2013年12月22日

説教 『命の光を持つ』

2013年12月22日 クリスマス礼拝
ヨハネによる福音書8章12〜16節 
相模原教会牧師 辻川篤

 のちに伝道の旅をしておられたイエス様が、御自身のことを指して言われた言葉が記されていました。十二節、「わたしは世の光である」と。その主は続けて、「わたしに従う者は、命の光を持つ」ともおっしゃいました。「持つ」というのは、その言葉のままに、「手に持っている」とか「所有している」という意味の言葉です。イエス様はご自分のことを「わたしは光だ」とおっしゃったのですから、「光を持つ」というのは、「主イエスを持つ、神であられる主を持つということだ」と言われるかも知れません。それでは皆さんに聞きましょう、「あなたは、あなたの手の中に捕まえるようにして、神を持っているのですか?」。

 私どもは、神の守りの中にあること思う時、私どもが神様にいだかれている姿を思い浮かべますし、思い浮かべることが許されています。神が、私どもを手に持って下さるんです。でも今朝聞く御言葉は、それが全く逆転しているのではありませんか。人間が神を所有する、と言われているのです。それでは、どっちが主人なのか分かりません。私は、「そんな逆転、畏れ多過ぎる」と思えてなりません。そんな、神と人との立ち位置の大逆転が、今朝聞く御言葉なのです。

 今朝の個所は、降誕祭の日に読むようにと、教会が伝えてきた箇所です。そう思ったら、気付いたことがありました。イエス様が地上にお生まれ下さったこと自体が、既に大きな、神と人との逆転だったということにです。地上にお生まれになったイエス様を見詰めたら、神様のお心が分かる。イエス様は、おっぱいをもらわないと生きて行けない弱い赤ちゃんとして地上にお生まれ下さいました。それも、王として宮殿に生まれたのではありません。そのことはみんな、神様のほうから「あなたに会いたい。あなたを守りたい、だから私はあなたの傍らに、天から駆け下りていく」と願って下さったから起こされた出来事です。神様は私どもに、「ご自分の所に登って来い、待っていてやる」と言われるのではありません。その真逆で、神がその御座を蹴って私どもの下にまで降られた。苦労して下さったのは神のほうなのです。神の御子の降誕において、神と人との畏れ多き逆転が、既になされていたのです。そのイエス様だからこそおっしゃれた言葉がある。それが「あなたは光の所有者になったらいい。私をあなたの手の中に握ったらいい。そうやって神の全ての恵みを持て。命の光を持て」ということであったのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:30| 主日説教要約