2011年05月31日

第9章 家庭と家族


Zurbaran, Francisco de『The Holy Family』(1659年)。

個人と家庭
 現代はいびつな個人主義の時代です。文字通り自己中心、わがままなだけの個人主義が横行しています。弱い者、老人、幼ない者たちが傷つけられ、痛められ、果てには生命まで奪われたりしています。
 本来の個人主義はそうではなく、それぞれが他に頼ることなく、またおもねることなく自分の力と意志で自分の人生を切り開いていく、また他の人々を助けるために喜んで自分の力を捧げて用いる、それが個が確立した本来の人間の生き方です。こういう本来の個人主義・個の確立は最終的には神との出会いや向かい合いによってなされるものですが、その前に愛に満ちた良き家庭によってもその基礎が育まれます。愛に満ちた家庭に生まれ、育った幼な子は、その人生の初めから存在をまるごと肯定され受容される経験をしているのです。親や兄弟から愛に包まれて受容され、肯定される、その経験がなくて個の確立はなし得ません。良き家庭が必要な第一の理由はここにあります。

結婚と家庭
 家庭は、一組の愛し合う男女の結婚によって成立いたします。キリスト教信仰ではこの男女の結びつきに神の導きと御計画があるとされます。結婚は<家庭を形成するため>という信仰がその根底にあります。それは必ずしも子どもの誕生を前提としていません。それよりは夫と妻となった二人の結びつきが<神の愛を証しするため>というのが第一の目的です。創世記2章18節に「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」とあり、コヘレトの言葉4章9節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。」とある通りです。結婚する二人は、お互いが愛し合うことによって神の愛とキリストの福音を証しするよう促されています。使徒言行録2章46〜47節「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあるように、二人の家庭が主の愛に満たされることによってまわりの人々が救われていく、そこに結婚の意義があります。

家族と家庭
 家族と家庭は本来同じ意味を持った言葉です。しかし若干違ったニュアンスがあるのは、家族は血縁関係を有している人々の集合体というイメージがあるのに対して、家庭の方は血縁性が少し薄れて一つの家に住まう人々の共同体というイメージが強いようです。それで家庭形成という言い方はあっても家族形成とはあまり言わず、逆に家族構成とは言いますが家庭構成とはいいません。
 今日本に必要なのは「家庭形成」という考え方です。日本には「血は水より濃い」ということばがありますが、現実には決してそうではなく血のつながった家族同士で無惨な殺害や悲惨な虐待が頻発しています。家族崩壊が日本中に蔓延しています。一体家族とは何なのかが深刻に問われています。先に述べましたように、家庭は神の前での夫婦二人の愛の誓いによって成立いたします。日本では真の意味でのキリスト教的結婚式は少ないかもしれません。神前、仏前、無宗教式等々いろんな形での結婚式があります。しかしどのような形であれ、血縁ではなく、<愛と誓約によって成り立つ家庭>を私たちは真剣に考えたいと思います。


主日(聖日)の朝、車から降りて教会堂へ向かうクリスチャンファミリー。

教会と家庭
 以上のような考え方は、家庭は教会から生まれ、また教会を目ざすということでもあります。聖書では教会を「神の家族」と表現しています。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」(エフェソの信徒への手紙2章19〜20節)家庭形成と教会形成はその本質において一つのことなのです。
 世界中の人々が神の愛とキリストへの信仰によって神の家族とされていく、それを目ざす私たちの家庭形成でありたいと思います。家庭は愛の学校であり、小さな神の国なのです。

(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
(編集) 伝道研究委員会
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posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『これが知りたい12章』2