2014年03月30日

説教 『上は天、下は地に至るまで』

2014年3月30日の礼拝
ヨシュア記2章1〜11節
相模原教会牧師 辻川篤

 ラハブは遊女でした。その生活は村八分です。小さな村の中なので、土地の男たちがラハブの家に入ることなど在り得ない。だからその家に出入りするのは、旅のよそ者たち。だから彼女はよそ者の仲間とされ、村の隅っこで生きていたのです。

 その彼女の家に、ヨシュアが放った二人の斥候が、宿を取りました。そこでラハブは、かくまった斥候と言葉を交わします。十一節「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と。それにしても、です。ラハブはイスラエルの民ではありません。だからどうしても不思議に思えてならなかったのです、「どうして、あなたたちの神が、自分の神として結びついたのだろう」と。

 聖書を何度も読み返しました。その中で、ラハブが出エジプトの出来事のことを詳しく知っていることに思いが止まったのです。彼女はきっと、「彼らの神様は何てすごい神なんだろう」と、思っていたでしょう。その中できっと彼女には、飢え渇くように一つの思いが芽生えて来たと思えてなりません。それは「私を支配しているのは神の守りじゃなくて、苦しみ。優しかった親戚も友人も、もういないも同然で。私を認めてくれる人は居なくなった。私を必要だと言ってくれる人も、いなくなった。私も奴隷のように暮らしている」そういう思いです。そんな彼女だったから、だから奴隷のイスラエルが救い出されたのを知って、きっと思ったと思うのです。「ああ、イスラエルを守られた神が、私の神でもいて下さったのなら、私も救われただろうに」と。ラハブは、心がヒリヒリしていたんです。生活の中で、苦しみの中で、ラハブの心は赤剥けてヒリヒリして、泣いていた。皮膚がヒリヒリしている時に、そこにそよ風が触れるだけでも、ジンジン来ますよね。周りの人が気付かないような小さな風であっても、ヒリヒリしているところに当たったら、ビクンとそこに、二人の斥候の訪問という小さな種粒のような出来事が触れたのです。神の御業として、触れたのです。だから彼女には、それが痛いほどに分かったのではないでしょうか。

 そう思ったら、ハッと気づきました。「地」というのは、単なる地上の世界ということではない。地べたに住む者、そのものなんだと。エリコの王も、神の御業の大きさは知っていました。でも自分と関係のない神だとしか思えなかった。ラハブは、「あなたたちの神は、下は地に至るまで。この地べたに生きる私にまで、神でいてくださる」と言えたのです。遊女ラハブは、神と出会った。地べたに降る神と、地べたで会えたのであります。
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