2012年12月9日の礼拝
マタイによる福音書5章27〜30節
相模原教会牧師 辻川篤

相模原教会牧師 辻川篤
主は「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている」と、姦淫話から始められます。しかしそこで終れない。さらに「あなたの大切な目や手が、あなたに罪を犯させるなら、そんなものなら捨ててしまいなさい」と言われたのです。目も手も本来は良いものです。でも、傷つけ合うことが情けないのです。神様にとって、私どもが、自分の思いで隣人踏みにじる一切が、憤るほどに悲しいのです。
私はずっと聖書に触れて来て、最近やく少し分かったように思うことがあるんです。それは、人はあれこれの罪を犯したから、神様からいけないと言われるんじゃない、と。気付いたら自分の都合が先に立って、パッと言ってしまう言葉や態度で隣人の顔が曇っている。それを見て「あ、またやってしまったのか」と気付いて。全然成長してくれない自分なのです。そういう自分に気付いて、その時ようやく分かったような気がするんです。それは、あれこれの個別の罪が問題なんじゃない、そうじゃなくて、「私は罪人なんだ」ということです。
犯したくない罪なのに、この私という奴は、情けなくも私は、繰り返し主の嫌うことをしてしまう、私は罪人。そのことに気付いた、その時です。イエス様の激しい言葉が、叱りつける言葉じゃなくて、私を必死に追いかけて捕まえて、「あなたを失いたくない」と泣いておられる言葉のように聞こえて来たのです。
結局、当時イエス様の言葉を受け止めることができた人は一人もいませんでした。弟子たちでさえ、イエス様が十字架刑になると分かったら、自分の身を守りたいという欲だけが先立って、主を見捨てたのです。

主の招きは十字架の上から届きます、「あなたのために、私がしてあげたから。その私の恵みに結ばれて、あなたは生きよ」と。キリスト者は受洗の時、古い自分を捨てさせていただいたのです。だからもし、生活の中で自分の姿に気づいたら、「捨てた者として生きさせてもらいたい。もう一度、今日から。もう二度と自分を罪のために使うのは嫌だから」と祈るのです。