2023年04月30日

『日々の聖句』2023年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年4月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。   (イザ24・5)
大地が人に「汚された」、と聖書は告げる。地球や環境のことが、聖書に扱われているんだ。「信心や善悪のことなら馴染むけど」と思いつつ、ちょっと意外に感じて、すぐに「当然かも」と思い直した。だって、世界を造られたのは、神御自身なんだから。それも、全てを見て「良し」と言われたほどに愛されたのだから。
それなのに、人の罪が、自然も汚すのだ。環境問題は、信仰問題だ。


●2(日・棕櫚の主日)
礼拝説教
(棕櫚の主日)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。  (箴20・19)
「そんな人と関わるのは嫌だね」と思いながら・・・。そう思っている自分が、人の秘密を漏らしている者かも。陰で、嫌いな人の悪口を言っている者かも。正義は当然自分にあるという口調で、直接会って、手紙やメールまで使って。
ああ、私の中に、神が忌み嫌う者の姿がある。先ずその自分に気付いて、悔い改めて、金輪際交わらないように縁を切らねば。


●4(火)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。  (サム上2・26)
主なる神に喜ばれる者になったら、隣人にも喜ばれる人になれているということかな。いや、隣人に喜ばれる人が、神に喜んでもらえる者ということか? でも、そんな卵が先か鶏が先かという話じゃない。御言葉に聴従して生きるなら、神にも人にも喜ばれる者となって〈いる〉ということなんだから。だから、「すくすく育ち」というのは、身体の話だけじゃなくて、霊的な話なんだよね。


●5(水)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」  (創12・1)
アブラハムが、神様から祝福へと呼び出される。しかしそれは、未踏の地への旅立ちだった。自分を自分で支える地縁・血縁の全てを捨てて出発することへの呼び出しだった。
ボクも神様の祝福を求めている。でもそれを戴く場所へと呼び出された時、アブラハムのように応えられるだろうか。神様のなさり方に、応答できるだろうか。御心に従いたいと言っていながら、従わないボクがいる。


●6(木・洗足の木曜日)
わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。(イザ55・8)
イザヤが背信の民に「神に立ち帰るなら豊かに赦して下さる」と主の御旨を伝えたのがこの御言葉だ。
人と人なら、裏切り者を赦したりしないだろう。再び愛したりしない。償い切らせて、なお縁を切ろうとするだろう。でも父なる神は違うのだ。
ボクはそれを知っている。十字架の上の御子のお姿に、神の御子が死なれた姿に、そこに神の思いが露わとなったことを。


●7(金・受難日)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。  (詩37・24)
きっと誰もが人生の中で、行き詰まり、倒れ伏してしまう時を経験するだろう。誰からも、どこからも助けがなく、見放されているように思える日がある。
でも今朝、御言葉は、「たとえ倒れても、あなたをとらえる御手は去りはしない」と告げるのだ。あなたが倒れ込んだ、その足元で、主があなたを支えていると。どんな時も、決して見放されはしない、と。


●8(土)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。  (コヘ8・5-6)
改めて「賢者」ってどういう人のことかなと考えさせられた。知恵や知識が豊かとかじゃない。経験の豊富さとか、弁が立つ人とかでもない。
空気が読めて、状況判断できる人とかでもない。ん? ちょっとこれには近いのかも。なぜなら、「ふさわしい時を読む人」のことだから。
でも、その「時」は誰が教えてくれるのかな? ボクは、もう知っているな。それは、あのお方、イエス様だ。


●9(日・復活祭 イースター)
礼拝説教
イースター(復活祭)

早天祈祷会 津川優司 兄
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。   (創4・4-5)
最初の兄弟の物語。兄のカインも弟のアベルも献げ物をしたのだけれど・・・。神は弟の物だけを受け取られた。その神の御旨は人間には分からない。しかし兄カインは、思い通りに行かないから、嫉妬して激しく怒ったのだ。愛されていることは変わっていないのに・・・。
ふと放蕩息子の兄の怒りを思い出した。人はどこまでも自分中心なのかも。最初の兄弟からずっと。


●11(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。   (詩84・11)
詩人は、「神の庭で過ごす一日」を、この上もなく幸いな時だと謳っている。栄華を極める王宮で過ごすよりも、大きな恵みだと言うのだ。
そんな主の庭って、どこだろう。天の国のことかな? それなら地上に生きるボクには、少しだけ遠い場所。あ、もしかしたら、あそこだ。あそこが主の庭だ。それは、主の神殿、礼拝堂だ。ボクもいつも、「礼拝は千日にもまさる恵み」と過ごしたい。


●12(水)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)
捕囚の地でゼカリヤが、主の言葉を人々に告げた。それは、見捨てられたように見えるイスラエルの民に、しかし「あなたと一緒にいるよ」という主の約束の言葉だった。
きっとこの言葉は、人々にとって慰めと希望の言葉として聞こえただろう。ボクも、それがちょっと分かる気がする。打ちひしがれた日に、一緒にいてくれた一人の友の存在が嬉しかったから。ただ居てくれるだけで・・・


●13(木)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。     (箴1・23)
主の霊を戴くには、それを受け取る器を、自分の中に準備しなくちゃならないのかな。でもそれは、自力で自分の心の中を綺麗にする、というようなことじゃないらしい。
それは「懲らしめを受け入れる」という場所を持つことだと告げられていた。首を洗って御前に出るんだなぁ。なんか恐いな。でも、本当に私の御父だと信頼したら、御前に出られる。委ねられる。信仰の問題なのだ。


●14(金)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。   (詩4・9)
なんて素敵な安らぎの時間なんだろう。私も、いつもこんな風に過ごしたいと思う。でも、これはどういう場面なのだろうかと思って聖書を開いたら、詩人は苦難の底から主を呼び求めていた。さらに、「おののいて罪を離れ・・・主に寄り頼む人に御顔を向けて下さる」と告げられていた。
安らぎの時間は、主に立ち帰り、主に信頼する所にある。ボクも御父のもとに帰ろう、平安を求める故に。


●15(土)
モーセは主に言った。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」     (出4・10)
主が、イスラエルの民をエジプトから脱出させるための指導者としてモーセを選んだ。その時彼は、「口下手だし、人の前に立つのは苦手だし、無理です」と、主に対して拒んだのだ。
「御心に楯突くなんて、なんて不遜で不敬虔な」と思って、ハッとした。やりたい奉仕しかしない、やりたくない苦手な奉仕はしない。そんな姿は、ボクに似ていると気付いたから。恥ずかしくなった。主に対して。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●17(月)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」  (エレ7・23)
「むしろ」って何を指してるの?
聖書を開いたら、人々は律法を遵守して献げ物をしているけど、心が伴っていないことを主が見抜いてこれを言われたのだ。
神様が喜ばれることが何なのか、ハッキリ分かる。それは、ボクも御言葉に聞き従うことだ。それも心から喜びつつ。あっ、今、主の御声が聞こえる気がする「分かったのなら、そのようにしなさい」と。


●18(火)
獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。   (サム上17・37)
少年ダビデは、大男の戦士ゴリアトに対峙した。戦いのために持っているのは、投げ石だけ・・・。そのとき少年ダビデが言った言葉がコレだ。
単に「いま神を信頼している」ということだけじゃない。ダビデの信仰は、「かつて、あの日を守って下さった神」という現実味だ。信仰は、信仰体験も大切なのかも。、神の御業を数える体験の積み重ねだ。そこに育つ確信が、未来への信頼の基ともなる。


●19(水)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。   (ゼカ2・17)
「黙せ」と言われているから、神様は怒っておられるのかと思ったら、「主は・・・立ち上がられる」からだと告げられていた。どういうこと?と聖書を開いたら、都への帰還の喜びの知らせだった。
「黙るように」とは、「もう嘆くな。悲しみの日々は終わるから」ということなんだ。嘆きを終わらせるのは、単純な問題解決じゃなく、神様から未来の希望を得ることにあるんだ。


●20(木)
わたしは初めであり、終わりである。   (イザ44・6)
「これは、新約のヨハネ黙示録の御言葉」と思うけど、旧約の預言者イザヤを通して神が告げられた御言葉だ。神様がご自身を顕す時、古来も未来も、同じ言葉になるんだなぁ。
これを、捕囚の民が聞いたのだ。自分達の初めから、そしてこれから先もずっと主なる神がともに居てくださる。その宣言は、何よりもの励ましになっただろう。そしてその励ましは、今を生きるボクにも届くのだ。


●21(金)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。(エレ2・19)
自分の罪が、自分への懲らしめになるの? 私の背信が、私を責めるの? どういうことだろう・・・。聖書を見て分かった。
神からの報いを負うことになるからだ。罪も背信も、何もなかったかのようには終われないんだ。
今朝の御言葉が、ボクが過ちを犯す前のブレーキになってくれたら。そのために、大切な一言として、これを心に納めておこう。自分を守るため。


●22(土)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。     (詩23・1)
「あ、これはボクの好きなやつ」と、私の心が叫んだ。
多くの兄弟姉妹も「何十年もこの御言葉に支えられて来た。私の愛唱聖句です」とおっしゃると思う。この詩編二三編がそれほど愛されるのは、詩人が困窮の中に在りながらも、そこから告白された言葉の力強さによるのかも知れない。
ボクはこの先、棺の中にまで携えて行こう、この御言葉を。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●24(月)
彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。   (申3・22)
モーセが後継者ヨシュアに命じる、「ヨルダン川を渡って、民が受け継ぐ土地へ進め」と。それは、神の御旨。しかしその御計画には困難があった。敵がいたのだから。
今朝、御言葉は告げる。神の計画なら、神が戦って下さると。ならばボクの心配は、「どんな困難があるか」ではなく、「ちゃんと御旨を聞き取れるか」だ。祈りに依らないでは、一歩も進めないゾ。


●25(火)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。  (ヨナ2・3)
ヨナが、神の命令から逃亡した先で嵐に遭い、海に放り出されて死ぬ直前。神が遣わした魚に呑まれて助かる。自業自得なのに、それでも背いたヨナを助ける主。そこでやっと彼は悔い改められたのだ。そして神に顔を上げられた。
真の悔い改めって、神の恵みの中で起こるんだ。単に自分だけで悔いて懺悔する自分の業じゃない。そこはもう、慈しみの御手の中!


●26(水)
今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。   (ヨシュ23・8)
モーセから引き継いで、民を安住の地に導き入れたヨシュア。彼も老人となり、地上を去らんとする時、告別の辞を語った。その遺言の中心は、やはりこの言葉となったのだ。
その言葉は、私たちに向けての遺言でもある。この先、人生の航海を進むための揺るぎなき羅針盤としての言葉でもある。いざ、この針の示す方へと舵を切ろう。今日一日を迷わずに過ごせるために。


●27(木)
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。   (箴10・12)
「いさかい」の原因が示されている。それは自分の心の中に巣くっている「憎しみ」だ。または、隣人の心の奥にある「憎しみ」。でも、その悲しみの原因となる「いさかい」を除く方法も示されていた。それが、「憎しみ」に替えて愛すること。まず自分から相手を愛すること。相手が憎しみをもって自分を見ていても、愛すること。これ以外の解決はない。もしも世界がこれに気付けば、平和が生まれるのに。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。     (出16・8)
エジプトを脱出した民が、「食べ物が無くて死ぬ」と不平を言った。それに対してモーセが「神はその不平を聞いて、裁きではなく恵みを下さる。日毎にマナで満腹になる」と。しかしそこに加えたのだ「神に不平を言うお前たちは、ナニサマなのだ」と。
グサッと来た「一体ナニサマなのか」と言われたことに。でももっとグサッと来た。不相応な不平にさえ恵みで応えて下さる神様の御心に。


●29(土・祝日)
主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。     (詩33・9)
主なる神の御心こそが、代々にわたって実現されてゆく。そうであるならば、私たちがすべき祈りは、「あのことをして下さい、こうして下さい」と願うことじゃなくて、「あなたの御旨を悟らせて下さい。御心にお従いしますから」ということだ。でも、分かっているのに、現実生活に戻るとすっかり忘れている・・・。あっ、「人の愚かさ」の正体見つけたり。この忘却への無頓着さにあり!


●30(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師
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