2011年04月18日

第6章 洗礼


[洗礼盤]


信仰から洗礼へ
 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
(ローマの信徒への手紙6章3〜4節)


教会のしるし
 説教と共に、教会の礼拝には聖礼典があります。イエス・キリストにある神の恵みを表します。
 神さまは、私たちに、キリストとその良い賜物のすべてにあずからせると、み言において約束してくださいました。その約束をたしかにし、保証するために、教会は主イエスの救いにあずかる聖礼典を設けました。
 洗礼と聖餐、その二つが主イエスに直接つながる聖礼典です。洗礼はキリスト者となることを表し、聖餐はキリスト者でありつづけることを表すものです。
 ここでは、洗礼についてご紹介します。

洗礼−神の子と教会−
 洗礼は、父と子と聖霊のみ名により、水によって行われます。
 十字架と復活の主は弟子たちに(教会に)、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じられたことを守るように教えなさい。」とお命じになりました。
 実は主イエスもヨルダン川で洗礼を受けられました。
 その時次のように天から神の声が聞こえてきました、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者」(マタイによる福音書3章17節)と。このみ言葉は、私たちが洗礼を受けるとき、主イエスを通して私たち自身にも語られるのです。罪人である私たちが神の子として認められる、ここに洗礼の恵みがあります。
 そしてこの神の子たちの交わりによって教会が建てられます。「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(コリントの信徒への手紙一12章13節)。洗礼の時に受けた聖霊は、個人的なものではなく、キリストの体=教会を建てる教会的な神の力なのです。
 洗礼を通して、神さまは私たちを、神さまの家族(神の国の民)の一員とし、神の子として、迎え入れてくださいます。洗礼の水によって、私たちは、私たちの罪を清めてくださる主イエスの死と復活にあずかります。私たちは主イエスと一つになり、また教会において主イエスに結ばれている全ての人々と一つとされます。罪赦されて、新しい命に生きる者となるのです。


Ghiberti Lorenzo『The Baptism of Christ』 (1427年)


洗礼を受けるには−悔い改めと信仰の告白−
 洗礼を受ける者は、信仰と悔い改めをもって、その恵みにあずかります。
 罪を告白し、信仰の言い表しをしなければなりません。それは、洗礼を受ける資格ではありません。もとより、洗礼を受ける資格など、だれももっていません。資格ではなく、私たち罪人を神の国へ招き入れようとしてくださる神さまの働きかけに対する私たちの応答です。
 それは自分勝手なものであってはなりません。教会の導きのもとで、神の恵みへの応答として、正しくなされることが大切です。み言と聖霊のお働きを祈り求めつつ、牧師や他の導き手の指導を受けてください。また、受洗のための準備会に出席してください。

洗礼を受けた者は
 洗礼は生涯で一度だけ受けるものです。「ただ一回」の恵みです。それで充分な、決して消えることのないしるしだからです。
 洗礼を受けた者は、キリストの体の一肢として教会に連なり、礼拝をささげ、聖餐にあずかり、その恵を証しし、感謝と祈り(信仰生活)に生きる者となります。


(発行) 日本基督教団 福音主義教会連合    [転載不許可]
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posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:06| 『これが知りたい12章』