
[聖書台の上に開かれた聖書]
聖書との出会い
世界のベストセラーと呼ばれる聖書は、およそ2000ヶ国語に翻訳され、世界中の人々によって読まれています。日本でも、ホテルなどで手にしたことがあるという人は多いのではないでしょうか。悩んでいるときや慰めを求めている時、自分を救ってくれるような言葉を求めて、思いのままにページを開いてみたという人もいるでしょう。聖書の言葉に心を傾けて読む時、そこには必ずあなたにもっとも必要な言葉との出会いがあるはずです。
聖書をどう読むのか
しかし、聖書を一人で読んでいると、さまざまな矛盾や自然科学的な視点から見たときの不可能な記述が多くあることに気がつきます。そのために、聖書を読むことをやめてしまう人も多くいるでしょう。
しかし、聖書を読むときに、注意しなければならない点があります。それは、断片的に読んではならないと言うことです。聖書は旧約39巻、新約27巻、すべてで完結するものですから、その中にあるどんな小さな記述も削除(さくじょ)することは出来ません。それはちょうど、小説に似ています。小説のあるページの一部だけを読んでも意味が分からないように、聖書もまた、断片的に読んだのでは意味が分からなくなってしまいます。聖書は、初めから通読する必要があるのです。

1450年ころに、ヨハン・グーテンベルクがドイツ・ライン河畔にある町で、西洋で初めての活版印刷を始めた。その約5年後、活版印刷本の聖書を出版。これが「グーテンベルク聖書」と言われるものです。現存するのは47セットのみ。「グーテンベルク聖書」は、現在も世界で最も美しい印刷物とされており、美術的価値も高い。そのほとんどのページが42行で本文を組んでいるため、「四二行聖書」とも呼ばれています。
教会の信仰の書物である聖書
聖書がどのように記され、またどのように読まれてきたのかということを知ることは、聖書を読むときに重要なもう一つの点です。
例えば、新約聖書の中でも最も初期に記されたテサロニケの信徒への手紙一を見て見ましょう。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。」(テサロニケの信徒への手紙一1章1節)とあるように、聖書は教会のために記された書物なのです。まだ教会が建てられていない旧約聖書の時代もまた同じです。「聞け、イスラエルよ」(申命記6章4節)。ここで言われているイスラエルとは、神を信じ神に愛される民、その共同体を指しています。それは、私たちにとっては教会です。聖書は教会のために記され、教会の信仰者たちによって読まれてきた書物であるのです。それゆえに、聖書は教会を導き、教会の信仰を導いてきた書物であると言うことができます。
キリスト教においては、聖書を『正典』と呼びます。『聖典』とは呼びません。なぜならば、聖書は触れたり汚してはならない聖なる書物ではなく、教会の信仰の基準となり、教会の信仰を正しく導く書物であるからです。そうであるならば、聖書は一人で読まれるべきではなく、教会の中で読まれるべきであると言えるでしょう。
聖書とは、教会を支え、教会を導く書物であるのです。

Abraham Bloemaert『Christ and the Samaritan Woman』(1624年)。主イエスは井戸の傍で、サマリアの女に出会われました。この主との出会いにおいて、女に救いが到来するのです。(ヨハネによる福音書4章1〜42節に、この物語が記されています。)
キリストとの出会い
このようにして、聖書を読み進めていく中で、多くの発見やすばらしいみ言葉との出会いが与えられていくことでしょう。しかし、何よりも聖書の中にある最も大きな出会いとはイエス・キリストとの出会いにほかなりません。聖書は旧約・新約聖書をあわせると66巻の小さな書物から出来ていますが、そのすべての書物がそれぞれの仕方でイエス・キリストを証ししているからです。聖書の中でも、キリストご自身が「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)と語っておられます。
聖書とは、教会を支え、教会の信仰を導くものでありますが、何よりもその信仰の対象であるイエス・キリストへと教会を導くのが聖書なのです。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
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