2013年02月03日

説教 「一万より五つの方を」

2013年月3日の礼拝
コリントの信徒への手紙14章6〜19節 
相模原教会牧師 辻川篤

 異言は自分にしか分からない言葉です。だから今日のカ所は、「人に通じる言葉で話さないと駄目だよ」と言いたいのでしょうか。もしそれだけなら「分かったよ」と言えそうなことです。でもそこで、ふと思ったのです。「異言じゃ駄目だと分かって、でもそこで、相手に通じる言葉がすぐ生まれるんだろうか。簡単に、通じる言葉って話せるようになるのだろうか」と。

 パウロは言います、十九節「わたしは、一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と。人は、自分の言葉の引き出しに、いっぱい言葉を蓄えて大人になってゆきます。小説を読んで、詩を読んで語彙を増やすのです。でも、なのです。その自分の引き出しに蓄えた言葉がどんなに一杯になっても、もしその言葉を知らない隣人に、それを一方的に話すとしたらどうでしょう。相手との間には、切ない壁が生まれはしませんか。それが「一万の言葉で話す」ということなのです。それでは伝わらない。それは、自分の引き出しからの出発だからです。

 パウロは告げます「五つの言葉を語れ」と。五つというのは、一万と比べれば無きに等しい量です。それは、少しはあると言うことでもなく、むしろ「全く無いんだ」と言われているようにしか聞こえません。聖書は、「相手に分かる言葉なんて、本当はあなたの引き出しには無いんじゃないか」というのです。

 相手のことを心底考えたら、何て言っていいのか言葉が見つからない、それが本当のところではありませんか。そこで、かける言葉がどうにも見つからないというところにじっと立つのです。そこに立ち続けるのは、本当はしんどいことです。でもそこで、それでもなお「大丈夫だよ」という気持ちを伝えてあげたくて、その言葉を探そうとするのなら、そこで分かることがあって、それは「伝える言葉はいただくしかない」ということです。神からです。神に祈って「何と伝えたらいいのかもう分からないけれど、でも慰めて、励ましてあげたいから」、と願うしかない。「どうか伝える言葉を下さい」と祈りながら、言葉を思い巡らせるしかないのです。きっと神様が与えて下さると、信じてです。それが自分の引き出しの外にある言葉、預言・預かる言葉、五つの言葉であるのです。パウロは、「その言葉の方を取れ」と告げたのです。一万の言葉は傷つけるでしょう。でも五つの言葉は、相手を救います。そこに生きたい。そこに大切な人がいるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:47| 主日説教要約