2019年02月03日

説教 『天の国を見つけた人』

2019年2月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章44〜46節
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。


 「天の国(神の恵みの支配)」は、私どもの生活で見つけることが出来るものです。でもイエス様は、それを手に入れるには「持ち物をすっかり売り払って、それを買う人だ」と言われたのです。「先のことを考えたら、少しは残しておかないと」と思うのは私だけでしょうか。しかしそれでは、自分の側にまず取っておいて、「残り物」で神の恵みを戴こうとしていることです。これは御父に見られたら、「天の国」を軽んじている姿でしかない。イエス様はこの例え話をなさりながら、「あなた方は神の恵みの支配の中で暮したいと言うだろう。しかし誰も彼もが『現実的には無理だよ』と、背を向けるだろう」と。それが、自分を優先させる、人の存在の奥に潜んでいる「罪」そのものの姿であるのです。もう私どもは、「天の国」を手にすることなど叶わないのでしょうか。

 もしも、です。もしも、イエス様が仲裁人として、そこでなお「あなたが天の国を 手にして欲しい」と願って下さって、御父に執り成して下さったらです。アッと思いました。

 私どもは自分中心でいる罪人であるけれど、それでもなお、「神の恵みの支配」を手にしたい。その時まず人に必要なのは、何よりもその罪を償い切ることです。それは、私どもが持ち物を売り払ったとしても、償いに到底足りるものなんかじゃない。だから、イエス様がたったお一人で決意して下さったことは、ご自分が償いの身代わりなられることだった。それが、十字架の上で死なれたということであられたのではないですか。罪人が天の国を受け取るために必要な全ての代価は、イエス様が持てる全てを売り払って、つまり御子の位も、命をさえ捨てて、私どもの代わりに払って下さったのです。そうやってのみ「天の国」は、自分の罪の重さに失望しかけていた私どもの手に握らせていただけるものとなったのです。それは事実、私どもの手に届けられました。洗礼が、私たちを、「天の国の受け取り手」に、変えたのです。
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2019年01月27日

説教 『キリスト婚約させた』

2019年1月27日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 11章1〜6節
わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。


 パウロは、コリントの教会のキリスト者に言うのです、「あなたがたはキリストと婚約したのだ。それがキリスト者だ」と。それで私は、神の御子との婚約で、どういう約束を交わし合ったのかと、ふと思ったのです。そこから説教準備で「キリストと結ばれるために、私の側がお渡しできたものが何かあったかな」と思い巡らし始めたのです。

 神の御子が婚約して下さった日、私どもが御子に差し出せたものは何だったのか。確かに私が持っていた、少しの善意があったかも知れない。悔い改める心もあったでしょう。でもそんなものは、天地創造の神の御子に結納品として交換し合うには余りにも貧し過ぎる小ささ。その逆に私が、山ほど持っていたものがある。それが、罪なんです。的外れに生きて来て、そこで罪を重ねて、隣人を傷つけて来た。それでも平気で、「この世で生きるには仕方がない。むしろ弱肉強食は必要悪だ」と、恥とも思わず、償いもせずに通り過ぎて来た。その姿は、イエス様の目から見たら不釣り合いな者でしかないのです。

 でも、そういう私どもが、御子の前に正座して、恥ずかしい自分の罪と過ちをお見せした時に。そこで、だったのです、キリストはそこで私どもの罪を見て、驚くべきことに「それで良い、お前の罪をもらおう」と全部引き取って下さったのではないですか。だから、イエス様が私の犯した罪の償いをされなければならなくなって、死んで償われたのではないですか。それが十字架の出来事だったのです。私どもとキリストとの婚約を形にした出来事、それが十字架だった。お返しにイエス様から、婚約のためにと私どもの差し出して下さったのは、神の御子が持っておられた、神の義だったのではないですか。そんな交換、神にとっては大損でしかない。でも神様は、その婚約こそが、「愛するあなたを見つけた、私のパートナーを見つけたよ」と言って下さる喜びであったのです。
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2019年01月20日

説教 『すべてをイエスによって』

2019年1月20日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙3章12〜17節
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


  キリスト者には倫理道徳的に高い基準の生き方が求められていると言ってもいいでしょう。確かにそのように思わせる勧めがこの箇所にも記されています。このような生き方に対して「息苦しい」とか「つまらない」というイメージを持つ人も居るかもしれません。なぜ、キリスト者が聖い生活をしなければならないのか、その根拠がここに記されていると思います。「ですから」(1節、12節)に手掛かりがありそうです。「キリストと共に復活させられ」(1節)―新しい価値観・生活観で生き始めた―、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」(12節)の「ですから」、ここに記されている「コ」は目指すべきであると同時に当然の結果でもあるのです。旧約聖書でイスラエルが選ばれたようにキリスト者が選ばれたのは特権を得るためではなく、神に仕え、神の栄光を表わすためでした。世から聖別(切り離)され、神との関係を持つようにされたのも神に献げられた者として神に用いて頂くためでした。「愛されている」のも、互いに愛し合うことにより、わたしたちを通してイエスを「皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)ためです。このような恵みの中に置かれているということは、自分の救いのためだけでなく、神の働きのために、神の器として用いて頂くためなのです。「世の知らざるもの、我知るなり」とされるのですから、世とは違う生き方になるのは当然ではないでしょうか。代表的なのが礼拝です。キリスト者は、16節に記されている感謝・キリストの言葉を宿す・教え・ほめたたえるのです。そして、「すべてをイエスの名よって行」(17節)うのです。この勧めに重荷を感じるかもしれません。しかし、「イエスの名」を負うとは、イエスの代理人とされ、神の所有となり、保護の許に置かれ、神を知ることですから、責任と共に実行するための恵みも注がれます。選ばれ、聖別され、愛された者として歩み続けましょう。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:17| 主日説教要約

2019年01月13日

説教 『新たな力を得』

2019年1月13日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書40章27〜31節
ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


 この時イザヤが語りかけた相手は、「私たちはこんなに苦しい生活をしているのに、神様は分かってくれない」と嘆いていた人々です。それに対してイザヤは「神様はあなたがたのことを分かっている。いやそれだけじゃない。主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と語りかけたのです。

 この「新たな力を得る」という「得る」という言葉は、「入れ替える」とか「良いものに交換する」という意味を持つ言葉です。つまり、自分がずっと願ってきた延長線上で、それを得るというのではないのです。自分の願って来たものと全く違うものに、交換されるということなんです。確かに神様は、私たちがどんなに苦しみ、そこでどんなことを望んで来たかも全部知っていて下さいます。でもそこで「もうだいぶ苦労して来たから、あなたの願い事をそろそろ叶えてあげよう」というようにして私どもに力を与えて下さるというのではないのです。神様は、私どもが考えもしなかったような輝く希望を、私どもの頭の中や心の中でグルグルと巡らしていた古い思いと入れ替えるとおっしゃるのです。全く新しい世界を始めるぞとおっしゃるのです。その新しい世界が、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」という世界なのです。

 現実に目の前にあるのは、今までと何も変わらない暗闇であるかも知れない。しかしなのです。信じるということは、神様は私の、このトンネルの中に来られるのだからアッチに行ったり、コッチに行ったりするまい、ということ。そうやって待っている私どもの現実に、神様の方から来て下さる。そこで「新たな力」を受け取るのです。そこが受け取る場所だからです。神の御業は、決して遅過ぎることはありません。だから、神様を求めることに身を潜めて、離れないで下さい。そこでいつか、自分の古い計画や思いを越えて、神の御業を喜ぶ私になっている日が来るのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約

2019年01月06日

年間主題聖句説教 『岩と頼むのはわたしたちの神のみ』

2019年1月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
サムエル記上1章21節〜2章3節
 さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
 夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」
 ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
 ハンナは祈って言った。
「主にあってわたしの心は喜び
主にあってわたしは角を高く上げる。
わたしは敵に対して口を大きく開き
御救いを喜び祝う。
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。
主は何事も知っておられる神
人の行いが正されずに済むであろうか。


 ハンナは子どもが生まれなくて、ずっと泣き続けた女です。そういうハンナに、夫エルカナは優しく接しはします。「このわたしは、あなたにとって10人もの息子にまさるではないか」と。でもその優しく聞こえるはずの言葉も、ハンナにとっては「どうして私の悲しみの傍に座って一緒に悲しんでくれないの。結局私は誰にも分かってもらえない」と思わせる一言でしかありませんでした。

 しかしそうやって、彼女にとって頼れる場所がどこにも無くなる中で、だったのです。ハンナは、たった一つ残されている場所に気付いたのです。それは神の御前でした。そこで、思いの全てを打ち明け出したのです。自分の中で、自分だけで考えて、一人で思い煩うことを手放したのです。そういう彼女の祈りは、「主よ、私は苦しい。私は悲しい。私は孤独です」と繰り返し訴えたに違いないんです。ただただ安心して、心からの言葉を注ぎ出したのです。その中のから、この祈りの言葉が生まれたのです。2章2節「岩と頼むのはわたしたちの神のみ」と。

 皆さんもいつかは老いて、色あせて、あらゆることを忘れていく日が来る。それでも、なんです。神様が、私を忘れられることは無い。神が、私どもの岩となっていて下さることを忘れること、止めてしまわれることは決してないのです。あなたに、絶え間なく固い岩として関り続けて下さるのです。ハンナはその神様へと、祈りの中で目を向けさせていただいて、だから気付けてゆけたことがあったのです。それは、自分の涙の人生の中にも、既に神様が関わり続けていて下さったという事をです。それを感得させていただいた時に、彼女は、「この後の人生も、神様は最善のことをして下さる以外にない」と、信じることが出来たのです。

 2019年も、変わらず主が、あなたを足元の大岩となって下さいます。それを信じて、歩み抜こうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:15| 主日説教要約

2018年12月24日

クリスマス礼拝説教 『一緒に登録するため』

2018年12月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書2章1〜7節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 ヨセフが臨月になっているマリアと一緒に、ナザレの村から旅を始めました。でもマリアは長旅など危険なのです。それなのになぜ2人は、実家を離れるような行動に出たのか。彼らは神の使いから「聖霊によって身ごもる」と聞いて、激しく悩んで、やっと委ねたけれど、そんなことを分かってくれる人は周りにいるはずもありません。自分の常識で人を裁く人たち追われ、実家を離れるしかなかったのです。

 そういう旅路を、どんな思いで歩いたのかと思います。2人ともそれぞれに「神の恵みが実現するはずなのに、奇跡なんか何も起こっていない。御言葉を受け取ったはずなのに、まるで地べたに這いつくばっているのが現実。神様、なぜなのですか」と、心の中で消えない叫びが渦巻いていただろうと思えてなりません。その2人の旅を見詰めるように、「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」と伝えていました。この「身ごもっていた」とは、原文では「子どもと一緒であったマリア」という意味なのです。つまり、2人きりの歩みではなかったのだということ。お腹にイエス様が一緒に居て下さった旅だったということなのです。それはまた、マリアとヨセフは、救い主イエス様をベツレヘムへお連れしたということです。

 私どもが「神様に従うと決めた私が、それなのに何故この重荷があるのですか」と問うのなら、それは神の恵みから遠くにいるようにしか思えない日々なのかも知れません。でも神様は、そこを救い主が共に居る場所として選んだのだよと、今朝告げているのです。トボトボと歩む現実の只中に、あなたのお腹の中にと言うほどに近く、救い主が一緒に居られるのだよと。さらにそのあなたによって、御心は実現して行くのだと。奇跡が起こるわけじゃない。ハッキリ神の御心が見えている訳じゃない。でもそこにも神の計画は進んでいるのです。御業が私どもの中に起こっているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:45| 主日説教要約