2012年05月27日

ペンテコステ礼拝説教 「賜物として」

2012年5月27日(聖霊降臨祭)の説教
使徒言行録2章36〜42節
相模原教会牧師 辻川篤

 聖霊がペトロたちに降りました。その日、彼は人々の前で語り出したのです。「あなたがたが十字架で殺してしまったイエスこそ救い主」と。それを聞いた人々は、「何ということをしてしまったのか」とペトロに問います。その心にペトロが答えたのが、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(38節)であったのです。これを聞けた人々はホッとしたでしょう。自分と神様との仲は、これでもとに戻れると思えたからです。

 しかし、でした。ペトロはそこで、話を終えなかったのです。まるで、「そこで止まるな」と言わんばかりに、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。人と人との間柄なら、「ごめんなさい」、「いいよ」で、そこが終着点のはずです。それなのに彼は、「あなたがたは赦されて、そして神の賜物を貰え」と告げたのです。

 ペトロが、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と語ることは、彼自身も、自分の胸をえぐられるように痛まないではいられなかったはずです。なぜなら一番イエス様の近くにいて、大事にされた彼なのに、イエス様が十字架につけられるとなると、身を翻して裏切ったのです。イエス様を一人置き去りにした十字架の死に、彼の恥と罪が集中しているのです。それなのに彼は、その自分の弱さと罪とをさらけ出されるようにして「この私が、見殺しにした張本人だ」と語れたのです。そこが同時に「そんな私だったのに、神は赦して迎え入れて下さった。一番の罪人の頭が救われた」と語れる、唯一の場所だったからです。

 そこに立ったら、内から喜びが爆発するように溢れ出て来て、「自分だけ救われて良かった」なんかじゃ終われなくなったのです。そして、「神はあなたをも救う。それを私は知っている。こんな私が救われたのだから、あなたも」と語り出したのだと思うのです。

 そんな思いが生き生きと心の中に溢れ出して、愛する人が救われて欲しいという思いが募って、それを伝える一言が出せたとしたら、それは神の賜物として聖霊をもらったからです。聖霊降臨って、実はそういうことなのです。

 あなたの隣にも、聖霊を受けて喜びの中に生きたキリスト者が現れたから、あなたが今日礼拝におられる。だから今度は私たちが、聖霊という賜物に包まれて、その喜びの中を生きるのです。その中で「こんな私も救われた。神は、あなたを救うから」と、大事な人に伝えたいではないですか。
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