
Pietro Lorenzetti 『Deposition』 (1325年)
死と復活と永遠の生命
人の罪と死
死は、人が神にそむいたことからもたらされたと聖書は告げます。神は最初に造られた人間アダムとイブをエデンの園におかれました。そこには命の木をはじめ沢山の木が植えられておりましたが、ただその中で「善悪を知る木」からだけはその実をとって食べてはならないと神はお命じになりました。しかしまずイブが蛇にそそのかされてそれを取って食べ、次に夫のアダムもイブから受け取って食べてしまいました。二人はそれを取って食べ「神のように善悪を知る者」となろうとしたのです。その結果、人は死ぬようになったと聖書は告げています。「死は神にそむいた罪のむくい」なのです。死は罪と深く関わっている、これが聖書の教えです。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙1章5節)と言われている通りです。罪は神からの離反を意味しており、まさしくそれこそが人の死なのです。

Hugo van der Goes
左 『The Fall of Man』 (1468年)
右 『The Lamentation of Christ』 (1468年)
左 『The Fall of Man』 (1468年)
右 『The Lamentation of Christ』 (1468年)
十字架の死と復活
こうして死を背負いつつ生きるようになった人間ですが、イエス・キリストの十字架の出来事によって新しい死の意味が示されることになりました。それは犠牲愛、犠牲の死ということです。主イエスは、神から離反して罪の死へ落ちゆく私たちのために、みずから人の罪を負い、その罰としての死を引き受けて下さったのです。主イエスの十字架の死は、私たちが罪ゆるされて新しく神の子とされるための死でありました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ペトロの手紙一2章24節)。この出来事から「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)。という生と死が私たちにも可能となったのです。罪というのは、結局いつも、何でも自分中心に生きてしまうことなのですが、主イエスによって罪ゆるされた者はそれを乗り越えて、神のためと人のためと人々のために生きかつ死ぬように変えられるのです。このシリーズの『洗礼(第6章)』にあるようにそれが「キリストとともに死に、キリストと共によみがえる」ということなのです。死から復活へと、私たちの生の質が全く変えられるのです。

Angelico , Fra (1400-1455) 『Resurrection of Christ and Women at the Tomb』
永遠の生命
キリストと共にある生と死は「永遠の生命」へ結びつけられていきます。主イエスはこう祈られました、「永遠の生命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ福音書17章3節)。
私たちの生命は死んで途切れるのではありません。無になるのでもありません。キリストの生命と結びつけられて、死からよみがえり、永遠の生命を与えられるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ福音書11章25〜26節)。このキリストの呼びかけを、死の床で聞く恵みが私たちに許されているのです。
なお、葬儀や墓地の実際については各教会の牧師先生にお尋ねになり、その指導を仰がれるのがよいでしょう。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
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