2022年10月31日

『日々の聖句』2022年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年10月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。   (2コリ9・6)
惜しまず蒔く「種」とは、エルサレム教会への「献金」のことだった。
献げものとしての献金のことだと知って、じゃあ「惜しまず」って、どのくらいなんだろうと考え始める。金額のことなのか、それとも献げる時の気持ちのことなのだろうか、と。そう考え始めて、もしも次に献げる献金が変わったら、この御言葉が心に届いたということなのかも。信仰って、具体的な生活に直結している。

●2(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。  (ヤコ2・13)
こういう御言葉を聞くと、瞬間的に「憐れみをかけるって、どの程度まで?」とか「それは、嫌いな人とか敵に対してもということですか? そんなこと現実的にはどうかなぁ」とか、すぐに考え始めてしまう。振り返ったら、ボクは実際の行いで、人に対して分け隔てしている・・・。
そのこと全てに、ガツンと鉄拳を下された気がした。そうだ、ガツンとだ。痛いと思うことが大事なんだ。

●4(火)
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。   (1コリ12・27)
教会がキリストの体にたとえられる。そして、その体の一つひとつの部分が私たちなのだ、と。
「自分はどの部分なんだろう」と、ふと考える。奉仕する「手」だろうか、気を配る「目」だろうか、と。
でも今日は、自分のことを考えるのは横に置こう。「あの人はどんな大切な部分なんだろう」と考えよう。そうしたら、「あの人のために」と祈れるから。決して裁いたりしないから。

●5(水)
神は人を分け隔てなさらない。 (使10・34)
誰と誰を隔てないのか。それは、神様から恵みを戴けるのは当然と考えていたユダヤ人と、決してもらえないと考えていた異邦人とだ。でも・・・。
「これはユダヤ人に向けての話だ」と考えちゃいけない。私たちこそ、神の恵みについてあらゆる分け隔てをつくるから。他人を見て「あんな人」とか、自分を見て「私なんか」とも。そういう私たちに、神はキッパリ言われた。私に、分け隔てなどない、と。


●6(木)
時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった   (ルカ1・20)
天使がザカリアに現れ「洗礼者ヨハネが生まれるよ」と告知した。でも「私も妻も老人なのに、有り得ない」と信じない。その彼に、天使が再度告げたのだ「あなたは口が利けなくなる」という痛烈な裁きの言葉と共に。
天使の言葉(ボクには御言葉だ)を信じないのは、それでもいいやで済まされない。神様が「わたしの言葉を信じなかった」と嘆かれること。もしかしたら怒ってもいる。ドキッとした。


●7(金)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。      (コロ2・6)
イエス様を知って、洗礼を受けた。でもその後も肝心。「キリストに結ばれて歩みなさい」ということだ。
だって、そうしないと転んでしまうから。だって二人三脚のように片足はイエス様に結ばれているんだから。イエス様に合わせて(御言葉に合わせて)イッチ、ニ。イッチ、ニ。肩も主に抱かれながら、イッチ、ニとね。その歩き方こそが、幸せになれるゴールに向かっているんだから。


●8(土)
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。  (マタ21・3)
他人のロバなのに、主は「イエス様のために貸してください」と申し出るように命じられた。こんな非常識なことを言い出せるのか・・・。従ってみた彼らは、その時、お言葉通りになるという神の御業を経験したのだ。
ボクは「こんなの無理、非常識」と思える御言葉に、ちゃんと従えるだろうか。人間が出来そうなことしか従わないから、人間の射程範囲の小さな恵みしか得られないのかも。


●9(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 (ルカ19・5)
木の上にザアカイが居るなんて、誰も知らない。隠れていたんだから。でも彼はイエス様を見てみたくて枝陰に潜んでいたんだ。その真下でピタリと足を止め足られてイエス様。そして声を掛けられたのだ「降りて来なさい。あなたに会いたいから」と。
ボクの時も同じだった。ボクの傍でイエス様はピタリと足を止め、声を掛けて下さったんだ「あなたに会いたい」と。だから、今のボクがいる。


●11(火)
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。    (コロ3・14)
「身に着けなさい」と言われているということは、身に着いていないゾという指摘。さらに、気を付けないとゴッソリ落ちてしまうぞという警告。加えて、身に着くまでは訓練と修練が要るという諭しかも。
心して頑張らなきゃ。本気で頑張るべきことは、これなんだ。身に着けた愛によってこそ、人と人との関係は完成されるのだから。代替策は、他に何も無いのだから。


●12(水)
子たちよ、偶像を避けなさい。  (1ヨハ5・21)
「子たちよ」と優しく語り掛けられる。しかし、これがヨハネの手紙の最後の言葉なのだ。つまり、これがこの手紙で言いたいことの総まとめなのかも。この一言に手紙の内容は尽きるのだ、「偶像を避けなさい」と。
「周りにあるこの世の習慣や常識という偶像を避けよ。あなたの中にある自分中心という偶像から飛び退いて生きよ」と。そこから、新しく愛に生きることが始められるから、と。


●13(木)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。    (ルカ1・68)
洗礼者ヨハネが生まれた時、父ザカリアの第一声が、この言葉だ。それは、ついに救いの御業が始まるという喜び。神の救いの御業の進撃ラッパ。
神をたたえるのは、自分にアレコレの恵みを与えられた喜びなんかより、何よりも救いの御業なんだ。ボクは、ひょっとしたら自分への小さな恵みのことばかりを考えていて、救われたことを軽く考えてしまっているかも。すっとこどっこい信者かも。


●14(金)
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリ4・7)
この「宝」というのは。キリストこそ救い主という「福音」のことだ。その「福音」を伝えるのは、金でも銀でもない「土くれの器」でしかない人間だと、パウロは告げた。語る者を見るのでなくて、百%「福音の光」そのものを見て欲しいからだ。
隣人に福音を伝えたい。それなのに上手に語れないと下を向く私。でも土の器の私でいい。福音を大切に生きれば、器の中の宝が輝くから。


●15(土)
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    (ロマ3・25)
聖書は一切言葉を濁さず、父なる神が御子を供え物としたと告げる。
アブラハムが息子イサクを捧げ物にするように神に命じられ、祭壇を築いて息子を屠ろうとした出来事を読むたび「どんなに辛かったか」と心の痛みを思うのに・・・。御父は御子を本当に十字架で供え物にされた。それなのにどうしてボクは、その痛みを思い巡らすことが希薄なのか。ボクの信仰は、何を信じているんだろう。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●17(月)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。     (ヨハ6・36)
イエス様が、群衆を前にしてこの言葉を言われた。今、あなた方の前に「命のパン」である私が立っているが、見ているのに誰も信じない、と。
ふと、子供の頃にCSの先生に言っていた言葉を思い出した「弟子たちのようにボクだって、目の前でイエス様を見たら、いつでも信じるよ。でも見られへんからなぁ」と。ああ、幼な過ぎた。でもあれからボクは、少しは成長できたと言えるのかなぁ。


●18(火)
はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。  (使3・6)
ペトロが人々に向かって、イエス様のことを説き聞かせ始めた。彼らは分かっていた事実がある。それは五十日前、自分たちがイエスを十字架刑にして殺したということ。でもペトロは、そのお方が救い主だったと告げたのだ。人々は驚愕しただろう。自分がメシアを殺したと知ったから。
自分が主を殺したという驚きは全ての人の驚き。その驚きが信仰の入り口。そして救いへの唯一の入り口。


●19(水)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。  (マコ1・22)
人々を前にして、イエス様が会堂で教えられた。それは他の教師達とまるで違った。彼らは、調べたことを器用にまとめて語っただけ。それを人々は喜んで学んではいた。寺子屋のように。でもイエス様の話は、異質だった。神からの良い知らせ(福音)として伝えられたから。人々の心に「従う」という思いも生まれた。学習とは違う、信仰の決断として。
福音は、学習の世界の外にある。


●20(木)
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタ6・18)
「山上の垂訓」の中の一節だ。人々には「断食すべし」という律法があった。でもそれをする時「私はこんなに熱心にしていますよ。熱心な信仰ですよ」と人に見せようとして、苦しそうな顔をして見せた。結局、人の目や評価だけが気になり、縛られてた。
イエス様は「天の父が見ているから」と言われる。人の評価に縛られる自分から、解放してくれる。自分を誇る罪から、解き放ってくれるんだ。

●21(金)
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。  (1ペト4・14)
「キリスト者」と知られるだけで社会から爪弾きになる迫害があった。
「大変な時代があったんだ」と他人事のように考えちゃいけない。今でも、キリスト者として生きようとするなら主日厳守、十一献金、あらゆる偶像厳禁がある。ここに本気で立って「生きづらいなぁ」と思う生活をちゃんと送っているのかが問われているんだ。そしてその生きづらさこそ、ボクも神の子供だという証なのだ。


●22(土)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。      (ルカ2・11)
幼い頃から、教会で(また教会学校で)、クリスマスの聖誕劇で何度も聞いて来た御言葉だ。これは、野宿していた羊飼いたちに、天使が告げた嬉しい知らせ。なぜか聞くたびに、ボク自身が胸をときめかせた嬉しい知らせだ。
大人になっても、大好きな御言葉だ。聞くたびに心がホッとして、読むたびに平安が拡がる。私のために、救い主が来られたと聞くのだから。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●24(月)
イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」    (ルカ10・37)
イエス様から「隣人を愛するとは、傍で困っている人に、自分が手を差し伸べるということだ」と、善いサマリア人のたとえ話を聞いた。皆は「立派な教えだ」と感心する。でもその人々の顔を見て、イエス様が「知っているだけでなく、あなたが手を伸ばすのだよ」と言われたのだ。
ボクもこの教えを理解している。それなのにどうしてボクの手は、こんなに短くて、隣人に届かないんだろう。


●25(火)
マラナ・タ(主よ、来てください) (1コリ16・22)
コリントの教会に律法主義が再び持ち込まれ、主イエスから離れる「救いへの道の逆流」を起こしていた。そこにパウロが「主に立ち帰れ」と切々と手紙を書いたのだ。その締めくくりに、今朝の一言がある。
「立ち帰れ」と語る根拠が「ご復活の主は再び来られる、早くお迎えしたい」という再臨信仰。ボクにも再臨希望は与えられている。お迎えするに相応しいボクに、ならないとね。


●26(水)
あなたが信じたとおりになるように (マタ8・13)
異邦人の百人隊長が、部下の病の癒しを願い出た「ひと言おっしゃってください。お言葉だけで治していただけますから」と。それに対して、主が答えられたのが今朝の言葉だ。
「信じたとおりになる」ってスゴイ。信じるだけで、願いが叶えられるんだ。病の癒しでさえ、だ。
でもウッと思った。本気で信じてないなら何も動かないと気付いたから。信じことに、本気度が問われてる。


●27(木)
わたしたちは神に属する者です。 (1ヨハ4・6)
私たちはこの世に属する者ではなく、神の家に所属する者。なんて嬉しい呼び掛けだろう。私の側の努力も精進も一切問われることなく、「あなたは私の家の子だよ」と、御父に言っていただけるなんて!
ここに続けて「神を知る人は、わたしたちに(聖書の御言葉に)耳を傾けます」とあった。単に嬉しいというだけじゃ何か足りない。神の家の者らしく、御父の言葉に聞かなきゃね。


●28(金)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。 (マコ16・7)
イエス様の亡骸が納められた墓には、天使だけが居た。そして今日の言葉が告げられたのだ。「あなたがたの故郷・ガリラヤへ行け」と。でもなぜガリラヤだろう。一切が出発した場だから、新しい出発もそこからということか。ペトロにとってガリラヤ訛りは、主への裏切りが露呈した印。そこに立って再出発ということか。理由は絡み合っているのかも。ボクに復活の主が出会った下さった場のように。


●29(土)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(コロ1・23)
「福音(良い知らせ)」って、最近自分の周りに無いな・・・。「希望」も、今の自分には見つけられない。そう感じる日・・・。もしかしたらイエス様から心が離れているからかも。なぜって、イエス様ご自身が「希望」なんだから。また「福音」そのものなのだから。
「救われて神の子として愛される」、この良い知らせこそ「希望」に直結しているのだ。だから明日、礼拝に帰ろう! 福音を聞き直すために。


●30(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  西田恵一郎 牧師



●31(月)
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。   (マコ12・43)
献金箱に、生活費を全て献げた貧しいやもめを褒めたイエス様。
「でも、今日の生活費はどうするの? 自分はいいけど、子供のご飯はどうするの? これはやり過ぎじゃないの?」という思いが溢れて来る。そんなボクの思いに、イエス様が問い掛けて来るのかも、「自分の生活は確保しておいて、残ったものから出来る分だけ献金すればいいんじゃないの、という順序はどうなんだ!」と。



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