2012年06月11日

説教 「心の清い人々は幸い」

2012年6月10日の説教
マタイによる福音書5章8節
相模原教会牧師 辻川篤

 主イエスは「心の清い人は、幸いだよ」とおっしゃいます。でもこれを聞いた大人は、「そうなりたいけど、実際には無理だよ」と棚に上げてしまいませんか。

 この「心の清さ」とは、座禅をして雑念を払う修行をしたりしますが、そういう心の静かな状態のことを言うのではありません。神様に見てもらって、「あなたには、嘘も欺きも、妬みも怒りも一切ない。また罪もない、闇の部分が一つもない。一点の欠けもなく清いよ」と言ってもらえるということです。清さの評価を下されるのは、神ご自身なのです。

 その上でイエス様は、「そういう生き方を、生きてみよ」とおっしゃったのです。その生きる場所は、もちろん、現実離れした空想の世界ではありません。この世のど真ん中です。苦しいことも辛いことも一杯あって、それを引き受けないといけない世界です。その現実生活の中で、嘘も欺きも、不満も妬みも抱えない心の清い人ということなのです。もう溜息が出そうです。そこでもし今までと同じ物分りのいい大人を続けるなら、「どうせ出来ないよ」と棚上げにしてしまうでしょう。でも、今度こそ、です。

 私たちは今朝、「イエス様が、あんなに大事そうにおっしゃっているんだから、ちょっとやってみよう」と踏み出すのです。きっと歩み出したら、また壁にぶつかりはしますでしょう。でもイエス様は、私どもを、できなくて失望させたいんじゃないんです。挫折感の中を生きさせたいんじゃないんです。「やってみるんだ」と主がおっしゃる時、それは、「必ず私が一緒にいて、傍で手を添えてあげるから。そしてあなたが、やった、出来たよという喜び一杯になるように、してあげるから」ということなのです。

 どこまでも主は、私どもに付き添われます。そうやって、私どもの顔を向けて下さる場所があるのです。それが、ご自分の十字架です。半ベソになっている私どもに、「十字架の上で、あなたの汚れと、私の清さを交換するから。あなたは、私の清さを受け取ればいいから」と、差し出して下さるのです。キリスト者は皆、既に、イエス様から完全な清さを、戴いていたのです。自分自身の努力で行き詰った私どもが、そのまま十字架の下にすがって来たら、そこでだけ分かる。私どもはイエス様のお陰で、父なる神の前に出て「心の清い人よ、それはあなただよ、そのあなたは幸いだよ」と言われているということが、です。
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