み言葉のパンで生きる365日
2022年2月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(火)
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。 (ルカ14・33)
エー、持ち物を一切捨てるの と驚いた。きっとこれをイエス様から聞いた群衆も同じだろうな。でも改めて、主イエスに従って行くってどういうことなのだろうと考え直せた。
「アレもコレも欲しい」という関係から、真逆の「一切あなたに献げます」という関係への招き。自分中心から、神中心への大回転を起こすことへの招きなのかも。そこに全てが満たされる場所があるのだ。ウムー、深い。
●2(水)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (1ヨハ1・9)
神様に罪赦されること、さらに清めていただくためには、一つの条件がある。それは「悔い改め」ることだ。
「ああ、その悔い改めが、大変なんだよね」と思って、ふと思い出した。かつて幼稚園の礼拝で、自分がいつも園児たちに言っていたことだ。それは「ごめんなさい」って言える子になろうね。そうしたら「もういいよ」って言って貰えるから、と。その一言で良いからね、と。なんだか出来そうかも。
●3(木)
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。 (1ペト2・5)
イエス様は「尊いかなめ石」として、全ての人の救いのかなめ石となってくださった。そこに並べて「あなたがた自身も生きた石として用いられよ」と言われていたんだ。
ある姉妹が「私はこの家庭に遣わされているのかも。家族のために祈るため、救いのために。そう思って良いの?」とおっしゃっておられた。今日の御言葉が「そうだよ、それで良いんだよ」と言っているように聞こえた。
●4(金)
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 (1ペト2・16)
キリスト者は、本来すべてのことに自由である。この世の習慣〈から〉、常識〈から〉も、自分のこだわり〈から〉さえ自由である。いや何よりも、キリストに従うこと〈への〉自由がある。それは、そこに生きることを何者によっても犯されざる自由なのだ!
だからなのかもしれない。そこにあるのは、神の僕として行動する人の姿なのかも。イエス様に倣って生きる姿でありたい。まず今日だけでも。
●5(土)
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。(マコ7・20-21)
弟子たちが手を洗わない食事をしているのを見て、「体を清めよという律法違反だ」と責める人々。その時イエス様が「人を汚すものは、外から体に入るんじゃない」と言われ、そして今朝の御言葉を続けられたのだ。
心の中から、傷つける言葉が出る。たとえ口をつぐんでも、心の中から態度に出る。そうやって罪を犯している。「主よ、私の心を変えて下さい。罪を犯すことから救って下さい」。
●6(日)
(「まん延防止」適用期間)
礼 拝
早天、1部、2部、3部
辻川篤牧師
●7(月)
キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 (1ペト3・16)
この「善い生活」って何? と思って聖書を開いたら「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、(自分の信仰の希望を)弁明する」ということだった。そのように生きれば、相手は悪口を言っても、恥じ入るよ、と。
相手に見せる姿は、自分流の生き方ではなかった。それでは、的はずれになるんだ。相手に見せる姿をこそ、自分で総チェックしなきゃ。偽善者と言われて自分が恥じ入る前に。
●8(火)
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 (1ヨハ4・20)
「神は愛です」(一六節)とあって、「神がまずわたしたちを愛してくださった」と続き(一九)、「兄弟をも愛すべきです」(二一)と応答する一連の文節の中に、今日の御言葉がある。
神に愛され、その神を愛し、兄弟を愛することは連結している。どの一点を切っても、全体がバラバラになる。それが「偽り者」の姿なんだ。上辺クリスチャンになるまい。今日を、無条件に隣人を愛する日としたい。
●9(水)
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 (2コリ12・9)
主イエスは、私の弱い部分でおおいに働いて下さるんだ。私の得意なこと・強い部分では、「自分の力でやろう」とするから、主の御手が伸ばされる余地もなくなるのかも。
私の祈りは、かなり前から「主よ、弱くして下さい。あなたが働いて下さるように」だ。だから人から「牧師を強めてお用い下さい」と祈られると、ちょっと居心地が悪いんだな。まあ、世間からは、かなりの変人かもね。
●10(木)
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 (1コリ4・3)
何のことかな? と思って聖書を開いたら、キリスト者としての生き方だった。人から裁かれようと気にしない、自分で裁くことだってしない。「なんて自由な生き方なんだろう」と思って読み続けたら、アッと思った。「わたしを裁くのは主なのです」とあったからだ。
主に委ねて歩こう。それでこそ本当に自由になれるから。だって主こそ、私の優しい羊飼いなんだから。
●11(金)
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 (フィリ4・6)
「思い煩うな」と言われた続きに、祈りにおいて願いや求めを打ち明けて良い、と言われている。でも、その祈りは、「感謝を込める」ことから始めないといけないよ、とも。
もしかしたら、感謝することに一心になって神様に顔を向けたら、自分勝手な願いだらけの言葉は、少なくなっていくのかも。そういう祈りをする人が、思い煩わない人生となるのかも。感謝は、幸いへの秘訣かも。
●12(土)
誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。(ルカ22・46)
十字架の前夜、ゲッセマネの園で祈るイエス様と弟子たち。主が、「御心のままに」と苦しみながら祈る横で、眠り込む弟子。そんな場面で、この御言葉をおっしゃったのだ。
単に眠っていたのが、悪いのじゃない。誘惑は、祈らない時に来るから。眠いという以外に、忙しいからとか、周りの目があるからとか。あらゆる理由で祈らないところに忍び込むから。祈りが、堕罪からボクを守る。
●13(日)
(「まん延防止」適用期間)
礼 拝
早天、1部、2部、3部
藤森誠伝道師
●14(月)
このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。(使14・15)
リストラの町で、パウロが足の不自由な男を癒した。途端に人々がパウロを「神だ」と騒ぎ出したのだ。それを見たパウロが、大声で人々を制止したのだ。そして天地創造の唯一の神のことを伝え始めた。
どうして人間って、奇跡にだけ目が行くのだろう。御利益にだけ目が行くのだろう。そんなの信仰じゃないと思って、ふと考えた。苦しみ、悲しみが、深過ぎるからだろうか・・・と。
●15(火)
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 (1ヨハ3・18)
口先だけの愛・・・と聞いて、ドキッとした。まさに、自分のことを言われているような気がしたから。
でも「子たちよ」の呼び掛けに、目が留まった。「御父につながっているなら、父なる神の子どもたちなのだから、きっと出来るよ」と励まされているように聞こえたから。「さあもう一歩、前へ進んでごらん。相手に手を添えてあげる愛へ、傍に行く愛へ、あなたなら出来るから」、と。
●16(水)
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 (ヨハ10・11)
これは、大好きな「良い羊飼いのたとえ話」だ。幼い頃にこれを聞いて、羊飼いのイエス様を嬉しく思った。大人になってコレを聞いて「羊のために命を捨てる」ということに、有難くも申し訳なく思った。歳を経てこれを聞いて、「良い羊飼い」のイエス様がさらに近くに思えるようになった。人生にずっと共にいて下さったことを振り返れるから。ああ、ボクはずっと羊飼いのイエス様が大好きだったんだな。
●17(木)
不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。(コロ3・25)
これは主人と奴隷(ユダヤ人同士で借金が返せない時、最大6年契約で労働によって返済できる制度があった)との関係に告げられた言葉だ。
たとえ契約による主従関係でも、お互い愛し合う思いを失ってはいけない。不義はそこに入り込むから。それは主人に対しても、しもべに対しても分け隔てない報いがある。隣人を愛することは、ここまで突き詰められている真理なんだな。
●18(金)
罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。(ルカ7・49)
罪深い女が、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭った。主はその女に「あなたの罪は赦された」と宣言された。それを見た人々がどよめき、今朝の一言を言ったのだ。
私にも十字架の上から御声が届く「あなたの罪は赦された」と。それを有難く聴くのは、罪の女。そして罪の私。もし、自分にそんな罪はないと思うなら、赦しの恵みも主御自身も、私と関わりない。この人々のように。
●19(土)
御子を信じる者は裁かれない。 (ヨハ3・18)
父なる神が、独り子を与えて下さるほどに、あなたは愛されているよと告げられる。それは、あなたを裁くためではなく、あなたを救うためだったのだよ、と。そこに今朝の御言葉は続くのだ。
「私のため」に「私へ」の贈り物とされたのが神の御子。そのことを、心から受け取ったら、もう送り主の御父に繋がっている。そこにあるのは、裁きの関係でなく、親子の関係なんだ。
●20(日)
(コロナ禍の状況で変更あり)
礼 拝
主日早天 辻川篤牧師
主 日 辻川篤牧師
●21(月)
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロ2・12)
キリストの十字架と一緒に、私の罪も償えた。またキリストの復活と一緒に、私にも新しい生命が戴けた。それらダブルの恵みは、ただ一点を根拠としている。それが、「洗礼によって」なのだ。
人の信仰はもろく弱い。小さな試練ですぐ揺れる。しかし、洗礼を受けたという事実は揺るがない。ああ、洗礼の素晴らしさよ。それを与えていただけたことこそ、大いなる恵み。
●22(火)
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(使10・15)
ペトロが伝道の旅を開始した。そのとき律法で汚れた生き物を「屠って食べよ」との声が天からするけど、拒むペトロ。その彼に、さらに語り掛けた神の言葉が、今朝の御言葉だった。
「汚れているから救われない」と思っていたのは「異邦人」のこと。でも神は、その異邦人の伝道へと向かわせる。伝道のことでも、自分の常識がブレーキになるんだ。「そんなブレーキ踏むな」と、打ち砕くのは神御自身。
●23(水)
(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。 (マコ6・6)
イエス様が古里に帰られた時、誰も「救い主」と信じなかった。「単なる大工の息子じゃないか」と笑った。外側だけ見て信じない姿に、イエス様が嘆かれたのが今朝の一言だ。
人々はどうして・・・と思って、ふと気づいた。「きっと、主が語られる言葉を聞かなかったからだ」と。それはボクも同じ。不信仰への入り口は、御言葉に耳を傾けないこと。ご利益的な業だけ見ようとしたら、見失う。
●24(木)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。 (マタ10・30〜31)
「人を恐れるな」とイエス様が語り出される文脈にある御言葉だ。主なる神に守られているから、人のことを恐れないで良いと告げて下さるのだ。
分かってはいても、人の目を気にする。人の評価に一喜一憂して、さらに病んだりもする。もしかしたらこれって信仰の問題なのかも。神へと目を向け直しなさいと促されているんだ。その時、見守られているって気付けるのだから。平安は、そこにしかない。
●25(金)
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブ3・13)
「生ける神から離れてしまわないように」と勧告する。そのために、なのだ。「日々励まし合いなさい」と言われているのだ。一人では信仰を守れないから、ボクの信仰を守るために兄弟姉妹が要る。兄姉が信仰に立ち続けるために、わたしが居るのだ。
それも「今日という日のうちに」という一言が心に留まった。急げ、明日に延ばすな、ということ。今日、堕罪への落とし穴が開いているからだ。
●26(土)
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。(使8・15)
「サマリア」とは、ユダヤ人にとっては犬猿の仲だった人々の町。そこで神の霊を受けられるようにと、ペトロらが、その人々のために祈ったのだ。
既に人との垣根が取り払われている。毛嫌いする者同士であっても、その間に架け橋となられる主がおられるから。あ、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との御言葉は、主御自身が成就して下さるんだ。それなのに私が尚こだわって、どうするんだ。
●27(日)
(コロナ禍の状況で変更あり)
礼 拝
主日早天 辻川篤牧師
主 日 藤森誠伝道師
●28(月)
それほど言うなら、よろしい。 (マコ7・29)
自分の娘が苦しんでいる。誰も癒せなかった。そこに来られたイエス様に、すがり付く母。でもイエス様は「あなたに資格はない」と断った。異邦人だったから。その言葉の上に「よろしい」の一言が響いたのだ。
ボクも同じかも。恵みを受ける「資格」なんて無い。でもすがり付いたら、資格のない者にさえ「よろしい」と言って下さるのだ。罪人への「よろしい」の一言こそ、福音だと思った。