み言葉のパンで生きる365日
2022年5月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●2(月)
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。(使17・27)
「遠く離れてはおられません」って微妙。傍に一緒にいるのか、そうではないのか、悩んじゃうじゃないの。
これはアテネの町に偶像が散在していたのを見たパウロが言った言葉。偶像を一刀両断にしない。あなたは、真の神を見い出せる傍まで来ていると言う。でも、そこで立ち止まるな、さらに進め、真の神へと近付け、と告げたのだ。偶像の多い日本で、友人に伝えられる一言を得た気がした。
●3(火・祝日)
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。(1ヨハ4・7)
「互いに愛し合いましょう」と言われて、「ボクも一生懸命そういう人になろう」と決意を新たにして、アレっと思った。「愛は神から出る」という一言に、目が留まったからだ。
自分の心の中から愛する思いを絞り出すんじゃない。私の中には無い「愛」を、神様からいただいて、初めて一つの愛の業が始められるんだ。ならば、最初にすべきことは「愛を、私にも下さい」と祈ることからだね。
●4(水・祝日)
むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。 (1ペト4・16)
キリスト者は、キリスト者として生きるゆえに非難を受けるなら、その人に主の霊が留まって下さると言われる。だから恐れず「キリスト者の名で呼ばれること」を喜べと言うのだ。
主の霊は、キリスト者として堂々と立つ者に留まる。だから「聖霊が分からない」と言っていた時のボクは、まだ及び腰クリスチャンだったのかも。家庭で、職場でカミングアウトすれば、その人に御霊が添ってくれる。
●5(木・祝日)
彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。 (ルカ8・3)
マグダラのマリアと、ヘロデの家令の妻ヨハナ。されにスサンナと、実名が挙げられる。そこに加えて多くの婦人たちが、全てを差し出してイエス様一行に仕えていたのだ。
実名が挙がるのは、そこにリアリティーがあるから。彼女たちは、仕えることを本当に喜んでいたのだろう。価値観が「自分が大事で、自分にこだわる」ことから一変したから。「主と隣人が何よりも大事」となったから。
●6(金)
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。 (マコ12・17)
イエス様を陥れようとして「皇帝に税金を払うのは律法に適っているか」と問う人々。「納めないでいい」と言えば皇帝反逆罪だと言い、「納めよ」と言えば、この世にへつらう者だと律法的に断罪しようとした。それに対する主の答がこれだった。
「うまく対処された」という話じゃない。私自身が、何を大事にして生きるのかが問われているのだ。どこに心を向けているのかが問われてる。
●7(土)
神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 (ロマ12・3)
この箇所の直前で「自分を過大評価するな」と言われる。また直後で、各自の奉仕についても、と。そこに挟まって今日、信仰においてもだと告げられていたのだ。その「信仰」は神が与えられるものだ、と。それも各人によって「度合い」が違うんだとも。
自分で「信仰が無い」と評価してはいけない。勿論「信仰がある」とも。ただ神を仰いで、御言葉に聞きつつコツコツ歩むのみ。「コツコツ信仰」だね。
●8(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●9(月)
「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタ9・37〜38)
町を巡るイエス様が、飼い主のいない羊のように弱り果てている人々をご覧になる。そのとき深く憐れまれて、この一言を言われたのだ。この直後に十二弟子を呼び寄せ、権能をお与えになり、各地に派遣される。
弟子の働き、教会の働きは、このイエス様のお心から、既に開始されていたと言えるのかも。人々を憐れまれたお心、その一点が開始点なのだ。それが、ボクにも届いたんだよね。
●10(火)
偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタ6・16)
人々は、信仰深い証しとして熱心に断食をした。でも、その姿を人に見てもらって「あの人は熱心だね」と言われたくて、懸命な振りも加えた。
私たちの奉仕も、同じような気がする。「素晴らしい奉仕ね」と評価されないと不満だし、褒められると嬉しい思いになる。人から評価されたら、そこでスルリと神の祝福を逃しているのに。評価を求める心が、神との間に壁を作るんだ。要注意だ。
●11(水)
人間にできることではないが、神にはできる。 (マコ10・27)
当時、神様からの祝福の印は金持ちとなることだった。その人が神の国に入るより「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたイエス様。その時「一体だれが救われるのだろう」とア然とした弟子たちに言われたのが、今朝の御言葉だった。
神は何でも出来るという「全能」は、スーパーマンということじゃない。御子を十字架に架けるという事になった。神の自己卑下で人は救われる。
●12(木)
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。(ルカ2・50)
神殿詣の際、十二歳のイエス様とはぐれた母マリア。境内にいたのを見つけて叱るマリアに「自分の父の家にいるのは当たり前だ」と答えられたイエス様。その言葉の意味が分からないマリア・・・。神殿は父なる神のおられる家だから、御子なるイエスがおられて当然なのに理解できないのだ。
ご復活までその無理解は続く。それは私たちにも同じこと。救い主への信仰は、つまりは復活信仰なのだ。
●13(金)
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 (ヤコ5・15)
改めて、祈りの力の大きさに驚く。病人の傍で祈るなら、救われるのだから。でも、あれ?・・・。病人が、癒されるとは言われていないなぁ。
病の無い人生はない。死を前にしない人はいない。でもそんな時も平安でいられるなら。賛美の心で本人も祈る人となれるなら。癒されてもまた病む人間には、それが必要なことなのかも。それが救いかも。そういう祈りの友こそ、大事なのかも。
●14(土)
わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。 (使10・33)
異邦人コルネリウスが主の幻を見る。ペトロの来訪の幻だ。そしてやって来たペトロに言った言葉がコレだ。
でもこの言葉が、イエス様のことなど何も知らない異邦人が言ったということが驚きなんだ。ペトロ自身が半信半疑だった。しかし、これこそ神の計画。ここから福音がユダヤ地方を出て世界へ拡がって行ったのだから。神の計画は、人間の半信半疑の向こう側へ超えて進み行くんだ!
●15(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●16(月)
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 (ヤコ1・2)
エーっ! 「試練を喜びと思いなさい」なんて。試練って、できれば避けたいものなのに・・・。
聖書を開いて、ちょっと納得した。試練を通して「忍耐が生じる」とあったから。その忍耐によって「完全で申し分のない人」になれるから。ちょっとだけ、なるほどと思った。
試練も、真の天の父から戴くものなら、安心して身を委ねて良いのかも。今、ボクも少し成長したかな。
●17(火)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。 (1ヨハ4・4)
「内におられる方」は、もう既に居て下さることが前提だ。そのお方は「神の霊」とあった。聖霊なのだ。
聖霊が、ボクの内にもおられる。それを信じれば、世にあるどんな者にも対抗できるんだ。信じて委ねれば、だ。でも、その「入口」を間違っちゃうから、迷い道に踏み込んで結局「内なる方」に会えないのかも。「聖霊に委ねます」と祈って一日を始めなきゃ。その入り口を外すまい。
●18(水)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 (ロマ14・1)
自分の信仰が正しいと思っている時、他人の信仰を心の中で批判する。それってボクの中にもある罪だ。隣人の小さな弱さを受け入れられないのは、ボクの弱さだ。友人の信仰生活の至らなさを、つい非難の目で見てしまうのは、ボクの至らなさなんだ。ボクの信仰の弱さは、隣人を見る時に露になる。
気を付けねば! そこで友人を傷つけてしまっているのだから。
●19(木)
彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。 (使2・11)
聖霊降臨の日、一同は聖霊が語らせるままに他の国々の言葉で福音を語り出したのだ。
「わたしたちの言葉で」とあるのは、もちろん諸外国人の「母国語で」ということもあるだろう。でも外国語が話せるようになった奇跡話じゃない。「自分が普段生活で話している言葉で話してくれた」ということが大事。「心に届く言葉」として届いたのだ。それこそが、聖霊の働きだから。
●20(金)
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 (1コリ7・19)
コリントの教会では「我々は割礼を受けたから、自動的に神の民」と言いつつ、生活は自己中心に陥っていた。
けしからんと思いつつ、ふと自分のことを振り返ったら・・・。「洗礼も受けてるから、もう神様に義と認められている」と言いつつ、生活は自分中心になっているかも。「義認」の後の「聖化」の生活を忘れていたかも。ああ、ボクもけしからん者の側にいた。悔い改めは、我にこそ。
●21(土)
イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ヨハ20・19)
イエス様が十字架で死なれた。「我々もイエス一派だとして捉えられ殺される」と恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもった弟子たち。その恐れの真ん中に復活の主が来てくださって、無くてはならない一言を与えて下さった、「平和があるように」と。
ボクも不安や恐れに捕らわれる時、主は告げてくださる「あなたに平和」と。そうだ! 本当にみ言葉が支えとなることを、ボクも知っている。
●22(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
●23(月)
これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。 (マタ 5・19 )
「掟」とは、父祖の時代からの「律法」のこと。私たちの時代で言えば、聖書にある御言葉の全てということだろう。小さな御言葉を一つでも破れば、ということ。
あ、「腹を立てるな」という御言葉なんて、しょっちゅう破っている。そんなボクは、天国で価値無き小さな者。いやそもそも天国に入れるんだろうか。御言葉に向かう姿勢が緊張して来た。それは良い緊張なのかも。
●24(火)
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。(ヨハ8・43)
神殿でユダヤ人たちを教えられるが、全く彼らにはイエス様の話が分からない。それは、彼らがイエス様を人間の教師としか見ていないから。だから御父なる神が御自分の父だと話しても、分からないんだ。神の言葉として、聞けないからだ。
ボクも聖書の言葉を受け取れない(従えない)時がある。それは「真に神の言葉」として聞いていない時。信仰の生命線は、聞く耳にあったのかも。
●25(水)
今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。 (マコ15・32)
十字架上のイエス様を見て、人々は言う。神の子ならそこから降りる奇跡だって簡単なことだろ。そういう証拠を見たら信じてやる、と。
なんて愚かな人たちなんだ、と思いながら、アッと気付いた。ボクも同じことを言っている時があると思ったから。それも祈りの中で「主よ、どうかこの苦難を取り除いて下さい。そうしたらもっと信じますから。もっと仕えますから」と。愚者は正に我なり。
●26(木)
神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 (1コリ12・24)
「体」というのは「教会」のこと。集められた一人ひとりが「体を組み立てる」大切な部分だということ。
それも「私なんて、教会で何も奉仕できない貧しい者」と思ったら、その人こそ神に引き立てられる人になると言われている。だから、要らぬ自己卑下は、かえって奉仕を増やされることになるかも。ああ、どうすればいいんだろう。そうだ、やっぱり「主の御心のままに、お用い下さい」だね。
●27(金)
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり終わりである。 (黙21・6)
ヨハネがパトモス島で、主の天使から終末の日の幻を見せていただく。
黙示録を読んでいたら、恐ろしいことが起こりそうで恐くなる。でも、今朝の一言を聞いた時、何だか「安心していいんだ」と思えた。だってボクは、世界の最初の朝を造られた方を知っていて、その方が最後の日の夜まで守って下さるから。「あなたにお任せします」、これが終末の日の迎え方なんだ。終末を司る方も、主だから。
●28(土)
イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。 (ルカ2・51)
少年イエス様は、大工のヨセフ父さんの手伝いを一生懸命にされ、母マリアにも大切にされた。御子だから父なる神に愛されているのは当然だけど、両親にも、近所のおじちゃんおばちゃんにも愛されて成長したのだ。
信仰生活って、神に仕えるだけじゃないんだ。人にも仕える者となって、人の間で愛される者にもならなきゃ。孤高を決め込むのは、イエス様の姿とはちょっと違うぞ。
●29(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 西田恵一郎牧師
●30(月)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (2コリ12・10)
パウロは持病持ちで、説教中に倒れたらしい。「大きなことを言っていて、なんだこのザマは」と批判される。だから当然、「この弱さを取り除いて欲しい、万全に仕えられるため」と祈る。その祈りは叶わなかった。
そんな彼の言葉だから、今日の一言は重い真実。自分のしたいことを前に出さずに委ねたら、そこが神の働かれる場となる。神の出来事が起こされる場となる。確かに、最強だ!
●31(火)
(イエス)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (マコ1・15)
マルコ福音書は、イエス様の降誕物語もないし、幼いイエス様の様子も書かれていない。いきなり語り出したのが、今日のみ言葉なのだ。
私はキリストの福音を信じてもらうことを、「そのうち。あなたのタイミングで」と言って、先延ばしにしなかっただろうか。イエス様のように真剣勝負で「今、信じて!」と言い切れて来ただろうか。必死なのは、主おひとりにさせて来なかっただろうか・・・