2021年11月30日

『日々の聖句』2021年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年11月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。     (イザ30・15)

 ユダ王国が敵国に攻められた時、神がイザヤを通して言われたのがこの言葉だ。それなのに王も人々も、「大樹の陰に入れば大丈夫だ」と、エジプトと同盟を結ぼうとした。神の約束より、自分の遣り方に力があると過信したから。そうやって神を見くびって、自己流に立ったのだ。その結果が亡国と捕囚だった。
 彼らの生き方は、私の生き方と重なる。私も神を見くびって、御言葉よりも自分の経験に従ってしまう。罪の姿は、まるで双子だ。


●2(火)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。  (申6・5)

 モーセが人々に、神の掟を伝える。まず十戒が告げられ、その直後にこの言葉が続くのだ。まるで十戒の中心を貫く言葉だと示すように。また、まるで十戒を守って生きる者の「心」を説くかのように。
 私にも、この一つの心があれば、御言葉に従う生活が日常のあらゆる所に生まれるはず。自分のしたい事を愛するのでなく、ただ主への愛によって生きていきたい。さあ、そのために心の大掃除をしなきゃ。それも自己流では手抜きするから、聖霊に手伝ってもらって、ね。


●3(水・文化の日)
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。     (詩14・2)

 「神などいない」と言う人が地上に溢れ、満ちる時。それでも主は、目を凝らして探して下さるというのだ。くまなく探して下さるのだ「誰か一人でもいいから、私を愛してくれる人、頼ってくれる人はいないのか」と。
 「ああ、ボクがその人になりたい。神の子供として生きたい」と思う。聖霊さま、どうかボクを助けてください。自分の力や決心じゃ、なれないって、もう分かっていますから。神を求める真実な心さえ、主の賜物だということも。


●4(木)
イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、・・・        (申4・1)

 命を得るか、命を失うか、その分かれ道に道標が立っている。それが今朝の御言葉だ。
 それもこれは、肉体の生命の話だけじゃない。心と身体と魂の話。つまり私という存在の話がされているんだ。私が人生を、活き活きと生きられるかどうかの話なんだ。
 さあ、道標は既にある。それを見ることもできる。そのあとにこの道標に従うのか、無視するのかは私の決意にかかっている。いざ、ハンドルを、「従う」という方へ切れ!


●5(金)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。    (ヨシュ1・9)

 主なる神が、モーセの後継者としてヨシュアを選び、彼に語りかけられた。
 きっとヨシュアは、「大預言者モーセを継ぐなんて自分にできるのだろうか」と、戸惑ったはずだ。「神に背き続ける頑なな民なのに、どうやって率いていけるというのか」と不安になったはずだ。しかし、それらの思いを一気に吹き飛ばすのが、今朝の神様からの約束なのだ。「共にいるから」と。
 この御言葉が、今朝一人ひとりに語られている。私たちにも。さあ、出掛けよう!


●6(土)
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」       (創22・7)

 アブラハムが神から試みによって、愛息子を焼き尽くす献げ物とするため、山へ向かう。その道中で、イサクから問われた「お父さん、犠牲の小羊はどこ? ぼくじゃないよね」と。
 試練の意味が分からない時、悶々とする中で起こる問いが、これかも。つまり「この試みの意味は何?」と。そこで神からの答えは聞けない。ただ黙々と行くか、それとも逃げ出すか。決め手は、「主に従うか否か」だ。あ、全ての試練の意味は、ここかも知れない!


●7(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●8(月)
主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。   (ヨエ2・23)

 背きによってバビロン捕囚が起こる前。主の怒りの日が来ることが、ヨエルによって伝えられる。しかしそれと同時に、主の慈しみが伝えられていた。それは「悔い改めて、立ち帰れ」という呼び掛け。そこに恵みの雨も待っているし、豊かな未来も待っているから、と。
 「立ち帰るか、否か」が、「滅びか、恵か」の分岐点にあること。決断するのは、私自身なのだ。恵みが無いと嘆く前に、自分の決断を総点検しなきゃ。旧約には、その選択を間違えた人間の姿が満ちている。真似てなるまい。


●9(火)
彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける。    (イザ29・21)

 災いをもたらす者は、「言葉をもって」陥れようとして来る。刀や軍馬ではない。言葉によって傷つけようと迫る。
 なんだか恐いな、と思った。だって、私たちの周りには、軍馬は迫っていないけれど、言葉は溢れているから。だから、どの言葉に聴くべきかに、細心の注意がいる。一体どうしたらいいんだろう。そうだ、まず正しい言葉に耳慣れすることだ。そうしたら、取捨選択出来るようになるから。その言葉が、御言葉なんだな。


●10(水)
「なぜサラは笑ったのか。・・・主に不可能なことがあろうか。」    (創18・13〜14)

 年老いたサラに、主の使いが「来年、男の子が生まれる」と伝えた。そのときサラは、「そんなこと、いくら神様でも無理だ、非常識だ」と思って、秘かに笑ったのだ。自分の尺度で、神の言葉を計ったから。
この笑いは、赦されるのか! この笑いは、罪ではないのか。神の全能を笑ったのだから。 それでも、主の使いは、「主に不可能なことはない」というだけで、息子イサクが生まれる。
 神様の約束の言葉は、人間の不信心で取り消されたりしないんだ。恵みは罪を覆うんだ。


●11(木)
あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。  (エレ15・16)

 預言者エレミヤが人々に主の言葉を伝えても、誰からも顧みられず、むしろ黙らせようと命さえ狙われる。主の御用をしたのに受ける苦しみと辱めの中で、彼は神に向かって叫んだのだ。その時、神の前で自分とは何者かを言い表したのが、今朝の言葉だった。
 ボクも、ただ御言葉にのみ頼る者でありたい。「三度の飯より御言葉をむさぼり食べる!」。抽象的に言っているのではなく、神の御言葉に心から聴従したいのだ。それこそが、ボクを真に養うものとなるから。


●12(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家    (申6・11)

 「オ、なんだこの『家』は?」と思って聖書を開いたら、エジプト脱出後に神の民が得ることができた「乳と蜜の流れる土地」での豊かな生活のことだった。
 この『家』は、イスラエルの民のことだけじゃない。これは、私たちの家でもある。そこに今たとえ苦労や貧しさがあったとしても、まず全てを整えたのは自力じゃない。ただ主なる神の慈しみ。それを信じるなら、これからも神様が計画し満たして下さると、委ねられる。
来し方を振り返って握る信仰は、行く先の未来を安心して進む信仰につながるんだ。


●13(土)
見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。    (イザ12・2)

 捕囚の先にやって来る救いの日の恵みを、イザヤが人々に告げた。それは「都に帰還できるよ」という知らせ。「その時、あなたはこう言うであろう」と告げられたのが、この御言葉だ。
 なんて力強い言葉なんだろう。でもこの言葉は、これから来る苦難を乗り越えた先に言える言葉。それをもう知らされているということ。アッと思った。この言葉を神の約束として握って苦難を過ごすなら、そこで正に力を得る。私たちもコロナ禍の日々を、この言葉を握って進まん。そう思ったら力が湧いて来た。


●14(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●15(月)
(主の御使いが言った)「あなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。」     (士2・2)

 イスラエル十二部族が、カナンの地に入り、その土地を得た。しかし人々は、土地の神々の祭壇をそのままに放置したのだ。後にそれが彼らを罪に招く罠となるとも知らず。
 あらかじめ人間の弱さを知っておられる神は「これをしちゃダメだよ」と言ってくださる。でも人はそれをいい加減にしか聞けない。「こんなことぐらいは大丈夫だろう」と高を括る。人は、自分の弱ささえ知っていないんだ。あ、人は、じゃない、ボクは、と言うべきだった。


●16(火)
その人は流れのほとりに植えられた木。         (詩1・3)

 詩編全一五〇編へ招き入れる扉とも言うべき第一編。そこには、主の教えに従う者の幸と、逆らう者の虚しさが歌われている。今朝の一言は、言うに及ばず、従う者への祝福だ。
 とうとうと流れる川のほとり、その小高い土手に青々と茂る木が、枝葉をそよ風に揺すられながら、陽の光に照らされてきらめいている・・・。そんな情景が目に浮かんだ。そして、この御言葉が、そういう人生への招きとして聞こえて来た。「さあ、豊かな人生を生きるんだよ」と、父なる神が呼び掛けていて下さる。そっちの方を選んで生きたい。迷い出さずに。


●17(水)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない。    (イザ54・10)

 バビロン捕囚後のユダヤの民への恵みを、イザヤが伝えた。
 苦しみの日々は、誰の人生にもやって来る。たとえその苦しみが、試練であろうと、罪に対する懲らしめであろうと、理不尽と思える災害であろうとも。しかし、そこで一つのことは確かなのだ。それが今日の神の約束だ。見捨てられず、必ず慈しみを味わう日が来るということ。苦難がないことが恵みじゃなく、慈しみが離れないことが恵みなのですね。


●18(木)
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。    (詩23・2〜3)

 あ、これは、大好きな御言葉「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」に続く御言葉だ。「ボクはこの羊、水も、美味しそうな草も、豊かにある。そこでグ〜ンと伸びをして、不安一つなく安らいでいられる。そんな羊がボクなんだ」と、読むたびに深い安ど感を与えてくれる御言葉だ。
 これを今朝聞けて良かった。ちょっと最近不安なことばかりだったから。心配事でイライラしていたから。本来の自分を見失ってたから。


●19(金)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。    (ルツ2・13)

 未亡人ルツが、姑ナオミ(未亡人)の古里に帰って来た。勿論、その日の食べ物にも困る二人。そんな彼女たちに、親戚ボアズが自分の畑の落ち穂を拾わせて、命を繋いであげた。その心遣いに、ルツが感謝して言った言葉がこれだ。このルツの末裔にイエス様が生まれる。
 神の御業は、人を介して、人を用いて、人と人との間に起こるのだ。ならば「主よ、私もすべきことをさせ給え。御業のため」と祈ろう。


●20(土)
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。    (レビ19・9)

 どうして「刈り尽くしてはならない」のか。自分で苦闘して育て、やっと得た実りなのだから、全部自分の物じゃないのか? とやかく言われる必要ないのに・・・。でも、神のお心は違うんだ。この御言葉の後に「貧しい者のために残しておかねば」と言われていた。
 もしかしたら、自分が褒められたい、自分が認められたい・・・それらも「全部自分の物にする心」から出て来ているのかも。賞賛も収穫の一つだから。単に、物としての収穫だけじゃない。収穫の日にこそ、自分中心を捨てねば。


●21(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●22(月)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。    (ゼカ4・6)

 亡国の民に、預言者ゼカリヤが主の幻を伝えた。それは捕囚からの帰還の希望だ。しかもそれが、人の業に一切よらず、主御自身によって成し遂げられる御業だと伝えられた。
 アッと思った。背きの民に伝えられた「人間の業に一切よらず、ただ神の救いの御業によって」という恵みを、ボク受けていると思ったから。まさに、御子イエス様の救いの業と同じだと気付いたから。ボクの努力や行いによらず、御子が命を賭けられた御業によった、と。神様のなさることは、いつも「これ」なんだ。感謝


●23(火・勤労感謝の日)
主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。     (詩6・3)

 苦難の中にある人の「嘆きの詩」だ。
 でも二節を見ると、「主よ・・・憤って懲らしめないでください」とあるから、単に病気や不幸を嘆いているんじゃないんだ。この人の苦難の原因は、主の怒りによること、つまり自分の罪が引き起こしたと嘆いているんだ。
 「憐れんで」というのは、憐憫を乞うているのじゃない。「罪の赦し」を乞うているんだ。赦しが見えないことが、悲しみなんだ。信仰者の真実な嘆きの声を聞いた思いがした。ちゃんと嘆けた人に、ちゃんと恵みが届くのかも。


●24(水)
その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。      (創3・6)

 エバを誘惑する蛇が「禁じられた木の実を食べようよ。神のように善悪を知る者になれるから」と唆す。それを聞いたエバが「本当にその通りだ」と思って、積極的に彼女自身が決断したのだ。堕罪への道を。
 幼い頃、「蛇さえいなければ、罪を犯さなかったのに。蛇悪し!」と思っていた。でも、堕罪の根は、自分の中に在ったんだ。自分の奥から手がニューッと伸びて選んで掴んだ堕罪だったんだ。そのことにちゃんと悔いることが出来たら、そこで救いへの扉が開くのかも。


●25(木)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。    (申31・6)

 モーセの後継者ヨシュアが任命される時、彼に告げられたのがこの言葉だ。大預言者モーセを継ぐなんて怖じ惑うかも。全イスラエルを率いるなんて「無理」と思うかも。でもその人を勇気づけたのは、ただこの一点だったんだ、「主は共におられ、決して見捨てない」と。
 私たちも、キリスト者として現実を生きるのは、本当は誰にとっても大変なこと。でも、その時に今日の御言葉は、私にも語られているんだと思い出そう。怖じずに歩むために。


●26(金)
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。     (詩103・10)

「あれ? これはどこかで聞いたことがある・・・いや勿論そうだ・・・これは礼拝のたびに聞いている大事な御言葉だ。これは『赦しのことば』だ。」、一瞬にしてそんなことが頭の中を駆け巡った。
 一語一語を今朝噛みしめよう。「罪の赦し」って何なのかが、ここで宣言されているのだから。「神が人を赦す」ということの憐れみの大きさを悟ることができるから。その深さに驚くことができるから。感謝が生まれるから。


●27(土)
わたしがあなたと共にいて、救い出すと、主は言われた。    (エレ1・19)

 エレミヤが、預言者となるようにと召命を受けた。しかし彼は「わたしは若者に過ぎない」と断るのだ。そのエレミヤに、なお主が言われたのがこの言葉だった。
 まるで神様が「お前自身が頑張るんじゃない」と言っておられるようにも聞こえた。「頑張るのは私だから、その私があなたと共にいるのだから」とも。さらに「パートナーはあなたが良い」と、神の求愛のようにも聞こえた。エレミヤも「このお方となら、安心してゆける」と思ったのだろう。そこに大預言者が誕生する。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもない。          (申4・31)

 あれ? ごく最近も同じ御言葉だったような(選んだ時にダブったかな?)。あ、やっぱり二十五日と同じだ。でも箇所は違って、申命記三一章だ。つまり同じ内容が繰り返し記されているということ。それはつまり、「口を酸っぱくして言っている」ということ。「耳にタコができる」ほど言われていると言うこと。これが申命記の核心に触れている言葉だからかも。
 然り。正にその通りだ!


●30(火)
「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」    (創2・17)

 エデンの園で、何不自由なく暮らしていたアダムとエバ。その二人に、神様がたった一つの約束を交わす「これだけは食べちゃダメだよ。あなたの生き死にに関わることだから」と。
 私は知っている。二人は、このたった一つの約束も守れなかったということを。
 その末裔が私なんだ。私も、彼らと一緒かも。たった一つの約束(私にとっては御言葉だ)も守れていないのかも。きっとそうなのかも、一つの御言葉さえ、ううう・・・。

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