
このいのちは誰のもの?
いのちの価値を、他人が勝手に判断したらどうなるでしょうか。「この人のいのちは大事、でもあの人のいのちは捨ててもいい」という判断を、他人がした歴史がありました。
ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーは、ユダヤ人大虐殺の数年前に「強制的安楽死作戦」を実行していました。それは病人、障がい者、老人などの殺害計画です。生きる権利は、能力のある者だけに認められ、それに見合わない人は「抜け殻」とされ、ガス室でいのちを奪われたのです。日本でも昨今、邪魔だからと言って、親が子供を虐待する事件が絶えません。自分の子供を物(it)扱いにして、いのちを傷つけるのです。私たちも「役に立つかどうか」で、いのちの価値を決めようとする現実があるのではないでしょうか。

アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウの引込線に到着したユダヤ人たち(1944年)。
いのちは一体誰のものなのでしょうか。ある人は、自分の初めての子供が生まれた時、すぐには抱っこできなかったそうです。触ると壊れてしまいそうに思えたからです。でもそっと抱えた時、腕に伝わる温かさにいのちの計りがたい尊さを直感したことを、今でも覚えているそうです。いのちは、どのいのちも計りがたく尊いのです。その価値を、人が低めてはならないのです。
このいのちは私のもの?
「私のいのちは他人のものではない」ということは重要です。それでは「私のいのちは私のもの」ということで良いのでしょうか。「私のペン」「私の本」と同じように、「私のいのち」と言えるかという問いです。例えば、ペンであるなら、私の所有物として私が捨てることも自分で決められます。同じように、私のいのちも私のものだからということで、自分で捨てることを自由に決めてよいでしょうか。
実は、いのちは私のもののようであって、私のものではないのです。ややこしい言い方をしてしまいましたが、いのちは、神様の意志によって私へと差し出されたものです。言ってみれば、私のいのちは神様からお預かりしているものという言い方が正確であると思います。預かりものですから、お返しする日まで(召される日まで)大切にしなければならないのです。
ですから、他人に向かって「私のいのちの価の高さ」を主張すると共に、自分自身に向かっても「私のいのちは高価だ」と言い聞かせなければなりません。神様は、聖書を通して私たちに「わたしの目にあなたは価高く、貴い。」(イザヤ書43章4節)と語りかけて下さいます。神様の保証付きの貴さなのです。

Michelangelo buonarroti 『Creation of Eve(イヴの創造)』 (1510年)
いのちの尊厳の根拠
聖書には、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)とあります。また、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった。」(創世記2章7節)とも記されています。私たちは、神様が大切に造って下さったものだと言われており、また重ねて、肉体だけが神との関わりが深いのではなく、命の息(霊)をも吹き入れて下さったと告げられています。身体も魂も、神様の祝福に満ちている。ここに、いのちの真実が言い当てられていると思われてなりません。いのちの尊厳の根拠は、私の外から、造り主から来るのです。だからもう私たちは、自分のいのちの大切さの根拠を探すために、自分で自分の中を探す必要はないのです。主日ごとに礼拝において、造り主を見上げれば良いのです。
かけがえのない命
私たちは、どんなに人と能力が違っても、たとえ何もできなくても、神様の目から見たら一人一人が「かけがえのない命」なのです。だから人と比べて、劣等感や優越感に苦しむ必要はありません。またそのような輝くいのちは、地上の生活が終わると消えてしまうものではありません。死んだら無になるのではないのです。神様が約束して下さる永遠の命が、なお続くからです。私たちは、そのようないのちを喜びつつ生きていこうではありませんか。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
(編集) 伝道研究委員会
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