2018年07月16日

説教 『主によって、キリストによって』

2018年7月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
フィレモンへの手紙17〜20節
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。


 フィレモンはパウロによってキリストに導かれた敬虔な信者で、裕福でもあったようで、彼の家は教会として開放されていました。オネシモはフィレモンの物を持ち逃げした奴隷。彼もパウロを通してキリストを信じるようになりました。法に従ってオネシモを送還しようとするパウロは、彼を愛によって迎え入れて欲しいとフィレモンに嘆願の手紙を書きます。それがこの書簡の目的でした。

 パウロが導いた二人の信者を取り持つために、「使徒」としての立場と権限を用いれば、思いのままに事を進めることはそう難しくはなかったと思われます。しかし、「囚人」「年老いた者」として自分を紹介し、へり下り、繊細に相手の立場を考慮しながらフィレモンの愛に訴えます。理由の一つは「キリストの完全さに到達するように」と訳せる六節bにあるようです。フィレモンには信仰における一層の成長が望まれていたのでしょう。私たちにおいても成長の目標はキリストであり、常にキリストに、より一層似る者となることです。先にキリストを信じた者として、私たちもパウロのように謙遜に丁寧に人々に対応しているかが問われているのではないでしょうか。人を導く時、次に問われるのは「人による対応を超えた神の介入」を思っているかです。持ち逃げした奴隷との「しばらく」(一五節)の離別に「いつまでも」(一五節)続く兄弟関係(パートナーシップ)を生み出す神の摂理(神の計画と配慮、神の目的の成就)を見ているかということです。

 人は現状のみを事実として見るが、神は可能性を事実として見るのです。パウロも一人の逃亡奴隷に可能性と神の御心を見て、執り成しをしました。「罪人の頭」である自分のために執り成したイエスを思うと、彼もそうせずにはいられなかったのです。更にその先に、使徒・主人・奴隷の関係を超えて、神との和解のためのパートナーとなれることを知っていたのです。私たちも皆、和解の働きのために召されたパートナーです。その関係は「主によって、キリストによって」(二〇節)しか確立する道は他にないのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 06:54| 主日説教要約

2018年07月08日

説教 『善い業を始め、成し遂げる方』

2018年7月8日 創立70周年記念礼拝説教
相模原教会牧師 辻川篤
フィリピの信徒への手紙1章3〜6節
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

 戦後まもなく、相模原の地に引き上げて来た人たちがいました。すぐに「相模原教会」として教団に届け出がなさます。1948年のことです。その日の喜びを書き残した原稿がありました。「我は、汝らのうちに善き業を始めたまひし者のキリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信します。(フィリ1章6節)相模原教会も神によって始められ、神によって保たれるのであります」と。教会の将来に、神の御業が続くことを見詰めておられたのです。

 その感謝の中で、しかしでした。教会員がそれぞれの故郷に帰り、礼拝は途絶えてしまうのです。

 もしも教会が、人間が始めようと言って始められたものであったのなら、この時点で空中分解していたでしょう。でも時を同じくして、米軍補給廠で聖書研究会を始めていたのです。そして「相模原の地に出て、正式に教会として伝道を始めるのだ」と教団に「相模原教会設立」を申し出た時にでした。すでに「相模原教会」という名称が登録されていたことを知ります。それらは全く別の群れなんです。それなら名前も、別のものにしたほうが良いと、この世の常識なら考えませんか。でも彼らの思いは違ったのです。それは彼らもきっと、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、その業を成し遂げてくださる」との信仰に立っていたのかも、と思えてなりません。だから、相模原教会を始めて下さったのが神であられるのなら、なお教会を保ち完成させて下さるに違いない、自分たちはその途上に立つのだと、そう信じた。そして「相模原教会」の名前を引き継いだのです。初代牧師を迎え、献堂もされ、神が始められた善い業は、また一つの通過点を、喜びをもって通ったのであります。

 私どもが、教会の創立70周年を振り返るなら分かることがある。それは、神のなさる善い業は、連綿と続くということです。それは、私どもの人生においても同じなんです。神様が「命あれ」と願われたから、この命があるのです。どんな命も神様にとっては、善い業の結晶なんです。だからこそ、その業を保って下さるのも神ご自身なのです。小さな御業を与え続け、苦難を乗り越えさせて下さる。何よりも一緒に祈り一緒に人生を戦ってくれる兄姉を与えられる。私どもはいつも、神の善い御業に囲まれて生きているのです。それは、日ごとに「御業」を数える人生となり、言い換えるなら「恵み」を数える生活となるのです。それは「自力」によらず、神の御心が成就することを希望して歩む人生となるでしょう。そういう信仰生活が、もう恵みではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 19:03| 主日説教要約

2018年07月01日

説教 『そして主の兄弟、姉妹になる』

2018年7月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章46〜50節
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 母マリアが、長男イエスに会いたいと訪ねて来ました。その母マリアに対して、イエス様が「わたしの母とは誰か」と言われたのです。イエスの家族であるのは、血肉の繋がりじゃなくて、お腹を痛めたマリアであろうと、ある日ある時、新しい家族に入るということなんです。その新しい家族に入っていく正面玄関が、50節の「天の父の御心を行う」ということです。だからマリアも、弟達も、別々の家庭で育った弟子達でさえ、さらに全く他人だった群衆さえも、イエス様の家族となれるということです。イエス様に心血を注いで守って頂ける一員に、私どもも成れるということです。

 それにして、そんなに嬉しい神の家族なのに、どうして最初から母マリアが入っていなかったのか。恐らくマリアにとっては、この時までその家の入口を知ならなかったからではないでしょうか。その母マリアをイエス様がご覧になって、伝われとばかりに話し出されました「わたしの天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と。「ここから入って欲しい」と切ないほどの思いでイエス様は、マリアたちを見詰めておられたのです。「わたしの母とは誰か」と言って、悲しみ深い所におられたのは、それを聞いたマリアというより、それを言わざるを得なかったイエス様なのではないですか。マリア達は、このあといつからかイエス様と旅をするように、人生が変わって行ったようです。身の回りのお世話をする人の中に入って、イエス様の言葉を聞くようになって行く。そこでも何度も御心を行うことに失敗して、きっと自分中心の思いと言葉が出てしまう事になったかもしれない。どうして自分を尊重してくれないのと嘆きつつ、それでも一行の後をトボトボと付いて行く、傍を離れられずに、ただひたすら付いて行く歩みを重ねたのだと思うのです。そういう歩みの中でマリアは、天の父の御心を聞こうと祈るイエス様の姿に四六時中触れて、自分の中にも、祈りつつ御心を行う歩みが生まれていたのではないでしょうか。その時マリアは、イエス様の歩み方と同じになり、主の家族の歩みになっていたのだと思います。

 私どもも、御言葉に従って歩みたいと願う一人ひとりなのに、その歩みに転んでしまう。それでもやっぱり、イエス様の傍からは離れられなくて、トボトボと、一番後ろだけど、遅れながらだけど、イエス様のあとをついていく信仰の生活を続ける。なお、御言葉を欲っして、天の父の御心を行う人になりたいと歩みを重ねる人生に、イエス様から、声を掛けていただけるのです「あなたは、私の兄弟、姉妹になったね」と。トボトボと歩む私どもを慈しみつつ、「もう私の家族だよ」と呼んで下さるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:56| 主日説教要約

2018年06月24日

説教 『蒔く人に種を与える方』

2018年6月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 9章6〜15節
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 人は、人を想うことが出来る! そこに、「わたしも人のために」という思いが生まれて来るのだと思います。でも実はそこで、不思議なのですが、初めは「無償でしてあげたい」と思っていたはずなのです。それなのにその心のどこかに、なぜか見返りを求めている自分が居ることに気付く。「有り難う」という小さな一言で良いんです。でももしそれがなかったら、「あら。」と思ってしまう自分がいる。「ただ人のためになりたい」と始めた、愛する種蒔きであるはずなのにです。

 何故そんなことになるのでしょうか。きっとそれは、人にしてあげる時、自分の手の中にどれだけのものがあるか数えていて、これだけなら人に与えても大丈夫かなと計算している。そういう与え方というのは、手の中に減った分を見詰めるということでもあります。減った分が気になるということです。そこに、減った分を埋めたいという思いも当然起こって来るということであります。その埋めるものが「有り難う、素晴らしい働きね」という一言だったりするのです。

 コリントの人々は、エルサレム教会を想って募金を始めていました。その人々に向けてパウロが、農夫の例え話をしたのです。大人の農夫なら、若者たちにも伝えたでしょう「お前たち、バーッと思いっきり蒔くんだぞ。手の中に残すことなんて気にするな。何も心配しないで良い。必ずお前たちの手の中には、将来多くの実りによって、余りある種をまた入れてもらえるのだから」と。経験豊かな農夫が、そのように言い切れるのは、実りの「仕組み」を知っていた訳ではありません。彼は、豊かに種を与え続けて下さる「お方」を知っていたのです。10節、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなた方に種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を、成長させてくださいます」と。

 私どもも「人のために」と生きてみたいと願います。それは、私どもの傍にも、大切な人がいるからじゃないですか。そういう私どもが、自分の手の中にあるもの捕らわれずに、愛するという種を蒔き続ける人になれるのは、「種を蒔く人に種をお与えになるお方を、見詰めて歩かせていただく」、ただそこにおいてです。そのお方と一緒に歩き出せたなら、そのとき自分が持っている愛するという種が、どれ程の大きさか小ささかさえも気にしなくて良くなる。必要があるなら、神が何時でも何でも与えて、私どもの手に握らせて下さると信じることが出来るからです。

 愛するという種を蒔いて下さい。蒔き切って下さい。バーッと蒔いて下さい。それでもなおそのあなたには、種を与えるお方が共におられるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:53| 主日説教要約

2018年06月18日

説教 『新たに造りかえられる』

2018年6月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テトスへの手紙3章1〜11節
人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。


 「次のことを思い起こさせなさい」(一節)とパウロはテトスに勧めます。その内容は倫理的に正しい事柄です。「Cで始まる民族は最悪」と言われていた民族の一つであるクレタ人を牧会するテトスには「彼らに何を言っても無駄、どうせ聞かない…」という諦めや決めつけの気持ちが無かったとも限りません。しかし、「わたしたちもかつては」(二節)と諭すようにパウロは続けます。「かつては」と「今は」を対比する説教は初代教会に多く見られます(ロマ六章一七〜一八節、Tコリ六章九〜一一節、エフェ二章二節、コロ三章七〜八節、Tテモ一章一三〜一七節、Tペト一章十四〜十六節)。パウロは一般的な意味での「わたしたち」と言っていますが、「罪人のかしら」(Tテモ一章十五節)と告白した自分自身のことを思っていたかもしれません。「我をも救いし奇しき恵み」(賛美歌第二編一六七番)はパウロの、またジョン・ニュートン――この讃美歌の作詞者――の、そして私たちの経験でもあります。「救い」とは「癒す」に由来し、「解放する、自由にする」という原意があります。人間を捕えて幸福を妨げているものから解放して、健康・自由・真実の幸福を与える。そして、罪と死から解放して霊魂の不死や死からの復活を主張する。それが、当時も、またその後にも存在する「救済宗教」の特徴です。多くの場合、その「救世主」は軍事的・政治的英雄でした。しかし、唯一・真の救い主イエス・キリストは「苦難の僕」としての救世主でした。人の苦しみ・痛み・病を代わりに負い、死なれた。しかし、死から蘇り、死を滅ぼし、永遠の命(神と共にあり、活き活きとした、目的をもって生きる、新しい価値観に生きる命)へと私たちを「新しく生まれさせた」(五節)。そのお方が私たちの救い主・主イエス・キリストです。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(イザヤ書五三章二節)救い主。パウロが宣言する通り「この言葉は真実」(八節)なのです。故に私たちは「これらのことを力強く主張」(八節)し続けるのです。聖霊によって造りかえらた者には、言葉と共に善い行いも結果として付いて来るのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:37| 主日説教要約

2018年06月10日

説教 『空き家になっている』

2018年6月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章43〜45節
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 主は人々に向けて「汚れた霊は、人から出て行くと」と話し出されます。それを聞いて群衆も「自分も心を綺麗に掃除した。それなりにはしている。汚れた者を追い出した」と、ちょっと誇ったはずなのです。

 しかし、でした。イエス様は「(汚れた霊が)『出て来た我が家に戻ろう』と言う」と言われる。さらに「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」と。掃除をしたというのは、「自分なりに義しく聖い心で生活を送っている。礼拝もしている。自分の心は悪人のように汚れていない。自分のやり方でそれなりに聖くなれている」という心だということです。そうであるなら「そういう生き方で十分じゃないの」と言いたくなること、ありませんか。

 この「空き家」という言葉は、「暇である。何も働いていない」という意味があります。神の言葉に応答することが働いていないということです。自分の生き方が変わらない姿です。主は単に「空き家にしないように気を付けなさい」と言っておられるんじゃないんです。「誰も結局、神の御声に応答しようとしない、いつまでも変わらないお前たちなのか」と途方に暮れて、嘆いておられるのです。人間にとって、自分で解決できない難問が、自分を変えるということですよね。自分の思い通りに、やりたい通りにしたいと思って来たから、そこで人を傷つけもした。そんな古い自分から、御心を喜んで生きる自分になるには、神様に明け渡さないといけない。でも心の奥では、いつまでも自分の思い通りに生きたくて、だから、自分だってある程度は聖い生き方が出来ると思い込んで来た。できると思い込ませたのが、汚れた霊の策略なのに。そこでなら、「神から離れて生きても自分だけで大丈夫だよ」と思わせることが、簡単に出来るからです。そういう自分から向きを変えて、御心に応答する自分に変わっていくことは、至難の業なのです。

 そういう私どもをイエス様は知っていて、憐れんで下さって「あなたは空き家なんだ。あなたの中に神は居ない」と告げて下さるのです。それも諦めずに告げ続け、関り続けて共に居て下さるのです。そのイエス様だからこそ、このお方に依りすがるなら、そこで初めて世界一頑なな私も、少しは変われるのかもしれない。そこで「主よ、この頑なな私は、今日どう生きればよいのですか」と祈り始めるからです。「あなたの御心に従いたい、主よ、助けて」とチョコっと祈る。またチョコっと、そして四六時中、生活の中で神様と対話をし始めている。そんな神様との対話の時間がいつもあって…。その生活が、神が心の内におられる姿なのです。そのあなたはもう、変われているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:38| 主日説教要約