み言葉のパンで生きる365日
2022年8月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(月)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 (ルカ7・7)
百人隊長の部下が病気で死にかけた。その時、イエス様に会いに出かけた百人隊長が、遠くの家に残して来た部下の癒しを願い出たのだ、「あなたが『元気になれ』と一言おっしゃって下されば、部下は癒されます」と。その彼の信仰を、主は喜ばれる。
ボクも、聖書で御言葉を聞く。でも、彼のように御言葉の権威を信じているだろうか。信じ切らないボクを、イエス様はどう見てるのだろう。
●2(火)
あなたがたは自分で心を狭くしています。 (2コリ6・12)
コリントの教会の人たちに、心を込めてパウロが語って来たことを、彼らは受け入れなかったらしい。むしろ批判していた。しかし語り続けたのだ。
自分が受け入れられないことって、隣人関係では一番辛いことだろうに、なぜそれでも関係を結び続けようとしたのだろう。もしかしたら、愛する思いが消えなかったから。きっとそうだ。何としてでも彼らに福音を伝えたのは、その理由しかない。
●3(水)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 (1ペト2・1)
新生児は、お乳を飲まないと生きていけない。それと同じように、無心に聖霊を求めよと言われている。
でも人は言うだろう「その聖霊って、どこで飲めるの? どうやって飲むの?」と。全ての牧師は答えるだろう「だから、聖書を読む、そして祈る。聖霊を受けるのは、祈りの場でだから。そこで、主の言葉と一緒に受け取れるから」と。かつても今も全ての牧師は、口を酸っぱくして言うんだ。
●4(木)
愛は自慢せず、高ぶらない。 (1コリ13・4)
これは「愛の賛歌」と呼ばれる箇所。結婚式の時に必ず読まれる御言葉だ。でも、新郎新婦だけに向けた言葉じゃない。今の私たちにこそ必要な言葉なんだ。それは、誰もが、「愛すべき隣人」に囲まれて生きているから。そこで自分を誇ったり、自分こそが義しいと高ぶってしまう罪を犯してしまうからだ。
「高ぶるな。そこで愛することを見失うから」。まさに自らへの厳命だ。
●5(金)
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 (ヤコ2・12)
私たちの前にも、行うべき「律法」は厳然としてある。「十戒」がそれだし、「黄金律(神を愛し、隣人を愛すること)」もある。
今日という日を歩むべき道は、この神の言葉による律法なのだ。信仰があればいいなんて、律法を軽んじてはならない。本来は、神が私を愛して下さって、「ここを歩んで行ったら幸いになるからね」と示して下さった天の国への羅針盤なのだから。
●6(土)
御子を信じる人は永遠の命を得ている (ヨハ3・36)
洗礼者ヨハネが、イエス様のことを証しして「神がお遣わしになった方、神の言葉を語る御子だ」と告げる。それに続けてこの言葉を語ったのだ。
「何をしてもらえるかという業でなく、ただこの方を見よ、イエスこそ御子なる神だから」と迫るヨハネ。「信じるところに、永遠の命もあるから」と。この「信じること、そしていただくこと」順序が大事な事かも。短い一文なのに、大切なことが示されている。
●7(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●8(月)
気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 (ヘブ12・3)
信仰者の道には、重荷やからみつく罪がある。しかし自分に定められた競争を走り抜けと促される。その時に、なのだ。見上げるのは、私たちのために全ての重荷を忍耐され抜かれたイエス様だよ、と示されているのだ。そのお方が、今も私たちを支えていて下さるのだから、と。イエス様で心をいっぱいにしよう。今日も、応援していて下さる方がいると分かるから。それが勇気の源だから。
●9(火)
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。 (マコ10・51)
盲人のバルティマイ。物乞いをするしか生きる術がなく、人生を諦めていた男。でも、傍をイエス様が通ると知って叫んだ「憐れんでください」と。その叫びに、彼の苦しみも悲しみも全てを聞き取って、問いかけるイエス様「何をしてほしいのか」と。その眼差しに、もう癒しが始まっていた。
主の愛は、「何をしてほしいのか」という眼差しに、既にすべてが込められている気がした。感謝。
●10(水)
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。 (ヨハ21・22)
ご復活のイエス様がペトロに現れて「今度こそ私に従うのだよ」と導いて下さった。主を見捨てた自分なのに愛されていると知ったペトロ。それなのに彼は、隣の弟子が気になり出す。どうして人のことばかり気にするんだろう。なんて愚かなんだろう。
そのペトロに、なお優しくハッキリ諭されたのが、この御言葉だ。人のことを気にする愚か者にさえ(あ、ボクだ)、優しいイエス様。今朝も感謝。
●11(木・祝日)
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。 (ルカ5・5)
ペトロは、一日中漁をしたけれど、一匹も獲れなかった。もう陽は昇って、漁をしても獲れる時間じゃない。でも彼は、傍を通りかかったイエス様が、「網を降ろしなさい」と言われた言葉に、全てを委ねたのだ。
この時ペトロは、イエス様が御子だと分かっていたのだろうか。そんなはずは無い、じゃどうして? あ、「分かって従う」んじゃない、「従う中でイエスこそ主だと分かっていく」のかも。
●12(金)
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。 (マタ27・46)
イエス様が十字架の上で、天の父に向かって叫ばれる「私をどうして見捨てたのですか」と。天の父に捨てられるという厳しさもご存じでいて下さるのだ。これは、罪人の抱える叫びなのに。その厳しさを、主御自身が知って下さるのだ。
罪を身代わりに償って下さるだけじゃなく、神に捨てられる辛酸を舐め尽くしても下さった。その方が、私の救い主。そして御心なのだ。
●13(土)
あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 (マコ12・24)
「思い違い」は何? それはユダヤ人の慣習で「レビラート婚(長男が亡くなったら、次男が兄嫁と結婚し、次男も死んだら、三男が妻にするという婚姻方法)」を持ち出して人々が問うたこと、「では死者の復活の日に、その嫁は誰の妻になるのか」と。
プっと笑ってしまう問い。でもボクも、この世の理屈で聖書を読もうとする。神の言葉に、自分の常識を覆いかぶせる。だから無理解になる。
●14(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●15(月)
あなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(2コリ6・1)
「いただいた恵み」って何だろう、「無駄にする」ってどういうことだろう・・・。聖書を開いて前後を読んだら、少し分かって来た。「恵み」とは、神の義を得ること。また「無駄にする」とは、再び罪の生活に堕ちていくということだった。分かったよ!
でも、分かった気になるだけで自分の生活に繋がらないなら、正にそこが「無駄にする」入り口。「今日の丸一日、主に従いたい」と歩まねばね。
●16(火)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 (1ヨハ4・16)
「神は愛」。なんと端的に言い表す御言葉だろうか! 「神様イコール愛そのもの」ということなんだ。
その「愛」って、どんな具体的な姿だろうかと思って、アッと気付いた。私のためにご自分の命を投げ出された姿が思い出されたから。愛は、十字架の死なのだ。ヨハネの手紙にある「愛」という言葉を、「主の十字架」に置き換えて読み直したら、ものすごくリアルに聖書が聞こえて来た。
●17(水)
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。 (ルカ8・25)
イエス様の御声は、そのままボクへと向けられている「篤の信仰はどこにあるのか」と。この場面は、嵐で舟が転覆しそうになって、弟子が恐れのあまりにイエス様にすがって助けを求めた時、主からの返答だった。
ボクも「主は共におられる」と口にしてはいる。でも本気で「主がおられるから平安だ」と信じているだろうか。少しの波風で狼狽していないだろうか。信仰の無い私をお赦し下さい。
●18(木)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エフェ5・8)
「光の子として歩みなさい」、この聖句は、白ゆりを卒園する子供たちに贈る言葉だ。幼稚園にいた時は、当たり前のようにイエス様の話を聞いて、毎日祈ることも出来た。でもこの世に出て行く時、その当たり前が当たり前でなくなるのだ。だからこそ伝えたい「もうイエス様を知ったあなたは、光である主に結ばれた。光の子として雄々しく歩めるよ」と。そしてそれは、私たち大人も同じなのだ。
●19(金)
わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。 (2コリ5・20)
この直前に、キリストが死んで下さった故に、全ての人が「神と和解」の恵みをいただいたと告げられている。この恵みを「受け取るように」と勧めるのが、主によって送り出された「使者の務め」だというのだ。
自分の信心で、隣人をしゃく伏しようとするのじゃない。キリストが願っているのは、主の伝令者となることなのだ。だから伝道は「何を伝えるのですか」と聞くことから始まる。
●20(土)
兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 (1コリ8・12)
隣人の心を傷つけたら、キリストに対して罪を犯したことになるって、大変じゃないか! 御子への罪は、審きを免れないから・・・。
隣人を傷つけるって、何によってかボクは知っている。口から出る言葉だ。「口が悪い性格だから」なんて軽々に言ってはいられない。御子なる神への大罪なのだから。
今日から「隣人が、キリストそのもの」と生きてみよう。これ、秘訣かも。
●21(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●22(月)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 (エフェ5・1)
子は親にそっくりに育つと、よく言われる。それは、天の父と神の子らである私との間でも同じであるはずだよと、言われているんだ。
聖書を開くたび、礼拝に出るたびに、御父の思いも御業も知らされる。それはご自身に背く罪人さえも愛されたこと。人を憐れみ、赦し抜かれたお姿。それなのにボクはちっとも似ていない。反抗期はもう卒業しなきゃ。よその子に見られるのは嫌だから。
●23(火)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 (1テモ6・11)
おおー、何だかいっぱいあって、フルコースだなぁ。一遍にしなきゃいけないのかなぁ、どれか一つじゃダメ?
と考えつつ、ふと思った。フルコースの料理って一つひとつが大事で、その全てを食べて料理の完成と言える。一つだけで良いとは思わないよね。
正義も、信心も信仰も、愛も忍耐も柔和も、全てを追い求めよう。選り好みしない。全てで、一人のキリスト者の完成をつくるのだから。
●24(水)
思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタ6・31-32)
これは、イエス様の「山上の垂訓」の中にあるみ言葉だ。主は、想いを込めて群衆に語られた「思い煩うな。悩みに捕らわれるなよ」と。「なぜならあなた方の天の父は、あなたの苦労も涙も全部知っていて下さるんだから」と。必要は満たして頂けるのだ。
信じる人は、大変な恵を握れる!それは、人生の嵐の中にあっても平安であれること。ただしこれって、信じる人のみ気付ける恵かも、ね。
●25(木)
心の目を開いてくださるように。(エフェ1・18)
心の目が開かれて、見えるようになるものは一体何なのか⁈ それは、知恵と、神を深く知ることが出来ることと、神によって与えられる希望と、聖なる者が受け継ぐものの豊かさがどれほど大きいか、等だ。
「神の恵みが、ボクには見えない」と思う時、心の目が開かれていなかったからなんだ。だから「主よ、朝ごとにボクの心の目も開いて下さい」と願わなきゃ。見るために、祈らなきゃ。
●26(金)
神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。 (コロ1・11)
信仰者としての生活は、キリストに従って歩み、あらゆる善い行いをするようにと勧められている。でもそれをやり遂げる力は、自分の中から頑張って絞り出すのじゃない。もともと自分の中には無いからだ。
「信仰に生きる力は、私の中には無い」と知ることが第一のことかも。そこに立てたら「神様からいただいて立とう」と思えるから。「御力を注ぎ込んで下さい」と、まず祈れるから。
●27(土)
貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。 (ヤコ1・9、10)
エッ? 誰もが、富むことを求め、大きな家に住み、大会社の経営者になることを成功者の印と考えているのに・・・。逆に、貧しいことを誇るなんて、そんなの変人じゃないの?
でも、もしかしたらここに人生が豊かになる秘訣があるのかも。きっとそうだ。すぐ「神様、一遍ボクを富む者にして下さい。そこで身を低くしてみますので」と祈った。フーっ、ボクはどこまでもこの世の垢まみれだな。
●28(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●29(月)
御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。 (1ヨハ2・23)
全知全能の神を信じるということは、イエス様を信じるということ。それは、私の罪の身代わりに死なれたイエス様を信じるということ。だから何よりも自分の罪を見詰めること。自分の罪を悔いるどん底に、主イエスは立たれた。それこそが御父の御心。
生涯かけてそれを知り続けるのが信仰者の人生かも。もっと深く罪の重みに気付けば、もっと強く神に結ばれる。御父の愛がいよいよ分かる。
●30(火)
誇る者は主を誇れ (2コリ10・17)
「主こそ誇りって、当然だよ」と思う。でもどうしてこんな当たり前のことを言われるんだろう・・・と思って、自分の心の底にあるものに気付いた。
それは、自分の評価がどうしても気になるということ。自分を誇りたいって思いが、心の底にこびりついているみたいだ。自分にしがみ付くボクを、主にしがみ付く者へと変えてくれる一言がこれなんだ。ボクにとっては無くてはならない一言だったんだ。
●31(水)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 (1コリ6・11)
何が「洗われた」のか。聖書を開いたらギョッとした。あまりにも具体的なことだったから。それは、偶像礼拝、姦通、男娼、泥棒、強欲、酒におぼれること、人を悪く言い、人の物を何であれ奪うことだったから。一つでも身に覚えがあれば、汚れている。
しかし「洗礼」こそ聖霊によって洗われること。ボクも受けてて良かった。いや、そんな軽々しい話じゃない。生き死にの問題だったのだから。