み言葉のパンで生きる365日
2021年12月
【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(水)
主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。 (ハバ2・20)
南ユダ王国にバビロン捕囚が起ころうとしている。その時、偶像にすがろうとする者たちもいた。神の民であるにもかかわらず! そういう背信の人々に向けて、預言者ハバククが「災いだ」と告げたのだ。さらにそこに続けて、立ち帰らせるために「主は神殿におられる」と、顔を向き返らせようともしたのだ。
主なる神に頼ることが出来ない人々。委ねるということが、どういうことかさえ分からない人々。しかし神は、そんな人々なのに、なお呼び求められるのだ。私の前に帰れ、と。
●2(木)
わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 (エゼ36・27)
都エルサレムが包囲される預言がなされる中で、その後の回復も語られる。それは、人々が再び主の言葉に従って歩む喜ばしい姿となっているから、ということだった。
改めて今日、それが人々の回心や努力によって出来ることじゃないって、悟らされる。だって、「主の霊を心の中に置いていただいたから」って言われているから。聖霊が、ボクを光の子として歩める者としてくれる。今日の祈りは決まった、「聖霊よ、来て下さい」だ。
●3(金)
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。 (詩139・1)
この詩人は、主を賛美している。それは、自分が自分のことを知るよりも、主御自身がご存知でいてくださると喜んでいるのだ。
「それってどういうこと?」と考えて、そこに在る恵みに気付いた。今まで、自分のことは自分が一番知っていると思っていたけれど、「あなたは自分が思っているよりも、はるかに高価な存在だ」と言ってもらえるということ。人は誰も自分のことを分かってくれないと嘆いていたけど、「私だけはあなたを捕らえ続けているから」と言ってもらえることなんだ。
●4(土)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」 (ヨブ1・9)
神に従い続けた無垢な人ヨブ。そこにサタンがやって来て神に言った言葉がこれだ。「神様がいっぱい恵みを与えているから、彼は従っているだけじゃないのか。それはやっぱりご利益信心じゃないのか」と。「ご利益をくれない神なら、簡単に神を捨てるに決まっている」と。
この言葉には、真の恐ろしさがある。「私には図星かも」と揺さぶって来るからだ。ボクは、見える恵みが無い時に、なお神に従えるだろうか。自信など全くない。ああ、小さくて良いから、からし種一粒の信仰が欲しい。
●5(日)
主日礼拝説教
藤森誠伝道師
●6(月)
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」 (サム下12・13)
ダビデ王が、家臣のウリヤをわざと戦死させ、妻のバト・シェバを奪った。その罪を、主に遣わされたナタンに暴かれた時、ダビデが悔いて言った言葉がこれだ。それは「私は殺人と姦淫を犯しました」という言葉じゃなかった。「主に対して罪を犯した」と告白したのだ。
「罪」とは、すべて「主なる神への背き」だからだ。社会の法律によって決められた「犯罪」のことじゃない。故に「罪」は、主に対して償われなければならないんだ。この「罪意識」を勘違いしたら、「赦し」の経験も手に出来ない。
●7(火)
あなたは、「自分の手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。 (申8・17)
奴隷だったエジプトの国から、主によって脱出できた人々が、いよいよヨルダン川を渡って「約束の地」に入ろうとする時、その主を忘れることの無いようにと戒めが告げられた。
ふと「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と思い浮かんだ。洋の東西変わらないんだなぁと。
でも神様との関係は、恵みの業を忘れちゃいけないよというどころの話じゃない。だってこの御言葉の後に、忘れたら「滅びる」と言われていたから。そして人々はその通りに滅びる。これは、旧約全巻を貫く警告なのかも。
●8(水)
ダビデは主に尋ねた。 (サム上23・10)
ダビデに、サウル王が命を狙って兵士全員を出陣させた。その時ダビデは、逃げるべきか否かの身の振り方を「主に尋ねた」のだ。
え、そんなことまで「尋ねるの?」と不思議に思う。緊急事態なのに、自分で決めても良い具体的な事柄なのに・・・と。
でも「ああ同じだ」とも気付いた。私も「ちょこっと祈りをしていた」と。郵便を出す前に「主よ、お用い下さい」とポストの前でちょこっと祈る。スーパーで「良い買い物ができますように」と、ちょこっと。集会の前に「楽しい時にして下さい」と。生活の全が、主と共にある。
●9(木)
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。 (詩116・12)
詩人には苦しみがあったけれど「魂の死から、助け出してくださった」と感謝している。そして「感謝です」で終わらない。応答の業へと向かうのだ。「どのように答えようか」と。
私は「感謝です」で終わっていないだろうか。いや、感謝の祈りさえ忘れている時もある。そんな私も、具体的に神様の恵みに応答できる業を知っていた。それは「献金」だ。「この身を献げても足りないぐらいに感謝しています」と「献身のしるし」として応答できるのだ。献金は、私の喜びの時間、神様との対話の時だ。
●10(金)
主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。 (サム上3・19)
「彼」とはサムエルのこと。成長してゆく日々に、主が共におられ、サムエルに告げられた言葉は、成し遂げられずに終わるものは「一つたりともなかった」ということだ。
私たちにも、主の言葉は臨む。それは聖書の御言葉によってだ。それを聖霊さまが一人ひとりの心に、必要な時に、必要な御言葉を届けてくださるのだ。届いた言葉は、「一つたりとも」無にならない。ならば、私たちのすべきことは、「私への御言葉は何ですか」と、しっかり聞き取ること以外に無し!
●11(土)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。 (サム上17・47)
これは少年ダビデが、巨人ゴリアトに対峙して言い放った言葉だ。CSも幼稚園の子どもたちも、少年ダビデの活躍が大好きだ。
私も胸躍らせてこの物語を聞いて来た。でも大人になった今、ふと思う。私の「ゴリアト」は、目の前にある「困難」かもと。そこでいつも私は、自分の力を振り回そうとする。主を信頼して進むことは、現実での信仰の話なのに。つまり少年ダビデの物語は、単なる勇者物語じゃない。私の生き方を問いただす鏡なのだ。
●12(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●13(月)
神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 (創6・12)
不穏な空気が漂うように聞こえる文章。そうだ! このあとノアの大洪水が起こって、悪に満ちた大地は水で覆われるのだ。天の御父は地を御覧になった時、どう思われたのだろう。そのお顔、そのお心はどうだったのだろう。今日の箇所の近くの六節に、それが垣間見える一言があった、「心を痛められた」と。
ふと御父の御顔が、十字架の上の御子イエス様の御顔と重なる気がした。悲しみと苦悶の御顔が・・・。申し訳なさでいっぱいになった。
●14(火)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。 (イザ31・5)
これは、旧約聖書にいくつも出て来る神の御姿。律法の書の申命記、また文学の詩編、預言書のイザヤ書に出て来る。つまり聖書全般だ。それは、母鷲が大きな翼を広げて、雛を守る姿だ。敵からも困難からさえも、自らの翼の陰に抱え込んで雛を守って下さる姿だ。
ボクは、この比喩が大好きだ。幼い頃に聞いて、イメージを膨らませて、神様の慈しみを身近に感じて来た。今も、この比喩は、ボクの中の特等席にある。
●15(水)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。 (エレ31・3)
オオー、神様からの激しく豊かなラブコールだ。誰がこの言葉を受けることができたのか? きっとそれに相応しい人なんだろうなと思って聖書を開いたら。それは、背きのイスラエルの民。でも、悔い改めて、償いを終えて救われた人々だった。
初めから完璧な人なんていない。「ああ、自分こそ神に背く者」と気付けばいい。そこで回心すればいい。その人に、神様のラブコールは注がれるのだから。主は、悔い改める人をこそ愛されるのだから。
●16(木)
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」 (創4・13)
弟殺しのカイン。主に「お前は呪われる者となった」と断罪されるのだ。その言葉に震えて応答したのがこの言葉だった。嫉妬に心が奪われている時は、自分のしている罪の重さも気付けない。ただ、主の呼び掛けだけが、犯した罪の重さに気付かせるのかも。
では、私はどうだ、私への裁きを聞いたか? あ、正に聞いたのだ。それは聖書によって、神が「お前は御子を殺したのだ。お前の罪のゆえに、あの十字架で」と言われた言葉を。だから私も「重すぎて・・・」と悔いねばならない者。
●17(金)
愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。 (箴二九・一一)
「感情」とは、喜びや愛情もあるけれど、それだけじゃない。逆の怒りや、憎しみや自己主張欲とかも。聖書を開いたら、この箇所の「感情」は、やっぱり悪い思いのことだった。
怒りの感情を制すべしと、聖書が言う。それは、怒りの感情をさらけ出したら失敗するのが人間だから。その愚かさに誰もが、あっと言う間に陥ってしまうから。「自分は正にそれだ」と知る者が、知恵ある人となるのかも。ブレーキをかけるタイミングを逃さない人でいられるから。そういう大人になりたいな。
●18(土)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。 (サム上2・26)
後にダビデ王を任職する祭司となるサムエル。「当然、神にも人にも喜ばれる者として育ったよね」とほほえましく読んでいたら、この直前には彼の師である祭司エリの息子たちの横暴が記されていた。彼らの悪はひどく「主は彼らの命を絶とうとしておられた」と。その対比が、ここに示されていることなんだ。
主の言葉に従うか、否か。それはとんでもなく違う結果に繋がるんだ。神との関係が活き活きとするか、絶たれるかなんだ。必死に御言葉に食らいつけ。それを喜ぶボクになれ!
●19(日)クリスマス礼拝
説教
主日早天礼拝 辻川篤牧師
一部礼拝 藤森誠伝道師(ライブ配信)
二部礼拝 辻川篤牧師
三部礼拝 藤森誠伝道師
●20(月)
第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。 (創2・2)
主が天地を創られた七日間のこと。六日で全てを完成され、それらを御覧になって「極めて良い」と満足されたのだ。そしてその次の日を、他の「働き日」と取り分けて、一日を「聖別」されたのだ。それが「安息日」となった。
「安息日」は、そののち人間に与えられた。文字のニュアンスからすると、「やれやれ一週間の仕事が終わって安堵、一息つこう」という感じ。でも、ちょっと違うぞ、と気付いた。安息日は、他の働き日から取り分け=聖めて大切にする事。だからここに礼拝が始まったんだ。
●21(火)
(モーセは民に言った)「あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」 (申1・31)
モーセがイスラエルの民に、神から授かった全ての約束事を語り出した。これは正にモーセの遺言にあたる。その中で、何よりもまず神から戴いた恵みを伝えたのだ。それは、出エジプトの救いの出来事という恵み。その中心に当たるのが、今日の御言葉だった。
神の恵みって何なのか、今日よく分かる。それは、全能の神がボクの父でいて下さるということ。それも慈愛に満ちた父として。ボクをおんぶしてくれる父として。ホッとして、感謝。
●22(水)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。 (創22・1)
「神からの試練は、どんなことの後にやって来るの?」と思って聖書を開いた。それは、待望の息子イサクが誕生したあと。神に懇願し続けたことが、やっと実った喜びの絶頂にあるあと・・・だった。
うう・・・どういうことなんだろう。どうして喜びのままの日々が続いてくれないんだろう。「もしかしたら」と考えた。喜びだけでなく、辛いこと苦しいことも神の支配の中にあると経験させるため? より強く折れない神信頼に成長させられるためなのかも。でも・・・、ボクへの試練は、少ない目にして欲しいかも。
●23(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。 (ルカ2・15)
あれ、どうして今日だけ新約聖書? 確かに自分でくじを引いたのだけど、でもどうしてこの日だけ新約にしたんだろう・・・。もう理由は思い出せないけど(去年の夏に一年分のくじ引きをしてるから)。
でも、と改めて思った。明日はクリスマス・イヴ。はやる思いで「その出来事を見ようではないか」と自分自身を整えても良いのかも。主のご降誕は、ボクのために起こったんだから。ボクのための出来事、罪人のボクの救いのためにだ。さあ、心の全方向を降誕に向けよう。
●24(金) クリスマス・イヴ
ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」 (サム下12・7)
ダビデが、忠実な部下のウリヤを最前線に送って戦死させ、妻を横取りした。殺人と姦淫の罪人となったダビデ王。その王に、主に遣わされたナタンが「あなたは姦淫と殺人の罪人がいたらどうするか」と問う。即座に「けしからん、死刑だ」と激怒したダビデ。そのとき「その男はあなただ」とナタンが言ったのだ。
ボクにもナタンの声が聞こえる「罪人、その男はあなただ。神が激怒しておられるぞ」と。自分の罪には気付かない、気付けない。気付こうとしない深い罪が、私の中にもある。
イヴ礼拝
第1礼拝説教 藤森誠伝道師
第2礼拝説教 辻川篤牧師
第3礼拝説教 藤森誠伝道師(ライブ配信)
●25(土)
神はわたしの歩む道を、知っておられるはずだ。 (ヨブ23・10)
神に従って生きていた「無垢な人」ヨブ。しかし試みに遭って、財産と家族と健康も失った。そこに友人たちが来て「因果応報だ。お前が犯した悪の報いだ」と責め立てる。それに応えたのが、今日の言葉だ。「正しく歩んで来た事は、きっと神ご自身が知っていて下さる」と。
神に全てを知られて、なお胸を張れるヨブにはかなわないと思った。ボクは、むしろ隠したい事ばかりだから・・・。
でも、ボクは罪も見てもらおう。ご覧になるのは、救い主なる神と信じて。
●26(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●27(月)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。 (哀3・56)
預言者は、人々の背信によって亡国となることを嘆いている。その嘆きは、主に向かって「耳を閉ざさないで」という一言となったのだ。主が、自分の叫びに耳を貸さず心も閉ざしておられるように思えたからだろう。
もしかしたら、それが彼の一番の悲しみなのかも知れない。「お前になど、もう関わりたくない」とそっぽを向かれることが、一番辛いことだから。「それ、分かるかも」と思った。神様との関りでも、隣人との関りでも、「耳を閉ざさないで」と叫ぶ日々が、一番苦しいから。
●28(火)
わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 (エレ31・33)
背信のゆえ、裁きのバビロン捕囚が始まろうとする前。その苦難の日々が始まる前から、希望が伝えられた。「あなたの未来に希望がある」と。そこに続けて今日の言葉があった。
「これが何より大事な言葉かも」と思った。神様の言葉を捨てて背信に走った人々。だから、「あなたは愛されていると知ってるよね」と語る律法の言葉が大事なんだ。それを、彼らの心に据えようとされる。それも人々の努力でというのじゃない。主御自身が、だ。そこにもう、愛されてるというお心が溢れている。
●29(水)
彼(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。 (代下26・16)
南ユダ王国のウジヤ王は、主の目にかなう正しいことを行って五十二年間も王座にいた祝福された王。その彼が・・・いやその彼も、だ。勢力が増し順風満帆の時につまずいたのだ。
なぜ? きっと、全て自分の力で出来た事だと勘違いしたから。「神無しで、何でも自分で出来るよ」と、アダムに囁いたサタンが彼の傍にもいたから。そしてそれは、ボクの傍でもささやいて来る。ああ、祈らなきゃ、「誇る者は主を誇れと、生きさせてください」と。
●30(木)
イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。 (士7・2)
イスラエル十二部族連合を導く士師として、主がギデオンを立てられた。いざ出陣という時に、主は彼に命じられたのだ「兵が多すぎるから減らせ」と。「たったこれだけの人数で、どうして戦えるのか」と思うほどまで、減らせと。その理由が、今日の箇所であった。
弱い時に強い。主が戦って下さるから。だからボクは「私を強くして」とは祈るまい。「私を弱く貧しくして下さい」と祈ろう。変な奴と思われてもいい、御業によってのみ進むために。
●31(金)
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。 (詩98・1)
二〇二一年は、コロナ禍のど真ん中を歩いた一年だった。会堂で礼拝をすることが出来なかった日々は、何十日に及んだだろう。
しかし今朝、それらの日々に区切りをつける御言葉を聞いた。神が言われるのだ「新しい歌を歌いなさい、私があなたがたの想像を超える業を、二〇二二年のために既に成し遂げたから」と。苦労の多かった一年を閉じるに相応しい聖句、神様からの賜物としての御言葉に聞こえる。既に御手によって準備ずみの恵みに信頼して、賛美の歌を歌おう。ハレルヤと。