2011年08月28日

説教 「祈ってもらいなさい」

2011年8月28日の説教要約
ヤコブの手紙5章13〜16節
相模原教会牧師 辻川篤

 聖書は、積極的に祈ることを勧めます。でも今朝、ヤコブが伝えたいことは「祈りなさい」ということを含めて、その一歩先にある「祈ってもらいなさい」ということにあるように思えてなりません。

 私どもは自分が苦しむ時、または病を患う時、それを人に話して祈ってもらうということを余りしようとしない空気のようなものがあるのかもしれません。自分の苦労は自分で負うべきで、人に頼るなんて弱い人間だという空気です。この手紙が書かれた時、似たようなことがあったようです。そこに心を痛めて、彼は告げたのです、「祈ってもらいなさい」と。彼は知っていたのです「あなたがたは確かに祈れるだろう。でも病の時、それだけでは終われない事に襲われる」と。

 「祈ってもらいなさい」とヤコブが告げる時、彼は特別に「病気の人」だけを登場させます。「苦難や試練に遭っている人は」とも言えたはずなのに、ただ「病の人」としか言わないのです。なぜなのかと思っていて、あっと思いました。それは、病とは、その背後に死をちらつかせて、私どもを無抵抗に翻弄させるものだからです。病だけは、死の恐れを後ろに隠している。そしてそれが重ければ重いほど、人は自分で祈る力を奪われて行くのです。大きな不安と戸惑い、あるいは痛みと苦痛、そういうものに覆われて祈れなくなる。人は病の時、百点満点の祈りはもうできなくて、「どうしてこんな事に、治るんだろうか、治らないんだろうか」と、そんなことばかりが頭の中を回って、心は騒ぐばかりで落ち着けず、だから元気な時のようにはもう祈れない。今こそ祈らねばならないという時なのに、その時に祈れないんです。

 ふと、気付いたことがありました。それは、ひょっとして人は病気の日だけではなく、健康の時でさえ、本当は自分のことについて祈れていないのかもしれない、と。健康で力に満ちている時は、そのことに気付いていないだけなのかも知れないんです。人は、本当は自分のために祈ってもらわなければならない存在だということが、自分だけで頑張れていた健康の時には隠れていたことが、病の時に明るみに出るのです。

 ヤコブは、「祈ってもらいなさい」と告げます。「神の御業に委ねることへと同伴してくれる兄弟姉妹に、祈ってもらいなさい。それがあなたには必要だから」と。祈り合うことが、信仰の支えなのです。信仰の生活、信仰の生涯を、祈ってもらうことが支えるのです。
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