかもしれない。自分たちは「無駄になるのもしょうがないよ」と思うだけで、いちいちその1粒を目では追わない。でもこの農夫は、つまり神様は、1粒を丁寧に追いかけておられるのです。

 そうやって種を見詰めていたら、コロコロと転がった先で、「何てことだろう、そこは人が踏みしめた堅い道端じゃないか。そこは石だらけじゃないか、茨だらけじゃないか」と、農夫の悲しみが生まれたということなのです。神様に溜息をもらさせてしまったということです。このイエス様の例え話は、種の行き先を見詰める父なる神の話です。そのお心の話なのです。ここに聞こえるのは、教育的訓示ではありません。「良い心になれ」と、お尻を叩くのでもないんです。繰り返し聞こえて来るのは、「種は落ちた。でもそこで、あなたのなかで御言葉は、奪い取られたのだ。枯れてしまったのだ、塞がれてしまったんだ。一つの実りも無かったのか」という、神の嘆きであるのではありませんか。

 でも、だからであります。何度も1粒を蒔く、忍耐して下さって繰り返し1粒を落とされる。その1粒の御言葉がであります。もしもついに私どもの良い土地に落ちたなら、それをご覧になったなら、なのです。辛抱し続けて下さった父なる神様が、繰り返された嘆きのあとについに、あなたの中に御言葉が実り出したのをご覧になったらです。そこにある神様の喜びは、どう表現して良いか分からないくらい特別に大きいな喜びとなるのではありませんでしょうか。まさにそれが23節、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった、ついに実りを結んだよ」との、神様の爆発的喜びなのです。イエス様は、あなたの天の父の喜びが、そのときどんなに大きいかを伝えたかっのだと思うのです。その喜びの特別さを伝えたかったと思えてなりません。

 神様は、1粒の御言葉によって私どもが花を咲かせて実りをもたらすようになることを、つまり御言葉の通りに生きるキリスト者となることを待っていて下さるのです。そこに神の喜びがあるからなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:04| 主日説教要約