2013年01月27日

説教 『しかし、わたしは』

2013年1月27日の礼拝
マタイによる福音書5章31〜32節
 相模原教会牧師 辻川篤

 当時、ユダヤの人びとの生活で、男と女の間に悲しみがありました。男は妻に、何でも「恥ずべきことを見い出した」ら、「離縁状を渡せばいいんでしょ」と放り出して、別の女性と結婚していたのです。そういう身勝手さに、イエス様は身構えられたのです。三十一節で、「妻を離縁する者は、離縁状を出せと命じられている。しかし、わたし言っておく」と語り出された語気の激しさは、男であれ女であれ、およそ人間であることにおいて持っている自分勝手さへの憤りです。人と人とが隣り合う中で、あなたがたの横で、あなたがたの自己中心の下敷きになって呻いている人がいるという現実を見ておられるのです。「この世は、皆やっているからいいじゃないかと言うだろう。しかし」と、ただお一人イエス様だけが、この世にあらがって、「しかし、わたしは」と語り始められたのです。

 私どもは、男と女だけではなく、実は、自分の両親との出会いだって、神が計画して下さった奇跡を受け取っていると言えます。そして、多くの親友と出会い、多くの隣人と出会い続けた。それらは全て、良い間柄であり続けるようにとの、神の願いが込められた出会いであったはずなんです。しかしそこで、です。そんな大切な出会いであるはずなのに、願わないのに、破れてしまうことがある。そこに、人間の悲しみがある。

 人間関係の破れほど辛いものはありません。周りの自己中心に振り回されて傷つけられ、逆に私どもも気付かない内に、我が身の自分中心の言葉と行いで、隣人を傷つけている。世間は「皆しているさ、仕方ない」と言うでしょう。でも私どもは、誰もが心の奥では分かっているはずなんです。本当は、そんな姿は嫌だということをです。呻きがあるんです。そこで私どもが「皆やってるから」と居座りたくなんかないと思ったら、この世にあらがって立つなら、そこでようやく気付かされることがある。それは、その私どもの側に、「しかし、わたしは」とこの世にあらがわれたイエス様も立っておられるということを、です。世と全く違う側に立っていて下さるイエス様は、人との関係の破れに呻くあなたの側で、あなたを背負っていて下さるのです。私どもが、「もっと喜び合える人と人の関係でいたい、いられるはずなのに、どこで破れたんだろう」と呻く者であるなら、その呻く者の傍で、「私の思いと同じだね。そのあなたと、私は一緒にいる。あなたを背負っているから」とおっしゃっていて下さるのです。
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