み言葉のパンで生きる365日
2022年12月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(木)
兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(2テサ3・13)
「怠惰な生活をし・・・余計なことをしている者がいる」と警告されて、今朝のみ言葉が続いていた。主に与えられた業をし続ける生活をするようにと、勧められているのだ。
「勿論そうしよう」と思って、同時に「たゆまず」の一言も聞き漏らしてはいけないとも気付いた。時においても「たゆまず」事柄においても「たゆまず」だ。人生ってマラソンのようかも。でも独りじゃなく、主の伴走がある。
●2(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 (エフェ6・11)
「悪魔の策略」というのがあると言う。「そんなもの本当にいるの? 本当にあるの?」と侮ってはいけない。人間には分からなくても、その策略に対抗するには「神の武具」が必要なほど恐ろしいものなのだから。
だからさあ、「福音」「信仰」「神の言葉」等の武具を取れ。知らないうちに滅びの道へと迷い込まないように。「ボクは大丈夫」と油断する時が、策略にはまっている瞬間なのだから。
●3(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリ1・27)
ボクだってキリスト者として「福音にふさわしい生活」をしているつもりでいた。でも今朝、「ひたすら」の一言にドキッとした。「しているつもり」だなんて、のんびりしすぎていたと気付いたから。
御心に従う生活を、「したい時にしかしていない」自分がいる。でも「ひたすら」というのは、死に至るまで従順だったイエス様のように生きること。覚悟を決めた生き方なんだ。
●4(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●5(月)
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハ5・8)
三十八年も病気で苦しんでいた人が横たわっていた。その男を憐れまれたイエス様が声かけられたのだ。一言だけで癒せるから。苦しみを取り除ける権威を持った言葉だから。現状を一気に変えるお言葉なのだ。
ふと思った。この一言を信じて立ち上がった男に、御業は起こった。でもボクは、本気で御言葉を信じて立ち上がろうとしているだろうか、と。現状が変わらない原因は、そこかも。
●6(火)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。(1ヨハ1・3)
聖書を開いて御言葉に聞く人は、「わたしたちとの交わり」へと招かれている。その「交わり」とは、この箇所の直後に「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあった。
伝えられる御言葉を聞くのは、「学び」のためじゃない。神様と関わる生活に入れられるためなんだ。「キリスト教の知識のため」じゃない。ボクの生活に直結している。聞くことで、人生を変えることが起こるんだ。
●7(水)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 (2コリ6・2)
「やった!ついに恵みが与えられる」と喜んで「何を戴けるんだろうか」とワクワクして「あんな事、こんな事をして頂きたいな」と、数え出す。
でも、それは勘違だった。前後に「いただいた恵みを無駄にするな」「奉仕の務め」「神に仕える者としての実」と記されていたから。仕えるために与えられた恵みだ。ボクって、してもらいたい事ばかり。少しは大人にならなきゃ、もう六四歳だけどね・・・
●8(木)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
兄弟姉妹が集う教会で、一人ひとりはその肢体。そして頭がイエス様だと告げられる。イエス様の思い、考えによって体全体は動くのだ。
それゆえに、何をするにも全員がまず御心を聞かなきゃ。「イエス様、今から会議をします。私はどうしたら良いのですか」「今から奉仕をします。今から〇〇します。御心を選択させてください」と。そうしたら、教会中がイエス様色に染まるから。
●9(金)
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着けなさい。 (エフェ6・14)
勇ましい戦士の姿! なにか激しい戦いの予感をさせられる。聖書を開いたら、正に戦いがあると告げられていた。対抗する敵は、「悪魔の策略」、「邪悪な日」だ。
そんな恐ろしい敵が、自分の周りにいるのだろうか? いや、そんな風にボヤボヤしていると、してやられてしまう。私の外にも内にも、策略の手は及んでいるのだから。我もいざ立たん、神の武具を身に着けて。
●10(土)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。 (1テサ5・23)
この箇所の直前に「良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と命じられていた。まさに「全く聖なる者」の姿だ。
でも、それを自力で頑張って達成しなさいとは言われていない。「平和の神御自身が」して下さるようにと祈っている。今までいつも自分が頑張らなきゃダメだと焦っていた。でも信仰とは、頼ること。真に頼れる方を知っている安寧なんだ。ホッとした。
●11(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●12(月)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 (ガラ5・25)
私たちは「神の導きがある」という世界を生きている信仰者。
「その導きは目に見えるのかな?」「そうさ! 聖書の御言葉こそが見える導きだ」。「耳で聞こえるのかな?」「そうさ! 祈りの中で心に浮かぶ思いや決心は、心の耳へと語り掛けられた神様からの応答」。それらこそ、神の霊の働きなのです。
我らは、まさしく聖霊の導きに従って前進する信仰者なんだ。
●13(火)
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。(ヤコ1・23)
「え、大喜利? 『その心は』・・・」と思って聖書を開いたら「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると・・・すぐに忘れる」とあった。「なるほど上手いこと言う。面白い」と思った、そしてヒヤリとした。笑ってはいられない。御言葉に従って生きなきゃ何にもならないぞと言われているのだから。神様に言われているのだから。
一歩でも、御言葉の通りに歩まねば。そして、また次の一歩も、ね。
●14(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 (フィリ2・4)
キリスト者として、隣人のことも当然、気にかけているつもりでいる。自分のことしか考えないなんて、そんな信仰者はいないんじゃないの?
でも、今日の御言葉の直前に「へりくだって、相手を自分よりも優れた者として考え」とあった。他人のことを気に掛けてると言っていながら、相手を見る時の目線が間違っていたかも。ちゃんと下に立って僕になっていなかったかも。傲慢だったかも。
●15(木)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロ1・13)
ボクは以前は、恵みとは別の世界(自分が神となる自己中心の世界、闇の世界)に住んでいて、そこで神様のことを知って、神様に委ねようと自分で信じて決心した、と思ってた。
でも今日、全てのことをしてくださったのは、御父なのだよと告げられる。それを、ただ「感謝しかありません」と、百l受け身で受け取ることが、信仰の出発点なのかも。今日、信仰理解が一変した気がする。
●16(金)
主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。 (ヘブ13・6)
こう言い切れる自信は、一体どこから来るのだろう? 聖書を開いて、分かった。そこには、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と、神様の約束の言葉があった。
神の約束を聞く。そこには、私の内に無い、勇気の種がある。それを戴いたら、芽生え、私の内で信頼と勇気が大きく育つんだ。やっぱり信仰は、御言葉を聞くことに始まるんだな。
●17(土)
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 (ロマ8・14)
主なる神を「天の御父」と呼べる私たちになった。でもそんなこと、万物を創造された神に対して、本来ならちょっと非常識な振る舞いで無礼になるのかも。いや、絶対に無礼だ。
聖霊を戴いている証拠が、祈りの時に「天の父よ」と安心して呼び掛ける心を持てている、ということかも。だったら、御父の子として喜ばれる歩みをしよう。天の父が、ボクを見て「恥ずかしい」と思わないように。
●18(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●19(月)
二人の目が開け、イエスだと分かった。 (ルカ24・31)
ご復活のイエス様が、エマオ途上で弟子たちと会われ、一夜の宿で夕食を共にされた。そこで、最後の晩餐と同じように「パン裂き」をなさった時のことだ。二人の弟子の信仰の目が開いたのだ、そして「あ、これは主だ。真に復活された」と悟れた。
十字架も、復活も、救いも全部、自分の理解で分かるようなことじゃない。目を開いていただかねば。正に「信仰」そのものが、「賜物」なんだ。
●20(火)
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 (2テモ2・8)
この箇所の少し前に「キリスト・イエスの立派な兵士として」キリスト者の苦しみを忍ぶようにと告げられていた。その私たちが、イエス様のことを想起するようにと促されている。それは、イエス様が「死者の中から復活された」ということの想起だ。
復活の福音ー。それは私たちには復活の命があるという貴い約束だ。これこそが、イエス様に結び付けられて生きる者の忍耐を支える希望だ。
●21(水)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。 (ルカ6・35)
イエス様は、善を行い、与え続けることを求められる。ふと「自分にはなかなか出来ないよ」と思う。でも、そういうボクに、主は「弱いあなただけど、もう一度やってごらん」と優しく言っておられるのかもと考えてみた。
でも、そんな風に御言葉を自分に都合よく、勝手に丸めても良いんだろうか。然り! 主は「ここを生きよ」と厳命されている。そして賭けた者のみ、恵みの世界を経験するのだ。
●22(木)
御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。 (ヘブ13・21)
あらゆる恵みが、私たちの懐に押し込まれるようにして、溢れるように入れてもらえる。「ああ、感謝だな」と思って有頂天になっていたボクは、今朝の御言葉でふと気付いた。
なぜ恵みを戴けるのかを告げていたからだ。それは、「御心を行うため」。ボクが神様の御心・御計画を喜んで上手に行えるために戴ける道具だったんだ。使い方を間違えないようにしないと実りは無いのかもね。
●23(金)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 (使1・8)
「あなた方と共にいる」と伝え続けたイエス様が、天に帰られる直前に語られたのが、今朝の御言葉だ。
「神は私と共に居られる」ということは、そんな気がするという抽象的なことじゃなかった。イエス様が今も共に居てくださるというのは、聖霊がボクの内側に内住されるということ。その現実なんだ。ボクも受け取った、受洗の日に。ボクの内にも神が共におられる。それこそが力だ!
●24(土)
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブ10・22)
「神に近づこう」、そう願って生きている。そこが恵みの源だから。
でも今朝の御言葉で、ふと思う「ボクは信頼しきっているだろうか」と。ご利益宗教のように、願い事だけを言いっ放しにしていないだろうか。また「ボクは真心を込めているだろうか」と。なんだかドライな関係ではないだろうか。
ああ、幼な子のようになりたい。無心に「天の父よ」と呼ぶ者でいたい。
●25(日)
降誕祭(クリスマス)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●26(月)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。 (ルカ19・10)
「人の子」とは、神の御子イエス様のこと。誰かを探しに、天から降って来られた。それは「失われたもの」と、御言葉は告げていた。
ある日、その「失われたもの」が自分自身のことだと気が付いた。そのときイエス様のことが、グンと近くなった。神様のことが、グンと近くなった。天の高い所におられる方じゃなく、ボクの傍らに居て下さる方になった。クリスマスが、感謝の日となった。
●27(火)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(1ヨハ4・15)
「ボクもキリスト者としてその一人だ。神がボクのうちにとどまってくださる、感謝」と思った。でもすぐ後に「公に言い表す人は」の一言に目が留まって、うろたえた。「周りを見て、口にすることを躊躇する時がないだろうか」と思ったから。会社や食堂で、公にするどころか、祈ることさえ気後れする。そこで、貝になっている。
内におられる神に、悔い改めるばかり。そしてすがるばかりの我なり。
●28(水)
世の汚れに染まらないように自分を守ること (ヤコ1・27)
あー、ボクはもう染まり切っている。世の汚れは「舌を制することができず」「困っている人を世話せず」「御言葉を聞いても行わず」という人のことだったから。
あー、ボクはかなり焦ってきた。染まらないで自分を守れた人が「神の御前に清くけがれのない信心だ」と言われていたから。もうダメかも。
いや、今日が岐路だ。今日を、立ち帰る日とすれば良いのだから。
●29(木)
もし信じるなら、神の栄光が見られる。 (ヨハ11・40)
墓に葬られたラザロ。既に死んで四日も経っていた。傍で泣くラザロの姉妹マルタ。その彼女にイエス様がおっしゃったのがこの御言葉だ。「神の栄光」とは、ラザロが死を打ち破って生き返ることだった。
信仰は、人が「これは絶対に無理」と思う壁を破る。ボクの周りにも「絶対無理」が溢れていた。それと向き合って祈って来た。ボクもそこで神の御業を見て来た。今朝の言葉は、真だ。
●30(金)
こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える (ルカ1・73〜74)
ああ、明日はもう大晦日。その日に、洗礼者ヨハネの父・ザカリアの賛歌を聞く。それは救い主の降誕と、その道を整えるヨハネの誕生の喜びだ。
私のこの一年も、イエス様に支えられた日々だった。自分の不信仰で多くの過ちを犯したけど、そのたびにイエス様が御許に立ち帰らせて下さった。それこそが「敵からの救い」だった。感謝で今年を終え、加えて恐れなく主に従う決意も新しくしよう。
●31(土)
神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使4・19)
ユダヤ人当局者から「イエスの名によって福音を語るな」と命じられたペトロたち。そのとき躊躇しないでこの言葉を告げたのだ。「殺すなら殺してくれ」と言っていることになるのに。
「聴従か死か」。本気で主に信頼して生きていないと、この一言は言えない。ボクは言い訳ばかりしているうちに、この本気さを失っていたのかも。大晦日の夜、そのことを黙想する時にしたら、来年はいい年になるかも。