2021年10月31日

『日々の聖句』2021年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年10月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)
安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。  (士18・6)

 十二部族がカナンの地に入った時、ダン族はなかなか土地が定まらない。そこで探索に出た先行隊に祭司が告げた言葉がこれだ。
 祝福があると約束された地に着いたけど、どこがその場所か分からない。彼らは不安だっただろうなぁ。「こっちにあるのかな? 本当に恵みはあるのかな? 導きが見えない・・・」と。そういう不安って分かる気がする。その時だ、「安心して行かれよ」の一言はどんなに嬉しかっただろう。ボクはそれをどこで聞くのだろう。それは聖書の御言葉からですね。


●2(土)
主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。」   (出32・9)

 モーセがシナイ山に登っていた間、民は金の子牛を造って、「これこそ神だ」と拝んでいた。主が燃え上がる怒りを発せられたのだ。
 主は、人々の荒野の旅路を守り、朝ごとにマナを与えて下さった。その主を、こうもあっさり裏切るなんて、私だって腹が立つ。主の怒りはいかばかりかと思って、ハッとした。守られて来たのに信頼し切れないのは、私自身。神の怒りは我が頭上にあり、と分かったから。ああ、だからこそ私には、救いが必要なのだ。


●3(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。        (エス4・16)

 ユダヤ民族の歴史・時代小説のエステル記。
 ユダヤ人絶滅を画策する異国の宰相ハマンに、その国の王妃となったユダヤ人エステルが対決を決意した。それは、王妃に選ばれたのが自分の知恵や美貌によらず、主の御旨だと悟ったからだ。
 「これは主の御心だ」と、信じた道を進もうとすることは、「死なねばならないのなら死ぬ覚悟」ということなのだ。自分を百%明け渡すことなのだ。それが信仰の決断なのだ。私も腹を決めねば。私も信仰者だから。


●5(火)
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。」         (エレ1・7)

 神様がエレミヤに、預言者となるよう命じた時、彼は「若者に過ぎないから無理です。人に語る言葉さえ知りません」と固辞した。
私だって同じように言うだろう「こんな大変な奉仕は、私には無理。そんな能力も、経験もないし。もっと他に適任者はいるでしょう」と。それでも主は、「行け」と言われるのだ。あっ、奉仕は自分で選ぶものじゃないのかも。そうだ!「神に強いられた恩寵」なんだ。


●6(水)
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。   (創22・6)

 アブラハムの手には、鋭い刃が握られている。それは愛する息子の首を落とすための道具。手には、種火が握られている。それは息子イサクを焼き尽くして、捧げ物にするための火。
 「そうすべし」との神の命令だから黙々と従うのだけれど、理由も意味も分からない。ただ分かるとすれば、「従う」ということだけが「意味」だということ。ボクはそんな一歩を踏み出せるのだろうか。信じるという世界は、この一歩の世界なんだけど・・・。


●7(木)
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。   (民9・23)

 エジプトの国から脱出できたイスラエルの民が、荒野の旅を続ける。そのとき、進むのも主の命令(雲が幕屋を離れることが印)、留まるのも主の命令(雲が幕屋の上に留まることが印)だった。主の言いつけを守ることに、命と恵みの授与を守る秘訣があったのだ。
 それは、私にとっても同じこと。聖書を通して届く主の命令は、聖書の「御言葉」だ。その御言葉を守らねば。「それは分かっている。でもできない」と言い訳するのは、もうやめなきゃ。いつ決意するんだ! 今日しかない。


●8(金)
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」   (創22・12)

 今日の箇所は、一昨日の箇所に続いている場面だ。三六五日のみ言葉を、くじ引きしてこの日の箇所も神様に選んでいただいて、そして連続の箇所になっている。それを御心と受けて、読み、聴かなきゃ。アブラハムは、とうとう刃を振りあげて、愛息子の命を取ろうとした。神の命令を信じて従おうと、苦しんで一歩を踏み出した。その時、御声がしたのだ。
 「神を畏れる」とは、自分の思いの一切を後にして、実際に踏み出すこと。葛藤無しにはない世界だ。葛藤そのものを、主は喜ばれる。


●9(土)
主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。  (サム下6・21〜22)

 神の箱が、ダビデ王の幕屋に運び込まれる。その喜びの大行列の先頭で、ダビデは跳ね踊ったのだ。その姿を窓から見下ろしたサウルの娘ミカルは、恥ずかしいとさげすんだ。それに対してダビデが胸を張ったのがこの言葉だ。
 人に褒められることばかり気にしている人がいる。主にどう見られているのかを想うのがダビデ。人の目か、主の目か。多くの人が人間のことばかり気にしている。おッと、ボクもそうだった。気付いた今日から、変わらなきゃ。


●10(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●11(月)
いつまで、あなたはその胸に、よこしまな思いを宿しているのか。   (エレ4・14)

 バビロンの兵が、南ユダ王国に迫る。その知らせを、エレミヤが伝えたのだ。そこには、国が亡びる原因も宣告されていた、「よこしまな思いを宿している」と。心の内にある悪だ。人々は悪を抱いたので国を失うと言われている。それでもまだその悪を握り続ける。
 「どうして自分が滅びる元凶をいつまでも握り続けるのか、なんて愚かな人々だ」と思って、自分の手を見てギクリとした。ボクの手の中にも、自己中心でいたいという背きの思いが握られていたから。それも、後生大事に。


●12(火)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。   (申6・15)

 モーセがイスラエルの民に伝えた「主の律法」の集大成が、この申命記。
 「主の熱情」って、かなり熱いのかな? 
 それは、遊牧民の一家族・アブラハムを導いて、恵を注ぎ続けたほど。その息子イサクに、またその息子ヤコブにと、祝福の約束が絶えなかったほど。大人数になった民が奴隷にされていたエジプトの国から、ついに救出されたほどだ。そして正に、ご自分の御子を罪人の私のために死なせてしまわれたほどだ。その熱情は、私の中にも注がれている!


●13(水)
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」  (創17・1)

 これは主なる神が、アブラハムに告げた言葉。でも注意して状況を見よう。それは、彼が九十九歳になった時の言葉だったから。つまり「主は一族を星の数ほど増やすと約束されたけど、跡継ぎなんて生まれる可能性はない」と思い始めた時だったから。約束の実現なんて無理だと、誰もが思う歳だったから。
 全能の神の御業がなされることへの最大の敵は、サタンじゃない。自分の中に在る「常識では無理だよ」と考える頑固な思い。ああ、神の敵は、我が内にあり。


●14(木)
彼らは尋ねもしなかった。「主はどこにおられるのか・・・」と。   (エレ2・6)

 主が、民の背信を嘆かれる。ずっとあなた方を守って来た私なのに、私を忘れて離れて行った、と。それも、私の代わりに他の空しいものを求めて、後を追って行ってしまった、と。
 この悲しみが、ボクにもちょっと分かる気がする。想いって、届かないことがあるんだよね。一生懸命にその人を想っているのに、離れていくことがあるんだよね。人と人との関係でも、そこに悲しみがあるのに、神の悲しみはどれほど大きいだろう。尽くして来たのに、全ての人が自分の元を去ったのだから。


●15(金)
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。    (イザ1・18)

 主がユダ王国に語りかける幻を、イザヤが見た。それは神が、人々の背信に断腸の思いとなっておられること。しかしそこで同時にこの言葉が告げられたのだ。それは「使い古された雑巾のような色に汚れているお前たちだけど、立ち帰るなら、雪のように真っ白にしてあげるから」という語り掛けだった。
 「愛する」とは「赦す」こと。「過去を振り返りもしない」ということ。そのために、神ご自身が痛みを引き受けている。神は、ボクのためにも、痛みを負われた。ボクも罪人だから。


●16(土)
ノアは主のために祭壇を築いた。         (創8・20)

 主によって大洪水が起こされ世界が新しくなった時、ノアの家族と獣や鳥などすべての生き物も箱舟から出た。大地を再び踏んだ時、ノアが先ずしたことは、「礼拝する」ことだったのだ。
 私たちも週の初めの日に、先ず礼拝することから始める。もしかしたらそれは、この時のノアの信仰と同じ所に立ってもいるのかも。ノアのように、主の栄光をただ仰ぐこと、今在ることへの感謝、この後も主にのみ従うことへの決心だ。私も礼拝から、これからの日々への一歩を始めるんだ。明日は、その礼拝だ。


●17(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●18(月)
主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。      (出14・21)

 エジプト脱出後、行く手を葦の海に阻まれた。その海を主が二つに分けて、逃げるために乾いた道を海底の真ん中に作られたのだ。
 「主はよもすがら」とある一言が、ボクの心に沁みた。神様が一晩中寝ないで、人々に寄り添って懸命になって下さったんだと知って、そのお心にボクの心が熱くなったから。「懸命に愛して下さるんだ」って、主のお心を知ったから。その主が、今日のボクの一日にも寄り添っていて下さる。さあ出掛けよう!


●19(火)
あなたたち、勇士は皆、隊伍を整え、同胞たちに先立って川を渡り、彼らを助けなさい。   (ヨシュ1・14)

 主が、モーセの後継者としてヨシュアを立てられた。そしてイスラエルの民がついにヨルダン川をわたって約束の地に入らんとする時、彼が部族長たちに命じた言葉がこれだ。
 遣わされた場所へ、先陣を切って行けと言われる。まだ未経験の地へ、未経験の働き(奉仕)への派遣だ。その時、自分ができるかどうかを自分で計らない。ただ「先立って川を渡れ」という言葉に従うのだ。御言葉に従うべし! 奉仕に就くことも、ここに原点あり。


●20(水)
ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。  (サム上1・10)

 子どもが生まれず親族から冷遇されて泣き続けていたハンナ。その悲しみの心そのものに添ってくれない夫エルカナ。悲しみを悲しみとして受け取ってくれる人が一人もいないハンナが、ただ一人のお方にすがって泣いたのだ。それが主なる神だった。
 悲しみの理由なんか後でいい、悲しみの解決方法なんか後でいい。ただ自分をそのまま受け入れてくれる方を、彼女は知っていたのだ。
すがりついて泣くことができて良かったね。そして、それがボクの神様でもあるのですね。


●21(木)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が滅亡する直前のこと。預言者ミカが両国についての幻を、主によって見せられた。国土が敵によって踏みにじられる時、生き残る者が起こされる、と。それはどういう人か。それが今日の御言葉に告げられた人だ。
 「ああ、やっぱりココなんだ」と思った。人間の力によらず、策略によらず、経験にもよらない者。しかし彼らは、主にのみ頼った。
 ボクは一体、どこに立って過ごしているんだろうか。振り返って、点検して、そして立ち帰らなきゃ。今朝の御言葉が指し示す姿に。


●22(金)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」  (創24・27)

 これは、イサクの妻となる人を探す命令をアブラハムから受けて旅立ったしもべの言葉だ。海辺の砂の中から一粒のダイヤを見つけ出すような任務に、彼は従ったのだ。そしてついに見つけた時、彼は主を仰いで感謝した。いやこれは感謝の祈りと言ってもいいかも知れない。
 誰もが、行き先不透明な旅という人生を歩んでいるのかも知れない。不安が付きまとう旅だ。でも「主が旅路を導かれる」と信じて一歩を踏み出すんだ。その先に、御心とされる結果が待っているから。だから、さあボクも。


●23(土)
「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。」    (申1・29)

 誰のことを恐れてはならないの? と思って聖書を開いた。これは、モーセが律法を解き明かして言った言葉集・申命記の中にある言葉。ヨルダン川を渡って神が約束して下さった土地に入らんとする直前の言葉だ。「主御自身があなた方に先立って行くから、どんな敵も恐れるな」ということだった。
 この御言葉を、私も今朝聞く。私への語りかけとして聞くのだ。困難という敵がいる一日への旅立ちの前に。御言葉がボクの心に響く「うろたえてはならない」と。いざ出陣だ!


●24(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●25(月)
律法に立ち帰るようにと、あなたは彼らに勧められたが、彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず、あなたの法に背いた。   (ネヘ9・29)

 捕囚期に、都に残された人々から話を聞いたネヘミヤ。そこで、民の背きのゆえに亡国と捕囚が起こったのだと、嘆いたのだ。
 でも、この聖書箇所の先を読んでいて、そこに出て来る御言葉に、胸が熱くなった。「しかしまことに憐れみ深いあなた(主)は・・・彼らを見捨てようとはなさらなかった」と。
ああ、人間の悔い改めの前に、既に神の憐れみが始まっているんだ。無条件の恵なんだ。


●26(火)
隣人の家を欲してはならない。    (出20・17)

 モーセが神から賜った「十戒」の十番目にあたる掟だ。隣人の所有物一切を、心の内で「欲しい」とさえ思ってはならないというのだ。それは、隣人との関係を崩す第一歩となるからだ。神がそれを知っていて、「そっちに行くなよ」と戒められたのだ。
 スラスラと説明できる。何度も「十戒」を説いて来たからだ。しかし、なのだ。上手に説明できることを、主は求めておられない。ただ「お前は今日、コレを生きよ」と言われるのだ。「十戒を知っているよ」ということと「その言葉を丁寧に生きているよ」とは雲泥の差がある。


●27(水)
わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。       (創22・8)

 これはイサク奉献の場面だ。主に「信従」を試されたアブラハムが、愛息子を献げる山に向かう時、息子から聞かれる「お父さん、焼き尽くす献げ物の小羊がいないけど、どうするの?」と。それに苦渋の思いで応えたのがこの言葉だ。きっと心の中で格闘していただろう「息子を献げろと神様は求められる。なぜそんなことをおっしゃったのか分からない。でもきっと訳がある。きっと大丈夫」と。そして言葉が漏れた「きっと神が備えてくださる」と。
 試練の中の言葉を、ボクの心に刻み込もう。


●28(木)
イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。   (エズ3・1)

 捕囚によってバビロンに、また周辺の地に、バラバラに散らされていた人々。ようやくペルシャのキュロス王によって解放された。その時だ。人々がまずしたのがコレなのだ。彼らは集まりたかった、一緒に礼拝したかったのだ。そこで一つの群れとなりたかったんだ。
 コロナ禍によって度々バラバラにされて、それぞれの場所に散らされて来た私たち。だから、彼らの気持ちが少しは分かる気がする。「一つになって礼拝したい」という気持ちが!


●29(金)
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。     (出16・4)

 出エジプト後、人々は水も食べ物もない荒野の旅を始める。そのとき神様は、「マナ(ウエハースのようなパン)」を天から与えた。毎日食べる分だけ集めるように、との約束と共に。この恵みの賜物は、人々が主の約束を守る者であるかどうかの試金石でもあったのだ。
 与えられた恵み以上に、もっと欲しいと求める欲がある。自分勝手さがある。足るを知ることのできない愚かさがある。それが神との約束上で出たとき、神を見くびる罪となる。


●30(土)
人は力によって勝つのではない。   (サム上2・9)

 ムムっ? 力によって勝つのじゃないなんて。でも、学力、能力、知力、経験力、人脈力、権力を、自分もつけなきゃって頑張ったのは、それによって勝つためだったはずなのに・・・
 こんなことを誰が言ったのかと思ったら、これは「ハンナの祈り」だった。子供が生まれなくて親族から虐げられていた女が、ついに主によってサムエルを与えられた時の歌だ。切なる願いが有るけれど、自分の力が一切及ばないと知った時、主にすがった女の言葉だった。
「勝利を得るための真の拠り所が分かった!」と思えて、気が引き締まった。


●31(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師






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