2011年04月18日

第9章 献金


Albrecht Dürer 『Adoration of Magi(博士たちの礼拝)』
東方から来た博士たちは、母マリアに抱かれて眠る御子と出会い、持てる最上の贈り物をささげました。


感謝と献身のしるし
 私たちの信仰生活は、主イエス・キリストの十字架と復活に現された神の恵みにお応えするものです。それは、感謝と献身の生活であるということができます。私たちの救いのために御子が尊い命をささげて下さったことを心から感謝し、私たちも自分自身とすべての生活を神のものとして献げるのです。
 献金も信仰生活における具体的なわざのひとつであり、神の恵みに対する感謝と献身のしるしとしてなされるものです。そのことによって、私たちは教会に召された一員として分に応じた責任を果たし、宣教のわざに参加してゆくのです。献金においても、私たちは神に用いられる喜びに満ち溢れるのです。ですから、献金は、願望の成就のためのお賽銭、参加費や会費の類とは根本的に性質が異なるということを覚えておかねばなりません。
 コリントの信徒への手紙二9章6〜7節は献金の意味を明らかにしてくれます。
 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」


作者不明 『Pieta』 (1500年頃)。十字架から降ろされた主イエスの遺体を抱える。


信仰の態度を映し出す献金
 献金をいくらしたらよいのかという問題があります。ここで大切なことは、神の前に真実であるということであって、他の人々と比較することではありません。
代々の教会は収入の十分の一を献げるという精神を大切にして参りました。旧約聖書のレビ記27章30節によれば「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」とあります。この「十分の一献金」の背景には、私たちのすべては本来、神からあたえられたものであるとの信仰があります。ですから、自分たちの必要をまず満たし、余ったものがあれば神に献げるという姿勢は、信仰者にふさわしくありません。そこには献げる痛みが何も伴わないからです。旧約の時代には収穫の初穂をまず神に献げることが求められていたように、私たちもまず与えられた収入の中から献金を聖別したいのです。そこにも神を中心とする生活が生き生きと整えられてくるのです。
 ルカ福音書21章1−4節に記される「貧しいやもめの献金」の記事はいつでも思い起こされてよいでしょう。他の人々にはわずかに見えたレプトン銅貨二枚に、貧しいやもめの信仰の大きな喜びと献げる大きな痛みが込められていました。主イエスはそれをご覧になり、お喜びになられたのです。


ルカによる福音書21章1〜4節「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」
写真 Gustave Dore 『 Bible Illustrations・やもめの献金 』 (1860年頃)


献金の使途と種類
 私たちの献金は、もっぱら所属する教会の伝道の働きのために用いられます。そこには牧師・伝道師・教育主事への謝儀、伝道費、礼典費、事務費、営繕維持費等も含まれます。もちろん、他教会、神学校、キリスト教主義学校、福祉施設を支援するために対外的に支出される場合もあります。すべては神の栄光が現されるためにとの祈りの内に献金は大切に用いられます。
 献金の種類としては、@礼拝献金 A月定献金 B特別献金(クリスマス・イースター等の教会暦に合わせた献金)C感謝献金(誕生・入学・結婚・全快等) D指定献金(会堂建築・オルガン奉献等)があります。どんな小さなことにおいても神の恵みに感謝して献げる機会としてゆくことは、健やかな信仰の証しです。私たちは、献げるという姿勢を身につけることの大切さを見失わないようにしたものです。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
私たちの教会は、世界神霊統一協会(統一教会)、ものみの塔、モルモン教会などとは一切関わりがありません。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:03| 『これが知りたい12章』