み言葉のパンで生きる365日
2023年5月
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(月)
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。」 (エレ23・3)
南ユダ王国は滅ぼされ、民は離散した。しかし、彼らは昔、神が選び、「我が民となる」とされた民なのだ。その想いを、神が貫かれる。背きの民だけれども、にもかかわらず残った人々を再び都へと呼び戻すから、と語り掛けられたのだ。
背きの者に向けて、「私が愛する思いは消えないから」というメッセージは、そのまま今朝、放蕩息子のボクにも届いた。嬉しかった。
●2(火)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。 (サム上2・7)
これは「ハンナの祈り」の中の一言。赤ちゃんが与えられずに悲しみの中にあったハンナに、主が息子サムエルを授けた。その子を神殿に連れて来た時、賛美して祈ったのだ。
悲しみを知っている人は、主の恵みが、つぶさに分かる。「この幸いは偶然でもラッキーでもない。主が与えて下さった」と。「全ては主の御手の中だ」と分かる。それは貧しくされた時にも先を望み見て平安を得る根源。
●3(水・祝日)
食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。 (申8・10)
モーセが荒野の四十年の旅を振り返りつつ、十戒を賜った日のことを語った。そこで、その神からの戒めを守って歩むなら幸いを得ると告げたのが、今朝の御言葉だ。それは、現実的な衣食住も満たす恵みなのだと。
しかし私たちは知っている。満たされても、なおそこで満足できない民の歴史を。そして思う。それはボクの姿でもあると。主をたたえない根源に、ボクの中にある強欲がある。
●4(木・祝日)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。 (イザ6・5)
「汚れた唇」って何だろう。
思い巡らしていて思いついたのは、隣人を悪く言う自分の口のこと。自分が義しいと主張して、悪い噂を広める口のこと。兄弟姉妹をおとしめる言葉が出て来る唇のこと・・・。
いや、唇でなく、その唇を持っている自分自身のこと。心根に罪が渦巻いている自分自身のことだ。赦されることが必要な私の存在そのもののことなんだ。
●5(金・祝日)
「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」 (エレ31・10)
帝国が攻めて来る、バビロン捕囚の日が迫っている。その人々に向けて「神の懲らしめをちゃんと受けよ、怖がらずに。悔い改め日々を過ごせるために」と告げたエレミヤ。しかしそれだけでなく、その日々の向こうにある恵みの約束も告げたのだ、「主が守るから。回復の日が来るから」と。
主の御手の中にある懲らしめならば、それは未来への道。ならば逃げるな、むしろ首を洗って前に出よう。
●6(土)
あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください。 (詩28・1-2)
これは、ダビデが歌った歌として読むように促されている詩編。彼は、愛息子アブサロムによって命を狙われた。息子の反逆に、どれほど苦しみ悲しんだことだろう。その中でこの詩が生まれたのだとしたら・・・。
詩が彼の肉声のように聞こえて来る。困難の中で祈り続けていても、神が沈黙しているように思える時、絶望の淵に立たされる。まさに祈りへの神の応答は、「命綱」なのだから。
●7(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●8(月)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。 (創24・48)
イサクのお嫁をイスラエルの民族の中から選ぶために、父アブラハムの僕が旅に出発した。その旅先で祈っている時、後にイサクの妻となるリベカと偶然出会えたのだ。
否! 偶然ではない。僕がその時言ったのが「主が導いてくださいました」という信仰の言葉だった。
ボクも祈っていたら分かる。全ての出来事は、偶然じゃない。あれもこれも主の御手がそこにあったと。
●9(火)
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。 (サム上12・21)
「むなしいもの」って何だろうと思って、聖書を開いたら、アレコレの個別の話ではなかった。むなしいものとは、主なる神ではない全ての物や、事や、人であった。
自分の周りにある「むなしいもの」を考えてみた。お金に頼ることもある、人脈に頼ることもある。・・・でも、主以外に頼ってしまう最も厄介なものがあった。自分自身であり、驕りだ。それこそが主の厭うものだ。
●10(水)
心の中で兄弟を憎んではならない。 (レビ19・17)
これは神聖法集の中の言葉。つまり、神に喜ばれる民として相応しく生きるための道標なのだ。それはまた、キリスト者として相応しく生きるための法と言い換えても良い。
でも、信仰生活の中で、ふと隣人への不平が起こる。それが口から出た日には、目も当てられない。それでも自分が義しいと思っている。ああ、神様から見られたら、目も当てられない者、それはボクなのかも。
●11(木)
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。 (イザ35・10)
まだバビロン捕囚は起こっていない。これからやって来る大きな苦難。しかしそこで預言者イザヤは、更に向こうにある希望を告げたのだ。それは自分が思い描く期待などではない。神が与える未来であった。
これは「苦あれば楽あり」などという程度の楽観視ではない。神の計画なのだ。苦しみのある人生だから、ボクも神の御旨を聞いて歩みたい。神が描く未来に行くために。
●12(金)
あなたたちも寄留者も主の前には区別はない。 (民15・15)
これは神を礼拝するときの掟。それなのに、驚いた。「礼拝する神の民」とされているイスラエルの人々に向けてだけでなく、ここでは異邦人の寄留者も含まれているのだから。
そうか! 思い出した。出エジプトは、異邦人も一緒に逃げたのだった。その一人ひとりも神の守りの中に入れられたのだ。そして、ボクもその中に入れられている一人だ。異邦人なのに、恵みの中に数えられている。
●13(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」 (ヨシュ5・15)
ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、エリコの平野に到着した。でもそこで彼の前に、主の軍の将軍が現れて言った言葉がこれだ。
私たちにとっては、相模原の地にある礼拝堂が、その「聖なる所」だ。ふと、そこに入る時、土足で上がり込んでいないだろうかと思った。下履きというのでなく、心が土足だということ。自己中心の泥がこびりついた履物を脱いで、祈りの場に入らねば。
●14(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●15(月)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 (詩30・6)
心に沁みて届く御言葉だ。「自分にも、悲しみと辛さに、泣きながら夜を過ごすことがある」と分かる人には、なおさらだろう。でも、この詩人と同じように、信じるなら「悲しみで終わらない」とも分かる。「喜びの朝が待っている」と、悲しみの夜の只中で言えるんだ。
信仰って、本当にありがたいな。苦しみの無い人生はないから、改めてそう思う。
●16(火)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。 (創39・23)
「ヨセフはいいナー。神様に全てをうまくいくように計ってもらえたなんて。素敵な生活を送ったんだろうな」と思って聖書を見たら・・・。
彼はエジプトで侍従長の家の使用人となっていた。そこで主人の妻に誘惑されて、断ったら謀られて、監獄に入れられてしまう。踏んだり蹴ったりなことばかり。そうか! 主が共におられて守られるというのは、災難苦難が無くなることじゃないんだ。乗り越える力を得ることなんだ。
●17(水)
あなたに背いたことをわたしは知っています。 (詩51・5)
この詩は、「ダビデが部下の妻バド・シェバと通じたとき預言者ナタンがダビデのもとにやって来たとき」という但し書きが添えられた。
姦淫の罪、部下を裏切る罪、戦いに送って殺した殺人の罪。彼はそれを知った。その時、神の前に出る。裁かれることを承知で。それは、神以外に罪を拭って下さる方はいないと知っていたから。裁きこそが恵みへの道。そこにだけ、赦しがあるから。
●18(木)
神に僅かに劣るものとして人を造られた。 (詩8・6)
詩人は「人間とは、一体何者だというのか。神が顧みて下さるなんて、そんな特別扱いが許されるなんて」と自問する。そしてハッと気づいたようにして、今朝の言葉を歌ったのだ。
「神に僅かに劣る」というのは、神の座に近いという傲慢じゃない。神様に直接目をかけられ、だから生きとし生ける物の中で唯一神様のお心が分かる者ということ。そこには自惚れでなく、賛美しか起こらない。
●19(金)
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 (エゼ34・11)
神の民と言われたイスラエルの民。でも自らの背信のゆえに国は滅び、人々は異邦の地に離散した。南王国の人々は、バビロンへ捕囚となる・・・。
しかし神は、人々を見捨てたのではなかった。それは人々が神を求め続けたからではない、神が人々を求め続けたからだ。「探し出す」、「世話をするから」と言って下さるのだ。
今朝、その言葉だけで癒された。神の想いに触れたから。
●20(土)
行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。 (エレ2・2)
エレミヤは、神様からの言葉を、都エルサレムにいる背信の民に、あまねく伝えねばならない。その中身は、神の怒りと、神の嘆きの言葉だった。
耳にして厳しい「自分の罪」の告発は、実は、正しい道に方向転換させてくれる最後の警告だ。そしてそれは、恵みに至る唯一の入り口なんだ。顔を背けてはならない。自分と関係ないと思ってはならない。恵みへの道を、そこで失ってしまうから。
●21(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●22(月)
あなたたちがわたしに助けを求めて叫んだとき、わたしは彼らの手からあなたたちを救ったではないか。しかしあなたたちはわたしを捨て・・・(士10・12〜13)
ああ、激しい神の嘆きの言葉。「懸命に愛を注いだのに、あなたたちは私から離れて行った。他の人(異邦人の神々)を慕って行った・・・」と嘆いておられる。イスラエルの民はなんて薄情な背信者たちなんだろうと思って、ハッとした。
ボクも、神様のお心も御言葉も棚上げして、〈自分の遣り方〉という〈神〉を慕って行く時がある。我こそ、神の嘆きの子なり。
●23(火)
だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら・・・こたえてください。 (王上8・38〜39)
とうとう神殿が完成した。そのときのソロモン王の祈りの中の言葉がこれだ。そして「心に痛み」とは、飢えや、病に苦しむこと、災難が降りかかること、敵に襲われることだった。
王は自分の繁栄を求めない。健康も、財産も。彼の願いは民の平安。そして、民と神との間の強い結びつきだった。彼は、良き執り成し手なのだ。ボクもこんな信仰者でいたい。また、兄弟姉妹で互いにこう祈り合いたい。
●24(水)
あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。 (ルツ1・16)
えっ? あなたのものは全部私のものって言ってるみたい。一見、強欲だな。でもこれって何のことだろう。
聖書を見て分かった。夫に先立たれたルツが、姑の故郷に一緒に行こうとする時、自分の民族や家族と別れる決意だ。自分の民族神も捨て、主なる神を私の神とする告白だ。
強欲どころか全てを捨てる決意。それは一見、貧しくなるけど、豊かさに至る道だと、ボクは知っている。
●25(木)
わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 (詩6・7)
詩人の一言一言が胸に沁み入る。嘆きの強さ、悲しみの深さが伝わって来るから。これは、ダビデの詩として読むなら、詩人の思いが良く伝わって来るとも言われている詩。彼は、愛息子の謀反で命を狙われた王。本当に切なくて辛かっただろうなぁ。
私たちも涙の枯れない夜がある。辛くて胸をかきむしる日々もある。その訴えをどこにもって行くべきか。そうだ、詩人と同じように、神にだ。
●26(金)
イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 (出3・9)
エジプトで奴隷となっていた民の大脱出が起こる。その出来事の出発点が、ここなのだ。神が、人々の叫び声を聞かれたということだった。
神の救いの御業が、私たちにも起こる。それは、私たちが苦しみにあえいで叫ぶ時だ。打ちひしがれている姿を、神がご覧になった時だ。ボクの苦難に心を痛めて下さる。そのお方が私の神、私の主。なんと畏れ多きこと、そして嬉しいことだろうか。
●27(土)
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。 (アモ5・24)
南北王国の滅亡前のこと。民に向けて預言者アモスが告げた神の言葉だ。神殿礼拝で、形ばかりの献げ物や賛美の歌よりも、心からの礼拝をせよと告げる。それは具体的には何か。それを今朝の御言葉が示した。
神に対しては、正義を尽くすこと。隣人に対しては、恵みの業を注ぐこと。あ、これはイエス様が言われた『黄金律』と重なる気がする。そうだ、神の願いはずっと同じなんだ!
●28(日)
(聖霊降臨祭・ペンテコステ)
早天祈祷会 永盛理香子 姉
礼拝説教
主 日 藤森誠 伝道師
●29(月)
それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。 (士2・18)
「それは」とは何だったのか。人々を導くヨシュアが亡くなり、民は主から離れた。その結果、略奪者に苦しめられる。その時、民の呻きを聞いた神が、再び民を導く者を立てて下さったことだった。
罪人であっても、神に憐れみを乞うて良いんだ。主は哀れに思って、心を動かして下さるから。それが、旧約時代から変わらない神の真実。その中にボクも飛び込もう。
●30(火)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。 (イザ26・19)
イザヤは、国が亡びた先にある神の恵みの御業に顔を向ける。人々の背きのゆえに捕囚となるが、その先を見ているのだ。いや、祈りの中で見させられている。「あなた(神)の送られる露(恵み)は光の露」と。
なぜ滅亡へと転がり落ちるのが目の前にある現実なのに、その向こうの希望が見えるのだろう。きっと祈りの生活は、神との生きた対話の時間だから。祈りが見る未来があるのだ。
●31(水)
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。 (エレ11・20)
人々はエレミヤに「神の言葉を伝えるな」と脅した。自分達の背信を指摘され、悔い改めを迫られるのを嫌ったからだ。彼は窮地に立たされた。
そのとき彼は、人々に言い返したのでも争ったのでもない。自分の正義を主張したのでもない。神のもとに駆け込んだのだ。つまり祈った。そこが解決の唯一の場と分かっていたから。
ボクも窮地に立つ日がある。その時「主よ、打ち明けます」と祈ろう。