み言葉のパンで生きる365日
2022年4月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(金)
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。 (ヘブ10・25)
ドキッとした。中高時代、礼拝をさぼった日のことを思い出したから。やっちゃいけないことだったんだ。
だって、この御言葉のあとに「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから」とあるから。イエス様の再臨の日に向かって歩んでいるボクだから。神の壮大な救いの歴史の中に立っているボクだから。むしろ、礼拝に出るための準備の日々が、ウイークデーなのだ。
●2(土)
(ザカリア)主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。 (ルカ1・72)
洗礼者ヨハネの父ザカリアが、聖霊に満たされて預言して言った言葉がこれだ。旧約時代からの神様の約束で「救い主を送るから」という言葉を、まるでいま見ている事実のようにして賛美したのだ。
ボクにもザカリアと同じように、既にいただいている約束を知っている。例えば、「世の終わりまであなたと共にいる」だ。信じて、今日を生きよう。きっと賛美の一日となるから。
●3(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
1部、2部 藤森誠伝道師
●4(月)
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。 (1コリ6・15)
この御言葉に続いて「みだらな行いを避けなさい」と言われる。それは「自分の体に対して罪を犯しているのだから」と。ハッとした。
私の体で、この口で、この目で、人を傷つける時、罪を犯す時、「ああ、何ということか」と嘆いているのは、イエス様なんだ。私の罪は、キリストの痛みなんだ。ならば、必死で罪を避けねば。大好きなイエス様を、これ以上苦しめたくはないから。
●5(火)
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 (ヤコ1・22)
まともにグサッと来た。それは、指摘されていることが的中していたから。それも、まるでボクの信仰生活を見られていたように・・・。「痛いな」と思ったら、命拾いしているのかも。そこから再出発できるから。
でも、ボクは自分を知っている。痛いという思いは、明日にはもう忘れてしまっているって。そうだ、この御言葉を、紙に書いて壁に貼らなきゃ! 自分の「信仰生命」のために。
●6(水)
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。 (1ヨハ2・17)
天の御父を愛して生きるか、それとも自分の生き方(この世)にしがみ付いて生きるのか・・・。二者択一を求められているのだ! どっちつかずではいけない。教会にいる時は「御父」で、日常生活では「この世」という二刀流はもっといけない。世にあるものを握ったら、体ごと「過ぎ去る」ほうへと引きずり込まれるからだ。
何だか厳しい話だぞ。しっかり目を覚まして、「御心」を握らなきゃ。
●7(木)
しかし、神の言葉はつながれていません。 (2テモ2・9)
パウロは同労者テモテに「私はキリストの福音を伝えるゆえに、牢で鎖につながれた」と言う。そこに続けて、今日の「しかし」があるのだ。
「体は捕縛され自由を失っても、御言葉は自由に前進する。神の言葉だから」と、力強く言う。パウロ自身が自分の“信仰力”でなく、神の言葉に生かされていたんだ。ボクも御言葉に生かされて生きたい。たとえ、この世の慣習に縛られようとも。
●8(金)
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 (マタ20・14)
イエス様がなさった「ぶどう園の労働者」のたとえ話。主人は、九時から働いた人にも、十二時、三時、そして五時からチョコッと働いた人にも、同じ賃金を支払った。不公平だと文句を言った人に、この言葉が言われた。
昔CSの先生から「あなたが正に、五時の人やで」と聞いた時・・・。遅れて来て何も出来なかったボクにも「支払ってあげたい」と言ってもらえていることが、急に有難く聞こえて来た。
●9(土)
主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 (1コリ16・23)
派閥争いで混乱するコリントの教会に、キリストによる一致を激烈に語るパウロ。不道徳な行いを避け、主の定めた生き方に立つように激しく迫る言葉。その手紙の最後が、この言葉で締め括られていた。つまり激しい言葉は、パウロのこの想いから出て来ていたということ。「主の恵みに生きて欲しい」という、愛する思いからだったのだ。真実に激しい愛は、脱線者を放っておかない。諦めないんだ。
●10(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
1部、2部 辻川篤 牧師
●11(月)
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることをしらないのですか。(1コリ3・16)
コリントの教会の一人にひとりに向かって「あなた方という群れこそが、神の神殿だ。それも一人ひとりの間に、主なる神がおられる」と忠言する。それは、教会の中が、互いに言い争い合って揺れていたからだ。
教会員同士が心を背け合う時、間におられる主が嘆かれる。御言葉は告げるのだ、「なぜそんなに神を悲しませるのか」と。これは痛烈な警告なのかも。全ての教会に向けてだ。
●12(火)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた(1コリ2・2)
パウロは伝道をする時、「イエス様の愛の教え」を伝えようとしたんじゃない。彼は「イエス様は罪人として十字架に架けられ、死に至った」ということのみ伝えたというのだ。敗北の印でしかない十字架の死なのに。
私たちも、愛のイエス様を伝えるのでも、慰め主のイエス様を伝えるのでもない。「十字架の死」のみ。罪の話しと、赦しの宣言なのだ。ここにしか、神のもとに戻れる道はないからだ。
●13(水)
思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。(ヤコ1・16-17)
恵み(良い贈り物や賜物)は、御父から戴くと当然思っているのに、なぜ「思い間違いをするな」と言うんだろう。それで聖書箇所を開いて驚いた。御父は、恵みだけでなく、悪への誘惑も与えると言う人がいたからだ。
御父が下さるのは恵みのみと思っているけど、苦境に立つ時、つい「神様、こんなものいらない。なぜこんな試練を与えるのですか」と、ボクも神のせいにして嘆いていないだろうか。
●14(木)
自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。(ヤコ1・25)
ヤコブの手紙は、私たちが忘れていたものを思い出させてくれる気がする。それは、一つひとつの御言葉(「完全な律法」)を、ちゃんと一つひとつ「行う」行いの大切さだ。
信じることで「義認」をいただいた。高価ないただきき物をした私たちだから、それに応えて歩まなければ。それは「聖化」の生活だ。忘れちゃいけない! そこに「幸せになる」ことがかかっているのだから。
●15(金)
ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。 (使10・20)
「わたし、って誰?」と、聖書を開いたら、ペトロの幻に現れた聖霊なる神のことだった。玄関にはペトロを捜しに来た異邦人が立っている。その彼らの招きに従って出かけた時、キリストの福音がユダヤ人のみならず世界中に拡がる出発点となったんだ。
全てが神様によって準備済みなんだ。あとは私が一歩を歩み出すだけ。「主よ。出発しなさいとの御声に、踏み出す勇気を与えて下さい」。
●16(土)
神は、…あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 2コリ9・8)
ボクが善い業をするため、多くの恵みが満たされるって嬉しいと思って聖書を開いて、ウッと思った。「善い業」とは、「献金」のことだったから。
でもどうしてボクはそれを知って、ウッとたじろいでしまったのだろう? 心のどこかに、ドカンと献げることに躊躇があるのかな。パウロは、その心を突くと同時に、また励ますのかも。ドカンと与えられるから、ドカンと献げる喜びを経験しなさい、と。
●17(日)復活祭(イースター)礼拝
主日早天礼拝は、祈祷会に代えられます。
礼拝説教
主 日 藤森誠 伝道師
●18(月)
逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て… (マコ6・48)
弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に渡らせるイエス様。夕方になり、強風に舟は翻弄され出す。それをイエス様が「見て」と告げられていた。実際に目で見たのじゃないはず。でも御心の内に、ずっと彼らのことを見ておられたんだ。
アッと思った。ボクのことも「見て」下さる。苦悩は無いか、大丈夫かと心配しつつ。すぐ飛んで行くからと、ずっと見守られている。ホッとした。
●19(火)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。 (ロマ8・35)
悲しいこと、苦しいことが続くと、人は考え出す「神はどこにおられるのだろう。もう私は愛されていないのかも。こんなに辛いことばかりだから」と。そして探し出すのかも「ボクが犯した過ちのせいだろうか」と。
そんな思いに、御言葉は激しく語り掛けるのだ「いや、違う」と。「あなたからキリストの愛を引き離すものは何もない。あなたは今も愛されている」と。今朝、慰めが訪れた!
●20(水)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 (1テサ5・15)
いつも善を行い、喜んでいるように勧める中にこの言葉も挟まっていた。
言葉と行いで相手をやっつけたくて、眠れないほど激しく心が動く日がある。その心と、喜ぶ心とは同居できないんだ。そうなら、ボクの心に住んで欲しいのは、喜ぶ心の方だよね。
でも「気を付けなさい」と言われているのは、すぐ悪い心がボクの心に上がり込んで来るからかな。玄関に「勧誘お断り」の張り紙でもしようかな。
●21(木)
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。 (ヘブ3・14)
今日、神の声(御言葉)を聞くなら、心をかたくなにしないで今日従うように、と繰り返し告げられる中に、この言葉がある。それは、最後まで生ける神から離れずに、罪へと惑わされずに、今日の一歩、明日の一歩と歩み続ける生き方だ。
淡々と、しかし確実に、着実にだ。信仰者の歩み方って、地道なんだな。華々しく一瞬輝いて散る花より、コツコツでいい。コツコツが良いんだ。
●22(金)
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。 (ロマ9・20)
今朝の一言に、冷水をピシャリと浴びせられたような気がした。「御心のままに」と祈りながら、実際の生活は「アレもコレも足りない。恵みはあるのか」と、不平が心に満ちている。
「お前は何者だ」と、改めて自問せねば。本当に神を愛して従う者なのか、それとも神の上に立って自分の遣り方を押し通す者なのか、と。答えによっては、神の怒りがあるのだから。正に、今日が悔い改めの日かも。
●23(土)
それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。 (マコ8・29)
イエス様の奇跡が村々で噂になり始める。人々はイエス様を「洗礼者ヨハネの甦りだ」とか、「終末の日に再来する大預言者だ」とか、はやしたてた。そのとき主が弟子たちに向かって、今朝の言葉を言われたのだ。
これはそのまま私への問い掛けでもある。「あなたも、私に奇跡をしてもらうことを求めるのか? 私を神の御子として従うのか?」と。御言葉に促されて、ボクの自問が始まる。
●24(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●25(月)
互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。(1ヨハ3・11〜12)
「愛し合うことは、当然大事でしょ」と思った直後に「カインのようになってはなりません」と目にして、ハッとした。兄カインは、弟アベルを殺したのだ。その原因は、敵同士だったからじゃない。嫉妬だった。弟が優遇されていると、妬んだからだ。自分の心の中に、愛の灯を消す罪の塊がある。
「カインのように・・・」の一言にドキリとすることが、ボクを正しい道に引き戻してくれると思った。
●26(火)
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(使2・32)
「このイエス」の「この」って、「十字架で死なれた」ということだろう思って聖書を開いたら、それだけじゃなかった。ダビデ王の裔に救い主がお生まれになると預言されていたことの通り、という意味だった。「神の約束された通りのイエス」ということだ。
改めて「この」の意味の大きさが沁みる。神の言葉は、必ず実現するということだから。御言葉を聞く姿勢が変わった。それが実現するのだから。
●27(水)
「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。 (使10・4)
信心深い異邦人コルネリウス。祈っている時に、天使が現れた。恐れつつも応答した言葉がコレだ。そしてその後、言われた通りにペトロに出会い、キリストの信仰が異邦人世界に拡がる門戸を開くことになった。
「主よ、何でしょうか」と応答する人に、主の恵みの御業が起こる。それは家族、隣人にも拡がる恵みとなるのだ。ああ、ボクも、「はい、主よ」の一言を言える祈り人でありたい。
●28(木)
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。(1コリ12・6)
賜物って色々あるね。それを用いて様々な奉仕をする。教会においても、社会においても。さらに、この「すべてのことをなさる」というのは、賜物を与えることと、務めを与えることだと、聖書で言われていた。
あれッ。賜物を与えて下さることには「嬉しいな、ボクには何かな」と喜べるけど、同時与えられる務めを嫌がっちゃいけない。嫌がったら、いきなり賜物も小さくなるのかも。
●29(金・祝日)
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタ9・36)
イエス様が町や村に入った時、目に入って来た人々の様子は「一人ひとりが当てもなく迷い出して、弱り果ててしまった羊のようだ」と映った。その時「なんて愚かな人々」と思うのではなく「あなたに羊飼いがいたら」と、御自分の心を痛められたのだ。
御自分の大切な羊として見て下さる。そしてボクのことも、その一匹に数えていて下さるんだ。ああ、注がれる眼差しが、もう温かい。
●30(土)
大祭司であるイエスのことを考えなさい。(ヘブ3・1)
「大祭司」とは、神と人との間に立って執り成す役目。だから、神の側に立って御心を人に伝え、人の側にも立って願い求めを神に伝える。
真の神イエス様が、その「大祭司」でいて下さるということは、真に人となって下さるという以外には起こり得ない。御子なる神が全ての栄光を捨てて、人間の側へと降下して下さった。その大祭司イエス様を考える時、申し訳なさと有難さが溢れて来る。