み言葉のパンで生きる365日
2022年1月
【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(土)
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 (2コリ3・16)
二〇二二年の冒頭にこの御言葉が響き渡る。どの方向に向いて歩けばよいかが宣言されているのだ。それはまた、主から目を放して歩いたら、途端に途方に暮れるということかも。
「目を離すわけない」と呟いて、アッと思った。目を離す場所に気付いたから。それは最も身近な場所、自己本位になる場所、自分の主張や常識が出張る場所。いま気付けて良かった。新年からギリギリセーフだな。
●2(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠伝道師
主 日 藤森誠伝道師
(主題聖句の説教です)
●3(月)
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。 (ヤコ4・12)
兄弟を裁いてはならない、という文脈の中にある御言葉だ。「裁いているあなたは、いったい何サマなんだ!」と痛烈に迫って来るのだ。いやそもそも、「お前は人を裁く人間だ。そのことに気付いているのか」と迫られているんだ。
もしも今、ハッとすることが出来たら、今日の歩みは大丈夫かも。「言葉と態度で、裁き人とはならないように」と気を付けられるから。
●4(火)
心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。
(ヨハ14・1)
イエス様に、受難への道が一気に進み出す直前のこと。長い「告別説教」を弟子たちに語り出された。その冒頭にあるのがこの御言葉だ「心を騒がせないで良いよ」と。
ボクの人生の中にも、「大変なことになる」と思ってアタフタする時が来る。その日、主はこの御言葉ボクの心の中にも響かせて下さる「心を騒がせないで、わたしを信じたら良いからね」と。今日格別の御言葉を握った。
●5(水)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)
愛のイエス様なのに「怒った」なんて、どうして? 聖書を見て、そのわけが分かった。人々が、自分の常識や慣習ばかり大事にして、目の前の悲しみの人を愛せなかったから。愛せない、愛さないというのは、主の目には腹立たしいほどのことなのだ。
ボクも主を怒らせているかも。今日の言動を、心の底から変えなきゃ。「かたくなな者よ」と主を嘆かせる前に。そうだ、ボクが変わらなきゃ。
●6(木)
一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使2・4)
聖霊降臨の日の出来事だ。弟子たちは、主の言葉と、十字架の出来事の証言を、世界中の言葉で語り出した。世界の人々が、聞いて、信じて、救われるために。伝道の歴史が、聖霊降臨の日、ここに始動したんだ。
「よーし、私も続け」と意気込んで「待て、祈らなきゃ」と思った。それは「霊が語らせるままに」の一言が目に入ったから。「私の口を、ただ聖霊さまの道具とし給え」と、思ったから。
●7(金)
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
(1コリ15・3)
パウロが、キリストの十字架の死と御復活を語り始める前に、今朝の一言を宣言した。それは、十字架と復活は人間が考え出したものじゃないということ。これは目撃者たちの証言だ、ということ。つまり、「最初に出来事があった」という宣言だ。
信仰は、精神論の類ではない。出来事の証言・・・ここにボクの信仰の出発点もある。「イエス様の出来事」という現実に、だ。そこが急所なのだ。
●8(土)
主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 (ヨハ13・14)
イエス様が死なれる前夜の聖木曜日。これから先、話もしてあげられなくなるんだという中、「忘れないでね」というようにして話されたのが、これだ。互いに足を洗い合うということ。その洗足とは、相手のしもべになること。それが正に主のお姿だった。
「あの人の足なら洗える、この人は嫌だ」などと言うまい。主は、自分を見捨てるペトロの足さえ洗われたのだから。喜んで洗われたのだから。
●9(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤牧師
主 日 藤森誠伝道師
●10(月)
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。 (1ヨハ1・10)
心の内にすぐ「毎日祈っているし、礼拝に行っているし、私は悪人じゃない。確かに罪人だってことは認めるけど、『罪を犯した』と言われたら抗弁したくなる」との思いが巡った。
そんな私の心の中には「神の言葉はない」と言われているんだ。つまり「神がいない。お前は神を追い出しているから」と。ああ、「傲慢の罪を赦して」と祈ることからしか今日を始められない。主と共に歩みたいから。
●11(火)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
(コロ3・12)
私は、父なる神に愛された。受洗の日に、天の御父の子供としていただけたんだ。神の家の子供として、御父の家族にしていただけたんだ。
だから、この世でも、その家の子はその家の子らしく育ってゆくように、天の家の子は天の家風に染まって育たなきゃ。天の父に似る者として、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容な子に。いつか隣人に、「あの人は天国の家の子だね」って言われるほどにね。
●12(水)
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 (1コリ1・10)
教会の中にさえ、仲たがいがあった。パウロはその人々に向けて「固く結び合いなさい」と言ったのだ。そのためには「心を一つにし」と。
でもそれって「何に一つになるの?」と考えて、聖書を読み進めて、分かった。私のために御子が死なれたという十字架の出来事にだった。「申し訳い、有難い」と生きるなら、皆がそこに思いを寄せたなら、そこで一つになれる。その一点以外に無し。
●13(木)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
(ヤコ3・6)
私は多くの失敗を口から出る言葉によって、しでかして来た。「自分はこんな性分だから」とか「周りも分かってくれているから」とか言っていられない。傷ついている人がいるから。
今朝改めて、単なる失敗で終われないと気付かされる。舌が、私を汚し、人生を焼き尽くし、私自身を地獄の火で燃やすのだ、と言われていたから。「恐い」と思って舌を制しなきゃ。それも、今すぐからだ。
●14(金)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
(2テモ2・13)
「キリストの立派な兵士として、苦しみを忍べ」と、パウロがテモテに語りかけた。「あなたが従ってゆくキリストは、真実なお方だから委ねて進め」と言うのだ。今朝、その勧めはそのまま私への言葉として届いて来る。
この世の現実で、御言葉に従うなんて「無理」とか「損をする」とか「非常識だ」と思える場面に出遭う。その時にこそ、今日の御言葉を握ろう。ボクも主の兵士・キリスト者だから。
●15(土)
一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使2・4)
聖霊降臨の日の出来事だ。弟子たちは、主の言葉と、十字架の出来事の証言を、世界中の言葉で語り出した。世界の人々が、聞いて、信じて、救われるために。伝道の歴史が、聖霊降臨の日、ここに始動したんだ。
「よーし、私も続け」と意気込んで「待て、祈らなきゃ」と思った。それは「霊が語らせるままに」の一言が目に入ったから。「私の口を、ただ聖霊さまの道具とし給え」と、思ったから。
●16(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤牧師
主 日 西田恵一郎牧師
●17(月)
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された
(使2・23)
聖霊に満ちたペトロが長い説教を始めた。それは、イエス様の十字架の出来事についての話であった。
人の目から見たら、イエス様の死は敗北にしか見えない。でもそれが全て、神の計画だったと告げるのだ。そこを通り抜けて復活の勝利が実現したのだ、と。私が弱り切った場所に、イエス様が立たれる。そこで結びついて下さるため。そこから勝利へと連れて行ってくれるため。ああ感謝。
●18(火)
御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
(ヨハ3・35)
洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエス様の周りに人が集まるのを妬む。その様子を見て、ヨハネが「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(三十節)と告げた。その理由が続けて告げられる中に、今朝の言葉もあった。
イエス様に自分を明け渡して、私は陥落しても良いと思った。だって神の全権がイエス様の手にあるんだから。そこに私も握ってもらえたら、そこが安心の場所だと思えたから。
●19(水)
わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
(マタ 5・22 )
私はすぐに腹を立ててしまう。きっとその時「自分にこそ義がある」と思い込んでいるからかも。口に出さなくても、行動に出なくても、その思い自体を御言葉がグサリと突き刺した。思い一つから、悲しい出来事が始まるからだ。大事な人との関係を壊すから。主がそのことを悲しまれる。
「主よ、ボクの心の暴走を止めてください」と祈らねば。隣人との関係の喪失は、喜びの喪失となるから。
●20(木)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。
(ルカ5・10)
漁師のペトロの所にイエス様が訪ねて来られ、最初の弟子として招かれた。その呼び掛けは「人を救う漁師となれ」だった。いや、あれ? ちょっと違うかも・・・「漁師となれ」じゃなくて「漁師になる」だ。断言なんだ。
私も様々な奉仕の業に就く。その時主は「この奉仕に仕える人になれ」じゃなくて「仕える人になる」と断言されるんだ。奉仕は選びの業だ。嫌ですと言えないわけが分かったかも。
●21(金)
このように主によってしっかりと立ちなさい。 (フィリ4・1)
「このように」ってどのように? と思って聖書を開いたら、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がお与えになる賞を目指して、ひたすら走れ」ということだった。信仰生活の怠惰は、許されないんだ。
でも「しっかりと」という言葉に、親が子を遠くに送り出す時「しっかりね」と励ます声が重なる気がした。信頼され、期待されている。祈ってもいてくれる。そんな温かさも感じた。
●22(土)
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
(マコ7・14)
イエス様が群衆に教えようとされる前、この一言を言われた。
それは、聞く耳を開かせるため。何となく聞いてちゃいけないんだ。御言葉を聞く時は、いつもこうあらねばならないんだ。頭で知識として聞くのではない。心の奥にまで入れ込んで、自分を御言葉で変革させようとする聞き方でなければ。それが、悟るということだから。日々御言葉によって、改革されて生きるべし、だ。
●23(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠伝道師
主 日 辻川篤牧師
●24(月)
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
(コロ1・17)
世界が創られる前から、御父と一緒に居られたイエス様が、すべてのものを支えていて下さる。そのイエス様のことをボクは知っている。弱く貧しい者、罪人に寄り添われた神だと。
そのお方が神として、世界の終わるまで、ずっと支えて下さるということなんだ。ボクのこの先の人生も、神様にどのように支えられるかが、よく分かる。イエス様を知ったから。信仰による平安は、リアルな平安なり。
●25(火)
あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
(マコ8・33)
「これをイエス様に言われるなんて、この人は図星に指摘されたんだろうなぁ・・・、ボクもこんな時あるから気を付けなきゃね」とか、のん気に考えていて、聖書を開いたとき一瞬で緊張が走った。「サタン、引き下がれ」と叱責される場面だったから。
神のことを思わず、自分のことしか考えない。それがサタンなんだと気付いたから。イエス様に敵する者なのだ。のん気に構えてなどいられない。
●26(水)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
(マコ14・38)
十字架の死へと激しく出来事が進む直前。ゲッセマネの園で祈られる。でも横で弟子たちは眠っていたのだ。その彼らに、この言葉が告げられた。
居眠っていたことに対してだけではないと思う。これから先に起こる十字架の出来事を前にしたら、心は燃えても、体は逃げ出すからだ。その弟子たちを思って「祈るのだよ」と励まして下さったように聞こえた。それは、弱い信仰のボクの心にも届いた。
●27(木)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
(コロ1・15)
父なる神の姿を人が見ることは出来ない。でも御子なる神イエス様に神の姿が在るんだ。それは貧しい姿、寄り添う姿、身代わりに十字架で死なれる姿。それが神のお姿なんだ。
さらに「すべてが造られる前」から居られたのは、天地創造の前に御父と共に居られたということ。クリスマスの日に生まれたんじゃない。三位一体ということが、少し分かった気がした。イエス様を見詰めた時に、ね。
●28(金)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 (ヨハ4・14)
サマリアの女が、昼間の炎暑下で水汲みに来る。人目を避けて生きるわけがあったから。男を次々に替えて生きている女だったから。その女にイエス様が出会われて、「あなたは渇いているだろ」と目を向けられる。そして、この御言葉を言われたのだ。
自分のせいだと分かっている。それでも心は渇くんだ。その渇きを、批判するのでなく憐れんで下さるのは主のみ。私もあなたの水を飲みたい。
●29(土)
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1・28)
天使ガブリエルが、処女マリアのところに神の言葉をもって来た。これは『受胎告知』の場面だ。マリアはこれを聞いた時、「何のこと?」と戸惑ってしまう。人知では考えられもしない処女受胎が告知されたのだから。でもそれを受け取ってゆくマリア・・・
自分の想いを超えたことなのに、それでも神の計画と受け取る。それこそが「主が共におられる」ことに起こる奇跡だ。恵みそのものなんだ。
●30(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠伝道師
主 日 辻川篤牧師
●31(月)
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
(1ペト3・15)
初代キリスト者たちには、周りに信仰者はいない。この世で、軋轢も、生き辛さもあった。それは、日本で生きるキリスト者と同じだなって思う。
だからこそ今朝の御言葉がリアルに響いて来る。心でいつも主を礼拝し、周りから「どうして一緒のことをしないの?」と問われたら、「ボクは、イエス様に従いたいんだ」と言える言葉と、勇気を備えておこう。そこには、必ず聖霊の助けがあるから。