2023年01月31日

『日々の聖句』2023年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年1月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●2(月・祝日)
二度とかたくなになってはならない。(申10・16)
イスラエルの民は、金の子牛で、偶像の神を作って拝んだ。自分の思いに凝り固まって、神を捨てたのだ。神様の怒りは極みに達する。しかしモーセの執り成しによって、人々は赦された。その後に、彼が民に約束させたのが、この言葉だ。
今朝、御言葉がボク自身に突き付けられている思いがした。


●3(火)
わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。   (詩51・4)
バト・シェバと通じたダビデ。姦淫の罪を預言者ナタンに指摘された。そこで彼はようやく裁きが目の前にあることを悟って、そして震えた。
自分の罪なのに、本当は自分で気付けないのかも。かのダビデ王でさえであった。でも罪は、単なる不道徳とか、法律違反とか、犯罪の類の話じゃない。神への背きだ。だから、心底恐ろしいんだ。救いを願うしかない。自分で自分を救えないから。


●4(水)
主は命じて言われた。「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる。」  (申31・23)
大預言者モーセの跡を継ぐヨシュア。たじろがずに民を率いて進むためには、自分の能力によらず、ただ主に依り頼めばいいのだ。
「主が共におられるなら安心」と思う。でも・・・なのだ。共におられる神に、真剣に祈っているだろうか。御声が聞けているだろうか。祈りが、自分の中で堂々巡りになる単なる呟きになっていないだろうか。御声に従わない時、共におられる神を見失う。


●5(木)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。(創22・1)
諦めていた「息子の誕生」。でも神が約束して下さった通り、イサクが与えられた。感謝と喜びの絶頂にあったアブラハム。しかしその「後で」神が彼を試みられた。息子イサクを捧げ物として屠れという命令だった。
ふとヨブ記の御言葉が浮かんだ「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」。私がアブラハムなら何を思い、どうするだろう。それを思い巡らして、今日を過ごしてみよう。


●6(金)
わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。    (エレ15・21)
主から「背信のゆえに捕囚が起こる」と伝えるよう託宣を受けたエレミヤ。でも告げたら、人々から迫害されると予想できて、拒み続けた。その彼に、今朝の御言葉が臨んだ。
この世で私たちも、御言葉に従おうとすれば、そこで周りからの白眼視が起こる。その辛さが予想できるから、逃れたくて、言い訳もして来た。でもそれでいいのか・・・。主はバックアップするぞと仰っているのに。


●7(土)
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。   (エレ31・25)
人々は、背信のゆえにバビロン捕囚となる。その彼らにエレミヤが、神からの言葉を伝えたのだ。回復の日が来ると。それが今朝の御言葉だった。
自分の罪のゆえに主から見捨てられたのだと絶望の中にいる人々にとって、この約束はどんなに慰め深い言葉となっただろうかと思う。主は、罪人を見捨てない。回復こそが神の願いだから。ふと、ボクへと届けられたメッセージに聞こえた。


●8(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師
(主題聖句説教)



●9(月・祝日)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  (イザ55・1)
異教の地バビロンに捕囚となっていた人々。自分の背信のゆえにこの現実になったんだと悔いて、失ったものの大きさを嘆いていた。「渇き」の中に居たのだ。そこにイザヤが、神からの慰めを語った。
ボクにも嘆き「渇く」時がある。その時、その心に直接染み込んで来る御言葉がある、「水のところに(主の御許に)来るがよい」と。聞いた時に、既に癒されている。


●10(火)
わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。(ヨシュ1・7)
大預言者モーセの後継に、ヨシュアが立てられた。そのとき神様から告げられた言葉がコレだ。それは「頑張れ」とか「期待しているから」ではない。「あなたの能力を発揮してね」でもない。ただ「我に従え」だった。
私たちへの神の求めも、同じなのかも知れないと思った。自分の能力を発揮することでも、自分が頑張ることでもない。御言葉に従うことなのだ。鍵は、御言葉に従えるか否かだ。


●11(水)
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 (詩14・2)
人が神様を求めるよりも、神様の方が私たちを熱心に、そして辛抱強く求めていて下さるんだ。まるで「お前がいないと寂しいのに。お前を愛しているのに・・・。私の心にかなう人は、どこにもいないのか」と嘆きつつ、探し回っていて下さるのだ。
「主よ、ここにいますと応えたい。そう言える私になりたい」。いざ、その決意が、今日のボクの言動を整えてくれる。


●12(木)
主がモーセに命じられたとおりであった。      (出40・32)
エジプトから逃げ出せた民が、荒野の旅のあいだ主を礼拝するための「幕屋」をつくり終えた。それは細部まで「主の命じられたとおりであった」のだ。この御言葉が十数回も連続して告げられる。それもこの章が、出エジプト記の最終章なのだ。
主が命じる御言葉どおりに生きること、それがボクの人生の最終章でもありたい。その途上の今日という日も、御言葉のままに歩まん。


●13(金)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。  (創17・17)
願いに願って、祈りに祈って来た息子の誕生なのに、いざ御使いが「とうとう生まれる」と告げた時、彼は疑ったのだ。自分の常識で「百歳なのに、もう無理じゃないか」と、不平まじりに。彼は笑った、いや冷笑したのだ。
神に願うって、何なのだろう。本当は真剣勝負のことなのに、自分の常識の中で、言葉上だけで願っていないだろうか。そんなボクの祈りに、神は怒りをおぼえないだろうか。


●14(土)
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。    (イザ1・18)
自分のことは少しは分かっている。神を知っていながら、御言葉を知っていながら、それでもそれらを無視して自己中心に生きて、そこで人も傷つけていた。神の目から見たら、汚れ切った泥水のような色が、私だ。
でもその私に神は言われたのだ。「真っ白にしてあげられるよ」と。これが旧約の言葉であることに改めて驚く。主の十字架の遥か前から、御父の思いは、この一点だと知ったから。


●15(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●16(月)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。(エゼ34・15)
バビロン捕囚期、人々は亡国の民となった。しかしその指導者に、神の言葉が臨んだのだ。それが「あなたがたは私の群れだよ」という宣言。さらに「私が養い、憩わせる」という約束だった。
神が人を見放さないというのは、見捨てられて当然なのに、にもかかわらずということだ。神の愛は一瞬もたじろがず、弱まらない。愛することにおいて熱情の神なのだ。


●17(火)
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。 (アモ5・4)
「信仰の民なんだから、当然のことなのに」と思いつつ、預言者アモスの言葉だということにハッとした。北イスラエルに、背教の罪の審判が、宣告された直後だったから。
「滅びがあるのに、これは何?」と思いつつアッと思った。裁きはある、でも「その中でなお私と共に生きよ」と言われてるのだ。裁きの日は、見捨てられることじゃない。立ち帰る日を、主は耐えつつ待っておられる。


●18(水)
「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。(創19・14)
ソドムとゴモラに悪が満ち、神が町を滅ぼそうとされる。ロトがそれを御使いから聞いて、娘婿に「早く逃げよ」と言った言葉がこれだ。でも聞いても、信じ切れない婿たち・・・。
ボクも御言葉を聞きはする。聖書によって「罪の生活から離れよ、逃げよ」と。でも、もしかしたら彼らと同じように聞いても従えないのは、神が本気で忠告していると受け取っていないからかも。ああボクは愚鈍信仰。


●19(木)
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせてくださる。(サム下22・40)
圧倒的な力を誇るペリシテとの戦い。次第に疲れ果てて来るダビデ率いるイスラエルの兵たち。しかしダビデたちはこの戦いを切り抜けたのだ。その手腕と統率力において、彼に優る者はいない。しかし彼は、自分を誇ることを微塵もしなかったのだ。「主が力を下さった」と知っていたから。
ボクが人の目を気にして、人からの評価を気にするのは、それは性格じゃなく、信仰の問題なのかも。


●20(金)
いとうべきものをあなたの家に持ち込んではならない。   (申7・26)
ふと、「いとう(厭う)べきものって、何だろう」と思う。「単にボクが厭うもの、嫌いなものじゃないだろうな」と思って、すぐに聖書を開いた。
それは、神ではない偶像のことだった。またふと思う、「神以外に頼ってしまうものは、ボクの周りにたくさんある」と。お金や人脈や自分の経験など。それらを神よりも頼ってしまう。御父はそれを、厭うと言われているんだ。「お前の傍に置くな」と。


●21(土)
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。    (詩19・9)
神様からの命令(すべての御言葉)は、「まっすぐ」だと言われる。そしてすべてが「喜びを与える」ものだと。
今まで「神の命令って厳しいもの、でも嫌でも従わなければならないもの」と思っていた。でも、「まっすぐ」とは、迷い心なしに愛してくれて、それ以外には無い命令。私を生かす言葉で、だから必ず喜びの実を結ぶもの。「嬉しいな」と思ったら、命令への向かい方が、今日ちょっと変わった。


●22(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●23(月)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。(ダニ3・17)
バビロン帝国が都エルサレムを陥落させた時、自国に3人の青年を宮廷仕えとして連行して来た。彼らの能力の高さをねたんだカルデア人に諮られて王の怒りを買い、炉の中に入れられそうになる。その時、彼らが言った言葉がこれだ。
神を神とすることは、命賭けの信頼。でもボクは、世に流されて周りに合わせてしまう時がある。青年がしたことを、ボクはできない軟弱者。


●24(火)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。     (エレ9・23)
力強い御言葉ー。しかしこれが、イスラエルの民の背信の堕落を厳しく審く神の言葉の中にあったと知って、ドキリとした。
信仰の一般論を話してたのではない。力を頼り、知恵を誇り、自分の策略を巡らし、結局自分しか頼っていない人々への審判なのだ。ああ真に、聖書の言葉には、一般論なんて一言も無い。私個人に目掛けて、激しく御許に立ち帰らせる言葉なんだ。


●25(水)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。(王上8・60)
ソロモン王が神殿建築完成の時、長い祈りをささげた。その祈りの後に民を祝福して言った言葉が、これだ。主の助けが人々に与えられ、そのことのゆえにイスラエルの民のみならず、地上の全ての人が、神がどなたであるかを知ることになるように、と。
恵みの業の御計画は、受け取る人の幸いのためのみならず、世界に御名を知らせしめるためなんだ。ああ、御計画は何て広くて大きいんだろう!


●26(木)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。    (サム上2・3)
息子が授からずに、嘆き悲しんでいたハンナに、サムエルが生まれた。成長して幼子になった時、主に委ねるために神殿に連れて来て祈った。今朝の言葉は、その中の一言だ。
その祈りの中身は「願いが叶って嬉しいです」というよりも、「主こそ岩と頼む方。全てを知り、全てを統べ治められる」という、神御自身への賛美だ。御利益信仰にならないで済むには、この心が大事なのかも。


●27(金)
天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。    (王上8・27)
ダビデ王の子ソロモンが、民の念願の神殿を完成させた。荘厳な建物、至聖所には契約の箱も安置した。その偉業は、誇っても良いはず。そのとき彼が、主に祈った言葉がこれだ。「我々が主を納めるのではない。主が我らを治める」と。ボクは神様を、ボクの願いを叶えてくれる方という小さな神殿に押し込めていないだろうか。神は自由に御心を成す方なのに。主客転倒が、神関係でも起こる。


●28(土)
人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。(コヘ3・13)
コヘレトの言葉は言う、「今日を生きよ。その日の苦労は、その日だけで十分だから」と。だから今日与えられた労苦に一生懸命に向かい合い、そして一日が終われば与えられた食事をいただいて眠りにつこう、と。
今朝の御言葉は、そんな人間本来の生き方に立ち帰らせてくれる。なんだか、肩の荷が下りて、ホッする。もしかしたらボクは、必要のない重荷まで背負い過ぎているのかも。


●29(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●30(月)
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。 (イザ60・2)
バビロン捕囚の苦しみにあえぐイスラエルの人々に、エルサレム帰還の希望が告げられた。闇の中で見る光だった。その光の輝きは、闇が深かったからこそ、どんなに明るかっただろうか。その光は、主なる神ご自身の栄光なのだから。
その光は、新約の時代に生きる私の上にも現れた。イエス様の降誕だ。「あなたの上に」と2回繰り返される御言葉に、心が熱くなった。


●31(火)
あなたの道を主にまかせよ。    (詩37・5)
自分の道、自分の人生、自分の望みを、主に任せてしまうなんて・・・、本当にできるのだろうか。むしろボクは、自分の道、望みが叶うために主が助けてよ!って言って来たかも。
ふと思った。これは「主人」が逆転することかも、と。自分自身から、主御自身へと。そこに神の計画される御心の世界が始まるから。自分が思い描くよりも遥かに豊かな人生が、そこに生まれるから。


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