2022年11月30日

『日々の聖句』2022年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年11月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。(マコ1・38)

いつもイエス様の周りには、群衆が殺到して来ていた。休む間も無くなるイエス様。大変だったろうな、と思っていたけど、今朝「ちょっと違うかも」と思った。イエス様の方が、人びとを求めて、人々の中へと歩み行かれたんだと知ったから。それがイエス様の願いだったということも。
それを知って嬉しくなった。だってボクの所にも、イエス様の方から求めて来て下さったんだと分かったから。


●2(水)
あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(1ペト2・9)

私たちがイエス様によって救われた者となったのは、「ああ良かった」で終わるためじゃなくて、神からの任務を担うためだと告げられている。それは、主の御業の伝道だ。
これまで戴くことばかりを求めていたかも。戴き物の大きさを知っていても、少しもお返ししていなかったかも。でも、信仰の大人に成長しよう。御父がボクを信頼して、任せたいと言って下さる務めを知ったのだから。


●3(木・祝日)
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ロマ4・25)

イエス様が地上に降誕された出来事の意味が、そして御父の計画の目的が、ここに一文で言い尽くされている。それが、私たちの罪のため御子を死に渡し、私たちを義とされたくて、復活させられたのだ、と。
この一文こそ、クリスマス聖誕劇(ページェント)の最後に読まれるべき言葉じゃないのだろうか。「クリスマス嬉しい」だけじゃなく、降誕を真に感謝する者となるために。


●4(金)
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。   (1コリ15・10)

大使徒・パウロ。でも彼は、自分の働きを誇らない。それが今日の言葉となった。彼ほど誇れる結果を残した人はいないのに・・・。
彼は、キリスト者の迫害者だった自分を知っていた。神への反逆者だった自分を。しかしその自分が「救われた」ということも。そうだ! 彼は己を知り、また救い主を知っていたのだ。この二つが今日の言葉を生んだのだ。ボクも、この二つに生きたいな。


●5(土)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 (1テサ5・16-18)

これは、キリスト者ならきっと誰もが好きなみ言葉だ。喜びと、祈りと、感謝のハーモニー。こういう信仰の生涯を送りたいといつも願っている。
そしてそれは、私たちの願いだけじゃない。今日の御言葉の後に「これこそ・・・神があなたがたに望んでおられること」とあったからだ。
「大好きな御言葉だなぁ」だけで終わらせちゃいけない。これを生きなきゃ。神が切望しておられるのだから。


●6(日)
礼拝説教
(召天者記念礼拝)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●7(月)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。(コロ3・8)

神様の大切な隣人を傷つけている時、ボクの心の中には「自分こそが正しい。自分に正義がある」という欲から生まれる怒りがある。それを相手にぶつけてしまおうとする悪意がとぐろを巻く。完膚なきまでにやっつける言葉を選んでいる悪意だ。とうとう、その思いと言葉を口から出す。
ああ、ボクの心は罪の巣窟だ。その全部を捨ててしまいたい。恥ずべきことをしてると言われているのだから。


●8(火)
キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリ1・29)

イエス様と共に歩む人生は、苦労もある。家族に毎週教会に出掛けるのを理解してもらえないこと。仏式の葬儀での戸惑い、そして小さな迫害も・・・。信仰者として誠実であろうとするから、そこで悩むのかも。
そういう人を、主は「私の伴侶のように、苦労を共にしてくれるのだね」と喜んで下さる。でも、微塵も悩み無しでいる人は、どう思われているのか。「少しは悩もうよ」、かもね。


●9(水)
不平を言わずにもてなし合いなさい。 (1ペト4・9)

相手に仕えようとする時、「どうして私が? どうして私だけがするの?」とか、不平を感じてしまう。御言葉は、心から愛して仕えるようにと、促す。
んっ? でもそれだけじゃない「もてなし合う」というのは、もてなされる側にいても不平が出るということ。「もっとこうしてくれ、ああして欲しかった」とか。嗚呼、人はどこまで不平を持つ者なのか。あ、それボクか


●10(木)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている  (ヘブ4・14)

「偉大な大祭司」と「イエス様」とが、どう繋がるのか。それが大きな問題。そしてそこに大きな恵がある。それは「神との間の仲介者」が「大祭司」の働きだから。それにイエス様がなって下さると言うのだから。
イエス様は、ボクの執り成しのため、御自身の身を捨てて命懸けになられた。この大祭司がいてくれたから、ボクも神を「天の父」と呼べる。天国が「ボクの真の古里」って言える。


●11(金)
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。  (1ヨハ2・9)

「主によって救われて、ああ感謝だ」と信仰生活を歩む人に、御言葉は語り掛ける「あなたは、兄弟姉妹に憎しみを抱えていないか? 腹立たしい思いを抱えていないか?」と。そして「そうであるなら、あなたはまだ今も、主イエスを知る前の闇の中にいる者なのだよ」と。
闇の中に引きずり戻すのは、隣人のせいじゃなかった。自分自身だったんだ。まず自分が変わらなきゃ!


●12(土)
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。  (ヨハ12・26)

イエス様は、「・・・わたしに従え」と促される。
「ボクも、イエス様と一緒にいたいから、従って行こう」と思って、今朝の御言葉の直前カ所を読んでドキッとした。そこには「一粒の種、地に落ちて死なずば・・・」の御言葉が語られていたからだ。ここは、十字架の死の話しをしておられたのだ。だから、主に従うとは、そこまで行くということ。相当の覚悟がいる。・・・覚悟した!


●13(日)
礼拝説教
(ウエルカム礼拝)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●14(月)
キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。  (2コリ5・17)

多くの人は「生まれ変わりたい」と思うことがあるという。在りたい自分と、現実の自分が違うから・・・。
でも今朝御言葉は「あなたも新しく生まれ変われるよ」と告げる。「天の御父の子どもになれる。恵み豊かな天の国の家族になれるんだよ」と。そのために為すべきことは一つ。洗礼を受けること=キリストに結ばれること、この一つだよと。改めて洗礼の恵みの深さを噛みしめたい。


●15(火)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 (ヤコ2・1)

「人を分け隔て」なんて、ボクはそんなことしない。そう思いつつ聖書を開いたら、相手によって態度を変え、貧しい人を末席に座らせることだった。やっぱりボクはそんなことしないよ、と思う。でも、本当にそうかな。
自分の価値観で人を見て「あの人は出来ていない。あの人はおかしい」と裁いていないだろうか。批判するという末席に、座らせていないだろうか。自分が上に立とうとしてないか。


●16(水)
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 (マタ 5・18)

「律法主義はダメだ。行いで義とされるのじゃなくて、信仰だけが大事なんだ」と言うボクに、イエス様がガツンと言われた。「律法は消えないぞ。その一つさえ破ってもダメなんだよ」と。そもそも律法は、神との約束の言葉。それを軽視するなら、そこから神の言葉を大切するという堤が、蟻の一穴のように崩れ出すから。
ボクも神を慕う信じる者だから、懸命に、行いがが伴う者になりたい。


●17(木)
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。      (ルカ6・31)

律法の黄金律は「神を愛し、隣人を愛する」こと。その「隣人を愛する」ということは、単なる心情の話しではない。具体的に「このようにすべし」と言われている所作がある。それが今朝の御言葉なのだ。
優しい心になって、自分が「してあげたいな」と思うことをするんじゃない。まずは、その勘違いから訂正しなきゃ。「わたし本位」ではなく、「あなた本位」になることなのだから。


●18(金)
律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリ3・9)

「律法から生じる自分の義」とは、「私は十戒に従って生きようと励んでいる。人の道にも外れたりしない」と安心している生き方。「信仰に基づいて・・・」とは「私は何も出来ていない。むしろ御心に外れ、人の道にも外れている」と嘆く生き方。
今朝、御言葉は「神が喜ばれるのは後者だ」と言う。自分を見る目を捨てて、神様だけを見てすがる者でありたい。そこに「救い」があるから。


●19(土)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。  (1コリ12・26)

教会は「キリストの体」。その「一つの部分」とは、私のこと。私が悲しみ苦しんだら、兄弟姉妹も一緒に心を痛めて祈ってくれるのだ。喜べば一緒に祝ってくれるんだ。なんて嬉しい!
でも喜びつつ、ハタと思い留まった。「部分」というのは、隣人の兄姉のことでもあって・・・。私はその人の苦しみを一緒に背負って、祈っているだろうか。自分にしてもらうことばかりを求めていないだろうか・・・。


●20(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●21(月)
いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 (ヘブ3・18)

なんだか語気が激しく恐い感じがして、聖書カ所を開いたら・・・。出エジプトの恵みを受けたのに、神に従わないことばかりしていた頑ななイスラエルの民に対しての警告だった。
でも直後に「不信仰のせい」と言われているゆえに、このみ言葉はボクに向かって来る。だから直前の「今日、神の声を聞くなら・・・心をかたくなにしてはならない」との促しに、「御心を歩ませ給え」と祈りが始まる。


●22(火)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。 (1ペト3・9)

「はい、そうします」と言いながら、実際にはどれほど難しいことか、ちょっと本気で考えたら分かる。
ほんの一言でも気に入らないことを言われただけで、すぐに言い返す。倍返しで言い返す。その時すぐ言えなかったら、夜中までも頭の中でバトルを繰り返している。相手を打ち負かそうとして。
ああ私は、世の中で一番の愚か者。主の溜息が聞こえる気がする。


●23(水・祝日)
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。   (ガラ3・26)

私たちは、キリストに「結ばれた」と告げられている。そこで、いつ、どのようにして「結ばれた」のだろうか、と思い巡らしてみた。
結婚のようにかな? それとも・・・と考えていてハッとした。この結びつきは、イエス様のほうからの働き。それも命懸けの結びつき。その式場はゴルゴダの丘(十字架の上)だった。和やかな披露宴どころじゃない。正に、信仰によってのみ分かる真理。


●24(木)
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(1ヨハ5・15)

「何でも聞き入れてくれると信じる、イコール、願った時に既に叶えられている」、これってすごく合理的だな。でも現実の生活では、この実感は無い気もする。願っても、願っても、叶えられないのが現実だから。
聖書を見たら、この「願い事」は「永遠の命」のことだった。これは自力では無理だから、一番願わなきゃいけないこと。ボクは願い事の段階で、もう勘違いしていたのかも。


●25(金)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 (エフェ4・31)

嫌なことをされて、イライラするけれど「わめき、そしり」などしない。自分は、少なくとも信仰をもって生きようとしているから・・・。自分の側に「悪意」なんてない。だって悪いのは相手なんだから、と思っていた。
それでも、このみ言葉が何となく心に引っ掛かる。もしかしたら、神様が語り掛けておられるのかも、「気付かなければならないことに、今日、気付くのだよ」と。


●26(土)
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 (1コリ10・32)

ああ、いつも「あの人に惑わされた、あの人に煩わされた、嫌だなぁ」と思って来た。でも今朝改めて、全く勘違いをしていたんだと知った。
人に迷惑をかけたのは、私のほうだったんだ、と。私は被害者じゃなくて、加害者側だったんだ、と。「あの人の悪から守って下さい」と祈るよりも、「どうか私を赦して下さい」と祈るべきだったんだ。他人との関係回復は、自分の側から始まる。


●27(日)
礼拝説教
待降節(アドヴェント)第1主日

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●28(月)
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 (1ヨハ5・4)

「神から生まれた人」って、そんなこと可能な人間がいるんだろうか。ボクは両親から生まれたんだし・・・。
あっ! ボクの誕生日は2回あった。最初は病院でオギャーって生まれた日。2回目は、教会でオギャーって生まれた受洗の日だ。洗礼って、神から生まれた子となる凄い日。世に勝つ者に生まれ変われた日なんだ。誕生日として、もっと祝わなきゃ。年に2回、誕生日ケーキを食べなきゃね。


●29(火)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。    (ヤコ1・21)

心に植え付けられた御言葉を、受け入れて、あらゆる悪を素直に棄て去るようにと勧告される。その実りが、今朝のみ言葉なのだ。
心に届けられる御言葉がある。『日々の聖句』によって、また主日の礼拝において。それに従うことは、魂の救いに直結しているんだ。生活に喜びが消えているなら、御言葉を見失っているからかも。御言葉に背を向けて、闇ばかりを見ているからかも。


●30(水)
あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対して。     (1コリ6・8)

「兄弟たち」に対して、不義を行い、奪い合っているって何? 教会の中で争い合っているってこと?
何ということだろうか。主の体の教会の中でなんて・・・。互いに一つの体の肢体であるはずの兄弟に対してなんて・・・。「そんなことあってはならない」と思うようなことを、人はしてしまうものなのか。
ああ、その愚かさがボクにもある。教会の中でも、家庭の中でも・・・。




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