2011年05月31日

第3章 赦し


Reni Guido 『Christ Crowned with Thorns』(1623年)。

赦すことができない
 私たちは、自分に対して行われた他者の悪や罪を赦すことはできません。たとえささいなものであっても、赦すことはできないのです。夫婦であっても、親子であっても、友人同士であっても互いに赦しあうことができずにいます。憎しみと怒りにとらわれてしまう。その結果が悲惨なことになることが分かっていても、どうしようもなく赦せないのです。

愚かな家来
 マタイによる福音書18章21節〜35節に、イエス・キリストが語られた譬え話があります。あるところに、主人に5千億円ほどの負債を抱えている家来がいました。主人はその家来を憐れに思って、負債を帳消しにしてやりました。しかしその家来は、自分の負債を赦されたにもかかわらず、自分の仲間に貸していたわずかなお金を厳しく取り立て、牢屋に入れてしまいました。それを知った主人は、怒って、家来の負債を赦すのをやめ、全ての負債を返しつくすまで赦しませんでした。
 この譬え話の中で、家来はなぜ自分がとてつもなく大きな負債を赦されたのに、仲間の小さな負債を赦すことができなかったのでしょうか。それは、自分が十分に赦されている存在なのだということを、真面目に受け取らなかったからです。彼は主人の赦しの大きさを、全然受け取っていないのです。
 私たちが赦し合うことのできない大きな理由が、ここにあるのではないでしょうか。私たちも自分自身が赦されていることを知らなければ、赦すことはできないのです。


米英戦争で首都ワシントンの焼き討ち(Burning Washington in 1814)。

神様への負債
私たちが他者を赦すためには、まず自分が赦されていることを受け取らなければなりません。では、私たちは誰に赦されているのでしょうか。神様に赦されているのです。私たちは、神様に対して一切負債などないと思うかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。私たちの世界は、神様によって創造され、神様の御手によって保持されています。私たちは、神様の御手の働きがなければ、一秒すら生きていけないのです。そうであるのに、私たち人間は、神様などいなくても自分たちはやっていけると思い、神様などいらないと心の中でつぶやいています。また、神様は正しいことが行われることを望んでいるのに、私たちはそれに背いて、自分たちに都合の良いことばかりをしています。神様に対して、私たちの負債はたいへん大きなものなのです。
それでは、神様は、私たちのこの負債を取り立てられたのでしょうか。神様への背きの数々、無礼や非礼の数々、神様を悲しませた数々のことを、全て私たちに償わせようとさせられたでしょうか。もし、そうであるとするならば、私たちはどれだけの苦しみを受けても足りません。私たちの全てが奪われ滅ぼしつくされても、私たちの負っている負債、つまり神様への罪を償うことはできないのです。


George Cruikshank『キリスト者は十字架のところで重荷を降ろす』(天路歴程の挿絵から)

イエス・キリストによって赦される
 神様はこの負債を、私たちに償わせることはなさいませんでした。そうではなく神様が、私たちの大きな負債を償うために、私たちの身代わりを用意されたのです。それが神様の御子イエス・キリストです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネの手紙一 2章2節)とイエス・キリストについて書かれています。いけにえとは、身代わりになってくれる存在のことです。イエス・キリストは私たちの身代わりとして十字架の上で死んで下さいました。このイエス・キリストの十字架を、神様は私たちの全ての負債、罪の償いと認めて下さり、私たちを赦して下さいました。イエス・キリストの十字架によって、神様に対して負っている全ての負債、罪の対価を取り立てられることはなくなりました。私たちが、全てを奪われてまで償いをする必要はなくなったのです。

赦されている私たち
 私たちはイエス・キリストによって、神様から赦されているのです。どうしても赦せない時、憎しみや怒りにとらわれる時、自分に与えられている大きな赦しに目を向けるのです。与えられている大きな赦しに目を向けながら、隣人を「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書18章22節)と、イエス・キリストは私たちに言われるのです。

(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
(編集) 伝道研究委員会
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posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『これが知りたい12章』2