2022年03月31日

『日々の聖句』2022年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年3月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(火)
あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。(使17・23)
都アテネに多くの偶像があった。そこに「知られざる神」というのもあり、それを見たパウロがアテネの人々に語り出したのだ。「知らないで拝んでいるのですね。それもいいでしょう、でもそのお方の話しをしましょう。真の神を知って拝めるために」と。
相手を否定しない。でもちゃんと伝える方法があるんだ。伝道は、折伏ではない。まず自分の心を柔らかにして、相手を尊敬しなきゃね。


●2(水)
神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 (2コリ2・14)
今まで、「一生懸命に信仰生活を送って、少しでもキリストの香りを漂わせられるように頑張らなきゃ」と思って来た。そして挫折して来た。
今日じっくり御言葉を聴いて、自分の勘違いに気付いた。「神は、・・・漂わせてくださいます」なんだ。自分で漂わせるのじゃなく、神様の業なんだ。フッと肩の力が抜けた。同時に「あなたが用いやすい器にして下さい」と、祈りが変わった。


●3(木)
まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。      (ルカ10・5)
七十二人が、主の言葉を伝えるために派遣される。そこで家を訪ねた時、先ずすべきことをイエス様が教えられた。それは、早速自分が語りたい事や自分の思いを話し出すことじゃなかった。何よりも前に、相手のことを思うこと、平和があるようにと願い祈ることだった。
ボクは、そこがいつも逆転する気がする。ああ、自分のことを後にして、相手を先にする心になりたいな。


●4(金)
だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(1コリ1・29)
心の中でいつも自分を誇ってしまう。今朝の御言葉は、その過ちを犯さないようにと、神様がなさったことがあるというのだ。「それは何?」と思って聖書を開いたら、主は無に等しい人を選ばれるということだった。
「どうして・・・」と考えてみた。「もしかしたら、何も持たない人は全て神様に頼る。何か持っている人は自分を頼るからかも」と思った。それは正解。私の脱線もそこにあるから。


●5(土)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。   (フィリ3・21)
「卑しい」なんて言われて、ムッとする。でもよく自分のことを考えたら、罪まみれに染まった心、自分勝手にしか考えないで語り行動する姿は、まことに卑しい。神に背く者。
でもその私を、復活のイエス様と同じ形に変えて下さると言うのだ。地の底に沈んでいた汚泥を、天の国の宝石にして下さるのだ。その大変化への感謝を忘れまい。本来卑しい者であったことへの懺悔も忘れまい。


●6(日)
(「まん延防止措置」適用期間)
礼拝説教

早天、1部、2部、3部
辻川篤牧師


●7(月)
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。 (ヤコ3・17)
自分に蓄えたこの世の知恵に生きるのではない。上から(天の父から)出た知恵に生きよ、ということ。
ドキッとした。自分流の知恵は、上から出た知恵の反対だと気付いたから。それは汚れて、粗暴で、情け容赦なく、自分勝手で、無慈悲になっていて、偏見だらけで、偽善者・・・。正にこれは、ボクの姿だ。上からの知恵、つまり御言葉に従うことに意識的にならなきゃ。自分が変わるために。


●8(火)
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。     (1コリ6・19)
パウロは、みだらな行いや罪の行いを避けなさいと勧告する。でもそれは、律法によって禁じられているからとか、道徳に反するからということが根拠ではなかった。「あなたは神の目に大切だから、体は神が住む神殿なんだから」ということだった。
神様の御想いに応えて生きたい。喜ばれるボクであり続けたい。これって、「○○せねばならない」という生き方と全然違って、イイネ。


●9(水)
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベタイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。    (マコ1・20)
彼らとは、ゼベタイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネのこと。たった数行だけでも、多くのことが思い巡らせる。彼らは選択決断したんだ。そのとき自分にとって大切だと守り続けて来たものを後にした。世間の常識で大切だとされている物を後にした。「イエス様に従う」ことを先にしたから。
これが信じるということかも。何を先にするか、選択決断はボクも常に求められている。さあどうする。


●10(木)
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。  (1ヨハ5・14)
「何でも叶えてもらえる」とウキウキして「手始めに何をお願いしよう」と祈り始めようとした。でももう一度読み直してウッと思った。「御心に適うことを願うなら」とあったから。
神様が私に「してあげたい」と思っておられる事がある。それは私がちゃんと「ちょうだい」と願わないと、実現しないんだ。これは祈りを変えなきゃ。「あなたの御心を教えて下さい。私への贈り物は何ですか」とね。


●11(金)
心は燃えても、肉体は弱い。   (マタ26・41)
十字架刑で死なれる前夜、ゲッセマネの園で祈られる主。その横で、睡魔に襲われて眠っていた弟子たち。
今まで、祈らねばと思っても眠る弱さが指摘されていると思っていた。でも「そうかな?」と思う。直前に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われているのは、誘惑に負けまいと思っても堕罪する弱さを指摘している。堕罪を阻止するのは祈りだよ、という指摘かも。


●12(土)
わたしの家は、祈りの家でなければならない。     (ルカ19・46)
イエス様が、神殿に入って来られた。そこは御父が礼拝される場所だから、御子にとって「わたしの家」。それなのに両替商などが利益を貪る生活の場所となっていた。憤られる主。そしてこの御言葉を言われたのだ。
もし礼拝の場で、頭の中が「今日のお昼は何食べよう」とか、この世の心配事でいっぱいになったら、今朝の言葉はボクに向かって飛んで来る。ああこれも、ボクへの御言葉なんだ。


●13(日)
礼拝説教

早天、1部、2部
     藤森誠伝道師


●14(月)
はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタ25・40)
終末の日が来た時、天国に入れる人と入れない人が選り分けられる。祝福を受ける側が、今日の御言葉通りに生きた人。キリストに仕えることは、最も小さい者に仕えた人なのだ。
そう知ってもすぐに「その最も小さい人って誰? 分かればするよ」と、言い訳が始まってしまう。このままのボクじゃ危ない。教会の兄姉は天国に入って行くのに、ボクだけ外に放り出されることになる。マズイ!


●15(火)
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。  (コロ2・3)
考えを巡らせる知識と、それを用いる知恵。それをイエス様に倣ってするのだよと勧められる。それは、私たちが「巧みな議論にだまされないようにするため」と続けて記されていた。
巧みな議論って何だろう・・・と思い巡らせて、心当たりがあった。自分にこだわり始めることだ。自分の主張に熱くさせられる議論。そこではすっかり主を見失うことになるから。そこで罪への扉が開くから。


●16(水)
本当に、この人は神の子だった。 (マコ15・39)
イエス様が息を引き取られた。それを見ていた異邦人の軍隊長が、ユダヤ人の誰も言わなかった言葉を告白したのだ。犯罪人として死んだイエス様が、「神の子だった」と。
イエス様を神の子キリストと信じるのは、血筋によってでも、学びによってでも、修練でも、悟りでもない。一目見るだけで分かった彼にあったものは何なのだろう。求める心? 受け入れる心? 渇いた心かも。


●17(木)
あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。   (1テサ5・5)
主の言葉に聴従して、主の日に備えるように勧められている。
でも「光の子」とか「昼の子」って何のことだろう、思い巡らして気付いた。「光」や「昼」は、日中のこと。その時間は、起きている時間だろと言われているんだ。つまり、目を覚まして生きることなんだ。(逆に夜や闇は、自己中心の闇の中に眠りこけること。)さあ、目をカッと開いて、主を仰ごう。御足の後を雄々しく進まん!


●18(金)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。    (1コリ2・5)
パウロはキリストを伝える時、知恵の言葉を使わなかった。それってどういうこと? ・・・ふと「神が人間となり、十字架刑で死なれた。それが救いの業だった。そんなこと話しても、誰もが『そんなバカなこと』といぶかること。知恵に溢れた行為からは対極だから」と考えていて、「そこなんだ」と気付いた。「福音を握るのは、理解することじゃない。出来事の受諾。それが、信じるということだ」と。


●19(土)
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 (マコ1・31)
イエス様が伝道を開始されてすぐのこと。あちこちの村で病の人を癒し始められた。神の国の知らせを教えることと、人々の苦しみを共に苦しみ癒すこととが、同時に開始されている。アッと思った。「神を愛することと隣人を愛することは、同時に大事だ」とおっしゃっていたのは、イエス様ご自身だったから。思いが、そのままお姿となっておらたんだ。
ボクもそう生きてゆきたいな。


●20(日)
礼拝説教

早天、1部、2部
辻川篤牧師


●21(月・祝日)
(わたしたちは)無一物のようで、すべてのものを所有しています。     (2コリ6・10)
何も持たない人なのに、全てを持っているなんて。聖書って、いつもこの世では通じないことを言うね。
でも、と思った。これが本当ならどんなに良いか、と。それはボクも「何もうまくいかない。まるで無一物」と落ち込む日があるから。その日、この御言葉こそ嬉しく響く。「お前は神の子となったよね。それは天の宝を持っていること。これ以上の物はないのだから。必ず不足は無いからね」と。


●22(火)
地の果てに至るまで、わたしの証人となる。 (使1・8)
復活されたイエス様が、弟子たちと一緒に四十日間地上に留まられた後、天に昇られる。そのとき弟子たちに言い残されたのがこの言葉だ。
これは全てのキリスト者にも言われている御言葉。「地の果て」とは、辺境の地というのではなく、誰にも顧みられない隣人の所のこと。小さく弱い人、悲しみの人の傍。罪を悔いている友の所だ。そこに、イエス様の御業を告げよとの命令なのだ。行かねば!


●23(水)
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。   (ヤコ1・26)
父なる神様は、何でもボクのことをお見通しだ! それをちゃんと御言葉で教えても下さる。「そっちに行っちゃダメだよ」と言うように。
「舌を制するべきだ」って、頭では分かっているのに、生活で失敗する。礼拝で気付き直せても、一歩その場を離れて舌を動かした途端に、制することができなくなっている。「忘れっぽいから」じゃすまないのかも。そこに、隣人がいるのだから。


●24(木)
主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。   (エフェ6・10)
「偉大な力によって強くなれ」と聞いて、この世で上を目指して突進するぞと意気込んだ。でも今朝の箇所の後を読んだら、力を用いる目的が見当外れだったと気付く。
悪魔の策略を相手にするんだ。「神無しで自分本位でやれるさ。やってみようよ」という誘惑との闘い。その闘いに負けないように、主に寄り頼んで、御言葉と信仰を握れということだったんだ。ああ、危なかった。


●25(金)
ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。(使7・60)
主イエスの証をするステファノに、ユダヤの人々が怒って、一斉に襲い掛かり、石を投げた。殉教していく間際に、彼はこの言葉で祈ったのだ。
自分を殺そうとする敵を、彼はかばっているのだ。理解してくれようともせず牙をむく相手を、執り成しているのだ。ボクに出来るだろうか。
「無理だ」とすぐに放り出さずに、ずっとこの事は考えていきたいと思った。ボクの生涯をかけて。


●26(土)
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。(ヘブ5・2)
この「大祭司」は、父なる神と人間との間に立って、執り成しをする働き。もしその執り成し手が強くて賢くて迷いのない者なら、強い側のことしか分からない。でももし弱い人ならば・・・。この「大祭司」は、全ての弱さを身に引き受けて、罪人として死んで下さった主イエスのこと。弱く迷う側に立たれる唯一の執り成し手だ。
ボクの弁護人は、このお方しかいない。だってボクは、弱い者の頭だから。



●27(日)
礼拝説教

主日早天 藤森誠伝道師
主  日 西田恵一郎牧師


●28(月)
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハ4・23)
礼拝の「招詞」でよく聞く御言葉だ。「さあ今から礼拝が始まる」と聞いていたけど・・・。ヨハネが告げる「今」っていつだろうと、聖書を開いたら、サマリアの女(罪の女)が井戸端でイエス様に会った時のことだった。
「渇くことのない水を下さい」と願った女が、「私が永遠の命に至る水」と招かれたイエス様と出会った時が、真の礼拝の時なんだ。私にとっても鍵は、主との出会い。これのみ。


●29(火)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。   (エフェ1・23)
教会も人の集まりだから、人と人との間で凸凹した行き違いの苦労も起こって、嘆きも抱えて来た。
でも今朝、そんな弱さを含んだまま、その教会がキリストの体であると言われる。完全であられるキリストが充満している場所なんだと。
「やっぱり教会に居たい」と思った。欠けだらけのボクも包んでくれる、そこが教会だから。キリストに包まれる場所だから。


●30(水)
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。(コロ3・23)
これは「奴隷」に対して言われた言葉。当時は、借金が返済できない人が、ユダヤ人同士で、期間を決めて労働で返済する方法があった。でもその時、イヤイヤ仕えてはならないということ。主イエスに仕えるように、愛して働けということ。
心から隣人に仕え、しもべになり合う時、人と人との関係は豊かになれるから。ボクは、「主人」であるより「しもべ」でいたい。誰に対しても。


●31(木)
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。   (ロマ1・16)
「ギリシア人にも」の一言は、もしかしたらとても大きい一言かも。当時は、救いは神の民・ユダヤ人のみと誰もが思って疑わないことだったから。何千年もの常識を、この一言が覆したんだ。全ての人に、つまり私たちにも「神の力」が届けられるんだ。
喜ぶと同時に、アッと思った。全ての人とは、ボクの友人たちもだ。苦難の中にいる彼に届けなきゃ、急いで伝えなきゃ、「神の力は、君のもの」と。



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