
フレデリック・ジェイムズ・シールズ『Good Shepherd』
神様の羊
聖書には詩編23編という詩があります。そこにはこう書かれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせて下さる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」この詩には、救いが書かれています。その救いとは、神様が羊飼いとしていて下さるということです。またこの私が、神様の羊となるということです。神様は、羊が迷うなら導き、「死の陰の谷」と言われるような苦難や危険の中を通る時にも、共にいて下さり、守り、力づけて下さるのです。天地を創造された全知全能の神様が、私の羊飼いとなって下さって、私の身も心も、髪の毛一本までも責任をもって養い、大事に愛して下さる。私たちの生涯の中で、いついかなる時も共にいて下さる。たとえ私たちが死んでも、それで終わりではありません。死んだ後も、神様が一緒にいて下さって、御手の中で私たちを養って下さるからです。神様が共におられる限り、私たちは滅びることはないのです。

Millet, Jean Francis『Shepherdess with her Flock』(1864年)。
離れて行った羊と捜し求めて下さる羊飼い
けれども、私たちは、神様の群れから離れた羊です。神様を自分の羊飼いと認めず、自分勝手に気ままに生きたいと離れて行った羊です。自分で何でもできるんだと離れて行った羊です。神様から離れて行った結果、誰にも守られない存在となりました。危険や苦難の中を通らなければならなくても、誰にも助けてもらえない、孤独と不安に怯える存在となりました。ささいなことで滅んでしまう存在となりました。
それでは、神様は、こんなわがままで自分勝手な私たちなど知らないと、お見捨てになったでしょうか。いいえ、神様は、私たちを捜し求めて、ご自分の群れに連れ戻そうとされるのです。「まことに主なる神はこう言われる。見よ。わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探し出すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場から救い出す。」(エゼキエル書34章11〜12節)。これが神様の言葉です。また、次のようにも書かれています。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(マタイによる福音書18章12節)。これが神様のお姿です。神様は小さな一匹の羊でしかない私たちを、その小ささと愚かさゆえに見捨てることなく、なおも愛され、捜し求められるのです。

Rembrandt Harmenszoon van Rijin『The return of the prodigal son』(1662年)。
イエス・キリストによって神様の群れへ
神様は、私たちを捜してご自分のところへ連れ戻されるために、イエス・キリストとなって、この世界に来て下さいました。イエス・キリストは「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章11節)と言っておられます。一人一人を捜し求めるために、天から来て下さった良い羊飼いです。その良い羊飼いであることをあらわすために、私たちのために十字架で死んで下さり、三日目に復活して下さいました。私たちを神様の群れに戻すために、死の苦しみまで担って下さったのです。私たちは、その良い羊飼いであるイエス・キリストによって、神様の群れへと連れ戻してもらうのです。イエス・キリストは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネによる福音書14章1節)と言われ、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言っておられます。イエス・キリストを私の救い主と信じ、その言葉に聞き従うなら、私たちは神様の群れの中へ、神様がどこまでも共にいて下さる救いの中へ、連れ戻していただけるのです。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
(編集) 伝道研究委員会
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