
Pierre-Auguste Renoir『Dance at Bougival』(1883年)。
身近な「愛」、
でも遠い「愛」
私たちは大抵、「愛とは何か」を分かっているつもりで生活しています。それは、誰でも人を好きになったことがあるからです。また、一人の人に夢中になった経験さえあるからです。だから誰でも、愛とは何かを分かっているつもりでいるのだと思います。でも、私たちは別の経験もしています。それは、あると思っていた愛が霧のように消えて、元々無かったようにさえなってしまうことです。また、自分の愛が相手に通じなかったり、自分が大事にされなかったりすると、愛は憎しみに変わります。嫉妬に変わることだってあるでしょう。愛と思っていたものが、簡単に違うものに変わってしまうことさえある。そんな時、私たちは改めて、真の愛とは何だろうと思わざるを得ないのだと思うのです。


聖書にあった「愛」という文字は、原語では「アガペー」という文字でした。当時これ以外にも「愛」を表す文字は、「エロース」や「フィリア」がありました。後者の二つは人間的な感情に基づくものであり、性的感情から、高次元の国家愛や友人への親愛などがこれにあたるでしょう。でもさらに豊かな愛を表そうとして、聖書を書き留めた人々は、アガペーという文字を使ったのです。これは、当時あまり使われていない、まだ概念の定まっていない文字でした。それを、ただ与えるのみの愛、犠牲的愛、人間の観念ではとうてい到達できない神の愛を表そうとして用いたのです。神様だけが示すことの出来た愛、それがアガペーであり、真の愛であるのです。
人間は、愛に渇く経験をするたびに、真の愛を知りたいと思います。私たちは、その愛をどこかで知ることができるのでしょうか。聖書は、主イエスを見るなら、真の愛が分かると言います。主イエスこそが、神の愛をそのままに生きた神の御子であられたからです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
(ヨハネの手紙一4章9節)

真の愛に生きるため
さて「愛」の観念が分かって、そこで終わりにするなら、何にもなりません。ダイヤも原石のままで終わってしまいます。「真の愛」を知るなら、そこから「真の愛に生きる」ことを始めようではありませんか。それは難しいことではありません。ここで私たちがどれだけ愛されているかを知ったのですから、その愛に応答して生きれば良いのです。またそのように生きることが、神様の最も願っておられることなのですから。
「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書22章39節)
この生活の中に、私も他者もやわらぎ、幸いとなる関係が生まれるのです。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
(編集) 伝道研究委員会
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