
人はそれぞれの人生の旅路を始めた時、そのはじめから喜びと共に戸惑いも味わいます。それは、誰もが現実の壁にぶつかりながら、頭を抱えるようなところを通らされるからです。悩み、辛いと思うままに悲しみます。そしてその時、「わたしをここから救い出してくれる力のあるお方はどこにいるのか」と叫びの言葉を上げる。でももしそこで、その心と言葉を<上へ>と向けて叫ぶのなら、それが祈りの始まりなのです。
こうした人間の生に深く根ざした言葉を、誰に向けて訴えるのか自覚したものにするなら、私たちの内側にあった漠然とした思いは明確な形を取るのです。それは信頼をこめた祈りとなり、希望がそこに生まれます。
どう祈ったらよいのか
祈ることを考え始めると、まもなく「どう祈ったらよいか分からない」、ということにぶつかるのではないかと思います。教会で信仰の先達者の祈りを聞きます。そのとき、自分も立派な祈りをしなくてはという気持ちが、焦りを呼ぶかもしれません。そうすると祈りの言葉が出てこなくなる。神様に叫びをぶつけたいという思いと、どう祈ったらよいのか言葉が分からない、そのはざまでイライラするのです。でも私は、「どう祈ってよいのか分からない」、それが本当の姿だと思うのです。そして、そこから出発するのだと。

あなたの祈りを待っておられる神
どう祈ってよいのか…。そのうめきを一番よく知っているのは、自分自身よりも、実は祈りの受け取り手である神様であると思います。神こそが、私たちの心の奥にある悩みや叫びを、誰よりも真実に知っていてくださり、真剣に受け取っていてくださるのです。聖書に「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマの信徒への手紙8章26節)とあります。神ご自身に他ならない“霊”が、私たちのうめきを一緒にうめいて下さって、み父なる神に執り成して下さっているのです。その執り成しに支えられて、私たちの祈りが始まるです。

作者不明『Job in Pray』(1410年ごろ)
草の上にひざまずいたヨブが、星にちりばまられた雲から姿を現している神に向かって、上を仰いで祈っています。背景の複雑な模様は、アカンサズ葉飾りの様式で描かれています。
草の上にひざまずいたヨブが、星にちりばまられた雲から姿を現している神に向かって、上を仰いで祈っています。背景の複雑な模様は、アカンサズ葉飾りの様式で描かれています。
ですから、私たちはただそのお方を信頼して、顔を上げて「神様」と呼びかければよいのです。神は必ず全部受け取ってくださる。神こそが、あなたの呼びかける声を喜んで待っていてくださるのですから。
神のみ名を呼ぶ祈りは、現実の生活から離れたところでするものではありません。むしろそこから生まれる様々な喜びや悲しみを神に打ち明け、委ねていく言葉です。私たちは、自分自身を神に投げかけるようにする、そこに神との対話としての祈りが生まれているのです。

Jean-Jacques Henner 『Young Woman Praying(祈る若い婦人)』 (1937年)
主イエスが与えてくださった祈り
私たちは、どんな事でも神に率直に祈り求めることが許されている。しかしそのような私たちだからこそ、どのように祈ることが神に求められているのか、真摯に問うべきでしょう。
2000年前、弟子たちが主イエスにこの質問をいたしました。「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカによる福音書11章1節)と。弟子たちは、主が祈っている姿を見ていて、自分たちにもどう祈ったらよいのか教えて欲しいと願ったのです。それに答えて主イエスが示してくださったのが『主の祈り』でした。ですから『主の祈り』は、主イエスがご自分の祈りへと弟子たちを招き入れる祈りであったと言えるでしょう。私たちは、主イエスが「このように祈りなさい」と与えて下さった『主の祈り』を祈るとき、神のみ子イエスがみ父を呼ぶ祈りに、私たちの祈りも重ねられるのだと思います。そしてこの祈りの言葉に支えられて、私たちは誰もが祈りの筋道を整えられ、しっかりと父なる神へと心が上げられてゆけるのです。
(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合 [転載不許可]
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